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(五)生徒時代のことども官給品その他 明治初代の官立学校中、札幌農学校の官費ほど厚遇を受けたものは他に余り例がないかもしれない。当時生徒一人当りの官費は月額一六円で、食費が八円、残りを衣類、文房具費等に充てていたようで、我々卒業の節には官費積立金の残余として各自に何十円かを渡してくれた程である。黒田長官はその主義として衣類はなるべく国産品を用いることを命じた。夏服は白地の小倉木綿で、堅ポケットにベルト締であった。冬服は紺色の小倉木綿に厚い紋羽の裏がついており、同じ型の仕立で、ズボンはコールチン地で温かかった。帽子は黒ビロードのキャップ形で、前にひさしが付いていた。しかし何の徽章もなかった。冬の外套は黒地の厚い本羅紗で、頭巾が付き、それに雨衣、作業服等も渡された。下着は夏冬相当のものが給与され、冬の下衣は白紋羽であった。なおカラー、襟飾り、靴下、手袋、寝巻に至るまで一切のものが支給された。靴には半靴、長靴、上靴等が揃えられた。また課業に必要な文房具や日用品の紙類まで毎週一回支給された。そのうち主なものを挙げると、講座控用の背革の立派なノート・ブック、筆記用の西洋紙、鉛筆、ペン先、インキ、半紙、塵紙、糸、針等が、請求に応じて支給された。それゆえ、私費で買わなければならないものは、石鹸、封筒、巻紙、郵便切手くらいであった。毎週土曜日には散歩料として金二〇銭を給与され、なお天長節その他の大祭日等には特に小遣銭が支給され、また長官等が来校の時には更に土産として特別な給与があった。その上、農場実習に対し、正課であるにかかわらず、一時間に五銭まで努力に対する賃金として支払われた。「武士の子は金銭を愛せず」というふうが多分に残っていた当時の事ゆえ、農場長ブルックス先生はこの点を非常に考慮して、将来農業経営に当って労力に対する報酬を会得しなければならないという考察のもとにこの制度を実行していた。農場実習は一週間に二回あり、一回三時間余りかかったので、生徒の労賃は一ヶ月一円五〇銭から二円以上になり、これは主に生徒の菓子代になった。ついでに学業成績に対する賞与金について述べてみよう。これは学年の終り、学業の成績に徴し、各学課の一番及び二番の点数を取った者に対し、学則により第一等賞金七円、第二等賞金三円五〇銭を給与したものである。ただし一人で金二〇円以上を受けることを得ずとしてあった。多くの学科に最高の点数を取った同級内村君のごときは、ほとんど毎年この制限を受けていた。第一年級の時、私は数学と農学の二等賞を受けたが、その時両学課の一等賞は共に内村君であった。また第二年級の時、私は植物学で二等賞を得たが、一等賞はやはり内村君であった。第三年級の時、私は農学及び園芸学と数学及び図画と博物学でそれぞれ二等賞を得たが、一等賞はやはり内村君であった。第三年級の時、私は農学及び園芸学と数学及び図画と博物学でそれぞれ二等賞を得たが、一等は全部内村君の占める所となった。ただ兵式体操で自分は一等賞を得た。食事 食事に関しても、黒田長官の意見により、北海道は米作に適していないため、主として土地の物産で賄っていくようにという訳で、かなり洋食をとる事になり、朝夕二食は洋食、昼は和食であった。朝はパン半斤を三切に切り、それを焼き、バターと砂糖一皿を付け、それに肉を一皿添えた。夕食にはその量も多く、スープが添えられ、それに魚及び肉の野菜類とシチューしたものなどが出た。肉といえば鹿肉で、いかに多くの鹿肉が使用されたか、それは左の記録で明らかである。 当校生徒食用鹿肉火腿相製度候に付御地獲猟之品百股程御周旋御贈送相成間敷哉御都合出来候はば一応概略之代償被申越度乍御手数此段及御依頼候也 明治十年 札幌農学校 勇払分署 大久保 芳殿今でこそ鹿肉といえば珍しいが、明治一二年までは獣肉といえば鹿肉のみで、他の獣肉は札幌においてさえ求め得る事が極めて稀であった。そして私達の生徒時代には北海道には鹿がおびただしく繁殖し、千歳には鹿肉の缶詰工場さえあったほどである。しかし明治一三年の始め本道稀有の大雪があり、そのため鹿がほとんど全滅したので、その後しばらくは鹿肉の缶詰ばかり食べさせられた事がある。料理人・靴屋・洗濯屋等 開拓使は札幌農学校の生徒や御雇教師のため、特に洋服裁縫師、料理人、洗濯屋、靴製造屋等を呼び寄せた。靴製造のため先代岩井新六君が招かれ、寄宿舎の一部に製作所を設けた。西洋洗濯屋としては、伊藤辰造君が私達の学生時代に働いていたが、後になって堤君にその株を譲った。生徒各自に麻の大きな洗濯袋が渡されて、一週間に一度一定の日に汚れ物をそれに入れ、廊下に出して置くと、三、四日の後、きれいになって室に届けられた。洋服は島田金吾君が勤めていたが、後に代田長兵衛君に譲った。西洋料理は原田伝弥君が東京から呼ばれて、御雇教師やわれわれ生徒の賄いを担当した。彼は後に勢力を得て、豊平館の経営を担当した。理髪は学校と特約のある江戸っ子の床屋が東京庵の西隣にあって、生徒は学校から切符を貰い受けて散髪に行ったものである。遊戯会 生徒時代の思い出は、冬期中同級の有志四、五人で藻岩山の雪すべりや全校挙げての手稲山登山などあるが、遊戯会などその一つであった。遊戯会はアスレチック・スポーツのスポーツを井川氏が運動会とも言うべき所を「遊戯会」と訳した事に始まり、この名称は昭和の始めまで続いた。札幌年中行事の書入れのひとつで、雪が消えて、気も浮き立つ五月、これを中心に街の人達はこの会に集まった。第一回は明治一一年の春、北二条西三丁目の道路で行われた。競技種目はアメリカのカレッジでやっているスポーツと同じで、御雇教師が原案を作った。農学校であったので、彼らの母校と同じようなポテトレース及びサックレース等が入っていた。サックは農場で馬鈴薯等を入れる麻袋を使用した。第二回は北一条西四丁目で行われた。第三回からは構内のローンの上で催された。
2016年08月30日
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3 ウィリアム・エス・クラーク(四〇頁)札幌農学校創立者であるドクトル・ウィリアム・エス・クラーク(William Smith Clark)の名は、北海道大学が存在する限り、日本にキリスト教が宣伝される限り、永遠に敬慕の念をもって記憶されるであろう。クラーク先生は、一八二六年七月三一日北米マサチューセッツ州アッシフィールドに生まれ、一八四八年二二歳の時アマスト大学を卒業し、次いでドイツ・ゲンッチンゲン大学に留学、専ら鉱物学及び化学を修め、一八五二年二六歳で哲学博士の学位を得た。帰米後、母校アマスト大学に一五年間化学の教授として勤続された。その間に当時米国において最も完備した化学実験室をつくり、そのため再度ヨーロッパに渡った。一八六〇年南北戦争が起ったため、志願士官として二年間、北軍の兵役に服し、抜群の武勇を現して大佐にまで昇進した。一八六三年にモーリル法令という議案が国会を通過した。その法令により、米国各州に州立農科大学を設定することになった。マサチューセッツ州では、ボストンに建つことになったが、位置問題に関しては非常な競争が各地に起った。その際先生はアマストをもって最も適当なる地であることを盛んに唱道したばかりでなく、アマスト市民をして、このために特に五万ドルの市債を起させ、遂に同地に州立農科大学を設定せしめた。これは全く先生の努力の結果である。そして一八六七年一〇月二日開校の際には、先生はその学長として、創立経営の任に当たられたのである。これより一一年間、校長としてその職に尽瘁されたが、この期間内一八七六年(明治九年)に日本政府の招へいに応じ、一年間の賜暇を得、在職のまま来朝し、北海道に本邦における最初の農学機関たる札幌農学校創設の大任を見事に果たされ、その基礎を築いたのである。札幌に滞在した期間は、わずかに八ヶ月、その間に遺した所の感化、及び新設された農学校の大方針は、今なお先生の面影を止めている。そして先生は州立農科大学を一八七八年(明治一一年)に辞職し、Floating College(洋上大学、汽船内において大学の設備をなし講座と研究を行い、世界を巡洋航海し、各重要地点で上陸し、その国の風物物産を始め、動植物その他の天然資源に至るまで実地に生きた学問をする)を設立する事を発起したが、不幸にして、資金その他の事情によって中断された。かくて一八八六年(明治一九年)三月九日にアマストの邸宅において死去された。先生の一生を顧みるに、先生は卓越せる教育家であり、また非凡な経世家であった。そして経営の才能にとみ、その計画を実行する力量を豊富に有しておられたのである。
2016年08月27日
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(四)学校のことども校舎 明治一〇年入学当時の札幌農学校は、その敷地が北一条西三丁目の角から北へ一三二間、東へ一〇二間にわたり、ほぼ四角形をしていて、一万三千五百坪を有していた。校舎は北講堂、化学講堂と寄宿舎(事務所を含む)の三建築よりなり、いずれも西洋風な堂々たるペンキ塗木造で、ことに寄宿舎が最も大きく目立っていた。敷地の周囲には土塀をめぐらし、西方には三門があった。この三門を南から見て行くと、まず寄宿舎への門があり、次には事務所の門があり、最北のものは北講堂への門で、平素は閉鎖されていた。南方にはただ一つの化学講堂への門があり、北方には小さい通用門が一つあったのみである。東方は開拓使の官舎用地に接し、通行路もなく、従って門もなかった。北講堂は総二階の建物であり、階下に2教室、階上にも大きな教室が2個あり、その間に細長い室があり、それが物理の機械室に用いられていた。この建物は明治五、六年ごろに建築され、最初は開拓使の御雇外人の住宅に当てられ、明治8年東京の仮学校が札幌へ移転され札幌学校となった時、始めて教室に使用された。従って札幌農学校の開校式もこのところであげられ、その時の記念写真は今でも残っている。化学教室はクラーク先生が来札された後、ペンハロー教師の設計により新築された二階建で、階上には講義室と教師の控室、研究室、器具、機械、標本等の室があり、階下には実験室ランプが1個備えられていた。室には大きな窓が一つ付いていて、机は窓に向って向い合せに置かれた。冬が来ると大きな鋳鉄の薪ストーブが各室に1個ずつ備えられた。このストーブは開拓使の工業所で製作され、薪は一本のまま入るという大型なもので、生徒たちはペンハロー教師の大きな前後に長い頭にちなんでこれを「ペンハローストーブ」などと戯れに呼んでいた。開拓使では始め官費生を五〇名に制限しておったため、第一期生と第二期生を併せて約三四、五名の時にはそれで間に合っていたが、第三期生を募集した時には、当然室の数が足りなくなり、明治一一年に二階を増築し、六室が増加された。寄宿舎と廊下で連続して食堂があり、食堂の二階は大きな室で復習講堂と呼ばれていた。そこで舎生の集会があり、講演会なる開識社が開催された。なお食堂に続いて賄方の大きな調理室があり、別の廊下で湯殿と便所に続いていた。事務所は寄宿舎の西北側に在って、校長室、事務室、当直室、小使室等より成り、これより廊下つづきで北側に物置と倉庫があり、南側に靴製造所があった。ここに初代の岩井信六君が多くの徒弟を使い、生徒の靴や開拓使の役人等の靴を製作していた。その徒弟の中には多くのアイヌの青年が混じっていた。札幌農学校初期の時代に更に付け加えて置きたいのは演武場である。この演武場はホイラー教師の設計になり、私達が第二年級の時、明治一一年一〇月六日に落成式を挙げた。その記念写真が今も遣っている。演武場はミリタリー・ホールとも呼ばれ、階上は一つの大きな室で、ただ西北隅に兵器を入れた一小室があった。雨天の際や積雪の時期にはここで兵式教練を行ったのであるが、駈足などをやるとミシミシきしって揺れたものである。階下は玄関の両側に講義室が一室宛あり、それに付属して小さな控え室があった。更にその突き当たりには大きな標本室(ミュージアム)があり、北海道の動植物及び地質、鉱物の標本が数多陳列されていた。この標本の大部分は東京芝増上寺山内にあった開拓使の北海道物産陳列場より移管されたものである。この演武場の塔上に時計台が設置されていた。これが学校の各教室に正確な「時」を一様に報ずるために設けられたものであるが、それはまた同時に札幌市民にも唯一の正確なる「標準時」を告ぐるものとなり、後年札幌市民にとってなつかしい思い出の時計台となったのである。時計は米国へ注文し、明治12年に到着、鐘は東京赤羽工作所に注文し、明治13年の春到着、直ちにこれを取りつけた。この演武場の位置は今の北二条通りの真直にあって札幌農学校敷地の中央に建てられてあった。なお子午線を計って正一二時を知るため、ピーボデー教師がその補正を担当した。この仕事に対し、同教師の請求によって、北講堂の側に小さな天文台がつくられて観測に供された。この天文台はその後永い間存在していたが、遂に腐朽して破損してしまった。付記するが北講堂は明治二〇年に火災で焼失し、その跡に、八教室を有する建物が新築され、階下は予科の講堂に用いられていた。北講堂と演武場の中間に小さな木造の書庫があった。教師と授業 私達が入学した時、クラーク先生は既に半年前札幌を去っていて、当時の校長は調所広丈氏であり(卒業する半年前には森源三氏となる)、教頭はホイラー(WM.WHEELER)先生であった。教官はほとんど全部アメリカ人であったが、横浜から東京の少年時代にもほとんど外人の教師のみについて学んで来たので、私は別に不便を感じなかった。ホイラー先生は土木工学が専門で、数学と土木を担任していた。ペンハロー(D.P.PENHALLOW)先生は化学と植物学と英語、ブルックス(W.P.BROOKS)先生は農学、カッター(J.C.CUTTER)先生は生理、獣医、動物、英語、後には水産をも担当した。ブルックス先生は農場長を兼ねていた。またカッター先生はマサチューセッツ州立農学校を出てからハーバード大学医学部に学び医学博士M.D.の学位を有していた。ホイラー先生が帰国後はピーボデー(C.H.PEABODY)先生が来札してこれに代わり、なお物理学をも担当した。ピーボデー先生はマサチューセッツ州立農学校を三年級の時退学し州立工科大学に入り、その機械工学科を卒業している。入学当時のこれらの先生はほとんどマサチューセッツ州立農学校卒業の新進気鋭の士であった。当時はいずれも独身で、ピューリタン高祖父の開拓精神が身の内になお燃えていて、後年堕落せる享楽的な一部のヤンキーとは全く趣きを異にしていた。そして先生方帰国後の活躍を見るに病のため早世したカッター先生を除いては、いずれも、相当立派な地位についた。ホイラー先生はボストン市で土木会社を建設して大いに信用を博し成功した。ブルックス先生はアマーストに帰り母校の教授となり、その就任中ドイツに遊学、PH.D.の学位をとり、更にアマスト州立農事試験場の場長となり、ドクトル・オブ・アグリカルチュアの学位を得た。ペンハロー先生はカナダのモントリオール市のマッギル大学の植物学の教授となり、当時同大学の総長であり又地質学者として有名なサー・ウィリアム・ドウソン(Sir WILLIAAM DAWSON)と協同もしくは単独で、非常に沢山の植物化石に関する論文を発表し、ドクトル・オブ・サイエンスの学位を獲得した。ピーボデー先生は母校マサチューセッツ州立工科大学の教授となり、造船学方面に名声を博した。講義は勿論終始英語で、特別に教科書を用いたものもあったが、これは学校から借してくれた。教室では鉛筆で筆記し、帰ってからその日のうちに学校から与えられたノート・ブックにインキできれいに浄書した。翌日になると先生により授業の初めに当たり、講義の前五-一〇分、復習を兼ねて質問を受けた。それ故語学に長じていた者には不便はなかったが、語学に堪能でないものは一方ならず悩んでいた。授業は四季を通じて午前8時半始業、午前中は四時間で、午後は主として実験であった。実験は化学、製図、測量、顕微鏡等で、それに農場実習と兵式体操があった。室内実験は午後一時半より三時半に終わり、農場実習は三時間であった。但し一週のうち水曜日と土曜日は午後の実験がなく半休であった。教室では英語の演説法が指導された。英米の有名なる士の演説を暗誦して、態度や抑揚は一々批判された。ある時に私は最優等の成績をとり、「どうしてあの訥弁家の宮部が、語学に堪能でかつ能弁である新渡戸より高点を取ったのか」といぶかられたこともある。なお、時には何週間か前に課題が与えられ、三人ずつ相対し主題を英語で討論し、更に全級の投票によってその可否を決定した。「北海道には農業を奨励する急務か、水産を奨励するが急務か」のごときがその課題の一例である。また original declamation といって自ら英作文を作って各自がこれを演説した時もある。日本人の教師としては当時兵式体操の加藤重任先生(士官学校第一期生)、地質学の工藤精一先生がおり、また漢学の長尾布山先生がいた。特に今考えて見て興味のあるのは、当時既に本校に歩兵科があり、兵式体操をやっていた事で、札幌農学校は日本で始めて兵式体操をやった学校として有名であった。陸軍中尉加藤重任先生が指導に当たり、各個教練、国体教練をやり、級のうちの一人が代わる代わる小隊長になり、その号令のかけかたが、主に体操の点数となった。冬期間狭い演武場の2階にあった体操場では随分苦労したものである。また射撃もやった。射撃場は藻岩山麓の屯田兵村にあり、実弾は一人三発くらいであったと思う。四年級の時には特に兵学が講ぜられた。
2016年08月29日
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7月23日に寄贈してちょうど1ヶ月で蔵書としていただいた、すばやい対応に感謝!大学図書館 14冊 宇都宮大学(A,B,C,D,E,F,G,H,I,J,K,L,M,N) 、13冊 東京大学(A,B,C,D,E,F,G,H,I,J,K,M,N) 、京都大学(A,B,D,E,F,G,H,I,J,K,L,M,N) 、九州大学(B,C,D,E,F,G,H,I,J,K,L,M,N) 、岩手大学(B.C,D,E,F,G,H,I,J,K,LM,N) 、高知大学(B.C,D,E,F,G,H,I,J,K,L,M,N)、大阪教育大学(B,C,D,E,F,G,H,I,J,K,L,M,N) 、敬和学園大学(B,C,D,F,G,H,I,J,K,L,M,N) 、鹿児島純心女子短期大学(B,C,D,E,F,G,H,I,J,K,L,M,N) 、東洋大学(B,C,D,E,F,G,H,I,J,K,L,M,N)、東京農業大学学術情報センター〔オホーツク〕(B,C,D,E,F,G,H,I,J,K,L,M,N)、鹿児島県立短期大学(C,D,E,F,G,H,I,J,K,L,M,N) 、 12冊 東北大学(B,C,D,F,G,H,I,J,K,L,M,N)、福井大学(B,C,D,E,G,H,I,J,K,L,M,N)、北海道教育大学(B,C,D,F,G,H,I,J,K,L,M,N)、駒澤大学(B,C,D,F,G,H,I,J,K,L,M,N) 、11冊 長崎大学(B,C,D,E,F,G,H,I,J,K,L)、鹿児島大学(B,C,D,E,F,G,H,I,J,K,L)、聖隷クリストファー大学(B.D,F,G,H,I,J,K,L,N) 、立命館アジア太平洋大学(APU)(B,C,D,F,G,H,I,J,K,L,M,N) 、水産大学校(B,C,D,G,H,I,J,K,L,M,N)、高知工科大学(C,D,E,F,G,I,J,K,L,M,N) 10冊 徳山大学(B,C,D,E,G,H,I,J,K,L)、宮城教育大学(B,C,D,E,F,G,H,I,J,K)、関西国際大学(B,C,D,F,G,H,I,J,K,L) 、金沢学院大学(B,C,D,E,F,G,H,I,J,L) 、玉川大学(B,C,D,F,G,H,I,J,K,L)、北星学園大学(B,C,D,F,G,H,I,J,K,L)、法政大学(B,C,D,E,F,G,H,I,J,K)、静岡産業大学(B,C,E,F,G,H,I,J,K,L) 、独協大学(B,C,D,E,F,G,I,J,K,L)、青山学院大学(B,C,D,F,G,H,I,J,K,N) 9冊 北海道大学(B,C,D,F,D,G,H,I,J,K)、弘前大学(B,C,D,F,G,H,I,J,K)、福島大学(B,C,D,G,H,I,J,K,L) 、神戸大学(A,B,D,E,F,G,I,J,L) 、高崎経済大学(B,C,D,G,H,I,J,K,L)、東京農業大学(B,D,E,F,G,H,I,J,L)、桐蔭横浜大学図書館(B,F,G,H,J,K,L,M,N) 8冊 金沢大学(B,C,D,E,F,G,I,J)、高崎経済大学(B,C,G,H,I,J,K,L)、日本大学生物自然科学部(C,D,E,F,G,H,L,M)、酪農学園大学(B,C,H,I,J,K,L,M)、沖縄国際大学(C,D,G,I,J,K,L,N)7冊 小樽商科大学(D,E,F,I,J,M,M)、新潟大学(B,D,F,G,H,I,J) 、愛媛大学(B,E,D,J,G,L,M)、京都教育大学(D,F,G,I,J,K,L)、早稲田大学(A,B.D,G,H,I,J) 、関東学院大学(B,C,G,H,I,J,K) 、東北福祉大学(C,H,I,G,J,K,L)、活水女子大学(C,G,H,I,J,K,L)、高知工科大学(D,G,I,L,H,J,N)、東北学院大学(G,H,J,K,L,M,L) 6冊 大分大学(C,G,H,I,J,K)、西南学院大学(G,H,I,J,L,M)、北海学園大学(C,L,H,G,I,J)、武庫川女子大学(G,I,J,L,K,N)5冊 九大理系(G,H,I,J,K)、群馬大学(D,E,F,G,L)、日本女子大学(C,F,H,I,K)、札幌大谷大学(G,H, I,J, L)、静岡理工科大学(B,G,I,J,L,M),同志社大学(B,F,K,J,N)、首都大学東京(B,G,I,J,L)4冊 上武大学(C,D,E,F)、同志社女子大学(D,F,G,J)、兵庫大学(G,H,I,J)、國學院大學(F,G,I,J)、北陸学院大学(F,G,J,L)、 3冊 埼玉大学(B,D,F)、高野山大学(B,C,D)、京都工芸繊維大学(I,J,K)、神戸学院大学(B,D,E)、鳥取短期大学(G,J,K)、南山大学(G,H,J) 2冊 静岡大学(A,B)、大阪市立大学(B,F)、宮崎大学(G,J)、東海大学(B,F)、聖心女子大学(I,J)、近畿大学(H,J) 1冊 北海道科学大学(I)、群馬県立女子大学(I)、東京都市大学(D)、慶応義塾大学(A)、甲子園大学(G)、佐賀大学(B)、上越教育大学(B)、鹿屋体育大学(D)、日本大学国際関係学部(F)、室蘭工業大学(I)、東京女子大学(G)、ICU(J)、神戸国際大学(G)、フェリス女学院大学(D)、昭和女子大学(J)、浜松学院大学(F)、滋賀大学(B)、神戸海星女子学院大学(G)、山梨学院大学(J)A 日本近代製糖業の父台湾製糖株式会社初代社長鈴木藤三郎 B 報徳産業革命の人 報徳社徒鈴木藤三郎 C 二宮尊徳と日本近代産業の先駆者鈴木藤三郎 D ボーイズ・ビー・アンビシャス―クラーク精神&札幌農学校の三人組と広井勇 E 砂糖王鈴木藤三郎―氷砂糖製造法の発明― F ボーイズ・ビー・アンビシャス―米欧留学篇 G ボーイズ・ビー・アンビシャス―新渡戸稲造の留学談・帰雁の蘆 H 報徳記を読む第1集I ボーイズ・ビー・アンビシャス―札幌農学校教授・技師広井勇と技師青山士-「紳士」の工学の系譜J ボーイズ・ビー・アンビシャス 内村鑑三神と共なる闘い―不敬事件とカーライルのクロムウェル伝 K 報徳記を読む第2集 L 二宮金次郎の対話と手紙 第一小田原編(少年、青年編)M 補注鈴木藤三郎の米欧旅行日記 N 報徳記を読む第3集「ウナギ風味のナマズ」店頭に 近畿大が開発寺尾佳恵2016年7月30日 「土用の丑(うし)の日」の30日、町中にはウナギを焼く香ばしい香りが漂った。「ウナギ風味のナマズ」も今年からスーパーの店頭に並ぶなど、高嶺(たかね)の花となったウナギの“代替品”をめぐる商戦も活発だ。 近大マグロに続き近畿大学(大阪府)が手がけた「ウナギ風味のナマズ」。この日、東京・銀座と大阪・梅田にある直営料理店で「近大発ナマズ重」(2200円)が販売され、梅田では限定50食が40分ほどで完売した。 大手スーパーのイオン各店舗にも「近大発なまずの蒲焼(かばやき)」(半身1枚税込み1598円)が並んだ。23、24日に先行販売しており、30日と合わせた3日間で約5千食が販売される。 23日、イオンでかば焼きを買った大阪市住之江区の警備会社経営西村謙一さん(61)は食後、「おいしいとは思うけど、食感やにおい、小骨がウナギとは違う。改良の余地がある」。 近大世界経済研究所の有路(ありじ)昌彦教授(41)が2009年に研究に着手。昨年5月、開発に成功した。食べた人へのアンケートでは、80%が「ウナギに似ている」と感じ、85%が「おいしい」と答えた。一方で脂の乗りが足りないとの声もあり、エサの脂質含有量や与える時間を工夫し、ナマズの切り身100グラムあたりの脂質を昨年の12・9グラムから15・1グラムに増やした。 一方で養殖に参入する業者も増え、ナマズの稚魚が取り合いに。値段は1年前の1匹30~40円から、80~100円に高騰したという。安定供給も課題だ。問い合わせの多さから、近大は需要を10万トンほどと見込むが、来年の供給目標は約100トンにとどまる。 有路教授は「ウナギのパチもん(偽物)やけど、『ウナギに似ている』でなく、『近大発ナマズはおいしい』と言われるようになるとうれしい」と語る。 「一年中、ウナギの半額程度」が目標で、外食店でのメニュー化も視野に入れているという。(寺尾佳恵)近畿大学、南紀白浜で「におわないブリ」試食販売【関西】「いらっしゃい、いらっしゃい、近大のにおわないブリだよ」--威勢の良い呼び込み声が11~13日、南紀白浜の人気スポット「とれとれ市場」に響いた。近畿大学が「近大マグロ」「近大発ナマズ」に次いで発売する「におわないブリ」の試食販売会だ。このブリ、気温が高い夏場でも“寒ブリ”並みに脂が乗る、魚好きなら垂ぜんの食材だ。しかもエサの原材料を工夫することで、魚嫌いが敬遠する独特の青魚臭さがない。近畿大学とエースコック、ベトナムでカップ麺の市場創造インターンシップ近畿大学とエースコック株式会社は、2016年8月22~29日の8日間、ベトナム・ホーチミン市にて、産学共同による海外インターンシップを実施。エースコックと近畿大学が共同で海外インターンシップを実施するのは今回が初。学生たちは現地の大学生と協力して、カップ麺の普及率が低いベトナムでの市場開拓に挑戦する。 ベトナムは、2015年の1人当たりの即席麺年間消費量が51.9食で世界第2位だった(世界ラーメン協会調べ)。しかし、そのうちカップ麺の割合は2%ほどで、ベトナムの即席麺市場でシェア5割以上を誇るエースコックベトナム社では、カップ麺市場の開拓を目指しているのだという。 今回の海外インターンシップでは、学生に「ベトナムでカップ麺市場を創造せよ!」というミッションを与え、選抜された近畿大学の2・3年生16人が、現地のホーチミン市オープン大学の学生と協力してこの課題の解決に挑戦。マーケットで視察・アンケート調査などのリサーチ活動を行い、マーケティング戦略を立案してエースコックベトナムの担当者にプレゼンテーションを行うという。学生たちはこのインターンシップを通じて、問題解決能力やコミュニケーション能力を身につける。 一行は、2016年8月22日に関西国際空港を出発し、現地で、ベトナムでのビジネスや日系企業について学ぶ講演会の聴講、エースコック工場見学などをした後、ベトナムの学生を含めたグループにわかれて、市場調査などを行う予定。
2016年08月26日
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「桜街拾実」(烏山藩菅谷八郎右衛門)【4】酉年小田原ニて窮民救米拝借之義、其筋へ申立候処、一応江戸表え伺之上ニ無之候ては取計兼候旨、鵜沢作右衛門より申聞候処、金次郎申候は、飢渇救候義は片時を争ひ候義、乍去、右之通評議一決之上ハ致方も無之、左候ハゝ重役衆始掛り一同、右窺済迄ハ昼夜役所ニ詰切、断食ニて相待可然旨申候付、其段重役え申聞候処、早速評議埒明、俵数相渡候直々蔵方え達有之候由。依て蔵方え受取時刻問合申候処、蔵開き候日限ハ来ル幾日ニ付、其節可相渡旨ニ付、前々より之規定ニ候は是非も無之、然ル上は当日迄蔵方一同断食ニて相詰居可然旨申遣候処、是亦即刻渡ニ相成候由。【4】酉年(とりどし:天保8年)小田原において(飢饉で)困窮する人民を救うため米を借出すよう小田原藩へ申し立てたところ、一応江戸屋敷へ伺った上で無ければ取り計らうことができないと、鵜沢作右衛門から聞いて、金次郎が申しますには、「飢渇を救うことは片時を争います。しかしながら右の通り評議が一決しないと致し方が無いとのこと、そうであれば重役衆始め係の者一同は、その伺いが済むまでは昼夜役所に詰め切って、断食して待つべきしょう」と申したので、その旨を重役へ申したところ、早速評議が解決し俵の数を渡すようにと直接、蔵方へ連絡があったということです。そこで蔵方へ受取りの時刻を問い合わせたところ、蔵開きの日限は来ル何日だから、その時に渡しますとのことなので、前々からの規定があることはやむを得ない。そうであれば、当日まで蔵方の者一同断食で詰めているべきだと申し遣わしたところ、これまた即刻渡されることになったということです。報徳記における小田原仕法については、著者富田高慶自身が直接見聞した事柄ではなく、おそらくはこの 桜街拾実 や 鵜沢作右衛門 などから直接間接に聞き取った資料がもとになっていると推測される。【4】に相当する部分は、報徳記においてもクライマックスの一つであるが、報徳記該当部分を載せる。報徳記 巻之五 【6】小田原領駿豆相飢民に撫育を行ふ 小田原領は駿州豆州相州三ヶ国に跨り、西南は高山峨々として北に又曾我山あり。(略)時に歳の十二月先生忽然として小田原に至り君命を受け飢民を撫育せんが為に来れりと、命令の趣旨を達して曰く、「今年大凶に当れり。君病床に在して大いに、国民の飢渇に及び罪無くして死亡に至らんことを歎き、我をして救荒の道を存分に行ふべしと命じ玉へり。我野州三邑の民を撫育し、彼の地の用財を持ち来れりといへども、何ぞ其の一端を補ふに足らん。君江都に於て手元金千両を某に賜ひ、米粟は小田原に於て蔵を開き、救荒の用に当てんと命じ玉ふ。速かに倉廩を開き飢民に之を賑貸して、其の飢渇を救はん。」と云ふ。大夫以下一度は喜び一度は其の処置如何と疑惑し、互に議して曰く、「今領中の飢民幾万かある。廩粟何を以て周く賑貸するに足らん。且君此の事を二宮に命じ玉ふといへども、未だ某等(それがしら)に倉廩を開き飢民を撫せよとの命令なし。君命至らずして倉廩を私には開き難し。後日令を待たず二宮の一言を以て君の蔵を開きたるの咎めあれば、何を以て其の罪を免れんや、此の旨を以て江都に伺ひ、命令あらば開くべし。何ぞ二宮の一言を以てせんや」と衆議更に決せず。先生顔色(を正し声を励して曰く、「今幾万の飢民露命旦夕に迫れり、其の困苦悲歎幾許なるや。君自ら病苦を忘れ、日夜飢民の痛苦をのみ憂ひ、臣に命ずるの間も救助の後れん事を歎き玉ふ。然るに各位の職国民を安んずるを以て任とし、上君の心を安んじ下万民の疾苦を除き、国家をして永く憂ひなからしむるの職にあらずや。今君大いに憂労をも省みず。徒に常論を発し日を費し民の餓?を待たば、何を以て国家の為に心力を尽すの忠義となすを得んや。我君命を受け此の地に至らずといへども、各々速かに救荒の道を行ひ一民も飢渇の憂なからしめ、然後君に言上し、危急といへども主命を待たざるの咎めあらば、其の罪に服せんこと是元より君に代りて国を守り政を執るものゝ任にあらずや。況んや我君命を伝へて廩粟を発かんことを請ふ。猶之を疑ひ江都に伺はんとす。往還数日にあらざれば再度の君命当地に達せず。民の死亡に及ばんこと朝夕を待つべからず。各君命を得て廩を開く時に至らば、飢民既に過半死亡せん事必然たり。救荒の道是の如くにして其の至当を得たりとせんか、嗚呼惑ひたりと云ふべし。然れども各々の心斯にあらず。言論何の益かあらん。明日より各々断食して役所に至り、此の評議決せん迄は必ず食すべからず。飽食安居して飢渇の民を救ふことを坐上に論ぜば其の民の困苦を知らず。何れの時か評決することを得んや。今飢民の事を議するに、自ら食を断じて之を議せば其の可否論ぜずして自ら弁ぜん。某も亦断食して此の席に臨まん。各々必ず此の如くせよ。」と其の声雷の如く、一坐大いに驚き且当然の理を感じ、即刻倉廩を発せんと云ふ。 先生直ちに倉廩に走り、速かに蔵を開く可きの云々を守者に達す。守者曰く、「君命あらざれば豈開く事を得ん。子の言に因りて之を開かば後難免る可からず。」先生曰く、「某江都に於て君命を受け又此の地に来り衆議一決せり。事急にして未だ役所より達するに遑あらず。汝若し開く能はずんば我と共に飲食を断ち其の命を待つべし。領民飢歳の為に露命一朝に迫れり。何ぞ平常の事を以て之を論ぜんや。」と大音)に之を戒む。守者某先生の一言に服して倉廩を開く。先生其の苞数を点検し領邑へ運送の手配りを定め、是より領中を独歩或は高山を超え深谷を渉り、終日終夜頃刻も休まず。此の時に至り勘定奉行鵜沢某君命を受け、江都より来り先生と共に廻村せり。 (略)太字部分を「報徳記を読む会」で作成した現代語訳を示すと次のとおりである。 時にその年の12月(実は翌年2月)先生がにわかに小田原に来て君命を受けて飢えた民を恵み育てるために来たと命令の趣旨を伝達して言った。「今年は大凶作の年である。君は病の床におられて非常に国民が飢えそして罪も無く死亡に至っていることを歎かれ、私に救助の道を存分に行うようにと命じられた。私は野州の3村の民を恵み育て、彼の地の用財を持って来たが、どうして救助の一端を補うに足ろう。君は江戸で手元金の千両を私にくだされ、米穀は小田原で蔵を開いて、救助の用に当てよと命じられた。すぐに穀物を蓄えている蔵を開いて飢えた民にこれを貸し与えて、その飢えを救おう。」と言った。家老以下一度は喜び一度はその処置はどうであろうかと疑い、互いに論議して言った。「今、領内の飢えた民は幾万あろうか。蔵の穀物でどうしてあまねく貸し与えるに足りよう。さらに君がこの事を二宮に命じられたといっても、まだ私たちに穀物を蓄えた蔵を開いて飢えた民を恵み救えという命令はない。君の命令がこないのに穀物を蓄えた蔵を私には開きがたい。後日命令を待たないで二宮の一言で君の蔵を開けたという咎めがあれば、どうしてその罪を免れようか。この旨を江戸に伺って、命令があらば開けばよい。どうして二宮の一言で蔵を開こうか。」と会議派いつまでたっても決まらなかった。先生は顔色を正して大きな声で言われた。「今、幾万の飢えた民の露命が今日の夜明日の朝に迫っている。その困苦・悲嘆はどれほどであろうか。君が自らの病気の苦しみを忘れ、日夜飢えた民の痛苦だけを憂慮され、臣に命ずる間も救助が遅れる事を嘆かれている。そうであるのにおのおのの職務は国民を安らかにすることを任務とし、上は君の心を安らかにし下は万民の悩み苦しみを除いて、国家を永く憂いなからしめる職ではないか。今、君が非常に憂え労されていることを省みないで、いたずらに通常の論議を交わし、日を費して民が飢え死にすることを待つならば、どこが国家のために心を尽くし力を尽す忠義となすことができようか。私が君の命令を受けこの地に来なくても、あなた方はすぐに救助の道を行って一人の民も飢えの憂いがないようにし、その後に君に申し上げ、危急とはいえ主命を待たないという咎めがあるならばその罪に服するということ、これがもとから君に代って国を守って政治を行なう者の任務ではないのか。ましてや私は君の命令を伝えて穀物を蓄えた蔵を開くことを求める。なおこれを疑って江戸に伺うとする。往復が数日なければ再度の君の命令はこの地に達しない。民の死亡に及ぶことは明日の朝、今日の夕べを待つことはできない。あなたがたが君の命令を得てから穀物を蓄えた蔵を開く時には、飢えた民は既に半分以上死亡する事は必然である。救助の道がこのようでその至当を得ていたといえようか、ああ窓っているというべきである。しかしながらあなた方の心はここにはない。論議しても何の役にたとう。明日からおのおの食を断って役所に来て、この評議が決しない限りは必ず食べてはならない。飽食して安らかにしていて飢えた民を救うことを座って論ずるならばその民の困苦を知ることはできない。いつの時に評決することができよう。今、飢えた民の事を論議するのに、自ら食を断ってこれを論議すればその可否は論じなくても自ら理解できよう。私もまた食を断ってこの席に臨もう。あなたがたは必ずこのようにしなさい。」とその声は雷のようで、一同は非常に驚いて、さらにもっともな道理であると感じ入って、すぐに穀物を蓄えた蔵を開くことにしたという。 先生はすぐに穀物を蓄えた蔵に走って、すぐに蔵を開くべきことを番人に伝達した。番人は言った。「君命がなければ、どうして開く事ができよう。あなたの言葉によってこれを開くならば、後になって災難がふりかかることを免れることができない。」先生は言われた。「私は江戸で君命を受け、またこの地に来て会議でも一決した。事は急でまだ役所から伝達する時間の余裕がない。あなたがもし開くことができないと言うのなら私と共に飲食を断ってその命令を待つべきだ。領民が飢饉の年であるために露のようにはかない命が朝にも迫っている。どうして通常の事でこれを論ずることができようか。」と大きな声でこれを戒めた。番人は先生の一言に服して蔵を開いた。先生はその俵の数を点検し、領村へ運送の手配りを定め、これから領内を独り歩いてあるいはは高山を超え、深い谷をわたり、朝から晩までしばらくの時間も休まなかった。この時になって勘定奉行の鵜沢作右衛門が君命を受け、江戸から来て先生と一緒に回村した。
2011年01月07日
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ウィリアム・エス・クラーク(四〇頁)札幌農学校創立者であるドクトル・ウィリアム・エス・クラーク(William Smith Clark)の名は、北海道大学が存在する限り、日本にキリスト教が宣伝される限り、永遠に敬慕の念をもって記憶されるであろう。クラーク先生は、一八二六年七月三一日北米マサチューセッツ州アッシフィールドに生まれ、一八四八年二二歳の時アマスト大学を卒業し、次いでドイツ・ゲンッチンゲン大学に留学、専ら鉱物学及び化学を修め、一八五二年二六歳で哲学博士の学位を得た。帰米後、母校アマスト大学に一五年間化学の教授として勤続された。その間に当時米国において最も完備した化学実験室をつくり、そのため再度ヨーロッパに渡った。一八六〇年南北戦争が起ったため、志願士官として二年間、北軍の兵役に服し、抜群の武勇を現して大佐にまで昇進した。一八六三年にモーリル法令という議案が国会を通過した。その法令により、米国各州に州立農科大学を設定することになった。マサチューセッツ州では、ボストンに建つことになったが、位置問題に関しては非常な競争が各地に起った。その際先生はアマストをもって最も適当なる地であることを盛んに唱道したばかりでなく、アマスト市民をして、このために特に五万ドルの市債を起させ、遂に同地に州立農科大学を設定せしめた。これは全く先生の努力の結果である。そして一八六七年一〇月二日開校の際には、先生はその学長として、創立経営の任に当たられたのである。これより一一年間、校長としてその職に尽瘁されたが、この期間内一八七六年(明治九年)に日本政府の招へいに応じ、一年間の賜暇を得、在職のまま来朝し、北海道に本邦における最初の農学機関たる札幌農学校創設の大任を見事に果たされ、その基礎を築いたのである。札幌に滞在した期間は、わずかに八ヶ月、その間に遺した所の感化、及び新設された農学校の大方針は、今なお先生の面影を止めている。そして先生は州立農科大学を一八七八年(明治一一年)に辞職し、Floating College(洋上大学、汽船内において大学の設備をなし講座と研究を行い、世界を巡洋航海し、各重要地点で上陸し、その国の風物物産を始め、動植物その他の天然資源に至るまで実地に生きた学問をする)を設立する事を発起したが、不幸にして、資金その他の事情によって中断された。かくて一八八六年(明治一九年)三月九日にアマストの邸宅において死去された。先生の一生を顧みるに、先生は卓越せる教育家であり、また非凡な経世家であった。そして経営の才能にとみ、その計画を実行する力量を豊富に有しておられたのである。性質と人格 私は札幌農学校の第二期生として明治一〇年に入学し、クラーク先生に直接師事したことはないが、先生の性質、人格、逸事等について収集した材料により、その人となりを考え尊敬の念を深からしめた。先生は少年の頃から負け嫌いで、非常に勝ち気であった。例えば競技においても必勝を期すため非常な努力と練習とを重ね、常に負けた事がない。またケンカをしても負けた事がなかった。この性質が終生の行動に現われ、何事に対しても成功するまで忍耐し、貫き、徹底的に処理された。競争場裡に勝ちを占めんとする精神が、全生涯を通じて最も重要な部分であった。この性質があったために、南北戦争の際には一隊を指揮し、すべての困難に打ち勝ち、武名を高からしめ戦功を立てた。この精神があったために日本政府の依頼に快く応じて、はるばる異郷に来たって永遠朽ちざる功績を遺して行かれた。不撓、奮闘的精神はその体格にも現われ、中背ながら筋骨たくましく、一種冒すべからざる威厳があった。同時に親しみやすい温かみと人をひきつける魅力を備え、教育家としても、士官としても、学生や部下に及ぼす感化は顕著なものがあった。先生の垂下せる黒く太き眉の下に輝く碧眼の鋭い眼光は人を射るごとく、時には柔らかい温情に満ち幼児をさえ近づき慕わせた。先生は老年に至るまで子供らしい無邪気な所が残っていて何事に対しても非常に熱心であった。常にユーモアに富み、また座談に長じ、しばしば青年を集め、驚異に満ちた冒険談、興味ある経験談、逸事等の物語のうちに、彼らに鞭撻教訓を与えた。青年らは先生を愛墓し、尊敬した。先生は正義を愛し、正義のため全力を尽くして戦い、妥協を嫌い、否を否として是を是とし、禁酒禁煙の人であった。学者としてのクラーク先生 先生はアマスト大学に在学中、地質学教授エドワード・ヒッチコック(E.Hitchcock)氏の感化を最も多く受けている。地質学、鉱物学、化学等に興味を有し、卒業後特に鉱物学、化学を研究するためゲッチンゲン大学に学び、「隕石の化学的成分」という論文を提出し哲学博士の学位を得た。先生は化学を研究しているうちに、植物学に対しても興味を持ち、植物学と化学との関係、植物生理学の方面に興味を抱かれた。一八五〇年ドイツへ留学の途次、ロンドンに数週間滞在中、ロンドン市外のキュー王立植物園の温室内に、その年初めて咲いたビクトリア・レジアという南米アマゾン河に産する大睡蓮の記事を新聞紙上で読み、これを見に行きその雄大な葉と花を見て、植物界における驚くべき生活現象に直面し、感動と畏敬の念に充たされた。そしてキューに匹敵しないにしても帰国後いつの日か植物園を造り、雄大な睡蓮をも植え、植物界の神秘を人々に知らしめたいという希望を起こし、植物学に対する愛着心と研究心とが強烈となった。一八七二年「植物学と農学との関係」という演説の中でキュー植物園で抱いたヴィクトリア・レジアの夢を、アマスト州立農科大学における温室栽培で実現したことを報じている。州立農科大学の創立当時は教官わずか四人で、校長クラーク氏は植物学及び園芸学の教授を兼ね、植物園長をも兼ねたが、その当時の園なるものは名義のみで、実際は紙の上に存在していたガーデンに過ぎないけれども、それを光栄としていた。先生は時勢に先んじて植物生理学に関する実験を企て、ドイツの生理学者をしてその結果を引用させるような有益な発見をしている。この実験は共同研究によって行われたもので、これらの研究中次の二つは最も有名なものである。第一は一八七二年に実験された「植物体における液汁の循環と同液汁の圧力」であるが、研究方針は先生によって計画され、全校で学生や助手等がそれぞれ分担を決め、この研究に従事し完成させた。第二は一八七四年における実験で、それは一層規模の大きなものであって、「植物の生活現象についての観察」であり、全校をあげて研究に従事したといっていい。この実験を手伝った人々のうちに札幌農学校の教師になったペンハロー(Penhalow)、ブルックス(Brooks)両先生の名があり、クラーク先生の長男アセルトン・クラーク(Atherton Clark)の名もある。これは植物の盛んに生育している所の器官が外囲の圧力に抵抗していく膨張力を試験したのである。更に春季における植物根圧の試験をなし、その他いろいろな現象を研究した。これらに対しハーバート大学の有名な動物学者ルイ・アガシー(Louis Agassiz)は讃辞を呈している。「かくのごとき研究をなし、またこれをかく明確に報告し得るものは既にその仕事の報いは受けているのであって、他人からこれに対する讃辞がなくても自ら心に満足を感じていると思う。この論文によってアマストの州立農科大学は学界のうちに一つの確固たる位置を占めた。学術界においては何か貢献するのでなければ、その学校は存在の意義を認められないわけだ。この論文は植物生理学にとって実に驚くべき所の発見である。この学校が今日までに消費された経費は、これによって全く償われた。」先生はこの論文によりアマスト大学より名誉博士(L.L.D)の学位を得た。先生は農学に取って各種の科学はみな密接な関係をもっているが、特に植物学は科学的農学の基礎をなしていると考えられていた。教育者としてのクラーク先生 クラーク先生が札幌を出発された時に、当時の学生職員等は島松まで見送った。その時別離に際し日本の青年に対して遺された言葉はすなわち彼の有名なるBoys, be ambitious!であった。言葉は簡単であるが、その意は実に深い。「青年よ。汝ら大志を抱き、小成に安んぜず、力の限り努力して、向上発達を図り、国のために尽せよ。」という教訓である。これは単に学術を習得するのみならず、身体の健全を図り、精神の修養を怠ってはならないという事である。この事は明治九年先生が札幌農学校の開校式においてなされた演説中にもよくその精神を発見する事ができる。先生はほとんど完全な理想に近い教育家として差支えがないであろうと思う。それは一方学生の徳育、知育、体育等に対して稀に見る所の経綸を有し、着々自分の主義理想としている所を実行して成績を挙げられたのみならず、教育行政家としてもまた非凡なる才能を現わしたのである。実際上第一の校長としてはその基礎を完全にし、かつ一種の特色を作興した。すなわち農業教育の他、国民として欠くべからざる所の諸学科=修身学、心理学、文学等=を授け、また練兵に重きを置いて、歩兵科、砲兵科等を創立当時より実行するようにしたのである。なお研究の精神を学校の生命として、職員学生間にこれを普及奨励したのである。かかる点から見ても決して通常の教育家に期待する事のできないあるものをもっていたのである。学生を指導感化するに際しては自ら先んじてその範を示し導かれた。札幌に来られて最初に試みられた所の大改造は、学校に関係する教官学生をして禁酒、禁煙及び賭博と涜神誓言を禁ずる誓約文を起草して自らまずこれに署名し、他の教授学生にも加盟せしめた。第一期の学生等の如きは先生の感化によって全級これに署名した程である。先生は日本の学生の堕落し健康を破るものの最大原因は、全く飲酒と喫煙にありと見抜いて、開校式の式辞においても既にその事について述べられている。それは学生の徳育及び体育にとって最も大切なる改革はこれが制欲である事を認められたに相違ないのである。また先生は学生の勇気を鼓舞するために自ら率先して冬期間手稲山に登ったり、盛んに屋外の運動や植物採集などを奨励し、山野を跋渉してその範を示された。時々学生の寄宿舎を廻り、日中勉強している者、すなわち午後読書するがごとき者は、これを戒めて屋外の新鮮なる空気を呼吸すべく勧告された。なお学生に対して雪合戦を挑むがごとき事さえあった。先生が作られた札幌農学校の学則を見ると、マサチューセッツ農科大学のそれと同じように、農学及びそれに関係ある諸基礎学科の外に、英文学、英語討論、演説法、歴史、心理学、兵式体操等を加えたのである。本邦の官立学校において兵式体操を実際に行ったのは実にこれをもって嚆矢とする。この事が黒田長官の札幌農学校を設立した主旨に不思議にもまたよく符合している。設立当時の覚書の要に 「札幌農学校の設けたるや、その学生を養成して拓殖業務の衝路に当らしめ、殖産興業の実を挙げしむるにあり。すなわち泰西新進の学術技芸を巧に応用せしめ、進んで一国をして学術の効果顕著なるを知らしむるに在り。これを以て学生に自修の精神を重んぜしめ、将来社会に立脚の地歩を強固ならしむるものとす。云々」とある。米国においてもクラーク先生は学者としてよりも教育家として知られているくらいで、米国人名辞書には米国の教育家としてその伝記が綴られている。宗教家としてのクラーク先生 宗教家としてのクラーク先生は米国においてはただ熱心な一信徒であった。札幌滞在わずか八ヶ月間の先生が、いかにキリスト教の伝道に従事して偉大なる感化を遺されたかということは、最も注目に価すべきことである。先生は学者であり教育家であって、宣教師ではない。先生が専門学科教授のかたわら、学生に聖書を教えられたのは、日本の青年が身を修め、徳を養い、国家のために忠実なる臣民となさんがためである。明治九年の頃、官立学校においてバイブルを学生に、教室において教える事を黙認されたということは、実に不思議な出来事である。黒田長官は学生の品位について心を用いられ、札幌農学校の前身の東京の仮学校の時代にも生徒の不品行を憤られて全学生に退校を命じた場合もあった。先生と共に黒田長官や第一期の学生等は御用船玄武丸にて品川湾より小樽港に航海の途中、ある時学生等は甲板上で俗歌を唄うなど実に乱暴であった。黒田長官は非常に怒られ、こんな学生は到底見込みがないから函館から追い返せと命じた。航海中特に謹慎を命ぜられてその場は納まりが付いたが、黒田長官の心は穏やかでない。ここにおいて黒田長官と先生との間に徳育問題の問答となった。長官は先生に対し専門知識の外に学生徳育のため修身学をも教えることを懇請した。先生は快諾したが、徳育を施すにはバイブルを用いるのでなければ何ら効を奏することはできないと主張した。長官はバイブルを用いることに反対し、互いに堅く自説をとって譲らなかった。札幌へ着かれて長官は更に深く学生の徳育の必要と、また先生の人格熱誠に感動され、自説をまげて徳育のことは一切先生に委ね、バイブルを一の文学、修身学書として教えることを黙認した。この時先生の荷物の内には横浜で購入したバイブル数十冊が学生に配布されるべく用意されてあった。先生は毎朝授業に先だち聖書の講義をなし、学生をして名句を暗誦せしめ、彼らのために熱祷を捧げ、次第に彼らを導き感化した。明治一〇年四月札幌を去られるに先だち、「イエスを信ずる者の誓約」を起草し、学生中有志の者に署名せしめ、第一期生は全部第二期生もほとんど全部署名するに至った。先生は帰国後も札幌に思いを馳せられ、文書で彼らを奨励し、特に信仰上の働き、その奮闘ぶりを聞き、この上もなく喜ばれた。先生が臨終の際に牧師に語られた言に、「今自分の一生を回想するに何ら誇るに足るようなものはない。ただ日本札幌において数ヶ月間、日本の青年に聖書を教えたことを思えばいささか心を安んずるに足る」と。先生がいかに熱誠をこめて教導された推察できる。クラーク先生を記念するもの 明治一〇年四月、クラーク先生は札幌を去るに先立って「イエスを信ずる者の誓約」を起草し、一期生の有志の者に署名させたが、二期生もほとんど全部が署名するに至った。その後、署名者の約半数は信仰を捨てたが、残りの半数は毎週集会を開き、聖書を研究して信仰を練り、卒業後、明治一四年同志は外国の教派と何ら関係のない札幌独立キリスト教会を設立した。クラーク先生の遺業の一つであるこの信仰の一団体は幾多の困難の内に成長発達した。大正元年に内村鑑三氏が独立教会応援のために来札した時、クラーク先生の宗教的な働きを記念すべく、札幌独立キリスト教会の会堂が、大通西七丁目に建設された。大通りにおける由緒ある教会堂として、札幌市民にも愛慕されている。
2016年08月29日
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四 松浦竹四郎と宮部家(一六頁) 私たちがまだ駿府の代官屋敷に住んでいた時、松浦竹四郎氏が、明治元年閏四月六日付で京都大総督宮より「急々上京仰付」の命を拝し、京都往復の際、往復とも静岡の役宅に立ち寄られた。ことに御用を果たした帰途には数日間滞在されていった。松浦氏は当時における蝦夷(エゾ)地探検の第一人者であり、また著述家として令名のあった人で、後に開拓使の判官となり、北海道の国境を確立した。明治元年の御召の際にも京都滞在中に「蝦夷開拓基本献白書」を提出申し上げた。駿府に滞在中、徒然のままに唐紙にアイヌの絵を数枚書いて残していかれた。そのうちの一枚は今なお北海道帝国大学図書館にあり、一枚は故新渡戸稲造氏に贈呈し、アイヌが昆布を採っている絵のただ一枚が私の手もとに残っている。この絵は非常によくできているため、先年来朝した米国シカゴ大学教授スタールが札幌に来た時、これが複写を熱望され、数枚の複写をとったが、その一つは故河野常吉氏の所に蔵された。松浦家と宮部家とは極めてじっこんの間柄であり、江戸下谷の寓居は松浦家にごく近かった関係から、両家のゆききも相当に繁しかった。したがって数多い氏の名著はその都度我が家に寄贈された。このため、書物の中のアイヌや、蝦夷地の草花類や鳥獣などの絵を見ており、子ども心に早くも遠い蝦夷地に対し一種の親しみと憧れを持っていた。なお松浦氏は私に眼をかけられて、私を養子に懇望された由を、後になって、母から聞かせられた。けれどもこの話は父も母も進まなかったので取りやめになったという。しかし尽きせぬ縁というか、松浦氏が心血を注いだ北海道に、私は今日まで一生を捧ぐべき研究ひとすじの生活を送り来ったのである。五 修学のはじめ(一七頁)七歳(慶応二年)の時、私は初めて下谷仲御徒町岩村田藩儒者宮崎右膳氏に就き、漢学を修め始め、また近所の寺子屋にも通った。八歳の八月、父に従って駿府に移ってから九歳の一二月駿府を去る日までは同地の寺子屋に通っていた。一〇歳(明治二年)の二月、東京府にて全市を六学区に分かち、その各々に小学校が創設され、建物には皆大きな寺院を使用した。下谷と浅草の者は三味線堀に在った西福寺という寺を使用した。これが当時の東京府第五小学校である。寺小屋とほとんど同じで、学科は漢籍の素読、習字、珠算等であった。私は袴を着し、木刀を腰にして御徒町からそこに通った。その頃、父はまた私に手習いの先生として下谷長者町の服部随庵氏を選んでくれた。始めて先生の所にあがった時、父は「長兄は樋口逸斎氏に、次兄は高斎単山氏にご厄介になっていますが、この子は是非あなたのご指導に預かりたい」と申し述べた。随庵氏は大いによろこばれて直ちに快諾された。私は小学校に通う時、この随庵先生のお手本を持っていき、習字の時間にはこれを手本としていた。この年五月、生まれて始めて写真を撮る。この頃はいまだ写真の極めて珍しかった時である。父が烏帽子、直垂を賜った記念であったらしく、当時一流の名声をはせていた池の端橋本写真館に行き、父は一人で、私は文臣兄と二人で撮影してもらった。一一歳(明治三年)の初春、東京各小学校から四、五人の者が選ばれ、城内のある御邸に参上、書初めをした事がある。自分も幸にその選に入ったので、羽織、袴にお行儀よく、身を固めて御邸にあがり、帰りには扇子二本をご褒美としていただいて帰った。これは随分嬉しかったことの一つである。この一一歳の春の頃、ごく一時的であったが、外国語学校の前身と考えられるような学校ができた。建物は麹町の大きな旧旗本屋敷にあったように記憶する。各小学校において洋学希望のものでその学校に行きたいものは申し出よとの事に、父に願って、私も届け出た。入学の願いがかない、出頭の命に従って登校したところ、集まる者約七〇名。私はその中の最年少組であった。三味線堀の小学校から志願した者の内には、岡胤信者(後の工学博士)、原田鎮次君(後の工学博士)、が一緒であった。この学校には英独仏の三科があり、それぞれ希望する所を書けというので、英語を志願した。ところが英語志望者が大多数であったので、私はドイツ語の組に回された。ここで「アー、ベー、ツエー」の読み方が始まったのである。教師には西洋人が二人ほどいたらしく、屋敷内に住み、また見え隠れに陣笠を被った護衛の士も若干ついて同じ邸内に住み込んでいた。彼ら洋人は外出に際し、いつも乗馬を用い、護衛の士も騎馬でその前後を護って行った。一一歳の少年にとって登校は相当な道程であったが、ただ一人で御徒町から本郷の切通を通り、飯田橋を渡って麹町へ往復した。これより先、既にその前半頃から私は洋学修行の志を持っていたらしく、時の流れを考え、自分の発展を期して父もまた洋学修行をさせたかったらしい。後年父が石賀作助氏に宛てた手紙(明治二年四月九日付)が発見され、その事が明らかになった。石賀氏は祖父が自分の養子として石賀家を継がせた人で、父の義弟に当たり、当時横浜に在住していた。ところが当時横浜の高島学校はいまだ開校の運びに至らず、かつ適当な機関もなかったので、その話はまずそのままとなったのである。
2016年08月26日
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内村第七信(英文封書)東京、太田稲造あて 札幌より 内村鑑三日記書簡集第5巻一八頁親愛なるパウロ〔新渡戸稲造〕 われわれが約一か月前に、苫小牧で経験した悲しい光景は、今もなお、そのままのように、あざやかである。君は東へ去り、僕は西に向かった。君は病み、僕は元気に(神の恵みにより)、君は泣き、僕も泣いた。この世には言葉には現せない何かがある。僕が君をあの旅館にのこしたままで《郡役所》へ行かねばならなかった時のあの感慨は、そうした性質のものだった。こんな風景はとても愉快だと君はくり返し言った。しかし、ああ!君にはそうかも知れないが、僕にはつらい時だった。君は僕が君の不幸にほとんど同情していないと思ったかも知れないが、しかし僕としては君を慰めるために全精力を使わざるを得なかったのだ。千歳の一夜はつらかった。僕は君に質問したが、君はほとんど答えてくれなかった。君は僕について知りつくしている。僕の気性も知っている。他人が僕を快く思っていないらしく見える時に、僕がどんなに心配するかは君も知っている。君との長い兄弟の交わりの間に僕が経験した一番つらかった、一番悲しかった時は、と聞かれるなら、千歳に宿った時、と答えるだろう。 僕の東海岸地方の淋しい旅行については、すでに宮部へ書き送った。われわれは目下、君の陸路と海路の旅行に関するしらせを待っているところだ。〔新渡戸の一二月分の俸給一二円を同封する。病気の具合を聞く。「君はしばしばジョン・スチュワート・ミルに頼る」未来を信ぜず、救い主を待たずしては、人は満足なき人たらざるを得ない。キリストの福音以外の方法によって満足しようとすれば君はいよいよ混乱してしまう。君はひとたびは神の恩寵へ召されたのである。われわれはその召しが空しくならぬようにと祈っている。兄弟よ、立ち上がってくれたまえ。君の望みをさらに高く、さらに深く、さらに広くしてくれたまえ。君の眼を上へ向けて開いてくれたまえ。君の眼光をハッキリさせ、いわゆる「誤れる学問」でそこなわないようにしてくれたまえ。我々は結構楽しくやっている。僕は目下役所の仕事がないので、魚類を研究するため、農学校の博物館へ行かせてほしいと細川氏に申し出たところ、許されたので、再び農学校へ毎日通っている。カッター博士〔John C.Cutter.札幌農学校教師。生理、獣医、動物、英語、水産を担当〕が顕微鏡学の指導をしてくれるだろう。一月中旬頃タラ漁視察のため、再び西海岸地方へ行かねばならぬが、それまでたぶん、農学校の博物館へかようだろう。年も暮れようとして、我々の財政状態はよくない。燃料は騰貴し、米も同じ。「餅」もつかねばならず、借金も返さねばならぬ。靴は新調せねばならず、衣類も補修せねばならぬ。広井〔勇〕は靴のことを思案し、藤田〔九三郎〕は全神経をランプに集中している。〔足立元太郎は男女の愛に駆られている〕宮部へは1週間ほど前に手紙を出した。〔新渡戸の父への伝言〕教会とキリスト教青年会とは非常に有望だ。今月二九日に大《親睦会》を、また一月八日に新教会の開堂式を催すことに決定した。僕は例によって委員にされ、目下非常に忙しい。近くまた書こう。 いつも霊と体と精神において 君の好意を受けている兄弟なる ヨナタン・内村鑑三文字がこまかすぎるなら、デコキンに読ませてくれたまえ。僕は郵便切手に多く支出できない。
2016年09月09日
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札幌へ(三五頁) 笈(きゅう)を負(お)うて〔(史記蘇秦伝から)勉学のために故郷を離れる意味〕、青雲の志を抱き、いよいよ故郷東京に別れを告げ、明治一〇年八月二七日、品川より開拓使の御用船玄武丸にて出帆した。玄武丸は六四四トンの蒸気船で、今日でこそ、小さな船であろうが当時としては鄙には稀な豪華船であった。もっともこの豪華船は非常に動揺しやすく、一名ゴロタ丸の別名を有していたほどである。中央部甲板の下にホールがあり、このホールは食堂兼談話室であった。ホールを中心にして一等室があり、各室とも定員二名、二等は舷側にあって定員四名、ベッドは上下に位置していた。三等室は舳(とも:船首)にあって、荷物が輻輳(ふくそう)すると積荷はその室にまで溢れて来た。私たちの乗船した時は、幸いに船客が極めて少なく、一行は一等室もしくは二等室をあてがわれた。この引率者は幹事であり、予科で英語の教師を兼ねていた井川冽氏である。途中大分荒れて一行にも船酔いを催すもの多く、町村金弥君はその時の船酔いの旗頭であった。八月三〇日函館に入港、九月二日まで停泊した。蝦夷の関門にいよいよ上陸第一歩をしるし、さわやかな陽の光に、感銘深い永き憧憬の地の初秋を感じた。暇を得て、函館山に上り、さまざまな珍しい植物に眼を惹かれ、また碧血之碑〔函館戦争で旧幕府軍の戦死者を記念する慰霊碑。碧血とは「義に殉じて流した武人の血は三年たつと碧色になる」(荘子)という中国の故事によるもの〕なども訪れてみた。町は思ったより相当殷賑(いんしん)であったが、やはり東京から来て見ると異郷に渡って来た思いがした。すれちがう女の魚売りの「さかなかはにしかね、さかなかはにしかね」と聞こえる呼び声や、「ぞにもつ、するこもつ」(雑煮餅、汁粉餅)などの看板に遥かに来た道の遠さが思われた。九月三日早朝つつがなく小樽に入港、海路は極めて平穏であった。直ちに下船、入船川のほとりの海に面した宿で朝飯をしたためる。当時、手宮はまだ漁村で、入船町のあたりが港の中心であった。食後、馬二〇頭、鈴の音をひびかせて、いよいよ一同札幌に向かう。国道は海浜に沿い、銭函までは漁村が散点していた。ただ張碓(はりうす)に近いカムイコタンだけは、道路が未完成で、高い断崖下に岩礫がるいるいしていた。好天に恵まれ、海も静かであったため、波浪の洗礼もうけないで馬上無事通過、なお海沿いに銭函に進み、小坂をあがった所の宿で昼食をとり、鄙びた饅頭を食べる。この饅頭は銭函名物なりし酒饅頭の前身である。これから道は海にわかれ、鬱蒼たる森林を縫って軽川から琴似(ことに)に向かった。この間、所々に農家が散在していた。琴似で始めて屯田の建物らしい建物を見、ぽっかりと人里のあたたかさを感じ、またことに屯田の事務所や小学校などが爽かに眼についた。一行は遂に渡嶋通り、すなわち南一条から北二条西二丁目の薄暮の寄宿舎に着いた。布団もない荷物を両側に付けた駄鞍にのって来たので、尻は勿論、始めて乗った馬とて体の節々も痛く、気鋭の若者も一同大いに疲労した。玄関はひっそりとして一人の出迎えてくれる上級生もなく、全然空屋のような静けさであった。ただ遠くの室で、何か集会があるらしく、歌の声などが聞こえてきた。後でわかったことであるが、その時、上級生一同は復習室に集まって、ちょうど祈祷会を開いたところであったのだ。まず食事をとり、風呂に入る。二人ずつ既に割り当ててあり、各室のドアーの側に名札が掛っていた。実に偶然といえば偶然、私と内村君は同室になっていたのだ。ほの暗いランプの下で、虫の音を聞くともなく聞いていると、遥かに来た旅愁を身にひしひしと感じた。当時寄宿舎の規定で、各学年ごとに室をかえ、また同時にコンビネーションもかえることができるようになっていたが、私共両人は室は変っても離れることなく、四年間一緒にいて、最も平和な楽しい生活を共にすることができた。
2016年08月27日
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教育者としてのクラーク先生 クラーク先生が札幌を出発された時に、当時の学生職員等は島松まで見送った。その時別離に際し日本の青年に対して遺された言葉はすなわち彼の有名なるBoys, be ambitious!であった。言葉は簡単であるが、その意は実に深い。「青年よ。汝ら大志を抱き、小成に安んぜず、力の限り努力して、向上発達を図り、国のために尽せよ。」という教訓である。これは単に学術を習得するのみならず、身体の健全を図り、精神の修養を怠ってはならないという事である。この事は明治九年先生が札幌農学校の開校式においてなされた演説中にもよくその精神を発見する事ができる。先生はほとんど完全な理想に近い教育家として差支えがないであろうと思う。それは一方学生の徳育、知育、体育等に対して稀に見る所の経綸を有し、着々自分の主義理想としている所を実行して成績を挙げられたのみならず、教育行政家としてもまた非凡なる才能を現わしたのである。実際上第一の校長としてはその基礎を完全にし、かつ一種の特色を作興した。すなわち農業教育の他、国民として欠くべからざる所の諸学科=修身学、心理学、文学等=を授け、また練兵に重きを置いて、歩兵科、砲兵科等を創立当時より実行するようにしたのである。なお研究の精神を学校の生命として、職員学生間にこれを普及奨励したのである。かかる点から見ても決して通常の教育家に期待する事のできないあるものをもっていたのである。学生を指導感化するに際しては自ら先んじてその範を示し導かれた。札幌に来られて最初に試みられた所の大改造は、学校に関係する教官学生をして禁酒、禁煙及び賭博と涜神誓言を禁ずる誓約文を起草して自らまずこれに署名し、他の教授学生にも加盟せしめた。第一期の学生等の如きは先生の感化によって全級これに署名した程である。先生は日本の学生の堕落し健康を破るものの最大原因は、全く飲酒と喫煙にありと見抜いて、開校式の式辞においても既にその事について述べられている。それは学生の徳育及び体育にとって最も大切なる改革はこれが制欲である事を認められたに相違ないのである。また先生は学生の勇気を鼓舞するために自ら率先して冬期間手稲山に登ったり、盛んに屋外の運動や植物採集などを奨励し、山野を跋渉してその範を示された。時々学生の寄宿舎を廻り、日中勉強している者、すなわち午後読書するがごとき者は、これを戒めて屋外の新鮮なる空気を呼吸すべく勧告された。なお学生に対して雪合戦を挑むがごとき事さえあった。先生が作られた札幌農学校の学則を見ると、マサチューセッツ農科大学のそれと同じように、農学及びそれに関係ある諸基礎学科の外に、英文学、英語討論、演説法、歴史、心理学、兵式体操等を加えたのである。本邦の官立学校において兵式体操を実際に行ったのは実にこれをもって嚆矢とする。この事が黒田長官の札幌農学校を設立した主旨に不思議にもまたよく符合している。設立当時の覚書の要に 「札幌農学校の設けたるや、その学生を養成して拓殖業務の衝路に当らしめ、殖産興業の実を挙げしむるにあり。すなわち泰西新進の学術技芸を巧に応用せしめ、進んで一国をして学術の効果顕著なるを知らしむるに在り。これを以て学生に自修の精神を重んぜしめ、将来社会に立脚の地歩を強固ならしむるものとす。云々」とある。米国においてもクラーク先生は学者としてよりも教育家として知られているくらいで、米国人名辞書には米国の教育家としてその伝記が綴られている。
2016年08月28日
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広井勇君 君は同級生中最少年者であったが、恐らく一番世の中の苦痛をなめて来たと思う。君は旧高知藩士廣井喜十郎氏の長男として生まれ、厳父は君の九歳の時逝去され、祖母、母堂と共に貧しい生活をしていた時、たまたま母方の叔父に当る侍従片岡利和氏が郷里を訪れた際、同氏に懇願して上京の志望を遂げることを得た。これは明治五年、君が一一歳の時であった。私が君を始めて知ったのは、明治七年東京外国語学校へ入学した時であった。その時、君は英語学下等第六級丙組に編入されていたが、いつの間にか、君は工部大学校予科へ転入していた。君はその頃から工学をもって身をたてんと望んでおったことがわかる。叔父の家にそうそう長く厄介になってはいられない事情があったので、どこの学校でもよいが、官費制度のある学校を探していた時、札幌農学校の官費生徒募集の議があり、直ちに他の三名の同志と共に出願許可されたのである。札幌農学校へ来て見ると、その課程中には代数、幾何、地形測量、機械力学、土木工学、製図等の諸学課があったのみならず、その教師の内にはC・E・(土木技師)の学位をもっているウィリヤム・ホイラー教師が数学や工学を教えており、またその後任には、機械工学を専修したピーボディー教師がいたので、充分君の志望を満足せしめることが出来た。生徒時代から製図は特に君の最も得意とするところであった。教師よりの依頼で学校構内の測量図を見事に作製したものが、札幌農学校第四年報のフロントピースとして掲載されている。この図によって校舎の配置や計画中の樹木園並びに潅木図や温室とその付属花園等の位置が明らかにされている。そしてこれは広井君の青年時代の製作として最も尊い記念物である。君の性格中最も著しかったのは、剛毅の性質であって、正義のためなれば師であれ、先輩であれ、忌憚なく直言してはばからなかった。あの時、ドクトル・カッターが講義室に入るや、直ちに講壇の卓上にその引出しの内容が散乱しているのを見て、学生の悪戯と誤認し非常に怒り級生に向って、「かかる行為は決して紳士のなすべきところならず、宜しく予に対し謹謝すべし」といい終るや否や、広井君は直ちに立って、「先生、一体事の真相を調べずして他人を非難するは、貴国においては、それを紳士的と申しますか、まずよく机をお調べ下さい。」と直言した。かねてドクターがこの机の引出しに錠前をつけてくれと事務所に申し込んであったと見え、要求通り修理が行われていたのを見て、これは職人の仕業と直ちに悟って級生に対し"Gentleman, I beg you pardon!"といって男らしく謝り、すべてが立派に解決したことがあった。広井君にこの気骨と勇気のあるのを始めて知った同級生は、君に対し少なからぬ敬意を払うようになった。君は無口の方であったが、時に好んで無邪気な諧謔を弄したりした。また何かおかしいことがあると腹を抱えて笑いこけることもあった。君の趣味としては読書が第一であったと思う。時には力以上の難しい書物をわざわざ取り寄せて読んだりしていた。第二の趣味としては狩猟であろう。山野を跋渉する時には必ず銃を肩にして出かけたもので、何かしら猟物をさげて得々として帰ってきたものである。卒業の時の希望としては第一は農用工学、第二は土木工学としてあった。卒業後の事は詳伝もあり、人の皆良く知っているところであれば、ここにはそれを省略する。藤田九三郎 君も広井君と同じような境遇に置かれ、少年時代から青年時代にかけ苦学した。また等しく工学に志して工部大学予科の入学試験を三回も受けたが、ことごとく失敗したので、東京英語学校に入学、その二級の時、札幌農学校官費生に応募したのである。在学中の成績からみると、数学、力学、地形測量図、簿記学、兵式体操等で優良な成績を挙げている。卒業の時の希望は第一が土木工学、第二が農用工学であったので、開拓使では君に工業局土木課詰を命じた。君は札幌根室間の中央道路予定線の選択と、その道路線に沿い殖民地として適当な土地の調査及びその他重要なる事項の命令を帯びて、明治一五年第一期卒業の田内捨六君と共に札幌を出発し、実に言語に絶する苦難をなめ、その任を全うして、同年秋に至り帰札することを得た。この旅行中釧路の雌阿寒岳に登りナデシコ科に属する一小草本を採集、土産として持ち帰られた。これは学界に新しい種類であって、メアカンフスマ Arenaria merckioides MAXIMOWICZ と命名された。藤田君が卒業少し前、ドクトル・カッターに身体検査をしてもらった時、肺部に少し故障があるから、よく気をつけるようにと申し渡され心配していたが、その後大探検旅行に無理をした結果、肺患の徴候が漸次進行して来たため、終に明治二二年七月職を辞し、茨戸太に未開地三八町歩余を出願した。家族と共にそこへ移り、鋭意その開発に従事し、数年を出でずして全部開墾に成就したが、明治二七年一月二一日安らかに最後の息を引き取られた。享年三五歳。君は丈高く少しく前に屈み、筋骨逞しく、在校中は強健で、雪中の山登り等を最も得意としていた。また第一回遊戯会の時に三段飛(ホップ・ステップ・エンド・ジャンプ)、半英里競争及び袋競争(サック・レース)等にて一等賞を獲得した。君は好んで頭を五分刈りにしていたため、大入道のように見えたので、級友は君を「入道」または「ニュー君」と呼んでいた。君の性質は体格とは正反対で、どちらかといえば内気であり、言葉数が少なかったが、内に信実がこもっていた。君は口先よりは実践窮行をもって処世の主義としていた。君の特性として書き落とすことのできないのは、君の消化器の強健であったことである。寄宿舎の食堂の机には四人が一組となっていて、私の組には藤田君と内村君とがいた。朝夕の洋食は盛り切りでどうにも致し方がなかったが、昼飯の和食の時は四人に一つの飯びつと一週間に一度汁物が大鍋に一杯配置されてあったため、君は思う存分に食欲を満足させることができた。ある年の暮に賄い方が餅を馳走するというので、舎生一同食堂に集まった。その時君は最も多量を平らげた者の一人であった。その食べ方を見ていたが、決して餅を噛まないで、ただそれを食い切っては鵜呑みにするのには驚いた。この胃腸の強健であったことが、君の生命を少なくも両三年は永らえさせた。数度の大喀血で医者がサジを投げてから三年持ちこたえたのは栄養物を大量にとることができたためだと思う。
2016年09月03日
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(八)同級生の思い出(七六頁)我が二期生の組は、最初一八名から成り立っていたのであるが、その後私費生が二人加わったので一時二〇名になった。その私費生は奥田直張という華族の令息とその付添人の川口宗晴君であった。しかし二人共中途退学をした。川口君とは明治五年一月横浜の高嶋学校の火災の節同室におったことが判り、深く奇遇を感じた。川口君はその時避難するためいち早く窓より飛びおりて暫く入院したとのことである。西村規矩君も中退退学し、又後に永井於莵彦、毛受駒次郎、伊藤英太郎、伊藤鰹太郎の四君が退学した。佐久間信恭君は心臓病のため四級時の時一箇年休学をした。なお同級生の二人は卒業試験の結果が思わしくなかったので元級に留まることとなり、一時二〇名であった第二期生の組が卒業の時はその半数に減った。四年間の学業成績を通算して得た成績のよる卒業の順位は左の通りである。内村鑑三、 宮部金吾、高木玉太郎、南鷹次郎、足立元太郎、太田稲造、廣井勇、藤田九三郎、岩崎行親 町村金弥これら一〇名が札幌入学当初の数え年を記してみると、高木・新渡戸・廣井の三君が一六歳、内村君が一七歳、私が一八歳、南、足立の二君が一九歳、町村、藤田の二君が二〇歳、岩崎君が二一歳であった。不思議に思われることは、年少者の方が、年長者に比べ、英語がはるかに上達していたことである。これは当時政府の方針が定まらない過渡時代に遭遇し、米国式の教育を受けたからである。第二期生の一大特徴は在校中からそれぞれ一つの学科を選んで、学業の余暇に、これを専修し、これにより国に尽くそうという考えであった。そしてこのクラスのモットーは、わが札幌をしてスコットランドのエジンバラのごとく学芸の淵源地たらしめねばならぬ、この地を“Athens of the North”〔北のアテネ〕たらしむるのが、我らのねがいであると常に論じあった。内村鑑三君 内村君は確かに日本の生んだ天才の一人であった。その七〇年の長き生涯中に我が宗教界、思想界に遺された偉大な感化は、今さらここに、あらためてのべる必要もないと思う。私は幸い同君の青年時代(一七歳より二〇歳まで)に札幌農学校の寄宿舎で、四年間同室で暮らすことができたので、同君の性格については、よく知り尽くしていた。 同君は武士の家に生まれ、厳格な訓育の中に成長されたので、廉恥を重んぜられ、正直であり、かつ約束は堅く守られた。神仏に対する敬虔の念は確かに厚かった。君はまた友誼の徳の讃美者であり、したがって友情に富み、友人の忠告をよく受けいれる賀量をも持っていた。しかし一方にははなはだ烈しい性質があって、多くの人と衝突喧嘩をしたが、不思議なことには、同室におったにもかかわらず、私とは四年間一度も喧嘩をしたことがなかった。ある時のごときは誰かと喧嘩をして癇癪を起し、ふうふういって室に入るや否や、「宮部、土瓶を割るぞ」と断り、それを床にたたきつけ粉みじんにこわし、ああこれで気が清々したといい、後をよく掃除して、それで満足した様子であった。この癇癪も信仰生活が進むに従い段々と薄らいだ。内村君は頭脳がすこぶる明晰であり、その記憶力の強大なる事は、実に驚くべきものがあった。勉強は規則正しく、その努力も人一倍であったが、試験の成績を見るに、ほとんど各学科にわたり最高点を取らないものはなかったほどで、おそらく札幌農学校開始以来、内村君ほど最優等の成績を取った者は他に一人もあるまいと思う。ある時、植物学の試験があった際、今度こそは僕が最高点を取らねばならぬと一生懸命に勉強したが、試験の成績が発表になったのをみると、僕は九三・六点で内村君は一〇〇点ではないか、実に驚かざるを得ないのである。内村君は僕らのように試験間際になって、急に勉強をするというようなことは決してなく、試験の丸一週間前には、すべて準備ができていて、授業が済むと一人で散歩に出かけ、歩きながら頭の中で、答案を練って置き、不審なところがあれば、帰ってからノートや本を見るというふうで、大体の準備は平素学期の半ば頃より、始終前の方からの復習を怠らなかった。それであるから試験場に入り、教師が黒板に第一の問題を書くと、後の問題などかえりみることなく、直ちに筆をとり、大きな字で非常な速度をもって、答案を書き始め、いつもその紙数は我々のものの、ほとんど倍はあった。この習慣、すなわち「規則正しい勉強」と「予め準備をして置く」ということは、内村君の一生を通じて常に変らずに保たれた。これは確かに同君の偉業の基をなした要素の一つであったと思う。明治七年に外国語学校に入学された時は四級であった。佐藤昌介君より二組上であり、私よりは六組も上であったのを見ると、当時英語の力が相当にあったのが判るが、内村君の話によるとその頃柔道の稽古をしておったので、ある日強い相手に「締め」の手を掛けられ、ひどく胸部をしめられたために肋膜炎に罹り、一年以上も休学していたとの事で、明治一〇年に我々と同級になった訳である。また開拓使の官費生を志願した時、身体検査で引掛ったのは内村君一人である。医者が胸部に何か故障を認めたので、頻りに調べていたが、大したことではなかったと見え、注意だけで無事に通過したので、友人共も安心をした次第である。私どもの級では在学中に各自それぞれある特別の学科を選んで学業の余暇にその研究に努めていた。内村君は動物学を選び、特に水産に興味を持っており、卒業式の演説には邦語で、「漁業も亦学術の一なり」との演題のもとに滔々とその識見を述べられた。漁業に対する水産学はちょうど農業に対する農学の如く一つの科学として発達せねばならない。日本の如く水産物に富める国ではその研究をおろそかにすべきではないと力説された。当時我が国は勿論欧米でも未だ頗る幼稚であった水産界の趨勢に対し、実に時勢に先んじた卓見というべきであろう。寄宿舎内では親しい者の間ではよくあだ名で呼び合っておった。内村君のあだ名は「ロン」といっており、卒業後同君より寄せられた多くの手紙に必ずLonと署名してあった。これは Long shank 長脛(ながすね)の省略である。ある人の著書に内村君の「ロン」というあだ名は論客であったからそう付けられたのであると書いてあったが、その当て推量には驚き入る外はない。また同君は世事慣れないところがあり、一見粗野なところもあったので、「不意気」というあだ名も付けられていた。
2016年09月02日
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内村第一四信(英文封書) 東京下谷徒士町 宮部金吾殿行 札幌 内村鑑三 内村鑑三日記書簡全集5三七頁一八八二年(明治一五年)六月二五日 札幌祭の日札幌にて 親愛なる兄弟宮部 前便以来大分たった。ご承知のとおり、明年開催の水産博覧会へ出品する品を集めるために東部地方海岸へずいぶん長い旅行をしてきた。まれに見る興味深い旅で、役所の仕事に関するたくさんの経験を得たばかりか、人間性について学ぶ機会をたっぷり与えられた。天然は限りなくうるわしかった。札幌をたった時にはニー三フィートの雪の上を進まなければならなかった。しかし、石狩盆地をはなれると、たちまちういういしい春に出あった。貧弱な北海道産の馬を走らせると間もなく、室蘭半島に出た。そこで初めて花をつけた草や木を見た。それにもまして、この地方にたくさんいウグイスの歌声は実にうれしかった。旅行について残らず書くことは長すぎてできない。白雪のモクレンと真紅のカツラのつぼみ、まだ葉ばかりの山みちをかざる二種のサクラソウ(これは札幌でふつうに見かけるのとは違うと思ったので、ここに君に送る)、エゾ松におおわれた様似と幌泉の深緑の山々なぞが、僕の植物学の勉強から得た新しい喜びの一部だった。さわがしく鳴くシギ、歌うヒヨドリ、小さなツバクラスズメ(二種)、コマドリ、アカハラコマドリなどが、鳥類学における楽しみであった。花が咲いたような腔腸動物、サンゴ虫類、棘皮動物などのいっぱいいる海岸は限りなくうるわしかった。しかし、天然はかくも素晴しくすぐれ、みちあふれ、かつ完成しているのに、人間と呼ばれるところの自然の最も崇高な部分は、僕の目には、くされ、堕落し、端的にいえば、獣のようである。仏教と売春とは、二つのはなれ難い仲間同志として、僕の旅行中いたるところで見かけられた。宿屋、《駅逓》から甚だしきは、村役場に至るまで、どこでも、ウソばかりである。われわれは国内至るところで腐敗堕落を実見することができる。しかしその最も甚だしい堕落ぶりを実感し、かつ経験するには、北海道にまさるところはないと思う。(略:旅行中、五月五日の大暴風雨にあい、島松で倒れた。帰宅後、肺炎で二三日間病床にいた。しかし神のとりたもう道は不思議である。僕は救われた。神に感謝す!) 現在の僕の役人としての職場は、イヤな、たえがたい、不満足な、不正だらけなところである。目下何もすることがない。事情は後日話すから、ドーか僕を狂った人間、新奇と変化を愛する人間と思わないでくれたまえ。自分の将来について考えるため、僕は今秋東京へ行かなければならない。誠実な科学の研究がしたいのか。札幌県を去れ!三〇円は無為の役人たちには高すぎる。(略:ジョセフ・クックの講演のこと。生物学とキリスト教との関係の勉強のこと。)キリストに在りて愛される兄弟なるヨナタン・内村鑑三内村第一五信(英文封書)東京下谷徒士町 宮部金吾殿行 札幌 内村鑑三 内村鑑三日記書簡全集5四〇頁一八八二年(明治一五年)一一月二三日 札幌にて 親愛なる四年間の同室の友 和田〔健三〕君に託して送ってくれた手紙感謝にたえない。非常に面白く、力づけられ、心を打たれた。君がいつも誠実に研究に励んでいることを喜ぶ。君のためにキチンキチンと祈っている。日曜日と水曜日は君のために祈る僕の特別祈祷日である。 一八八二年は僕にとり旅行年だった。今日までに三〇〇里を海岸や河川にそって旅行した。この春病気に妨げられなかったら、六百里以上旅行できたろうと思う。(略:昨日石狩から帰った。「一年の四分の一以上を外で過す事のたのしさ!」ジョン・グレーの詩を引用する美しい自然描写。「1882年はほとんど終ろうとしている。」アワビの人工生殖の実験。)海のすなどり、今までのところ成功だった。しかし「人のすなどり」という大きな特権の方も、役所の時間をさいての僅かなひまに楽しんできたが、恵まれて正当な未を結んだ。(略:一五名の新会員が加わった。教会の借金は返せることになった。)科学の名において十字架を弁護するために立ち上がるという高貴な計画に関するお手紙、拝見した。ブラボー!兄弟よ!僕の目的も同じだ。われわれは若いうちに、神の完全な武器をつけ、真理もて腰をかため、平和の福音を足にはき、時到らば勇気と意気をもって立ち上り、無敵の「キリストの道」を進めようではないか。キリストは聖手もて十字架の輝くしるしを、まっただ中に、高々とかかげたもう。君は(そして僕も)この聖きしるしをば、解剖刀、小刀、ケンビ鏡の城壁で守りつつ、ほえたける「人間の子ら」を追い払うことができる。彼らはヘッケル、ビュクネル、チンダル、スペンサーのような、(彼ら自身死ぬべき運命にある)、弱い頼りない指導の下に、「いと聖き者」を辱めんと試みつつあるものである。僕の暇な時間は、全部生物学の研究に費やされている。今年は東京に行ったら、モット本を買うつもりである。(略:足立元太郎と内田瀞の結婚のこと)君に愛せらるる ヨナタン・内村鑑三
2016年09月10日
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「育てたように 子は育つ」の中に「欠点まるがかえで信ずる」という相田みつをさんの書がある。精神科医の佐々木正美さんがこんな実話を書き添えられている。「中学校二年から登校拒否状態に陥り、強度の不潔恐怖を伴った強迫神経症に苦しんだ少年がいた。体が汚染されたと感じ、何時間も入浴したりした。父親は少年を頭から「ろくでなし」と決め付け、少年は「どうしても自分をわかってもらえない」と苦悩した。少年は家出したが、盗みでつかまり、教護院での生活を6ヶ月強いられた。だが教護院生活で少年はたくましくなった。住み込んだ新聞店主の忠告で、菓子店に勤めた。教護院の教官や新聞店の店主が自分をわかってくれたと思ったのだろう。いまは菓子職人となり二児の父である。」佐々木先生はこう言う。「これは子どもを育てるために必要な最高の愛、最も自然な愛の態度です。子どもが最も安心して成長していける親や教師や大人のありようです。子どもに最も大きな自信を与えることができる大人の姿です。私にはこの『信ずる』がこころよく響く。『認める』ではなく、『信ずる』子どもは信じられているほうが、生き生きすると思う。子どもの存在そのもののをそのままに信じてやればいいのです。」
2020年09月27日
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第二章 札幌農学校教授時代一 留学時代 (一)留学の途に 札幌農学校は明治九年創立以来、主としてアメリカ人教師、クラーク教頭の縁故からマサチューセッツ農科大学出身者が教授に当っていた。しかし漸次邦人教授に代えるために、まず卒業生二名を選抜し、三か年間海外に留学させたいと、明治一九年四月岩村北海道長官から内閣総理大臣伊藤博文に申請し、五月六日にその認許を得た。そこでその選に当ったのが宮部及び渡瀬庄三郎であって、これが札幌農学校の留学生の始めである。(それまで私費留学中の佐藤昌介、さらに新渡戸、広井を札幌農学校助教に採用し留学を命ずるとともに、帰国後は教授として採用した)そしてハーバート大学に留学を正式に命ぜられたのは七月五日で、その日をもって札幌農学校依願免官の辞令を受けた。北海道庁官岩村通俊の命令書は、次の六項目からなる。一 留学の場所は米国ボストン府ハーバート大学とする二 米国滞留年限は満三か年とする三 満期帰朝の上は札幌農学校に奉職すべき義務を有する四 留学中は植物学を研究し、専ら農業上に補益ある事項を調査し、かたわら山林及び海草類について査察を要する五 留学中は学資として毎月日本銀貨八十円を支給する六 およそ農業上参考となすべき事柄は見聞の時々取りまとめ、帰朝の後、一書となしこれを進達すること。なかんずく急要と認めた事柄はその時々詳細を報告すること。 なお、同時に留学を命ぜられた渡瀬庄三郎は明治一七年七月卒業の第四期生で、当時東大理科大学に研究中であったが、動物学特に昆虫学研究のためジョンス・ホプキンス大学へ留学を命ぜられた。
2016年09月12日
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(七)卒業式(七五頁) 私達の卒業式に関しては幸いに志賀重昻氏の札幌在学日記(志賀全集第七巻一―三頁)があるので、これを左に紹介しよう。 在札幌農学校第二年期中日記 二千五百四十一年 明治辛巳十四年七月九日 土曜 曇 この日、本校四年生の修業全く終り、即ち卒業式の典を挙げらる。午前より色々の用意あり校門には国旗、緑門及び球灯等を掛け、演武場の内外も亦同様の飾り付けあり。午後一時十五分卒業の式典始まる、号鐘一点全校本科生徒四十五人武装して校前の草原に出で数百名の賓客の前にて練兵運動をなす事十五分、この時や平時練修の如く錯雑せず、大いに衆客の喝采を得たり、中にも工部大学校地質学教師「ブラウン」氏の如きは拍手して止まざりき。演武終りて生徒少時休息。 一時四十五分号鐘、衆生徒演武場の式場に列す。二時衆賓皆列座す。督学課三好笑吾氏接待委員たり。式場東端中央に本庁長官(代理)従五位調所広丈氏、西郷に坐しその右には新校長森源三氏、ついで教頭「ブルックス」氏以下「カッター」「ピーボデー」「サンマルス」及び本校事務員数十名、その左には督学課三好笑吾氏、次に「ブラウン」氏「ドン」氏(「ボーマン」氏欠席)以下諸奏任官なり、前面には卒業生内村鑑三、宮部金吾、池田鷹次郎、高木玉太郎、足立元太郎、太田稲造、広井勇、岩崎行親及び町村金弥の十名列す。これについで、三年生十五名、一年生二十名、予科生数十名、その他賓客凡そ三四百名あり。 占坐漸く終りて卒業生の演説を始む。教頭一人毎に名を呼び其人名及び題目は左の如し。Sweetness after Pleasure(快哉苦後の楽) 足立元太郎、北海農民はよろしく道徳を奨励すべし(最高なる道徳の準度は北海道農家に緊要なり)広井勇、Principle and Importance of Agriculture(農業は開明を賛く)太田稲造、農学と植物学との関係(植物学と農学との関係)宮部金吾、Relation of Agriculture and Chemistry(化学と農業との関係) 高木玉太郎、大洋の農耕〔即ち漁猟の事〕(漁業も亦学術の一なり)内村鑑三右の六氏邦語或は英語を以て演説し卓々たる議論と滔々たる雄弁を奮はれしは聴客もいと本意ありげに見受けたり、演説終りて班賞を施行せらる。先年迄は一等賞七円、二等賞四円なりしが、本年は班賞すべき学課の夥多なると予科生の賞を増加したるが為めに一等四円、二等二円迄に減少したり、班賞各差あり。班賞終りて従五位調所君祝文を朗読せらる。次に校長本校の沿革を演述せらる。次に祝詞を読まれ卒業生を奨励するの語あり。終りて教頭「ウィリヤム・ビー・ブルークス」氏、卒業すべき生徒の名を呼ばる。衆進みて校長森源三君の前に揖(ゆう:上体をかがめて挨拶)す。校長即ち卒業証書を授与し農学士の学位を与う、その式殊に厳然たり。新農学士のまさに校長の前を退かんとするや喝采の声と拍手の音は満場を閙して凡そ五分間鳴動してほとんど人をして聾せしむ。嗚呼何んぞその栄誉の大なる哉、余復たこゝに多言するを要せざるなり。終りて内村氏卒業生に代りて校長に多年教育の厚きを奉謝せらる。ついで御雇教師に奉謝せらる。言、活発覚えず人をして動揺せしむ。ついで三年生及び吾輩を奨励するの語あり、ああ氏は耶蘇教の徒なり、故に常に吾輩と仇敵なりしが、今日その慷慨悲憤の言辞を以て吾輩を奨励したりしは仇ながらも至誠の到り然らしむる処、覚えず感涙を滞うしたり。次に同級生に向い、今吾輩は本校の学課を卒業したりといえども、決して温袍に安んずる者にあらず。これより艱難の道に入りぬべし、今日はその艱難の途の門戸なり、諸君よ請う、安逸に甘ぜずその屍を北海の浜に曝(さ)らすの素志を棄つるなかれと謂い終りて、衆為めに泣き黙焉として前の如く一も拍手するものはあらざりき、賓客も知らずそぞろ涙を流されたるべし、是に於てか式全く終る。
2016年09月01日
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六 父の死と小学校(二〇頁)維新前後非常に繁雑であった駿府代官時代を終え、更に過渡の江戸に帰った父は、生来の虚弱に心身の疲労も出たのであろう、健康はすぐれなかったようである。そして退官後、ことに私が一一歳(明治三年)になった初夏から病床に親しみがちであった。病あらたまるや、父はその死を覚って、病床に肉親を呼び色々と遺言されたが、自分にはただ一言「金吾しっかり勉強せよ」と言われただけである。この一言は少年の肝に深く銘じた。父のいまわの際の言葉に添うような自分を築きあげたく、私は一生涯を通じて、この父の・言葉を真実に守ろうと堅く誓ったのである。父の逝きしは七月二五日の事である。享年五二歳。 一二歳(明治四年)の時、東京府下の六小学校を以て文部省の直轄となし、新しい教科規則下に近代的小学校の教育が始まった。その結果として、私の通っていた外国語の学校は閉鎖された。建物は在来の六校をそのまま使用することとなった。私は再び三味線堀の西福寺に戻って来た。しかし今度は文部省直轄となったので前とは全く総てが変っていた。寺小屋風の小さな机は既に姿を消し、テーブルとベンチが用いられ、黒板も用意されていた。習ったものは、かな使い、習字、単語、読方、洋法算術、学問のすすめ、究理図解、世界国尽等がある。自分の上級は一組あっただけで、それも生徒がたった一人、後に水産界に貢献した下(しも)啓助氏がいたのみである。下氏とは氏の逝去まで交友を続けたが、下氏はよく「君が、自然科学者になろうとはあの頃にはちっとも思わなかったよ。多分政治家にでもなりはしないかと考えていた。」と述懐された。私は小学校では首席を占めていたので時の村上校長から将来を嘱目され、非常に愛されていた。ところが、一三歳(明治五年)の夏、横浜高島学校に入学の希望が達成したので、退学の手続きを取るべく兄が村上校長の所にお願いに出頭した。この年に文部省の教育新制度が発布され、小学校より中学校、更に大学に進む過程が確立された。私の退学の件に関して村上校長は反対で「私立で洋学を修めたいとは以てのほかと憤慨し、かつ「官立で学業が進めば洋学は自然修めることとなるべく、敢えて好んで私立学校に進む必要はない。退学は許可しない。もしも断じて退学を望むならば将来官立学校に再び入れないようにする」と申し渡された。兄は逃げるがごとく引き下がって来た。一家額を集めて相談したが、他日官学に入る場合を顧慮し、横浜にいる間は宮部家の別姓である外松を名乗る事とし、ここに宮部金吾は外松金吾となり、横浜高嶋学校の生活は始まった。七 横浜高嶋学校(二二頁) 一三歳(明治五年)の八月下旬、私は始めて家を離れ横浜に遊学する事になった。忠僕に伴われ、品川を後に汽車で横浜に向かった。 新橋―横浜(現今の桜木町)間の京浜鉄道開通式は明治五年一二月に挙行されたもので、それ以前は便宜上、乗車を許可していたものと思われ、私が横浜へ行った当時は乗客の始発駅は品川であった。客車は用意されておらず、貨車内のベンチをならべ、別に車窓もなく扉が二尺くらいあけてあった。それでも始めて乗った私には非常に快適なものであり、風を切って進む速さに驚嘆したものである。横浜の学校へ行くようになったのは亡き父の友、神奈川県の高官の高木氏が保証人となってくれたためで、氏が一切の監督をしてくれる旨を申し出られ、母も安心して手離されたのであろう。それに文臣兄も同氏のお世話で神奈川県属官に採用され、同市戸部町の官舎に引き移っていたからである。高嶋学校は、この前年明治四年八月高嶋嘉右衛門氏が欧米の学問をわが国に普及させようと金三万円を投じて設立したものである。敷地として野毛山下のガス局の隣地(今の花咲町五丁目)に約一万坪を下し、そこに生徒数百の名を収容するに足る広大な校舎並びに寄宿舎を建てた。この建築は白ペンキ塗りの西洋風の建物で、正面(南北)に一三個、側面(東西)に一八個の西洋窓があり、かつ広中庭を囲んで廻り廊下があり、これに沿って寄宿生の室が並んでいたが、階上の窓には鉄色に塗った木製の格子が入っていた。平屋建ての附属小学校が廊下つづきに本校舎の西北に在った。学校の組織はいわゆる「正則学校」で、初級より英語の教科書を用いて米人の教師から読み方、文典、算術、地理、歴史等を教えられ、まるで米国の学校の観があった。この「正則学校」に対し、翻訳式の教法を「変則学校」と称していた。高嶋学校には当時数人の米人がいたが、西洋人の教師の組に入る前に附属小学校の一室で約一ヶ月間日本の先生から英語の初歩の教授を受けた。それから私達の級は始めモーリスという教師に、後にはバラー兄弟に就いた。バラー兄弟は宣教師であり、日曜日には兄のジェームス・バラーの自宅でバイブルクラスが開かれ、私も誘われて一、二度行った事がある。高嶋学校在学中、私は寄宿舎にいた。寄宿舎は既に記したようにこの校舎の大部分を占め、居室は畳を敷いた日本間であった。普通一室に舎生二人、大きな室に舎生四、五人いた。寄宿舎には随分多数の生徒がおり、後に知名の士となった人も少なくないと思うが、当時在舎していた者の名簿が手に入らないので残念ながら一向に判明しない。友人として一緒に写真を撮っている者に、横浜豪商の令息添田君と、高嶋家に関係のあった富田君の二人がある。この二人はいずれも通学生であった。日曜日にはよく高木氏の豪華な邸宅や文臣兄の野毛町官舎に行き、いろいろの厚遇を受けた。また居留地のあたりから海岸、さんばしにかけて散歩にも出かけた。時には郊外を散策したが、春早き山野に咲いていたタンポポの紅花や、シュンランの清楚な花は今も心に残っている。しかしまた、急に親の膝下を離れ、大人びた青年達の間に放り込まれたので、自分ながらその時の生活を思い出すと穴にでも入りたい気がしてくる。一四歳というのに喫煙の悪癖を覚え、煙草入を腰にさげていた。また芝居の味も知り、劇場に友達と足を運び、銭湯に行ってもすぐに風呂場に飛び込まず、年上の友だちと一緒に二階にあがって一休みした。牛肉屋にも出入りした。私の環境はあまり好かったとはいえない。そのままで行けばあるいはませた、ひどく生意気な者ができあがったかもしれないのである。明治七年(一五歳)の一月、朝授業が始まって間もなく東北隅教室のストーブから火を発した。折悪しくその教室には授業がなかったので誰も室におらず、そして誰も知らない間に天井裏に燃えぬけ、往来の通行人によって燃え上がった火が始めて発見され大騒ぎとなった。各室には石油ランプと石油入のガラスビンが置いてあったので、火の廻りは速く、また無風で小雨が降っていたため、煙が中庭や廊下にモウモウと停滞し、息苦しく廊下にはグズグズしていられなかった。それに階段は南側と西側のみであって、出口は東側の玄関と小学校へ続く廊下のみであり、下の室は窓が太い鉄格子なので、これを破ることは容易でない。生徒の大部分は僅かな手荷物を持ち、ほとんど身をもって煙が渦巻く玄関から避難した。私の居室は二階の西側すなわち野毛山に面した大きな室で四人おり、私を除いては皆二〇前後の青年であった。火事となるや一同室に帰り、窓の木製の格子を破壊し、窓の下の便所の屋根に下り、それより更に地上に飛び降りてどんどん避難してしまった。既に火の廻りが速く、煙は玄関は勿論小学校への入口にも満ち満ちて、階下の廊下は歩行困難となっていた。私は非常に困ってしまった。窓から下の屋根に降りてみたものの、小柄であった少年の私にはそこから下がいまだ相当の高さであり、かつ地上には窓から投げ出された本や机の引出しが雑然と打ち重なり、もしその上に飛び降りればケガをすること請け合いである。それで飛び降りることはできず、思案にくれたが、急に思いつき再び室に入り、夜具布団を全部窓から放り出してその上に飛び降りた。おかげで私はケガをしなかったばかりか、寄宿生中夜具布団を全部出し得たのは私一人であったかも知れない。この室は野毛山から眼下にみおろせる所にあったので、沢山の見物人がこれを見ていた。そして子供(私)が一人便所の屋根の上でまごまごしている様を見て、「早くハシゴを持って行ってやれ」とわめきたてた人もいた。ところがそのうちに布団を投げ下ろしてその上に無事飛び降りたので一同やんやの歓声を挙げて安全を祝ってくれた。私はその夕方野毛町の銭湯に入っている時、声高にかく語る人の話を聞いたのである。奇縁とでもいうものか、火事の際の同室の二人までがその後札幌で遭っている。一人は碇山晋君で、後札幌に来り、予科に英語を講じ生徒監となり、また更に後年、その有する語学の才もかわれて横浜居留地の加賀町署長となり、外人にも名署長の名声をはせた。またもう一人は川口宗晴君で、札幌農学校一年目の時、聴講生として入って来たが、一年余で退学の止むなきに至った。高島学校は火事後廃校となり、横浜在住の生徒はドクトル・ブラウンが教えていた修文館に転校することとなった。私もそこに転校した。この修文館は老松町上の元の十全病院の隣にあったように記憶する。その三月東京外国語学校英語科の入学試験を受け合格したので、私の横浜遊学はこれで終止符を打たれ、外松金吾は再び宮部金吾に帰って東京の生活に戻ったのである。思えばこれはまた私に非常に幸いであったので、もし私が思慮分別のない生意気盛りを、その上、気ままにひとりで横浜の寄宿生活を続けていたら、私はどうなっていたであろう。私はただわきの下に冷たい汗の湧き来たるのを覚えるのみである。
2016年08月27日
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札幌農学校教授・宮部金吾1 誕生(『宮部金吾』十二頁)「私(宮部金吾)が生まれたのは万延元年である。万延元年といえば、正月、安藤信正老中が始めて西洋に我が使節を送り、三月三日井伊大老の桜田門外の変が起った時で、国内では一方に尊王攘夷の論が起り、一方には佐幕開港の議があり、国内騒然としていた時代である。この年、東亜大陸においては、英仏の東洋進出の機が熟し、七月英仏連合軍北京に進み、八月には早くもこれを陥れ、九月には天津条約が成立し、ロシアはウラジオストク東岸の地を得た。植物学の方面ではこの年にロシアの植物学者マキシモウィッチが函館に渡来し、日本の植物に対して徹底的に採集研究し始めたのである。また生物学界を見るに一新紀元を劃したダーウィンの有名な「種の起源」の発表がその前年に当っている。 生まれた日は、閏三月七日、その巳刻(午前十時)に誕生した。この時、父四二歳、母三二歳、その五男として、祖父母、父母、兄姉揃える中にココの声をあげた。父の自筆になる金吾誕生記と臍の緒並びに産毛が保存されている。文久三年に更に妹、三女の甲子が生まれたが夭折したので、私は末子として一家の寵愛を一身に集めた。 生れた場所は江戸下谷和泉橋通御徒町で、後に御徒町二丁目一五番地となった。これは現在上野広小路松坂屋南側に通ずる青石横町を和泉橋通に出た所から程近く、大震災後は昭和通の道路となってしまった。その頃の御徒町は名の示すように徒士の人が多く住んでいたが、伊予大津加藤の屋敷があり、また文人、書家、画家等が住む者も多く、閑静な住宅地であった。そして我が家は加藤の屋敷の西南隅に面した角屋敷であった。
2016年08月26日
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二 祖父の死(同一三頁) 四歳の一二月六日祖父が急逝した。この日ちょうど家はすす払いで、祖父は朝早くより他出、知人の家を一回りして帰宅。既に掃除を終えた一室のみは、コタツの火もいれられ、祖父を待っていた。祖父はそのコタツの上に大きな鮨の皿をのせて、好みのものを食べていたが、突然起った脳溢血のため、そのまま急逝した。すす払い当日であり、大工左官その他大勢の手伝い達がいたこととて騒ぎは一層であった。そして江戸式のにぎやかな通夜がその夜行われた。 祖父の慈愛の程は、幼い私の脳裏にも深く刻まれている。ある時はお馬となって私を背にのせ家中を這い回ってくれた。祖父はまた来客が見えると客間に通し置き、居間の方からタバコ盆を下げておもむろに出ていくのを常とした。その時私は三番叟(さんばそう)のかぶる烏帽子をつけ、鈴を手に持っていつも祖父の後ろに付いていった。客の前に出ると、祖父は客に「まあまあ待って下さい。これを済ましてから」と手で制しつつ、煙草盆をキセルでたたいて、拍子をとりながら、「トッパヒアロ、トッパヒアロ」と囃し立てた。私は得意になって、それに合わせ舞ってから引き下がった。誰いうとなく、「宮部の三番叟小僧」という名が知人の間にひろまっていたそうである。三 駿府往還(同一四頁)八歳(慶応三年)の八月、父が駿府紺屋町代官陣屋に赴任したので、家族もこれに従って江戸を立った。もちろん駕籠(かご)の旅である。私は母と共に大きな私用の駕籠に乗った。随分あちらこちらで泊ったような気もするが、恐らく四五日のものであったろう。子供心に箱根山の険しかった事、所々母親に手をひかれて歩いた事なども記憶に残っており、湖水や大きな杉木立、また関所などおぼろげながら印象に残っている。父は代官の手附元締であったので紺屋町の役宅は大きかった。庭も広く、中にひょうたんの形の池があった。一方の池は湧水のため、水が極めて清冷で、庭の小石も一つ一つはっきり数えられた。大きな緋鯉が心地よさそうに泳いでおり、時折大きな音を立てて勢いよく跳ねかえった。ひょうたんのくびれの所には小橋がかかっており、またそこに魚の逃げないよう塞(せき)がしてあった。一方の池はアオミドロがいっぱい生じていて、どんよりとよどんでいた。それから水は流れはじめ、その小川にはメダカやフナやコエビがたくさんいて、池を中心とした水辺のあらゆるものが少年の日をゆたかに楽しくしてくれた。役宅は代官陣屋の一番奥のはずれにあり、すぐ近くの小高い所に社(やしろ)があった。社をめぐってこんもりとしげった大木のしげみがあり、季節季節にいろいろの鳥がやってきたが、特に群れてやってきて、盛んに鳴く百舌(もず)の声は今も忘れ難い思い出の一つである。屋敷の裏はうち続く水田で、裏木戸を開けて畦に出ていくとたくさんのイナゴがいたのも珍しく、またこれを捕らえるのも江戸育ちの少年には楽しい遊びであった。軒から軒へ、繁華な所狭い大江戸から急にひなびた自然に飛び込んだ私は、自然の美しさ、広さ、大きさに心をゆすぶられた。私はあらゆるものに驚きを感じ、また自然の中の楽しさを非常に豊かに感じた。後年自然科学に向かった私の意志は、あるいはこの時代に知らず知らずにしっかり培われていたのかもしれない。ここで九歳の初春を迎えたが、これが実に明治元年、即ち王政復古の新春である。しかし当時には色々な評が巷を飛び、正月二五日私は母等と共に避難のため江戸に帰された。三月すっかり平穏になったので私達は再び駿府に呼び返された。この時は父は朝臣となっていたのである。一二月ごろ同地に在住、一二月二日に完全な引上をなすべく東京(明治元年七月より江戸は東京となった)に向かって出発。そしてその帰途一同うち揃って江ノ島に一泊したことを記憶している。1 明治元年正月二日、徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いに敗れ、海路で江戸に帰城した。正月五日官軍は先鋒総督橋本少将実梁が京都を出発し東海道を下る。二月六日、総督の使番が駿府に来て勅命を伝えた。二月一一日、代官は桑名で総督に謁見し、勘定所より勅命を遵守すべしとの許可を得て京都に上った。三月二条城で朝臣を命ぜられ、宮部金吾の父も田上駿府県令のもとで付属元締を拝命した。
2016年08月26日
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高木玉太郎君 我々の級には文久二年生れの者が三人いた。そのうち高木君が一番兄分で一月生れ、太田君が八月、広井君が九月という順で、入校当時は皆一六歳の青年であった。入学規則によれば、志願者は一八歳以上たるべしとなっていたため、願書には生年月日を偽って通過したが、卒業の時には本当の年が判明したので、開拓使の役人共がこれら漸く満二〇歳に達したばかりの青年学士の処分には余程弱ったと聞いた。しかし皆一様に開拓使御用掛を申し付けられ月俸金三〇円を給され、それぞれの志望に従って職を与えられた。高木君は頭脳が明晰であった上に勉強を怠らなかったため、終始優秀な成績を挙げていた。君は化学に対し熱烈なる趣味を起し、ペンハロー教師の指導の下に、学課外の時間は化学講堂に入りびたり種々な分析や実験の手伝いをしていたので、卒業の頃はその学識も上達し、我が校における未来の農芸化学の教授たることを予想せしめた。在校中君はドイツ語の独習を始め、また続いてフランス語をも始めた。このドイツ語の学修は卒業後も継続し、遂にはゲーテやユーゴーをその言語で耽読するまでに進んだ。また鉱物の研究に趣味を興し化学講堂にあった米国より取り寄せた完備した鉱物標本につき綿密な研究を遂げた。鉱物の知識と化学の実験上の経験とは卒業後における事業の成功の基をなしたものである。高木君の父は幼少の時に死去され、また母は他家へ再婚されたため、祖母の手によって養育されたので、おばあさん育ちで我がままのところがあった。また年の割りにませていて、頗る常識が発達していた。広井君の追想文によると「まるで生れながらの老人のようで僕らは君を『小爺(こじい)』とあだ名した」と。君はまた料理に長じていて同室の広井君がよく猟に出かけ鴨など撃って来ると、その肉は君が化学教室から持ってきた磁器皿(ボースレーン・デッシ)やその他の器具を用いて、醤油、砂糖などで味を付け、ストーブの上で、うまい鴨の吸い物を作り、出来上がると隣室にいた僕らに呼びかけ(寄宿舎の建物には全部壁がなく板と紙で室が分割されていたのでよく聞こえた)「宮部君ちょっと来たまえ。内村君は来るには及ばないよ。」とやったもので、実に君の性格の一端を窺い知ることが出来る。君はまた物事に細かい始末屋で、学校よりの支給品は必要の有無にかかわらず規定通りこれを請求して貯めて置いたとのことである。南鷹次郎君 南君は天性人格者であって、学生時代においては頗る真面目な青年で、ひたすら修養に勤めていた。東京芝口の植木屋旅館で内村、太田、岩崎の三氏と私の四人が立行社という修養団体を組織したが、札幌に着いてからその主義に賛成され入社した者が三名あった。それは南、町村、鶴岩(村岡)の三氏である。明治一一年一月頃と記憶するが、この七人で黒ラシャのオーバーコートを着用して記念写真を撮った事がある。寄宿舎生活中南君の逸話として何も伝えるものはない。卒業の年の春、教頭より卒業後の就職に関し希望を申し出るように申し渡された時、南君は第一希望として獣医、第二としては畜産を選ばれた。学校当局は君の人格と学才とを認め、君の希望に従い、将来の獣医学教授たるべき準備として東京駒場農学校にて二年間獣医学を専攻するため、開拓使御用掛の資格のままにて遊学を命ぜられた。学校へ帰って来てもドクトル・カッターがまだいて獣医学を教えており、君は専らブルックス教師の下に農場の仕事に従事していたので、その方の経験や知識がいよいよ増進した。学校としても農学は本校の大黒柱であれば、ブルックス、ブリガム両教師が帰国後は君をして、その後を引き継がしめ、農学、園芸学の講義や農場の監理を担当させることとなった。獣医学は駒場出身の専門学士が担任することとなった。足立元太郎君 足立君は純粋な江戸っ子で、気が利き、物解りが良く、気さくで、また親切であった。話をするにも「君アレはアーして、アーなったよ」という調子だから、多くの人々は解からないが、私だけには足立君の話は大概察知出来た。君は学課中、製図、兵式体操、動物学等で優等な成績を挙げていた。在校中から昆虫学が好きで盛んに採集をしていた。卒業の時の希望は第一が畜産学で、第二が昆虫学であった。卒業後は養蚕に一身を捧げ、斯業発展のため大いに貢献された。太田稲造君 太田君は南部藩の名家新渡戸十次郎氏の三男として生れ、祖父伝氏は最も傑出した人物で、南部領内における不毛の大原野であった三本木の開墾を計画し、十和田湖より疏水し、この土地をして遂に一大沃野と化するに成功した。君の五歳の時、厳父は他界され、少年時代は賢夫人の誉れの高かった母堂の膝下に成育された。祖父は明治四年君の九歳の時逝去されたが、生前より君の将来に嘱望され、教育指導のよろしきを得れば、必ず天下に名を成すであろうといわれた。その遺志に従いまた厳父の実弟太田時敏氏が養子に貰い受けたしとの切望により、同年の秋上京した。次兄道郎氏は明治一七年病歿され、また長兄七郎氏は明治二二年君がドイツ留学中に死去されたため、君は実家を相続することとなり、新渡戸姓に復帰した。君が札幌農学校へ入学した時は僅か一六歳の青年であったが、年に似合わず思慮分別に富み、頭の働きの機敏さには驚くべきものがあった。特に弁舌に達し、また何となく気取るところもあった。時に諧謔を弄したり、また人をからかうことが好きであった。また室内で相撲を取ることを好み、腕節もなかなか強く、私とは好敵手であった。私ども二年生の時、相撲のはずみで私の前歯の義歯をひどく打ち、いためたので、その夏の休暇に治療を受けるため上京したが、その時に内村君も一緒であった。こんなに快活であった君が、卒業の二年前頃から憂鬱症に罹り、余り外出もせず、室に籠ってますます読書に耽った。それで「モンク」というあだ名で呼ぶようになった。この憂鬱症の原因は多読の結果、思想に動揺を来たし殊に神学上の懐疑に陥ったためと知られていた。学課の内、最も力をこめて勉強したものは農学であった。明治九年、明治天皇が東北地方御巡幸のみぎり、三本木にて御昼休み遊ばされ、疏水開墾に尽力せることを聞し召され、その功績を嘉し給い、御褒美を賜りかつ子々孫々よく農事に勤めよとの有難き御諚をかたじけのうしたので、兄弟三人は共に祖父の遺志を継ぎ皇恩の優渥なるに報い奉らんことを誓ったのである。太田君の札幌農学校入学を志願されたのも、そのためであり、また在校中農学に最も力を注いだのもそのためであった。第一年級第一学期の農学の成績は一番であったが、学年成績では三番であった。第二年級の学年の成績は一番で、二番は内村君であった。この努力は一つには故郷の老母を喜ばせるためだといっていた。英語に関する学科の優賞はことごとく君の占めるところであった。一一年振りで母堂に面するのを楽しみに明治一三年の夏、札幌を出立し、途中ゆるゆる諸所を見物しながら、何も知らずに盛岡に着いたところ、二、三日前に母堂が他界されたことを始めて知ったので、君の悲嘆失望は譬えようもなかった。それから札幌への帰途、東京にてはからずも永く求めていたカーライルの「サータス・リサータス」が手に入り、あたかも渇者が水をあえぎ求むるがごとき有様で、それを貪り読んだ。すると、これまでの煩悶憂鬱がさながら雲霧のごとく消え散じ、まるで復活したような気持ちになったと随想録に書いてある。またその頃好んで読んでいた修養書には、プルタークの英雄伝があった。卒業に際し学校へ提出した希望としては、第一は開墾、第二は作物栽培、特に甜菜栽培としてあった。第一の希望、開墾は優渥なる御諚に従い、祖父の遺志を継ぎ、北海道の開墾事業に関する業務に就きたいというので、これは後年、札幌農学校教授時代に北海道庁技師を兼任し、殖民地選定の事務に関与した時に実現され、北海道の拓地殖民に君の貢献せるところは決してすくなくなかったのである。また第二の希望、すなわち糖業に関しては、明治三四、三五年頃、後藤新平伯に懇望され、台湾総督府殖産局長兼糖務局長となるに及んで達せられた。この業績は実に台湾におけるサトウキビ農業の基を置き、その政策を確立し、日本をして砂糖について自給自足ならしめたのであって、実に日本糖業の恩人と認められるに至ったのである。
2016年09月02日
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<偽装メール>日本語の「品質」向上で誤認、注意を毎日新聞 8月26日(金) 「不動産購入申込み書 添付いたします」「写真送ります」などと書かれた短文のメールを受け取ったことはないだろうか。日常的に使いそうな文章で、うっかり添付ファイルを開いてしまいそうだが、こうしたメールは情報を盗み取る偽装メールの可能性が高い。情報セキュリティーを手掛けるキヤノンITソリューションズ(東京都品川区)は、このほどまとめた国内動向調査で、偽装メールに使われている日本語の文章の「品質」が向上し、利用者が気がつきにくくなっていると指摘。こうしたメールの添付ファイルを安易に開かないよう注意を呼びかけている。 同社によると、偽装メールに添付されている不正プログラムの多くは、インターネットバンキングやネット決済サービスのログイン情報の詐取が目的という。添付ファイルを開いても、一見何も起こらないが、ネットバンキングのサイトなどにアクセスすると、ひそかに不正プログラムが起動し、入力情報を詐取する。 偽装メールは▽日本人が違和感なく読める日本語の文章で書かれている▽実在する金融機関などが顧客に送るメールの文章をそのまま流用している場合がある▽実在のメールアドレスが使われている--といった特徴がある。 そのため、▽添付ファイルがついていないか▽添付ファイルの拡張子(ファイルの種類を識別する文字列)が「.txt.exe」「.pdf.exe」のように二重になっていないか--などを確認することが、被害を防ぐポイントになる。 特に「.exe」はプログラムであることを示す拡張子で、一般的なメールに添付されることはない。ただ、拡張子を表示しない設定でパソコンなどを使っている場合、「.exe」部分が表示されずに、PDFやワードなど普段使うアイコンに偽装されるため、「.exeの添付ファイルは開かない」という注意事項を知っていても、だまされてしまう危険がある。 メールに書かれた特徴的な一文を、ネットで検索するチェック方法も有効だ。一企業を狙う標的型攻撃とは違い、大量にばらまかれているため、ネットの利用者がすでに指摘していることもある。また、感染後はPC内に「潜伏」するため、ウイルス対策ソフトなどを最新にしておけば、情報を盗まれる前に「駆除」できる可能性がある。 同社の石川堤一マルウェアラボ推進課長は「添付ファイルがついていたら、怪しいと思ってほしい」と話している。【岡礼子/デジタル報道センター】
2016年08月26日
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九 札幌農学校生徒時代(明治一〇年―一四年)1 東京より札幌へ(三二頁)官費生応募 東京英語学校一級在学中、明治一〇年六月一四日、開拓使九等出仕堀誠太郎氏が英語学校の我が一級の教室を訪れて札幌農学校の官費生募集の演説をした。堀氏は植物分類学者理学博士中井猛之進氏の厳父で、クラーク先生が校長だった米国アマスト市の州立農学校に学び、帰朝して、クラーク先生の通訳をしていた。氏はその時、初めに北海道の開拓を説き、更に進んで北国の風物を興味深く面白く話され、終りに官費制度の事を詳細に語られた。学費の乏しかった士族の子弟が多かったので、官費であるという点が特に注意をひき、一二名も志願する結果となり、時の校長、服部一三氏を驚かす事となったのである。当時、私は前にのべた松浦竹四郎氏の著書や直話で蝦夷(えぞ)を知っており、遥かなるその土地をなつかしく思っていた時の事とて、堀氏の演説で、蝦夷植物の探求心はますます燃え、帰宅して直ちに母に許しを乞うた。私は前年にも志願する資格は有ったが、兄が二人共(長兄美勲は宮城県庁に、次兄文臣は神奈川県庁に勤めていた)不在のため許されなかった。しかしこの年には横浜にいた次兄が農商務省山林局へ転勤になって帰宅していたので、晴れて札幌遊学を許された。そしてその翌日、喜び勇んで登校したところ、やはり親の許しを受けて内村鑑三、太田〔新渡戸〕稲造の二君が、雀喜して登校してきた。この時からこの三人は生涯にわたる最も親密な友情関係を結んだのである。英語学校の一級、二級の生徒は無試験入学を許されていたので、体格検査を受け、これも無事通過して、私は明治一〇年七月二七日付で「開拓使付属札幌農学校官費生を申付」という辞令を受けた。当時の入学者は次の如くである。東京英語学校より入学(一二名)足立元太郎、藤田九三郎、伊藤英太郎、伊藤鏗太郎、岩崎行親、毛受駒次郎、宮部金吾、永井於莵彦、太田稲造、佐久間信恭、高木玉太郎、内村鑑三、工部大学予科より入学(四名)広井勇、町村金弥、南鷹次郎、諏訪鹿三、長崎英語学校より入学(二名)村岡久米一、西村規矩 計一八名。この一八名は東京に家があるなしにかかわらず、皆、芝区新橋五丁目の植木屋という開拓使御用宿に集合を命じられ、約一か月間、同処の二階を占領し、元気極めてハツラツたるものがあった。この時、私と内村鑑三、太田稲造、岩崎行親の四人は六畳の間に陣取って四人組を組織し、立行社(身を立て道を行うの意)と名付けていた。藤田九三郎君の遺された日記によれば、八月一日に開拓使より、金一〇円と服等(上着、ズボン、帽子、シャツ、ズボン下、靴、靴下)を受け取り、2日には雨着、カラー、襟飾り、ズボン吊り等を受け取るとある。八月一〇日は立行社の仲間と共に芝日蔭町の玉松という写真館で新調の制服を着用して一同並びに各自の記念写真を撮った。私はちょうどその時、一七歳六か月であった。なお植木屋に滞在中、開拓使の特別の交渉により、開会前に第一回内国勧業博覧会の縦覧を許され、掛員引率の下に、2台の乗合馬車にて上野の会場へ行った。出品物がだいたい陳列済になった時であったため、ゆるゆる充分に縦覧ができて一同大いに満足した。たまたま一行の一人、足立元太郎君が、日蔭町の古本屋で、A.GRAY著Field,Forest and Garden Botany と CHAPMAN著の Flora of Southern States を買ってきた。この本は純粋な分類学書で科や属の検索表や種類の記載が記してあるが、足立氏は使途が判らず、つまらぬ本を買ったと後悔していたので札幌に来てからそれを譲り受けた。これより先、英語学校在学中、神田の聖堂にあった書籍館に通って植物書を漁っていた私は既にA.GRAY著Lessons in Botany や How Plants Grow を読んでいたので、グレーの本の面白さをよく知っていた。後年これらの本は、私の植物学研究初歩の時代にどれほど、役に立ったかわからない。
2016年08月27日
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2 札幌農学校(三七頁)札幌を北海道の首府とし、市街を形成したのは、明治五、六年のことである。明治二年六月、中納言議定鍋島直正を蝦夷開拓総督に、ついで同八月東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)が開拓長官に任ぜられた。更に明治三年五月、黒田清隆が東久世長官の下に開拓次官となった。黒田次官は明治七年八月長官となり、明治一五年一月まで在任、「開拓使の黒田、黒田の開拓使」とうたわれた本道開拓の一巨星である。黒田長官が本道開拓政策中特に讃えられるものに二つある。その一は外人の招へいであり、その二は人材の養成である。彼は開拓使顧問兼頭取として米国農務卿ケプロン将軍を初めとし、実に七〇有余名、うちアメリカ人四〇名を招へいし、開拓万般の科学的建設を勇猛果敢に断行させた。当時の国情よりすれば驚異すべき高額であったが、その結果より見れば、実に僅少なる犠牲に過ぎない。知識を広く海外に求め、従来の独善的、島国的根性を離れ、断乎たる新政策を行ったところは今日も大きな訓戒がある。しかし、いつまでも他力本願に甘んずべきではない。ここに第二の大きな手が打たれた。それは邦人人材の養成であり、留学生派遣と学校の建設の二途である。黒田次官は、明治四年正月、海外視察に赴く時、七名の青年をともなって、開拓使から留学させた。内に後の東京、九州、京都の帝大総長となった山川健次郎男爵の名も見える。その後、前後あわせて三〇余名を送り出し、更に人材養成の根本は、女子にありとの見解の下に五人の女子留学生を出した。それは一六歳を年長とし、最幼、津田梅子九歳の少女であるから驚かざるを得ない。開拓使の遠大な抱負も、中途で断絶するに至ったけれども、大学男女共学は七〇年後に実現した。たとえこの第一の方法において成功を見なかったとしても、第二の学校建設においては、それを補填して余りある成功をおさめたのである。ケプロン卿は、開拓使顧問として、北海道の拓殖産業及び教育上に貢献するところが多かった。明治五年に提出した第一年報に「開拓使は科学的、組織的、かつ実用的な農業を起すために全力を傾注しなければならない。この目的を達するには、東京及び札幌の官園に連結して学校を設け、その内において農学の重要なすべての部門を教授することを最も有効にして経済的な方法とする。」と建言している。かくて、明治五年四月まず東京芝増上寺内に開拓使仮学校を設けるに至った。これがわが国で拓殖に必要な人材養成を目的とする学校の最初のものである。北門開拓の基地、札幌は、明治二年島判官が創設にかかった時は、人家わずかに二戸に過ぎなかったが、その後着々建設され、人口二五〇〇名を数えるに至ったので、明治八年八月に学校をこれに移し、札幌学校と称した。これらの学校は普通学を授けたもので、その生徒の学力も進んだので、さらに専門学科を設けることとなり、ここに明治九年八月一四日札幌農学校の創設となったのであって、これすなわちわが大学の真の前身であり、芽生えであった。札幌農学校開設のため、黒田次官はその指導経営の任に当たる人物の選定を、時の米国駐在公使吉田清成氏に依頼して、マサチューセッツ農科大学長ウィリアム・エス・クラーク博士を得た。博士はホイラー、ペンハローの両卒業生を伴って来朝し、母校の組織にならって、教則を編み、教育を始めた。クラーク博士がいかなる方針と意気をもって教育に当ったか、これを知るには、クラーク博士が八月一四日の開校式に当って開拓使長官、調所校長に続いて行った演説を見るべきである。まず「この最初の農学校の盛典にあずかり、胸の内に満足と感動がある」と前置きし、「今より数年を出ないで北海道の農業を勃興し、大いに生産を開くことにおいて、この学校のあずかって力あることを疑わない」と自信あるところを示し、「黒田閣下が北海道において農学校建立をもって着手の第一とする。盛挙というべきである。願わくは他日この学校の偉功が自ずから今日の公の画策が卓越であったことを表明することを」と述べ、「我輩は、まさに自ら模範となり、また教授となって学生諸子の心思の中において人生有用の器であるために、特に適合する才能を勉めて発揚させたい」と、学生の才能を啓発せんとする、自主的教育法を説き、さらに「回想すれば、数百年間、東洋諸国民を多年暗雲のように包蔵した階級、門地と因習の暴君の手から、この驚異すべき解放は、将来、教育を受けるところの学生の胸中に必ずや崇高なる志を喚起覚醒させるであろう」と、維新大業の性格を明らかにしている。かくて、学生を戒めて「君らはよろしく自国において、勤労と信任及びこれから生ずる栄光の最上地位に適するよう努力せよ。健康を保し、情欲を制し、従順と勉強との習慣を養い、時機の学ぶべきに遭うならば、学術の何かを論ぜず、力の及ぶ限り、その知識と熟練とを求めよ。・・・・・・重要の地位は常に正直で聡明剛毅の人材を渇望している」と説き、「遂にひとり北海道人民だけでなく、日本全国の尊敬と支持とを受け、かつ、これを受けて恥じないようになるであろうことを私は予め潔く信ずる」と結んでいる。この言葉一つ一つを玩味するとき、今日の私たちに、多くの考慮と示唆を与えることを認めざるを得ない。
2016年08月27日
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(六)札幌懐旧 開拓使本庁 当時において最も豪壮だったのは、米国風のキャピトル式木造二階建の開拓使本庁で、中央に丸い塔が聳えていた。この建物は明治一二年一月一七日に焼失、仮庁舎として南一条西三丁目旧札幌女学校を使用し、数年の後煉瓦造に変わった。本庁の構内は今の道庁構内よりも広大で、現在の道庁より北へ二町、南、東、西は一町広い、北一条西四丁目の角から西の方へ四丁、北の方へ五丁、正門は現在の道庁の正門より一町東に当たり北三条西四丁目にあった。土塀が構内の周囲をめぐっていた。西の方には小流があり、道路は無く、ただ塀に沿って細い踏跡がついていたのみである。この広い構内には、北米から輸入されたリンゴ、西洋梨、桜桃などが区画に従って整然と植え込まれ、果樹園をなしていた。 私たちは札幌に着いた翌日、新入生一同この開拓使本庁に挨拶に行った。その日は快晴で、塔の上からの展望は素晴らしかった。西方の峯々あたりには黒々とトドマツが茂り、山腹から渓にかけて濶葉樹の緑で埋っており、また他の方面一帯も原始林で覆われていた。東なる豊平川方面と屯田の方こそ少しく開いていたが、ほとんど奥深い森林の世界で、原生林の幽玄さはひしひしと身にせまった。札幌の街 明治一〇年私が札幌に着いた時には、このところは人口僅かに三千、東京に住み慣れた私には小さな淋しい街であった。大通り中心に、南の方が市街地で、北の方には官庁の建物があり、開拓使本庁と札幌農学校が一番に人目を惹いた。市街地は当時の渡島通の一丁目から二丁目のあたりが中心で、大きな商店が軒を並べていた。大きな商店といっても平屋で、屋根には大きな石が乗せてあり、柾葺(まさぶき)は少なかった。これにつぐ繁華な街といえば、狸小路か、沙流通一丁目から二丁目辺の所であったろう。そこでは五十集(いさば)屋が軒を揃え、色々な魚類が並べられ、また鹿の股肉が多量に吊してあった。そして街並は渡島通でさえ西八丁目で止り、他の所は西六丁目くらいで止っていた。東本願寺は古い寺であり、現在の南二条西六丁目あたりから見ると、その間には家が無く、ポツネンと本堂が見え、寺への道にはナハソロイチゴが沢山生えていた。当時札幌の街ははずれの西北は一面の桑畑であった。私共在校中は西八丁目には米国風のヤマダモを裂いて作った棒垣があって馬の進入を防ぐためそこに木戸があった。桑園は明治八年、黒田長官が会津の藩士を招聘して開墾せしめ、桑を移植したのに始まっている。藩士一行は春に来て秋帰った。皆袴を以て開墾していた。桑園の中で今札幌市立病院のある北二条西八丁目のあたりに大きな養蚕室があった。しかし数年続いた失敗に、開拓使でも養蚕事業の継続を中止し、黒田長官が一時有望な事業として奨励した養蚕も取り止めの形となった。 札幌農学校と本庁敷地との間には建物がなく、ただ寄宿舎西側の前あたりに御雇米人ダン氏の官舎があったのみで、その他は全部ホップ園であった。また街の西の方に行くと、現在の南一条西十三丁目あたりから、東西に七八町、南北に二三町の緬羊場があった。多くの小川が街中を流れていたが、今記憶しているものに主なるものが二つある。その一は、今の札幌病院中を通り植物園に入り、更に桑畑の方に流れたものと、なお一つは薄野あたりから豊平館の南を流れ創成川の川しもはその頃物資の運搬上大切な役目をなしていた。茨戸辺から引舟で運んだ物資は、製麻会社の辺の川の両側に在った倉庫に入れ、米などがそこへ貯えられた。官庫の北方に信州から移住した上島正という篤志な園芸家がいて花菖蒲や牡丹、芍薬を専ら栽培して改良を計っていた。その後、東皐(こう)園と称して札幌の一名所となった。 当時森林は、現在の植物園のあたりや、桑園の北の方に残っており、農学校の農園の流れに沿っても林地があった。現在の大学構内には楡の巨木が鬱蒼としていた。ここは始め原生林であり、ことごとく伐採され尽くされる運命に置かれていたのであるが、ケプロンその他の御雇アメリカ人たちがそれら巨幹を称えて保存するよう注意されたので、楡の木だけが残され、あるものが今日まで残ったわけである。なお、街の所々にも大樹が保存され、北一条図書館前に現存している巨樹のごときも実に当時の面影の一つである。 札幌につづいて東屯田、西屯田のあたりは既に開墾されていた。東北の方では同じく本村あたりが御維新前から開墾されていた。豊平川の沿岸にはドロノキ、ヤナギ類、シラカンバ、シナノキ等の巨幹が亭々と聳えて真駒内までつづいていたが、平岸村通には既に多少の開墾地が見えていた。豊平橋は室蘭街道の国道筋にかかっていたが、始めはごく粗末なものであった。しかしその後ホイラー教師の設計で相当立派なものにかえられた。偕楽園 それから当時の小公園だった偕楽園についてちょっと記しておこう。空知通の西端辺より北に小坂を下りると偕楽園に入った。入るとすぐ右にあたり池に面して平家の博物館があった。そこには北海道の天産物やアイヌの作品等が陳列してあり一般の縦覧に供していた。明治一三年頃東京芝公園内の開拓使の北海道物産陳列所が廃され、その陳列品の一部がこの博物場へ、他の一部は札幌農学校演武場内の標本室へ分配された。博物館に面した池に泉があって、清水が絶えず湧き出で、一方当時屯田兵招魂碑の在った地域に水源をもつ小流と合して、札幌農学校農場と開拓使の育種場との小川となった。博物場の前に物産局所属の製物場の建物があった。ここは化学工業試験所のようなものであった。それより少し北に進むと、小高くなった所に清華亭があった。これは明治一三年六月落成したもので、一四年明治天皇行幸の御時、御小憩になって由緒ある建物となった。亭より西方の土手に添って小さな温室があった。これより先、ボーマー氏は丹精して造り上げた温室と花園が明治一一年に札幌農学校へ保管転換されたので、非常に落胆憤慨して開拓使に迫り、この温室を造って貰ったといい伝えられる。これらの建物の外、偕楽園には何物もなく、実に天然の勝地であった。松や桜などが移植せられ、また花壇もあった。偕楽園の地続きに開拓使の育種場の広い土地があった。その後この土地と施設物全部が札幌農学校へ保管転換され、今日の北大農学部の一部及び理学部等の敷地となっている。育種場は専ら内外の植物の種子や苗を取寄せ栽培して風土に適するや否かを試験したところで、当時育種したドイツタウヒやドイツクロマツの大木が今は植物園内や北大構内に繁茂しており、またケヤキ、クリノキ等も伊藤邸内に残っている。なお偕楽園につづき、育種場内に競馬場があった。これは雇アメリカ人エドウィン・ダンの意見を徴してつくられた距離四四〇間の楕円形馬場で、明治一〇年に設置され、明治一一年初めて春季競馬を執行、明治二〇年競馬場が中島遊園地に移るに及んで廃されたものである。
2016年08月30日
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東京大学時代 1 東京大学へ 明治14年7月11日、学校を卒業して東京への帰省の途についた。その頃、札幌から東京に行くには小樽から汽船で横浜に着き、そこから汽車の便をかりたものだが、私は道南地方の植物景観に接して置きたかったので、陸路函館に行くことにした。札幌から小樽までは汽車に乗り、小樽から余市、岩内、磯谷、潮路(ウショロ)、黒岩、森と旅寝を重ねて函館に着いた。岩内と磯谷の間は有名な難所である雷電峠であったので船の便をとった。和船であったが幸いに静かな日であったので、おだやかな航海であった。後は駅逓から駅逓の旅で、馬子が先頭にたち、後に3,4頭の引馬をして、客はそれぞれその上に乗った。この時の旅行はひとりのことでもあり、かつこんな条件でもあったので、植物はあまり採集が出来なかった。函館から宮城県荻之浜までは船で行き、仙台に出て、当時宮城県庁に奉職していた長兄美勲を訪れ、数日間滞在して、それから人力車で白石、福島、郡山、宇都宮を経て東京に帰った。上野御徒町2丁目15番地の生家では母が次兄文臣と住んでおり、母はことさら自分の卒業を喜んでくれた。 これより先、明治13年の春、明治13年の春、ある日森校長から『話したいことがあるから宅へ来てくれるよう』との伝言があったので、早速その夜、おたずねしたところ、『卒業の上は君を本校の植物学教官にしたい。その準備として、明年卒業後に直ちに東京大学へ送り、植物学をまず2ヵ年専修させ、そのうえ機を見て更に洋行もさしてやるから、そのつもりで健康に充分注意して、よく勉強するように』と申し渡された。私にとってこんな嬉しいことはなかった。これで私の一生の方針がはっきりきまったのだ。私は、その夜、寄宿舎に帰室すると、すぐ内村君から『何かうれしいことがあるな。きっとすばらしくうれしいことがあるにちがいない』と幾度か言われた。堅く校長から口留めされていたが、生涯のこの友にだけは口を割らざるを得なかった。内村君は『よかったな、よかったなあ』と連呼して、私の肩を幾度かたたいてくれた。学校を卒業すると、それが実現され始めたのだ。そして東京遊学に対する長官の了解はあったのだが、東京大学での研究の辞令がなかなか下りず、手続きが面倒であったようで、正式に辞令が下りたのは明治14年11月14日付である。辞令には 東京大学ニ於テ植物学専修申付候事但シ修学中ハ月俸金ノ外別段日常ハ不給候事月俸金拾六 円被下候事とあった。ただし月俸は半分となったから、物価のやすかった当時とはいえ、自家から通ってどうにかこうにか過ごせた程度であった。8月から11月にかけて、私は道灌山を主として東京近郊に数回の採集を試みた。 東京大学 これより先、明治10年4月12日、東京開成学校及び東京医学校を合併して東京大学が設立され、法、理、文、医の4学部が置かれ、法理文の三学部は神田一ツ橋通の元東京開成学校の校舎を用いた。そして生物学科が理学部内に置かれ、植物の方では教授に矢田部良吉氏が、また員外教授に伊藤圭介氏が嘱託された。動物学の方はエドワード・モールス氏が担当し、矢田部教授は植物学の講義及び実験を担当し、共に生物学科の設立に努力された。明治14年東京大学職制制定と共に、両教授は任官された。そして矢田部教授は引き続き植物学を講じ、伊藤教授は授業に関係なく専ら植物園において植物調査に従事しておられた。
2016年09月04日
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古写真募集の自治体、八田與一夫妻の写真も台南市六甲区公所(=区役所)は2年以上前から、六甲の「人、物、地、産、景」をテーマに古写真を募集してきた。現在までに約350枚が集まり、冊子にまとめる用意を進めている。今年11月には出版される予定だ。これはそのうちの一枚で、烏山頭ダムを建設し、不毛だった嘉南平野を穀倉地帯に変えたことから「嘉南大圳の父」と呼ばれる日本人技師、八田與一(左から3人目)とその妻・外代樹(左から4人目)が並んで写る写真だ。 いまから93年前、昭和3年(1928年)に赤山龍湖巖の前で撮影したもので、八田與一の孫である八田修一さんがわざわざ提供してくれたという。六甲区の陳啓栄区長は「この古写真は私たちの歴史の記憶と感動を呼び起こすものだ。赤山龍湖巖という古刹の約100年前の様子を伝えるものでもあり、非常に貴重だ」と述べている。Taiwan Today:2021年9月23日
2022年08月06日
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プロローグ 「二宮尊徳の会」では、平成二十二年(2010)に「日本近代製糖業の父・台湾製糖株式会社初代社長 鈴木藤三郎」、平成二十三年(2011)に「報徳産業革命の人 報徳社徒鈴木藤三郎の一生」を出版した。 鈴木藤三郎の足跡を求めて、台湾の高雄にある台湾製糖会社と工場跡も訪問した。現在でこそ日本で産業遺跡は注目されつつあるが、台湾では当時の巨大な製糖工場をそのまま保存していることに驚かされた。また、現地の糖業博物館では児玉台湾総督、後藤新平、新渡戸稲造と並んで日本では忘れられている―当時は砂糖王・発明王と呼ばれた―鈴木藤三郎が、共に顕彰されていることに深い感銘を受けた。藤三郎が製糖会社の従業員の安全を祈って建立した観音菩薩像は、「黒銅百年守護聖観音」として今でも大事にされ、盛大なお祭りまであることに感動した。 台湾における鈴木藤三郎を調べるうち、台湾の人々から敬愛されている日本の土木技師八田與一を知った。烏頭山ダムを造り、広大な台南の荒地を豊かな穀倉地帯とした。現地の人々を大事にし、現在も敬愛を受けるその人と事業の高貴性(ノブレス)に関心を抱いて調べるとそれは東京帝国大学工学部時代の恩師広井勇教授に由来するように思われた。広井の教え子の一人、青山士(あきら)は、パナマ運河建設に従事した。青山は信濃川の大河津分水路の堰修復後に記念碑を建てた。碑には「人類ノ為メ国ノ為メ」と刻んである。広井勇は札幌農学校の出身で、内村鑑三・新渡戸稲造と同じ第二期生である。 内村鑑三といえば、「代表的日本人」で二宮尊徳を「農業聖人」として世界に紹介し、「後世への最大遺物」では、「この人は事業の贈物にあらずして生涯の贈物を遺した」と評価している。「予が見たる二宮尊徳翁」(資料1p.65-8)は青山士も生涯愛読した。内村鑑三はおそらく二宮尊徳を最も深く理解した「日本の生んだ天才の一人」(宮部金吾の言葉)である。 また、鈴木藤三郎の良き理解者であった留岡幸助は新島襄創立の同志社で学んだクリスチャンである。藤三郎が日本醤油会社社長を退いた時、「英国のクロムウェルは、多年奸雄と定まっていたが、カーライルが出て、その雄勁な筆をふるって、クロムウェルは千古の大忠臣で、真に国家のためにその身の毀誉をかえりみなかったと名誉回復した」と励ました。イギリスのピューリタニズムは、ピルグリム・ファーザーズによってアメリカのニュー・イングランドに伝わり、そのキリスト教はアマスト大学に学んだ新島襄により日本にもたらされ、同じくアマスト大出身のクラークによって札幌農学校に移植された。そして、このピューリタニズムは報徳思想とその道徳性の高さにおいて共鳴している。そのことは内村鑑三の二宮尊徳理解や留岡幸助が藤三郎に同志的に共感していることにおいてもみることができる。さらに藤三郎が台湾製糖株式会社初代社長として創業したとき、新渡戸稲造は台湾総督府糖務局長として台湾の糖業政策を立案し実施した。政策と実業二つがあいまって台湾の製糖事業は成功したのだ。私は、まず札幌農学校の内村鑑三・新渡戸稲造を中心とした二期生の交流(手紙等)を、カーライルの「クロムウェルの手紙と演説」にならい編年体で編集し、またその内容の理解を図るためコラムを作成し収録した。本書はそのコラムと資料の抜粋集である。札幌三人組の相互と広井勇の手紙の原文はほとんど全て英文で書かれている。当時の札幌農学校の教育のレベルの高さがうかがわれる。同時にキリスト教的な友愛は、当時の日本語では表現しづらかったのかもしれない。内村鑑三はこうした英文による、日本人の中でその量と質において傑出した高さを誇る膨大な手紙を書く中で、自らの考えを作り上げたように思われる。内村鑑三は、宮沢賢治とともに、近代日本語(日本語に高貴性をもたらした)の創出にも大きく寄与している。本書は、クラークが札幌農学校にもたらしたクラーク精神と札幌三人組と広井勇(米国留学まで)に区分して述べる。
2016年10月18日
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性質と人格 私は札幌農学校の第二期生として明治一〇年に入学したので、クラーク先生に直接師事したことはないが、多年欽慕する先生の性質、人格、その他逸事等について、あらゆる方面から収集した材料により、その人となりを考えてますます尊敬の念を深からしめたのである。先生は少年の頃から負け嫌いで、非常に勝ち気であった。例えば競技においても必勝を期するため非常な努力と練習とを重ね、常に負けた事がない。またケンカをしても負けた事がなかった。この性質が終生の行動に現われ、何事に対しても成功するまで忍耐し、これを貫き、徹底的に処理されたのである。競争場裡に勝ちを占めんとするその精神が、全生涯を通じて最も重要な部分であった。かかる性質があったために、南北戦争の際には一隊を指揮し、すべての困難に打ち勝ち、武名を高からしめ、戦功を立てた。この精神があったために日本政府の依頼に快く応じて、はるばる異郷に来たって永遠朽ちざる功績を遺して行かれた訳である。かかる不撓、奮闘的精神はまたその体格にも現われ、中背でもあるけれども筋骨たくましく、一種冒すべからざる威厳があった。それと同時に親しみやすい温かみと人をひきつける魅力を備えていた故に、教育家としても、士官としても、その学生や部下に及ぼす感化は顕著なるものがあった。最もよく先生のこの性質を現わしたものは垂下せる黒く太き眉の下に輝く碧眼である。時には鋭い眼光は人を射るがごとく、また時には柔らかい温情に満ち幼児をさえ近づき慕わせる程であった。先生は老年に至るまで子供らしい無邪気な所が残っていて何事に対しても非常に熱心で、時には少し激高しやすい程であった。常にユーモアに富み、また座談に長じ、しばしば青年を集め、驚異に満ちた冒険談、興味ある経験談、逸事等の物語のうちに、彼らに鞭撻教訓を与えた。青年らは先生を愛墓し、彼らのヒーローとして尊敬した。先生は正義を愛し、正義のためには全力を尽くして戦い、妥協を嫌い、否を否として是を是とし、禁酒禁煙の人であった。つまり主義のひとでもあったのである。学者としてのクラーク先生 先生はアマスト大学に在学中、地質学教授エドワード・ヒッチコック(E.Hitchcock)氏の感化を最も多く受けている。地質学、鉱物学、化学等に頗る興味を有し、卒業後特に鉱物学、化学を研究するためゲッチンゲン大学に学び、「隕石の化学的成分」という論文を提出して哲学博士の学位を得た。しかし先生は化学を研究しているうちに、植物学に対しても非常な興味を持ち、ことに植物学と化学との関係つまり植物生理学の方面に興味を抱いていた。あたかもこの時、一八五〇年ドイツへ留学の途次、ロンドンに数週間滞在中、ロンドン市外のキュー王立植物園の温室内に、その年初めて咲いたビクトリア・レジアという南米アマゾン河に産する大睡蓮の記事を新聞紙上で読み、これを見に行かれ、その雄大な葉と花を見て、植物界における驚くべき生活現象に直面し、その瞬間一種いうべからざる感動と畏敬の念に充たされた。そしてキューには匹敵しないにしても帰国後いつの日か植物園を造り、雄大なかの睡蓮をも植え、植物界の神秘を人々に知らしめたいという希望を起こすと同時に、植物学に対する愛着心と研究心とが強烈となったのである。そして一八七二年(明治五年)「植物学と農学との関係」という演説を試み、その中にキュー植物園で抱いたヴィクトリア・レジアの夢を、アマスト州立農科大学における温室栽培で実現したことを報じている。州立農科大学の創立当時は教官僅かに四人で、校長クラーク氏は植物学及び園芸学の教授を兼ね、なお植物園長をも兼ねたのであるが、その当時の園なるものは単に名義のみであって、実際は紙の上に存在していたガーデンに過ぎないけれども、それを光栄としていたことは余程面白い点である。そして先生は時勢に先んじて植物生理学に関する実験を企て、今日ドイツの生理学者をしてその結果を引用させるような有益な発見をしている。この実験は共同研究によって行われたもので、当時他においてあまり見る事のできなかった方法である。これらの研究中次の二つは最も有名なものである。第一は一八七二年(明治六年)に実験された「植物体における液汁の循環と同液汁の圧力」であるが、この研究方針はすべて先生によって計画され、全校一致で学生や助手等がそれぞれ分担を決め、この研究に従事し、かつこれを完成させたのである。第二は一八七四年(明治七年)における実験で、それは一層規模の大きなものであって、「植物の生活現象についての観察」であり、これも全校をあげて研究に従事したといってよろしい。面白いことにはこの実験を手伝った人々のうちに札幌農学校の教師になったペンハロー(Penhalow)、ブルックス(Brooks)両先生の名があり、またクラーク先生の長男アセルトン・クラーク(Atherton Clark)氏の名もある事である。この生活現象というもののうちには、ことに植物の盛んに生育している所の器官が外囲の圧力に抵抗していく膨張力を試験したのである。更にまた春季における植物根圧の試験をなし、その他いろいろな現象を研究した。これらに対してハーバート大学の有名な動物学者ルイ・アガシー(Louis Agassiz)は讃辞を呈して左の如く言っている。「かくのごとき研究をなし、またこれをかく明確に報告し得るものは既にその仕事の報いは受けているのであって、他人からこれに対する讃辞がなくても自ら心に満足を感じていると思う。この論文によってアマストの州立農科大学は学界のうちに一つの確固たる位置を占めたのである。学術界においては何か貢献するにあらざれば、その学校は存在の意義を認められないわけだ。この論文は植物生理学に取っては実に驚くべき所の発見である。かくてこの学校が今日までに消費された経費は、これによって全く償われた。」先生はこの論文によりアマスト大学より名誉博士(L.L.D)の学位を得た。先生は農学に取って各種の科学はみな密接な関係をもっているが、特に植物学は科学的農学の基礎をなしているものであろうと考えられていた。植物学に対する研究において名をなした人でもある。
2016年08月27日
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藤田九三郎 君も広井君と同じような境遇に置かれ、少年時代から青年時代にかけ苦学した。また等しく工学に志して工部大学予科の入学試験を三回も受けたが、ことごとく失敗したので、東京英語学校に入学、その二級の時、札幌農学校官費生に応募したのである。在学中の成績からみると、数学、力学、地形測量図、簿記学、兵式体操等で優良な成績を挙げている。卒業の時の希望は第一が土木工学、第二が農用工学であったので、開拓使では君に工業局土木課詰を命じた。君は札幌根室間の中央道路予定線の選択と、その道路線に沿い殖民地として適当な土地の調査及びその他重要なる事項の命令を帯びて、明治一五年第一期卒業の田内捨六君と共に札幌を出発し、実に言語に絶する苦難をなめ、その任を全うして、同年秋に至り帰札することを得た。この旅行中釧路の雌阿寒岳に登りナデシコ科に属する一小草本を採集、土産として持ち帰られた。これは学界に新しい種類であって、メアカンフスマ Arenaria merckioides MAXIMOWICZ と命名された。藤田君が卒業少し前、ドクトル・カッターに身体検査をしてもらった時、肺部に少し故障があるから、よく気をつけるようにと申し渡され心配していたが、その後大探検旅行に無理をした結果、肺患の徴候が漸次進行して来たため、終に明治二二年七月職を辞し、茨戸太に未開地三八町歩余を出願した。家族と共にそこへ移り、鋭意その開発に従事し、数年を出でずして全部開墾に成就したが、明治二七年一月二一日安らかに最後の息を引き取られた。享年三五歳。君は丈高く少しく前に屈み、筋骨逞しく、在校中は強健で、雪中の山登り等を最も得意としていた。また第一回遊戯会の時に三段飛(ホップ・ステップ・エンド・ジャンプ)、半英里競争及び袋競争(サック・レース)等にて一等賞を獲得した。君は好んで頭を五分刈りにしていたため、大入道のように見えたので、級友は君を「入道」または「ニュー君」と呼んでいた。君の性質は体格とは正反対で、どちらかといえば内気であり、言葉数が少なかったが、内に信実がこもっていた。君は口先よりは実践窮行をもって処世の主義としていた。君の特性として書き落とすことのできないのは、君の消化器の強健であったことである。寄宿舎の食堂の机には四人が一組となっていて、私の組には藤田君と内村君とがいた。朝夕の洋食は盛り切りでどうにも致し方がなかったが、昼飯の和食の時は四人に一つの飯びつと一週間に一度汁物が大鍋に一杯配置されてあったため、君は思う存分に食欲を満足させることができた。ある年の暮に賄い方が餅を馳走するというので、舎生一同食堂に集まった。その時君は最も多量を平らげた者の一人であった。その食べ方を見ていたが、決して餅を噛まないで、ただそれを食い切っては鵜呑みにするのには驚いた。この胃腸の強健であったことが、君の生命を少なくも両三年は永らえさせた。数度の大喀血で医者がサジを投げてから三年持ちこたえたのは栄養物を大量にとることができたためだと思う。岩崎行親君 君は我々の仲間では最年長者であった。安政四年の生れであったから、入校当時は二一歳であったが、我々の目からはそれ以上の老成人に見えた。それで我々は君に対して「岩崎老人(がんきろうじん)」の尊称を奉っていた。君は厳父が従六位筑前介岩崎政行といわれ、住吉神社の宮司を勤めておられ、王政復古の際に国事に奔走された熱誠愛国の士であった。君は明治の新教育を受けられる前に京都にて皇漢学を修め、また明治四年東京へ移られてからは専ら漢学を修めていた。かくて君が札幌へ来られた頃には漢学にも国学にも造詣が深かった。君は資性剛直、純真着実で熱誠なる人格者であった。ことに憂国の精神に充ちた人であった。我々入校許可当時、芝口植木屋に合宿中に立行社なる修養団体を組織したが、その発会者並びに社則立案者は実に岩崎君であった。卒業の席次が思わしくなかったのは、君は数学、土木、物理、化学のような学科が不得手であったためで、農学、動植物学、英文等では常に優良な成績を示していた。漢学の最優であったことは言を俟たないのである。在校中のみならず、君は終身読書をもって第一の趣味としていた。同級生中に常に話題となっていたのは、君が夜床に就く時は必ず書物を二三冊、しかも時には厚い本などを持ち込んで、それを読みながら、眠りに就く習慣であった。卒業に際し君が提出された希望は第一が作物及び果樹栽培で、第二が牧羊であった。そこで開拓使では君を民事局勧業課勤務に命じ、樹芸科担任、牧畜科兼務とした。しかし君の天職は教育事業にあった。明治二七年鹿児島に赴任以来、昭和三年四月急逝された時まで、三五年間薩南教育界に身を投じ、実にかくかくたる偉勲を建てられた。第七高等学校造士館の前庭を飾る君の胸像は、永く君のこの造士館の復興と育英事業に尽くされた功績を讃えてやまないであろう。しかし永遠に君の遺志として記念さるべきものは、恐らく大正一〇年夫妻相携えて伊勢の神宮に参拝し、君が日本の国体に対して平素抱懐せる赤誠を七言の古詩に作り、これを国体詩と称して敬天塾の学生に与えたものである。町村金弥君 君も苦学生の一人で、官費制度のある学校を求めて、まず工部大学予科に入学していたところ、たまたま開拓使の札幌農学校官費生募集を聞き、しかも無試験で入学を許可されることを知り、直に応募されたのである。君は真面目なそして沈着な青年であって、つとに修養に努められていた。入舎後間もなく、我々の組織していた立行社へ加入された。君の最も力を入れていた学科は畜産学と簿記であった。卒業の時の第一希望は畜産学であったので、直に真駒内牧場の係を命ぜられ、遂に本道における畜産界の大成功者の一人として知られるに至った。君はまた理財にたけていて、我々の級友中第一番の資産者となって、東京で楽隠居の生活を送った。明治一四年七月九日に卒業したが、同月二七日に開拓使より御用係その他の辞令を受け取るまで、一同寄宿舎に在って待命していた。ところが、森校長より町村君と私とが呼び出され、茨戸の発寒川沿岸の土地を学校の用地にしたいからその踏査をしてくるようにと命ぜられ、七月二五日に出発、茨戸で舟を雇い、発寒川を遡り、沿岸の土地をつぶさに調査し、見取図を添え復命した。その結果この地所は一時学校の所有に帰した。君に関して一つの逸話がある。それは何の罪にもならない話であるから、ここに記録に止めて置くことにする。それは演説法 Declamation の時、君の番で講壇に立って演説を始めたところ、ズボンの前のボタンがすっかり外れていて、何かが見えたので、級友の一同が笑いこけた時、一人が立って自分の前へ手をやり注意をしたため、漸くわかり真赤になり、後ろを向いて前を整えてまず無事に演説を終ったが、その後また君の番が来て講壇に立つこととなった。その時の演題はブルータスの大演説であった。この前の時の失敗に懲りたためか“Romans”と言いながら、右の手で前をさわって見、“C0untryman”と言って左の手でまた前を探って見、and lovers! と言ってまた右の手で前をさわって見た。その手の調子がすこぶるrhythmic であったため、一同もまた笑い出したところ、君はまた出ていたのではないかと思い違いをして、そっと覗いたから、大変、級中哄笑、暫時は止まらなかった。
2016年09月03日
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平成28年8月26日現在「二宮金次郎の対話と手紙 第一小田原編(少年、青年編)」 (2015年2月発行、2刷5月発行)全188図書館国立国会図書館都道府県立図書館 20図書館北海道立図書館 岩手県立図書館 山形県立図書館 栃木県立足利図書館 茨城県立図書館 千葉県立図書館 東京都立図書館 神奈川県立図書館 長野県立図書館 静岡県立図書館 富山県立図書館 愛知県立図書館 岡山県立図書館 徳島県立図書館 長崎県立図書館 佐賀県立図書館 熊本県立図書館 鹿児島県立図書館 鹿児島県立奄美 沖縄県立図書館市区町村立図書館 115図書館札幌市 恵庭市 帯広市 江別市 根室市 市立富良野 小樽市 北見市 京極町 別海町 美幌町 佐呂間町 比布町 様似町 八雲町 青森市 八戸市 十和田市 五戸町 遠野市 二戸市 久慈市 花巻市 金ヶ崎町 大槌町 加美町 名取市 潟上市 湯沢市 鹿角市 にかほ市 名取市 加美町 会津若松市 南会津町 本宮市 三春町 いわき市 新地町 日光市 鹿沼市 真岡市 那須烏山市 館林市 渋川市 越生町 横浜市 相模原市 秦野市 大和市 小田原市 平塚市 伊勢原市 海老名市 二宮町 湯河原町 新潟市 南魚沼市 新発田市 五泉市 富山市 砺波市 金沢市 加賀市 鯖江市 大野市 静岡市 浜松市 磐田市 掛川市 袋井市 御殿場市 下田市 菊川市 森町 三島市 新潟市 新発田市 燕市 名古屋市 岡崎市 半田市 南丹市 大阪市 三田市 松江市 広島市 長門市 四万十市 土佐市 いの町 丸亀市 西条市 多久市 佐世保市 唐津市 佐伯市 津久見市 日田市 臼杵市 熊本市 人吉市 上天草市 宮崎市 西都市 小林市 串間市 日南市 都城市 町立高鍋 日置市 薩摩川内市 姶良市 与論町 嘉手納町 北谷町 大学図書館 52図書館京都大学 東北大学 九州大学 弘前大学 岩手大学 福島大学 宇都宮大学 群馬大学 福井大学 神戸大学 高知大学 徳山大学 愛媛大学 長崎大学 鹿児島大学 東京農業大学世田谷校 東京農業大学オホーツク校 北海道教育大学 大阪教育大学 京都教育大学 駒澤大学 酪農学園大学 東洋大学 鹿児島純心女子短期大学 関西国際大学 金沢学院大学 拓殖大学 高崎経済大学 鹿児島県立短期大学 水産大学校 玉川大学 静岡産業大学 武庫川女子大学 沖縄国際大学 聖隷クリストファー大学 北星学園大学 立命館大学 活水女子大学 東北福祉大学 東北学院大学 獨協大学 札幌大谷大学 首都大学東京 横浜桐蔭大学 敬和学園大学 西南学院大学 日本大学生物資源科学部 高知工科大学 静岡理工科大学 北海学園大学 北陸学院大学 ふっくら 甘み上品 JA金沢市 五郎島金時が初出荷加賀野菜を代表するサツマイモ「五郎島金時」が二十一日、金沢市粟崎町のJA金沢市砂丘地集出荷場で初出荷された。二十二日には県内の店頭や直売所に並び、県外にも順次出荷される。 五郎島金時は同市五郎島、粟崎両町を中心に四十三戸の農家が栽培。初出荷に向け、内灘町向粟崎の栽培農家宮下幸輔さん(36)の畑では収穫作業が進められた。宮下さんらはつるを刈り取って機械でイモを掘り出すと、手早くケースに入れていった。宮下さんは「五月に強風の被害もあったが、順調にふっくらと育って安心した。ほくほくした食感と上品な甘みを味わってもらいたい」と顔をほころばせた。 この日、計六戸の栽培農家から同集出荷場に収穫された五郎島金時が運ばれ、選別後、千ケース分、五トンが市中央卸売市場などに出荷された。 JA全農いしかわによると、収穫・出荷のピークは十~十一月。富山県や関西地方のほか、関東や東北地方への出荷を増やす見込み。(太田理英子)さつまいもは、セルロースと呼ばれる食物繊維が豊富で、ジャガイモの約3倍の量が含まれています。 さつまいもを切った時に出る白い液体はヤラピンといわれる成分です。 これらの成分は共に腸内の掃除役をしており、その相乗効果によって便秘の解消を助けます。さつまいもはリンゴの約10倍ものビタミンCを含んでいます。 そのほかにも、β-カロチンやビタミンB1・B2などのビタミン類、 カルシウム・鉄などのミネラル類も豊富に含んでおり、高血圧の予防や、便秘の解消に役立つ野菜として見直されています。
2016年08月26日
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1 宮部から新渡戸へ(封書、英文)明治一四年(一八八一)九月二四日、東京御徒町から盛岡へ 東京・御徒町 一八八一年九月二四日 親愛なる太田、 年下の姪から君の手紙を渡されたちょうどその時、僕は東京の乾湿交替する天候に二百日さらされたため、かびと縮みで傷んでしまったー少なからず傷んだー僕の植物標本を並べ修復するものに忙殺されていた。標本を一枚一枚調べると、きまって僕の心は、あるいは憤りで、あるいは後悔で、あるいは慰めで充たされるのだ。ー任に当たった役人の無知のため、学者の笑い物になるほど悪い管理で、何と傷められたことか、何と非体系的に非科学的に並べられたか(しかし物理でいう補色の原則にはかなって、紫のあとに緑、黄色のあとに紫ーこれは科学的)を思ってだ。しかし、石狩渓谷の豊かな植物相を一般民衆に見せて、大いに役立ったことを思うと、またかりに千人の中の一人でもが、乾いた葉や干からびた花から、北海道の土壌の豊沃と多様性、気候の大体、農業成功の可能性、森林の豊かな富を読み取ってくれた人がいたとしたら、さらにまた何人かの人の心が自然への愛にかき立てられて、自然の神秘の探求に向かうとすれば、あるいは大いに満足をおぼえ、慰められ、幸福を感じるとすれば、またたまたま何人かの人が、神の創造のミイラのような残留物から、その「神の永遠の力と威厳」をたどろうという気になったとしたらーもうこの辺でやめにして他の話にうつろう。「札幌からの手紙」、おお!太田からの手紙!こう言いながら、筆を置いて貪るように封を切って、まずはゆっくりと、大喜びで、西洋手品師の神秘の壺のように、その中身が、知恵と機智のワインと兄弟愛のブランデーを、また君の厳しい男らしい、この世と自分自身に対する闘いの強い黒ビールを、さらに君の高き志のりんご酒を、君のキリスト信仰のシャンパンを(これらは皆、僕の好みにぴったりだが)、一滴ずつ読み味わい、さらに注意をこめて再読し、ペンを取り、僕の考えと返事を今書いているのだ。 僕たちは皆、君たちがみんな無事目的地に着いたときいて嬉しい。君の乗船が函館へ出航したあと、すぐに、銚子あたりから報せを送ったー先月三〇日、海は大荒れだったと。だから隅田丸が無事函館に時間どおりに着いたとの電報をもらうまで、僕たちはみな心配だった。 ここに君の新しい家がある。君はそこですっかり家庭的に感じているかい?冬が近づいている、ストーブはあるかい、それとも火鉢で我慢かい。君は良い家と良い友だちを選んだよ。権兵衛とニュー〔藤田九三郎〕は料理上手だし、君自身ときたら大飯食らいだ。権兵衛はどうしている。いつも親切で、勤勉で、幸福で、性格も習慣も変わりはせず、いつも単純かい。今日は彼にも他の人たちにも手紙は書かない。君だけだ。だから皆によろしく。権兵衛に、先日僕が彼のフジマエの実家へ行って、ゴチソウニナッタと言ってくれたまえ。高木〔玉太郎〕の実家へは二度行った。だから僕は宮崎氏のお茶には責任があるので、最初の機会に送るつもりだと高木に言ってくれたまえ。ニューは今は調査はしていない。彼は幸福にちがいない。ー彼の敏速な示唆と機械的才能は、今や真の応用を見いだしているのだから、それらが十分に発達するように願っている。仕事だ!歩くんだ!一歩一歩が上記の人々を前進させる。そしてしばしば旗竿や地均道具は大黒の小槌のようなもので振れば振るほど黄金が出てくるのだ。友よ、僕はこんなことをのべて間違っているかもしれない。君は書きよこした「金は力なりとのフランクリンの言葉は正しい」と。またこうも言った。「当地の人々は金のことしか、滅んでしまう賤しい鉄のことしか頭にない。彼らの迷った眼には、金は人間の幸せの究極目的と見え、彼らの働きの憧れの的なのだ!!」それで結構、金はじつに力のあるものだ。金は社会の主な原動力だ。金は人を刺激して他人と闘わせる。金は主の似姿であり、測り知れぬ価値ある魂の救いを、「滅んでしまう卑しい鉄」で買う働きによって、宗教の聖なる名さえも損なってしまう。金はむしろ不正な目的へ、不正な手段で人を追いやる。正しい目的へ動かすことはあまりない。しかし義務ー神に対する義務、同胞に対する義務、親族に対する義務、友人や国に対する義務こそ、人間の真の義務でなければならない。「義務こそ人の全存在を包むのだ。」 今、僕は新番町教会へ青年会演説をききに行かねばならない。残りは帰ってから書くよ。チョットイッテキマス。 唯今行テキマシタ。しかしすっかりがっかりした。会合なんかなかったんだ。ありえないんだ、というのも、僕が部屋に入ると、会のメンバーはたった四人しか来ていなかった。奥野〔昌綱:麹町教会牧師〕氏、平岩〔愃保:日本メソジスト教会第2代監督〕氏、井深〔梶之助:麹町教会牧師〕氏それに僕の兄だ。聴衆は内村と彼の弟と僕だけ。この不都合は、会員に手紙なり公の新聞なりで知らせるのを、会の役員が怠ったためだった。その上、今日午後僕たちには、福地〔源一郎〕とその同志の政治講演に出るか、または明治会堂での仏教説話をききに行く選択もあるんだ。どの講演も午後二時という同じ時刻に始まる。内村と一緒に麻生飯倉に本を探しに行った。広井〔勇〕君は今月中旬に家を出発するから、彼には久しく会えないと思う。池田氏は今月はじめ長崎に向かった。君の眼のことは本当に気の毒だ。君の大事な習慣のほうは犠牲にしてでも、これ以上悪くならないように眼を守りたまえ。 開拓使の存続について、黒田と彼の大事な目的について、そして国会についての噂がたくさんある。今では東京人の共通の話題の一つとなっている。今日はこれらの問題についての現在の輿論を君に書くつもりはない。それには時間がとてもかかり、紙もうんといるからね。 先日、SAC〔札幌農学校〕の生徒たちが、農学校からの(一時的?)退学願を学校へ提出するよう指示されたと聞いた。そんな動きが何かあるのかい?どうか僕に知らせてくれたまえ。農学校のほかの事柄についても、できれば僕の地位についても。 天気が許せば、明日はロン〔内村鑑三〕と大島〔正健〕一家、オノシマといっしょに出かけるつもりだ。ロンシャン君は一週間以内位に札幌へ向かうだろう。僕の状態や東京の教会の状況は、みなロンから聞いてくれたまえ。 君のつねに熱心な友人 F・K・宮部 乱筆失敬旧新農学生及ヒ在校の諸君へ宜敷御鶴声を乞う*1 「ゴチソウニナッタ」「チョットイッテキマス」「唯今行テキマシタ」は邦文。*2 乱筆以下邦文
2016年09月06日
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三好市立図書館 5件1 図書 報徳記を読む 第三集 二宮尊徳の会/編集・協力 二宮尊徳の会 ○2 図書 補注 鈴木藤三郎の『米欧旅行日記』 明治29年(1896)7月24日〜同30年(1897)5月8日 米欧旅行日記 日本精製糖株式会社専任取締役 鈴木藤三郎 鈴木藤三郎/著 二宮尊徳の会 ○3 図書 ボーイズ・ビー・アンビシャス 第五集 二宮尊徳の会 二宮尊徳の会 ○4 図書 ボーイズ・ビー・アンビシャス 第四集 二宮尊徳の会/編集・協力 二宮尊徳の会 ○5 図書 報徳記を読む 第一集 二宮尊徳の会/編集・協力 二宮尊徳の会 ○三好の特産「山茶」味わって 廃校利用の民宿にカフェ 2016/8/11三好市西祖谷山村の旧有瀬小学校校舎を改修した民宿「楽校の宿 あるせ」に、地区特産の「山茶」をメニューに用いた「山茶カフェ」が月2回程度、開店する。秋ごろまでの予定で、地区に人を呼び込むとともに山茶をPRする。 三好市では、標高の高い山間地の斜面に自生する在来種の茶を総称して山茶と呼んでいる。地元特産品のPRに官民で取り組む三好ブランド構築委員会が、生産農家3戸と協力し「天空ノ山茶」として売り出している。 カフェでは、山茶の粉末を振りかけたこしあん餅と市産そば粉を混ぜたそばぼうろ、水出し山茶を組み合わせたセット(500円)などセットメニュー3種類、山茶スムージー(300円)や冷たい山茶(200円)などドリンク7種類を提供する。和菓子製造の経験がある市地域おこし協力隊の加藤有美さん(29)=同市池田町サラダ=がメニューを考案した。 民宿は4月から地元の生活改善グループ「有瀬つくし会」が営業を始めている。民宿の運営に協力する集落支援員の柏木茂さん(60)=同市山城町川口=が、観光客から「昼食や休憩に利用できる場所がない」という声を聞いたことから、カフェを企画。山茶を生産している平松功さん(60)明美さん(62)夫婦=同村有瀬=や加藤さんに協力を依頼した。 7月23日のプレオープンでは、地区住民や県外客ら約30人が訪れて味わった。友人と3人で訪れた安達美恵子さん(59)=会社役員、同市池田町中西=は「山茶の粉はほろ苦く、あんとよく合っておいしい。天気も眺めもいいし、すてきなカフェ」と笑顔を見せた。 初回の営業は14日。柏木さんは「有瀬地区や山茶のことを広めたい。きっかけとなって若者の移住やUターンにつながれば」と意気込んでいる。 引きこもりの若者らが就労体験 三好の店舗開業 2016/7/30 仕事も通学もしていない引きこもりの若者らが就労を体験できる店舗が30日、三好市池田町に県内で初めて開設される。接客や商品作りなどを行い、コミュニケーション力や働く意欲を高めてもらう。引きこもりの人を支援するNPO法人みよしサポート協会ぴあぞら(同市)が、地域のボランティアや福祉、医療関係者らと連携して運営する。 同市池田町マチの民家を改装して開く。店名は「よらんdeやまき」。毎週金曜の午前10時~午後3時に、アクセサリーやカバン、タオルなどを製作して販売したり、資源ごみを住民から回収したりする。体験者には交通費の一部を支給する。 引きこもりの経験があるぴあぞらの会員をはじめ、精神障害者を支援する社会福祉法人三好やまなみ会ワークサポートやまなみ(東みよし町)の相談員や秋田病院(同市)の臨床心理士、地元の元教師らがサポートする。 三好保健所が2015年に三好市と東みよし町の民生児童委員に行ったアンケートでは、50歳以下で自宅などに引きこもっている人が少なくとも30人いた。これは「氷山の一角」とみられ、社会復帰を促すために就労体験をできる場が必要とされていた。 09年には徳島市のNPO法人が三好市池田町シンマチに引きこもりの人らが気軽に訪れることができる居場所「すりーぴぃ」を設け、現在はぴあぞらが運営している。ただ、人間関係を広げたり、仕事をしていくために必要な体力や集中力を養ったりできる機会はなかった。 ぴあぞらの天野雄二理事長(39)は「まずは仕事に慣れることで本来の自分を取り戻してもらい、社会で活躍できる人になってほしい」と話している。
2016年08月27日
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内村第五信(英文封書)東京 宮部金吾あて 札幌より 内村鑑三日記書簡全集5 一二頁一八八一年(明治一四年)一一月一〇日 札幌にて親愛なるフランク 四〇日以上たったが、君から一通の手紙も受け取っていない。君はもう約束を破っている。おお!金吾、カボテン、デコマルよ、急いで札幌の兄弟に手紙を書きたまえ。《失敬》 札幌について以来、君に書き送りたいことがたくさんある。僕自身は自分の仕事を実に愉快につづけている。僕にまかされた仕事ー北海道の漁業―は僕ひとりに大きすぎる。三〇〇万円以上の一国の生産が僕の支配下にある。月報三〇円の一官吏がこんな大事業の取り締りに当たるとは。先月二六日、石狩川を上下して漁業を視察するため、札幌をたった。対雁(ツイシカリ)に二日間とまり、アイヌのカヌーで川を下り、漁が行われている場所を一つ一つ調べていった。花畔(バンアグロ)に二日間滞在し、それから徒歩で石狩に下った。同地に滞在中、多くの有力な漁師を訪れ、サケ漁についてできるだけたくさん学んだ。またアイヌのカヌーで川を上下した。四日間滞在した後、厚田(アツタ)へ向けて出発し、沿岸の漁業基礎をスッカリ、相当くわしく調査した。何もかもスバラシク楽しく、自分の知識の一番貴重な部分をかためつつあるかのように感じた。一二日間の旅行の後、貴重な資料をタップリたくわえて札幌へ帰ってぃた。すでに役所へ出す報告書を書き上げ、目下十勝と東海岸一帯へ向け、旅行すべく準備中である。非常に楽しいとは思わないか。 永らく期待されていた札幌キリスト教青年会がとうとうできあがった。第一回の会合は今月一二日に開かれようとしている。キリスト教活動は目下きわめて活発に行われている。最大の難関は、会の経済状態で、われわれが多くの方面から寄付を求められていることは、われわれの教会の活動を一層難しくしている。しかしこれは君も知る通り、秘密にすべき事がらである。 佐藤〔昌介〕君については、ハッキリした事は何もいえない。事実、彼が社交について、あれほど気を使う以上、彼が大なる忠誠をもってキリストに仕え得るかどうか、疑いたくなる。僕はすでに、お追従や賄賂が官吏生活を左右する重要な要素である事実を、身をもって経験した。「社会に迎合せよ。しからばなんじは万人の人望をかち得べし」とは、僕が今現在生活している社会のモットーである。しかし「それだから、わたしたちは、今後、だれをも肉によって知ることはすまい」と使徒パウロは教えている。そしてこのマムシどもの時代と戦うためのただ一つの道は、「左右にもっている義の武器」によることである。〔内村の父が教会に出席していることを喜び、宮部に内村の家を訪れるよう頼む。足立元太郎は水野嬢におぼれ、岩崎行親、町村金弥は「悲哀の源泉」をつれてきた。〕 兄弟太田の眼が目下非常にわるいことを君に報告するのは、この上なく悲しい。彼は現在ほとんど盲人に近く、家にひきこもっている。多分近く東京へ行くだろう。彼のキリスト教観はきわめて混乱していて、いろいろ慰めたが無駄だった。彼のため祈ってくれたまえ。君のお母さん、兄さん、姉さんたち、姪御さんにくれぐれもよろしく キリストにありて君に最も愛さるる兄弟なる ヨナタン・内村鑑三内村第六信(英文封書)東京下谷徒士町 宮部金吾殿行 平静要書 札幌北4条東1丁目1番地中村方 内村鑑三より 内村鑑三日記書簡全集5 一四頁 一八八一年(明治一四年)一二月一五日 札幌にて兄弟デコ 宮部君 拝啓 君の健康と富と成功とを祈る。書きたい面白い事がたくさんある。札幌兄弟たちの誰かにあてた君の手紙はどこにあるのか。 君に忘れられたる友なる J.S.K.U〔ヨナタン・シャン・鑑三・内村〕これは一二月分の手紙の代りとして、ちょうど今、君に送ろうとしていた文面である。実をいうと、宮部、僕らは君の怠慢を怒り、君との一切の通信を打ち切ろうと、あやうく決心するところだった。君の気質を理由に言いわけすることは許せない。しかし、君は今は、今まで通り善い青年で、忠実な兄弟である。君の立派な手紙は昨日つき、僕が君に忘れられた友でないことを知って、今ヤット安心している。まるで、今、君といっしょにいるように感じている。四年間の平和な同室の友時代に経験したと同じあつい愛と兄弟のよしみとを、今、君におぼえる。ここで僕は言わざるを得ない。よし君の気質は手紙を書くのを怠るようなものであろうとも、僕の気質は(君のよく知る通り)、愛する友からの予期した音ずれがつかぬ時は、非常に暗くなり、不安におののくようなたちである、と。このことを事実と知りつつ、六〇日間も友情の文通という大義務を怠った者は意地わるでなければならない。しかし今は、僕は君と「生死を共にしているのである」ーコリント後書 君は今、兄弟太田〔新渡戸〕という善い友を持っている。僕は彼といっしょに苫小牧まで行き、そこで彼は南に向かい、僕は北に向かい、なつかしい別れを告げた時は、実に陰うつだった。馬上一日半の二人の交わりは、僕にとり、つらい時だった。彼の暗い、自省がちな性質は、この上もなく彼を哀しい人にし、僕の全力をもってしても、彼を慰めることはできなかった。彼の希望のハッキリせぬまま、将来のきまらぬまま、人生と救いとに関する観念の混乱したまま、僕は彼と別れた。彼の視力がかすんでいるように、彼の希望もかすんでいる。僕は室蘭までいっしょに行きたかったが、そうすると一層彼を悲しませることになると思って、苫小牧で彼に別れることに決めた。兄弟よ、僕は彼を慰め力づけるために、すでに僕の全力を傾けつくした。しかし何らハッキリした結果を得られなかった。今度は君が最善を試みる番だ。そして、よし彼の肉の眼は、神のみ心により、なくなったとしても、永遠を仰ぐ信仰の眼は強く変らず残らんことを。〔内村は新渡戸と苫小牧で別れた後、北海道のサケ漁の本場、幌別まで行った。その川をさかのぼった時、一人のクリスチャン〔赤心社の加藤清徳〕に出会った。「『マムシの子孫』の間にありながら、僕は安息を見出したのだった。ああ!何たる喜びぞ。」一八日間の旅を終えて、内村は札幌に帰った。〕 札幌キリスト教青年会はきわめて有望な状態にある。第1回の会合については、太田君がスッカリ君に話したことと思う。第二回の会合も同様面白かった。弁士は次の通り。足立〔元太郎〕売淫について。大島〔正健〕キリスト教の愛について。僕、アルコール飲料の使用について(生理学上より)。《永井碌、時事小言》。たくさんの未信者がこの事業に興味をいだき、すでに四人(すべて未信者)の入会申込みがあった。〔教会活動報告。「僕の目下のおもな仕事は役所の事より教会管理の事である。宮部が内村の父、宜之を訪ね、父のため祈ってくれ。宮部の兄、文臣の回心についての報知を2年前受けたとき、自身の肉親の回心に絶望していたが、その時、神にささげた熱い祈りが聞こえこたえていただけたことを知る。「足立君のことは太田君に託して、君にことづててある。」〕 広井〔勇〕君は今、幌内にいる。荒川〔重秀:一期生〕は調所嬢と結婚した。田内〔捨六:一期生〕と内田〔瀞:一期生〕はまだ帰らない。僕は今、暇だ。一月の一〇日頃、タラ漁のため西海岸地方へ出張する。明日とクリスマスには《当直》だ。楽しきクリスマスと幸なる新年のご一同にあらんことを 君の最も愛する兄弟なるヨナタン・内村鑑三
2016年09月08日
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宗教家としてのクラーク先生 宗教家としてのクラーク先生は米国においてはただ熱心な一信徒であった。しかし札幌滞在わずかに八ヶ月間の先生が、いかにキリスト教の伝道に従事して偉大なる感化を遺されたかということは、最も注目に価すべきことである。クラーク先生は学者であり教育家であって、宣教師ではない一の平信徒に過ぎない。先生が専門学科教授のかたわら、学生に聖書を教えられたのは、これによって日本の青年が身を修め、徳を養い、国家のために忠実なる臣民となさんがためである。明治九年の頃、官立学校においてバイブルを学生に、しかも教室において教える事を黙認されたということは、今より考えれば実に不思議の出来事である。黒田長官は学生の品位について心を用いられ、札幌農学校の前身の東京の仮学校の時代にも生徒の不品行を憤られて全学生に退校を命じた場合もあった。先生と共に黒田長官や第一期の学生等は御用船玄武丸にて品川湾より小樽港に航海の途中、ある時学生等は甲板上で俗歌を唄うなど実に乱暴であったので、これを下の食堂に聞いた黒田長官は非常に怒られ、こんな学生は到底見込みがないから函館から追い返せと命じた。しかし航海中特に謹慎を命ぜられてその場は納まりが付いたが、黒田長官の心は穏やかでない。ここにおいて黒田長官とクラーク先生との間に徳育問題の問答となった。長官は先生に対し専門知識の外に学生徳育のため修身学をも教えられんことを懇請した。クラーク先生は快諾したが、徳育を施すにはバイブルを用いるのでなければ何ら効を奏することはできないと主張した。長官はバイブルを用いることに激烈に反対し、互いに堅く自説をとって譲らなかった。札幌へ着かれて黒田長官は更に深く学生の徳育の必要と、またクラーク先生の人格熱誠に感動され、自説をまげて徳育のことは一切クラーク先生に委ね、バイブルを一の文学として、また一の修身学書として教えることを黙認した。この時クラーク先生の荷物の内には既に横浜で購入したバイブル数十冊が学生に配布されるべく用意されてあった。クラーク先生は毎朝授業に先だち聖書の講義をなし、また学生をして名句を暗誦せしめ、また彼らのために熱祷を捧げ、次第に彼らを導き感化した。明治一〇年四月札幌を去られるに先だち、「イエスを信ずる者の誓約」を起草し、学生中有志の者に署名せしめ、第一期生は全部これに署名し、約一年を経て後第二期生もほとんど全部署名するに至った。先生は帰国後も札幌に思いを馳せられ、絶えず、文書をもって彼らを奨励し、特に信仰上の働き、その奮闘ぶりを聞き、この上もなく喜ばれた。先生が臨終の際に牧師に語られた言に、「今自分の一生を回想するに何ら誇るに足るようなものはない。ただ日本札幌において数ヶ月間、日本の青年に聖書を教えたことを思えばいささか心を安んずるに足る」と。先生がいかに熱誠をこめて彼らを教導されたかが推察できる。
2016年08月28日
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開会式におけるクラークの演説(『北大百年史札幌農学校史料(一)』二二五頁 カタカナをひらかな表記に改めた)明治九年八月一四日教頭ダブルユー、エス、クラーク演説(英文ヨリ訳ス)長官閣下、札幌農校の長君、官員生徒及びその他の職員よ。余は昇日の国中に於て、この最初の農校開業の盛典に与かり胸裏交も自満と愉快の感動無き能わず。我がマサチユセツツ州の如きは教育事務の進歩に於て殊に有名なりと雖もかくの如き学校を有して自ら誇るに堪えたりし、以来日月未だ十年に満たず。今日余は札幌農校最初の教頭にして、兼てまた余輩の相共に住するこの世界大球の裏面に方たりて遠く数千里の外に位置せるマサチユセツツ農校の教頭としてこの席に列するは余の特に享くる処の大幸福ト云うべし。余の始てこの国に達するや、従来開拓使に於て模範と試験との為めに設けし三地の大園は各々かつて業をマサチユセツツ校に受けし日本紳士の管理に属するを聞きて、余は甚だ満足の想いを為したり。今余は該校に於て及第せし二名の紳士と共にここに在りて、これを相均しき一校の基礎を安置せんとす。而して今より数年を出でずして北海道の農事を興し、大いに生産の業を開くのことに於て、この学校の助けて勢力あるは余の疑わざる処なり。庠序(しょうじょ:学校)学校を設為し之を保持するは、公論以て文明政府の一大義務とす。然れども欧米諸国に於て、適宜の思慮を農工学術の研究場に費やすに到りしは僅かに近年に創まるのみ。然るに黒田閣下は北海道に於て、農業大学校を以て着手の第一となす。あに盛挙と云わざるべけんや。希(ねが)わくは他日この校の偉功は自ら今日公けの画策の卓識たりしを表明せんことを。余輩はここに最初の教授局を組み成さんが為めに選ばれたり。まさに奮励してこの貴むべく、かつ楽しむべきの職業に於て、余輩の分を尽さんとす。余輩はまさに身親(みずか)ら模範となり、また教授となりて、余輩の学生たるべき少年の心志中に於て人生有用の器たるが為に、ことに適合すべき才能をして勉めて発開せしめんとす。黒田閣下はつとに身を国事に委ねて黽勉(びんべん)倦まず今日名誉と官職両(ふた)つながら無上の栄光と責任を併せ得て既に相当の幸福を完うせり。この校中の人もまた何ぞ、公の卓越せるル例を学ぶ能わざらんや。一様の功徳を行い一様の高貴に到らんこと、天皇陛下の政府現今の治法に於て一物のこれを妨ぐるもの無きは余のかつて公より聞く処なり。回想すれば数百年間暗雲の如く、アジアの国民を包蔵せし門地と習慣との虐政をかくの如く奇異に脱し得たることは将来教育を受くる処の学生の胸中に於て必ず大志(a lofty ambition)を叫醒せざるべからず。少年の諸君よ、君らの本国はただいま大いに君らの至誠至強なる従事を要するに非ずや。君ら各(おのおの)宜く自国に於て勤労と信任及びこれより生ずる栄光の最上地位に適ぜんことを勉めよ。健康を保し、情欲を制し、従順と勉強の習慣を育い、時機の学ぶべきに遇わば、学術の何たるを論ぜず、力の及ばん限りはその智識と妙巧を求めよ。このごとくにして而して後、君らはよく重要の地位に適すと云うべし。重要の地位は常に正直にして、かつ聡明剛毅の人材を渇望すと雖も、その輩出は例してこの渇望を盈(み)たすに足らざるものは各国みな然り。あに独りこの国のみならんや。余はまさにこの演説を終らんするに臨んで、更に一言を陳ぜん。今この盛節の情形を観るに極めて将来大成の非を表するものの如しとし、然り而して、もし札幌農校をしてその幼稚の初めに当り些少の年間、幸いに長官閣下より愛顧を被むるを得せしめば、遂に独り北海道の人民のみならず日本全国の尊敬と維持を受け、かつこれを受けて愧(は)じざるに到らんこと、余の深く信ずる処なり。
2016年09月07日
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札幌農学校の功労者・「信ずる者たち」契約保管者 佐藤昌介「書簡集からみた宮部金吾」に2期生岩崎行親が宮部に出した大正15年9月21日付けの手紙(p5)に「母校創立50年記念式に参加のつもりのところ病気で入院。クラーク先生は写真で見ただけであるから、功労者はむしろ佐藤(昌介)君」とある。 佐藤昌介(1856-1939)。安政3年(1856)11月、南部藩士昌蔵の長男として岩手県花巻に生まれる。幼名謙太郎。父昌蔵はのち代議士として活躍した。明治4年(1871)上京し大学南校にはいり、のち東京英語学校に学んだ。明治9年(1876)札幌農学校第1期生として入学、教頭クラークから薫陶を受け、メソジスト教会に所属。明治13年(1880)同校を卒業し開拓使御用掛に奉職、明治16年(1883)渡米し、ジョン・ポプキンス大学で農政学を研究、「アメリカ土地問題の歴史」で博士号を得た。明治19年(1886)帰国し、22歳で農学校出身の最初の教授となる。以後母校の発展が佐藤に与えられた課題となった。以後約50年間札幌農学校及び東北帝大農科大学・北海道帝大の教授、校長、学長、総長として教育に専念した。また、昭和5年(1930)75歳で後進に途を譲るまで13年北海道大学の総長をつとめ大学の発展につくした。昭和3年(1928)に男爵を受けた。昭和14年(1939)6月5日札幌の自宅で没。84歳。 佐藤昌介は、「イエスを信ずる者の契約」をクラークから託されて保管した。署名を希望する者は佐藤の部屋を訪れて署名した。佐藤はそのつど頭に両手をのべて、英語で祝福を捧げた。クラークからの佐藤への手紙には、ニュー・イングランドからクラーク自身が農学校にもたらしたピューリタニズムとしての生活規範・信仰を護持するように、また仲間(comrades)を、自ら規範を守り模範となることにより助力するよう期待と要請の手紙が来た。「君の仲間を君の示しうる限りの規範と模範とをもって助けなさい。」そして「『イエスを信ずる者たち』が進み続けているなら、彼ら皆の心の内によき業を始められた神は、皆の最高の希望をはるかにこえた祝福を与えられ、皆の大切な祖国の繁栄のために栄光に満ちた数々の事業を達成させるようなされることでしょう。」というクラークからの預言を実現するため、そのプロデューサー・ディレクターとしての役割を果たした。佐藤は母校の教授となると、新渡戸と広井を農学校の教授として迎え、彼らのドイツ留学等をかなえた。その後に幾度も起った札幌農学校廃校の危機を救うため、尽力した。クラークが指し示した道を生涯を通して守ったといえる。佐藤の宮部宛書簡には、文部省への運動、大学昇格運動など北海道大学となるまでの活躍が36通にわたって記されている。佐藤は札幌農学校在学中から、クリスチャンに対する世間の警戒に対して「熟慮の結果、今置かれた立場でなすべきことを誠実になしとげなければなりません」と慎重に模範的に振舞った。そのため内村鑑三は、世俗と妥協するようにも見える佐藤の態度に不満を持った時期もある。「佐藤君については、ハッキリした事は何もいえない。事実、彼が社交について、あれほど気を使う以上、彼が大なる忠誠をもってキリストに仕え得るかどうか、疑いたくなる。」(第5信)クラークから佐藤へ「用心深く、平静を保って主の時を待ちなさい。神はかつて私の前に道をそなえてくださったように君の前にも同様にしてくださるでしょう。まず大学の学生としての地位を守り、役人になることが最も重要です。君が高貴な、愛国心の強い従順な市民としての人格を備えていると、支配者たちに信頼を抱かせるように努力しなければなりません。」というアドバイスを受けて、クラークの遺した札幌農学校の精神を守るため「できうるかぎり平和に事を進めていきたい」「最善な結果を得るためには、これが最も賢明な方法だ」との考えに従ったのである。
2016年09月03日
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八 東京英語学校(二六頁) 明治7年3月東京外国語学校英語科の試験を受けて合格し、最下級なる英語学下等六級の丁組に編入された。学校は神田一ツ橋に在って、現在の学士会館前に当り、元の商科大学敷地内に位置していた。この外国語学校の英語学の部門はその年の一二月に分離して東京英語学校となり。旧校舎の筋向いの榊原邸に移った。その敷地は開成学校(後の東京大学)の敷地の隣接地である。東京英語学校は明治一〇年に廃せられ、大学予備門に変った。英語学校の教育方針は全部英語のいわゆる正則主義で、教師は英米人が主となり、下級には邦人が加わり、最下級は邦人のみで担当した。英語学校の学級は一級から六級にわかれ、一級から三級までは一組、四級は甲乙の二組、五級は甲乙丙の三組、六級は甲乙丙丁の四組から成っていた。最下級六級の丁組を振り出しに、各級担任教員監督指導のもとに、毎月もしくは二、三か月ごとに小試験が行われ、その成績の優良なものは抜擢進級させる制度であった。私は入学当時は、六級の丁組にいたが、同年五月には級のもの四、五名と共に丙組に進級、六月には乙組に、九月には甲組に、同月重ねて五級の丙組に、一一月には五級の乙組に、翌八年の三月には五級の甲組に、七月には四級の乙組に、一〇月には四級の甲組に、更に翌九年の三月には三級に、九月には二級に、一〇年の三月には一級に進んだ。このようにほとんど試験のたびごとに進級を続けた。入学当時、同校に在学していた札幌に関係のある士、または知名の士を、明治七年三月発行の「東京外国語学校官員並生徒一覧」により、その若干を採録してみよう。下等一級―伊藤鏗太郎(札幌農学校第二期生)、柳壮蔵(北大医学部柳教授の厳父)、真崎健 吉(北大医学部真崎教授の厳父)下等二級―橋口文蔵(札幌農学校長をした人)、飯島魁、下等三級―中島信之(札幌農学校第一期生)、藤田四郎(藤田九三郎氏の弟、元農商務次官)、加藤高明、下等四級―末松謙澄、野村龍太郎(工学博士)、内村鑑三、下等五級甲組―土方寧、下等六級甲組―田中館愛橘、下等六級乙組―石川千代松、下等六級丙組―広井勇(札幌農学校第二期生)、下等六級丁組―宮部金吾(札幌農学校第二期生)この頃を考えると、教育の制度がちょうど一つの大きな過渡時代にあったように思う。生徒は多く東京で正則教授をしていた神田の共立学校からか、横浜の高嶋学校から入って来た。一級全科目を通じ一外人が算術、読み方、綴り方、地理、歴史等皆英語の教科書を使用してこれを担当していたが、明治九年頃には漢学が課程の中に加わった。また翻訳の組も出来た。私がやったのは、MurryのPhysical Geographyで、二月位で卒業と認められた。この組の受持は教諭下条幸次郎氏であった。教師についての思い出は散漫になっているが、その二、三を記してみよう。六級の頃にポート(POAT)がいた。彼は歯医者志望の英人で、米国遊学の途中日本に立ち寄っていたものである。私の前歯二本が虫歯になっているのを見て、直してやるから来るようにと誘われたまま、彼を訪問した所、前歯の穴にゴムを埋めてくれた。一通りの治療器具が揃っていて、それが美しく清潔に見えた。五級の甲組にいた時はマッカーサー(MACARTHUR)という酒飲みの英人がいた。商人あがりらしく、数学も加減乗徐くらいしか判らなかった。彼は生徒をよくかわいがり、しばしば生徒に遊びに来ないかと誘いかけた。私は級友と共にそこに算術を教わりに行き、分数のことを聞いたら、「分数?そんなことは判らないさ」と平然と答えた。四級の甲組に進んだ時にはマイヤー(MEYER)というフランス人の太った教師がおり、彼は私の試験点等評に“A good hard working boy”「宮部君は頗る出精なり」との評を与えてくれた。四級を終った時、彼を中心として撮った記念写真が今私の手許に残っている。その中には穂積八束(後年法学博士、東大教授)、近藤仙太郎(後年工学博士)、松田武一郎(後年工学博士)、伊藤悌蔵(後年控訴院判事)、市嶋謙吉(後年早稲田大学教授)、梅岩誠太郎(後年早稲田大学予科教授)、高木甚平、横井左久、内藤信一郎、鶴見次昌、曾我鼎三郎、山田義容に諸氏がいる。三級の時の教師のフェントン(FENTON)はイギリス人で昆虫学者だった。私が札幌に来た翌年石川千代松君を助手として札幌に蝶類の採集にやって来たことがある。二級の時の教師レーシー(LECEY)はアメリカ人である。彼は金星が太陽の前を通過した時の観測班に加わって来たまま、居残って教師となったので、数学が得意であり、また音楽にも趣味を持っていた。彼は私の点等標に“A model pupil, would make a fine teacher of Arithmetic”なる評をくれた。一級の教師はスコット(Scott)という米国の教育家で、英作文を教えることが非常に巧みであった。この組に入ってから英作文の上達は飛躍的であったと思われ、それが非常に後年のためになった。スコットは後ハワイの中学校長になっていた。一級の時の同級生中には後年有名になった人も少なくなかった。その中でも抜群なのは穂積八束君や酒井佐保君であろう。穂積君は級中での秀才で、特に同君の英作文は卓越したものであった。同級生の奇才として根岸錬次郎君がいる。同君は長岡藩士であり、河井継之助や森源三氏の一族であって非常な論客であった。ある時スコット教師はアメリカ人は一般に発音(pronunciation)が良くないがケンタッキー人は正しい。自分はケンタッキー州の産であると言うや否や、根岸君は直ちに“Yes, your pronunciation is very clear” と大音で誉めたので、スコット教師は赤面し、級友一同どっと爆笑した。同君は永らく日本郵船会社のロンドン支店長をしていた。戦前ロンドンを非常に親しみ「おらが村」と呼んでいた。この英語学校時代は母の膝下で全く勉学に専念した。学校は一時の油断も許さぬ進級試験制度であったので、夜はうす暗いランプの下で一一時過ぎまで勉強し、時には深更に及んだ。このために視力を弱めた。勉学に急がしかったから交友も少なく、多くは御徒町方面から通う連中と往復を共にした位のものであるが、一級上の高田早苗君とは家の近かったため特に親交があり、同君とは竹馬の交を深くし、時には上野の山を散歩し、球投げに仲間の四人高田早苗、梅若誠太郎、伊藤悌蔵の三君と私で撮影した記念写真が残っている。高田君は当時御徒町三丁目にあった母堂の令弟にあたる富田冬三氏の家に身を寄せていた。富田氏は後年農商務省の商工局長まで勤めた人で、旧幕時代から幕命を帯びて洋行をし、また維新になってからも二、三度西洋へ赴き、岩倉大使の欧米巡遊に際しては随伴したという経歴があって時勢に通じていた。いつも高田君に向かって、「何でもこれからは英語を学び、まず世界の大勢に通じなくてはならぬ」と教えていた。高田君と共に富田氏方に世話になっていた梅若誠太郎君は私と同級であった関係から親しく交わった。同君はのち文学士となり、宮城県書記官を勤め更に早稲田大学予科の教授となられた。なお球投げの仲間の一人伊藤悌蔵君は、私と同級で学校の往復によく一緒になった。同君は法学部を卒業され後大審院の判事になった。
2016年08月27日
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新渡戸稲造の母の死去に関する内村と宮部の慰めの手紙内村鑑三 一八八〇年(明治一三年)七月二八日 札幌にて 内村鑑三日記書簡集第5巻三頁 第一信(英文封書)陸中盛岡 太田(新渡戸)稲造殿 札幌農校 内村鑑三七月二八日 札幌にて 親愛なる兄弟パウロ 函館からの手紙が届き、一同心から喜んだ。君の旅行が陸路は快調に、海路もさして不快でなかったとのことに、一同大喜びである。君の今後の旅も安全・快適ならんことを。君の手紙が学校へついたときには、われわれ七人は(フレデリックを除き)定山渓へ行っていて留守だった。一同、同地に四日を過ごした。持参の重い荷物と、あらゆる種類のブヨの攻撃とに悩まされながらも、実に愉快な、大成功の遠足だった。その間チャールズ(広井勇)は野望にかられて、豊平川の水源に向かって二度探検を試み、その結果、彼が久しく渇望していた貴重な砒石の岩層には達しなかったが、川岸で一個の大きな砒石塊を発見した。それゆえ僕の(同時に我々の)最悪の敵は大食漢(藤田九三郎)だった。彼は怠け者で、しかも他人のエネルギー(物理学の表現を借りていえば)の最大の、また恐ろしい消費者である。君がわれわれの一行の一人でなかった事は感謝である。君は今、異教主義という暗い深淵にただ一人のクリスチャンの星として輝いていることと思う。「厳冬に臨んで、初めて常盤の松を識別できる」と昔の中国人は言っている。われわれが、愛と平和と善意とが熱心に求められているクリスチャンの兄弟たちの間にいるときには、バラ、桜草、ツバキ、ゼラニウム、エニシダ、シクラメンなどがいっせいに同じ花壇に咲き乱れて、たえず我々の眼にさらされていても、残念ながら我々は、その美しさに見飽き、彼らに水そそいで、熱心に、努力して、誠意をもって、彼らの成長を助けることを怠るのである。それどころか手荒く、いなしばしば、手きびしく、扱うのである。しかし可憐な桜草が、コホベ、ヨモギ、スゲ、イなどが圧倒的に優勢な、すさまじい雑草の群の間に、咲いているのを想像してくれたまえ。当然われわれはその優しい美しさを賞でて、その成長を妨げる妨害物を取り除き、根元の土をやわらげ、支柱をたててその発育をうながすだろう。 兄弟パウロよ、僕は信じている。(僕が昨年の夏体験したように)、君が札幌のクリスチャンの兄弟たちのことを思えば思うほど、君はいっそう彼らにとって親しいものとなり、かつ我々もまた、君について、思えば思うほど、また君が我々といっしょにいたときに、君に対する愛と情において我々が欠けていたことを思えば思うほど、いっそう我々は後悔の念にとらえられ、君に対する結び付きをいっそう強くされ、君のためにささげる祈りは、君もよろこんでくれると思うが、いっそう熱烈になるのである。我々の間にこのような偽りなき愛を恵みたまえる神の聖名はほむべきかな。我々の心と心をつなぐ鎖は、「壊ちる黄金よりもはるかに貴く」、永遠に不滅でなければならない。距離は遠く、君と我々とをへだてる海は広い。しかしそのへだたりが増せば増すほど、我々の結びつきと心持とはいっそう強くなる。神の聖名はほむべきかな。 我々は目下、皆無事で健康状態もふつうである。測量の方は僕の体が弱いため余り成功とはいえない。それゆえ僕の財産がふえることについては余り心配しないでくれたまえ。しかし藤田は非常に頑健なので、君が札幌に帰ってくるときには、大した金持ちになっているだろう。植物学者[宮部金吾]は少々疲れている。化学者[高木玉太郎]は少々頭痛を訴え、工学者(野心家の)[広井勇]はとても金に困っている。豚学者(ピゴロジスト)は小説を読んでいる。体育館とカハウ[佐久間信恭]とは変わりない。 次の機会まで、サヨウナラ 君の古い兄弟にして友なる ヨナタン[内村鑑三]二伸 君のお母さんと、もしお父さんが目下盛岡におられたら、お父さんとに、くれぐれもよろしく。我々のために祈ることを忘れないように。我々も絶えず君のために祈っている。第二信(英文封書)内村鑑三日記書簡集第5巻五頁 陸中盛岡 新渡戸様方にて 太田稲造愛兄 大至急 八月三日発す 札幌農校 内村鑑三一八八〇年(明治一三年)八月三日 札幌にて 親愛なる兄弟パウロ〔新渡戸稲造〕 盛岡からのお手紙昨夕着、我々は一大衝撃を受けた。ーそのため我々は食欲を失い、暗涙にくれた。いつも陽気な連中が、誰も彼もだまりこんでしまった。我々は自分を君の境遇に置いてみた。ーおお! 何たる悲しい、たえがたい試練か!君が生まれ故郷を訪れた唯一の目的は、疑う余地もなく、お母さんに会うことだった。しかも、ああ! ああ!お母さんは君の到着以前にすでに逝かれたのである。兄弟よ、僕にはどう君を慰めたらよいのかわからない。「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣きなさい」と使徒は言っている。僕は君に対する自分の気もちや強い同情がどんなであったか、また今あるかについて語ることを避けるが、在札幌のクリスチャンの兄弟たちの悲嘆の状を伝えることとする。エドウィン〔足立元太郎〕は昨夕から食事をとろうとしない。一週間前から頭痛を訴えているフレデリック〔高木玉太郎〕も同様である。フランシス〔宮部金吾〕は悲嘆の余りベッドの上に伸びている。ヒュー〔藤田九十三郎〕は自分の年老いた両親が、君のなつかしいお母さんと同じ運命に陥ったらどうしたらよいのかと案じつつ、今まで熱心にやってきた測量の仕事に、今朝はとりかかろうとしないでいる。チャールズ〔広井勇〕は、持ち前の男らしさから、自分の悲しみや同情の念を顔にこそ出さないが、静かに、物思いにふけりながら、君を想う忍び難い心持ちをハッキリと見せている。兄弟よ、こうしたしらせは、君の悲しみを慰める役には立たないかも知れない。しかしこれらはすべて、僕は心から証言するが、偽善から出たものでも、体裁をつくるものでもないのだから、我々の恵み深き父なる神が、我々のハートの中に住まわせてくださったところの、真の友情と兄弟愛のしるしとして、受け取ってくれたまえ。兄弟よ、神の道は、我々の道と違う。君はヨブの忍耐について、すなわち彼が引き続く苦難にいかにたえたかを知っているはずだ。君はモーセとエリヤについて、彼らがしばしば自分たちの期待に反する事をたくさんになさしめられたが、最後に幸福と希望と繁栄との栄冠を授けられたことを覚えているはずだ。我々は選ばれた子孫、すなわち特殊の民で、神、すなわち広大さ、偉大さ、力強さをもって全宇宙の創造主にいましながら、同時に憐れみにとんで、孤児と苦しむ者との友にいます神に、永遠の希望を寄せる特権を授けられた者ではないか。もし君のお母さんが君から福音を聞かされてから、それを信じることなく、永遠の眠りについたとしたら、お母さんは福音の光に照らされることに死んだよりもはるかに大きな、はるかにひどい刑罰にあわれなければならないのである。今後のことは、神が定めておいて下さったところではあるまいか。おお!キリストにある愛する兄弟パウロよ、君の試みを「イエス・キリストの現れるとき、賛美と栄光と誉れとに変」らせてくれたまえ。君にとり大きな、しかり、確かに最大の試みではあるが、しかし「火で精錬されても朽ちるほかない金よりもはるかに貴い信仰の試錬」である。 兄弟よ、悲しみに負けないでくれたまえ。悲しみは君の健康に大害があるし、君は健康を取り戻すために故郷を訪れたのだから。君の亡きお母さんは、ご自身の身体以上に、君の健康を案じておられた。勇気を出して、強い健康な人たるべく努めてくれたまえ。そして君の祖国と、神と、大切な君の家名と、君自身とのために立派な有益な働きをして、君の亡きご両親を喜ばせるように努力してくれたまえ。《身を立て 道を行い 父母の名を後世に挙げるは 孝の至りなり》君のために祈ることを決して忘れない。兄弟よ、愛する兄弟よ、僕は心から期待し、祈っている。身体は健康に、信仰は生気にあふれ、希望はあふれ、恩恵にみちみちた君に再び会い得んことを。 君の最も親しき兄弟にして友なる ヨナタン・内村鑑三 ご親戚の皆さんへくれぐれもよろしく宮部金吾(封書英文)明治一三年(一八八〇)八月三日、札幌から盛岡へ 佐藤全弘訳、編者において「ポール」「ジョナサン」を「パウロ」「ヨナタン」に変更した〕 親愛なるパウロ 七月二二日付の君の手紙は、昨晩、いつものように当初は大喜びで手にしたが、しかし、ーその手紙の中身をくわしくよむと、ああ、親友からー霊における親友からー受けとるにはあまりにも残酷な頼りだった。君に何と返事してよいかわからない。君をどう慰めてよいかわからない。君の懐かしいお母さんが亡くなられたー君の到着の三日前にーそして今は墓の中におられると、君からはじめて知らされたとき、君がどんな気持がしたことか、僕はあわれな父親の無い子の心で想像できた。パウロよ、君のばあい、他の人々とは事情が違うことがわかる。君のやさしい、感じやすい心には、あまりにも耐えがたいこともわかる。これは君の信仰の火の試練なのだ。しかし、兄弟よ、雄々しくまたキリスト信徒らしくありたまえ。そしてこの試練を「聖書の忍耐と慰め」で終わりまで耐え忍びたまえ。君も承知のように、君自身の魂は、世界全体をまとめて与えられても、それよりも君にとっては価値があるのだ。神のみ心については性急な結論を下すべきではない。とりわけ僕たちの祈りへの応答については。というのも、神の側には僕たちが求めた以上に、僕たちの魂の安泰によって、より高く、より良い配慮がおありかもしれず、それは、僕たちの限られた知恵では思いもつかないからだ。恵みと憐れみにあふれる神、父無き者、孤児の父は、僕たちの祈りを聴き、もし僕たちの祈りが神のみ心にかなうなら、また全き信頼をもって求めたのなら、遅かれ早かれ、何らかの仕方で、それに応えてくださるのだ。君を試そうとする火のような試練について、まるで何か思いがけないことが君に生じたかのように思ってはいけないよ。そうではなくて、君がキリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜びたまえ。神の栄光があきらかにされる時には、君もまた溢れる喜びをもって悦ぶことができるように(一ペテロ四の一二、一三)。そうすれば、「恵み溢るる神、キリスト・イエスを通じてその永遠の栄光へと僕たちを召された神は、君がしばらく苦しみをなめた後、君を完全にし、強め、力づけ、不動のものにして下さるのだ。」(一ペテロ五の一〇)。というのも、「僕たちの主イエス・キリストご自身、さらには父なる神が、・・・・・恵みにより、永遠の慰めを僕たちに与えてくださったのだから。力強くありたまえ。」(二テサロニエ二の一六)。「勇気を出したまえ。パウロ」(使徒行伝二三の一一)。 僕は君のために祈りつづける。「心砕けた者を癒やし、その傷を包んでくださる」(詩編一四七の三)方の永遠の慰めにより、君が力づけられるようにと、また君の信仰が強められ、君の希望が拡大されるように、また「君が憐みを受け、恵みにあずかって、必要な時にかなう助けをいただくため」(ヘブル四の一六)変わりない清い心と信仰をもって、「大胆に恵みの御座に近づくようにと」、さらにまた、君の健康が速やかに回復し、君の言行が他の人々にも影響して、彼らを僕たちの主の恵みと憐れみにより、永遠の光へと導くようにと。 君の誠実な友なる フランシス・K・宮部 パウロ・太田殿 追伸 ご尊父、ご令兄たち、ご令姉たちにくれぐれもよろしく。僕たちの信仰と身体の健康のために祈ってくれたまえ。
2016年09月03日
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鬼滅の刃「那田蜘蛛山編」が9月19日放送された。映画の「那田蜘蛛山編」は、藤の家紋の宿のおばあちゃんが「どのような場合でも誇り高く生きてくださいませ。ご武運を!」と言って送る場面から始まる。原作のコミックやアニメでは、ここにおばあちゃんが切り火をきる場面や、「何するんだ、ババア」とわめく伊之助と「切り火だよ。お清めしてくれてんの。危険な仕事に行くから」と善逸が答え、「誇り高く?ご武運?どういう意味だ?」と聞く伊之助に、炭治郎が「そうだな、改めて聞かれると難しいな」とまっすぐに問いに答えようとするところが描かれている。そうしたコミカルな、しかも考えさせる会話が入っているのだが、映画版では、ばっさりとカットされている。そしてこのおばあさんの「どのような場合でも誇り高く生きてくださいませ。ご武運を!」が全編を通じて、ベース(ベース(ドイツ語: Bass、バスとも)は、低音パートを演奏する弦楽器の総称)の役割をする。伊之助が敵の強さに自信を失いかけるとき、「どのような場合でも誇り高く生きてくださいませ。ご武運を!」というこの声が聞こえる。「負けねえ 絶対負けねえ」原作の那田蜘蛛山から藤の家に帰ったときの 伊之助とおばあちゃんとの掛け合いも楽しい!きっと「ババア」などの言葉が映画製作陣の自主規制にひっかかったのかなあ?こどもってすぐマネするからなあ(^^)
2021年09月20日
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『東大のディープな日本史2』御成敗式目を制定した意図は? 朝廷はなぜ巨大道路を建設したのか?奈良の大仏はどのようにして造られたか?1996年度 民衆はなぜ「御蔭参り」に熱狂したのか?「江戸時代、民衆の間で熱狂的なブームが起こった。1830(天保元)年の御蔭参りでは、約500万人が伊勢神宮に参詣したといわれる。当時の日本の人口は約3200万人と推計され、6人に1人が参加したことになる。1705年、1771年、1830年と60年おきに大流行が来たので「60年神発説」も説かれている。ちなみに江戸幕府が滅亡した1867年に起こった「ええじゃないか」は、御蔭参りの変種と考えられている。」黒川伊保子さんの「ことばのトリセツ」に「大衆全体の感性の56年周期」説が載っていて、ちょうどこの「60年神発説」をうらずける大衆の感性の法則ともいえる。p.151-152 私の研究の中に、「大衆全体の感性の56周期」説がある。感性トレンドと呼んでいる。ヒトの脳には、認識の仕組みから生じる7年周期があり、「七年で飽きる」という癖がある。 人々が一斉に見、聞き、味わい、触れる「流行」には、人々が一斉に七年目に飽きる。それを4回繰り返した28年目で感性真逆の事象を愛し、56年目に元の位置に戻ってくる。問題1830年3月ごろ、阿波地方から始まった御蔭参りは、御札が降ったという噂とともにまたたく間に各地にひろがった。「老いも若きも、子や孫を引き連れ、中には家を閉じて抜け参りに出かける者が多く、下女も台所や井戸端での仕事をそのままにして着の身着のまま飛び出る者もいる」といわれるように、人々はわれ先に伊勢神宮へと殺到したのである。幕府は当初、主人や親・夫また家主などに無断で家を出て参詣に行くことを禁じたが、人々の熱狂をしずめることはできなかった。こうして「御蔭でさ、ぬけたとさ」と歌い踊りながら伊勢神宮に参詣した人々は、この年の秋までに500万人近くにも達したとされている。設問このような熱狂的な御蔭参りはなぜ発生したのだろうか。参加した人々の階層や行動様式の特徴にふれながら、5行(150字)以内で説明せよ。解答例江戸時代には村や町で講を組んでの物見遊山などが興じられていたが、19世紀前半には交通網の発達や大御所時代の好調な経済を背景に寺社参詣が流行した。こうしたなかで、封建的身分秩序の下で束縛され、金銭的にも余裕のない女性や奉公人などが、道中での施行を期待しつつ抜け参りの形で御蔭参りに参加し、解放感を味わった。多くの民衆伊勢へ「おかげまいり」 江戸時代、伊勢まいりは全時代を通じて流行しましたが、中でも、ある特定の年に参宮が熱狂的に行われ、多くの民衆が伊勢へと押し寄せました。慶安3年(1650)・宝永2年(1705)・明和8年(1771)・文政13年(1830)の各年が、その代表的な年でした。ほぼ60年周期で起こっていますが、その原因ははっきりしません。 明和8年の群参のときから、広く「おかげまいり」と言われるようになり、それ以前の群参については「おかげまいり」と呼ばずに、当時は「ぬけまいり」と呼んでいました。皇太神宮のお札が降ったとか、多くの人たちの伊勢まいりが始まったとかの噂が立つと、子は親に断りなく、妻も夫の許可なく、奉公人も主人に無断で伊勢参宮に出掛けました。その旅姿は、白衣に菅笠で一本の杓を持ったりもしました。また、彼らは多く集団を作って旅し、のぼりや万灯を押し立て、「おかげでさ、するりとな、ぬけたとさ」と歌い踊り歩きました。日頃の生活を離れて自由に旅ができ、十分な旅行費用を用意しなくても、道筋の家々が食べ物や宿泊の場所を与えてくれました。それを神のおかげとし、妨げると天罰が下るとされました。 山田三方会合所の記録や本居宣長の『玉勝間』によれば、宝永2年の群参は50日間で362万人に達し、京都から起こった群参の波は、東は江戸、西は現在の広島県や徳島県にまで及ぶほどでした。次の明和8年の「おかげまいり」の総人数は、不明確ですが、宮川の渡し人数から見ても200万人以上に達し、東北地方を除く全国に及んだと言われています。さらに、文政13年の場合は、約500万人が伊勢へ伊勢へと押し寄せています。 また、江戸時代の伊勢参宮の盛行は、単に民衆が自由を求めただけでなく、諸国の人たちの出会いと交流により、稲の品種交換・伊勢歌舞伎の振興等、様々な形で全国の文化等に影響を及ぼしていたようです。
2020年07月20日
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テレビつけぱなしにしていたら「泉秀樹の歴史を歩く」で「前島密」をとりあげていた。聞き流していたら、新規事業を展開するにあたって、失業者対策を同時に行う構想力と実行力に感嘆した。前島密生年月日 天保6年1月7日(旧暦)1835年2月4日(新暦)出生地 越後国頸城郡下池部村没年月日 1919年4月27日(満85歳没)・母ていの訓え ていは、もとは高田藩(榊原家15万石)の武士(伊藤源之丞)目付役(200石)の妹で、旧家の上野家に後妻として入りました。密が生まれて7か月後に夫助右衛門が病没し、その後ていは幼い密を連れて上野家を離れ、実家のある高田に別居します。母子二人での貧しい生活の中、ていは、錦絵や往来物によって幼少期の密を教育しました。夜には幼弱にして文を解し、書を能くし、人の賞詞受くる者あり。然れども成長の後は多く凡庸の人と為りて、嗤(わら)いを招くもの多し、汝が今日の事、之に類似せずや。 糸魚川藩医であった叔父相沢文仲のもとに移住し、医学を志していたころ、ある俳句の会で密が詠んだ「夕鴉しょんぼりとまる冬木立」の句が称賛され賞品ももらいました。ところがていは、「幼い頃人にほめられ自分の才能におぼれてしまい大成しなかった人が多い。あなたもこのようなことになるのではないかと思うと、とても心配だ」と密を諫めました。密はこの母の言葉を一生涯の訓戒としました。一旦方針を定めて前進せんとす。何ぞその歩を躊躇せんや。 医者を志していた12歳の密が、江戸に遊学をしたいという気持ちを母に打ち明けた時の言葉です。ていは一旦方針を決めたら頑張って前進しなさいとの言葉で密を励ましました。男子いやしくも志を立つ。死は素より恐るるにたらず。ただ注意すべきは長旅の健康なり。 密が18歳の頃、黒船が来航しました。この衝撃は密の人生を変え、国防の志を強く抱かせることになりました。砲台や港湾を見てまわる全国一巡の旅に出る際に、別れを告げに家に立ち寄った密にていは、「男子が志を立てて一旦志士となったからには、死を恐れてはいけない。しかし長旅の健康には十分気をつけなさい」と言葉をかけました。・前島密は、長崎奉行所の英語稽古所の学頭である何礼之が別に開いた家塾の塾長となり、貧しい中で英語を学ぶ若者が安い費用で生活できる「培社」という学舎を作りました。 このとき、薩摩藩から鹿児島の開成学校の英語教師として招かれ、手厚い待遇を受けましたが、藩内では開国派の密とは考えを異とする尊王倒幕論が高まり、兄死去の知らせを機に鹿児島を去りました。 江戸へ戻った密は、慶応2(1866)年、前島家の跡を継いで、幕臣となり、前島来助(輔)と名乗ることになりました。この頃幕臣清水與一郎の娘奈可(仲子)と結婚、この年の末に「漢字御廃止之儀」を建議しています。 幕臣となった密は、その学識が認められ開成所(東京大学の前身)の教授となります。が、兵庫の開港を知り、外交を理解するためには外国船の入る港湾の税関業務を知る必要があると考え、兵庫奉行所を希望して実務の担当者となりました。・ 慶応3(1867)年将軍慶喜が朝廷に大政奉還を行いますが、前島は、大政を奉還するだけではなく幕府の所有している領地の3分の2を削減し還納すべきと重刑を覚悟で「領地削減之儀」を建言しました。 慶応4(1868)年、大久保利通が大坂遷都を建言したことを知り、新国家の内政や外交を行うためには、江戸が首都にふさわしいと「江戸遷都論」を唱え、建言書を大久保に送りました。 維新後、密は、徳川家が移った駿河(静岡)藩の留守居役に勝海舟から抜擢され、公用人、遠州中泉奉行を歴任、奉行職廃止後は藩内の開業方物産掛となりました。・静岡藩の開業方物産掛であった前島密は、明治政府から出仕を要請され、明治2(1869)年12月28日に民部大蔵省九等出仕改正掛勤務となりました。 民部大蔵卿は伊達宗城、大輔は大隈重信、少輔は伊藤博文。改正掛は、旧来の封建的な制度を改革し、近代国家を建設するための企画立案をする、いわば明治政府のシンクタンクで、メンバーは杉浦譲など旧幕時代に外国出張を経験した逸材たちで、改正掛長は渋沢栄一でした。・ 改正掛において、前島密は大隈重信から命じられ、京浜間鉄道建設のための概算書「鉄道臆測」を数日でまとめあげます。これは、土木・建設費だけでなく、運行開始後の経営収支の予測まで行った調書で、鉄道建設開始を助けました。4月には租税権正となり、租税の金納化など税法改正に取り組みました。・ 明治3(1870)年5月、前島密は租税権正の業務とともに駅逓司の事実上の長である駅逓権正の兼務を命じられました。 駅逓司は、水陸運輸駅路を統括する役所で通信の管理も担っていましたが、当時は旧幕府の道中奉行所(五街道を管理していた役所)とあまり変わりありませんでした。 全国を旅した体験や静岡藩中泉奉行の経験により通信の不便さを実感し、またアメリカの歴史書「連邦史略」やアメリカ人宣教師ウィリアムズから通信の重要性を学んでいた密は、駅制の改革と、全国的な通信網の整備を検討していました。 ある日、公用通信のために政府が飛脚に支払う賃銭の回議文書を見た密は、その高額な金額を資金とすれば、官営郵便の創設が可能と考えました。 密はこの事業の具体案を20日間でまとめあげ、明治3(1870)年6月2日に「郵便創業の建議」を行いました。 しかし、この郵便創業の立案直後、密は本務である租税権正の案件により、兼任していた駅逓権正を解かれ急遽イギリスに出張する事になり、郵便創業に立ち会うことはできませんでした。・郵便創業の立案直後、前島密は、ネルソン・レイの鉄道起債破棄等のため、アメリカ経由でイギリスに渡りました。産業革命の時代である当時のイギリスでは、交通や通信網の発達が目覚ましく、郵便馬車は全国を網羅、主要工業都市間は鉄道で結ばれていました。 イギリスは、1840年にローランド・ヒルの改革により、切手による料金前納と均一料金制の近代郵便制度を世界で最初に実施していました。また、イギリスの郵便局では、郵便為替、郵便貯金も取扱い、郵便保険も行っていました。密は、公務の合間に郵便局の職員に直接話を聞いたり、実際に利用するなどして、郵便局の業務を学びました。・ 明治4(1871)年8月、イギリスから帰国した前島密は自ら希望して駅逓頭となり、通信・交通の近代化に取り組みました。 その年の12月5日には東京・長崎間の郵便線路が開通します。長崎までの開通を急いだのは、6月に大北電信会社の上海・長崎間海底電信線が完成して、海外との電信が可能となったためで、早急に東京までの通信を確保する必要があったからでした。 同日、郵便規則が施行され、料金が距離制となり、新聞等の取扱いも開始されました。 そして明治5年6月、郵便制度を全国に実施する太政官布告が発せられ、7月1日から、北海道の後志、胆振以北の地域を除いて郵便の取扱いが全国で実施となりました。この時、新たに706ヵ所の郵便取扱所が開設され、同年末の郵便取扱所数は1,100ヵ所を超えました。・ 明治6(1873)年4月1日、郵便料金が距離制から全国均一制となりました。書状1通2匁(7.5グラム)までごとに、距離に関わらず二銭と定めました。但し、同一市内宛の料金は半額としました。 前島密は、均一料金制を導入するにあたり、5月1日から郵便事業を政府の専掌とし、飛脚など民間の信書逓送を禁止しました。 このように日本の郵便は、官営独占による均一料金制の施行によって、近代郵便としての条件をようやく整えることができました。前島密は郵便事業の基礎を確立した「郵便の父」として広く知られるほか、鉄道、海運、新聞、教育など多方面に功績を残した。事績・漢字廃止を建議 慶応2(1866)年に「漢字御廃止之義」という建議書を将軍徳川慶喜に提出した。国民の間に学問を広めるためには難しい漢字の使用をやめるべきだ。その後も、国語調査員としてこの問題に取り組んだ。・江戸遷都を建言 明治政府が首都の場所を検討している中、慶応4(1868)年に大久保利通の大阪遷都論に反対し線とは国の中央である江戸にするべきと主張した。その年江戸は東京と改められ江戸城は皇居となった。・鉄道敷設の立案 前島密が明治政府に出仕して間もない1870年(明治3年)、上司の大隈重信から、鉄道の建設費と営業収支の見積りを作るよう命じられました。当時わが国には、その標準となるような資料は全くありませんでしたが、彼は苦心の末に精密な計画案を作り上げました。のちにこれを見た外国人はその的確さに敬服したといいます。彼はこの案に「鉄道臆測」と名づけました。品川横浜間に鉄道が仮開業したのは明治5(1872)年5月、新橋横浜間の正式開業は9月である。・郵便創業 前島密の発議で明治4年郵便事業が開始された。明治3年から11年間、官僚としての他職をこなしながら郵政の長として事業の育成に当たった。「郵便」や「郵便切手」などの用語も彼の選択した言葉。郵政の父としてたたえられている。・新聞事業の育成 前島密は欧米社会から学び新聞の必要性を痛感しその発達を助ける為に明治4年に新聞雑誌の低料送達の道をひらいた。翌5年には自ら出版者を勧誘し郵便報知新聞を創刊させている。 また明治6年には記事の収集を簡単にするため新聞の原稿を無料で送れるようにもした。・陸運元会社を創立 江戸時代から運送業務・信書送達を担っていた定飛脚問屋が郵便事業に反対していたため説得する為に日本通運株式会社の前身となる陸運元会社を設立した。郵便輸送を中核として貨物専門の近代的な通運会社として発展を遂げた。・海運政策の建議・郵便為替を開始・郵便貯金を開始・訓盲院の創立・勧業博覧会の開催・日本海員掖済会の創立 「掖済」とは、腋(わき)に手を添えて救い導くことを意味します。日本海員掖済会は、明治13年に我が国郵便制度の創設者として名高い前島密(ひそか)氏が中心となり船員(=海員)に対する支援を目的として設立され、船員の教育訓練、宿泊施設の整備、乗船のあっせん等のほか、船員に対する医療事業を行ってきました。 戦後は、社会福祉事業も開始し、対象者を船員から一般の生計困難者に対して広げてきました。また、社会的な構造の変化と共に一般の地域の方々にまで医療の提供範囲を拡大し、現在では、医療事業、介護事業、社会福祉事業、船員支援事業を行なっております。令和2年4月1日には、このような掖済会の事業の公益性が認められ、新たに公益法人として認定されました。・東京専門学校の創立(早稲田大学の前身)・電話の開始
2020年08月22日
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嚥下障害のリハビリテーション高齢者の嚥下障害は嚥下関連筋群の廃用の問題か嚥下にかかわる中枢神経回路の障害の問題である.筋肉廃用に対しては筋力訓練が有用であり,中枢神経回路の障害に関しては代償的方法の訓練に加え,残存した神経システムをトレーニングによって賦活し,部分的に損傷した中枢神経を補完する「嚥下ニューロリハビリテーション」が有用であると考える.その方法として「食べる機能は食べる事によって最も効率よく訓練される」という考えに基づき,安全に配慮した食事関連感覚入力のシミュレーションを行うのがよい.まず,嗅覚刺激として黒胡椒の匂い刺激(むせにご縁無し)を行い,味覚や咽頭感覚の刺激強化としてカプサイシン入り口腔内溶解シート(カプサイシンプラス)を使い,言語聴覚士や訓練された看護師により,患者と同じ目線の高さで食べ物情報を視覚的にも聴覚的にも与えながら嚥下訓練を行い,同時に歯科によるプロフェッシナルな口腔ケアを行う.この嚥下感覚入力シミュレーションを取り入れ,段階的に食事をアップしていく誤嚥性肺炎患者の食事開始プロトコールを立案した.このプロトコールを重症の誤嚥性肺炎の患者が入院し,絶食点滴治療により回復し,経口摂取を開始するときに採用することにより,食事再開後の一カ月以内の再誤嚥性肺炎の発症を以前の 3 分の 1 に抑えることができた.・食べる機能は食べる事によって最も効率よく訓練される.しかし,摂食・嚥下障害には必ず誤嚥という問 題がつきまとい,肺炎や窒息により生命の危険に脅か されることになる.食事を使わない嚥下訓練時になるべく,食事の感覚をシミュレーションするような訓練を行うこ とが重要と思われる. そこで我々は摂食嚥下リハビリテーションにおいて現実の食事に近いシミュレーションをおこなってい る.まず,嗅覚刺激として黒胡椒の匂い刺激(むせに ご縁無し)を行い,味覚や咽頭感覚の刺激強化として カプサイシン入り口腔内溶解シート(カプサイシンプ ラス)を使い,言語聴覚士や訓練された看護師により 患者と同じ目線の高さで食べ物情報を視覚的にも聴覚 的にも与えながら,嚥下訓練を行い,同時に歯科によ るプロフェッシナルな口腔ケアを行っている. 経口が可能になれば ACE 阻害剤,シロスタゾール, テオフィリンという嚥下を改善するといわれる薬の併 用も考慮する。・このプロ トコールを使用することで,食事再開後の一カ月以内 の再誤嚥性肺炎の発症を以前の 3 分の 1 に抑えること ができた。東北大学名誉教授の佐々木先生・口の中を覗き込むと、のどの奥は食べ物や飲み物の通り道である「食道」と空気の通り道である「気管」の二股に分かれています。息をしているときは気管への道が開いて、食道は閉じているのですが、飲んだり食べたりしたときには「喉頭蓋(こうとうがい)」というフタで気管への道が閉じられて、食べ物や水分が食道に落ちるようになります。もし間違えて気管に食べ物や水分が入っても、咳で出そうとするわけですね。 ところが、嚥下反射と咳反射が低下していると、食べ物や水分がのどに溜まっても飲み込めず、気管に入り込んでも咳が出ません。そのために、誤嚥性肺炎を起こすと考えたんです。実際に患者さんたちを調べてみると、2つの反射が、健康な人に比べて格段に落ちていることがわかりました。・なぜ反射が低下するのか、さらにさかのぼって調べました。すると、そのまた上流に「脳梗塞」があることがわかりました。実は、健康に見える人でも、60代にもなると、嚥下や咳の反射が落ちる人が出てきます。そうした人をくわしく調べてみると、ほとんどに「不顕性脳梗塞」がありました。・人間ドックなどでのデータから、65歳以上では30%ほどの人に不顕性脳梗塞があると言われています。大脳の奥深くにある「大脳基底核」というところが一番脳梗塞を起こしやすいのですが、ここにある「黒質線条体」という部分が破壊されると、神経伝達物質「ドーパミン」の分泌が低下します。 このドーパミンが、嚥下や咳の反射に関係する「サブスタンスP」という神経伝達物質の合成を促します。そのため、大脳基底核で脳梗塞を起こすと、嚥下反射や咳反射が落ちてしまうのです。・──嚥下や咳の反射にサブスタンスPという物質が関係しているのは、どうしてわかったんですか。 サブスタンスPが咽頭や気管に多く分布していることは、昔からわかっていました。そのため、気管支喘息に関与しているのではないかと考えられ、盛んに研究されてきたんです。けれども、「そうでもなさそうだ」ということがわかり、なぜサブスタンスPがそこにあるのか謎のままでした。 しかし、我々が動物実験を続けているうちに、嚥下反射や咳反射に関係するとわかってきた。なぜなら、「カプサイシン」を大量に投与すると、サブスタンスPが出過ぎて、枯渇するからです。すると、嚥下反射や咳反射がなくなる。それでサブスタンスPが嚥下や咳の反射に関係していると気づいたわけですね。・──カプサイシンといえば、トウガラシなどに含まれる辛み成分ですね。 はい、サブスタンスPの分泌を増やす物質をいろいろ探したんですけど、カプサイシンが一番でした。それがわかったのが、20年ぐらい前のことでした。 他にもいろいろ調べましたが、黒コショウやミント(メンソール)も、サブスタンスPの分泌を促すことがわかりました。匂いの刺激によるようです。同じ辛味を感じるものでも、なぜかワサビやカラシはダメでしたね。──実際に、トウガラシや黒コショウで患者さんの嚥下反射や咳反射を改善することはできたのでしょうか。 はい、それも患者さんに協力してもらって臨床試験を行ないました。平均76歳の患者さん20人にカプサイシンを投与して、嚥下反射を測定しました。投与するカプサイシン濃度が高くなるほど、嚥下反射が起こる時間が著明に短くなっていることがわかります。 ただ、肺炎を起こすような衰弱した患者さんにカプサイシンや黒コショウを投与しても、効果はありません。私たちも、カプサイシンのトローチや黒コショウの張り薬をつくって患者さんに試してみましたが、むせてしまったり、かえって具合が悪くなったりして、効果がなかったんです。 ですから、肺炎を起こすほどの状態になる前に、元気なうちから日頃の心がけとして、トウガラシや黒コショウを使うといいでしょう。量は、1回の食事ごとにひと振りぐらいでかまいません。かけ過ぎると不愉快になりますからね。料理がおいしいと感じる程度にしてください。──他にも「口腔ケア」や「のどの体操」「発声トレーニング」など、誤嚥を防ぐとされるケアがいろいろあります。 口腔ケアはいいですよ。私たちも歯科医の先生方と共同で、介護を受けている多くの患者さんを対象に全国調査を行ないましたが、口腔ケアで肺炎予防ができることを確認しました。 口腔ケアを受けると口の中の細菌が減るだけでなく、歯ぐきが刺激されて、サブスタンスPが放出されるんです。それで嚥下反射が改善して、誤嚥を起こしにくくなるんですね。ですので、食後に歯をしっかり磨き、意識して歯ぐきを刺激することも、誤嚥予防には大切だと思います。 ただ、のどを動かす体操や発声トレーニングには、誤嚥を防げるという医学的なエビデンス(科学的証拠)はないと思います。やらないよりは、やったほうがいいとは思いますが、いったん衰えた嚥下能力を回復させるのは難しいでしょう。
2020年09月06日
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先日、テレビ東京の番組「 YOUは何しに日本へ?」で、立命館アジア太平洋大学(APU)の卒業生で現在九州大学大学院学生のシャミさんが紹介されていた。APUの大学図書館には現在「ボーイズ・ビー・アンビシャス」の第2集から第5集と「二宮金次郎の対話と手紙」の5冊が蔵書となっている。そこで未所蔵の「報徳産業革命の人 報徳社徒鈴木藤三郎」を寄贈して、ぜひアジア・アフリカからの留学生に読んでいただきたいと思った。鈴木藤三郎が報徳の考え方を近代産業(製糖業など)に適用して成功させたケースは留学生の本国の発展のために必要であると考えるからである。またマクス・ウェーバーが「近代資本主義の精神」が形成される上で母体となった「プロテスタンティズムのエートス(生活倫理)」を日本に導入し普及させた札幌農学校精神についての資料集「ボーイズ・ビー・アンビシャスシリーズ」についても広く知っていただきたいと思った。残念ながら多くの刊行本は手元にはないので、森の元気屋さんから所蔵している「ボーイズ・ビー・アンビシャス」などを送ってもらい、あわせて寄贈することとした。本日、それが2箱分届いた(感謝します!!)ので、まずは立命館アジア太平洋大学図書館に「報徳産業革命の人 報徳社徒鈴木藤三郎」、「二宮尊徳と日本近代産業の先駆者鈴木藤三郎」、「ボーイズ・ビー・アンビシャス-クラーク精神&札幌農学校三人組と広井勇」、「報徳記を読む」第1集、第2集を寄贈する。私たちが台湾高雄で印刷した最初の本の「日本近代製糖業の父 台湾製糖株式会社初代社長鈴木藤三郎」(2010年)の後書き(132ページ)にこう記した。「当初は自分の家業、次に氷砂糖製造、製糖業に適用し、いずれも成功させた鈴木藤三郎の方法は、自己資本の少ないアフリカや発展途上国での産業発展のモデルとなりうる。・・・・アフリカこそ鈴木藤三郎や二宮尊徳の考えを広める意義があるかもしれない」最初の本の最後に記した私たちの願いが実現されることを願う。平成27年9月25日 立命館アジア太平洋大学図書館 様 「報徳産業革命の人 鈴木藤三郎の一生」等の寄贈について 「二宮尊徳の会」では、二宮尊徳の事業と考えを高弟富田高慶が記した『報徳記』等の基本となる報徳の書籍を全ルビにして読書会等で読めるようにした『報徳記を読む』、さらに「報徳の精神」を近代産業に適用した鈴木藤三郎氏顕彰シリーズ及び札幌農学校精神を内村鑑三ら第二期生の交流と成長に焦点をあてた資料集『ボーイズ・ビー・アンビシャス』を刊行し、全国の公共図書館・大学図書館に寄贈しているところです。貴図書館において、ボーイズ・ビー・アンビシャスシリーズなど蔵書としていただき、心より感謝申し上げます。標記の「報徳産業革命の人」は、「報徳の精神」を砂糖製造業などに適用し、成功させ、砂糖王・発明王と称された鈴木藤三郎氏の報徳関連史料を当時の雑誌等から収集し収録した資料集です。貴大学の生徒、特にアジア・アフリカの留学生にとり、「国を興し(富まし)、民を安らかにする」ことを目的とした二宮尊徳の考えを近代産業に適用し成功させた鈴木藤三郎氏の生涯とその考え方は、非常に有益であると信じます。あわせて、「報徳記を読む」及び「ボーイズ・ビー・アンビシャスシリーズ」についても、同封いたしました。貴大学の学生の皆様の閲覧に供していただければと存じます。貴大学のますますの発展を祈念します。【二宮尊徳の会の刊行物】「日本近代製糖業の父 台湾製糖株式会社初代社長鈴木藤三郎」(2010年)「報徳産業革命の人 報徳社徒鈴木藤三郎」(2011年)「二宮尊徳と日本近代産業の先駆者鈴木藤三郎」(2013年1月)「砂糖王鈴木藤三郎―氷砂糖製造法の発明―」(2013年6月)「ボーイズ・ビー・アンビシャス-クラーク精神&札幌農学校三人組と広井勇」(2013年3月)「ボーイズ・ビー・アンビシャス 米欧留学篇」(2013年10月)「ボーイズ・ビー・アンビシャス 新渡戸稲造の留学談・帰雁の葦」(2014年2月)「報徳記を読む」(2014年3月)「ボーイズ・ビー・アンビシャス第4集 札幌農学校教授技師広井勇と技師青山士」(2014年7月)「ボーイズ・ビー・アンビシャス内村鑑三神と共なる闘い不敬事件とカーライルのクロムウェル伝」(2014年10月) 「報徳記を読む第2集」(2014年11月) 「二宮金次郎の対話と手紙 第一小田原(少年・青年)編」(2015年2月初刷、㋄2刷) 二宮尊徳の会
2015年09月24日
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平成30年2月2日「八田與一と鳥居信平」所蔵館全73館国立国会図書館 1件都道府県 5件東京都立図書館 静岡県 奈良県 徳島県 鹿児島県市立図書館 37館北見市 帯広市 別海町 京極町 八戸市 五戸町 二戸市 久慈市 名取市 本宮市 会津若松市 南会津町 鹿沼市 富岡市 那須烏山市 厚木市 御殿場市 浜松市 菊川市 掛川市 磐田市 愛西市 羽咋市 松江市 藍住町 牟岐町 吉野川市 北島町 鳴門市 阿南市 新居浜市 西条市 高松市 丸亀市 都城市 小林市 薩摩川内市大学図書館 30館北海道 九州 九州理系 小樽商科大学 岩手大学 高橋経済大学 聖隷クリストフアー大学 武庫川女子大学 桐蔭横浜大学 聖心女子大学 放送大学学習センター 酪農学園大学 沖縄国際大学 高知大学 高崎経済大学 東京農業大学 駒沢大学 敬和学園大学 鹿児島純心短期大学 山梨学院大学 鹿児島短期大学 立命館アジア太平洋大学ライブラリ 水産大学校 神戸大学 福島大学 徳山大学 東北学院大学 鳥取短期大学 宮城教育大学 大倉山精神文化研究所波力発電実用化へ離島で実証実験 徳島・阿南市毎日新聞2018年1月28日阿南市は、徳島県の南東部に位置する市。四国最東端の地方自治体であり、東は紀伊水道と太平洋に面し室戸阿南海岸国定公園の北端である。県内一長い河川の那賀川河口があり、桑野川が市内を貫流する。離島・伊島の自然を生かしたまちづくりに取り組む徳島県阿南市は、阿南高専と協力して2017年度から海の波のエネルギーを利用して電気をつくる波力発電の開発を進めている。学生たちは27日、伊島の海上に完成した試作機を浮かべて実証実験を始めた。島の漁業などで実用化を目指す。 伊島周辺の海域は波の上下動が激しいため、市は波力発電の可能性に着目。小水力発電の研究実績がある阿南高専に協力を依頼した。同校は、岸壁に設置して潮の上下動で歯車を動かして発電するタイプと、海上に浮かべて潮流によって発電する2種類の装置を製作した。市からの委託費は200万円。 実験したのは潮流で発電するタイプの試作機。海に浮かべると、波の力で歯車が回転して発電する仕組み。試作機は長さ4.65メートル、幅1.4メートル、高さ1.4メートル、重さ200キロで、歯車が4つ装着されている。毎時100ワット程度の発電が見込めるという。この日は潮の流れが緩やかだったため、船のプロペラを回転させて波を起こした。船につないだ試作機の歯車が回ると、発電を確認するLEDライトが点灯した。 4月の設計時から伊島の波力発電に携わる阿南高専5年の中山昌孝さん(20)は「授業の合間や夏休みも実証実験に向けて活動してきた。これからの波力発電の実用化への一歩になったと思う」と手応えを感じていた。阿南高専地域連携テクノセンターの宇野浩特命教授(熱工学)は「歯車の羽の形状を変えて効率的に回転できるようにするなど、改良を重ねたい」と話した。 2月には、潮の上下動で発電するタイプを岸壁に設置する。3~6カ月ほど設置して、波の大きさと発電量などのデータを集める。市は、実用化が可能な発電施設の規模を検討していく。将来的には、島の漁協の冷蔵倉庫や災害時の非常用電源への活用を目指す。【松山文音】
2018年02月02日
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平成17年第781号 平成17年3月14日号発行 家族ふれあい新聞木谷さんからメールが来た。「Gさん、こんばんは。今夜は冷えますよね。しんんと。浅草へ出かけたのですか。そうですよね。林家こぶ平さんの襲名の披露があったのですよね。オマチではそのようなことがありますからね。いいですよね。ウヌッ、「神谷バー」へ出かけたのですか。電気ブラン、そうなかなかのものですよね。あそこのあの喧噪がなかなかの雰囲気があるのですよね。山岡先生の「施無畏」の額は見たことがあります。でも、剣の極意を書いてあるとは知りませんでしたね。「ツキの呼ぶ魔法の言葉」本屋で探したのですが売り切れか見つけることができませんでした。今夜、インターネットで見ると、それらしき講演集がありました。それを「ワード」にまとめてみました。添付ファイルに添付しましたが、このようなものなんですかね。いずれにしても、Gさん「ありがとうございます」「感謝しています」Gさんのような方に出会えて私は「ツイテイル」と思います。そう「スウィングガールズ」なかなかのものだったでしょう。映画らしい映画ですよ。楽しく元気になる。それが一番ですよね。寒いです。今夜は少し呑んで寝ることにします。いつもいつもありがとうございます。」 木谷ポルソッタ倶楽部【花の合格】大学の合格発表が貼り出された掲示板の前に、人だかりができていた。学生部の職員である塚崎さんはその前を通るのが嫌だった。合格して喜んでいる若者たちの傍で、呆然としている若者がいる。そのような光景を見ると、塚崎さんはせつなくなった。だから、発表の日はできるだけ掲示板の前を通らないようにしていた。塚崎さんは図書館の裏道を歩いていた。ひとり若者が泣きながら土にひざまづいていた。土をいじくっていた。何をしているのだろう。塚崎さんは近寄った。「そこで何をしているのですか?」若者が塚崎さんを見た。立ちあがった。学生服の袖で顔を拭いた。「すみません。この大学を受験したのですが、落ちてしまって…」若者は涙声で言った。「落ちたのは気の毒だけれど、そこで何をしていたのですか?」塚崎さんは若者の顔を見た。まだ高校生然とした顔をしていた。「合格したら、大学のどこかにこの菜の花の種を植えて四年間を過ごそうと思っていたのです。私の両親は農業をしてます。私は進学なんて考えていませんでした。でも、両親は私を進学させようとしてくれたのです。だから、大学に合格したら、うちの畑の菜の花をこっそり植えて、両親にも大学に入って気分になって喜んで欲しいと思ったのです。でも、落ちてしまって……」「そうかね。しかし、大学の構内に勝手に植えるのは禁止されているのだがね」「すみません。落ちたので大学は諦めようと思ったのです。でも、菜の花の種を撒きながら、両親のことを思い出され、この一年間、アルバイトをしながら、もう一度だけ、挑戦しようと思ったのです。この大学へ絶対に通ってやると決心したのです。そうですよね。勝手に撒いてすみませんでした。拾います」若者は播いた種を拾おうとした。塚崎さんは若者の肩に手をやった。「折角、播いたのだ。拾う必要はないだろう。君と私の秘密にしておこう」若者は塚崎さんへ頭を黙って下げると校門へ向かって歩いていった。塚崎さんは若者の襟章から高校名を探した。その九州の山の中の高校からは、ひとりだけが受験していた。この若者だろう。塚崎さんは手紙を書いた。「予備校がないところでのひとりの受験勉強は大変でしょう。教科書が基本です。基本をちゃんとやっておればいいのです」若者から手紙が来た。「現在、両親の農作業を手伝いしながら勉強しています。両親のありがたさをひしひしと感じています。農作業も気分転換になって勉強もはかどります。塚崎さんのいらっしゃる大学へ絶対に合格してやるという気持ちが強くなっていきます」塚崎さんの大学に絶対に合格してやる。塚崎さんは嬉しくなった。塚崎さんと若者の手紙のやり取りは続いた。「構内の銀杏がきれいに色づいています。来年の秋、君がこの美しい木々たちに包まれて勉学に勤しんでくれていることを期待しています。勉強も大切ですが、まず健康が第一です。風邪をひかないようにご自愛下さい」塚崎さんからの晩秋の秋の終わりの手紙だ。若者からは、稲刈りも終わり、これからは農作業は一時中止をして受験勉強に専念するとの手紙が来た。それでふたりの手紙のやりとりは終わった。若者は受験勉強に専念しているのだろう。一年はあっという間に過ぎた。入試が終わった。若者は受けたのだろうか。合格発表があった。その日、塚崎さんはいつものように仕事に専念していた。若者は合格したのだろうか。塚崎さんは掲示板を見ることができなかったのだ。学生部の扉が突然開いた。若者が立っていた。「塚崎さん、合格しました。四年間、よろしくお願いします」学生部の職員が立ち上がった。拍手が沸き上がった。塚崎さんは若者へ近寄った。若者の手を握った。そのまま、表へ出て、早足で歩いた。何も言わなかった。言うと涙がこぼれそうだった。図書館の裏庭へ来た。握っていた手をはずした。裏庭の片隅には、菜の花がきれいに咲いていた。緑の常緑樹が多い庭の中に、黄色い花が鮮やかに咲いていた。「君が合格した時に、この花が咲いていなかったら、君のご両親が合格したということにならないからな。どうだい。これで、君とご両親、三人、合格と言ってくれるかな」九月に種を再度撒いたこと、水まきに苦労したことなど、学生部の職員もみんな応援をしてくれた。それらを思い出しながら、塚崎さんは後ろを振り返った。若者が頭を深く深く下げていた。肩が上下にかすかに震えていた。
2009年05月25日
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報本社案内板(森町)遠州森町報徳日めくり 13日 文久3年(1853) 安居院先生歿したまいて遠江に師と頼み参らする人なかりければ報徳の仕法いたく衰えけり。 先生遠江に至り、まず岡田佐平治氏を訪いけるに一夕の会話は早くも所見の相違を示しぬ。今その次第をいかにと尋ぬるにこのとき佐平治氏には掛川侯の大庄屋を勤め、その理想とする所は領主の命によりて行う難村復旧の仕法にてありき。然るに先生の年来小田原町にて行いたまえるは同士相集りて行う永安の仕法にてありければ、佐平治氏の望む所は干渉助長の仕法にあり。先生の応ぜんとする所は自治共済の仕法にあり。 福山先生森町に至り、山中氏(新村里助)を訪い佐平治氏の紹介書を出し事の次第を告げければ、山中氏は喜び迎えて先生を我が家にとどめ、先ずその行わんとする仕法のいかなりやを示さん事を求めければ、先生ここに7日間滞在して無利息貸付の雛形60ヶ年分を製し、山中氏に示されければ、山中氏大いに感じ、直ちにこの仕法を森町社に授けん事を乞う 「福山先生一代記」金井利太郎著(明治38年12月28日発行)報徳遠譲社抜粋(読みやすくするため、ひらがなを多用し、旧仮名遣いを改めるなどした) 12 先生遠江に臨みたまふ事 文久3年(1853) 安居院先生歿したまいて遠江に師と頼み参らする人なかりければ報徳の仕法いたく衰えけり。遠江の有志者これを憂え、慶応2年(1866)3月安居院先生の3回忌を兼ねて大参会を(この頃には年1回の大参会を開くを例とす)豊田郡一言村知恩院に開き、この事を議しけるに、相模国は二宮先生の出でたまいし地なれば、同地の先輩に謀りて師たるべき人を求むべしとて、その事を倉見村の岡田佐平治氏と浜松町の小野江善六氏とに委ねける。この頃小野江氏呉服商を営み、手代しばしば江戸に至りければ、この年某月、手代をして相模国前川村に立寄り滝沢庄右衛門氏を訪いてその意を致さしむ。滝沢氏は同地の豪家にて安居院先生より教えを受けてその家に仕法を行いたる縁由あるによれり。滝沢氏すなわち小田原新宿町浜田屋に至り、先生を招きてこれを告げ、かつこれに応ぜん事を勧む。先生いまだ応じたまわず。その明年、慶応3年岡田佐平治氏長男良一郎氏所用を以て江戸に至る。佐平治氏すなわち良一郎氏をして湯本に立寄り、福住正兄氏を訪いこの事を諮らしむ。これより先、良一郎氏は二宮先生に従いて日光にいる事数年正兄氏とは同学たるによる。正兄氏また浜田屋に来りて先生を招き、これを告げ、かつこれに応ぜん事をすすむ。ここにおいて先生ついに意を決してその勧めに応ず。されど遠江の事情果たしていかがなるや詳らかならず。さればまず秋葉山に参詣を名として彼の地に至り、然る後に進展を定むべしとてこの年即ち慶応3年3月小田原町を発して遠江に向いたまう時に先生51歳にておわしき。 先生遠江に至り、まず岡田佐平治氏を訪いけるに一夕の会話は早くも所見の相違を示しぬ。今その次第をいかにと尋ぬるにこのとき佐平治氏には掛川侯の大庄屋を勤め、その理想とする所は領主の命によりて行う難村復旧の仕法にてありき。然るに先生の年来小田原町にて行いたまえるは同士相集りて行う永安の仕法にてありければ、佐平治氏の望む所は干渉助長の仕法にあり。先生の応ぜんとする所は自治共済の仕法にあり。その相異なる。前者はあたかも病に対する処方のごとく、後者はまさに健康のためにする摂生のごとし。されば均しく報徳と称すといえども、その主義方法全然相反し到底和し相いるべきものにはあらざるなり。先生佐平治会話の結果、かくのごとくなりしかば、その翌朝とく辞して秋葉山へ向いけるが佐平治氏には流石(さすが)に遠路訪い来れる志を諒とし、途次森町を過ぎ同地の報徳者山中里助氏を訪うべしとて一封の紹介書をぞ渡されける。 13 先生二代先生に謁したまふこと 福山先生森町に至り、山中氏(新村里助)を訪い佐平治氏の紹介書を出し事の次第を告げければ、山中氏は喜び迎えて先生を我が家にとどめ、先ずその行わんとする仕法のいかなりやを示さん事を求めければ、先生ここに7日間滞在して無利息貸付の雛形60ヶ年分を製し、山中氏に示されければ、山中氏大いに感じ、直ちにこの仕法を森町社に授けん事を乞う。されど、先生このたびは秋葉山に参詣する事その主な目的なれとて、他日を約し秋葉山に向かいければ、山中氏もまた送りて秋葉山に至りける。 かくて先生秋葉山に参詣し、程なく小田原へ帰り給いけるが、この月某日、山中氏の約を顧みて再び森町に至り、森町社のために無利息貸付の仕法を組み授け給ひける。この時森町社は同志社新旧合せて8名にして、社員の日課縄索は1ヶ月分3銭5厘なりきとぞ。 森町社の組織成りければ、先生遠江の各地を一巡してその実況を視察せんとて山中氏方を辞して深見村に至りて伊藤七郎平氏を訪いしに、氏不在なりしかば浜松町に至り、小野江善六氏を訪う。氏もまた不在なりしかば、同地鳴子町大厳寺の住職某はかつて一面の識ありしかば、乞うて同寺に一泊せしに、たまたま小野江氏家に帰り先生を迎えて勧待す。先生大いに喜び、ここに滞在する事数日、かくて天神町に中村五郎七氏を訪い、羽島村に松島授三郎氏を訪い、都田村に金原孫四郎氏を訪い、気賀町に鈴木徳右衛門氏を訪い、その年5月5日小田原町に帰りたまいしが、事の由を二代先生に告げ参らせんと思い立ち、その年の秋、野州日光へ向かいたまいける。 これより安政3年(1856)某月二宮先生は御年70にて卒し給いしかば、今市に葬り参らせ、門下の人々二代先生を助けて神領開墾の業を為しける。されば小田原町の人々にも時々訪い参らする事、二宮先生のありし昔のごとくなしぬ。さて先生日光に至り二代先生並びに富田高慶氏に謁し、遠江の景況を告げ参らせければ深く先生の志ざしを嘉みしたまいける。(この明くる年王政維新となり二代先生富田高慶氏に従いて、奥州中村に移りたまいしかば、これより先生4,5年ごとに遠江の帳面を携え手中村に至りたまう。かくする事20余年御病気発するに及びてやみぬ。帳面の宛名をすべて二宮様御随身中と認めさせたまいし旨趣もここに基づくもののごとし。)「ツキを呼ぶ魔法の言葉ゴールドラッシュ」マスオさん朗読CDほかを聞くこと535回 今野華都子先生の講演会のCDを聴くこと855回
2009年11月13日
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木村秋則さんの「奇跡のリンゴ」(茂木健一郎)に、不思議な一節がある。宇宙人に関する記述だ。およそリンゴ作りに関係のないような話題である。茂木さんは、本の中では木村さんが人から好かれる理由として、「酒を飲むと、本当か嘘か分からないような荒唐無稽なのだけれど妙なリアリティがあるから、聞いているときはつい信じてしまうのだ。」そういう例として「宇宙人に会った話」をあげる。「あれはさ、まだ軽トラックを売る前だから、無農薬栽培を始めて2年とか3年目くらいだ。夕方、何時頃かな、もうあたりはうす暗くなっていた。畑仕事が終わって家に帰ろうと思って、軽トラの運転席に座ったの。そしたら、目の前に人が立っている。妙な人だった。全身が銀色に光っていて目も鼻も見えないのな。その銀色の人が、フロントガラス越しに、じっとこっちを覗き込んでいる。私、動けなくなってしまってな。目だけ動かして、何をするつもりだろうと思って見ていたらさ、なんと私のリンゴ畑に入っていくんだ。葉っぱが落ちて、荒れ放題の畑にな。それでさ、ものすごいスピードで畑の中を走り回っているんだよ。それから、ふっと消えたのな。いったい今のは何だったんだろと、その時は首を傾げるばかりであったんだけどな。」本の中では、夜中に2階の布団の横に座っていた時、窓が空いて小さくて影のように真っ黒い人が2人入ってきて、木村さんの腕を両側からつかんで、空中の浮かんで、大きな宇宙船のようなものに連れ込まれた話が載っている。そこには先客が2人いた。一人は若い白人の女性、もう一人は白人の男性、角刈りで軍人のようだった。先客は先に連れて行かれ平の台の上で裸にされていた。木村さんは服は脱がされず、宇宙船の操縦室のようなところに連れていかれた。そして宇宙船の動力源の黒い物質を見せてくれた。それから別の部屋に連れていかされたら、ソクラテスみたいな昔の人がいて、地球の未来のカレンダーがあった。木村さんは何枚あるんだろうと数えたらそうたくさんはなかったという。茂木さんはユングの心理学をもちだして、大きな困難に陥って自分を取り戻そうともがいているときに、現代人が見る典型的な幻視のひとつだと分析する。木村さんのファンタジーとして片づけ、心理学的に何とか説明しようとする。しかし、わざわざ書いているところを見ると茂木さんもどこかで信じているのだ。少なくとも木村さんがほら話や作り話をする人ではない、木村さんの意識の世界では確かに実在したことなのだ。木村さんが6年目、絶望してロープをもって岩木山に入ったとき見た幻影のような光景も、そのようなものなのかもしれない。どのくらい登っただろう。足元に影が出来ているのに気がついて振り向くと、東の空に巨大な月が昇っていた。眼下には弘前の夜景が広がっている。月や街の灯りだけでなく、夏の夜空も、暗い山の道も、足元で鳴く虫の音色も、何もかもが美しかった。世界は自分が思っていたよりも、ずっと美しい場所だった。ロープを握りしめ、踏み出す足の一歩一歩を慈しむように進んでいった。その足元で一本の小枝が折れ、音に驚いた鳥が木立から飛び立った。「2時間くらいは登ったんでないかな。もうこのあたりでいいかと思って見回すと、ちょうどいい具合の木が見つかった。よし、ここにしようと決めて、持ってきたロープを枝に投げたんだ。」そのロープの端が指をするりと抜け、勢い余ってあらぬ方向へ飛んでいった。この期に及んでもへまをする。なんて駄目な男なんだと思いながら、ロープを拾いに山の斜面を降りかけて、木村さんは異様なものを見た。月の光の下に、リンゴの木があった。まるで魔法の木のように、そのリンゴの木は輝いていた。山奥のこんな場所に、なぜリンゴの木があるんだろう。夢か幻でも見ているのではないかと思った。けれど、じっと見つめても、幻は消えない。葉の一枚一枚が、満月の光に照らされて輝くのまでがはっきりと見えた。思わず見惚れてしまうほど美しいリンゴの木だった。のびのびと枝を伸ばし、そのすべての枝にみっしりと葉を繁らせている。」木村さんは条件反射でこのりんごの木には農薬がかけられているかと調べた。一滴の農薬もかけられていなかった。それは どんぐり の木だった。リンゴでもドングリでも同じだった。なぜ農薬をかけていないのに、この木はこんなに葉をつけているのか。6年の間、探し続けた答えが目の前にあった。この椎の木だけではない。森の木は、農薬など必要としていないのだ。なぜ虫や病気が、このドングリの木を食い尽くさないのだろう。実は木村さんはそこに足を踏み入れたとき分かっていた。土だ、土がまったく別物だった。地面は沈むくらいふかふかだった。夢中で土を掘るとほろほろと崩れ、いくらでも素手で掘れた。ツンと山の土の匂いが鼻を刺激した。これだ、この土を作ればいい。何者かが木村さんの頭の中でそうささやいた。ヒューレン博士によると潜在意識が1000万ビットぐらい働いている間に顕在意識は15ビットくらいしか働いていない。私たちが認識する世界は、そのわずかな情報で再構築されたイリュージョンなのらしい。木村さんが最初見た 魔法の木のように輝くリンゴの木のなんと美しいこと。幼い頃、読んだ西洋のおとぎ話の魔法のリンゴの木のようだ。
2008年12月09日
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エピローグ(二刷) 二〇一四年九月一三日消印の○○氏からの礼状に「先生のご研究は偉大ですね」とあった。○○氏から「佐伯理一郎氏のことがよく分り嬉しい」とメールを頂いた。○○氏には英文校正に協力頂き、本集の「佐伯理一郎小伝」も氏の資料提供による。併せて感謝する。二刷の目的は英文等の校正と築地の○○講演収録にある。五月一八日、本会の○○と青山士の荒川放水路見学の道々話した。○○が「二宮尊徳の会」が「ボーイズ・ビー」を刊行するのは適当かと提起する。「内村鑑三は二つのJ、日本とイエス・キリストを説いた。楕円は二つの中心を持つ。真理の探究には一つではなく二つの中心が必要なように思う。本会も報徳の精神と札幌農学校精神の二つの中心を持つ。日本の近代化に二宮尊徳の「報徳」は大きな役割を果たしたと考える。「報徳」を日本の近代産業に適用し、成功させた鈴木藤三郎の「報徳の精神」と「荒地開拓法」は、世界に発信する価値があると考える。日本の近代化を考える上で札幌農学校精神も見過ごせない。日本で近代資本主義が自生するかのように発展したのは札幌農学校精神と報徳の精神にある。一、マックス・ウェーバーは、ピューリタニズムの倫理が資本主義における資本の原始蓄積を形成し、経営者、労働者側双方に資本主義に最も適合的なエートス(倫理的生活態度)を生み出したと論証した。ウェーバーは、それが西欧とアメリカで発展したとする。しかし「ピューリタニズムの倫理」は日本にも札幌農学校にもたらされ発展したというのが、ボーイズ・ビー・アンビシャスの主張にほかならない。二、ウェーバーは、「集団的事象」としてのプロテスタントの倫理を強調する。「ボーイズ・ビー」では、二期生の四人の若者の人生を手紙等によって彼らがいかに学び、世に働いたか、また彼らを継ぐ系譜を明らかにし、現代の私達を益しているかを語らせる。三、「ピューリタニズムの倫理」で重要なのは合理化で、召命を土台とした合理的な生活態度にある。内村の本質は科学者であり、「合理の世界を合理の心で理解しよう」(第二集p.203)、自分の人生を実験と考え(同p.213)、「良心と理性でテストし、これこそという確信に従うしかない」(同p.113)とした。「報徳の精神」至誠・勤労・分度・推譲の倫理的生活態度は、「ピューリタニズムの倫理」に相似する働きをした。ただ報徳はそれを受け継ぐ者が報徳の普及のため時の権力に追従する一面があった。○○先生からのお葉書に「内村弾劾の首謀者が岡田良平であったことは近代の報徳主義の性格の一端がうかがえます」とあった。内村は権力への追従を拒絶し、常にノーブルを求める。内村の二宮尊徳の視点、富田高慶の「道徳が本である」という二宮尊徳の思想に基づく必要があるのではないか。内村のノーブル(鈴木藤三郎の「報徳の精神」でもある)を「報徳」に注ぎこまなければならないのではないか。「二宮尊徳の会」で「ボーイズ・ビー」と「報徳記を読む」を並行して刊行する意味はそこにあると。内村鑑三は「英人はシェークスピアその人を生じたるをもって光栄となす。日本は二宮尊徳先生を有するというにおいて至大の光栄となすべきか。」という(第一集p.65)。同様に「現代日本は内村鑑三を有するにおいて光栄となす」というべきであろう。カーライルはいう。「近世の読者よ、願くは此書翰を精読し了解せんと努めよ。茲に人が霊魂を有せしこと、神と共に歩みしことの証がある。(略)一度神の道に従う、苦難窮乏何かあらん、既に足る、只己れを殺して神の許に投ずる、生くるも死ぬるも主の思いままである。これがクロムウェルの信仰であった。読者よ、かかる経験を有するか。もし有せずば、現世の行路は平安ならんも、天の光を宿すことは出来ぬ、天の光を放つことは出来ぬ」と。内村鑑三も「神と共なる闘い」において天の光を宿し、天の光を放ったのだ。そして戦後日本の「不戦」、軍国主義に対する平和主義、国家主義に対する民主主義の固い礎石は内村鑑三にある。 編集者
2014年09月24日
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森の元気屋さんから郵便物が届いた。本である。「緑十字機の記録」「いまも鮫島海岸沖に眠る、平和の軍使機」と副題にある。昭和20年8月20日の夜に、静岡市磐田市の鮫島海岸に飛行機が不時着した。マッカーサーの命令により、降伏軍使がフィリッピンから派遣されたが、燃料切れで磐田で不時着した。「二羽の平和の白い鳩を、無事に返す事により、血みどろの太平洋戦争が終わりを告げる。無事に返すように!」というマッカーサーの特別命令によるものであった。この緑十字機の話は始めて知った。静岡新聞でこの本が紹介されている。磐田市緑ケ丘の郷土史家、岡部英一さん(64)が、終戦直後に地元の鮫島海岸に不時着した海軍機の緑十字機に関する書籍「緑十字機の記録」を自費出版した。緑十字機は日本の降伏受理協議のため軍の使者(軍使)を運んだ。同機の一部始終について調査研究し、その成果を戦後70年の節目につづった。 岡部さんは2006年と11年に同海岸で機体の一部が相次いで発見されたのを受け、緑十字機の史実に興味を持ち、研究を始めた。海軍OBが残した資料を手掛かりに、不時着機の副操縦士や搭乗員の遺族ら計7人をたどり、新たな証言や回想録を集めて回った。当時、軍使らの救護に当たった地元住民ら14人からも目撃談を得た。 書籍は四六判、362ページ。第1章には回想録や証言を基に、連合国が降伏受理協議のためにマニラ行きを命じた1945年8月16日から、不時着後に救護された軍使らが木更津に帰着した22日まで7日間の出来事をまとめた。第2章は「なぜ緑十字機は燃料切れで不時着したのか」という謎に対する独自の分析を、第3章は集めた記録や証言を掲載した。 回想録や証言は同じ事柄でも内容が異なる場合が多く、内容を対比して真実に近いものを整理するのが難しかったという岡部さん。「緑十字機の飛行は太平洋戦争のラストミッションだが、断片的に記録が残されていただけで総括した文献はなかった。地元が関係する出来事だけに、広く知られるために役立ってほしい」と話す。 本の問い合わせは岡部さん<電0538(34)1043>へ。◇緑十字機 降伏受理協議のためにフィリピン・マニラへ向かう日本の軍使らを千葉県木更津から沖縄県伊江島まで運んだ2機の飛行機。連合国の誤攻撃を防ぐために陸上輸送機と陸上攻撃機の機体を白く塗り、日の丸の部分に緑十字を描いた。うち1機は木更津へ戻る途中に燃料切れで遠州灘に不時着した。乗っていた軍使や搭乗員は地元住民に救助され、浜松経由で木更津へ戻った。不時着した機体は海岸に放置され、その後の台風で海へ流されたという。
2016年09月07日
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2016年01月21日再掲筋トレで認知症を予防する試み筋力トレーニングで認知症を予防する。そんな試みが注目を集めている。太股(ふともも)や腕などに意識を集中して動かすことで、筋肉と脳を結ぶ神経回路が刺激され、脳細胞を活性化できるという。医療現場で治療に取り入れるケースも増えており、家庭で挑戦することも可能だ。(玉崎栄次)「物忘れ減った」 認知症専門診療所「オリーブクリニックお茶の水」(東京都文京区)は、認知機能の改善に筋トレを取り入れている。 「太股の内側に意識を集中してください」。14日午後、診療所内のデイケアルームに高齢の男女約20人が集まった。いすに座り、インストラクターのかけ声に合わせて右足をゆっくりと上げていく。太股の筋肉を動かし、脳を刺激するトレーニングだ。 参加した男性(73)=荒川区=は物忘れがひどくなり、主治医の紹介で約1年前から同診療所が実施する筋トレに週1回通っている。「筋トレを始めてから物忘れが減っている。激しい運動ではないので、私の年齢でも続けられる」認知機能をチェック 同診療所で筋トレを指導するのは、第24代ミスター神奈川ボディビルチャンピオンの本山輝幸氏(52)。厚生労働省の認知症予防プロジェクトメンバーとして、筋トレが脳の認知機能向上に与える役割を研究した経歴を持つ。 人が筋肉を酷使したときに痛みやだるさを感じるのは、筋肉からの電気信号が神経回路を通じて脳へ送られ、その信号を脳が「痛み」などとして認知しているためだ。 この仕組みを活用して、認知機能の衰えを確かめる運動がある。この姿勢を10秒間維持すると、認知機能に問題がなければ、太股の筋肉が悲鳴を上げ強い痛みを感じる。しかし、認知症が進行しているとほとんど痛みを感じなくなるのだという。認知症予備軍の軽度認知障害(MCI)の場合も、軽い痛みしか感じられないという。 本山氏は「感覚神経の伝達が悪いと痛みを感じなくなる」と説明する。 筋肉に意識集中を 認知機能を改善する筋トレは家庭でも可能だ。回数に比例して効果が表れるわけではないので、行う頻度は週1回が適切。認知症専門医に相談した上で、無理をしない範囲で行うことが重要になる。本山氏によると、筋トレのポイントは、動かす筋肉に意識を集中すること。そうすれば、脳へ送られる電気信号の量が増え、より強く筋力が働いて脳が感じる痛みも増すという。 「正しく筋トレを続けると感覚神経の伝達能力が高まり、認知機能が改善される。日常生活でも、階段を上る際に、太股の筋肉などに意識を集中させることで効果が期待できる」 本山氏の著書「ボケたくないなら筋トレをやりなさい」(中経出版)では体の部位ごとに40種類以上のトレーニング方法を紹介している。 オリーブクリニックお茶の水を運営する医療法人社団創知会の理事長で、東京医科歯科大脳統合機能研究センター認知症研究部門の朝田隆特任教授は「認知症に対する筋トレの効果には十分な医学的根拠があるわけではない。しかし、実際に筋トレにより認知機能が改善した例は多く、有効と考えられる」と指摘している。著書の『ボケたくないなら筋トレをやりなさい』(KADOKAWA)に本山理論の詳細が書いてある。本山先生「初めてですね。まず、いすに軽く腰掛けて、右足を水平より高く上げてください。はい10秒間」 ぼくはわけがわからないまま、ただ、言われる通りに足を上げた。「1、2、……10。はい、足を下ろしてください。右足はいま痛いですか」「ほとんどといっていいほど、痛くありません」「痛くないということは、感覚神経が脳に繋(つな)がっていないということを意味します。あなたはMCI(軽度認知症)になっているのかもしれません。でも、心配されることはありません。筋肉に刺激を与えてトレーニングすれば、3カ月ぐらいで感覚神経が脳に繋がります。後は治りは早いはず」「運動習慣があるにもかかわらず、認知症を発症する人がたくさんいることに疑問を持ち、私はこれまで14年以上も認知症やMCI(軽度認知障害)の人に筋トレを教えてきました。結論はボケやすい人は、脳と感覚神経が繋がっていなかったのです」「私たちの脳は小脳と大脳、それに脊髄(せきずい)と脳を繋ぐ脳幹からできています。この脳幹の中でも意識の維持に深く関与しているのが脳幹網様体です。筋肉からの刺激が脳幹網様体を通過することで、大脳皮質へと伝わります。このシステムが感覚神経です」「感覚神経を繋げるために、さまざまな指導をしてきました。いちばん脳を活性化させるのが、白い筋肉を鍛えるちょっと強めの筋トレだと分かりました。これまで延べ千人以上を指導してきました。まだ、確実な科学的根拠を証明できてはいませんが、ほとんどの人が繋がりました」「脳の細胞がβアミロイドなどによって壊されていても、筋トレで感覚神経を繋げて脳に刺激さえ与えれば生き残っている脳細胞が働き始める。代償作用です」
2018年03月25日
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