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作楽神社(さくらじんじゃ)岡山県津山市神戸433。津山市神戸に鎮座する作楽神社は、明治2年の創建。入口にそびえ立つ一の鳥居は中山鳥居と呼ばれるもの。美作国一之宮・中山神社の鳥居として知られる形。基本的な形は明神鳥居と同じですが、貫が柱から出ていないのが特徴。。。。。■御祭神 後醍醐天皇 児島高徳児島高徳は後醍醐天皇の忠臣。隠岐に流される途中、後醍醐天皇はこの地にあった美作の院庄館に宿泊。児島高徳はなんとか救出の機会を狙っていたがかなわず、院庄館の門前に咲いていた桜の木を削り「天莫空勾践時非無范蠡」という十字詩を書いたという故事による創建。その十字詩の意味は天は、呉との戦いに敗北し捕らわれた越王・勾践を見捨てなかったように先帝を見捨てることもありません。勾践に范蠡という忠臣がいたように、先帝を助け出す忠臣が必ず現れましょう(Wikipediaより)その意味は警備兵には理解できなかったが、後醍醐天皇には伝わり忠臣の存在に勇気づけられたとのこと。この故事は「太平記」に載っているそうですが、昔は有名な話だったようです。たまたま先日から読んでいた小説に紹介されていたのですが、戦前は小学校の唱歌にもなっていたそうです。その読んでいた小説も古いもので、押入れから引張りだしたもの。高木彬光という作家のミステリーです。。。ところでこの「作楽神社」という名称ですが、児島高徳が十字詩を書いた「桜」と美作の「作」が由来でしょうか。ゆっくりと境内を回り、社務所でもお話を伺いたかったのですが突然の降雨のため断念。全く知らなかった神社なのですが、津山市内を車で走行中しばしばこの神社名が書かれた案内板を見かけたので参拝。予想外に大きな神社で驚きました。参拝日(2024/8/25)は私たち夫婦の他に参拝者の姿はありませんでした。しかし駐車場は広大だったので、祭事あるいは初詣などでは賑わうのかも。。。境内全域が国の史跡に指定されているそうです。ただし神社としてではなく、「院庄館跡」としての指定のようです。院庄館跡に児島高徳を讃える石碑が建てられたのが最初。南朝忠臣のモニュメントとしては全国で2番目に古いので「建武中興の15社」と呼ばれる神社に加えてもよさそうな気がします。神社創設は津山藩主によるもの。武士の世と新政府の端境期の創建のようです。津山藩主としては児島高徳の忠義心を讃える神社としながら、明治政府の(創建の)許可を得るために、後醍醐天皇も御祭神にしたのかも知れませんね。。。。旧本殿を利用した護桜神社。見所もいくつかあったようなのですが、傘を持っていなかったためこれも降雨のため断念。また機会があれば再訪してみたい神社です。※建武中興の15社(Wiki)。
2024.11.26
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皇大神宮・所管社、神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)。。参道を抜けると、この光景が目に飛び込んできます。初参拝は2014年3月。伊勢神宮125社巡りの第一社目、スタートの神社でした。感動の一瞬だったのですが、今回はあの時とは少し違った光景です。その「違い」については後述します。。八尋殿。御塩殿神社の幄舎を見ることは出来ませんでしたが、伊勢市在住の知人から情報をいただき、急遽ここ神服織機殿神社に参拝。その「情報」とは、神服織機殿神社の御神事に関するものでした。一週間後の「神御衣祭(かんみそさい)」に向けて、奉織作業が始まっているとのこと。その奉織作業は、八尋殿で行われます。。。到着したのが早朝だったため、これから作業の準備が始まるというタイミングでした。その作業風景も気になりましたが、実はこの時の私はそれどころではありませんでした。記事の冒頭で光景の「違い」について、思わせぶりなことを書きました。。。この写真は2017年4月7日に撮影した、神服織機殿神社です。2015年11月にご造替された社殿が美しいですね。今回の光景との違いにお気づきでしょうか。。。神御衣祭は一週間後でしたが、神服織機殿神社では幄舎が設置されていたのです。御塩殿神社の幄舎を見るために来た、今年二度目の伊勢でしたがここの幄舎を見ることが出来て、来た甲斐がありました。【伊勢神宮125社】解体撤去されていた御塩殿神社の幄舎。。今年2度目の伊勢の記録(アメブロ)【伊勢神宮125社】御塩殿神社【伊勢神宮125社】 なんと嗚呼!!御塩殿神社!!【伊勢神宮125社】 気を取り直して江神社図らずもとうとうあの「伊勢名物」に手を出してしまった…幄舎(あくしゃ)!!幄舎 幄舎 幄舎 幄舎 幄舎 幄舎 幄舎 幄舎 幄舎 幄舎 幄舎 幄舎 幄伊勢神宮125社巡り「完遂」から10年。
2024.11.12
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湯田神社(ゆたじんじゃ) 皇大神宮摂社伊勢市小俣町湯田983 。■御祭神 大歳御祖命(おおとしのみおやのみこと) 御前神(みまえのかみ)伊勢神宮125社巡りに挑戦した、2014年以来2度目の参拝。修繕は2022年5月。真新しさは薄れていますが、今回の参拝では初参拝時には気にもしなかったことに気付きました。社殿が他の摂社よりも大きいこと。そして鰹木が別宮並みに6本あることです。ほとんどの内宮摂社と末社の鰹木は4本です。。。。2度目の参拝でしたが、たどり着くまでに苦労しました。神社前の細い道を、レンタカーのナビが認識していなかったからです。スマホの地図を見る助手席の妻のナビゲートで、なんとかたどり着きました。地図を参考にしながら、実際に見つけたのは目視。壁のように刈り込まれた木を見つけたからでした。10年前の125社巡りの時の苦労を思い出しました。。。。社殿の大きさと、鰹木の数の違い。まだまだ気付いていないことがあるかも知れません。やはり伊勢神宮は奥が深いと感じました。2014年の湯田神社伊勢神宮の摂社・末社・所管社の形状の違いについて(アメブロ)園相神社は大きいかも…(アメブロ)摂社の鰹木について(アメブロ)。
2024.11.03
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江神社(えじんじゃ) 皇大神宮摂社伊勢市二見町江明神奥■御祭神 長口女命(ながくちめのみこと) 大歳御祖命(おおとしのみおやのみこと) 宇加乃御玉命(うかのみたまのみこと)。この土地の神、五穀守護の神の三柱の神が祀られています。大歳御祖命は湯田神社、宇加乃御玉命は小俣神社にも祀られています。五十鈴川の河口で入江になっていることが、神社名の由来だそうです。。上の地図では場所がよくわからないでしょうが、江神社の500m北には、夫婦岩で有名な二見興玉神社があります。確かに河口付近ではありますが、ちょっと離れているような気もします。昔の地形は、今とは違っていたのかも知れません。。。造替・遷御は2017年5月。造替から7年余り経っていると、さすがに「新しさ」は感じられませんね。新しくなった社殿を見ておくための「2巡目の125社巡り」なのですが、これではあまり意味がありません。。。ここは「難所」と言うほどの場所にあるわけではないのですが、なかなか足が向かなかったのには理由があります。車で近くまで行けない上、適当な駐車スペースもないからです。。。。今回は二見興玉神社・境外摂社、栄野神社に駐車して、10分ほど歩きました。栄野神社の場所は、上の地図をご覧ください。JR参宮線の踏切を渡り、彼岸花が咲く径を歩きました。。。。2014年の初参拝時には、果たしてこの先に江神社があるのか心配でしたが今回はこの径の光景も覚えていたので不安はありませんでした。しかし10年前よりも体力が落ちているため、遠く感じました。軽自動車なら通行は可能かと思われますが、おススメは出来ません。。。。社殿裏側から、回り込むように進む参道。ここの右手、さらに奥に進むと磐坐と祠があるそうです。先ほど知人のブログ記事で知りました。毎度のことながら、事前のリサーチ不足は私の悪い癖です。どんな所か気になる方は、伊勢市在住の125社めぐらー仲間キタヰこと桝屋さんのブログをご覧ください。知人ブログ「神宮巡々3」参拝日 2024年10月6日2014年の江神社 。。。
2024.10.27
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。10月5日~7日、今年2度目の伊勢行。御塩殿神社の幄舎を見たくて、昨年からこの旅を計画していました。御塩殿神社では、10月5日の御塩殿祭に幄舎が立てられます。伊勢到着は5日の午後7時。二見のホテルに宿をとり、翌6日に御塩殿神社に行く計画でした。翌日にはまだ、その幄舎は残っていると思ったのです。例えば社殿がご造替のときの仮殿は、10日ほど残っていましたし。。御塩殿神社と仮殿(2018/10/01 遷御は9/21)。しかし残念ながら、幄舎は5日のうちに解体撤去されたそうです。御塩焼固(みしおやきがため)作業にあたられていた里田和也さん。里田さんのお話では、御塩殿祭は毎年10月5日(式年遷宮の年を除く)。幄舎は4日に設置され、御塩殿祭終了後すぐに解体撤去されるのだそうです。。。この光景を見たときは、正直がっかりしました。今年2度目の伊勢。1年前から計画していた旅は、無駄になってしまったと…。。。社殿前の柱を立てる場所。「ここに幄舎が立てられていたのか」と想像するが、ちょっと空しい。本当に残念でした。。。御塩殿で行われていた、御塩焼固。作業にあたられていた里田さんにもお話を伺うことが出来ましたし完成したばかりの御塩殿の御垣を見ることも出来ました。御塩焼固は荒塩を三角の土器で焼く作業。薪を焼く煙がいい香りでした。。。こちらは社殿裏手にある、御塩焼所(みしおやきしょ=左の建物)と 御塩汲入所(みしおくみいれしょ=右の建物)。御塩焼所は、屋根の葺き替え準備中でした。御塩汲入所の屋根も葺き替えられるかどうかは聞きそびれました。前述の里田さんのお話では、作業は来年5月くらいまでかかるだろうとのこと。それにしても、残念無念の結末でした。しかし、思わぬ展開が待っていました。そのいきさつについては、別ブログに書いています。1アメブロ「【伊勢神宮125社】御塩殿神社」2アメブロ「【伊勢神宮125社】なんと嗚呼!御塩殿神社」3アメブロ「伊勢神宮125社】気を取り直して 江神社」4アメブロ「~伊勢名物に…」それにしても「里田さん、里田さん」とまるで知人のようにご紹介しましたがお名前は参拝後、三重テレビ放送の映像で知りました。YAHOO!ニュース。
2024.10.17
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佐美長神社(さみながじんじゃ)伊雜宮 所管社三重県志摩市磯部町恵利原。■御祭神 大歳神10年ぶり3度目の参拝。造替は2014年11月。この神社は皇大神宮・別宮 伊雜宮の所管社ですが記録を見ると20年で修繕ではなく、毎回「遷御」されるようです。皇大神宮の第一摂社・朝熊神社ですら、最初の20年は修繕のようです。伊雜宮に準じた扱いということなのでしょうか。瀧原宮・所管社の二社も同様のようです。。。社殿は鳥居から石段を上った、小高い場所にあります。神社に駐車場はありません。。。石段を上ると、下からは想像も出来ない広い空間。奥に見えるのは佐美長御前神社四社(さみながみまえじんじゃ)。。。佐美長御前神社は別の敷地ではなく、同じ場所に造替されるようです。御祭神は「佐美長神御前神」(さみながみまえのかみ)。こちらも伊雜宮の所管社です。。。来る度に思うのですが、何度でも訪れたい神社です。惜しむらくは駐車スペースがないこと。広い駐車場がある伊雜宮からは、およそ1kmほどでしょうか。歩くには少し微妙な距離。私は歩こうとは思いませんが…。。。2014年10月 遷御前の佐美長神社。
2024.10.14
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粟皇子神社(あわみこじんじゃ) 皇大神宮摂社伊勢市二見町松下 (Google Map)■御祭神 須佐乃乎命御玉道主命(すさのおのみことのみたまのみちぬしのみこと)2019年5月に造替された粟皇子神社。参拝日は2019年11月19日。御祭神名から、この神社はスサノオノミコトを祀っていると思いがちですがここの御祭神は宗像三女神のことだそうです。スサノオノミコトの御子神ということ。。2014年の「125社巡り」では、ここが最終の訪問地でした。伊勢ではある意味、最も感慨深い場所です。地図を見ればおわかりかと思いますが、この神社は海の蝶というホテルの敷地を通って参拝します。参拝時には、フロントでひとこと声をかけるのがマナーかと。。。今頃になって、この神社をご紹介すのには理由があります。粟皇子神社の写真は、長らく壊れたPCの中で眠っていたからです。今年のはじめ、眠っていた画像の救出に成功しました。現在は、もう少し風格が増しているかも知れません。。。社殿のすぐ裏は海。伊勢神宮125社の中で、粟皇子神社は最も海に近い神社と言われています。海上交通の守護として、信仰されているそうです。。2014年の粟皇子神社。
2024.09.23
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鴨都波神社(かもつばじんじゃ)奈良県御所市513鴨都波神社・公式HP。。■御祭神 積羽八重事代主命(つわやえのことしろぬしのみこと) 配祀 下照比売命(したてるひめのみこと) 建御名方命(たけみなかたのみこと)大国主命(大物主命)の御子神を祀ることから、大神神社の別宮とも言われる。古くは律令体制下において、名神大社という高い社格を誇った神社。下鴨社とも呼ばれ、鴨三社の一社であり葛木鴨族が祖神を祀った重要な神社。高鴨社(上鴨社)高鴨神社中鴨社 葛木御歳神社2018年以来、6年ぶりの参拝。前回の参拝では本殿修復工事中だったため、境内の撮影は断念した。。本 殿。。手水は人が近づくと水が出るようになっています。最近こういったセンサーが設置された手水舎が増えました。ただコロナ禍以降、柄杓が置かれていないのはちょっと寂しいですね。。。境内には紫陽花がたくさん咲いていました。この神社に参拝した日、村屋坐弥冨都比賣神社にも参拝。出雲系の神が祀られている神社が多いことに、あらためて気づかされます。「鴨三社」の高鴨神社も大国主命の御子神を祀る神社ですし。。祓戸社稲荷神社神農社天神社・猿田彦神社・火産霊神社。拝 殿。駐車場はありますが、少し注意が必要です。国道168号線を奈良市内方面から「済生会病院前」交差点を左折しますが交差点付近は下り坂でかなり狭い道です。特に帰りには停止位置に注意が必要なのでお気を付けください。。
2024.07.14
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川原神社 皇大神宮摂社伊勢市佐八町(そうちちょう)1559。。■御祭神 月読尊御魂(つきよみのみことのみたま)参拝日は2024年3月17日。およそ1年ぶりの参拝。前回の参拝は2023年3月5日で、「仮殿」への仮遷座直前のことでした。修繕後の還座は2023年5月17日でした。。。還座から1年経っていますが、真新しさが感じられた社殿。ネットの地図にも掲載されており、比較的わかりやすい場所にあります。ナビがあれば、迷うことはないと思います。すぐ近くに宮川が流れており、それが神社名の由来かと思われます。。。。。新しい社殿に見えますが、今回は「修繕」です。なので、棟持ち柱などは旧部材が再利用されています。もちろん敷地も遷っていません。。。上の画像は今年(2024年)3月17日撮影のもの。右下に「変なもの」が写っていますね。前回の参拝時にはなかったものです。。。。。「害獣対策中」とのことですが、効果あるのでしょうか??? ここは山の中でもなく、「害獣」とはなになのか不明。 このビニールの虎に驚くなら、たいした獣だとは思えないのですが。。。ところでこれらの神社をご紹介するときに、いつも伊勢神宮の謎についてお話ししていることがあります。それは伊勢神宮125社で素戔嗚尊を祀る神社は1社もありませんが、月読尊を祀る神社は5社もあるということ。社格こそ違いはありますが、その数においては天照大神と同数なのです。。◆天照大神を祀る神社・皇大神宮(内宮)・荒祭宮(皇大神宮別宮)・伊雜宮(皇大神宮別宮)・瀧原宮(皇大神宮別宮)・瀧原竝宮(皇大神宮別宮) 以上5社◆月読尊を祀る神社・月讀宮(皇大神宮別宮)・月讀荒御魂宮(皇大神宮別宮)・月夜見宮(豊受大神宮別宮)・高河原神社(豊受大神宮摂社)・川原神社(皇大神宮摂社) 以上5社。伊勢神宮では、もしかしたら月読尊は重要な意味を持つ神なのかもしれません。。2023年の川原神社伊勢神宮の月読尊(月夜見命)。
2024.06.02
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多岐原神社(皇大神宮・摂社)三重県度会郡大紀町三瀬川。■御祭神 真奈胡神(まなこのかみ)祀られているのは倭姫命が宮川を渡る手助けをしたと伝えられる神。参拝日は2024年3月17日、10年ぶり3回目の参拝。この神社には、伊勢神宮125社としては珍しく賽銭箱と石灯籠があります。左右の石灯籠は「対」ではなく、微妙に形状が異なっていました。。。。2023年7月に造替・遷座のため、木の香りが漂ってきそうな社殿。多岐原神社の御祭神は、真奈胡神(まなこのかみ)。前述のように、宮川の急流を渡る際に倭姫命を助けた神様です。その時のエピソードと瀧原宮と多岐原神社創建の御由緒を描いたイラストが地元の方々によって瀧原宮の入口に掲載されています。その「縮小版」が多岐原神社の前にもありました。真奈胡神の助けによって倭姫命が宮川を渡ったとされる場所が多岐原神社の近くにある「三瀬の渡し跡」です。。。「三瀬の渡し跡」への道は、以前より整備されている感じがしました。 10年前は雑草に覆われていて、どこが道だか判別出来ない状態でした。しかし安心したのもつかの間、段々と道が荒れて歩きにくくなりました。。。宮川方面に降りるに従い、道は雨水などで浸食されていて河原近くは崩れそうな急坂になっていました。その部分の写真がないのは、怖くて写真を撮る余裕がなかったためです。同行していた妻は膝に爆弾を抱えているため、河原に降りるのを断念。竹藪の間からエメラルドグリーンの川面を撮影していました。。。。私も10年前よりは体力は衰えていますし、当日は体調も悪く、正直言ってあんまり無理はしたくない心境ではありました。しかしここまで来て「三瀬の渡し」の写真を撮らずに帰るわけには行きません。長年身に沁みついた、ブロガーの悲しいサガですね。。。。一番下の写真で、対岸に見える幟がある辺りが「三瀬の渡し」です。白と青の幟の左手に見える坂は、江戸時代以降の石畳の道(熊野古道)。その右にあるのが江戸時代から使われていた船着き場だそうです。 。。多岐原神社へは、よほどの健脚の方そして時間に余裕のある方以外は公共交通機関での参拝はおススメ出来ません。自家用車あるいはレンタカーでの参拝となります。駐車場はありませんので、ツアーでの参拝も無理かと思われます。アクセス及び駐車スペースについては、下記ブログ記事をご参照ください。2014年の多岐原神社◆アメブロ(記事内容はほぼ同じ)多岐原神社と三瀬の渡し【伊勢神宮125社】。
2024.05.30
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大津神社 豊受大神宮末社豊受大神宮 域内。■御祭神 葦原神(あしはらのかみ)御祭神は五十鈴川河口の守護神。参拝日は2024年3月18日。修繕が行われ、還座を終えたのは2023年5月10日だったそうです。。。棟持ち柱などは、元々の部材が再利用されているようです。修繕なので敷地もそのままの場所。隣の新御敷地に遷るのは、おおよそ20年後ということになります。前回の造替は2001年03月23日でした。。。北御門前の径の最も奥に鎮座している神社です。更に奥に進むと上御井神社がありますが、一般参拝者は立ち入ることが出来ません。大津神社のすぐお隣には、度会国御神社(わたらいくにみじんじゃ)があります。この日は修繕工事に向けての準備が進められていました。。社殿の「修繕」の準備が進められていた度会国御神社。大津神社の詳細については、前回・前々回の参拝記事をご参照ください。【参照】仮殿が建てられた2023.3月の大津神社【参照】2014年の大津神社など。。
2024.05.19
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鏡宮神社(かがみのみやじんじゃ) 皇大神宮末社三重県伊勢市朝熊町。■御祭神 岩上二面神鏡霊(いわのうえのふたつのみかがみのみたま)「鏡宮」とは元々は先にご紹介した朝熊神社の異称だったとのこと。朝熊川の対岸にある、朝熊神社の御前社だったという伝承もあるようです。。。。皇大神宮・摂社・第一位の朝熊神社との関係が深いことは相互参拝が出来るように、専用の橋が掛けられていることからもわかります。。。。125社では珍しい、真っすぐな参道。「遷御」が行われるため、仕方がないことではありますがその参道は厳密に言えば社殿の正面に向かっているわけではありません。それでも125社の中では、珍しい参道だとは言えると思います。。。今回の「式年遷宮」では「修繕」が行われました。御環座は2023年9月8日。近くに朝熊神社・朝熊御前神社がありますが、修繕工事は隣の敷地に仮殿を建てて行われたようです。棟持柱などは旧部材が再利用されているようです。屋根と鳥居が異常に白いことが気になりました。。。。。虎 石。。。。社殿裏手にある「虎石」と呼ばれる、川面の石。この石は元々の神の依り代であり、御祭神が祀られていた場所だったようです。(御祭神・岩上二面神鏡霊・いわのうえのふたつのみかがみのみたま)周辺には他に「潮干石」など、多くの石があるそうです。今回の参拝(2024年3月17日)では、虎石以外は未確認ですが。。。。朝熊神社・朝熊御前神社の前から見た鏡宮神社。2014年の鏡宮神社
2024.05.14
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大土御祖神社(おおつちみおやじんじゃ) 皇大神宮摂社伊勢市楠部町尾崎2132。■御祭神 大国玉命(おおくにたまのみこと) 水佐佐良比古命(みずささらひこのみこと) 水佐佐良比賣命(みずささらひめのみこと)祀られているのは神田の土地の守り神と、二柱の水の夫婦神。すぐ近くに神宮の「神田」があります。豊受大神宮摂社・度会大国玉比賣神社にも同じ神が祀られていますが、。それはあの辺りに外宮の御料田があったからです。宇治乃奴鬼神社(うじのぬきじんじゃ) 皇大神宮末社 大土御祖神社御同座■御祭神 高水上命(たかみなかみのみこと)。。。今回は修繕。御環座は2022年6月29日。棟持柱などは旧部材が再利用されていることがわかりますね。修繕なので「遷座」は行われていません(参照・2014年の大土御祖神社)。。まるで秘密基地への入口のような参道。駐車場はありませんが、入口前にスペースはあります。ここは行止まりになっているので、参拝者以外の通行はないと思われます。。。すぐ奥に、国津御祖神社があります。さらにそのお隣にあるのは、櫲樟尾神社(くすおじんじゃ)。櫲樟尾神社は伊勢神宮125社の1社ではありません。。国津御祖神社(くにつみおやじんじゃ) 皇大神宮摂社。■御祭神 宇治比賣命(うじひめのみこと) 田村比賣命(たむらひめのみこと) 御祭神はこの付近の産土神だそうです。葦立弖神社(あしだてじんじゃ) 皇大神宮末社 国津御祖神社御同座 ■御祭神 玉移良比女命(たまやらひめのみこと) 祀られているのは宇治比賣命の御子神。国津御祖神社・葦立弖神社も今回は「修繕」でした。御環座は2022年9月8日。参拝日 2023年3月5日。※20214年の大土御祖神社と国津御祖神社。
2024.05.13
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皇大神宮・摂社朝熊神社(右)と朝熊御前神社(左)三重県伊勢市朝熊町字櫻木。。■御祭神 ・朝熊神社 大歳神(おおとしのかみ) 苔虫神(こけむしのかみ) 朝熊水神(あさくまのみずのかみ) ・朝熊御前神社 朝熊御前神(あさくまみまえのかみ)参拝日は2024年3月17日。5年ぶりの参拝でした。造替・遷座から5年経っていますが、真新しさが少し残っていました。板葺き屋根とは言え、他とは明らかに違う大きな社殿。しかも二社並んでいる姿には、何度見ても圧倒されます。。。。2019年3月3日撮影。前回の参拝は、造替工事が完了したばかりの頃。朝熊御前神社は遷御祭(3/7)直前のタイミング。朝熊御前神社の前にロープが張ってあるのはそのためです。。 朝熊神社。 朝熊御前神社。。それぞれ皇大神宮・摂社の第一位と第二位の神社。「大きい」とは感じるのですが、そのサイズは不明。参考までに摂社・第三位、園相神社サイズはWikiに載っています。長さ9尺(≒2.7m)×広さ7尺(≒2.1m)×高さ7.8尺(≒2.4m)。ちなみに平均的な大きさと思われる朽羅神社のサイズは長さ6尺(≒1.8m)×広さ4尺(≒1.2m)。園相神社(そないじんじゃ)も他よりもひとまわり大きいことがわかります。朝熊神社・朝熊御前神社も園相神社と同等かそれ以上の大きさだと思います。なお、外宮の摂社・末社にはこれほど大きな社殿は見られません。。。鎮座地は五十鈴川と朝熊川の合流地点東の丘の上。水の神を祀る神社だけあって、ここは雨の日が似合う境内です。小型車であれば、この参道のすぐ下まで行けます。未舗装ですが、駐車スペースもあります。。。朝熊川の対岸には鏡宮神社(皇大神宮・別末社)があります。徒歩で対岸に渡ることが出来ます。2019年の朝熊神社・朝熊御前神社。
2024.05.04
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加努弥神社加努弥神社(かぬみじんじゃ) 皇大神宮・末社三重県伊勢市鹿海町■御祭神 稲依比女命(いなよりひめのみこと)祀られている神は、大歳神の子で農耕の神。一昨年(2022)の造替ですが、鳥居と瑞垣だけで社殿はありません。石畳の上の石神さま。社殿のない小さな神社ですが、鎮座地は鹿海町(かのみちょう)。この神社に由来する町名と思われます。付近に駐車スペースはありません。周辺は田園地帯。車での参拝は、農繁期には控えた方がいいかも知れません。参考記事伊勢神宮125社巡りのススメ ~五十鈴川めぐり 1~2014年の加努弥神社。
2024.04.07
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拝 殿坂田明神宮滋賀県米原市宇賀野835-2。■御祭神 坂田宮(内宮) 天照皇大神 岡神社(外宮) 豊受毘売命坂田明神宮は元伊勢「坂田宮」と、式内論社の岡神社の二社からなる神社。とは言え、参拝時には全く気づきませんでした。毎度のことながら、リサーチなしの参拝だったからです。しかも幣殿で参拝後、ろくに本殿の確認もしていなかったため二社あることに気づかなかったのです。参拝日は2016年2月19日。当時のナビの性能がイマイチで、境内入口にある駐車場には行けませんでした。と言うか、その存在すら知りませんでした。あまり褒められた方法とは言えない駐車をしていたため、落ち着いて参拝出来なかったという、言い訳をしておきます。。幣 殿。従って、鳥居をくぐって境内に入っていませんでした。後で調べてみると、ここは境内をJRの線路が横断している珍しい神社でした。私は線路を挟んで駐車場の反対側から境内に入ったようです。。四所宮・七所宮倭姫社。四所宮(写真・左)は外宮・別宮の御祭神。七所宮(写真・右)は内宮・別宮の御祭神。こうして境内社の写真は撮っていますが、参拝時は御祭神はわかっていませんでした。境内案内図は線路の向こう側にあったからです。。。幣殿と本殿(岡神社・外宮)。幣殿の後ろに少しだけ見えているのが外宮(岡神社)の屋根。あの日、どうして本殿に注目しなかったのか不思議です。幣殿の美しさに圧倒されていたのかも知れません。路肩に無理やり駐車した車のことも気になっていましたが…。。。幣殿と本殿(坂田宮・内宮)。こちら側からは内宮の屋根が見えています。そもそも本殿の存在を忘れていましたから、千木の形状や鰹木の数は不明です。。。。次に訪れる機会があったなら、ちゃんと駐車場に車を停めて踏切を渡って参拝したいと思います。内宮・外宮、両方の本殿はもちろんのこと境内社にもちゃんとご挨拶しようと思います。それにしても適当な参拝しかせず、しかも8年前の画像を使ってよくもこれだけ参拝記録記事が書けたものです。先の数記事同様、壊れたPCから多くの画像を救出出来たことがよほどうれしかったのだろうということでご容赦ください。
2024.02.18
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伊香具神社(いかぐじんじゃ)滋賀県長浜市木之本町大音688■御祭神 伊香津臣命(いかつおみのみこと)御祭神は神社では天児屋根命第七代目の子孫と伝えられており、中臣氏(藤原氏)の祖とされている。記紀には登場しないが、「近江国風土記」にある余呉湖の羽衣伝説に登場する天女を妻とした伊香刀美と同一人物と言われます。式内社で、社格は「名神大社」御祭神の十六代目にあたる神職、伊香厚行という人は菅原道真公と親交があったとか。現在のご神職も「伊香氏(読み不明)」であり、その社格もさることながら「由緒ある神社」という感じ。。。境内入口にある鳥居は独特のもの。大神神社の三ツ鳥居と、厳島神社の両部鳥居を合わせたような形ですが稚児柱が通常の倍の八本ある「伊香式鳥居」と言う鳥居。。拝 殿。伊香式鳥居をくぐると見える、茅葺屋根の拝殿。しかしこの拝殿は、現在はもうありません。参拝日は2018年8月9日。この記事の写真はすべて、壊れたPCから数年ぶりに救出したもの。参拝日の約1か月後の2018年9月4日、非常に強い勢力の台風21号が神社を襲いました。あの台風の強風の凄まじさは、今でもよく覚えています。その台風により、樹齢三百年以上と言われる杉を含む大木など20本以上が倒れたそうです。その倒木が拝殿の屋根を倒壊させ、倉や神馬なども被害を受けたそうです。。神 馬。なのでこれらの写真は、被災前の最後の姿ということになります。拝殿は昨年に再建されましたが、銅板屋根となっています。。。本 殿。参拝時には気づかなかったのですが、ちょっと不思議なことがあります。「瑞垣門」と言っていいのでしょうか、本殿前の門の屋根にも千木と鰹木があります。この神社の御祭神は男神です。多くの場合、男神を祀る神社の千木は外削ぎで、鰹木は奇数。伊香具神社の本殿もそうなっているのですが、なぜか門の屋根は内削ぎの千木で鰹木は6本(偶数)です。。。招魂社三の宮神社。境内には他に、立派な招魂社がありました。日清戦争以降の、この地域の英霊が祀られています。三の宮神社の御祭神は本宮・御祭神の御子神(長男)の臣知人命(おみしるびとのみこと)で、縁結びの神として信仰されているそうです。ここには是非再訪し、千木と鰹木の謎をご神職にお尋ねしたいです。再建された拝殿や境内の様子も気になります。それとご神職の名字の「読み」も。おそらく、「いかぐ」さんだと思いますが。。
2024.02.11
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太宰府天満宮福岡県太宰府市宰府4■御祭神 菅原道真公。2023年10月、久しぶりに九州に行きました。太宰府天満宮は32年ぶり3度目の参拝。上の写真は「心字池」前に立つ石鳥居。南北朝時代の建立と伝えられ、九州最古の石鳥居と言われます。。。心字池にかかる 3つの赤い橋はひとつめが過去で ふたつめが今…ここに来ると、さだまさしの「飛梅」という曲を思い出します。みっつめの橋は、未来です。。。。手水舎の手水鉢は、宝来山の一枚岩で作られたもの。中央には神亀が彫られています。。。。本殿前に至る楼門は「二重門」とも呼ばれ、内側と外側の造りが異なる珍しいもの。そんなこと、言ってくれなきゃ気が付きません。。。。。社殿は改修工事中でした。完成は3年後だそうです。しかし、さすがは全国天満宮の総本宮の太宰府天満宮。仮殿もハンパじゃありません。。。。仮 殿。3年間限定の「仮殿」は、関西の有名建築家の設計によるもの。社殿内のモダンな造りもさることながら、屋根の上に緑を湛えるユニークなデザイン。仮殿とは言え、期間限定で見られる貴重な光景とも言えそうです。屋根の上の緑は、社殿完成後は「天神の森」に移植されるそうです。。。。。現在は仮殿の裏にひっそりと佇む、飛梅。「東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて春な忘れそ」京の都で菅原道真公が愛でた梅の木が、一夜にして大宰府に飛んだと伝わる「飛梅」32年ぶりの参拝で、社殿が工事中だったのは残念ですが今でしか見られない仮殿への参拝も、ある意味で貴重な体験でした。社殿修復完了後、必ず再訪したいと思います。。
2024.01.23
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。大山祗神社・子安神社は皇大神宮(内宮)所管社ながらある意味、特別な神社と言えそうです。上の写真のように、所管社ながら神社名と御祭神が書かれた駒札が建てられています。これは摂末社、所管社では珍しいことです。他には同じく皇大神宮域内にある瀧祭神くらいしか例がありません。しかもこちらには、いつの頃からかこじゃれた手水鉢も設置されています。伊勢神宮では珍しく、ある特別な信仰がある神社なのです。。。なかなか趣のある光景。これも珍しいことですが、両社には賽銭箱も設置されています。。大山祗神社 皇大神宮所管社。■御祭神 大山祗神(おおやまつみのかみ)「山の神」として知られる大山祗神。ここは宮域内・神路山の入り口にあたるそうです。。子安神社 皇大神宮所管社。■御祭神 木華開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)御祭神は大山祗神の娘神。火の神、火山の神としても知られていますが、ここでは安産の神として信仰されています。燃え盛る産屋の中で御子を生んだという、神話からの信仰でしょう。御祭神は山幸彦と海幸彦の母親です。。。社殿の横にある、奉納棚。小さな鳥居が奉納されています。「安産祈願」の鳥居で、この小さな鳥居は参集殿などで売られているそうです。今は写真のように、整然と奉納されていますが2009年に見た光景は衝撃的でした。現在のような棚がなく、社殿の周囲に鳥居が奉納されていたのです。。。2019年9月に修繕、還座を終えた両社。真新しい社殿の撮影は2019年11月。こちらも宇治山田神社と同じく、壊れたPCから救出した画像です。。
2024.01.21
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宇治山田神社(うじようだじんじゃ) 皇大神宮・末社.■御祭神 山田姫命(ようだひめのみこと)御同座 那自賣神社(なじめじんじゃ) 皇大神宮・末社■御祭神 大水上御祖命(おおみなかみのみおやのみこと) 御裳乃須蘇比賣命(みものすそひめのみこと)どちらの御祭神もこの地域の水の神。月讀宮の近くにある、森に鎮座するこの神社は2014年の125社巡りで出会った中でも特に印象に残っている神社。。。御造替は2018年11月。木の香りが漂ってきそうな社殿の写真は2019年3月3日に撮影したもの。2014年の初参拝時にはやぶ蚊の猛攻に遭いましたが、この日はゆっくりと参拝。。。今頃になって2019年参拝の記事を書くのには、少々事情があります。実は2020年5月頃、青色吐息だった私のPCが壊滅状態に…。以来、妻のPCを借りて細々とブログを書いてまいりました。なんだかんだと先送りにされていましたが、この度やっとPCを購入。待たされた分、妥協せずに純国産のPCを入手いたしました。。。同時に、突如ひらめいたファインプレー(自画自賛)により旧PCの写真などのデータの救出にも成功したのです。これでしばらく、ブログネタには困りません。なにせ2013年から2020年までの写真が眠ったままだったからです。2020年以降はコロナ禍の影響で、極端にお出かけが減りましたし。。。昔の私だったら、こんなに「ネタ」を放置することはなかったかも。これからは、頑張ろうと思います。神社の話題をほとんど書いていませんが、一言で言えば「おススメの場所」です。※2014年の宇治山田神社。
2024.01.14
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科長神社大阪府南河内郡太子町山田3778■御祭神 級長津彦命(しなつひこのみこと) 級長津姫命(しなつひめのみこと)太子町唯一の式内社。御祭神は風の神。元は二上山に鎮座していたと伝えられているようです。付近は古くから「磯長谷(しながだに)」と呼ばれています。蘇我氏の本拠、石川に近く「磯長谷」は王陵の谷とも称され蘇我氏と関係が深い天皇などの古墳が集まっています。「しなが」に「磯」という字が使われているのは謎。。。「金平大明神」と書かれた境内社。ここに海上交通の神が祀られていることも謎。磯長谷の「磯」に関係があるのだろうか。この地は蘇我氏だけでなく、海人族も移住していたのかも知れません。。。境内は広くはありません。ただしそこそこの本殿があるようですが、見落としました。なぜここに風の神?境内ではただただ、そんなことを考えてしまっていました。近くに小野妹子墓がありますが、やっぱりそれも謎。。。「本殿を見落とす」という、神社ブロガーにあるまじき失態を誤魔化すように小野妹子墓のご紹介を付け足します。この地に小野妹子墓がある理由は不明です。。。この小野妹子墓は池坊によって管理されているそうです。小野妹子が朝夕仏前にお花を供えたことから華道池坊がはじまったからだとか。しかし華道家元 池坊の管理としては、微妙なお姿と言えなくもないかも。塚らしきものは崩れ、お供え物も見られません。しかし小野妹子の命日である毎年6月には、池坊関係者と科長神社の宮司により「小野妹子墓前祭」が執り行われているそうです。。。上の画像は、小野妹子墓前から富田林市方面を見下ろす眺望です。この地に小野妹子墓があることも謎なのですが、この場所はいかがなものかと。王陵の谷を見下ろす位置にあるというのはどうかと思います。付近にあるのは推古天皇陵、用明天皇陵、聖徳太子墓など。妹子は当時の官位としては最高位を得ていました。しかし天皇陵を見下ろす位置は小野妹子の墓としては少々、畏れ多い場所のような気がします。小野妹子は近江の出身と言われています。大津市北部、琵琶湖西岸に小野氏の本拠があったとされ、小野という地名も残っています。周辺には小野神社やその境内にある小野篁(おののたかむら)神社、境外摂社の小野道風神社など小野氏ゆかりの神社が点在しています。この地にある丘陵には、小野妹子神社と小野妹子墓との伝承がある7世紀前半の築造とされる唐臼山古墳があります。大津市 小野神社・小野篁神社・小野道風神社。
2023.10.02
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御食神社(みけじんじゃ) 豊受大神宮摂社伊勢市神社港(いせしかみやしろこう)。■御祭神 水戸御饗都神(みなとのみけつかみ)「水戸」とは海水が入り込む港。「みけつかみ」は食べ物を司る神のこと。つまり御祭神は港(神社港)で揚がった食物を伊勢神宮に調進する神。。。域内への入口は2か所。「定の立札」が立っているので、こちらが「表玄関」か。奥に見えるのは「辰の井」という井戸。この水を倭姫命に献上したという伝承があるそうです。地元では龍神信仰と結びついて「辰神さん」と呼ばれているそうです。地元の案内板によれば、御祭神は食物ではなく水の神と考えられているようで水戸の神=速秋津比子神・速秋津比売神と記されていました。。。こちらは社殿裏側にある入口。この神社をナビに設定すると、なぜか狭苦しい道のこちらに連れて来られました。初めてここに車で入り込むと、変な汗をかくかも知れません。駐車場はありませんが、神社の東側には短時間なら駐車可能なスペースはあります。(路上駐車ですが)。。。参拝日は2023年3月4日。修繕後の御還座は2021年7月2日だったそうですが、社殿や鳥居は真新しさが残っていました。ご覧のように、他の摂社・末社とは趣が異なります。地元の産土神として奉祀されているからでしょうか。灯篭が建てられ、TOP画像のように瑞垣も二重になっています。。
2023.09.26
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志宝屋神社(しおやじんじゃ) 豊受大神宮末社伊勢市大湊町。■御祭神 塩土老翁(しおつちのおじ)御祭神は神話と天皇紀の両方に登場。神話では山幸彦を海神の宮に導き、天皇紀では神武の東征で道案内役となったりと、助言の神といったイメージ。また製塩の神としても信仰されているようです。。。。かつて鎮座地辺りは製塩が盛んだったそうです。地元ではこの神社は「塩屋明神」とも呼ばれているそうです。製塩の守り神として信仰されてきたのでしょう。伊勢神宮で使用される塩は、二見にある御塩殿神社で作られています。御塩殿神社の御祭神は御塩殿鎮守神(みしおどののまもりのかみ)ですが、この神社と同じ塩土老翁が御祭神だとする説もあるようです。。。第62回式年遷宮により、2020年5月に御遷座。志宝屋神社はこれからおよそ40年、この敷地に御鎮座されます。参拝日は2023年3月4日。造替から3年ほど経っているので、それほど真新しさは感じられません。。。。域内への入口は社殿の裏手にあります。社殿正面には回り込むように参道を歩くことになります。伊勢神宮125社にはこのような参道が多く見られます。入口の鳥居から真っすぐに社殿正面に続く参道はありません(たぶん)。一部の方は「これらの神社は怨霊を祀る」と言うかも知れません。しかし私は伊勢神宮はそうではないと思っています。「不浄なものを域内に入れない」そういう構造の社叢なのだと思っています。【参考】2014年の志宝屋神社。【】
2023.07.02
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堅田神社 皇大神宮・摂社伊勢市二見町茶屋。。■御祭神 佐見都日女命(さみつひめのみこと)祀られている神さまはこの土地の神。「佐見」というのは、元々の地名だと言われています。倭姫命がこの地を巡幸した際、佐見都日女命が堅塩を奉じたと伝えられています。このことが二見で伊勢神宮に奉納する塩が作られるきっかけだったとか。実際にその塩が作られるのは、御塩殿神社です。堅田神社参拝のあと、御塩殿神社にも参拝しました。御塩殿の屋根の修繕が終わった姿を見たかったからです。後日、その御塩殿神社の様子もご紹介する予定です。。。。。。参拝日は2023年3月4日。第62回式年遷宮による修繕が行われたのは2021年8月。御環座から1年半ほど経っていましたが、社殿には真新しさが残っていました。。。。。。この画像は社殿前から見た参道です。2014年に参拝した時も、同じような写真を撮っています。社殿は南向きで、道路がその北側を通っているので社殿の裏側から回り込む参道になっています。2014年の堅田神社。。。。。こちらは道路側から見た参道です。この先から右に行くと社殿前に出ます。伊勢神宮125社にはこのような参道を持つものが多くあります。と言うか、社殿に向かって真っすぐな参道を見たことがないくらいです。これは「怨霊を祀る神社の特徴だ」と言う方々もいらっしゃいますが、伊勢神宮125社の場合は違うのではないかと思っています。。。。
2023.06.11
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茨木神社大阪府茨木市元町4番3号茨木神社・公式ホームページ■御祭神 建速素盞嗚尊 誉田別命 天児屋根命この神社との出会いは、ネットで知り合った神社仲間の紹介がきっかけでした。「茨木市に、参道の長い神社がある」神社巡りを始めたばかりの頃、そう聞いて参拝に出かけたのです。以来、仕事で茨木市に行く度に必ず立ち寄った、北摂で最も好きな神社です。しかし今回は12年ぶりの参拝。拝殿が建替えられたと聞いて、久しぶりに参拝しようと思ったのです。。。。。。。上の写真は旧拝殿です。この茨木神社は、実は奥宮である天石門別神社を護った神々を祀っています。戦国の世、織田信長は天下統一の道具としてキリスト教を利用し、各地の神社・仏閣を焼き払いました。高槻城主・高山右近もそれに倣い、北摂地域の神社などを焼き払っていたとか。しかし信長は「天照大御神、春日大神、八幡大神及び牛頭天王(素盞嗚大神)の諸社は焼くべからず」そうお達しを出していたため、天石門別神社は「牛頭天王を祀る神社」と詐称し焼き討ちを免れたのだそうです。どういうことかは、茨木神社公式HPの「御由緒」をご覧ください。。。。。東 門。。。茨木神社・東門は茨木城の搦手門(からめてもん)を移築したものと言われています。城主はいろいろ代わっているそうですが、建てたのは楠木正成だそうです。城郭の跡などは残っておらず、この門が唯一の城跡の証のようです。。。。。本 殿。。令和4年、拝殿と幣殿の造替が行われ同時に本殿の修復と屋根の葺き替えも行われたそうです。この本殿のすぐ裏に、奥宮があります。。。。。奥宮・天石門別神社(あめのいわとわけじんじゃ)。。■御祭神 天手力男命(あめのたぢからおのみこと)天手力男命は天照大神がお隠れになった天の岩屋の扉をこじ開けた神です。しかし神社名となっているのは天石門別。天石門別神というのは天手力男命とは別の神さまなので、ちょっと混乱しそうになります。天石門別神は天の岩戸を神格化したものと言われており、この神社の名称になったということなのではないでしょうか。この奥宮・天石門別神社は、本宮を差し置いて(?)式内社です。。。。。。。なんとも美しい社殿です。神明造ですが、伊勢神宮とは違って妻入りの社殿。あまりにもこの神社が好きすぎて、同じようなアングルで何枚も写真を撮ってしまいました。久しぶりに訪れた大好きな神社なのに、この位置と正面しか見ていません。そう言えば、今までも裏手や他の位置からこの神社を眺めた記憶がありません。あまりの美しさに、いつも舞い上がってしまうからかも知れません。男神を祀っているので千木は外削ぎですが、鰹木は不思議なことに2本(偶数)。。。。。天石門別神社・正面(2007年)。。2007年に撮った写真を見て気が付いたのですが、この社殿は「本殿」ではなく覆い屋的なものかも知れません。社殿の中に祠のようなものが見えるからです。タイトルに「北摂で最も好きな神社」と書きましたが、本宮ではなく、大好きなのはこの奥宮のことです。。。。末社・皇大神宮御祭神 天照大御神手水舎:末社・手前から順に多賀神社、御祭神 伊射那岐命主原神社 、御祭神 天児屋根命・応神天皇天満宮、御祭神 菅原道真公事平神社 御祭神 大物主神・崇徳天皇・金山彦命。。。。末社・厳島神社御祭神 市杵島姫命。。皇太神社御祭神 天照大御神。。。他に事代主命・大国主命を祀る恵美須神社や愛宕神社 稲荷神社などがあります。奥宮の前で舞い上がってしまったせいか、ちゃんと全ての境内社の写真を撮りそこなってしまったようです。【参考】龍水御朱印帳・掲載寺社索引。
2023.06.03
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天神社 茨木市野々宮2-1-8。■御祭神 菅原道真公鳥居の扁額は「天満宮」となっています。神社庁には属さない神社ですが、地元の方々の信仰は篤いようです。。社号標は「乙神社」と読めそうですが、この「乙」っぽい文字は実は「天」を最も崩した文字なのだそうです。。拝 殿。およそ15年ぶりの参拝。一見なんの変哲もない小さな天満宮ですが、個人的に思い出深い神社。私は天満宮との相性がいいと思っていた時期がありました。娘や親戚の子、友人の御子息たちの受験のとき私が北野天満宮などに「代理参拝」をして、全て第一志望校に合格したのです。唯一、失敗したのは私自身の受験でした。。。私の「失敗」はずいぶん前のことではありますが。。。拝殿と本殿・覆い屋。。「小さな天満宮」と書きましたが、ご覧のようにそこそこの大きさ。本殿の大きさはわかりませんが、覆い屋は意外なほど大きく感じました。灯篭などは江戸時代のもののようでしたが、境内の木々を見ると古くから信仰の場だったことが感じられます。。。。鎮座地の「野々宮」という地名ですが、この神社ゆかりの地名かも知れません。他に周辺に神社が見当たらないからです。現在は「天神社」で、菅原道真公を祀る神社ですが、「野々宮」と言えば他に意味がありそうです。調べてみるとここは「難波三所野々宮」のようなのですが、その「難波三所野々宮」が何なのかよくわかりませんでした。やはり伊勢神宮の斎宮に関係があるようです。この地が斎宮が伊勢に行く前の禊場なのか、帰京の際の祓除の場なのかそれもよくわかりませんでした。意外な場所で伊勢神宮とのご縁を感じました。。。。。境内のクスノキなどは、茨木市の保存樹林に指定されています。また境内入口付近には、珍しい「乳」のあるイチョウもあります。15年前にはこれらは目に入っていませんでしたが。参拝時には「もう来ることもないかも」と思いましたが、「難波三所野々宮」については、もう少し調べてみようと思います。。
2023.06.01
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松下社(まつしたやしろ)三重県伊勢市二見町松下■御祭神 素盞鳴尊 菅原道真 不詳一座素盞鳴尊 菅原道真 という男神を祀っていますが、千木は内削ぎで鰹木は偶数。この地の伝承から、皇大神宮摂社の神前神社の旧地とする説があるそうです。千木と鰹木は内宮の摂社の名残でしょうか。この神社も伊勢神宮と同じく、20年毎に社殿の造替が行われます。。。。境内入口にも境内にも、狛犬がありません。これも伊勢神宮と同じです。境内のお隣に「民話の駅 蘇民」という、道の駅のような施設があります。そのため十分な駐車スペースがあり、参拝に便利。この「民話」とは、「牛頭天王(素戔嗚尊)と蘇民将来」の話。。。。。。伊勢市では1年中しめ縄を飾る風習がありますが、それは「蘇民将来」にちなんだものです。しめ縄には「蘇民将来子孫家門」と書かれてあり、裏には安倍晴明ゆかりの「セーマン・ドーマンの印」も描かれているそうです。蘇民将来のしめ縄は伊勢市内の神具屋さんにもあるそうですが、この松下社が本家本元と言えそうです。【参考】蘇民将来伝説(二見町)蘇民将来のしめ縄について。蘇民祠(通称・蘇民社)。境内に入ってすぐ左手にある、蘇民祠。社地はけっこう広いのですが、鎮座しているのは小さな祠。祀られているのは、蘇民将来です。。。。。蘇民祠。祠の下にある木の束は「榊巻(さかきまき)」と呼ばれるもの。本殿の床下など境内に全部で14カ所ある、榊の枝を束ねて重ねたもの。榊は毎年巻き重ねられていき、20年毎の社殿の建替え時に榊巻も新しくするそうです。榊巻神事は毎年12月31日に行われる、この松下社独特の神事。。拝 殿。前述のように境内には狛犬がなく、拝殿前の「狛犬の定位置」に榊巻が置かれていました。場所は夫婦岩で有名な二見興玉神社から約1km。境内には三重県指定の天然記念物、樹齢2千年とも言われる大クスがあります。。。
2023.05.26
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溝咋神社(みぞくいじんじゃ)大阪府茨木市五十鈴町。■御祭神 玉櫛媛命 (たまくしひめのみこと) 媛蹈鞴五十鈴媛命 (ひめたたらいすずひめのみこと) 相殿神 溝咋耳命 (みぞくいみみのみこと) 天日方奇日方命 (あめのひかたくしひかたのみこと) 他玉櫛媛命 は媛蹈鞴五十鈴媛命 の母、溝咋耳命は祖父、天日方奇日方命は兄。この一帯が本拠地だったとされる三嶋溝咋一族を祀る珍しい神社。鎮座地の「五十鈴町」という町名は、この神社の御祭神媛蹈鞴五十鈴媛命に由来すると思われます。。神 門媛蹈鞴五十鈴媛命は神武天皇の后となった「神の子」(古事記)丹塗りの矢に化けて、玉櫛媛命と結ばれた三輪山の大物主神が父親。一方、日本書紀(神代 上)では鰐に化けて玉櫛媛命のもとに通った事代主命が父親だと記されています。。初参拝は2005年か2006年。2011年までの間に3回ほど参拝し、今回は12年ぶりの参拝。以前は少し荒れた感じの境内が気になりました。宮司死去後、神事の継続が危ぶまれる時期もあったそうです。詳しい事情はわかりませんが、SNSなどで神社存続の危機を訴える投稿を何度か見たことがあります。。。。上の写真は2011年に撮ったもの。摂・末社の覆い屋がつっかい棒で補強されていました。さらに平成30年の大阪北部地震や、大型台風の被害を受け摂・末社の周辺は立入禁止にされるほど倒壊寸前になってしまったようです。。拝 殿神社の危機を訴えていたアカウントのフォローを辞めたのでその後の経緯はわかりませんが、現在は摂・末社の覆い屋は建替えられ氏子さんたちの努力によって、神事も維持されているそうです。。写真は覆い屋が建替えられた事代主神社(手前)と手力雄神社(奥)。少々近代的な感じがしますが、何年かたてばきっと境内の風景にとけ込むでしょう。。本 殿現在の社殿は1742年(寛保2年)、地元出身の両替商米屋喜兵衛の寄進によるものだとか。明治の終わり頃までは、上宮と下宮に分かれており現在の社は式内社の下宮で、上宮は合祀されたそうです。。溝咋神社・上宮跡 石碑溝咋神社の北北東、約300m。茨木市学園町のマンション街の一画に、上宮跡の石碑があります。上宮には媛蹈鞴五十鈴媛命・溝咋耳命・天日方奇日方命が祀られており下宮には玉櫛媛命が祀られていたと言われています。。境内にはちょっと目を引く木々がありました。他の木の根を鷲掴みにしているような木。末社に祀られている手力雄命が、岩屋戸から天照大神の手を引く場面を想像…。うーーん。なんか、ちょっと惜しい。「巾着の木」と呼ばれるタブノキも、なんか「惜しい」感じ。でも、想像力豊かな人がそれなりの演出をすればちょっとしたパワースポットに出来るかも知れません。巾着の木の向こうの家々は、2011年には見られなかったもの。故宮司宅は撤去されたそうですが、跡地、あるいは社地の一部などが宅地として売却されたのかも知れません。今後、境内が整備されていくことを期待します。。
2023.05.18
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度会大国玉比賣神社(豊受大神宮摂社)伊我理神社(豊受大神宮末社)度会大国玉比賣神社(わたらいおおくにたまひめじんじゃ)■御祭神 大国玉命(おおくにたまのみこと) 弥豆佐佐良比賣命(みずささらひめのみこと)伊我理神社(いがりじんじゃ)■御祭神 伊我利比女命(いがりひめのみこと)御同座 井中神社(いなかじんじゃ) 豊受大神宮末社鎮座地 伊勢市豊川町昨年9月に修繕を終えた度会大国玉比賣神社。そして2020年の9月に修繕を終えた伊我理神社。待ちに待った真新しい社殿の「揃い踏み」です。初参拝は2014年の8月でした。真夏だったということもあってか、この二社の森はまるでジャングル。そして両社の姿は古代遺跡のように思えました。ジャングルの中の古代遺跡。そういったイメージから言えば、真新しい社殿は似合わないかも知れません。でも実際は、全く違和感のない光景でした。.度会大国玉比賣神社から森の奥に進み、石段を上った所にある伊我理神社。域外の神社では、間違いなく超お薦めの神社です。外宮に近く、すぐそばを幹線道路が通っていますが森の中に1歩入ると別世界が広がっています。伊我理神社前から見下ろす度会大国玉比賣神社昔はこの辺りに外宮の御料田があったそうです。伊我理神社の御祭神はその御料田の井泉の神なのだそうです。また、獣の害を防ぐ意味の「猪狩り」がその名の由来とも言われているそうです。車で行かれる場合は、あまり目立たない入口なので注意が必要かも。Google Mapのストリートビューで、予め場所を確認しておく方がいいと思います。iPhoneなどで使えるMapのLook Aroundは伊勢市ではまだ対応していません(2023/5月現在)。度会大国玉比賣神社2019年の度会大国玉比賣神社・伊我理神社「伊勢のお気に入りスポット」龍水御朱印帳【参考】度会大国玉比賣神社・伊我理神社の入口「度会大国玉比賣神社・伊我理神社に駐車場はありません」KANSAI-SANPO.
2023.05.01
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大津神社(豊受大神宮末社)と仮殿■御祭神 葦原神(あしはらのかみ)この神社は外宮の域内にあり、北御門からの参拝となります。御祭神は五十鈴川河口の守護神だそうです。しかし外宮は宮川に近く、昔はその支流が域内を流れ外宮の東にある勢田川と繋がっていたようです。。。7。外宮・正宮前には池があり、表参道入口のせんぐう館の前には勾玉池があります。地図を見ればなんとなくわかりますが、それらはかつて川だったようです。昔の地震によって川が堰き止められて池になったと伝えられています。上の写真は外宮前にある池です。外宮前広場にには川原祓所(かわらのはらいしょ)があることからもこの池がかつては川であったことがわかります。外宮から1kmほど北にある池のほとりにある神社(豊受大神宮摂社)も川の前にあったことを想像させる河原淵神社という神社名です。外宮周辺は昔、宮川・勢田川・五十鈴川の支流が入組んだ地域だったのかも知れません。鳥居のある方の社殿は仮殿です。先にご紹介した川原神社とは違い、仮殿の方にしか鳥居がありません。したがって、参拝は仮殿の方ですることになります。御祭神が既に仮殿に遷されいて、社殿の修繕が近いということなのでしょう。せっかく隣に新御敷地があるのに、仮殿を建てて修繕するのはなぜかと思われるかも知れません。しかし写真をよく見ればわかるように、仮殿はあくまでも「仮のお社」なのです。千木や鰹木もなく棟持柱もないもので、しかも他の神社の仮殿としても使われるようです。つまり社殿の造替や修繕の際、言葉は悪いのですが「使いまわし」される社殿のようです。川原神社(2023年3月5日)大津神社へは外宮の北御門を入ってすぐ、御厩の手前から右手の森の中の径の先にあります。ほとんどの摂社・末社・所管社は20年で修繕が行われ、次の20年で造替(遷御)が斎行されます。つまり、大津神社のように新御敷地を持つ神社において仮殿と本殿が並立しているこの光景は40年に1度、数か月間だけ見られる貴重な姿ということにまります。参拝日は2023年3月5日。伊勢市在住の知人によれば、本殿の簀屋根(すやね)が外され修繕工事が終わったようです(2023年4月22日現在)。その知人のブログを見ると、本殿前には新しく鳥居も建てられているようです。リフレッシュした社殿への参拝が楽しみです。大津神社とは関係ないのですが、上の写真は北御門からすぐ左手にあるもの。私も伊勢市在住の知人もずっと特定できなかった「猿面石」です。ひょんなことから、やっと見つけました。地元では「猿面石」と呼ばれているそうですが、元々は「兜石」というそうです。この他にも今回、興味深い「石」をみつけました。内宮・外宮の域内には、ガイドブックには載っていない見どころがたくさんあります。近々、そういった伊勢神宮の隠れた見どころをご紹介したいと思います。 伊勢神宮の見どころ ~ 内宮編2015 ~ その1伊勢神宮の見どころ ~ 内宮編2015 ~ その2伊勢神宮の見どころ ~ 内宮編2015 ~ その3伊勢神宮の見どころ ~ 外宮編2015 ~ その1伊勢神宮の見どころ ~ 外宮編2015 ~ その2。【】
2023.04.30
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園相神社(そないじんじゃ) 皇大神宮摂社伊勢市津村町白木■御祭神 曽奈比比古命(そなひひこのみこと) 御前神(みまえのかみ)参拝日は2023年3月5日。125社巡りをした2014年以来、2回目の参拝です。祀られているのはこの地域の御園の守護神。第62回式年遷宮による社殿の修繕が斎行されたのは2015年5月。修繕から8年ほど経っているので、さすがに真新しさは感じませんでした。真新しさは感じませんでしたが、今回の参拝で気づいたのは社殿の大きさ。初参拝の時は125社巡りの序盤だったということもあって、とにかく「先を急いでいた」という感じの参拝だったかも知れません。今回の参拝(2023年3月5日)ではこの社殿は他の摂社・末社・所管社と比べてかなり大きいと感じました。しかし初参拝の時には全くそういう記憶がありません。2014年に125社巡りにチャレンジしたとき社殿の大きさの違いに気づいたのは、朝熊神社に参拝した時でした。今回この園相神社も朝熊神社と同じくらい大きいのではないかと感じました。初参拝の時に印象に残っていたのは、この参道。曲がりくねった参道に大木がいくつも生えて、参拝者の通行を妨げているかのよう。曲がりくねったり折れ曲がった参道は、125社では珍しくありません。園相神社の参道は狭いので特別な感じがしますが、参道に木が生えているのも実は珍しくありません。内宮の参道や瀧原宮の参道でも見られる光景なのです。【関連記事】園相神社・他社との比較とか。。。【関連記事】2014年の園相神社。
2023.04.27
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川原神社・皇大神宮摂社伊勢市佐八町(そうちちょう)■御祭神 月読尊御魂(つきよみのみことのみたま)車で神社に向かっているときには気づかないのですが、この神社はその名の通り宮川沿いの土地に鎮座しています。今回が2回目の参拝。前回は125社巡りをした2014年だったので、9年ぶりの参拝。今回も車(レンタカー)での参拝。伊勢市街方面から上の地図(Google Map)の青〇を左折しました。ただし川原神社への次の左折は小型車でなければ困難かも知れません。今回はトヨタ・ヤリスだったので曲がれましたが、運転に自信がない方は軽自動車以外は避けた方がいいかも知れません。川原神社付近から南へ約500m、上の地図の緑〇からの左折がおススメです。川原神社への道は狭く、生活道路と言うよりは農道。3ナンバー車だと通行は可能でも、川原神社でのUターンは困難かも知れません。Google Mapのストリートビューや航空写真で、前もって周辺を確認してから行って下さい。川原神社前でのUターンは、ヤリスでもけっこう手こずりました。隣に建てられているのは新社殿ではなく、仮殿です。今回は造替ではなく修繕なので、遷御ではなく元の敷地のまま。参拝日は2023年3月5日。この時点では「仮遷座」はまだ行われておらず、仮殿に間違って参拝しないようにロープが張られていました。この後、仮殿に御祭神が遷されて社殿の修繕が行われるのです。わざわざ仮殿を建てるのなら、造替(遷御)すればいいのでは?そう思われる方もいらっしゃるかも知れません。しかしこの仮殿はわざわざ建てたのではなく、他の神社でも利用されているもののようです。注意深く見ると、古い部材と新しい部材が混ざっていますね。棟持柱もなく、千木や鰹木もありません。【参考】2014年の川原神社修繕が終わったら、また参拝したいと思います。前回の記事と同じような写真ですが、ここも例によって「まっすぐでない参道」です。「怨霊を祀る神社の特徴だ」と言う人もいますが、伊勢神宮125社の場合は「不浄なものを入れない」ためのもの。私はそう思っています。ところで今回、この参道の途中に「謎の施設」がありました。川原神社の謎の施設???(アメブロ)。
2023.04.16
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饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)伊勢神宮・内宮の宇治橋前駐車場の裏手にある森の中にひっそりと佇む饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)が鎮座しています。饗土橋姫神社は宇治橋鎮守神(うじばしのまもりのかみ)を祀る神社。内宮・外宮の式年遷宮に先立つこと4年、この神社は宇治橋の架け替えと同時に造替が行われます。その饗土橋姫神社の左右の高台に、二つのお社が鎮座しています。 津長神社饗土橋姫神社の右手にあるのは、皇大神宮摂社・津長神社。御同座 新川神社(にいかわじんじゃ) 皇大神宮末社 石井神社(いわいじんじゃ) 皇大神宮末社第62回式年遷宮による修繕が執り行われたのは2016年6月。写真は2018年9月に参拝した時のものです。休日には常に満車状態の宇治橋前駐車場ですが、ここを訪れる人はほとんどいません。大水神社饗土橋姫神社の左手の高台にある大水神社。御同座 川相神社(かわあいじんじゃ) 皇大神宮末社 熊淵神社(くまぶちじんじゃ) 皇大神宮末社津長神社と同じく、2016年6月にお社が新しくなりました。【参考】2014年の津長神社と大水神社。
2022.10.30
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河原淵神社 豊受大神宮・摂社伊勢市船江1-10-140■御祭神 澤姫命(さわひめのみこと)祀られている神は水の神だそうです。「河原淵」という名称ですが、神社前にあるのは朧ヶ池(おぼろがいけ)という池。元々は宮川の支流の名残なのだとか。地図で見ると勢田川の近く。外宮前の池や勾玉池と同様、大昔の地震によって出来た池なのでしょうか。船江上社(ふなえかみのやしろ)という神社と同居するように鎮座。入口には「船江上社」と記された社号標があります。参拝は2018年10月1日。。。今回(第62回式年遷宮)行われたのは「修繕」でした。御還座は2018年3月15日だったそうです。御還座から半年余りのお姿なので、修繕だったことがよく分かります。棟持柱などは旧部材が使われているようです。。。社殿に木漏れ日が差し込み、見た目には神々しいのですがこのように明暗のコントラストが大きいと撮影には苦労します。伊勢神宮の神社には珍しいのですがここには以前、賽銭箱が置かれていました。※2014年の河原淵神社現在は撤去され、代わりに折敷が置かれていました。賽銭箱は破損してしまったのだそうです。。。上の写真は2014年の河原淵神社です。中央に賽銭箱が写っていますが、これだと鳥居の外から参拝する形だったのですね(記憶にありませんが)。。。
2022.09.16
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熊野大社出雲國一ノ宮島根県松江市八雲町熊野2451熊野大社公式HP■御祭神 神祖熊野大神櫛御気野命 (かぶろぎくまののおおかみくしみけぬのみこと)神社のホームページによるとこの御祭神は伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命(いざなぎのひまなこ かぶろぎくまのおおかみ くしみけぬのみこと)その意味はイザナギノミコトの尊い御子である神々の祖、熊野に坐す大神 櫛御気野命そして素戔嗚尊(スサノオノミコト)の別神名とのこと。参拝日は2021年11月6日で、3度目の参拝。初参拝は2008年、2度目は2016年でした。。。境内の前にある意宇川。いつもこの光景に見とれてしまいます。2008年5月の初参拝のあと、出雲へのイメージが大きく変わりました。出雲は神話の国であり、「出雲=大国主命」というイメージでしたが出雲は須佐之男命の国なのではないかと強く感じたのです。そして出雲は神々の里ではなく、「人」がつくった歴史があり所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)が治めた「国」があったのです。。。西谷墳墓群・西谷2号墓。西谷墳墓群に行き、四隅突出型墳丘墓の上に立ったとき大和王権にも勝るとも劣らない「王国」があったことを確信しました。西谷墳墓群の四隅突出型墳丘墓は、大和の前方後円墳よりも古いものもあるのです。そして熊野大社と意宇川の流れ。。。2008年の出雲で最も印象に残ったのが、この意宇川の光景でした。そのころ古事記と日本書紀の歴史しか知らなかった私はこの地がかつては出雲国の政治と祭祀の中心であったことや、熊野大社も出雲大社と並んで「出雲国一ノ宮」であることを知りませんでした。帰ってから参拝記録の記事を書くときにいろいろ調べてこの地の奥の深さや謎を目の当たりにしたのです。普通は前もってリサーチして行くものですが、私の場合はいつだって「事後調査」なのです。。。隋神門(2016年撮影・雨)。古事記神話の「国譲り」の印象が強すぎて大国主命が国譲りの際に高天原から与えられた住処が「出雲大社」そうイメージしている人は少なくないと思います。私も漠然とそう思っていました。しかしよくよく調べてみると、出雲大社の創建はそれほど古くはありません。。熊野大社・本殿(2016年撮影)。出雲国造家の記録によれば、杵築(出雲大社)に移ったのは霊亀2年(716)だと記されています。乱暴な言い方になりますが、まるで古事記の編纂(712)に合わせたみたいです。元々の国造家の本拠地、意宇・大庭では大国主命を祀っていた形跡がありません。意宇六社の御祭神にも、その名は見当たりません。古事記神話で国譲りの舞台となった「伊耶佐の小浜(稲佐の浜)」近くに8世紀になって大国主命を祀る神社が創建されて、国造家が移り住んだ。スケールの大きな「つじつま合わせ」のような気がしてなりませんが。。。【参照】龍水御朱印帳・裏ばなし 「出雲大社創建は8世紀頃???」。。。しかし3回目の参拝(2021年11月)で新たな疑問が生じました。それは意宇川の畔にあった案内板の内容です。この意宇川の川上五百メートル 御笠山の麓に熊野大社の「上の宮」跡があります。熊野大社は古代、意宇川の源流である熊野山(現在の天狗山)にありましたが、中世より里に下り「上の宮」「下の宮」(現在の当社)として近世末まで二社祭祀の形態をとりました。「上の宮」には紀伊國の熊野信仰の影響を受けて伊弉冉尊、事解男神、速玉男神等を祀る神社が、また「下の宮」には天照大神・須戔嗚尊等祀る神社が造営されておりました。明治時代に至り「上の宮」の神社は、政府による神社制度の改正を機に「下の宮」であった現在の熊野大社へ奉還合祀されました。「上の宮」跡背後の御笠山の頂上付近からは、熊野大社の元宮があった熊野山が拝され、遥拝所が設けられています。また登山道途中には、洗眼すると眼病に効き、あるいは産婦がこの水を服すると母乳が満ち足りるという御神水「明見水」が巨岩から滴り落ちています。 熊野大社意宇川の流れを眺めながら古の営みに思いを馳せていた私でしたが、どうやらこの辺りで祭祀が行われるようになったのは中世以降のことのようです。日本書紀・斉明天皇5年(659)の記述に「この年、出雲国造に命じて神の宮を修造させられた」とあるのは熊野大社の元宮のことなのでしょうか。。伊邪那美神社。本殿の向かって左にある伊邪那美神社。小ぶりながら大社造の社殿。御祭神は本殿・御祭神の母神、伊邪那美命(いざなみのみこと)その他、多くの神が合祀されているようです。。。稲田神社。本殿の向かって右にあるのは稲田神社。本殿・御祭神の后神、櫛名田比売命(くしなだひめのみこと)が祀られています。その他、近隣の神社に祀られていた多くの神が合祀されています。。鑚火殿。変わった造りのこの建物は「鑚火祭」が行われる鑚火殿(さんかでん)。この鑚火殿は大正時代に造られ、熊野大社公式HPによれば「現在の物は平成3年に奉新建されたものです」とあります。しかし最近修繕されたか、あるいは造替されたものと思われます。2008年(平成20年)に撮った写真と比べても違いは歴然ですし。。2008年(平成20)の鑚火殿「鑚火祭」については熊野大社公式サイトをご参照ください。。舞 殿。神楽や舞が奉納される舞殿。元々は拝殿として利用されていたものを昭和53年に舞殿として移築したものだそうです。さて毎度のことながら、今回の参拝も「宿題」が残りました。「上の宮(かみのみや)」跡を訪れていないからです。白状しますと、上の宮跡について書かれた案内板を読んだのはこの記事を書く準備をしているときでした。「御由緒」とか「案内板」は、現地では読まずに、スマホなどで写真を撮ります。で、帰ってから読む(読まないこともありますが)のです。15年以上も神社参拝記録のブログをやっていて、この適当さ。反省しております。【参照】龍水御朱印帳・裏ばなし 「意宇六社」。
2022.08.07
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比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)京都府京丹後市峰山町久次宮谷661■御祭神 豊受大神(とようけのおおかみ) 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと) 天児屋根命(あめのこやねのみこと) 天太玉命(あめのふとだまのみこと)社伝によれば「遠き神代の昔、此の真名井原の地にて、田畑を耕し、米・麦・豆等の五穀を作り、また、蚕を飼って衣食の糧となる技を始められた」とのこと。磯砂山(いさなごさん・峰山町)に天降った豊受大神がこの地で稲作などの農業を始めたと伝えられています。比沼麻奈為神社の近くには、初めて稲作が行われたとされる「月の輪田」(現在は古代米が作られている)や豊受大神が籾を浸したと伝わる井戸もあります。上の写真のように「元伊勢 豊受宮」とあるので、ネットの記事などでは宮津市にある籠神社奥宮の眞名井神社と同じ意味で「元伊勢」と混同して紹介されています。しかしここは「丹波国・吉佐宮」に比定される「元伊勢」ではありません。神社でも、ここは「元外宮」と称しているようです。籠神社奥宮・真名井神社元伊勢・丹後国一ノ宮 籠神社籠神社の眞名井神社と同じ「まない」という名の神社ですが、天照大神が巡幸した「元伊勢」ではなく、ここから豊受大神が伊勢に招かれたという「元外宮」という意味での「元伊勢」なのでしょう。伊勢神道の教典「倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)」に「丹波国与佐の小見比治の魚井原」から豊受大神が招かれたことが記されています。比沼麻奈為神社ではこれを「丹波国比沼の真名井原」と伝えています。「治」がいつしか「沼」に誤記されたという説もあるようですが、縁起の良い文字や発音にちなんだものとも言われているようです。天照大神が伊勢に鎮座されてから約500年後、豊受大神はこの比沼麻奈為神社の地から外宮に遷幸されたということ。豊受大神の遷幸に関しては、最初から目的地が決まっていたせいか内宮の「元伊勢」のようにいろんな場所を回った伝承はないようです。1か所だけ、意外な場所にそれはありましたが。※外宮の「元伊勢」「龍水御朱印帳・裏ばなし」~近所にもあった元伊勢。写真ではわからないかも知れませんが、拝殿・本殿はかなり大きくて18mmのレンズに収まりませんでした。上の写真はiPhoneで撮影したものです。。。本殿は神明造。豊受大神は女神ですが、千木は外削ぎ。これはおそらく、伊勢の外宮に倣ったものと思われます。伊勢神宮では男の神とか女神の違いではなく、内宮に属する神社(別宮・摂社・末社・所管社)の千木は全て内削ぎで外宮に属するそれらは全て外削ぎになっています。。。本殿の横にあるのは「五神名地神塔(ごしんめいじじんとう)」と呼ばれる石塔。地神信仰は五穀豊穣祈願や収穫への感謝を捧げる民間信仰。「農業祖神 天照太神??」と「倉稲魂??」くらいしか読み取れませんでしたが「天照大神、大己貴神、少彦名神、埴安姫神、倉稲魂神」の五神名が刻まれていると思われます。。。参拝日は2022年7月24日。京都北部の山間の地とは言え、うだるような暑さ。それでも境内は凛とした静謐さでした。境内は隅々まで掃き清められ、まるで枯山水のような場所も随所に見られました。。。上の写真は拝殿前から社務所方向を見下ろしたもの。たまたま写っていたからよかったのですが、境内にはいくつか立砂があったようです。こんなに大きなものもあったのに見落としていました。猛暑のせいだと思います…。。。あとで写真でよく見ると鳥居から社務所に続く参道にも小さな立砂が並んでいるようです。境内脇を流れる小川や元は井戸だったという崖にある穴など見落としたものがほかにもたくさんあったようです。この日はご神職はお留守だったようですが、ネットで紹介されていたものを見ると素晴らしい御朱印がいただけるようです。今回はとりあえずご挨拶のみ。近いうちにまた再訪したい神社です。龍水御朱印帳・裏ばなし「私が丹後に行ったわけ」。
2022.07.31
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志等美神社 / 大河内神社 伊勢市辻久留1-13向かって左が志等美神社(しとみじんじゃ)、右が大河内神社(おおこうちじんじゃ)。同じ玉垣内に二社が鎮座している形。打懸神社(うちかけじんじゃ)はこの二社のすぐ右隣りに鎮座。三社ともこの地域の産土神社、上社(かみのやしろ)の境内にある。■■■志等美神社 豊受大神宮摂社第62回神宮式年遷宮による御造替は2015年9月15日。新社殿の工事期間中の御神体は、隣の打懸神社に大河内神社御神体と共に仮遷座されていたそうです。御祭神は近くを流れる宮川の堤防の守護神、久久能智神(くくのちのかみ)。■■■大河内神社 豊受大神宮摂社志等美神社と同日に御造替。御祭神は大山祗神(おおやまづみのかみ)。一般的には山の神と言われますが、こちらも宮川の堤防の神とのこと。「堤(つつみ)」の神という解釈なのでしょうか。TOPの写真では「二社」がわかりにくですが、上の写真のようにひとつの玉垣内に二社あります。手前が大河内神社。打懸神社■■■打懸神社 豊受大神宮摂社御祭神は打懸名神(うちかけみょうじん)。こちらも堤防の守護神と言われています。志等美神社 / 大河内神社の遷御と同時にそのどちらかを仮殿とし、2015年10月5日に御造替を終えたそうです。志等美神社 / 大河内神社 / 打懸神社の三社は※神階を有しているそうです。鎌倉時代末期の神道書「類聚神祇本源(るいじゅうじんぎほんげん)」に大治3年(1128年)に志等美・大河内・打懸三社の神階が「正五位から従四位に昇級した」という記録があるそうです。伊勢神宮125社で神階を有しているのは、この三社だけです。戦国時代以降、三社は荒廃。江戸時代になって復興されたそうですが、元々の鎮座地は不明だったため高倉山を仮の鎮座地としていたようです。「旧鎮座地」とされる現在地に社殿が遷されたのは明治になってから。上社の境内に三社があるのは、こうした事情があったからのようです。※神階とは上の写真は手前が打懸神社、その奥が志等美神社 と大河内神社。さらにその奥には上社があります。参拝は2017年4月17日。上 社【参考】2014年の志等美神社 / 大河内神社 / 打懸神社.
2022.06.26
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草奈伎神社(くさなぎじんじゃ) 豊受大神宮摂社伊勢市常盤1丁目5■御祭神 御剣仗神(みしるしのつるぎのかみ)豊受大神宮(外宮)の摂社の第一位の社格。皇大神宮第一摂社・朝熊神社と同様に、各祭典とも必ず神職が参向して奉仕されるそうです。ただしこの草奈伎神社の社殿は、朝熊神社ほど大きくはありません。直接に比べられるわけではないのですが、朝熊神社は明らかに他の神社とは大きさが違うと感じました。➡朝熊神社・朝熊御前神社(2019)。今回は「造替」ではなく、「修繕」でした。棟持ち柱や瑞垣の扉など、旧部材が使われているようです。還座は2016年10月6日。すぐ隣にある大間国生神社に仮遷座して、修繕工事が行われたようです。御祭神が「剣」で社号が「草奈伎」とは。日本武尊の草薙の剣と関係があるのかは、諸説あるようです。。大間国生神社(おおまくなりじんじゃ) 豊受大神宮摂社■御祭神 大若子命(おおわかこのみこと) 乙若子命(おとわかこのみこと)上の写真ではよくわかりませんが、社殿は2つあります。右が大若子命を祀る大間社、左が乙若子命を祀る国生社。これらの神は兄弟で、渡会氏の祖と言われています。。この角度から見ると、二社が並んでいるのがわかります。大間国生神社も今回は修繕。参拝した時は「修繕」のことを意識していなかったので社殿の部材についてはチェックしていませんでした。草奈伎神社と同じく、瑞垣の扉は旧社殿の部材のようです。御還座は2016年12月1日。草奈伎神社の御還座と同時に草奈伎神社に仮遷座が斎行され修繕工事が行われたそうです。。。草奈伎神社・大間国生神社の境内への入口はひとつ。鳥居はなく、正面に石の蕃塀があります。2014年の初参拝の時は、これは何かの神事に使われる「台」だと思っていました。蕃塀の用途・目的は不明で、社殿を直視出来ないようにするものあるいは不浄のものの侵入を防ぐものとも考えられているようです。。。参拝日は実は2017年4月7日。社殿に真新しさが見られるのはそのためです。。
2022.03.27
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.こういう社叢の光景が大好きです。周辺は広大な田園地帯。ここに行くには、車1台分の幅しかない農道を利用します。遠くから見ても、この社叢は伊勢神宮のものだとわかります。.。このように、森の外周が壁のように刈り込まれているからです。この壁のような刈り込みが伊勢神宮125社の特徴のひとつなのです。2014年に125社巡りをした時、これに気づくまで神社を見つけるのに苦労しました。当時は多くの神社(伊勢神宮125社)はナビはもちろん、地図にも掲載されていなかったのです。掲載されていても、神社名が間違っているものもありました。現在(2022/3)ではかなり改善されています。。朽羅神社(くちらじんじゃ) 皇大神宮摂社三重県度会郡玉城町原字森前272■御祭神 千依比賣命(ちよりひめのみこと) 千依比古命(ちよりひこのみこと)御祭神はこの辺りの農耕の神なのだそうです。今回の式年遷宮では造替ではなく、修繕が行われました。。。従って社殿も「遷座」ではなく、元の場所に御鎮座されています。※2014年の朽羅神社(御還座前)御還座は2016年6月7日。今回の参拝は2021年8月29日。5年も経っていると、さすがに真新しさは感じられませんね。➡【参考】「龍水御朱印帳・裏ばなし」最近参拝した伊勢神宮125社の神社について。
2022.03.23
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清野井庭神社(きよのいばじんじゃ) 豊受大神宮摂社伊勢市常盤1丁目8■御祭神 草野姫命(かやのひめのみこと)今回の参拝日は2021年8月30日。御遷座は2017年10月11日。北側に「清之井公園」という児童公園に隣接。。。造替から4年経っているので、真新しいという雰囲気ではありません。年に1度か2度の訪問なので、造替や修繕を終えた神社への参拝が追いつきません。年齢と日々の疲れからか125社巡りをした時のような気力・体力がないせいかも。。。コロナ禍のこともありますし、次はいつ伊勢に行けることやら。次回は頑張って、造替や修繕の終わった神社の晴れ姿を出来るだけ多く写真に残したいと思います。とは言え、この清野井庭神社。少々事情があって、サクサクっとiPhoneで撮影。【参考】2014年の清野井庭神社。
2022.03.20
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棒原神社(すぎはらじんじゃ) 皇大神宮摂社三重県度会郡玉城町上田辺字朝久田1466■御祭神 天須婆留女命御魂(あめのすばるめのみことのみたま) 御前神(みまえのかみ)私が利用している資料では、鎮座地は上記住所なのですがネットの地図では検索出来ませんでした。「上田辺」は「かみたぬい」と読みます。場所はJR参宮線・外城田駅の東、約500m。私にとってこの棒原神社は、125社の中でも特に印象深い神社です。風景がどうとか佇まいがどうとかではなく、その御祭神に並々ならぬ関心を持っていたからです。御祭神に関心があったからと言って、実際に参拝して何か新しいことを発見できたわけではありませんが。しかし何となく親近感を覚える神様なのです。天須婆留女命御魂(あめのすばるめのみことのみたま)という神様はおうし座にある「昴(すばる)」、つまりプレアデス星団のことだと思います。そう、あの「さらば~すばる よぉ~」の昴。星に由来する御祭神が珍しいということもありますが、それよりも「スバル」であることが注目していた最大の理由です。インターネットを初めて体験して以来、ずっと私はpleiades(後に短縮してple・プレ)と名乗ってきたのです。「龍水」というHNは、神社ブログ専用のものです。この御祭神は星の出具合いによって農耕を占うと伝えられている神だそうです。おうし座はオリオン座の上(北)にある星座なので、冬の星座です。収穫が終わったあとに「農耕を占う」のも解せないと思っていたのですが星座早見盤で調べてみると、プレアデスが東の空に見え始めるのが6月上旬の早朝。ちょうど梅雨に入る時期にあたります。ちなみに同じおうし座にあるヒアデス星団は、ギリシャでは「雨降りヒアデス」と呼ばれ雨季の到来を告げる星とされているそうです。しかし元天文少年としては、やはり見え始めの時期よりも「見え方」に注目したいと思います。自動車メーカーの「SUBARU」のマーク。これは上の画像のように6つの星です。この昴=プレアデス星団は、普通の人なら肉眼で5~7個くらいの星が見えます。空の状態や視力によっては20個くらい見えるとも言われています。見える個数や形、色などで占ったのかも知れません。今回の「式年遷宮」では、大修繕が行われました。したがって御敷地は従来のままで、棟持柱なども旧部材が再利用されています。125社巡りを始めた頃は、造替と修繕の違いを知らずこういうことにも全く気づきませんでした。この「違い」については、「裏ばなし」の方でご紹介する予定です。鎮座地は地元で「杉の森」と呼ばれている丘の上。付近は古墳地帯なのだそうですが、それらしいものには気づきませんでした。御敷地が変わっていない点など、2014年に参拝した時の記事をご参照ください。(過去記事のコピペがバレバレになってしまいますが。。。)棒原神社2014
2022.03.11
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物部神社(もののべじんじゃ)石見国一ノ宮島根県大田市川合町川合1545物部神社公式ホームページ■御祭神 宇摩志麻遅命(うましまじのみこと) 相殿神 右座 饒速日命(にぎはやひのみこと) 布都霊神(ふつのみたまのかみ) 左座 天御中主大神 天照大神 客座 五神主祭神の宇摩志麻遅命は、いわゆる天孫降臨の邇邇芸命(ににぎのみこと)とは別に大和に降臨したとされる饒速日命の御子神で物部氏の祖。御祭神で注目は「客座 五神」の存在です。物部神社公式ホームページによれば、「詳細は不明なれど別天津神か」とのこと。(2022年2月現在・その後のHPでは「別天津神」と明記されている)別天津神(ことあまつかみ)とは、古事記の神話で最初に登場する神々です。なぜ注目かと言えば、「客座五神」は出雲大社の本殿にも祀られているからです。出雲大社は大国主命の怨霊を封じるための神社で、別天神はその監視役だという説をよく見かけます。しかし物部神社にもあるということは、「監視役」とは言えない気がします。。。なぜかずっと憧れていた神社のひとつでした。しかし、なぜこの地に「物部神社」なのか。しかも石見国一ノ宮。大和の石上神宮、越後国一ノ宮の弥彦神社とともに宮中と同じように「鎮魂祭」が行われる神社として有名なのだそうです。それらはいずれも物部氏ゆかりの神社です。。本殿は島根県では出雲大社に次ぐ大きさで、春日造の社殿では日本一大きなものだとか。なぜこれほど立派な神社がここにあり、なぜ「物部神社」なのか。神社の御由緒では次のように伝えられています。神武天皇即位後、宇摩志麻遅命は美濃、越国を平定し、石見国に入って死去した。なるほど、そういうことか。と、言いたいところですが、そうは行きません。日本書紀や古事記にそういう記述はありませんし、そうだとしてもこの地が物部氏の拠点となった理由が不明です。。。社殿裏手から「御神墓」へと通じる登り口。今回はそこまでは行けませんでしたが、宇摩志麻遅命の墓と伝わる円墳があるそうです。社殿が創建されるまでは、この「御神墓」のある八百山を神体山として崇めていたそうです。社伝によれば、宇摩志麻遅命は鶴に乗り鶴降山に降りられ国見をして、八百山が大和の天香具山ににていることから、この八百山の麓に宮居を築かれました。とのこと。神武天皇の勅命により、この地を平定したとも伝えられる宇摩志麻遅命。しかし、この地に降臨した神のような伝承も混在しています。。考えられるのは出雲国との関係。出雲に関しては、古事記に神話として記されているだけですが大和に勝るとも劣らない王国があったことは確かだと想像します。大和に前方後円墳が造られる前の時代のものとされる四隅突出型墳丘墓。そして弥生時代中・後期のものとされる加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡。それらが出雲王国の存在を証明しています。記紀に出雲王国の存在は記されていませんが、気になる記述はあります。垂仁天皇紀に、物部十千根に詔して出雲の神宝の検分させた記述。妄想の域を出ませんが、出雲に西から睨みを効かす存在として石見国に物部の拠点が築かれたのかも知れません。。神社境内については、別記事にしたいと思います。。
2022.02.27
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。田上大水神社(たのえおおみずじんじゃ)田上大水御前神社(たのえおおみずみまえじんじゃ)豊受大神宮摂社 第5位 第6位伊勢市藤里町字大丸679。◆田上大水神社社殿は南向き御祭神は渡会神主四門の祖、小事神主(おごとかんぬし)。鎮座する小さな丘は古墳とのこと。渡会氏の墓かどうかは不明。◆田上大水御前神社「御前神社」というのは、伊勢神宮独特のものだと思います。多くの場合、その御祭神は「御前神」なのですが田上大水御前神社の御祭神は「宮子(みやこ)」という神で斎王に奉仕したとされる小事神主の娘。この神社は田上大水神社の玉垣内に、東向きに鎮座しています。参拝日は2021年8月30日。御還座は2021年3月11日で、今回は修繕で造替は20年後ということになります。摂社・末社、所管社については20年で修繕、次の20年で造替となります。つまり40年毎の造替です。そのことを知ったのは最近のことです。式年遷宮では全て新しく建て替えられると思っていたので、これまでの記事では「造替」か「修繕」かの区別が出来ていませんでした。「遷御」とか「造替」と書いていたかも知れません。過去記事については順次、訂正していきます。上の写真で分かると思いますが、玉垣は新しく造り替えられていますが社殿は棟持柱などは古い部材がそのまま使われています。修繕工事の期間は仮殿に御遷座されます。2020年11日29日の田上大水神社。仮殿に遷座し、修繕工事を待っている状態だったようです。2014年の初参拝時には確か、ナビにはここは掲載されておらずスマホの地図を頼りに南側の道から行きました。2020年の参拝ではナビに掲載されており、その指示で北側の住宅街からのアプローチ。神社裏手には数台分の駐車スペースがありました。私の資料には上記住所で載っていたのですが、地図では確認出来ませんでした。神社の位置や駐車スペースなどについては、「裏ばなし」の方でご紹介します。⇒修繕と造替~田上大水神社 「龍水御朱印帳・裏ばなし」(しばらくお待ちください)。
2022.02.24
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天御中主命神社(アメノミナカヌシノミコトジンジャ)滋賀県近江八幡市大字中之庄612■御祭神 天御中主神(アメノミナカヌシノカミ) 天御中主命という神様をご存じでしょうか。 古事記の冒頭に登場して、すぐに姿を消す神です。 天の中心という意味から、北極星や北斗七星信仰の象徴とされる場合もあるようです。 古事記神話で最初に現れる神なので、高天原の最高司令神とも言われるようですが、 全く神話での事績がないので「高天原の最長老」と言った方がいいのかも知れません。。拝 殿妙見社とか水天宮系の神社に馴染みのある方以外には あまりメジャーな神さまとは言えなかった天御中主命。 しかしここ最近、けっこう注目されるようになりました。 それはおそらく、斎藤一人さんの影響かと思われます。 「アメノミナカヌシ様お助けいただきましてありがとうございます」 奇跡が起きる言霊、幸運を呼ぶマントラとして Youtubeの動画などで配信されて多くの人に知られるようになりました。 どういったものか上手く説明できないので、 興味のある方は、 Youtubeで「ひとり アメノミナカヌシ」などと入力して検索してみてください。 斎藤一人さんの講演や関連動画が数えきれないくらい出てきます。 ところでこの天御中主命ですが、 単独で祀られている神社はそれほど多くはありません。 滋賀県近江八幡市にあるこの写真の神社も あまり大きな神社でもなく、有名な神社でもありません。 しかしひとりさんの影響なのか、有名人の参拝があったとかなかったとか。 近くの長命寺の付近には「奥宮」と言われる磐坐もあるようです。 本 殿駐車場が見当たらなかったため、神社前のバス停に駐車。時刻表を確認すると、30分くらいはバスが来るまで時間があったからです。しかし拝殿前に数台が止められる駐車場がありました。TOP画像の鳥居をくぐることが出来る車なら、駐車可能です。わざわざ出かけるほどの神社ではないと思われるかも知れませんが、斎藤一人さんの動画を見たあとならば、行きたくなる神社かも知れません。参拝すれば日常のちょっとした変化を感じるかも。上の写真は、拝殿前の駐車スペースです。写真では分かりにくいと思いますが、けっこう左右に開けた場所になっています。「わざわざ出かけるほどの…」と先ほど書きましたが、ついでと言っちゃなんですが家族連れ、デート、あるいはスイーツ好きの方ならお勧めのスポットが近くにあります。そちらについては「裏ばなし」の方でご紹介させていただきます。⇒ 「龍水御朱印帳・裏ばなし」 アメノミナカヌシ様お助けいただきましてありがとうございます 近江八幡のおすすめスポット.
2022.02.18
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須我神社・本宮から約2km。八雲山の中腹にある須我神社・奥宮は、大小3つの巨石が並ぶ磐坐です。2008年の初参拝のときは、ここの存在を知りませんでした。須我神社に参拝後、参拝記録のブログを書く際に神社のことをいろいろ調べていて知ったというわけです。「順序が逆やろ」とよく言われます。しかし私の場合よくあること・・・と言うか今でも変わらない「悪癖」なのです。そして2016年の出雲の旅では、時間の関係で参拝を断念。13年ぶりに、念願かなっての参拝となりました。。。。写真で見たイメージでは、子供の背丈ほどかと思っていた夫婦岩。。しかし実際は想像の数倍はある巨大な磐坐でした。この3つの磐は須我神社・本宮の御祭神と同様にそれぞれ須佐之男命、稲田比売命、清之湯山主三名狭漏彦八島野命として祀られています。本宮からは車で5分ほど。狭い山道を上りますが、それほど神経を使う道ではありません。。。。奥宮を紹介している写真やサイトを見て、勝手に想像していたことがもう一つあります。奥宮の磐坐のすぐ前まで車で行けると、勝手に思い込んでいました。しかし実際は奥宮の駐車場から磐坐までは、400mという表示が。そしてその入り口にある「杖」を見て、嫌な予感がしました。奥宮へは400mほどの山道を登らなければいけません。覚悟を決めて登ったわけですが、これはリサーチ不足が「吉」と出た結果です。駐車場から400mもあることと、この先の山道を事前に知っていたら今回も何らかの理由をつけて須我神社を目的地から外していたかも知れません。。。。中間地点にある禊場。ここには「神泉坂根水」というお清めの湧き水があります。「中間地点」との表示がありましたが、実際はこの先の方が長く険しい道だと思いました。この辺りですれ違ったご夫婦も「この先の方が長くてキツイ」と、おっしゃっていましたし。しかしさすがの私でも、ここまで来て引き返すわけにはいきません。。「神泉坂根水」は不老長寿の御利益があるのだとか。このお水をいただけば、山道なんぞ何のそのなのです。。。。険しい山道と言うよりは、神聖で心が清められるような参道だと感じました。最近ひしひしと体力の衰えを感じていますが、1歩ずつ足を前に出していれば「いつかは必ずたどり着く」と自分に言い聞かせ上を見ないようにして登りました。。。。本宮の授与所で祈念札をいただき、奥宮に収めるというのがここの参拝方法のようです。相も変わらずリサーチ不足のわたくしは、「手ぶら」で奥宮に参拝してしまいました。反省しています。。。。。。
2021.12.30
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須我神社(すがじんじゃ)島根県雲南市大東町須賀260須我神社公式HP■御祭神 須佐之男命(すさのおのみこと) 稲田比売命(いなだひめのみこと) 清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)稲田比売命は須佐之男命の妻。清之湯山主三名狭漏彦八島野命は須佐之男命と稲田比売命の御子。。。。 神話によれば、ヤマタノオロチを退治した須佐之男命は救った稲田比売命を妻にしました。そして住む場所を探し、この地へやって来たと伝えられています。須佐之男命は「ここに来て、気持ちがやっとすがすがしくなった」と言ったのでこの地が「須賀(須我)」と名付けられたのだとか(古事記)。この須賀の宮が初めての宮殿だとされ、その宮がそのまま神社になったというこの須我神社は「日本初之宮」と称しています。。。。須佐之男命は、この須賀宮を建てたときこの地に雲がわき上がるのを見て歌を詠んだとされています。八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を(多くの雲がわき立ち垣根のようだ ここに妻をめとる 雲の垣根の宮に)これが日本最古の歌とされ、須賀の地は「和歌発祥の地」とも言われています。この歌が「出雲」という地名の元とも言われ、この雲は空の雲とも、この地方の製鉄の煙とも言われています。。。。本殿は出雲大社などと同じく、「大社造」です。昔は出雲と言えば大国主命というイメージを持っていましたが、こういう神社を回ると出雲は須佐之男命の国なのかなぁとあらためて思うのです。。。。神門や拝殿にある太いしめ縄も出雲ならではのもの。ちなみにTOP画像の鳥居は一の鳥居ではありません。一の鳥居は県道24号線からの参道入口付近にあります。石造りの鳥居としては、山陰最大の鳥居だそうです。しかし今回は見落としました。ここは2度目の参拝ですが、実に13年ぶり。前回は全く下調べもせず、ナビを頼りに訪問したため駐車場所を探すのに苦労した覚えがあります。HPによれば参拝者専用駐車場もありますし、神社のすぐ前にある公園も整備され、駐車スペースと清潔なトイレも出来ていました。荒神社若宮神社御仮殿境内を丁寧に回ったつもりでしたが、後で調べてみるといくつか見落としがあったようです。一の鳥居同様、下調べをしていないので前回と同じような失敗をしていたようです。境内社の神社名や御祭神なども、HPを見れば載っているだろうと軽く考えていましたが、公式HPには境内図や境内社に関する記載はありませんでした。それならばと、いつも記事の参考にさせていただいている玄松子さまや神奈備さまのサイトに行ってみましたが意外にもお二方ともに須我神社には参拝されていないようでした。何のための再訪かって話ですが、今回の目的はこの磐坐参拝。前回は参拝出来なかった奥宮に参拝することでした。奥宮については別記事に掲載しようと思います。※HPによれば須我神社は参拝時間に制限があるようなので早朝参拝等を予定されている方は、あらかじめご確認ください。
2021.12.26
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.久しぶりの更新なのに、ちょっとふざけた感じのタイトルとこの画像。タイトルにもこの画像にも興味のない方もいらっしゃると思います。このありえないアングルの画像に「ピン」と来たあなたはNHK朝の連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」を見てる方ですね。「カムカムエヴリバディ」の物語のスタートは岡山市の中心部。岡山城や岡山駅に近い「朝丘商店街」その商店街にある「ちいせぇ」和菓子屋の娘の安子が物語最初のヒロインです。その安子や登場人物がしばしば訪れる神社、朝丘神社。商店街も神社も物語上の架空のものです。「カムカムエヴリバディ」の神社参拝の場面で印象的だったのがTOP画像とこの背の高い鳥居です。形状的にはごく普通の明神鳥居だと思いますが、足(柱)の長いのが特徴的だと思います。.こちらが「朝丘神社」の社殿。実は岡山の神社ではなく、ロケ地は滋賀県東近江市に鎮座する大城神社。それほど広くはない境内ですが、神社マニアをもうならせる立派な神社だと思います。滋賀県の神社には注目していたつもりですが、この神社のことは全く知りませんでした。本 殿大城神社(おおぎじんじゃ)滋賀県東近江市五個荘金堂町66■御祭神 高皇産霊神(たかみむすびのかみ) 菅原道真公菅原道真公を祀る神社ということで、神紋は「梅鉢」です。「カムカムエヴリバディ」で神社の拝殿や本殿の正面があまり映らないのはこの「梅鉢」が敬遠されたからかも知れません。学業の神様への参拝は、ストーリー上そぐわない感じですから。一般的にはほとんど知られていない神社だと思いますが社殿、鳥居はもちろんのこと神社境内を囲む石垣には驚かされました。さすがは近江商人ゆかりの地の神社だと思いました。神社周辺に駐車スペースはありますが、専用駐車場はありません観光地ではないので、ご近所の氏子さんのご迷惑にならぬようマナーを守った参拝をお願い致します。御朱印は鳥居前のお宅で準備されているようですが御朱印帳への押印や授与品については現在のところ「無い」と思ってください。ここには書けない龍水のホンネ「龍水御朱印帳・裏ばなし」「カムカムエヴリバディ神社」.
2021.12.05
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磯神社伊勢市磯町1069 ■御祭神 正殿一座 天照坐皇大御神 相殿二座 豊受毘賣大神 木花佐久夜毘賣神「元伊勢」と呼ばれる神社に興味を持ってどれくらいになるだろう。過去の記事を見てみると、「元伊勢」という言葉の初見は2007年。京都府宮津市にある籠神社の記事のようです。その後2008年3月に「元伊勢と呼ばれる神社に興味がある」と書いた記事がありました。今まで参拝した「元伊勢」を数えてみると20社ほどになります。伊勢市磯町に鎮座する磯神社。「倭姫命世紀」に記された「伊蘇宮/磯宮」の比定神社ですが、異論もあるようです。神社の御由緒によれば、旧跡は洪水で崩壊したため現在地に遷ったとのこと。もともとは「八王子社」と称していたが、明治になって「磯神社」に改称したようです。社殿は石垣で囲まれています。こういう光景は珍しいような気がします。また、境内はつつじが美しいことで有名なのだそうです。地図を見ると、隣接して「つつじ公園」もあるようです。見慣れると何でもないのですが、本殿の屋根は赤。神明造のようですが、この屋根の色には一瞬驚きました。元伊勢で伊勢市内にある神社ですが、125社の一社ではありません。2006年から毎年 伊勢を回っています。特に2014年の125社巡り後は、小さな神社にも参拝しています。ここのことは前々から気になっていましたがこの磯神社への参拝がなかなか実現しなかったのには理由があります。神社参拝やブログ投稿時に昔からお世話になっているサイト玄松子さんの「玄松子の記憶」そこの記事に磯神社について、次のような記述があったのです。「周囲の道路が狭く、車を止めるのに苦労した」で、参拝を敬遠していたのです。今回は時間が余っていたこともあって、ダメ元覚悟で行くだけ行ってみようと思ったのでした。確かに周辺の道は「道路」と言うよりは「路地」に近く小型車でも不安になるような場所にありました。しかし最近できたのかも知れませんが駐車場が2か所ありました。それと同サイトには「狭い路地に面していて、鳥居も正面から撮影できない」とも書かれていました。しかし、この通り!!(ちょっと優越感)この鳥居の前は、車1台がやっとの細い道。私が玄松子さんよりスゴイわけではなく、iPhoneのおかげです。実は私のデジイチの18mmのレンズでも撮影できませんでした。間もなくiPhone13が発売されるようですが、私はiPhone11proを使っています。レンズが3つあるiPhoneは、こういう芸当をいとも簡単にやってのけます。今回の記事では、デジイチの画像はTOPと本殿のみです。.
2021.09.19
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裳掛天満宮(もかけてんまんぐう)岡山市東区金岡東町2-11-22■御祭神 菅原道真公境内のご由緒書きより昌泰4年(901年)1月菅原道真公九州大宰府に左遷の途次 犬島付近にて暴風雨に遇いこの地の観音堂に難を避けるその後 観音堂は寶琳寺となり菅原道真公神社を鎮守として祀りあり後岡山藩主池田光政の代寛文年間 藩命により分離独立せしむ菅原道真公避難の際衣装を境内の松に掛け乾かしたるに因り裳掛天満宮と称す.本 殿。宮司が常駐していないどころか、社務所さえない境内。少なくとも50年前からこういう状態でした。私は子供の頃、この近くに住んでいました。氏神さまではなかったようですが、自宅から最も近い神社でした。小学校の同級生たちと、この境内で缶蹴りやボール遊びをしました。みんな「天神さん」と呼んでいました。社殿は当時のままなのだろうと思います。しかし境内の雰囲気は、あの頃とは全く違います。..現在の境内にある2本の木。ちゃんと確認はしていないのですが、おそらく手前は松でもう1本は楠と思われます。松は「御由緒」にちなんだものかも知れません。。。こちらは2006年に撮った写真。幹の太さから同じ木とは思えませんが、この木は楠のようです。間違っていたらすみません。私はずっと、この木は欅(ケヤキ)だと思っていました。この木はかつてここにあった大木の子孫だと聞いていたからです。この神社と隣の寶琳寺山門の間には、かつて大木がそびえ立っていました。天神さんお境内は常にその大木の「木陰」で夏には数えきれないセミの声が、早朝から数百メートルさきにまで響き渡っていました。最近になって知ったことですが、郷土史の資料によれば、かつてここにあった大木は榎(エノキ)で樹齢は400年、高さはおよそ20メートル。昭和の末期に枯れたと記されていました。父からはあの大木は雷の被害を受けた後枯れたと聞いていました。高さ20メートルがどのくらいの大木なのか想像できますでしょうか。だいたい7階建てのビルの高さに相当するようです。私が子供のころ(今でも周辺はあまり変わっていませんが)、2階建てより高い建物はありませんでしたので、その大木の存在は御神木と言うよりは、その地の主のような存在でした。。。境内社は見たことのない造り。人の手入れがないことを想定して、耐久性を考えたものでしょうか。一部にコンクリートが使用されているようでした。。。あの大木がないせいでしょうか。境内を見ても、境内に立っても全く懐かしさが感じられませんでした。。「龍水御朱印帳・裏ばなし」かつてあった大木が欅だったと思ったワケ(Comming Soon).
2021.04.08
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天皇神社滋賀県大津市和邇中146■御祭神 素戔嗚尊「天皇」とありますが、歴代の天皇を祀っているわけではなく素戔嗚尊=牛頭天王の「天王」のことだと思います。古くは和邇牛頭天王社、小野天王社とも呼ばれていたそうです。このブログの「小野神社」でもご紹介しましたが、延喜式神名帳に掲載された「小野神社二社 名神大」この天皇神社をその一社とする説もあるようです。しかし神社の案内板によれば、天皇神社の創始は966年。だとすれば延喜式神名帳が編纂された927年よりも後のこと。式内社とするには疑問が残ります。。本 殿。本殿は先にご紹介した小野篁神社・小野道風神社と同じく切妻造。切妻造の本殿は滋賀県内にはこの三社のみ。現在この天皇神社は小野神社とは関係がないようですが、前述のようにかつては「小野天王社」と呼ばれていたように関連性がうかがえます。母屋に向拝をつけた本殿が3棟ある形式は全国的にも珍しいそうです。。樹下神社(御祭神・鴨玉依媛命)。三宮神社(御祭神・鴨玉依媛命荒御魂)(向かって左)松尾神社(御祭神・大山咋神荒御魂)。若宮神社(御祭神・大山咋神)。滋賀県の神社では当たり前すぎて忘れていましたが、この天皇神社本殿、小野篁神社、小野道風神社は重要文化財の指定を受けています。参拝日は2020年8月16日。駐車場らしきスペースはありましたが、扉が閉められていました。周辺に駐車場はありませんので、ご注意を。。
2021.03.29
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