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「呪い」や「言霊」など、古くから「想い」の伝わりは感じられているようですね。 今では「クチコミ」や「プラシーボ効果」と称されるモノ、そして「気」の世界観で遣われる「遠隔治療」にも通じるものを感じます。人は、伝達された『想い』に影響を受けて、無意識に自分自身の状況を変えているように感じています。特に形にしなくとも「想い」は伝わると感じますが、「言葉」や「文字」にすると、更に容易になりますね。 まして、似た世界観に生きる(ある程度信頼関係にある)人間間ではなおさらでしょう。 (時には似た世界観を持った人ほど距離を感じる事がありますがね)ただ、「言葉」や「文字」では、正確な「想い」(本音も含め)が伝わらないことも多く、その「状況の変化」には、「想い」を発する側よりも、むしろ受ける側に強く要因を感じます。 例えば、信仰の篤い「信じる」に慣れる環境に生まれ、「儀式」や「夢」などの不思議な資質を持つモノからイメージを得て、「言葉」や「文字」に残して「想い」を強め、周りに伝えているような人が居たとします。そういった「想い」をきっかけに周囲に「想い」が広がり、複数の意識が高まることによって「想い通り」(予言的)な様々な現象を引き起こすと感じます。 時には、そういった「想い」を利用しようとする企てにより、現実の出来事になったりすると感じますが、それも含めて「想い通り」(予言的)な様々な現象が成り立っているように感じています。また、心変わりの少ない「極近未来的想い」(犯罪計画等)などの意識に繋がったりして、後にその想いが実行され、ここでも予言的な現象が成り立っているように感じています。 ただ、「想い」が広がり過ぎると、今度は「まさか」という逆方向の「想い」が発生し広まる機会も増え、元の「想い」を打ち消してしまうことも感じています。始めは、ある程度狭くて深い伝達にこそ、その「想い」実現の力も感じます。逆に言えば、悪いことを避けたいときは、むしろ口に出して広く周知させてしまうことも1つの手段のように感じます。 ただ、大きな汚名を背負うリスクを感じますので、そうとうの勇気を必要とするように感じますが・・・。そして普段「勘がよい」人も、口に出したとたんハズれがちになったりしませんか?また自分自身を見つめ、それを「文字」や「言葉」に表し、回りに知らしめる作業が、色々自分のプライドに働きかける作用があることも感じています。 プライドの高さを逆手にとる方法と感じていますが、特にプライドの高い方にはお勧めです。(笑)(07.10.3著)・・・・・・・・・・ 「寝る子は育つ」 成長ホルモンは寝ている時に活発に分泌されるとか言いますか?私も背は高くはなく、確かに成長期には夜更かしをしていて他の人よりも大分睡眠時間は少ないと感じますね。食物のせいですかね?確かに牛乳も好んでは飲みませんでしたね。「遺伝」ですかね?確かに私の両親は背は低い方ですね。でも全ての人がそのいずれの「理屈」に当てはまるとも限らず・・・ 特に昔の子役で売れた俳優さんなど成人になっても背が低かったり、何処か子供の頃の面影が強く残っている人も少なくないように感じます。子供の頃チヤホヤされて気持良かった「想い」をいつまでも引き摺っているような・・・。私の小さい頃はメディアも発達していなくて、身近にいる背の低い両親に強い「憧れ・関心」を少なからず持っていたことでしょう。 そういった「想い」にも、体型や顔立ちの変化や才能の継承(遺伝)の要因を感じますけどね。「ホルモン」・「遺伝子」・「食物」などの物質的要因も、今の主世界観である科学の信頼とプライドによる研究者の『信念(想い)』の強さによって後付け的に生み出(物質化)されたモノのようにも感じますけどね。この私の感覚も科学的根拠が無いからダメですね?(笑) 科学も多くの例外や矛盾を抱えている訳で、科学的根拠が正しいと言い切れる根拠は何処にあるのですかね?また更にその根拠の根拠は・・・きりが無いですね。屁理屈・愚痴にもなりそうですが、そんな「無限」的な摂理(本質?)が科学的根拠の不信にも繋がり、個人的には私の世界観も含め1例でも例外・矛盾が生まれる世界観に本質は当てにくいですかね。 まあ背が低いおかげで女物の服も着られたりして楽しんでいますけどね。男物って地味だったり、似たり寄ったりでつまらないんですよね。逆に背の低さをコンプレックスに感じていることを、自分自身に誤魔化す「理屈」が少なからずあるのかも知れませんけどね。ただ確かに自分に女性(子供的中性かな?)を強く感じることはありますね。 今では「オネエ系」と呼ばれる人達もだいぶ認知もされてきているようですね。科学でも男性は元は女性の体から変化したとも聞きますし、「男性的・女性的」な気質は「先天的」というよりも、ここでも環境による「憧れ・関心」等の『想い』の後付的なモノの影響を強く感じますけどね。「ワガママ」気質もちょっと強めに・・・(09.10.29著)・・・・・・・・・・ 2012年人類滅亡!? 十数年前にもそんな騒ぎがありましたね。その当時は、それを肯定する「自己主張」の強い人達が沢山現れ、広まり、その強い「自己主張」に対する「嫌悪」などから逆方向の「想い」(まさか)が発生し、またそれが広まり、強まっていった事で危機(元の想い)を回避できた・・・なんてね。だとすれば、当時の肯定派の人達は人類を救った英雄ですね。(笑) ただ今回は科学者達が騒ぎの根源でもあるようですね。 今の主世界観である科学によって言われたり、またアメリカの経済もその年に破滅するとかいう論文が発表されたり、そしてまたマヤ文明の予言など非科学(神秘)的?な所でも・・・いろんな分野で合致するモノが出て一度に騒がれてしまうと、そこに多くの人間の「想い・関心」も集り、強まり易くなり、そういった方向に進み易いと感じますね。 「洪水」の映画がヒットした年に、実際に洪水で大きな被害が出たり、当り年になったように感じたりしませんか。また大きな地震があった後のメモリアルな日・・・例えば一ヶ月や一周年などの近辺に地震が多く発生したり感じませんかね。そういった日やメディア(伝達)の力によって人々の関心が高まり、まるで実際の現象を呼び込んでいるように感じてしまいます。 時に人類の危機を警告する「予言者」の英雄的行為も、逆に不幸を呼び込む原因になりかねないとも感じます。ただ太陽の活動に1つの要因があるらしいですが、日本の科学者の一部では、「逆にその年は穏やかな活動になる」や、「活動が活発になるお陰で逆に放射線が相殺されて・・・」とか言われたり・・・もうちょっとまとめてから公表して欲しいものですね。 まあある意味こういったネガティブなことはワクワクもしますけどね。前回みたいに怪しい肯定派の専門家達が出てくれば、また「まさか」などの逆方向の想いも強まり、最悪な事態も避けられると感じますがね?そうとう体裁は悪いと感じますが、誰かその役もかってでてくれませんかね?(笑)(09.12.4著)・・・・・・・・・・ 「まったく、お父さんはダメね~」 よく母親が子供に向かって口にする言葉ですかね。その逆も含め、その言葉によって親の尊厳も失墜していくことも少なくないでしょうね。私が子供の頃は、まだ大人たちのやっていることに対して、「凄いな~」・「自分もああ成れるかな?」的に尊敬も在りましたが、30歳も過ぎる頃には、そう思える人生の先輩達もほとんど居なくなりましたね。 私などは社会に出るようになって、世間で評価されている人達などと一緒に仕事をしているうちに、そういった人達の中に限ってあるあまり評価できない人間性(ワガママ)の強さなどに触れ、「所詮全てはヒトのやること」的に幻滅も感じるようになってしまいましたが、今は子供のうちに既にそのように感じてしまっている子も少なくないのではないですかね。 マスメディアも私の頃から比べて格段に発達しましたし、その結果、有名人達の私生活や、国のトップである人達の失態まで毎日のように見聞きしていればそれも無理ないと感じますがね。また私には最近の小学生の言動はマセて見えますが、そこから親の姿も容易に想像出来たりして、子供と言うよりも兄弟姉妹・友達のように育てられていたりするのでしょうかね。 また子供が世間で評価されるようになるには、本人の先天的な才能よりもむしろ子供の将来像に対する親(好きな大人達)の『執着心』の方が大切だと感じますかね。また逆に親が子供に対して『無関心』も、子供が親の気を惹くために頑張ったりして大きな要因になるようにも感じますが、いずれも子供を潰してしまうリスクも同時に少なからず感じますがね。 そして世の中には適度に無知であった方が幸せだったり、信頼(尊敬)できたりすることが少なくないように感じますかね。また例えそれが個人的な感覚での「悟り」であっても、それによって尊敬できる存在を感じられなくなってしまうと、全てを自分で見出さなければならなくなったりして、生きることを辛く、詰まらなく感じてしまったり・・・ また「隔世遺伝」という言葉を聞きますね。高い才能を持つものが両親であったりすると、その身近さゆえに子供のプレッシャーも大きいと感じますね。常にその両親の目を意識しながら生きていかなければならなくなり、人によっては萎縮してしまって才能を伸ばせなくなり・・・一世代空くくらいの距離があったほうが良いような気がしますかね?(10.6.26著)姉妹日記「文字」・「言葉」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2007.10.28

大抵の人の中に、複数の「意識?」を感じます。 「多重人格」という言葉も聞きますが、それとは異なるかもしれませんが、多くの人は、複数の「意識?」を同時に出していつも葛藤しながら生きているように感じます。ただ、その複数の「意識?」が、外から入ってきた直接の「他意識」と感じられる訳でもないんです。 確かに、外からの「想い」に影響は受けている様なのですが・・・自分の存在(プライド)を守るための「矛盾」とでも言いますか・・・。また、その時々に複数の意識を「無意識」に遣い分けて、すぐに答えを出しながら生きている人もいる様です。裏表の無さから一見1つの意識のように見えますが、場合によって自然に別人格的な移行を感じられる人がいます。 「天真爛漫」・「純粋」とか「無邪気」と表現すればよいでしょうか?この人の周りにはいつも人が集まっています。正直で裏表の無さに、また良い意味での「鈍感」を感じられ、そこに安心を求める少し悪い意味での「敏感」な(ズルい)人も多い様ですね。そしてまたこの人達からは「自分がよく解らない」という発言を耳にします。 また、この感覚の人は、自分に正直で、合理的な考え・正論により、他人に「逃げ道」を残しておいてくれなかったりします。そんなところに付き合い辛さを感じたりする事もありますね。そして、「嫉妬」を受けやすいと思われる気質なのに、それに「鈍感」だったり、そうかと思えば、一転して、驚くほど他人の「想い」に同調したりするんです。 マジックのスプーン曲げを見て、子供達が本当にスプーンを曲げてしまう例もあるようですし、受け手次第で、本来そう言った「想い」の選択がなされ、影響されない事もあるようです。 ズルい人にこそ「気遣い」の素質を感じていますし、どちらも大切な気質であると感じます。そして、全ての人の根底に「無邪気」を感じられます。 「欲求」(本能)に正直であると「嫉妬」等の外からの攻撃の対象になり易いように感じます。その攻撃に対して自己防衛のためにも「理性」が存在するように感じます。いわば、この「理性」も「本能」に対しての1つの「別人格」(他意識)的なモノのように感じます。 また「無意識」は、「理屈」(理性)という欲求に制限を伴うモノを取り除き、通常よりも大きな力を出したり、他人や自分から「責任」を外し、自・他のプライドを保ちながら抑えている「ワガママ」を通す名分を築いてくれる大切な役割を感じています。ここにも「本能」(欲求)が創り出した1つの「別人格」(他意識)的なモノを感じています。 (07.7.24著)・・・・・・・・・・ 「ミッシング・ツインズ」(・・・だったかな?今ひとつ記憶があやふやですが)って知っています? 母親のお腹にある時は、検査により確かに双子であったにも関らず、いざ生まれて来てみると二人目の痕跡も無く(吸収されるように)一人であった・・・確かこんな実例だったと記憶しています。1例や2例のことではないようですね。なにか多重人格の根拠的な解釈も当時あったように記憶しています。個人的には多重人格の実体化が双子のようにも感じますがね。 また、双子も不思議なようですね。生まれて直ぐに別々に生活をおくると、多くの似通った事象が顕れるようなことも聞きますね。また、右利き・左利きなど、癖などが対象で顕れたり、お互いがそれぞれを無意識に意識して(変ですか?)、特に一緒に暮らしていると個性を創り始めるようですね。ある意味生まれ育った環境の大切さを感じますね。 「一緒に暮らしていると」・・・そういえば確かに私の中にも、違ったことを考えて私の判断を鈍らせる何人かの同居人が居るようです。またTVに嫌いな芸能人が両親との感動話をしていて、気持では「偽善なくせに!」とか思っているのに顔は微笑んでいましてね・・・一人で見ていたので愛想笑いもいらないはずなのに・・・やっぱり誰か居る。(笑)(08.8.11著)・・・・・・・・・・ いろを博士は少女に催眠術をかけました。 向こうから走ってくる赤い車はあなたのペットの犬ですよ。 少女はその車に向かって走り出し、轢かれてしまいました。 博士は苦しみながら息絶える少女を看取りました。 ところが少女の意識ではペットの犬と幸せに過ごす人生が続いています。 催眠術をきっかけに二人の意識が分かれて進み始めてしまったとさ。 この物語はフィクションで・・・死んだらどうなってしまうんですかね? 先日韓国で脳死判定された人が数年経ってから意識を戻したようですが、その人も含め臨死体験をした人が、よく意識だけあってその間の出来事を客観的に眺めているような発言を聞きますね。また三途の川や花畑を見たとかいいますが、結果的に皆戻って来た人達の言葉ですし、全て医学的定義による死であり、それが本当の死後の世界を経験してきた事になるの? 死んだ後は科学等においても常識とされている「無」になることを強く望んでいますが、物質(科学)的世界観に偏って感じようとしてもいまひとつ「無」になるという感覚がピンとこないといいますか・・・「無の空間」があったとして・・・「空間」が存在する時点で「無」が成り立つのか・・・成り立たなければどうやって科学で「無」を証明できるのか・・・ 「死」をきっかけに、人それぞれどんな存在に変化するかは解りませんが、強い「想い」の元に様々な未来が永遠に続く方がまだしっくりくるような・・・多くの人は前世の記憶を持ち合わせていないと感じますが、逆に生まれてからの記憶でさえどれほど持ち合わせていますかね・・・ただ催眠術などによって見た記憶が本当の過去の記憶であるのか・・・ 時に人は自分にも嘘を付くと感じますし、「輪廻転生」とか「自分のやりたい人生を選んで生まれてくる(修業)」とかいう世界観にも強く違和感や矛盾もあり、これもまたピンと来ないですし・・・偉そうな世界観への嫌悪かも知れませんがね。 前記した物語の場合、AさんにはAさんの私がいて、BさんにはBさんの私がいて・・・私と関る人数だけ私がいる・・・あくまでも自分が主役で、自分以外は全て虚像って事にもなりますかね?個々が見る(感じる)世界は全て自分で創りだしていているとすると、他の意識(想い)との関り(存在)すら偽りに・・・皆さんはホントに存在しているのですか?(笑) 死をきっかけにして関りを切った・・・結局「無」でも「無限」でもややこしくなりそうで す。どんな世界観であれ、世界観を構築した時点で全て矛盾を生み、ピンと来なくなってしまいますかね?強く信頼(想い)を置く世界観に移行する?死ねば解りますかね?でも「無」だったら解りませんよね?生きているからこそ考える事にも意味があるって事ですかね。(笑) 私も出来れば死にたくないですが、「この世に未練があるから」という訳でもないんですよね。個人的には自分のこれまでの人生に特になにも感じませんし、例えば他人の羨むような人生を送れる来世があったとしても、私のようにそれを羨むような存在のいる今の様な世界ではそれも・・・単に死ぬ時に伴うと思われる「痛み・苦しみ」に対する恐怖からですかね。 新たに人生が始まってしまうかも知れないことに、より強い恐怖がありますかね。ホント私はネガティブで・・・。 TVで「リストカット」は生きる為の行為と専門家がいっていました。その真偽はともかく、今の私は特に興味を持てるモノが無く、時にネガティブに世の中を深く生きているような満足的感覚も得られたりしますので、少なくとも私にとってはネガティブな世界観の構築が生きる為の行為にもなっているようです。「無」を強く想えば叶うかな?(笑)(09.12.22著)・・・・・・・・・・ 「あの占い師は深層心理を当てるのよ!」 「当てられた」と自覚がある「心理」と言うことになりますかね?そうなるとちょっと私には違和感がありますかね。個人的には多くのヒトは、わざわざ「深層」に自覚のあるモノは置かないと感じていますのでね。そこに置くのは時に体裁も悪かったりする「したい・欲しい」等の広い意味で「気持ちよい」(満足)を求める単純な欲求であるように感じていますのでね。 その欲求を果たすために割と体裁の良い材料を寄せ集めて、無意識に見つかりやすいように割と浅いところに隠して置くモノが「当てられた」と自覚がある「心理」のように感じますね。ヒトは欲求を満たすためには、時に自分にも嘘をつくと感じますかね。前に使った「無意識」と呼ばれるモノなどが、「深層心理」と呼ばれるモノの一つだったりするように感じますかね。 むしろ言われた時にピンとこなかったり、腹が立ってしまった事の方が深層を突いてきた言葉であることが多いように感じますかね。「無意識」(自覚が無い)にする事で体裁を整えたり、時には嫌なことを避けるなど、広い意味での自己防衛などにもなっているように感じますかね。このような複数の人格(無意識も含め)形成的な能力をヒトには感じますかね。(11.8.13著)姉妹日記「意識-1」・「意識-2」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2007.10.12

ここで「病」と「想い」について以前から感じていたことに、少しだけ触れておきたいと思います。(「想い」という一方からみて「病」から感じる1つの私の感覚です。全てに当てはめてしまえることでは無いと考えておりますので理解ください) 特に女性の会話に「話す人」の数が、「聞く人」の数を上回る不思議な現象を見ます。同時に話しているので誰の話を聞いたら良いのか困ってしまいます。人が話したい時、必ずしも「答え」や「意見」を求めているとは限らない様です。 最近特に自分を押し殺さなければならない場面も増えている様で、主張する場があれば、皆が「自分の辛さ」を競うようになり、他人を感じる余裕が無くなっている様です。協力者の居ない子育てや、女性が外で働く事も増え、家庭でも「辛さ」を競う様になり、唯一の理解者を失っている感覚がある様です。 全ての意味で「無限」を本質と感じる中で、個々(プライド)がその存在を表現し、時にはそれを守るために個々の理屈(言い訳)で制限を付けて「世界観」を創り上げていると感じます。そのある程度似通った「世界観」の集まりの1つが「気」だと感じています。 個々の「世界観」の差からなかなかお互いの真の「想い」が伝わらない事も多い様に感じます。幼い頃から植え付けられたルールに沿って発生する事も多いと思いますが、その伝わらないもどかしさが「病」に入るきっかけになり、「病気」へと進み、無意識に身体が主張を始める様な事も多いと感じます。 また、人間関係から来る自分の奥底のプライドとの闘いにも「病」に入るきっかけを感じます。母親のプライドを他世界観から守る様に子供が自ら病気を背負ったり、他人を、「嫉妬」などの攻撃や自分のわがままで傷つけてしまった事に対しての「自責」の念から、病を自ら背負ったりする様な事が患者さんから感じられる例もあります。 自分を愛せない人は他人を愛せないと言いますが、他人を愛せない自分を愛する事も難しいと自責の念にかられている人も多いようです。 私も生きる事がつまらなく感じたり、他人の生き方を羨んだり、未だに自暴自棄になります。ただ私に限っては、そんな時こそ心の何処かで自分に酔っているような感覚があります。また、自分の「欲求」を抑えて他人を優先するのも、つまりは他人に良く見られたい「欲求」が勝るといった、結局のところ「欲求」を満たす行為に違わないと感じています。 結局私は「自分」(家族や仕事など自分のプライドを置けるモノを含め)がいつも1番と感じています。ですから心から自分を愛せないと言える人には「負い目」さえ感じますね。これも自分を愛せないってことで良いですかね?今も少し自分に酔っているようですが。(07.7.26著)・・・・・・・・・・ 私の「気の世界観」においては、もともと全てのモノが固有の「気」を持ち、それを変化する事でそれぞれの状態を主張出来ていると感じています。その状態の1つが「病気」と感じます。 自分の頑張りを認めてもらいたい、嫌な事からの逃避、弱音や甘え等、負イメージの自己主張を自・他にプライドを保ちながら無意識で行うのも「病気」の1つの形と感じます。そして痛みなどの症状を創り出すのもある意味「気」の力の1つと感じています。 私も経験ありますが、子供によく、どうしても嫌でそれを避けたい時、本当に頭やお腹が痛くなったり、熱が出たりする話を聞きますね。大人になると、頑張りが認められていない様に感じられたり、弱音を吐きたくても吐けない時、よく無意識に「病気」の形をとって、あたかも自・他にプライドを保つ様にしてそれを表現していたように感じます。 子供、大人に関わらず自分の存在を守り、認めてもらいたい事が多くの場合の根底に感じられます。そして治癒には、認めてもらいたい対象(家族や尊敬する人、時には自分自身等)に、それが伝わった実感にも大きな影響を感じます。そしてまた時に「病気」には、自分の世界観を変えるきっかけや、一度こじれた人間関係を修復する力も感じています。 現存の治療法において、患者さんの心の奥のプライドを守り、満足させるために病気(自己主張)を認め、患者さんの伝えてくる病気の原因を探し当て、病気を治す方向に気持ちを切り替えてあげると言う作業が無意識に行われているように感じます。ただ、病名や原因を探し当てる事も、逆に言えば再び病気になる原因を与えることになるとも感じます。 また、与えられた病気によっては治ろうとする気持ちを押し下げてしまうリスクを感じます。法的に問題もあることでしょうし、前記の事を含め、治療に対して医学とは別アプローチの世界観である事を大切にし(同じで良いなら皆医学を学べば済む事ですからね)、それぞれの特性を強める意味でも気功での診断は避ける必要があると感じています。 また、「気」の治療?において、より効果を上げるには、正直「気功師は特別な存在である」とした考え方の持つ資質がとても大切に感じます。患者さんが気功の世界観にドップリ漬かり(頼り)易くなりますからね。医学の治療においても、医者と患者の間にその様な関係が結べた時、より顕著に変化が現れている様に感じます。 ただ医者や気功師に対する依存の懸念とジレンマを感じてしまいます。 そして、やはり「医学」が病気治療の今の主世界観だと感じます。社会的にも守られていますし(ちょっと嫉妬も感じますが)、そちら(科学的・物質的治療)を主に色々な意味で折り合いを付けながら治療を進める必要があると感じています。医学的治療をやりつくしてから見えられる人に、顕著な変化が見られる事も少なくありません。 そして複数の世界観から認めてもらう事で患者さんは治った事をより強く確信出来ると感じます。昔以上にメンタル(想い)的なアプローチによるサポートを求められているようにも感じます。また、月並みな言葉ですが、『病は気から』と言いますね。そこに本質的なモノと同時に、「責任の基本は自分に置く」ような日本的な厳しさも感じます。 (07.7.27著)・・・・・・・・・・ 「気」の世界観においての「気」の高低(強弱)は、普段から皆行っていると感じます。 例えば、自分を主張する時に「気」は高(強)まり、他人の主張を理解しようとする時は「気」を低(弱)くしていると感じます。そして「治療」と「予防」には異なる気質の遣い分けが必要と感じています。その気質を2つに大別するなら・・・★力を示して気功師側の「世界観」(気)に浸らせて(頼りきらせて)くれる強い気質★患者側の伝えたい「世界観」(気)に逆に浸ってくれる弱い気質 前者は主に、すでに体が主張を始めた「病気」(治療)に、後者は主に、その前の段階の「病」(予防)に必要とされる様に感じています。ただ、前者は、あくまでもその時の症状を取り除くものであり、根本の治癒には後者が不可欠であると感じています。(「病気」や「病」の定義は、自分勝手にやらせて頂いてます) ただ、基本的に「強い気」に対して「強い気」は「嫌悪」(反発)を生んだり、「弱い気」に対して「弱い気」は「不安」を生んだりすることも感じていますし、施術中にもその強弱の変化が感じられるので上記のような「病気」・「病」的大別は乱暴なのかもしれません。いずれにせよ、そういったマニュアル的な対応が問題になることも多いと感じます。 また、私の場合、他人を癒す側にまわらせてもらう事で自分を癒していると感じられる事が多々あります。こんな自分の感覚から、気功師も病んでいる人間が行き着く形の1つとも思えてしまいます。人は、自分と同じ立場(気質)に居ると感じられる人の方が「想い」に同調しやすい様です。色々な意味で、世の中持ちつ持たれつと願ってます。 ただ、人には想像力(創造力)がありますね。特にその人と同じ経験をしなくても、その人を想いやる事で、同じような感覚を分かち合えて(繋がって)いると感じます。おそらく、私なんかよりも、皆さんの方が、「もらい泣き」の経験なんか沢山あるんじゃないですかね? 最近、「理解できる能力」よりも「理解しようとする気持ち」こそ求められているように感じられます。多くの人が本当に「理解して欲しい」と意識上で望んでいるモノはある程度「建前」的質を含み、そんなに心の深い所には無いように感じます。深い所だけにある「本意」(正直)とはむしろ「知られたくない」、皆単純で似通った「欲求」的なモノのように感じます。 「がんばったね」 「大変だね」 「辛かったね」といった日頃からの言葉による労いこそ大切な「気」のように感じます。 それも含めて、身近で経済的にも負担無く気楽に自分を主張出来る環境を造るような活動も、「病気」の予防に繋がって行くように感じます。 そして今回、私の世界観を表現するために皆さんの世界観や、特に今病気と闘っている人達の気持ちを傷つける表現が多々あった事も自覚しています。私が病気の立場に立ったとき、誰よりもジタバタすることでしょう。本当に申し訳ございませんでした。 (07.7.28著) また、一連の日記の原点でありますHP「のあ」/イロヲの世界観もよろしかったら・・・。 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2007.10.12

私は中学生の頃、「夢」をコントロールしていました。 「コントロール」と言うと、ちょっと大袈裟な表現かもしれませんね。夢の中で「今夢を見ている」と認識していたと言えばよいでしょうか。そして、自由なタイミングで「現実」に戻ることができました。夢に入った瞬間「夢の中」という意識があって、怖い夢でもギリギリまで楽しめるんですね。「もうダメだ!」と感じたら、想いっきり目を瞑るんです。 目を開けると「現実」です。そして「夢」の続きを見たいときは頭の中で2つの棒を立て、その間を通過すると続きの「夢」の世界です。2つの個人的「儀式」によって「夢」の出入りが自由でした。ただ、その内容まではコントロールしていた感覚は無かったですね。私には、「夢」には自分が無意識?に創りだす「他意識」的感覚があります。 そんな感覚が1年程つづきましたかね。毎日夜が楽しみでした。その後も夢が覚める間際になると、「夢」を自覚できることは度々あります。時には、「夢」と「現実」との境目で楽しむこともできます。大概は、徒競走で調子よく走っていたが、「夢」を意識すると急に足が重くなって、ゴール寸前に皆に抜かれて悔しい・・・といった程度のことが多いです。(笑) 「夢」の中で手に入れたモノを、「現実」に引っ張ってこようとしたことがあります。(バカですね)「夢」の景色とマブタの裏?の「チラチラ」した景色が重なってくると、手に持っていたモノの感覚が薄れてきて、また1度「夢」側に戻って感覚を取り戻し、再度チャレンジ・・・もちろん結果はダメでしたが、そんなふうに「夢」で遊ぶことができましたね。 そういえば先日、「金縛り」に遭いましてね・・・例によって「チラチラ」した景色が現れ、普段の部屋の天井の景色に移ると、体が動かなく、後頭部から背筋にかけて痺れを感じましてね、そのうち人影の様なモノが現れ、馬乗りで手首と首元を抑えられましてね・・・ただ、怖いんですが不思議なことに冷静で、この行く末を見届けてやろうという気持ちになり・・・ するとまた例によって「チラチラ」した景色が現れ、つぎに普段の部屋の天井の景色がはっきりしたときはその人影もなく、体も動くようになっていましてね・・・どうやら二重に夢を見ていたようです。(笑)そんな「夢」に絡むエピソードも紹介しておきます。全ての人のケースに当てはまるとも思いませんが、気持ちに余裕がありましたら試してみてくださいね。 話を少し戻しますが、「催眠術」なども「儀式」によってその世界観に導入される点は似ていますかね。また、「夢」や「催眠術」によって世界観(別意識的)を築くと、そこから別の視覚や触覚といった「感覚」を生み、「現実」に無いモノを存在させると感じます。そこには「想い込み」という力を感じます。 「視力を失った人が老いてアルツハイマーになり、視力を失っていた頃の記憶を無くしたことで視力を取り戻した。」というドキュメンタリー番組を見たことがあります。「夢」や「催眠術」などだけでなく、「現実」でも「想い込み」の関与を強く感じられます。色々なモノを吸収しやすい子供の頃から、長い時間をかけて色々刷り込まれてきていますからね。 そう考えると、「現実」と称しているこの世界も本物かどうか。「布団に入って目をつぶる」という「儀式」をすれば「夢」の世界に目覚めてしまいますものね。(笑) 世の中、「想い込み」(世界観)が無いとなにも始まらないのかもしれませんね。 「幻覚」や「錯覚」などには今の主世界観(科学等)の中で全ての他世界観が存在するために大切な「役割」(矛盾)を感じると同時に、主世界観の現状での「逃げ場」(矛盾)的役割も感じます。そして新たにそこに「理屈」が創られ、信念(想い込み)の強い研究者がそれを具現化してゆき、そこにまた新たな「矛盾」が生まれて・・・「無限」ですね。(07.11.25著)・・・・・・・・・・ 健康のために、食べ物や薬(サプリメント含)・運動に人一倍気を遣っている知人がいます。 そのかいあってか、いつも元気ハツラツで人一倍動き回っています。ある日とても調子の悪そうに尋ねて来ましたが、自分なりにその原因を、「いつも摂っている健食をここ2~3日摂ってないからだ。」と分析していました。私も同感です。自分の中で創り上げていた健康の方程式(想い込み)を破って不安を創ってしまったように感じます。ただとても疲れを感じます。 「健康オタク」とかいう括りの人のように感じますが、そういった人に限って信頼を置いているそれらのモノをうっかり忘れてしまうととたんに不安になり、人一倍調子を悪くしているように見えます。そして効き目を感じられなくなると新しいモノに乗り換えて安心を得る人も少なくないように感じます。人によっては病気とすぐ背中合わせになるようにも感じます。 少し反れますが、病気なども広い意味での頑張りすぎなどから来る曖昧な調子の悪さに、医者などによって具体的な病名や原因を与えられることによって治る「道筋」を築かれ、不安を取り除かれ、治る方向に気持ちを変えることが出来ると感じます。ただそれによって、再び同じ病気になる「道筋」も自分の中に築いてしまうジレンマも感じますね。 私も元々はじっとしていられないたちで、朝から晩まで現場で肉体労働して、夕食はインスタントラーメン、その後パソコンに向かって図面を描いて、睡眠3~4時間。夢の中でも図面描いたり次の日の段取りの予習をしたり・・・といった生活を2~3年続けたことがありました。ただ毎年健康診断を受けるたびに「評価A」(すこぶる良好)の結果をもらっていました。 そこには大変ながらにも何処かで感じていた「充実感」に要因を感じていますが、とても複雑な思いをしたこともありましたね。たまにはそういった機会に皆に調子悪さを訴えて、頑張っていることをより主張したかったですかね。(笑)ただ「充実感」は、体(別人格的)の「疲れ」を感じることを鈍くしてしまう懸念も感じます。 好きなことをやっている時は、精一杯(無意識的に)動いてもあまり疲れは感じませんが、体には疲れが溜まっているように感じます。それが、仕事などあまり楽しくない時に噴出し、嫌なことをやると疲れるように感じることも少なくないと感じます。時に、本当に嫌なことをしている時は無意識にも力を抜いていて、体を休められるように感じます。(08.8.12著)・・・・・・・・・・ TVで瓶詰め食品の消費期限について専門家が話していました。 開封して2週間以上経つと危ないそうですね。ただ出演していた芸能人達は「私は1~2ヶ月くらい食べていた!」という声が多かったですね。だからといって体調を壊したわけでもなさそうでしたが・・・。彼らは今後その専門家の言葉を信じて2週間以内に食べきるようになるのでしょうが、1~2ヶ月食べても平気だった経験(事実)は信用できないのですかね? ただ今後はその専門家の言付けを破るような行為をすると、体に変化が現れる人もその中から出ると感じますがね。その専門家の発言への納得(信頼)から一種の呪縛(想い込み)を自分の中に創ってしまい、体もその発言のように反応してしまうようにも感じますかね。「専門家が言うのだから間違いないだろう」・・・と言った具合ですかね。 また賞味期限や消費期限などの改ざんが問題になっていましたね。賞味期限って、より美味しく頂ける期間のようですね。多少その期限を過ぎても健康には害は無いようですね。むしろもったいないので、幾分安くなっていれば私はそれで良いです。ただ騙されていたり、誰かが儲けている感覚が伝わってくると、偽装の名の元に突っつきたくもなりますかね。(09.9.1著)・・・・・・・・・・ 「最近、想った通りになるの♪」 私も物事の始まり・変化の基本に「想い」があると感じていますので、彼女に当然の事として伝えると、「今まではどんなに強く想ってもそんなことは無かったし、最近はそんなに強く想わなくてもその通りになってしまうの!」って、ちょっとムキにさせてしまいました。「後から考えるとアレがそうだったのか」とか思い当たる出来事も増えているということです。 ただ後に思い出せる記憶として残しておけるモノであれば、その瞬間は無意識にもある程度の強さの「想い」であったようにも感じますがね?彼女は最近「気」的世界観に足を踏み入れたようですし、そういった世界観にはそのような「予言」的質の能力とも関わりが強いイメージもありますかね?「予言」と言うより「想い通りに事が進んだ」だと感じていますがね。 その世界観の訓えにより、そういった事に「関心」が高まり、そういった「特別」の能力が備わってきた確信が欲しい「想い」にも記憶力の違いの要因を感じます。いわばそのことで「想い」も強まったと言う捉え方もできますかね?彼女より昔にそんな世界観を築いた私は、「特別」を「当たり前」に表面にも変えたいプライドを、前記の彼女への対応に感じますかね。 「特別」的位置づけは「関心」を生み、新しい「想い」を強める上で時に大切とも感じますが、本当の意味で「当たり前」になっているモノ、常に当然のこと(常識)として起こる現象こそ、最も「想い」が強まったモノであるとも感じますね。というよりも同じ方向性の「想い」が集り易く、強まり易くなったモノが「常識」のようにも感じますかね。 また私が感じる「想い」が現実にならない原因として・・・ 1. 周りに方向性の違うもっと強い「想い」を持った人がいること 2. 自分の中に「まさか」・「でも」などの逆方向の「想い」が強まってしまったこと 3. 「想い」を持続できない(飽き・心変わり・諦め等)こと・・・などがあげられますかね。2は「想い」が遂げられなかったようですが、結果的に逆の「想い」が叶ったということですよね。おそらく「やっぱりね」という気持も残っていたりするでしょうからね。3は「想い」を叶えるには叶うまで続けること・・・当たり前でひねくれた言葉遊びのようにも感じますが、何よりも確かで基本なことであると感じますかね。 その人の気質によって1・2(他との関り方)の影響の強さは大分変わり、3に繋がるように感じますかね。ただ「諦めなければ必ず夢(想い)は叶う」も、ある意味特殊な気質(ワガママ・無邪気等)を矯正されずに持ち合わせていて、夢(想い)を叶えてしまえた人だからこそ、後を振り返って言えた言葉であるように感じることも正直少なくないですかね。(09.11.26著)姉妹日記「関心」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2007.10.11
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