JINさんの陽蜂農遠日記

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2026.04.24
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カテゴリ: JINさんの農園

入ると正面・北側の展示コーナーをさらに追って。







まずは「 北の湖敏満の着物 」。


北の湖敏満の着物
               三保ヶ関国秋 画
北の湖が師匠・三保ヶ関(大関・増位山)から贈られた。
三保ヶ関は北の湖や増位山(長男)・北天佑の両大関をはじめ多くの関取を育て、
趣味の絵もニ科展に入選する腕前だった。」



若乃花像 」。



若乃花像
(立合いの一瞬の姿)
                    石井鶴三 作
                  1959年(昭和34)
1958年度「第1回報知新開社年間最優秀力士賞」として制作。
石井は、若乃花の立ち合いの気合いと弾力のある精悍な持ち味を出すことに苦心したという。」 



栃錦像 」。



栃錦像
(仕切にはいる一瞬の姿)
                       石井鶴三 作
                     1961年(昭和36)
1959年度「第2回報知新開社年冏最優秀力士賞」として制作。銅像を見た栃錦は、これまで
自分も知らなかったくらい厳しい表情をしていると語った。」


相撲(一) 」。



相撲(一)
石井鶴三 画
                      1959年(昭和34 )
1958年(昭和33)十一月場所千秋楽、朝汐(当時大関、のち46代横綱)と若乃花(45代横綱)の
取組を描いている。勝った朝汐は4回目の優勝を遂げた。」 



石井鶴三



石井鶴三
自身の作品である水彩画「相撲(ニ枚蹴り)」や彫刻「上手投げ決まる」とともに写っている。
好角家で、横綱審議委員や相撲博物館館長を務めた。」 



出羽海部屋の風景   前田青邨 画 」 



「髷結い」。



「くつろぎ」。



風呂 」。



出羽之海部屋
                           前田青邨 画
                        1963年(昭和38) 秋
土俵祭や稽古、風呂、髷結いなど相撲部屋での生活風景を描いている。
『洞窟の頼朝』(重要文化財)をはじめ数々の作品を残した日本画の前田青邨(1885 ~ 1977)は、
年寄出羽海(元出羽ノ花)と知り合いで、出羽海部屋を訪れて下絵を描いた。」 



栃河童の横綱土俵り  火野葦平 画・書 」 
火野葦平が記した色紙「栃河童(とちがっぱ)の土俵入り」(1959年)。
栃錦に対し「前頭のころからずっとあなたのヒイキでした」と書いている。



栃河童の横綱土俵り
                        火野葦平 画・書
                        1959年(昭和34 )
火野葦平( 1907 ~ 1960 )は、福岡県北九州市出身の小説家。
代表作に『麦と兵隊』『花と竜』がある。1959年(昭和34 )七月場所、長らく
応援していた栃錦が優勝を決めた際に記した色紙である。」 





おさるのすまひとり
                  前田青邨・安田靫彦画
                     1920年(大正9)
前田青邨(1885 ~ 1977)と安田靫彦(1884 ~ 1978)、二人の日本画家による合作。
干支にちなんで猿を題材に、横綱土俵入りを描いている。ニ人とも大相撲とのつながりが深い。」



さらに北側の展示コーナーを追う。



角カ図 富岡鉄斎 画 」。



「角カ図
                      富岡鉄斎 画
                    1920年(大正9 )頃
富岡鉄斎(1837 ~ 1924)は、京都市出身の日本画家、儒学者で、最後の文人画家といわれる。
江戸時代後期の随筆と松尾芭蕉の句「裸身て あらそふものや 月と風」を記し、
取組の絵を描いたもの。」 



「寿  双葉山定次 書」



寿
                   双葉山定次 書
           1937 ~ 1945年(昭和12 ~ 20 )頃
慶事を代表する文字である寿は、力士が書くことが多い。」 



右:双葉山定次 手形
 上:双葉山定次使用の太刀拵(こしらえ) 」 



双葉山定次 手形」 



「双葉山定次使用の太刀拵(こしらえ)
                   1937~1945年(昭和12~20)頃
横綱は太刀持ち、露払いを従えて土俵入りを行う。
鞘の蒔絵には桐の紋があしらわれている。」 



3 5代横綱
双葉山定次
本名    穐吉定次(1912 ~ 1968)
部屋    立浪→双葉山道場
出身地   大分県宇佐市
初土俵   昭和2年(1927)三月場所
新横綱   昭和13年(1938)一月場所
最終場所  昭和20年(1945)十一月場所
幕内成績  276勝68敗1分32休 優勝12回
未だに破られていない69連勝のほか、全勝優勝8回など数々の記録を残した昭和を
代表する力士。時津風部屋を創設したほか、相撲協会の理事長として活躍した。」






常陸山谷右衛門使用の締め込み
                  明治時代後期~大正時代
常陸山から栃木山にゆずられ、師弟ニ代で使用した。
栃木山は引退後に記念に保存していたが、1953年(昭和28)に後の相撲博物館初代館長・
酒井忠正(1893 ~1971)に贈呈した。」 



左:「 大砲万右衛門・ 常陸山谷右衛門手形」 
右:「 而有威不猛(いありてたけからず)    常陸山谷右術門 書



大砲万右衛門・ 常陸山谷右衛門手形  1900年(明治33)」



大砲万右衛門・
 常陸山谷右衛門手形
                          1900年(明治33)
直前の五月場所、大砲は大関、常陸山は関脇で、のちにともに横綱に昇進した。
中指の先から手首まで、大砲は約21.5 cm、常陸山は約20.5 cm。」 



而有威不猛(いありてたけからず)    常陸山谷右術門 書 」。



而有威不猛(いありてたけからず)
                                               常陸山谷右術門 書
                                                   明治~大正時代
威厳はあるが、荒々しくないの意。
『論語』で、中国の思想家・孔子(BC552 ~BC479)の人柄を弟子たちが評したもの」。


常陸山谷右衛門使用のシルクハット & ステッキ」



常陸山谷右衛門使用のステッキ
                   明治~大正時代
常陸山はステッキを愛用した。このステッキは、常陸山の大麻唯男(1889~1950、
後の国務大臣)へ結婚記念として贈ったもの。
1944年(昭和19)に大麻から常陸山の遺弟子、年寄藤島(31代横綱常ノ花)に譲られた。」 



常陸山谷右衛門使用のシルクハット」



常陸山谷右衛門使用のシルクハット
                           1907年(明治40)
ニューヨークの帽子メーカ—Dunlap社製。ルーズベルト大統領謁見に備えて渡米後に
あつらえた。ケースにはランドホテルなどのステッカーが貼られている。」 



ステッキを持つ「 常陸山谷右衛門 」。
 


「1 9代横綱
常陸山谷右衛門
本名    市毛 谷(右衛門) (1874 ~1922)
部屋    入間川→出羽海→中村(大阪)→出羽海
出身地         茨城県水戸市
初土俵         明治25年(1892) 六月場所 序ノロ
新横綱         明治37年( 1904 ) 一月場所
最終場所      大正3年( 1914 ) 五月場所
幕内成績      150勝15敗22分 2預 131休
                  優勝1回
梅ヶ谷(2代)と明治後期の大相撲を支え、角聖といわれた大横綱。出羽海部屋で、
横綱大錦、栃木山、常ノ花をはじめ、多くの力士を育てた。」 



相撲人の図 」 



相撲人の図
                       黙堂 画
絵の上には、野見宿禰と當麻蹶速の対戦、行司の始まりともいわれる志賀清林(しがせいりん)に
ついて記してある。」 



「人皇十一代垂仁天皇七年出雲國野見宿稱大和國
・・・・・」 



行司の始まりともいわれる「志賀清林(しがせいりん)」図。



相撲人の図  狩野養信(かのうおさのぶ) 画?



相撲人の図 」に近づいて。 



相撲人(すまいびと)の図
                        狩野養信(かのうおさのぶ) 画?
                        江戸時代後期
当時の廻しである犢鼻褌(とうさぎ)を、相撲長が直す場面はよく描かれている。
狩野養信(1796 ~ 1846)は、江戸時代の御用絵師狩野派に属す。養信の作、あるいは
模写であろうか。」


相撲節会(すまいのせちえ)
734年(天平6)、聖武天皇が相撲を天覧したのが始まりで、793年(延暦12)、桓武天皇の
天覧以降恒例行事となった。各地に相撲使(部領使)を派遣して優秀な相撲人を集め、
本番である召合のほかに、左右それぞれの取組順を決める内取、召合翌日の抜出(選抜戦)など、
1カ月近くの行司があった。平安時代末期には、武家の台頭などによって衰退し、1174年
(承安4)を最後に行われなくなった。当時、土俵はないが、足の裏以外が地面につくと負けと
なり,相撲のルールの原型ができた。また、各地の奉納行事にも影響を与え、相撲が全国に広がる
要素となった。」 


「野見宿禰と當麻蹶速対戦の図  恵所 画 」 



野見宿禰と當麻蹶速対戦の図   恵所 画 」 



野見宿禰と當麻蹶速対戦の図
                        恵所 画
                    1885年(明治18)
墨田区亀沢にある野見宿禰神社は、この絵が描かれた1885年の創建。
当時は高砂部屋があった場所で、新横綱は昇進後の東京場所前に
横綱土俵入りを奉納する。」 



野見宿禰(のみすくね)と當麻蹶速(たいまのけはや)の取組
『日本書紀』垂仁天皇を7年7月7日に、無敵を誇っていた大和の當麻蹶速に対し、
垂仁天皇が出雲の野見宿禰を召し出して取り組ませると、宿禰は蹶速の腰骨を折って
勝利した。垂仁天皇に仕えた野見宿禰は、のちに埴輸を創始したとの話があるとともに、
相撲の神として尊崇された。墨田区亀沢の野見宿禰神社をはじめとして、各地に野見宿禰を
祀った神社がある。」 




                                  ・・・つづく・・・



                  ・・・もどる・・・




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Last updated  2026.04.24 00:00:13
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