JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.01.28
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カテゴリ: JINさんの農園
増上寺 徳川将軍家墓所 」の西側正面を見る。



明治期の増上寺御霊屋図 」案内板が中央に。



明治期の増上寺御霊屋図 」。
増上寺は徳川将軍家の菩提寺として、かつては二代秀忠の霊廟を中心とした南廟
(現在のゴルフ場敷地)と六代家宣・七代家継の霊廟を中心とした北廟(現在の東京プリンス
ホテル敷地)があり、その華麗さは日光東照宮を凌ぐとさえいわれていたが、昭和20年

昭和33年(1958年)に実施された改葬により、徳川家の墓所は安国殿裏手のこの一画に
まとめられたのた。 



写真「 台徳院(二代秀忠公)霊廟 本殿内部 」。



旧増上寺の「北・南御霊屋」配置図。



​□​  現在の増上寺境内の敷地。

​□​  現在のプリンスホテルの位置

​​

モノクロだが豪華絢爛さが伝わって来た。



「文昭院(六代家宣公)霊廟 拝殿内部」。



文昭院(六代家宣公)霊廟 相之間内部



文昭院(六代家宣公)霊廟 唐門側面 」。



有章院(七代家継公)霊廟 勅額門 」。



崇源院(お江の方)霊牌所 内部



「鋳抜門」を霊廟側 から。



に近づいて。
こちらには、 徳川葵紋はなく、波のみが。



右側の上り龍



左側の下り龍



現将軍墓所宝塔配置図 」。



二代秀忠公夫妻 石塔
 「 台徳院殿  二代秀忠公
 秀忠は家康の第3子として、天正7(1579)年に出生。慶長10(1605)年、
 二代将軍に就任。将軍職にあること18年をかぞえ寛永9(1632)年、54歳で逝去。
 大葬の式は行われず霊柩を増上寺に迎え、二月十日より当時の最高の技術者が動員され、
 霊廟が順次造営された。台徳院殿廟奥院に杷られた宝塔は、装飾華麗で当時の芸術の粋を

 「 崇源院殿 お江の方 」。
 崇源院(すうげんいん/そうげんいん)は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。近江の
 戦国大名浅井長政の三女で、母は織田信秀の娘であるお市の方(織田信長の妹)。
 崇源院は院号であり、一般には江(ごう)か小督 (おごう)の名で知られるが、
 諱は達子(みちこ)で、追贈された贈位は従一位。
 長姉の淀殿(茶々)、次姉の常高院(初)とで、いわゆる浅井三姉妹の一人で、初め佐治一成と
 婚約したが、秀吉により離縁させられて、その甥で養子の豊臣秀勝と再婚し、娘完子(さだこ)
 をもうけたが、秀勝が急逝。
 江戸幕府の2代将軍となる徳川秀忠と3度目の結婚をして、3代将軍家光を含む2男5女をもうけた。



台徳院殿  二代秀忠公 」と。



崇源院殿 お江の方 」と。



二代秀忠公夫妻 」の左側に「 六代家宣公夫妻(青銅製) 」。



近づいて。



文昭院殿 六代家宣公 」と。



霊廟の 右・北側に並ぶ墓石群



右奥の「 有章院殿 七代家継公 」。
家宣公の第3子として宝永6(1709)年に出生。
父の逝去、兄二人の早世でわずか3歳にして七代将軍職を継ぎます。
正徳5(1715)年皇女八十宮と婚約するも、元来が病弱で実現を見ぬまま
翌正徳6(1716)年に8歳で亡くなられた。廟は文昭院殿廟に並んで造営された。



惇信院殿 九代家重公 」。
吉宗公の長子として、正徳元(1711)年に出生。生まれつき多病で、49歳で将軍職を譲り、
宝暦11(1761)年、51歳で逝去。
調査によると、重度の歯ぎしりにより発音障害があったようですが、復元された容貌は
歴代将軍の中でも最も美男子であったようで、遠くから拝謁する大名にとっては気高く見えたと。



惇信院殿 九代家重公 」。



慎徳院殿
家斉公の第2子として、寛政5(1793)年に出生。天保8(1837)年、十二代将軍に。
天保の改革に着手するものの改革は失敗に終わり、幕府は没落の道を進むことに。
嘉永6(1853)年、あわただしい世情の中61歳で逝去。



霊廟の 左・南側に並ぶ墓石群 。​
宝塔には石製と青銅製の2種類が確認できたのであった。 



左側奥には「 昭徳院殿 十四代家茂公 」。
紀伊徳川家、斉順の第2子として弘化3(1846)年に出生。安政5(1858)年将軍家の
養子となり十四代将軍に。
しかし、世継問題と日米通商問題で幕府は大きく揺れ、井伊直弼によって安政の大獄が
始まったが、事態収拾のために公武合体策をとり、和宮親子内親王(静寛院)を正室に迎えた。
尊皇攘夷派と幕府の対立が激化するなかで、家茂公は長州征伐を指揮しますが、出征途中の
大坂城で病のために逝去。慶長2(1866)年、享年21。



昭徳院殿 十四代家茂公 」。



十四代将軍御正室 静寛院宮 皇女和宮 」。
十四代将軍家茂の正室、静寛院和宮は仁孝天皇の第8皇女として弘化3(1846)年に出生。
6歳の時に有栖川宮と婚約が成立していたが、婚儀間近になって公武合体策によって
降嫁。家茂の死後、落飾して静寛院と称し、波乱万丈変転厳しい時代のなか、
江戸城無血開城、徳川家存続、夫君追善に力を尽くし、明治10(1877)年31歳という
短い生涯を閉じた。没後遺体は京都へ戻すよう沙汰があったが、本人の遺言にしたがい、
家茂公と同列に並んで増上寺に祀られたと。
i入口手前には歌碑があったが。



十四代将軍御正室 静寛院宮 皇女和宮 」。



「合祀(ごうし)塔
現在の合祀塔には、家光公第三子で家宣公の実父である徳川綱重をはじめ、
家光公側室で五代綱吉公の生母桂昌院、十一代家斉公正室広大院、家宣公側室月光院ら
南北の御霊屋に祀られていた歴代将軍の夫人や子女の多数が埋葬されていると。
なお宝塔は月光院輝子の墳墓に祀られた宝塔が使われているのだと。 








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Last updated  2024.01.28 07:44:52
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