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たまにはお寺にも参詣します。神社巡りをする際、とても役に立っているのが古代史や神話の知識。日本書紀や古事記をひもとくきっかけとなったのは厩戸皇子でした。私は厩戸皇子への興味から古代史にハマリました。ちなみに厩戸皇子とは聖徳太子のことです。きっかけは社会人になったばかりの頃、当時付き合っていた彼女から借りて読んだ少女漫画です。 山岸凉子作「日出処の天子」という漫画。あれからずいぶんと私の歴史観も、厩戸皇子に対する評価も変わりましたが厩戸皇子は今でも私にとって特別な存在です。この10年ほどは神社巡りが主ではありますが、厩戸皇子ゆかりの地に関しては明日香村や法隆寺など、思い出したように時折いくつかの地を訪ねています。 聖徳太子廟のある叡福寺や父・用明天皇陵などがある、大阪・太子町の科長(しなが)も(あのあたりは「日本版・王家の谷」と呼ばれています) 時々訪れるお気に入りの場所です。 初めてここに来たとき、私は回廊の屋根裏を見てがっかりしたのを覚えています。コンクリートにペンキを塗った代物だったからです。それは「擬木」とも呼べない適当な造りに見えてしまいました。 金堂や五重塔も鉄筋コンクリート製で、鮮やかな色もアダっぽく見えたのです。しかしやはり日本の仏教の始まりに関わったお寺だけあって、 今ではコンクリート製とは思えない風格が感じられます。 よく見れば、法隆寺のようなエンタシスの柱もコンクリートですし釣り灯篭には電気のコードがつながれています。私は長年、左脳で分析をすることばかりに気をとられていましたがこうやって全体を見渡せば、四天王寺はやっぱり素晴らしいお寺だと思います。またまた味気ない話ではありますが 、創建当時の四天王寺は宗教施設と言うよりは、国威を示すシンボルの性格がつよかったかも知れません。長年に渡る多くの人々の祈りを経て、コンクリート製の四天王寺は新たな役割を持ち巨大な「装置」として動き初めているのではないか・・・。そんな妄想を抱きつつ、厩戸皇子に想いを馳せるのです。四天王寺の境内についての詳細は過去記事をご参照ください。四天王寺 1四天王寺 2四天王寺 水の巻四天王寺 石の巻ちらほらと早咲きの桜の便りを耳にします。昨年は梅も桜もほとんど観る機会がありませんでした。この四天王寺の写真は一昨年の春に撮影したものです。四天王寺の桜も実はピークを過ぎたものでなんとか花が残っていた部分を切り取ったものです。2年前の記事を書くのはネタ不足というわけではありません(多分)。厩戸皇子に関することや、厩戸皇子を祀る神社を紹介していたサイトで先日から立て続けにここの過去記事が話題になっていたのです。いい機会なので、その記事をリメイクしようと思ったのです。わけあってその記事は「裏ばなし」の方でご紹介します。上の写真は五重塔と日本一の高層ビル「あべのハルカス」難波(なにわ)の最も古いシンボルと、最も新しいランドマークの競演です。「裏ばなし」の方では、厩戸皇子を祀る神社の貴重な写真などをご紹介しています。厩戸皇子を祀る神社謎の奥宮「龍水御朱印帳・裏ばなし」.
2016.03.09
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高雄山神護寺。京都の紅葉の名所案内で、この楼門がよく紹介されています。和気清麻呂公創建の寺で、唐より帰朝した空海が住持。真言宗立教の基礎を築いた寺と伝えられています。この寺に強く惹かれたのは、新緑の美しさとここが和気清麻呂公ゆかりの寺だということ。境内にある和気清麻呂公墓については、私の別ブログをご覧いただけたらと思います。 「和気清麻呂公墓 ~電子の小箱~ 」 平安仏教発祥地とも言われますが京都市街からはバスで50分ほどかかる場所。清麻呂公はなぜ、このような山深い場所に寺を造ったのでしょうか。和気清麻呂は平安京造営の最高責任者でした。平安京と言えば、風水を元にした四神相応の都と言われます。東の青龍 (流水) 鴨川西の白虎 (大道) 山陰道南の朱雀 (湖沼) 巨椋池(現在は開拓により消失)北の玄武 (丘陵) 船岡山船岡山は平安京の基点とも言われていますが、他の三神に比べると、玄武とするにはあまりにも小さすぎます。平安京が風水に基づいて造営されたとしたら、北の玄武は、愛宕山からこの高雄山、そして貴船・鞍馬にいたる山々が相応しいと思います。清麻呂公は、この地を「玄武」と意識していたのかも知れません。 楼門を入ると、広大な境内が広がっています。右手には和気公霊廟、そしてその上にあるのは鐘楼です。さらに奥に進むと大きなお堂が見えてきます。 山深い場所であり、またここの立地条件は上記の「和気清麻呂公墓」をご参照ください。このような場所にしては、たいへん立派な本堂だと思いました。しかしこれは毘沙門堂で本堂(金堂)ではありません。 毘沙門堂と向かい合うように建てられているのは五大堂。金堂は境内の小高い場所に建てられていました。この五大堂の裏手にある石段の上にあります。 石段の下からも、金堂の荘厳さが伝わって来るようでした。あまりの大きさに圧倒されて、ぽかんと口を開けたまま石段を上ったような気がします。 あまりの大きさに、この距離ではカメラに収まり切れません。御本尊は木造の薬師如来立像。この金堂の中に入ることも出来ます。私は大汗をかいていたので畏れ多く、外から参詣させていただきました。境内に入った時はまだ、金堂が開けられていなかったので先に山の上にある和気清麻呂公墓に参拝したからです。 薬師如来と言えば医薬の仏。ほの暗い金堂にお立ちになられた薬師如来さま。私は手を合わせ、入院中の家内の怪我の回復と自分の体力回復などについて祈願しました。静かに手を合わせていると、正面に立てられたお線香の煙がまっすぐに私の方に流れてきました。願いを受けとめていただいたようで、とてもありがたかったです。 金堂の前から見下ろす五大堂(手前)と毘沙門堂。 金堂のさらに上にある多宝塔。 金堂下の石段のあたりから、坂道を下ると閼迦井がありました。閼迦井(あかい)とは、仏に供える水を汲む井戸のことです。 さらに進むとかわらけ投げが出来る地蔵院があります。 かわらけ投げが出来る場所からの眺望です。下に見えるのは清滝川の流れ。清滝川の対岸にある周山街道から清滝川まで下りてそしてこの高さまで上って来たというわけです。 爽やかな風と新緑につつまれ、神護寺の境内を2時間近くも散策していました。 参道下にある高雄橋から見た清滝川の流れ。ここからまたバス停まで、つづら折りの坂道を上るのです。 .
2011.05.29
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櫟野寺(らくやじ)滋賀県甲賀市甲賀町櫟野1377 櫟野寺公式HP ■御本尊 十一面観音菩薩 平安時代、最澄開基の天台宗寺院。806年(大同元年)坂上田村麻呂が堂宇を建立したが、たびたび焼失し当時のお堂は残っていないそうです。しかし本尊をはじめ、多くの仏像は平安時代のものが残っているとか。画像にもあるように、この本尊は「国宝」と石柱には書かれていますが現在は重要文化財の指定を受けた、坐像としては日本最大級の十一面観音。最澄が延暦寺の根本中堂を建立するための用材を求め甲賀郡杣庄を訪れた際、霊夢を感じ、この地の櫟(いちい)の生木に彫刻したと伝えられています。 「らくやじ」と称されていますが、付近は同じ字で「いちいの」と呼ばれています。油日神社とともに、白州正子氏の著書「かくれ里」の舞台となった寺。さも知っていたかのように書きましたが、氏の名前は油日神社のことを調べた時に見た資料が初見です。思い出や思い入れがあったり、歴史的に興味がなければこういうお寺に参詣することはあまりありません。はるばる甲賀まで行って油日神社だけではもったいないと思い、訪れたのです。 鎮守の杜や広い境内を持つわけではありませんが、そこには気持ちのよい空間がありました。鳥のさえずりと小川のせせらぎしか聞こえないのどかな里にある高貴な人の別荘とその庭園といった風景。本尊は33年に一度しか公開されない秘仏ですが現在は毎年11月3日に公開されているそうです。見えない十一面観音菩薩さまに東北地方の復興と、人々に笑顔が戻ることを祈願しました。 しかし蝋燭代を払った途端に、個人的な祈願になってしまった私はいかにもナサケナイ小市民なのであります。本堂は鉄筋コンクリートのようでしたが、気品ある佇まいでした。 境内には立派な土俵があります。毎年10月に奉納相撲が行われているのだそうですが、坂上田村麻呂による相撲奉納が始まりだそうです。 宗教的な祈りの場、聖地というよりも人々から愛される憩いの場といった雰囲気がありました。蒼い空と、咲き誇る桜のせいでそう見えたのかも知れません。 .
2011.04.26
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京都府京都市西京区松室地家町31 鈴虫寺公式HP臨済宗の禅寺である鈴虫寺は正式には「妙徳山・華厳寺」といい、その名の通り元は華厳宗のお寺だったそうです。ここが「鈴虫寺」と呼ばれ親しまれているのは、四季を通じて1年中、鈴虫の音色を聞くことが出来るからです。ここを訪れた参詣者はまず、客殿に入って鈴虫のなき声をBGMにお坊さんの説法を聞くのです。 そして鈴虫と共にこの寺の「名物」となっているのがワラジを履いたお地蔵さまです。 山門脇にいらっしゃる「幸福地蔵さん」は、唯一のお願いを叶えてくださる地蔵菩薩さまとして有名でワラジを履いて、私たちの家に願い事を叶えに来てくださると言われているのです。この「幸福地蔵さん」の御利益を求めて、全国から大勢の人が集まっています。この日は雪の朝とあって、それほどでもなかったのですがそれでも100人くらいはいらっしゃっていたのではないでしょうか。観光シーズンの休日ともなると、数百メートルの行列が出来て参詣までに4時間待ちということもあるそうです。と言うのもここは、あまり大きなお寺ではなくしかも鈴虫の声と茶菓をいただきながら説法を聞くという参拝なので約200人ずつの入れ替え制を採っているのです。 ありがたい「幸福地蔵さん」を横目に山門をくぐりこの客殿で説法と、「幸福地蔵さん」の正式なお詣り方法を聞きます。そしてこのお地蔵さまの御利益がいただける「幸福御守り」をいただいてから境内を散策後、お地蔵さんにお詣りするのです。 境内には京都市内を見渡せる場所がありますが、はっきり申し上げて、中途半端な高さですね。 拝観料は500円。そして「幸福御守り」300円。商売上手なお寺だとの批判の声もあるでしょう。信仰の場ではなく、ミーハーな観光地だと言う人もいます。このブログでご紹介すべきかどうか、多少の逡巡はありましたが1.病み上がりのリハビリ中なので話題(ブログネタ)がない2.私自身が「幸福地蔵さん」の御利益を信じていると言う理由から、書かせていただくことにいたしました。私が初めてここを訪れたのは7年前。その時もちゃんと、ささやかなお願い事を叶えていただきました。お詣りした数日後、お地蔵さまの足音が聞こえました。ミーハーなイベントと見るか祈りのひとときとするかは参詣する私たちの心がけ次第。癒しの鈴の音と説法を聞き、僅かな時間とは言え自分を見つめ直す機会。帰る際には、お地蔵さまにお願いする前に本堂の御本尊(大日如来さま)へのご挨拶もお忘れなく。皆さん「幸福地蔵さん」には静かに手を合わせていらっしゃいますが本堂の前を素通りする方が多いのは残念です。 さてさて「幸福地蔵さん」の御利益のほどはいかに。お詣りして2日しかたっていませんが、早くも思いもよらない朗報が飛び込んで来ました。「彼氏が欲しい」「子供を授かりたい」等々お願い事がある方は、騙されたと思って鈴虫寺にいらしてください。ただしお願い事はひとつだけ。たくさんお願いしたい事がある方は、一つずつ叶えていただいてください。 .
2011.01.12
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前回からの続きです。法隆寺とはどういう寺なのか。現在の私の考えとは「法隆寺は別の場所にあったものをこの地に移築した寺」という、妄想めいたものです。そして「厩戸皇子が建てた斑鳩宮と若草伽藍の跡地に移築することによって 法隆寺は歴史上、意図的に厩戸皇子と関連付けられたのではないか」そんな風に想像をめぐらせています。これは「妄想」みたいなものですので、軽く読み流していただいても結構です。違和感を感じる方は、スルーしてください。「聖徳太子はいたか」そんなテーマで、別の場所に「厩戸皇子と法隆寺」について、いずれ書こうと思います。(書いてる途中なんですが、しばらく中断してます)ここでは妄想的な歴史背景はさておき、目に見える「法隆寺の疑問」について、少しだけご紹介しようと思います。 さて、西院伽藍に使われている部材ですが650年代から690年代に伐採された檜や杉であることが最近の研究によってわかっています(年輪年代測定法)。このことから、現在の法隆寺は7世紀後半から8世紀はじめに建てられたことが想像出来ます。しかし、問題は日本書紀の記述。「法隆寺(若草伽藍)が一舎も残さず焼失した」とされるのは天智9年(670年)です。と言うことは、若草伽藍が焼失する前から「(聖徳太子鎮魂のための)法隆寺再建」が計画されていたことになります。五重塔の心柱に至っては、伐採年は591年という結果が出ています。591年は崇峻天皇4年のこと。つまり、厩戸皇がまだ生きている時代です。法隆寺は「飛鳥時代の姿を今に伝える」と言われていますが、厩戸皇子没後1世紀近くたった時代に、なぜ「飛鳥時代の様式」で建てられているのでしょうか。「厩戸皇子ゆかりの寺だから」と思う方もいらっしゃるでしょう。私も長くそう考えていましたが、それでは説明のつかないことがあります。厩戸皇子が建てたとされる若草伽藍は、中門、塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ「四天王寺様式」と呼ばれる伽藍配置。現在の法隆寺とは違っていました。そして建てられている場所も違い、方位も若草伽藍とは違っているのです。その他、ご本尊に関する謎や部材の謎など多々あるのですが今回は数ある法隆寺の謎の中から、ひとつだけご紹介しておきます。 上の画像は西院伽藍の回廊です。ギリシャ建築に見られる、エンタシスの柱で有名ですね。この美しい回廊を見て、何か違和感を感じませんか。 柱の下にある、礎石に注目してください。エンタシスの柱など、建物の造りに比べあまりにも粗雑なつくりだと思いませんか? 金堂には上の画像のような木彫りの装飾も付けられています。五重塔は上の層に行くにしたがって屋根が小さくなっており、均整がとれた姿。エンタシスの柱も含め、法隆寺は建物自体も芸術品と言っても過言ではないと思います。しかもこれだけの規模のお寺ですので、法隆寺再建は国家的プロジェクトでもあったはずです。 お寺には神社ほどには行かないので、画像のストックがあまりありません。しかも「その部分」の作製時代を確認したわけでもないのであくまでも「参考」程度でご覧ください。上の画像は、飛鳥資料館の500mほど東にある山田寺跡。一部複製品がありますが、この礎石は蓮弁付き。山田寺の創建は現在の法隆寺と同じ頃だと言われています。 こちらは東大寺。東大寺のどの部分を撮ったのか覚えていませんが東大寺です m(_ _ )m東大寺は8世紀後半に出来た寺ですし現在の大仏殿は18世紀はじめに再建されたもの。しかも現在の大仏殿は、創建当初よりもひとまわり小さいのでこの礎石も江戸時代のものかも知れません。参考にしていただきたいのは、このように石の形が整えられていない礎石でも表面はきれいに加工されているということです。そこで再度、法隆寺回廊の礎石の画像をご覧ください。荒削りな加工ですし、高さもまちまちであることにお気づきでしょう。金堂内は撮影禁止なので画像はありませんし、今回チェックするのを失念しましたが以前、NHKの番組で「金堂に相応しくない礎石」だと紹介されていました。 こちらは法隆寺・中門の礎石のひとつ。比較的「マシ」な礎石と言えますが、それでも荒削りな感じがします。しかしこれらは、若草伽藍の礎石を転用したという可能性もあります。 今回は書けませんが、法隆寺には様々な謎が見つかっています。よく言われている「法隆寺の七不思議」といったものではなく昭和資材帳編纂にともなう調査で明らかになったものです。例えば転用材を使っていたり、見えない箇所には、木材の通常は使用しない部分まで使用した例など。それらのことから前述のNHKの番組では、「法隆寺は何らかの理由で、たいへん急いで建てられた可能性がある」と解説されていました。その理由として考えられるのは、例えば「怨霊対策」です。ある年に起こった天変地異や疫病などが、「厩戸皇子の祟りだ」と判断されたとしたらその怨霊封じ、御霊鎮めのために法隆寺再建の命が下ったかも知れません。しかし、そう考えるにはちょっと不自然な点もあります。私たちが知っている歴史から考えれば「怨霊」となるのは厩戸皇子ではなくて、子の山背大兄皇子とその一族のはず。そして急いで建てたにしては、上記の装飾木彫りやエンタシスの柱など精工で凝った部分の説明がつきません。 仮に「法隆寺は移築された寺」と考えると優美な建物に対して粗雑な礎石の説明もつくような気がするのですが・・・。もちろん、なぜ厩戸皇子ゆかりの地に移築されたのかそして移築された寺とは一体どういう寺なのかその謎はおいおい考えてゆくことにします。みなさんも法隆寺に行かれたら、ちょっとそんなことも考えながら細かい部分にも注目していただけたらと思います。.
2010.09.05
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法隆寺。日本における世界遺産登録第一号。現存する世界最古の木造建築物。日本で最も有名なお寺のひとつです。 私が小学生の頃、初めてこの法隆寺が教科書に出てきたとき確か、次のようなことが書かれてあったと思います。「飛鳥時代、聖徳太子が建立した寺」現在でも、小学生レベルではそれで正解かも知れません。しかし日本書紀に「一舎も残さず焼けた」という記述があり(天智9年)境内に焼け焦げた寺の遺構が発見されているため法隆寺は7世紀後半以降の早い時期に再建されたというのが、現在の定説のようです。 こちらは境内で最も新しいお堂、大宝蔵院・百済観音堂。このお堂に安置された百済観音像は、数ある法隆寺の仏像の中でも金堂の御本尊・釈迦三尊像、夢殿の救世観音像とならんで最も重要な仏像でしょう。画像でご紹介できないのが残念なくらい、ため息が出るほどの美しさです。 こちらは私のお気に入りの木。境内で最も気が高い場所だと思うのですが、炎天下ではそういう雰囲気ではないですね。 東大門から西院伽藍側東大門から東院伽藍側東院伽藍・夢殿 現在の法隆寺は、金堂・五重塔などを中心とする西院伽藍と夢殿を中心とする東院伽藍からなります。この夢殿は別として、金堂などの西院伽藍、果たして聖徳太子が建てた寺(以後、若草伽藍)の再建と言えるのでしょうか?梅原猛氏の「隠された十字架」という著書で話題になりましたが、「法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮めるために建てられた」とする説があります。古代の浪漫に魅せられておよそ30年になります。きっかけは「日出処の天子」という漫画でした。つまり厩戸皇子(聖徳太子)から古代史に入ったので「歴史上の人物で誰が好きか」と聞かれたら迷わず「厩戸皇子」と答えるでしょう。従って厩戸皇子は、後に聖徳太子と呼び称される聖人であり日本書紀の記述通りの政治家だったと思いたいです。「法隆寺が厩戸皇子の鎮魂の寺」という説も、実はあまり受け入れたくないほどです。しかし法隆寺に行けば行くほど、歴史を学べば学ぶほど私の厩戸皇子像が変化し法隆寺への疑問がどんどん増して行きました。ごく最近まで、「法隆寺は厩戸皇子の怨霊封じの寺」と(渋々)考えていましたが現在は別の考えを持っています。 つづく
2010.09.05
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魚山三千院京都市左京区大原来迎院町三千院公式HP天台宗 ■御本尊 薬師如来 開祖は最澄。天台宗の寺院で、三千院門跡とも。山号は、魚山(ぎょざん)。三千院は8世紀、最澄の時代に比叡山に建立された円融房が起源。幾度かの移転の後、1871年(明治4年)に現在地に移ったものだそうです。 三千院の周囲を流れているのが、この呂川と律川。三千院は声明(しょうみょう)発祥の地と言われています。呂と律は雅楽の旋法だそうです。調子はずれの「呂律(ろれつ)が回らない」という言葉もここから来ているそうです。 拝観は午前8時30分から。GWということもあってか、時間前から拝観が始まっていました。いつもは人を見に行くような感じでしたが、午前8時半頃ならばGWと言えどもゆったりと散策が出来ます。京都市内とは言え、中心部からかなり離れているわりには同時間帯の八坂神社や清水寺に匹敵するほどの参詣者数でした。 拝観は堂内から始まります。京都の寺院ではよく見られる方法ですがスタートは宸殿で、境内を回るのではなく建物内を観て回ります。 宸殿内と庭園を堪能したあと、再び靴を履いて境内を回ります。春の柔らかな陽射しと、鳥のさえずり。目を閉じると、呂川のせせらぎと庭園内にある細波の滝の水音。団体客のいない時間帯だと、三千院の真髄を堪能出来ました。 阿弥陀三尊がおわします往生極楽院。簡素な造りが歴史を越えた感動を呼びます。平安の貴族たちは、どのような思いでここを巡ったのでしょうか。 庭園内を埋め尽くす苔と、紅葉(もみじ)の新緑。私はモミジの新緑が好きなのですが、紅葉(こうよう)の季節にも訪れてみたいと思いました。 「京都 大原 三千院。恋に疲れた女がひとり・・・」ここに来ると、多くの人が口ずさむ歌ですがこの日はそれらしき女性の姿はありませんでした。さすがに境内でこの曲が流れることはありませんが、唄っている人はけっこういたと思います。 傷心一人旅とは全く正反対のお気楽夫婦の私たち。「恋に疲れた」心境とはほど遠くそれでも「きょうとぉ~、おーはら・・・」などと口ずさみながらの参詣。 妙音福寿弁財天 境内に鎮座する「妙音福寿弁財天」さま。「傷心」「懺悔」「懐古」などとは無縁とうそぶく私たちです。しかし実を言えば、「福」「勝運」「開運」となると目の色が変りとりわけ「水」とのご縁を意識する私は弁財天さまの僕を自称します。 朝一番に来たおかげで、普段は味わえない三千院を満喫することが出来ました。山門を出る頃には参詣者の数も増えてきました。寂光院への参詣は次の機会ということで、冷たいと以前から目をつけていた洋食屋を目指して新京極へと向かいました。 境内に咲く八重桜 .
2010.05.03
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京都市東山区清水西国三十三箇所観音霊場第16番札所神仏霊場巡拝の道117番・京都37番世界遺産 ■御本尊 十一面千手観音 開創は奈良時代の終り頃。「木津川の北流に清泉を求めてゆけ」との霊夢をうけた延鎮上人が音羽山麓の滝のほとりに草庵を建てたのが始まり。その後坂上田村麻呂公が仏殿を寄進し、ご本尊に十一面千手観音を安置。「清水寺」という寺名の由縁は金色水、延命水と呼ばれるこの音羽の滝の水。今でも境内に落ちる滝の水を求めて、大勢の参詣者が列を成しています。 清水寺は日本人なら知らない人はいないくらい有名で嵐山と並んで京都観光の代名詞ともなっています。子供の頃から神社・仏閣が大好きでしたが特にこの清水寺にはあこがれていました。小学校3~4年の頃だと記憶していますが、叔母からいただいた「清水寺」のプラモデルを作ったことがそんな憧れの原因だったかも知れません。その2~3年後、修学旅行で初めて清水寺を訪れた時は感動ものでした。今から思えば、私はヘンなガキだったとつくづく思うのであります。 年間の参詣者数は、なんと500万人超だとか。観光シーズンのピーク時には、1日の拝観者数が5万人に達するそうです。いつ行っても境内はごった返しています。ごった返しているのは境内だけではありません。京都駅前の清水寺方面行きのバス乗り場から既に混雑が始まっている状態。しかし早朝に行けば、三年坂もご覧の通り。参詣者は少ないとは言え、そこはさすがの清水寺。外国人を含め、けっこう早朝から多くの人が訪れていますし参道には開店しているお店もありました。 拝観時間は午前6時から。写真歴50年の父の口癖 「早朝は色温度が高い」 の言葉通り早朝の清水も、なかなか色鮮やかな印象。しかし朝陽が当たる部分と影の部分の明暗の差が激しいので見たままの光景をカメラに収めるのは困難でした。 午前9時頃までは参詣者の数も少なく、条件によっては国宝であり、世界遺産でもある本堂を独り占め出来るかも知れません。京都一の観光スポットとは言え、この時間だとゆっくりと散策を楽しめます。この日清水寺境内に入ったのは、午前8時前後だったでしょうか。四条河原町から八坂神社、三年坂と歩いて清水寺に入ったのですが混雑のない京都散歩は、なかなか新鮮で心地よかったです。 境内にある「縁結びの神様」として有名な地主神社も「こんな神社だったのか」と今さらながら思ったほど新鮮でした。これからの季節なら、もっと早い時間でもいいかも知れません。四条に着いた頃は、まだまだ肌寒くジャケットを着てこなかったことを後悔したくらいですが清水寺を後にする頃にはうっすらと汗ばむ陽気となりました。 境内ではいたるところで新緑の息吹きが。モミジは紅葉の代名詞ではありますが、私はモミジの新緑を好みます。 境内の桜は終わってしまったようですが、数本の八重桜が、緑萌える季節への繋ぎ役を務めているようでした。人が少ない京都・・・なかなか新鮮で素晴らしかったです。ここ清水寺では8時前後、八坂神社なら9時くらいまでは落ち着いた参拝、散策を楽しめるようです。 .
2010.04.27
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京都府宇治市平等院公式HP ■御本尊 阿弥陀如来坐像御本尊は平安時代の代表的な仏師、定朝(じょうちょう)作。なで肩で女性的な優しい姿と伏し目がちの眼差し。定朝は以後の仏師に多大な影響を与えたと言われているそうですが定朝作の仏像は、現存するものとしてはこの阿弥陀如来坐像が唯一のものだそうです。金属製のように見えますが、檜の寄せ木造りだそうです。堂内で見上げると白毫(びゃくごう=仏像の眉間にある)は黒く見えますが実は銀色の台にはめ込まれた水晶だそうです。少し離れたところから見ると、銀色に光っているのがわかります。 お堂の格子には丸い窓が開けられていて、阿字池の対岸から阿弥陀如来さまのお顔を拝することが出来ます。ここからでも白毫が銀色に光っているのが見えますね。 鳳凰堂は中堂・左右の翼廊・尾廊からなる特殊な形をした建物。その形が翼を広げた鳳凰を連想させ屋根の上には一対の鳳凰があることから「鳳凰堂」と呼ばれていますがそう呼ばれるようになったのは、実は江戸時代以降のことで元々は阿弥陀堂と呼ばれたそうです。平等院は藤原氏ゆかりの寺院として有名ですが、元は摂政・藤原道長の別荘だった「宇治殿」を、子の関白・藤原頼道が寺院に改めたもの。 現在、屋根の上にある鳳凰は複製品です。本物の国宝・鳳凰一対は、境内にある鳳翔館で見ることが出来ます。平等院ミュージアム鳳翔館ではこの他、中堂内の創建時の様子がCGによって再現された映像も見ることが出来ます。創建時の堂内は極彩色に彩られ、いかにも極楽浄土をイメージした感じです。鳳凰堂は10円硬貨のデザインになっていますが、この鳳凰も1万円札の図柄に使用されています。10円硬貨の方は馴染みがありますが、1万円札にはあまり縁がないためか私にはちょっとピンと来ませんが・・・。 鳳凰堂の前にある池の水際には平たい石が敷き詰められています。御所内の庭園でも見た覚えがあります。これは州浜(すはま)と言って、平安時代の庭園の特徴だとか・・・鳳凰堂内で解説を聞きましたがはっきりとは覚えていません。 清水寺ほどではないにしても、平等院はいつでも大勢の参詣者で賑わいます。人を排した写真を撮るために相当苦労したと思われるかも知れませんが早朝に行けば、こうした写真を撮ることもさほど困難ではないことがわかりました。平等院拝観は午前8時30分からですが、鳳凰堂の拝観は9時30分からなのです。 .
2010.04.18
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比叡山延暦寺・根本中堂 ■御本尊 秘仏・薬師如来伝教大師最澄開山の延暦寺は、言わずと知れた高野山と並ぶ仏教聖地。平安京の鬼門を守護する延暦寺は、東塔・西塔・横川(よかわ)三塔の総称。東塔の根本中堂は、その延暦寺の総本堂です。 もう何度も参詣している延暦寺ですが、私は東塔しか回ったことがありません。高野山では大門から壇上伽藍、金剛峯寺、奥の院などほぼ全山回ります。しかし少々お下品な表現ではありますが比叡山ではこの根本中堂で「お腹一杯」になるのです。圧倒的な存在感ある外観と、荘厳な内部。「不滅の法灯」を眺めながら参拝する堂内は時間の許す限り、その場にいたいと思ってしまうのです。 延暦寺へは京都方面から車で上ることもありますが、私はたいがい比叡山・鎮守の日吉大社から坂本ケーブルを利用して参詣します。ケーブルの乗客は、なぜかこの景色には目もくれず延暦寺を目指しますが私は「ケーブル・延暦寺駅」の展望台で琵琶湖の景色を堪能します。 坂本方面の麓では、満開を迎えた桜もありましたが日吉大社参道の桜は七分咲きといったところ。ゆるやかな坂を上って日吉大社境内に着くとそこは高低差なのか品種なのかはわかりませんがこれから開花を迎えるといった感じでした。 京都市内など、近畿では満開の時期ではありましたが、比叡山ではまだまだ蕾が膨らみはじめたといった状況でした。それを知ってか、始発のケーブルでの参詣ということもあって午前9時頃でも延暦寺の参詣者の姿はまばら。 大講堂の前にある鐘楼では、体力にモノを言わせてひときわ大きな鐘の音を鳴らせてみせました(笑)ひ弱な若造のヘタレ音のあとで優越感に浸ったせいか、大講堂の姿が清々しく美しく目に映えたのであります。 参詣者が少なかったということもあって、この日は東塔を堪能することが出来ました。前回の参詣では行列が出来ていた文殊楼も貸し切り状態。 やはり寺社参拝は、早朝がお勧めですね。暖かな春の陽を浴びながら、比叡の爽やかな風と共に歩く境内。こういう有名な場所では、少々お行儀の悪い団体客がつきものですが4時に起きてやって来た甲斐がありました。 高野山などと比べると、ここ延暦寺は身近な場所ではありますが全山巡るには、山上で宿泊しなければ時間がたりないような気がします。早朝の根本中堂。無理をしてでも、早朝の参詣をお勧めします。 .
2010.04.08
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奈良市西の京町 創建は天武天皇9年。皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈願し、天武天皇によって飛鳥に建てられたのが始まりとされる。平城京遷都にともなって、現在の地に移転したそうです。 私は子供の頃から、お寺の塔が大好きでした。特に教科書に載っていた、薬師寺・東塔の写真を見て憧れていました。 国宝・東塔。他の寺では見かけない、独特の形状の塔は一見すると六重塔のようですが三重塔です。屋根と屋根の間にあるのは、各層の庇です。奈良時代から残る唯一の建物です。 子供の頃から憧れていた薬師寺に、初めて参詣できたのは25歳くらいの頃でした。今のように神社巡りはまだしていませんでした。当時は聖徳太子ゆかりの地を訪ね回っていて、法隆寺などを見ていた私は、この薬師寺にも期待していました。ところが当時の薬師寺は、往時の伽藍はなくがらぁ~んとした感じ・・・。回廊も塀などもなく、東塔がぽつんと建っているイメージ。時期的に金堂は再建されていたはずですが、記憶にありません。東塔を美しいと感じ、神社仏閣と言えば「侘び・寂」の枯淡なものと勘違いしていた私はきらびやかな金堂が目に入っていなかったのかも知れません。 1981年落慶の西塔。再建された当初は、東塔との違いが大きすぎましたが最近はバランスもとれてきた感じですね。これから長期間行われる東塔の解体修理が終わればもっとすばらしく美しい伽藍になるかも知れません。 2003年落慶の大講堂。回廊も整備され、白鳳時代の伽藍が復興しています。この奇跡的な復興は、宗派を問わない写経勧進によるものだそうです。 1991年落慶の玄奘三蔵院伽藍。白鳳伽藍の北にあります。この伽藍には2000年、平山郁夫画伯による「大唐西域壁画」が奉納されました。この壁画は玄奘三蔵求法の天竺への旅を描いたもの。何度見ても、すばらしい壁画です。私は公開と同時に、会社を休んで(笑)見に行きました。以来、薬師寺へは必ず「大唐西域壁画」公開時に行くことにしています。公開はお正月と、春期約3ヶ月、秋期約2ヶ月間。ただし平成22年は通年公開が予定されているようです。平城遷都1300年祭に合わせてのことでしょうね。 金堂内で若い僧侶の説教を聞きました。先に「オチ」を言ってやりたいくらいの、ベタなダジャレの連発でしたが奈良のお寺は「はかないお寺」だそうです。奈良の古寺は古来、学問の場でありお墓がないのが特徴だそうです。そう言えば、法隆寺での葬式なんて見たことがありませんし墓地も併設されていません。 薬師寺は南都七大寺(なんとしちだいじ)のひとつに数えられています。南都七大寺はこの薬師寺のほか、興福寺、東大寺、元興寺、西大寺、大安寺、法隆寺。数字でくくられると制覇したくなるタチです。先日、東大寺と法隆寺についてはご紹介済み。全て奈良市内のお寺なので、残りも何とかなりそうです。(参詣は2007/7 2008/6)龍水御朱印帳掲載寺社索引 .
2009.07.12
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聖徳宗総本山 法隆寺奈良県生駒郡斑鳩町 自信なさげなタイトルですが、ご勘弁を。30年ほど前から、厩戸皇子(聖徳太子)には特別な思いがあります。当然、ここ法隆寺にも思い入れがあります。このブログを始めて3年近くになりますが、法隆寺のことを書くのは初めてです。ここが神社参拝記事中心のブログだからではありません。思い入れが強いため、とことん納得の行く写真が撮れるまで記事を書く気になれなかったのです。今回も納得は行っていないのですが、朝一に行けば人混みを気にせず撮影出来ることがわかりました。この日(6/27)は晴れの予報でしたが、快晴とまで行かずご覧の通り、青空はくすんでいます。これは私的にはおおいに不満な写真なのです。 小学生の頃、切手収集が流行りました。憧れの記念切手、「国宝シリーズ」の法隆寺の切手を見て以来私にとって法隆寺に青空は絶対に必要なのです。 昨年の夏、奈良国立博物館で「法隆寺金堂展」が開催されました。金堂にある四天王像などを、間近に見ることが出来ました。それらの仏像や、展示されていた天蓋などを見てふと 思いました。 「こんなん見るの、始めてや・・・」 25年ほど前から、法隆寺には何度も行きましたが金堂にあるものを、私はほとんどこの目で見ていなかったのでした。と言うのも、法隆寺金堂内には照明がなく外光も取り入れていないため、堂内は真っ暗だったのです。「法隆寺金堂展」は、実は金堂内の修復に合わせて行われたのです。現在の金堂内には照明が灯されていると聞き、とても楽しみにしていました。定位置に着いた四天王像を見たかったのです。 果して現在の金堂内は、とても明るくなりご本尊の釈迦三尊像をはじめ、全ての仏像や台座や天蓋そして壁画まではっきりと見ることが出来るようになりました。四天王像の配置は予想通りでしたが、その向きは意外でした。金堂内の通路は狭いので、団体客や修学旅行生に遭遇すると大変ですが朝一番の参詣ならば、金堂内を独占出来ます(参詣日 6/27 土曜日)。ちなみに法隆寺の開門は午前8時です。 現在の法隆寺は非常にオススメです。拝観料は1000円と、少々お高いのですが西院伽藍の他、百済観音堂(大宝蔵院)や夢殿もあるので許せます。東院伽藍の中心、有名な夢殿のご本尊は救世観音像(くせかんのんぞう)です。聖徳太子の等身とも伝えられる秘仏で、明治時代に岡倉天心らによって行われた調査までは法隆寺の僧ですら見ることが出来なかったという秘仏中の秘仏。毎年、春と秋に一般に公開されます。秋は10月22日から11月23日まで。その時期に行くのがお勧めですが特に11月3日の崇峻天皇御忌、山背大兄王御忌 では近くにある藤ノ木古墳参拝もあるようです。 藤ノ木古墳は未盗掘の古墳として、またその被葬者が、相当身分の高い人物と推測されて大変話題になりました。もう25年ほど前のことではありますが、今でも発掘のNEWSのことをよく覚えています。概ね調査も終わったようで、昨年5月に内部が一般公開されました。上の画像はその時のものです。11月3日の法要でも公開されるのではないでしょうか。確か昨年のレーナマリアさんのブログに書かれてありました。 「ちょっとだけ」のつもりでしたが、ついつい、長々と書いてしまいましたね。しかし本当はもっともっと、法隆寺の見所をご紹介したくてたまりません。出来るだけ早く、青空の日に再訪したいと思います。 法隆寺の七不思議や、意外と見逃す西円堂エンタシス風の柱で知られる西院伽藍の回廊そして他の寺とは一風変った中門のこと。次回は納得の行く写真と共に、たっぷりとお伝えしたいと思います。 紅葉の季節なら、この連子窓も見物かも知れません。今回は西院伽藍でも東院伽藍でも、やたらとこの連子窓が気になりました。気になると言えば、西院伽藍と東院伽藍を結ぶ参道あたりにずっと前からとても気になっている木があります。境内のヌシかも知れません。 龍水御朱印帳掲載寺社索引(調整中) .
2009.07.02
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華厳宗大本山東大寺公式HP 「ご神職と巫女さん以外の人は写さない」という姿勢をブログ開設以来ずっと貫いてきました。人を排した写真が撮れなかった場合、最近では敗北感すら味わうようになってしまいました。平安神宮でも、あの八坂神社でも、1月の伊勢でも私は人を排する写真を撮って、ブログに掲載して来ました。 世界最大の木造建築物、東大寺・大仏殿。ちょっと残念なお天気でしたが、緑の芝生が鮮やかでした。なんだか人の列のようなものが写っていますがあれは東大寺のお坊さんです。全部そうです。(敗北感を味あわなくてよかった)現在の大仏殿は度重なる火災や戦禍による焼失を経て江戸時代に再建されたものです。間口は創建当初の3分の2なのだそうですが、とにかく感動的に大きいです。どんな巨大な高層ビルよりも大きく見え、威厳があってそして何度見ても息をのむほど感動を覚えます。創建当時は大きさもさることながら、高さ約70mの東塔・西塔がそびえ立っていました。 私は子供の頃から、お寺の塔が大好きで大仏殿内に展示されている復元模型を見るたびにため息が出ます。西の京にある薬師寺が、この30年で奇跡的な大復興を成し遂げたようにこの東大寺・七重塔も復元して欲しいと密かに願っています。 「奈良の大仏さん」と呼ばれて親しまれる御本尊は、正式には盧舎那仏(るしゃなぶつ)と言います。掟破りの撮影をしたわけではありません。堂内の撮影など、数年前には考えられないことでしたが現在は三脚の使用のみが禁止されていて撮影もフラッシュも禁止されていません。こうなったら、撮り放題です。 盧舎那仏(大仏)の左右を固めるのは虚空蔵菩薩と如意輪観音。東大寺には何度も来ていますが、今までこの二つの仏様には気づいてなかったのか、印象がありません。これらも相当な大きさです。大仏さんのインパクトが強すぎたのか、本当に見た記憶がありません。 大仏殿の奥の東西には広目天と多聞天が立っています。ここぞとばかりにシャッターを押し続けた私が言うのも何ですが、こうした堂内の撮影には、やはりどこか釈然としないものもありました。大仏殿の東数百メートルのところに、戒壇堂があります。そこにはすばらしい四天王像があるのですが、そちらの堂内は撮影もスケッチも禁止されています。 撮影が許されるようになったのは、決して歓迎されることではなく日本人のモラル低下と携帯カメラの普及、そしてあちこちで傍若無人ぶりを発揮している某国の観光客により収拾がつかなくなったせいかなぁとも思いました。 しかしこうして、堂内で撮った写真を見て思うのは少しでもいい写真を撮ろうと苦労して撮影した写真をブログに載せ自分でも楽しみ、皆様にもご紹介出来ることがこの上なく喜ばしいことだということ。 「仏の慈悲じゃ」 東大寺開山、初代別当である良弁僧正(ろうべん)の笑顔が見えたような気がしました。 良弁僧正と言えば、私の第二の故郷である若狭の出身。二月堂で行われる「お水取り」に先立ち、若狭で行われる「お水送り」で知られる鵜ノ瀬があるあたりの生まれだと言われます。以下、一昨年夏の写真をご紹介します。 平城京を見下ろす若草山。その麓にある東大寺二月堂に、「若狭井」と呼ばれる「閼伽井屋(あかいや=仏さまにお供えする水を汲む井戸)」があります。 二月堂若狭井 この若狭井の水は、地下水脈で若狭とつながっているという伝説があります。東大寺二月堂と若狭のつながりに関しては、以前から何度もご紹介しています。若狭国一之宮の神域若狭の水 大仏殿前の鏡池 今回は珍しく神社には1社も寄らず、法隆寺とここ東大寺を堪能しました。両方の四天王像を見たかったのです。大仏殿のものもそうですが、東大寺戒壇堂の四天王像は躍動感があって力強いお姿。対照的に法隆寺の四天王像は「監視者」という感じで静かに立っておられます。昨年の夏、奈良国立博物館の「法隆寺金堂展」で四天王像が公開されました。従来の法隆寺金堂内は照明がなく、御本尊の釈迦三尊像すらうっすらとしか見えませんでしたので「法隆寺金堂展」で公開された仏像は、たいへん新鮮な感じでした。現在の金堂は、照明が灯されていますし外光も取り込まれていてとても明るくなっていました。金堂内の仏像がはっきりと見ることが出来ます。四天王像の配置は予想通りでしたが、その「向き」が意外で興味深かったです。 東大寺・南大門 大仏殿内の撮影もありがたいですが、現在の法隆寺金堂はお勧めです。次回、その法隆寺についてちょっとだけ書こうと思います。
2009.06.28
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