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とうとう「不死細胞」なるモノが見つかった様です。 発見者の信念の強さには、すごいモノを感じますね。やはりなんといっても、科学と言う主世界観に守られている強みも感じます。少し嫉妬します。今回はちょっと「遺伝」について感じた事を書いてみます。 昔から比べると、子供たちの容姿が親に似ていない様に感じます。昔は、子供の「憧れ」や「尊敬」・「情」などの「想い」の対象が、いつも近くに居る家族に向けられていた様に思います。現代はマスメディアの発達によりその「想い」の対象が広がり、その様な現象が現れている様に感じます。ちなみに私は、よく日本人離れした顔と言われます。 親兄弟、親戚を見回してもこの顔立ちはいません。父の影響もあり物心付いたときには外国モノに触れ、小学生の時は洋画雑誌を愛読していましたね。またこの能力も母譲り(遺伝)として周りは理解される様ですが、正直私自身は根本的な質に違いも感じます。「遺伝」というよりもその能力に対する「憧れ」と、ある意味先を越された「嫉妬」を強く感じていました。 ただその母が起こして来た現象が、私を迷いから何度も引き戻してくれた事は間違いないですね。そういったことから言えば、この能力を身に着けるには他の人に比べ有利な環境と言えますね。ある意味それが遺伝と言うことなのでしょう。 研究者は、自分が属していると思う「世界観」のルール(理屈・言い訳)に沿って研究を重ねることにより、信念を確信に変え、目的のモノ(遺伝子や食べ物等の物質)を具現化していると感じます。研究の過程において行き詰まりを感じ、偶然発見されたモノも少なくないと思います。そしてそれを利用する私達は、その理屈を完全に理解しないままに使っていますかね。 いわば便乗するように研究者の「想い」に極めて近い結果を得ている様に感じられます。「何だか解んないけど、偉い先生が言うんだから間違いないだろう」という具合ですかね?そして皮肉な事に、その理屈が一般に知れてくると逆にその効果が薄れ、目新しい研究結果に飛びつく様なことも多いように感じます。 まず「敏感」な(理屈っぽい)人が、その理屈に対して自分の「世界観」とのズレを感じ始め、無意識に拒否反応が出て、その人を見てまた別の人が・・・という、「不信」の連鎖が起こっているように感じます。根底には「慣れ」や「飽き」・「嫉妬」も感じますがね。人は常に変化を求めるように感じます。科学の世界観の中だけを見ても常識は変わり続けていますね。 「他世界観」を利用する時には、適度な「無知」が必要になると感じています。(07.6.29著)・・・・・・・・・・ 「男は必要ない!?」 マウスの実験で、遺伝子操作により二匹のメスの卵子だけで子供が誕生しているようです。もっとも男性の体は女性の体を基に変化しているようなことも聞きますし、私はあまり不思議な感覚もありませんがね。想像妊娠とかもありますが、強い想い込みによって妊娠も出来るんじゃないですかね?(笑)そうなると「マリアの処女受胎」もまんざら・・・。(笑2) また誕生した地球の海に隕石が衝突したことにより形成されたアミノ酸が生命の基になったと科学番組でいってました。その理論の真偽はともかく、おそらく同時多発的な生命の発生をしていくのでしょうから、そしたら何故、どの時点で生殖活動が必要になったのでしょうね。「隕石の衝突」が地球の生殖活動ですかね。そもそもSEXってなんのためにありますかね? 子孫を残す目的が基本(正しい目的)?・・・少なくとも私は何が何でも自分の血を継いだ子供が欲しいと感じませんが、SEXは生きていく上でとても大切なモノと感じていますね。理屈無い他人との深いコミュニケーションとも感じますし、その後に初めて深いコミュニケーションが築ける感覚もありますし・・・時に「現実逃避的」役割も感じますかね。 自分の人生の保障を得るため?・・・自分を養ってくれる相手を惹き付けておくための手段にも遣えますかね。また「子は鎹」ともいいますが、子供は薄れてきた夫婦間の恋愛的繋がりの代わりに繋いでくれたり、自分の代わりに成し得なかった夢を託せたり・・・私は何でも自分自身で成さないと満足できないので、血を継いだ子供に執着が無いのかもしれませんね。 単純に気持良いから・・・何のために「気持ち良さ」を求めますかね。私は基本(本能)が「気持ち良さ」を求めるようなところにあるように感じますね。「何のため」こそ体裁良く「気持ち良さ」を得るための後付(言い訳)のように感じますね。時には好んで「苦」を背負う人もいますが、結局その後にある「より強い満足(気持ち良い)」を求める行為と感じますね。 男だからでしょうか?・・・個体差でしょうね。(08.10.8著)・・・・・・・・・・ 光は1秒間に地球を7周半する・・・ また「今、目に見えている星の光は何万年も前の光」とかもいいますね。光も粒子(物質)で速度がある(運動している)って事ですよね。一度放たれた光の粒子は、永遠に進み続けると言うことですかね?例えば「合わせ鏡」的な光の粒子を完全に逃がさない装置を造り、1度光を当てると、光源を切ってもずっと光り続けるってこと・・・?モノが伝わるとき波動・波長とか遣いますかね・・・ 「波」って平面や断面といった2次元的表現になるとイメージもし易くなりますが、3次元的・・・例えば太陽の様に放射状にモノ(?)を放っている場合、「波」ってどの様にイメージしたら良いですかね?面的には難しいので、沢山の粒子が各々2方向に行ったり来たりしながら進んで・・・なんか粒子それぞれが干渉しあって波形も難しいような・・・? 仮に最小の物質が見つかったとして(それ自体科学のルールに矛盾しますが、とりあえず置いといて)・・・ その最小の物質と物質の隙間には何があるのですかね?「何も無い」ですか?『ビックバーン』とかいって、元々「無」から物質(有)が発生したのであれば、その時点で無と有が同時に存在すること自体矛盾も感じますかね。それとも隙間なく物質が並んでいるということですか?それはそれである意味「無」(無限)と変わらないような・・・? 夢の中でも各種感覚(五感)がありますよね・・・ 脳科学においても、時に脳は実際にあるモノを見せなかったり、逆に無いモノを見せたりするようなことを言っていましたね。とりあえず脳(物質)を基本において科学に属しているようですが、やっていることは物質の存在自体怪しくするようなモノも含まれていませんかね?ちょっとズルいような・・・?自分で言っていて訳分からなくなりました。 私は学生の頃から化学や物理が苦手で、化学の実験はいつも失敗するし、物理も根底にある理論が少なからず推測を含んでいたり、数式にも何か真実の誤魔化し的質を感じてしまい、今ひとつ信頼が置けなかったりするんですよね。それが失敗の原因?前記の事も含め、関心(信頼)持って最新の科学も勉強すれば納得もできて解決してしまうのでしょうけれどね。 有名な科学者達によって立証もされてきているのでしょうからね。ただ科学の書籍は言い回しが苦手で(自分を棚に上げますが)・・・。(笑)それはどうあれ、そういった個々の勝手な理解力(無関心)や感覚による矛盾から生まれた不信でさえ、時に他人とは別の現象を生んでしまったりするようにも感じますかね。 また自分でも自分自身の理屈っぽさを自覚していて、「研究者」向きな気質であるのかな?・・・とかも考えてしまいますが、ある意味「研究者」には、時には逆転的発想が出来るような柔軟性も必要と感じますが、基本には先駆者の築き上げた偏った世界観にドップリ浸かれる(信頼)資質(都合の良さ)が必要なのかも知れませんね。(09.6.2著)・・・・・・・・・・ 「ホンまでっか!」 最近世界でも認められている様な学者達が、バラエティー番組に出ていますね。ただお笑い芸人の司会者の実体験から来る「それは当たってない!」的な突っ込みに対しては、「あくまでも個人差がありますから・・・」的に交わしてしまうことも少なくないように感じ、そして番組の終わりには「あくまでも一説であり・・・」な注釈が添えられていたりして・・・ 最近の原発の件における専門家達の見解の相違や「想定外」といった言葉も含め、彼らは世界でも有数の学者達のはずですが、「個人差・例外・体質・偶然」のような所に逃げ込むようなことをされてしまったら、いったい誰の言う科学を信用すれば良いのか判りませんよね?そしてそこ(広い意味での矛盾)にこそ大切なモノがあるように感じますけどね? 学者同士の議論の中に、他人の見解に対して「逆に・・・」的に話を被せ、本来なら相手の理論の否定になるような意見が逆に助け(同意)となり、その相対する見解が両者とも成立してしまうことも少なくないように感じます。彼等の言葉に「他人の論理を批判することを否定されてしまったら、科学者の存在を否定されたことに等しい」的な表現があったりして・・・ 科学の理論に限らず、「理屈」とは大概先に示されたモノの方が不利になりますかね。科学者に限らずヒトの根本に自己主張があるとすれば、自分以外のモノを覆していくことが常であり、またヒトは飽きやすいので、そこに目新しく逆説的な理屈を提示されれば時には何よりも説得力を感じ、昔のモノが見直されるような現象も繰り返されているように感じますかね。 また、「理屈っぽい」と聞けば「理系」的イメージも強いと感じますが、私の周りにはむしろ「文系」と感じる人に理屈っぽい人が多いように感じます。そもそも科学は根本がまだ未解決な理論から始まっている訳で、それでもそこから発生した理屈や数式などを「理屈無く」信頼して(従って)しまえる素直さが、「理系」の根本には強くあるように感じますかね。 そして「文系」には、例えば芸術などに携わる人などは縛りを嫌い、常に自分だけの表現を求めたりするために、時にひねくれた思考が求められるようにも感じますかね。その表現の一つに当然言葉(理屈)も含まれてきますからね。私も社会(就職)的に「理系」の方が有利と感じ、無理して「理系」の人生を歩んで来ましたが、間違いなく中身は「文系」ですね。 ただ、科学や数学等も突き詰めると、宗教や哲学的なところに行き着いてしまうようなことも聞きますし、自分を表現するための手段には変わらないようにも感じますけどね?もっと言ってしまえば「科学者」とは、「科学」と言う名の「宗教」の熱烈な「信者」という表現もできるのではないですかね?ちょっと皮肉っぽくて意地悪かったですかね?(笑) 番組の脳科学の人などは特に、若い頃から矛盾に悩み続けてようやくそこにたどり着いたように見えますが、個人的にはまだしっくりしたモノを感じていないようにも感じますかね?(11.6.14著)姉妹日記「ルール」・「矛盾」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2007.11.20

昔、ダウジングがブームになっていましたね。 「石や金属を使った振り子」や「L字に曲げられたロッド」など、特にその形状や質に意味を持たないと思われる道具を使ってモノを探し出すアレです。そうそう、親指と人差し指で輪を作り、その指が離れる力具合で物事を判断する「Oリングテスト」もありましたね。私ももれなくそのブームに乗っていました。 姉弟でその道具を作って三択程度の遊びをしていた記憶があります。そして、ハズれた記憶が無いくらいの確立で当てていた記憶が残っています。ただ、自分でやっている時はなかなか気がつけないものですが、他人がやっているのを見ていると、直接道具自体が反応しているのではなく、それを使っている人間の体が反応し、道具を動かしている様に感じていました。 自分自身で無意識に感じたことを、一度自分が信頼を置くモノ(反応)に置き換えて自分に確信を得ているように感じます。得てして人は頭で理解出来ない力(他世界観)に関しては、自分以外のモノに対しての方がその存在の確信を強め易い様に感じます。面倒な事は何でもヒトのせいにした方が楽ですからね。失敗しても自分の根底のプライドは守られると感じます。 だからといって、モノに「力」(気?)が無いとも言いがたいです。私がモノから感じるのは・・・その時の自分やそこに関る人の『想い』をそのまま映し返してくる様な質が特化したもの・・・です。別の乱暴な言い方をすれば、「その気にさせてくれる力」と言いましょうか・・・。 よく良質な「気」を発している物質について語られる事がありますが、私が感じる所では・・・心が良質な方向に向いた時、その人の心が理屈無く(逆にその人の強い理屈の基に)しっくり来て、おもいきり頼り切る事が出来るモノなら何でも・・・です。あくまでも自分自身の「気」の投影的な質のモノと感じています。 また、良質の気場に関して・・・極めて近い世界観を持つ人や、上記の物質に囲まれる事が出来たと思える場所・・・と感じます。(時には似た世界観を持った人ほど距離を感じる事がありますからね)昔、ダウジングで高い確率を出せたのも、一緒にやった姉達が近い世界観を持ち合わせていた事に大きな要因を感じています。 そして「何だか解らない(理屈無い)力」には、今回の「ダウジングロッド」や「石や金属を使った振り子」等の「何だか解らない(理屈無い)モノ」に対しての方が、その力の存在の確信を置き易いように感じます。(07.7.9著) ・・・・・・・・・・ 私の知人に何人か「占い」に関わっている人がいます。 彼女達は、それぞれに信頼を置く占い手法(世界観)にドップリ浸かり(頼り)切る状態を創る事で、まず相手のその時の「想い」に無意識に繋がる様に感じられます。 そして、それを1度信頼を置く占い手法(世界観)のルール、例えば「手相」であれば「シワ」などに 無意識に置き換え(創り出し・見えるモノを選択し)ているように感じます。 意識上の自分自身に確信を与えてから相手に伝えるといった作業が成されているように感じます。よって、後に相手のその時の「想い」が変化すれば、違った「手相」(シワ)を無意識に創り出し(選択をし)、「手相は変わる」という現象が起こると感じます。そして、信頼を置く占い手法(世界観)の役目は、結局は話し出す「きっかけ」のように感じます。 話のほとんどは、相手と接する中で無意識に感じているように感じます。そして回数を経て自分の回答に対して相手の同意を積む事によって確信が増し、自分への世界観へ移り変わり、後に、人によっては「他世界観」や「道具(モノ)」などに頼らずに相手の「想い」に繋がるように感じます。 占いを受ける側も、元々自分の中にあった「想い」(過去の出来事も含め)に触れられたために信頼が芽生え、占い師が創り出した視覚(シワ)を共有し、その後に発する言葉(アドバイス等)に信頼を置き易くなり、自分のその時の「想い」の後押しをされ、「想い」が強まって確信になった時、後に「想い通りになった」(予言的)な結果が得られるように感じます。 あくまでも「未来が決まっていた」ではなく「想う通りになった」という質のモノに感じます。そして時に「選択系」の占いを受ける側の「選択」にも、占い師の意図するモノを無意識に事前に察知する力(手相のシワの創造も含め)を感じ、そこにも大きな要因を感じます。そういった「想い」のやり取りが成されているように感じます。 そもそも同じような世界観に興味・関心を持っている人達が集ってしまうということ自体必然的で、すでに多くの事象・物質すら共有できる環境になってしまっているということでしょうね?また、占いに関る彼女達から共通して伝わってくる感覚は(本人が聞いたら気分を害するかな?ごめんね)、基本にあるのは、とても強く自己表現の場に飢えている様な「気」です。 時に有り余る力から、普段の生活に抑圧も感じます。ただ「占い」に入ると「気」が鎮まり、相手を気持良くさせたり傷つけないように言葉を選ぶなど相手の事を気遣っています。私の中にも強く感じますが、他人の目を非常に気にする質をその根底に感じます。そしてヒトが創り出した「世界観」には、「想い」を増幅させる強い力も感じます。 宗教や占いなど、その世界観の思想に大きく影響されると感じています。共感を覚え、その世界観にドップリ浸かり、精神的に頼りきることで力を得ると感じています。そして時に「他世界観」や「モノ」に、自・他を潰してしまう様なその人の有り余った力を逆にセーブする役割も感じます。 私の「世界観」も私にとっては紛れもない「真実」ですが、心にしっくり来るものが無く、共感を得られなければ他人にとっての「真実」にはなれず、良い力の助けにはならないでしょう。ただ人は、「共感」(信じる・信じない)に拘らず、普段から自・他の気持ちを傷つけたり、感動させたりといった「気」のやりとりを行っていると感じます。(07.7.11著)・・・・・・・・・・ 私も昔はよく、色々な意味で事が調子良く進んでいる時は「自分のせい」(実力)に、調子悪い時は「ヒトのせい」(他力)にしていたように感じます。 調子良く進んでいる時はむしろ「ヒトのせい」(他力)が大きく働いていたり、調子悪い時は「自分のせい」(実力)が働いていたりするようにも感じます。今は何でも「自分のせい」(自分次第)と考えるようになっていますかね。一見立派なように見えますが、単に「ヒトのせい」にすることが何かに負けるような感覚があり、プライドが許さないのだと感じます。 ただ、「自分のせい」に出来ている時は、なかなか事が動き出さない感覚もありますね。気功治療においても、病気の原因が全て自分にあると「悟り」のようなモノを築いてしまっているような人よりも、何でも「ヒトのせい」に出来る人の方が、良い成果が得られることも少なくないようにも感じています。 「ヒトのせい」に出来ている時のほうが、色々な(良い方向・悪い方向を含め)意味で事が転回し易いように感じます。行き詰まりを感じたときは、むしろ「ヒトのせい」・・・他人や他人の世界観(占い・宗教・各種法則等)、物質(鉱物・各種道具等)、本能や無意識(自分の中の他人格的なモノ)・・・に一時的に頼ることも1つの効果的な手段のようにも感じます。 また、精神的に「ヒトのせい」に出来た時は、事を動かすチャンスとも感じますが、その時の外的関わり方がその動き出す方向にかなり影響を及ぼすように感じます。 私のようにプライドが高く、「ヒトのせい」になかなか出来ない人間が、ある意味勇気を出して「ヒトのせい(頼る)」をした時、例えば「他にもっと大変な人はいるんだから・・・」的な諭しや意見はきついものがありますね。あらためて言われなくても解っているつもりですし、あえて変化を求めてヒトを頼っている訳ですからね。かえって反発したくなる言葉ですね。 そして、心にも無い言葉を発してしまって後戻り出来なくなったりするんですよね。確かにその言葉がきっかけになって事は動き出すかも知れませんが、その方向にはあまり良いモノを想像できませんね。そんな時は、ひたすら弱音を聞いてくれたり、時には自分のワガママに気付きながらも単に同情の言葉が欲しかったりするように感じます。 そしてまた逆に、厳しかったり理性(理屈)的に諭されないと(尊敬できる人の言葉でないと)動き出せない人も少なくないようです。それもある意味「ヒトのせい」効果と感じます。とにかくその時々で、自分自身も含め何かしらに「信頼」を置かないと動き出す事が難しかったりする事も少なくないように感じます。(08.6.3著)・・・・・・・・・・ 最近また「パワースポット」という言葉をよく耳にしますかね。 私も若い頃はそういった場所を巡ったものです。確かに当時はそういった所に行くと体中が痺れたり、何か身の周りが良い方向に動き出したりと言ったような感覚を得られたものです。ただ現在は、同じ場所にいってもそのような感覚を得られることはありませんね。私の強い客観視的資質が自分の正直な感覚とのズレ・矛盾によって整理をしてしまいましたかね。 簡単に言うとその矛盾によってそのモノにたいする信頼から「冷める(醒める)・飽きる」と言ったところでしょうかね。「不信」という負の信頼が生まれたとか?現在の私が感じる「パワースポット」(良質の気場)とは・・・極めて近い世界観を持つ人や、その時に強く心惹かれる(信頼を置ける)物質に囲まれる事が出来たと思える場所なら何処でも・・・です。 確かにそれらを信頼している時にはそれなりの感覚を得られていた事実の確信もありますし、また初体験であっても全ての人にその成果があらわれている訳ではないという事実がありますからね。そしてそこには、信頼を置く人間(友人や専門家等)、多くの人間(歴史等も含め)による「クチコミ・マスコミ」による「想い込み(信頼)」的力を強く感じますかね。 つまりは「力」は直接的には場所やモノではなく、「信じる(強い想い)」に宿る・・・と言うよりも、「信じる」することで、各々ヒトが持つ力(欲求・ワガママ等も含め)を解放し易くなると感じます。ただその「信じる」をし易くしてくれるのがまた自分以外の「モノ(言葉・物質・場所)」(ある意味他人のせいにする)であることが少なくないとも感じます。 あえて「力」という言葉を遣って表現するなら「その気にさせてくれる力」とか、広い意味の「個人から責任を外す力」とか。(10.4.10著)姉妹日記「モノ-2」・「モノ-3」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2007.11.20

私の愛車は、昭和46年型のクラウンです。 古い車は愛嬌があって好きなのですが、わがままですね。ただ、年のわりに調子はそこそこ。すこし思い切れば、遠出もがんばってくれます。不思議なもので、あまり調子が良いと、かえって不安になるんですよね。「大丈夫かな?」と想い始めると、案の定、その時点から調子が悪くなるんです。その時の私の心には、「やっぱりね」といった、変な納得が在るんです。 「想う通りになった」という変な満足感というか、「不の信頼」(不信)とでもいいましょうか。 また、やはり癖があって、手間がかかることも事実で(そこが可愛い所でもある訳ですが)、ちょっとした外出には、他の車を使用したりして、愛車からご無沙汰になると、またそのとたんに、車体にサビが浮いてきたりするんです。その時の私の心も、「やっぱりね」なんです。心の何処かにいつも「乗ってやんなきゃな」という負い目を抱えていたりするんです。 ちょっと意味合いは変わりますが、そんなに古くない家であっても、空家になったとたんに、急に寂れてしまいますね。そんなことからも、モノに対する「想い」の影響を強く感じる事があります。これもまた乱暴な表現ですが、植物・動物も含め、広い意味での「自然」にもその(『想い』をそのまま映し返してくる様な)質を強く感じられます。 同じ乗馬風景を見て、私は「背中に人を乗せて辛そう」と見えますが、乗馬好きの友人には「背中に人を乗せて楽しそう」と見えているようです。また、ペットなど飼い主と容姿が似ているモノを無意識に選んだり、容姿と共に性格まで似てきたり・・・自分を映す鏡であったり、時に自分の「想い」を他人に伝える「仲介役」・「代弁者」を担ってくれる力を感じます。 そして他人に見る嫌な所を自分の中にも特に強く感じるなど、時には人間にもその様な質を感じます。話は反れますが、前記の様に普段「当たり前」や「気のせい」として処理しているモノの捉え方を、その時自分が素直に感じているモノに変え、積み重ねて行くことも、その人の今の世界観を変えていく大切な要素と感じています。(07.7.10著)・・・・・・・・・・ 知人の女性が、「銀行のATMで、お金が振り込めない!」と怒っていました。 支払いのため、お金を下ろそうと何度カードを入れても機械が受け付けてくれず、諦めて帰ってきたそうです。どうも話の感じから、1度や2度の経験ではないようです。もう20年近く気功に携わっている私の母も機械が苦手で、よくATMやテレビのリモコン、自動販売機などの機械に馬鹿にされているようです。そして私もよく機械から嫌われることがあります。 私の例として、新しい機械を買って、よく説明書も読まずに使い始めようとするのですが、想ったように作動しません。そこで初めて説明書に目を通す訳ですが、その後、結局特に何かイジった訳でもないのに正常に動き始めるのです。ただ、説明書を読んだ後には私の中に、ある程度その理屈に納得し、機械に対する「信頼」が置けたような感覚があります。 知人の女性も、私や母と同じような「世界観」を仕事としていて、三人とも自分の感覚(世界観)を、特に大切にしている気質を共通して感じられます。自分の「世界観」の理屈に合わないモノには、「信頼」を築く事が難しいといいましょうか・・。ましてはATMなど、お金が絡めばなおさらのように感じます。(笑) また今の主世界観にどっぷり生き、機械に「信頼」を置く人が後にその原因を探したなら、カードが逆だったり、リモコンの接触不良という「事実」を見出し、主世界観(科学)の強さにより「機械嫌い」の人達もそこに落ち着くことでしょう。ただその原因という「事実」よりも、それを無意識に何度も繰り返してしまう「事実」に私は惹かれてしまいます。(07.9.5著)・・・・・・・・・・A子:「この石は不思議なパワーがあってね、身につけていると調子がいいの♪」B子:「私も同じモノ身につけているんだけど、あまり効果を感じないのよね。」A子:「信じていないからじゃない?」B子:「えっ!誰でも効くんじゃないの?」A子:「当たり前よ!医者だって薬だって全ての人に効くわけじゃないでしょ!」B子:「信じることが大切なんだ?」A子:「そう!信じなきゃ♪」B子:「じゃあ、信じられればこの石である必要もないってこと?」A子:「・・・」B子:「それって人のパワーってことじゃないの?」A子:「・・・」(09.8.11著)・・・・・・・・・・ 建設業に携わっていた事から、私も植木を扱う機会も多々ありまして・・・。 ある親方は、常に根回りの土を柔らかく保つことを心がけていました。根が広く張りやすくするためだそうです。またある親方は、機械を遣ってでも根回りを固めることを心がけていました。より強い根を育てるためだそうです。二人は相対する方法(理屈)をとってはいますが、いずれも手間をかけない他の植木よりも良く育ち、綺麗な花も咲かせていると感じましたね。 品種によって扱いの違いがあるという「理屈」もありましょうが、植物は時にその方法を問わず、人の「手間(想い)」の強さに答える(人の「想い」を投影する)ような気質を感じますね。 またコンピューター・プログラマーから植物に携わる仕事に転職した人を何人か知っています。逆転的な質の転職とも感じますが、植物の育成って、割と計算(計画性)が効くモノで、ちょっとロジック的質が感じられ、意外とそういった人達の気質にも通じるように感じますかね。これもある意味「想い」に答える植物の気質を感じさせますかね。(09.8.13著)・・・・・・・・・・ あなたは「宇宙人」の存在を信じますか? 昔の日本では「妖怪」が住んでいると信じられていましたかね。個人的にはそう信じられている期間はその存在を確認できる人も沢山居たようにも感じますかね。例えば脳科学においてヒトが見るモノの全てを肯定出来ないのであれば、その時にそのヒトが見たその時の光景は、少なくともそのヒトのその時においてはそれが全て(正しい)と感じますがね。 そして後に他世界観によってそれが否定され、それを本人が納得し、受け入れた時点で無意識に自ら見え方(感じ方)をも変えると感じますかね。昔から日本人は外国的評価に弱いイメージがありますが、そういった外来的世界観(科学)に信頼も篤くなり、昔「妖怪の仕業」とされていたものが自然現象的に証明され、常識になってきているようにも感じますかね。 もっともヨーロッパなどでも「モンスター」と呼ばれるモノがありますが、それらは科学・医学の発達によりそのまま再現出来そうな(ある意味科学の範疇)のモノのようにも感じますし、やはり日本の「妖怪」などに比べれば基盤には科学的なものが強いように感じますかね。ただ米国などに比べれば日本的で、そこには国の歴史の古さなどに要因も感じますかね。 話を戻しますが、宇宙人否定派の人達に沢山の科学者達が居ますが、自分自身の存在を考えれば「宇宙人」の話って科学的にも肯定せざるを得ないモノのように感じますがね。また「河童」などに宇宙人説が流れたりしていますが、少なくとも「妖怪」を信じていた我々日本人からすれば、「宇宙人」も強く科学的世界観にある存在のように感じますがね。 例えば過去を証明するようなモノが出てきても、それを発見したり、見て(感じて)いるのは何かしらの世界観にドップリ浸かってしまった脳な訳で・・・著名な科学者がそれら非科学的な存在を認め始めると、爆発的にその存在を認識できる人間も増えてくると感じますがね。人の姿も含め、目に見える(感じる)モノの基は変わらないようにも感じますけどね。 何も信じられなくなりましたかね?でも何かしら見え(感じ)ているでしょうから無意識にも何かを信じられているってことですかね?特に小さい頃から植付けられたモノはそう簡単には・・・(09.11.30著)・・・・・・・・・・ 「この薬を呑めばすぐに治るよ♪」 調子を悪そうにしている知人に、別の知人がそう言って鎮痛剤系の薬を渡していました。確かにその薬によって症状が緩和されたことにより、病気が治ったように感じるのでしょうね。おそらく鎮痛剤系の薬それ自体は直接病気を治すものではなく、自己治癒によってヒト自らの力で治す間に発生する症状を、感じることを鈍くしているに過ぎないと感じますがね。 ただ時に、その症状を取り除いて治ったように感じさせる(治る方向に気持ちを向ける)こと自体がとても大切な要因になるようにも感じますけどね。そして個人的には「薬」のあの単純で何処か謎なモノを感じさせる形にも病気を治す力を感じますかね。ヒトは時に何だか解らないモノほどそこに「力」の存在や信頼をおき易く感じたりすると感じますからね。 そしてそこには医者(専門家)の研究・努力の賜物(拘り)的自信から来る「力」も加わって、多くのヒトから信頼を得易くもなっているように感じますかね。「専門家が言うなら間違いないだろう」・・・って?また人によっては、薬に付けられる値段でも効果が変わってしまうように感じますかね。お金は良くも悪くも価値・信頼を変化させる力を感じます。 また広い意味での「クスリ」には逆に、「お酒」等と同様に個人から「責任」を外し、いわゆる「ワガママ(負的欲求)」も解放する場を創る役割を感じます。「酔っていたから・・・」とか「薬を飲んでいたから・・・」として、時に正常時より大目に扱われたり・・・そしてまた時に、副作用には、「薬」に対する依存を防ぐための役割も感じますかね。(10.10.3著)姉妹日記「モノ-1」・「モノ-3」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2007.11.11

「財産を投げ出しなさい!」・・・時々宗教などで耳にしますかね。 お布施の形でお金を収めることによって、物質的なしがらみから精神的に解き放たれるような意味合いがあるのでしょうかね?そして本人には、「執着していた(大切な)モノを犠牲(引き換え)にするのだから幸せに・・・」的、自分自身との契約的力を感じることもありますね。厳しい「練習」や「苦行」など、よく自分の想いを遂げるために遣われる手法と感じます。 皆さんは値段の高い薬と安い薬、どちらが効くような気がします?私は高い方ですが、おそらくそう想って飲むと効き目も良いと感じますね。また、自分の持ち物を自慢するとき、真っ先に「これ○○円したの♪」など、お金には本来の価値よりも満足感や信頼を上げてくれる力がありますね。ただ、期待を裏切ると期待の何倍にもなる恨みに変化したりしますね。 宗教に絡む霊感商法などがそんな1例であると感じます。勿論そこには明確な悪意が含まれていることも多いと感じますが、お金が絡むと怖いですね。ただブランド品や宝石などには霊感商法的不信が生まれないんですよね。いくら職人が精魂こめて造った1点モノでも、事実一度購入した物(未使用のモノでも)は、質屋に出せは何十分の一の価値になってしまいますしね。 私は広い意味でモノを渡さずに「ヒトのため」とか自分に言い聞かせて行うこと・・・例えば気の施術などにおいて、例え相手に満足を与えられた実感を得ても、報酬を頂くことには抵抗がありますかね。ただそうやって報酬を断ったことで相手に不安や気兼ねを与えてしまうことも少なくないですね。そして時に自分の負う「責任感」にも違いを感じますかね。 そして時に、本当に相手を優先して考えるなら、自分の中に「負い目」を創ることに大切さを感じます。でも私はやはり自分だけの拘りとして、出来る限り気功の施術とお金には距離を置いていきたいと感じています。命(食べて行くこと)には変えられないと感じるのも正直な所ですがね。(笑)人間、「持ちつ持たれつ」とも願っています。(08.9.7著)・・・・・・・・・・ 「10回払いで買っちゃった♪」 「ローン」っていうシステムも不思議ですよね。分割して払うことにより一回の支払い額だけを見れば時にはなんか得した気にさえなってしまいますが、結果的にモノによっては定価の2倍以上も払っていることになっているのですよね。おそらくお金持ちは一括でモノを購入するわけでしょうから、結果的に彼らの方が安くモノ手に入れられるシステムですかね。 また実際にはまだ払われていないのに数字上の利益として計上されてしまうのですからね。払われる保障などないのに・・・。 国には莫大な借金があるようですが、そのお金を貸しているのは主に銀行(国民)であるようなのに、国民一人当たり数百万の借金があると表現され、いざその銀行が危なくなれば一千万円を超える個人の預金は返さなくても良いようで・・・なんか最終的に国が苦しくなるとそんな形でも精算しようと考えているんじゃないですかね? であれば、ある程度裕福な人だけに影響が出る訳ですから心配も無さそうですが、切羽詰るとそれ以下の人達のお金まで押さえられちゃうんじゃ・・・それとも消費税引き上げの布石ですか?ある程度一定した量のお金を奪い合って経済は成り立っている訳でしょうから、あちこちでそんな数字ばかり先行して行けばつじつまが合わなくなってパンクもしますよね。 結局は国債をバンバン発行し続けて、行くところまで行くしかないのでしょうけれどね?どうせ刷るなら現金にしてもらって、皆に配ってくれないかな?お金とはもともとモノとモノとを交換するまでの借用書のようなモノなんでしょうけどね。だとすればモノが増えてくれば流通するお金も増えて良いと感じますがね。ところが増えすぎたモノの方を捨てるんですよね。 お金やモノの量が増えるとその価値が下がったり、お金がお金を生んだり、インフレ・デフレとか、お金や数字(システム)にはそういった意味でも魔法(トリック)的力を感じます。そして政治家達も、自分が生きている間だけこの金融システムが持てば良いくらいにしか考えていないのでしょうけれどね?(09.11.29著)・・・・・・・・・・ 円高を止めないと・・・ 輸出企業によっては為替が1円下がることによって300億円も利益が下がるところもあるようで、まして輸出をメインとする日本では円高は国の死活問題にもなるようですね。よって為替市場からは、政府の直接的な為替介入も期待されても居るようですが・・・それは「催促相場」とも言われているようですが、であればその期待に乗ってしまって良いのですかね? そもそも株なども含め、日本の市場に参加しているのは大半が外国人だと聞きますし、リーマンショックとかで、そういった金融のカラクリも以前より表にでてきたりして、あまりそういった市場に参加している人の絶対数も変わっていないようですから、そうなると同じメンツである程度決まった量のお金を取ったり取られたりしていることになりますかね? 外国の金融企業は他人のお金を遣って得られた利益をその場で山分けして直ぐに個人資産に変えてしまうとも聞きますし・・・その個人資産を確保したまま同じメンツで奪い合いせずに増やすとなれば、狙われるのは「国の金」、特に外資ということにもなりますかね?日本が円高回避のために介入した税金が外国の投機筋に吸われてしまうことは無いのですかね? 最近金持ちは減ったようですが、その分桁違いな金持ちが生まれているようで、個人や組織単位で各市場も操作も出来るように感じますがね。10円の株が0.何秒にして1円に堕ち、数秒後に9円に戻り、その原因は個人投資家の誤発注で納まりそうですが、誤り・故意であれ個人・組織であれそんなことが成り立つ仕組みや株式自体の意味に疑問も感じますかね? また資源の少ない日本にとっては、円高は悪いことばかりではなさそうな気もしますが・・・国内にはモノが余っているようですし、外国に吸い上げられて国の借金が増える心配のある方法をやるくらいなら、じゃんじゃん円を刷ってしばらく国内でお金を回していれば円の価値も下がって自然に円安になるようにも感じますがね?そういう問題じゃない? まあ銀行や企業を通さずに直接庶民に配られないとそれも意味はないでしょうし、既にお金持ちにとっては円高・デフレは天国なんでしょうけれどね?私なども欲しいものが無くてもお金が溜まっていくだけで安心を感じたり、また遣り甲斐も持たない私にはマネーゲーム的なことに生き甲斐や遣り甲斐を感じるヒトの気持ちにも割と抵抗無くなれたりもして・・・ 危ない危ない!とにかく金融(数字)的カラクリには気をつけましょうね。(10.9.5著)・・・・・・・・・・ 災害地へ億円単位での義捐金をする有名人達もいましたね。 自分の生活と計りにかけ、せいぜい数万円単位でしか出来ない私は負い目すら感じますがね。でも考えてみると、例えば10億円の資産を持つ人だったら、5億円位寄付しても、一般の日本人の一生に稼げる平均額が2億数千万円位だとすれば、残りの5億円ですでに一生働かずに(一生報酬を貰わなくても)、平均の倍の水準での生活を送れるということになりますかね? それに比べ、一般の人は一生働き続けてその額であり、それでも現状は暮らしがきつかったりもする訳ですから、一般の人の現状の数万円の価値は、お金持ちの数億円よりも重いという事になりますか?まあかなり嫉妬を含めましたし、私も一度高い生活水準を経験してしまったら、少しでも落とすことに強い恐怖を感じることも想像出来ますので・・・ また原発事故において、専門家達の「想定外」と言う言葉を聞きますが、確かに専門家とは言え、先の事・自然現象の事を完全に想定する事は無理であるとも感じますが、今回の「想定外」には予算(お金)の絡みで「想定をさせて貰えなかった」的なモノもあったように感じますかね。原発を誘致した地域へ入る国の補助金でその辺の対応も出来なかったですかね? その補助金は主に地元の建設関係に流れていくとなればそこで不公平も発生しそうですが、それを外して見ても、どうせ公共工事で箱モノを造るのであれば、そういった原発の安全性を増すための工事に回していれば・・・「原発は安全である」を前提に誘致したので、建前にもそれは出来ないのでしょうけれどね?安全性(命)よりも経済を優先したとも言われ・・・ 原発は危険なのは分かっているけど、無くなると広い範囲で当面の生活に響きそうだったりして・・・例え今の電力会社の話しに嘘があったとしても、開き直られてヘソを曲げられてしまったら・・・未来の子供達にツケを回さないようにすると、今の子供達に苦労をさせてしまいそうで・・・今の世の中の仕組みでは経済危機が命の危機にも繋がってしまったり? 特に家族を持てば目の前のお金が優先されて・・・「大義を通せないような人間には、家庭を持つ(子供を教育する)資格は無い!」なんて言えますか?今の世の中の仕組みでは、多くの人が命とお金を強く結ばれているようで・・・と言うよりも様々な表向きの見え方はあったとしても、常に他人よりも自分(の満足)が優先されると言うことですかね? そしてヒトの善意にいちいち裏(嫉妬)をつける自分にがっかりも感じますかね。(11.7.7著)姉妹日記「モノ-1」・「モノ-2」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2007.11.10
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