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台風16号は我が家のカーポートの屋根を吹っ飛ばして中国地方に去っていった。延岡ではもう少しで川の水が、堤防をオーバーフローするところであった。人間の力では台風をコントロールできないのだろうか。 さて、浩平のこと。 涼平の網膜はく離の心配と、浩平のことで嫁さんの心労は限界に来ていた。今日は学校に、いや教室に行けただろうかと仕事(保育園)に行っている間中考えていたに違いない。見違えるほどに瘠せた。 その日、浩平のいる実家に寄って、彼に自分が高校時代につらかったことを涙ながらに話して聞かせていたようで、帰るのが遅くなった。 家に帰っても二人座り込んだまま黙っていた。まだ彼女は涙ぐんでいた。浩平もこれまでそんな期待に何とか応えようとして必死で頑張ってきたのがわかった。「浩平。たとえ保健室まででもよく頑張って行ったな。たいしたもんだ。でも、お父さんはそんなに無理してまで学校に行かなくていい、と思っている。俺が今高校生でも学校に行かないかも知れない。いや、行っていないだろう。 学校に行って大学に進んだとしても、それが人の幸福につながる保証はない。それより、人生はもっとダイナミックに考えればいい。道はいくらでもある。 お前辛かっただろうな。一生懸命頑張って学校に行こうとして。もういいよ、しばらくゆっくり休むといい」と言った。 するとそれまで黙っていた浩平がすすり上げて泣き始めた。嫁さんも泣いた。晩御飯の時間過ぎても泣き続けた。 涙は心の浄化作用があるらしい、ということは涼平の夏でも書いたが本当だ。その後、すっきりしたのか浩平が明るくなった。同じように保健室に行くのでも、それを楽しむかのように元気に出かけた。
2004.08.30
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アテネではたくさんのメダルをとっていて、つい寝不足になりがちの毎日です。日記も休みがちになっていますが・・・ さて、浩平の夏。 教室に入ると息が苦しくなり、保健室にて休むことが多くなっていた。また、朝起きると腹痛を訴えて、学校に行くもすぐに早退するという日が続くようになった。そのうち、腹痛がひどくなり学校を休むようになった。 腹痛がどこからくるのか、たぶん精神的なものだろうと思っていたが、以前ギョウチュウがいて、無気力になっていたことがあったので、もしかしてということもあり、近くの病院で診てもらった。医師は検便からは卵は出ていないので、寄生虫ではないと言った。だが、その後細長いものが出てきたので、持っていったところ、医師は不在で預けて帰った。後日聞いてみたが、それは見ていないとのことだった。何かでたらすぐに持ってくるように、と言っていたのに・・・ 医師の態度には腹がたった。 毎朝、本人が学校に欠席届を連絡するのもつらいだろうと思い、精神科の医師に診断書を書いてもらおうと、連れて行った。 S医師は、浩平にこれまでのことを訊くとカウンセリングを受けなさいと言い、不登校についてぼくにどう思っているか尋ねた。 ぼくは、人生にはいろんなことがあるし、このことはその一つだと思う。極端な話、学校はどうでもいいと思っている。しかし、本人の元気が出ないのがつらい。と答えた。そして、神経性胃炎とか何とかいう理由で、1週間の診断書を出してもらった。 休みがちになったので、担任のT先生が心配して家まで来てくれた。これまでの経緯を話し、医師の治療や診断の結果待ちということになった。 しかし、状態はよくならなかった。休んだり早退して帰ってきた浩平は無気力で、食事もあまり摂らなかった。我が家は共稼ぎのため、帰り先は嫁さんの実家である。そこには爺さんと義妹がいて、親身になって世話をしてくれていた。 いつも彼女がそこに立ち寄り一緒に帰ってくるのだったが、ある日帰りがいつもより遅くなった。
2004.08.28
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これまで何事もなかった我が家が、涼平の網膜はく離と不登校で騒然となった。これまで、長男の一平が高校のとき喫煙で謹慎処分を受けたくらいが関の山だった。 浩平にインタビュー「そうですね、クラスに入ろうとすると急に吐き気がしてどうしても入れないんですよ。」 そして、急激に食欲が落ちて、少し食べてもすぐに満腹となりゲップが出る。最初のうちは朝のうちクラスに入っていたが、たまらなくなり保健室に駆け込むことが多かった。 学級担任のT先生がいい先生で、浩平のことを考えてくれていた。浩平自身は推薦でT大学に行こうと考えていた。それをバックアップするように、推薦合格の可能性が高くなるよう学校生活ではいろんな役をさせようとしてくれた。3年生では体育大会で団長をやらないか、と言ってくれた。本人もその気でいたはずだった。 ここで、ちょっとT先生の紹介。先生は東京生まれの東京育ち。高校時代テニスに夢中で、プロの選手を目指していた。2年生になって自分の実力の限界を知って、その道をあきらめた。そのときテストの成績がこのままでは進級できない状態であると担任の先生から言われたという。そこで、一念発起。一日8時間勉強に没頭した。その結果、全国統一模擬試験の世界史で一番になった。その後、先生になる道を歩いてきた、そんな経歴の人だった。 浩平が高1のときからの担任で、参観日など行こうとも思わなかったぼくが、たまたま行って学級懇談で先生の話を聞いた。生活指導の係をしていたが、生徒を管理するというより、どこかで生徒の息抜きを作ってやりたいという配慮が感じられて『高校にもこんな先生がいたのか』と感激して帰ってきた。家庭訪問のとき一番最後にしてもらって、一緒に酒を飲んだ。
2004.08.25
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浩平は高校3年生。新学期が始まり、周りが受験モードとなると、変化がおきた。教室に入ろうとすると胸が苦しくなって、とうとう入れなくなってしまった。 2年生まではこんな楽しい学校はない、と元気に登校していた。我が家の息子3人衆は、親がさせなかったせいもあるが、勉強が嫌いで皆学習机を持っていない。欲しいと言わなかったこともあるが、こちらも買ってやるつもりもなかった。 勉強は腹ばいになってやったり、仰向けになってやったりで子どもたちは不自由していないかのように見えた。 浩平は、その中では付き合う友達のせいもあり、少しづつ勉強し始めて成績もそれなりに上がってきていた。2年の学期末テストでは英語で100点満点をとって、親をびっくりさせた。3年生のクラス編成では、国立大学進学クラスに組み込まれた。 部活はサッカーをしていた。新学期が始まり新しく就任した顧問の先生の指導が気に入って、またレギュラーをとれるまでになっていたのだが、練習を休みがちになった。
2004.08.24
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徳村 彰さんの本「子どもが主人公」に出会ったのは今から15年前だった。この本を読んだとき衝撃を受けた。子どもの可能性は無限にあることを知った。それ以来、子どもだからといって大人がすべて面倒みることもない、自分で十分やっていけるということを知った。 入社式まで親がついていたりするような変な世の中になってしまっている。これでは子どもは親のアクセサリーでしかなくいつまでたっても独立できない。親の役割は早く子どもをひとり立ちさせることにあるというのに。 徳村さんの最近の本「モリ(森という漢字の左下の木という文字を水、右下の木を土という字に変えている)に生きる」というのを読んだ。そのとき人間が生きていくとはどういうことか、その正しいあり方とは基準がない、であればどんな生き方をしてもいいではないかということを知らされた。 本当の豊かさとは何だろう。お金をたくさん稼いで物に囲まれて生きることなのだろうか、徳村さんはモリにその答えを教えてもらっていた。人間が生きる原点、もうそろそろみんなが考えアメリカナイズされた生活から脱出しなければ人間の未来はない、素直にそう思った。
2004.08.13
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8月8日は九州大会だった。2位までに入れば千葉県である全国大会に出場できるという期待をもって臨んだ。 一回戦は地元の大王谷中学校であった。県大会ではやっとのことで競り勝っており、危うい試合になるだろうという大方の見方であった。これに勝てばいいところまでいくとほとんどの選手が思っていた。しかし結果は、4-1で力でねじ伏せたという感じであった。 このぶんならいける、誰もがそんな気持になった。そして、2回戦。相手は熊本の八代第二中学校。4回まで4-1でリードしていたが、相手打線が爆発して、3ラン本塁打が飛び出して同点となった。そのあと3点入れられて7―4で最終回を迎えた。2アウト1、2塁で涼平の打席になった。涼平は力がなくほとんど打ててない。でもそれまでの打席ではデッドボール2個、3塁強襲のヒット(と彼の前では言っておいたが、3塁手のエラーかも知れなかった)と出塁率は10割であった。『アアこれで終わりか』とため息が出る。監督の方を向いてサインを確認する涼平の表情はいつものようにニコッと笑っていた。 この笑顔でフォアボールをもぎとりフルベース。次は期待がもてるキャプテンの康隆。これもフォアボールで押し出しで7-5。次は前回タイムリーを放っている貴彦。これがセカンドゴロでゲーム終了。敗れはしたがいいゲームであった。涼平にとって中学時代にこれ以上の思い出に残る試合は他になかったと思う。しばらく運動をすることをあきらめていただけに、神様のプレゼントのように思え、感謝で一杯だった。 翌日、S眼科医に目を見てもらった。その結果、もう何処にも異常は見当たらず、目薬の必要もなく何の制限もない、と言われた。 まだ強烈な夏の太陽は天空に居座っていたが、時折秋の便りを運んでくる涼しい風とともに、涼平の夏は終わりを告げた。
2004.08.11
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6月19日に退院して7月24、25日の県大会までの約1ケ月は、涼平にとってとても楽しいものになった。小学校4年生のときから始めたソフトボールであり、そのチームメートが全員一緒だった。彼らの助っ人として他の小学校から2名加入していた。この二人がバッテリーを組みチームの大黒柱として引っ張ってくれた。 それを取り巻く保護者たちが大喜びであった。小学校時代から、もともと強いチームではなかったが、少しでもいい成績を上げたときには、保護者会長である我が家に親子全員集まり、祝杯を上げていた。そのつながりがいまだに残っていて「忘れんぼ(忘れないようにしよう)会」なるものを結成し、事あるごとに集まっては飲んでいた。 その1ヶ月の間、練習試合を何度かやってきたが、ほとんど負けなかった。『もしかして、いけるかも』という期待が十分に持てた。そして24日の県大会を迎えた。 1回戦を新富町木脇中学校に3-1で勝ち上がると、2回戦宮崎西中を10-0のコールドで勝ち進み、25日の準決勝では5-4で日向市大王谷中に競り勝ってとうとう決勝に駒を進めた。そして、3-1で佐土原町久峰中に勝ってしまった。 選手も親も野球ではすでにシーズンは終わったものとあきらめていたから、その喜びは並々ならぬものがあった。すぐに優勝祝勝会の準備をしなければならなかった。近くの公民館に保護者が集まり、買出し班と焼肉をするため炭火を起こす班の二手に分かれた。学校長も教頭も駆けつけてくれた。その夜はいつどのようにして家に帰ったか覚えていない。
2004.08.10
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紹介されたS医師は眼のことは知り尽くしているという雰囲気をもっていた。治療の履歴を見て、目を診察してくれた。「手術はうまくいっています。医大の先生が心配していると思いますので、私のほうから報告しておきます。このまま様子をみましょう。」「息子は野球をしているのですが、運動は控えていたほうがいいでしょうか?」「いいえ、どんどんやってかまいません」 これまで親子ともども暗い心をひきずっていたのだったが、目の前に光が差し込み希望が湧いてきた。 野球の中体連は息子の手術の前日に終わっていた。結果はコールドで負けた。そのあと、ソフトボールの九州大会が宮崎県でそれも日向市であることになっていて、その出場枠が拡大されて出場できるということになった。そのため、急遽野球からソフトに切り替えてエントリーしようという動きがあった。野球では1回戦で敗れて煮え切らない思いをしている子どもたちは全員一致でそれに向けて練習を開始した。涼平も帰ってくるなりそれに加わった。
2004.08.08
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退院させるかの判断が結構迷った。後手になりながらも、一生懸命に治療に専念してくれる医師と、帰るのを楽しみにしている涼平と、抗生剤治療の恐さ、今後の治療はどこにお願いしたらよいのか等々そんなことが心の中で交錯していた。 そこですべてをある人の判断に任せることにした。数年前に出会った気功のM先生。先生は60歳はとうに超えている素敵な女性で、以前交差点で信号待ちしていたとき、追突されてムチ打ちになってお世話になったことがあった。嫁さんの体調が悪いときでも、治してもらっている。体の気が滞っているのを解消するのだが、その原因まで分かってしまう。病気をなおす事では、今一番信頼をしている。 涼平の網膜はく離がわかった時点で、相談していたが手術と平行して気功をやりましょう、と言ってくれていた。 さっそく電話すると、退院させて来なさいと予約のお客さんの治療がすべて終わった後に時間を割いてくれた。もう体力的に治療の限界に来ていたが丁寧に看てくれた。これはばい菌ではない、ばい菌だったらリンパが腫れているはずだと言った。 われわれが治療室に着いたとき、常連のお客さんがいて、眼科医を紹介してくれたのも幸運だった。長い間県病院に勤めていて開業した人で、県病院の看護婦さんの間でも評判の先生だったという。 目の具合も落ち着き、安心して帰途についた。
2004.08.07
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目はどうであれ、病院生活に飽きている涼平にとって、退院することはとにかく嬉しいことであった。病院に着いたときは、すっかり片付けを済まして、帰る準備を整えていた。周りの患者さんや看護婦さんから退院に対するお祝いの言葉をかけてもらっていた。 主治医のところに行って説明を聞く。嫁さんから感情的にならないように言われて部屋に入った。 一通りの説明が終わった。内容は電話での説明の内容と同じであった。そのあと、 「涼平君をあと2,3日入院させたい。手術したほうの目に気になるところがある。ばい菌かもしれないので抗生物質をドッと投入してやっつけてしまいたい」「先生、それはいつ分ったのですか、本人は退院すると言って大喜びしています。それにここまで来るのに2時間かかるんです」 それは、朝のうちにはわかっていたことだと知った。ばい菌が入っているかどうかわからないまま、大量の抗生物質を投入されることがどういうことなのか、考えただけで恐ろしくなった。 涼平にそのことを伝え、彼に退院するかどうか判断させることにした。すると、すべてこちらに任せると言ったので、すぐに退院させることにした。そして医師にこれまでの経過を文書に書いてほしい、とお願いした。他の病院にかわるのかと訊くので、そういうことを含めて考える、と応えた。 医師は涼平のことを心から心配して、家での注意事項と、異常が会ったらいつでも電話をするように言って、薬を出してくれた。真面目で誠意ある医師なので好感がもてたが、これまでのことを考えると病院をかわりたかった。
2004.08.06
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手術後は順調にみえた。ところが、1週間ほど経って彼から電話があった。包帯を取ったが、手術した目がぼーっとしてよく見えないとがっかりしている。 手術前の説明では、視力はもとにもどるだろうということだった。また心配の種が増えた。そして、翌日また電話。明日退院させられると。医師からこれ以上の回復の可能性がないと判断されたのかも知れない、と勝手に考えた。それにしても当初とだいぶ話が食い違う。手術後2週間から20日の入院だと聞いていたのだから。 翌日、担当医に電話した。何も説明のないまま退院させること、視力が極端に低下しているというのに、それとこれまで親と連絡を取り合いながら話を進めていたのに、こんな重大なことを子どもの口から言わせるなんて不安でたまらない、と言った。 医師の説明「手術は当初の計画から変更した。眼球全体をバンドで巻いたため眼球がひずんだため焦点距離が変わり視力が低下した。本人に言わせたのは、しっかりしているから」 それに対して「先生は予定通り手術は終わったと言った。バンドで巻くという説明は何も聞いていない。説明があって当然だと思う」「・・・・」「明日は都合が悪いから、退院は明後日にしてほしい」「分かりました」 また心配が増えた。胃が痛んだ。彼の視力はもうもとに戻らないのでは・・・
2004.08.05
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手術の5日前に入院した涼平の退屈が始まった。楽しみは三度の食事と近くの公衆電話。 夜は、野球部のチームメイトに中体連で頑張るよう激励の電話をかけまくった。彼らが学校にいっている間は、嫁さんの妹のミッちゃんが相手になってくれた。500円のテレフォンカードが20枚ほどすぐになくなった。 病室には3人の入院患者がいて、ちょうどいいことに20歳になったばかりの若者が相手をしてくれた。涼平が得た情報では、彼はもう結婚しており、脳神経の手術を受けることになっていた。だが、彼はまだ独身で、時々恋人が見舞いに来てくれていた。何を聞いているのやら、いろんな人とコミュニケーションを図っている割には、彼の情報は不確かなものが多かった。 いよいよ手術の日になった。恐かったと思う。もう腹を決め、手術室に向かう彼のいのちが愛しかった。早く無事に終わるよう祈った。 午後1時過ぎに手術は始まったが、それは5時前までかかった。かかりすぎだと思ったが、医師が「予定通りの手術は終わりました。出血もありません」と言ってくれたのでお礼を言った。 彼は右目に包帯が巻かれていた。麻酔からやっと覚めて、こちらから呼びかける声にうつろに返事を返した。
2004.08.04
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東からやってきた台風10号が去って、こちらには慈雨をもたらしてくれた。今雨が上がって涼しい風が吹いていて、秋が近いことを知らせているみたいだ。 さて、病院でのこと。 眼科は盛況で、涼平のベッドは同じ棟にある脳神経科のあきを利用したものだった。同室には草刈作業中に金属片が眼球を直撃したため負傷して、それを摘出する手術をした中年の男性がいた。その人の知り合いの同じような怪我をした男の人が来ていて、世間話をしていた。 二人の話を聞いていると、恐くなるような手術だった。涼平が受ける手術が簡単なものに感じられるのだった。 涼平の手術についての医師の説明は、剥離している部分を眼球の外側からシリコンを入れて圧迫し、治療するというものだった。 眼球を取り出してするのか、そのままの状態でできるのだろうか尋ねるのも恐かったので、こちらとしては、相手に任せる以外に方法がなく承諾書に押印して提出した。 これまで出会った医師は、いつも最悪の場合しか言わなかった。そのため聞くほうをを不安にさせた。今回もかなり脅されたが、執刀する医師が涼平に、「最悪のことを言っているので、心配しないで」と言ってくれて嬉しかった。
2004.08.03
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涼平が所属する野球チームは、市内では弱いほうであまり勝ち星には恵まれなかった。それでも最後となる中体連で優勝するために連日練習を重ねていた。 ところが彼は5月末に目を負傷してしまった。休み時間にサッカーをしていて、自分が蹴ったボールが相手に跳ね返りそれが目を直撃したのだった。 傷みもたいしたことはないため、そのまま部活に汗を流した。保健室の先生の勧めもあり、市内の眼科でみてもらった。すると眼底出血しているということだった。 明日になれば治っているだろう、と気にもとめなかったが、翌日の医師の診断は網膜はく離を起こしているということだった。そして、入院治療する必要があり、大学付属病院の紹介状をもらって帰って来た。 もう中体連どころではなかった。嫁さんが涙声でその報告をする。彼は2階の自分の部屋に引きこもって泣いた。かける言葉がなかった。 涙は心の浄化作用があるらしい。しばらく経って、治療に専念しようという気持がかたまったのか、降りてきた。タイミング良く担任の先生が心配して電話を掛けてくれた。先生は何でもポジティブに考えろと励ましてくれた。彼は遅くなった夕ご飯をもりもり食べ始めた。暗かった部屋が明るくなった。
2004.08.02
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笙の演奏家である藤井絵里さんから、7月25日に出版したという「大分の古民家スタイル」(おおいたインフォメーションハウス)が届いた。 古民家を使ったカフェやギャラリーを紹介している本である。取材から撮影まで彼女の手によるものだ。 あまり旅行などしないほうだが、古民家を利用した店にはひかれるものがあって、出かけたときはよく立ち寄っている。新しいモダンな店よりも落ち着くので長くいたいと思う。また、そこを経営する人のポリシーが色濃く出ているところが多いので、そこがまた楽しい。 機会があればそんな店をやってみたいと思っていたので嬉しいプレゼントであった。
2004.08.01
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