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会場が暗くなると小沢自身が数時間前に録音したというアナウンスが流れる。ニュートンの光の7元素というかなり固い話。「ノリノリだぞ」「盛り上がっていこうぜ」みたいなのとは全く正反対のトーン。そして今回のライブでは昔ー90年代のオザケンの声やその頃に出した音源を一部で使うとのアナウンスがされる。明らかに「わかりやすい」タイプのライブではないことが僕らに伝わる。一曲目は新曲でどちらかというと地味目な曲で、この日のライブの敷居の高さが予感できる。次の曲は「ある光」。90年代のオザケンの「さよなら」を象徴する名曲で、この曲が2曲目に来たことで今日のライブがどのようなものであるかが示される。そして彼は自分のトラックづくりのネタばらしを始める。彼は作曲するときドラムの生音をサンプリングしたリズムマシーンでまず曲の骨格を作り、そこに音を重ねて音楽を作っていくのだという。そしてあるリズムパターンを演奏し、この骨格が彼の目の前に現れた時に名作ができる予感を感じたという。そしてそのリズムパターンから「愛し愛されていきるのさ」が目の前で姿を現す。この日のライブはそんな名作「ライフ」の誕生から「球体の奏でる音楽」、そして「ある光」を経て「指さえも」に至るまでの小沢自身の「私小説」が語られる。残念ながらチケットを取ることができなくて「ライフ再現ライブ」はいけなかった。しかしそれから約1年以上がたち、久しぶりのツアー。だからこそ。その「ライフ」がもたらした彼にとっての1990年代を語る時が来た。今回のライブはそんな重いライブだった。それはもしかしたらジョンレノンにとっての「ジョンの魂」と似たような、そんな小沢自身の挑戦と総括だったのかもしれない。小沢健二は自分にまつわるイメージを「青」と「赤」の交わりとして象徴させていた。1995年1月にリリースされた「カローラ2に乗って」。それは爆発的に売れたという。それと同時にストライプのシャツを着た植物系の好青年「小沢健二」という「青」のイメージが流通してしまった。彼はそれに違和感を感じもっとギラギラしたそして徹底的に多幸感にみちてハイテンションな「赤」のイメージの自分を半ば演じるように生きてきた。そう話す。そして阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件といった1995年を象徴する出来事や事件と急ブレーキが効かなくて奈落のように崖を落ちていくかのような日本社会の大反転。そうしたことが彼の作品に影響を与えた。彼自身は「ライフパート2」みたいなハイテンションなアルバムを作りたかったし世間もそれを望んでいた。だけれども「赤」と「青」の葛藤や日本社会の変化への敏感な察知、そうしたものがそれを彼に許さず、「球体の奏でる音楽」という作品ができてしまう。それは彼にとってあの時できた「ブルース」の解釈だった。ブルース。憂鬱さや葛藤や焦燥など生きていくと必ず付きまとってくるマイナスの感情。それを昔の彼はうまく表現できなかった。そして今なら自分はこういうふうにそれを演奏するだろう。そう言って新曲を披露する。それは本当に彼自身の1990年代の告白であり、そして彼自身についての「私小説」だ。開演前の会場を見渡すと1971年生まれの僕とだいたい同年代の人ばかりだった。だからということでこうした私小説を披露したのかもしれない。だから一か月前に初めて「ライフ」を聴いて感動した女子高生が今日たまたまライブに来た。そういうお客さんがいたとしたら、今回のライブは退屈だったかもしれない。あるいは「ライフ再現ライブ」で盛り上がって、その第二弾を期待して今回のライブに来ました。そうしたお客さんがいたとしたら、その人も少し「あれっ」と戸惑ったかもしれない。今回のライブにアピールしたのは「ライフ」をシリアスに聴きこみ、その後の小沢健二も追い続け、当然「ecletic」や「so kakkoii 宇宙」も買った。そんな人たちに向けてのライブだった。1994年当時、僕は本当にCDが擦り切れるほど「ライフ」というアルバムを聴いた。それは。多分その時に失恋したことと無関係ではないと思う。あの頃は今と比べると愚かでその分人生に対して誠実で、今よりも純粋で、だからこそ恋を失った時の苦しくて胸が痛くて切ない気持ちをすごく重く感じていたのだろうと思う。それが理由で「ライフ」で歌われる「恋愛の絶頂期」の多幸感に大きな輝きを感じたのだろうと思う。そして1995年。それは僕にとっても大きな転機であった。そうした僕自身の「私小説」が小沢健二の「私小説」とリンクした。そんな個人的な事情から、僕は今回のライブが確かに敷居はかなり高かったけれど「よかった」と思った。ライブの本篇は「流動体について」という「現在地」で終わった。そしてアンコールで「強い気持ち 強い愛」が演奏された。昔の楽曲も「流れ星ビバップ」「ドアをノックするのは誰だ」といったどちらかというとあまり演奏されない曲をあえて持ってきた感じがあった。ならば今日のライブはよかったのか。それこそ昨日ネットで絶賛されていた「ライフ」を、初めて聞いた女子大生にも勧められるライブだったのか。それはわからなかった。それでも今回のライブを「退屈で面倒くさかった」と片付けられない事情が僕にはあった。それは今回初めて小沢健二の「私小説」を聴いて、僕も小沢健二も確実に1990年代という時代を「生きて」いた。そんなことを思い起こさせてくれたからだ。あれから長い年月が経ってしまった。でもまだ僕にはそれを過ぎ去った歴史として忘却することができない。10時過ぎまで続いたライブの後、それをかみしめるようにあのときを少し振り返っていた。
2026.05.15
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高校生からヘア***雑誌になる前まで、宝島誌はよく読んだ雑誌だった。キャプテンレコードから出たレコードやCDもそれなりに買っていた。コンサート会場に現れる宝島少女は何となく好きだった。そんな青春時代を過ごした僕にとって、「東京ロッカーズ」のムーブメントはほぼ神話上の出来事だった。S-KEN、フリクション、リザード、ゼルダ…。それは僕にとってもはや神話上のバンドだった。そんな出来事をテーマにした映画が創作された。それは出来云々ということを度外視にして必ず見に行かなければならない映画でもある。そんな映画が「ストリートキングダム」という映画だ。ストリートキングダムの映画はいきなり「解剖室」ことスターリンのハチャメチャなライブが引き起こしたトラブルで幕を開ける。そのあとは主人公ユーイチが70年代安保の後のしらけムードの中、鬱屈しながら田舎の暮らしを写真で写しながら生活している場面に戻る。そんなある日ユーイチはラジオから流れてきたセックス・ピストルズに衝撃を受け、東京へ行くことを決意する。そしてミニコミ誌を自主出版しているサチことゼルダの小嶋さちほと出会い、その紹介で今まさに生まれようとしている新しいロックシーンの現場を目撃することとなり、その新しい音楽に触発されながら写真を撮り始めることとなる。そうして物語は始まる。S-KEN、フリクション、リザード、ゼルダ、スターリン、じゃがたら…。そんな神話上の人々やバンドたちの生きざまやその時の状況に対するアティチュード、そして主人公ユーイチがその新しい音楽に出会った後の生き方、それを描いたのがこの映画である。スターリンだとかフリクションだとかの音楽を前にこのようなことを言うと遠藤ミチロウにつばでも吐かれそうな気がするけれど、この映画が素晴らしいのは、夢、希望、友情を描いた青春群像だからだと思う。映画はユーイチと蜥蜴ことリザードの中心人物モモとサチの三人の友情を軸に展開する。S-TORAことS-KENのスタジオに集まった人々は新しい現時点の「東京」にふさわしい音楽を独自に追求していき、それは形になって今までにない新しい音楽をそれぞれ奏で始める。そしてS-TORAのもとで集まった集団全員で全国ツアーをはじめ大きな反響を集める。そして「東京ロッカーズ」というコンセプトがまとまり、それは新しい「東京」の音楽として大きな話題を引き起こす。ユーイチはここに集まっている人々の中で唯一「まともな人」だからという理由でマネージメントの役割を皆に頼まれる。それからユーイチは東京ロッカーズの面々と大きなかかわりを持つようになる。自分が作った音楽がそれを聞いた人々を変え、そしてそれを通じて世界を変えてしまう。そんな存在になるという夢。ところも時代も全く違うけれど、ハンブルグの小さなライブハウスで8時間ぶっ通しでライブを続けながら世界中のラジオで自分たちの音楽が流れる、そんなことを夢見ていたビートルズ。そんな今も昔も変わりがないバンドマンの夢。それをうまく描いたからこそ、この映画は素晴らしいものになったのだと思う。今までにない新しい音楽、そしていわゆる今までの「ロックスター」とは違う「自分」の世界に対するアティチュード。それははじめは何とかうまくいく。しかし音楽を広くいろいろな人々に伝えるには「音楽産業」の力なしでは難しい。特にこの時代では。そうするうちに自分の「夢」と音楽産業のお約束やロックスターのシステムに絡めとられ、次第に理想と現実との間に乖離が生まれる。そんな夢と現実の板挟みの中苦悩し、破滅へと走って行ってしまう人もいる。そんな悲劇のヒーローを蜥蜴の中心人物のモモが演じる。それでもユーイチはモモを見捨てない。挫折したモモを見守り続けるようにサチとユーイチは出会った頃の友情を保ち続ける。映画のメインストーリーはそんな感じだけれど、そこに差し込まれる挿話も印象的だ。解剖室の未知ヲことスターリンと関わり合いいろいろなトラブルに巻き込まれるユーイチ。その出会いによって大きな影響を受け自分でレコード会社を立ち上げるきっかけとなったヒロミこと江戸アケミとユーイチの出会い。そしてこの映画が成功しているのはそれぞれの役を演じる俳優陣が生き生きとしてその役を演じているからだと思う。ユーイチ役の峯田和伸、モモ役の若葉竜也、サチ役の吉岡里帆。それぞれの役を愛情をもって生き生きと演じている。それぞれの役者さんが本当に自分が演じたい役を演じている。それがこの映画のケミストリーとして相乗効果を起こしていると思った。また未知ヲ役を仲野太賀が演じているという意外なキャスティングも成功していると思う。未知ヲのステージでは破天荒だけれど、それ以外の日常では紳士という役をうまく演じていると思う。中村獅童のヒロミ役も迫力があった。そしてこの映画のエンディングはリザードの名曲「宣戦布告」の峯田と若葉によるカバーバージョン。このカバーもすごくよかった。宝島にかかわったために見に行かざるを得なかった「ストリートキングダム」。正直を言うとどうしようもない映画を見させられたらどうしようかという不安の方が大きかった。しかしこの映画は見ていて楽しくて感動できるような作品だった。それは最初に書いたように、「夢、希望、友情」を描いた青春群像というオーソドックスな映画のフォーマットで作られた作品で、そして出演者が素晴らしい演技をしてくれたから。それに尽きるのだろうと思う。
2026.04.19
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もしクロマニヨンズの新作のアルバムを聴いて「いい」と思ったら、ライブのチケットを手に入れることをお勧めする。そして新作を10回くらい聞き返せば曲を覚えることができるだろうから、それだけでライブを楽しむことができる。ついでに「タリホー」や「エイトビート」あたりの曲を聴きこんでおけばもっと楽しいかもしれない。東京地区では最後の公演になる4月1日のライブ。それはいつもと同じ構成のライブだった。新曲を全部演奏して、昔のクロマニヨンズクラシックスの曲を演奏する。もう結成して20年くらい経つベテランバンドだけれどライブのその流れはほぼ変わりがない。照明が凝っているわけではないし、ステージセットが凝っているわけでもない。もしかしたらブルーハーツのころの方がもっと凝った演出をしていたのではないか。それくらいシンプルな演出だ。新曲の方が今の自分たちのことを表現できているだろうから新曲は全部やる。でも20年もバンドを続けているわけだから「グリセリンクイーン」だとか「エルビス」だとか「ペテン師ロック」とかのちに残るような名曲がどうしても出来てしまうのだからそれももちろん演奏する。そんな「普通」のことをできてしまうこと。そしてそれが僕のような約40年くらいヒロトとマーシーを追い続けてきた人を感動させてしまうこと。それは多分奇跡に近いことだと思う。クロマニヨンズは今特別な場所にいると思う。彼らにブルーハーツやハイロウズを求める人はいない。そして日本のロックシーンを見渡して何か新しいことや珍奇なことをやってほしいと求める人もいない。クロマニヨンズにはただ自分たちがやりたい音楽をやってもらって、それを僕らは聴いていたいと思う。今のクロマニヨンズの目標は多分、ギター、ベース、ドラムス、ボーカルという最小編成のバンドの形でできることを追求する。そこにあるのだろうと思う。最小編成のバンドだからこそやれることはすべてやってしまおう。「グリセリンクイーン」の歌詞のように。その反映が例えば新作に入っているマーシーがボーカルを取った「シクヨロ神様」みたいな曲なのだろうと思う。スローペースでヘビーだけどポップでアルバムの中でも異彩を放っていて非常に印象的なその曲。今回のライブでも当然演奏していたけれど、CDで聴いた時よりも印象的でライブのハイライトの一つだった。新曲もよかったし「グリセリンクイーン」「エルビス」「タリホー」といったおなじみの曲もよかったけれど、最後のアンコール2曲目の「NO1野郎」の演出が個人的にはしびれた。垂れ幕やスクリーンがすべて落とされてステージがむき出しのコンクリート壁になる。それはまるでガレージの中で彼らが演奏している。そんな演出がLEDやコンピューターを使った最新鋭のステージセットよりも彼らにあっていて、しかも身震いするほどかっこいい。それが彼らの今を象徴していたような気がする。考えてみると16歳にブルーハーツと出会い、18歳に彼らのライブを初めて見て、今までヒロトとマーシーを追い続けている僕は多分もっとも幸せなロックファンなのだろうと思う。過去の名曲にしがみついて「少年の歌」を何十年やり続けているんだみたいな嘲笑の対象にもならず、ブルーハーツやハイロウズの名曲は過去の伝説として、新作がいまだにかっこよくて説得力のある彼らにとっての「今のリアル」である。それを僕はいまだにかっこよくて素晴らしいと思える。リンダリンダを生で一生聴けなくてもいいから、彼らには「毎秒が伝説」であってほしいと思う。JAMBO JAPAN [ ザ・クロマニヨンズ ]
2026.04.02
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ラブタンバリンズのエリーのヌード目当てで、ヤフオクにて1996年発売のサブカル雑誌を競り落とした。お目当てのエリーのヌードは掲載されてなかった。でもせっかく競り落としたのだからとその雑誌を読んでみた。そうしたら意外と自分の感性に合っていて面白く読めた。というよりこの雑誌を自分が作文し編集したのではないかと錯覚するくらい自分の感性にマッチしていた。最近はそんなことばかりだ。1996年から約30年近くの時間がたち、あの頃がセピア色の記念写真のように歪んで美しくみえる。確かにあの頃は若かった。でもいいことばかりではなく、いや、むしろ苦い気分を抱きながら毎日を過ごしていた。そのはずだ。時間の魔力は恐ろしい。どんな苦々しい日々も良き思い出に変えてしまう。僕はもう終わりなのだろうか。90年代という時代に取り残された古生代の化石なのだろうか。ほんの最近、自分のブログにかなりの力量でAdoについての批評のようなものをアップしてみた。そうしたら珍しいことにコメントをつけてくれた人がいた。そのコメントを見て少なからずダメージを受けた。「視点から文章まで、何か古臭い感じが漂ってますね。全体的に見てオジサンが無理しているという感じがいっぱいです。そんな感じでAdoを語られてもあんまりピンとこないというかどうでもいいというか。Adoのすばらしさは今更こんなふうに語っていただかなくても私たちにはわかります。管理人さんも無理をなさらず自分の感性に合う古い音楽を語っていただければいいかと思います。そういえばブルーハーツについて書かれている記事は読みました。それはよかったと思いますよ。」そうか。僕の感性は古臭いのか。それならと思って少しだけ昔のチャットモンチーについて書いてブログにアップしたら見事にノーアクセスだった。少なくとも2000年まではこう言って格好がついた。僕は第三次世界大戦のシナリオライターを目指している。それではそのシナリオライター君は2001年の9月11日を予想できただろうか?ニューヨークのビルに突っ込んでいくジャンボ機と崩壊するビルを見て、自分の想像力など甘すぎて使い物にならないと思った。少なくとも第三次世界大戦のシナリオライターなんてお笑い草だと思った。現在の状況はあのころには想像できなかったほどひどいことになっている。世界を揺るがす戦争が連鎖的に起きて未だに終わりが見えない。世界をパンデミックが遅い、異常気象のせいで世界中が極端な熱波や寒波そして台風やハリケーンに悩まされている。ネット社会の新しいタイプの犯罪が街中を騒がせ、貧困がこの国を蝕んでいる。こんな2020年代を僕は予想できなかった。それも無理な話だ。1999年に恐怖の大王が降りてくる。世界の終わりはそこで待っている。その程度のことしか僕はその時書けていなかった。どれもこれも90年代の決まり文句のコピー。その時代にしか通用しない感性と文体。だけれども、それがあの時には少なくとも僕にとってはリアルだった。ミッシェルがんエレガントの「世界の終わり」。それを思うと今でもうっとりとした気持ちになれる。赤い月が昇るのを待ち続けていた彼女。それを否定も肯定もせずただ見守っていた「僕」。その風景が僕を生かし続けていた。そこから僕は大きな勇気と希望を見出していた。砂を噛むようなざらざらした感覚を90年代の空気から感じていた僕。それを象徴するミッシェルガンエレファントの歌の世界。それで僕はそのざらざらした感覚をそのまま言い表そうとしていろいろ試してみた。それがどれほどのものであるか。そんなことは構わずそのざらざらを白紙の手帳にたたきつけるように書いた。正しいとか間違っているとかそんなつまらないことなど考えることもなく。まるで泳げない人が必死で大海原をクロールしているかのように。そんな古き良き90年代の話に戻ることにしようか。それは僕にとってはほんの少し昔のことであり続けている。あの時の音楽の話だ。ラブタンバリンズのエリーはあのころ、女性シンガーのロールモデルであり、スターであり、かつセックスシンボルでもあった。少なくとも渋谷系界隈では。その歌声、ポジティブな歌詞、音楽性、そして彼女たちが醸し出す空気感すべて。新しくてある意味で攻撃的で、そのころの女性シンガーの象徴的存在だった。でも今になってその音楽を聞くとこう思ってしまう。あまりにも90年代的な音楽だと。90年代という時代に規定されている音楽だと。それも致し方がないことかもしれない。彼女たちは90年代という時代に殉じたのだと思う。だからこそラブタンバリンズはあんなに僕らにとってリアルで等身大な表現だったのだ。最近になって懐かしさを感じて、ヤフオクで購入したラブタンバリンズのCD。それを聞いて懐かしいと思う。あのときはそんな感じだったなと感傷的な気分になる。そんなノスタルジーに溢れたムードミュージックに変わったラブタンバリンズの曲たち。それは彼女たちに罪はない。90年代も今も彼女たちが作った曲は同じ旋律とリズムを刻み続けている。それをそんなふうに感じるのは、多分僕がそのころを生きていたがために生じたバイアスのようなものなのだろう。1995年ころにはこの国はもう踵を変えてあらぬ方向へターンしつつあった。僕も感覚的にそれを感じていたけれど、それを言語化することはまだできなかった。だからその頃の呑気な僕の文章を読み返したいとは思わない。あのときはまだ僕も少しは夢を持つことができた。例えば愛し愛されて生きるとか、それなりに老後の生活ができるくらいの資産だとか、それなりに豊かな社会が続いてくれることだとか、凡人が普通に考えるそれぞれ。そのころ僕はまだ平凡を受け入れていなかったけど、今から思うとそのすべてが何もかもありがちな話だ。そんな今からすると吞気すぎる愚かさで毎日を過ごしていた。その挙句の果てに、僕は崖っぷちの生涯未婚者にカウントされることになってしまった。もっとも最近生涯未婚者は流行りの存在で、5人に1人は無縁仏として葬られることになるという。昔から一番の流行に乗るのが好きだった僕らしい初老だと思う。汚らしい潰れかけた公営住宅の一室で孤独死する自分をイメージする。あまりいい感じではない。少しぞっとする。これが自分の望んだ生き方なのだろうか。これが自分にふさわしい終わりなのだろうか。それを考えると後悔と惨めさでいっぱいになる。何か別の生き方はなかったのかと絶望的に憂鬱な気分になる。そんなことを実感を持って思ってしまうのも自分の周りで物故者が多くなったせいもある。僕がヒーローとして憧れていた人たちがいなくなったこともある。デビッドボウイ、ルーリード、忌野清志郎、チバユウスケ。僕は確実に老いの初期段階にいるのだ。今僕が好んでやっていること。それはこんな惨めで悲惨な初老を誰かのせいにしようと、責任転嫁のための犯人捜しをし続けている。そんなことをしたところで何も生産的なことにつながらない。どんなに自分の境遇を誰かの陰謀だと針小棒大に叫んでみたところで、5人に4人は普通に結婚して普通の初老を迎えている。その事実を見れば、結局この惨めで悲惨な老後は自分の責任に帰ってくる。最近の僕の90年代ノスタルジーはそんな自分の責任を見ないための逃避行動のように思えてならない。今の自分を一覧表のように書いていったら悲惨な項目のみしか思い浮かばない。でも90年代のことならば少しは楽しい思い出をそれなりに共有できる。どうして1999年に世界は終わらなかったのだろう。その頃に何もできなかった負債で首が回らなくなった今、つくづくそう思う。そう。あのころリアルだったミッシェルガンエレファントの「世界の終わり」にかかわる話だ。1998年のフジロックのミッシェルを今も昨日のように思い出せる。2000年のフジロックのミッシェルも鮮明に覚えている。あのとき吠えるように歌っていたチバがいなくなったなんて信じられない。あの頃は若かった。みんな若かった。それだけですべてが美しかったように錯覚する。そんなものは嘘でしかない。ミッシェルが解散したとき、自分の最後の青春が終わった気がした。その時は漠然とした感覚でしかなかったけれどそれは正しかった。みんな終わったことにしよう。90年代も、ミレニアムも、WEB2.0 も、民主党の悪夢も、確実に傾いてきた日本も、狂い始めた民主主義も、そして世界の終わりも。僕は半分死んだように生きている。ノストラダムスに裏切られてから自分の生きるスピードは確実にピークを終えている。僕に逆転のチャンスはあるのだろうか。そもそも僕に何か光るものが本当にあったのだろうか。そんなことを信じられた「世界の終わり」の日々は、もう30年以上も前のことだ。デッドマンギャラクシーデイズ。ミッシェルの最後のアルバムでチバはそう叫んでいた。今聞いてもその音はざらざらしていて、ヒリヒリと心にやすりをかけるような感覚に満ちていて、少なくとも2000年代には終わってしまった僕のハートを熱くしてくれる。銀河の果てには何があるのだろう。多分何もない。どん詰まりで言葉が尽きてしまったこの文章。もう何も言うことなんてない。すべてが終わった気がする。僕の感性。僕の言葉。僕の精神。僕の肉体。僕の憂鬱。僕の希望。すべてが時代に裏切られていった。あるいは時代が僕を追い越していった。当たり前の話だ。2025年にふさわしい言葉や表現を担うべき人は90年代に生きていた僕ではありえない。2025年という時代と心中するつもりで生きている若い世代の彼や彼女たちだ。そして僕はこの場所でくたばっていくしかなくなった。僕は。そう。あまりにも遅すぎた。もう僕にできることは何もない。僕にできることは90年代をトレースし続けること。それくらいしか思い浮かばない。ヤフオクで買ったサブカル雑誌にお目当てのエリーのヌードはなかったけれど、ネットで調べたらある写真集にエリーのトップレスの写真が掲載されていることを知った。今度はメルカリでその写真集を900円で手に入れた。お目当ての写真があった。そのページを切り抜いて部屋の壁に貼ってみた。いい感じだった。殺伐とした僕の部屋が、ますます哀れな老年独身者らしくなった。その頃の若いエリーの裸を見つめていた。とても美しいと思った。すべて90年代の思い出としてそこに置いておこう。若かった僕も、若かったエリーも、若かった彼も、若かった彼女も。そして僕はまた、デッドマンギャラクシーデイズを生き続ける。ラブタンバリンス ミッドナイトパレードthee michelle gun elephant ミッシェルガンエレファント / SABRINA NO HEAVEN (180グラム重量盤レコード) 【LP】thee michelle gun elephant ミッシェルガンエレファント / SABRINA HEAVEN (2枚組 / 180グラム重量盤レコード) 【LP】
2025.11.01
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僕が初めて買ったレコードはビートルズの「ラバーソウル」だ。そのラバーソウルの解説がレコードの歌詞シートの冒頭に書かれていた。その解説、いわゆるライナーノーツに書かれた文章は非常に優れた「ラバーソウル」の解説だった。レコードジャケットの芸術性、全曲オリジナルのアルバム、その音楽の変化や革新性。「ラバーソウル」というアルバムをビートルズのキャリアの中でどのような意味を持つものなのかをわかりやすく解説しながら、そのアルバムがどのような時代背景の中で発表されたかということも触れながら「ラバーソウル」の歴史的価値を解説していた。そのライナーノーツを読んで、初めてこの優れた解説を書いた人は誰だろうと興味を持った。ライナーノーツの最後には「音楽評論家」「渋谷陽一」と書かれていた。初めてロッキングオンを購入したのは1987年の12月号。ミックジャガーが表紙だった。ロッキングオンという雑誌はそのころの音楽雑誌としてとても独特で奇妙だった。ロッキングオンは編集者やライターの顔が見える雑誌だった。いや。顔が見えるというより編集者や編集長やライターの「思い」が全面的に出ている雑誌だった。それはまるでアーティストよりも「自分が書いている」「自分が編集している」ということが前面に出ている。そんな感じ。だけれども、それまで読んでいた音楽雑誌よりも、ロッキングオンで取り上げられたアーティストへの愛情や批判的意見、そうしたものがよく見えて読んでいて面白かった。80年代末期は渋谷陽一氏がロッキングオンの編集長を退き、増井修氏にバトンタッチをする直前のころだ。それから7~8年間の間、僕の青春はロッキングオンとともにあった。渋谷陽一氏の最大の仕事の一つはロッキングオンという雑誌を創刊したこと。そしてロッキングオンを通じて「渋谷イズム」とでもいうような、独特なスタイルで日本の洋楽業界を刷新したことだ。90年代以降も元ロッキングオン編集者たちが自分なりに「渋谷イズム」を解釈しながら音楽雑誌を創刊していった。それぞれの音楽雑誌によって表現方法は異なるけれども、それらの雑誌に共通していたのは編集者ないし編集長の顔が見える雑誌作り。それが共通していた。90年代だと、レッチリやプロディジーや奥田民生に対する評価やライナーノーツが記憶に残っているけれど、渋谷陽一氏は音楽評論家としての顔だけでなく、雑誌作りやテレビの番組作り、そしてロックインジャパンなどのフェスの立ち上げなど、プロデューサーとしても非常に優れた人だった。それでも「渋谷陽一」という名前を聞くと僕はロッキングオンの創」刊者でもあり編集長だった人だという印象が大きかった。ロッキングオンがなければ、松村雄策氏の素晴らしい文章に出会えなかったし、一條和彦氏や岩見吉郎氏や増井修氏や山崎洋一郎氏やタナソウ氏など印象深い作家やライターや面白い雑誌を作る雑誌編集者と出会うことはなかった。そしてこのように細々だけれども、音楽に関する文章を書き続けることもなかった。ビートルズの「ラバーソウル」に渋谷陽一氏がライナーノーツを書き、それをたまたま読んでしまった。それが今から考えると僕にとって、とても大きな出来事だった。ロッキングオン10月号に渋谷陽一氏の代表的な評論「海には出たけど泳げない」が再録されている。ロックスターを目指すのではなく、「音楽を語ること」を選んだ渋谷陽一氏。ある音楽のすばらしさを文章で表現することのむなしさや不可能性。その中で悪戦苦闘し、音楽を語ることの一つのひな型を作り上げた功績。そしてプロデューサーとして日本の音楽に多大な足跡を残した功績。僕が必死にロッキングオンを読んでいた時には、このようなこと、渋谷陽一氏が亡くなってしまうということが起こるのを予想することもできなかった。時間がたつということ。それはもしかしたら、死に近づくということなのかもしれない。何か気の利いたことを書きたいのだけれど、書くことができない。プールには来たけど泳げないかのように。ロッキングオンという素晴らしい雑誌を作ってくれてよかった。それは多分、ある一人の青年の青春とともに走るのに最も適した雑誌だったと思う。偉大な編集長に追悼の言葉を伝えたい。多分ロッキングオンに投稿しても採用されることがない駄文であると思うのだけれども。
2025.09.24
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小沢健二の音楽キャリアには断絶期がある。「Eclectic」というアルバムを発表してから長い間、曲を発表しなかった。その結果、彼が90年代に発表した作品はまさしく90年代という時代と心中したかのように、90年代を象徴する音楽として記憶されてしまった。そして2017年に「流動体について」で突然彼は僕らの目の前に現れた。その間彼が何をしていたのか、僕は知らなかった。それはちょうど小沢健二の30歳代に当たる。当たり前ではあるけど30代は色々な人々にとっても重要な仕事をしたり、成し遂げたりする時代だ。実はその頃小沢健二は学術活動にいそしんでいたらしい。「流動体について」が発表された2017年。90年代、あるいは1994年から約20年の年が流れた。その流れた月日は、90年代に僕らが感じていたヒリヒリした生々しい傷口の痛みが忘却の彼方へと消えていった。そして90年代はセピア色のノスタルジーの世界に変わってしまった。それがよいことか悪いことか、僕にはわからない。でも「Lovely」や「強い気持ち強い愛」は僕が若かった時の讃歌として2024年に戻ってきた。偶然なのか必然なのか、それはわからないけれど、小沢健二はそんなタイミングで僕らの前にまた現れた。 * * *「フクロウの声が聞こえる」で始まった今回のライブ。小沢はいつもに増して饒舌に語った。例えば、人口ピラミッドの変動について。その変動に伴う音楽享受についての小沢の私見。あるいは「構造」という概念について。それは多分、小沢の30歳代の仕事の成果を反映したものなのだろう。学術の言葉と文芸の言葉は違う。西部邁氏がパーゾンズというアメリカの社会学者について無骨で無粋だと評価したエッセイを思い出す。パーソンズという社会学者は社会や行為についての一般理論を考察しようとした人で、その難解で晦渋な文章は有名だった。その難解な言葉を西部氏は「無粋」だと評した。その晦渋な文章を西部氏はまるで女性の臀部を細部にわたってそのまま書き表したような文章だというのだ。もし文芸の才がある人ならば、例えば女性の臀部を桃だとか花弁だとか、そういった比喩を使って表現するだろう。しかしもし人文科学、社会科学の文章を目指すならば、そうした無粋な文章表現を受け入れざるを得ない。そうとも言っていた。小沢健二は言うまでもなく文芸畑の人だ。学会での論文発表ならばまだしも、例えば音楽のアルバムやコンサートという場では「無粋」な表現はできない。あるいはリスナーや観客たちはそれを求めない。そのために彼は何重もの仕掛けを用意していた。 * * *今回のライブでは「秘密の小道具」として笛が配られた。よく体育の先生が吹いているあの子笛だ。それでコール&レスポンスをして参加してほしい。そう小沢は語った。「フクロウの声が聞こえる」の次の曲は「天使たちのシーン」をはさんで「Lovely」。その「Lovely」は90年代の頃とは違うアレンジで演奏される。2024年の「Lovely」だ。それでも会場は一気にボルテージをあげる。2階席の後ろという奥の席でも会場の大合唱がよく聞こえる。その一曲で小沢は会場の空気を自分の土俵に引き込んだ。一旦着席を求めて新曲を歌ったあと、「アルペジオ」から「いちょう並木のセレナーデ」というしっとりとしたいわゆる「聴かせる」流れに入る。そこでも小沢は「歌って」と観客に合唱を求める。すると「いちょう並木のセレナーデ」の合唱が会場に響き渡る。小沢は完全に観客の心をそこで掴んだ。 * * *20代に彼が行った最大の創作「Life」。それが持つ破格な曲の威力を彼はよくわかっている。それを「今」につなげるにはどうしたらいいか。あるいは30代に彼が行っていた「仕事」「成果」を「今」に反映させるにはどうすればいいか。その答え、あるいは中間総括が今回のライブだった気がする。そしてそれがなかったら小沢健二のライブは単なる90年代ノスタルジーの中へ消えてしまう。少し難解な曲間のモノローグ。「Life」の頃とは違うけどポップで少し理屈っぽい歌詞の新曲。それを何とかエンターテイメントの枠の中で伝えようとした今回のライブ。2020年のとき、少し敷居が高く感じたライブよりも、今回のライブは単純に楽しめた。それは90年代同窓会ではなく2024年の小沢健二のライブとして楽しめた。90年代の曲の方が合唱しやすかった。それは否定のしようのない事実ではあるけれども。新曲の「ノイズ」でヴォーカルを担当していた人(だと思う)がゲスト出演したり、スチャダラパーがまさかのゲスト出演というサプライズもあった。「ある光」や「彗星」で観客席が合唱に包まれるという感動的な場面もあったけれども今回のライブの最絶頂は「強い気持ち強い愛」と「今夜はブギーバック」だった。 * * *アンコール最終曲で2回目の「ぶぎ・ばく・べいびー」をスチャダラパーと共に終えた後、感謝の言葉と共に小沢健二は「日常へ戻ろう」ではなく「闘いに戻ろう」で締めた。90年代。まさに日常を生きることが「平坦な戦場でぼくらが生き延びること」だった頃から30年。幸か不幸か状況はますます悪化し、あの頃よりもはるかにタフでシリアスな状況に僕らは生きている。そこから逃げないでほしい。そう小沢は言いたかったのかもしれない。戦場のボーイズライフは今もまだ終わらない。僕らにとっても。小沢にとっても。
2024.05.10
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90年代初頭、僕がロッキングオン誌の熱烈な読者だった頃のことだ。その頃の僕は毎月ロッキングオンが発売されると本当に隅から隅まで読み込んでいた。そんなロッキングオン誌の投稿記事で、ある有名なロックシンガーのこんな発言が引用されていたことを今でも覚えている。そのロックシンガーはあるインタビューでこのような発言をしたという。「ロックンロールなんて世の中にとっては本当に小さなものでしかない。なぜならラジオのスイッチを切ってしまったら儚く消えてしまうものなのだからね。」その言葉はある種の警句のように心の中に刺さり続けている。中学二年生のときに初めてビートルズを聴いたとき、世界がひっくり返ってしまうような衝撃を受けた。その衝撃を思い出すと世界はいとも簡単に変えられてしまうような錯覚を覚えてしまう。あるいはロックフェスの空気の中にいると世界を本当に変えられるのではないか。そんな錯覚を感じてしまう。だけどロックあるいは音楽は、ラジオのスイッチが切られてしまうと跡形もなく消えてしまうそんな儚いものでしかない。ツイスト&シャウトの強烈なマジックも約3分の時間が流れて曲が終わってしまうとその魔法はどこかへ消えてしまう。僕はロックが好きだからラジオのスイッチを永遠に切らない、切りたくないと思う。でもロックが騒音にしか思えないあの人は、もしかしたらツイスト&シャウトの歌いだしを聞いた途端にラジオのスイッチを切ってしまうかもしれない。そのときロックは無力だ。ロックに興味がない人にとってツイスト&シャウトの魔法は届きもしないし、基本的にそれほど重要なものでもない。ロックや音楽は世の中にとって小さなことでしかない。大半の世の中の人々にとって、ロックや音楽は例えば株価の動きや為替相場に比べると本当にどうでもいいくらい小さなことだ。それは変えることができないような事実でもある。2023年に僕にとってはある衝撃的なニュースがあった。イスラエルの音楽フェスティバルの会場に武装したハマスの軍隊が乱入し、襲撃をかけたという事件だ。その襲撃により会場で音楽を楽しんでいた人々が約200人以上殺害されたという。その襲撃の間、性暴力や残忍な行為もあったらしいし、捕虜として囚われた人もいるという。ネットでは数時間前にダンスをして楽しんでいた女性が、無残な姿に変わり果ててしまった衝撃的な映像が流れた。僕自身フジロックに十数回参加したことがある人間だし、フェスティバルのあの高揚した幸せな空気がよくわかる。そんな最中に武装した集団に銃撃を受けたらどんな感じだろうか。それを考えると胸が痛むし、他人事ではないと思う。本当に痛ましい事件で、心が痛む。だけど、その反面に思い浮かんだのは先の有名なロックシンガーが言ったというあの警句だった。「ロックンロールなんて世の中にとっては本当に小さなものでしかない。なぜならラジオのスイッチを切ってしまったら儚く消えてしまうものなのだからね。」フェスティバルで感じられる高揚感に満ちたあの幸せな空気。そしてそれとともにもしかしたら世界がここから変わるかもしれないとすら思えてしまうあの感覚。そのようなものは武装集団の銃声一発で消えてしまうものなのだ。あの事件はそれをまざまざと明らかにしてしまった。フジロックのクロマニヨンズのステージで僕らと一緒に盛り上がっていたあの白人男性。アジアンダブファンデーションでダンスしている僕ら。そんな姿をみて感じていると、音楽やロックは人種や国境など全く関係がなく、世界は一つなのだとすら思えてしまう。だけどハマスの武装集団にとってそこで流れている音楽など、本当にどうでもいいことだったに違いない。パレスチナとイスラエル。まさに国境と人種の違いと政治状況がこの悲劇を生み出してしまった。そのとき本当に音楽など無力だ。音楽を楽しむ非武装の市民たちを襲ったハマスはけしからん存在だ。早く潰してしまえばいい。そのようなことを単純に言うことができないのは、イスラエルやパレスチナ難民について高校の地理で少しだけ教わったことがある程度の僕にも理解ができる。ハマスの方に一部の理があるし、イスラエルにも一分の理がある。ショッカーと仮面ライダーの世界のようにあっちが正義でこっちが悪と簡単に割り切れるものではない。あえて言うとすればどちらもそれぞれの立場からすると「正義」だ。この悲劇的な襲撃事件のあと、イスラエルとハマスの戦争が始まった。この戦争で双方とも多大な犠牲者が出続けているという。ロックは、世界は一つで人々は幸せに生きていいと言ったりする。音楽が争いを鎮め、双方の和解を助けるというドラマを何度か見たことがある気がする。だけどイスラエルとハマスの戦争はまさに人種と政治と国境をめぐる非常に複雑な問題だ。そしてそこから生まれてしまった争いごとや多くの犠牲者や悲劇の数々。それを前にしてロックや音楽は黙り込むことしかできない。もしそれを解決したいのならば、それはロックや音楽とは無関係に、冷徹かつ適切な政治的解決を待つしかない。当たり前のことだけれども、やはりロックや音楽は世の中にとって小さなことでしかない。それが事実なのだ。そしてロックや音楽、あるいは音楽フェスティバルが成り立つのは平和で豊かな社会の中でだからこそだ。今回の事件はそのことを如実に明らかにした。僕らあるいは僕は平和で治安のいい日本という場所で生まれた。日本では平和や治安の良さがまるで空気のように当たり前に存在している。そのような恵まれた場所で生活してきた。そうしたことはとても幸運なことであって、もしかしたら日本も豊かな社会ではなくなってしまうかもしれない。平和も当たり前のように享受できなくなるかもしれない。そのときロックはそれに抵抗し続けるのだろうか。あるいは沈黙を余儀なくされるのだろうか。例えばフジロックフェスティバルは理想を掲げてそのフェスティバルを始めた。国際人権団体や反原発のNGOビレッジがあって、そこに行けば自由にそうした活動をしている人たちと会話ができた。またリサイクルにも積極的に取り組んできた。そうした理想のもと、よく言われたのは、フジロックのそうした理想を日常に帰ってからも実践してみましょうという小さな生活革命だ。ある個人が社会での振舞い方を変えると、それが周りの人々に影響を与え、小さな変化が次第に波のように広がっていって世の中を良い方へ変えていく。ロックや音楽はそれを真剣に聴いている人の意識を確かに変えてしまうかもしれない。しかし世の中の大半の人々にとって、音楽は単にムードを盛り上げるためのツールでしかないかもしれない。単なる娯楽でしかないのかもしれない。そうした人たちにとって「生活革命」は文字通り馬の耳に念仏だろうし、逆に「気持ち悪い」という反応しかかえってこないかもしれない。僕はもう一度、音楽はラジオを切ってしまえば消えてしまうものだという事実を噛みしめなければならないのだろう。あの虐殺事件で僕が感じたやり場のない嫌な感じの正体。それは銃声の音に敗北してしまった音楽への哀悼の念と、音楽では何も変えられないという「理想の死」に対する敗北感だった。
2024.02.08
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本当はチバさんに。というべきなのだろうけど、いつも彼のことを語るときはチバだったから。今日もいつもと同じようにチバって呼びます。90年代という時代の空気。特に95年以降の日本が奈落に落ち始める頃の心象風景を表す音楽。それはミッシェルガンエレファントだったと思う。もちろん他にも優れたロックバンドやシンガーがいたけれど、90年代といって真っ先に思い出す音楽。それはミッシェルガンエレファントだった。ミッシェルは「世界の終わり」というステキな曲で僕らの前に現れた。僕がミッシェルのアルバムを初めて買ったのは「チキンゾンビーズ」っていうアルバムだった。性急でつんのめっていくような曲。痙攣したようなギターの凄まじい音圧。その緊迫感溢れる音楽。僕はすぐにその音楽が好きになった。歌詞だってステキだった。全く無駄がなく俳句のように短くまとまった歌詞。それなのにその歌詞は僕らの想像力をかきたてた。僕はすぐにライブに行きたいと思ったけど、ミッシェルはライブハウスでしかライブをやらなかった。渋公の公演すらしなかった。だからそれほどミッシェルのライブには行けなかった。ライブだって思い出がある。今でも忘れられない。98年のフジロックは覚えているかい。僕は入場制限に引っかかってモッシュピットには行けなかったけど、後ろの方でも今すごい大変なことが起こっているということが分かった。99年のゼップ東京のことは多分忘れているよね。僕は前の方で頑張っていたけど、あまりに激しいモッシュのせいで酸欠で倒れそうになって、あのときは本当に大変だった。代々木ライオットはもちろん覚えているよねシトロエンの孤独はしびれるほどかっこよかった。そして最後の幕張メッセ。ドロップで始まって、最後は「世界の終わり」で本当にミッシェルは終わってしまった。世界の終わりは そこで見てるよと思い出したように 君は静かに待つパンを焼きながら 待ち焦がれているやってくるときを 待ち焦がれているこの曲を聞くといつも僕は思いだす。90年代がどんなだったかって。僕の想像だけれども多分チバは曲や歌詞を作るとき、日常と繋がっている「ここの世界」をみていた。ユートピアを想像してとか、こうあるべき空想の世界だとか、輝かしい未来だとか、そうではなくて「今ここ」を見ていた。今からすると90年代ってまだのどかな時代だったけれどもう既に転落のレールは敷かれていた。「ここの世界」は少しずつすさんでいって、何かが起きそうで何も起きなかった。そんな「ここの世界」を、傷口をやすりでこするようなヒリヒリとした感じでミッシェルは曲を歌っていた。この「ヒリヒリした感じ」ってわかるだろうか。多分チバだったらわかってくれると思う。僕はそんなミッシェルの歌を必要とし、そしてあこがれ続けた。何とかして「世界の終わり」を超すような何かを作りたいと思っていた。僕には音楽的才能がないからせめて詩でも文章でも。どんな形でもいいから「世界の終わり」みたいなステキなものを作りたかった。でも時は経った。2010年代に入ってから自分が信じていた90年代的な感性が時代遅れになってしまったのを知ってしまった。90年代、00年代。僕は必死になって「世界の終わり」の後のことを書き続けて、もっとステキなものを創造したいと考えていたけど、10年代、20年代と時が経つにしたがって何かが擦り切れたように自分の感性がダメになっていくのに気が付いた。それから僕は怠情になった。何かの熱が冷めてしまったかのように。そんな僕を置き去りにするようにチバはThe Birthdayというバンドを転がし続けていた。ミッシェルの頃と同じとは言わないけれど、The Birthdayもいいバンドだと思う。続けるということは大変なことだから、ミッシェルという巨大なアイコンのようなバンドのあとも創作活動をしているチバはすごいカッコイイと思っていた。悪いのは全部 君だと思ってたくるっているのは あんたなんだってつぶやかれても ぼんやりと空を眺めまわしては 聞こえてないふり僕はもうだめかもしれない。それでも何かやってみれば一回くらいうまくいくかもしれない。そんなところで僕は漂っている。年を取るっていうのは嫌なものだね。老いるよりも成長したい。老け込むよりも成熟したい。そう思うけど、本当はどうなんだろう。そんな僕を笑うかな。何やってんだって。トンネルは続く。サボテンの毒針で死ぬのかな。今日あなたの死を知った。えっ。と思ったけど、意外とショックは小さかった。何だろう。今までにいろいろな人の死を体験してしまったから、そんな感じになってしまうのかもしれない。だけど何か書かなければと思った。だから久々にウェブ上でこの文章を書いている。何かいい言葉を書きたいと思うのだけれども、全然頭に浮かばない。ミッシェルというバンドと出会えて、あなたに感謝しているけど、今更ありがとうなんて白々しいね。ゲットアップルーシー、キラーズビーチ、ジェニー、ダニーゴー、ベイビースターダスト…。ホントかっこいい。そして今でもリアルだと思うよ。少なくとも僕には。僕がそっちの世界に行ったら、またあっちのフジロックであなたの出番を待っているよ。それまでに「世界の終わり」を、僕自身の「世界の終わり」を作れたら。僕は何も思い残すことはない。できるかどうかわからないけど、少しあがいてみる。サヨナラの時間だね。ありきたりだけれど。ご冥福をお祈りいたします。さよならルーシー さよならジェニー さよならダニー さよなら
2023.12.05
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大江健三郎を初めて読んだのは1993年頃だと思う。確か「死者の奢り」だ。1994年に大江健三郎はノーベル文学賞を受賞する。「セブンティーン」は1995年頃に初めて読んだ。「セブンティーン」は二部構成で第一部が「セブンティーン」、第二部が「政治少年死す」という編成になっている。1995年当時、「政治少年死す」は文庫や本で読むことができなかった。それは「政治少年死す」が山口二矢を不当に貶める作品とみなされたからである。そのため右翼団体から強い抗議を受けて「政治少年死す」は封印されてしまった。「政治少年死す」は、主人公が17歳で代議士を襲撃して自死に至るまでを描いている。そのためその作品は山口二矢をモデルにしたものとその当時の人々にみなされてしまったのである。そのような「政治少年死す」という作品だが、「大江健三郎全小説集」の刊行とともについに「本の活字」として読めるようになった。それで今回改めて「セブンティーン」と「政治少年死す」を附せて読むことができた。1960年の「事件」をあらかじめ知らない世代の僕にとって、この一連の小説は山口二矢を貶めるために書いた作品ではなく、大江のある思考実験をそのまま文章にした作品ではないかと思った。それは、もし大江が今17歳で右翼思想を抱く少年になっていたとしたら、どのような形でそうなるだろうかという思考実験。だから「セブンティーン」二部作に登場する「少年」は大江自身をそのまま投影したような存在ではないだろうか。 * * *「セブンティーン」は主人公である「おれ」が17歳の誕生日を迎えることから始まる。「おれ」は自意識過剰で頭でっかちなくせに何もできない無力な少年として描かれる。しかもそれはデフォルメした形で滑稽に描かれる。「おれ」ははじめのうちは左翼的な考えをするべきなのだと思い込んでいた。しかしその思想的基盤はあやふやで、自衛隊病院の看護婦として働いている姉に論破されてしまう程度のものだ。それから読者は延々と自意識過剰な「おれ」の愚痴のような言い訳に付き合わされる。しかしあるとき、右翼の街宣活動のサクラを頼まれた「おれ」は右翼思想に感化を受け、その場で右翼団体に加入する。そして「右翼少年」としての自分に目覚める。その後右翼団体での活動や右翼思想を学ぶことを通じて「自意識の過剰さ」から解放されてアイデンティティーが定まる。学校でも一目置かれる存在となる。「セブンティーン」の第一部は安保反対のデモ隊との闘いの中、高揚感に満ちた「おれ」の描写で幕を閉じる。第二部である「政治少年死す」は高揚感に満ちた第一部の続きから始まる。安保反対のデモの終わり、そして安保条約の自動延長。その中で祭りが終わったような虚脱感と空しさに包まれる主人公。そうした中、主人公の所属する右翼団体にも波乱が訪れる。そんな波乱の中で次第に思想的にも行動的にも先鋭化していき、「おれ」がある代議士の襲撃に至り、自死するまでの内面が描かれる。 * * *前述のとおり「セブンティーン」を初めて読んだのは1995年頃で、僕の心に残った作品だった。僕はこの小説を、自分のよって立つ思想的基盤を例えば「オウム真理教」に求めてしまった悲喜劇と同様なものであるとして読んだ。著者は(「セブンティーン」第一部では)右翼思想を間違ったものとして描いてなく、その「思想」を得たことで主人公は生きる価値を見出している。そうした「何かを信じる」ということのパワーは、例えば「オウム真理教」でも変わらないのではないか。今回改めて「政治少年死す」を合わせて読むことができた。そうすると1995年には見えなかったことが見えてきた。そんな今回新たに発見できた「セブンティーン」二部作の感想を書いていきたい。まず二部作全体を見てという視線。「セブンティーン」二部作は右翼側のアンガージュマンを描いたものではないかということだ。不根拠で無意味にすら思える生を過ごす17歳の少年が右翼思想の中で自分の使命を悟り、(そのときの天皇である)昭和天皇に自分の存在全てを賭ける。そのとき主人公は日本の歴史や祖先たちの偉業とつながることができ、自分がその歴史の中で果たすべき役割に気付く。それによりひ弱な自意識から解放され、そして歴史的使命たる自分の役割に従って行動していく。それはある意味で「投企」といえるようなものではないのか。もう一つは昭和天皇のカリスマ性だ。主人公は例えば自死の真っただ中で天皇に対して必死に呼びかけている。それは主人公が「天皇」と一体化することで日本の「伝統」や歴史とも一体化できると信じているからだ。このような強力な磁場を持つ「天皇」は昭和天皇だからあり得たのだ。改めてそのようなことを感じた。次は「政治少年死す」を読んで思ったことを書きたい。まず第一。「セブンティーン」では「自意識過剰」という問題が解決したようだったが、代議士刺殺に至る過程で、また自意識過剰の問題が浮上してくる。強固な右翼思想をもってしても完全に「自分」から逃れることができない。「おれ」は右翼であろうと左翼であろうと「おれ」でしかない。動物的な生理が思想に亀裂を与えるように右翼思想は「おれ」の自意識を完全に克服することができない。それがある意味で皮肉に描かれている。第二。主人公が自死に至るまでの過程が崇高なものとして描かれていない。「おれ」は鑑別所で生活することを怖れる。それはかつて自分をイジメていただろう今で言う「ヤンキー」の巣窟に収容されるということだからだ。そこで屈辱を受けるだろうと思い、鑑別所の生活を怖れる。そして自分を選ばれた少年として完結したい。そう考えて自死に至る。それはつまりこの事件を「おれ」は純粋な憂国の念や愛国心から起こしたのではない。「おれ」は自分が偉大な「何か」になりたいから事件を起こした。そして自死に至る過程でも世間からどう思われたいかということを気にしている。他人の評価が気になっている。第三。自死自体も矮小化されて描かれている。天皇と一体化するため、天皇陛下に呼びかけて自死する「おれ」。その亡骸を警官が収容するときに、わざわざわいせつ行為で捕まったロリコン少年の**(楽天ブログの公序良俗規定に反しているとの判定で伏字)を思わせる描写で物語を終えている。憂国の士の勇敢な死ではなく、一人のある少年のありふれた自死という描かれ方だ。そのような描写がなくても、物語はスムーズに終わらせることができるのに、著者はわざわざそのような描写を書いている。以上のような三点がその当時の右翼団体の逆鱗に触れたのだろう。そんなことを感じた。「政治少年死す」では、広島を舞台にした場面で大江とよく似た青年作家が登場する。ここで右翼少年の「おれ」と対決し、応答する様子が描かれる。青年作家は「おれ」を恐れ、恐怖心にとらわれながらもギリギリで踏みとどまり、自分のモラルに従って右翼の「おれ」と対峙している。そんな青年作家だけれども、実は彼は男色と酒にまみれた生活をしていることが明らかになる。これはそうした乱れた生活から生まれる「思想」を右翼思想と対置してみたのではないだろうか。そして大江は前者の思想に賭けていた。それがどれほど乱れていて浮き草のようなものであっても、そこに可能性があると賭けていた。そんなことを感じた。 * * *2023年に改めて「セブンティーン」二部作を読むと、「おれ」がある意味で「ネット右翼」のステレオタイプであるように思える。不根拠な生を生き、自意識過剰な「わたし」に、右翼思想やナショナリズムが心の隙間を埋めてくれるようにピタリとはまってしまうように思える。大江健三郎というと戦後民主主義の代表というイメージが大きい。その大江が「セブンティーン」二部作という思考実験で、自分がよって立つ思想的基盤が意外と不確かであることを示してしまった。しかし大江は右翼思想を良しとはしなかった。「政治少年死す」で、その思想を生きる主人公を描くことで、思想の破綻の一例を示した。ならばどちらが「生き易い」のだろう。自意識の問題。ナショナリズムの問題。リベラルな思想が弱い自分を助ける根拠となり得るのかという問題。戦争直後も、それから60年以上経った僕らも人間は変わらない。そんなことを「セブンティーン」二部作を今読んで思った。大江健三郎全小説 3/大江健三郎【3000円以上送料無料】性的人間 (新潮文庫) [ 大江 健三郎 ]
2023.12.04
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最初に。この文章は「街とその不確かな壁」のストーリーや結末について言及している。いわゆる「ネタバレ」が含まれている。まだ「街とその不確かな壁」を読んでいない方はご注意をお願いしたい。この本に付されているあとがきを読むと「街とその不確かな壁」は1980年に文芸誌で発表された中編小説を書き直したものであることがわかる。その中編小説には著者自身にとって何か重要なものが描かれていると予感しつつも、これを一つの小説として描き切るにはまだ自分は技量不足だと思い、そのままにしておいた作品。それが1980年に発表された中編小説「街とその不確かな壁」である。そしてここに完成された2023年発表の「街とその不確かな壁」を読むとどうしてもある小説を連想してしまう。それは「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」だ。さっそく「街とその不確かな壁」の内容について書いてみたい。まず第一部では17歳の「ぼく」と1才年下の少女との交流を描いたストーリー。そしてそれと並行して壁に囲まれた「街」の「図書館」で「夢読み」という仕事をして生活している「私」のストーリーが描かれる。結末を言うと、17歳の「ぼく」は年下の少女を永遠に失うことになり、「街」で生活している「私」はその壁に囲まれた「街」を出るかあるいは出ないか、選択をせまられることになる。このように並行して2つの物語が進むというストーリー展開、更に一角獣や「街」に入るためには影を失わなければならないという設定などは容易に「世界の終わりとハードボイルドワンだランド」を連想させる。だから第一部は何のインフォメーションなしに読むと、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」のいわばリミックスヴァージョンに近い小説だなと思わせる。そしてもし村上作品を時系列でたどるなら、「街とその不確かな壁」は「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」のアイデアのもとになった作品であるともわかる。「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」で論議を呼んだことは、「世界の終わり」の主人公が下したある決断である。「世界の終わり」で生きている主人公は「世界の終わり」と「ハードボイルドワンダーランド」たる現実世界との関係を理解し、かつ現実世界に帰還できるにもかかわらず、「世界の終わり」に留まるという決断を下した。その決断こそが80年代の村上作品の「デタッチメント」という姿勢を象徴している。そのように評された。「デタッチメント」とは、世の中と関りを持たずに、自分自身の定めた最大公約数としての倫理と最小の欲望に従って生きていくという生活態度である。それはこの時期における村上作品の主人公の行動原理であると言ってもよかった。そして2023年の「街とその不確かな壁」という小説でも、主人公の「私」は壁の外の世界に帰還できるにもかかわらず、「街」に留まることを決意する。そこで第一部は終わり、第二部では「街」に留まる決意をしたにもかかわらず、なぜか「街」の外の世界で生きている「私」の生活が描かれる。「街」での生活を経験した「私」が、ある地方都市の図書館での仕事を得て、そこの図書館長として生活していく話。その経緯が物語として描かれる。その過程で子易さん(の魂)、そしてイエローサブマリンの少年という重要人物が登場する。その後第二部の終盤で「私」が再び「街」へ戻ろうとしていることを想像させる場面で終わる。第三部では「街」に残ることを決意した「私」がそのまま「街」での生活を続けているという形でストーリーが展開する。そこにいわば唐突なように、イエローサブマリンの少年が「街」に現れ、「私」と出会うことになる。そしてその結果として「私」は「春の野原の兎」のような抗うことのできない衝動で「街」を出ることを決意する。その決意の後、「私」は「街」を出ることになるが、「街」を出てどこへたどり着くかその結末は明記されずに物語は終わる。物語は2つの世界を行ったり来たりし、時間の流れも一直線ではない。非常に複雑に作られた小説世界だ。そして例えば「ねじまき鳥クロニクル」のように、著者自身にも結末がわからないまま性急に書かれた作品という感じもない。著者自身がゴール地点を定めながら、制御しながら書いた作品という印象を「街とその不確かな壁」に対して持った。つまり2023年の「街とその不確かな壁」は完成された作品、あるいは村上ワールドの円熟を示すような作品であると僕は思った。こうした巧妙に作られた「街とその不確かな壁」だが、読み終わったときどのような感想を僕は持ったか。例えば「1Q84」ではリトルピープルという僕たちが生きている同時代に対する何か重大な暗喩を提示して見せた。しかし「街とその不確かな壁」については、同時代に対する「重大な暗喩」は感じなかった。この「街とその不確かな壁」は暗喩に満ちた作品である。読む人に、「これは何を象徴しているのだろう?」という想像力を要求する非常によくできた作品である。それなのになぜそのような「同時代」に対するアピール力のある暗喩をこの作品は持たなかったのか。その理由は、多分「街とその不確かな壁」がある意味先祖帰り、あるいはある時期への原点の確認という性格が強いせいではないか。僕はそのように思った。* * *この作品で最も重要な登場人物は多分「イエローサブマリンの少年」だと僕は思う。このイエローサブマリンの少年はこの作品世界でどのような役割を与えられているか。イエローサブマリンの少年は、第二部の「私」の世界と第三部の(「街」のなかの)「私」の世界に登場する。このイエローサブマリンの少年という「他者」の介在(介入)で「私」は「街」とその外の世界を行き来することになる。どちらかというと平穏なリズムで描かれる「街とその不確かな壁」の小説世界にあってイエローサブマリンの少年はいわば不自然に物語のリズムをかき乱す存在で、物語の「異物」でもある。しかもイエローサブマリンの少年という異物が存在しなければ「街とその不確かな壁」という物語が成立しない、そのような重要な人物として描かれている。つまりイエローサブマリンの少年は他者であり、コントロールできない「何か」を象徴する存在である。それではイエローサブマリンの少年は何を象徴しているのか。1990年代に入って、村上作品は「デタッチメント」から「アタッチメント」に移行したと評される。時代に対して背を向けるのではなく、時代の空気とシンクロしながら時代に対して自分の作品世界を解き放つ。いわば「炭鉱のカナリア」への変化。「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」では主人公が「世界の終わり」で生きていくことを決断して終わり、「デタッチメント」を完結することができた。でも「街とその不確かな壁」ではイエローサブマリンの少年という異物の存在のために「私」は自己完結することを許されない。こうした自己完結を邪魔する存在。それは例えば戦争であるとかパンデミックであるとかそうした現実世界の不穏な動きの象徴かもしれない。それと同時にイエローサブマリンの少年は「デタッチメント」を貫きたい主人公に対する「アタッチメント」への契機として現れる。つまり著者は「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」のプロト作品を使って自分が「アタッチメント」へと姿勢を変化させたその原点をここで確認したのではないか。そうした原点帰りは非常に重要なことではあるけれど、僕個人としては、「リトルピープル」という魅力的な暗喩に比べるとイエローサブマリンの少年は少しアピール力に欠けたのかなという感じを持った。 * * *僕にとって村上春樹の存在はとてつもなく大きい。だからどのような作品であろうと新作の長編小説が発表されたら僕はその作品を読むだろうと思う。そうした存在である村上春樹の新作を前にして、「街とその不確かな壁」は文学史上どのような位置を占めるか、あるいは文学的価値はどういうものかといったことが書けない。それを書くには僕はあまりにも力量不足だ。だからありきたりな表現で最後を締めたい。誰かに「街とその不確かな壁」をどう思うか聞かれたらこう答えると思う。「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」と兄弟のような作品だから、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読んだことがある人なら、興味がわくかもしれない。と。(参照文献 村上春樹のタイムカプセル)街とその不確かな壁 [ 村上 春樹 ]村上春樹のタイムカプセル 高野山ライブ1992 [ 加藤 典洋 ]
2023.11.26
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上野駅でも東京駅でも品川駅でも、どのターミナル駅でもいいのだけれども、停車中のグリーン車の中で大きな音を立てて座席を回転させている数人の男たちを目撃することがあると思う。これは座席の方向転換、僕らは方転と略して呼んでいるのだけれども、その作業をしている集団だ。座席の方転とはどういう作業か。それはこんな作業だ。例えば東海道線でいうと熱海発で東京止まり電車がそのまま折り返してまた熱海に向かうとする。するとグリーン車は東京駅に着くときは進行方向の東京駅側を向いている。だから何もしないでそのままその電車が熱海に向かうと、グリーン車は進行方向の逆を向いて走っていくことになる。そのためグリーン車の座席を進行方向の熱海側に向かせようとすると、最終駅の東京駅で座席の向きを逆にして熱海側に向かせなければならない。その作業を方転という。僕のやっている仕事はその方転作業を行うことだ。僕の職場は東京駅地下の総武快速線・横須賀線のホーム。そこで東京駅止まりの総武快速線や横須賀線の方転作業をしている。方転作業はきついと言えばきつい仕事だけど、慣れると意外と楽しい仕事だったりする。3分間しか停車しない折り返しの電車の方転を1分間くらいで終了させたりすると、不思議な達成感を感じたりする。僕がこの部署に配属されたのは約1年前くらいのことだ。最初はおぼつかなかった方転作業も最近はだいぶ慣れてきて、だいぶテキパキとこなせるようになった。僕は障害を抱えている。読み書きはそれなりにできるのだけれども、それを表現することがうまくできない。何かを話そうとすると体が硬直してしまって喋ることもままならないことがよくある。とっさに挨拶されたりすると恐怖とパニックで動きが固まってしまうことがある。パニック障害も持っていて、それに陥ると何もできなくなる。見かけは健常者と変わりがない。だからこの障害のせいで時々誤解されたりする。自分が伝えたいことを表現することがうまくできないせいで、色々嫌なことやつらいことも体験してきた。でも仕方がない。そのように生まれてきたのだからそれを生きていくしかない。もちろんそのように思えるようになったのは、この会社にパートとして入社して2年ほど経ったくらいのことだ。小学生の時は僕の持つ障害のせいでいらないいざこざや偏見に囲まれておどおど生きなければならなかった。中学から高校までは障がい者学校に通っていた。それでも周りとの誤解があったりして悲しい思いをしたことが何度かあった。高校卒業のとき、僕のことを理解してくれる先生が進路指導を担当してくれて、今いる会社を紹介してくれた。面接のときはあまり自己PRができなかったけれど、僕の真面目な態度を買ってくれた面接官が採用を決めてくれた。僕が今いる会社はある大手鉄道会社の子会社で、駅業務の一部や清掃を請け負っていて、何人か僕のような障害を持つ人を必ず雇わなければならないのらしい。僕はもともと鉄道が大好きだったので、今いる会社にパートとはいえ入社できたのはラッキーなことだった。そして僕はまずゴミの分別処理の仕事を任され、その次は駅舎のゴミ回収や駅舎の清掃の仕事を任され、と少しずつ任される仕事が変わっていった。学校にいるときよりもここの会社に入ってからの方が、僕にとっては幸せになった気がする。周りの職場の人々は僕の障害に理解があり、言葉に詰まっても、挨拶ができなかった時があっても笑って許してくれる。それに無視をしたり̪シカトをしたりしない。職場の人々は僕より2~3回り年を取った方々が大いにのだけれども、みんな大人で僕を職場の同僚として接してくれる。失敗すれば怒られるし怒鳴られたりもするけれど、それは嫌がらせではなく、同じ仕事をする相手としての忠告であるのが自分でも理解できる。この会社に入って僕は初めて自分が周りから必要とされているという感じを得られた。それは学生時代には全く感じたことのない体験で、僕は少しずつだけど自分が生きていてもいいという感覚やちょっとした自信を得られるようになった。確かに給料はそこそこでしかなかったけど、僕はそんな感じを持たせてくれる機会を得られたことに感謝していた。そんな僕が配置転換で、方転の仕事を任されることになった。この方転の仕事を任されるに当たって、僕は晴れて契約社員に格上げされた。それはとても嬉しいことだったし、契約社員になれたときは父親も母親も喜んでくれてお祝いのケーキを買ってきてくれた。現在僕はここの会社に入社して7年。25歳になる。基本的に僕の職場の仕事は、大半が泊りがけの24時間拘束仕事が中心となる。朝の4時から終電が終わってしばらく経つ2時ごろまで駅はほとんど眠ることを知らない。それに合わせてここでの職場の仕事は泊りがけの労働が中心となる。それを補佐する形で夜勤の仕事や日勤の仕事がある。僕も泊りがけの仕事をしたいのだけれども、主治医の判断でそれはしない方がいいと言われている。そのため僕は泊り仕事の補佐の日記の仕事を担当している。方転の仕事を初めてしたときは大変だった。この仕事は基本的に急ぎの仕事なのだけれども素早く方転することがなかなかできなかった。それに方転は机の破損事故と隣り合わせだし、油断して方転をしているとけがをしかねない。そんなたどたどしい仕事をしている僕を周りの人は時には優しく、時には厳しく、辛抱強く仕事を教えてくれた。最初の頃は何が何だかわからない状態で仕事をしていたけれど、最近は多少余裕を持って仕事ができるようになった。それと同時に周りの様子も見えるようになってきた。僕が彼女に気付いたのはそんな風に周りの景色を見られるようになってしばらくしてからのことだった。横須賀線、午後8時50分発の横須賀駅行のグリーン車に彼女はいつも乗車していた。彼女はその電車のグリーン車に乗ることにしているようで、その電車がホームに到着する数分前にいつも現れた。その午後8時50分発の横須賀線は東京駅で折り返しの電車なので、方転をしなければならない。だから彼女はいつも僕の目の前の一番先頭の列で必ず待っていた。ショートヘアの彼女はいつもセンスのいい服を着ていて、マスク越しで見える彼女は聡明な感じのする女性だった。誰もが振り向くような美人というわけではないけれど、帰りのラッシュ時の横須賀線ホームでは輝いて見えて、とりわけ僕にはその姿が印象的に感じられた。多分僕がこの部署に配属される前から彼女はその電車に乗っていたのだろう。僕が慌てふためきながら必死に仕事を覚えていた時にも彼女はそのホームにいたのだろう。でもそのときに彼女が僕を見ていたのか、それについてはわからない。電車が停まって方転作業の最中にお客さんが考えていること。それは早くグリーン車の座席に座りたい、それだけだからだ。その電車で誰が方転しているのか。そこでどのような作業をしているのか。そういうことにお客さんは無関心だ。彼女にしても同じことだろう。だけど彼女がいつも午後8時50分発の横須賀線のグリーン車に乗ることだけは変わらなかった。彼女はいつもその電車が来るホームに現れ、列の先頭に並んで方転が終わるのを待っていた。平日の午後8時30分ごろに僕は別の電車の方転を終えて横須賀線のホームに降り立つ。8時35分に彼女が待っている列の近くで仕事のスタンバイをする。そして8時40分ごろに電車が駅に着いて法典を開始し、2~3分後くらいに終わる。安全確認を行い、彼女に「どうぞ」とグリーン車の中に入ってもらう。彼女と直接接触する機会はグリーン車に入ってもらうときに、「どうぞ」と声をかけるそのときだけだ。僕が彼女の存在に気づいてからしばらく経つと、僕は彼女のことが気になるようになった。横須賀線の折り返しは座席が重かったり、降りてくるお客さんが酔っぱらったりしていて、はっきり言ってやりたくない作業のナンバーワンだった。そんな憂鬱な作業も、彼女がその場所にいてくれる、ただそれだけでその作業が楽しみになるようになった。僕は彼女のことを「横須賀の彼女」と命名した。そして横須賀の彼女と会えることが毎日の作業の楽しみになっていった。彼女はどんな女性なのだろう。それについては謎だった。着ている服のセンスの良さからすると彼女は丸の内のブティックの店員さんなのかもしれない。あるいは丸の内の一流企業に勤めるOLなのかもしれない。そして多分横須賀駅に帰宅するためにいつもこの電車のグリーン車を利用しているのだろう。彼女の午後1時の勤務時間中はどんな感じで過ごしているのだろうか。聡明そうなその顔つきからしてとても仕事がよくできるタイプなのだろうなと思った。彼女はグリーン車の方転がおわるまでいつも本を読んでいた。時には携帯を見ていることもあった。僕が方転をしている最中は特に車内に関心を持つこともなく、僕が「どうぞ」と声をかけると軽く会釈をしてグリーン車に乗り込んでいった。日が経つにつれて僕は彼女のことについて関心を持つようになった。できれば彼女に一声かけて、例えば今日の天気のことだけだっていい。彼女と世間話の一つでもしてみたい。そんなことを思ったりもした。だけどそれは許されることではなかった。僕は方転の仕事のためにこのホームに立っている。制服を着ている僕は会社の一員としてここにいる。ホームにいるお客さんは僕をこの駅のスタッフとして、そして親会社である鉄道会社の一員として僕を見ている。そんな僕が自分勝手に横須賀の彼女に声をかける。そんなことをすればこの駅で働く多くのスタッフに迷惑をかけてしまう。それくらいのことは僕にもわかる。彼女への気持ち。それは決して表に出して実現させることができないいわば禁断の気持ちでもあった。だからこそ僕の気持ちはどんどん燃え上がっていった。それは多分「恋」と名付けられるくらいの思いだった。その気持ちは実現に向けて走り出すよう僕に迫った。横須賀の彼女に自分の気持ちを告白したら、彼女はどんな顔をするだろうか。多分ストーカーのように感じて不気味がるかもしれない。ならばどうしたら自然な形でこの恋を実現させることができるだろうか。それは難問だった。彼女のことについてわかることは午後8時30分ごろに横須賀線のホームに現れるということ。それ以外何も僕にはわからないのだから。僕は彼女を横須賀の彼女と呼んでいるけど、もしかしたら彼女は途中の大船駅辺りで下車してしまうのかもしれない。僕の狂おしい気持ちが高まるのと同時に、僕は彼女を思わず見つめている瞬間が多くなった。彼女に気付かれないようにそうした行為をした瞬間に目をそらすようにしているけれど、彼女が好きな気持ちは抑えることができなかった。だけど秋が深まったある日から、突然横須賀の彼女は姿を消した。午後8時30分ごろの横須賀線のホームに彼女はいなくなった。もしかしたら彼女は僕の気持ちに気付いたのかもしれない。僕が彼女に気付かれないように隠していた気持ちも聡明な彼女にはお見通しだったのかもしれない。僕は後悔した。僕が妙な気持ちを持たずに方転の仕事のためだけにこのホームに降り立っていれば彼女と今でも会えていたのかもしれない。僕が彼女を好きになりさえしなければ今まで通りに彼女と出会えることを楽しみにここへ来ることができたのかもしれない。でもそれは無理な話だ。誰だってこの横須賀線のホームに佇む彼女の姿を見たら恋に落ちるに決まっている。それほど僕にとって彼女の姿は光っていた。彼女は横須賀線のホームに舞い降りた天使のようだった。しばらく僕は横須賀線の午後8時30分のホームに来るたびに彼女を探した。同僚の人たちにばれないようにグリーン車が停まるホーム付近をチラチラと見まわした。だけど何度見渡しても彼女はいなかった。そんなことをしているうちに僕は諦めた。彼女はもういない。その諦めは僕には少し痛手だったけれども。冬が近づいてきた。僕は仕事を終えて行幸通りを歩いていた。僕は東京駅には大手町駅から徒歩で通っている。だから行幸通りは僕の通勤経路だ。クリスマスを1か月後に控えた行幸通り付近は人通りが多い。丸ビル近くの木々には電飾が飾られ、夜の丸の内を鮮やかに彩っていた。そんな電飾ツリーをバックに写真を取ったり、デートをしたり、そんな楽しげな人々で行幸通りは賑わっていた。その日も僕は行幸通りをいつものように歩いていた。幸せそうに歩いているカップル。酒が少しだけ入って上機嫌なサラリーマンの集団。東京駅舎のライトアップを見に来た大荷物の観光客や外国人の人々。この場所はまるで人生の晴れ舞台のように明るく輝いている人たちで賑わっている。今日もそんな感じだった。行幸通りで最高の人生の晴れ舞台に立っている人は、多分ウェディングドレスを着て記念撮影をしている女性たちだろう。多分結婚式場のサービスで、東京駅や華やぐ丸の内をバックに結婚写真を写しているのだと思う。その日は少し暖かで、そんなウェディングドレスの姿の女性がいつもより多かった。僕が何気なくそんなブライド姿の1人の女性を見たとき、僕は声をあげそうになってしまった。その女性は間違いなく横須賀の彼女だった。白く華やかなウェディングドレスを身にまとっている彼女は間違いなく横須賀の彼女だった。彼女は美しかった。横須賀線のホームにいるとき以上に美しく輝いていた。そして彼女は幸せそうに微笑んでいた。そんな表情の彼女を僕は知らない。だからこそ彼女はいつもより美しく映えて見えた。そのときの彼女を言葉にするならば、彼女は丸の内のプリンセスだった。丸の内の景色は彼女のためにあった。東京駅のライトアップも丸ビル付近の電飾も彼女を引き立てるためにそこに存在していた。彼女はそのとき丸の内の主人公だった。あまりの美しさに僕は見とれてしまった。その場に立ちすくんでただ彼女のことを見つめていた。そしてしばらくしてすぐに気付いた。丸の内のプリンセスには、彼女をエスコートする王子様がいるということを。結婚衣装を身にまとったその男性は多分僕よりも年上だ。多分20代後半だろう。背も高くて王子様にふさわしい身のこなしをしていた。僕の想像だけれど、彼は丸の内の一流会社のそれなりの地位で仕事をしているやり手のサラリーマンだろう。上司からも一目置かれていて大きな仕事をこなし、まさに日本の将来支えている重大な地位にいる、そんな人物なのだろう。丸の内のプリンセス、いや横須賀の彼女のハートを打ち抜いた男にふさわしい彼はやっぱり眩しくて僕はジッと見ることができなかった。そして彼女の幸せそうな笑顔を見ると、それでよかったのだと本当にそのようにしか思えなかった。僕は輝かしい横須賀の彼女の姿をもう一度だけ見て、その場を離れた。彼女が幸せであるならそれでいい。すべてはこれでよかったのだ。僕はそう思おうとした。それなのに僕の心の中では何かがくすぶっていた。どうして僕ではなかったのだろう。彼女の心を射抜けなかった僕はなんてみじめで情けないのだろう。そんな気持ちが沸き上がってきて涙が出そうになった。今までも好きになった女性は何人かいた。働き始めてからも、恋に落ちた相手は少しはいた。でもそれはなかなかゴールにはたどり着かなかった。僕の愛情表現の仕方が拙いせいかもしれない。あるいはそれは僕の性格によるものかもしれない。誰かを好きになること。それは僕にとって何かを失うことだった。だから僕はなるべく誰かを好きにならないようにしていた。失うのが辛いから誰かと恋に落ちないようにしていた。それなのに恋は突然訪れる。ある時どうしようもないくらいに誰かを好きになってしまう。僕にとって恋とは失うものだった。好きになればなるほど、誰かを大切に思えば思うほど失うものは大きい。僕はまだ25歳だ。まだ何十年もの月日が僕を待っている。その間に僕は何人かの人を好きになるのだろう。そしてそのたびにまた失ってしまうのかもしれない。少し涙でにじんだ冬の気配を感じながら僕は思った。横須賀の彼女と出会えてよかった。彼女を好きになれてよかった。そして彼女の幸せそうな笑顔を最後に見ることができてよかった。と。それは実現できない一方的な恋であるとしても。そして彼女と横須賀の港町を、手をつないで散歩をしている妄想をした後、僕は彼女のことを思い出すのを少しの間やめた。そして地下鉄の駅までそのまま歩いて行った。今夜眠る前の布団の中で多分僕は横須賀線のホームに佇む彼女の姿を思い出しているだろう。そして彼女のために少し涙を流しながら彼女のために哀しい思いを募らせているのだろう。横須賀の彼女は僕を取り残してどこかへ行ってしまった。まるで始めからそうなることが決まっていたかのように。
2023.02.12
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こうしたブログで文章を時々アップするようになって約10数年の時間が経つ。そして初めて「文章を書く」ということを意識して文を書くようになって30年くらいになる。大した文章はまだ書けてないけれど、僕の文章を書く上での師匠と言える人物が二人いる。一人が村上春樹氏でもう一人は松村雄策氏である。僕の文章はこの二人の影響下にある。僕の20代は村上春樹氏の多大な影響下にあって、この間の僕の文章は村上春樹に憑依されたかのようだった。20代に書いた文章は大学ノートで10冊分くらいのものだったと思うけど、その文章はほぼ村上春樹の劣化コピーという状態だった。それこそ句読点の打ち方から何から何まで、村上春樹氏の文章の劣化コピーを必死に書いていた。今も村上氏の文章の影響下にあるとは思うけど、自分なりの文章の中での泳ぎ方を覚えたのは、30代に入ってからではないかと思う。村上春樹氏の文章の劣化コピーは意外と簡単にできる。これという形で具体的に文章化はできないけれど、少なくとも「ノルウェーの森」から「国境の南、太陽の西」までの村上氏の文章にはある種のフォーマットがあると思う。そのフォーマットに沿って文章を書けば少なくとも村上春樹氏の劣化コピーはいくらでも書ける。だからこそ「村上チルドレン」と言われるような若手作家は90年代に多くいたし、文学的な影響力も大きかった。さて、文章を書くということは意外と障壁が高い。特に誰に指示されるのでもなく、自発的に自分の思いを文章にすること。そうした活動を行うには何か大きな「きっかけ」がないとなかなかできない。特に僕はそれまで日記をつける習慣がなく、作文の課題やレポートの提出以外に文章を書くことがなかったので、20歳になるまで自発的に文章を書くことがなかった。そのような僕に「文章を書いてみなさい」と背中を押してくれた人。それが松村雄策氏。もっと正確に言うと「アビーロードからの裏通り」というタイトルの本である。「アビーロードからの裏通り」は僕が20歳の時に読んだ。それはまだ松村氏が20代のとき、1970年代に思い・悩み・駆け抜けていった軌跡を記した素晴らしい文章の数々である。松村氏は自他共に認めるビートルズファンである。そして偶然ではあるけれど、僕も同じくビートルズのファンであった。80年代から90年代前半まではまだビートルズファンであることは隠すべきことであった。特に僕と同じ世代のロックファンの間ではそうだった。まだパンクの神話は健在であったし、今では歴史に埋もれてしまった二流のパンクバンドの方がビートルズよりも偉かったりした。そんな時代に松村氏が20代に書いた文章と出会った。松村氏はリアルロック、シリアスな音楽としてのジョンレノンやポールマッカトニー、そしてビートルズを語ってくれた。ビートルズと共に走り、そしてその歩みとともに始まった松村氏の人生をその素晴らしい文章で表現されていた。そこには血と汗と涙と生きている実感と生き急ぐスピードがほとばしっていた。だけれども松村氏はそのことを前面に出してアジるような野暮なことをしなかった。普通の書き手だとやりがちになってしまう重くて汗臭い熱血話を松村氏は書かなかった。あくまで軽やかに、必要以上に暗くならずにそうした重たい内容を文章で表現していた。松村氏の文章に接したことがある人は、誰もが言うことだけれども、松村氏は非常に文章がうまい方だ。名文家である。プロレスの話。日本酒を立ち飲みしていた見ず知らずのおじさんのはなし。そんな僕がよく知らなかったり、日常のふとした光景について書いた文章も面白く読めてしまう。そんな松村氏の文章への憧れもあったのだと思う。僕はいつしか恐る恐る自分のための文章を書くようになった。2022年3月12日。松村雄策氏が亡くなられた。最近は憧れのロックンローラーたちの死を聞かされることが多いのだけど、そのニュースを聞いたとき、やはり「えっ」と思った。僕と松村氏はちょうど20才差だ。だから今後の人生をどう生きていきたいか。そんなことも考えさせられた。そして何よりも、あの松村氏の文章の最新版をもう読むことができない。それは何か寂しい気がする。僕と松村氏とは、直接の面識がないのだけれど、1度フジロックで松村氏と出会ったことがある。それは早川義夫のライブが終わったフィールドオブヘブンで、思わず感激して握手を求めてしまった。松村氏は少し困ったような照れたような感じで、握手をしてくださった。ジャックスを聴くきっかけを与えてくれたのは松村氏の文章なので、何か不思議な縁を感じてしまった。そしてもう一つ僕が松村氏から教わったことで今でも守っていることがある。それは「わかったふりをするな」という警句である。わからないものをわかったふりをする大人になるな。わからないものはわからないと正直に言って、若者たちの前に立ちはだかる大人となれ。年を取るにつれて、その言葉は重みを増すように感じた。誰でもなく自分の人生を生きなさい。それが松村氏の文章に込められた僕らへのメッセージであると僕は思う。ビートルズは眠らない [ 松村 雄策 ]
2022.07.05
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約27年前に全盛期を迎え、約20年前に突然活動を停止して、2年前に久しぶりの新譜を出したアーティストがいるとする。2022年にそのアーティストがコロナ禍を経て約3年ぶりにコンサートをするという。その彼が行うべきライブは何だろうか。約27年前の曲だけで構成されたヒットパレードみたいな同窓会ノリのライブ?それとも今の「彼」を表現するようなライブ?そして僕は彼になにを期待すればいいのだろうか。かつてのヒット曲を聞いて「昔は僕も若かった」とノスタルジーに浸ること?それとも、ノスタルジーではなく「今」を直視すること?「彼」とは小沢健二を指す。そして僕は90年代の「僕」よりも確実に年を取り、もう若くない。フジロックのライブのときは「LIFE」というアルバムを中心に、90年代に若者だった人たちにアピールする大盛り上がりの祝祭だった。今年もそれをすればお客さんは満足して帰ってくれる。そんなことは彼にはわかり切っていたことだろう。でも小沢健二はそうしなかった。2022年6月26日のライブを見に行った。ポエトリーリーディング、渋めの選曲、非常に高度な演奏技術に支えられたその音楽。それは僕が初めて「ecletic」というアルバムを聞いたときを思わせるそんなライブだった。「ecletic」というアルバムを聞いたとき、僕は非常に戸惑った。特に「LIFE」といアルバムを経てのことだったからなおさらだった。コマーシャル性の高いフィーリーソウルから、突然ダニーハサウェイのようなストイックな感じになってしまったかのような「ecletic」というアルバム。何も先入観を持たずに今聞いてみると、非常に優れたアルバムだと思う。でも「LIFE」という非常にアッパーで多幸感に溢れたテンションの高いアルバムを聞いた後にこのアルバムを聴くとよくわからなかった。それが当時の僕の反応だった。このコンサートはこのような構成だったのではないか。2020年。突然起こったパンデミックで世界が災厄のときを迎える。その戸惑い。深い絶望。そして苦悩。そうしたものを表現した前段。2022年。ようやくパンデミックは落ち着きを見せ、新たな展望と共に「新しい日常」へと変化していった。それは混沌と新たな災厄をはらみながら少しずつ新しい価値観や新しい希望を少しだけ含んでいる。そんな今の時点を表現した中段。そしてその新しい価値観や希望が儚く消えるものではなく、新しい「祝祭」へと続いてほしいという祈りや願いを表現した後段。そんな3段構成のコンサートだった。僕はそのように思った。「いちょう並木のセレナーデ」や「大人になれば」のようなどちらかというと静かな曲で構成された前半。「ecletic」バージョンで演奏された「今夜はブギーバック」2022年の今に祈りをささげる小沢健二流のゴスペルのように聴こえた「天使たちのシーン」「強い気持ち・強い愛」でいつもとは違う形だけど大きな盛り上がりを見せた後、その祝祭自体に祈りをささげた「ある光」。それは小沢健二の「今」の時点をリアルに表現したライブだった。今から考えると小沢健二という人は時代のリアルに敏感であり、自分にとってのリアルを大切にするアーティストだった。70年代は「ひこうき雲」、80年代は「ロング・バケーション」、90年代は小沢健二の「LIFE」とまで高く評価されている「LIFE」というアルバム。このアルバムがそこまで評価されているのは単に音楽が優れているからというだけでなく、時代にくさびを打つような重要なアルバムだったからなのだろう。そして賛否両論が飛び交ったその後のアルバムも彼自身のリアルを表現しようとした結果だ。もし2022年の6月26日のライブがフジロックと同じ「同窓会ノリ」の焼き直しだったなら、多分僕は失望しただろう。もう小沢健二は終わった。と。だから小沢健二が2022年を表現し続けようとしたこの日のライブは、たとえ僕にはわかりにくいものであっても、喜ばしいことだと思う。それを承知のうえで、僕はこんなことを思った。今回のライブはすごくヘビーで「大人向け」で少し敷居が高かった。と。その感想は「ecletic」というアルバムを聞いたときにまず初めに感じたことと似ていた。だけれども、もしこの日のライブがDVD化されて記録として残ったら、僕はあと2年後くらいになって、その日のライブはすごくよかったと手放しで絶賛しているかもしれない。ちょうど「ecletic」というアルバムが名作であることが今になってわかったように。僕も彼や彼女も90年代には20代の若者としてその時代を生きていた。そして2022年の今も僕らは中年期のオジサンとして生き続けている。小沢健二も同じく2022年を生きている証明として、今感じたリアルを表現し続けている。その姿のスナップショットとして2022年の6月26日のライブがあった。僕には少し敷居の高かったその日のライブも、逆に言うと小沢健二が「今」を生き続けているアーティストであることを示しているからだ。そしてまた問いは一番初めに戻る。90年代が彼の活動のピークであったのは確かなのだから、その再生産をやっていれば充分なのだ。という見解。90年代のように時代のトップランナーではないとしても、今アーティスト活動をしているのだから「今」を表現しなければならないし、するべきだ。という見解。どちらが正しいのだろうか。今の僕にはその判断がつけられなかった。敷居の高さが気になったせいだ。そしてその正否はあとになって振り返ってみて、という形でしか確かめられないような気がした。飛行する君と僕のために / 運命、というかUFOに(ドゥイ、ドゥイ)【完全生産限定盤】 [ 小沢健二 ]犬は吠えるがキャラバンは進む【完全生産限定盤】 [ 小沢健二 ]
2022.07.01
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この本、あるいは対談集の初版の年月日をみると2020年2月2日となっている。そこからこの対談は2019年以前に行われたことが推察できる。そのためこの対談が行われたとき、コロナ禍やコロナ以降のことはまだわからなかった。そのようなことも同様に推察できる。この本の前書きには以下のような著者たちの危機感が書かれている。安倍政権下のもと日本は衰退しつつあるのではないか。そしてそうした安倍政権下の「美しい国」的なものに対して、無批判かつ迎合的な文化状況を憂う。そのような社会状況、文化状況に抗するため「ポストサブカル焼け跡派」を宣言し、今までのサブカルの歴史を捉えなおすのが、本書の目的である。と。サブカルの歴史を捉えなおすとあるが、彼らはどのようにサブカルの歴史を把握しているのか。それは、対談のトピックスにあげられるアーティストたちや巻末年表を見るとわかる。一言でいうと大きな偏りや著者たちの独断が入っている。例をあげてみよう。まず本文である対談。80年代を語る題材として、ビートたけし、戸川純、江戸アケミが取り上げられているが、ユーミンこと松任谷由実のことが全く触れられていない。80年代のポップスといううと必ずユーミンが語られるし、バブルを象徴する映画として知られる「私をスキーに連れてって」の主題歌や挿入歌はユーミンだった。また巻末の年表(1969~2019)を見ると、1980年のジョンレノンの射殺事件が載っていなかったりする。他にも90年代ロックファンの鉄板ともいえるブランキージェットシティーの「CB JIM」やミッシェルガンエレファントの「ギヤブルース」の発表が載っていなかったりする(ミッシェルの解散は載っている)。こうしたことを見ても、この本は大きな偏りと独断が含まれている。それはふつうの、「サブカルの歴史を全て網羅して解説しました」的なサブカル解説歴史本ではない。それではこの本(対談)は何を目指したのだろうか。僕が読み取ったことを言うと、この本はある種の「自意識」の歴史をたどったものであるということだ。もっと言うと、「自意識過剰」なタイプの人々が何を選び何を消費したかをたどって、それを手掛かりに「現在(2019年)」にどのような可能性があり得るかを語り合った対談集である。この対談を無理に要約するなら以下のようになる。70年代。70年代をプレ80年代としてとらえ、日本が消費社会へと変貌しつつあるなか、カウンターカルチャーとしてのロックが次第に変わっていく過程を語る。80年代。日本が「ジャパンアズナンバーワン」と称され、自他共に認める豊かな社会になった80年代。音楽の消費の仕方も多様化していくなか、「今自分が何を好んで聴いているか」がその人の「人となり」や「人格」を表していると同世代の中で共有されうる時代になる。(例えば「ユーミンを聞いているOLってこういう人が多いよね」「TOTOやジャーニーを聞いている大学生ってナンパがうまいよね」といったたぐいのコミュニケーション)。その中でその頃のサブカル総論としてのビートたけし。危うい自意識の象徴でもあり、女性サブカルの新たなフォーマットを産みだした戸川純。そして90年代のびつのあり方を提示していた、可能性としての江戸アケミ。この3人を中心に議論していく。90年代。日本経済が衰退の曲がり角を急速に切っていく中、音楽産業だけはまさに黄金時代だった。宮台真司の研究(制服少女たちの選択 第2部)でも自明化されたように、90年代はある趣味を持ち、ある種の音楽を好んで聴く人はコミュニケーション能力が高くてモテて、ある趣味を持ち、ある種の音楽を聞く人はモテないし暗いといったことが完全に明らかになった時代だ。(90年代の中盤まで、「モテるヤツが偉い」というイデオロギーがかなり説得力を持っていた)。そのような時代の中、フリッパーズギター、電気グルーヴ、X-JAPANというそれぞれの自意識のあり方について考察する。ゼロ年代。新自由主義による社会改造が急速に進んでいく。その中でゼロ年代に最も影響を与えたサブカルスターであり新宿系「自作自演屋」だった椎名林檎。新自由主義への適応の形としてのKREVA。荒廃していく現実からの新しい逃避形態としてのバンプオブチキンが取り上げられる。そして安倍政権の10年代。時代の仕掛け人であり「最強最悪のゲームマスター」秋元康を踏まえて、新しい可能性としての星野源と大森靖子を提示して、10年代の総括としている。この対談で最も興味深かったのは江戸アケミに関する対談だ。日本がバブルの狂騒に入っていくなか、若者には今まで足かせとなっていたもの全てから自由になっていく感覚があった。でも実際のところ「物を買う・選ぶ自由」くらいしかなかった。好きなものを消費し、好きなように生きているかのように見える私。でもその「消費しているもの」を全てはぎ取ったとして「本当の自分」はあるのだろうか。**というブランドの服を着て○○というお店で外食して***という車のカーステで○○〇というアーティストを好んで聞いている私。そうした「商品名」を脱ぎ捨てて丸裸にされた「私」という存在。そこで自分には何が残っているのだろうか。そのような形で「自分とは何か?」という自意識がフレームアップしてきた。そうして自意識の問題への回答としてまずは麻原彰晃という回答があった。サブカル要素のごった煮のある種の体系をつくりあげ、それを信じるグルと信者との共同体を形作ることにより、自意識の問題を救済しようとした。もう一つの可能性として江戸アケミをあげている。対談に即していうと、江戸アケミは音楽が鳴っているその瞬間に立ち上がる強度に自意識のみならずすべての救済をかけていた。そして江戸アケミ自身は徹底的な個人主義者で共同体を拒否した。そうした「強度」を理解できる個人主義者たちがアソシエーションとしての「仲間」をつくりあげて、何かを成し遂げられるのではないか。そこに彼は可能性を託していた。そうした内容の対談だったが非常に興味深かった。 * * *僕自身の体験や年齢からしても、最も興味深く読んだのは90年代だった。そしてそれは重大な岐路として対談でも語られている。そこで「ポストサブカル焼け跡派」という本からインスピレーションをいただき、別論としての90年代を試論として書いてみたい。主役は「ブルーハーツ」というバンド、あるいはそれを聞いていたファンである。ブルーハーツというバンドには2つの可能性があったと思う。それは初期の「リンダリンダ」という曲に現れている。①「ドブネズミみたいに美しくなりたい…」という当時の価値観の逆転・転回を提示した歌詞を重視する可能性。シリアスで、下からの異議申し立て、世間に対する反抗、社会的なメッセージといった要素を含んだ歌詞をより深めていく可能性。②何の脈絡もなく挿入される「リンダリンダ」という叫び声にも似た「うた」や荒っぽい演奏の強烈さに象徴される「音楽の強度」をより追及していく可能性。ブルハーツのファーストアルバムは①、②両方の可能性が渾然一体となって提示されているまさに名作である。しかし「チェルノブイリ」や「Train-Train」というアルバムを経るに従い、世間一般のパブリックイメージとして①に重点が置かれる聴かれ方をされるようになっていったのではないか。②の可能性を追求したいという指向をヒロトもマーシーも持っていた。それは「キューティーパイ」といった曲や4thアルバム以降のヒロトの作詞の変化にも見てとれる。それにもかかわらず。ブルーハーツのそのような試行錯誤にもかかわらず、ブルーハーツは①のイメージの肥大化を避けることができなかった。ブルーハーツを本気で好きになる人ってどのようなタイプの人が多かったのだろうか。統計を取ったわけではないのでわからないけれど、熱烈なファンの一典型として、「学校にも世間にもなじめない僕はどこに属せばいいの?」という自意識過剰さへの救済としてブルーハーツを聴いていた。それはありがちなことのように思う(自分がそうだったから)。そうした救済としての「ブルーハーツ」。それは「ポストサブカル焼け跡派」の江戸アケミの対談でも触れられた麻原彰晃による救済とよく似た形をしている。そのような「救済」をある意味で無毒化させる自意識のあり方としてフリッパーズギターや電気グルーヴのヒネクレかたがあった。僕はそのように思っている。「そういう人生系の重たさってありがちだよね。」と突き放しながら諧謔的に自分を提示するやり方。そうすることでオウム的な「体系」やブルーハーツへの不健康な思い込みに対抗する。そうした自意識のあり方。論をブルーハーツに戻すと、そうした一部ファンの救済を求めるあり方はブルーハーツ自身にとっても重圧だったに違いない。1995年にブルーハーツは解散。同年に地下鉄サリン事件が起こる。ブルハーツ以降にヒロトとマーシーはハイロウズを結成する。それは①の可能性を徹底的に排除し、②の可能性のみを追求し、純化させていく活動だった。ブルハーツの「苦悩」はどのようにして生じたのか。ブルーハーツの歌詞から読み取れる社会に対する下からの異議申し立て。それがあまりにも優れていたため、それは勝手に肥大化してしまう。その肥大化したイメージがある種の自意識過剰さを抱える少年少女たちの救いとしてあがめられる。そしてそうした「救い」はある意味で「オウム」と相同していたし、また「オウム」に対抗できる別のあり方を提示できなかった。そのような「苦悩」は後のミュージシャンたちに学習される。そして意識的なミュージシャンであるほど社会性からの撤退が顕著になっていく。そうした社会性からの撤退の究極的なあり方として「セカイ系バンド」があるのではないだろうか。以上。90年代のある側面からの試論だ。 * * *「ポストサブカル焼け跡派」のよいところは議論が「開かれている」こと。難しい専門用語を使わず、難しい概念でけむを巻くようなことをしない。自分が普段に使っている言葉でアーティストたちを論じている。だからこそその議論の可否が確かめられるし、議論を自分でより深めたり、別の議論を並列的に提示したりすることが可能である。確かにコロナ前の対談で「コロナ」という重大なテーマを論じていないのは2022年の時点では不完全かもしれない。だとしてもここで展開される議論は「開かれている」という意味でも有意義であり、読者に何かを考えさせるパワーを今も持っている。そのように思う。ポスト・サブカル焼け跡派 [ TVOD ]
2022.06.12
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僕にとっての90年代って何だったんだろう。90年代は僕にとってほぼ20歳代にあたる期間だ。多くの人々と同様に僕の90年代は1995年に反転した。そしてそれ以降の時代の心象風景。それが僕にとっての90年代。そんな印象が強い。これはあくまで個人史に過ぎないけど、1995年に僕は鬱症を患い今に至る。特に95年から98年の3年間は非常にヘビーで、何をやってもうまく回らず、悪い方へ悪い方向へ進んでしまう。そんな感じで、まるで流砂のプールの中でもがいているようでだった。それはあえて名付ければ「空白」。巨大な空っぽだった。だから30代はそれを埋め合わせるため自分なりに走った。歩いていくということを知らないまま。だから90年代を振り返って感傷的になることなどなかった。またその暇もなかった。そんな僕も年を取った。成長したのでもなく成熟したのでもなく、ただ年を取り老いてしまった。その結果、自分が90年代に若かった。それだけでその時代を懐かしく感じるようになった。どんな惨めな思い出も巨大な空っぽも、20数年も経てば「よい思い出」に変わってしまう。その頃に思っていた内面や内実を忘れてしまうから。体力も時代に対する皮膚感覚も消耗してしまった現在からすると、90年代は自分が若かっただけで今よりも自分が尖っていたような錯覚に陥ってしまう。そうすると「90年代ノスタルジー」が始まってしまう。どちらかといえば灰色でくすんでいた90年代の心象風景が美しいセピア色に変化する。そして「あの頃はよかった」などという90年代に僕が一番嫌だった言葉を吐き出している自分に気付く。90年代の僕はそんな年老いた自分を見てどう思うだろうか。軽蔑?吐き気?怒り?いや。意外と何も感じないかもしれない。あのときは自分が生き延びること、ただそれだけで精一杯だったから。他人をどうこう言う余裕はなかったかもしれない。「そしてボクたちはみんな大人になれなかった」という映画の舞台は90年代だという。主人公がある事件(というより事象)をきっかけに昔を思い出し、回顧する。そのようなストーリーだ。そんな前情報を聞いてこの映画を見た。多分「90年代はよかった」というそんな90年代ノスタルジーの映画なのだろう。そう思ってその映画を見に行った。だけど逆だった。そこにあったのは主人公の砂をかむような思い。それはこの小説の原作者の燃え殻氏のものか。あるいは監督の思いか。それはよくわからないのだけれども、僕も多分あの頃に感じていただろうザラザラとしていて苦々しいあの感覚が描かれていた。あの感覚。それは皮膚をやすりでこすって少しだけ擦り切れて出血したような痛みの感覚。そんな長い間思い出すことのなかった、90年代に僕が好んでいた感覚だ。物語は2020年から始まり、2015年、2011年…。というように過去へさかのぼるように進む。2010年代に婚約した女性に愛想をつかされて逃げられ、2000年代に先へ進めない恋を繰り返す主人公。また主人公自身の境遇やキャリアコースも振り返ってみれば何も変わらない。今のこの仕事が自分自身にとってどんなものなのか。一生かけてやるべき自分の天職なのか。あるいは単なる時間の無駄なのか。ずっと確信を持てずにいる。そんな宙ぶらりんの主人公のどうしようもない中年時代を散々見せつけられた後に、物語の核心である90年代に戻る。その描かれ方も見事だ。主人公にとっての運命の女性たるかおりと主人公の「佐藤」との別れがまず描かれる。ときは1999年12月31日。そして彼女が彼の前から姿を消したのは2000年1月1日(というように僕には思えた)。「今度CD持ってくるね」そんな印象的な言葉を残して姿を消したそのとき。それが何度かリフレインされる。その結果の後に「佐藤」とかおりとの恋の馴れ初めが描かれる。かおりは今で言うと不思議ちゃん系の女の子で90年代にはこんな女の子がよくいたなと思わせる。そして恋愛経験値が低い男ほど、こうした女の子との恋愛を夢見がちだったな。そんなことを(自分の経験も含めて)思い出されてくれる。かおりと「佐藤」との恋愛。それは地球で火星人と木星人が恋に落ちた。そんな感じだ。つまり何をどう進めればゴールにたどり着くか。そういう類の恋愛ではなく、ノストラダムスの予言で5年間の猶予を与えられた二人がほんの刹那で出会ってしまったそんな恋愛だ。二人とも惹かれあって「好きになっていった」間柄だけれども、その恋愛には未来も過去もなく、ただ1995年からの数年間に限られてしまった事故のような恋愛。二人はだんだん親密になっていく。そしてその恋は深まっていく。しかしその恋が深まっていったとしてもそれをどうすればいいのか。どうすれば永遠の愛につながるのか。多分両者にも、そしてその恋を見守っている僕達にもわからない。ひたすら閉じこもるように渋谷の円山町で恋を育む二人。しかしその恋はそもそも起きるはずではなかったことなのだ。地球の大破滅が近づいているそのときでなければ、二人は多分出会うこともなかった。だから二人の愛は1999年の12月31日に必然的に消滅しなければならなかった。だから2000年の夜明けとともに彼女は「佐藤」の元から去っていく。この顛末を見せられて後にまた場面は2020年に戻る。そしてある事象をきっかけに主人公の佐藤は走馬灯のように今までの人生を思い返す。しかしそれは苦々しい出来事の連続だ。主人公は自分の人生から何一つ学ぶことはなかったし、本質的には90年代のあの行き止まりの恋から何も変わっていなかったから。 * * *大人になる。それはどういうことだろう。子供に囲まれ家庭を持つ。何がしかの人物になる。守るべきものを持つ責任ある人間になる。そんな旧来から言われていたことだけが「大人になる」ことではないと思う。例えば僕が中学生の時、ビートルズの「Don't Let Me Down」を聴いたときにジョンレノンは「大人」だなと思った。「She Loves You」と歌っていた頃と明らかに違うそのときのビートルズの面々。恋愛の酸いも甘いも知った後に、それでも一人の女性に愛を呼びかけるジョンレノン。その成熟した姿に中学生の僕は「大人」を見た。ならば今の僕はそんな成熟した大人になったのか。その頃のジョンレノンみたいに大人の恋愛を語ることができるのか。この映画の主人公「佐藤」も、そしてその姿をスクリーンで見ている僕も、そんなジョンレノンのような「大人」になれなかった。「ボクたちはみんな大人になれなかった」その暗くて地味で憂鬱なストーリーの中で、小沢健二の音楽が大きな意味を持たされている。それは僕らのような人生を送った人間にとっての「青春のうた」そのものが小沢健二の音楽だったからだろうと思う。いつだっておかしいほど誰もが誰か愛し愛されて生きるのさそんな美しい歌詞が今になると苦々しく反転してしまっている自分の人生。それも含めてこの映画のテーマ曲は小沢健二でなくてはならなかった。またこの映画ではとても美しいベッドシーンが描かれる。多分僕が見た映画の中でベストテンに入るくらいの美しいベッドシーンだ。いつまでも永遠に見ていたい。そういう映画ではないのだけれど、90年代のジリジリとした焦燥するような退屈を思い出させてくれる。そんな映画だった。そしてこの映画を見てしばらくして、僕はミッシェルガンエレファントの「世界の終わり」を思い出した。世界の終わりはそこで待ってると思い出したように 君は静かに待つそんな世界の終わりで繋がった二人。そこには愛があるのか、それ以外の何があるのか、曲を聞いただけではわからない。2020年の今、その二人はどうしているだろうか。多分二人の関係は2000年代の始まりと共に終わった。そして今、二人は違う人生を送っている。1990年代は終わったようでなかなか終わってくれない。[書籍のメール便同梱は2冊まで]/シナリオ[本/雑誌] 2021年12月号 【表紙】 映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』 (雑誌) / 日本シナリオ作
2021.11.21
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じりじりと。朝が来る。太陽は今日も眩しい。目がくらむほど眩しく強い。もう夏は終わり、秋が来たというのに夜勤明けの僕には太陽の光があまりにも眩しい。夜は僕にとっての活動時間。もう7年以上夜を過ごしている。だけどなぜだろう。夜の暗い熱気は僕を確実に消耗させる。そして消耗しきった僕を照らす太陽は、まるで僕を追い詰めるように疲労感を爆発的に増大させる。あれをやらなくては。これをやらなくては。仕事の残りはまだここに残っている。かつてはそんなものはどうでもよかった。でも今はそうはいかない。責任を果たすために。自分の場所を確保するために。それを白紙にしておくことはできない。携帯の代金を払うためには金が要る。家賃を払わなければ追い出される。だから仕事をやめるわけにはいかない。そうやって生活は僕の人生の可能性を確実に侵食し、腐らせようとする。今日の感染者は500人。あいつが死んだという。最近はロックスターがいつの間にか逝去したというニュースが絶えない。僕は確実に年を取った。かつての生のエネルギーも衰えを感じる。このままではだめだと思う。なのに毎日の疲れは僕の時間を無駄にダラダラと滅失させていく。僕はどこへ行くのだろう。僕はどこへたどり着くのだろう。時々そう思いたいと願う。たまにはそう悩みたいと思う。だけど僕を縛り続ける生活はそんな想像力すら奪い、僕は目の前にあるタスクをただこなすだけで毎日の人生を潰し続けている。最近は映画すら見ない。ここ10年、文章をほとんど書いていない。僕は限りなく怠惰に毎日を過ごしている。そんな堕落した僕を30代前半の僕は許しただろうか。岡崎京子の映画が公開されるという。見に行かなければ。だけどなかなか行けない。残業も続いているし。疲れて何もしたくないし。今夜の仕事は休みだ。それなら映画を見に行ける。上演終了の直前に「ジオラマボーイパノラマガールを見に行った。例えば上記の文章を読んで、この記事を見た方はどのような感想を持っただろうか。何か気取っただけの自己満足な文章。自分に何がしかの才能があると勘違いした人が書いたありがちなナルシスティックな文章。すごく古い感性に従って書かれたダメな文章。もし40代以上の方々だったらこんな感想を持つかもしれない。よく90年代のサブカル雑誌で見かけた三流ライターが書いていた感じの「ありがち」な文章。そのような評価がついても僕はそれほど気にしないだろう。なぜならそのように見えるようにわざとそう書いたからだ。90年代に読んだ文章書き方入門の類でよく目にした事柄として、「体言止めやそれに準ずる表現は避けた方がよい」というものがあった。そうした表現を使うと強調したいところをうまく強調できたり、文章に独特のリズム感が生まれたりする。だけどあまりにもそうした表現技法を使うと、それこそ自己満足の文章になりがちだし、散漫な文章という印象を読者に与えたりしかねない。しかし90年代に読んだ文章を思い出してみると、文学作品にしろ評論文にしろ漫画表現にしろ体言止めやそれに類した表現技法をよく目にする機会があった。そしてそれは成功している。そう思えることが多かった。今になって思うけれど、そうした表現技法も「時代」が関係していた。そんなことが言えると思う。作家あるいはライターは自分の感性に従ってそうした表現技法を使用する。その感性が的外れでなければ、そうした表現がうまくきまる。ではその「感性」はどこから生まれたのか。それは90年代に活躍していた彼や彼女が今まで読んできた表現や、共時的な「かっこいい文章のフォーマット」みたいな共通理解によっている。後段の説明をもっと違う言葉で言うと、「あの文章はかっこいいね」「あの文章はちょっと駄目だね」みたいな境界線が作家やライターや読者の間に流通していて、ある文章を見て「あの文章はかっこいいね」に当てはまる文章であると、それは高評価を持って評価される。そしてそのような感覚は90年代という時代の「精神」のようなものの一部であって、時代に拘束されたものであった。そうして時代の精神のようなものは、その時代に生きた作家たちの作品にも影響を与えずにはいられなくて、岡崎京子の作品もそこからは逃れることができなかった。だから岡崎京子の作品がダメだというのではない。例えば文学史上に残る大作家たちの作品、芥川龍之介にしろ太宰治にしろ三島由紀夫の作品にしろ、それはその時代の精神に拘束されたものだ。だけど、彼らの作品が時代の精神に影響を受けながらもその時代性を超越する何かがそこにあったから彼らの名前が文学史上に刻まれることになった。時代性を超越する何か。それは普遍性といってもいいのかもしれない。太宰治の作品は時代に拘束されている。それでも「人間失格」や「斜陽」といった作品は今読んでも何か心を打つものがある。2020年の岡崎京子作品。それは漫画の世界の古典的名作の一部として語られるような存在なのだろう。リバーズエッジも東京ガールズブラボーもPINKも時代を超越する普遍的な魅力を持った名作なのだろう。だけど1990年代の記憶を持った僕などは彼女の作品を90年代の記憶からうまく切り離すことができない。映画「ヘルタースケルター」を作った蜷川監督は1972年生まれ。映画「リバーズエッジ」を作った行定監督は1968年生まれ。両方の監督も1971年生まれの僕と同じころに90年代をそして多分岡崎京子を体験していた。だから「90年代の記憶」を両方の映画は含んでいる。だから僕は両方の映画にある種の共感を持ってみることができた。しかし岡崎作品は90年代の精神を越えて、それ以降に生まれた人々に対してもアピールする普遍的な何かを訴えかけ続ける。すると例えば2000年生まれの岡崎ファンと僕とでは岡崎作品の理解が異なってくる。そうしたことが起こったりする。映画「ジオラマボーイパノラマガール」を作った瀬田なつき監督は1979年生まれ。ジオラマボーイパノラマガールの原作が発表されたときは10歳くらい。もしかしたらリアルタイムでこの作品に出会った可能性はある。そして90年代は10代から20代前半の間を過ごしている。1995年は16歳の時のことだ。多分その頃小沢健二や岡崎京子を熱烈に愛した青春時代あるいは高校時代だった。そんなことを想像できる。しかし8歳上の24歳の僕は1995年当時、多分違う風景を見ていた。映画「チワワちゃん」を見たとき、映像がチカチカとうるさくて何を訴えたいのかわからない。そんな感想を持った。監督の二宮健氏は1991年生まれだという。彼にはもしかしたら90年代の記憶などないのかもしれない。映画「ジオラマボーイパノラマガール」を見て感じたのはセリフが空回りしている感覚だった。映画の登場人物の話す言葉がうまくかみ合ってなくて、それが場面場面の必然性のない展開をうまく埋め合わせてくれない。だからなにか不自然な展開の映画にしか見えない。例えば神奈川ケンイチが高校を辞めるときに高校教師にキスをする場面がある。それはほぼ不条理にしか見えなかった。彼はなぜそんなことをする必要があったのだろうか。パン屋襲撃の計画での村上春樹の作品の題名をセリフで言うシーン。あれはなぜ必要だったのか。僕には理解できなかった。それに所々で気恥ずかしい気持ちになる場面もあった。悪い言葉で言うと「クサい展開」があったということだ。原作のジオラマボーイパノラマガールは非常に色々な要素が詰まった作品だ。ハルコに憑依するおばあちゃんだとか、心を読める妹だとか、街の顔役タイラヒトシだとか。それを2時間にまとめるために、映画ではハルコとケンイチの出会いとすれ違いに重点を与えて作られている。そしてあえて2020年付近の時代を舞台に物語は進む。それは瀬田監督の、岡崎京子を90年代的な記憶から切り離して語らなければならない。そうした意思を感じる。岡崎京子にしろ、この作品に登場する小沢健二にしろ、それらの作品は今まであまりにも90年代的記憶で語られることが多すぎた。それらの作品は絶対に90年代的精神を越える普遍的な価値を持っているのだから、90年代の記憶から切り離すべきだ。90年代に青春を過ごしたオジサンやオバサンからそれらを新世代に開放すべきだ。その意見に全く異存はない。ただその「理解」の仕方までは、僕にはわからない。2000年生まれの彼女がリバーズエッジを読んで、素晴らしい作品だと思う。それは94年に23歳だった僕がリバーズエッジに衝撃を受けたときと違った感想であるはずだ。そして2000年生まれの彼女が2025年に例えばリバーズエッジの映画を作るとしたらどうだろうか。多分僕にはそれを理解できないのではないか。そんな予感を感じる。映画「ジオラマボーイパノラマガール」でのセリフの空回り。それは多分瀬田監督の作為なのだろう。つまりわざとそのように空回りするように脚本を作った。2020年現在の女子高生(つまり主人公のハルコとその友人)の小沢健二の作品に対する愛情ある受容の仕方。それはもしかしたら瀬田監督のオザケンへの愛情がそうさせたのかもしれない。それは多分瀬田監督が2020年にふさわしい「ジオラマボーイパノラマガール」を作りたいという意図のもとで行われたことだと僕は想像している。「2020年にふさわしい」ということは2020年の精神からみてリアリティーがある、あるいは「この表現はかっこいい」という2020年の共通理解に合致しているかどうか。そこが2020年現在の視点からするとこの作品への評価ポイントなのだろう。しかし残念ながら僕は2020年の精神からすでに見放されている。だから僕は正直に「わからなかった」としか言い方がない。岡崎京子の作品は当然ながら90年代育ちの人々の独占物ではない。むしろそれ以降に生まれた人々にも読み継がれるべき素晴らしい作品だ。しかしそれをどう読むか。それは時代によって違う。それが僕に理解できるのか。理解できないのか。理解できなかった場合は、僕は「僕にはわからない」「理解できない」とだけ言うべきなのだろう。90年代的なリアリティーに基づいた岡崎京子作品の理解。それは例えば2000年代前半まではまだ有効だったかもしれない。そして岡崎京子作品は時代を越えて読み継がれ、その作品は時代に伴ってどんどん更新され続ける。その更新に僕はもうついていけなくなったのかもしれない。そしてそれは。90年代という時代がもはや遠い過去になってしまった。そんなことを思いながらこの文章を書いている。【28日1:59まで1000円OFFクーポン有】ジオラマボーイ☆パノラマガール 新装版/岡崎京子【3000円以上送料無料】
2021.01.27
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1987年に、日本の16歳の少年がブルース・スプリングスティーンを聴くこと。それは意外と当たり前な感じで、あり得ることかなと思ってしまう。確か、その前年にスプリングスティーンは「The Live」という数枚のレコードからなる大作を全米ナンバーワンに送り込んだ。そのアルバムは日本でもヒットしていたし、そして何よりも「Born in the USA」の大ヒットがあった。「Born in the USA」はベトナム帰還兵のやるせない日常と苛立ちをテーマにした曲だ。しかし"Born in the USA"というフレーズがあまりにも強烈すぎて、逆に「俺には何もないけど誇るべきアメリカで生まれた」という愛国歌にも取れてしまうすごく危うい曲だ。そしてこの曲はレーガン大統領の演説で引用され、スプリングスティーン自身の思惑から離れて、ある意味レーガノミクスやレーガン政権のサウンドトラックと取られてしまうようになってしまう。そのイメージは強烈だった。80年代の日本ではレーガンもサッチャーも悪者だったから(少なくともロキノン系や朝日新聞や岩波界隈では)、スプリングスティーンはそういう保守派のいかがわしいミュージシャンだ。そんなパブリックイメージも彼にはつきまとっていた。そんな理由から16歳の僕はそんなに積極的にスプリングスティーンを聞かなかった。僕がスプリングスティーンのすばらしさを知ったのは、たまたま中古盤屋で買った「明日なき暴走」のCDだった。この作品は言わずと知れた名盤で、例えばプログレ嫌いの人でも「クリムゾンキングの宮殿」は聴くべきだとか、デビッドボウイ気持ち悪いという人でも「ジギースターダスト」は聴かないといけないとか、ストーンズファンではなくても「メインストリートのならず者」は持ってないといけないとか、そういう類の名作だ。「明日なき暴走」の何がいいのか。捨て曲なしのパーフェクトなアルバムであると同時に、青春のすべてがそこに詰め込まれているからだ。それは夢や希望、それとは裏腹にまだ何もできないでいる焦りだとか、将来が未知数であることへの怖れであるとか、ごく普通の少年や青年が体験するであろうことすべてを詰め込んだような宝物のようなレコードだからだ。「Born to Run」や「凍てついた十番街」はしびれるほどかっこいいし、「Backstreets」は胸が苦しくなるほど切なくて美しい曲だ。「Thunder Road」は夜の街を猛スピードで突っ走りたくなるような瞬発力を持った曲。そしてアルバムの締めくくりの「JungleLand」という大作はそれらの名曲たちのフィナーレにふさわしい重厚な曲だ。「明日なき暴走」はそんな青春の明暗を全て詰め込んだ名作で、それから僕はスプリングスティーンのCDを本気で聴くようになった。1987年に16歳のパキスタン移民の少年がイギリスの郊外でスプリングスティーンと出会うこと。それが「カセットテープ・ダイアリーズ」という映画のすべてだ。ジャベドは作家を夢みていつも文章を書いているちょっと暗いタイプの少年だ。保守的な父親と家庭環境の中で息苦しさと鬱屈を抱えながら何もできない焦りの中で日々をやり過ごしている。そんなある日、父が失業してしまい家庭状況はますます悪くなっていく。ジャベドは行き場のない怒りと絶望の中で思い悩む。そんな嵐の夜のある日に、ジャベドはスプリングスティーンの「闇に吠える街」と「Born in the USA」のカセットテープをウォークマンに入れて聴く。そのカセットはひょんなことで知り合いとなったムスリムの友人から借りたカセットテープだ。それはジャベドにとってまさに運命の出会いであり、世界が崩れてまた始まるような瞬間だった。そしてジャベドの人生はまた始まった。かすかな希望、この夢のない郊外から出ていかなければという思い、それに伴う親との対立、恋愛、友情、そして最後に親との和解と今まさに叶いそうな夢の行方…。そうした王道の青春ストーリーに、その当時のイギリスの時代的状況やマイノリティーである移民たちに向けられる差別や偏見といったスパイスが散りばめられている。この映画のストーリーは筋だけを説明してしまうと青春映画の王道といったものなのだけれども、スプリングスティーンの音楽が挿入されると大きな相乗効果を発揮する。時には字幕やプロジェクションマッピングで歌詞を強調したり、要所でプロモビデオ張りのダンスシーンが入っていたり、スプリングスティーンの音楽に一度でも感激したことがある人にとってはとても嬉しい映画だった。何よりもよかったのは気恥ずかしい気分にさせられなかったこと。素直に感動できる映画だったことだ。市場で「Thunder Road」の曲が流れ、クライマックスに至るシーンだとか、学校の放送室をジャックし、「Born to Run」を流して校庭を走り抜けていくシーンだとか、下手をするとものすごく気恥ずかしい気分になってしまいそうなシーンもある。でも、多分編集が優れているからかもしれないし、スプリングスティーンの楽曲の力もあるのかもしれない、そうしたシーンも微笑ましくそしてエモーショナルに感じてしまう。スプリングスティーンを知らない人からしたら、「ボスの宣伝映画」と言われるかもしれない。ロックから程遠い人からすると気持ち悪い映画と言われるかもしれない。だけど僕のような音楽好きの、特に音楽で自分の人生の大半を費やしてしまったタイプの人間からすると、それは本当に夢のようなストーリーだ。もし自分の人生にそのようなことが起きていたらどんなに素晴らしいだろう。13歳の時に起こったビートルズとの運命的な出会い。芽生える夢と希望。世間との軋轢と反抗。友情。愛情。夢への真っすぐな努力と忍耐。いくつもの別れといくつもの出会い。そしてつかみ取った栄光への片道切符。現実ではそんなにうまくはいかないけれど、そんなことが自分の人生に起きたとしたらどんなに素晴らしいだろう。そんなロックファンの共通の夢を描いたからこそ、この映画はスプリングスティーンをそれほど知らない人でも理解できるのではないだろうか。そしてジャベドという主人公が、スプリングスティーンと出会うまでは、どこでもいるような暗くて冴えない少年として描かれていたからこそ、この映画のストーリーに感情移入しやすいのではないだろうか。まるでドラえもんと出会ったのび太のようだ。ただドラえもんと違うのは、ジャベドがスプリングスティーンの力を借りながらも自分の力で自分の未来を掴み取ることだ。考えてみるとスプリングスティーンの曲は青少年の成長物語を描いた曲が多い。だからそれは必然的なことだったのかもしれない。僕はそうした理由で「カセットテープ・ダイアリーズ」という映画を感動してみることができた。さっきも書いたけれど青春の成長ストーリーとスプリングスティーンの音楽は相性がいい。だからスプリングスティーンの音楽の良さを知っていると、よりこの映画は感動できるし楽しめる。とりあえず「明日なき暴走」と「アズベリーパークからの挨拶」と「闇に吠える街」のどれでも1枚を聞いてみて感動できるなら、この映画も楽しめると思う。Bruce Springsteen ブルーススプリングスティーン / Born To Run: 明日なき暴走 【CD】【輸入盤CD】Bruce Springsteen / Greetings From Asbury Park N.J.(ブルース・スプリングスティーン)Bruce Springsteen ブルーススプリングスティーン / Darkness On The Edge Of Town: 闇に吠える街 【CD】(オリジナル・サウンドトラック)/カセットテープ・ダイアリーズ オリジナル・サウンドトラック 【CD】
2020.07.20
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石原慎太郎が都知事だった頃、仕事の同僚だった人に「石原慎太郎は素晴らしい政治家だ」と言われて困ったことがある。石原都知事は絶大な人気を誇った政治家だった。臨海副都心開発、排ガス規制、銀行不祥事のときには外形標準課税の構想や新銀行東京の設立など、話題になるような政策を打ち出していた。そうした業績は認めつつも、僕は生理的に彼のことが好きではなかった。記者会見などで見せる強圧的な物言い、そこから醸し出される雰囲気、そしていわゆる右派的な政治的姿勢。それでその同僚の人に同意を求められて困ったので、「石原さんは、僕が高校時代に嫌いだった国語教師と雰囲気が似ているので好きではありません」と答えた。それを聞いて、その人は「このおバカさんに、石原さんのすばらしさを伝えようと思ったのが間違いだった」と呆れた顔をしてその話を終わりにしてくれた。石原慎太郎の小説は2~3作読んだことがある。その中にはもちろん「太陽の季節」が含まれている。僕にとって「太陽の季節」ほど苦手なタイプの小説はなかった。まず主人公が魅力的ではない。非常に計算ずくで打算的で小賢しくて純粋さとは程遠いその人間像は、例えば「ライ麦畑でつかまえて」のホールディンのような普遍的にアピールするタイプの人間ではない。よく過激と評されるその行動も時代に追い越されている。あと肉体主義的というか、ボクシングの描写シーンが不必要に多く、それが醸し出す体育会的な表現も好きにはなれなかった。そして何よりも文章が苦手だった。彼の書く文章はことごとく僕の感性に合わず、読んでいてイライラしたし、非常に心地悪さを感じた。僕の生理的な感性全体が「太陽の季節」に拒絶反応を示した。これほどまでに自分の体に合わない小説は今まで記憶にないし、完全に「ダメ」だった。例えば大江健三郎の小説は非常に読みにくくて、読了するのに大変なエネルギーと時間を要するけれど、「拒絶反応」を感じることはなかった。逆に言うとなぜ「太陽の季節」はそれほどまでに僕の心を刺激するのだろう。つい最近になってNHK出版より「シリーズ・戦後思想のエッセンス」のシリーズとして「石原慎太郎 作家はなぜ政治家になったか」が発売された。著者は「保守思想家」を標榜する中島岳志氏である。先に感想を述べると、この本を読んで石原慎太郎という人の違った側面を見ることができて、僕には有益だった。そういう感想を持った。中島氏は石原慎太郎が回想録で「戦後と寝た」と表現したことを受けて、石原氏はまさに「戦後」の思想の変遷をたどるうえで非常に重要な人物である。そう指摘する。そしてデビュー作である「太陽の季節」から始まって、石原氏の作家論及び思想論を展開する。僕にとって非常に示唆的だったのは、石原慎太郎という人が弟の裕次郎のような札付きの不良ではなく、むしろ青白いインテリに近い人物だったということ。そして、そうした青白いインテリである自分が嫌いで、肉体労働者や不良に憧れるタイプの人物だったことだ。だから「太陽の季節」は自分の生活をそのまま表現した私小説ではなく、最近の「不良」をモニタリングし距離を置きながら表現した小説である。そのような「太陽の季節」論である。そのとき、自分が「太陽の季節」に感じた違和感や拒絶反応の理由が分かった気がした。「太陽の季節」の主人公が魅力的な人物ではないのは石原慎太郎がわざとそう書いたからだ。「体育会的」と僕が感じた部分は、石原慎太郎の肉体労働者や不良への憧れが反映されている。そしてこの小説に僕が感じた生理的な拒絶反応。それはそうした不良に憧れるインテリとそれほど変わりがない僕を、露悪的に表現したそのやり方や文体に同族嫌悪を抱いたからだ。そうした形で自分と「太陽の季節」との距離感を非常に明快に説明してくれた。それは非常に大きな新視点だった。そして石原氏が直面した問題で一番大きなものは「虚脱感」と表現される何かだった。それも非常に大きな指摘だった。「虚脱感」は現在の僕にも理解可能なものだ。経済成長を遂げ、戦争直後のような混乱から抜け出した日本。そして自分たち。だけどそうした自分たちは何を目的にして、何のために生きているのだろうか。何かの確固たる哲学や思想的基盤はない。とりあえず何かに流されるように生きている。それだけ。人は歴史に投企しなければならない。そうでなければ意味がない。道徳的な人はそういう。自分の歴史的使命を自覚し、その使命を果たすために自分の「生」を生きなければ意味がない。ではその「歴史的使命」って何だろう?豊かな社会に生きて幸せなはずの僕らは、そうしたことに全く無自覚で自堕落に生きている。だけど考えれば考えるほど「歴史的使命」はわからなくなり、遠ざかっていく。そうした問題群は例えばオウム真理教事件でサリンをばらまいたエリート信者たちから出た言葉であったとしても、全く不自然ではない。そんな「生」に関わる現代的で普遍的な問題だ。また石原慎太郎の登場は新しい世代が登場したことのマニフェストとして受け止められた。その新しい世代の青年作家として彼は実際に行動し、発言し続けた。その勢いとパワーはまさに青年と言うにふさわしいものだった。しかし青年である人も年が経つにつれ「老い」に近づいていく。20代のころはできた無茶も30代、40代になるとできなくなり、肉体的な衰えを感じるようになってくる。その肉体的な衰えは自分の青年性を裏切っていく。精神的に若いつもりでも肉体がそれに追いつかない。そうした時期を経るとどうなっていくか。例えば僕の場合は「生活保守化」だった。そして石原慎太郎の場合は戦前期や戦中時代のロマン化、そしてナショナリズムのロマン化だった。左翼知識人で石原慎太郎はオポチュニストだと批判する人がいるけれど、この本では当初の左翼的姿勢から右派、ナショナリストへの転回は内的必然性があったものと解釈される。その転回の変数は「虚脱感」と「衰え」との関数のようなものだ。「虚脱感」と対峙し続け、更に「衰え」を意識し始めるとともに、その寄る辺なさに耐えきれず、戦前やナショナリズムへのロマン化へと至った。僕はそのように読解した。そして石原慎太郎の歩みに対応して論じられるのが江藤淳である。その主張の中で特に重要視されるのが「成熟と喪失」という評論で触れられた「治者」の文学である。自分が何かに依存して生きていく。それは持続的なものではない。例えば父や母がいつか亡くなるのと同時に自分も「父や母」にならなければならないときが必ず来る。特に「父」のように自分の周りをコントロールし、自分が自分の意思で人生を生きていく。そうしてあり方を江藤は「治者」と呼んだ。治者になるために必要なものは何か。それは成熟ではないのか。僕なりの表現でそれを表すとこうなる。例えば「ライ麦畑でつかまえて」のホールディンのように「あれはだめだ これは嫌だ」と自分の気分の赴くままに世界を拒絶し、否定し続けること。そうした姿勢はある時期までは許されるけれど、そのままの状態で年老いていくと悲惨なことになる。ある状態が嫌であるならば、それをとりあえず受け入れながら、それを自分ができる限りで良い方向へ向かうように働きかけていく。そうした形でより良い状態になれば、それでよしとする。世界を拒絶するだけでは何も変わらない。自分が世界に向けてアクションしなければ何も変えられない。そうした「大人の知恵」を身につけなければ「いやだ いやだ」の世界から抜け出せなくなる。江藤淳は日本が戦後20数年たっても「青年的」でただ勢いだけで経済成長を突き進んでいく様子に違和感を持っていた。そして日本がそのように「青年的」であるのはアメリカに対する依存があるのではないか。そんな問題意識を持っていた。そのうえで中島氏は「石原慎太郎」や「戦後日本」に江藤淳の問いを投げかける。「戦後日本」は青年期を終えて「治者」としてふるまえているのだろうか。中島氏は「石原慎太郎」にも、そして現在の日本の状況についても、それについて否定的な意見を述べる。それはこんな思考実験をしてみるとよくわかる。これからの世紀は中国が非常に重要な存在として世界地図上を占めるだろう。そんな中国が日本に攻めてきたらどうするのだ。それは大変なことだ。そのためにもアメリカ軍が日本にいてくれなければ困る。アメリカ軍が日本に駐留してくれるなら、日本はアメリカの政治的要求は何でも聞きます。そうすべきだ。極論ではあるけれど、そのような思考が日本の政策や外交をがんじがらめにし、文化的にも政治的にもアメリカに対する依存が強くなっている。この石原慎太郎論を読んで連想したのは、白井聡氏の「国体論」だ。だから左派アレルギーのある人には、この本は「偏向」していると反論があるかもしれない。しかし何よりも自分にとって身近だったのは、石原慎太郎が「虚脱感」と対峙し、闘い、その果てに今の彼の思想にたどり着いた。その事実だ。そうした作家像はもしかしたら「太陽の季節」をリアルタイムで接してきた人には自明のこと、あるいは「何をいまさら」的な凡庸な作家論なのかもしれない。また「シリーズ 戦後思想のエッセンス」としての枚数制限があったのだと思う。もっと深く掘り下げて論じてほしかった部分もある。だからこの本は「石原慎太郎の何がすごいの?」「石原慎太郎って名前は知っているけど読んだことがない」という今の中年層やもっと若い世代の人々には有益だと思う。歴史的文脈に沿っていかなければ理解できない存在。つまりは「戦後と寝た」人。それが石原慎太郎という人物なのだから。石原慎太郎 作家はなぜ政治家になったか (シリーズ・戦後思想のエッセンス シリーズセンゴシソウノエッセンス) [ 中島 岳志 ]
2020.03.06
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90年代、特に1994年以降の日本を言い表すのに最適だと僕は思っているのだけれども、「90年代は社会学と心理学の時代だった」。そんなことが言えると思う。オウム真理教事件の勃発が最も先鋭化された時代の象徴であると思うけれども、90年代に入ってしばらくしてから社会の不透明さが鮮明に意識されるようになった。オウム真理教事件と酒鬼薔薇聖斗事件という二つの事件90年代を象徴する事件だと思うが、それに即してみると社会がその事件に対してどのような処方箋を求めたか。それによって90年代に何が求められたのかがわかると思う。オウム真理教事件のとき、繰り返し疑問として言われたことは、この平和で豊かな日本社会でどうしてオウム真理教のような集団が現れたのか、なぜオウム真理教はサリンによる毒ガステロを起こしたのか、そのようなオウム真理教に一流大出身のエリートが集まったのか。そうしてことである。そのような問いに対して語るべき言葉を持っていたのが社会学だった。そうした背景のもとで、例えば宮台真司氏のような大スターが90年代を闊歩し、活躍した。そして酒鬼薔薇聖斗事件でよく多発された言葉が「心の闇」というフレーズである。そのような言葉に対して求められた処方箋を期待されたのが、心理学だった。社会の不透明さが増す中でその社会を見通すマップを提示することを求められた社会学、そしてその不透明な社会でとりあえず適応して自分が大きなけがを負わないやり方を求められた心理学。その二つは90年代のサブカルチャーと呼ばれる分野にも大きな影響を与えている。その90年代を代表するミュージシャンとして、小室哲哉と小沢健二をあげることができる。そう言っても過言ではないだろう。90年代に行った小沢健二の最大の仕事は「LIFE」というアルバムを制作したことだと僕は思う。恋愛の絶頂期をフィーリーソウルの形式を借りて、ハイテンションなラブソングという形で表現した名曲集。「LIFE]。それは例えば僕のような暗いタイプのサブカル少年の心の中にも深く突き刺さった。それは軽薄で単に感動の押し売りとしか思えない凡百なラブソングとは違っていた。そこらへんに転がっている凡百なラブソングと小沢健二のラブソングの違いは何だったのか。それは小沢健二が、そのラブソングに対して明示的にまたは暗示的にあるメッセージを託していたことにある。今思うとそんな気がする。「ドアをノックするのは誰だ」は「ボーイズライフ Part 1」の副題がつけられ、「戦場のボーイズライフ」は「ボーイズライフ Part 2」の副題がつけられている。だからこの曲は連曲であると考えてもいい。「ドアノック」の方はボーイミーツガールのストーリーをドラマチックに表現した「LIFE」を象徴するような名曲である。一方の「戦場のボーイズライフ」は「この愛はメッセージ 祈り 光 続きをもっと聞かせて」というフレーズが印象的なある種のメッセージソングだ。戦場のボーイズライフの「戦場」は、岡崎京子氏の名作「リバーズエッジ」で印象的に引用された「The Beloved」という詩の「平坦な戦場」に対応していると思う。つまり「ボーイズライフ Part 1と Part 2」の連曲で、平坦な戦場を生き延びるために必要なことを小沢健二なりに回答したものではないのだろうか。平坦な戦場で僕らが生き延びること。そのために必要なことは結局「愛」なのではないか。男女でも同性でも一対一の恋愛は社会的単位の基本的な結びつきである。それが充実し、お互いが愛し愛されて生きていければ、少々の社会変動などは何とかやり過ごしていけるのではないか。結局のところ愛こそが全てである。それが小沢健二の回答だった。そう思う。でもそのようなことは使い捨ての産業ポップでも嫌というほど聞かされる。それに対抗して「愛こそはすべて」を聞き手に届かせるためには、あのハイテンションで向かうところ敵なしといった恋愛絶頂期のラブソングでなければならなかった。そしてある時期まで小沢健二はその路線で時代を一気に駆け抜けていった。しかし小沢健二は突然ミュージシャンとしては沈黙してしまう。それは本当に長い長い沈黙だった。2017年の3月。小沢健二は突然「流動体について」というシングルを発表する。ミュージシャン小沢健二の帰還である。そして2019年の11月に本当に待望されていたニューアルバムが遂にリリースされる。「So Kakkoii 宇宙」と題されたアルバムだ。このアルバムをCDラジカセに入れて一回目に聴いたときの感想はこんな感じだった。「流動体について」で帰還してから今までをドキュメントにしたようなアルバムだということ。これまでの小沢健二の音楽キャリアを網羅しているようなアルバムだということ。2019年の小沢健二を率直に表現したかのようなアルバムだということ。そして、例えば「LIFE」に比べるとずいぶん地味なアルバムだということ。一番気になったのは「地味」なアルバムだということだった。その後もこのアルバムを何度か繰り返し聞き続けた。そして気が付かされたのは、この「So Kakkoii 宇宙」というアルバムが聞き手に対して「語りかけ」を行っているアルバムだということだ。90年代に「LIFE」や「球体の奏でる音楽」といったアルバムをまさにリアルタイムで聞いていたその頃の若者に対して、2019年の「今」はどんな感じだい?そのような語りかけ。90年代に10代20代だった小沢健二のファンも今は40代だ。そんな40代になったかつてのファンたちに対して特に焦点を絞ったアルバム。そのような性格のこのアルバムを僕はなぜ「地味」と感じたのか。小沢健二ならそうした語りかけのアルバムをもっと派手に脚色することができたはずだ。あるいは90年代の頃の小沢健二ならそうしたことは可能だった。だとしたらこのアルバムは失敗作なのか。あるいは小沢健二の才能の枯渇を意味しているのか。「LIFE」というアルバムは小沢健二が自分のメッセージを伝えるためにあえてハイテンションで多幸感にみちたアルバムにした。それに対応していうならば「So Kakkoii 宇宙」というアルバムは別のことを伝えるためにあえて、あるいは必然的に、「地味」なアルバムになってしまった。それならば「So Kakkoii 宇宙」は何を伝えようとしているのか。それは「平坦な戦場で僕らが生き残ったということ」だった。90年代の若者たちが直面していた「平坦な戦場」。それを「生き延びる」ためにどうすればいいか。小沢健二だけではなく90年代に活躍していたアーティストたちの関心はそこにあった。そこから享楽的に逃避するにしろ、逆に正面から直面するにしろ、90年代を生きた若者たちが対峙していたのはその不透明で把握しづらいけど、確かに存在していた生き辛さのようなものだ。90年代にそれを全て総括し、清算して克服できれば幸運だった。しかし2000年代に入り、その「生き辛さ」は増大していき、30歳代の死亡理由の一位は自殺であるという不幸な時代が深刻化していき、混迷の度を増していく。そして2010年代もそれは解決できなかった。というより、このままだと社会全体が持続不可能ではないかという危機感を多くの人が潜在的に感じている。「平坦な戦場」をめぐる20数年はそのように進んでいった。そんな僕らが歩んだ20数年間を小沢健二なりに総括した曲が「彗星」という曲だ。小沢健二は90年代、2000年代の「平坦な戦場」を振り返りその中を「全力疾走してきたよね」と歌う。そして今ここにあるこの暮らしが「奇跡」であり「宇宙」であると歌う。今ここにあるこの暮らしでは 全てが起こる儚い永遠をゆく 波打ち砕ける真っ暗闇を撃つ 太陽みたいにとても冴えた気持ち グラス高くかかげ思いっきり祝いたいよね 「彗星」よりそのように歌うこの曲は2020年に40代後半に差し掛かった僕らを祝福する、そのような歌だ。「LIFE」というアルバムも「So Kakkoii 宇宙」というアルバムもリアルタイムで出会えた。それだけでも奇跡なのだと。しかしこのアルバムはそれ以上のことはあえて触れていない。2020年代以降にますます激化すると思わるいわば「平坦な戦場3.0」とでも言うべきこの先について。それに対抗するにはやはり「愛こそはすべて」なのかもしれない。あるいは小沢健二にはそれ以外のビジョンが見えているのかもしれない。彼が「平坦な戦場3.0」にどうかかわっていくか。それについてはわからない。しかしその前に見なければいけないことがある。それは僕らの現在の生活(LIFE)がどのようなものであるのかを。それをしなければスタート地点にすら立てない。その「スタート地点」に立つことを主眼にしたアルバム。それが「So Kakkoii 宇宙」というアルバムだったのではないか。スタート地点に立つためにあえて、あるいは必然的に、小沢健二はかつての90年代の頃の修辞法を捨てざるを得なかった。それが「So Kakkoii 宇宙」というアルバムなのではないか。そうするとこのアルバムが「地味」であると感じたわけがわかる。アメリカから羽田沖に到着する旅客機の中の風景から、自分がなぜ活動を再開しなければならないかを歌った「流動体について」。すでに子持ちの40代後半の家庭人として大人になった自分を歌う「フクロウの声が聞こえる」小沢健二にとっても、90年代の時代にとっても巨大な存在であった岡崎京子との出会いと今も変わらぬ友情とリスペクトを歌った「アルペジオ」。それは言うなれば「平坦な戦場で僕らが生き残ったこと」を私小説のように表現したものだ。そしてスタート地点に立ち、これからどこかへ行こうとする小沢健二に僕が期待することはこんなことだ。40代~50代前半に差し掛かった90年代の元若者だった小沢健二のファンたちが「平坦な戦場3.0」を生きるために何をするか。その答えがどのようなものであれ、あるいは答えなどないにしても、それを主題にして「ラブリー」や「ある光」を更新できるほどの力強い曲を作ることができるか。それを今の小沢健二に期待している。【送料無料】 小沢健二 / So kakkoii 宇宙 【完全生産限定盤】 【CD】
2020.01.28
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1991年。マッドチェスターの熱がまだ冷めやらぬ頃、あるバンドがデビューした。そのバンドの名前はファイブ・サーティー。デビューアルバムの「ベッド」というアルバムはロッキンオン誌でピックアップアーティストとして合評の対象となり、僕のような熱烈なロッキンオン読者を中心にして非常に注目されたバンドだった。five thirty abstainファイブ・サーティーというバンドを一言で説明すると「青春系」のバンドと言えるのではないか。例えば初期のザ・ジャムだとか、「ハイランド ハードレイン」の頃のアズテック・カメラだとか、日本だと初期のブルーハーツだとか。10代後半から20代初期までの「若さ」ゆえの希望だとか悩みだとか生き急ぐ意思であるとかを秀逸に表現したアーティストたち。誰でもその時期になると「自己」に目覚め、自分が何であるかとか自分のあるべき姿がどうであるとか、自分のアイデンティティーに関することで悩んだり希望を感じたり、時には絶望的な気分になったりする。その時期は非常に不安定な時期でもあり、また「なぜそこまで」と思ってしまうほど潔癖であったりする。そうした時期の真っただ中にあって、しかもその時期の心象風景を非常に鋭く描き出すことができる秀逸なアーティストたち。ジャンルは様々だけれども、そうした性質を持ったアーティストたちを僕は便宜的に「青春系」のアーティストと括っている。ビートルズもザ・フーもスモールフェイセスも「青春系」ではないか。というかロックバンドで「青春系」でないバンドはあるのかといった指摘を受けるかもしれないし、それはその通りだとしか答えることができないが、ファイブ・サーティーというバンドを考えるとき「青春系」というカテゴリーは説明の補助線になりうる。five thirty strange kind of urgencystrange kind of urgencyという曲はファイブ・サーティーというバンドを特徴的に示した曲だ。「僕はこの切迫した妙な感じが好きだ。この感じのために殉じたい気にすらなる。この若さゆえの非常事態。僕は明日が欲しい。今日この日に明日が欲しい。明日が。」非常に大雑把に要約するとそのようなことが歌われている。「切迫した妙な感じ」誰もが思春期にはそんな気持ちに囚われる。今現在は何者でもない僕。思春期に目覚めた「自我」は僕をそのままの状態であることを許さない。僕は今よりもより良い自分へ、そして自分が理想に思う何かに近づかなければならない。可能性としての未来は自分の目の前に広がっているが、その時間を漫然と過ごしていたら自分が軽蔑する「つまらない大人」に堕落してしまうように思える。だから急がなければならない。自分が走れる速さよりももう少し速いスピードで生きなければならない。生き急ぐ「僕」には明日が来るまでの時間の流れすらももどかしく、そして遅く感じる。そうやって毎日を焦燥しながら燃えていくような速い生を僕は望んでいる。「生き急ぐ」私。だからこそ感じる焦りに似た切迫感。そうしたことをテーマにした曲は、例えばザ・フーのMy Generationやザ・ジャムのAway From The NumbersやアズテックカメラのWalk Out To Winterなど枚挙にいとまがないが、ファイブ・サーティーのstrange kind of urgencyという曲もそうしたタイプの曲である。five thirty supernovaファイブ・サーティーはそうした思春期に特有な「切迫した妙な感じ」をテーマに歌を作っていたが、同時にそうした熱情の季節が永遠に続くものではないことに気づいていた。確かに今は「切迫した妙な感じ」をリアルに感じ、そして燃やし尽くすようなスピードで毎日を生きている。だけど彼らが見てきた大人たちは日々の生活に追われているうちに疲れ、そして最後には理想も「切迫した妙な感じ」も捨てて、つまらない大人へと堕落していってしまう。「君はスーパーノヴァ」君は超新星だと歌うこの曲は、今現在まばゆいほど光を放っている眩しい「君」や「僕」を歌っている。だけどそうした光輝く僕や君もそのうち消え去ってしまうに違いない。そんな不安も歌われている。彼らは「青春」がいつかは終わる夏の日々のようなものでしかないことに自覚的だ。今は当たり前のように光り輝く存在であっても、そのうち光を失い消えていく。そんな儚い存在であることを知っている。five thirty catcher in the rye「僕はライ麦畑のキャッチャー」と歌われるこの曲。それは彼らの意思表明であると僕は思った。思春期の「切迫した妙な感じ」や生き急ぐその在り方に自分は殉じていくのだという意思表明。僕はそのように解釈した。catcher in the ryeという題名はJDサリンジャーの名作「ライ麦畑でつかまえて」から取られている。この作品は色々な意味で青春の代名詞にもなっている。それを曲のタイトルにしたこと。それは多分彼らのある意思を表明したものであると。青春に殉じ、生き急ぐようなバンド、ファイブ・サーティー。当時20歳前後だった僕はこのアルバムを何度も何度も繰り返し聴いた。このバンドの音楽も歌詞も好きだった。だけど一つだけ気になることがあった。彼らが結局一枚のアルバムを出した後に解散したのもそれが理由だったのかもしれない。その解散の前に彼らは一度だけ来日公演を果たしている。その来日公演も僕はもちろん行った。ロッキンオンに注目された期待のバンド、ファイブ・サーティーということだけあって、そのステージは非常に熱狂的に迎えられた。客席も盛り上がっていたし、公演は成功したと言っていいと思う。だけどライブを見てファイブ・サーティーというバンドの問題点がよく見えてきた。僕はそんな感じを持った。それはファイブ・サーティーというバンドに「過剰さ」がないということだ。例えば「モータウン・ジャンク」を発表した当時のマニックストリートプリーチャーズ。そのバンドのフロントマンのリッチーは雑誌のインタビュー中にカミソリで「4 REAL」とリストカットして大けがをするような過剰な思いを持ってバンドを始めた。あるいはニルヴァーナのカート・コバーン。彼の叫ぶような「うた」を聴くと何か異常なまでのエモーションに満ちていて、心がザワザワする。それに比べるとファイブ・サーティーにはそうした「過剰さ」がない。演奏もうまいし曲もいいし、何でも器用にこなすことができる。だけど「器用にこなす」だけでそれ以上の何かが感じられない。歴史に名を残したザ・ジャムやザ・フーは「過剰」な感じがその音楽の質量を重厚なものにしていた。それに比べるとファイブ・サーティーにはそうした重厚さあるいは重さに欠ける。解散に至る経緯は知らないのだけれど、来日してしばらくしてファイブ・サーティーは解散してしまった。そして僕自身もファイブ・サーティーの音楽をそのうち聴かなくなってしまった。ただ唯一iPodにも入れて時々聞いていた曲がある。それが13th discipleという曲だ。five thirty 13th discipleマッドチェスターの風が吹いていた頃を思い起こさせるホワイトファンクナンバー。ストーンローゼズのfools goldやジェイムスブラウンといった人々の影響を感じさせる名曲。その頃発表されたマッドチェスター系の曲と比較しても、この曲は名曲の一つに入れていいものだと僕は思う。いつしか忘れてしまったファイブ・サーティーというバンドだけれども、偶然この前、中古CD屋で2010年のExpanded盤の「ベッド」というアルバムを見つけた。そしてそのアルバムを改めて聞いて思い出した。ファイブ・サーティーというバンドに20歳前後の僕が何を託して聴いていたかを。 * * *ファイブ・サーティーの1991年発売の「ベッド」の日本盤には当時ロッキンオンのライターだった川崎和哉氏のライナーノーツがついている。このライナーはファイブ・サーティーというバンドがどういうバンドであるかをよくわかるように、そして文学的に説明した名文であると僕は思う。そのライナーの最後は、このバンドの生き急ぐ感じのスピード感を共有できなくなったとき僕らは大切な何かを失くしてしまうのだという川崎氏の感想で締めくくられている。当時20歳のぼくも同じようなことを思った。実際僕はファイブ・サーティーというバンドを忘れてしまったし、「ベッド」というアルバムを25~6歳から48歳までしなくなっていた。それはファイブ・サーティーというバンドのスピードが僕に合わなくなった。そういう理由があるのかもしれない。だけど自覚的にファイブ・サーティーのスピードを拒絶できるとき、僕は大切な何かを失うと同時に同じくらい大切な何かを得ていたのだと思う。「ライ麦畑でつかまえて」のように、思春期特有の潔癖さでいつまでも世の中を断罪したところで何にもならない。そうした潔癖さをいつまでも信じて大人になってしまうと、最期にはジョン・レノンを射殺した犯人のような気持ちの悪い大人になってしまうのかもしれない。だからこそ僕はそうした「青春」を否定しなければならない。そしてそれに見合うだけの何かを僕は得なければならない。そう言ってファイブ・サーティーを否定し続けているとき、僕はまだ何かのために生きようとしている。しかし日々の生活と加齢は僕を確実に疲弊させ、そのうちそうした否定の意思自体も忘れさせてしまう。そのうちこう思うようになる。20歳の頃は若かった。ただそれだけで素晴らしいことだったと。そのときファイブ・サーティーは別の顔をして現れる。日々の焦燥感を叩きつけるようなヒリヒリした音楽ではなく、単なるノスタルジーとして。ノスタルジーのフィルターにかけられたファイブ・サーティーの音楽はまるで20代を懐かしむムードミュージックのようなものだ。そのときになって僕は新たに思う。本当に「大切なものを失う」のは、生き急ぐスピードすらも懐かしいと感じさせてしまうくらいまでに老いた、自分の感性の老化を目にする時だと。結局ファイブ・サーティーの音楽は僕にとって2度死んだバンドの音楽になってしまった。では3度目にファイブ・サーティーの音楽が死ぬとき、僕の目の前にはどんな風景が待っているのだろうか。あるいはファイブ・サーティーの音楽はもう2度と死ぬことはなく、ノスタルジアの博物館に陳列されて終わってしまうのだろうか。
2019.10.14
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ゼロ年代を代表するバンドとして銀杏BOYZというバンドがいる。感性がかなり古くなって、その年代に出現したバンドを全くというほど理解できなかった僕でも、銀杏BOYZについては感情移入をできるバンドだった。彼らはデビューアルバムを2枚同時リリースし、その後はシングルの発表はあったが、長い間沈黙してしまった。その沈黙後にリリースされた「光のなかに立っていてね」と「BEACH」というアルバムは銀杏BOYZファンの間でも論議された問題作となった。デビュー時のパンクロックを想起させるストレートで性急でプリミティブな音楽から、マイブラッディバレンタインを想起させる音楽へ。その変化が大きな議論の対象となったのだ。このアルバムがリリースされた直後の僕のこの作品への評価は「否」だった。デビュー作を初めて聞いて銀杏BOYZのファンになった人々を拒絶する感じ。あるいは峯田自身の心の闇をそのまま音にしたような自閉的で閉じたような感じ。そうした感じを僕はこの作品から感じた。そのような作品を峯田自身の変化として誠実に発表したこと、そしてこの作品にも感じる峯田の情念の強さ。そうしたことは評価できるけど、それまでのファンを拒絶するというか、その変化がファンに対して開かれていない。そのような理由から僕は「光のなかに立っていてね」というアルバムに対して「否」という評価を与えた。しかしあれから5年くらいの月日が経って、本当に「光のなかに立っていてね」というアルバムがそれまでの銀杏BOYZファンに対して説明不足なのか疑問に思うようになった。このアルバムは驚くべき変化でも「問題作」でもなく、それこそデビューアルバムが発表された時点で予測可能なアルバムだったのではないか。もっと言うとデビュー作のあの荒々しいパンクサウンドの中に、すでに「光のなかに立っていてね」が内包されていたのではないか。そう感じるようになったのだだとしたら僕が「光のなかに立っていてね」というアルバムに対して「否」という評価を与えた時点で僕自身が銀杏BOYZを誤解していたということになる。僕は銀杏BOYZに対して何を誤解していたのだろうか。銀杏BOYZというバンドを「セカイ系」と位置付けてその内在的批評を試みた文章として横山宏介氏の「空気がノイズで澱んだあとでー世界の終わりについて」という文章がある。空気がノイズで澱んだあとでこの文章は多分銀杏BOYZ現役世代であった著者による優れた銀杏BOYZ批評であると僕は思う。ただ僕にはそうした切り口で銀杏BOYZについて論じることはできないし、技量もないため、自分がどのように銀杏BOYZを曲解していたかという観点から出発する。銀杏BOYZを初めて聞いたとき、僕はブルーハーツというバンドを想起した。僕が初めて銀杏BOYZというバンドを知ったのは「DOORS」と「君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命」というデビュー作だった。その音楽や歌詞や佇まいから僕は銀杏BOYZに初期のブルーハーツを見出していた。今でこそブルーハーツというと「伝説の偉大なバンド」扱いされているけれど、デビューアルバムが発表された直後は違った。日本のロックの堕落の一典型としてブルーハーツをあげる人々は多かったし、ブルーハーツアンチも多かった。それはなぜなのか。それはブルーハーツの音楽や歌詞と、それから必然的に生じたブルーハーツとファンとの関係性に大きな理由があると僕は思っている。初期のブルーハーツはどのようなバンドだったか。簡潔に言うと「僕や私を代弁してくれる唯一のバンド」「僕や私だけが彼らのことを理解できるそのようなバンド」であり、「ブルーハーツは他のバンドとは違う特別な関係で僕や私と結びついているそんなバンド」だから「ブルーハーツは僕たち私たちだけのバンド」である。だからブルーハーツを理解できない人々にとって、そうした思いに包まれたブルーハーツとファンとの関係は非常に不健全で一種のカルトのような気持ちの悪いものであったし、「人生系」と揶揄された「世間と自分との関係がうまく結べなくて悩んでいる僕」みたいな歌詞とブルーハーツファンのあり方は嘲笑の対象でもあった。だからこそ逆にブルーハーツファンはブルーハーツに対する自分の特別な思いを強くしていった。それが初期のブルーハーツの特長でもあった。そして銀杏BOYZであるけれど、今述べた性質をそっくりそのまま引き継いだバンドである。僕はそういうふうに感じた。僕も思いっきり素敵な恋愛をしたいけどできない。僕はあまりイケてないけどそれがどうした。彼女と一緒になるためならどんな困難があっても乗り切ってゴールインしたい。そうしたことを歪んだギターノイズで、青春期独特の思い込みとパワーをそのパンクサウンドに乗せた銀杏BOYZの音楽。ひねりやギミックなしに自分の情念をそのまま音楽に反映させた直情的なサウンド。それは初期のブルーハーツとよく似ている。そして銀杏BOYZに対するアンチの多さとそのファンのあり方に対する批判も初期のブルーハーツとよく似ていた。だから僕は銀杏BOYZをゼロ年代のブルーハーツとしてみていたのである。そうした僕の見方がどう思い違いだったのか。それは初期のブルーハーツと銀杏BOYZの違いを追っていけばよくわかる。だからまずブルーハーツについて書いていきたい。ブルーハーツを今聞くと、意外なことだけれども社会に対する歌が多いのに気づかされる。ドロップアウトしてしまった自分、あるいは社会にうまくなじめない自分と社会に対する距離感や違和感や疎外感。そしてその先にある社会に対する異議申し立てや宣言にも思えるような歌。そしてそれはいわゆるラブソングにも反映されている。例えば「No No No」という曲ではこのように歌われる。どこかの爆弾より 目の前のあなたの方が震えるほど 大事件さ 僕にとっては原子爆弾 撃ちこまれても これにはかなわない恋愛という個人的な事柄の方が例えば北朝鮮の弾道ミサイルよりも重要な大事件だと歌われるこの曲は、社会や世界のことよりも恋愛の方が大きいことである、恋愛の方が原子爆弾の投下という破滅的事態よりも大きなことだという恋愛絶頂期の思い込みにも似た感覚が歌われている。しかしこの歌には実は前段にあたる歌詞があって、そちらの方がどちらかというとインパクトが強く、また人々の目を引くどこかで誰かが泣いて 涙がたくさん出た政治家にも 変えられない 僕たちの世代戦闘機が買えるくらいの はした金ならいらない「政治家」とか「はした金」といったキーワードを使った「僕たちの世代」の宣言。それは自分を取り巻く社会に対する何らかのアクションであると聞き手に思わせざるを得ない。恋愛の絶頂期の感覚を歌う前になぜこうした宣言をしなければならなかったのか。それはブルーハーツがその当時の時代状況から逃れられなかったことを示している。ブルーハーツファンの中心的な年代である15歳から19歳までのハイティーンたち。その多くは中学生や高校生だった。その頃の中高生が直面していたのは管理教育であり、いじめであり、理不尽な校則や、学歴社会の出口のなさだった。いじめにしろ、理不尽な校則にしろ、学歴社会という問題にしろ、それを考えるとどうしても「社会」と対峙せざるを得ない。それらはすべて人間が作った制度だからだ。そうした制度が自分を圧迫し、自分を社会の一部分として矮小化しようとしている。それに対する宣言として「戦闘機が買えるくらいのはした金ならいらない」というマニフェストと共に「目の前のあなたの方が震えるほど大事件さ」という言葉が必要だった。社会にとって僕とあなたの問題は小さなことだけれども、僕にとっては社会なんかよりもあなたのことの方が重要な大事件である。ブルーハーツのラブソングを聞くと「あなたと私との関係性」や「社会の中でのあなたと僕との関係性」に言及した曲が多いことに気づかされる。だから失恋を歌う場合も、僕と私の関係性に問題があったのではないかとか、演歌的な表現を使うと「世知辛い世間に負けた」的な表現も少なくない。それはつまり恋愛の破綻を歌う場合、誰でもわかるような形で反省的にその恋愛を語ることができるという強みを持っている。特に真島昌利の作る曲にその傾向は顕著である。一方の銀杏BOYZはどうだろうか。銀杏BOYZのデビューアルバムのタイトルは「DOORS」ともう一方のアルバムは「君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命」である。そのタイトルが銀杏BOYZの性格を物語っている。つまり、君と僕の恋愛は第三次世界大戦という世界の破滅的事態と同じくらい重要なことである。銀杏BOYZの代表曲というか、非常に有名な曲に「援助交際」という曲がある。この曲は自分が恋している(多分片思いである)女性が、援助交際をしていて切なくてたまらないという恋心を歌っている。その歌詞を見てみるとある特徴的な感覚が描かれている。「あの娘を愛すために 僕は生まれてきたの」「あの娘のメールアドレスをゲットするため 僕は生まれてきたの」「だけど悲しい噂を聞いた あの娘が淫乱だなんて嘘さ 僕の愛がどうか届きますように ああ 世界が滅びてしまう」自分が生まれてきた理由が「あの娘を愛する」ためである。そしてこの愛が叶わないと「世界が滅びてしまう」。それは非常に大げさな表現だ。まるでこの恋愛が叶うか叶わないか、そうしたことが世界の運命を左右してしまう大事件である。また「あいどんわなだい」という曲でも「純情可憐な君の正体は魔法使い」といった歌詞がある。自分たちの恋愛が世界の運命を左右してしまう大事件であるという感覚、あるいは表現。それはゼロ年代の初めに登場したある種の漫画や小説のジャンルに登場した感性である。それは「セカイ系」と呼ばれる感性である。セカイ系とは、自分たちの恋愛の成功が世界を救ったり、逆に自分たちの恋愛の失敗が世界の破滅につながったりという形で、僕とあなたの関係性が世界の運命に直結してしまうというストーリーを特徴にした世界観あるいは感性をいう。セカイ系の代表的作品として「最終兵器彼女」がよくあげられるが(僕は映画しか見ていない)、その作品が連載、発表されたのは2000年ごろから。銀杏BOYZのデビューアルバムが発表されたのは2005年ごろだから、時系列を見ても銀杏BOYZは「セカイ系バンド」だったという説の妥当性を裏付ける。アンチ「セカイ系」の人々がよく口にするのは、「セカイ系」は自分たちと世界の運命が直結してしまっていてその中間項の「社会」が存在しないということである。「セカイ系バンド」としての銀杏BOYZはまさにそのことが自らの行く末を左右してしまった。「セカイ系」は現実ではありえない設定である。自らの恋愛が世界の運命を左右すると妄想するのは勝手だけれども、実際の世界ではそのようなことはない。恋愛が叶ったとしてもこの世界は相変わらずこのままだし、恋愛がうまくいかなくてもこの世界は何一つ変わらない。恋愛の結果とは無関係に、リンゴは上から下へ落ち続けるだろうし、水は高いところから低いところへ流れ続ける。「恋愛」も人間が行う一つの行為だから「社会」から切り離して成り立つことができない。僕とあなたとの関係は社会の網目の一番基本的な結びつきでもある。二人の関係がどのようなものであるか。「二人」という最小のユニットであるからこそそれは社会の網目の基本として無視できない関係である。結果として「セカイ系」は「社会」に負ける運命にある。マンガや小説ならレトリックを使って「セカイ系」を正当化することができるかもしれない。でも残念なことに「セカイ系バンド」である銀杏BOYZにはそうしたレトリックに頼ることができなかった。それは彼らの音楽の魅力が、直情的に自分の感情をギミックなしに荒々しく演奏することにあったからでもある。世界に負けてしまったという事実に直面して、彼らは何を表現すればいいのだろうか。それは絶望感と虚無感、そして「僕らは世界を変えることはできない」という自己認識である。「僕らは世界を変えることはできない」は銀杏BOYZの初期にすでに発表されていた曲名でもある。実は彼らは初めから自分たちの表現が破綻することを予感していたのかもしれない。そしてその必然として「光のなかに立っていてね」というアルバムがある。だから僕が「光のなかに立っていてね」というアルバムに「否」という評価を与えたのは銀杏BOYZを理解していなかった証拠でもある。単に佇まいがブルーハーツに似ているからということでは銀杏BOYZの本質に迫ることができない。逆に銀杏BOYZというバンドを誤った目で見てしまう。それではこれからの銀杏BOYZはどこへ行くのだろうか。「セカイ系バンド」としての方向性がある種の絶望につながった後、彼ら(あるいは峯田)は何を歌えばいいのだろうか。それは自分の恋愛の小ささを自覚しながら、それでもそれは「震えるほど 大事件さ」と歌うことではないだろうか。あるいは僕が想像できる方向性はそれ以外にない。「エンジェルベイビー」という曲ではそうした方向性が垣間見られる気がしている。銀杏BOYZ初期の「僕たちだけのバンド銀杏BOYZ」というファンへの受け入れられ方はブルーハーツに似ている。それは誤った見方ではないだろう。しかしブルーハーツの前には「社会」という壁が存在していたのに対して、銀杏BOYZの前には「社会」は存在しなかった。その違いは多分歴史的理由があると考えられるし、また日本のロックの歴史的発展や他のサブカルチャーとの関係も深くかかわりあうのだろう。でもそうした大きなテーマはここでは論じられないし、そうした力量は僕にはない。第三、第四のブルーハーツが現れたとき、それはどのように若者たちを鼓舞するのだろうか。それは時代の流れと無関係ではないはずだ。参照横山宏介 「空気がノイズで澱んだあとでー世界の終わりについて」空気がノイズで澱んだあとでセカイ系の定義について ウィキペディアザ・ブルーハーツ/THE BLUE HEARTS 【CD】銀杏BOYZ/君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命 【CD】
2019.07.25
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街中がお祝いで賑やかだった夜俺は汚れた皿と格闘していた本業は不安定で 格安の賃金学校を出てからそんなので暮らしている仕事の掛け持ちは楽じゃないけど生活のためならどうしようもないキャリアプランなど 遠い話俺の職歴など 担当は評価しない仕事の不満は山ほどあるけど不安が大きくて 何も言えない俺の生き方がどう間違ってるか占い師は丁寧に教えてくれる他にチャンスがあったのかそれは俺にはわからないまますでに若さは消費しつくしてしまい中年太りで脂肪が取れないその年になっても 結婚など無理肩書に「正」がつかないから身分社会の苦しみは 理不尽だから俺は正当化に忙しいバカは伝染すると 識者は言うならば俺の偏差値は どこだ勝ち馬に乗って叩くのが楽しいそれが唯一の俺の逃げ場所成功者を引きずり落とすのが嬉しい俺の人生にないものだから気味が悪いほど 荒んだ気分弱いもの叩きが止められない この頃俺は子供が好きじゃない俺に創れるものじゃないから隣の部屋で叫び声が絶えないでも児相に通報など余計なお世話向かいのマンションで 新婚が楽しそう愛の記録の流出テープで 抜くのが趣味愛はコンビニで調達可能か市場社会の この街の隅で俺の心は半分死んでいて余生を忘れさせる娯楽は劇薬何のためなのかわからないくだらない 俺の半生ここで生まれてよかった書記長に殺されなくていいから自爆テロリストが羨ましい正義の為に死ねるから自爆テロリストは素晴らしい歴史に名を残せるから戦争ができないこの国で人身事故死が 毎日絶えない貧困がなくなったこの国で借金が返済できない人すらも愛せない俺に社会を愛することなど 無理行き止まりの夜は 今ここに俺に残されたのは この方法だけ今夜 俺は暴発する道具は昨日 揃えたから
2019.05.15
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バブル景気に入ったと言われる1987年ころ、僕は高校生だった。1989年に高校を卒業し、一浪を代々木ゼミナールで過ごし、1990年に大学に入学した。僕の入った大学は東京都の多摩地区にあるいわゆる中堅大学で、1990年から1994年までそこに進学していた。僕が大学を卒業したころには景気はすでに悪くなっていて、「就職戦線異状あり」という感じだった(いわゆるバブル期の就職状況を織田裕二主演の映画で描いた作品に「就職戦線異状なし」というものがあり、当時ヒットした映画だった)。だからバブル期の社会の様子についてはあまりよくわからない。高校生から見たバブル時代の栄光とはどういうものだったか。お年玉が平均5万円だったというが、自分の周りの親類は公務員が多く、最大値で3万円くらいのお年玉だったと思う。次に食べ物についての色々な情報があふれだした。例えば今は日本食の一部になっているティラミスが日本に紹介されたり、モンブランというケーキの形が変わり始めたのを覚えている。その頃は株高だったという。そうした株式に関する印象深いエピソードはNTTの株式上場だ。この株式には非常な高値が付いた。そしてそれ以降株式投資がかなりメジャーなものになった。それは当時のテレビドラマにも反映されている。確か土曜ワイド劇場だったと思うのだけれども、主婦が株式投資をして色々な騒動に巻き込まれるドラマが放映されたりした。夫役は板東英二だった。ストーリーについては省くがその結末を見ると、株式投資は賢く行えば一般人でもうまく儲けることができる。それでちょっと家族で贅沢するのはいいことだ。そんな感じのドラマだった。株式投資について、敷居が低くなったというか、プラスイメージが強くなったのもこの頃だった。若者の生活も変わった。雑誌などの二次情報を見ると、クリスマスイブはシティーホテルの一番高い部屋から予約が埋まり、イブ当日にホテルの空き部屋を探すのは不可能だったという。デートコースは高級レストランでディナーを食べ、クルーズに乗り、シティーホテルのスイートで過ごす。それが「恋愛偏差値が高い」若者の一般的な過ごし方で、多くの若者の憧れでもあった。しかしそのような過ごし方をしている若者はそんなに多くはいなかったのではないか。そういう調査結果もあったらしいということも付記しておく。大学生の必需品は車だった。しかも安い車だとデートができなかったという。時代は前後するけれど1990年くらいにアッシー君とかメッシー君という言葉が生まれる。アッシー君とはどんなむちゃくちゃな時間に電話をしても女性を自宅に送ってくれる便利な男を指していて、遊び人の女性は一人か二人くらいこのような男性を確保しなければならない。そのようなことが女性誌に書かれていたという。音楽産業も1990年代の黄金時代を前に巨大な産業へと発展しつつあった。事故を起こしたトゥーリアや、マハラジャのようなディスコが流行り始めていたし、そうしたディスコのドレスコードも話題の一つだった。1989年ころにはバンドブームに火が付いた。伝説となるようなバンドも登場したけれど、この頃の風潮を現状肯定したようなバンドが平均的だった気がする。この頃はユーミンが一世を風靡していた。バブルには欠かせない存在だ。都市伝説として、ユーミンはある雑誌のインタビューでこんなことを言ったらしい。今の日本経済の強さが続く限り私の人気は衰えることがない。そんなことを印象深く覚えている。その頃の空気感からするとその発言は、ユーミンの人気は永遠に不滅である。そのように取れてしまうからだ。スキーも流行った。「私をスキーに連れてって」という原田知世の主演する映画がスキーブームに火をつけた。どこのスキー場に行っても客であふれていた。そうしたスキー場もあと数年したら不良債権になる。そんなことは誰も想像しなかった。1990年に大学に入学した。学部は経済学部だった。だからそれなりに経済についてのニュースに関心は持っていた。1990年に株価は最高値をつけ、その後は落ち始めたという。しかし地価はまだ下がっていなかったし、それが恐ろしくて忌まわしい事態の兆候であると気づいた人はほぼいなかった。少なくとも僕が通う大学の経済学部の教授でそうした話をした人はいなかった。就職状況もまだ良くて、拘束旅行のためゼミに出られないという電話があったという話を授業の雑談で聞いた記憶がある。1990年に悪名高い「総量規制」が行われる。不動産に対する融資を規制する行政指導だ。映画「バブルへGO」では、これが日本を崩壊に導いた元凶として描かれるが、実際のところはそんなに有名な行政指導ではなかった。僕が総量規制を知ったのは翌年の「ナニワ金融道」という漫画だ。僕自身が不勉強ではあったけれど、総量規制に対する世間の認知度はそんなものではないか。ましてやそれが引き金になって日本経済が崩壊するなど誰も想像しなかったのではないか。そして1991年ごろになり「バブル崩壊」という言葉が現れ始めた。今まで好調だった日本経済だけれども、そろそろ不景気がやってくる。そんな空気感が漂い始めた。1992年になると確実な不景気が始まった。企業の新卒採用マインドの冷えが現れたのもこの時期だ。この年に宮崎義一氏の「複合不況」という新書が発表される。この新書をよく覚えているのは当時のある授業の夏休み課題レポートとして、この本の論評を課題として出されたからだ。この頃の僕にはこの本に書かれていることが全く分からなかった。中堅大学の経済学部3年生の平均的学力なんてそんなものだった。「複合不況」論の論旨を大まかに述べると、1992年ころから明らかになってきた不況は、通常の景気循環による不況と重なる形で金融部門の調整過程が重なり、いわば複合的に不況が重なることで情勢を悪化させているのではないか。そういう問題提起だった。宮崎氏は特に金融部門の調整過程を問題視していて、株式市場の悪化がBIS規制対象となる銀行に貸し出しの抑制につながる行動を引き起こしていること。またバブル期に企業が将来自己資本になるだろうと予測して発行した転換社債やワラント債が株価下落と共に新株発行を選ばない投資家が増え、企業の財務体質に影響を与えて企業投資が控えられる方向に振れている。そうした金融部門でのよくない動きが信用逼迫を引き起こしているのではないか。そうした問題提起だった。この議論は経済学者の間に論争を生み、ある近代経済学原論という授業の講師が利子率の推移を示しながら、信用逼迫など起きていないと説明していた。どの議論が正しいかは別にして、おおむねの世間の人々の感覚だと、あと少なくとも5年もすればまた好況がやってくる。オイルショックを乗り越えた日本経済がこれくらいのことで崩壊するわけがない。日本は戦後40数年を経て経済大国に成長したのだから。そのような楽観的な見方が多かった気がする。それはその頃にフジテレビの深夜放送でやっていた「5年後」という番組を一つでも見ていただければわかる。そして1993年。就職戦線は急に厳しくなった。それでもほとんどの大学生が新卒採用してもらえたのだからまだラッキーなのかもしれない。翌年の新社会人向けの銀行のCMでは、1993年の就職活動を行った人々へのメッセージとして「平成6年組は(厳しい就職戦線をくぐりぬけて採用されたのだから)強い」とあった。しかし実際のところ平成6年組以降の新規採用者はこれから20年以上も続く不況のための調整弁として使い捨てられる運命にあった。もちろんそのようなことを僕も想像しなかったし、同級生たちも想像しなかった。僕のバブル体験はそんなところだ。「検証 バブル失政」という本は、ちょうどバブルの頃経済記者だった著者の軽部謙介という人が、日銀や当時の大蔵省やアメリカのFRB元議長や政治家たちのインタビューや証言を参考にして、バブルの頃どういう過程で経済官僚たちがそのような経済政策を選んだのかを、ルポルタージュの形で再現した著作である。この本の主役は当時の日銀の澄田総裁と三重野副総裁。そして大蔵省の銀行局の官僚たちだ。彼らがそのとき何を考え、何をしたのか、あるいはしなかったのか。どういう思惑がその政策の中に込められていたのか。それをなるべく分析をせずに事実(と思われること)に即して描かれている。内容は少し高度で、経済学部3年生くらいの経済知識は必要ではないかと思われる。例えばJカーブ効果みたいな経済用語が(一応注釈はついているが)いきなり説明なしに使われたりする。また日銀が主役であるから外国為替相場の動きだとかよく文中に飛び出す。将来、円高ドル安が見込まれる場合円とドルのどちらを持っていれば儲かるか。それを時間がかかるとしても説明することができないとこの本を読むのはきついかもしれない。さらにこの本は約30年前の日本の経済について書かれている。約30年前というともう教科書に書かれるレベルの歴史的事項である。そのため若い読者にはバブル期の全体的な俯瞰図が見えないから、この本を読んでもバブルについてよくわからないかもしれない。だからこの頃のことの記憶がない、あるいは体験がないという方には、東洋経済新報社から出版されている「平成バブルの研究」という本を「検証 バブル失政」にチャレンジする前にお勧めする。「検証 バブル失政」はオーソドックスにまずプラザ合意から物語が始まる。この時に合意されたドル安誘導という為替介入に日銀がかかわってから、公定歩合をめぐる様々な闘いが繰り広げられることになる。プラザ合意による円高不況に対する対応として公定歩合の引き下げがまずあった。そしてその後、日銀の使命でもあるインフレを起こさないという行動原理から、その後何度も公定歩合の引き上げを澄田総裁や三重野副総裁は試みようとする。しかしアメリカの外圧や大蔵省の銀行局の思惑からそれが実行できない。大蔵省は財政再建という目標から、財政政策の実行に消極的であった。だから金融政策で景気対策をしてもらいたいという誘因要素があった。アメリカも自国の金融政策や景気対策の兼ね合いから、日銀に公定歩合の引き上げをしてもらいたくなく、陰に陽に日銀に対して圧力をかけてくる。結局そうした圧力に負けて、あろうことか公定歩合の引き下げを最悪の形で実行してしまう。1987年ころ、すでに日銀はバブルの存在に気づいていた。そして金融引き締めを行わないといけないと気づいていた。しかし公定歩合を引き上げることがなかなかできない。BIS規制の交渉も描かれている。株価が下落するにつれて自己資本の減損の原因となった株式の含み益の算入の問題。それも実はその交渉当時の銀行の状況を念頭に「良かれ」と思って行ったことだった。BIS規制自体、日本の金融機関をターゲットに英国やアメリカが「外圧」をかけたとでも言うべき性質のものだったが、株式の含み益の一部を自己資本に算入してもよいという結果を勝ち取ったとき、交渉担当者はその内容に非常に満足したということが書かれている。そして土地の値上がりの抑制を意図して行われた「総量規制」。それも政治家や国土庁のいわば善意から生じた政策であったことが詳細に描かれている。総量規制は土地を暴落させる意図で行われたものではなく、普通のサラリーマンが都市近郊のマンションが購入できるくらいの水準に土地価格を正常化したい。そんな思惑から生まれたものだった。そしてそれはその当時世間での要望と一致していた。その頃に同じくして行った公定歩合の引き上げ。これも景気が減速している中で最悪のタイミングで行われることになった。しかし公定歩合の引き上げは1987年から悲願の既定路線だった。それにこの頃は「ジャパンアズナンバーワン」と言われた日本経済だ。多少の景気減速はあってもあれほどの重大事態の発端になるとは誰も予想できなかったようだ。たとえ日本最高の頭脳を集結させたエリート集団であっても。バブルの発生。バブルの崩壊。それらの出来事を日銀や大蔵省内部から見てみるとそれはある種の宿命として起こってしまったこと。そのように感じてしまう。バブルの発生原因として真っ先にあげられる金融緩和政策。でも今も昔も日本にとってアメリカの存在は大きい。そうしたアメリカの外圧に逆らえるはずがない。バブル崩壊やその後の金融危機に影響を与える様々な政策にしても、バブル期の現状の金融機関にとっての最適解を求めて行ったことだ。そこには「犯人」がいない。経済官僚たちは日本のためを思って、日本の国益を守ろうとして色々な判断を行っていた。例えば「バブルへGO」という映画がある。あの映画ではバブル崩壊は「総量規制」が原因であって、あれさえなければ日本のその後の悲劇は起こらなかった。そしてその「総量規制」を企む「犯人」は伊武雅刀が演じる私利私欲しか考えない天才的な「売国官僚」だった。それだったら本当に話は簡単だ。件の売国官僚を血祭りにあげればいい。だけど問題はそんなに簡単ではない。この「検証 バブル失政」という本に書かれている経済官僚たちの中にそのような「売国官僚」は一人も登場しない。そして「天才的な」スーパー官僚も登場しない。ここであることわざを思い出す。地獄への道は善意で舗装されている。僕の人生はバブルに大きな影響を与えられた。先輩たちがバブルで踊っているところを、指をくわえて眺めていて、いざ自分たちの番という時になってバブル崩壊を目にすることになった。そんな理由から「バブル」に対して、なぜこのようなことが起きたのか無関心ではいられない。そしてこのような事態を引き起こした「犯人」に対して大きな恨みや複雑な思いを感じざるを得ない。今回読んだ「検証 バブル失政」という本にはその「犯人」はいなかった。あえて言えば合成の過ちとでも言うべきものだった。バブル崩壊ののち、失われた20年があった。もしこの時期も、同じようなルポルタージュを書いたら「検証 バブル失政」と同じく、誰も犯人がいない物語が書かれることになるかもしれない。もしそうだとしたら、例えば年下世代の人々が失われた20年についての僕ら世代の責任追及を受けたとき、なんて答えればいいのだろうか。それはやはり「宿命」のようなものだったのだろうか。2012年に僕らはアベノミクスを支持した。それ以来景気は上向きで、人手不足から新卒採用も好調だという。でもアベノミクスに対する下馬評は意外とクールで、2020年まではイケイケだけど、それ以降は保証できないという意見をよく耳にする。だとするとその後はどうなるのだろうか。今までチャンスはあった。でも僕らは安倍内閣に信任を与え続けた。そうした僕らの選択が正しかったのか、間違っていたのか。歴史の審判は2019年が過去になってからしか下すことができない。それはバブルや失われた20年と同じように。検証バブル失政 エリートたちはなぜ誤ったのか [ 軽部謙介 ]
2019.03.24
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今日の苗場は晴れ渡っていた。吹いてくる風は心地よくて暑すぎることも寒すぎることもなく、最高のフェスティバル日和だった。僕はフジロックフェスティバルの一番大きなステージであるグリーンステージの前あたりに立って次のバンドが出てくるのを待っていた。慌ただしくステージをセットしているクルーたち。その様子を見ながら僕はそこで待っていた。ステージの準備中もバックミュージックとして音楽が流れている。次のバンドの趣味なのかどうかはわからないけれど、どっちかというと60年代のクラシックロックが多く流されていた。僕はそれを聞きながら特に何を考えるでもなく、ぼんやりとそこで待っていた。そのとき、突然完璧な三声和音でその曲が流れた。彼は本当にどこでもない人どこでもない場所に座り込み誰のためでもなくどこへも行けない計画を練っているその曲はいつも以上に僕の心に響き渡った。僕が初めて自分のお金で買ったレコードはビートルズの「ラバーソウル」。そこに収められている素晴らしい曲の一つ。僕が初めてその曲を聴いた14歳のときはそれくらいのことでしかなかった。だけど、今になって思う。この曲はまるでこれまでの僕の人生の主題歌みたいなものではなかっただろうかと。何の見解も持ち合わせずどこへ行くかもわからない僕や君とちょっとだけ似ていないかな。僕は本当にどこでもない人だった。いつでも、どこにいても、そこが僕にとっての居場所であるという実感がなかった。今いる場所が僕にとって大切な場所である。そういうことを思ったことがなく、いつでもどこにいても「ここではないどこか」を夢みていた。ここではないどこかでは僕は何者かの人間で、自分が夢みている何もかもが実現できていて僕はそこでなら本当の居場所を見つけることができる。そんな今にしてみると馬鹿げた空想を本気で追い求め、夢みていた。思い込みが激しい思春期や青年期を経て、それなりに「大人」と呼ばれる時が来てもその空想は形を変えて存在し続けていた。この会社でないどこかで仕事をしている僕は今より輝いていて、働き甲斐のある素晴らしい毎日を充実して過ごしている。だから今いる僕は何かが間違っていて「本当の」僕はここではないどこかに存在しているべきだ。そんな僕が世界の中で初めて居場所を与えてくれたのがフジロックフェスティバルだった。初めてフジロックが苗場で開催されたとき、そこにいた僕は本当の居場所を与えられたと感じた。正しい場所で正しいことを自分はしている。そんな肯定感にみちた感情を僕はその場所に来た時、初めて感じた。それから僕にとって、フジロックフェスティバルの苗場は自分が帰ってくるべきホームグラウンドになった。だから僕はどんどんとフジロックの「夢」や「理想」にのめり込んでいった。その「夢」や「理想」は僕にとって逃げ場だった。現実では何もできず何も成し遂げられなかった僕が最後にたどり着いたシェルターのようなものだった。そのシェルターに逃げ込めば、現実では何もできなかった僕を忘れることができた。1年のうち、たった4日間だけ開催される夢のような祭り。フェスティバル。自分はそのためだけに生きていた。現実の僕の生活が行き詰まりはじめ、先が読めない迷い道に入れば入るほど、僕は「夢」や「理想」に深くのめり込んでいった。それはほとんど信仰のようなものだった。「愛」「平和」「協調」「理想」。フジロックの理念は「現実」を塗り替えてくれる。ただフジロックに4日間参戦している。そうした行動をする数万人の人々の小さな行動の変化が積み重なって、大きなうねりになる。それが「現実」を変えていく。2007年のフジロックの帰り道に、第一次安倍内閣が率いる自民党が参院選で負けたというニュースを知った。2009年に自民党は下野し、政権交代が現実のものになった。かつてない改革的熱狂の中で僕は何かが変わると思った。その熱狂の中、僕の「幻想」は確信に変わった。だけど「幻想」は幻想でしかなかった。民主党政権は悪夢だった。それに託された希望や理想が大きければ大きいほど、落胆は大きかった。2011年に大地震が起きた。原発が事故を起こした。そして僕は僕自身の生活を初めて意識的に見つめなおすようになった。1990年代後半から今まで。考えるでもなく、僕の生活は厳しい見通ししか見いだせなかった。次第に僕は民主党政権に苛立ちを覚えた。それは僕自身が直面する「現実」への変わらなさに対するいら立ちを民主党政権にぶつけただけなのかもしれない。僕がしている「労働」や雇用環境は相変わらずシビアだった。給料もキャリアコースも持続可能性に欠いていた。自分たちの世代の不運なキャリアパス。ロストジェネレーション。そういう言い訳はいつでもできた。だけどそれは言い訳に過ぎなくて、僕たちの世代の少なくとも大半はそれなりの何かを成し遂げていた。フジロックに来ているだけ。それだけのことが積み重なって社会が変わっていく。そんなことなど起こるはずがなかった。もし自分が何かを成し遂げたい。そう思うなら、自分が自発的にその夢なり理想なりを実現するために行動しなければならない。何も行動しなければ何一つ変わるわけがない。幻想ばかり膨らませていた僕にツケがまわってきた。そしてついに幻想のバブルが弾けた。僕は「どこでもない人」に戻った。どこにも逃げ場がなく、そして成すすべもなく何もできなかった「どこでもない人」に。どこでもない場所でどこへも行けないプランを練っているだけだった僕。それは誰のせいでもなく、時代のせいでもなく、ましてやフジロックのせいでもなく、多分僕自身がダメだった結果だ。その事実は僕をひどくがっかりさせた。どこでもない人よどうか聞いておくれ君は何を失っているのかわかっていないどこでもない人よ世界は君の思うがままなのさいつになく心の中に響き渡るnowhere manを聞きながら僕はそんなことを思い出していた。この曲が自分の人生の主題歌になるなんて何だか情けない話だな。例えば I feel fineだとかShe's a womanとか、もっとかっこいい曲が僕の人生の主題歌になればよかったのに。そんなことを思った時に彼女の声がした。「久しぶり。最後に会ったの3年前だったっけ。」お久しぶり。ここで会うことができて本当にうれしいよ。僕は言った。彼女はフジロックの会場でしか会うことができないフジロック友達だ。僕は埼玉県に住んでいるし、彼女は福岡県に住んでいる。距離が邪魔をして僕らは頻繁に会うことができない。僕はステージで演奏するアーティストを待つのと同時に彼女の訪れも待っていた。僕らは3年分の話をした。自分たちの近況だとか、知り合いの消息だとか。彼女は結婚している。旦那さんとは時々喧嘩もするけど、それなりにうまくやっているよ。そう言って彼女は笑った。あなたはどう?なんか少し前すごく荒れていたみたいだけれど、転職とかしたの?いや。転職はしなかった。この年齢になると条件が悪くなる一方だし、今の僕だと多分どこへ行っても同じだよ。それだったこの会社で与えられた仕事をそれなりにこなして踏ん張っていた方がいいんじゃないかなと思ってさ。人事評価は知らないけれど、最近の成績はそれなりに戻しているよ。トップ社員とは程遠いけどそこそこの平均的社員というのかな。そんな感じ。それはよかった。ずいぶん丸くなったね。彼女はまた笑った。最近もまだ書いているの?賞をもらって鳴り物入りデビューとかまだ考えているの?最近は文章を書いていないんだ。何か今まで書いた文章が嫌でさ。なんて言うんだろう。すごく自分の中の毒気を感じるんだ。それが自分の文章を汚しているというのか。そんな感じ。それに自分が書く文章を信じられなくなってしまって。多分自分の中で何かが終わったのだと思う。何が終わったかは説明できないのだけれど。それならもう今は書いていないの?彼女はそう聞き返した。考えてみたら一年くらい何も書いていない。今まで書いてきたノートとか手帳とかも全部捨てた。自分にとって不必要なものになったから。それで終わったらそれだけでしかなかったんだと思うことにしている。僕はその程度でしかなかった。それだけのことだね。あなたも年をとったのね。成長したというより年を取ったって感じ。ある年齢以上になったら「成長」できなくなるよね。毎年、年を重ねるという感じ。だけどもう。あなたもそうなってしまったんだね。そのときステージの音楽が止まり、歓声が沸き起こった。あっ。始まった。前の方へ行こう。僕と彼女は一緒に前の方に移動した。そしてバンドの演奏が始まった。ステージ前では熱狂が始まっている。フジロックならではの盛り上がり。ここでしか感じられないような特別な空気。僕らは踊った。いつもフジロックの会場でそうしているように。ライブのときにいつもそうしているように。このダンスが終わる前に君にまた恋してしまいそう君とダンスしているときが幸せなんだキスしたり手を握ったりしたいわけじゃないんだちょっと可笑しいかもしれないけどわかってくれるよね僕がしたいことは他にはないのさ君とダンスしているときが幸せなんだこのダンスが終わるとき、僕らに何が起きるだろう。何も起こらない。僕らは今までの僕らどうしでしかないし、世界も変わることはない。だから僕はずっと一人でダンスを続けていたいと思っていた。ダンスが終わらなければ変わらない世界を嘆く必要もないし、夢を永遠に見続けることができるだけどダンスは終わらなければならないし、音楽も必ず終わる。永遠に覚めることのない至高の愛。理想が実現された完全に近い社会。権力の抑圧のない素晴らしき自由。何も欠けていることがない完璧な幸福。若いころ夢みていた美しき自己実現。そんなものは存在しない。今いる僕の世界の中では。だからこそ僕は「ここではないどこか」をずっと夢想し続けていた。でも夢想はもう終わりだ。僕がいる世界は「今ここ」の世界で、「どこでもない場所」ではない。僕が生きるべき世界は「今ここ」の日常生活の中で、その中で自分の居場所なり、それなりの何かをつかみ取らなければ何の解決にもならない。そしてパーティーも祭りも終わった。きっとそのうち。あと十数年もしたらフジロックフェスティバルも終わってしまう。でもそのときが来ても僕は大丈夫だろう。フジロックの夢や理想で自分の人生を粉飾するのはもうやめた。僕らのお目当てにしていた曲をバンドが一番最初に演奏してくれた。僕らは歓声を上げた。周りの熱気もすでに最高潮に達している。このライブも今年のフジロックも終わるときが必ず来る。それだからこそ僕らは今のこの高揚を大切に分かち合いたいと思った。暑すぎずもなく、爽やかな風が吹くグリーンステージ。苗場は最高のフェスティバル日和だった。そしてその場所で、今ここで、小さくて大きな出来事が続いていた。*2015年4月17日の「素敵なダンス」に少し書き加えました。「何を期待していたの」何を期待していたの「あなたが何を得たか」あなたが何を得たか「パーティーはそのままに」パーティーはそのままにの続きもの3編の最後としてもともと書いたものです。ザ・ビートルズ / ハード・デイズ・ナイト(期間限定盤) ※再発売 [CD]
2019.02.02
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いきなり年寄り臭い話で恐縮だが、僕と同じくらいの世代のロックファンとの間で話題になることの一つとして「最近パンクスがいなくなったね」というものがある。僕らが20代の頃の1990年代初頭、パンクファッションに身を包んだパンクスがそれこそ郊外の片隅にも何人かいた。高円寺や吉祥寺といった場所に行けばかなりの頻度でパンクスと遭遇することができた。パンクファッションと言ってもあまりピンとこない方に解説すると、シド・ビシャスに代表される、革ジャンに鎖を巻き付けたり、南京錠をアクセサリーにしていたり短髪を逆立てていたりといったそうしたファッションを指している。シド・ビシャスを画像検索していただければよくわかると思うけれど、そのようなシド・ビシャスの生き写しのようなパンクファッションをした若者が1990年代初頭にはよく見受けられた。こうしたパンクスの姿は結構よく見かけられたものなので、例えば相原コージの漫画などでパンクスはよくネタにされていたりした。またそれを読む人々も解説なしにその漫画を楽しむことができた。さすがにモヒカンはなかなか出会うことはなかったけれど、そうしたシド・ビシャス風のパンクスはそれなりに怖い存在で、ライブハウスで暴れたり、喧嘩沙汰を町で起こしたりと、若者のリアルなストリートカルチャーとして「パンク」というものが存在していた。しかし2019年の今、そうしたシド・ビシャス風のパンクスの若者を見かけることはかなりまれなことになってしまった。シド・ビシャス風のパンクスがいなくなったのは、90年代の中盤に差し掛かってからだと記憶している。この文章では、そうしたシド・ビシャス風のパンクスがいなくなったのを1996年から1997年あたりと線引きし、なぜそのような現象が起きたのかを自分なりに考えたものである。今まで解説なしに「シド・ビシャス」という人名をあげていたが、シド・ビシャスはセックス・ピストルズの2代目のベーシストである。セックス・ピストルズは1976年ころからイギリスで話題になり始めたパンクロックバンドで、いわゆるパンク・ムーブメントの中心的な存在である。そうしたセックス・ピストルズやクラッシュやダムドなどやさらにGBHやディスチャージといったハードコアパンクを含めて、それらの音楽や理念やファッションをこの文章では「オリジナルパンク」という言葉を使って説明する。さて、いまセックス・ピストルズの「勝手にしやがれ」というタイトルの唯一のアルバムを聞くと、非常にキャッチーなメロディーとハードなサウンドが魅力的な優れたロックミュージックであるという印象を改めて感じる。そして単純に音楽面だけを見ると今でも彼らの音楽から影響を受けたと思われるバンドが見受けられる。そうした意味でいまやセックス・ピストルズは偉大なロッククラシックの一つであるといっても否定されることはないだろう。しかし1990年代初頭は違っていた。セックス・ピストルズは例えばピンクフロイドやビートルズといったロックとは別格のもので、彼らの伝説はまだ「今を生きている」ものだった。セックス・ピストルズとビートルズとでは何が違うのか。それはビートルズが過去の音楽で彼らの音楽は昔のある世代の象徴でしかないのに対して、セックス・ピストルズは1990年代初頭の今でもリアルなストリートミュージックであり、1990年代初頭の若者にとってもその存在やスピリットはまだ生き続けているという感覚である。そうしたセックス・ピストルズに代表されるオリジナルパンクがいまだにリアルなストリートミュージックであり、そのスピリットは今でも生きているという理念を、とりあえず「パンクイデオロギー」と名付けておく。1980年代はもちろん1990年代初頭までパンクイデオロギーは生きていた。だからその頃は数多くのパンクバンドがデビューしたし、活動していた。そしてそうしたバンドが本当に「パンク」なのかという議論が本気でなされたりしていた。セックス・ピストルズはそれまでの主流のロックや社会に対してアンチを唱え、数々のスキャンダラスな活動を経て、最期には初期衝動のみで作り上げたアルバム一枚でその活動を終えた。またシド・ビシャスも若くして亡くなった。そうした「夭折」を重んじ、活動歴が長いバンドをサラリーマンのようだと嘲笑する姿勢。そうしたものが1990年代初頭には生きていた。そしてそうした考えは「パンクイデオロギー」の最も重要な要素と言っていいくらい、その理念と切って離せぬものだった。それを象徴する曲としてマニック・ストリート・プリーチャーズの「モータウン・ジャンク」をあげることができる。「ジョンレノンが撃たれたとき笑っちまった」という有名なフレーズ。そして自分たちはアルバムを一枚リリースしたら解散するという宣言。それはパンクイデオロギーがまだその頃生きていたという証だし、またそうした彼らの活動は日本ではかなりシリアスに受け止められていた。しかしそうしたパンクイデオロギーはその後の時代的な流れの中で次第に消滅していった。まず音楽の歴史の流れからパンクイデオロギーと絡まったオリジナルパンクが廃れていった過程を考えてみたい。ニルヴァーナの「ネバーマインド」というアルバムが発売されたのは1991年である。そのアルバムはアメリカの音楽を根底から覆す大事件となった。彼らの音楽は「グランジ」だとか「オルタナティブ」という命名がなされ、彼らに影響を受けたバンドが次々登場し、大ヒットを飛ばした。ニルヴァーナの功績はそうした新しいタイプの音楽を作り上げたことにとどまらず、当時アメリカでは日の目の当たらなかったジェーンズアディクションだとかレッドホットチリペッパーズといったバンドに対する注目を喚起したという功績もあげられる。そうした流れでオフスプリングといった80年代から活動しているパンクバンドも90年代に注目されるようになり、1994年にはグリーンデイが「ドゥーキー」というアルバムを発表する。グリーンデイの登場はある意味で特筆すべき出来事であって、アメリカの新世代のパンクっぽい音楽の一つの様式を作り上げたと言ってもいい。こうしたグリーンデイに代表される「オルタナティブパンク」は思想的にオリジナルパンクと異なっている。彼らもセックス・ピストルズといったオリジナルパンクの音楽的な影響は受けていたのだろうが、パンクイデオロギーには染まっていなかった。彼らは夭折が素晴らしいとは歌わなかった。社会に対する反抗はあっただろうけれどどちらかというと若者特有の憂鬱や悩みを主題とした歌詞が主で、その屈託のなさがある意味で特色だった。そうしたグリーンデイに代表されるオルタナティブパンクは日本にもファッションとともに輸入されることになった。一方のイギリスであるが、1990年代初頭から中盤にかけてはストーンローゼズの登場と沈黙、それとブリットポップの隆盛が日本に伝えられた。特にブリットポップの隆盛はブラーやオアシスといったバンドをスターダムに上げた。そしてブラーの「パークライフ」やオアシスのファーストアルバムが新しいイギリスの音楽として日本に輸入された。ブリットポップ関係ではオアシスの「モーニンググローリー」というアルバムが重要である。彼らはビートルズに影響されたと公言し、ビートルズに対するリスペクトを隠さなかった。そして1995年にリリースされた「モーニンググローリー」はイギリスのみならず、翌年にはアメリカでも受け入れれれていった。このアルバムは全世界で爆発的な売り上げを記録し、オアシスはイギリスのスタジアムロックバンドとしての地位を確立していった。僕は初めて「モーニンググローリー」というアルバムを聞いたとき、保守的なロックだという印象を持った。でも「Don't Look Back In Anger」は名曲であるのは否定できず、僕らの世代のアンセムとして記憶されている。重要なのはイギリスの最先端の音楽ムーブメントの大ヒットアルバムがビートルズに多大な影響を受け、そしてそれを公言し続けたということだ。彼らはもはやパンクイデオロギーとは無関係だ。また「ビートルズに影響を受けた。それの何が悪い」とでもいう態度は、既存のロックに対するアンチというセックス・ピストルズのアティチュードとは異なる。そうしたバンドの登場と、それが当時の若者に支持されたという事実。それはロックがパンクイデオロギーから離れつつあるということを示している。そして1996年にオリジナルパンクを覆す大事件が起きる。セックス・ピストルズの再結成及び再結成ピストルズの来日公演である。実は僕は1996年のセックス・ピストルズの武道館公演を見ている。そのとき印象に残ったのはブクブクに太ったジョニー・ロットンことジョン・ライドンの姿。そして同様のその他のメンバーの中年太り姿。そしてレコード通りの、意外にも上手な演奏だった。当の武道館会場も暴動がおこるでもなく、熱狂的な歓迎を受けたわけでもなく、どちらかというとクールダウンした反応だった。そのとき僕が思ったのは、夭折が美しいと言っても実際問題として、バンドを解散するたびに死ぬわけにはいかないということだった。夭折を絵に描いたようなセックス・ピストルズが20年前に解散し、今もリアルなストリートミュージックとして受け止められているとしても、そのメンバーはその後も生きなければならない。生きていればいつでも再結成は可能だし、伝説的であればあるほどその再結成の需要は多い。そして再結成したセックス・ピストルズの音楽は、例えば他の再結成バンドとどれだけ優れているだろうか。もし比較可能であるならば、ビートルズの来日公演とどちらが優れているだろうか。そのとき、セックス・ピストルズは他のクラシックロックバンドと同列のバンドの一つに納められることになった。セックス・ピストルズは1996年時点でのリアルなストリートミュージックではなく、昔イギリスで活動していた偉大なロックバンドの一つでしかないということを示した。それはつまり、セックス・ピストルズもビートルズもピンクフロイドも過去に偉大な業績を残したという点で同列のバンドであるということだ。再結成セックス・ピストルズは日本におけるパンクイデオロギーの終焉を宣言した。その後の日本のパンクの流れで重要なバンドとして、ハイスタンダードがあげられる。「グローインアップ」というアルバムが発表されたのは1994年。彼らの音楽や姿勢はオリジナルパンクよりも、グリーンデイに代表されるオルタナティブパンクに親和性がある気がする。彼らの代表曲「Mosh Under The Rainbow」がそれを象徴していると僕は思う。そこには破壊もNo Futureもなく、真っすぐで屈託がない表現だ。また彼らのファッションもオリジナルパンクのファッションではなく、当時のカジュアルファッションを普通にかっこよく着こなしているという印象が強い。また1996年ころからストリートミュージックとしてのヒップホップがアンダーグラウンドで活動を活発化させていく。1980年代だったらパンクを演奏していたかもしれない若者たちがヒップホップへ流れていったのではないか。パブリックエネミーのセカンドが発売されたのは1988年。「ドゥー・ザ・ライト・シング」が上映されたのが1989年から1990年ころ。そのとき高校生だった、ストリートに生きる若者がリアルな音楽としてヒップホップを敬愛していたとしても不思議なことではない。そしてそうした若者が自己表現を行おうとしたとき、ストリートのリアルな表現としてヒップホップ以外なかった。1996年から3年後の曲だけれど、「Grateful Days」という曲はストリートミュージックがパンクからヒップホップへ橋渡しされたのを象徴している気がする。パンクイデオロギーが信じられなくなってからあと、それこそ「Anarchy In The UK」と「Twist And Shout」と「悪魔を憐れむ歌」とを比較する、同列に扱うということが可能になった。それは逆に言うと、セックス・ピストルズを選ぶかビートルズを選ぶかは、個人的な音楽の趣味の違いになったということである。だからある人が自分を表現するときに渋谷系を選ぶか、パンクを選ぶか、ヘビメタを選ぶか、グランジを選ぶかは、個人的な音楽センスの違いであってどれを選んだから偉いとか最新鋭だとかということと無関係になったということだ。そうしてオリジナルパンクは音楽ジャンルの一つとなり、それと同時にパンクのファッションをした若者が少数派になっていくことになった。パンクイデオロギーが失効してからあと、パンクはどうなったのだろうか。パンクイデオロギーは死んだとしても、DIY精神やアンチメジャーレーベルとしてのインディーズ精神だとか、そういったもともとオリジナルパンクが目指していた精神の方は継続し続けた。そうした精神をもったバンドやユニットはジャンルを問わず存在し続けている。それはオリジナルパンクが切り開いた重要な突破口だった。そうした意味でパンクの精神がまだ別の形で生き続けている。そういうことは可能だろう。パンク勃興から40年強。スタイルとしてのオリジナルパンクはもう終わっているのだろうけれど、そのスピリットは別の形で受け継がれている。長い年月が経っていえることは、それこそが現在のロックとパンクを結びつける重要な影響ではないだろうか。そんな気がする。【送料無料】 Sex Pistols セックスピストルズ / Never Mind The Bollocks, Here's The Sex Pistols: 勝手にしやがれ!! <MQA / UHQCD> 【Hi Quality CD】Sex Pistols セックスピストルズ / Filthy Lucre Live: 勝手に来やがれ 【CD】
2019.01.07
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クロマニヨンズの新作「レインボーサンダー」を初めて聞いたとき、「このアルバムはすごくいいアルバムだな」と思った。当たりはずれがほとんどないクロマニヨンズのアルバムだけれども、このアルバムはここ最近のトップ3に入る作品だなと思った。クロマニヨンズ結成から、彼らがやっていることはほとんど変わりがない。自分たちが「最高」と思うロックンロールをあまりひねくれずにストレートに演奏し、それを録音してアルバムとして発表する。ブルーハーツやハイロウズのころは、歌詞作りに苦労の跡が感じられたけれども、クロマニヨンズになってからは苦労の跡を感じさせないような歌詞作りをあえて心掛けているという感じがする。例えば「恋に落ちたら」という曲は「あのね あのね」という歌詞で押し切ってしまっている。それは一見、歌詞を軽視しているとか手抜きをしているかのように見えるけれども、そうした歌詞作りは相当考え込まれ、そして洗練されたものなのではないだろうか。そのように僕は思っている。それは575の文字制限のなかで色々な物事を表現しようとする「俳句」に似た歌詞作りではないか。今回のアルバムでも「おやつ」とか「三年寝た」とか、クロマニヨンズ特有の「俳句」のような歌詞作りがとても冴えている。そして一曲一曲の出来がいいような気がした。これをライブでやったらかなり盛り上がるだろうなというそんな曲が多く収録されている気がした。そして「生きる」や「GIGS(宇宙で一番スゲエ夜」のような「エイトビート」や「タリホー」と同様のクロマニヨンズ・クラシックスを更新する曲も入っている。このアルバムをひっさげてのライブは最高だろうな。そんな気がした。クロマニヨンズのライブハウスでのチケットは実は入手が難しい。二次先行予約が落ちて、一般発売初日はネットが繋がらなくて結局手に入らなかった。という経験がざらにある。今回のツアーの東京初日のライブ。ここでのライブチケットもたまたま友人のつてで運よく入手できた。しかも整理番号が200番台とかなり前の方へ行けるチケットだった。体力的にも年齢的にももう最前列は無理だとわかっているので、とりあえず前方少し後ろでコビー側の場所を選んだ。その日のライブは東京初日ということもあるのだろうか。ライブが始まる前からテンションが高い。開始時間10分前ぐらいにはヒロトやマーシーを呼ぶ叫び声があがり、会場はすでに熱を帯びている。そして毎回恒例の前説が終わると、会場が暗くなり、僕らのヒーローの4人組が登場する。一曲目は「おやつ」。だいたい予想通りの一曲目。「レインボーサンダー」の一曲目だ。数か月前に発表されたばかりの新曲なのに、サビ部分では合唱が響き渡る。その後、新作の「レインボーサンダー」の収録曲をほぼアルバムの順序と同じようにガンガン演奏していく。新作を発表したら、そのアルバム全曲を演奏するライブツアーをして、フェスに何本かでたら、また新作をレコーディングして…。彼らはここ最近そんな感じで活動を続けている。今回のライブもそうしたサイクルの一環としてのライブだ。今回のアルバムのシングルカット「生きる」もあっさりと2~3曲に演奏された。言葉遊びのような「俳句」をあえて歌詞にしている彼らだけれど、大抵そうしたアルバムの中で一曲くらい「マジ」な曲を収録させている。それは例えば「エイトビート」「グリセリンクイーン」「紙飛行機」「ナンバーワン野郎」といった曲で、それは名曲としてクロマニヨンズの最新の歴史の1ページとして記憶される。少なくともクロマニヨンズファンにとっては。クロマニヨンズは、ブルーハーツはおろかハイロウズの時代の曲も演奏しない。ブルーハーツもハイロウズも今からすると伝説的なバンドだ。でもクロマニヨンズのファンは「リンダ リンダ」や「終わらない歌」も「千年メダル」や「サンダーロード」も、演奏を望まない。それは驚くべきことだ。なぜそのような活動が可能なのか。それはクロマニヨンズが未だにその歴史を更新し続けているからだ。彼らは過去の活動で生き延びているのではなく、彼らの今を生きている。そして新作を発表すると「エルビス(仮)」とか今回の「生きる」とか、いまだに僕らのアンセムというべき曲を作れてしまう。17才の時、初めて渋谷公会堂でブルーハーツのライブを見た夜。その日のことは一生忘れないし、忘れてはいけないと僕は思った。実際に忘れなかった。あの日に感じた感動。あの時の思い。だけど17歳の時、僕は約30年後のライブハウスで相変わらずかっこよく彼らのロックンロールを更新し続けているヒロトやマーシーを想像することができなかった。多分僕は非常にラッキーな出会いをしたのだと思う。今回のアルバム「レインボーサンダー」はここ最近のトップ3に入る名作だという感触はライブを実際に目のあたりにして、間違いはなかったと感じる。今回のアルバムの曲は一回聞いただけで耳に残るフレーズとメロディーで構成されていて、ライブで演奏するとその一曲一曲が盛り上がるし、またシンガロングも自然に起きる。そんなプラス効果もあって、本当にその日のライブは一曲一曲が心に残る。一旦新作のお披露目を中断し、昔の曲を演奏するとヒロトがステージで言う。そして「エイトビート」が演奏される。言わずと知れた名曲だ。多分それはクロマニヨンズファンでなくても同意してもらえるのではないか。そんな名曲の登場で会場の熱気が増したところで、彼らがいう「LPレコードのB面の曲」を演奏し始める。例えば「恋のハイパーメタモルフォーゼ」が何を指すのか、具体的にはわからない。かといって何かの深読みを強いるタイプの曲でもない。その不思議な言語感覚は「三年寝た」という曲に良質な形で出ていると思う。「三年寝た 三年寝た うっかり うっかり」というフレーズは一回聞いたら忘れられないし、思わず鼻歌で歌いたくなるようなメロディーを備えている。だからそれをライブで演奏すると自然と合唱が起きてしまう。そうした合唱で生まれた一体感がますます会場を熱くさせる。そんなよいフィードバックが今回のライブを素晴らしいものにさせていた。B面の曲のお披露目が終わると、クロマニヨンズクラシックスの演奏に移る。「ナンバーワン野郎」や「ペテン師ロック」だとか「ギリギリガガンガン」など。会場はそれまで以上に火が付いたような騒ぎになる。前の方では頭上で人が舞っているのが見える。僕の周りでも今まで以上の大合唱や叫び声が聞こえる。そして最後の曲は「GIGS(宇宙で一番スゲエ夜)」。この曲は彼らの自伝のような歌だ。この曲を最後にもってきたのも、それが彼らにとって特別な曲だったからなのではないかと思う。少なくとも今の時点では。いったん小休止をはさんでアンコールに彼らが現れる。一曲目に歌った曲はかなりマイナーなというか、かなり熱心にアルバムを聴き込んでいるファン向けの「渋い」選曲。でもその後に「エルビス(仮)」が演奏されると会場はまた熱気に包まれる。最後の曲は「タリホー」。それこそ喉がつぶれる寸前くらいの大声の合唱が会場に響き渡る。大興奮のなか、「タリホー」を歌いながらふと思う。この曲もすでに10年以上も前の曲なのだと。ブルーハーツ、ハイロウズの頃からヒロトやマーシーは何か警句のような心に響き渡るフレーズを生み出している。そしてクロマニヨンズになって、同じようにハッとするようなフレーズを彼らは生み出し続けている。そんなフレーズの中ですごく好きなものがある。それは「グリセリンクイーン」のこんな一節だ。グリセリンクイーン できることは何でもグリセリンクイーン やってしまう毎秒が伝説「毎秒が伝説」それは大げさな言い方かもしれない。でも僕らが今生きている時間は一度しかなく、絶対に再現は不可能だ。だからこそ今を大切にしなくてはいけない。「生」を無駄に消費することはよくないことだ。そんなことを彼らは僕らに問いかける。自らのバンドの歴史を更新し続けていくことを通じて。あなたは今でも「毎秒が伝説」であり続けていますか?それは日々の生活の中ではなかなか気づけないことだし、忘れがちなことだ。でも彼らのライブを見るといつもそんなことをも思い出す。若いころのように歴史に名を残すような誰かにならなければならないという青臭い野望は忘れた。でも市井の人間の人生を生きる一人として、少なくとも「あのとき、あれをやっていればよかった」と後悔ばかりする人生を送るべきではない。そんなことをいつも彼らは教えてくれるそして今回のライブでもそうだった。レインボーサンダー [ ザ・クロマニヨンズ ]MONDO ROCCIA/ザ・クロマニヨンズ[CD]通常盤【返品種別A】グリセリンクイーン収録
2018.12.23
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90年代懐古の亡霊が闊歩しているような気がする。2012年のストーンローゼズの再結成から始まって、小沢健二の復活。そして90年代を舞台にした映画の上映。ストーンローゼズの再結成ライブを見て感じたのは、僕のような40代の大台に乗ってしまった人間にとって、そのライブが非常に楽しいということだ。もう誰もストーンローゼズに2018年現在の最先端のリアルロックを期待しないし、過去のストーンローゼズの評価も定まっている。あとは「I Wanna Be Adored」をどれだけ大きな声でシンガロングできるか。「I Am The Ressurection」にどれだけ個人的な思いを託すことができるか。はっきり言うと僕はもう現在のロックに共感できなくなっている。ラッドウィンプスやテイラースウィフトを無理に聞くよりも、再発されたInspiral CarpetsのCDを買う方を選んでしまう。年を取るとはそういうことだ。そう思わざるを得なくなる。僕が90年代に20代だったころ、70年代懐古ビジネスが嫌だった。まだ若かった僕にはそうした近過去を懐かしいと思う精神構造が全く理解できなかった。でも40代を過ぎて、わかるようになってしまった。20代、30代を駆け抜けるように後も振り返らずに生きて、それなりに決着がついて、自分に残された資産や負債の清算をとりあえず突きつけられるとき。それが41歳くらいのときだ。そして厄年を境に一気に生命力や勢いがガクンと下がる。自分はもはや若くない。下手をしたら老年期の初期段階に入ろうとしているのではないか。そんな疑念すら感じられるようになってから、自分が若かったころを懐かしいと感じてしまう。自分がその頃若かった。それだけでその時代が良かったと思えてしまう。そのとき90年代を懐古するマテリアルがあれば、それなりに金があるから買ってしまう。そうやって僕は広告代理店の仕掛けた罠に嵌るように、90年代懐古の亡霊に取りつかれてしまう。映画「SUNNY 強い気持ち・強い愛」は、韓国映画の「SUNNY 永遠の仲間たち」という映画を基にして作られたらしい。僕は韓国映画の原作を見ていないので、その辺のことはよくわからない。舞台は現在と多分1995年くらいの東京。主人公やその仲間たちは1995年に高校生でいわゆるコギャルで、毎日をお祭りのように楽しく過ごしている。でも現在は色々なしがらみや事情に絡み取られてそれぞれシビアな現実の中で生きている。事の発端は主人公奈美が会社社長をしている芹香と病院で出会うことから始まる。奈美は高校生の娘を持つ主婦をしている。そして芹香は進行性のガンを患い、余命があと一ヶ月しかないという。芹香は死ぬ前にもう一度高校時代の仲間たちと会いたいと願い、奈美にできれば彼女たちを探し出してほしいと頼む。奈美は高校時代の仲間たち、SUNNYのメンバーと再会していく。そしてそこに1995年当時のコギャルだった頃のSUNNYのメンバーの楽しい生活の回想が交差する。この映画の見どころは輝ける1995年の高校生活と現在のシビアな現実を生きる彼女たちの落差だろう。特にともさかりえが演じる心(シン)の非常に重たい現状はショッキングな気分にすらなる。それに対比される1995年の高校生活は騒がしくて、能天気で。生命力に溢れていて、パワーもみなぎっている。ではその映画に描かれている1995年は本当に史実に近いものなのか。僕とコギャル世代はほぼ一周り違うから、真相は実はわからない。またネットなどの情報を見ると、1995年に高校生だった人々とそうではなかった人々との間で、評価に対するばらつきが見られる。その頃女子高校生だった人々は総じてこの映画に対する評価が高かったような気がする。1990年代は本当に輝かしい時代だったのだろうか。本当に黄金の90年代だったのだろうか。音楽業界はミリオンセラーが大量に出て、まさに黄金期だたようだ。また渋谷を闊歩するコギャルたちは性的にも文化的にも先を行っているという感覚はあって、村上龍が思わず「ラブ&ポップ」という小説を書いてしまったり、宮台真司がこの頃のコギャルたちを徹底的に肯定する論を張って高校教師をビビらせてしまったりと、若者のカルチャーはコギャルや女子高生たちを中心に回っていた。あるいは回っている幻想を抱かせる勢いがあった。そうした高校生文化から一周り年上の僕にとって1990年代は必ずしも明るい時代ではなかった。オウム事件、山一証券の破綻、自殺者2万人突破、完全自殺マニュアル、Cocco、南条あや。言葉では表現できないのだけれどなんとも言えない曖昧で包み込むような生きづらさが僕の周りを包囲していた。この映画に、エヴァンゲリオンに嵌った20代の引きこもりが登場する(奈美の兄)が、多分彼は僕と同じ世代に属している。だから1990年代がおわり、2000年が来るに当たって、僕は90年代を素晴らしい時代だったとは回顧しなかった。それは僕以外の多くの人々が感じていたことで、90年代が終わるに当たり、90年代を総括するキーワードは「失われた10年」だった。新しい文化、新しいやり方、新しい生き方を提示したといわれるその頃のコギャルたちやその世代の人々たちも結局は歴史の荒波に晒されて苦しむこととなり、成功者はそれなりにいるけれど、新しい時代を切り開く新しい何かをその後に提示することはできなかった。ゼロ年代は誰も回顧したいと思わないくらいの苦難の10年だった。そして今2018年。あと2年で2010年代が終わる。そんなタイミングで「SUNNY 強い気持ち・強い愛」という映画が作られ、小沢健二に乗せられた僕がその映画を見に行った。個人的には評価が難しい映画だった。この映画を見て、90年代が懐かしい。90年代はいい時代だ。もう一度あの日へ帰りたい。とは思わなかった。印象に残ったのは2つ。ひとつは安室奈美恵の「Sweet 19 Blues」の見事な使い方。もう一つは小沢健二の「強い気持ち・強い愛」をダンスで表現するという解釈の斬新さだ。小沢健二の1995年ころの作品はハイテンションでポップだけれども、どうしても文学的に受け止めてしまうきらいがある。特に僕のようなタイプのファンには。でもそれをダンスで表現したのは本当に素晴らしい解釈で、そのダンスのシーンはすごく感じるものがあった。では2018年に17歳くらいの若い人が見たらこの映画をどう思うのだろうか。僕が90年代に20代だった時と同様に、この90年代懐古の映画を批判的に見るのだろうか。この映画に対して僕は中途半端な印象を持ってしまった。もっと開き直って、この映画はオジサンやオバサン目当ての90年代懐古ビジネスの一つです。と確信犯でこの映画を製作するか。あるいは友情をキーワードに、90年代という時代を超えて、エヴァーグリーンな青春物語としてこの映画を製作するか。そのどちらでもない感じがして中途半端さを感じた。最後の遺言は映画をまとめる以上、リアリティーがなくてもそうせざるを得ないのかなと苦笑してしまったけど。90年代懐古の空気に触れると、もう90年代は現在から途切れてしまった過去となってしまったのだと痛感させられる。でも僕にとっての90年代はほぼ20代の10年にあたる。だから今とは繋がらない過去として処理することができない。では90年代にリアルだったことが2018年に通用するのかというと、それはさすがにそうは言えない。90年代を2018年に繋げる何か。それは多分僕らが2018年までに生きてきた生活史のなかにあるのだろうと思う。それは90年代を美化して懐かしむのではなく、もっと何かを自省することで生み出せるのではないかと思ったりもする。そのときにいつの時代にも通用する90年代の本当の物語ができるのではないか。そうしたものを僕ができないにしても、僕以外の同世代の誰かができるのではないか。そんなことを思ったりもする。【送料無料】 小室哲哉 コムロテツヤ / 「SUNNY 強い気持ち・強い愛」Original Sound Track 【CD】小沢健二 / 刹那 [CD]
2018.10.28
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ほぼ20年ぶりになる小沢健二の武道館公演。そのライブが終わって1日経った今、ワードの白紙原稿を前に戸惑っている。そのライブはよかったのか。それともどうでもいいようなライブだったのか。答えは決まっている。非常によいライブだった。それだけは確信を持って言える。特に僕のような20代の日々を1990年代という時代の中で過ごしてきた人間にとっては。ではそのライブの何が良かったのか。そこで僕は言葉を失ってしまう。今回の小沢健二の武道館公演は何がそんなに良かったのだろう。例えばフジロックのライブは、久々に小沢健二が戻ってきたという高揚感を中心に文章を書けばわかってもらえることが多かった気がする。今回の武道館のライブも確かに小沢健二が武道館に戻ってきたという公演だったと言えなくもない。でも単なるノスタルジアで語られるべきライブではなかった。半分は僕らと同世代の人々の思い入れで構成されていたライブだったけれど、あと半分は何か違うものを発したいという小沢健二の思いが伝わってくるようなライブだった。その半分って何だろう。それがなくしてしまったジグソーパズルの一片のようにうまくつながってくれない。それは何だったのだろうか。1996年と現在とで違うのはネットという情報ツールが世の中に浸透したことだ。携帯電話で少し検索してみれば事前に武道館ライブのセットリストや大まかなコンサートの構成だとかがわかってしまう。その事前の検索結果同様に、この日のライブは大人数のオーケストラとゲストの満島ひかりと小沢健二のコラボで構成されていた。客電が落ちて始まった曲は「アルペジオ」それも僕が事前に知っていたのと同様だった。僕の座っている2階席はさすがに集中力が散漫だった気がする。コンサートが始まっても座ったままの人々が大半だ。客席はほぼ30代から40代くらいの人々で埋まっていいる。今日ここに来ている人々の大半はかつての小沢健二を知っている人々ばかりなのだろう。だから「ラブリー」とか「僕らが旅に出る理由」といった昔の曲の方が断然に盛り上がる。満島ひかりは今回のライブでは最初から最後までずっと出ずっぱりだった。コーラスや舞台の演出、ダンスなど大きな役割を担っていた。時々一人で歌う時にどのキーに合わせようか迷っているときもあったけれど、彼女がこのコンサートでここにいる理由がちゃんとあったと思う。それは多くの人々が指摘していることだけれど、この武道館に集まった女性ファンの代表としてここにいる。そのように思った。実際、小沢は「女子」「男子」と言ってシンガロングを求めていたけれど、「女子」のときに満島ひかりがうまく合唱をリードしていた。今回の武道館ライブでは新曲も昔の曲も織り交ぜて進んでいったが、新曲の中で一番印象に残ったのは「フクロウの声が聞こえる」だ。この曲がシングルとして発表されたバージョンはSEKAI NO OWARIとのコラボだったが、今回のフルオーケストラのバージョンは非常に重厚感があり、そして小沢健二がこの曲に込めた「重さ」がよく伝わってくるアレンジだった。またこの曲の良さが今回のライブバージョンのほうがわかりやすく伝わってくる気がした。この日のライブの最高潮は「戦場のボーイズライフ」から始まるメドレーとそして「ある光」だった。「戦場のボーイズライフ」「愛し愛されて生きるのさ」「東京恋愛専科」そして「強い気持ち 強い愛」と最強の4曲で構成されたメドレーは何も解説がいらないほど素晴らしかった。90年代の小沢健二を代表する曲でもあり、そして同時に90年代のいわゆるJ-POPを代表する名曲が今ここで再現されている。それだけでも感動してしまう。そしてその後で演奏された「ある光」。原曲は憂いや暗さや希望と同時に重要な何かのメッセージを込めた8分に及ぶソウルナンバー。この曲の発表後、小沢健二は長い沈黙に入ってしまう。そのためこの曲は小沢健二のファンから特別視されることが多い。そんな「ある光」が、満島ひかりのギターのフレーズから始まったとき、僕は色々な思いを抱かざるを得なかった。この日フルオーケストラで演奏された「ある光」それは力強く、そして明らかな希望を映し出していた。少なくとも僕にはそう感じられた。それは今の小沢健二の活動の核心の何かを映し出している。そして僕がこの日のライブをどう書けばいいかわからないと述べた理由もそこにあるような気がしている。小沢健二の90年代のラストシングル「春にして君を想う」のB面に収録されていた「ある光」のロングバージョン。今にして思うと「ある光」は小沢健二による90年代の総括であった気がしている。1998年当時に歌わなければいけなかった希望や未来への祈り、そして彼自身がなぜ沈黙しなければなないのか、それを「ある光」で表明していた。それはこの曲をシリアスにしているし、ある種の重さを感じさせざるを得ない。多分、「ある光」のロングバージョンをライブで演奏するのは今回が初めてだと思う。このある種特別な曲を2018年の今、ライブで演奏すること。それには彼の何かの意思が働いているのではないか。90年代の小沢健二はその当時の音楽シーンの中心人物の一人でもあった。小室哲哉と並んで90年代を代表するアーティストであった。彼はまさに90年代という時代の最先端を駆け抜けたそういうアーティストだ。そんな彼が2018年の武道館でライブを行う。「ある光」を新しい解釈で歌う。それは彼なりに90年代という時代を決着させる。そして2018年という時代を見つめて活動をしていきたい。そんな意思表明ではないだろうか。フジロックのときは90年代のノスタルジアだとか久しぶりのブギーバックだとか、それで盛り上がっていればよかったかもしれないけれど、今回は2018年に小沢健二がどう活動していきたいか。それを見据えての武道館公演ではなかったのか。そのためにも彼は90年代の小沢健二の名曲に決着をつけなければならなかった。90年代のトップランナーとしての責任を果たすために。それはそのまま僕らにも跳ね返ってくる。僕らは90年代に何を成し遂げてきたのだろうか。僕にとっての90年代はほぼ僕の20代の日々と重なってしまう。その時期に僕は何を成し遂げてきたのだろうか。自分自身の人生に対して、その頃の社会に対して。90年代は変動の10年間だった。今までうまく回って見えた昭和モデルがことごとく逆機能を起こしてしまい、一部では「失われた」と称された時代だった。そうした時代に対して僕や僕らは何をできたのだろうか。うまくやり抜く何かを僕や僕らは時代に対して提示することができたのだろうか。黄金の90年代という言葉に僕は違和感を持つ。少なくと僕は90年代の自分が何かをできたという感覚を持てない。新しい生き方、新しい明日。そうした何かに沿って僕が自分の人生を生きていたか。それに疑問を持つからだ。そのとき僕にできたことは、まるで大きな高波に飲み込まれないように必死で救命具につかまりながら乗り越えるだけ。そんな気がしてならない。そうした僕の90年代に対する「呼びかけ」を今回のライブで強く感じたのだ。90年代、僕は若かった。ただそれだけで終わるライブではなかった。ただ懐かしいだけだったら、今回のライブは盛り上がりました。それだけでいい。でもそうではなかった。だから今回のライブを文章にまとめるのが難しいのだろう。いきなりライブ最後に飛んでしまうが、最後の最後に小沢健二はカウントダウンの後「日常へ戻ろう」と言い、コンサートを終える。それは多分あの高テンションで多幸感に溢れるラブソングも小沢健二の日常から生まれてきたからだと思う。「戦場のボーイズライフ」の「戦場」は「平坦な戦場」と呼ばれる僕らの90年代の日常生活だったわけだから。2018年の日常がいまだに「平坦な戦場」なのか、それともそれ以上に悲惨でシビアな現実なのか。それは僕には断言できない。だけどそれに立ち向かわなければ何もできない。闘うにしろ逃げるにしろ。そしてそこから何かが生まれればいい。たとえそれが遅すぎだったとしても。それからあなたは何をしますか。そんな問いかけを僕は感じた。その問いかけがなかなかこの武道館公演をまとめることができなかったジグソーパズルの一片だった。そう思っている。参考文献「小沢健二の帰還」 岩波書店小沢健二の帰還/宇野維正【2500円以上送料無料】[CD] 小沢健二/LIFE
2018.05.24
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まず最初にこの映画を他人に勧めるか。それについて書いておこう。90年代に岡崎京子をリアルタイムで知っていて、今も熱烈に岡崎京子の作品を待望しているという方に、この映画を勧めるか。それについては、別に見るに耐えないひどい作品ではないけど、積極的に「見ろ」とは言わないと思う。もしかしたらお気に召さないかもしれないけど、試しに見てみるのもいいかもしれない。と。逆に岡崎京子は知らないけど、前情報で二階堂ふみのトップレスが見られるとかセックス描写が過激だとか聞いたけどこの映画はどうだった?と聞かれたら、こう答えると思う。確かに二階堂ふみは脱いでいるし、セックスも描かれているけど、それだけを目的に見るのであれば、あまりお勧めできない。なぜならそれを見るために救いようがなく暗い120分に耐えるのは苦痛だと思うから。と。「リバーズエッジ」が映画化されるというニュースを聞いて、あの名作をどうやって映像化するのだろうか。あるいは映像化できるのだろうか。その出来栄えに不安を感じた。岡崎京子の原作「リバーズエッジ」は1994年に単行本として発売された。1994年ごろは80年代のバブルの余波がまだ残りつつも、それもそろそろ引き潮に転じ始め、何か今までとは別の時代が来つつある。そんな空気感が漂う時代だった。そのような時代背景をもとに、「リバーズエッジ」は新たな90年代的な皮膚感覚や、斬新な表現方法を提示し、90年代が今までとは違う新たなフェイズに入ったのだ。そうしたことを宣言した作品である。そのため様々な分野で創作活動をしていた多くの人々に強烈なインパクトを与えたし、影響も与えた。映画や文章や音楽といったジャンルを超えて1990年代を代表する名作である。そう言っても過言ではない。「リバーズエッジ」の何がそんなに衝撃的だったのだろうか。セックスやドラッグや暴力や死といったテーマを扱ったそのストーリーも衝撃的ではあったけれど、その表現技法が斬新かつ素晴らしいものであった。この作品は「漫画」という表現方法を使わなければ、作品それ自体が成り立たない。「漫画」という表現方法の可能性を極限まで追求し、1990年代的な皮膚感覚やその時代を描き切ったこと。そこが衝撃的だった。「リバーズエッジはもはや文学の域に達している」という論評はよく目にしたし、僕自身もこの作品は90年代の文学史に残る作品ではないかと思っていた。そのような偉大な作品である「リバーズエッジ」だけれども、その受け止められ方は年代によって違っていた気がする。まさに1994年に10代だった読者たちは、この作品で描かれているヒリヒリするような皮膚感覚を直感的に「感じ取った」のだろうと思う。僕は1994年に23歳だったけれど、そのような10代以上の上の世代の人々はこの作品を「新しい文学」として感じ取っていた気がする。今回映画「リバーズエッジ」を監督した行定勲氏は多分原作「リバーズエッジ」を「新しい文学」として読み取った人ではないかと僕は思っている。2018年に1994年の作品「リバーズエッジ」を映画化することそれには二つの方法があったのではないかと僕は思っている。2018年2月現在でも90年代的な皮膚感覚を描いた「リバーズエッジ」の世界は有効である。現在の若者が直面している時代状況と90年代の「リバーズエッジ」で描かれた世界は繋がっている。そうして問題意識のもとで、映画リバーズエッジを現代の人々に問うという方法論。もう一つは前者のようなあまりにも壮大で困難な仕事は不可能だから、例えばこの映画を見て90年代に若かった世代の人々に「ああ90年代が懐かしい」「あの頃私は若かった」などと思ってもらえればいい。俗にいう「オッサンホイホイ」とか「オバサンホイホイ」として映画を作る。まず後者の「オッサンホイホイ」であるが、この映画の重さや暗さを考えるとそのような意図があまり感じられない。この映画の暗さは90年代のアザーサイドの青春をとらえているのだろうけれど、それを見て「90年代が懐かしい」とか「90年代はこんな時代だった」といったノスタルジアは全く感じなかった。その点で現在中年である90年代に青春を過ごした人々に対するサービスが足りない。次に前者であるが、現在の若い世代が直面している状況を「感じ取る」のは僕のような年寄りには不可能である。20代の若い人々がこの映画を見てどんな感想を持つか。それについては僕にはわからない。以上のことを踏まえて、この映画は「オッサンホイホイ」ではないけれど、前者の方法論で何かを問いかけたかった。その「何か」を90年代的な感性を持つ40代の男が必死に考えて書き上げた映画リバーズエッジにかかわる感想である。そのようにこの文章を受け取っていただければありがたい。映画リバーズエッジはいきなり登場人物ハルナのインタビューで始まる。それを見せられると、インタビューを受けているのは「二階堂ふみ」なのか「ハルナ」なのかわからず、まず戸惑う。この「インタビュー」は山田君や観音崎やルミやカンナといった物語の主要人物に対しても行われる。その中には自分で自分の家庭環境だとか人物像を説明させてしまうインタビューもあり、非常に風変わりで、映画監督ならまずやらないことをあえてやってしまっている。しかし映画全体でみると、この映画はいわゆる実験的な映画ではない。原作に沿ってストーリーがあり、そのストーリーに従って物語が展開していく。いわゆる普通の映画の作りだ。俳優の演技で光っていたというか、印象に残った役柄はルミとカンナだ。特にカンナが山田君に振られて狂っていくその姿は素晴らしい演技だったと思う。山田君や観音崎の役柄はしっかり安定した仕事しているという感じだった。ハルナ役の二階堂ふみに関しては、原作に比べるとハルナが凛々しくなり過ぎかなと思った。原作のハルナも凛々しいけれど、もうちょっとふわふわした印象があった気がする。この映画はR15指定を受けている。だからそれなりに過激な表現がある。例えば高校生という設定のハルナがいつも煙草を吸っているとか、ドラッグだとかセックスだとか暴力であるとか。そんな過激な題材を扱っているにもかかわらず、この映画は地味な印象が強い。そしてこの映画を見ていて感じることは、暗くて八方塞がりに陥ってしまった感覚だ。原作の「リバーズエッジ」もどちらかというと暗い作品であったから、それに乗っ取って映画を作ればそれは暗い作品になるのは当然だと言えなくもない。リバーズエッジと同じく岡崎京子の作品を映画化した「ヘルタースケルター」は派手な演出や俳優の豪華さや話題性といった点で、娯楽的な要素が詰まった映画になっていた。それに比べるとこの映画は娯楽的様相が少なく、話題性といった点でも派手さに欠けると思う。それではこの暗くて地味なリバーズエッジという映画は何を目指して作られたのだろうか。行定監督はこの映画で何を訴えたかったのだろうか。原作の「リバーズエッジ」のクライマックスは、物語が突然反転し、「悲劇」が重なって起こる場面である。具体的に言うとルミが姉にめった刺しにされ、ハルナの家が放火され、そしてカンナが焼死する場面。そこにウィリアムギブソンの「The Beloved」の詩が挿入される。そのシーンは非常に効果的でインパクトがあり、この詩の一節である「平坦な戦場で僕らが生き延びること」は「リバーズエッジ」の代名詞でもある。また原作でのこれらのシーンはまるで抽象画を見ているように広がりや余白があり、また暗喩や警句にみちていて、それは90年代の時代そのものが「平坦な戦場」であり、そのなかで「僕らが生き延びること」を問うていると受け止めることができた。つまり「平坦な戦場」はこの作品の中だけでなく、あなたが生きている人生や時代や社会が「平坦な戦場」であると。僕がこの映画で一番注目していたのは、このシーンをどうやって映像化するのか。それだった。しかし映画では残念ながら、この詩は街の風景をバックにハルナと山田君が詩を朗読するという形で表現されていて、あまり印象に残らなかった。だとしたらこの映画は失敗作であろうか。見るだけ時間の無駄だったのだろうか。多分行定監督は、映画で原作の「リバーズエッジ」を超えることは不可能であるという前提でこの映画を作ったのではないかと僕は想像している。漫画という形でしか、原作「リバーズエッジ」のクライマックスを表現することはできない。そのうえで監督は「リバーズエッジ」の代名詞でもある「平坦な戦場」を、時代や社会に対する警句としてではなく限定して表現しようとした。この映画で描かれている暗くて八方塞がりな状況が「平坦な戦場」であると。そうした限定を設けたこと。そう考えると、この映画がなぜ暗くて八方塞がりな感じを抱かせるのか。それが納得できる。暴力や無軌道なセックスや死の予感や偶発的な悲劇が起こるこの映画のスクリーン上で表現されている世界。それが「平坦な戦場」である。では平坦な戦場で「僕らが生き延びること」とはどういうことなのだろうか。それは特にハルナの、そうした日常や悲劇に対する立ち位置にヒントがあると思う。ハルナは自分が悲劇に巻き込まれても決してそれに引き込まれることがない。まるで傍観者のようにその悲劇を見ているだけ。そんな感じを受ける。どのようなことがあっても絶対にその当事者にならないこと。その状況から一歩引いた視線で悲劇や事件に対して待機していること。そうした態度が「僕らが生き延びること」なのだろうか。一連の悲劇が一段落したところで、再び映画でハルナのインタビューが挿入される。そこでハルナは「生きるとはどういうことだと思うか」というインタビュアーの問いに答えて「怒ったり笑ったり泣いたり、感情を揺さぶられながら物事を感じること」という趣旨の発言をする。そのうえで「生きていきたいと思う」と語らせる。それは劇中のハルナの行動原理とは違っている。この二つのことを統合するとこうなる。自分が状況に巻き込まれないように防衛線を張って自らを守りつつ、その状況を感じながら生きていく。この矛盾を生きていくこと。危ういバランスを取りながらそうした矛盾を生きていくこと。それは難しいし、その先には破綻が見えているかもしれない。この映画はそんなことを表現したかった作品だったのだ。ハルナのこの映画での佇まいを通じて、「平坦な戦場で僕らが生き延びること」とは、状況から一歩引きながらその状況に飲み込まれるように感じつつ生きていく、そういうことなのだ。そんなことを好意的に解釈すると読み取れるのではないだろうか。僕はそのようにこの映画を受け止めた。若い人々は、では、この映画をどう受け止めるのだろうか。岡崎京子の名作を映画にする。それは無謀なことだと思う。下手をすると、のっぺりとして平坦で退屈な文学趣味映画で終わってしまいかねない。そう思う。行定監督の映画「リバーズエッジ」はそうした作品になっていないけれど、では岡崎京子の原作「リバーズエッジ」を超えたのか。残念ながらそこまでの作品にはなっていない。だから岡崎京子の大ファンのような方にこの映画を勧めるかというと「微妙なところ」という感じになってしまう。逆にこの映画の暗さや重さを考えると、岡崎京子を知らない二階堂ふみ目当ての方々に勧めるのはちょっとと考え込んでしまう。映画リバーズエッジは興行的には苦戦していると噂されているらしいが、こうした映画の性格から、色々なタイプの方々にこの映画を勧めるべきか迷ってしまう。それが原因なのかもしれない。リバーズ・エッジ オリジナル復刻版 / 岡崎京子 【本】
2018.03.14
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西部邁という人物を初めて知ったのは「朝まで生テレビ」という田原総一郎が司会をしている討論番組だ。西部邁氏はそれこそ何十冊にも及ぶ著作を出している方だが、実際に僕が読んだ著作はせいぜい10冊前後に過ぎない。だから僕には西部氏の思想を語る資格など全くない。僕が知っている西部邁はテレビスクリーン上の「西部邁」氏だ。その前提の上でこの駄文を読んでいただければ幸いである。「朝まで生テレビ」という討論番組は90年代のサブカルの一つの象徴だった。この討論番組で何十人もの「知識人」と呼ばれる人々がタレントとして巣立っていった。その中には政治家になった人もいる。そんな「朝生」出身の有名な政治家として舛添要一という存在がいる。新宗教、特にオウム真理教などは「朝生」をうまく利用することで、あそこまでの大事件を起こすまでの存在になったのではないか。そう思えてしまうほど、サブカル系青年・女子たちに大きな影響を与えた番組だった。少なくとも1990年代中盤くらいまでは。そんな「朝生」によく出てきた論客が西部邁氏だった。西部氏の話すこと。それは一言でいうといわゆる「保守主義」という考え方に基づく見解だった。特に1900年代前半のリベラルな言論を背景にしたいわゆる左派系の人々に対するその破壊力は、物凄いものがあった。左派系の方々が語る理想論や建前論を「保守主義」に基づく見解で、ことごとく論破してしまった。その博識には左派系の方々にも一目置かれていたのではないか。そんな気がする。あくまでテレビスクリーン上という浅はかなレベルでしかないけれど、西部氏の話されていた見解はこのような柱に支えられていたのではないだろうか。人間が思考できるものは限られているのだから、今の人間が社会を・法律を・政治を全て決定できるなどというのは理性の驕りでしかないのではないか。「大衆」が全員でなにかを決定するということになると烏合の衆になりがちである。だから政治だの社会だのを「大衆」の思うがままに委ねてしまったら大変なことになるという大衆社会批判。そしてそれに基づく民主主義という意思決定過程に対する徹底的な懐疑。そうしたことを柱にして、西部氏は進歩的と呼ばれる考え方や進歩的知識人たちが吐く言説に疑問符を投げかけ、時には論破して葬り去っていった。1990年代前半から中盤というと僕はまだ20代前半で、ジョンレノン的物言いが好きなロック少年だった。だから西部氏の言うことが癪に触って仕方がなかった。なぜ癪に障るのか。それは西部氏の言うことが全て正しかったからだ。僕が味方にすべき左派的知識人がしゃべる建前論(僕にはそう感じた)。それらは西部氏の言葉を前にするとあっという間にかすんでしまった。西部氏のリアリティーのある言葉を前にするとそれらは単なる自己保身のための大嘘に堕ちていった。僕がその頃信じていたロックンロール的な左派的考え方。それに対する最大の難関が西部氏の「保守主義」であり、それを打ち砕くのは困難である。僕はそう直感していた。だから社会や政治についての何かを考えているとき、僕の頭の中にはテレビスクリーン上に映し出された西部氏が心の隅っこにいた。僕が考える左派的な言説。それに反論してくる西部氏がいた。何かの良心の呵責のように西部氏が僕の頭の中に存在し続けていた。そんな西部氏の僕の中の影響力が薄れていったきっかけ。それは宮台真司という存在だった。1990年代を代表する社会学者。それが宮台真司という人で、特にオウム事件からしばらくの間はサブカルの分野の中に「宮台真司」という枠がある。そう言っていいほど彼の存在は強烈だった。宮台氏がこの頃行っていたこと。それは徹底的に90年代の社会を肯定してやること。特に援交女子高生たちを。そうすることで新しい生き方や新しい何かが生まれるのではないか。宮台氏はその可能性にかけていたのだと思う。彼は頭も切れるし、論争になるとまず負けることはない。そうして宮台氏は90年代の新世代のヒーローの1人となった。そんな世代交代を象徴する番組がある。田原総一朗が司会をしていたある30分間の討論番組だ。その討論番組で神戸の児童殺傷事件をテーマに西部氏と宮台氏が討論していた。西部氏は言う。自己決定論云々。それは耳当たりのいい言葉だ。でも自己決定は家族なり、友人関係なり、会社と自分との関係なり、重層的な社会の網目の中に「自分」がいるからこそ「自己決定」ができるのだ。そうした社会関係がうざいと左翼的知識人たちがそれを破壊してきた問題をどう責任を取るのだ。この事件を起こした少年が「思春期前期」である。そうしたことを強調しても仕方がない。誰でもそうした「ストレス」にさらされて生きてきて普通は立派な大人になっていくものだ。そうしたストレスに耐えられない人間が出てきたのは、左翼的知識人がうざいと言って捨ててきた社会関係の網がなくなりつつあるからではないのか。それに対して宮台氏は答える。社会関係の網が重要だ。その通りだ。それは私も認める。でも今の社会状況のままでいわゆる昭和的標準理想家庭を作っていけば解決できる。あなたの言う社会的な網ができるというのは年寄りのノスタルジーでしかないのではないのか。社会は変わり、環境が変わってきた。その変化の原因や因果関係を探り、新しい形の「社会の網」を作る方法論を検討しなければ問題は解決できないのではないか。そういう時代の境目にある今、あなたのようなノスタルジーに基づく道徳論は有害でしかない。この場を退席しなさい。と。それに対し、西部氏は本当に番組を退席した。時代は確実に変わっていた。今までは現在が夏であることを前提に浴衣を着るか半そでのシャツを着るかを議論していればよかった。でも時はめぐり冬が来つつあった。そのときに必要な議論は浴衣かシャツ化でなく、寒さに備えるための防寒具をどう確保するかが重要だ。それは夏に行っていた議論とは根本的に異なる。浴衣だろうがシャツだろうが寒さに耐えられる服を確保すること。それが一番重要だ。もちろんそれを保守主義の見解から論証することはできる。しかし西部氏はあえてそれをせず、退席してしまった。1997年にその番組は放映された。それは世代交代を僕に感じさせた。左翼的見解を保守主義の立場から批判し、その欺瞞を暴露して左翼的心情を持つ人々を挑発する。そんなテレビスクリーン上の西部氏の役割は終わった。そんな感を僕は持った。そして西部氏のテレビタレント時代はこの時に終わった。しかしテレビタレントとしての役割など、思想家にとっては取るに足らないことだ。西部氏の思想家としての側面は、彼が提唱する「保守主義」が現在我々の生きている社会の中通用するものなのか、あるいは全く役に立たないものなのか。その価値判断にかかっている。西部氏は左翼的な見解に異議を唱えたが、実は新保守主義やネオリベラリズムに対しても異議を唱えていた。ネオリベラリズムや新保守主義が主流派経済学に基づく社会改造思想であることを見抜いていたからだ。そうした社会改造が日本の社会の良い部分まで破壊し、最終的には日本社会を破壊しつくしてしまうのではないかと危惧していたからだと思う。90年代の左派的な風潮の時代は終わり、現在は保守主義の時代のように言われる。そうした左翼的な思想がほぼ死滅してしまった時代の保守主義は「何を保守すべきか」について説明責任を負わなければならない。西部氏の関心や思想上の悪戦苦闘はそこにあったのではないか。保守主義は伝統主義とは違う。昔から続いてきた制度だからこの制度を壊してはいけない。それが伝統主義だ。それに対して保守主義はこう主張する。この制度は現在このような役割を担いこのような形で機能している。これを壊してしまうとこのような悪影響を社会にもたらす。だからこの制度は現在のまま保守すべきである。それはある意味で左翼や伝統主義よりも困難な思想だ。左翼はありもしない絵空事やきれいごとを並べれば、それはそれで何とかなるかもしれない。人々をごまかせるかもしれない。伝統主義なら「昔から続いていることだから」で逃げられる。保守主義は、「あえて」「この制度は保守しなければならない」と主張する。だからその説明責任を負う。またどの制度を保守し、どの制度は変えていかなければならないかを考えなければならない。それは困難であるし、その困難を西部氏は生きてきたのだろう。西部氏の訃報を聞いたとき、色々なことを感じた。その死は多分、そうした思想の困難を生き続けた西部氏の思想上の延長線の上にあるのだろう。その核心については、僕のような浅学にはわからないし何かを述べるつもりもない。ただそのニュースを聞いたとき僕はこう思った。西部氏は自分の思想を生き、そしてその思想を自らの人生の上で全うした人だったのだ。と。西部氏の思想は僕のような左派的心情を持つ人間に対しては、何か良心に突き刺さったとげのように絶えず気になってしまう側面教師のような存在である。一方の保守主義陣営ではどうか。多分僕らと同世代くらいの保守主義者で西部氏に全く影響を受けていない保守主義者はまず存在していないのではないか。そう思えるくらい彼の思想は僕達の世代に影響を残した。個人的に僕が一番好きな西部氏の著作は「ソシオ・エコノミックス」という主流派経済学批判序説とでもいうべき著作だ。稀代の思想家に冥福をお祈りしたい。西部邁の経済思想入門 放送大学叢書 / 西部邁 【全集・双書】
2018.03.02
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仕事の都合で開演時間に間に合わず、10分遅れで会場に入ったら、大轟音のギターの音が鳴っている。銀杏BOYZは、デビュー作の2枚のアルバムの頃から、轟音ギターが特長だった。そのギターの音はまるで欲求不満の中学生がやけくそになって演奏したパンクロックのような響きがした。でも今鳴っている武道館のギターの轟音ノイズはその頃とは感じが違う。それはマイブラッディヴァレンタインを連想させるような轟音ノイズだ。武道館は2階の最後尾の列まで総立ちになっている。立見席も満員だ。そんな武道館ライブは非常に珍しい。観客の期待の大きさをそれは示している。銀杏BOYZのライブはかなり久しぶりという印象があって、僕自身も2007年のせんそうはんたいツアー以来の銀杏のライブだった。それから約10年。2007年の轟音ノイズパンクの銀杏とはかなり違う銀杏BOYZがその武道館にいた。MCでも言っていたけど、峯田自身はひたすら100mを全力疾走する感じで2007年のライブも、今回のライブにも臨んだのだと思う。それにもかかわらず、2007年の銀杏と2017年の武道館の銀杏は違っていた。いったい何が変わったのか。長い沈黙の後、久しぶりに発表された銀杏BOYZの新作「光のなかに立っていてね」と「BEACH」は賛否両論を巻き起こした。昔の銀杏の轟音パンクロックから、非常に内省的で暗い印象の音楽へ。その急激な変化に僕を含めてかつての銀杏を知っている人々に大きなインパクトを与えた。その変化のヒントが今回の武道館ライブにあった気がする。例えとしてはあまりよくないかもしれないけれども、こういう例をあげることができると思う。YouTubeであげられている、視聴者が映した2011年の津波の映像は非常に衝撃的で、またあの時に何が起きたのかというドキュメントとしてとても貴重な映像である。しかし、もしあの映像を「表現」として見たら、優れた表現ではないと思う。あのときカメラをまわした視聴者はその映像を「表現」のためにまわしたわけではなく、ほぼ事故のようにあの凄まじい災厄を映してしまった。もし2011年の災厄を「表現」した作品を見ようとするならば、例えば「シンゴジラ」といった映画作品を見るべきなのではないかと思う。それが表現として優れているか否かについての判断は人によって違うだろうとは思うけれど。「DOOR」や「君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命」といった初期の銀杏BOYZの音楽はまさしく「性春時代」の生々しく衝撃的なドキュメントである。ひたすら本能の赴くままにギターノイズをかき鳴らし、爆死していく銀杏のその頃の音楽はYouTubeにアップされた身の毛もよだつ津波映像のように衝撃的で生々しい。そうした生々しい「性春時代」の鬱屈を表現できたのは、峯田の過剰な情念と才能があったからこそだ。そしてその峯田の才能は、銀杏を「性春時代」のドキュメントの再生産ツールにすることを許さなかった。年を経て色々な経験を重ねるうちに、峯田の才能は「表現」の深化へとシフトしたのだろうと思う。それはYouTubeにあげられた津波の映像ではなく、「シンゴジラ」という映画作品へとその災厄の記憶が昇華されたように。その表現の深化をどう評価するか。それは銀杏ファンの間では賛否両論なのだろうとは思うけれど。峯田の「表現の深化」がどこへ向かうのか。それに大きな興味があって武道館のライブに行ったのだけれど、正直に言えばよくわからなかった。彼がどこへ向かうのか。その表現がどこへ行きつくか。それはわからなかった。相変わらず「100m走を猛ダッシュする」ように走っている峯田自身も、もしかしたらそれはわからないのかもしれない。実際僕自身がこの日のライブで印象に残った曲をあげると「あいどんわなだい」と「光」だった。今の状況は、観客が望む銀杏と峯田が表現したい「銀杏」の楽曲がずれてきている状態なのだろうと思う。多分峯田のその才能は「援助交際」をそのまま再生産することを許さないのだろう。今の峯田のリアルは、「援助交際」ではなく「円光」の方にある。「援助交際」のときも「円光」のときも、峯田は自らの情念に赴くままにその情念を楽曲の中に込めながら歌っている。峯田の過剰な情念が銀杏の音楽の特長でもあったし、そうした情念が峯田を動かしているのは今も昔も変わりがないのだろうと思う。現在の「銀杏BOYZ」に僕が何かの違和感を感じるのは、表現と情念の込め方の関係である。峯田の「過剰な情念」を込める曲のフォーマットとして「援助交際」というプリミティブな曲は最高のものだった。しかし同じ「過剰な情念」を「円光」という曲のフォーマットに込めると何か違和感を感じる。つまり表現の深化に伴って彼の「情念」が取り残されてしまい、「表現される曲」という入れ物と「情念」との間に、齟齬が生じているのではないかと感じるのである。端的に言うと峯田の過剰な情念を盛り込む入れ物としては、「円光」よりも「援助交際」の方がしっくりくるということだ。先ほど今回のライブで印象に残ったのは「あいどんわなだい」と「光」だったと書いたが、それもそうした齟齬を象徴しているような気がする。最近発表されたシングルを聴いていると「援助交際」の頃とかなり肌触りが違うポップソングである。「光のなかに立っていてね」を聴いた後だと優れたポップソングだと素直に思えるけれど、「あいどんわなだい」の次のシングルだったらどうだっただろうか。その間に生じた変化をどうとらえるべきなのか。今回の武道館ライブを見て、その答えは出なかった。だけど退屈で高級すぎる表現に移行したわけではなく、あるところでは2007年の峯田と陸続きでありながら、あるところでは大きな変化を感じる。そんな印象を持った。そしてそれは2007年の頃のようではないけれど、僕を引き込むところがある。今の「銀杏BOYZ」に疑義を唱えるようなことを書いてしまったけれど、いつまでも余韻が残った素晴らしいライブだった。それだけは確かだった。【送料無料】 銀杏Boyz ギンナンボーイズ / 光のなかに立っていてね 【CD】
2017.10.17
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雨が降りしきるホワイトステージ。明らかに入場制限がかけられているであろう満員の観客エリア。それまで流れていたSEの音楽が止まり、客電が消える。その瞬間、大歓声が上がる。カウントダウンが終わるとステージの真ん中に小沢健二の姿が見える。僕がいた場所はステージ左側の少し後ろだったから、そのステージに誰がいるかは正確にはわからなかった。でも音楽が鳴ったとき、「もしかしたら」と思った。約20年以上前から何百回も聞いているあの曲のイントロのコード進行と、今鳴っている音楽のコード進行が一致しているような気がしたからだ。そしてホワイトステージ上方のスクリーンにその曲の題名が映し出され、大きな歓声がまた上がる。「今夜はブギーバック」今となってはJ-POPクラシックナンバーとなってしまった曲だ。だけど僕はそれをリアルタイムで知っている。そしてそこに大きな何かを託してしまっている。今でも昨日のことのように思い出せる。その曲がリリースされたときの空気感、時代、そして自分がまだ20代だった時の苦しくて甘くて切ない思い。ダンスフロアに華やかな光僕らを包むようなハーモニーブギーバック シェイキラップ夜の半ばには 甘い甘い ミルク アンド ハニー会場では大合唱が始まっている。スクリーンには「ブギーバック」の歌詞が映し出されている。素晴らしい舞台効果。シンプルだけど、これ以上はないと言っていいくらいの舞台効果。観客の大合唱はものすごく、小沢の声が全く聞こえないくらいだった。1,2,3を待たずに 16小節の旅の始まりブーツでドアをドカーっと蹴ってルカーと叫んで ドカドカいってスチャダラパーのラップもだいたいは覚えている。それくらいこの曲は僕の心の中にしみこんでいる。「今夜はブギーバック」は基本的にパーティーソングだ。だけど底抜けな明るさはなく、どこか憂いを持っている。小沢健二が歌うパートの歌詞はダンスフロアで会った「最高のファンキーガール」との馴れ初め。それは例えばクラブでナンパしてワンナイトスタンドを楽しんだというような軽薄さがない。そして聞く人に大きなインパクトを与えるスチャダラパーのラップは本当に刹那だ。今ここでしか体験できない感覚を信じ、このメンバーこのやり方で自分たちはロックし続けるのだ。という宣言。それは、今が必ず過去になり、そのときは信じられた何かもそのうち信じられなくなるかもしれないという、そんな不安を乗り切るためにどうしても吐き出さざるを得なかった言葉だ。そんな内容のこの曲は単に能天気なパーティーソングで終わることを許されなかった。その結果「ブギーバック」はある種のクラシックソングとしてj歴史に残されてしまった。2曲目の「僕らが旅に出る理由」も僕らの周りでは大合唱が続いていた。興奮は全く冷めなかった。このまま最後まで小沢の声が聴けないのではないかとすら思った。次に演奏した新曲で観客の空気もクールダウンした。多分「魔法的」ツアーで聞いた曲だと思う。だから今回で聞くのは二回目の曲だから、さすがに歌うことはできない。次の「ラブリー」でまた会場は盛り上がりを見せる。名作として知られる「LIFE」というアルバムの2曲目に入っている曲だ。それで Life is coming back僕らを待つ Oh babyラブリー ラブリーこんな無敵なデイズ恋する二人には何も恐れることはなく、何も曇りもなく、この先には幸せ以外何もない。そんな「恋の絶頂」を歌った曲。個人的な話ではあるけど、小沢健二の「LIFE」というアルバムが発表された1994年に僕は失恋をしていた。だからこのアルバムで表現されている恋の最絶頂期の多幸感に完全にノックアウトされてしまった。だから「LIFE」というアルバムは僕の心の中のもっとも深いレベルに共鳴している。「ラブリー」を聴くと色々なものが色鮮やかによみがえってくる。1994年。カートコバーンの死。暑かった夏。松本サリン事件。残忍な殺人事件の数々。岡崎京子の「リバーズエッジ」。連立内閣。ブリットポップ。援助交際女子高生。「制服少女の選択」。渋谷の街並みのにおい。時代が大反転する直前の軋みが徐々に表れ、それでもまだ今までのニッポンを信じることができた最後の年。1994年。そんな時代に彼は「LIFE」という名作を発表した。その完成度の高さと、またファーストとの断絶に多くのファンは戸惑った。でもその戸惑いにも関わらず、僕らは「LIFE」というアルバムをそれこそCDの溝が擦り切れるくらい聴き、そしてそんな小沢健二を支持した。僕は今になってこんな大げさなことを思う。「LIFE」というアルバムはまさに時代の大反転を目の前にした1994年の集合的な無意識を代弁したアルバムだった。僕らはがこのアルバムを支持し、深く聴いたのは、そんな無意識レベルの何かに心を揺さぶられたからではないだろうか。と。次の新曲のあとは3曲ほど懐かしい曲が聴けた。「強い気持ち 強い愛」も聞くことができた。筒美京平の作曲も素晴らしいけど、小沢健二による歌詞も最高だと思う。強い気持ち 強い愛心をギュッとつなぐいくつもの 悲しみも残らず捧げあう今のこの気持ち ホントだよねこの曲も恋愛絶頂系の曲に見える。だけど注意してみるそれだけの曲ではないことに気づかされる。もし「強い気持ち 強い愛」を盲目のように信じられるのであれば、最後に「ホントだよね」と問いかける必要はない。本当は「オレ」は気づいている。どれほど強い気持ち 強い愛で僕らがつながっていたとしても、それは明日には壊れてしまいかねないくらい儚いものであることを。それでも「オレ」は今を信じる。今のこの気持ちを信じたい。そんな「今」という時間へのアット的な肯定感。この曲はもともとアルバム未収録シングルとして発表されたそして2000年代にコンピレーションアルバムに収録された。そのコンピレーションアルバムには「刹那」という題名がつけられた。1996年当時の小沢健二のモードをそのアルバム名は語っていると最近は感じるようになってきた。次に演奏した曲は「流動体について」。かなり話題になった復帰シングル作品だ。この曲だけを聴くと素晴らしい曲だと思うけれど、例えば「ブギーバック」や「ラブリー」といった彼のまさにアーティストとしてのピークだった20代の頃に比べると考え込んでしまう曲だ。「流動体について」という曲に対する批判は非常によくわかるけれど、一ファンとしてこの曲を擁護するとこんな感じになると思う。確かに「ブギーバック」を超える曲だとは思わないけれど、40代後半になり、家庭を持ち、帰らなければならない場所ができた彼を正直に反映した誠実な曲ではないのか。だからたとえライブ会場が静かになっても「流動体について」という曲はよい曲ではないかと思う。ライブは終わりに近づいてくる。そしてあの名曲が演奏される。今となっては「僕ら」世代のアンセムの一つとなってしまった「愛し愛されて生きるのさ」いつだっておかしいほど誰もが誰か 愛し愛されて生きるのさそれだけが僕らを 悩める時にも未来の世界へ かけてく僕はその歌詞をかみしめながら小沢と一緒に歌っていた。1994年当時、本当に僕の祈りに似た悲願だった「愛し愛されて生きる」こと。少子高齢化社会。生涯未婚者が5人に1人。そんな時代が二十数年後に待っているとは思わなかった。普通に生きていれば普通にそんなチャンスが来て、結婚できるものだと思い込んでいた。でも、少なくとも僕にはそれは甘い考えでしかなかった。「愛し愛されて生きる」にはそれこそ血を吐くような努力をしなければ達成できない。そんな困難に満ちた奇蹟に近いような出来事であると今になって知らされた。僕のようなコミュニケーション能力の低い人間については。だからこそ明るくカジュアルに「愛し愛されて生きる」ことを宣言したこの曲は逆に僕には輝かしく見える。それがたとえ4分間で終わるポップソングであるとしても。9月に発表された「フクロウの声が聞こえる」でライブは終わった。僕の心に残ったのは会場の大合唱と興奮だった。それは多分90年代ノスタルジアが混じった年寄りの思い込みかもしれない。だとしても。その時代に自分が涙や汗と一緒に託した何かを思い出させてくれた、素晴らしいライブだった。
2017.10.03
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ストーンローゼズのライブはたいてい行っている。再結成前の活動期間はファーストアルバム発表の1989年から解散の1996年まで。それはちょうど僕が18歳から25歳までの時期で、どうしたってその頃の記憶と活動の軌跡を重ねてしまう。1990年代。僕の20代前半。バブルの栄光からオウム事件を経て急転回してしまった日本の社会。そして失われた20年。そうしたことすべてが、ストーンローゼズの奏でる音像と記憶が重なり合う。だから僕には客観的にストーンローゼズを語ることができない。僕が今書こうとしている2017年4月21日の武道館のストーンローゼズは、そんな僕の様々な回想や思い入れの雑多な感想録でしかない。武道館の客層はだいたい僕と同年代の40代の人々が主流だった。その様子を見ていると僕と同じ時代を生きてしまった40代の現在が垣間見られる感じがする。最初は何か散漫とした雰囲気の武道館だったけど、開演時間が迫ってくるとだんだんこれからストーンローゼズが始まるという雰囲気になってくる。7時をちょっと過ぎたころに客電が落ちるとメンバーが登場する。武道館に大きな歓声が沸き上がる。1989年や2012年と同じように、1曲目はI wanna be adored。曲の最初から武道館が地響きしているような大合唱が起こる。今回のライブではフジロックの時より、ジョンのギターの音がシャープではっきりした音のように感じた。だからその分ジョンのギターテクがより前面に押し出されているような感触があった。ただ今回のライブでのジョンのギターの響きの違いは野外でのライブか、ホールでのライブかの違いだけかもしれない。デビュー当時から演奏が下手、ボーカルが下手といったレビューを受けることの多かったストーンローゼズだけれども、今回の武道館公演は1989年当時よりも、そしてフジロックの時よりも演奏技術が上がった彼らを見ることができた。Sally cinnamon,Mersey paradise,Elephant stone 次に演奏されたのはローゼズ特有の憂いを含んでいて、それでいてポップで美しいメロディーラインを持った曲だ。ローゼズ流ポップソングのお手本とでも言っていい曲たちでもある。彼らの音楽が80年代と90年代の音楽の分水嶺になった理由はそのメロディーラインに一つの理由があった気がする。ストーンローゼズの音楽は深い眠りから覚めた直後のまどろみのような境界線上で奏でられた音楽だと僕は思っている。そのまどろみは夢と現実を行ったり来たりしているような不安定さを内包している。だから彼らの音楽は混沌や酩酊を、そして「目覚め」の瞬間のはっきりした意思をも含んでいる。彼らの代表曲Elephat stoneはそうした混沌や酩酊とはっきりした意思の両方を、ローゼズ特有の美しいメロディーラインとその曲のリズムによって表現した名曲だと思う。Elephant stoneのみならず、ストーンローゼズのファーストはだからまさに90年代の「目覚め」にふさわしいサウンドトラックになり得たのではないだろうか。ストーンローゼズのファーストはそのような偉大なアルバムであるため、セカンドはどうしても評価が低い。だけどセカンドも決して駄作ではない。今回のライブでも演奏したBegging youなどは、レ二のものすごいドラムプレイを聴くことができる。初来日の頃によく言われていたことだけれど、レ二のドラムスはそれ以前のインディーロックから一線を画していたといわれる。そしてそのドラムサウンドが90年代の幕開けのブレイクスルーになったとも評される。そんなレ二のドラムスの凄さが今回のライブのBegging youでフルにさく裂していた。この曲は今回の武道館公演のレ二の最高プレイの一つだった。ライブ中盤のハイライトはWaterfallからDon't stopへの流れではないだろうか。この2曲は「まどろみ」「混沌」といったストーンローゼズの音楽の一面を如実に表している曲だ。今回のライブでのジョンのギターのクリアな響きが目立ったのはこの曲だったのだけど、僕にとって印象的だったのはマニのベースプレイだ。一歩間違えると完全な混沌に陥りそうだったDon't stopのライブ演奏。それを一つにまとめ、一曲のポップソングとして踏みとどませているのがマニのベースだった。今回のライブでは新曲のAll for oneも演奏された。曲の印象としては1991年のOne loveの半年後にシングルとして発表されてても違和感がない曲。ローゼズの新作アルバムを期待させる曲だった。ホワイトファンクの名曲Fools gold。まさか演奏されるとは思っていなかったBreaking into heaven。そうした見どころたっぷりの中盤戦を経て、Made of stoneが演奏される。ライブ後半戦だ。She bangs the drums、This is the oneといった曲が次に待っていた。Waterfallといった曲が「まどろみ」を表現しているとしたら、これらの曲は「覚醒」「目覚め」を表現した曲だ。This is the oneは僕が個人的に大好きな曲で、この曲が演奏されているときは胸が熱くなるような気持だったけれど、やっぱりこの曲が今回の武道館公演で一番盛り上がった曲だ。I am the resurrection。This is the oneに続いてI am the resurrectionが演奏されたときの気持ちをどう表現すればいいか。僕にはわからない。ローゼズにとってもファンにとっても僕にとっても、この曲に託される思いは強い。前半のまるで何かの「宣言」のようなうたも、後半のグルーヴィーでスピード感あふれるソウルなインストゥルメンタルも。地響きのような大合唱に再び包まれた武道館は、最後に向けて興奮の渦が巻き起こっていた。その渦を引き裂き、かき混ぜるようにドラムのレ二が、ベースのマニが、ギターのジョンが、ストーンローゼズグルーヴという名にふさわしい台風の目のような演奏をかき鳴らす。その時間は何分間だったのだろうか。僕には3分くらいにしか感じなかった。そしてそれは、今回のライブの終わりを告げる曲でもあった。ストーンローゼズは現在の英国の最新ロックシーンとは関係のない存在かもしれない。結局ストーンローゼズは40代の懐メロでしかないのかもしれない。それでも仕方ないし、それで構わないと思う。だけど彼らの音楽に僕が託しているいろいろな何かはまだ壊れずに2017年のストーンローゼズの中に存在していた。それだけでも僕にとって2017年のストーンローゼズは「リアル」な存在だ。それが日本の40代一男性による根拠なき幻想であるとしても。
2017.04.25
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客電が落ちると「イーラ」のSEが流れる。カウントダウンがスクリーンに映り、そして「1,2,3」の曲が始まる。この日のライブの第一部は中村一義が2000年に発表した「ERA」というアルバムが、曲順もそのままに演奏される。いわば「ERA」の完全再現ライブといった感じだ。今年2017年は中村一義にとってデビュー20周年に当たる年である。またこのライブの当日は彼の42回目の誕生日でもあったらしい。そうした記念すべき日のライブに「対音楽」でも「金字塔」でも「100s」でもなく、「ERA」の再現ライブをしたということ。それはこのアルバムが彼にとって重要な位置を占めるアルバムであるという象徴であるのだろうと思う。彼自身がMCの中で「ERA」というアルバムを2017年という時代の中で新たに解釈して行うライブだと言っていたが、特に大きなアレンジ替えがあったとか、曲が原曲をとどめないほど再編成されていたといったことはなかった。ごく自然に、現在の中村一義のバンド「海賊団」と、普通に「ERA」を演奏したという感じだった。だとしたら何をもって現在の解釈で演奏したということになるのか。それは今回のライブが単純に17年前のノスタルジーにしかならない昔懐かしい同窓会ノリで終わるか、それで終わらないか、その違いなのだと思う。僕の感想というレベルではあるが、今回のライブを聴いて、2000年という時代の勢いというか熱気を思い起こさせられたりはしたが、それで終わりということではなく、現在でも今回のライブが通用する、あるいはまだ古臭くなっていないという感想をもった。その理由は、海賊団というバンドの力かもしれないし、「ERA」というアルバムが内包しているパワーなのかもしれない。あるいは多分、両方なのかもしれない。僕自身にとっては信じられない話ではあるのだけれども、中村一義というアーティストは今年デビュー20周年を迎える大ベテランアーティストである。1971年生まれの僕が高校生だった頃に置き換えるとするなら、20年前から活躍しているアーティストといえば吉田拓郎だとか沢田研二だとか矢沢永吉といったアーティストに当たる。そうしたアーティストは僕にとって偉大であるけれど、高校生当時の自分自身にとっては等身大の表現ではない。それらの偉大なアーティストたちに対して、僕はそんな感じを抱いていた。最近の人気若手ロックバンドにリアリティーを感じるという若いロックファンには中村一義の表現は高尚に感じられるのかもしれない。あるいは自分の世代の切実さを代弁してくれているとは考えづらい表現なのかもしれない。だからそうした若いロックファンに今回のライブを聴いてもらったらどんな感想を持つか僕にはわからない。それでも、「ERA」のハイライトでもある「ロックンロール」や「素晴らしき世界」が今ここで演奏されていることに何がしかの感動を覚えるよりほかはなかった。休憩後の第2部は新旧の曲を取り混ぜて演奏するという普通のライブの構成だった。演奏した曲は「犬と猫」「スカイライン」といった曲など、本当に新旧取り混ぜてという感じだった。この部のハイライトはやはり一番最後の「キャノンボール」だった気がする。大病を患って今何とか復帰した盟友をステージに招き入れて演奏した「キャノンボール」は素晴らしいという一言で済ますのではもったいないくらいの感動のフィナーレだった。「ERA」というアルバムが発表されて早いものでもう17年の年月が経つ。だから2000年という時代もすでに過去の歴史になってしまったし、高校生くらいの年齢のロックファンだとその時代の雰囲気も記憶にないかもしれない。「ERA」というアルバムは中村一義にとって、表現の転機にあたるアルバムである。1997年にデビューし、「状況が引き裂いた部屋」の中で、ブライアンウィルソンの「スマイル」を思わせるような複雑で内省的な作品を宅録で作っていた90年代の中村一義。そんな彼があえてわかりやすい音で、わかる人にはわかるではなく多くの人々にわかってもらうことを指向し始めたアルバム。それが「ERA」というアルバムだった。ひたすら内に向かい、90年代当時の困難さや閉塞感や、そこから何とか這い上がっていくためのかすかなきぼうといった、どちらかといえば難解だった表現を紡ぎあげてきた90年代の中村一義の作品たち。そうした表現を通って来たからこそ、「100s」に収録された「キャノンボール」の「僕は死ぬように生きていたくはない」というフレーズは当時の日本のロックに関わる人々に大きなインパクトを与えた。そんな中村一義の第2章の始まりを告げる強力な作品が「ERA」というアルバムだった。2000年という年は日本の音楽シーンの転機が訪れた年でもあった。ミッシェルガンエレファントが「カサノバスネイク」、ハイロウズが「リラクシング」、イエローモンキーが結果としてラストアルバムとなる「8」を発表し、90年代を代表するバンドがこの年に傑作アルバムをリリースする。そしてブランキージェットシティーはこの年に「ハーレムジェット」を発表し解散する。一方で椎名林檎がこの年に「勝訴ストリップ」を発表して爆発的なヒットを放ち、新世代の台頭をアピールした。ロックだけでなくJ-POPの表舞台も大きな変動が起ころうとしていた。浜崎あゆみがこの年にブレイクし、モーニング娘。も「恋のダンスサイト」「ハッピーサマーウェディング」といったシングルを発表し大ヒットを記録する。90年代に日本のポップミュージックを制覇していた小室哲哉プロデュース作品の時代がまさに終わろうとしていた。そうした日本の音楽の新旧交代のはざまの中で「最後の90年代総括期」といった様相だったのが2000年という時だった。音楽だけでなく、世相もこの年は90年代最後の黄金期とでも言っていいような年だった。2000年という年を象徴する言葉は何か。もしそう問われたなら、僕は「失われた10年」という言葉をあげると思う。「失われた10年」という言葉は90年代を象徴するフレーズだが、2000年当時はネガティブなイメージの言葉ではなかった。90年代という年月は日本的システムがうまく立ちいかなくなった年月だった。だから日本的システムの悪いところや良いところを精査し、これから始まる2000年代はより素晴らしい10年にしていきたいものである。そんな前向きなメッセージが込められたものとして「失われた10年」という言葉があった。それは裏を返せば日本という国や社会の可能性を信じることができたということでもある。以上のような音楽シーンの変動や世相の中で中村一義の「ERA」というアルバムは発表された。それは偶然ではなく、時代的なシンクロニシティとでもいうものがあったと僕は思っている。「ERA」というアルバムを聴くと今でも2000年の空気感を思い起こすことができるし、僕にとってはその時代は過去ではない。でも年月の流れは非情で、あっという間にあらゆる大事件や物事を過去のものに変えていってしまう。でも今回演奏された2017年の「ERA」はノスタルジアではなく、2017年を生き抜くための「ERA」として僕には感じられた。もちろんそれは「僕にとっては」という限定がつく感想であるかもしれないけれども。コンサートが終わった後の寒空の新小岩界隈を歩いている間、僕の頭の中では2017年の「ERA」と2000年の「ERA」が混ざり合いながらずっと鳴り響いていた。
2017.03.10
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90年代前半ほど、自由が叫ばれたときはなかった。その当時フリーターは差別用語ではなくて、新しい雇用のあり方としてそれなりに市民権を持っていた。フリーター亡国論が言われるようになったのは96年ごろからだったと記憶している。政治の世界でも「規制緩和」がよく話題に上がった。規制をなくすことはつまりそれだけ自由に動ける余地ができる。それは経済の世界でも重視されるようになった。それに関連するように新卒採用での仕事探しでも、「自分が本当にやりたいこと」を重視すべきだという意見が非常に多かった気がする。「自由」という言葉はマジックワードであり、その頃に尊重された価値だった。しかしそれは何よりも重い価値だったのだろうか。あるいはその頃言われていた「自由」を僕らは額面通りに受け取るべきものだったのだろうか。自分を縛り付けている規制が外され自由になると、自由になった分だけ選択肢が増える。選択肢が増えるということは諦めなければいけない選択肢がまた増えるということだ。それはプラスの面もあるけれど、別の大きな悩みを生み出してしまう。それはたった一つのライフコースしか選べない世の中だったら感じることもなかった種類の悩みや後悔が、また増えてしまうということだ。選択肢が増えたとしても、自分は数ある選択肢のうち、ある一つの選択肢しか生き方として選ぶことができない。そうすると、どの生き方を選んだとしても、必ずその「選択」が正しかったのか考えたり後悔したりする余地が生まれてしまう。その道を選んで何がしかのことを成し遂げた人はそれでいいが、人は大抵どの道を選んだとしてもうまくいかないときが多い。そうすると自分がその道を選んだのが失敗だったのではないかと後悔したりする。だとしても、その後悔は取り返しがつかないものだし、どの道を選んだとしてもなくなることがないものだ。クライドが言った「ブタの自由」ではない本当の自由とはどんなものだろうか。自分の人生について何のしがらみもなく、すべてを自分で決定できる自由。自分がしたいことを規制する全てのことからの自由。自分の信条を誰かからではなく、自分で決定できる自由。それはまるで荒野の中で立っているような「自由」だ。フリーターが社会問題となる前によく肯定的に語られた言葉に「夢追い型フリーター」というものがあった。自分にはやりたいことがあり、そのやりたいことを選択すると会社勤めが制約になるから、フリーターになる。何もやりたいことがないから普通に会社員になる。それよりも夢追い型フリーターの方がなんとなくかっこいい。そういう風潮がその頃にはあった。また会社勤めの人も、自己実現を可能にする環境を整備するためにはフリーランスに近い雇用形態の方が時代に合っている。そんな今からすると怪しげな自由をめぐる話がその頃にはまことしやかにささやかれていた。そうした自由はたしかに「ブタの自由」より尊いかもしれない。でもその自由は誰にでも開かれているものなのだろうか。自分の生き方全てを全て自己決定する自由。それは逆に言うと、自分が選択した人生につきまとう全ての失敗を自分でどうにかしなければならないということだ。先の文脈だと「夢追い型フリーター」を選んだら、それに付随する全ての失敗や不利益を自分で責任をもって処理をするということだ。夢を追う生き方をした人々のうち、才能のある何パーセントかの人間は夢の実現なり成功なりを実現できるだろう。問題は残りの何十パーセントをしめる才能がそれほどなかった人々たちだ。まだ未来に少しでも可能性があり得るならまだ現実から逃げることができるかもしれない。だとしてもそんな期間はそれほど長くは続かない。夢の実現可能性は年齢を重ねていくうちにだんだん少なくなっていく。そのときに残されるのは今まで何とかやり過ごしていた現実問題だ。結婚、老後の生活、現在の貧しい生活、社会的な上昇可能性の減退、不安定な雇用…。その時になって「ブタの自由」の方が楽に生きられたかもしれないと気がついてももう既に遅い。自分にとって邪魔でしかないと思っていた「規制」が実は自分を守るために作られていた仕組みだったことに気づく。「規制」はもし自分に才能がなかった時でも、それなりに小市民的な生活ができるための仕組みだったことに気づく。そのとき「自由」という言葉の価値はどこかに消えてしまう。さよく的な思考は、それに影響されて人生を選択した人々が老いていき、その失敗例がだんだん増えて明らかになるにつれて、徐々に破たんしていく。真島はファーストアルバムの収録曲「ルーレット」の中でこう歌っている。「オレたちは似ていたよ 二人とも自由が好きだった それにつきまとう 請求書も割り勘にしてた」そのように歌う真島は「自由」の本当の恐ろしさを実感していたのであろう。それでも真島は自由は尊い価値のあるものだと歌った。それは若さの表れであるように思える。若いからこそ自由に耐えられるだけのパワーがあり、若いからこそ未来の可能性にかけることができる。別に真島のことを非難したくてこの文章を書いたのではない。僕の印象論でしかないけれど、90年代前半に比べると2015年のサブカルやロックは違ったものに見えてしまう。それはもしかしたら90年代のさよく的な考え方が、多くの失敗例に直面して破綻してしまったせいではないだろうか。そんなことを考えたくなるほど、最近のロックは特に激変してしまったように思える。僕自身のことを言及しておこう。僕自身はもう若さを失ったし、その頃から比べるとだいぶ保守化してしまった。僕にはもう自由が最大の価値だと言い切れる確信を持ち合わせていない。そんな僕を90年代のさよく的な思考に入り浸っていた昔の僕は嘲笑するのだろうか。あるいは保守化した僕が昔に戻って、90年代のさよく的思考の恐ろしさを力説してもその頃の僕には文字通りの「馬の耳に念仏」でしかないのだろうか。CD-OFFSALE!【送料無料】真島昌利/RAW LIFE -Revisited- 【CD】
2015.11.29
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時代の空気という言葉がある。その時代を覆っていた人々の集合的な気分と言えばよいのだろうか。2015年の時代的な気分があるように、1990年代にも時代の気分とでもいうようなものがあった。「今と比べると」という比較でしかないけれど、その頃は今よりも解放的で自由なものだったと思う。例えば1989年ごろに昭和天皇が崩御されたが、その際に起きた「自粛ムード」を茶化してしまう漫画だとか歌だとかを発表できる余裕とでもいうものがその頃にはあった。あるいは広瀬隆の原発言説を茶化してしまえる余裕がその頃のサブカルと呼ばれる分野にもあった。僕はその頃の音楽にどっぷり漬かっていた人間だから、その頃の音楽が表している気分を今でも思い出すことができる。それは一言でいうと自由と解放への意思ではないかと思う。80年代から少なくとも90年代前半にかけての日本は学歴社会であると言われていた。いい学校いい大学いい会社というレールに乗れば一生は安泰。だけどそれは最終的には会社人間となって何かに従属しているかのような人生で、その行き先を簡単に想像することができる一直線のレールに乗って生きているかのような退屈なものだ。そんなある種の息苦しさの裏返しとして「自由と解放への意思」を持った音楽が流行した。あるいは、僕が聞いていたロックというジャンルの音楽では「自由と解放への意思」を持ったものが大多数だった。そうした雰囲気を背景にして、ザ・タイマーズのようなバンドが支持を受けた。そのような過激なメッセージを持たなかったバンドでも、例えばジギーならborn to be free 自由になるために生まれたと歌ったし、BOOWYなら「マリオネット」という曲の中で、「鏡の中のマリオネット 自分のために踊りな」と歌った。その頃のロックを覆っていた時代的な気分は、本当に気分としか名付けようのないもので、ある体系を持った思想として共有されたものとまでは言えない。漠然としているけれどその空気なり雰囲気は「リベラル」なものだった。そうしたリベラルな雰囲気をとりあえずここでは「さよく的」と命名しておこう。そうした「さよく的」な雰囲気を象徴するような名盤がその時期に作られていた。例えばザ・グルヴァーズの「ロックンロール90」や、佐野元春の「sweet 16」やニューエストモデルの「ユニバーサルインベーダー」など。ここで取り上げる真島昌利の「raw life」というアルバムもその頃のさよく的な空気を反映したものだった。「raw life」というアルバムは真島昌利のソロアルバムの中で、そのサウンドがロック的なアルバムだとしてよく知られている。しかしその「ロック的」なサウンドはブルーハーツのものとは違っている。その違いは真島昌利があえてソロアルバムでロック的なサウンドを演奏するという意味を考え抜いた先にあったものなのだろうと僕は思う。サウンドだけでなく、このアルバムに収録されている曲の歌詞も「考え抜いた」ものという印象がつよい。その歌詞は、ひねりが効いていて、多くの含意が含まれている。「raw life」は真島昌利がその当時にできた音楽的、文学的な可能性をとことんまで追求したアルバムであると言っていい。だからこそそのアルバムはその時代の空気なり雰囲気を非常に良質な形で収めている。このアルバムから漂ってくる空気はその頃のさよく的な意識や、自由と解放への意思だ。自由への意思は冒頭の「raw life」という曲にも表れている。自分がやりたい「ロック」という音楽は、いろいろな人があれこれ言っているものと違ってもっと自由であるべきだ。かっこいいとは言えない日常生活の一断面であっても、あるいはどんな「ロック的」でない場所で生活していようとも、自分が行っているのは何よりもロックなのだ。この曲はそんなマニフェストである。「go go ヘドロマン」に代表される曲はわざと「良識的」な見解を茶化したものだ。その頃盛り上がっていた環境保護という正義に対して皮肉をぶつけた曲である。環境保護ということに彼が反対しているのではなく、環境保護というものが絶対的な正義として唱えれていることについての違和感をここで表明している。そんな真島にとって「こちら側」の曲もあれば、「あちら側」の例えば雇用人の生き方を選んだ人々についての曲もある。「情報時代の野蛮人」や「煙突のある街」がそうだ。これらの曲が優れているのは、「あちら側」の人々を非難する内容ではないこと、真島に「あちら側」のどうしようもない事情を考えることができる想像力があるというところにある。「情報時代の野蛮人」は「あちら側」の人々の方向性に寄り添った歌でありながら、その持続性を問いかけている。思いつくだけで羅列してしまったが、こうしてみただけでこのアルバムに収められている曲の表現の質の高度さや含意の深さはわかっていただけると思う。このアルバムに収められている曲全てがレビューする価値のある名曲ばかりであるが、今回は「こんなもんじゃない」という曲を特にピックアップして考えていきたい。なぜ「こんなもんじゃない」なのかというと、「raw life」というアルバム事実上の最終曲であり(実際は冒頭曲のリプライズとボーナストラックがあと2曲収録されている)、そしてこのアルバムの最高潮とでもいうべき曲がこの曲であること。もう一つは、この曲がこの時代のさよく的な空気とそれが導くライフスタイルや考え方を最高の形で歌にしたものだと思えるからだ。「今夜ボニーとクライドが 僕の部屋にやってくる」という一節から始まるこの曲は真島らしい文学性と様々な含意と警句 にみちている。「もっと人は自由なのだ」とか「目がくらむほど何かを信じることは 時に自由をおびやかす」といった歌詞から読み取れるのはこの曲が「自由」について歌っていること、「自由」がこの曲では大きな価値をもってうたわれていることだ。そしてその「自由」についてクライドが自分の見解を述べる。「ブタの自由に慣れてはいけない もっと人は自由なのだ」と。そこで語られる自由は、例えば学校の自由時間だとか会社が明日休みだから今晩は自由だとか、そういう「自由」とは別のものだ。そしてこの見解を述べたクライドという人物は多分「俺たちに明日はない」という映画のボニーとクライドだと思われる。そこでの「自由」はしがらみだとか自分の人生を規制または限定するものすべてからの「自由」であろう。そうした自由が価値のあるものとして歌われている。そうした見解をはさんで、この曲は「こんなもんじゃない」というリフレインが耳に残る。そして「こんなもんじゃない」と指示されている対象は明示されていない。自由に関する様々な見解について「こんなもんじゃない」と歌っているのか。自分が昔思い描いていた理想と現実のギャップが「こんなもんじゃない」なのか。あるいは夢想主義者として、現実に満足することをよしとしない姿勢の表れとして「こんなもんじゃない」なのか。そうした様々な解釈が可能なフレーズとして「こんなもんじゃない」という否定の言葉が印象に残る。今二つ挙げた「自由」と「こんなもんじゃない」という言葉。それは聞く人に自由や人生について考えを迫る。その方向性はもっと自由をという希求の願いや、今の現実のままでは自分は満足できないという未来志向の考え方だ。それはその頃の時代的な気分だった「さよく的」心情をより深く考察したものだともいえる。そうした姿勢の行き先には何が待っているのだろうか。俺たちに明日はない 【WARNER THE BEST ¥1500】 【DVD】CD-OFFSALE!【送料無料】真島昌利/RAW LIFE -Revisited- 【CD】
2015.11.28
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自分も年を取ったのだなと思う瞬間が最近多い。例えば若い人たちが絶賛する音楽を聞いても何がよいのか全く理解できないとき。あるいは仕事で、昔は不条理なことがあると怒ったりしていたのに、最近では「まぁこんなもんだろう」とあきらめが先に立って全く怒る気にもならないとき。そういえば今年のフジロックフェスティバルもライブが終わると夜遊びする気力もなく、そのまま寝場所に直行してしまった。やっぱりそれだけパワーダウンしたのだろうと、認めたくはないけど認めざるを得ない。ここ最近「絶好調」ということがなく、どこかしら不調な僕だけれど、ヒロトとマーシーはどうなのだろう。僕よりも何歳も年上の彼らはとってもハイテンションだ。衰えた感じが全くない。この日のライブもいつもと同じようにライブでの注意を呼びかける前説の人がステージを去ると、すぐに客電が落ちた。それと同時に大歓声が沸く。いつもと同じように気合の入ったクロマニヨンズの面々。その中にいるヒロトを見て、一瞬だけ約26年前の渋谷公会堂を思い出した。僕が初めて行ったブルーハーツのコンサート。その時の感動を今でも忘れずに覚えている。ほんの10年前くらいの出来事のように。あの頃のヒロトと今のヒロト。ある面では変わっていて、ある面では変わっていない気がする。もう青少年代表ではないヒロトだけれども、ロックンロールが好きな気持ちはあの頃からから全く変わっていない。だから新作もロックンロールでモノラルレコーディングで、ライブは大音響のスーパーハイテンションがさく裂したような音楽だ。ライブの冒頭の6~7曲目は新作の「ジャングル9」からの曲だった。どの曲もざらざらした感じのロックンロールとしか言いようがない音楽で、部屋の中のオーディオやiPodで聞くよりもライブの方が素晴らしく感じる。ハイテンションなロックンロールを転がし続けるクロマニヨンズを見て、僕は思ってしまう。なぜ彼らはこんなにハイテンションでいられるのだろう。ギッシリとつまったライブツアーの予定をみていると、ものすごいエネルギーを消費するだろうと思う。そんな彼らは落ち込んだりしたりしないのだろうか。表現活動は自分を削るような作業なのだろうと思う。それは自分を消耗させる。だけど彼らはそんなことをおくびにも出さない。本当にプロフェッショナルなロックンローラーだ。たまに落ち込んだり上がったりと、アップダウンが多い僕なんかはそんな彼らをそれだけで尊敬してしまう。一旦ステージを小休止させたあとで、ヒロトは「ジャングル9」以外の曲も演奏しますと言った。その最初の曲が確かグリセリンクイーン。やれることは何でもやってしまう 毎秒が伝説その歌詞は彼らの軌跡そのものだ。彼らには「今」しかない。「今」が現実で「今」が一番大切なとき。僕らは彼らにブルーハーツやハイロウズを求めない。「リンダリンダ」や「終わらない歌」をあるいは「千年メダル」や「ハスキー」を求めない。「今」を超高速で突破すること。彼らはそのスピードにすべてをかけている。そんな気がしてしまう。そんな彼らをみて思う。まだ老いるには早すぎる。もう少し悪あがきをしてみようか。勝つとか負けるとか関係なく、もうちょっと自分にできる限りでもいいから前に進んでみようか。その日も演奏してくれた「エイトビート」は僕にとってはアンセムだ。ただ生きる 生きてやる呼吸を止めてなるものかエイトビート エイトビート13歳の時モノラルのラジカセで初めてビートルズの赤盤を聞いたときから、僕の人生は始まった。それからそんなにかっこよく生きることなんてできなかった。どちらかというとかっこ悪いことばかりの人生だったと思う。だけどエイトビートが鳴り響いているあいだは、呼吸を止めるわけにはいかない。それがかっこいいとかかっこ悪いとか、そんなことはどうでもいい。それがビートルズやブルーハーツを聞いて長い時間が経ってしまった僕の、最後のロックンロールへの返答。中入りの後、また「ジャングル9」の曲を演奏する。テンポが速い曲を多かった気がする。流れのいいステージ構成だ。そしてヒロトの「最後までぶっ飛ばします」のMCのあと、「今夜ロックンロールに殺されたい」。それから本当にスパークの火花のようにライブは進んでいった。その時に演奏した「エルビス(仮)」。それはもう既にあと数十年歴史に残るロックンロールクラシックにすら感じられる。今だけ 今だけある人がこんなことを言っていた。未来が期待されているうちは若者で、現在が評価されている人は大人で、過去が評価される人は老人だ。19歳でプロ野球をやめた野球選手は(野球以外に何も才能がなければ)もう老人だ。と。それに当てはめるとブルーハーツの音楽が若者の音楽で、ハイロウズやクロマニヨンズの音楽は大人の音楽だ。彼らはロックンロールを大人にするという最も難しいことを彼らなりの方法で実現してしまった、そんな奇跡的な存在なのだ。そんな彼らをみて僕は思う。僕はまるで若者から突然老人にまで老いてしまったかのようだと。若者に戻るのは嫌だけれど、できれば老人から大人に若返らなければならないと。そしてまた悪あがきをしてみよう。明日から。そんなことをライブが終わってからフッと思った。【メール便送料無料】ザ・クロマニヨンズ / JUNGLE 9[CD]【J2015/10/21発売】
2015.11.13
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今日の苗場は晴れ渡っていた。吹いてくる風は心地よくて暑すぎることも寒すぎることもなく、最高のフェスティバル日和だった。僕はフジロックフェスティバルの一番大きなステージであるグリーンステージの前あたりに立って次のバンドが出てくるのを待っていた。慌ただしくステージをセットしているクルーたち。その様子を見ながら僕はそこで待っていた。ステージの準備中もバックミュージックとして音楽が流れている。次のバンドの趣味なのかどうかはわからないけれど、どっちかというと60年代のクラシックロックが多く流されていた。僕はそれを聞きながら特に何を考えるでもなく、ぼんやりとそこで待っていた。そのとき、突然完璧な三声和音でその曲が流れた。彼は本当にどこでもない人どこでもない場所に座り込み誰のためでもなくどこへも行けない計画を練っているその曲はいつも以上に僕の心に響き渡った。僕が初めて自分のお金で買ったレコードはビートルズの『ラバーソウル』。そこに収められている素晴らしい曲の一つ。僕が初めてその曲を聴いた十四歳のときはそれくらいのことでしかなかった。だけど、今になって思う。この曲はまるでこれまでの僕の人生の主題歌みたいなものではないだろうかと。何の見解も持ち合わせずどこへ行くかもわからない僕や君とちょっとだけ似ていないかな僕は本当にどこでもない人だった。いつでも、どこにいても、そこが僕にとっての居場所であるという実感がなかった。今いる場所が僕にとって大切な場所である。そういうことを思ったことがなく、いつでもどこにいても「ここではないどこか」を夢みていた。ここではないどこかでは僕は何者かの人間で、自分が夢みている何もかもが実現できていて僕はそこでなら本当の居場所を見つけることができる。そんな今にすると馬鹿げた空想を本気で追い求め、夢見ていた。思い込みが激しい思春期や青年期を経て、それなりに「大人」と呼ばれる時が来てもその空想は形を変えて存在し続けていた。この会社でないどこかで仕事をしている僕は今より輝いていて、働き甲斐のある素晴らしい毎日を充実して過ごしている。だから今いる僕は何かが間違っていて「本当の」僕はここではないどこかに存在しているべきだ。そんな僕が現実の世界の中で初めて居場所を与えてくれたのがフジロックフェスティバルだった。初めてフジロックが苗場で開催されたとき、そこにいた僕は本当の居場所を与えられたと感じた。正しい場所で正しいことを自分はしている。そんな肯定感に満ちた感情を僕はその場所に来た時、初めて感じた。それから僕にとって、フジロックフェスティバルの苗場は自分が帰ってくるべきホームグラウンドになった。だから僕は僕はどんどんとフジロックの「夢」や「理想」にのめりこんでいった。だけど。僕は今になると思う。もしフジロックの「夢」や「理想」が大切なら、自分が大半の時間を過ごす日常生活でそれを実現させなければだめだったのだと。僕は確かにフジロックの夢や理想にのめりこんでいた。でもそれは単なる僕の思い込みの世界だけであって、日常生活をフジロックの理想に近づけるために改善したりしようとか、よりよい日常生活を実現しようという努力を全くしなかった。つまりはフジロックフェスティバルは僕にとっての逃げ場所でしかなかった。不毛でどうしようもない自分を忘れるための単なるパーティー。日常生活を忘れるためのお祭り騒ぎ。それを自分で自覚して、そういうものだと割り切って楽しんでいるならまだいい。それを僕は完全に勘違いしていた。フジロックはそれ以上の、現実を変えるための大きなもの。僕はそう勘違いしてしまった。そんな勘違いはそのうち破たんする。僕の場合は10年近くの時間をかけてその矛盾が破綻した。ある時僕は気づかされてしまった。フジロック以外の僕の生活は本当にクズのようなもので、何一つ成果をあげられていないどうしようもないものだということを。僕が17歳の時に当然得ているだろうと思っていたことも、何一つ実現できていない。何しろ結婚も、安定した職業生活も、生活していくうえで十二分の月収も、夢を実現するための手立ても、何一つ実現できていない。現実の僕は本当にどうでもいい世界にいるどうしようもない人間の一人だ。そんな事実に気づかされてしまった。それから僕はまた「どこでもない人」に戻ってしまった。どこでもない場所でどこへも行けないプランを練っていた結果が今の僕だ。それは誰のせいにもできない。フジロックが悪いのでもなく、時代が悪いのでもなく、多分僕自身がダメだったから起きたことだ。その事実は僕をひどくがっかりさせた。どこでもない人よどうか聞いておくれ君は何を失っているのかわかっていないどこでもない人よ世界は君の思うがままなのさいつになく心の中に響き渡るnowhere manを聞きながら僕はそんなことを思い出していた。この曲が自分の人生の主題歌になるなんて何だか情けない話だな。例えばI Feel Fineだとか、She's a Womanとか、もっとかっこいい曲が僕の人生の主題歌になればよかったのに。そんなことを思った時に彼女の声がした。「久しぶり。最後に会ったの3年前だったっけ。」お久しぶり。ここで会うことができて本当にうれしいよ。僕は言った。彼女はフジロックの会場でしか会うことができないフジロック友達だ。僕は埼玉県に住んでいるし、彼女は福岡県に住んでいる。距離が邪魔をして僕らは頻繁に会うことができない。僕はステージに現れるアーティストともに彼女の訪れを待っていた。僕らは三年分の話をした。自分たちの近況だとか、知り合いの消息だとか。彼女は結婚している。旦那さんとは時々喧嘩もするけど、それなりにうまくやっているよ。そう言って笑っていた。あなたはどう?なんか少し前すごく荒れていたみたいだけれど、転職とかしたの?いや。転職はしなかった。この年齢になると社員になること自体が大変だし、今の僕だと多分どこへ行っても同じだよ。それだったらこの会社で与えられた仕事をそれなりにこなして踏ん張っていた方がいいんじゃないかなと思ってね。人事評価は知らないけど、最近の成績はそれなりに持ち直しているよ。一時期みたいに最下位を半年続けているみたいな最悪の状態はなくなった。真ん中から時々トップになったり。基本的に真ん中からちょっと上程度で持続するというのを目標にして毎日を過ごしているよ。それはよかった。ずいぶん丸くなったね。彼女は笑った。最近もまだ書いているの?賞をもらって鳴り物入りデビューとかまだ考えているの?最近は文章を書いていないんだ。何か今まで書いた文章がすごく嫌でさ。なんて言うのだろう。すごく自分の中の毒気を感じるんだ。それが自分の文章を汚しているというのか、そんな感じ。だからしばらく書くのはやめにしている。また何か書きたくなったら書き始めるよ。たぶんそれが自分の宿命みたいなものだから。入賞とか何だとか、もうどっちでもよくなってきてね。それが起こったところで自分の何が変わるんだろう。何も変わらないよね。あなたも年をとったのね。成長したというより年を取ったって感じ。私もそうだけどある年齢以上年を取ったら「成長」できなくなるよね。毎年、年を重ねるという感じ。だけどもう。私たちもそういう年になったんだね。少ししんみりとした話になった時、ステージの音楽が止まり、歓声が沸き起こった。あっ。始まった。前の方に行こう。僕は彼女と一緒に前の方に移動した。そしてバンドの演奏が始まった。ステージ前では熱狂が始まっている。フジロックならではの盛り上がり。ここでしか感じられないような特別な空気。僕らは踊った。いつもフジロックの会場でそうしているように。ライブの時にいつもそうしているように。このダンスが終わる前に君にまた恋してしまいそう君とダンスしているときが幸せなんだキスしたり手を握ったりしたいわけじゃないんだちょっと可笑しいかもしれないけどわかってくれるよね僕がしたいことは他にはないのさ君とダンスしているときが幸せなんだこのダンスが終わるとき、僕らに何が起こるだろう。何も起こらない。僕らは今までの僕らどうしでしかないし、世界も変わることがない。だから僕はずっと一人でダンスを続けていたいと思っていた。ダンスが終わらなければ僕は変わらない世界を嘆く必要もないし、夢を永遠に見続けることができる。だけどダンスは終わらなければならないし、音楽も必ず終わる。音楽が終わった朝5時のダンスフロアで僕は何を見ていたのだろう。ライブが終わったライブハウスの片隅で僕は何を夢想し続けていたのだろう。永遠に覚めることのない至高の愛。理想が実現された完全に近い社会。権力の抑圧のない素晴らしき自由。何も欠けていることがない完璧な幸福。若いころに夢見ていた美しき自己実現。そんなものは存在しない。今いる僕の世界の中では。だからこそ僕は「ここではないどこか」をずっと夢想し続けていた。でも夢想はもう終わりだ。僕がいる世界は「今ここ」の世界で、「どこでもない場所」ではない。僕が生きるべき世界は「今ここ」の日常生活の中で、その中で自分の居場所なり、それなりの何かをつかみ取らなければ何の解決にもならない。そしてパーティーも祭りも終わった。きっとそのうち。あと十数年もしたらフジロックフェスティバルも終わってしまう。でもその時が来ても僕は大丈夫だろう。フジロックの夢や理想で自分の人生を粉飾するのはもうやめた。フジロックフェスティバルが終わっても僕はそれなりに生きていくのだろう。思い出に浸りたければDVDでもYouTubeでも何だってある。僕らのお目当てにしていた曲をバンドが一番最初に演奏してくれた。僕らは歓声を上げた。周りの熱気もすでに最高潮に達している。一曲目にあの曲をやってくれるなんて、最高だよね。僕らは高揚した気分で興奮を分かち合った。このライブも今年のフジロックも終わるときが必ず来る。それだからこそ僕らは今のこの高揚を大切に分かち合いたいと思った。暑すぎずもなく、さわやかな風が吹くホワイトステージ。苗場は最高のフェスティバル日和だった。そしてこの場所で、今ここで、小さくて大きな出来事がすぐそこで続いていた。【楽天ブックスならいつでも送料無料】ラバー・ソウル [ ザ・ビートルズ ]
2015.04.17
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フラッテリーズというバンドがイギリスにいる。デビューアルバムは「costello music」というタイトルのアルバムだった。確か2006年くらいにデビューした。そのデビュー時の彼らのインフォメーションとして、彼らは英国中のライブハウス全てのトイレを知っているという噂があった。CDデビュー以前から全国のライブハウスを地道に回って活動し続け、そうした活動の中で名を知られた叩き上げのバンドだった。そのデビュー時の代表曲は「chelsea dagger」。この曲は名曲で、これが収録されている彼らのデビューアルバムはこの一曲のために買っても損はない。そう言いたくなってしまう。「costello music」はもちろん「chelsea dagger」以外の曲も魅力的で名盤だ。でもあまりにも「chelsea dagger」のイメージが強烈過ぎて、それが彼らのイメージを決定してしまったところもある。「chelsea dagger」は強烈なパーティーアンセム。イントロを聞いただけで体が反応してしまうようなパーティーロック。色々考え込んでうつむきながらギターを弾いていても何にもならないじゃない。それよりも今日の夜は何も考えずに歌って踊って騒ごうぜ。ライブハウス叩き上げのバンドであることや、その楽しいデビューアルバムを聞いて、彼らはそんなバンドだと思った。2007年にフラッテリーズはサマーソニックで来日した。そのときフラッテリーズを生で見たのだけれど、印象が違った。意外とメンバーはシャイな感じで、あまりMCも派手なこともせず、曲勝負という感じのストイックなステージだった。盛り上がるためなら何でもする。たとえロックでなくてもあっても何でもいいや。そんな無責任さがなかった。そんなストイックさが出たのか、セカンドアルバムは何か中途半端な印象が残ったアルバムだった。ファーストの頃の勢いがなく、曲もフラッテリーズらしい魅力に欠けている。そしてセカンドアルバムをリリースしてからしばらくして、彼らは活動を休止してしまう。そんなバンド活動休止を経て、フラッテリーズはまた戻ってきた。「we need medeicine」というニューアルバムを2013年になって発表したのだ。アルバムは「haloween blues」で始まる。この一曲を聞くとフラッテリーズは戻ってきたのだとわかる。どちらかというとマニア受けになりそうなストイックな音楽的要素をポップで勢いがあってわかりやすく、彼ららしい演奏をしている。今まで色々なことがあって、長いようで短いときを経て、色々なものを捨てたり吸収したりしながら辿り着いた2013年の彼らの音。聞いていて、よいアルバムだと思った。そしてラスト近くになって突然シリアスで切ないメロディーが始まった。彼らからこんな心情告白が出てくるとは思ってもみなかった。「rock'n'roll will break your heart」あなたが誰だかわからないし どうだったのかなんてどうでもいいこの死んだビートの魂を 彼らから盗んだ心はそのままに彼らが仮面で語った全ての嘘彼らは君から独りぼっちの時間を得て 世界は僕らのものだと思わせた聖なるローラーのサインがあって彼女が僕のものになるチャンスはない 充たすべき十代の夢はない僕の心を傷つけておくれ 僕がわかっているように僕らはこの街角で打ち崩れて 後部座席でひとり眠る連なるソウルパレードの合間に 僕らがした全ての妬ましい会話僕は月に撃たれて 「全ての盗人やまがいものたちとぶつかって」と泣いたひとりだあなたが気にしないならそれらの言葉を受け止めて そして 焼き捨てて愛しい人 こんな夜は僕のため 僕が待ち望んでいたものよりも遥かに遠いけれど始めからあなたは言っていた ロックンロールは君の心を傷つけるだろう僕が初めてビートルズを知ったとき、それは本当のことだと思った。これから先にこんなにも素晴らしい愛だとか世界だとかが待っていて、それが絶対に叶うものなのだと思った。でも17歳くらいになって気づいた。それは嘘だということに。愛こそは全て。teenage wasteland。さよならルービーチューズデイ。ダーリン 僕のそばにいて。転がる石のように。愛だけが僕の心を傷つける。ロックンロールスイサイド。色々な美しい言葉。歌。愛とか希望とか怒りとか夢だとか理想だとか。そういうものはほとんどが嘘でできていて、現実の愛は不毛であることが多かったりするし、現実の世界はそんなに美しいものばかりではない。それがわかってからも僕はその嘘を求め続けた。どんなに実らない恋に絶望して打ち砕かれても、夢の中でまどろんでいれば何とか救われた。どれほどくだらない現実でくだらない処世術を披露しなければならなくても、夢の中では「君は美しい」と言ってもらえた。でも所詮嘘だ。それはそのうち効かなくなるし、夢の中に逃避することは先延ばしでしかない。だったらロックンロールなんかに出会わなかったほうがよかったのだろうか。ロックンロールがなければもっと楽だったかもしれない。その美しい世界に惑わされなければ現実の中に埋もれて楽に過ごせたかもしれない。だとしても。僕はロックンロールに出会えてよかったと思う。もしロックンロールに出会えなかったら、自分が今いる瞬間の切なさに気づけなかっただろうと思う。突然出会った音楽に撃たれる瞬間の重さ。必ず終わりがあるパーティー会場での刹那な時間の重さ。それは多分ロックンロールに出会わなかったら絶対に気づくことができなかったものだ。その時間の重さを僕は知っている。それが何であれ。それがどのようなものであれ。ロックンロールは僕の心を傷つけるかもしれない。だけどもそれでも構わない。今感じていること。それが全てで、それが今の真実。ロックンロールは君の心を傷つけるだろう。その切ない音楽の響きで、また僕は生き延ばさせられてしまった。コステロ・ミュージック 【高音質SHM-CD】 / ザ・フラテリス The Fratellis【送料無料】【送料無料】【輸入盤】We Need Medicine [ Fratellis ]
2013.12.07
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「ビートチャイルド」とは、1987年8月に熊本県の阿蘇山の高原地帯で開催されたロックフェスティバルなのだそうだ。動員数は約7万人と推測され、多分この頃に行なわれたフェスでは最大規模のものではないだろうか。1987年当時、僕は16歳だったが、このフェスについては今に至るまで全く知らなかった。僕はその頃洋楽を主に聞いていたので、その当時は日本のロックについて全く知らなかった。僕が邦楽のロックを聞き始めるきっかけとなったブルーハーツとの衝撃的な出会いは1987年の秋だった。そういうわけだから、僕が「ビートチャイルド」というフェスについて知らなかったことはそんなに不自然なことではない。そのフェスについての記録映画が最近公開された。「ベイビー 大丈夫か beat child 1987」という映画だ。特別興行ということで当日券が2500円と高額であったが、感想としてはそれだけのお金を払ってでも見に行ったかいがあったというものだった。冒頭で雨に濡れる観客席がまず映し出され、そのあと(多分)前日のアーティストたちのリハーサル風景が映し出される。開放的な高原の空気の中、とてもリラックスしながらリハーサルをしているのがわかる。これは僕の想像だが、このフェスを主催した人はこのフェスをこんな感じで主催したのではないだろうか。夕方から始まって朝まで、一日中ロック漬けで盛り上がりながら、楽しい時間を何万人ものお客さんと一緒に共有できればいい。しかし、開場してから数時間後にこのフェスは大きな試練にぶち当たる。フジロック第一回目と同じく、雨だ。この映画の映像を見た感じではかなりの大雨であるように見える。スコールとか集中豪雨といっても大げさではないだろう。これと同じ程度の雨量と時間の集中豪雨は僕もまだ経験したことがない。僕がフェスで想定している雨天用の重装備でもここで一晩過ごすのはかなりきつかったのではないだろうか。阿蘇山の高原であるということを考えるとこの雨は相当寒かっただろうし、凍えてしまう恐怖を感じたお客さんもいたのではないだろうか。このような荒天から始まったフェスであるが、多分フェスの主催者も参加したお客さんもこの豪雨を想定していなかった。そういわざるを得ない。薄着で雨に濡らされ震えながら立ちすくむ客。こうした豪雨には全く対応できない軽装備で何とか雨をしのごうとしている客。そうした姿がカメラで映し出される。そしてステージのセッティングもこの集中豪雨を想定していなかった。ステージには屋根がなかったみたいで、演奏している人々にも凄まじい雨が降りかかってくる。こんな状態でよく感電事故が起きなかった。それが幸運なことのように思えるほどだ。このフェスになぜ7万人もの人々が来たのか。それはこのフェスに登場するミュージシャンを見ればわかる気がする。ブルーハーツをトップバッターに、レッドウォーリアーズ、BOOWY、岡村靖幸、白井貴子、尾崎豊、ストリートスライダーズ、ハウンドドッグ、渡辺美里、佐野元春など、まさに1987年の日本のロックシーンの旬な人々が出演しているからだ。このときは1987年。今となっては大物や伝説となったミュージシャンもまさに現役で、明日はどのようなことが起こるかわからなかった。そうしたライブ映像は本当に貴重で、それだけで価値があるものといえる。そして映画では基本的にそのとき出演したアーティストたちの3曲を収録しているという内容だ。ブルーハーツやレッドウォーリアーズが出演したとき小降りになった雨は、再び勢いを増し、そのまま最後の佐野元春のステージまでやむことがなかった。そんな客にとってもアーティストたちにとっても極限状態の中、繰り広げられるライブはすごいとしか言いようがない。少なくとも僕達くらいの世代の人々から見たらそう思える。この映画を見て、本当に地獄見たアーティストは白井貴子だった。そう思った。再び強くなった雨のため1時間半押しで始まった彼女のステージ。曲の途中で突然ギターとベースの音が消えてしまう。楽器が鳴らなくなってしまったのだ。そしてモニターアンプも壊れてしまう。このままでは演奏もままならず、ステージでは白井貴子ひとりが何万人もの観衆の中で対峙することになってしまう。ソロとき思わず出てしまった言葉「ベイビー 大丈夫か」それがこの映画のタイトルになったのだろうと思われる。そうした極限状態だったから生まれてしまった、アーティストたちのライブ。それは本当に鬼気迫るものがあるし、また1987年という時代が生んだ空気を本当に体現していると思う。全体的にみて思ったのは、おのおののバンドのリズム隊がとても強いということだ。それを特に感じたのはBOOWY。氷室と布袋という非常に強力なシンガーとギタリストを支えるリズム隊のタイトさは、後のBOOWYフォロワーと次元が異なっているように思う。そしてバンド全体の演奏も本当に勢いがあり、なぜ彼らが伝説になったのかこの映像で実証されている気がする。レッドウォーリアーズ、ストリートスライダーズ、ブルーハーツ。そうしたバンドはその後のバンドブームのロックに大きな影響を与えたが、その後のフォロワーと格が違うオーラを放っている。逆にそうした破格のバンドイメージがあったからこそ、その後のロックに影響を与えずにはいられなかったのではないか。そしてそのイメージは少なくともこの映画では虚像ではなく、それぞれ実質的な強さを備えていた。好き嫌いはともかく独特の「重さ」を感じる尾崎豊のステージも、初期の貴重な岡村靖幸のステージも貴重な歴史記録だ。そしてこの映画の最後は佐野元春の「サムデイ」で締めくくられる。朝が来て会場が明るくなった場面での「サムデイ」はとても印象深い。一本の映画としてみると、ナレーションがうるさく感じられた。状況を説明するためには最小限のナレーションは必要であったかもしれない。しかしあまりにも説明過剰に思えた。それに感傷的な物言いも嫌な感じがした。それと尾崎豊が中島みゆきをカバーしたような情緒たっぷりな主題歌もあまり感心しなかった。ただそれを差し引いても、1987年当時の日本のロックの記録映画として優れたものだと思う。あれから二十数年もたった。2013年から振り返ってみて「ビートチャイルド」というフェスはどういうものだったといえるだろうか。ある人が「ウッドストック」を評してこんなことをいっていたのを思い出す。ウッドストックは、ロックがこれだけの人々を動員できるビジネスであることを明らかにしたイベントだった。「ビートチャイルド」も日本の「ウッドストック」だったのかもしれない。日本のロックバンドを集めてフェスを実行し、かなりひどいことにはなったけれど興行としては「成功」した。それは日本のロックで何万人もの人々を動員できる「ビジネス」として成り立つ可能性がある。1987年はベビーブーマー先行世代の1971年生まれの僕が16歳になった頃。バンドブームの象徴といわれる「イカ天」が放映されるのが1989年。「ビートチャイルド」に集まった観客達は僕より2~5歳以上年上の人たちだろうが、ベビーブーマーが音楽市場に購買層として入ったとき、ロックはもしかしたら大きな金を産むビジネスになるかもしれない。それをこのフェスはそうした産業の人々に知らせたのではないだろうか。例えば「ロックインジャパン」に行っている若いロックファンには、このアーカイブに納められた記録映像を「リアルロック」とは感じないかもしれない。あるいは能天気な歌にイラッとくるかもしれない。それでいいと思う。何もしなくても時間は経つものだし、僕は確実に年を取った。そしてこうしたアーカイブを懐かしいと思ってしまうくらいになった。そしてそうした歌は僕らにとって等身大な世相の表現だったとも言える。一応宣伝文句では、この映画をDVD化する予定がなく、映画でしか見ることができないとある。この映画に登場しているミュージシャンの顔ぶれを見ると、事務所の関係とか著作権の関係とか色々あるのだろうと想像できる。少なくとも1987年に10代だった人々にとっては、貴重な映画で見る価値がある映画だと思った。
2013.11.01
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愛、平和、協調、理想。それは僕にとって重要なものではなくなった。もっと言えば、それは僕にとって憎しみの対象になった。愛、平和、協調、理想。それを唱える人々をよく見てみればいい。彼らはみんな大切なものを持っている。失うものがあるからこそ、それを主張する。愛、平和、協調、理想。僕はもうそうした絵空事や、誰にも否定できないきれいごとを信じないことにした。戻るべき場所だったフジロックフェスティバルの会場。それは僕にとってもはや帰るべき場所ではなくなった。そこは今では行く場所だ。行きたくなければ行かない。そして今ではもう行きたいと思わない。その途端に僕の今までの人生が大きく反転した。僕は今まで音楽に人生を左右されてきた。だからフジロックの理想だとか、そういうものに浸りきってきた。だけれどもそれは終わった。それは同時に僕にとっての音楽の終わりだった。音楽はもはや僕にとって重要なものではなくなった。だから今まで千枚以上買ったCDとかレコードは全部売り払うことにした。何枚かの一万円札の札束と引き換えに僕の部屋を占領していた音楽関係のソフトは消えた。僕の部屋は空っぽになった。残ったのは空になった棚とオーディオ機械だけ。僕の心の中と同じような空虚だけがそこに残った。独りぼっちの時間も増えた。今まで音楽を聞いていた時間が全部空き時間になった。そこ頃にうまいタイミングでIPODも壊れた。僕に残されたのは大きな空虚と凄まじく広大な心のすきまだった。それは心のすきまというのでは足りなくて、心の欠落とでも言うべきものなのかもしれない。それは全て僕が人生の大きな部分を音楽に託しすぎ、依存しすぎたために起きた過ちでもあった。音楽を取ってしまったら何も残らない僕の人生。僕はそれを大きく悔やんだ。音楽を取ってしまった僕に残された時間は労働時間だけだった。だからそれに自分を没入することにした。日常の雑務に追われ、忙しい忙しいと言っていれば何となく自分の生活が充実しているように見える。だから毎日の労働に自分を没入させることにした。僕にとっての仕事の比重が重くなるほど、なぜか今まで気にならなかったことが気になるようになった。僕はこの職場で何番目くらいなのだ。僕は周りから評価されているのか。会社は僕をどのように思っているのか。僕は周りを気にした。今まではそんなことはあまり考えなかった。もちろん人間関係は重要だけれど、それが世界で一番重要なことだとか、そんなふうに考えたことがなかった。僕が「仕事」に没入するほど、その妙な力みが空回りし始めた。その空回りがますます気になって、仕事の失敗が多くなってきたような気がした。そしてその失敗は僕を大きく失望させた。「何か最近変だぞ」職場の上司から言われた。今までの僕なら絶対しないような失敗や凡ミスが多くなってきた。それに仕事の能率も確実に悪くなってきている。何か変なところに力が入っていて、努力が完全に空回りしている。そんなことを言われた。「最近、お前の様子を見ているとすごくよくない空気を持っているような気がするんだよ。そんな感じでお客さんのところに訪問しても嫌がられるだけだろう。何か悩みでもあるのか?」上司は心配してそう言ってくれた。それはありがたい一言だった。でもそのときの僕はそう受け止めることができなかった。今まで以上に仕事に打ち込んでいるのになぜそんなことを言われなければいけないのだ。オレはすごく努力しているし、よく頑張っているではないか。それなのになぜそんなことを忠告されなければいけない。オレはやっぱりどこへ行っても恵まれていない。仕事が終ると何一つ残っていない空っぽの時間で一人っきりになる。今までそこにはロックンロールスターがいて、夢のような3分間のマジックがあって、僕は独りぼっちではなかった。でも今となっては、それは全てまやかしでしかなくなっていた。今まで僕が音楽を聞いて夢をみていた時間に、普通の人々は色々なことをしていた。例えば愛する伴侶を得るために努力したり、独りぼっちの空虚さをばねにスキルを磨いたり、将来のための投資をしたり。僕はそうしたことをせずに音楽に依存し続け、そして25年後にそれが破綻した。そのショックを和らげようとして仕事を思い出すと、ますます気分が落ち込んでいった。実際、最近は本当に仕事が不調だ。この前はついに、今まで真ん中よりちょっと上で安定していた成績が最下位に落ち込んだ。僕は自己啓発本を何十冊も買って、その空っぽの時間を過ごした。そのポジティブなメッセージに無意識で滅入りながら、そうした自分を変えるチャンスだと誤解して、より大きな空回りをし続けていた。そんな自分をおかしいと考える余裕もなかった。今まで絶妙なバランスで成り立っていた仕事と自分の関係。それはだんだん崩れ始め、僕はますます余裕をなくしていった。そんな僕を上司は心配していた。僕はそのときには全く気づいていなかったけれども。しかし僕を気にかけてくれた上司が異動で別の支社に栄転することになった。それから僕は文字通りに仕事に追い詰められていった。次に来た上司は僕の以前の姿を知らない。僕が、フジロックや音楽を信じていて、それがうまく仕事とバランスしていて、よい方向へ動いていた頃の自分。彼にとって僕は成績最下位をいつまでも続けている出来損ないの社員でしかなかった。たまたま時期が悪くてとかそういうことではなく、始めから成績の悪い部位の属する出来損ないでしかなかった。だから彼は僕を全く評価しなかった。容赦なく僕を怒鳴りつけたりした。お前の代わりは他にもたくさんいるんだ。文句があるならいい成績を上げてみろ。と。僕はそれが気になり、そしてそれを気にするほど、ますます追い込まれていった。ポジティブ思考。今起きていることはあなたにとってのチャンス。山を越えていくことであなたはより大きな成功を手にすることができる。そうした言葉もだんだん効かなくなってきた。何しろ僕は成績最下位を脱出できなくてこうして苦しんでいるのだ。成功者達はいう。山はあった。谷はあった。それを乗り越えたからこそ今の自分がある。それはその通りだろう。彼らはその通りの人生を送ってきた。だけど僕はあなた方とは違う。あなた方が言うとおり成績最下位を乗り越えたら、あなた方が手にしている成功を僕が手にできるというのだろうか。僕は場合は比較にならないほど次元が低すぎる。そんなことが日常になってから僕は酒に逃げるようになっていった。僕のそのときの酒はひどいものだった。もともと酒に弱いたちだから、ちょっと飲んだだけで饒舌になり、あとはわけのわからないことをわめき散らして、用心棒に追い出される。そんなことを繰り返していた。朝、気がついたら顔を腫らしていることもあった。ワイシャツには血がついていた。そしてその腫れた顔で会社に行ったりした。僕の会社での評判はますます悪くなった。上司もそんな僕を毛嫌いしていた。そうやって僕は自分がいる場所をどんどんなくしていった。その日は金曜日だった。翌日が休日だから僕はヤケ酒を飲んだ。最後に覚えているのは何か会社のことだとか、自分の不運を呪うようなことを叫んで周囲の人たちに抑えられている場面だ。そのあとは何をやったか、何があったかわからない。気がついたら、ひどい頭痛と嘔吐感とともにビルのゴミ捨て場で目が覚めた。今日は確か土曜日だったっけ。ゴミ袋を枕にして見上げる夜明けはひどく淋しい明かりにみえた。その淋しい夜明けを見て、僕はフジロック最終日の夜明けの瞬間を思い出した。苗場の夜が明け、永遠に続く土曜日の夜が終わってしまう瞬間。全ての音楽が終わってしまうその瞬間。そういえば、もうそろそろフジロックの出演者が決まる頃だ。今まではそのときの高揚感がたまらなかった。その出演者が苗場のあの空気の中で演奏している風景を想像するだけで何もかもがよかった。でも今となっては何の感情もわかない。チケットは買ってなかった。何もかもが終わってしまったことだったから関係がなかった。約4日間の素晴らしいパーティー。それがあれば何とかやっていける。僕はなぜそんなことを信じられたのだろう。僕の心変わりのせい?それは年月が流れると起こる必然的なこと?僕にとって今まで「帰るべき」所だった苗場。でも今の僕が帰るべき場所は何も残っていない空虚な部屋で、そこには音楽も楽しい雰囲気もなく、ただ独りぼっちのくすぶった空気しかない。僕はなぜ席を立ったのだろう。僕はなぜパーティー会場を出たのだろう。それはかつてなら信じ切れた場所だったはずなのに。パーティーを台無しにしたくないから僕は行くよがっかりしているのを見せるのは嫌なんだ僕の居場所もないし もうそろそろ行ってしまおうもし彼女が来たら もう出たって伝えてよちょっとだけ飲んだし 構わないんだ彼女がいないのに こうしているのはつまらないだろうどうしたっていうんだろう こんなに待っているのに彼女を探しに ちょっと 歩いてみるよ彼女が本当に来ると思っていたの。誰かが待っていると思っていたの。そこで流れる音楽を本気で信じてしまったの。音楽で世界が変えられると思ったの。マジックが起きると信じていたの。今まで裏切られてきた素敵な何かが起きると思っていたの。本当のことをいうと僕はすべてを信じていなかった。あえていえば信じているふりをしただけだ。そうすれば少しは楽しいから。だけどそのうち本気になってしまった。あまりに日常がつらすぎたから。あまりに日常で手にしてきたものが実りのないものになってしまったから。それは全てフェスティバルが悪いのではなく、僕が日常を充実させるための何かをしなかったために起きてしまったことだ。それに気づかされてしまったからパーティー会場を抜け出した。別に「愛、平和、協調、理想」が悪いわけではない。それを日常で実践できなかった自分に気づいたから、パーティーを抜け出した。もうあてのない彷徨で自分をごまかすのはやめにしたほうがいい。たとえそれまでの自分が過ちだったとしても、それを悔いても仕方がない。もう過去は変えられないのだから。そしてパーティーはそのまま続いた方がいい。それで幸せになれる人が確実に存在するのであれば、それは永遠に続いてもいいはずだ。たとえ僕がそこにいられなくなったとしても。僕は頭痛と吐き気でふらふらしながら、そのゴミ捨て場から立ち上がった。そろそろ夜明けから朝に変わる時間だ。「愛、平和、協調、理想」それが自分の人生の中で実現できるかどうかはわからない。だけど自分の過ちで世界を呪っているくらいならたとえそれが誰にも否定のできないきれいごとだとしても信じてみる価値はあるもかもしれない。「愛、平和、協調、理想」もう帰るべき場所ではなくなった苗場の美しい夜明けを思い出しながら僕はそのゴミ捨て場から歩き始めた。【新品CD】 ザ・ビートルズ「ビートルズ・フォー・セール」5月の日記、「あなたが何を得たのか」の続きとして考えられた創作です。
2013.07.11
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晴れ渡った空。時々見える綿菓子のような雲。暑すぎず、寒いこともなく、湿気のない空気が心地よく感じられる。こんなにベストコンディションのフジロックは久しぶりではないだろうか。今年の苗場も去年と、その前の年と、あるいは初めてここに来たときと同じように高揚感にみちている。僕はこの祭りのために今まで生きてきた。だから今日の苗場も最高に楽しいはずだった。ときどき出て行かなくちゃって思うんだベルが鳴る出て行かなければもしそうしなければおかしくなってしまいそう彼女を置いて 行くべきなんだあいつら とってもいいヤツらだからさ会場に着いてからなぜか、The WhoのKids Are Alrightの歌詞が頭から離れなかった。なぜなのかはわからなかった。でも本当はわかっていた。単に気づかないふりをしているだけ。気づくのがとても怖いから、「わかっていること」に気づかないふりをしていた。フジロックフェスティバルで一年に一回しか会うチャンスがない友人達もいる。でも僕は会いに行かないことにした。パーティーを台無しにしたくないから。パーティーを台無しにしたくないから僕は出て行くよ落ち込んでいるのを見せたくはないんだグリーンステージではThe Birthdayが大音響でロックンロールを演奏している。僕は後ろの方でみていた。でも20分くらいでつらくなってしまった。こうして大音響の音楽に晒されているのが、自傷行為のように感じられた。和むのでも癒されるのでも熱狂するのでもなく、単純に自分のハートをずたずたに切り刻む剃刀の刃のようなもの。その日の僕にとってのThe Birthdayはそんな音楽だった。チバのことは知っている。1998年のフジロックでミッシェルガンエレファントをみてからずっと彼の音楽を聴き続けている。2000年のフジロックでのライブもみた。解散ライブも見た。ミッシェルの最後の曲は「世界の終わり」だった。そんな思い出も今は何も意味いがないように思える。グリーンステージの音楽がつらくてたまらなくなったので、僕はそこを逃げ出して山を登っていったところにある「ところ天国」に行った。そこは河原で、いつもなら疲れたときの絶好の休み場所なので、そこにいることにした。ビールも飲んでみたし、いつもならおいしい料理も食べてみた。でもビールはただ苦いだけだったし、料理も全然おいしくない。しばらくするとその河原の近くのホワイトステージから大音響の音楽が聞こえてきた。その音楽は苦しく感じられた。なにかの拷問のように思えた。頼むからその音楽が流れるラジオを切ってくれないか。それは無理な話だ。一日中音楽が絶えない楽園がフジロックフェスティバルの会場。それを望んで、みんなが集まってきたのだから。僕は色々な場所に移動して、音楽が聞こえない場所で休もうとした。僕はひたすら疲れていた。だけどそんな場所がここにあるわけない。日が落ちて苗場の空気が寒くなった頃に、僕はギブアップしてキャンプサイトに戻った。そして風呂に入り、その他の一日の雑事を終えて、テントの中で寝込んでしまった。ダメになってしまったとき誰も君を知らない翌朝目が覚めたのは九時ごろだった。とりあえず起床後の雑事や朝食を済まして、会場へ行こうとした。でも気が進まなかった。行きたくなかった。また音楽が絶えないあの場所に行かなければならないのか。そう思うと気分が落ち込んできた。愛。平和。協調。理想。その言葉はフジロックにふさわしい言葉だ。それを実現しようと日々活動しているNGOを知りたければアヴァロンフィールドに行けばいい。フジロックの3日間で感じたいつもの日常では感じられない理想に満ちた幸福感。それを日常生活に持って帰りましょう。そんな言葉を今まで何回聞いただろう。僕はそれを本気で信じていたのだろうか。今にして思う。なんだかんだ理屈をつけて、いつもの日常ではそれとは逆のことばかりしていた。愛こそは全てそれは多分正しいことだ。でも言っているだけではダメ。自分が生きている日常生活のうえでそれを実践しなければ何の意味もない。心地のよい音楽に陶酔しきって呪文のように「愛こそは全て」と歌っても何も意味がない。それはキリストの再来のような奇蹟に属する事柄ではなくて、普通の人が努力すればきっちり実現できる普通のこと。なぜなら。フジロックの会場にはそうしたことを成し遂げた人たちが子連れ、恋人連れで来ていた。愛。平和。協調。理想。それが僕を責め立てている気分になっていた。なぜそのために努力しなかったのだと。そして、君は今まで何を得たんだい?僕は若いころを思い出した。本当に若いころ。17歳くらいのことだ。その頃僕は高校生で、担任は英語教師だった。その英語教師は腕っ節が強いわけでもなく、何か強烈な人間的魅力を持っているわけでもない「普通」の教師だった。英語の授業も教科書の英語を読んで、その次に日本語訳を読むだけ。退屈で何の役にも立たなかったから僕はずっと寝ていた。僕もクラスメートもその英語教師を全くレスペクトしていない。僕らはこんなつまらない大人にはなりたくない。僕はその英語教師をそう断罪した。だけど。そういう性急な断罪は若さの特権だ。自分の未来がまだ不確定で可能性の方が若干あるがゆえにそのような断罪が許される。そうやって、英語教師だけではなく、それこそジョンレノンやニールヤングやキースリチャーズに至るまでいくらでも性急な断罪を僕らはし続けていた。そして僕らは当たり前だけれど年を取る。その性急な断罪に対する落とし前をつけさせられるときが来る。僕の今の年齢は、その英語教師が僕を担任していたときの年齢とそれほど変わらない。その英語教師は家庭を持っていた。多分子どもだっていたし、その子どももきっとハイティーンくらいではなかったのではないだろうか。つまり彼は自分に与えられた社会的役割をきっちりと果たしていた。それなら君はどうだ?僕には何もない。本当に何もない。守るべき大切なことも。何かを成し遂げられる大きな可能性も。英語教師は少なくとも「大人の代表」として僕らの前に立ちふさがってくれた。それがレスペクトにみちたものではないにしろ、彼なりの役割を果たすために、彼のやり方でそうしてくれた。今の僕にそんなことができるだろうか。そう。僕の方が多分間違っていたのだ。もし僕がフジロックを信じている、あるいはそうした理想が大切だと思うなら、僕はそれを日常生活で実践すべきだったのだ。そのためのヒントはきっと今までたくさん与えられていたはずだ。それなのに、僕はそれを無視した。それで終わり。それが全て。大音響の音楽が聞こえ始めた。2日目が始まったのだ。その音楽は僕の居心地を悪くさせた。ここにいるべきではないと感じさせる。清算日は来た。全ての負債は返さなければならない。どうすれば返済できるのか。僕にはわからないけど。あなたは何を得たのかわかっていないそれを失うまで約一時間後、僕は誰も乗っていない越後湯沢駅行きのバスに乗って東京へ向かっていった。もう今年のフェスティバルは終わりだ。フェスティバルでは今もまだ音楽が鳴り続けている。愛。平和。協調。理想。それを信じさせる何かがそこには存在している。それを僕が実践できたかできないかは別にして。[CD] ザ・フー/フーズ・ベター・フーズ・ベストJohn Lennon ジョンレノン / Walls And Bridges: 心の壁、愛の橋 【CD】2012年8月 「祭りの終わり」を大幅加筆訂正
2013.04.22
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今年のフジロックは居心地が悪かった。1998年に初めて来て、2000年から毎年来ているフジロックフェスティバル。その会場の苗場は僕にとって「戻ってくる」場所だった。毎年この場所に来て、「戻った」と思う。僕にとってのホームグラウンド、あるいは帰ってくるべき場所はフジロックの会場の苗場だった。そして僕はここでいくつもの奇蹟を目撃した。いつだって苗場に来るときは、気持ちが高揚していた。一日目のフジロックの会場で僕はとても疲れていた。フジロックそのものに疲労感を感じていた。グリーンステージで演奏される大音響の音楽。それは心を削り、切り裂いていくナイフのように感じた。まるで腕に走らせるリストカット用のナイフのように。そこで大音響の音楽に身を任せることは、僕にとって心の自傷行為に近く感じた。たまらなくなってグリーンステージを離れると、ホワイトステージでの演奏が聞こえてくる。僕に逃げ場所はなかった。3日間音楽が絶えることのない楽園。それがフジロックフェスティバルの会場。いつもなら、それは夢のようにうっとりできるそんな場所だった。ホワイトステージへと続く山道で、僕は何ともいえない疎外感と孤独を感じていた。その山道で目に付くのは、愛し合っているカップルと家族達と仲間との再会に心を躍らせている人々たちだった。何か責められているような気がした。成功だとか成果だとかそういうものに全く無縁だった僕のこれまでの人生。その責めを問い詰められるような、そんな気持ちにずっと悩まされていた。とてもたまらない気持ちになって、河原でずっと寝転んで時間が経つのを待った。一刻も早く終わってくれないだろうか。音楽をとめてくれないだろうか。バラバラに引き裂かれそうな心はずっとそれだけを求めていた。酒を飲む気にもなれない。いつもおいしく感じられた苗場のビール。今日飲んでみた苗場のビールはただ苦いだけの発泡飲料にしか思えなかった。それは自分の体に合わないアレルゲンのようなものにしか思えなかった。結局僕は夜の8時半ごろにギブアップしてテントサイトに戻り、風呂に入ってそのまま寝てしまった。翌日は朝の9時半ごろに目覚めた。色々な雑事を終えて、とりあえずフェスティバルの会場に行く準備を終えた。でも何か行く気がしなかった。また昨日のような拷問が待っているのか。そう思うと気が重くなって仕方がなかった。そのまま時間は過ぎていった。 * * *1998年から2012年まで。僕の人生の3分の1はフジロックフェスティバルと一緒に歩いた人生だった。20代後半だったときから今まで。僕はフジロックを人生の目的と目標にして生きてきた。それは信じるに足りる大きな夢だった。愛、平和、理想を掲げるフジロック。だけど僕はそれを信じて祈るだけで何もしなかった。掲げられた理想や愛や平和を実現するために、僕は現実世界の中で何一つ行動しなかった。昨日の会場で見ただろう。子供連れのしっかりしたお父さんやお母さんを。彼らや彼女達は明らかに僕よりも年下で、フジロックで掲げられた「愛」を自分の人生の中で実現させた人々だった。お前の現実を直視してみろ。僕にとって「結婚」は絶望的に不可能な高望みでしかなかった。あの場所で愛し合っている恋人を見るがいい。お前は羨望と嫉妬で心が一杯になって、そのうち彼らを憎み始めるだろう。ほら。お前が一番嫌っていたタイプの人間がお前の中で動き回り始めている。フェスが始まったみたいだ。グリーンステージの音楽がここまで聞こえてくる。まるで僕の苦痛を煽り立てるように。そのビートはまるで心臓麻痺で死ぬ寸前の異常な脈拍のように感じられた。なぜ君は何もしなかったんだい。人生の3分の1をかけて信じたフジロックフェスティバル。それが本当に大切なものなのだったなら、君はそのために必死で守り抜かなければならなかった。それを持続できるように知恵を働かせなければならなかった。でも…。君は何もしなかった。君は何もできなかった。君は成果をあげられなかった。もうそろそろ終わりだ。君の人生は失敗だった。それはいつから?それは多分、僕の人生が始まった14歳のときから。彼女は17歳。どういうことかわかるだろう。彼女をみて 恋に落ちてしまった他の娘とは踊らないあそこで立っている彼女を見た君はこの曲と詞が好きだった。初めてラブソングに出会ったとき、君のハートは希望で打ち震えていた。だけど「他の娘とは踊らない」って思ったのに彼女に声をかける勇気も度胸もなかっただろう。彼女の恋人になれるだけの立派な「男」になれるだけの努力もしなかっただろう。君は14歳のときに一番重要なヒントを与えられたのに、それを自分の人生に生かせなかった。君は。多分。はじめからダメだったんだよ。グリーンステージの演奏の音が大きく響いて聞こえる。それに覆いかぶさるように色々な音楽が始まる。その音楽は僕を責め続けた。なぜ君はチャンスをものにできなかったんだい。なぜ君は努力しようとしなかったんだい。なぜ君は大事なものを守ることができなかったんだい。君は。多分ここにいる価値のないそんな人間だ。会場に足を踏み入れてもいい。でも。君にもわかっているだろう。これから始まる音楽が君に告げるメッセージが何であるかを。そう。ベルは鳴った。ついにそのときが来てしまった。ときどき出て行かなくちゃって思うんだベルが鳴る出て行かなければもしそうしなければおかしくなってしまいそう彼女を置いて 行くべきなんだあいつらとてもいいヤツらだから僕はテントの中の荷物をまとめ始めた。そしてテントを撤収して帰る準備を始めた。早くここを出なければ。できるだけ手早く。早く片付けなければ。そしてテントサイトを出て、荷物を運送屋に預けて、誰一人乗っていない越後湯沢駅行きのバスに乗り込んだ。フェスティバルは続いているのだろう。幸せな場所。幸せな時間。幸せな人々。だけどもうそこに僕の居場所はなかった。次は何がなくなるのだろう。何を失ってしまうのだろう。僕の人生。それは楽しいことや嬉しいことや幸せを一つずつ潰していく、その過程でしかなかった。そして全て失ったとき、それでも僕は生きていなければいけないのだろうか。独りぼっちのバスの中で、その答えを教えてくれる相手は誰もいなかった。【送料無料】【エントリーで、1枚でポイント5倍!2枚で10倍!対象商品】プリーズ・プリーズ・ミー (リマスター) [ ザ・ビートルズ ][CD] ザ・フー/フーズ・ベター・フーズ・ベスト
2012.08.29
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まず思い出から語ることを許してもらえるだろうか。僕がストーンローゼスを初めてみたのは1989年の秋のことだった。彼らのデビューアルバムが発売されて、半年も経ずに実現した来日公演。一番最初の曲だったI wanna be adoredとWaterfallとI am the resurrectionの三曲のことを覚えている。あまり上手な演奏とは思えなかったI wanna be adoredが混沌の中から一つの形になって最初のビートが打ち鳴らされたとき、会場は不思議な高揚感の磁場を形成した。あの不思議な高揚感は何だったのだろう。新しい時代の始まる音?新しい音楽が生まれた瞬間?その何だかよくわからない不思議な磁場がそのライブの全てだった。その頃僕は18歳で何も持っていなかったけど、希望だけはたくさんあった。未来は漠然としているけど、この先には何かとても素晴らしいことが待っている。何の根拠もなくそれを信じることができた。それがきっと若さの証なのかもしれない。そんな記憶とごっちゃ混ぜになってローゼスのファーストライブを覚えている。その後ローゼスは1995年ごろに解散してしまった。もちろんセカンドは買ったし、武道館公演は見に行った。だけど僕にとってのローゼスは1989年の秋のイメージが大きい。2000年代を越える頃になるとローゼスの歴史的評価は定まってしまった。90年代の幕開け。セカンドサマーオブラブの代名詞。スパイクアイランド…。解散後数年くらい経つ頃にはローゼスは伝説のバンドに変わってしまった。2011年の秋、ローゼスの再結成が発表された。そして2012年の夏に来日が決まった。フジロックフェスティバルの初日のトリ。僕はそのライブ会場である苗場のグリーンステージの前にいた。夢みたいだと思った。フジロック、苗場、ストーンローゼス…。色々な期待に胸を膨らませている観客。そんな人々の人並みがだんだん多くなってくる。そしてついにその瞬間が来た。グリーンステージの照明がおちる。観客の大歓声がこだまする。4人が登場した。混沌としたギターの音。モコモコとしていて形にならない音。それがだんだん一つの形になっていく。一曲目は二十数年前と同じ。I wanna be adoredだ。 魂を売る必要なんてない 彼は既に僕の中にいる 僕は憧れられたい。あんまり上手とはいえない演奏。だけど会場ではイアンブラウンの歌に合わせてシンガロングが起こっている。グリーンステージが大合唱で一つになる。再結成発表後、夢にまでみた風景。それが今ここで起きている。Mersey paradise.Sally sinamone…。やっぱりと言うか、ファーストの頃に発表された曲がほとんどだった。セカンドからの選曲はTen storey love songとLove spreadsだけだった。本当は全曲シンガロングしたい気持ちだった。ステージ近くに集まっていた観客のみんながそんな気持ちだったのだろうと思う。だけど20年以上も前のことだ。歌詞を全部覚えている曲なんてそんなにない。それでも観客のエネルギーはステージに伝わっているような気がする。I wanna be adoredのときはあまり上手ではなかった演奏。それがだんだん熱を帯びてきて何か不思議なうねりを見せ始める。ローゼスが生み出したホワイトファンクの名作Fools gold。ベースのマニとドラムスのレニのコンビネーションはもちろんだけど、ジョンスクワイアーのワウワウギターがだんだんと冴えてきて、そのホワイトファンクは独特のグルーヴを展開し始める。それは1991年の追憶ではなく、その後色々なことがあった2012年のFools gold。僕がこの日のライブで印象に残ったシーンの一つがWaterfallからDon't stopへの流れだった。2曲ともファーストに収録されている曲でDon't stopはテープの逆回転を使ったサイケデリックな曲だ。両方とも素晴らしいメロディーの曲でそれと同時に何か陶酔感の中に憂いの空気を感じさせる曲でもある。Waterfallで抑え気味のリズムセクションがだんだん最小限のビートしか刻まなくなる。それにあわせるようにだんだんジョンのギターが断片的なフレーズを重ねるように響かせるようになる。そのギターの音はまるでローゼスのシングルに描かれていた抽象画のようだ。一つ一つのフレーズ自体は何の統一感もないようだけど、何かが描かれているのがわかる。それは多分「美」を描いていて、それに向かって音がまとまっていく。ジョンのギターはどんどん饒舌になっていく。その音で縦横無尽に苗場の夜を彩っていく。 止まらないで 何かおかしいね どうして君はそんなに光っているのだろうDon't stopの混沌としたアレンジと憂いを含んだメロディー。それは「80年代の残滓」だと当時は思っていた。でも今になって思う。それはそのまま90年代という時代を予告していたのだ。90年代という時代が例えば1968年のような希望と、世界が変わる前兆のような高揚感にみちた時代ではないということを。1990年代に何が起きただろう。イギリスではどうなのか知らない。でも日本の90年代は「失われた」とよく言われる。そんな「ポジティビティー」だけでは言い表せない90年代の不安の深淵を彼らはそこでのぞかせたのかもしれない。もちろんそれをメンバー自身がはっきりと意識していたのかどうか。それは全くわからない。2012年だから言える後知恵みたいなものだけど。色々あった20数年を思い起こさせる演奏で「聴く」体勢に入ってしまった僕達を振起すようにmade of stoneやThis is the oneが演奏され、また苗場で大合唱が起きる。 これだ これだ 僕が待ち望んでいたことはまたライブが始まったときの熱狂に戻された僕達。そしてI am the resurrectionが始まる。大合唱はピークを迎える。みんな知っているからだ。これが今回のライブの最後の曲であることを…。サビの部分での会場での大合唱。それが終わるとベースの音が曲のブレークを告げる。それに呼応してレニのドラムスが一気にスパートをかける。ジョンのギターがそのビートに合わせて空気を引き裂くような鋭いギターの音を響かせる。徐々に高みへと向かっていく。イアンが観客を煽るようにステージを右へ左へ動いていく。どんどん熱気を帯びていくビート。だんだん近づくフィナーレ…。それは何分間の出来事だったのか。今となっては記憶が曖昧だ。演奏が終わってからメンバー全員で観客に挨拶をする。初来日のときはしなかったファンサービス。その日に復活したストーンローゼスは1989年を再現してくれるストーンローゼスではなかった。2011年に再結成を発表し、2012年に来日したストーンローゼスだった。そこにはセカンドサマーオブラブも90年代初頭の熱気でもなく、2011年に色々あって再結成し、2012年に活動しているストーンローゼスがいた。ローゼスは世界ツアーのあと、新曲のレコーディングをするかもしれない。そんな噂を聞いた。2012年のストーンローゼス。それでいいのではないのかなと思った。【メール便で送料無料】ストーン・ローゼズ/ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・ザ・ストーン・ローゼス 【CDアルバム】
2012.08.19
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苗場は今日も雨だった。ここ最近雨が降らなかったためしがない。今年の雨はひどく寒くて体が凍りそうだった。それでもやっぱりフジロックフェスティバルの会場の雰囲気はとてもいい感じで心地がいい。今年もここに来れてよかった。それでいいのじゃないか。一日中歩き回った疲れもあって、そんな何となく肯定的な気分になれる。一日目のヘッドライナーのColdplayが終わって、僕はオアシスエリアの苗場食堂近くで座っていた。昔の仲間と待ち合わせをしていたのだ。彼女とは2002年のフジロックで知り合った。意気投合して2004年ごろまで一緒にフジロックで待ち合わせをして酒を飲んだり騒いだりしたそんな友達だった。彼女は埼玉県に住んでいたので時々フジロック以外の場所でも会っていた。でも2005年に彼女は結婚してフジロックに来なくなった。彼女のことが好きだったか。本当のことをいうと僕は彼女に好感を持っていた。だけど彼女は僕を選んでくれなかった。彼女の結婚の話を聞いたとき、僕は全身の力が抜けるような失望を感じたけど、とりあえず「おめでとう」と伝えた。彼女はその旦那さんと一緒に博多に行ってしまった。結婚式にはもちろん行かなかった。そしてそれっきり連絡も途絶えてしまった。あるSNSのプロフィールで偶然彼女を見つけた。はじめは別人かと思ったけど、スパム警告を受ける覚悟でメールしたら、本人であることがわかった。6年ぶりに彼女は旦那さんとフジロックに来るという。一日目は彼女一人で。そして二日目以降は旦那さんと一緒に。それなら会いたいと僕が頼んだら、彼女はあっさりOKを出してくれた。それで僕は待ち合わせ場所の苗場食堂の脇にいる。そこで彼女を待っている。一日目は何か自分が映画のシーンの中にいるような気分だった。今ここでこうして行動して感じている。そんな現実感が全くなかった。これは夢ではないか。何か本当にここにいるのかどうかもわからない。そんな感じだった。本当のところ嘘にしたかったのかもしれない。日常も。フェスティバルも。ロックンロールも。幸せに溢れたこの会場。ここではどんな奇跡も起こりうる。それは知っていた。だから僕は毎年ここに来ている。いつもの日常が何であろうと、いつもの僕が何であろうと、ここに来れば全てを忘れることができる。そうやって逃げるように苗場に来て、そしてまた日常に戻る。それだけ。それ以上もそれ以下も、何も期待せずに。それは本当に君が望んでいたことか。それだけが君の人生なのか。フェスティバルに生きる人生。それは一年のうちたった4日間だけを目標にして全てをごまかす生き方だ。僕が若かったころ。例えば17歳の頃の僕は。今の40歳になった僕を見たらどう思うだろうか。40歳になっても伴侶を持つことも不可能で、依存症のように音楽に頼り切っている人生。この国の社会は壊れてしまって5人に1人は生涯未婚者でそのうちの何割かは無縁仏に埋葬される可能性があるという。そういう社会に生まれてしまった不幸だからしようがない。でもそんなのは言い訳でしかない。5人に4人はきっちりと家庭を持って社会の再生産に協力できる。そして自分の幸せを実現することも可能だし、自分さえ望めばそっちの方へ行くことは絶対に不可能なことではない。結局君は。それを望まなかっただけではないか。単純に不幸な道を選んでおいて、自分は不幸だと嘆いているだけではないのか。君はこのフェスティバルで何を得て、何を学んで、今まで生きていたのか。君は要するに何もできない自分をただ見たくない言い訳のためにここに毎年来ているだけではないのか。君は何を期待していたの君を見つめることができない誰に振られたか言わないでくれオレたちが取引していたことを言ったのか?どれくらい気分が悪いのか言ったのか?誰もが助けの手を求めているオレにそれが理解できないなんて誰が言った君がレールを外れたとき誰かが社会階層を駆け上がっていったお別れのセックスのあと昔の恋人を忘れさせてくれる何を期待していたのお別れのセックスのあとにThe VaccinesがPost break up sexの演奏を始めたとき、一旦やんでいた雨がまた降り出した。その演奏は心がよじれてしまうほど切なくて美しくて胸が痛くて、苗場の空が涙を流して泣いているのだと思った。最近は仕事が終ってぼんやり山手線に乗っているときは大抵Post break up sexを聴いている。それが僕の日常。それ以下でもそれ以上でもなく、ひたすらゼロに近いような僕の日常。君は何を期待していたの。この人生に。君は何を期待していたの。ロックンロールに。君は何を期待していたの。このフェスティバルに。君は何を期待していたの。愛に。希望に。夢に。幸福に。未来に。美学に。友情に。紐帯に。連帯に。共存に。自由に。世界に。繁栄に。平和に…。「久しぶり。待った?」「いや。ぜんぜん。」重くなった気分を忘れようと僕は無理をして笑顔を見せた。「また暗いこと考えていたでしょう。少し年を取ったように見えるけどそういうところは昔と全然変わりがないのね。少しは成長しなさい。」僕は少し間が悪そうに苦笑しながら、再会してくれたことに感謝の意を伝えた。旦那さんは2日目からの参加だよね。会うの許してくれたの?「彼には言ってない。でもあなただったら大丈夫だから。人妻奪って浮気できるほどの度胸はあなたにはないでしょう。」それはひどいな。でも。君は意外と僕のことをよく見ていたんだね。そのあと少しだけ沈黙が流れた。「ねぇ。暗いことはここにおいて行きなさい。ここはね。そういう暗いことを考えるための場所ではないの。ここでは目一杯楽しんで、そして部屋に戻ってからそういうことを考えなさい。」「とりあえずビールで乾杯しましょう。買って来ようか?」いや。僕が誘ったのだから僕が出すよ。君はそこで待っていて。そういうとまた無理して見栄張ってと彼女は笑った。まだフェスティバルは始まったばかりで、たとえそれがどんな種類の幸せであってもそれはまだまだ続く。僕らはオアシスエリアのずっと奥のほうまでかき分けていって音楽がよく聞こえる場所の方まで歩いていった。【送料無料】ワット・ディジュー・エクスペクト・フロム・ザ・ヴァクシーンズ?
2012.01.03
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夢は必ず醒めるもの眠りはいつか起こされるものその夢がいくら美しかったとしても取り残されるのは現実だけロックンロールはいつまでも走り続けるそのビートは早く音速を遥かに超えて追いつくことができなくなるまで加速度をあげていつか僕は走りつかれロックンロールは僕を置いてどこか遠くへ行ってしまうのだろうそのとき僕はこの場所で何が残っているのだろうどこにもない地平線の彼方で潰れて壊れてしまった僕の愛僕の心だけど失うにはあまりにも遅すぎた運命のダイスは今も不確実に振り回され続けている
2012.01.03
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愛しい人僕が静脈に青酸カリをオーバードーズしたいって言ったのはほんの冗談のつもりだったんだ愛しい人僕が資本家をギロチン台に並べて首を飛ばしてやりたいって言ったのはほんの冗談のつもりだったんだ今Ustreamで自殺を生中継した若者の気分がよくわかる練炭の煙がiPodを包んでいく様子も大口が大口叩きが止まらない僕には人間の仲間入りさせてもらえる権利なんてないんだ今よくわかる気がするあの若者が息絶える寸前が首を締め付ける縄がだんだん食い込んでいく感触も大口が大口叩きがとまらない僕には人間の仲間入りさせてもらえる権利なんかないんだ大口叩きが止まらないlylic by morrisseysong by jonny marrtranslate and arrange by trainspotting freaksThe Queen Is Dead: A Classic Album Under Review/The Smiths(発売日:2008年06月2...価格:3,980円(税込、送料別)
2010.11.11
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今になって振り返ると という視点ではあるが、いわゆる「97年組」の登場は日本のロックの転換点だった気がする。 それまでの日本のロックは、基本的にBOOWYとブルーハーツとストリート・スライダーズの系統を押さえていればそのバンドがどのような音楽をしているかが説明できた。もちろんフリッパーズ・ギターや電気グルーヴやユニコーンといった偉大なる例外もあったが、97年組が現れるまで上記の三バンドはそれまでの日本ロックのスタイルを決定付けていた。 多少の乱暴さはあっても、例えばピーズだったら「自分が思っていることや考えていることをわかりやすい歌詞と激しいギターサウンドで演奏する」ということでブルーハーツ系統の音楽だ。とか、ミッシェル・ガン・エレファントは「反社会的な立ち位置とルーツミュージック志向の硬派なロックバンド」ということでストリート・スライダーズ系統の音楽だ。とか、系統による仲間分けができた。 しかし、例えばナンバーガールやスーパーカーが上記の三バンドのうち、どの系統に属するかを考えるのはナンセンスだ。ナンバーガールもスーパーカーもそうしたバンドの影響は多少受けたかもしれないが、もはや彼らはそうした区分では説明できない音楽を演奏し始めていた。 そしてそうした97年組のフォーマットが形を整えると同時に日本のロックは転換期を迎えた。 2000年代に活躍したバンドをBOOWYやブルーハーツやストリート・スライダーズの文脈で語ることは不可能に近い。そうしたバンドよりも97年組の音楽に、より親和性がある。そんな形で日本のロックは97年組、ナンバーガールやスーパーカーやくるりや椎名林檎や中村一義といったアーティストの影響下で進んでいった。そういう感を僕は持っている。 2000年代の日本のロックは何だったのか。一言でいうと日本のロックは誰を代表するのか不明なものになっていく過程だった。それに尽きるのではないかと思う。 大昔であれば、暴走族の集会にモッズの音楽が流れていたとか、尾崎豊がある若者像としてジャーナリズムから注目を浴びただとか、ブルーハーツが朝日ジャーナルの特集で掲載されただとか、ある意味でロックバンドがあるタイプの若者を代表しているということがお約束のように自明であった。 だから逆にブルーハーツなり、BOOWYなりの歌詞を読み解くことが、若者のどのような感性を象徴しているのかの手がかりになりえた。 しかし2000年代のロックは違っていた。音楽の細分化が進み、また音楽の享受の仕方も変化した。くるりとB'zと宇多田ヒカルが同じ人のCD棚に入っていても、あるいはアイポッドのプレイリストに並んでいたとしてもそれほど違和感がない。そうした音楽の享受の仕方が広まるとあるアーティストの歌詞を丁寧に読み取ってもそれが誰の感性を代表しているのかわからない。 例えば2000年代の若者の感性を語る音楽を一つあげろといわれて、「これ」と提示できるものがあるだろうか。 97年組以降のロックはそうした形で進んでいった。夕暮れ時、部活の帰り道でまたもビートルズを聞いたセックスピストルズを聞いた何かが違うんだMDとってもイヤホンとっても何でだ全然鳴り止ねぇっ 「ロックンロールは鳴り止まない」ネットの動画サイトで話題を呼び、サマーソニックにも出演し、最近になってメジャーデビューを果たした神聖かまってちゃん。その音楽を聴いて僕はこんなことを思った。ナンバーガールとスーパーカーが中村一義のカバー曲をくるりのプロデュースでセッションしたものの、あまりにも出来が悪くひどいものができてしまったので、そのセッションはなかったことにして焼却処分しようとしたそのテープがたまたま盗難されて出てきてしまった。 その音楽から聞こえるのは豊穣でもロックンロールの未来でもなく、これ以降先がないというドン詰まりの音。 例えばイギーポップやセックスピストルズだったら、何かが始まる予感を感じることが僕にはできた。しかし神聖かまってちゃんに僕はそうした展望を全く見出すことができなかった。 以前村上龍がこんなことを言っていたのを思い出す。60年代の豊かなロックを体験してきた彼が初めてセックスピストルズを聞いたとき、そのあまりに単純な音楽に絶望的な気分になってロックを聴くのをやめてしまった。 神聖かまってちゃんの音楽は旧世代の人間にとってはそういう類の音楽だ。 「この先行き止まり」「この先に未来はない」 それはつまり97年組以降のロックに終わりの宣告を叩きつけた、そんな音楽だ。 彼らの歌の歌詞は深読みすることができない。はっきり言ってしまうと身も蓋もない表現だ。ニートの焦り。いじめの体験。コンピュータにかじりついて孤独に襲われてしまったときの荒んだ気分の独り言。 そうしたことを歌うバンドは今までいなかった。そういう目新しさはあるけれど、だからどうしたという気分が先にたつ。その音楽に深みがなく歌詞も単純。それは。あえていうと僕らのような旧世代の人間に退場を迫る音楽だ。 村上龍がセックスピストルズを聞いてロックを見捨てたように。 「ロックンロールは鳴り止まない」はある意味彼らのロックンロール新世代のアンセムにも聞こえる曲だ。 しかし僕にはそこに何か新しいものを見出すことができない。ビートルズとピストルズを同列に並べてしまう感性。それは僕ら1971年生まれの人間にとって新しいものではない。最近の曲は糞みたいな音楽ばかりだ。それはいつの時代にも共通のもので、そうしたものに対するアンチは既に何度も見ている。 様々なところで毀誉褒貶が付きまとう神聖かまってちゃん。それは彼らの音楽がそういう性質を持っているからだ。 そして僕は彼らの音楽からこういうメッセージを読み取った。 ロックンロールは鳴り止んだ その後の日本のロックをそれでもまだ僕はフォローし続けるのか。どうなのか。それは、僕にはまだ決めかねているのだけれども。神聖かまってちゃん / 友だちを殺してまで。 【CD】
2010.05.02
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開演前にウサギの着ぐるみを着たスタッフが登場し、ウィスキーの一気飲みをして会場を盛り上げる。そしてバックミュージックが西城秀樹のカバーで有名な『ヤングマン』になり陽気な気分が盛り上がる。そしてラモーンズの『ロックンロール・レイディオ』になるとスタンドを含めて総立ちになる。 そして「song of century」のSEが流れた後にメンバーが登場し、「21st century breakdown」でライブは幕が上がった。 今回のライブは「21st century breakdown」からの曲が中心で、名作として名高い「american idiot」からの曲はほとんど本編では演奏しなかった。 しかし「21st century breakdown」というアルバム自体も前作と同じくらいにクオリティーの高い素晴らしいアルバムであり、だからそれを中心に演奏されるということはまさに歴史的なライブをみているのではないかという感覚に陥ってしまう。 彼らは非常にサービス精神が旺盛で観客を退屈させないような演出を怠らない。観客をステージに上げたり、また観客席にいる客にリードボーカルをさせたり、アーティストと観客という枠を取っ払って一体感を作り上げようとする。だからコールアンドレスポンスをそれこそ何分に一回という感じに何度でも行なう。 アリーナスタンディングというライブ形式だったのでそれは成功し、楽しめるライブをほぼ2時間にわたって展開した。 前半の「21st century breakdown」からの曲中心のステージから後半に移ると彼らが「american idiot」を発表する前のいわゆる『メロコア』時代の曲を演奏する「welcome to paradise」や「basket case」といった初期の曲から「warning」に納められた曲まで。 そうした曲に交えて「you really got me」や「shout」といったロックのクラシックナンバーも演奏した。 「shout」を演奏している最中にヴォーカルのビリーがステージで寝転がって色々な曲を鼻歌のように唄う。その姿は何となくGreen Dayというバンドのルーツを見たような感じがして印象深かった。 彼らはそうした古いロックミュージックが好きでそれこそ街の片隅で鼻歌のようにクラシックロックを歌ってそれに誰かがレスポンスしてくれたら最高だ。そんな感じではじめたのかもしれない。 それを演出するかのようにビリーはsatisfactionの一節やhey judeの一節を唄い、そして観客はそれにレスポンスする。 そうやってパーティーロックを永遠に演奏し続けられれば彼らは幸せだった。それで食べていければそれだけで幸せだった。 ニクソンの時代に生まれ 福祉の子どもとして地獄から引きずり出された トラック運転手の居住地の末っ子として 兄貴は家を出た 俺の街は精錬所の太陽から隠されていた 俺の世代はゼロ 労働者階級の英雄として 俺は何も成し遂げていない しかし彼らは幸運なのか不幸なのかブッシュ時代のアメリカを生きることになった。「american idiot」というアルバムは直接的には戦争のことを歌ったアルバムではないけれどもその影がそこに反映されている。彼らは「時代」の流れの中に自分がいることを悟り、そしてそれを自分たちなりの言葉で歌わざるを得なかった。 それが「american idiot」というアルバムであり、「21st century breakdown」というシリアスなアルバムである。 そうしたシリアスな内容を扱いながら彼らは彼らなりの言葉と話法を崩さなかった。あくまで自分たちが理解でき、そして考えられる範囲内でその時代を歌うという手法を守り抜いた。だから彼らの言葉は過度に内省的にならず、あくまで一ロックンローラーとしての自分の考えを表明することだけに集中した。 初期の「basket case」といった曲は普通の少年のこんがらがったブルーを切なく、陽気なメロディーで歌った曲だった。実は彼らは本当のところ、「american idiot」とか「21st century breakdown」を作りたくなかった。アメリカが幸せな状況でいたならば彼らはロックンロール・パーティーをずっと続けていたかった。自分の成功に伴うプレッシャーとか内面について歌うことはあっても社会的な不幸や時代の不幸と向き合ってアルバムを作ることなど考えたくもなかった。でもそれを時代が許さなかった。 今日の幸せな感覚の溢れるはじけたライブを見ているとそんな想像すらしてしまった。 どちらにしろ彼らは時代の不幸に向き合わざるを得なかった。その中で少し考えるけれども考え込みすぎずに彼らなりのスピード感で進み続ける。そしてライブは絶対にシリアスになり過ぎない。むしろ観客が楽しめるライブをし続ける。 そんな彼らの姿勢がまっすぐに伝わってくる素晴らしいライブだった。【送料無料】CD+DVD 15% OFF[初回限定盤 ] Green Day グリーン・デイ / 21st Century Breakdown 【CD】
2010.01.24
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僕にとって、「自由」という言葉はある種の複雑な感情を引き起こさせられるものだ。 1971年生まれの僕は80年代に思春期と呼ばれる時期を過ごし、そして学校生活を送っていた。校内暴力のピークは過ぎていたが、まだ「学校」の存在意義や権威を信じることができる時代だった。だからこそ「学校的価値」に対する反抗もできたし、そうした反抗もそれなりに意味を持つことができた。 僕にとって学校はある型にはまった人生や生活を、安定を殺し文句にして強制してくるいやなものであり、だからこそ僕はそれに対する「自由」に憧れた。 そしてロックも学校的価値に対する反抗を歌った。 例えばブルーハーツは「学校や塾も要らない」と歌い、「見えない自由が欲しくて」と歌った。 ある強制された人生からの解放。それはロックの中では「自由」という言葉で表現された。その頃色々なロックバンドがデビューし、解散していったが、「自由」であることが素晴らしいという価値観は共有されていた気がする。 そしてそれに洗脳されるように僕も「自由」に憧れた。何にしろ「自由」に生きることが何よりも価値があることだ。そう信じ込んでいた。しかし「自由」は楽園へのチケットではなかった。 1990年代や2000年代の政治や経済のキーワードは「自由化」だった気がする。規制を緩和ないし撤廃してより自由を。そして自由競争をすればより豊かになり、よりよいサービスが生まれる。もっと自由な市場を。もっと自由な働き方を。もっと自由な競争環境を。そうして様々な規制が撤廃された。 その結果はどうだっただろうか。自由な競争をすればよりすぐれた一握りのものだけが生き残れる。気がついたら格差競争はより熾烈に加速していった。労働市場の規制が撤廃されたら正社員の椅子は少なくなり、非正規雇用ばかりしか働き口がなくなってしまった。 そのわりに価値観の変化はそれほど急激にはおきなかった。相変わらず僕らは「正社員になって嫁もらって幸せ」的な価値観から解放されなかったし、20年以上も低成長が続いているのに高度成長時代の価値観から離れられなかった。 その結果僕らはある種の恨みや剥奪感を感じざるを得なかった。本当は高度成長時代の豊かな生活上昇が約束されていたのに、それが裏切られた。 それは世界的な歴史の潮流ではあるけど、そうしたものはなかなか目に入りづらく、僕はそうした剥奪感の原因の直接的な犯人を「自由」に見て取った。 「自由」。それは確かにある種の才能を持った人々には素晴らしいものだ。しかしそうした才能を持つものは数が限られているから、残りの大半の人々はその自由を謳歌できない。いや。むしろ自由になればなるほど「持つもの」と「持たざるもの」との格差は広がる。それは経済的なことだけではなく、性的な解放を含めてだ。性が解放されればされるほど異性にアピールする能力を持つものと持たないものとの差がついてくる。そしてそれはもろにその人の人格だとかコミュニケーション能力だとかアイデンティティーに関わる問題に直結してしまう。 そのときに至って初めて僕らは悟るのだ。規制はそうした能力や資源を持たないもの守るために作られた制度なのだと。確かに規制や規範は面倒だし、個人の自由を妨げる。でもそのおかげで才能も資源も持たない僕のような一般人でも生きていけるだけの配分を受けることができたのだ。 だから僕ははじめから「自由」など求めるべきではなかった。たとえ窮屈に思えても解放を夢見るべきではなかった。なぜならば僕にはそのような「自由」の荒野で勝ち残るだけの才能も資源も持っていないのだから。 そして僕は「自由」という言葉にかつてほどの幻想を抱かなくなった。それは多くの人々にとっても同じだったようだ。「自由」を無条件に賛美する歌を最近あまり聞かない。「見えない自由」は今の僕らが欲しいものではなくなった。 毛皮のマリーズのメンバーは1982年ごろに生まれている。ギリギリで「ロストジェネレーション」のカウントされる年代。あるいはポストロスジェネと言っていいかもしれない。 1982年生まれとはこういうことだ。パンクは生まれる前に終ってしまった。ブルーハーツのメジャーデビューは5歳の頃。尾崎豊がなくなったときに10歳。オウム真理教による地下鉄サリン事件は13歳の頃の出来事。神戸の児童連続殺傷事件が起きたのは15歳のとき。くるりやスーパーカーや椎名林檎といったいわゆる「98年組」がデビューした頃彼らは16歳。小泉政権が誕生したときに18歳くらいである。 彼らにとってパンクもビートルズも過去のロック史上の出来事でしかないし、ブルーハーツや尾崎豊も同様だろう。 それにもかかわらず彼らは過去のロックを引用する。「毛皮のマリーズ」というバンド名自体、「裸のラリーズ」のパロディーであるだろうし、現時点での最新作「Gloomy」というアルバムではビートルズやルー・リードの楽曲からの引用、あるいは題名を過去の名作から引用するなど、かつてのロックに関心があるように見える。しかしその引用はオマージュであるとかかつてのロックへの憧れではなく、またそうしたロックへの愛着を感じさせない。あえていえばその引用は昔から使われていたことわざを使ってみただけ。そんな距離感を感じる。例えば僕が文章で「豚に真珠」ということわざを使ったとしてもそれは「豚に真珠」という言葉に愛着があって使うのではない。単にある状態をたとえるのに便利だから使った。それだけのことでしかない。 彼らの過去のロックの引用は、そうすると自分の表現したい状態を著すのに便利だから使ってみただけのことで、それ以上に何か意味があるものではない。そんな身も蓋もない意思を感じてしまい、戸惑いに似た感覚を僕は持ってしまう。 そうした「ことわざ」的な過去のロックの引用で何を彼らは伝えたいのか。 ファーストやセカンドの頃は漠然としていてよくわからなかったけれど、「Gloomy」というアルバムから彼らはあることを意識的に感じさせる曲作りをしているように思う。それは「反抗」だ。 彼らは誰に反抗しているのか。大体ここまで何もかもが自由になったニッポンで反抗する相手などいるのだろうか。そんな良識ぶった評論言葉を沈黙させるように彼らは過去のロックを引用する。そしてその歌詞から垣間見られるのは自己破壊の感情、そして愛を通じての自己承認への渇望。彼らはもうニッポンに反抗できるほど頼りがいのある権威など存在しないことがわかっている。それでも彼らには今のニッポンがパラダイスであるとは思えない。その結果彼らの反抗はひたすら自分に向かって投げかけられることになる。 「Gloomy」というアルバムには「神様」という言葉がよく登場する。神がいない日本で彼らは神様が気に食わないと歌い、神様が憎いと歌う。神様という言葉をそのまま受け取ると彼らの歌は的外れな反抗にしか聞こえないし、無宗教のニッポンでは何のインパクトも感じられない。でも彼らの歌う「神様」は実は宗教とは関係がない。よく文脈を読んでみるとその「神様」は、自分を不幸な状態に陥れた原因である何かだ。それは80年代なら学校のせいにできたかもしれないし、60年代なら政治のせいにできたかもしれない。でも2009年には、それは不透明でよくわからない。抽象的な言語で言えばグローバリゼイションだとか後期近代の再帰性の増大であるとか世界史的レベルでの歴史の潮流といった言葉に換言されるのであろうけれど、そんなものに対してどうやって反抗の狼煙を上げればいいのか。 だから彼らは気に食わない「神様」にヘビメタ聴かそうぜと歌う。 そうした空回りしてしまう反抗をあえてやって見せる。本気でやっているのなら馬鹿者扱いされてしまうけれども、その不透明な不幸の原因に目を背ける気持ちにはなれない。そんな股裂けの状態を表現するためには過去のロックを「ことわざ」のように引用するしかない。彼らのそうした姿勢はある種のしたたかさを感じさせる。 先生 先生 あぁ あなたは どうして 僕らに 嘘のつき方を教えなかったの 先生 先生 あぁ 僕らの 未来は希望に満ちあふれてるって おっしゃったのはアナタでしょ? せめて あのコを 誰が泣かせたか それが 誰なのかくらい 教えてよ 先生 「人生2」 例えば80年代のロックであるならば、学校的価値に反抗するのがロック的であったから、先生の言うことを聞いて裏切られたという歌は歌えなかった。 彼ら自身がどれほど先生や学校のいうことを信じていたのかはわからない。それでもあえて自分が先生の言うことを信じて今まで生きてきて裏切られたふりをする。そうすることでロストジェネレーションの代表的な論客の雨宮処凛がアジテーションをしているようなバラードを作ってしまう。 彼らは前の世代の不幸をも射程に入れてしたたかに反抗を歌にする。 それは非常に屈折していて面倒くさい方法ではあるけれど、そうすることでしか彼らは反抗できないし、叫び散らすこともできない。それは彼らしかできないロックンロールレベルなのかもしれないし、これが今後のレベル・ロックのスタンダードになりうるのかはわからない。 「自由」が生み出してしまった不幸なニッポンで、彼らの反抗は解放も自由も更には幸福も約束してくれない。それは出口をなくしたニッポンの不幸をも象徴している気がしてならない。毛皮のマリーズ / Gloomy 【CD】毛皮のマリーズ / マイ ネーム イズ ロマンス 【CD】
2010.01.05
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