JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.12.25
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カテゴリ: 国内旅行
「栃木県道141号線」・「唐沢山公園線」の坂を上り、「唐沢山レストハウス」前の
「唐沢山城跡 駐車場」に到着。時間は9:06。
栃木県佐野市富士町1409



駐車場奥にあった「関東ふれあいの道」案内板。
「「関東ふれあいの道」は関東地方の1都6県をめぐる160コース、総延長約1,800 kmの
長距離自然歩道です。
松風のみち
このコースは田沼駅から栃木市岩舟町の村檜(むらひ)神社まで7.3kmあります。
ここ唐沢山は、「むかで退治」の伝説や、天慶(てんぎょう)の乱(939年)で、平将門滅ぼした
ことで有名な藤原秀郷公の流れをくむ佐野氏の居城跡で、アカマツにおおわれ、断崖と深い谷に
かこまれた自然の要塞となっています。
山城跡として非常に歴史的価値が高く、平成26 (2014)年に国指定史跡に指定されました。
周辺は唐沢山県立自然公園にも指定されており、桜やつつじ、紅葉や梅など、四季折々の景色や、
見事な眺望が楽しめます。」



「松風のみち」。
「田沼駅を出発し市街地をぬけ、秋山川に架かる橋を渡ると山道にさしかかります。
山道を登ると、藤原秀郷公の居城跡である唐沢山があります。
ここからアカマッ林の尾根道を進み、京路戸(きようろど)峠を越え、まで下ると村檜神社、
大慈寺に到着します。
山間に開ける田団風景や遠く日光連山を望むことのできる眺望の良いコースです。」と。



最初に「足尾山神社」を訪ねた。
レストハウスのトイレ裏の坂道を下って行った。



石段の奥に朱の鳥居が現れた。



「足と腰の神様 足尾山神社
御祭神
のかみ )
於母陀流神(  おもだるのかみ )
国常主命(くにのとこたちのかみ)」



朱の鳥居の扁額「足尾山神社」。



積み上げられた石の上に社殿が。



「足尾山神社」社殿。



そして来た道を引き返し、「唐澤山城跡」の散策に。
石垣の前に石碑が2基。
左は「唐沢山県立自然公園」碑。



右側は「国指定史蹟 唐沢山城跡」碑。







「史蹟「唐沢山城」沿革
唐沢山城は、佐野市の北、高さ二四〇メートルの山全体をいゝ、往時の広さ五五〇町歩と
云われ、周囲を急崖に囲まれ、眺望は、関東平野を一望に、遠く北より日光連山、西に群馬連山、
秩父、南アルプス、秀峰富士、東に筑波と、まこと自然の要塞である。
当社御祭神 藤原秀郷公により一千年前の延長年間築城とされ、公はこの城を中心に、天慶の乱

威勢を張られた。その後、七〇〇年間多少の変遷はあったが、公の子孫佐野家代々の居城として
十六世紀中ごろに現在の形を整えたとされている。
関東七名城の一つに数えられ、中世山城の典型としての旧態をよく今に残し、代々の変遷の跡も
見られ近世初期にまで下る整備の跡もうかゞわれる。
江戸初期、山城禁止令により、佐野市の城山公園の地に城換えとなって、唐沢山城の歴史が
終わるが、明治になり唐沢山神社が建てられると全山境内地となり、県立自然公園にも指定され
四季おりおりの風景の中に、秀郷公以来の歴史が偲ばれる。
一日   一日祭
三日   文化の日祭
十五日  避来矢山霊廟大祭
ニ十三日 新穀感謝祭
ニ十五日 月次祭」



「ふるさと佐野 100選」碑。



「ふるさと佐野 100選
唐沢山
藤原秀郷一千年の昔の山城跡で、全山赤松におおわれている。
山頂には唐沢山神社があり、春は桜・つつじ・新緑、夏は納涼・ぶどう狩り、秋は松茸狩り、
冬は雪景色と、いつきても自然と味覚が楽しめる展望が良く、晴れた日は副都心新宿の
高層ビル群が眺望できる。」



「国指定史跡・唐沢山城跡案内図」をネットから。



詳細図。



頂いたパンフレットから。



そして正面にあったのが「くい違い虎口(くいちがいこぐち)」。



「くい違い虎口」とは土塁や石垣を平行でなく、くい違いにすることによって開口部を側面に
設けたもの。これにより、寄せ手が城内を直接見られないようにし、直線的に進入できない
ようにする。また、城内側面からの攻撃が効果的になる。
ここ唐沢山城跡では山頂レストハウスから城内に向うところに、石垣を伴った見事な土塁で
構築された「くい違い虎口」があった。


固めていたのであった。
更に、『諸国古城之図』の唐沢山城絵図には虎口の内側に「武者詰」の文字が読み取れると。
この虎口は土塁の規模や入念な構造から、城内への表玄関とも言えるのだと。
なお、現在観察できるこの付近の石垣は明治期のものと判断されるが、一部には古い時代の
石積みも残されているとのこと。


「くい違い虎口
敵が直進できないように、鍵の手に折れて「くい違い」に造られている。
さらに内側は「ます形」となる。」と。
いわゆる「クランク構造」。枡形とは「四角い形」。枡形虎口は「四角い形の出入口」と
いうことになる。城攻めの時に敵兵が殺到する虎口は、守りの最重要ポイント。
まともに敵の圧力を受け、簡単に門を突破されては困るのだ。
なるべくここで敵の勢いを削ぎ、食い止め、弱点である側面を突き、そしてできれば、確実に
仕留めたいのだ。



仮に門を突破されても敵が城内へと直進できないようにするため、
「一文字土居(いちもんじどい)」や「喰違虎口(くいちがいこぐち)」といった工夫が
されて来たが、最終的にたどり着いたのが、虎口に四角い空間を設ける「枡形虎口」であった。
枡形に敵を誘い込んで身動きが取れないように封じ込め、そこに三方から集中攻撃をかけて
仕留める構造。」。
ただし、この規模の城にしては「枡形虎口」の大きさが小振りと感じたのであったが・・・。

こちらが「くい違い虎口」の城内への入口。



右側には「天狗岩」があった。



「天狗岩
「大険山」とも例えられる岩山で、頂上からの良好な眺望を活かし、広く周囲を見張る
役割を果たしていたと考えられる。」



岩肌を上って行った。



根っこが露わに。



ゴツゴツした岩が剥きだしになった巨岩の横を上って行った。



文字が刻まれているようでもあったが。



展望の良い場所を目指して。



「唐沢山天狗岩展望案内」。



残念がら雲に隠れて。



天気が良ければ・・・ネットから。
ここには物見櫓のあったとのこと。
条件がよければ正面方向に都心の高層ビルがみえることもあると。
かつて唐沢山城から江戸の大火を見た城主・佐野信吉が早馬で江戸に駆けつけたところ、
『江戸を見下ろすとはけしからん』と却って家康の不興を買い、廃城を命じられ麓の
佐野城に移ったというエピソードがあるとか。



石祠が岩の上に鎮座。
台石には多くの奉納者の名前が刻まれていた。



紅葉も始まっていたが、この日は青空、陽光がなく。



進んでいくと右手にあったのが「唐澤山荘」。
和食店であったようだが、現在は閉鎖中のようであった。



「武者詰と大井の間の虎口
かっては武者詰があったとされる枡形の奥側に築かれた虎口(出入口)で、この内側には城内の
重要な水源である大井が位置するほか、さらに東方の本丸方面まで続く大手町への通行を
遮断している。」



ここが枡形の奥側に築かれた虎口(出入口)。



再び案内図。
「唐沢山城跡を再発見しよう!
上空からの精密な3次元測量によって出来上がった唐沢山城跡中央部の「地形起伏図」です。
これを見ると、拠点としての堅固な城を築くため、山の広範囲にわたって尾根筋を削平し
堀や土塁(土手)などを設けていたことがよくわかります。
本丸周辺口には、安土挑山時代の貴重な高石垣が今日まで残り、唐沢山城跡のシンポル的
存在といえますが、194haにも及ぶ広大な史跡の中には、いたる所に敵からの攻撃を防いだ
城造り跡が残っています。
この図には、城跡のおもだったところに説明を加えてありますが、それ以外のところもよく見て
みると、曲輸(くるわ)などの平坦面や堀跡、古い道筋などを各所に見つけることができると
思います。ぜひ、新たな発見を楽しんでください。
なお、山内は危険な場所があります。貴重な植生にも悪影響を及ぼしすので、参道や遊歩道から
はずれないでください。」


ズームして。



左手にあった「龍神宮」。



苔むした岩にも紙垂の付いた注連縄が。
ここに「八大龍王神」が祀られているのだと。



「龍神宮」の朱の鳥居。



「八大龍王神縁起
唐澤山の御祭神であらせられます藤原秀郷公が、京に架かる瀬田大橋を渡る時、橋の中央に
息も絶え絶えの大蛇が横たわり、京の人々は恐れ慄き只遠巻きに見ているだけでしたが、
公は何事もないように大蛇を跨ぎ橋を渡り終えました。
それを見ていた従者が此の人こそ真の勇者と公を呼び止め助けを請いました。
大蛇は百足の毒にやられた龍神様の化身でした。ぜひ敵を討って欲しいと公を龍宮城へと
招きました。夜になると黒き山が動き多くの松明をかざしこちらに向かってくるのが見え、
よく見ると大きな邪悪な目がらんらんと輝き、龍宮城へと襲いかかって来たのは大百足
(おおむかで)の化け物でした。 公は弓矢の名手でしたので3本の鋼矢を取り、 一の矢を
番え敵の眉間の中央に的を絞り放ちましたが、
矢はカチンと跳ね返りました。
急いで二の矢を撃ちましたが同じように跳ね返されました。
公は最後の三本目の矢を「神よ、御照覧あれ」と矢じりにつばきを塗り 全く同じ場所を
狙い放ったところ矢は眉間より奥深く射抜き
ムカデはどうと崩れ落ち息絶えました。
これ以降龍神様は公の傍らに仕え数々の瑞象を表し今日に至り 唐澤山に鎮座まします。
龍神様は家族で行動する処から、家族思いであり、家族愛に溢れ、 敬愛と恋人同士の
深い愛の成就の神です。また登竜門と言われるように入学、
入社は元より出世を
かなえます。

秀郷公の弓矢の名人の誉から狙った的を外さない事から 本命の恋人の心を射たり将来の
夢と希望を當的出来る神様であります。

この龍神様と秀郷公の鎮座される本殿にお参りされ、二柱の神様のお力を得て素晴らしい
日々をお過ごしください。




「龍神宮」の社。
御祭神は「弥都波能売神(みづはのめのかみ)」。



左手にあったのが「大炊の井(おおいのい)」。



城造りの際、深い堀や高い土塁・石垣を築くなど、防御の機能を高めて城の構造を堅牢に
しようとするばかりでなく、水の確保にも意を注いだことでしょう。水は生活に欠く事の
できないものであり、特に戦の際には飲用水の有無が重要でした。籠城(ろうじょう)する
場合にはなおさらです。
唐沢山の山頂には築城に際して厳島大明神に祈請したとされる井戸があります。名を大炊井戸と
言い、くい違い虎口から少し進んだ左手にあります。



山の上にあって井戸を掘るため水脈を見極めることは難しかったことでしょうが、
『校正続撰佐野記』には「手を以て土中を探りけれバ、たちまち清水湧出て一つの大井出現せり。
(略)大井之水かるるいう事なし。」とあり、現在も豊かな水を蓄えています。
なお、井戸の内側には整然と石が組まれていますが、古写真から現在の石組は明治時代になって
からのものと考えられます。



「大炊の井」の奥の紅葉も美しかった。
中央にぶら下がっているものは?



「大井
直径9m、深さ8m以上の大きな井戸で、現在まて凅れずに豊かな水をたたえている。
明治期の井戸浚いの際に、底部に八角形の松材の木枠が3段積まれていることや、中央がさらに
掘リ込まれているこどが確認されている。」



別の場所から。



「大炊の井
築城のさい厳島大明神に祈請をしその霊夢により掘ると水がこんこんと湧き出たとの事である
深さ九米直径八米あり今日まで水がかれたことがない」



芭蕉の句碑。
城跡や古井の清水先問む
貞亨5年(1688年)夏、『笈の小文』の旅の帰路、岐阜の稲葉山で詠まれた句であると。
安政3年(1856年)、句碑建立。



その先に「唐沢山神社」の石鳥居。



石鳥居を潜るとその先に太鼓橋が。



「神橋」と。



「神橋
かっては曵橋であったとされ、いざという時に橋を引き払い通行を遮断したとも伝えられています。
大正十五年皇太子殿下(昭和天皇)ご成婚記念として地元の高齢者より寄与されました」



「引き橋がかかる四つ目堀
城の山頂部を東西に大きく分断する四ツ目堀は重要な防衛地点であり、かっては曳橋が
かけられていたとされる。
いざどいう時には橋を引き払い、城の中心部への敵の侵入を防いだど考えられる。」




                               ・・・もどる・・・


                 ・・・つづく・・・





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Last updated  2022.12.25 08:11:26
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