JINさんの陽蜂農遠日記

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2023.07.15
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カテゴリ: 藤沢歴史散歩
下和泉鯖神社 」を後にして、「 和泉川 」沿いの水田地帯を進む。



珍しい色彩のアジサイの花。



ハルシャギク(波斯菊) 」であっただろうか。
キク科ハルシャギク属の一年草。空き地や道端などに生える雑草であるが。
和名の由来となっている「ハルシャ(波斯)」はペルシャのこと。
別名はジャノメソウ(蛇目草)。
花期は春〜この時期・初夏。花の色は、中心が濃紅色で、周辺は黄色の蛇の目模様であり、
別名のジャノメソウ(蛇目草)の由来となっている。



花は外側が黄色で、真ん中が濃紅色となっており、上記の如く「蛇の目模様」を連想させます。
そもそも「蛇の目模様」とは、大小2つの太い輪からなる模様のことを指します。その名の通り、
蛇の目に似ていることに由来しており、おちょこだけでなくさまざまなものにデザインされている。
昔の番傘などにもよく用いられた模様であり、通称「蛇の目傘」と呼ばれていたのだ。
花色は変化が大きく、黄色と赤茶色の部分の割合は株によってずいぶん異なり、どちらか一色
だけになってしまったものもたまに見られます。また八重咲きになることもあるとのこと。



境川遊水地公園テニスコート 」が左下に。
神奈川県横浜市泉区下飯田町664。



神奈川県立境川遊水地公園 」内にある「 鷺舞橋 」が見えて来た。



「境川遊水地公園テニスコート」の先に「 横浜薬科大学 」の「 図書館棟 」を見る。



「図書館棟」をズームして。



境川 」に架かる「 鷺舞橋 」を渡る。



鷺舞橋 」。



「境川」の下流側を見る。
前回訪ねた「 境川遊水池情報センター 」の姿が確認できた。



境川遊水池情報センター 」をズームして。



鷺舞橋 」。
「境川遊水地公園」のシンボルとなる国内初の片面吊り曲線吊橋の設計デザイン。
2008年12月に開通。自転車・歩行者用の橋。
吊橋が片側だけで斜めになっているのが特徴 で印象強い。
周りは散歩やランニング、サイクリングされている方が多いのであった。



国内初の片面吊り形式の曲線吊り橋となる橋長129mのPC(Prestressed Concrete)
2径間連続吊り橋。
橋脚から斜め外側に鋼製主塔を構築し、頂上から橋台部のアンカーに向けて張ったケーブルで
桁を吊っている。
ドイツのヨルグ・シュライヒ博士が考案した一面吊り曲線吊り橋の考え方を参考にしたのだと。
平成21年度PC技術協会賞受賞作品  と。



橋の片側だけをワイヤーロープで釣る世界的にもめずらしい橋。
歩行者専用というのがもったいない!!
実際にこの地区は白鷺などが飛来するところでもあり、この橋の設計が、鷺が羽を広げて
飛び立つ姿に似ていることから「 鷺舞橋 」と名付けられた と。



そして「境川」に架かる「今飯橋」を渡り、次の目的地の「 今田鯖神社 」に向かって
下根広町線 」を西に進む。



県立境川遊水地公園 」案内板。



案内に従い、右折して進むと右手にあったのが「 県立境川遊水地公園 」の入口。



県立境川遊水地公園 」。



県立境川遊水地公園 」案内板。
「県立境川遊水地公園」は、境川遊水地の上部空間を県立公園として整備したもので、
平成16年(2004)度に事業着手し、令和元年(2019)7月に全面開園した。
公園内には、境川の自然豊かな水辺空間を活かし、様々な生きものが生息できるビオトープがあり、
環境学習などが体験できる場を提供している。また、レクリエーションの場として、少年野球場、
多目的グラウンド、テニスコートの有料施設と、噴水広場や芝生広場などの施設がある。
境川遊水地では、上部空間を県立公園として有効利用するため、池の中に中央越流堤を設置し、
「ビオトープなどの自然創出ゾーン(一次池)」と「多目的利用ができる広場ゾーン(二次池)」
にエリアを分離しているのであった。



民家のフェンスには「 木イチゴ 」が。



近づいて。



黄色の「 ハイビスカス 」の花。



近づいて。



そして前方に「 今田鯖神社 」の石鳥居が姿を現した。
神奈川県藤沢市湘南台7丁目201。



石鳥居
明神鳥居。
昭和35年8月杉山憲氏奉納 と。



扁額「 鯖神社 」。



今田鯖神社掲示板 」には多くの「 今田鯖神社 」関連の資料が掲示されていた。
平成17年9月新設。



鯖神社の境内 」案内。



ネットから。



「古(いにしえ)を今に伝える鯖神社」。
   年代   西暦                    事項
元禄  5年(1692)       9月 村人らにより荒神像造立〈銘文〉
元禄15年(1702)       9月 井上瀬兵衛により「鯖大明神」創建(棟札)
亨保  5年(1720)       2月15日 村中により鎮守として拝殿を建立(棟札)
寛政11年(1799)       秋 片瀬の諏訪山玉蔵院により護摩供養が行われる(棟札)
文政  9年(1826)       社殿の再建(『高座郡神社略記』)
天保15年(1844)       12月 拝殿の再建(棟札)・天照皇太神宮両屋の再建(棟札)
嘉永  4年(1851)       4月 氏子中より燈籠一対奉納〈銘文〉
嘉永  5年(1852)       1月 玉蔵院を施主とし、木造の御神体を奉納〈神像台座銘〉・玉蔵院により
                永代護摩供養が行われる〈棟札〉
明治  2年(1869)       9月  片瀬神主により郷内安全の祈祷が行われる〈棟礼〉
明治  6年(1873)       村社に列せらる〈『高座郡神社略記』〉
大正  8年(1919)       10月 神楽殿の建設〈碑文〉
昭和  8年(1933)       4月 社殿の再建、14日上棟式〈碑文・古写真〉
昭和35年(1960)       8月 鳥居奉納〈銘文〉
昭和50年(1975)       10月1日 子供神輿(大)奉納(古写真〉この頃今田囃子が復活
昭和59年(1984)       5月 今田鯖神社氏子の会(現保存会)設立 
                     この頃拝殿でボヤ、火災保検に加入
平成  7年(1995)       8月11日 不審火により社殿焼夫
                9月30日 境内周辺樹木伐採
平成  8年(1995)       8月~ 擁壁工事(翌年1月完成)
平成  9年(1996)       1月24日 起工式、3月30日上棟式
                9月 再建記念碑建立、石碑類整備、
                        玉垣設置、荒神・稲荷の小祠再建
                10月2日 遷座式、3日 遷宮奉祝祭
平成13年(2001)        3月1日 放火により再度社殿焼失、御神体焼損
平成14年(2002)        2月13日 起工式、3月6日 上棟式
                 5月 新たに御神体を鋳造
                               6月8日 遷座式、9日 遷宮奉祝祭
平成15年(2003)        6月 境内に上下水道・遊水池を設置
                 7月 社務所の改築
平成17年(2005)        3月 参道整備
平成18年(2006)        3月12日 旧御神体を本殿に安置
                              10月1日   鯖神社再建之碑の建立
                       〈 〉 は出典
玉蔵院ってなんでしょう?
鯖神社に残された棟札には、「諏訪山玉蔵院」という名前が記され、護摩供養などを行っていた
ことがわかります。でも、この名の寺は今田にはありません。「新編相模国風上記稿」という
書物によると、境川を下っていった片瀬の上下諏訪神社の別当寺が玉蔵院で、宗派は修験でした。
今田に残された古文書からは、江戸時代にはお正月に玉蔵院へご祝儀を出していることも
わかりました。その後、明治の廃仏毀釈で廃寺となり、交流が途絶えたのでしょう。
しかし、そもそもどういういわれで鯖神社と関わるようになったのかは謎のままです。
皆さん、この謎を解いてみませんか。」と。



「私たちのすぐ身近の風景にさり気なくとけ込んでいる鯖神社。実は沢山の魅力を秘めた
神社なのです。
祭神は源義朝公
一番の魅力は、なんといっても祭神として源義朝公をお祀りしていることでしょう。
源義朝公は、鎌倉府を開いた頼朝、平氏を壇ノ浦で滅ぼした義経の父にあたる方として有名ですが、
義朝公ご本人も歴史上きな活躍をした人物です。
義朝公は、平安時代末期の1123本拠地を構えて南関東の武士を結集することに努めました。
1144年、義朝公が今田の近隣の大庭御厨(みくりや 藤沢市にあった伊勢神宮の荘園)に侵入した
ことは、関東における源氏勢力を挽回させる出来事として有名な出来事です。
1146年頃に義朝公は京に移り、さらなる勢力の拡大に努めました。保元の乱( 1 156 )では、
父為義と敵味方に別れて戦って勝利し、実の父を斬る運命を乗り越えて左馬頭(馬を管理する
馬寮の長官)に任じられます。
しかし平氏への不満と対抗から平治の乱(1159)を共諜します。平清盛と戦って敗れ、再起を図る
ため東国へ落ち延びる途中、尾張の野間(愛知県知多郡)に辿り着いたとき、旧来からの家臣の
長田忠致とその息子景致(かげむね)に裏切られ、湯殿で謀殺されてしまうのです。義朝37才の
若い最期でした。「無念なり、我に木太刀なりともありせば」と言い残したと伝えられることから、
今も野間大坊の義朝廟には、供養の太刀がうず高く奉納されています。」
サバ神社は十ニ社
義朝公をお祀りする神社は、今田鯖神社を含めてたった9社しかありません。しかも、その9社の
神社名は左馬、佐波、佐姿と漢字が違っていたり、今では別の社名で呼ばれているものも
ありますが、かってはサバ神社と呼ばれていました。そしてこのサバ神社も全国を探しても
12社しかなく、義朝公でなければ同じ清和源氏の満仲公をお祀りしているのです
さらに不思議なことに、この極めて珍しいサバ神社12社は、すべて境川・和泉川・引地川沿いの
川に向かった高台に建っているのです。
なぜ、義朝公をお祀りし、サバと変わった名前の神社が今田の周辺に集中して存在しているので
しようか。
その謎の答えを導き出す糸ロは、祭神の義朝公とサバという神社の名前にありそうです。
義朝公の死後48年以上もたった江戸時代の初め、義朝公を謀殺した長田忠致の子孫という旗本の
長田氏がこの地方を領しました。あるいは、その長田氏が祖先の滅罪に義朝公の霊を祀ったとも
考えられます。
ちょうど江戸時代の初め頃、この地方は狩場や放牧地を農地として開発し、豊かな収穫を得る
ようになっていました。水の恵みをもたらす川は反面氾濫を繰り返し、人々の生活を苦しめました。
そこで領民たちは、川の精を鎮めるために、また村の結束や繁栄を願い、領主の祀る源氏の勇猛な
武将である義朝・満仲を鎮守神に迎えて御神霊とも厄除神、五穀豊穣を祈って礼拝してきたのかも
しれません。
さらにサバの名の由来には、祭神の義朝・満仲が左馬頭だったことの他に、沢(サワ)の神を祀る
小祠や田の神(サンバイ)や生飯(サバ)から転じた、また鯖が持っといわれる強い薬効を願って
鯖神社とした、など諸説あり、サバ神社の謎に対する確かな答えはまだありません。
答えがなければ、謎はいつまでも謎として残ります。その謎を解いてこの地方の秘められた歴史を
明らかにしたい。そんな思いが今田鯖神社の魅力をいっそう深めているのです。
七サバ参り
サバ神社はこの地域の人々に愛され、崇敬されてきました。その現れの一つに七サバ参りが
あります。子供の疱瘡、麻疹、百日咳などの疫病がはやった時に、「相模七サバ」と呼ばれる
7社を順次参拝して、早い回復を祈ったものです。
子供をおぶって弁当持参、まず近くのサバ神社から始めて、川沿いの道を歩き、橋を渡り、
あぜ道をたどって、一日がかりで詣でたのでしようか。
病を癒す厄除神参りは、江戸時代末期より大正の中頃迄行われたこの地方の風習でした。



美浜町野間法山寺 源義朝公之像



今田鯖神社の棟札を調査しました
去る3月12日(日)、今田鯖神社内の新しい厨子に、こ神体であった神像と棟札類が
安置されました。
同神社は1995年と2001年にニ度の火災にあい、氏子の方々のご尽力で、そのつど建て直しが
行われました。当時のこ神体は嘉永5年(1852)に納められた像でしたが、この火災により
焼損を受けました。そのため新たに作られた神像にその座をゆずられ、同時に焼損した棟札類と
ともに、歴史を伝える文化財として末永く保存されることになったのです。
それに先立ち、同神社保存会代表総代の方が棟札類に記された内容の調査にみえられたため、
当館でも調査をさせていただくことができました。
棟札とは、寺社などの建立の際、年月日や関係者の名前を木札に記し棟木に打ち付けるなどして
おくものです。
棟札類は7点ありました。
内訳は、棟札が4枚、祈祷札が3枚です.
煤けて文字が見えない部分もあり、生涯学習課の文化財担当と博物館準備担当の協力のもと、
赤外線の照射による文字の判読を試みました。
その結果、完全に炭化している部分は無理でしたが、かなりの文字を読み取ることができました。
棟札の年代は元禄15年(1702)・享保5年(1720)・天保15年(1844)で、天保15年は2枚あり、
うち1枚は「天照皇太神宮」の再建のものでした。残り3枚が鯖神社のものです。元禄15年は
同神社の創建の年と伝えられていますので、創建時の棟札が残されていたわけです。
祈祷札は寛政11年(1799)・嘉永5年(1852)・明治2年(1869)のものです。
興味深いのは、棟札1枚と祈祷札2枚に「法主」といった立場で「諏訪山玉蔵院」という名が
記されていることです.しかし今田村にこの寺があったという記録はなく、伝承も伝わって
いません。調べていくと、片瀬の上下諏訪神社の別当をつとめていた修験の玉蔵院(現存しません)
だということがわかりました。
今田と片瀬は距離もあり、しかも高座郡と鎌倉郡で郡も異なっています。いったいどういう
関わりで、片瀬の玉蔵院が、今田村の法主を務めることになったのでしようか。その謎解きは、
今後の課題です。
最後になりましたが、調査のきっかけをいただき、また、貴重な史料を快くお貸しくださった、
今田鯖神社保存会の皆様に厚く礼申上げます。」



お神札(ふだ) それはお家(うち) の
感謝する時、願う時
自然と手のひらをあわせるように
私達は祈りのある暮らしの中に生きています。
お家(うち) にも、祈りの場として
まずお伊勢さまと氏神さまをおまつりください。」



境内参道を進む。
平成8年石段撤去
平成17年アスファルト舗装。



石灯籠(右)
宗和型
嘉永4年4月奉納
昭和8年頃拝殿前より移動。



石灯籠(左)
宗和型
嘉永4年4月奉納
昭和8年頃拝殿前より移動。



朱の木製燈籠 が一対。



その先にも 石灯籠(右)
春日型 平成9年10月1日奉納。



石灯籠(左)
春日型 平成9年10月1日奉納。



鯖神社 由来 」。



鯖神社 由来
祭神源義朝公、創立元禄15年(1702)、例祭日10月1日 当地住人井上瀬兵衛により造立される。
祭神源義朝が佐馬の頭であったことから鯖神社と称する。 文政9年(1826)に再建し、昭和8年
氏子中により本殿・拝殿が 改築された。例祭日には子供御輿や山車が出てにぎやかである。
(藤沢わがまちのあゆみより)」。



神楽殿 」・大正8年建築 と「 社務所 」。
社務所は平成15年7月改築、神楽殿に増築。



正面に「 社殿 」。
祭神:源義朝公



狛犬(右)。
平成9年10月1日奉納。



狛犬(左)
平成9年10月1日奉納。



左手に「 手水鉢(漱水盥・そうすいかん) 」。
嘉永4年(1851)10月奉納。
平成18年9月台座新設。



その横に 4基の石碑 がならぶ。



左から
用水堰改築記念碑
大正15年11月建立
昭和40年代頃境内へ移動。
記念碑
相模中央東部有川日境川其○域以跨於高座○○
之二郡有地称沿岸各村利用之設堰以便干灌漑者
其數甚多六會村丸山地○亦古来有此堰而其築造
不堅牢也頗年屡決関係村民毎俢之理之○供干水
田八町八反有餘歩之用為之所費貨財常時尚○為
尠若其當一朝偶暴風雨被害激甚也其○不可○○
村民苦之負擔久村會議員杉山勘五郎選在管理之
任苦心多年提唱堰改造時運亦到実現将近而不幸
病没偶遭大正癸亥大震災堰悉破壊殆○可拾○杉
山氏嗣子松五郎克幹父蠱策混凝土改良工事興衆
相諮稟請縣費補助得其許可大正十五年二月十日
起工同年四月十六日竣工於是乎得水田復旧労費
亦共除焉挙村僉安堵即樹碑欲教子孫永記念之體
其労苦無所苟怠屬文於余余因按状爰録其由云
  大正十五年十一月吉○
       牧野随吉撰文又書 印
(數:数  會:会  餘:余  當:当  擔:担  縣:県 體:体  混凝土:コンクリート)」



道路改修記念 」碑。
昭和8年建立
昭和40年代頃今田西原バス停脇
五差路角(今田710番地)より境内へ移動。



神楽殿建築紀念碑
大正8年10月建立。
拝殿前壇上向かって左より移設。



鯖神社 新築記念碑 」。
昭和8年4月15日建立。
拝殿前壇上向かって右より移動。



鯖神社再建之碑
二度の再建への努力を讃え 鯖神社及び氏子の繁栄を祈り ここに記念碑を建立する
今田鯖神社は氏子中の尽力により元禄十五年(1702)の創建から数度の社殿の再建を経て今日に
到っている。
平成七年(1995)八月十一日の放火により、昭和八年(1933)建立の社殿は失われたが、氏子中は
再建委員会を組織し 復興工事を完成させ、平成九年(1997)三月には遷宮奉祝祭を執り行った。
同十三(2001)年三月一日再度不審火により新築の社殿は御神体と共に灰燼と帰したが、氏子中の
再建への強い志は途切れることなく、同十四年六月には新社殿に新たな御神体を納め、
再び奉祝祭を執り行なうに到った。
その成果を讃えると共に二度とこのような災難がないよう末永い神社及び氏子各位の安寧を願い、
氏子一同 決意を碑に刻し、その記録を残すものである。
  平成十八年(2006)十月吉日    氏子中」



忠魂碑 」。



再建資金 寄附者芳名 」碑。



裏側には
序文
昭和八年に新築された社殿の六十余年に亘る歴史が平成七年八月惜しくも無宿人の火気の不始末が
原因で全焼するに至った
幸にも源義朝公の御神体が無事に搬出された爲有志による試験委員会を設立し計画を進めた結果
数多くの人達の心温かい 御支援と再建委員各位の御努力により二年余を経て再建を果たした
昭和四十年初めより藤沢市北部開発事業が進み三十余戸の地域の戸数や人口が急激に増加したが
当地に居を構えた方をはじめ 関係在る方々がこぞって再建に御協力頂いた事は大変喜ばしい事です 
戦後の混乱から高度成長期を経て生活環境が備わった 反面環境破壊やゴミ対策更には人の心の
あり方が問題化して来た 今後益々環境の悪化が見込まれ百年先の状況を想像する事は 困難で
あるが人々が当神社を地域の護り神として敬愛し豊かな心を持ち続け健康で明るい地域を持続する
爲にも鯖神社の存在が 大きな役割を果たすことを期待すると同時に末永く存続する様
祈るものである
 平成九年十月吉日
  再建委員長 井上保次謹書」



社殿の右側にあった「 稲荷社
創建年不詳
講が行われている。
現小祠は平成9年再建。



社殿に向かって左側にあった「 荒神様 」。
元禄5年(1963)9月作
井上氏・石井氏造立
「コウジンヤマ」より移動
現小祠は平成9年再建。



三面六臂荒神石像 」。



鯖神社 」の「 社殿 」を手前から。



扁額「 鯖神社 」。



軒唐破風 」。



内陣 」。



本殿 」を斜めから。



社殿の裏には小さな「 五輪塔 」が



反対側にも小さな「宝篋印塔残欠」。



本殿 の屋根



奉納絵馬
ビッグ錠(佃 龍二)作
令和五年・癸卯(みずのとう)絵馬」



そして社殿を振り返る。



参道の坂道を下って行った。



再び振り返って。
右手に「 神楽殿 」・大正8年建築。




                               ・・・​ もどる ​・・・


                 ・・・​ つづく ​・・・







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Last updated  2024.08.28 08:34:03
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