「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2020.09.12
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カテゴリ: 美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​第4回『印象派展』は、エドガー・ドガが中心となり「サロン」に応募する者はグループ展に入れないとの宣言がされますさぁ〜その時、モネは


​​ クロード ・モネを知りたい・・・その21 ​​


手書きハートクロード ・モネ手書きハート
​Cladude Monet​
1840年11月14日〜1926年12月5日(86歳没)


『ヴェトゥイユの雪の効果』 1878年〜1879年​


52.5cmx71.0cm


油彩・カンヴァス


パリ『オルセー美術館』所蔵。


​1878年9月、モネ一家は・・・​





セーヌ川の50kmほど下流にある


小さな村 ​「ヴェトゥイユ」​ に移った。


ちょうどこのころ、モネのパトロンであった


エネスト・オシュデ は・・・


破産して住むところを失っていた


オシュデ は、妻「アリス・オシュデ 」と6人の子ども


マルト、ブランシュ、シュザンヌの4姉妹


ジャック、ジャン=ピエールの兄弟とともに


ヴェトゥイユのモネの家で同居生活を送ることになった。





印象派の仲間たちとは疎遠になっていた。


グループ内では、特に印象派の売れ行きが思わしくない中


サロンに応募するか否か?


という点では深刻な対立点となった


ドガが・・・

「サロン」に応募する者は、


グループ展に参加させない事を強く主張していたのに対し怒ってる


ルノワールは・・・

1878年にサロンに応募し


モネも・・・

グループ展が作品の販売を妨げていると考えるようになった。


1879年4月、第4回『印象派展』は、


ドガが中心となって開催し


モネは、当初出品を断ったが


ギュスターヴ・カイユボットが・・・


所蔵者からモネの作品29点を借りて出品した。


モネは・・・


第4回『印象派展』への出品に同意した理由について


「気は進まなかったが、裏切り者と思われなかったから」


と述べている。


第4回『印象派展』では、初めて利益が出て、


一人439フランスの配当金が与えられた


経済的には、依然として苦しく


妻:カミーユと子どもの病気が重なり


ヴェトウィユの大家族は、


食糧も暖房もない生活を強いられた。


手書きハートクロード ・モネ手書きハート
​Claude Monet​


『死の床のカミーユ』 1879年​


90.0cmx68.0cm


油彩・カンヴァス


パリ『オルセー美術館』所蔵。


1879年9月5日、カミーユは32歳で亡くなった。


妻を失ったモネは、ピサロに


「君は、ほかの誰よりも

 僕の悲しみを分かってくれるだろう。

 徹底的に打ちのめされ、

 再び生きる気力もなく


 2人の子どもを連れて

 どのように暮らしていけばいいのか


 皆目分からない」 と書いている。


その後、エルネスト・オシュデ は・・・


パリに仕事に出ていったが、


妻:アリス・オシュデ は、ヴェトウィユに留まり


モネの2人の子、ジャンとミシェルの面倒も見た。


モネとアリスとの関係は、深まっていった。


1879年〜1880年にかけての冬は・・・

​異例の寒さとなり、

セーヌ川が完全に結氷し、

その後、激しい勢いで解氷した。​



モネは、


この現象に強く興味を引かれ、


描く時間や角度の違いによる光の変化を


絵にすることに夢中になった。

クロード ・モネ『解氷』


(資料:ウィキペディアさまより)


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最終更新日  2020.09.12 00:10:08
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