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やっと春の陽気が到来し、リハビリでは大汗をかくほどです。自宅前の公園の桜が一気に花開きました。とはいえ、満開とはいかず7分咲き程度でしょうか。梅もいいけど、桜は日本人の心を揺さぶるようです。
2017年04月06日
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久しぶりの「袋田の滝」。観光協会の作戦なのか、滝の近くには公共の無料駐車場はなくて、滝に近い所の有料駐車場か、自店で買い物や飲食をしてくれる車を無料で駐車させてくれるのを利用するかです。私たちは買い物の予定があったので無料サービスを利用します。 滝までの道は、きれいに整備されていて、滝の手前はトンネルとエレベータも完備、券売機あたりは急坂で、観瀑台の最上階には階段がありますが、車椅子でも滝見を楽しめる観光スポット。脚の弱い人には車椅子を無料で貸してくれます。障害者手帳を提示すれば、付き添い1名を含め利用料が免除される、身障者に優しい観光地なのです。 例年なら、1月から2月には滝の凍結が始まり、気温の低い年には完全凍結することもあります。以前来たときには、完全凍結した滝でアイスクライミングを楽しむ若者たちがいました。今年は凍結することがほとんどなく、たまたまこの日は3~4割くらい凍結していて、まずまずラッキー! 写真ではあまり分かりませんが…凍結3~4割の袋田の滝。さすがの大スケール車を止めた土産店で、山椒のすりこ木と蕗味噌を買って、帰路に付きます。途中、常陸牛のステーキを食べ、日帰り温泉に立ち寄る予定です。 が、国道を南下していると、「奥久慈のしゃも」というノボリや看板があちらにもこちらにも見えます。そういえば、茨城は古くから、しゃもの飼育が盛んで、全国特種鶏(地鶏)味の品評会で1位になったこともあるとのこと。中でも奥久慈のしゃも丼は絶品といいます。 雑木林に挟まれた国道に突然「奥久慈しゃも丼」「十割そば」のノボリがズラリ。見れば、ネットで口コミ評価の高いログハウス民宿「ログテラス鰐ヶ渕」です。 「しゃも丼」食べよ! ここはけっこう評判ええとこやネン」「アイドルタイムじゃないの?」と心配する母ちゃん。たしかにもう14時半です。車をUターンさせてログハウスへ。まだ数組のお客さんがいました。「まだ大丈夫ですか?」「いらっしゃいませ、どうぞどうぞ」早速、しゃも丼と十割蕎麦を注文しました。 久慈しゃも(生産組合HPから)しゃもは、漢字では「軍鶏」と表記されるニワトリ。江戸時代の初期にシャム(今のタイ)から輸入され、主に闘鶏用として飼育されてきました。しかし、闘鶏賭博が禁止されてからは飼育が下火になりますが、優れた食味のために食用として日本独自の改良が続けられ、昭和16年には「日本に特有な畜養動物」として国の天然記念物に指定されるまでになっています。天然記念物とはいえ、飼育や食肉消費は認められており、東京都、茨城県、千葉県、青森県、秋田県、高知県などで、活発に飼育されています。同じニワトリでも、養鶏場の棚の中で大量に生産されるブロイラーは「水っぽい、弾力がない」と酷評されますが、しゃも肉は全く違います。身がしまり、脂肪分が少なく、歯ごたえがあって滋味に富んでいます。奥久慈しゃも生産組合によると、「寒暖の差が大きい自然の中で、穀物や青菜などを食べ、じっくりと育てられた奥久慈のしゃもは肉も卵もおいしい」とのこと。 優しい人柄を感じさせるオーナーが一点一点調理する丼、お蕎麦。供されるまでに多少時間はかかりましたが、見た目にも美味しそう。しゃも肉がフンワリと卵でとじられている上に、いかにも新鮮で濃厚なそうな卵黄がのせられ…いただきま~す。蕎麦は常陸秋蕎麦。先の「慈久庵」よりかなり太く、噛みごたえがあって、蕎麦の香りが口中に広がります。程よい歯ごたえと滋味のあるしゃも肉がふんだんに入った逸品 奥久慈しゃもを堪能し、次の立ち寄り先は? とりあえず東京方面に向かって車を走らせます。道路沿いに「道の駅・常陸大宮~かわプラザ~」そして「舟納豆」の看板が現れ、立ち寄ることに。まずは「舟納豆」。 25歳で上京するまで、「納豆」と言えば甘納豆しか知らず、初めて納豆なるモノを口に入れたときには、戻しそうになりながら涙目で呑み込んだ私は、未だに納豆が食べられません。そんな私が納豆専門店に行くというのは相当な覚悟が必要です。母ちゃんによるとかなり有名な納豆店だそうで、デーブ大久保が長嶋監督に差し上げたときに絶賛されたと言います。「舟納豆」といろんな商品。写真を撮る勇気がなくHPから拝借試食コーナーも充実していて全製品が並んでおり、店員さんが愛想良く勧めてくれますが、「食べられないのでスミマセン」と、店外に逃げ出す体たらく。そんな私を気にもせず、母ちゃんは大量の納豆を買い込んでご満悦でした。 続いて、道の駅「常陸大宮~かわプラザ~」へ。昨年3月にオープンしたばかりで、親水公園も併設されています。野菜、蕎麦、肉から和紙、木工品など茨城県の名産品が所狭しと並んでいます。ここでもイチゴや自然薯などごっそりと買い込んで母ちゃんは大喜び。 成り行きまかせの小旅行は、残すところ日帰り温泉と常陸牛ディナー。 「どうする?」「しゃも肉がまだ胃に残っているし、時間も遅くなっているし…」「ほんなら帰ろ」 ということで、茨城ドライブはおしまいです。ひと月がかりの日記、申し訳ありませんでした。
2017年03月12日
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「慈久庵」の近くに、奥久慈県立自然公園の竜神峡があり、長さ357メートルの竜神大吊橋が架けられています。歩行者専用の橋としては本州一の長さですが、それよりも高さ100メートルのバンジージャンプが若者たちの人気を集めています。もちろん日本一の落差。 昔だったら、私もすぐに申し込んだと思います。飛んだり跳ねたり、回ったり落下したり…が、とにかく好きなので…。残念ながら、いまは高血圧・脳梗塞・心筋症――どうにもなりません。 バンジージャンプ用のハーネスを装着した青年たちが橋の中央へ歩いていきます。10分くらいも待ったでしょうか、一人が飛びました。なかなかの迫力です。 遅れてやってきた母ちゃんに「ここからはバッチリ見えるから、ちょっと待っとこ」と声をかけて、スタンバイ。私は望遠で2人目を撮ろうとカメラを構えます。風が強くて待機なのか、怖くて手間取っているのか、なかなか飛びません。 「あっ、人が見えた、もう飛ぶと思うで。行け~!」「あれっ、飛べへんがな。人が見えてるからこの次や! 行け~!!」「ありゃ、またアカンがな…」巨大なゲート。橋の通行は有料です。左は見事なバンジージャンプカメラを構えたままずっと待ちましたが、飛び出す気配はなく…手が寒風でしびれてきました。「飛ぶんやったら、さっさと飛んでんか。他にも行くとこあるネンから、いつまでも待ってられへんで~」と、理屈にもならない理屈をこねて待ちましたが、ついに、こちらの辛抱が切れてしまいました。「何で飛べへんのかなぁ、ええ加減にしてほしいわ」捨て台詞を吐いて、母ちゃんに叱られたのでありました。ちなみに、料金には大ビックリ! 通常期は1回16000円、閑散期のいまは15000円。支出のほうも勇気が必要です。 茨城といえば、干し芋! 干し芋には一家言もつ母ちゃんが「干し芋 製造販売」のノボリを見つけ、あたふたと売店へ。5、6袋買って戻ってきました。ところが、そのノボリの下に、長テーブルを出し露天を広げているおじさん発見。先ほどまで駐車場の車が視界を遮っていたのです。上は、甘くて粘りが強い人気の「紅はるか」。下はおじさんの干し芋 近ごろ人気急上昇の「紅はるか」は色鮮やかな芸術的干し芋。蜜のように甘く歯に絡みつくほど粘りがあります。こちらは見た目も冴えない昔風の仕上がり。試食をした母ちゃんが「これはおいしい!」と絶賛しました。確かに程よい硬さで、噛むほどに口中に甘みが広がります。おじさん自身の製造販売です。「これは、火鉢であぶったら最高やね」と私、おじさんもちょっと自慢げ。すっかり気に入った母ちゃんが「会社で配る」と言いだして、なんと36袋もまとめ買い。おじさんもビックリ、私もビックリ(支払いは私の財布からです)。これこそ「バンジーから飛び降りたつもりで買っちゃった!」です。 何となく気持ちが暖かくなって、「袋田の滝」方面へ出発しました。
2017年02月26日
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母ちゃんの会社は毎年2月~4月が繁忙期で土曜出勤です。今年は、建国記念日の3連休はお休みになりました。ゴルフに行くと言っていた母ちゃんが、前々日に急な発熱に襲われてゴルフを断念しましたが、翌10日には熱も下がり、元気に出勤、バリバリと仕事をこなしました。その逞しさ、その根性には感心させられます。そして、私のスマホにLINEのメッセージが…。なぜか茨城県北部の常陸太田市まで蕎麦を食べに行きたいとのこと。11日に日帰りツアーを「計画」しました。行程イメージは、蕎麦~袋田の滝~日帰り温泉~常陸牛ディナー。蕎麦だけは「慈久庵」という店に決めて、あとは成り行き任せ。ミニ旅行とは言え、わが家にとっては滅多にない行動パターンです。不思議なたたずまいの「慈久庵」当日の第一目標は「常陸秋蕎麦」。めざす店は茨城県北部・奥久慈の里にある「慈久庵(じきゅうあん)」。店主の小川さんは“孤高の名人”と呼ばれています。焼き畑農法で自ら蕎麦を栽培し、蕎麦の管理から調理、接客に至るまで一人でこなしています。収穫された玄蕎麦を冷温貯蔵して、年間通じて香り豊かな蕎麦を提供するこだわりよう。営業日は金曜、土曜、日曜、月曜日。営業時間は11時30分から14時30分まで(蕎麦がなくなれば時間前でも終了)。店内は4~5人がけのテーブルが5卓、つまり6番目のお客さんからは待合席で待機するわけで、少し出遅れると2時間待ちは当たり前、4時間待ったというコメントもありました。口コミを信じて、とにかく一番で入店すべく常磐道をひた走り。家から店まで135キロあります。ところが、ナビが誤作動したのか、「目的地付近です」と示されたのは山の中。車を降りて見回しても民家はありません。ナビは更に500メートルくらい山中を指しています。改めて、携帯で場所を特定し、ナビ上でその場所を指定して再スタート。2キロほどズレた場所でした。それでも、「慈久庵」には開店1時間以上も前に一番乗り。茅葺屋根に洋風の建物。それなのに、違和感が全くない和モダンに惹かれます。見事な継ぎ手の天井。席から調理場を臨む定時の20分前くらいに「どうぞ」の声がかかりました。無愛想な店主が、「スリッパに履き替えて、手前の席から座ってください」とボソリ。外で待っていた5組が入店し、それぞれの席へ。一巡目は17名です。店主は一人ですから、案内が終われば注文を取り、急いで調理場へ移動して、順番に作っていくのですが、メニューは多くないとは言え、5組17人がバラバラに頼むのですから、結構分散します。葱天せいろ大盛=2250円、鴨せいろ大盛=2350円。この価格でも納得私は、葱の天ぷら付きせいろ。母ちゃんは鴨せいろ。2番目の2人組の青年が頼んだコース物で手間取るのか、出てくるまでに40分くらいかかりました。葱天は、地場産の長葱を短冊状に切ってカラッと揚げてあり、それにオーストラリア産岩塩を振りかけて食します。「うまい! 箸が止まらん」蕎麦は、名人がこだわり抜いた逸品。ほのかな香りと透き通るような十割蕎麦。喉越しもすっきり。鴨汁は母ちゃんの担当で「これまで食べた鴨汁の中で一番おいしい」と。値段は高くて量が少なく、待ち時間も長い「慈久庵」ですが、名は空しくは伝わりません。素晴らしい蕎麦をいただきました。飾り気のない、どちらかというと雑な盛り付け。でも味は抜群お勘定のとき、母ちゃんが「とてもおいしかったです」と声をかけると、「ありがとうございました」と答えてくれた小川店主の笑顔が、とても素敵でした。私たちは、どこの蕎麦屋さんでも一気に食べてパッと立ちます。この日も10分少々で立ちましたが、待合席には既に5、6組が待っていて、外のベンチにもお客さんが座っていました。今日は、何時間くらい待つんでしょう。
2017年02月22日
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さかのぼっての日記です。「年末年始は毎年調子が悪い」と先に書きましたが、昨年末から新年にかけて「日替わり湯治」と言えるような、温泉めぐりをさせてもらいました。年末の3連休(天皇誕生日)には、秋田の田沢湖温泉と乳頭温泉。羽田と自宅の往復は母ちゃんの兄貴が運転。秋田空港から温泉へもレンタカーは使わないでホテルの送迎バスを利用しました。私は、飛行機の中も含めひたすら居眠り。普段の睡眠不足を取り返せと脳が命じたみたいです。山麓荘の雪見露天風呂田沢湖といえば、韓流ドラマ「アイリス」のロケ地で、湖畔にたたずむ辰子像が有名な湖ですが、レンタカーではないので今回は何の観光もせず、温泉に入っては眠り、食事が済めばテレビを見る間もなく、眠った3日間でした。田沢湖温泉郷の「プラザホテル山麓荘」に連泊して雪見露天と大浴場を満喫、ホテル自慢の「酵素風呂」にも挑戦しました。温泉があるのに酵素風呂を持っているのは、日本中でこのホテルだけらしいです。しかも格安!これまで砂風呂には何度か入りましたが全く違う入浴方法です。砂風呂は浴衣を着たままですが、こちらは素っ裸。コップ一杯の水を飲んだあと、30センチくらい掘り下げられたおがくずの床にゴロンと横になります。その上からスコップで分厚くおがくずがかけられスタート。段々と体が温まり、汗が流れ始めます。山麓荘の酵素風呂(ホテルHPより)「いきなり動くと低温やけどします」という注意が繰り返し告げられます。腕を動かすと、おがくずに隙間ができ、酸素が流れ込んで、おがくずに混ぜられた酵素の反応が活発になるんではないかと思います。試しに腕を動かしてみると、その部分が一気に熱くなりました。動かないで15分くらいも横になっていると汗が全身から噴出してきます。口うるさいけど、すごく親切な風呂番のおじさんが、額の汗を冷えたタオルで拭いてくれたり、冷水を飲ませてくれたり。出るときには、じわじわと腕を動かし、おじさんのOKで体を起こします。そして、そのまま数分間のクールダウンで呼吸を整え、最後はシャワーを浴び、冷水をいただいてすっきり。ああ、気持ちよかった!乳頭温泉・鶴の湯。建物は有形文化財「本陣」2日目は、乳頭温泉郷の「鶴の湯」。秋田藩主の湯治場だった名湯で、300年以上の歴史を持っています。「山麓荘」のバスに送迎してもらって日帰り入浴へGO!。4つの源泉による白湯、黒湯など男女別の内湯、女性専用露天風呂、そして大きな混浴露天風呂。この混浴露天風呂は、通路から丸見え。でも女性には一応配慮されていて、男女別の脱衣所から腰をかがめて露天まで来られるアプローチがあります。ご本人の好き好きですが、立ち上がらなくても温泉を楽しめるのです。入浴中の移動でも、男女とも長座の格好のまま。私も立ち上がって歩いていく度胸は無く…。そんな仕掛けまでして「混浴」を維持する意味があるのかな、と思います。鶴の湯・混浴大露天風呂(乳頭温泉郷HPより)江戸時代に日本にやってきた外人たちは、「混浴」や「宿場の飯盛り女」の習慣などを見て、日本人の性に対する大らかさに驚き、「日本人は好色な民族だ」と評した、と司馬遼太郎の作品に書いてあったような記憶が…。私たちの入っていた時間帯で、入浴していた女性は、お婆ちゃん・お母さん・熟女で、若い女性たちは脱衣場に向かう通路から露天風呂を見て逡巡してしまい、結局入らない人が多かったような気がします。うちの母ちゃんも兄貴の奥さんもノーサンキューだったようです。今回泊まった「山麓荘」は、料金が安い割には、秋田の名産を使った食事、秋田竿灯のモニュメントの前で開かれた民謡イベント、空港だけではなく乳頭温泉まで送迎してくれるサービス。従業員の素朴な親切…。GOOD!でしたよ。ただ、鶴が翼を広げたような建物配置には閉口しました。先が見えないほど長い長い廊下とフロア移動は、年寄りには酷ですね。山麓荘ロビーで民謡ショー今年の正月は久しぶりに佐久の友人宅で過ごすことにし、近くの日帰り温泉へ。まず、北八ヶ岳連峰の東、松原湖近くにある「八峰の湯」。「ヤッホーのゆ」と読みます。同じ敷地内にパターゴルフ場や美術館、オートキャンプ場があり、少し手前にはワカサギ釣りで有名な松原湖、本式のゴルフコースなど、レジャー施設が充実しています。ヤッホーの湯は標高約1270mにあり、露天風呂だけではなく内湯からも南と北の八ヶ岳連峰を一望できるロケーション。源泉かけ流しの「炭酸水素塩泉」にたっぷりつかった後は、吹き渡る高原の風がさわやかです。入浴後、休憩室で手打ち信州そばをいただきました。私たちもそうですが、お正月だというのに日帰り温泉にわざわざ来る人が意外と多いのに驚きました。八峰の湯露天風呂。南八ヶ岳連峰を一望できる(長野県観光機構HPより)2日目は、友人宅から一番近くて、一番新しい日帰り温泉「みはらしの湯」。上信越自動車道「佐久平PA」と直結したハイウェイ・オアシス「パラダ」。高速道路から直接行ける国内唯一のスキー場として有名です。スキーゲレンデは平尾山の南と北に数本あり、頂上付近を除いてほとんどが中・初級コース。頂上までリフトで行けば両ゲレンデを利用できます。この辺りは長野でも雪の少ない地域なのでほぼすべて人工雪。日当たりの悪い北パラダは午後になるとガリガリのアイスバーンになり、高速道路側の南パラダは日当たりが良すぎてベタベタになりますが、簡単に行けてコースも易しいので家族連れでにぎわっています。それに、レストランや昆虫館などもあり、1年中楽しめます。佐久平を眼下に。平尾温泉「みはらしの湯」(温泉HPより)温泉は年末にオープンしたばかり。施設もピカピカ、受付のお嬢さんたちもCAみたいな制服が初々しい。こちらは、佐久平を一望し、更に遠くには八ヶ岳、北アルプスの山々が峰を連ねています。お風呂は、内湯には「白湯」「炭酸泉」「替わり湯」「水風呂」「サウナ」、露天風呂には「岩風呂」「天然温泉」「壷湯」など、バリエーションに富んだ浴槽がズラリ。「替わり湯」は季節や催しに応じた風呂が楽しめ、元旦から一週間は新年の縁起を担いで「松竹梅の湯」でした。ああ、めでたいめでたい!なお、場所柄ほぼ撮影禁止なので、各HPから拝借した写真が多いです
2017年02月06日
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母ちゃんが、結構いい加減に育てている紅梅の盆栽、というより「ただの鉢植え」ですが、見事に花を咲かせました。つぼみが膨らみ始めてからは玄関の中に置いてあります。外気温より5℃くらい暖かいだけなのに、頑張ってくれました。松尾芭蕉の弟子・服部嵐雪の俳句「梅一輪 一輪ほどの 暖かさ」が頭に浮かびます。でも、現在日本列島は大寒波に覆われ、寒い日が続いています。天気予報によると、週末は関東地方も雪が降るとのこと。豪雪や風邪にはくれぐれもご用心を。
2017年01月18日
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この数年、年末から年始にかけて体調不良に陥ります。一年間の疲れというより、脳梗塞を発症したのが1月8日なので、その日が近づくと意識の底に刷り込まれている「怖さ」がいろいろな症状となって、表れるのではないかと思っています。微熱と咳など風邪の症状に加え、不整脈と息苦しさが発生してしまうのです。単なる「なまけ病」かもしれませんが…本日、大相撲初場所のお誘いを受け、やっと2017年スタートができました。本年もよろしくお願いします。満員御礼の両国・国技館横綱・白鵬の土俵入り人気力士同士の熱戦。左が遠藤、右は勢
2017年01月10日
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予告を投稿してから、だいぶ経ちました。体とカメラの不調で、リハビリもブログ更新も進捗せず、今日に至りました。越年紅葉というのもさえないので、いささか荒っぽいですがパパッと更新します。写真は、携帯のものも含め載せていきますが、あまり掲載できません。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大阪生まれの大阪育ちと、東京生まれの東京育ちが夫婦にとって、京都観光は微妙な感覚の差が出ます。 私は、25歳で上京(昔風に言うと江戸下向)して、今年で45年目を迎えますから、もう十分に「関東人」なのですが、それでも京都・大阪に行くとなると、地元意識が頭を持ち上げ、マニアックな観光ポイントを選んだり、薀蓄を傾けたがったり。一方、母ちゃんは「上方」には全く縁が無く大きくなってきましたから、京都の**へ行きたい、大阪の○○を見たいと無邪気に計画を膨らませます。とは言え、「母ちゃん大好き」で頭の上がらない私は、妥協に妥協を重ね、母ちゃんの希望通りの観光スポットを、無駄なく無理なく回る方法を考える役に徹します。まぁこれは、京都・大阪に限らず、北海道であろうと四国であろうと同じことなんですが…。今回ばかりは「なんかしんどい」の続き物に絡め取られている私は、ほとんど役に立たず、母ちゃんがほとんどの計画と費用を算出してくれました。ネタ晴らしをしてしまえば、初日以外は貸切タクシーと定期観光バスだから、簡単なんですけどね。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さて、今回の旅行はレンタカーを使わない京都観光。1日目は「電車で嵐山を散策する」。12月1日、東京駅6時発の「のぞみ1号」は定刻の8時8分に京都着。何はさておき腹ごしらえ。新幹線駅構内の喫茶店で軽い朝食。在来線連絡口で荷物をロッカーに預け、予定通り9時3分発の山陰本線嵯峨野線に乗車。9時20分「嵯峨嵐山」に到着しました。大人気の「トロッコ嵯峨駅」を並んでいて、観光客で溢れているはずの駅前も、平日のこの時間のせいでしょうか、ガラガラ。駅前タクシーの運転手さんたちも暇そうにお喋りしています。まずは「大覚寺」です。ここでいきなり母ちゃんの日和見が出ました。「タクシー乗ろうよ」「なんで? 歩いても1キロ半ないで」「脚への負担が少しでも軽くなるでしょ」口は重宝だと思いつつ、「優しいな、ええよ」と、タクシーへ。ワンメーターの大して儲かりもしない客にも、嫌な顔をせず送り届けてくれました。想定外に早く大覚寺に到着して、最初は大沢池。時代劇でもっとも利用されているロケ地のひとつです。池のほとりの社で待ち伏せする場面、茶店で旅人を見送るシーン、池に屋形船を浮かべ花見に興じる場面…池のほとりの多宝塔と紅葉。池に映える紅葉は少なく、多宝塔にかかる紅葉も枯れはじめています。でも、京都恐るべし。輝く紅葉はそこかしこに。「今年は(紅葉が)早かったんだね」「そうやね~。次行こか」と大覚寺をあとにして、嵯峨野の裏道を歩き始めました。表通りはバスとタクシーの排気ガスで大変です。約1キロで、徳川五代将軍の生母「桂昌院」ゆかりの寺、清涼寺(嵯峨釈迦堂)。向かいにあるのは、本日のメインスポット・宝筐院(ほうきょういん)。臨済宗の小さなお寺で、北朝を支えた足利氏の第2代将軍・義詮と、仇敵である南朝の忠臣・楠木正行がともに眠ります。京都へ来るたび必ず訪れるこの寺は、燃えるようなカエデとドウダンツツジが私たちを覆います。例年の「鳥肌が立つような」紅葉と違って、明らかに最盛期は過ぎたようですが、散紅葉の見事さは私たちから言葉を奪います。宝筐院の紅葉を堪能して、清涼寺総門をまっすぐ南下。嵐山のメインストリートに向かいます。この道路もやたら狭く、しかも両通。バス・タクシー・商用車・マイカーそれに人力車が道路にあふれ、ごちゃごちゃ。加えて、京都というところは、どこへ行っても、クラクションをやたらと鳴らすので、うるさくて敵いません。ちなみに、天竜寺脇の人気スポット・竹林の細い道も、嵯峨野の散策路も車両通行OKなのです。「せめて、マイカー規制すればいいのにね」という母ちゃんの意見は全くそのとおりです。バス通りを避けて、竹林の道を経由して、桂側沿いへ。平日のせいか、川に浮かぶ屋形船も保津川下りの船も少ない気がします。普段の食習慣が違う私たち夫婦は、ここで小さな諍い。 昼休みが12時スタートの母ちゃんVS昼休みを取る場合でも15時前後の私、つまり、すきっ腹の母ちゃんVSそんなにお腹が空いていない私という構図です。まあ、何はともあれ、嵐山の山並みと川と渡月橋を望むレストランで昼休みということに。 食後は、名刹・天竜寺が「散紅葉」ということなのでパスして、その塔頭(たっちゅう)・宝厳院(ほうごんいん)へ。「見頃過ぎ」の情報ですが、期待できそう。ここも前回、あまりの見事さに絶句した紅葉です。にぎやかな中国人観光客に囲まれながら受付を通過して、「ありゃ」。覆いかぶさるような紅葉の豪華さがなく、枝は少々スカスカしています。苔の上を覆う散紅葉もチリチリと枯れ始めていて残念。それでも中国からのお客さんは大喜びで自撮り棒を駆使して記念撮影に余念がありません。14時。このままホテルに向かうのも早すぎるようなので、駅にポスターが出ていた鹿王院(ろくおういん)へ。「見頃」と表示されています。この寺は私も初訪問です。京福電鉄嵐山線(通称:嵐電)に乗って嵐山駅から2駅。住宅地の中を抜けると、ちんまりした総門が出迎えてくれます。本堂に向かう長い参道の左右には、いい感じの紅葉が枝を広げていますが、奥行きが感じられずちょっと残念。こちらも散り透いた枝や変色した紅葉が目につきます。山陰線「嵯峨嵐山」駅に戻り、第一日の長い移動を終えたのでした。
2016年12月23日
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2年ぶりに京都へ行ってきました。今年は紅葉が早いと報じられていたので、間に合わない可能性もあったのですが、半年も前にJRとか予約を入れるので変更もできず、12月1日から。今年の特徴は、レンタカーを使わずに移動すること。1日目は電車で嵐山へ。ぶらぶら散策です。2日目は、贅沢なことに貸し切りタクシーを利用。3日目は定期観光バス利用で宇治方面へ。次回から詳細を書いていきます。宝筐院
2016年12月09日
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68年ぶりのスーパームーン、期待していましたが、昨日は夕方から本降り。一日で急にいなくなるわけはないので、本日に期待。夕方になっても厚い雲に覆われていました。先ほど、未明の空にスーパー十六夜月が皓々と輝き、星たちもきらめいていたので、愛用のコンデジを取り出して20倍くらいの拡大で撮影しました。
2016年11月16日
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久しぶりの日記更新です。誕生日を記念して函館へ。とは言え、本人はまったく分かっていないのですが、とにかく函館。1年前には、息子夫婦の長女が1歳を迎えたーーという理由で函館へ。今回は、息子夫婦の長男が1歳の誕生日を迎えたので函館へ。固定できず手持ちで撮った函館の夜景。ブレていても絶景だいずれも、ご当人はまったく分かっておらず、活イカもカニもウニも、おいしいものは親とジジババが食べて、本人たちは離乳食。函館山からの夜景も、五稜郭も、大沼や駒ケ岳も、親とジジババの目の保養。本当に、こんなことでいいのかと思いつつ、今年も函館旅行が企画され実行されました。函館の郊外、大沼から見る駒ヶ岳。最終盤の紅葉も素晴らしいまあ、赤ん坊には申し訳ないけれど、行けばやっぱり楽しいわけで、また、来年も行くことになりそうです。
2016年11月08日
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長野のダンナ(プロのトラック運転手)のこと、記憶にある方もおられると思います。今回のブログは、ダンナの活躍とそのカミさんとその友人夫婦のお話。 私ら夫婦はおまけというか、ズルいというか・・・ 信州は晴天率が高いことで有名で、野辺山や臼田には大規模な天文台があります。 ところが、今年の8月、9月は天の底が抜けたのかというくらいの雨量。 ダンナの実家に近い北相木村では、1~6月の合計雨量が234ミリ。それに対して8月367ミリ、9月264ミリという異常数値。9月は17日間も雨が降りました。相木に近い野辺山の日照時間は9月の30日間で僅かに82時間。東京でも14日間雨が降り日照は79時間しかありませんでした。 ダンナが採ってきてくれた松茸。思わず「エーッ」と おかげで、この数年シルバーウィークは信州佐久で過ごす私たちのスケジュールもズタズタ。千曲川での釣行は激しい濁流のため中止。下仁田でのゴルフも中止しました。 シルバーウィーク恒例の松茸狩りは、私の足では入山できない状態なので断念し、大河ドラマ「真田丸」で有名な真田氏発祥の地に近い「菅平グリーンゴルフ場」でプレーすることに。 「今年は松茸断念か!!」 でも! 長野の夫婦は友だち甲斐のある、頼もしい人たちです。 カミさんのほうは、民宿を営む友人夫婦に(持ち山で)松茸を採ってくれるよう頼んでくれたのです。 友人のご主人が採った松茸。とんでもない量だった そして、ダンナのほうは「俺が山に行ってみるよ」と、申し出てくれました。 テレビで紹介される観光松茸園は、歩きやすく整備され、道の脇に松茸が顔をのぞかせていることが多いですが、ダンナの松茸山は様子が違います。 まず、入り口が分かりにくい。赤松の林まで道がなく、しかもかなり距離がある。松から松を結ぶ踏み跡はあるが、登山道ではないので、キノコを探して俯いてばかりいると道がなくなる… 「少し手入れしろよ」と、私は無責任に言うけれど、それぞれ仕事を持っているダンナとカミさんが簡単にできるわけはなく、時たま山に入ると荒れが目立ちます。 民宿のご夫妻の山は、ご主人が定期的に見回り、手入れしているとのこと。 私ら夫婦が標高1600メートルの菅平で雲上のゴルフを楽しんでいる間に、2人のダンナたちはそれぞれ、長雨と豪雨で相当ダメージを受けた山と格闘してくれていたのです。 前回同行した時のダンナの勇姿。急坂を走るように登る ゴルフから戻った私たちの目の前に現れたのは、とんでもない量の松茸。いやらしいですが、相場価格に換算すると10万円くらいでしょうか、びっくりです。 これだけ収穫するのにどれくらい時間とパワーを要したのでしょうか。玄関に脱いである長地下足袋の汚れ方がそのことを物語っています。 道なき急斜面を、泥と汗にまみれ、松茸を探しながら登り続ける姿を想像して、厚意に甘えすぎている自分たちを深く反省した次第です。 松茸を入れる木箱。これに2~3本入って1万円くらいかな? 人任せにしていた私たちは、あまりの申し訳なさに「お金払うよ」と申し出ましたが、「いいからいいから」と受け取ってもらえませんでした。おまけに、発送用の木箱とシダの葉っぱまで用意してくれた、心憎いダンナではありました。そのようにダンナを動かしているのは、どこの家でも母ちゃんたちであることは間違いありませんが… 今でこそ、家族ぐるみの深い付き合いですが、元は母ちゃん同士が大学の同窓という関係。沼津や伊那の家族も同様で、30年以上の友情関係がつながっています。 ありがたいことです。
2016年10月09日
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シーズンの最終盤を迎えなんとか男鹿川で釣りをしたいと、母ちゃんに駄々をこね、台風13号の余波が残る栃木県の北部まで行きました。9月8日の夜、栃木県全域には2日続けての大雨洪水警報が出ていましたが、行くしかないので東北道をひた走り。埼玉県羽生市あたりで「バケツをひっくり返した」の形容がぴったりの豪雨に、数分間遭遇します。が、この夜の大雨洪水警報ははずれてくれたようです。母ちゃんがカメラを操作しているとき、うまくヤマメをGET翌朝は、まずまずの天気。ちょっと遅めの男鹿川着。いつもは澄みきって、魚から丸見えになるのですが、いい具合の薄にごり(ささにごりと言います)。この語源には諸説あり、①泥色の濁りではなく青白く濁る様子が笹の色に似ているから笹濁り、②少しあるいは僅かに濁っているから、表記として小にごり、あるいは細雪と同じ用法で細濁りと。閑話休題。国土交通省の河川観測所データによると、男鹿川の中三依から少し南にある独鈷沢(とっこざわ)の水位が、一昨日夜の雨で水位標より1メートル高く、それから1日半経ったこの時点でも約70センチ高かったのです。実際の水深とはイコールではありませんが、かなりの水量です。釣りやすそうなポイントの近くには、たいてい車が止まっていて、入渓者が竿を出しています。横川集落の手前まで足をのばし(とは言っても、車で移動です)、「学校裏」と呼ばれるポイントを目指します。学校裏の淵で釣れた尺ごえヤマメ。口先が少し曲がり歯も硬いここから上流へ釣り上り、「大辛大根そば」で納竿するつもりでした。しかし、水量の多さに加え、あまりにも流れが強くて、入渓地点から上下50メートルも移動ができません。夫婦それぞれが得意の場所を選んで竿を出しましたが、淵ねらいの私は、かけあがりで良形ヤマメを3連発でき、瀬を狙う母ちゃんは大苦戦となりました。場所を交代したものの、やはり得意でないポイントではお互い不発でした。「長居は無用」と、前回母ちゃんが好調だった「大面(おおつら)」へ。ここもあまり移動できない増水と急流です。増水と激流の感じがわかりづらいが…立っているのがやっと(大面)瀬が得意の母ちゃんは、激しい流れのなかの底石が作る弛みを狙って連続釣果。なぜか15センチ足らずのちびヤマメばかり。それでも母ちゃんは張り切っています。私はアタリを捉えることができず、バラシ連発。「なんだろなぁ~」と思っているところへ会社から電話です。塩原温泉郷にある会社保養所(リゾートマンション)で、給湯タンクに穴があき、階下の居室に水漏れしているというのです。大急ぎで撤収するはめになりました。階下のお部屋にはご迷惑でしたが、重大な漏水事故にはならず、不幸中の幸いでした。
2016年09月27日
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厚い雲が空を覆っている東京の住宅街。お隣の屋根越しにシャッターを切りました。手ぶれのヒドイ写真ですが、季節の節目ですから掲載します。ちなみに、旧暦の8月15日のお月様のことで、旧暦で「秋」というのは、7月・8月・9月の3か月。その真ん中が8月なので「中秋」と呼ばれます。ところで、この名月、真ん丸ではありませんね。月の軌道が楕円であるため、月の満ち欠けがずれているのです。今年は、明後日9月17日が満月になります。「中秋の名月」と満月が、次回一致するのは2021年とのこと。
2016年09月16日
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台風や集中豪雨で被害に遭われた皆さん、心からお見舞い申し上げます。 一日も早い復旧をお祈りいたします。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 会社の製品カタログを作っているメンバーがいます。 彼らに頼んで、12センチ角の写真アルバムを作ってもらいました。カタログ制作にちょっと協力したから「いいよね」。 写真アルバムの表紙。裏表紙のいい男は私 ほんの一昔前までは、写真は紙焼きにしてアルバムに貼り付けて保存していました。 最近は、電子データで保存しています。場所はとらないし劣化もしないので便利ですが、何かの拍子にパソコンが故障したり、ディスクが読み取り不可となったりのリスクが付きまといます。しかたなく、PCと外付けHD、DVDを使ってバックアップしています。 プリンターでの紙焼きは、時間がかかるし発色も微妙。長期保存には退色がつきものです。それでも、見たい時にパッと取り出して見られるし、データがすっ飛んでしまうこともありません。 バラバラの紙焼きは、整理に困る 今回、ふとその気になって、いくつかの花の写真を紙焼きにしたのですが、バラバラでは扱いづらく、昔は現像・焼付け注文するたびにもらえた、フィルムケースのアルバムはないので、封筒に入れるしかありません。これではせっかくの写真が台なし。 そこで、職権乱用の「アルバム作ってくれ」となったわけです。 小さな写真アルバムですから、デスクの引き出しにしまっておいて、見たくなればヒョイと取り出して、パラパラとめくる――これはこれで楽しいものです。写真のレイアウトも自由にできる 表紙を厚紙にするのは費用も時間もかかりますが、本文も表紙も同じ紙を使って、中綴じ(雑誌のように2つ折りの紙を中央でホチ止めする)製本すれば、かなり安く仕上がります。
2016年09月07日
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盆休みに、手術後はじめて塩原の保養所へ行ってきました。2日目は元の予定ではゴルフ。私はまだフルスイングができないので「見学する?」「下手なゴルフのギャラリーでは、こっちが疲れる」と、1人で釣りに出かけることに。といっても、車はゴルフ組が使うので、私は保養所前を流れる箒川へ。この川を管理している塩原漁協はゾーンニングの考えが徹底しており、春の解禁時期には、ダム湖から3kmほどのC&R区間を除き、上流の禁漁区手前までニジマス・ヤマメを大量放流し、お祭り騒ぎ(イワナも少し放流します)。塩原漁協の釣りマップ。多くのイベント予定4月下旬からは、ダム湖から約6kmがルアー・フライ(テンカラ含)専用のC&R区間になり、翌年1月9日までニジマス中心のアクティブなゲームフィッシングが楽しめます。最大50cmの巨大魚も放されます。それより上流も、シーズン中何回もの特別放流があり「天然釣り堀」化します。もちろん特別料金です。アユは6月に放流され7月3日解禁、10月末の禁漁までアユ優先になります。ヤマメ・イワナは4月3日から9月21日まで。ただし、地元の人が言うように、大量放流の特設釣り場が続くので、ほぼ釣りきられているのが実情。渓流魚を狙うエサ釣り師(つまり私ら)は、この時期、アユ釣り師が出動してくる前の時間帯を利用して、ポイントを拾い釣りしながら上流へ移動します。アユが遡上できない堰堤まで行くと、そこからはヤマメ・イワナを対象に釣りができるのですが…。けっこう美しいヤマメ早朝5時前に保養所前から入渓。どのポイントも魚影は薄く、5時過ぎにやっと21センチのヤマメがヒット。あとは15センチ前後のチビばかり。こんな日に限って、太陽は燦々と輝き、8時ごろには日陰がほぼなくなりました。ちょっと強いあたり!よっしゃー!と竿を立てると、ぶりぶりのアユがかかっています。川虫には何の反応もせず、ブドウムシに食いつくとは…。養殖モノということなのでしょうか? 6月の男鹿川に続き、不思議です。まあ、全部リリースだから、どうでもいい話。魚止めの堰堤があるのは、「要害」という地名。昔、このあたりには砦があったといいます。ここからは、うまくいけばイワナもいるはず。ところが、水が極端に少ない。しかも上流のクリーニング工場からは、白濁した廃液がチロチロと流れ込んでいます。おまけに、その工場の親父さんらしき人物から「釣りきられているから、魚なんていない」と、有り難いアドバイス。要害公園の滝。秋の紅葉期はきれいらしいそれでも我慢して釣り上がりましたが、この区域にはイワナは居らず、20cmくらいのヤマメ1とチビ2の貧果。全体としては、けっこうな数を釣ったことになりますが、もうギブアップです。さあ、帰ろう!と歩き始めて「ああ~っ」。ずいぶん上流まで来ていました。暑い、ウェダースーツが重い、腹が減ったし、なんかメチャクチャ遠いし……保養所まで2.5kmもありました。
2016年08月26日
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「身体障害者1級」と認定され、障害者手帳の交付を受けました。医師の勧めで交付申請を行ったのですが、実際に「身体障害等級1級」「旅客運賃減額1種」と認定されてしまうと、微妙に気持ちが揺らぎます。「ICD植え込んだだけで障害者1級なの?」「見た目、元気そうだけどね…」「儲けたね」「気の毒に…」そんな声に対して、自分自身の中にも「釣りでも、ハイキングでも、ゴルフでもできるし…」「胸が苦しくなることはあるけど、日常生活はまあまあ支障ないし…」「障害者と見られるのには抵抗あるなあ」「自分より必要な人がいるはずだ」という、思いが生じます。すでに認定を受けている人からの「フルに利用しなきゃ損だ」という「アドバイス」も受け入れがたいし、「ICDを植え込んだら無条件で3級以上に認定される」というのにも抵抗があります。そんな風に気持ちが揺らぐのであれば、いっそ申請しなければいいのです。「身体障害者手帳」の交付申請は自分の意思で行うもの。「身体障害者」と公的に認定されることが嫌な人(障害者への就職差別はじめ社会の邪魔者扱い…障害者認定のデメリットは多い)も少なくありません。障害者手帳と都営交通無料券。高速料金割引なども受けられる手術から1か月もグジグジと思案して、結局申請することにしたのですが、今一度心の動揺を鎮めようと考え直しました。私は、まぎれもなく重度の障害を抱えた人間であって、可能な限り長く元気に生き続けるよう努力すべきなんだと、思います。いつの頃からか、心室細動から急激な心停止につながる危険性の高い不整脈が、けっこうな頻度で発生するようになり、さまざまな検査の末、ついにICD(植込型除細動器)を胸に植え込む必要があると診断され、6月初旬手術を受けました。診断名は肥大型心筋症。また、先天的なものか後天的原因かは不明ですが、左心室内に一部変形があって、心室が完全に収縮せず、血液が押し出しきれないのだそうです。このことで、自分自身は長い時間脈が飛んだように感じるし、血流が悪くなってしまう(という説明だったと思います)。心臓が一生懸命働こうとするので、無理が生じてしまうのです。検査の中で一番ショックを受けたのは、心臓の電極検査で、人為的に負荷をかけたところ、脈拍が135を超えた時点で心停止したこと。それまで、リハビリのエアロバイク(自転車こぎ)では、心拍数160まで負荷をかけていましたから、135でアウトとは驚きです。私はいま2種類の防御方法で、危険な不整脈と心室細動に対処しています。ICDは、24時間私の心臓を監視し、異常検知時には、軽微な電気的措置から細動除去の高電圧電気ショックまでの措置を自動的に行います。また、心臓のデータを24時間ごとにセンターに自動送信。異変があれば医師から私に連絡が来ます。もう一方は内科的措置で、脈拍を低めにコントロールし、不整脈を抑える薬の服用。脈拍は通常55前後で、不整脈の発生も減ったような気がします(気のせいかもしれませんが)。現段階ではこうした措置ですが、不整脈を起こりにくくするために変形部をレーザで焼き切ることも検討されています。検査結果から植え込み手術まで約2ヶ月かかったのは、忙しかったせいもありますが、私の「抵抗」。手術自体が怖いわけではありません(カテーテル検査には危険を感じましたが)。調べれば調べるほど「煩わしい」気分になる、植え込み後の生活上の制限とICDの誤作動リスクが嫌で、何とか内科的措置で済ませたいという思いから。ICD本体と植え込み概念図しかし、医師から「植え込みをしなければ、あなた自身と第三者の生命を奪うことになる。内科的措置で済む話ではない」と厳しく宣言され、ついに「白旗」を上げた次第です。たしかに、運動中や仕事中に、心臓に細動が発生し、瞬時に心停止したケース。車の運転中に細動が発生して失神し、自分だけでなく多くの通行人を死傷させたケース…を考えると、心臓病には大きな危険があり、社会生活に多くの制約を受けざるをえません。ICDは万が一の「保険的」措置にほかならないのです。そして、その「保険」を正常に機能させるには、悲鳴を上げたくなるような制限措置に対処しなくてはなりません。運転免許を例に挙げると、ペースメーカーを植え込んだ人は「原則として運転OK」ですが、ICD植え込み者は「原則不可」。運転できるようにするためには、研修終了した医師が作成した診断書を公安委員会に提出し、条件を満たせば半年間運転OKとなります。半年後にまた診断書を公安委員会に提出する、という繰り返し。この間に、ICDが作動した場合(誤作動でも)12か月間運転停止処分になります。当然診断書は有料です。ICDメーカーの説明書、不整脈学会のHPなどを読めば読むほど、まともな社会生活ができないと思ってしまいます。たとえば、「IH炊飯器には、保温中であっても手の届く範囲に近づかないこと」――これではご飯がよそえません。「運転者がオートスイッチを持って車から出ていく(外から開け閉めしたり、エンジンをかけられる状態)のとき、車内に残っていてはいけない」――寝入っていても必ず起こしてもらわなきゃ。そうした細心の注意を払って、いちいち確認しながら生活すべきICD植え込み患者は、ICDを入れたから障害者なのではなく、煩わしい器具を入れてでも保護すべき心臓疾患があるから障害者認定されるべき「弱者」なのだということなんですね。パラリンピックに出場する障害者のように頑張るわけにもいかないし、若い人たちのように知恵やセンスを開花させられるわけではありませんが、「老人+脳梗塞後遺症+心臓疾患」でもできることを探しながら前に進むしかありませんね。ヘルプマーク。見えないハンディを持つ人たちが携行<内部障害者について>私のような障害は「内部障害」と呼ばれます。身体の内部の障害のことで「見えない障害」とも。具体的には、心臓機能障害、じん臓機能障害、呼吸器機能障害、ぼうこう又は直腸の機能障害、小腸の機能障害、HIVヒト免疫不全ウイルスによる免疫機能障害、肝臓機能障害をさします。内部障害は、見た目では障害者と分かりません。周囲の人からの援助が受けにくいのです。周囲から理解されず、障害者用駐車スペースや電車の優先席を利用すると、白い目で見られることも(私の場合は見た目がジイさんですから平気です)。最近ではヘルプマークが制定されていますが、よく知られていません。優先席に座るたびに手帳を出すわけにはいきません。自分自身が心臓機能障害者になり、電磁波などに神経を使い、体調が急変することがありうることで、内部障害者のツラさが理解できました。ただし、私の場合、必要と思ったら「すみません、**してください」と言えますから、あまり支障はありません。見た目ではわからない、見えない障害もあるってことを、ぜひ多くの方に知ってもらいたいです。また、障害者だけでなく、歩行がつらい人、妊娠中の人など社会的「弱者」は、もっと声を出すべきだと思います。身体障害者福祉法この法律は、「身体障害者の自立と社会経済活動への参加を促進するため、身体障害者を援助し、及び必要に応じて保護し、もつて身体障害者の福祉の増進を図る」ことを目的としています。この法律の第四条では、身体障害者とは「身体上の障害がある18歳以上の者であつて、都道府県知事から身体障害者手帳の交付を受けたものをいう」と定められています。身体障害者手帳には、1級から7級までの等級があり、1級から6級が障害者福祉法での障害者として認定され、障害者手帳が交付されます。
2016年08月23日
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70歳を過ぎれば、いつお迎えが来てもおかしくないというのが私の持論。これは前にも書きました。最近は男の平均寿命も80歳に迫り、75歳過ぎるまで大丈夫かな? 残念なことに70歳代に突入する前に、体のあちこちにガタがきて、段取りの狂いを感じています。 でも、死ぬのが怖いわけではありません。 若い頃は、単独行の冬山で何回か絶体絶命の事態に陥ったり、70年代の大学闘争の頃は闇討ちに遭ったり、バイク事故でしばらく寝たきりだったり・・・のせいか、恐怖心が鈍くなっているのでしょうか? 「まどろみ」 (動物たちのしあわせの瞬間より) いま何が気になるかといえば、少しばかり歳の離れたカミさんのことであったり、残していく家族であったり、会社のことだったり。もう少しの間、元気でいたいと思います。ICD(植え込み式除細動機)を植え込んだのも、そういうことです。 こんなエラそうなことを言っていても、いよいよ臨終のときを迎えると、何としてでも生きたいと、信じてもいない神様・仏様にひたすらすがるのでしょうか? なんでこんなことを書いているのか? 人間以外の動物は、死への恐怖心など持っていないのでしょうか? 淡々と生き、個としては死んでも種としては生存できるよう義務を果たし、粛々と生命を閉じていくのでしょうか? 脳を持つ生物でも、爬虫類以前の動物には感情はなく、本能だけに依存して生を全うし、それ以降の進化系では感情を持っていると聞いたことがあります。 ネズミやネコやイヌにも喜怒哀楽の感情が備わっているのでしょうか? 先日購入した写真集は、「動物たちにも感情があるんだよ」と教えてくれるような素敵な本でした。 「めくるたびにハッピー!」な写真集 動物写真家の福田幸広さんが出された“動物たちのしあわせの瞬間”という素晴らしい写真集です。 福田さんは、被写体に選んだ動物の自然な姿を撮影するために、5年も6年もかけるそうで、その動物の特性をじっくり観察し、アプローチの仕方や使用する機材を決めと言います。同じ個体と長い時間一緒にいると、相手の感情を読み取れるようになるのだそうです。 動物たちが見せてくれる笑顔、恍惚、爽快、寛ぎ・・・ページをめくる私たちもゆったりとした気分になっていきます。 『動物たちのしあわせの瞬間』 ●定価:本体3,200円+税 ●出版社: 日経ナショナル ジオグラフィック社 ●著者:福田幸広 著 ●サイズ:天地220mm×左右297mm、248ページ、ソフトカバー ●オールカラー ●ISBN:9784863133464
2016年08月09日
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「ポケモンGO」が、世の中を騒がせています。昔から、一世を風靡するような「流行」はありました。江戸後期には、2人の歌舞伎役者が好んだ茶色が大流行しました。三代目中村歌右衛門が好んだ少しくすんだ薄めの茶色。彼の俳号から「芝翫茶(しかんちゃ)」と名付けられました。一方、二代目嵐吉三郎の好んだオリーブ色に近い茶色はその俳号から「璃寛(りかん)茶」と呼ばれました。ファンたちは、それぞれの茶色に染めた布を着物にあしらい、あるいはちゃんちゃんこに仕立て、芝居小屋に繰り出したと言われます。幕末には、近畿、四国、東海地方などで「ええじゃないか」の囃子言葉を連呼して乱舞する騒動が発生しました。これより先、お札が降るなど神異の風評に、庶民が奉公先から抜け出し、伊勢参りに出かける「おかげ参り」現象が、約60年ごとに自然発生的に繰り返されたそうで、数か月の間に300万から400万人が伊勢に殺到したといいます。「ええじゃないか」の図近代に入り、1920年代(大正から昭和はじめ)にかけて、「モボ・モガ」なる時代の先端をいく若者風俗が大流行しました。当時生まれていなかった私でさえ、エノケンの歌を知っています。おれは村中で一番 モボだといわれた男 自惚れのぼせて得意顔 東京は銀座へと来た・・・1960年ごろ、フラフープがアメリカで大流行、日本でも美容と健康にいいと大々的に売り出されました。私なども親にねだって買ってもらいましたが、腸ねん転騒動で急激に失速し、「ダッコちゃん人形」が世を席巻します。玩具の「タカラトミー」は、このビニール人形のお陰で大躍進を遂げました。なお、1963年に突然勃発した「黒人差別論争」に「ダッコちゃん」も巻き込まれ、製造販売が中止になりましたが、すでに十分な利益を確保し、次の製品が開発されていました。1980年代初頭には「なめ猫」ブームがありました。猫にさまざまな衣装を着せ、ポーズを取らせてブロマイドを発売したのです。最初は「かわいい」「かっこいい」と大人気を博したのですが、「なめ猫免許証」で警察の大目玉を食らい、さらに「動物虐待」だと指弾され、消え去りました。そしていま、任天堂が「ポケモンGO」で、社会現象とさえいえる危険なブームを作り出し、空前の業績を叩き出しています。任天堂は、もともと花札とトランプ製造が本業。1970年代後半から「ゲーム機器」に進出し、ゲームウォッチ、ドンキーコング、マリオなど業績のアップダウンを繰り返しながら、成長を続け、「ゲームボーイ」「スーパーファミコン」さらには「ニンテンドーDS」「Wii」など大ヒットと大失敗を繰り返しつつ、子供から大人まで巻き込むRPGを世に出し続けて巨大企業に飛躍してきた企業です。「ポケモンGO」攻略サイトのTOPページ「ポケモンGO」については、日本での配信開始よりも前に、アメリカはじめ各国で問題が発生し、墓地など本来敬虔な祈りの場への立ち入り、危険な場所への立ち入って転落、私有地に立ち入って射殺、「ながらスマホ」で衝突事故・・・マスコミが連日取り上げていました。但し、日本のマスコミはそうした問題点よりも「新規性、楽しさ」を強調して人気をあおっていました。そういえば、「未曾有」が読めなかった漫画大好きの政治家が今回も不規則発言していましたね。「このゲームのおかげで引きこもりが外に出た。精神科医よりすばらしい」とかなんとか・・・。外国以上に「没マナー」が目に付くわが国では、「歩きスマホ」や「ながら自転車」「ながら運転」など、スマホ、ウォークマン、ipodの不適切な使用が社会問題になっています。道路交通法でも取り締まり対象になり、駅などでも啓蒙ポスターが貼られ、マナー向上のキャンペーンが展開されてもなお、違反者が後を絶たず、事故が続発しているのに、今回は「マナーを守って楽しみましょう」程度の呼びかけしか行っていません。「ポケモンGO」が、笑って済ませられるレベルを超え、犯罪すら引き起こす危険性を持ったゲームであることは想像に難くなかったと思います。GPS(位置情報システム)とAR(仮想現実)の技術をベースに、任天堂のRPG(ロールプレイング・ゲーム)ノウハウを駆使して作り出されたゲームが社会問題を引き起こすことに、任天堂の優秀なゲーム開発者たち、幾多の修羅場を乗り越えてきた経営陣が気づいていなかった訳がありません。100万歩譲っても、諸外国で大問題になっているのに、任天堂が認識していなかったはずはなく、重大な問題が起こることは十分承知で日本公開を強行したのです。ポケモンゲットの方法。どんどん捕獲して育成する(日経電子版)発売当日からの「ポケモンGO」関連の事件や街中のありさまを見れば、いまの日本にマナーなんて無縁であるかのようです。「**にはレアなポケモンが出るらしい」という不確実な情報に踊らされ、歩道や公園、店舗の前・・・にたむろし、画面を凝視する「トレーナー」たち。歩行者には全く注意を払いません。スマホを前に突き出すようなポーズで自転車に乗り、あるいは歩き、ポケモンを探します。車を運転しながら信号待ちやノロノロ運転時にスポットを探す人もいます。非常識極まりない「トレーナー」にも呆れますが、重要文化財・国宝の社寺仏閣にまでスポットを設定している任天堂には怒りを覚えます。金儲けのためなら何でもする気のようです。長崎で平和公園を除外するよう任天堂に申し入れをしたようですが、世界でただ一つの被爆体験国の鎮魂の場を、企業の利益追求の場にしようとする任天堂の企業の論理には怖いものがあります。ネット上の「**にいるらしい」という書き込みにつられ、気楽な格好で富士山に登っていった青年もいました。何かあったとき、すべての責任は本人であって、そのように仕向けた任天堂には何の罪もないのでしょうか?浮かれていたマスコミは論外として、政府も警察も、配信早々に「安全な利用」を呼びかけました。でも、利用者のモラルやマナーに期待するだけの「呼びかけ」にどれほどの意味があるのでしょうか? 現に、アンモラルな連中によって、けがをさせられたり、迷惑をこうむったりしている人たちが発生しています。また、ひったくり被害も出ました。内閣サイバーセキュリティのチラシ企業の無責任な「金儲け」を野放しにせず、「ポケモンGO」それ自体の危険性に厳しい規制を掛けるべきではないでしょうか?「ウォークマン」に端を発する「歩き音楽」「自転車ヘッドホン」の危険すぎる現象をふりかえれば、「ポケモンGO」の危険性が見えてきます。私たちの親の時代、音楽は基本的に室内で聴くものでした。例外的に「鉱石ラジオ」があり、「トランジスタラジオ」も世に登場してきました。私たちの青年時代はFMラジオ付きカセットデッキに始まり、カバンやポケットに入るカセットプレーヤーが一世を風靡します。ポータブル系は片方の耳に入れるモノラルのイヤホーンで聞いていました。「ウォークマン」が発売され、CDを入れて高品質音源を楽しめるようになり、さらにMP3化でより小型化、より高品質化されてから、携行式の音楽機器は質的に変貌し、社会問題化していきました。ステレオ式のイヤホーンを耳に挿し、大音量で音楽「鑑賞」する若者が爆発的に増え、電車の中でも「シャカシャカ」音を漏らし、トラブルが発生するようになります。「音を漏らさないように」マナー向上が訴えられ、両耳を完全に塞いで音漏れのしないヘッドホンが流行してきます。最近、電車で「シャカシャカ」音を漏らしている若者はいません。つまり、自分の聴く音楽は漏れない代わり、外からの音も全く遮断されるようになったのです。話しかけられても、アナウンスされても、聞こえていないから知らん顔。それが普通になってしまいました。そして、そのまんま自転車に乗り、周りとは一切縁切り状態で歩道や車道を走り、事故を起こすのです。通信各社とJR東日本のポスター。ポケモンのおかげで「歩き」が当然のありさま「ウォークマン」が発売されたとき、「歩き音楽」の持つ危険性は予測されていました。難聴、運転中の機器操作、周囲からの遮断(危険を察知できない)による衝突など。当時は、ほとんど無視されてきた要素が、いま現実の危険として私たちに降りかかっているのです。道交法改正で取締りが強化するといっても、ヘッドホンを装着して自転車をふっ飛ばしている連中は減る気配がありません。もっと厳しく取り締まるか厳罰化するしかないのでしょうか? 「ウォークマン」を野放しにしていた間に、スマホに搭載されている多彩なアプリによって電話、メール、音楽・動画鑑賞、ゲーム・・・なんでも1台でこなせる技術的進歩が、更に危険な現象を生み出しました。いま、自動車の運転をしながら電話をかけ、メールを打ち、スマホのテレビを見ている人の多いこと。メールを打ちながら高速道路を突っ走るドライバーは後を絶ちません。そうそう、ナビは走行中テレビが見られないように設計されていますが、ある装置をつけると走行中もテレビが見られます。こんな装置を開発した会社、またそれを装着するショップは、犯罪者と言えるのではないでしょうか。これらの現象が日本中を席巻しているのに、自由競争の名の下にメーカーには何の規制も掛けず、「経済効果」「市場好感」などともてはやすだけでは、日本の未来は真っ暗です。「ポケモンGO」騒動は始まったばかり。今すぐ、任天堂と行政は、ソフト上の規制を強め、また違反者には厳罰で臨むよう対応に乗り出すべきだと考えます。カールマルクスはその著書『資本論』の中で、「大洪水よ、我が亡き後に来たれ! これがすべての資本のスローガンである。それゆえ資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命にたいし、なんらの顧慮も払わない」と書きました。ここでいう「資本」というのは個々の資本家を指すのではなく、自由競争に巻き込まれた資本家階級という意味です。当時の工場では労働者長時間労働を強いていました。ベテラン労働者を病気で働けなくしたり、短寿命で死なせることは、工場にとってマイナスになります。しかし、資本間の競争は労働者を労わったりせず、とことん働かせたのです。「大洪水よ・・・」とは「後は野となれ、山となれ」という意味であって、「洪水=大崩壊が始まるなら、我々がいなくなってからにしてくれ」という資本家の身勝手な願望の表明にほかなりません。「社会によって強制される・・・」というのは、「国民の政府によって強制的に規制しない限り、資本階級が目先の利益競争に血道を上げるのは止まらない」という法則を有しているという意味です。大高騰した任天堂の株価(東洋経済)いま、私たちの周囲を見回すと、「ポケモンGO」や「ウォークマン」どころか、常識では考えられないような悪事がはびこっています。たとえば公害、食品偽装、車のリコール隠し。子孫に付けを回しているだけの原発推進もそうかもしれません。将来、そうした無茶な企業運営が会社をつぶすかもしれない、日本社会を荒廃させ、次代を担うべき青年を失うかもしれない、にもかかわらず社会的に指弾されるような悪事に手を染め、あるいは対策すべき事象に目をつぶり、「いまは大洪水が起こりませんように」と念じつつ、目先の利潤に邁進する資本階級の「習性」を憂います。私自身は老い先短いので、たいした影響を受けないかもしれませんが・・・
2016年07月26日
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今月7日、ロシアのソユーズロケットで、日本人飛行士大西卓哉さんたちが、国際宇宙ステーション(ISS)に向かいました。大西さんは、4か月程度宇宙に滞在し、各種実験を行います。七夕打ち上げを記念してISSを撮影しようとしましたが、条件が合わずうまくいきませんでした。仕方なく2014年12月に撮影した写真を掲載します。パナソニックの低価格コンデジだけに頼っている私にしては、悪条件の中まあまあ撮影できたかな、と甘い評価をしています。国際宇宙ステーション(JAXA提供)ISSは、地上約400kmを1周約90分というスピードで、地球の周りを回っています。このプロジェクトに参加している国は15か国。アメリカ、日本、カナダ、ヨーロッパ諸国、ロシアが協力して、実験・研究、地球や天体の観測などを行っています。ISSに組み付けられた日本の実験棟は「きぼう」と呼ばれています。国際宇宙ステーション計画は、アメリカのレーガン大統領によって提唱され、国際協力のもと計画が推進されてきました。1998年に最初のパーツが打ち上げられ、現在まで40回ほどアメリカとロシアのロケットでパーツを「輸送」、地球を周回しながら組み立てを進めてきました。いまでは、サッカー場ほどもある大きさになり、重量は420トン。各国の実験棟で様々な実験を続けています。地球の周囲を回る人工衛星はたくさんあり、夜空を見ていると星々の間を滑るように移動していく人工衛星を見つけることがあります。地上約1,500 km~15,000 kmの円軌道で地球を周回するものや、高度約36,000 kmを飛ぶ静止衛星(これは動いているように見えないから見つけられません)もあります。2014年12月10日17時42分。東京足立区(自宅付近の公園)にて。公園の立ち木が写るほどの低仰角。地平付近に雲がわき、地上の照明を反射しているので見づらい。それでも航跡の上方には北極星とカシオペア座が見えている。写真を拡大してみてくださいISSは地上400kmの低軌道ですから、条件さえ合えば、はっきり肉眼で観察できますが、地上から低すぎるので、観測できる時間と場所が大きく制限されています。観測は、日没2時間後くらい、日の出2時間前くらいの3~5分間程度。ISSが低仰角で通過する場合、都市部の観測点では、地上の明かりと太陽の光が近すぎるため、観測は困難です。2014年12月27日17時54分。上と同じ公園にて。はくちょう座の1等星デネブの脇をかすめ、秋の大四辺形とアンドロメダ座に向かう。写真を拡大してみてくださいJAXA広報が発表している方角と角度を見つめていると、予告された時間ちょうどに光の点が現れ、想像以上のスピードで空を横切り、予定の時間と方角に達したとたん、パタッと見えなくなります。高高度を移動する人工衛星は地平線の端から端まで見え続けますから、ISSの唐突な見え隠れは、戸惑いを覚えます。この戸惑いを会話にすると、見えはじめ:「あれがそうかな?」「そうだと思う」「写真、写真・・・」見え終わり:「もう一丁、撮っとこう」「えっ、どこ行った?」「消えてしもうた・・・」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ICD植え込み手術から1か月が過ぎ、「自動車運転」が許可されました。これから6か月ごとに、公安委員会あて診断書を提出して「運転許可」を得なくてはなりません。
2016年07月19日
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狐につままれたような参院選。いつの間にか始まりいつの間にか投票日が来て、争点も分からないまま投票して…。気がつけば、自民圧勝、改憲勢力が2/3を超えていた…。特に東京では、例の「セコイ」知事辞任騒動と都知事選立候補者選定騒動が、テレビニュースの大半を占め、参院選の政策論争などチョロッと触れられるだけといったありさま。NHK開票速報サイト開票速報の特別番組が始まるや、どの局でも、自民過半数獲得できるかいなか、改憲勢力が2/3を超えるかどうかといったグラフが画面いっぱいに表示され、今回の議席配分が改憲を一気に現実化するんだと、教えてくれました。開票がスタートするときに、唐突にそんなことを指摘されても困るのですが、「奇異感」はぬぐえません。またしても日本のマスコミ(電波法で脅迫されているテレビ局は特にひどい)のだらしなさを見てしまいました。やはり、社会の木鐸ではなく権力の走狗に成り下がったのでしょうか?改憲、安保、基地など、きな臭い争点をすべて隠し、美辞麗句で本当の姿を覆い隠しても、議席さえ取ってしまえばこっちのものだという自民党・安倍政権の恐ろしい策略を見過ごすことはできません。安倍さんの「詐欺」にも近い悪魔のような策略を、退化しつつある頭(最近しばしば自覚する…)で想像してみました。1.改憲の早期実現=自分の任期中にぜひとも実現する!2.一強多弱の政界構図、衆院での自公圧倒的多数による支配、まだ2年以上残っている自分の総裁任期、そんな状況を考えれば、改憲発動のチャンスはいまだ! ・何がなんでも参院で2/3以上の改憲勢力の議席獲得を図る。 ・下野以来、与党(自民・公明)の横暴に対抗できない民進党の弱体ぶり。 先の民主党政権時代の大失政でいまだ国民は信用していない。3.参院選圧勝に向けたシナリオを始動。 ・伊勢志摩サミットで「リーマンショック」級の世界経済の落ち込みをアピール。 「アベノミクス」の破綻を指摘されるかもしれないが、弱小野党の攻撃はあえて無視。 ・消費税引き上げ再延期もやむなしの雰囲気づくり。公明党を利用。 ・衆参同時選挙をちらつかせ、野党共闘を分断、口うるさい自民議員たちも牽制。 ・消費税10%見送りを発表して人気取り。 ・「アベノミクス」を絶叫。根拠なしの数字を並べ立て、財界人を動員して成長戦略・賃金上昇・地方創生・一億総活躍なるものを宣伝する。安倍政権で暮らしは良くなりつつあるという「幻想」4.選挙公約「この道を。力強く、前へ。」…「アベノミクス」を美辞麗句で包み、耳ざわりの良いスローガンを並べ立てる。改憲のことはメインページでは触れず、末尾の「政策BANK」の最後で小さく触れておく。自民党の参院選公約パンフ。制作は世界の電通系列5.参院選挙戦開始直前、いい具合に発生した都知事問題を利用。マスコミを総動員して、人選問題をお祭り騒ぎにし、世間の関心をできるだけ参院選から遠ざける。6.選挙期間中の遊説、候補者たちの演説では、野党の政権批判は無視。争点をぼかし、さもアベノミクスは大成功であるかのように宣伝。 ・安倍総理自身、演説の中で「改憲」「安保」「基地」「年金」などにふれない。 ・各候補者たちも「改憲」「安保」「基地」「年金」は素通りする。 7.宮城など野党協力選挙区、激戦区では、争点を回避。民主党時代の失政をあげつらい、共産党へのアカ攻撃を繰り返す。8.沖縄、東北など対立点の厳しい選挙区で論争には応じない。応じたら負ける。争点には口をつぐむ。 ・沖縄出身のタレント(去年は安保法案反対と言ってた)を丸め込み、「基地反対オール沖縄」に風穴を開けておく。9.公選法違反(?)のテレビCM放送、投票日新聞広告掲載。広告掲載・CM放送の配分に絶対的権力を持つ電通を動員して、徹底したマスコミ対策(圧力)をかける。公選法違反? 投票日当日の新聞広告 安倍さんは、選挙結果を受けて、本日早くも両院の憲法審査会で自民党草案をベースに議論を進めると宣言し、民進党に議論に応じるよう求めています。選挙期間中「憲法問題」には全く沈黙していたのに、選挙で改憲姿勢が支持されたかのように振る舞い、「やる気まんまん」になられても困るんですよ、安倍さん。アベノミクス「幻想」に巻き込まれた国民でも、改憲の「白紙委任」はしてないと思いますよ。日本国民の先頭に立って憲法を守るべき義務を持つ総理大臣(憲法99条)が、自分の手で憲法を変えるんだと、国民をだまし討ちにするような策略を用いて頑張られても困ります。
2016年07月11日
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渓流釣りでは、自然の真っただ中に分け入り、狭いポイントを慎重に攻めるため、先人たちの体験から蓄積されてきたノウハウと釣り人同士の不文律がたくさんあります。例えば、先行者がいればその直前直後に入渓しない、無駄に流れの中を歩かない、自然の形を勝手に変えない(枝を折る、岩を動かす…)、切れた釣糸を捨てない…渓流釣りの解説書にも、くどいくらい書いてあります。でも反則行動が横行しています。一見ちいさなルール違反が、山火事を引き起こしたり、クマを引き寄せたり。あるいは野生の鳥獣を傷つけたり。自然を破壊したり…。以前、非常識な行動をしている釣り人に注意を喚起したことがあります。その時に返された言葉。「それがどうした。あんたになんか迷惑かけた?」また、ある時には「この辺のローカルルールなんだよ。よそもんは黙ってろ」と。自然(環境、生命)と深くかかわる以上、やってはならないことはやってはなりません(会津武士ではありませんが)。また、ある程度の予備知識(対象となる自然のこと、ルールのこと…)を学んでおく必要があります。先日来、クライミングのアンカーが各地で発見され、マスコミも連日報じています。毎日新聞(6月28日)から表面的な現象だけとらえ、騒ぎ立てるのはマスコミの常で、クライミング愛好者全体が非常識人と思われてしまうような報じ方をしています。これでは、まじめにクライミングに取り組んでいる人たちが気の毒です。でも、報道されている側面があることも事実です。人工の壁を登るボルダリングが流行し、「クライマー」が増えました。ある程度の技量を身につけると、実際の壁にチャレンジしたくなるのは人情で、人気のある岩があそこにあると聞くと出かけ、登攀が許されているのか、求められる技量はどうかなど確認する余裕もなく挑戦しているのではないでしょうね。まあ、そうした気持ちは分からなくはないですが…私自身、危険とされる岩にへばりついたり、校舎の壁に取りついたり、自宅の外壁に張り付いたり。怖さ知らずの素人でした。いま考えると、普通のズック(底の薄いスニーカー)で、補助ロープもなしで、バカなことをいろいろやったと思います(こういうのを「生兵法」というのでしょうね。鳥肌ものです)。だから、エラそうなことは言えませんが、登りたいから登る、みんながやっているから大丈夫、こんな気持ちで自然を傷つけることは許されません。日本フリークライミング協会は「利用している岩場が文化財であることを知らない愛好者が多い」と言い、また、「鬼岩周辺は1980年代からクライミングスポットとして知られ、当時の愛好者が今回と同じ場所に2本のくさびを打ち込んだ」と言っているそうですが、情けない。そうした事情を知っていながら、黙認しつづけてきたということなんでしょうか?技術を磨く、楽しい、かっこいい。そのためならモラルなんてどうでもいいのでしょうか?フリークライミングのにわかブームが、自然破壊と所有権の侵害につながっていることをチラッとでも考えたことはないのでしょうか?ろくなアドバイスもしないで、岩登りの現場に放り出すなら、「協会」とは言えません。また、クライミング用品を扱う業者ももっと啓発活動に協力すべきと思います。岐阜県御嵩町の鬼岩(同町提供)釣り振興会や釣り用品販売業者も似たようなものです(ブラックバス釣りブームをあおり、各地に違法放流を招き、生態系を乱している)から、我が国の体質かもしれませんが…。40年ほど前、高度成長期に「余暇開発」の官製レジャーブームが作られ、それまで一般の人たちがあまり手を出さなかった、登山、キャンプほかアウトドアスポーツの隆盛が日本中を巻き込みました。このことは素晴らしいことですが、開発業者と用具業者の無責任な誘致や「売らんかな」攻勢で、アウトドアの「ア」の字も訓練されていない、にわかキャンパーやクライマーが乱造されました。その頃の名残りが私たち世代の老人「登山者」で、過去の根拠ない「栄光」の記憶に基づいて、まともに学習も訓練もしないままアルプスに挑み、散るという惨劇を繰り返しています。とんでもないクライマーの横行を許さず、きちんと基礎訓練をしたのちに現場に立つ許可を与えるプログラム(職場の安全教育みたいなものでもいいのかな?)を実行してほしいと思います。恵庭岳山頂、名所・デベソ岩が崩落したニュースも流れています。監督官庁の「立ち入り禁止」措置に対し、「法的根拠はない」と理屈をこね、入山していく人たちも少なくないと伝えられています。きっと、「なんかあんたに迷惑かけてます?」というようなことを言いながら歩いて行ったのでしょう。それに対して、お役人は「まあ自己責任だから」と、「注意喚起」の看板を出しているだけ。規制を無視して入山する人たちは、「自己責任」の意味が分かっているのでしょうか?もし遭難したり、危険な状況が起こった場合、その人たちは110番しないのでしょうか? 助けてくれとは言わないのでしょうか? ずいぶん勝手なものです。わからないことばかり起こる世の中です。
2016年06月30日
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ICD(植込型除細動器)手術が直前に迫った6月最初の土曜日に渓流釣りへ。行き先はホームグランドの栃木県男鹿川。おそらく今シーズン最初で最後の釣行になると思われます。いつもより遅めに現地着。久しぶりに夕まずめ狙い。地元の蕎麦店「古代村」のご主人と旧交を温め、自慢の十割蕎麦をいただきます。「ああ、蕎麦だ」ふんわりと広がる蕎麦の香りを楽しみながら、当たり前すぎる感想を漏らす私たちでした。さて、釣りです。昨年秋、鬼怒川が氾濫し、下流の常総市に甚大な被害が出たことはご存知だと思いますが、鬼怒川は利根川水系の最大支流で、栃木県北部で湯西川、男鹿川、大谷川と合流しています。昨年の集中豪雨は、上流域の男鹿川の渓相を一変させていました。しかも昨年の暖冬で渇水しています。おまけに男鹿川の主要支流である入山沢、芹沢は土砂災害の危険があるとのことで、本年度は入渓禁止。がっかり!男鹿川本流の上流部へ移動。釣果では定評のある「大面(おおつら)」。サイカチ橋周辺もコンクリート護岸が崩れていますが、水量はそこそこ。母ちゃんはサイカチ橋から上流の大面方向へ。私は橋の下流方向へ。まず私のほう。下流は滑床の落ち込みが連続しています。落ち込みには小さな魚がうようよ。ヤマメにしては背が黒いし、泳ぎがハヤでもイワナでもなさそうだし…何の稚魚?チビは無視して、ヤマメのいそうなあたりをブドウ虫で狙います。ピンボケですがアユですプルプルと魚信がきて、あげてみると、なんとアユの稚魚!!!「エッ? なんでこんなところにアユ?」以前はもっと下流の入山沢出合あたりまでしかアユは放流されていなかったような気がします。遡上してきたか? イヤイヤ途中に砂防堰堤があるはず。渓相が変化したために上流までアユ放流をしたということなんでしょうか? 次の落ち込みでも同じ。結局、体長12センチほどのアユが4匹。ポイントもさることながら、アユがブドウ虫に反応するとは「ビックリポンや!」そのあとは、護岸のへりや瀬脇でヤマメを釣り上げ、楽しませてもらいました。上流に向かった母ちゃんは、順調に釣果を伸ばしているらしく「イワナの入れ食いポイント見つけた!」とLINEで知らせてきました。ポイントに行ってみると、いつもは瀬を狙う母ちゃんが、落ち込みの脇に狙いをしぼって頑張っています。(注:魚はすべてキャッチアンドリリースです)久しぶりの三依、満足満足。この日、手術の5日前。
2016年06月20日
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3年間というのは、あっという間のようであり、ずいぶんと長いようでもあり・・・。ご無沙汰、申し訳ありません。3年前、何の挨拶もなく更新をストップし、ご心配をおかけしました。「いつ再開するのか」との個人的問い合わせにも、「そのうちね」と返事したままでした。3年間の出来事を手短に記すと、役員定年を迎え引退したのに、逆に忙しすぎる毎日に!このところ心臓の具合が悪く、内科的措置で対応してきましたが、心室細動をひきおこす危険な状態になり、ついにICD(除細動器付きペースメーカー)植え込んだ。以前から「70歳になれば、もういつ逝ってもおかしくない年代になったと言える」と思っていましたが、ちょっと早すぎる連続故障(脳梗塞に続き心臓病)に困ってしまいました。もう少し頑張れたらありがたいなぁと考え、ブログも続けられればと再開した次第です。あまり更新はできないでしょうが、よろしくお願いします。
2016年06月16日
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GW同窓会2日目は、みんなでお出かけ。どういう訳か妙にまじめな集団で、社会科見学のようなコースです。まず、富岡製糸場の見学です。今年1月、政府が世界文化遺産として正式推薦し、来年開催される世界遺産委員会で登録の可否が審議されることになった近代産業遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」。明治5年、日本初の機械製糸工場として建設された官営模範工場で、フランス人技師の指導のもと大量生産を進め、またその技術を全国に広める中心となりました。 レンガ壁に埋め込まれた明治5年創業の石ぶみ当時、明治政府は富国強兵策を強引に進め、欧米列強と対等に交渉を進めるパワーを持とうとしてきました。近代的な軍隊を創設し、軍事力の拡大を遂げるために、殖産興業を推進し、軍事費を賄おうとしたのです。佐渡金山、石見銀山の官営化、官営の炭鉱開発に加え、外貨獲得の最有力候補とされていた生糸生産の大規模化、高品質化を目的として、養蚕の盛んだった群馬県に近代的な製糸工場を建設することにしました。建設に尽力した渋沢栄一の言葉を借りると「富岡の製糸は官による経営で採算性を無視できたから成功した…日本の製糸の近代化に真に貢献したのは、富岡に刺激されて近代化を志した民間の人々である」と。つまり、工場建設に当たって、フランス製造の機械を導入し、フランス人技師、フランス人女工を高額報酬で雇い入れ、士族や有力自作農の子女を日本人女工の一期生として採用、訓練しました。使命感に燃えた彼女たちは製糸技術を習得し、各地の工場へ指導女工として転属して行きます。明治8年、フランス人技師たちは再雇用せず、日本人による操業が開始されましたが、大規模過ぎる工場を効果的に機能させることが出来ず、明治26年三井財閥に払い下げられ、以降横浜の原合名会社、片倉工業へと転売され、昭和62年まで操業が続けられました。 ボランティアガイドの引率で製糸場内を見学富士山の世界遺産登録が確定的と報じられた直後のせいか、製糸場を案内するボランティア・ガイドさんも気合が入っている様子。ツアーの団体さんも次々と訪れます。ガイドさんの説明を聞き、展示の解説を読むと、富岡製糸場がいかに日本の殖産興業に貢献したか、いかに模範的な操業を行ってきたかなど、「光」の部分が、これでもかと強調されています。展示を見ながら、「俺のうちでも、カイコを飼って繭玉取っていたなあ」と長野のダンナ、「女工哀史みたいなことはなかったんだろうか」とうちの母ちゃん、「女工哀史は野麦峠だから岡谷、諏訪なんかは厳しかったんでしょうね」と博識の沼津のダンナ。 立派な寄宿舎。感心させられたが「外人女工用」だった「光」の部分だけじゃなくて「影」の部分も公開してこそ、世界遺産としての価値があるというようなことを話しながら、富岡製糸場見学を終えたのでした。ちなみに、当初は官営模範工場として採算度外視の操業を行っていた富岡製糸場の女工さんの生活や仕事ぶりについては、和田(旧姓・横田)英の「富岡日記」が引用され、書籍化されています。それによると、彼女は国益と家名のために進んで伝習生(女工)となった人で、1年後には富岡を退場、長野県松代町に建設された日本初の民営機械製糸場の創業に参画し、教授として指導的な役割を果たしました。実際、官営時代の富岡は、厚生面・待遇面でも模範的であったようです。しかし、民間払い下げ後の富岡の女工たちがどのような扱いを受けたかは何の説明もないので分かりません。「野麦峠」に代表される、家のため家族のために、莫大な前借金を抱え、紡績工場で働かざるを得なかった女工さんと富岡の伝習女工を同列に扱うことはできません。実際、各地の紡績工場でストライキに突入した女工さんたちは、1日15~16時間も働かされ、しかも工賃は切り下げ、健康を害しても医者に診てもらえない過酷さに抵抗したのです。そのことを知っている人間には、和田英の「富岡日記」をもって、「当時の女工さんの暮らしぶり」と認めるわけにはいきません。むしろ「籠の鳥より 監獄よりも 寄宿舎暮らしは なお辛い」という女工さんの詠嘆の方が真実なのだと思います。 大規模な製糸機械群。ここに女工さんたちが並び生糸を作っていたポーランドの世界遺産として「アウシュヴィッツ-ビルケナウ ナチスドイツ強制絶滅収容所」が登録されていますが、負の遺産を大切にすることも人類が未来に向けて歩き続けるうえで極めて大切のことだと思います。さらに付け加えると、富岡ほか大規模製糸工場が稼働をすすめ、国際市場に打って出たことと密接に関係するのが「秩父困民党」事件や「群馬事件」。大暴落した生糸相場による打撃と当時の政府のデフレ政策によって、借金と重税に苦しむ農民たちが、自由民権運動と連動して蜂起した事件です。これらも製糸場と関連する「負の遺産」だと言えます。まあ、わが国はA級戦犯が総理大臣になれる国であり、その孫が総理として君臨し、「改憲」や「核武装」を声高に叫べる国ですから、富岡をはじめ製糸場の「女工哀史」を隠ぺいするくらい、平気なのかもしれません。現に、ボランティアガイドさんは「富岡ではそういうことは一切なかった」と誇らしげに語っていました。 創建1400年の貫前神社。江戸初期の社殿は重要文化財富岡製糸場のほか、社会科見学団は、1400年の歴史を持つ一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)へ。重要文化財に指定されている社殿は、三代将軍徳川家光の命令で造営されたものです。「どうしても!」という沼津のダンナのリクエストに応えて、安中市の後閑城址へも行ってきました。整備された坂を登りつめると妙義山などの山なみが一望できる中世の山城跡を公園として整備、桜の時期にはけっこう混雑する市民の憩いの場所だとか。 中世の山城・後閑城址から妙義山の山なみを見る真面目に群馬での1日を過ごした、中年たちと老人1名(私のこと)の社会科見学でありました。
2013年07月04日
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やっとGWの日記に取りかかります。毎年恒例の長野県佐久市集結。1日目は、他のメンバーとは別行動で渓流釣り。例年は千曲川源流部ですが、今年は長野と群馬の県境にある下仁田あたりを流れる川で釣行です。河原が広く流れも緩やか。渓流釣りの雰囲気ではありませんが…。鏑川の支流・南牧川、朝の川風が気持ちいい前日の5月2日、午後に東京を出て、翌日の釣り場をチェックしてから佐久に向かうことに。上信越自動車道・下仁田ICから国道254号線に入り内山峠を越えて佐久市に至るルート沿いの川ですが…。事前に調べもせず「思い込み」で現地へ。下仁田IC近くのセブンイレブンで「鏑川の日釣券ください」と。店員さんの目が点になり、「日釣券はありますが、鏑川かどうかわかりません」「254に沿って流れている川とは違うんですか?」「さあ…」「釣り場の地図はないですか」「ありません」「お邪魔しました」各都県境の概念図2軒目のセブンイレブン。かわいいアルバイトさんに、前店と同じ質問。「2種類ありますが、どちらが鏑川なのか…」日釣券を見せてもらい、漁協の電話番号を控えます。まず上州漁協にTELしましたが業務終了のアナウンス。緊急連絡先の携帯番号にTEL。「ハイ、上州漁協です」と年配の男性が出ました。「鏑川で釣りたいのですが、お宅の管轄ですか?」「そうだよ」「どのあたりで釣ればいいですか」「支流のなんもく川かな。村役場に車を止めて、釣り上がっていけばいい」夕暮れが迫っています。急いでコンビニで翌日の日釣券を買い、なんもく村に向かいました。村役場まで約10キロ。山中の夕暮れは暗くなるのが早く、目的地に到着したときは夜が空を覆っている状態でした。村役場近くの住宅地。南向きの明るい住居「明日はここで釣る」と決めて、佐久へ向かいます。なんもく村から下仁田に戻って内山峠を越えるより、なんもく村から直接佐久に向かった方が近道なので、田口峠を越えて長野側の臼田に抜けることに。これがとんでもない山道で、奥へ進むにつれ廃屋と思われる真っ暗な家が多くなり、周りは闇に包まれています。ところどころに古い林業関係の施設があるだけで、携帯電話もつながらなくなってしまいました。近道のはずが、車のヘッライト以外に明かりのないヘアピンの山道を走ったため、大きなタイムロスを生じ、佐久の友人宅に到着したのは21時近くになっていました。なんもく村について。漢字表記は「南牧村」です。この村は群馬県の南西部に位置する村。人口は1970年約7700人、現在は約2200人と激減、現在の村の平均年齢は62.5歳で、高齢化率が日本一の「限界自治体」になっています。テレビでも報道されましたが、村では、群馬県の補助事業を活用し「いきいき山村暮らし支援事業」を進めています。「明日の南牧を創る会」を中心に空き家活用を展開、田舎暮らし希望の都会人を誘致し、過疎対策と限界自治体脱出を図ろうとしています。くらし体験民家の入居者を募るチラシ同じく南牧村と表記する自治体が長野県にあります。読み方は「みなみまきむら」。高原野菜で有名な川上村とは隣り合わせの、八ヶ岳山麓に広がる集落。こちらの人口は1970年約3600人、現在は約3400人と変動が少なく、平均年齢47.14歳です。翌朝は少し遅めの出発、R254を経由して現地に7時半ごろ到着しました。佐久から1時間余り。昨夜の峠越えは何だったのか! 「急がば回れ」のことわざを実証してしまったのでした。南牧川、午後の釣り場さて釣りのほうですが、そこそこヒットするものの、どれも20センチに満たないヤマメ。午前中は4時間ねばって、道の駅「なんもく」で昼食。午後からはポイントを探してあちこち移動し、再び南牧村に戻り2時間ほど釣りましたが、やはり小ぶりのヤマメばかりです。群馬・長野の県境には、神流川はじめ絶好の渓流が多く存在します。他に比べて日釣券が高いのです(上州漁協は2000円)が、魚影は濃いとのこと。この次来るときは事前に調査してガッチリ釣果を上げたいと思います。
2013年06月24日
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GWの日記を書きたいのですが、その前に旬の話題を。近年、東京でツバメを見ることはほとんどなくなってしまいましたが、2週間ほど前から私が勤める会社のビルに、ツバメが姿を見せはじめました。そして、1週間ほど前から駐車場の梁に巣作りを始め、今は写真のような大きさにまで作り上げました。私の勤める会社は都心にあり、会社の周りはビル群と昔からの住宅地。パトリオットミサイルが配備された防衛省、法政大学も近くにあります。都心でありながら、江戸城の外濠に沿って桜などの木々が枝を張り、昔からの住宅地ということで比較的緑もあるから、ツバメがやってくるのでしょうか?ビルの駐車場ですが、開放的なので、排気ガスの滞留は少なく、天井があるので雨に濡れる心配もありません。これまでカラスが入ってきたことはないので卵を狙われることはないと思われます。ビルの管理人さんが「ツバメの巣 注意」の張り紙をしてくれましたが、糞に注意ということなのか、空ぶかしなどするなという注意なのか、よく分かりません。産卵、育児、巣立ち…うまくいくよう願っています。
2013年06月13日
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辞書の説明には、ほとんど意味をなさないものがあります。「閉塞」を引いてみると「閉じて塞ぐこと。出入りができなくなること」と。それは字面を見ていればわかります。「閉塞」と聞いて、私が想像するのは、状況の「閉塞感」、気象用語の「閉塞前線」、鉄道の「閉塞方式」。でも、真っ先に思い起こすのは、日露戦争の「旅順港閉塞作戦」。3次にわたる作戦はいずれも失敗しますが、第2次閉塞作戦において、行方不明となった杉野兵曹を探し続け、戦死した広瀬中佐のエピソードは有名です。「戦争を知らない世代」の私が、なぜ「広瀬中佐の歌」を知っているのか、自分でも解からない話ですが、「杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや」という歌詞ご存知でしょうか。第2回閉塞作戦で沈没した福井丸。広瀬中佐が指揮していた閉塞船(出典元:『日露戦史写真帖』上巻(東京印刷株式会社編纂部/大正4年刊)掲載サイト:坂の上の雲マニアックス4月第2週、突然「閉塞」という言葉が現実問題として飛び込んできました。私より年下の義兄(母ちゃんの兄)が「腸閉塞」で緊急手術したのです。第一報は「緊急手術が始まった」。慌てて病院へ駆けつけると顔面蒼白のヨメが「原因は内臓脂肪…」と経緯を話してくれました。以下、発症の経緯。兄は、仕事中「経験したことのないような」腹痛に襲われ、嘔吐に見舞われます。かかりつけの医院に行ったところ、「これは、ここでは対処できない。大きな病院に行かなくては」と、紹介状を書いてくれました。医師が救急車を呼ぼうとしたのですが、「恥ずかしいから、タクシーで行く」と頑張って、市民病院へ。「腸閉塞」と判定され、緊急手術になったのです。執刀医の説明。開腹して腸を全部引き出し調べたところ、小腸の半分ほどが壊死しかかっていた。年齢が若く腸に弾力があるので、血流が戻る可能性が高いと判断して、腸の切除は行わず、1~2日様子を見ることにした。何かのきっかけで、内臓脂肪が小腸の上に乗り、それが腸を圧迫して腸管を塞いでしまった。腸に絡みついた脂肪を切除して元に戻した、とのことでした。もう少し遅れていたら腸の壊死だけでなく、生命の危険すらあったと言います。「怖がりの痛がりだから助かったんだね。ヘタレのおかげだ! 父さんだったらアウトだったね」とは口の悪い妹、つまりうちの母ちゃんです。結局、2日間ICUに居ただけで一般病棟に移り、10日ほどで無事退院しました。この数年、ブリブリとして腹も出ていた体型が、すっかりスリムになった義兄。ガブガブ飲んでモリモリ食べていた生活を改善すべく取り組み始めたのであります。
2013年06月05日
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1月12日から4月7日まで開催されていた、東京国立博物館の特別展「飛騨の円空――千光寺とその周辺の足跡」。引っ越し騒動で日程調整がうまくいかず、最終盤の4月5日にやっと鑑賞できました。連日大混雑で、入場制限がかかり、2時間待ちの日もあると聞いたので、開館早々に入場。落ち着いて数々の仏像と対面できました。東京国立博物館円空というのは、江戸時代初期の1632年、美濃(今の岐阜県)に生まれた行脚僧で、生涯に約12万体の仏像を彫りました。独特の作風から「円空仏」とよばれる作品は、北は北海道・青森、南は三重県、奈良県まで広く分布し、現在までに5000体以上が発見されています。木を割った時の切断面、節や鑿跡がそのまま見える像が多く、その簡素化されたデザインとゴツゴツとした野生味、不可思議な微笑は、江戸時代から民衆に愛され親しまれつづけてきました。行く先々の庶民のために(求めに応じたのかも)、木っ端を利用してザックリと顔かたちを刻んだだけの彫像が多いのも特徴です。円空仏に対面していると、仏たちは木に彫りつけられたのではなく、円空によって木の中から彫り出されたのだと実感します。円空展図録。表紙の仏像は三十三観音今回の展覧会では、岐阜・千光寺(せんこうじ)所蔵の円空仏61体など中心に岐阜県高山市所在の100体が展示されました。円空とその仏たちに魅了されている私にとって、またとない機会。特に、「両面宿儺坐像(りょうめんすくなざぞう)」の実物に初めて対面できるのですから、気分は最高です。以前、冬の飛騨・高山を訪れた際、両面宿儺に対面するため千光寺に立ち寄りました。雪の山道をノロノロ運転で登りつめ、山門をくぐって目にしたのは、完全に閉ざされた本堂。冬季閉鎖中だったのです。全く調査不足でした。2度目に千光寺を訪問した時は、両面宿儺像は「出張中」で、またしても空振り。高山は冬に行くことが多いので、その後は訪問することもありませんでした。今回、やっと対面が実現したのです。両面宿儺(りょうめんすくな)は、日本書紀に登場する飛騨の「大悪党」。書紀によると、仁徳天皇の時代、飛騨に現れた両面宿儺は、1つの体に、前と後に2つの顔を持ち、手足は4本ずつ、敏捷で左右に剣を帯び、4本の手で弓矢を自由自在に扱う異形の男。身長は3メートル、50人力の怪人で、朝廷に従わず反逆し、住民を略奪していました。天皇は難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)を派遣して宿儺を討伐したと、されています。慈愛と憤怒の両面宿儺像ところが、飛騨や美濃各地の伝説によると両面宿儺は住民の英雄。飛騨の丹生川村(いまは高山市に併合)の伝説では、異形の巨人が法螺貝を吹きながら岩壁の中から突然現れ、村の鍾乳洞(実際にあります)に住みながら、神を祀る者として地域を統率し、住民に信仰や農耕を指導したとのこと。千光寺は1600年前に両面宿儺が創建したといわれています。大和朝廷の圧制に抵抗しつづけて住民を守ろうとした古代の英雄を、地元の人たちはいまも「宿儺さま」と崇拝し大切にしています。円空は、飛騨の人たちの宿儺への崇敬の気持ちを大切にして、独特な両面宿儺像を彫りました。民を思う慈悲に満ちた心を「柔和」な顔として正面に刻み、大和朝廷と戦った荒々しい心を「憤怒」の表情として脇に刻みました。また、腕には弓矢ではなく斧を抱いているのも、開拓者としての宿儺をイメージしていたような気がします。両面宿儺のように、自らを省みず圧制に抗い、他者のために働く、そんな生き方をしたいと願いつつ、何ごとも為しえないまま人生が終わっていきそうな感覚にとらわれながら、両面宿儺像の前に立ち尽くしていたのでした。
2013年05月29日
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新しく建て替えられた歌舞伎座のこけら落とし公演が4月2日から始まり、いまも連日好評を博しています。一般公演に先立ち、3月27日には開場式、同28日には古式顔寄せ手打式が挙行され、取引業者である私も御招待を受けました。27日は式典と三番叟上演があったのですが、こちらはリハビリのため参加できず、28日だけ参加させていただきました。「顔寄せ手打式」は、出演者と舞台関係者が揃って手締めを行うもので、本来なら公開される儀式ではありません。今回は柿葺落興行の顔寄せということで、特別に招待客が見守るなか、舞台上で古式にのっとり挙行されたのです。 完成した第五期歌舞伎座。入口付近は大混雑歌舞伎座前の広い歩道は、早い時間から報道陣、招待客、観光客…であふれ、警察官と警備員が交通整理に大わらわ。一般の招待客は時間まで会場前で待っていますが、VIPの乗った車がひっきりなしに横付けされ、案内されていきます。入場後、開式まで館内をウロウロと歩き回りましたが、招待客が多く写真を撮ることもままならない状態。ピカピカの調度、装飾を愛でながら開式を待ちます。第5期歌舞伎座は、外観こそ第4期の建物に酷似していますが、伝統芸能の殿堂にふさわしい様式を継承しながら、最新鋭の設備を持つ「現代建築」です。 豪華なロビー。松竹幹部の出迎えを受ける招待客第1部は「時間の継承 ―第四期歌舞伎座から第五期歌舞伎座へ―」と題した特別記念映像が上映され、建築工程、設備が紹介されました。また、新調なった4枚の緞帳が披露されました。いよいよ手打ち式。定式幕が開かれると歌舞伎俳優174名の歌舞伎俳優に加え、音楽演奏など舞台出演者、松竹の役員など総勢約210名が舞台上に並び、息をのむような豪華さ。歌舞伎座閉館中に亡くなった中村芝翫など人間国宝3人、会場直前に亡くなった中村勘三郎、市川団十郎なども列席しているのではないか、と舞台を見つめた私でありました。 俳優、関係者など200人が勢ぞろい(歌舞伎座公式サイトから)「狂言名題(演目)披露」に続き、大道具、照明、小道具、衣裳、鬘(かつら)、床山に附帳(各演目に必要な物品の台帳)を手渡す「附帳渡しの儀」。そして、舞台上の俳優と関係者一同による手締めが行われました。 当日頂いた引出物。このほか塩瀬総本店の紅白饅頭も こけら落とし興行の番付。B全判の木版画その後、松竹の大谷会長が出演者と関係者に挨拶、出演者を代表して坂田藤十郎が祝辞を述べ、さらに松竹の迫本社長から私たち来賓に向けての挨拶。結びに、尾上菊五郎の発声で、舞台・客席一体の手締めが行われ、式典は滞りなくお開きとなりました。 後日、送られてきた記念アルバムと建設映像DVD坂田藤十郎、尾上菊五郎、幸四郎、吉右衛門、玉三郎、三津五郎はじめ勘九郎、染五郎、海老蔵、愛之助など若手人気俳優……東西の主要な歌舞伎俳優が一堂に会した光景をもう二度と見ることはないでしょう。貴重な経験をさせていただいて感謝、感謝です。
2013年05月20日
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2月16日付、飛騨の旅日記が途中になっていました。思い切り時期はずれですが、端折って紹介します。飛騨古川は高山から車で20分程度、列車なら15分程度の距離にありながら、高山とはまるで雰囲気の違う静かな町です。高山の年中行事・町並みは観光主体になっていて、耐えがたいほどの騒々しさに辟易することもありますが、飛騨古川は地元主体の行事・町並みという印象です。この日も、高山駅は観光客で大混雑、古川駅は人影まばら。駅前通りも閑散としていました。観光客が見当たらない静かな古川駅前静かな街路を抜け、まずは「飛騨古川まつり会館」。年に一度の古川祭をいつでも体験できるまつり会館は、激しさと静かさが織り混ざった古川祭を3D映像で紹介しています。実物の古川祭屋台3台を常時展示しており、係の方が丁寧に展示物の説明してくれました。からくり人形の操作体験、起こし太鼓の試し打ち体験もできます。起こし太鼓屋台の実物展示。右端は絵馬制作の実演次に、まつり会館と同じ敷地にある「飛騨の匠文化館」。地元の木材を使い、匠の技を受け継ぐ地元の大工さんによって、釘を1本も使わずに建てられたそうです。館内では、様々な継ぎ手や組み木、工具などが展示され、飛騨の匠が守り受け継いできた技の素晴らしさを見て触って感じることが出来ます。すっぽりと雪帽子をかぶった飛騨の匠文化館さまざまな継手、木組。飛騨の匠の技が光る古川観光のハイライト、「瀬戸川と白壁土蔵街」を巡ります。連なる白壁土蔵と狭い瀬戸川の創りだす風景は、飛騨古川の町並みを代表するものです。しかし、この町の魅力は、私たちが景観の写真を撮っている脇で地元の子どもたちが遊び、犬の散歩をする住民が通る…ふだんの生活風景が観光地的景観と溶け合っているところではないでしょうか。白壁土蔵の道で遊ぶ子供たち。日常と観光が溶け合う癒しの光景古い町並みを作る民家。ここにも生活がある高山の古い町並み保存地域が商店街化しているのに比べ、温かさと優しさを感じさせる飛騨古川。古い町並みの一角にある喫茶店でも、ほっこりとした雰囲気に包まれてコーヒーブレイクを楽しみました。観光客も地元の人も同じ空間で寛げる喫茶店土産物はないんだろうか、と見回しても土産物店はほとんどなく、その店も夕方には早々と店じまいしていました。観光地らしくない観光地・飛騨古川、もう一度訪れたい町です。夜の高山市上三之町。静けさに包まれた古い町並みその夜の宿泊は高山市。上三之町の古い町並み保存地区にある旅館「河渡(ごうど)」。町並みに溶け込んだ町家風の格子窓、目立たない看板。内部の風情もレトロ感あふれています。町中にある隠れ宿の佇まいに魅せられました。自分の家に戻ったような安らぎ。旅館河渡の玄関食事を終え、チェックインしたのは20時。昼間の喧騒がウソのような静かな上三之町。店が閉り、門灯が町並みを照らす、観光客のいない風景にこそ、本当の古い町並みの魅力を感じます。この景観こそ高山の素顔なのかもしれません。夜明けの上三之町。うっすらと雪の積もった町並み翌朝、宿のくぐり戸を開くと、早くも観光客の波が押し寄せていました。
2013年05月14日
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サ●イ引越センターのサービスについて。ブログ上で一方的な見解を述べるのは気が進みませんが、あまりに大きなストレッサーとなったので書かせてもらいます。見積もり段階では、前回利用の●リさんマークとの相見積もりとしました。見積もりのために若い営業さんがすっ飛んできてくれたので、大差がなければサ●イにしようと決めました。見積もりところが、エアコンに関して、移設工事と配管パイプの新品交換、配管カバー取付がパックになった料金設定があるはずでは?と指摘したところ、配管カバーを含むパックはないとの回答。一旦は了解したものの疑問が残り、営業が置いていったパンフレットを調べたところ、パックは設定されており、「料金は営業に問い合わせ」となっています。営業所に電話をしました。「パック料金あると、パンフに書いてある」「そうですか、少し待ってください」少し経って「それじゃ、●●円で」「ちょっと待って! それじゃとはどういうこと? パックはないと言ってたのに、いきなり料金提示か? エエ加減やなぁ」「ちょっと待ってください」営業の上司が電話に出ました。「工事会社の見積もりをご希望ということなので、工事会社から連絡させます」「はぁ? 誰が工事会社の見積もりを頼んだ? エエ加減な返答に疑問を持ってるだけや。もうエエ、工事の人と話をする」結局、私が工事会社の担当を新居に案内して再見積もりを依頼しました。段ボール箱また、見積もり以降、一度も「なにか困っていることはありませんか。資材は足りていますか」といった連絡はなし。前回の●リさんマークの営業さんがマメだっただけに、この点の酷さは目立ちます。段ボール箱は120枚くらい用意するように、最初の見積もり段階で話してあったのに、書籍用40枚、大型20枚を持参しただけ。書籍だけでも60枚以上必要なので追加を持ってくるよう連絡を入れると「1枚300円です」と。近所のホームセンターで、同等品質の類似サイズ品が150円前後で買えるのに、引っ越し業者が段ボール箱で儲けようとすることにも、腹が立ちました。箱の形がそろっていて、できる限りキチンと梱包されていれば、当日の作業員の負担は少しでも軽減されるし、積み上げたときの荷崩れも起こりにくいと考えるのは、私の素人考えなのでしょうか。大きさも強度もバラバラな段ボールを使ったり、箱詰めしないで縛っただけの荷物の扱いにくさ、積載事故の危険さは、引っ越し業者でなくても十分理解できます。運送事故のリスクを回避し、作業員の負担を少しでも軽減する配慮もないのでしょうか。夜逃げ?当日は、もっと悲惨。前日17時から19時に積み込み作業を行う予定が大幅にずれ、19時前になって「夜9時から作業を開始する」との連絡が入りました。作業員を叱っても始まりません。営業所に電話しました。「どういうこと? 19時までに来るいう約束で前日積込みをOKしたんやで。うちは夜逃げか?」「前の作業が遅れたので…」「そんなことは言われんでも想像できる。21時から2時間かかったら23時や。そんな時間にバタバタ荷物を運ぶのは非常識やろ」「静かに作業しますので…」「余計に夜逃げじみてくるやないか。あした積み込みに変更すべきちゃうか」担当営業の上司が電話口に。「この時期は、予定が立て込んでおりまして…」「それは、そちらの事情。ムチャクチャな日程を組むから起こった事態や。それを客に押し付けるのか?」「できるだけ早く着くように指示いたしますので」「作業員に会社の手配ミスのツケを回すんでっか? たいした会社やな。いまさらちょっと早めても近所迷惑に変わりはない」「作業員を増員いたしますので」「どうしてもやるんなら、アンタが近所にお詫びと事情の説明をせえや」「それは作業の責任者が行います」「なんでも作業員任せやなぁ。何のための営業や、何のための責任者や。こんなときに顔見せんというのはアカンやろ」結局、営業も上司も姿を見せず、近所へのお詫びは母ちゃんが行いました。作業部隊は素晴らしい20時30分を過ぎたころ、作業班が到着。簡単な打ち合わせ後、一気に搬出が開始されました。30分後には応援部隊も到着し、1時間半くらいで当日積込み分は完了しました。2日目は8時30分から前夜積載分を新居に運び入れ、終了後、残りの荷物を積みにマンションに戻り、新居に運び込むという段取り。2キロくらいしか離れていない引っ越しだから可能な手法です。営業所の対応は不満だらけでしたが、作業員はよく訓練されており、班長を中心にテキパキと荷運びを行い、2日目の新居搬入でも質の高い仕事ぶりをたっぷり見せてもらいました。2日間の作業時間は約9時間、応援部隊を含め延べ14人もの作業員が投入されました。全員に寸志とお茶を振る舞い、予想外の出費となったものの、休憩もろくに取らないで頑張ってくれた作業員には感謝です。サ●イ引越センター、大手になってサービスの根本を忘れてしまった会社なのでしょうか?若い営業の経験不足、知識不足は仕方ないとしても、その技量不足をカバーできない上司、あるいは営業所組織とは何なんでしょうか?営業も業務も現業も全てをひっくるめて「マイスター品質」と言うべきだと思うのですが…残念です。
2013年05月08日
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2か月ぶりの更新です。3月下旬になんとか転居しました。天候に恵まれ、工事は比較的順調に進みましたが、設計者と現場との連絡ミス、現場の勘違い…で、仕様変更が伝わっておらず、やり直し工事、あるいは工事停滞が発生するなどのアクシデントもありました。大変だったのは、外壁のパワーストーンの模様が違っていて、家の前半分でやり直しが発生したことでしょうか。それよりも大騒ぎだったのが、荷造り。母ちゃんの会社は、この時期に超繁忙期を迎えます。土曜日は出勤、労働密度が跳ね上がり、しかも残業が増えます。息子の方も「繁忙期」に突入し、帰宅が遅くなってきました。こんななか、荷造りはほとんど私の仕事のような状況になり、私自身がへたばりはじめました。発症後、筋力はかなり低下し、以前のようにサクサクとモノを移動させたり、荷物を持ち上げたりが辛くなっていたのです。「なんで、こんな時期に引っ越しするんや」「結局、俺一人が荷造りしてるだけやないか」私の方も、労働関連法規の変更に伴う社内規則変更、新事業企画などでバタバタしているので、疲労が蓄積するばかり。だんだん被害妄想的になり「俺が時間管理されない立場であることを最初から利用するつもりやったのか?」などとマイナス思考が顔を出し、母ちゃんに八つ当たりし、息子に怒鳴り…。特に、引っ越しを依頼したサ●イ引越センターの対応の拙さは、私の苛立ちを倍化させることになりました(作業員は素晴らしかったんだけどなぁ)。この件の詳細は次回とします。それでも、時は無情に流れ、当日が近づいて、建築現場も私たちも最後の追い込みに入ります。近くを走る環状7号線の歩道橋から自宅を見る。ご近所の工事も進行中引き渡しの内覧会もギリギリ。不具合個所の修正と残工事は引っ越し後とし、公式の引き渡しは引っ越しの4日前。この日も自宅外構部の工事は続行され、駐車場のコンクリート打ちが行われていました。そのため、引っ越し当日は車両乗入れ不可。自宅前が6メートルの公道なのでトラックが長時間駐車していても支障はありませんでしたが…。寝室や居室にできるだけモノを置かず、1階に「ウォーキング・クローゼット」的な部屋を設け、洋ダンスなども収容すると考えていたのですが、運び込まれた荷物の多さに唖然とするばかり。あの狭いマンションのどこに収納されていたのか。どう収納してよいか、予想を超える事態に作戦の立て直し。巨大な棚を作り、季節家電、釣り具、ゴルフのキャディバッグ、アウトドア用品、大工道具などを収容しました。引っ越しから1カ月余り経過し、ようやく日常生活も円滑に進み始め、不具合箇所も手直しされました。7番アイアンでアプローチ。左にボール。弾道が低い?GW前半は引っ越し後初めての旅行。私たちは那須塩原の「塩原カントリークラブ」で半年ぶりのゴルフ。息子も友人と名古屋までドライブ。転居後初めて、窓など全てのシャッターを下ろしました。絶好のゴルフ日和ではありましたが、リハビリが主目的の新米ゴルファーは、半年もの空白で、スタンスもアドレスも忘れてしまい、前半64、後半は74、トータル138の大叩きをしてしまいました。GW明けから、ブログを徐々に再開します。よろしくお願いします。
2013年04月30日
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2週間ぶりの更新。訪問もサボりっぱなし。飛騨古川の報告を後回しにして、更新できなかった言い訳をします。世の中一般には「極めて重大な決断」とされる問題を、うちの母ちゃんは「発作」的決断で軽々と実行。とはいえ、会社が「超繁忙期」に突入した母ちゃんと、年度末の「繁忙期」を迎えた協力者の息子は、仕事の隙間を縫って手続きを進めなくてはならず、大わらわ。私の方も、会社の生産ライン更新やら社員研修、リハビリなど連日スーツ姿で出勤する(お客様や銀行、大事な取引先との面談・打ち合わせがあるときのスタイル)慌ただしさ。あっという間に日にちは過ぎ、刻々と「その日」は近づいて、気分的にはすっかり追い詰められ、ブログ更新にも手が付かない状態に陥っています。「清水の舞台から飛び降りる」ような決断を軽々と…母ちゃんが発作的に決断した「極めて重大な問題」とは住宅問題。自転車放置、ペット飼育、ごみ出しなど、マンション住民のモラルにイラついていた母ちゃん。11月末大規模修繕積立費が2倍に跳ね上がる(元々決まっていたらしい)通知を受け取って、ブチ切れました。「こんなだったら、マンション売って一戸建てを買った方がいい!」と。管理費・修繕費積立、駐車場2台分を合算すると、かなり大きな支出なのです。「まあまあ、落ち着いて」と私。「言い出したら、本当になるからなあ」と不安がる息子。銀行ローンの実状を調べはじめ、返済シュミレーションを繰り返し、物件探しに集中したと思ったら、「ここに決める!!!」住宅の条件は、ワンボックスの車が2台並列で停められる駐車場を持つ家。親子2世帯が何とか暮らせる家。母ちゃんと息子の会社から通勤距離がそれぞれ2キロ以内となる家。そして、住宅金融支援機構の融資基準に適合した耐震・耐火・断熱構造である家。この全条件を満たす住宅を23区内で見つけるのは、結構難しいはずなのですが、見つけてしまったのです。距離も耐震・耐火構造もクリア。建坪は約2倍、3LDKが5LDKになります。2世帯が暮らすにも問題ありません。新居の完成予想図息子も「これならOK!」と二つ返事してしまいます。「えっ~! ホンマに大丈夫なんか? 彼女もOKか?」と、私の心配は尽きません。ローン申込者は母ちゃんと息子。病人の私ではローンが通らないとの判断で、今のところ私の出番はありません。まあ、私が返済に貢献できるのは死亡保険金が入った時でしょう。そんな頼りないローン申請なのに、どういうわけかあっさりとクリアしてしまったのです。「えっ、通った!?」「勢い」とは恐ろしいもの。一気に状況が動き始めました。建売り物件なのですが、契約時点では基礎工事が始まったばかり。住宅会社としては、周りの建築条件付分譲地のモデルハウスとしたかったようで、この家だけ先行して工事を開始していたのです。新断熱方式。ウレタンフォームを天井にも壁にも吹き付ける基本構造は変えられませんが、屋根に始まり部屋の仕様(和室を洋室にする、フローリングは・・・等々)、設備仕様など・・・まるで注文住宅のようにリクエストを聞いてくれたのです。設計担当者との度重なる打ち合わせには、邪魔くさがりの息子も毎回出席し、意見を述べていました。もちろん外構部も2台駐車用に変更されました。母ちゃんが拘りつづけたキッチン、浴室。息子が拘りぬいた部屋の内装や外壁の仕様。書斎の耐荷重は私の依頼に応じ2倍に強化されました。郊外の一戸建てに比べれば、所詮は3階建の狭小住宅に過ぎませんが、3月中旬には完成し、引っ越します。マンションの売却という課題は残りますが、荷造りや諸手続きにちょっとスパートを掛けなくてはならないようです。
2013年02月28日
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朝5時、太平洋岸の低気圧が東北地方に移動し、天気は良いが風の強まる中、飛騨高山めざして出発。この5時間前、息子と彼女は愛車に乗って大阪ベイエリア、道頓堀あたりの観光に出かけています。車検証に「改」と記入される適法的改造をあちこち施した「ヴェルファイア」は、乗り心地が悪く、とても快適ドライブとは言えないシロモノ。しかも、インチアップしたノーマルタイヤだから雪にはめっぽう弱い。さらに、保険料を下げるため、家族限定の条件を付けているので、疲れても彼女に運転を変わってもらう訳にはいかない過酷な条件のドライブです。安全で快適な旅行を心掛ける親の方は、「つくばエクスプレス」六町駅から電車。秋葉原でJRに乗り換え東京駅へ。6時20分発の臨時「のぞみ」で名古屋に向かいます。毎度のパターンは、乗車早々に駅弁の朝ごはんを食べ、すぐに眠り、名古屋手前で目覚める、というもの。今回は、検札が遅れたり、社内販売のお嬢さんが可愛かったりで調子が狂い、ほとんど眠れないまま名古屋に着いてしまいました。 「まあ、バスの中で寝たらエエゎ」。名古屋駅からは高速バス。8時40分発「ひだ高山3号」。名古屋から東海北陸道を経て高山に入ります。ほぼ定時に出発しましたが、すぐに渋滞情報です。長良川あたりで事故渋滞10キロ。「到着は大幅に遅れる見込みです」と運転手さんのアナウンス。乗客は居眠りでも何でも出来ますが、 ドライバーにはキツイ話です。追いかけて電光掲示板に不穏な情報が…。荘川桜で有名な荘川ICから高山に近い清見ICまで30キロが事故のため通行止。「何時に着くんだろう」雪雲が切れて青空がまぶしい高山駅操車場最初の10キロ渋滞をクリアした段階で45分遅れ。安心したのも束の間、対面通行区間の合流渋滞が はじまりました。「こりゃあ、高山に着いて1日終わる勢いやなぁ」行程表を引っ張り出して、母ちゃんと相談開始です。元々の時刻表では「ひだ高山3号」の高山到着は11時10分。そのあと12時発のJR高山線で「飛騨古川」に向かい、現地で昼食を摂り古い街並みを散策し、飛騨の匠の技を鑑賞する予定でした。現地での散策時間を考慮して、13時14分発の富山行き「ワイドビューひだ」がリミットです。「いざとなったら、駅前でおにぎりでも買うか」「そうだね、コインロッカー探したりもあるしね」運転手さんから「荘川・清見間の通行止は解除されました」とアナウンスがありました。何とかなりそう。レトロな雰囲気の古川駅。観光客がいない!?結局、高山駅のバスターミナルには1時間20分遅れの12時30分到着。コインロッカーに荷物を放り込み、駅近くの蕎麦屋さんにかけ込んで蕎麦を啜り、13時14分の列車(実際は3分遅れでした)に乗ることができました。13時30分「飛騨古川」駅に到着です。
2013年02月16日
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この3連休を利用して、新幹線とバス利用で飛騨高山周辺の1泊2日旅行を楽しんできました。高山は2年ぶりの訪問。これまでは車を駆って、長野県松本市から県境の安房トンネルを抜け飛騨高山に入っていましたが、体調管理の立場から、雪の長距離ドライブを避けるという母ちゃんの方針に従い、敢えて時間のかかる方法を選択したのです。JR高山駅ただし、毎度おなじみの急な企画のため、かなり成り行き任せの旅となりました。次回から連載スタートです。
2013年02月12日
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芦ノ牧温泉は、阿賀川(阿賀野川の上流)の渓谷沿いに立地する温泉地。起源は1000年以上も前。地方行脚の行基上人によって発見されたと言われています。湯量豊富な雪見の露天風呂を味わいたいのですが、問題は「ヒートショック」。大露天風呂ではリスクが高過ぎるので、一計を案じました。露天風呂付きの部屋を確保。入る前に湯温を38~39℃くらいまで下げ、室内から浴槽までの床には温かい湯のシャワーを流し続ける。水を少し飲み、頭にはタオルを巻き、体にもバスタオルを巻き付けて保護。浴槽の湯を足から順々にかけて、バスタオルを巻いたまま体にもかけていき、体が少し温まったところで、バスタオルを取って浴槽にそっと入る。あまり長湯はせず、ほどよく温まった程度で風呂から出て、また水を少し飲んで、服を着る。モノトーンの世界。雪景色の阿賀川そこまでして冬の露天風呂に入らなくてもよさそうなものですが、発症1周年記念のチャレンジです。風呂から見下ろす阿賀川渓谷は、音もなく降る雪に包まれたモノトーンの世界。夜中は気温が下がり過ぎるので露天風呂は回避して、部屋の窓から渓谷美を鑑賞しました。翌日は「大内宿」。江戸時代、関東と会津を結ぶ交通の要衝だった大内宿は、宿場として、また運送の駅所として栄えていました。明治の中ごろ阿賀川沿いに日光街道が整備され主要道路となったため、大内宿は山間の僻村として時代の波に取り残されてしまいます。そのおかげで茅葺きの家並みが奇跡的に残され、1981年には重要伝統的建造物群指定を受けることができました。展望所から見た大内宿。懐かしい日本の原風景保存されている茅葺屋根の民家すべてが、民宿を営んだり、蕎麦店や土産物店だったりすることで、批判を受けることも少なくありません。鈍感な私でさえ違和感を抱くことがあるくらいの商魂ですから…。大内宿の蕎麦店。神棚には13柱の神が祀られている? 13基の鏡餅が並ぶそれでも、私たちを惹きつける魅力にあふれる集落であることは間違いありません。夏であれ、冬であれ、何度訪れても飽きることのない景観は、私たちの記憶の奥底に眠る「日本の原風景」なのかもしれません。何軒かの店は訪れる観光客のために商いを始めていますが、多くの店(民家)は茅の雪囲いを巡らせています。例年より多い雪に覆われた茅葺屋根。宿場全体を見渡す展望所からの眺めは格別でした。ひっそりと佇む雪囲いの民家
2013年02月05日
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延び延びになっていた発症1周年イベントの報告です。1月3日、我が家としてはゆっくり出発して喜多方へ。目指すは毎度おなじみの喜多方ラーメン店と会津漆器工房。今回のラーメン店は「喜一」と「こうへい」。連続2軒でもOKとは思ったものの健康のことを考えて、まずは「喜一」。左は「喜一」の熟成しょうゆラーメン、右は「こうへい」の黒節ラーメンそのあと腹ごなしを兼ねて、いつも立ち寄る会津塗の「会津野」。何点か買い求め、併設の喫茶室でコーヒーブレイクです。そのあと、白鳥が飛来すると言われているポイント巡りに出発。まずは中善寺という喜多方事件発端の寺へ。この寺の裏に白鳥飛来の池があるとのこと。雪に埋もれた参道を踏み越え、スノーブーツを雪まみれにしながら池のほとりへ。池は凍って白鳥どころか1羽の鳥もいません。池から雪に埋もれた本堂裏の石段(写真右奥)を下ってきた「観光案内には書いてあったんやけど、おかしいなぁ」「飛来してきているか確かめたの?」「いいや、観光協会のホームページ見ただけ」「リサーチ不足だね」冷たく言い放たれて、次の飛来地に向かいます。「次の池は大きいから間違いない」「ホントかしらねぇ」「喜多方蔵の里」に到着。美術館だの蔵屋敷、曲がり屋などがありますが、売店以外は休館しています。こんなところに白鳥が来るんだろうか?情緒ある蔵造りの売店。焦って店内を見ることもなく退散売店で聞いてみました。場所を間違っていました。行くべきは道の駅「喜多の郷」。「また、リサーチ不足?」「そうや、うるさいなぁ」市街地から少し離れたところにある「喜多の郷」に到着。温泉施設にはお客さんがたくさん来ているようです。売店以外の施設は休館。展示室「四季彩館」も閉まっています。喜多方の歴史、文化、芸能などの展示、実演をひそかに楽しみにしていたのですが…。いやいや、本来の目的は白鳥。八方池への道は雪に埋まっています。「白鳥がいるんだったら、除雪してあるよね」「とにかく行ってくる」「私は車に居る」雪をかき分けて、池のほとりに立ちました。カモらしい鳥たちは沢山います。でも白鳥は見当たらず…。元気な八方池のカモたち。私はヨレヨレ「今回はリサーチ不足の連続だね、どうしたの?」「来る前に、観光案内ちょこちょこと見ただけ…ちゃんと準備せんとアカンなぁ」白鳥には会えず、雪まみれで冷え切った体。2軒目の「こうへい」に行くしかありません。黒節ラーメンと大餃子でエネルギーを補給して、今夜の宿泊地、芦ノ牧温泉に向かいました。つづきます。
2013年01月29日
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12月23日に富山県礪波の友人から贈られたチューリップ。室内では数日で咲ききってしまうので、玄関ドア脇に活けておきました。元旦を過ぎ、小正月を過ぎまだ元気。先週中ごろから項垂れたり花びらが落ちかけたりする花が出始めました。傷んだ3本をのぞき、水揚げのため茎を切りそろえてガラス容器に。1カ月を過ぎた今も咲いています。外の寒さで開花しきれないのでしょうが、枯れることも色あせることもなく私たちを楽しませてくれています。右は1月6日のチューリップ。左は1月22日のチーリップそれに引き比べて、私のほうはトラブル続き。基礎体力が落ち、抵抗力が弱っているのでしょうか。発症1年を経て筋力などは戻りつつあるのは事実。しかし、発症直後から続いている不具合はどうにもならないようです。声が出にくくなっている、水がグビグビと飲めない、痰が切れにくい、めまい、便秘…これらの症状を医師に伝えてはいますが、脳のダメージと薬による筋肉弛緩(血管拡張薬の影響?)が関係していているから、うまく付き合う以外ないと…。最近は体温調整がうまくいかないのか、熱がでやすくて、12月初め、1月初めに発熱で病院に通いました。昨日夕方、トイレで息んだとたん頻脈が発生し、夜間救急に飛び込みました。家に戻ってから体温を測ると発熱もしていて、何が何だか分からない状態に。今日は会社を休んで、1日寝ていました。いま、やっと熱も微熱になり、少し落ち着いてきたので、ブログを更新しています。ゴリラのような、鉄人のような、バケモノじみた体力を誇っていた私がこんなになるとは…。チューリップの旺盛な生命力を目の当たりにして、励まされるとともに、もっともっと咲き続けてほしいと思っています。
2013年01月24日
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恒例の大相撲観戦。一月場所7日目です。母ちゃんの勤務先の社長さんから招待を受け、行ってきました。向う正面の桝席、今回はかなり前の方で、自宅に居た息子に確認すると、しっかりテレビに映っているとのこと。欠伸をしたり、鼻の穴をほじくるわけにはいきません。席に落ち着いたのは幕下上位の取組みが行われている頃。大相撲人気が復活したのでしょうか、何となく客席の埋まりが早いようです。「満員御礼」の予感がします。十両土俵入り。今場所負け越せば引退が決まっている高見盛が土俵に上がると、館内は大きな拍手と声援が起こります。軽く足を引きずっているようで、元気がありません。「もう36歳」なのか「まだ36歳」なのか…。右は土俵入りでも生彩がない高見盛、左は押し出しで敗れた高見盛土俵上でのユニークなパフォーマンスで人気の高い高見盛。この日まで3勝3敗の成績です。7日目の対戦は誉富士。幕内在籍中は永谷園の懸賞が何本も出ていましたが、十両下位まで落ちた彼の土俵には懸賞もなく、寂しさを感じます。勝負はあっけなく、押し出しで誉富士が勝ちました。中入り後。前頭7枚目の舛ノ山が前頭12枚目の玉鷲と対戦します。舛ノ山は心臓が悪く20秒取り組むのが限界といわれている力士。応援せずにはいられません。持ち時間の短い舛ノ山が一気に攻めたて、玉鷲を引き倒し。行司の軍配が舛ノ山を指しました。が、審判の手が上がります。長びく協議。土俵下で待つ舛ノ山は、呼吸も困難なようで苦しげ。写真を見てもおかしげなところはありません。舛ノ山の引き倒しがきれいに決まったと思ったが…「なんでや、土俵を割ったとでもいうノンかなぁ」「倒れるんじゃないの」「審判は何やってんだ!」結局玉鷲の勝ち。苦し紛れの舛ノ山が玉鷲の髷を引いたという判定で、反則負けです。髷を引いたかどうか、観客にはわかりません。会場全体にブーイングが起こりますが、これは仕方のないこと。花道を引き揚げる舛ノ山に激励の大きな拍手が贈られました。その後は、ほぼ順当な勝負が続きます。全勝の日馬富士は魁聖を送り出しで破り、白鵬は豊響を豪快な上手投げで破りました。昨年5月場所を観戦した日、豊響は白鵬を小手投げで破り金星を上げました。豪快な白鵬の上手投げ弓取り式も終わり、はね太鼓に送られて国技館を出たところで、時ならぬ喧騒。大横綱・大鵬が午後3時15分急死したと、毎日新聞、日刊スポーツがそれぞれ号外を配布していました。「巨人・大鵬・卵焼き」と言われる一時代を作り上げた名力士の冥福を祈ります。
2013年01月20日
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「日本ES開発協会(矢萩大輔代表)=JES」さんの新年会に出席させていただきました。JESは、企業にとって必要な顧客満足(CS)経営を実現するためには、従業員に満足を与えられる経営(ES経営)を達成させなくてはならない、という観点から、企業の人材育成などをサポートする活動を展開しています。JES協会新年会の記念撮影(ES協会facebook所載の写真から)新年会は、協会の活動と関わりの深い企業からも出席者が多く、賑やかな新年会となりました。会場は、東京スカイツリ―近くにある「リバーサイドカフェ・シエロイリオ」。美味しいワインとビールで、ヨーロッパ各国の惣菜(カジュアルビストロ料理)を楽しめるお店です。普通の企業の新年会とは一味ちがう内容で、パーティが進行していきます。ビールで乾杯の後、ソムリエの野崎さんから「ワイン基礎講座」。いまさら人に聞けないワインの基礎知識を、分かりやすく説明して頂きました。ラベルの読み取り方、シャンパンとスパークリングワインの違いなど初めて知りました。また、童話作家でもある光丘さんの絵本読み聞かせ。正月らしい「十二支のはなし」など、童心に帰って聞かせていただきました。なぜネズミ年がトップなのか、イノシシが12番目なのか、そしてネコ年がどうしてないのか…やっぱ、絵本の世界はいいなぁ。日光徒歩行軍、グリーンフェスタに全社あげて参加している吾妻商事の大塚さんからは、活動への意気込みなどエネルギー溢れるお話。8年間離職ゼロのES経営を実行し顧客リピート率93%という顧客満足を達成している、お茶屋さん「おづつみ園」社長・尾堤さんのお話。日光・金谷ホテルベーカリー企画室長の小林さんからは、地元老舗店とのコラボによる「日光アンパン」「ゆばクッキー」開発秘話…。 「夢しか実現しない」のテーマを掲げ、各社の人材育成活動をサポートされている籠池先生とも久しぶりの対面。管理職が部下に「夢」を語りイメージを伝えることの重要性など、貴重なアドバイスを頂きました。籠池先生との詳細は2008年徒歩行軍出発式参照道元禅師は人と人との出逢いの尊さを三文字で表した。書いたのは私私も来賓あいさつということで指名を受け、拙い話を披露しました。 もともと考えていたあいさつの内容は、●「人はなりたい自分にしかなれない」といわれる。アスリートや芸術家、あるいは弁護士さんなどは「○○になって●●を実現したい」とイメージを持ちやすいかもしれない。当社のような小企業に勤める人間が、業務の中で「なりたい自分」をイメージできるか?●「なりたい自分」を持てずに当社に入ったアルバイト社員が、過酷な作業工程、良くもない待遇にもかかわらずどうして正社員になりマネージャーとして活躍するようになったか?●わが社の業務が「エンタテインメントを支えている」という誇り。私たちの仕事が「文化・芸能・芸術を支える、なくてはならない仕事」「他にはない面白い仕事をやっている」という喜び。その想いが、多くの社員を突き動かしている。●そのような社員たちが8カ月かけて作り上げた、社員のための行動指針「クレド」。詳しくはわが社のクレド発表会参照●クレドの「お客様の想い、私たちの想いをかたちにする」という中心テーマを実現するために7つの柱を定めたが、最も重要なポイントは「私はやる!」というコミットメント。「人にやさしく、チーム○○(社名)のひとりになる」という思いやり、仲間意識!●私も含め社員の多くは中途採用で能力もイマイチ。でも、その能力に、「私はやる!という熱意・決心」を掛算し、さらに「力を合わせ、お客様に満足を提供するという姿勢・高い意識」を掛ければ強大なパワーが発揮されると考え、一歩一歩、前進しようと考えている。●クレド活動をCSR活動に統一し、行動を強化しようと準備を進めているが、そうした中で、いま推奨している取り組みは「真面目な雑談」。会議で発言できないような内気な社員でも、休憩室やデスク回りでは活発に会話している。緊張せずに真面目な会話をやろう、いろんなアイデア・改善提案を出し合おう、いう考え。…こうした活動が会社を変えていくパワーになるだろう。 ●先の見えない新年幕開けで不安定要素も多い。大きな志を持つ会社が志のない会社を駆逐する時代が始まっている。ひとりひとりが「私はやる!」の決意を固め、高い理想と綿密な実践目標を掲げ前に進もう。私が「日光101キロを1昼夜で歩きぬく」と決心し実行したのは、まさにこの2点の実践だ。いまこそ、1人の100歩より100人の1歩が求められている。詳しくは例幣使街道101キロの記録1~6参照バカッ話や昔話は得意なのですが、社外の方々にまとまった話をするのは緊張するもので、結果としては言葉足らずのあいさつになってしまいました。反省!!自分を磨く「人とのつながり」相田みつをさんの至言(相田みつをカレンダーから)脳梗塞発症から1年。短期間の例外を除き週に2~3回、午後から8時間ほど仕事をしていますが、直接お客様や取引先さんと顔を合わせることは少なく、社員や管理職を通してのお付き合いになっていました。家族以外と顔を合わせることが極端に減って、病院でのリハビリ関係者、患者さんとの断片的な会話が、私の生活のほとんど全てという状態でした。そうした暮らしの中で、持論である「自分以外の人間との関わりの中で自己を発見し、自身の人間性を確立する」ということの大事さを忘れつつあったような気がします。個人的には別に不自由とも寂しいとも感じなくなって自分自身の状況にのみ目を奪われていたのです。もともと、何日も誰とも話さず、誰とも関わらない生活でも苦にはならず、若い頃から登山は「単独行」が基本でしたから、素に戻ってしまったのか…。しかし、今回の新年会で、1年ぶりに多くの人に会い、まるで旧知の中のように親しみと笑顔の会話を続けることができ、改めて「人とのつながり」の大切さを実感しました。1年間の社交的ブランクを経験した私に、「人間同士のコミュニケーションが、社会性と人間性、人格を形成する上で極めて重要な役割を果たしている」ことを思い出させてくれた、意義深い3時間でありました。
2013年01月15日
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脳梗塞発症から1年経ちました。昨年の1月8日早朝から入院までの経過、退院後の生活、後遺症に揺れる心などを繰り返すと長くなりますので省略しますが、現在もリハビリ生活は継続中です。発症の前後を比較してみると次のような感じ。 タバコ 「1日20~30本程度喫煙」→「100%禁煙」 アルコール 「もともと飲酒習慣はほとんどない」 →「発症後は極端に弱くなった」 食 事 「野菜不足で大食い+多めのおやつ」 →「野菜中心でカロリー・塩分制限食+少しのおやつ」 睡眠時間 「3~4.5時間」→「(入眠剤の力を借りて)6~7時間」 体 重 「83~84kg」→「74~75kg」 血 圧 「上150~160、下95~110」→「上120~130、下75~90」左半身の麻痺・拘縮を退院時と現在で比較すると、 握 力 「右49kg、左40kg」→「右47kg、左43kg」 腕立て伏せ 「1回も出来ず」→「5回くらい」 左片脚立ち 「10~20秒」→「30~60秒」 連続して歩ける時間・距離、歩く速度「15分・800m、3k/h」→「30分・2km、4k/h」走れる距離「5m」→「30m」 となります。なお、歩く・走るは平坦道路での記録です。雪景色の福島県会津・大内宿(13年1月4日)全体として、筋力アップも生活改善も進んでいると言えそうですが、目まい・声嗄れは依然として続き、リハビリ疲れのせいか膝・腰、腕の付け根あたりの痛みが定着しつつあります。また、抵抗力の低下なのか風邪気味になりやすいのも気になるところ。相変わらず付きまとう再発の危険、不意に起こる不整脈への不安…なかなか思い切った行動(会社での活動など)に踏み切れない状態にあります。今年も介護保険のリハビリ、スポーツセンターでの筋トレなどが続くため、出勤回数のセーブは継続する予定。従って、第一線の業務は若い人たちに任せ、経営方針・計画の調整、社員研修、制度整備などで貢献したいと、新年の全体朝礼で表明しました。発症1周年のメモリアル・イベントとして、1月3日から温泉旅行。あまり移動せず、もっぱら温泉でゆっくりした旅でした。次回から報告します。
2013年01月08日
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久しぶりに自宅で迎えた新しい年。例年なら年末ギリギリまで働いて、慌ただしく長野の友人宅か旅行先に向かうのですが、今年は大晦日、新年を自宅で迎えました。大晦日の夜7時過ぎ、近所のスーパーマーケットへ。正月用品・おせち料理・生鮮食品が並び、タイムリミット値引きを狙う買い物客が目を引きます。それ以外は日常の延長感があるだけ。コンビニ、ファミレスなどなど、一年で最も大切な区切りの日々を、ありきたりの毎日に変えてしまった便利な店(を運営する企業)。それに対抗(あるいは単なる模倣)する企業のバカバカしさ……儲けのためなら何でもありの「NIPPON株式会社」。これからも良き伝統、良き文化を破壊し続けていくのでしょうか…昔の年末年始は、最も忙しく最も厳かな数日として記憶に残っています。スーパーから戻って、ささやかな年末年始の準備。玄関ドアの小さな注連縄は例年どおりですが、チューリップが春の彩りを添えています。この花はクリスマス前に富山の友人から贈られたもので、玄関脇にセットしたところ2週間経ったいまもシャキッとしたまま。すごい生命力です。21時頃、「元日には掃除・洗濯しない」の習慣に従って、掃除と洗濯を済ませ、「ゆく年くる年」が始まるや、年越しそばを頂いてカウントダウンへ。2013年1月1日00時00分、「あけましておめでとうございます」のあいさつ。特別ライトアップが始まった東京スカイツリ―を遠望。青や紫を基調とした普段の電飾が、2020年オリンピック招致を願う五輪カラーをイメージしたものに変わっていました。
2013年01月06日
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2013年1月1日00時の東京スカイツリー。自宅ベランダから10キロ先を望遠 迎 春 よりよい年を願って一歩一歩進みたいと思います。本年もよろしくお願いします。 かずたま拝
2013年01月01日
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徳島県鳴門市と淡路島の間にある鳴門海峡は、瀬戸内海と太平洋とを結ぶ海峡の一つ。幅は1.3キロしかありません。この海峡では、満潮時には太平洋から瀬戸内海へ、干潮時には瀬戸内海から太平洋へ、1日に2回ずつ大量の海水が移動します。海峡の狭さと海底の複雑さのため、潮流速度は時速15キロ、また瀬戸内側と太平洋側の水位の差は最高1.5メートルにも達します。大鳴門橋の真下、ぶつかり合う潮流鳴門の渦潮は、この早い潮流と両岸の緩い流れの境界で発生するのです。特に、大潮の時期は、満潮と干潮の水位差が大きくなり、潮流もさらに速くなるので大きな渦が見られます。鳴門海峡では3月下旬から4月下旬に、1年で最も大きな渦潮が現れると言われています。と言われても、東京に住む人間が、大潮に合わせることは簡単なことではありません。今回の潮見は「中潮」。大潮のときほど期待できませんが、渦潮を見られる可能性はあります。旅行スケジュールに適合し、最も可能性のある時間を狙って乗船することにしました。11月24日朝9時40分の干潮(南流)時に渦潮観光船に乗ります。さあ見られるか? ドキドキです。船は大鳴門橋に接近します。太平洋に向かう激しい潮流が、ぶつかり合い、押しのけ合い、ねじれ、波を競り上げます。なんという自然の力! ぶつかり合う潮が突然渦巻きを形成し、渦潮になり、次の瞬間消え去る…中潮でさえこの状態、大潮のときはどれほどの迫力ある光景が見られるのでしょうか!30分ほどの乗船時間は瞬く間に過ぎてしまいました。「春の大潮のとき、また来る!」と興奮気味の母ちゃん。私も同感です。いよいよ、今回旅行の最終行程。鳴門から高松自動車道を経て徳島県板野町へ向かいます。20分ほどで目的のうどん店に到着しました。さぬきうどん界の「アイドル」るみばあちゃんの店「池上製麺所」で修業し、独立を許された丸池製麺所。店の前には、るみばあちゃん(の似顔絵看板)が満面の笑みを湛えて客を迎えてくれます。プレハブ造りの店内は、すでにお客さんでいっぱい。まだ11時にもなりません。常連さんとおぼしき男性は「釜玉うどん(釜揚げうどんに卵を絡めたうどん)」をおかずに「ぶっかけうどん」を食べています。「すごいねぇ」「ラーメンライス以上やなぁ」熱々の釜玉うどん私たちは「釜玉」。しょっぱさを感じさせない醤油だれをかけ、青ネギをてんこ盛りにして頂きます。コシのある麺はずっしりとした重量感があり、熱がこもっていてなかなか冷めません。「熱い! 美味い」さすが、るみばあちゃん直伝のうどんです。次の立ち寄り先は隣町の藍住町歴史館「藍の館」。この施設は、地元の大藍商であった奥村家の屋敷が町に寄付され、藍の館として公開されたもの。藍に関する民俗資料や阿波藍の栽培に使われた農業具などが展示されていて、国の重要民俗資料に指定されています。なかでも、藍の栽培から取引き、染色に至るプロセスのミニチュアは圧巻です。ミニチュアによる藍染めのプロセス展示館内で、藍染体験ができるというので、何でもやりたがりの私は早速挑戦。木綿のマフラーをグラデーション染めします。数回に分けて藍の壺に布を浸し、その後は大量の水で洗います。一連の工程の中で、藍は酸素に触れて鮮やかな青色が浮かび上がってきます。不思議です。出来上がった藍染めを広げる私次は、美馬市脇町にある「うだつの町並み」です。「卯建(うだつ)」とは隣家との境界に取り付けられた土造りの防火壁のことで、建造のためには相当な資財を要したため、「うだつが上がっている」ということは、富や成功を象徴することだったのです。時代とともに実用よりも装飾性を競うようになりました。よく言われる「うだつが上がらない」は、地位・生活などがよくならない。ぱっとしないという意味で使われます。軒を連ねる、うだつの上がった商家美馬市のほか、岐阜の美濃市、長野の海野宿でも「うだつの町並み」が伝統的建造物保存地区として指定されています。また、同じ徳島県の池田市にも、きざみ煙草で財をなした商家の並ぶ「うだつ通り」が保存されています。美馬市脇町に残る「うだつの町並み」は、藍、繭、醤油・味噌など商家が400メートル建ち並び、徳川5代将軍の時代からの建造物が保存されています。観光客はまばら。ときたま団体さんが現れますがすぐに移動してしまいます。うだつを保存しながら進む大改修工事工事中の家屋がありました。うだつをしっかり保存して大改修している様子。住民の皆さんのこうした努力が、この町並みを維持しているのだなぁと感じました。うだつのある民家でコーヒーブレイク。そのあと竹筆を購入して私たちも移動します。美馬から遠くない吉野川市にある阿波和紙伝統産業会館へ。阿波和紙の紙漉場を再現した会館で、和紙の製造工程が見学できます。また、ハガキなどの紙漉体験もできるということなので寄ってみることに。到着したときは15時半。紙漉き体験は時間が足りなくてダメ。紙漉場の見学はOKとのことで、鮮やかな手さばきを拝見させてもらいました。手さばきも鮮やかな紙漉き作業最後の立ち寄り先は「阿波の土柱(どちゅう)」。砂礫層が侵蝕され数十の土の柱を作り出している奇勝です。そのうち波濤嶽とよばれる土柱は国指定の天然記念物。アメリカのロッキー山脈、イタリアのチロルとともに世界三大奇勝と称されています。日没の近い山道を走り現地へ。くたびれ感のある土産物店や宿がある温泉地ですが、あまり宿泊する人はいないのでしょうか。しかし、土柱の展望台はきれいに整備されています。この時間になっても訪れる観光客がいます。やっぱり有名なんだ、と妙な感心をしながら、奇観を眺めていました。世界的にも貴重な阿波の土柱オマケの話この日の徳島発羽田行きのJAL便は、芸能人と追っかけのファンだらけ。淡路島の南あわじ市で開かれた「2012年アジア国際子ども映画祭」の出演者です。名誉会長を務める杉良太郎御夫妻ほか、EXILE・MATSUさん、MAX・ナナさん w-indsさん、などなど。このJAL便は小さい飛行機で、クラスJのほかはエコノミー席。MATYUさんらはクラスJでなく一般席に座ったようです。どこでどう情報を得るのか、羽田空港でもファンが出迎えていました。
2012年12月27日
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2日目。夜半から朝まで降り続いた雨はやんでいますが、山は霧に包まれています。私たちの予定は、雨でも影響のない「オリーブ公園」に立ち寄り、11時20分発のフェリーで高松に戻ります。公園に向かう道路には観光バスもかなり走っています。「この天気じゃ紅葉はダメだね」と母ちゃん。「ツアーは予定変更無しやからなぁ」「なんか気の毒…」寒霞渓の展望散策路は、緩やかなアップダウンを繰り返す未舗装道。夜来の雨で歩きにくいでしょうし、霧に邪魔されて景観は楽しめないことでしょう。「気の毒に」と思いつつ、「前日行っておいてよかった」と思ってしまう私たちでした。オリーブ記念館と記念碑小豆島は日本で最初にオリーブ栽培を成功させ、いまも日本一の生産量誇る島。オリーブ公園には、小豆島とオリーブの歴史文化を紹介する「オリーブ記念館」はじめ多くのギリシャ風建造物があります。それもそのはず、小豆島はギリシャのミロス島(ミロのヴィーナスで有名な島)と姉妹島提携しており、瀬戸内海を望む台地に作られたオリーブ公園は、地中海に臨むギリシャをイメージした造りになっています。瀬戸内海を望むイベント広場パラパラと小雨が降りはじめた園内を散策。丘陵地ですが道は舗装されているので歩行に支障はありません。ギリシャ神殿を思わせる「ふれあい広場」、瀬戸内海を見下ろすイベント広場、ミロス島から贈られたギリシャ風車…。柱の様式は分からないけど、神殿を思わせるふれあい広場オリーブに囲まれたギリシャ風車オリーブ公園の中心で愛を叫ぶ!?なかでも面白いのはハーブ園にある「エリエストローダ」。ギリシャ語でオリーブの輪という意味の丸い石畳施設で、声や音が反響し鳴き竜現象を起こす不思議スポットです。石畳の中心に立ち7~8メートル先の女神像に向かって大きな声で想いを語りかけると、自分の想いが相手の心に響くといいます。恋人同士なら、二人並んでそれぞれの想いを女神様に聞いてもらうと、想いが叶います(とのことです)。厚い雲が垂れこめる小豆島をあとに、フェリーは高松へ。色づきを見せる屋島。立ち寄り先の「四国村」はその麓にあります。源平の古戦場「屋島」「あれが源平合戦で有名な屋島や」「なにそれ?」「知らんのかいな。那須与一が弓矢で扇を射ち落したエピソードがあるやろ」「知らん」「はぁ? 源義経が平家を奇襲して打ち負かした場所や。このあと壇ノ浦で平家は滅亡したんや」「そうなんだ。知らんかった」無知なのか、爪を隠した鷹なのか、訳のわからん母ちゃんです。日本史が苦手だったのは確かなようですが…。四国村入口本物より怖い祖谷かずら橋「四国村」。四国各地から古い民家を移築して復原した野外博物館です。50000平方メートルの敷地には四季折々の植物が植えられており、この季節は紅葉を楽しみながら多くの文化財を含む民俗文化財に触れることができます。食いしん坊の私たちには、茅葺きの古民家を改装した手打ちうどん店「わら家」での食事も楽しみ。順路の最初は「祖谷(いや)谷」のかずら橋。池を渡るように架けられた橋は実物より不安定で怖いレプリカです。きれいに保存され、客席も整備されている農民歌舞伎舞台続いて農民歌舞伎舞台。このあたりで気づきました。杖を車に置いてきてしまいました。このあとかなりのアップダウンを繰り返して2時間ほども「村内」を散策するのです。「まあ大丈夫や」と見栄をはって歩きとおしましたが、コースの最後あたりでは膝が上がらず、何度も石段で躓くありさま。アホです。古民家、民具、そして「たらいうどん」を堪能させてくれた四国村でした。茅葺古民家を染める紅葉高松からは、この日の宿泊地・鳴門海峡へ高速道路で移動。1時間足らずでホテルに到着しました。想像していたよりはるかに大規模なホテルですが、気の利いたサービスで2日目(最終日)の夜を楽しませてくれました。ひとつは、この日が誕生日の母ちゃんにサプライズ。レストランでのディナー半ば、女子スタッフの「ハッピーバスディ ツー ユー」の歌声が…。ローソクを立てたケーキを捧げて私たちのテーブルに向かってきました。ショートケーキ5個分ほどもあるバースデイ・ケーキ「お誕生日おめでとうございます」の声とともに、他のテーブルからも大拍手と「おめでとう」が贈られます。心温まる祝福に感謝、感謝です。もうひとつのサービス。ホテルスタッフで構成された踊り連が、ホールで阿波踊りを披露してくれました。熱気あふれる本気の踊りに巻き込まれ、観覧の宿泊客も一緒になって「踊らにゃソンソン」と慣れないながら陽気な手振り足振り。勧められましたが、足の不自由な私は「見るアホウ」に甘んじていました。最終日は「鳴門の渦潮」と「うだつの町並み」見学です。
2012年12月23日
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小豆島には1日目午後から2日午前中まで滞在しますが、時間と天候変化を見計らって日程を調整しなくてはなりません。というのは、1日目の22日は午前中天気がぐずつき、午後からは晴れ間が広がる予報。23日未明から再び雨が降りはじめ午後から徐々に天気が回復するとのことです。この予報は当たるような気がします。徳島空港の阿波踊りモニュメント徳島空港からレンタカーで高松港へ直行。小豆島行きフェリーに乗ります。ちょっとアクセルを踏み込み、ノンストップで高松に向かった結果、予約より1便早いフェリーに乗ることができました。何でそんなに急いだのか――最初の観光は時間勝負!小豆島で、名曲・珍島物語の「海が割れるのよ 道ができるのよ 島と島とがつながるの…」と同じ現象が見られるのです。小豆島南西部の前島から沖に浮かぶ中余島を経て大余島に続く約500m、干潮の前後2時間は「海が割れ」、島と島をつなぐ砂州の道が現れます。波に隠れたエンゼルロード(23日朝)別名「天使の散歩道(エンゼルロード)」と呼ばれ、恋人同士が手をつないで歩くと恋が成就する「恋人たちの聖地」と言われています。この日の干潮は12時。14時には島との道は沈みます。島と島がつながったエンゼルロード港からエンゼルロードに直行。島と島を結ぶ道が出来あがっていました。多くの若いカップルに混ざって、恋とは縁がなくなったような老人たちの団体も来ています。砂州の道を歩いて中余島へ。その先にある大余島へも細い砂州が伸びています。が、島は神戸YMCAの所有だそうで上陸禁止。ずいぶんと無粋な話です。ふと、徒然草第11段を思い出した私でありました。中余島から大余島へつながる海の道。島は立ち入り禁止厚く空を覆っていた雲が少しずつ薄くなってきました。大急ぎで昼食をとり、寒霞渓へ向かいます。ロープウェイ会社への事前取材では22日午後は30分待ち、23日朝なら待ち時間はないとのこと。明日の朝はほぼ雨。「30分待ちでも今日行くのが正解」と判断してGO!です。日没は17時ですから、あまり時間はありません。急げ~。日本三大渓谷美の寒霞渓パノラマ薄く靄のかかった寒霞渓は全山紅葉状態。深く切れ込んだ渓谷の中をゆくロープウェイからの眺めは圧巻。「寒霞渓」は、関東人の「妙義山」「日光」などに匹敵するのでしょうか、乗客みんなが「OH~!」と嘆息をつくほどです。靄のかかった奇岩と紅葉の寒霞渓靄のため瀬戸内海の島なみを観賞することはできませんでしたが、東京人の母ちゃんに、筝曲「春の海」は瀬戸内の景観をイメージして作曲されたものだとか、魚種が豊富で船釣りが楽しいとか、学生時代(半世紀前)の体験や瀬戸内ミニ知識を披歴した、関西人の私でありました。今夜の泊まりは、エンゼルロード傍の「小豆島国際ホテル」。17時頃にチェックインしてオーシャンビューの温泉で、のんびり疲れを癒します。部屋からライトアップされたエンゼルロードが望め、夜中1時過ぎの干潮に向けて道が出来ていく様子が観察できます。ライトアップされたエンゼルロード目の前のヤシの木が邪魔。ほとんど繋がった道を撮影するためにホテルの裏庭へ。風もなく寒さを感じさせません。湿ったぬるい空気が明日の天気を予感させます。第2日に続きます。
2012年12月14日
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勤労感謝の日をはさむ3連休、昨年に続いて秋の四国へ。先日、ショルダーバッグに付けたテルテル坊主をなくしたせいか、天気予報は22日の香川県は曇り時々雨、23日は雨のち曇り、24日の徳島県も曇りと報じていました。「雨女」VS「ギリギリ晴れ男」。どちらが勝つのか微妙なところではありますが、まあ降っても大したことはないと判断して、予定通り22日朝7時30分発のJAL1431便に搭乗し徳島空港へ。1日目は小豆島へ直行します。JAL機からは、二重の笠雲を頂く富士山がくっきり。「笠雲は天気が崩れる前兆」と言われます。低気圧や前線が接近し、日本列島に暖かい湿った空気が入ってくると発生する「芸術的」な雲。機上から見たのは初めてです。雨の予感を抱きつつ、香川・徳島旅行がスタート。遅れ遅れの日記、年内に追い付けるようアップしますので、お付き合いください。
2012年12月09日
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爆弾低気圧のため、室蘭周辺をはじめ北海道各地は大きな被害が出ました。やっと復旧したとのことですが、お見舞い申し上げます。ズルズルと更新遅れを続け、もう12月。いくら古聞と言っても、今さら10月中旬の紅葉情報でもありません。が、中断のままというのも気分がよくないので、思い切り端折って、日光の湯滝・湯ノ湖、群馬県片品村の吹割の滝の画像をお届けします。湯滝(ゆだき)は、湯ノ湖南端から斜面を流れ下る落差50メートル幅25メートルの滝。華厳滝、竜頭の滝と並んで奥日光三名瀑のひとつです。湯滝の紅葉はまずまずの色づき湯ノ湖は標高1478メートルにあり、火山噴火でできた堰止湖。一周3キロの散策路には広葉樹や針葉樹の原生林があり、紅葉の時期には湖面を染めてくれます(今回は歩きませんでした)。少し時期が早かったようですが、気の早いカエデやカンバが鮮やかな色彩を見せてくれました。湯ノ湖近くにある湯ノ平湿原には、湯元温泉の源泉が湧き出しています。湿原に隣接して建っているお寺は「温泉寺」。源泉から引いた温泉が楽しめる珍しい寺で、予約すれば宿坊に泊まることもできます。高温の蒸気を噴き上げる湯元温泉の源泉紅葉に包まれた温泉寺湯ノ湖を後にして車は日本ロマンチック街道を走ります。冬季は閉鎖される金精(こんせい)峠を登りつめ、標高1850メートルにあるトンネルを抜けると群馬県に入ります。金精峠。グラデーションのかかった紅葉に立ち枯れ樹木のアクセント丸沼、菅沼、日光白根山麓の丸沼スキー場…このあたりの紅葉もあと一息。尾瀬への入り口となる片品村を走ること約1時間、天然記念物指定を受けている名勝・吹割の滝に到着しました。魚も登れない鱒飛の滝火山噴火による巨大火砕流の作り出した凝灰岩が片品川に浸食され、河床が割かれたように見えます。その裂け目に川が流れ落ち、水しぶきが吹き上げるので吹割の滝と命名されたとか。迫力のある景色が楽しめます。散策路の吊り橋と吹割の滝同じ時に撮影したのに、まるで雰囲気の違う吹割の滝滝の景観が見下ろせる散策路を一周。こんな時に限って車に杖を忘れ、アップダウンで何度もつまずいてしまいました。散策路から見下ろした吹割の滝
2012年11月30日
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衆院が解散し、総選挙が12月16日投票で行われます。議会制民主主義を無視する3党「談合」マスコミは野田総理の「バカ正直解散」「逆ギレ解散」などと報じていますが、「バカ正直」でも何でもなく、ギリギリまで党利党略の駆け引きを行った結果、解散せざるを得なくなったのです。「解散」と引き換えに国民生活に重大な影響を与える重要法案を通過させるよう、3党談合で決めてしまいました。解散前日の15日、小選挙区制を固定化させる小選挙区「0増5減」法案(自民、民主、生活、公明、みんな、維新など賛成)、赤字国債発行のための公債特例法案(民主、自民、公明など)、高齢者の年金をカットする年金削減法案(民主、自民、公明、維新)が次々衆院通過するなど、議会制民主主義を無視した民自公主導の暴走が相次ぎました。このことについて、マスコミは何事もなかったかのように解散宣言後のバンザイシーンを何度も何度も流し、総選挙に向けた世論誘導を進めています。「自民党型」政治を進める民主政権マスコミが作り出している図式は、庶民の目を欺くものです。民主vs自民・公明vs第3極の対決構図を描き出し、この3者のいずれに票を投ずべきか、「究極のリーダーは誰だ!」などセンセーショナルな報道を繰り返しています。マスコミは日本をどこへ誘導しようとしているのでしょうか。日本のマスコミが「社会の木鐸」としての役割を放棄し、時の権力に追随してきたことはこれまでにも触れてきましたが、3年前の政権交代では「マニュフェスト選挙だ」と、実現への裏付けのない、耳触りのよいスローガンを並べ立てた各党の無責任な「マニュフェスト」を無批判に比較報道し、民主党政権誕生へ「幻想」を振りまきました。自民党政権から民主党政権に交代して3年、無責任な美辞麗句を連ねただけのマニュフェストと選挙公約をかなぐり捨て、「自民党型」政治に逆戻りしていきました。特に野田政権が発足してからは、消費税増税や米軍新基地の押し付け、あるいはTPP参加問題など、自民党時代よりひどい悪政が推し進められました。国民の大きな期待を担って誕生した政権が、なぜ自公政権と同じ政治を強引に進めるのでしょうか。保革対決構造が崩壊、オール与党化への道1970年頃までは、国民の圧倒的多数を占める勤労者の利益を代表する社会党や共産党など革新野党と、大企業や資産家の利益を代表し日米安保体制を推進してきた自民党など保守与党が鋭く対決し、選挙戦でも国会でも激しい論戦が展開されていました。1970年代、革新政党の国会進出が顕著になるや、立会演説会や街頭演説、選挙中の政治活動が厳しく規制され、選挙期間も短縮されました。「国民政党」という言葉が連発され、各党の基本綱領、政策の差が曖昧化され、政策論戦は消え、タレント候補の知名度、カッコよさ、などを利用して議席をかすめ取るイメージ選挙が展開されるようになりました。1993年、戦後日本を支配してきた自民党政治にウンザリとしていた国民は、細川氏率いる「日本新党」を中心とする政権に期待を寄せました。ところが、自民党脱走者・民社党・社会党脱走者らを寄せ集め、満足な政策協定もなしに成立した「連合政権」は、オール与党化への足がかりを築く役割を果たし、ついには自社連合による村山政権を生み出します。労働運動家として庶民の立場で活動してきた村山氏が、あろうことか小選挙区制、消費税など自民党政権が永年懸案としてきた悪法を一気に成立させ、社会党の威信を失墜させ、自身の経歴を汚してしまいました。政策的相違点がないような「新党」結成ブーム・与野党一体化・悪法強行を重ねた1994年当時の状況と、野田政権の悪法強行・少数政党乱立という現在の状況は、あまりにも酷似しており、選挙後の超保守連合の危険性が懸念されます。財界中心、アメリカいいなり政治の破たん日本の政治は、自民党政権の末期いらい、短い期間に首相が交代する、不安定な政治が続いてきました。巧みな演説とパフォーマンスで国民の目を眩ませ、異常な「構造改革」を強引に進めて国民の暮らしを破壊した小泉純一郎政権のあと、安倍、福田の両首相はそれぞれ1年前後で政権を投げ出し、麻生政権も1年足らずで民主党と政権交代。民主党政権になっても鳩山~菅~野田と3人も首相が短期間で交代してきました。こうした短命政権が続いているのは、自民・公明党政権も民主党政権も、財界中心・大企業保護とアメリカ追随を基本とする「昔ながらの」政治を推進しようして、数えきれない矛盾をさらけ出し、国民の批判に耐えられず崩壊して行くからではないでしょうか。自民党から民主党への政権交代自体がその証明です。小泉政権が本格的に始めた「構造改革」路線は、大企業に対する減税や「規制緩和」の一方、国民に社会保障改悪などの負担増を押し付け、国民の貧困と格差の拡大は戦後最悪といわれる事態になりました(「小泉改革」なるものの罪悪について以前触れたことがあります)。安倍政権以降の政権もその大企業本位の政治を続けたため、ついに政権を失うことになったのです。民主党はそうした「自民党の政治を変える」と約束して政権についたのに、結局は公約を次々投げ捨て、大企業への規制を強化する労働者派遣法の改正は骨抜きにし、大企業減税は続けながら国民に負担を押し付ける、消費税増税と社会保障改悪の「一体改革」は推し進めました。アメリカいいなりの政治でも、米軍の普天間基地は「国外」に移転させると約束したのに、沖縄県内に新基地を建設する県内「移設」を押し付けています。アメリカいいなり、財界本位の政治を続ける限り、国民との矛盾を深め、行き詰まるのは当然です。いまや日本の政治の「害悪」ともなった「自民党型」の古い政治を一掃しない限り、国民の暮らしや経済も、日本の主権や平和も、守ることはできません。第3自民党化は避けられない第3極「民主党に裏切られ、自民・公明党には政権を委ねたくない。既成政党ではもう駄目だ」こうした声に便乗して、雨後の筍のように「新政党」が次々生まれています。とりわけタレント弁護士が率いる「維新の会」、元自民党タカ派の作家が率いる「太陽の党」は、政策的な隔たりを無視して連合し、総選挙の台風の目と報じられています。しかし、脱既成政党を標ぼうする彼らの党は、保守政党を補完するだけの役割しか果たせません。小泉氏顔負けのパフォーマンスによって、威勢のいいことを叫んで、何か新しいことが起こるかのような幻想を振りまいていますが、「第3極」と言われるそれら政党に、日本の将来・国民生活を託すことはできません。「維新・太陽」などに馳せ参じた政治家は、民主や自民とそれらの亜種政党からの脱走者であって、既成政党の思考と行動原理によって生きてきた者たちです。新しそうな「第3極」も「古い政治」の枠内で、第3自民党化することは明らかです。一貫した綱領的立場、具体的政策はなきに等しく、原発再稼働を巡っても一貫した姿勢を守れず、いまや脱原発の旗印さえ下ろした彼ら「第3極」。「政権さえ取ればなんとかなる」程度の感覚で、国民を扇動しようとするパフォーマーたちを信じるわけにはいきません。マスコミの作り出した「民主vs自公vs第3極の対決構造」は、つまるところオール与党、財界中心・アメリカいいなり・原発依存という共通した基本姿勢を持つ勢力の「小競り合い」でしかないのです。「分からないから」では済ませられない状況が起こりつつあります。マスコミの予測では、単独過半数を獲得できそうな党はなく、選挙後には「大連合」が起こらざるを得ないと。そうなったとき、第3極をどう扱うのか、が問題だと。タカ派で知られる全国紙は「第3極とタカ派である自民総裁の連携」を社説などであおり、別の全国紙は「改憲、原発推進、税と社会保障の一体改革などを進める」党に将来を託すべきと主張しています。日本の将来を左右する課題を判断の基準にこうした危険な風潮に対し、日本の将来を左右するいくつかの課題を試金石にする必要があると思います。 ・憲法第9条を守るのか、 改憲して軍備増強せよと主張するのか ・原発を廃止して再生可能エネルギーを活用するか、 原発を再稼働・推進するのか ・消費税など庶民いじめの税制を廃止するのか、 大企業・大資本家優遇の税制を続けるのか ・高齢化、少子化に対応し安心な老後と子育て実現するのか、 高齢者と子供たちを犠牲にするのか ・TPPに反対し食料の自給自足を進めるのか、 TPPに参加してアメリカに奉仕するのか ・アメリカとの軍事同盟を見直すのか、 アメリカのいいなりを続けるのかこれらの課題に対して、それぞれの党がどのような政策を示しているか、今までどのように主張し行動してきたかを、何とかして見極める必要があると思います。マスコミ任せ、ムードやイメージ優先で一票を投じてはなりません。軽率な一票の結果が生み出す悪政に苦汁をなめさせられるのは国民自身です。その政党は誰の利益を代弁しているのかちなみに、どの党も国民という言葉を乱発し、国民全体のために政治を行うかのような印象を与えようとしています。しかし、政党というのは、それぞれ国民のある部分の利益を代弁する存在です。個人的には信頼できる人であっても、所属政党がある層の利益のために行う政治行動に同調しないわけにはいきません。「信頼のおける個人」に投票するというのは、代議制度を知らない人の考えることであって、まったく意味がないのです。いま、オール与党の枠組みに取り込まれた多くの政党が、「大資本中心、アメリカいいなり」の姿勢をとるなかで、国民の90%以上を占める勤労者、零細企業、個人事業主…の利益を代弁する政党はあるのでしょうか。それを探し出す義務は国民自身が負うものでしょう。戦後長きにわたって政権を担当してきた自民党が、財界中心の政治を続けてきたことは明らか。自民党が利益を代弁してきたのは大企業と大資本家ということができます。そのためにどれほどの政治献金が財界から提供されてきたのでしょうか?昔の社会党は、組合ぐるみ選挙、労組からの献金など多くの矛盾を抱えつつも、主観的には労働者の利益を代弁しようとしてきました。では、民主党はだれの利益を擁護してきたのか、だれから見返りの献金を得てきたのか、考えてみましょう。民主党政権が行った政治がそれを証明しています。各政党がどのように美辞麗句を連ね、正体を隠ぺいしようとも、その政策・行動をよく見ると、だれの利益を代弁する政党か、見えてきます。庶民の生活と健康を守り、平和な日本を建設する政策を掲げ、行動している政党を見つける責任は、私たち自身にあると思います。
2012年11月19日
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