JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.08.09
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カテゴリ: 鎌倉市歴史散歩
『​ 鎌倉散策 目次 ​』
【​ 鎌倉の寺社リスト ​】 👈リンク

「宝戒寺」を後にして、寺の横の道を歩き「宝戒寺」の裏に進む。



「本堂」の裏にある寺務所・庫裡等の入口ゲートには北条の家紋「三つ鱗」が。
伝説によると北条時政が江の島(現在の神奈川県藤沢市)にある弁財天の祠で、子孫繁栄の祈願を
行った夜のこと、時政の前に、高貴な身なりをした女性が現れます。
すると「あなたの子孫は日本を支配する」などと言い残し、大蛇なって海に消えたそうです。
そして大蛇は3枚の鱗を残していき、これを北条時政が家紋にしたのだと。
江島神社の御神紋も「三つ鱗」・「ミツウロコ」。



道なりに進むと前方に橋が。



「宝戒寺橋(ほうかいじはし)」。



下を流れる川は「滑川(なめりかわ)」。



この後渡った「東勝寺橋」をズームで。



「宝戒寺橋」を渡り更に進むと右手の草むらの中の電柱に「紅葉山(もみじやま)やぐら」の
案内表示があった。




「紅葉山やぐら」は昭和10年に発見され、五輪塔や納骨、十六井が発掘されていると。
このあたりは北条得宗家の屋敷敷地内あったことなどから、北条一族ゆかりの納骨場であったと。
現在は施錠された柵がつけられていて、中をみることはできない。
鎌倉は平地が少ないため、多くの谷戸にある岩肌をくりぬいた史跡がたくさんありある。
地層が柔らかく彫りやすいのだと。
平成11年(1999年)に崩落したが、その後の県教育委員会の調査でも十六井が確認されている。
この後の復旧で現在のような、山肌を鉄筋コンクリートで覆った、史跡とはとても思われない
ような姿に変わっている。最も、この奥にある穴は防空壕になっているが、この「紅葉山やぐら」
の姿は60数年前ならば喜ばれたかも知れない。



「史跡 紅葉山やぐら」
史跡「紅葉山やぐら」は、昭和10年(1935)に発見され、五輪塔や納骨、それに

北條執権ゆかりの納骨といわれております。 平成11年(1999)の大崩落後の神奈川県
教育委員会の調査でも"十六井"が再確認されています。
鎌倉付近では、山腹の岩(第三紀層の凝灰岩質)をくりぬいて作った穴を「やぐら」と
呼んでおり、 鎌倉時代から室町時代における上層階級の墳墓とされております。
この奥にある穴は、第2次世界大戦時の防空壕の跡ですが、 鎌倉西口駅前公園にある

東京美術学校(現在の東京芸術大学)に留学、 岡倉天心に私淑した同博士
(テオドル・ルーズベルト大統領の女婿)は「文化は戦争に優先する」と、 京都・奈良・鎌倉の
三古都を中心に「日本の重要文化財リスト」を作成。 そのおかげで、多くの重要文化財が
戦禍から救われました。 この地域は、鎌倉幕府の実力者・旧跡「北條執権邸」
(歴史的風土特別保存地区)内にあり、 平成13年(2001)のNHK大河ドラマ「北條時宗」
(第8代執権・1251-1284)生誕の地ともいわれ、 文永・弘安の役の二度にわたる蒙古襲来を
撃退。 "神風"とともに、日本の歴史に名跡を残しました。
もののふの 諸行無常の 鐘の声 永久に眠らぬ 紅葉山やぐら 萩村」



案内板の前には「ヤブミョウガ」が生い茂っていた。



花は可憐であったが、雑草の除去が必要と感じたのであった。



引き返し突き当りまで進むと「東勝寺跡」、「北条高時腹切やぐら」の案内表示があった。



左に折れると前方に橋が見えて来た。橋の名は「東勝寺橋」。



その手前左に鎌倉青年團の「石碑」が。



「青砥藤綱舊蹟」碑。
「太平記ニ拠(ヨ)レバ 藤綱ハ北条時宗 貞時ノ二代ニ仕ヘテ 引付衆(裁判官)ニ列リシ
人ナルガ 嘗(カッテ)テ夜ニ入リ出仕ノ際 誤ッテ銭十文ヲ滑川ニ堕(落)シ 五十文ノ
続松(松明)ヲ購(買)ヒ 水中ヲ照ラシテ銭ヲ捜シ 竟(遂)ニ之ヲ得タリ 時ニ人々 
小利大損哉ト之ヲ嘲(笑)ル 藤綱ハ 十文ハ小ナリト雖(イエドモ) 之ヲ失ヘバ天下ノ
貨ヲ損ゼン 五十文ハ我ニ損ナリト雖(イエドモ) 亦(マタ)人ニ益ス 旨ヲ訓セシトイフ 
即チ其ノ物語ハ 此辺ニ於テ 演ゼラレシモノナラント伝ヘラル」

【太平記には、次のような話が書いてあります。「青砥藤綱は、北条時宗(ときむね)、
貞時(さだとき)の時代に、裁判官をしておりました。ある夜のこと、失敗してお金十文
(じゅうもん)を滑川(なめりがわ)に落したので、たいまつを五十文で買って、水の中を
照らさしてお金をさがし、とうとうそのお金をさがしだしました。そのことを人々は、
得たものよりも失ったものの方が大きい、大損だ、と笑いました。しかし藤綱は、
十文は小さいが、これを無くすことは、天下のお金を無くすことである。私は、五十文を
無くしたが、これは人々の為になったのである、と諭(さと)しました。」
この物語は、この辺りであったことと伝えております。】



「鎌倉市景観重要建築物等第23号  平成14年4月1日指定
 東勝寺橋 Toshojibashi Bridge
東勝寺橋は、鉄筋コンクリートが積極的に導入された震災復興期の大正13年(1924)に建造され
たアーチ構造の橋です。太く安定感のあるアーチリング、V字型の谷間との微妙なバランスなど
その美しい姿は多くの人に愛され、平成11年(1999)には「かまくら景観百選」に選定されました」



この石碑には「東勝寺橋」と刻まれていたのであろうか。



そして「東勝寺橋」を渡る。



「滑川」の下流側。
この辺りの「滑川」の河床は岩が剥き出しになっていた。



「滑川」の上流側。



橋を渡ると右側にあったのが「東勝寺橋ひぐらし公園」。



「東勝寺跡」、「北条高時腹切やぐら」まで200mと。



更に坂道を上って行った。



そして左手にあったのが「東勝寺跡」。



「東勝寺跡」案内板。



「国指定史跡 東勝寺跡(とうしょうじあと)
東勝寺は、13世紀前半に鎌倉幕府第3代執権の北条泰時により、得宗(北条氏嫡流)家の氏寺とし
て創建されました。様々な宗派を学ぶ諸宗兼学の寺院であるとともに、周辺の地形と一体となっ
た防御のための城郭的な機能を持っていたと考えられています。
元弘3年(1333)、新田義貞らの鎌倉攻めにより、幕府の最高権力者であった北条高時は、東勝寺
で一族郎党とともに自害し、鎌倉幕府は滅亡しました。平成8・9年(1996・1997)に行われた発
掘調査では、幕府滅亡時に焼失したと考えられる建物の跡と、それを覆う10数cmの炭の層が発
見されました。焼失後まもなく、東勝寺は禅宗寺院として再興され、室町時代には関東十刹に列
せられましたが、16世紀後半ごろには途絶えたと考えられています。
            注 意
この史跡に対して、みだりに現状変更(掘削、工作物の設置等)や保存に影響を及ぼす行為を行
うことは、文化財保護法により禁止されています。」



「祇園山ハイキングコース」案内板。
スタート地点はここ「高時腹切やぐら入り口」と「八雲神社入り口」の2箇所。

「現在地」。



「祇園山ハイキングコース」案内表示板。



しかし、この祇園山ハイキングコースは、令和元年の台風15号・19号の影響により倒木や
地滑りなどで大きな被害を受け、現在も大変危険な状況となっているため、現在も
全面通行禁止となっていた。



「腹切やぐら」碑と奥に「東勝寺舊蹟」碑。



「東勝寺舊蹟」碑。
「元弘三年(1333)五月 新田義貞 鎌倉ニ乱入スルヤ 高時 小町ノ邸ヲ後ニ 父祖累世ノ
墓所東勝寺ニ篭(コモ)リ 百五十年来殷賑(隆盛)ヲ極メシ府下邸第(宅)肆廛(シテン:商店)ノ 
今ヤ一面ニ焔煙ノ漲(ミナギ)ル所トナルヲ望見シツツ  一族門葉八百七十余人ト共ニ自刃ス 
其ノ北条執権史終局ノ惨澹(サンタン)タル一駒ハ 実ニ此ノ地ニ於テ演ゼラレタルナリ」

【1333年5月に、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉に攻め入ると、北条高時(たかとき)は、
小町の屋敷を出て、先祖代々北条家の墓がある東勝寺にこもりました。そして150年間
賑やかに栄えた鎌倉の町の屋敷や商店が、一面に炎と煙に包まれている様子を遠く眺めながら、
一族の者870人以上が共に自殺し果てました。北条の政治権力の歴史が終わりとなる、
この悲惨な場面は実にこの場所で行われたのです。】



そして帰路に訪ねたのが「鎌倉レデンプトリスチン修道院」。



「聖母マリア像」。



近くにあった「大神宮」。



この後、来た道をひたすら下り、「小町大路」まで戻り右折して「金沢街道」に向かって
進む。
道路脇の店頭にあった鬼灯(ホウズキ)。



そして「金沢街道」の「岐れ道」交差点の手前の路地を右折して進むと再び橋が。



同じく「滑川」に架かる「大蔵稲荷橋」。



下流側を見る。



橋を渡ると正面に「大蔵稲荷」の朱の一の鳥居が現れた。



大蔵稲荷の第1鳥居をくぐると、すぐ左に8基の石仏が並んでいた。
庚申塔は6基。多くは駒形文字庚申塔であった。



手前の石仏は「了因」、「文政ニ年 (1819年) 」と刻まれていた。



右端の「猿田彦太神」
弘化2年(1845)9月
自然石(平板)
裏 面「弘化二乙巳年九月吉日」
台 石「大蔵町
    講中」・10人の名



草むらの中を進むと二の鳥居が。



更に草むらの中の石段を上って行った。



そしてようやく前方に三の鳥居そして「大蔵稲荷」社が姿を現した。



「大蔵稲荷」の覆屋。



「大蔵稲荷」の覆屋内の「本殿」。



そして来た道を戻り「金沢街道」迄戻り右折して進む。
左手の「金沢街道」の岐れ道にあった「庚申供養塔(右大師道)」。



そして更に進むとあったのが「関所橋」。



その先に「關取場跡」碑。
「黨所ヲ里俗せきばト称ス 往時ハ関取場ト称セル由 天文十七年(1548)北条氏 関ヲ此処ニ
設ケ 関銭ヲ取ッテ荏柄天神社頭造営ノ料ニ充テシメタル所トス 其ノ掟書ノ文書 
今ニ蔵セラレテ荏柄天神社ニ在リ」

【この場所を土地の人は「セキバ」と呼んでいます。昔は「関取場」と呼んでいたとのことです。
1548年北条氏が関所をここに設け、通行税を取って荏柄天神(えがらてんじん)の修復費に
当てさせた所です。その掟(おきて)書の文書が現在も荏柄天神社に所蔵されています。】



横にあった「庚申塔」。
角柱型で、正面に大きく「青面金剛」と刻み、慶応二年(1866)の銘が。
覚園寺の信徒が道標として立てたものだと。



すぐ横に小学生が書いたと思われる解説が掲示されていた。
「関取場跡石碑について
このあたりに戦国時代小田原城にいた北条氏康関所をおき、ここを通る商人やお参りの人から
関銭(交通税)をとり、荏柄天神社の社殿を造る費用などにあてたそうです。
荏柄天神社に伝わる古文書には、そのころの掟書が残っており、「商人の麻・紙・布などの
荷物は十文、あい物(乾物)馬五文背負い荷三文、お参りの人で馬を利用している場合は十文、
単に行き来をしている僧侶や庶民、里民からは関銭をとってはいけないなどと記されています。」



更に「金沢街道」を進み「大御堂橋」交差点を右折した。



「滑川」に架かる「大御堂橋(おゝみどうばし、おおみどうばし)」。



「滑川」には大きな鯉が悠々と泳いでいた。



「大御堂橋」を渡ると正面には鎌倉青年會の石碑が立っていた。
「​ 文覺上人屋敷迹 ​」👈リンク 碑。
「文覚俗称ヲ遠藤盛遠ト云ヒ モト院ノ武者所(むしゃどころ:警備所)タリシガ 年十八 
想ヲ左衛門尉源渡(みなもとのわたる)ノ妻袈裟御前(けさごぜん)ニ懸ケ 卻(反っ)テ誤ッテ
之ヲ殺シ 愴恨(そうこん:後悔)ノ余リ  僧ト為ル 其ノ練行甚ダ勇猛ニ 邪寒盛暑林叢ニ
露臥シ 飛瀑ニ凝立シ屡々死ニ瀕ス 養和二年(1182)四月 頼朝ノ本願トシテ弁財天ヲ
江ノ島ニ勧請(かんじょう:創設)シ 之ニ参籠スル事三十七箇日 食ヲ断ッテ祈願ヲ凝ラセリト 
此ノ地即チ其ノ当時文覚ガ居住ノ旧迹ナリ」

【文覚上人の出家前の名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)といい、以前は院の警備をしていましたが、
18歳の時に、源渡(みなもとのわたる)の妻袈裟御前(けさのごぜん)に想いをよせ、源渡を殺そう
として、間違って袈裟御前を殺してしまいました。 これを深く後悔して僧となりました。
その修行の仕方は大変なもので、凍える日も、真夏の暑い日も草原で寝、日々滝に打たれて
何度も死にそうになったといいます。1182年4月、源頼朝の本願として江ノ島に弁財天
(べんざいてん)を建て、 ここで三十七日の間、飲まず食わずで祈りつづけたといわれています。
この場所がその文覚が住んでいた屋敷の跡です。】



そして碑の向かい、「大御堂橋」近くには「田楽辻子のみち」道標が。
金沢街道の裏道。鎌倉時代から親しまれる小道。
バス道(六浦道)と平行に走るこの路地は、「田楽辻子のみち」と呼ばれているのだ。



                              ・・・​​ もどる ​・・・



                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.05.19 16:08:51
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