JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.11.23
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カテゴリ: JINさんの農園
次の目的地の「 天王神社・稲荷神社  (てんのうじんじゃ・いなりじんじゃ) 」に向かって
歩く。



天王神社・稲荷神社  (てんのうじんじゃ・いなりじんじゃ) 」。
小田原市浜町3丁目14−17。



石鳥居の扁額「 稲荷神社 天王神社 」。



正面から。



狛狐(右)



狛狐(左)



二の石鳥居。



総石造りの社殿。



境内右側の石碑。



敷石奇附人 」碑。
大正八年六月着手
大正九年五月竣功 と。



内陣。



現在の国道1号線沿いにあった「 旧小田原城移築城門 」。




ただ現在は非公開で立入禁止。



ズームして。



その先、国道1号を下ると 「旧町名」碑 が。



「唐人町」碑



とうじんちょう



「小田原北条氏時代、中国人が遭難して小田原に漂着し、その中の四十余人が許されてこの地に
居住したので、「唐人村」と呼ばれていたことが、唐人町の名称と関係があるものと考え
られている。 唐人町の通りは、寛永年間(一六二四~四三年)、将軍家光の上洛に先立ち、
小田原城大手門に至る御成道(おなりみち)として新設されたもの で、その東端には土塁を
ともなった柵門(黒門)が設けられていた。」
別の説明では
町の名は、藩主稲葉氏の「永代日記」の正保2年(1645)の項に「唐人町」とあるのが初出です。
この町の一画には、もと城下の有力な町人、中村善四郎の屋敷がありましたが、この通りが
できたのは、霓永11年(1634)の将軍家光の上洛に先立ち、小田原城大手門に至る御成道
(おなりみち:宮家、摂家、将軍の通る道のこと)が新設されたため、この屋敷は他の上地に
移りました。この御成道の東端には、土塁をともなった冊門(黒門)が設けられていましたが、
その通行は将軍家のみで小田原藩主を含めて一般人は通行できませんでした。
慶長12年(1607)、朝鮮通信使が小田原を通過した際、大蓮寺で一人の中国人が面会し、
「50余人が遭難し、小田原に漂着した。この内30余人は帰国したが、残りは許されてこの地に
滞在し、唐人村と呼ばれている」(「海槎録」より)と話した「唐人村」が「唐人町」と関係ある
のかもしれません と。



ここ ​◯ が「 唐人町
​​



この先にも先ほどと 同じ「万町」碑 が立っていた。









スマホのナビに従い狭い路地を進む。
この道を案内することにビックリ。



「小田原城」方向に小田原市浜町3丁目を進む。




左手にあったのが干物専門店「 早瀬幸八商店」



箱根山水系の地下水と、日本の塩を使い、魚の脂のノリや季節によって細かく塩加減を変え、
常に最高のひものを提供している店と。



店内。
様々な干物が販売されていた。

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再び国道1号まで引き返す。
前方左手に石柱、案内板が現れた。



北村透谷生誕之地 」碑。
小田原市浜町3-11-41。



近づいて。
北村透谷生誕之地 」碑。



北村透谷生誕地
近代文学の先駆者北村透谷(門太郎)は、明治元年(1868 小田原藩士北村玄快の息、快蔵の長男と
してこの地の同番地国道筋に生まれた。近年、この生誕の碑を現在地に移した。
父上京後は祖父夫婦に育てられ、この地より啓蒙学校(城内小学校の前身)に通い、近くの海岸で
遊んだ。1881(明治14)年父母と共に上京し、京橋の泰明小学校に学び、その頃から神童と
呼ばれていたという。この小学校の同窓に島崎藤村がいる。
のち政治を志したが、人生問題に悩んだ末文学の道に入り、1889(明治22)年に「楚囚之詩」を
自費出版し、以後「蓬莱曲」を初め数多くの作品を発表し、1893(明治26)年には島崎藤村などと
雑誌「文学界」を創刊し、すぐれた評論や詩を書き残した。1894(明治27)年5月、東京芝公園内の
自宅で自らその生涯の幕を閉じ、芝白金台町の端聖寺に葬られたが、現在は城山の高長寺の
北村家墓所に改葬された。
なお、この碑の揮毫者は、透谷の唯一人の娘堀越英子である。小田原城址公園内には、島崎藤村
揮毫の文学碑が建立されている。」



「国際通り」交差点を左折。



青物町商店街 」は「 シャッター通り商店街 」となっていた。



「青物町」碑



あおものちょう 」。



「小田原北条氏時代、町内に野菜の市(いち)が開かれていたのでこの名がついたといわれ、
商人の多い町であった。東京の日本橋にあった青物町は、徳川家康のころ江戸の町づくりのため、
この土地の人たちが移り住んだ町といわれる。」
別の説明では
この町は、藩主稲葉氏の「永代日記」、延宝3年( 1675 )の記事に初めて町名が見られます。
「新編相模国風士記稿」(1841年)には、「いにしへ野菜の市立ちしより町名になる」と
あります。東京の日本橋にあった「青物町」は、徳川家康のころ江戸の町づくりのため、この
土地の人達が移り住んだといわれています。
この町は、商人町の色が濃いところで、旅篭はありませんでした。
なお、天保初期(1830年代)、町内の戸数は46軒でした。



左手にあったのが陶磁器専門店の「 (有)松崎屋陶器店 」。



店内に入って。



創業は明治20年(1887年)。140年近くに亘り、小田原の地で陶器専門店を営む店。
先祖が網元から暖簾分けし、青物町に陶器店を開いたことが始まりとのこと。



その先右手にあったのが「 清風楼 」。



「創業文久2年、創業150年余…
その時代を支えた料亭「清風楼」
かつて小田原の花街として栄えた宮小路。
東海道五十三次の小田原宿の歓楽街として栄え、 柳の木や灯籠が立ち並び、料亭や旅館などが
集まり、多くの芸者が在籍する賑わいぶりでした。
小田原は海山川に恵まれ、新鮮な野菜や魚介類にも恵まれ、文人墨客など多くの食通が
通いました。しかし次第にかつての面影もなくなってきましたが、宮小路で唯一当時の風情や
佇まいを残している当店で、お食事を召し上がりながらお楽しみください。」とネットから。

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お昼のおしながき
共水うな重 7000円  と。
今や幻とまで言われる「 共水うなぎ 」。
大井川の伏流水の(南アルプスから湧き出る地下水)豊かな自然の中、普通の鰻の2倍以上の
月日をかけ、静岡県の温暖な気候を利用して、ストレスの起きない環境で育ちました。
天然鰻のような甘い肉質と香り、天然鰻を超える脂ののり。是非、一度ご賞味ください。
※共水うなぎは、数量限定です。ご予約して頂くことをお勧め致します とネットから。



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                  ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2024.11.23 06:26:29
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