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あーなんか最近真面目な事書きすぎてもうバカな事書きたいなぁ。3の倍数の日付の日記だけバカになって書くとか。あらすじ戦争 と 男 と 女感想 ネタバレ無7つの短編が入っていて、最初の4つの短編は、読み方がわからずに意味がわからなかった。というよりも、前知識もなしに突然読み始めたので、どういうタイプの作家なのか読めずに、どこに集中して読めばいいのかわからなかったという事もあるが、ラスト3つを読んでいるときは、突然道が目の前に開けたように、読み方がわかったというのだろうか、まるでピコーン、俺は閃いた!とでもいうように、突然この本の素晴らしさが理解出来たような気がする。思わず最初から読みなおそうかという衝動に駆られたが、俺を待っているたくさんの書物に申し訳なくて読みなおす気分になれなかった。あらすじでも書いたように、特別な事柄なんて何一つなく、あるのは全編にわたって戦争と、男と女だけである。さまざまな考え方を持った語り手の一人称、確か全部女の人だったかな?どの人も、迷いがない。一貫している。およそ人間的な揺らぎというものが感じられない。悩みがある事からストーリーが始まる、というような形式がよくあるようにぼんやりと考えていたが、そもそもこの短編たちにはストーリー、物語性というものがあまり感じられなかったように思う。人生の一遍を切り取って見せてもらったような、あるがままの姿勢を感じる。一番好きだったのは、青鬼の褌を洗う女だろうか。語り手の女の流されるままに生きていく、というのが昔自分の考えたことと全く同じ誓いで、自分は今もその生き方をやめたつもりはないが、ここまで徹底して、何の迷いも逡巡もなく流されるままに生きていくを実践するのは、自分には出来ない、というのが正直な感想であって。本当なら、自分と似たようなものを見ると、尊敬よりも嫌悪が先立つものだが、この場合自分と同じというよりも、自分と同じ道を歩いているが、ずっと先をいっている、突き抜けているので嫌悪を通り越して尊敬の念しかいだけない。最初の4つの短編については、普通の、いわゆる何か問題がおきてそれを解決するために動く、というような基本的な話だと勝手に想像して読んでいたため作品の機微に全く気付かなかったため、あとに書く事はかなりとんちんかんな事になるかもしれない。ラスト3つについてもわかったなんて言えるはずもないが、それでも面白かったといえるぐらいには読む事が出来たように思う。解説がついていたが、何を書いているのかさっぱりわからなかった。というか、ぱっとみてあまりにも難しいことを書いているような気がしたのでろくによんでいない。坂口安吾は精神と肉体との対立という昔ながらの主題を追求している、という部分ぐらいは読んだが、ふーん、そうだったんだ、いわれてみれば、という感想ぐらいしかないネタバレ有いずこへいずこへ、というのは、結局自分がどこへ行くのかわからない、という意味だったんだな。私は自分の虚しさに寒々とする、という一文があったが、だれであれ自分について冷静に、客観的な目で見ると自分というものはなんと醜い人間だろうと思うんじゃないかと最近考えている。一日に自分がやった行動について、いちいち理由付けをしていくという行為を、何日もやったことがあるが、うすら寒くなるような行為だった。結局のところ利己的な意思しか持ってないのか、と問いかけたくなるような。ほとんど無意識でやっているような行為が、見栄とか虚栄心とかそんなものに直結していく。そういった行為を憎んでいたとしても、そう簡単に逃れられるようなものではないと思う。白痴残念ながら記憶に何も残っていない。本当に読んだのか?と疑問符がついてしまいそうだ。ただ、白痴の女と男が逃げた、というストーリーがぼにゃりと頭に残っているだけだ。これ、読んだって言えますかね?ただ印象に残っている言葉が 人が物を捨てるには、たとえば紙屑を捨てるにも、捨てるだけの張合いと潔癖ぐらいはあるだろう。意味はよくわからんのだよねー。捨てるだけの張り合いってなんだろ?捨てたら、捨てる意味ぐらい欲しいって事か。捨てるだけの潔癖ってのが意味がわからんのだよね。捨てるぐらい潔癖的意識が低いって事?それとも潔癖だから捨てるって事?ちょっとわからんぬあー私は海を抱きしめていたい 私はいつも神様の国へ行こうとしながら地獄の門を潜ってしまう人間だ。ともかく私ははじめから地獄の門をめざして出かける時でも、神様の国へ行こうという事を忘れたことのない甘ったるい人間だった。私は結局地獄というものに戦慄したためしはなく、バカのようにたわいもなく落ち着いていられるくせに、神様の国を忘れる事が出来ないという人間だ。私は必ず、今に何かにひどい目にヤッツケられて、叩きのめされて、甘ったるいウヌボレのグウの音も出なくなるまで、そしてほんとに足すべらして真っ逆さまに落とされてしまう時があると考えていた。この短編の冒頭の文である。個人的に夏目漱石のなんだったかな?行人だかなんだかの本に、これを超える冒頭の文はないだろうな・・・と圧倒された文章があったんだが、それに匹敵しうる文だと思った。およそ人間というものを表しているのに、わかりやすい、一瞬で伝わってくる文章だと思った。このあとに、神様にも悪魔にもボコボコにされるだろうが、その時は精一杯抵抗してそれでもやられよう、と書いている。要するに、自分は何か酷い目にあって死ぬであろう事を、すでに覚悟しているのだろう。 私は悪人です、と言うのは、私は善人ですということよりもずるい。これもそう思う。悪人です、と先に言っておけば、そのあと何をしたって、だって私は悪人ですから、の一言で全てが片付いてしまう。それは、ずるい。 「自分のことは、自分でする以外に仕方がないものだ。僕は僕の事だけで、いっぱいだよ。君は君のことだけで、いっぱいになるがいいじゃないか」なんかこのいっぱいになるがいいじゃないか、っていうセリフがいい。いや、言っている事も全くその通りだと思うのだが。悩み事とかを相談されても、結局決めるのは自分なのだから相談なんてしないで全部自分で勝手に決めればいいじゃないか、と思う反面、相談する気持ちも、もちろんわかるつもりではある。安心が欲しいのだろう、と他人に自分の意見にプラスしてもらって、2にしたいのだ。そうすれば、そのプラスされた他人の意見がたとえ実際には無意味なものであったとしても、目に見えない安心として自信を与えてくれるだろう。自分はひねくれものだから無意味なんて書いているけれども、神やなんかと同じようなもので、信じているものにはそれは実際にはあるのだ。信じている人にとってみれば、他人に相談するというのはこれ以上ない意味のある行為になるのだろう。 私は谷底のような大きな暗緑色のくぼみを深めてわき起り、一瞬にしぶきの奥に女を隠した水のたわむれの大きさに目を打たれた。女の無感動な、ただ柔軟な肉体よりも、もっと無慈悲な、もっと無感動な、もっと柔軟な肉体を見た。海という肉体だった。ひろびろと、なんと壮大なたわむれだろうと私は思った。 私の肉慾も、あの海の暗いうねりにまかれたい。あの波にうたれて、くぐりたいと思った。私は海を抱きしめて、私の肉慾がみたされてくれればよいと思った。私は肉慾の小ささが悲しかった。海というのは女の体のことであったか。ここで重要なのは、決して女の体だけであって、精神的なものまで含んではいない、という事だろうか。ここで上のほうで書いた、精神と肉体の対立というのが表れているのか?ここでは明らかに、体だけに比重を置いていたように思う。肉慾自体が、喜びではないと気づいた、という一文があったが、どういうことだろうか。ちょっとわからないな。戦争と一人の女戦争の恋人だった女の話。確かに戦争の悲惨さによって、何かに満たされているような、そんな女の書かれ方だった。 私は人並みの後悔も感傷も知らず、人にほめられたいなどと考えた事もなく、男に愛されたいとも思わなかった。私は男をだますために愛されたいと思ったが、愛すために愛されたいとも思わなかった。私は永遠の愛情などはてんで信じていなかった。私はどうして人間が戦争をにくみ、平和を愛さねばならないのだか、疑った。つまりこういう女だからにして、常に危険が、命をかけるような、危険が欲しかったというか、これもあくまで精神と肉体の対立のようなものか。ある意味、体がどうなろうが、どうだっていいと言っているようなものだ。あるいみ行きついちゃったマゾというかなんというか。精神と肉体の対立というテーマからこの短編を見たら、肉体に比重を置かない人間はいったいどういう生き方をとるのか、というのが興味の対象になるのではないかとかなんとか書いちゃって見たりして青鬼の褌を洗う女なすがままに、流されるがままに生きるというのはそれはそれで大変なものに思うかもしれないが、実際、何事にも動揺しないという訓練さえ積めば、割と簡単にいくものだ。ようするにあるがままに、受け入れればいいのだ。雨が降ろうが人に裏切られようが、金が全部なくなろうが家がなくなろうが服がなくなろうが、それはそういうものなのだと、全部受け入れるというのが、流されるがままに生きるということなのだと思う。その点でいえば、この短編の語り手は全て満たしているといっていい。何が起ころうが、なんとかなっている。その一点で非常に凄い。語り手の母親は全く客観的に見ても、最悪な人間であるが、語り手にそれを憎むような調子はあまり見られない。それ自体も、受け入れているのだろうかこういう作品を読むといつも思うのだが、家族というのは、本当に大切にすべきものであるのかどうかという微妙な考えが。確かに血が繋がってたり、すると唯一無二のかけがえのない人間ということになるだろう。さらに愛しているならば、それはもう凄い、いいことであるといえるかもしれないが。それでも人間として嫌い、というのはどうしようもないように思う。この短編のように、いくら愛してもらっていても、人間自体がどうしようもない人間だと、その愛に何か意味はあるのですか?と言いたくなる。ってあーまとまってないな。何が言いたいんだろう?つまり、家族だから無条件に許すとか、家族で、愛があればその家族は幸せなのか?という事が書きたかったのだ。幸せなんて人それぞれだし家族の在り方も人それぞれなのかもしれんなー。ただひとつ核心できるのは、一方通行の愛なんてなんの意味もないという事だろうか。人間的に信用、尊敬できない親に愛されて、果たして嬉しいだろうか、それでも育ててくれた事に感謝して生きていかなければならないのか。生き方が違う、というだけならまだいい、それぐらいいくらでもある。お互いにそれを認めて、生きていければいいだろうが、生き方が違う以前に、生き方を認められない場合は決別しかないのか。それとも、認められなくても、親というのは唯一無二の存在だと受け入れるのがいい事なのか。んー?なんかよくわからん感じになってきた。ここらでやめとこう
2008.06.29
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も・・・もう無理っす・・・わけわかんねっす・・・。ジョースターさん・・・受け取ってください・・・。あらすじスカイ・クロラシリーズ最新作にして最終作の短編集。感想 ネタバレ無久しぶりに読んだら、人物の相関図とか全然わからないし、ややこしいし、意味がわからないし、もう考案するのは無理だ・・・。何が何なのかわからんただ、小説としては非常に面白い。まったく文句ない出来だ。正直いってスカイ・クロラシリーズだけはハードカバーで集めている。きれいだ。とてつもなくお気に入りだ。映画も楽しみです。はい。真剣に色々考えようと思ったら一作目から読みなおさないと、だめだなぁ。そういった役はほかの誰かに任せよう。なんかもう、考える事は放棄してただ、読んでみた。文字数抑え目でシャープだ。特に、空についてキャラクターが語る時の描写はこれ以外にないってぐらい。キャラクターの思考が非常にシンプルになっていて、個々のやりとりが、なんというのかなあ、ある事を言わせたいための会話というかなんというか、思想が一番出ている小説だと思う。短編として好きなのはワニング・ムーンとナイン・ライブスだ。何故かは、よくわからないが、多分他のは今までの作品の謎解きというのに焦点があたっていたのに対して、単純に短編として成立していたからだろうか。ジャイロスコープとかでもそうなのだが、あれは一番最初の試し書きというか、前座の話、という感じ。ネタバレ有このシリーズでは一貫して無駄なものが無い、極限まで単純化された小説、といった感覚を感じた。空には何も無くて、地上のしがらみも何もかもなく、ただ綺麗だ、美しい、というような描写を何回も繰り返し繰り返し述べている。何か意味はあるのだろうか?確かに地上の人間関係も、めんどうくさいしがらみも、重力さえも空に居れば関係がない。ならば、しがらみを抜け出して、みんな地上から逃げだそうぜ!というような事をいっているのだろうか。あるいはこんなしがらみばっかりの地上なんか抜け出して、とっとと死んで魂になろうぜ!とか?そういう意味ではないだろう。あるいは、ただ空は美しい、汚いものなど何もない、という事が書きたかったでも?あるいはこの小説では、空に限らず、空のようなものを感じられる場所を探せ、ということを言っているのかもしれない。こっちの方がよほど筋が通っているように感じる。あくまでも自分の中だけの話だが。すべての物事から逃れられる、自分だけの「真理」空に限らず、人によるが誰だってもっているんじゃないだろうか?死についても、頻繁に語られている。ただ全てはここに収束するような。 生きているか、死んでいるか、ということの無意味さだ。生死など、どちらでも良い、大した差ではない、ということが感覚としてわかるのだ。ある一面から見れば正しくて、ある一面から見れば正しくない、そんな感じ。肯定的な意見も、否定的な意見もどちらも持っている。何度も書いているけれども、個人の一生のなんと短い事。人類が生まれてからまだたったの十万年前に生まれたにすぎない。宇宙の歴史150億年生命の歴史35億年と比較してもあまりに短い。そんな中で、100年以下しか生きられない個人の生にいったい何の意味があるのかと。物事を考えて呼吸をして飯を食って生きている状態とそれらをやめた死んだ状態の間にどれほどの違いがあるのかと。そんな事を考える。あるいはこれも森作品に一貫した主張か。何故かこのシリーズは、設定も何もかも違うのに、「四季」と同じような雰囲気を感じる。どうして生きていたいのかと尋ねれば、楽しい事があるからと返ってくるのは道理だが、それは楽しいと思い込んでいるだけだと反論されたら、どう答えればいいのか。 簡単に死ねないような仕組みが社会にはある。死なないように教えられ、死にたくないように四方八方から糸で引っ張られている。自分が死んだら、そのあとはどうなるのか、と考えない人間はいない。それを考えること自体が、死ににくい仕組みの効果なのだ。これも森作品の一貫とした主張か?確か四季でも、同じ事を言っていた。生きていなければいけないと思いこむことが人間の自由を奪っている。ワニング・ムーンから長い間海の上で、戦闘機の中に収まったまま、奇跡的に通りがかった船に拾われたパイロットと戦闘機を見つけた乗組員の話 「では、どう思いましたか? 私があなたを見つけて、救出できたことを」「助かったと思いました。感謝しています」「何故ですか?」「何故?」「生き延びられたから?」「もう一度、飛べるからです」「ああ・・・・」死にたくないから、とかうじうじ悩まない、なぜ、生きているのか?という問いにも飛べるから生きていると答えるだろう。生きているという事と飛ぶという事が、直結している。このあと、乗組員は死ぬが、何故死んだのか。いや、もともとしぬつもりだったのだから、というかそもそもなぜ死のうとしていたのか。現実と夢の区別がついていないような話が少しあったから、そんなようなことで死のうとしていたのだろう。自分も似たような経験があるから少しわかる。現実と夢の区別がつかなくなって、現実に意味を見いだせなくなった事が。夢でみたことが現実であったことのように感じられて、簡単に現実が侵食されていくあの感覚。死んでも生きていても同じだ、と考えたのかもしれない、と読んでいて思った。パイロットの言葉で何かを会得?確信?して、確実に納得して死んだのであろう事は「ああ・・・」というセリフからわかるが、いったい何を感じたのか。自分には無いものを相手が持っているのを知って、それならば自分は死んでもいいのかと納得したのか。あるいはあまりにバカげた答えに何もかもバカらしくなってしんだのか。死ななかったのがうれしいのではなく、単純にもう一度飛べる事がうれしい。飛べるなら、死んでいてもよかったのだろう。単純な論理で、もうバカバカしくなったんじゃないかなぁ。と単純に中身について書いてみた。時系列だとか、誰が誰だとかいう事を考えるのはやめです。
2008.06.27
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あらすじ中絶の専門医の主人公が、異常殺人を繰り返す話。感想 ネタバレ無ちょっとアマゾンの感想を見たのだが、正気か・・・?と疑うようなコメントが多い・・。主人公は、たとえば料理を注文してそれを全部食べきらなかった女を、貧困にあえいで居る人間に対して悪いと思わんのか、という理由から監禁して飯を与えずに餓死させて殺す、というような異常性のある、いわゆるハンムラビ法典のような殺し方をする男だ。しかし根底の問題はデスノートとも関わってくるんだよな、よく考えてみると。それに対して、格好いいとか共感できるとか、ようするにみんな主人公に同情的だ。殺される方が全面的に悪い?法律で裁けない人間をさばいてくれる正義の使者のように見ているのだろうか。正直いって本編を読んでいるときより、アマゾンの感想を読んだときの方がよっぽど恐ろしかったわ。なんだか似たような話がマガジンで連載開始してたな、サムライセイバーの人の。読み終わったときはたとえられない読後感だった。肯定も否定もできない話だった、というのが最初の感想だろうか。そしてこの作品を妻に捧げたいと書いている作者は何を思ってこれを書いたのか謎だ。異常者の心理描写を楽しんだり、猟奇的な描写に背徳的な喜びを覚えたりするのが正しくとも、それを自分の代わりにやってくれた!ありがとう!というような感情を持つのは、納得できない話だ。ただ純粋にホラーとしてみれば、面白い話だった。中絶について否定する立場になんて、なれるはずもないが風景描写から、一つ一つの描写が恐ろしく丁寧である。犠牲者の描写も、克明に描かれている。中絶は22週間と6日目までなら、可能で23週間目から不可能となり、それ以降は殺人罪に問われる。この境目に一体何があるのか。生命とは何なのか。別に答えがあるわけではない。問いがあるだけで。ネタバレ有最後は絶対に逮捕されて、死刑のシーンで終わるのだと思ったのだが、そうならなかったのは何故なのだろうか。この主人公に否定的な感情で持って読んでいた自分には、死刑のシーンで、異常心理者が何を考えて死んでいくのか、というものは非常に興味深いものだったのだが。単純に死刑に賛成といっているわけではない。念のため。最後は逮捕されるだろう、と書いているが、実際に逮捕されているわけではない。まぁそんなに犯行を繰り返して、証拠が全く残らないというのは考えずらいから、本当に逮捕はされるだろう。だが、あえてそれを「書かなかった」のはどういうことなのか?読者に結末を任せる、といった単純な話なのだろうか。主人公に同情的な人間は、というより賛成派は、主人公が逮捕され死刑にされるのをよしとしないだろう。反対に自分のように、それとは逆の事を考える人間もいる、そのどちらにも納得してもらえるような、真中の落とし所という事だろうか?作中で、何人も人間が殺されている。虐待をしていた人間。犬の世話をろくにしなかった人間、食べ物を粗末にした人間。ちょっと話はずれるが、バナナの皮はどこへ消えた?といって主人公が慌てるところがあったが、あのバナナは結局どこへいったんだろう?女が食ったのかな?とそれはおいといて虐待はもちろん最悪だし、犬の世話はすべきだし、食べ物は粗末にするべきではないが、殺されて、しょうがない事なのか?それともこの疑問は虐待もされたことのない人間の傲慢さ?いやしかし難しいな。死刑に賛成か反対かみたいなそんなめんどくさい問題にまで発展してしまいそうだし、気軽に書くには重すぎる話ですよ、転調しましょう、転調。POPな感じで。純粋に、ホラーとして書きましょう。そういった問題は、どこか別のところでいつまでも議論しているでしょう。死刑に賛成か反対かなんて、もう何年話し合ってるんですか、そんな何年も話し合うのは、結論を出すためではなくて、話し合うために話し合ってるんですよ、そういうのにかかわるのは、疲れる。必要な事だとは思うけれど。疑問だったのは、人間の生き死ににはあまり興味がない、みたいな事を主人公がいっていたのに、親が中絶をやめて、生き残る事に成功した子供に向かってとてつもなく優しい気持ちを抱いているのは、どういうことなのだろう。これから生まれてくる子供に対してのみ、興味があるのか。 僕は中絶反対論者ではない。基本的には、中絶は女性の権利として確保されるべきだと考えている。ただ──僕には不思議なだけだ。 祝福されて生まれてくる子がある一方で、拒絶されて消えていく子がある。今後80年以上の年月を生きる対じがいる一方で光を見ることさえ出来ない胎児がいる。そしてこの違いは、親のほんのちょっとした決断によって決定される──その事実が、僕には不思議でならないだけだ。静かな怒りを感じる。もちろん直観としてだが。ちなみに、自分の直感は物凄い確率で外れる事が多い。おおよそ90%ぐらいか。海をイメージした曲を聞いて、これは山をイメージした曲だね、といい、恵まれない家庭をイメージして書かれたぼんやりとした文章を読み、これは豊かな家庭の文章だね、といいようするに、自分が発言するありとあらゆる推測のような文章は、おおよそほとんどすべて間違っていると考えた方がよい。ここでは実際には怒りなんて感じていないのかもしれない。ただなんとなく頭に浮かんだ文章を書いているだけで、自分でも本当にそうは思っていないかもしれない。ただ、書いているだけだ。それにしても不思議なのはその通りだ。なぜ、生きていけないのか。なぜ消されなければいけないのか。時には親の判断で、時には医師の判断で、生き残る命が決定される。それはしょうがない事だ。この世に生まれてこれる人間の数は決まっているのだから。産めよ増えよじゃあっというまに地球が人間だらけになってしまうから。養えもしない子どもを産んだところで、結局ご飯にありつけなくて全員死ぬ事になってしまうから。 「・・・・・・わたしのしたことは・・・殺人・・・・なんですよね?」僕は黙って女の目を見つめ返す。「わたしはあかちゃんを殺してしまったんですよね」彼女は僕に「いいえ」と言ってもらいたいのだ。「そんなふうに考えるべきではありません」と否定してもらいたいのだ。風の音をききながら、僕はしばらく考えるフリをする。だが、否定するわけにはいかない。それだけは、できない。「そうだと思います」僕が言い、乾き始めた女の目からまた涙があふれ始める。「あなたと僕は、生まれようとしていた命を殺してしまったんですから・・・」しかしこういう問いというのは、多いよなぁ。否定してもらいたいから、聞く、というような問い。たとえば彼女とうまく行ってないんです、どうすればいいんですか?みたいな問いだって、本当は悩みを聞いてもらいたいのであって、決して、一回話し合ってみれば?みたいな常識的な答えを返してもらいたいのであって、別れれば?とかそういう話は、向こうだって期待していないのだろう。そして、こと上のような問いには、決してウソをつけない絶対防衛ラインみたいなものがあるのだろう、主人公にとって。 僕は胎児を殺す事を職業にしている。その事実から目を逸らすべきではない。だから僕は胎児には謝らない。ステンレス製の医療トレイに乗せられた胎児に、『運が悪かったんだ。諦めろ』と心の中で言いきかせるだけだ。ただ、それだけだ。胎児に意識はあるのか、という問いはこの場合ナンセンスなのだろう(ナンセンスって言いたかっただけ)腹の中での記憶がある、なんていってる人もいるぐらいだし。ただ、22週ぐらいだとさすがに記憶もないだろうが、運が悪いか良かったか、胎児にわかるはずもなく。運が悪いかいいかってのは、はたして他人が決めていいものかどうか。こんな汚い世の中に生まれてこなくてすんで、よかったね、という人もいるだろうし、こんな楽しい世の中に生まれてこれないなんて、なんてかわいそうな、という人もいるだろう。あ、だめだまとまってねえ・・。ようするに全ては生きた後の結果論であって、生まれてもいないのに運がよかったもわるかったもないのではないかと、何にもないのではないかと。そういうことがいいたかったようなきがする、いや、作者がじゃなくて、自分がどう思ったか、ってことなのだけど。ひどい描写虐待をしていた女を水攻めして殺す時の描写。 口から大きな泡をボコボコと吹き出しながら、まるで沸騰した鍋に生きたまま入れられたエビのようにメチャクチャに暴れた。沸騰したなべに生きたままエビを入れた事がないからわからないのだが、そんなに激しく暴れるのだろうか? ていうか、なぜエビ・・?面白い話もあった。薬で妊娠しやすくすると、まれに5つ子が出来たりするという。当然5人も同時にうめるはずもなく(経済的にではなく、肉体的に)「やっとのことで授かった赤ちゃんなんです・・・どの子も、どの子も、5人全員がわたしの赤ちゃんなんです」略「それなのに・・・そのうちの3人を殺してしまわなくてはならないなんて・・・3人を殺してふたりを残すなんて・・・先生、わたしたちは生き残った赤ちゃんを、いったいどんな顔をして育てたらいいんです?・・・そんなこと・・・・そんなこと・・・・」これも聞いてもしょうがない問いだなぁ。そんなこと先生に訊いたってわかるはずがない。ただ、言わずにはいられない思いというやつだろう。そして、その5人のうちどの子どもを殺して、どの子どもを生かすかも、医師のきまぐれだ。掻きだしやすい位置にいたからとかそんな理由で死ぬか生きるかが決まってしまう。生命なんてもろいものなんだな、というあれ。
2008.06.24
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あらすじプロレタリア文学。感想 ネタバレ無プロレタリア文学とは、社会主義、共産主義的な文学。微妙な時代背景としては、当時集団の中に赤化(共産主義派の事)を扇動する人間がたくさんいて、企業としては扇動する人間を積極的に探して排除していた。最近漫画版が出ているが、どうもあっちはいかんなぁ。というのもキャラクターがいけめんすぎる。今の派遣ニートみたいな、今どきの若者、という感じ。蟹工船、党生活者という新しく出た方ではないので、言葉が古い・・・。なるべき元のまま書いたとあるが、本当にそのまま書いてあるので、状況把握しづらいというか、方言で喋っているのを頑張って聞き取ろうとしないと聞き取れない、というような状況になってしまった。そのせいか何だかよくわからないうちに終わってしまって、的外れの事を考えたりしていたのだがそれはまあ置いておこう。蟹工船は、虐げられてきた労働者が、まわりから隔絶されてなお、反逆を企てるその芽が生まれる瞬間を書いていたと思う。どんな人間だって反逆する事が出来る。一番危険なのは、管理され、指示されるのが当然だと思う事にある。そのせいで人々は自分で考える事をしなくなる。それが上にとっては好都合なのだ。それでもこれだけ酷い目にあえば、管理され、指示されるのが当然だと思うように「洗脳」されてしまった人間でも、反乱という観念が生まれるという事が面白い。解説では、プロレタリアの姿を克明に描きだしている、というような一文があったが、プロレタリアだけに限定するのはあまりに狭い。「集団」というものが、どういうものなのかを書いた作品のように思える。集団となる事の恐ろしさも書かれている、と思う。集団になることによって自分の実力の過多を図り間違えてしまう。一九二八・三・一五の方は、三・一五事件を書いたもの。今でこそ社会主義といえば、とんでもない!といった感覚だが、当時の熱狂ぶりは凄かったのだな、という感想。なんて一言でかたずけられるほど軽いものではないのだが、かといってその時代に生きてもいない人間が熱く語ったところで、それはそれでどうなのよ、という感覚を持つ事は間違いないはずで。こちらでもやはり集団をあつかっている。というより、何かこういう政治的な運動、というものは集団になりやすいのだろうか。社会主義=集団というのは想像しやすい話だが、そこに至るまでの運動の時点ですでに集団としてすでに機能している。ここでは、この集団化する事が、プロレタリアとして必要なものだ、と書かれているが、そのへんの話がよくわからないのだよなぁ。漫画版魔王でもさんざんいっている事だが、自分で考える事をしなくなる。「みんな」でやるというのが、基本的な考え方なのだから当然集団化する、個が無くなる、というのは望むべきものなのだろう。だが、当然そこに生まれる危険性はあまり書かれていない。革命を起こそう、という時には、集団化する事は必要不可欠だろう。集団のパワーというか、社会のうねりというか、どちらにせよとてつもないパワーが必要になるのだから、純粋にパワーを生み出すという意味ならば、集団化ほど必要な事はない。話が微妙に食い違うような気がするのは、明らかに社会主義じゃやっていけない、ただの理想論だと、考えている今のじぶんがいるからであって、無意味な仮定だけれども、過去この本が発売された当時ならば社会主義はまことに理想的なものにみえるだろう。疑問なのは、何故今、こうして蟹工船がはやったのか、ということである。現代にリンクしているから?ワーキングプア?格差社会?現代のサラリーマンに似通っているからだろうかただ派遣労働者には通じるものがあると感じている。不当な搾取。理不尽な労働時間。しかしこのときの話と比べるのはどうなのかな。ひどさでいえば、圧倒的に蟹工船のほうが上であるが、本質的な問題は確かに、同じなのだろうか?資本家に搾取される労働者、という構図は確かに変わっていない。当時は共産主義に逃げればよかったが、今ではそうはいかないだろう。こういった問題に関して書こうとすると話がでかくなりすぎていかんなぁー。そんなでかい話わかるはずないじゃないか。ただ、今何故蟹工船がうれているのかは一番重要なポイントだろう。反乱をおこしたがっている人間が増えている、というわけはありえないし。いったい、どこに逃げればいいのか。それとも逃げずに戦う、という選択肢を求めて、蟹工船が売れているわけではあるまい。革命の火種は、こんなところから始まっていました、なんて冗談にもならんわい。ネタバレ有蟹工船「大丈夫だよ。それに不思議に誰だって、ビクビクしていないしな。皆、畜生!って気でいる。」これが集団でいる事の利点、恐怖がまぎれる、勇気が湧いてくる、という事を書いているのか、それとも死ぬ覚悟を持てばなんだって大丈夫だ、というような事を書いているのかはたまたどっちでもないのか。まぁどっちもだろうな。恐怖心が無くなる、というのは決していい事じゃない。感覚が鈍くなっているという事だろう。最終的に、ストライキをやった船が、本書で書かれていた船だけではなかった、とあるがやはり人間限界というものがあって、そこを超えれば必ず、反乱がおきるという証拠だろう。逆にいえばぎりぎりの線を見極めて、家畜のように働かせ続ければストは起きないのじゃないだろうか?というような疑問も・・・。まるでおとぎ話が世界で同時に発生したように、何かがあるのだろう。絶対防衛ラインのようなものが。 絶対防衛ラインといったけれども、この船に関しては、ロシア人との接触というものがあったか。あれによって、赤化の思想が紛れ込んだのだろうか。ということは、やはり種火が何もないところでは、反乱は起こらないのか?とも考えたのだが、この船に限らず、他の船でも反乱があったということは、ロシア人との接触はあまり関係がなかったということか。また、さんざん威張り散らし、労働者を人間扱いしていなかった監督も、結局上に搾取されるだけの労働者だった、というのも皮肉な話だ。資本主義というのはそういうことなのだろう。本当に全人民の数パーセントだけが搾取し続ける。そして、ここで組織と闘争を経験した労働者たちは、それぞれその経験をいかして労働の層に入り込んでいったという事。ストライキをする、反乱をおこす、という事を、人に教えられたのではなく、自分たちで考えだしたというのが、いかに凄い経験だったか、という事だろう。いつだって人に教えられるより、自分で気づくという事が大事なのだ。りんごが地面に落ちる、これは地球に引き寄せる力があるからだという事を人に教えられて気づくのは全く大したことないのだが、自分で気づいたニュートンが天才であったように、耐えきれない状況だったら、反乱を起こせばいいのだ、というこの単純な構図に気づいた労働者達がいかに凄い経験を、発想を持ったか、というのがいいたかったのではないか。一九二八・三・一五どうにも、一面的な見方しかしていないというか、完全に虐待されるもの目線でしか書かれていないのかと思ったが、警官の事も少しだけ書かれていた。あくまでも労働者としての警官だが。 不思議に一つの同じ気持ちが動いていった。インクに浸された紙のように、みるみるそれが皆の気持ちの隅から隅まで浸していくように思われた。一つの集団が、同じ方向へ、同じように動いて行く時、そのあらゆる差別を押しつぶし、押しのけて必ず出てくる、たった一つの気持ちだった。たった一つの集団の意識の中に──同じ方向を持った、同じ色彩の、調子の、強度の意識の中に、グッグッと入り込んでしまっていた。「それ」は何度でも、こういう時に起こる不思議な──だが、しかしそれこそ無くてはかまわない、「それ」があればこそ、プロレタリアの「鉄」の団結が可能である──気持だった。 今、この九人の組合員は、九人という一つ、一つの数ではなしに、それ自身何かたった一つのタンクに変わっていた。 一部略臆病なものも、恥ずかしがり屋もなしに、全員が同じ「方向」を向いてそこに進むことができるというのが集団の利点だろう。 単独の価値や感覚は異物として場から排除され、時には丸めこまれ、私であるはずの主語が気付かぬうちに複数となり、個は全体の動きに無自覚なままに同調する。小さな場は川の流れのように幾つも合流しては吸収され、やがて抗えないほどの巨大な流れとなり、人はその奔流にのみ込まれる。いったんどっぷりと浸かってしまったら、この流れはもう自覚できない。なぜなら周囲すべてがその流れの中にいるのだから。森達也氏の言葉を借りる。これが危険であることは言うまでもない事だが、当時はそれを必要としていたのだし、重要だったのだろう。70~80年もたった今、どうこう言わなくてはいけない理由はない。全ての議論は結局、その時代の事をよく知りも知らない若造が何を言っているんだ?という事になるのではないか。実際まわりの50代の人たちに読んだ感想を聞いてみても、若いころは理解出来なかったが、今読むと凄く面白い、という感想が多い。
2008.06.23
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まさかの三部構成となってしまった今回の利己的な遺伝子だがあと少しで終わるぞおおお。楽天ブログの表示だと二万二千文字程書いた事になってるが改行まで文字数に入れてるので実際は半分の一万文字程度だと予想。ほとんど引用だけど書くのめんどくさかったぜ・・・12章、気のいいやつが一番になる、ではおもにゲーム理論からの、戦略としての生き方、を書いている。たとえば、雄と雌の集団があったとして、ほとんどの雌と雄は、つれそって一緒に子育てをする、ような戦略をとっていたとする。その集団の中に、子供を作るだけ作って、あとはほかの雌のところにいってまた子どもを作って逃げるという戦略をもった雄が混ざっていたとする。当然その雄の遺伝子が一番繁栄することになる。そうするとその集団には、生ませるだけ生ませて、逃げるという遺伝子を持った雄が蔓延することになる。だが、その遺伝子だらけになった場合、雌は対抗措置としてそういった雄は相手にしないという戦略を取るようになる。そうするとその戦略を取り続ける雄の繁栄は終わり、地道に子育てを手伝う雄の遺伝子が繁栄することになる。戦略の話は複雑で、書くのが大変なためこれでひとまず終了で・・・。 動物の行動は、それらの遺伝子がその行動をおこなっている当の動物の体の内部にたまたまあってもなくても、その行動の「ための」遺伝子の生存を最大にする傾向を持つ。良く意味がわからんが重要そうだから書いた。どこがわからないか書いておこう。それらの遺伝子がその行動をおこなっているっていうのがまずなんなのかわからないし、動物の体の内部ってのが何を意味しているのかわからないし、行動のための遺伝子の生存という言葉の意味がわからない。結局何にもわかんえーーーこれは本書に書いてあったかどうかわからないが、アリの話を思い出した。アリはしばしば川を渡る時に、自分の体を犠牲にして、仲間のために橋をかけるという。これは皇帝ペンギンの話とは真逆ではるが、利他的な行動といえるだろうか。アリの一匹一匹っていうのは、全部女王アリから生まれてきたのであって、近縁度っていうのは恐ろしく高いはずである。というか、あれはもう一匹一匹の遺伝子というか、種類としての遺伝子と考えた方がいい。この意見は13章、遺伝子の長い腕の意見である。たとえばオオカミが群れを作るように、ハチが巣を作るように、ハチは一匹一匹が遺伝子の体現者なのではなくて、巣全体が、群れ全体が一個の遺伝子なのだという考え方。おそらくアリもこれに近いのではないか。つまり自分が死ぬことによって、仲間が渡れるというよりも、自分たちの体の一部を犠牲にして、自分の本体が生き延びる、という表現が正しい。つまりアリが自分を犠牲にして橋をかけるのは利己的な行動といえるだろう。何故遺伝子は結合して、ガタガタと動くロボットを作るのか?何故無駄にでかい、エネルギーを大量に摂取しなければいきていけないクジラや、ゾウなどのでかい生物を形作るのか? 小さな生物のための道がすべて満杯であっても、大型の生物にとって好都合な生活の道は残っているからだ。たとえば大型の生物は小型の生物を食べることができるし、彼らに食べっられるのを避けることができる。最後に、利己的な遺伝子についての要約を書いたものをさらに要約する。あらゆる生命の根本的な単位であり原動力は自己複製子である。自己複製子とは、宇宙にあるどんなものであれ、それからそのコピーがつくられるもののことだ。自己複製子が存在するようになれば、それは自らの複製を果てしなくつくりだしていくことができる。だが、どんな複製子も完全ではない。自己複製子を作る過程で、いくつかの変異を得ることになる。それはときには全くダメなものとして消える。だが新しく巧妙なやり方を獲得した変異があらわれる。より効率よく自己複製するものだ。当然後に残るのはその複製子である。今日においてさえ、ひとつの遺伝子の表現型効果が必ずしもすべて、それが位置する個体の体の内部に限定されていない。遺伝子は個体の体壁をとおりぬけて 、外側の世界にある対象を操作する。遺伝子の長い腕にはっきりした境界はない。あらゆる世界には、遠くあるいは近く、遺伝子と表現系効果をつなぐ因果の矢が縦横にいりみだれている。 進化とは、たえまない上昇ではなくて、むしろ安定した水準から安定した水準への不連続な前進のくりかえしであるらしい。総括いやはや恐ろしいほど長くなってしまった。恐ろしく疲れた。何でこんなことやってんだ。いやしかしこれぐらいの長さになるのは読んでいた時にすでに予測していたことだ。さらにもっと詳しく要約し、考えを逐一書いていったら五万文字を超える事は容易に想像できる。ほとんど考えを書いてこなかったように思うが、およそ反論を許さないほど論理的であり、文章がそのまま完成しているのでもうこれだけでいいような気もするのである。語るとすれば、中絶の話や信仰の話など、ちょっと横道にそれたような話しかできない。およそ今まで読んだ本の中でこれほど奇妙な充実感を与えてくれた本はほかにないであろう。またここに書かれていることがあくまでも、遺伝子からみた考えであって、全てを絶望するような材料にする必要は全くないのである。本書でも書かれていたように、遺伝子に反逆できる人間の持つ意識の賜物ゆえ。内容としては遺伝子の長い腕が、しょうしょうそこまでの話と比べてわかりづらかっただけで、あとは恐ろしいほど簡単に説明されている。10章のゲーム理論などは、絶対に数学的な説明が必要になってくると思ったのだが(ゲーム理論とは数学であると考えていいのではないか、よくしらないが)文字だけでよく説明したものだと感心しきり。全く書き足りないのだがさすがに疲れた・・・。もうタイピングはいいや・・・。
2008.06.22
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上の感想というかすでに要約になっているが、続き。ネタバレ有上で書き忘れた事動物、昆虫の利己的行動の例たとえばカマキリの雌が雄を食べるのは、単純にこれからの出産にそなえて栄養の確保のためと、そして性 行為の活発化のためである。昆虫の場合、頭が無くなっても性行動に支障がないらしい、むしろ活発になるとか、恐ろしい奴らだな本当に。南極の皇帝ペンギンの場合ペンギンたちは、アザラシに食べられる恐れがあるため、水際にたって飛びこむのをためらっている。もし仮に誰かが飛び込めば、アザラシがいるかいないかわかるが、誰もその役をやりたくないのは当然なので、全員がひたすら待っている。そして、時々押し合ってだれかを水中に落とそうとする。同じ立場だったら人間だって同じ事をするだろうな。仮にそれをしたやつを非難するとしても、はたして本当に非難するのは正しいのだろうか、というあれ。それからこれも、補足なのだが、遺伝子という見方からすると、子供を殺すのも、産まないように制限するのも、全ては最適化ゆえだ、というような結論になった。今の日本を見ると、中\絶という事があまりにも多い。実際に生まれてくる子供のほとんど3倍ぐらいの数の子供が、中絶によって消えていく。これも一言でいえば、増えすぎないような調整にすぎない、という事になるのだがどうにもやるせない話である。実際に中\絶しなかったらとんでもねー事になるのはわかるのだが・・・。というか他の動物は本能的にやっている、産児制限を何故人間は出来ないのか、なんて考えてみたけれども、どう考えても「意識」があるからだろうなぁ。あえてSEXをしない、産まない、という選択肢を選ぶことのできるのが人間ならば、その逆、無理でも孕む、というのが出来るのもまた人間だということか。さて、ここからまた本書の続きの要約作業を始める。8章、世代間の争い。ここでは母親は特定の子どもをひいきするのではないか、家族の中にすら利己主義やごまかしがあるのか、というような事についての話が語られる。例1 もし母親が、甲乙いずれか一方の子供の命を救うしかなく、救助を受けなかった子供は、死ぬ他ないという二者択一をせまられたとすると、彼女は年上の子供の方を救おうとするはずなのだ。これは今まで育ててきた労力を幼い子供と年上の子どもとで比較して、投資額の大きい年上の子どもを救うだろうという計算である。幼い方を救った場合、年上の子と同じ年齢に育て上げるためにまた貴重な資源を投資せねばならなくなるから。また問題が、死に直結するものでない場合は、幼い子どもの方に比重がいきやすい。なぜならば年上の子供の方がなんとかなる可能性が高いからだ。ここからの話は面倒くさいので簡単に書く。母親は基本的に資源を手に入れた場合、子供に渡した方が貢献度が高くなる。それは子供が無力であり、たとえばチョコひとつあたりのエネルギーをとっても、重要度が母親と子供では段違いなのである。一つのチョコレートで母親が3の栄養を受け取るところを子供は10の栄養度を受け取るようなものだ。子供たちの中で、ひ弱な、小さな個体がいた時の話。育ち損ねの子供自身は最後まで努力するように思うかもしれない。 育ち損ねた子供の余命が、衰弱によって短くなり、親による保護投資が彼に与える利益が、同量の投資によって他の子供たちの獲得しうる潜在的利益の二分の一より小さくなってしまうなら、彼は自ら名誉ある死を選ぶべきなのである。こういった命令を与える遺伝子は遺伝子プール内での生存率は高い。なぜならこの戦略をとらない遺伝子に比べて、この遺伝子ははるかに生き延びる確率が高いからである。彼の死によって救われる兄弟の中には、彼の遺伝子が50%は入っており、自分が死ぬことによってほとんど自分と同じ量か、それ以上の遺伝子を救う事が出来るのである。 育ち損ねた子供の生涯には、回復不可能となる時点が、あるにちがいないのだ。この時点に達しないうちは彼は努力を続けるべきである。しかし、そこに達したら、彼はただちに努力を放棄せねばならない。そして、自分の体を、仲間や親たちに喰わせてしまった方がましなはずなのである。9章。雄と雌の争い。 きんしん そうかん(←クソ楽天ブログめ、わいせつな表現だと?)は、種間交雑と同様に、大きな遺伝的損失を生み出しやすい。今まで何故きんしん そうかんがいけないのかよくわからなかったのだが、つまるところ致死性遺伝子というのをたいてい誰もが持っていて、もしそれとぴたりと結合するような遺伝子を交配相手が持っていた場合、子供は死にいたる病を持って生まれてくるという事になる。それが見ず知らずの相手とならば、自分と同じ致死性遺伝子を持っている可能性は低いが、きんしん者の場合だと、同じ遺伝子を持っているのだから、うまく致死性遺伝子が合わさってしまう可能性が高いということである。そしてその場合、雌のほうがきんしん そうかんを厭がる傾向にある。なぜならば子どもを育てるのは主に母親なので、結局死んでしまうのならばその多大な損失を払うのは雌だからだ。 父・娘間のきんしん そうかんのほうが母・息子間のインセンストより例が多く、兄・妹間のきんしん そうかんの頻度が両者の中間くらいになるのではなかろうか。また、雌は妊娠期間というものがあり、その間子孫を残す事はできないが、雄の場合そうではない。いくらでも交尾できて、いくらでも妊娠させることができる。男に浮気がつきものなのも、これがあるからだろう。11章、ミーム。本書の中で一番面白くて、興奮したのがこの章である。遺伝子とは何だろうか、自己複製子である、では、自己複製子とはなんだろうか、複製を作る過程、ものである。つまりそれは人間が伝えてきた文化も、自己複製子、それこそがミームであるという。たとえば神という観念は、もう長いこと受け継がれてきた強い自己複製であるといえる。本書では生存価といっている。現実の不公平は神によってただされる。紙が救ってくださる、というような医者の使う偽薬と同じで、プラシーボ的なもので人々には効き目がある世代から世代へと神をコピーしていく理由の一つである。そしてそこでは、ミームという形だけで神は実在するのである。こっからはただの感想だけれども、何故神という観念がここまでずっと受け継がれてきたかというと、人の意識が最初からそういうものを必要としていたという事なのじゃないかと。ミームには暗い面もあれど、明るい面もある.死後に残せるものの一つが、ミームだ。素晴らしい小説だったり音楽だったりを生み出したら、それはミームとなって人の頭の中に生きていくかもしれない。もっとも、今となってはかなり無理がありそうだが。 われわれは遺伝子機械として組み立てられ、ミーム機械として教化されてきた。しかしわれわれには、これらの創造者にはむかう力がある。この地上で唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである。未来を知覚できるのは人間だけだ。何千年後かにやってくる氷河期を見越して活動できるのも人間だけだし、何十万何億年後にやってくる太陽の死にそなえて何かできるかもしれないのも、人間だけである。遺伝子を残せと性に没頭させようとする本能に抵抗できるのも人間だけである。そう考えてみると、確かに人間が特別な存在なのだと改めて理解する事が出来る。
2008.06.22
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これはなかなか長丁場になりそうだぞ。何文字書くことになるやら。生物界を操る、利己的遺伝子の真相に迫る。感想 ネタバレ有正直いって、人生が変わるとまでも言わなくても、人生観を一変させてしまいそうな、そんな内容だった。これを中学生の時に読んでいたら、今とは全く違う人間になっていたかもしれないというそんあ予感もある。あまりにも衝撃的すぎて色々考えながら読んでいたら、全部読み終わるのに1か月近くかかっている。中断したりなんやりで、内容を確かに覚えていられないのが非常に残念だ。ちょっとづつでも、考えた事をメモしながら読んでおけばこんな事にはならなかったのだが。全く数学というものを使わないからか、恐ろしいほどにわかりやすい。こんなにわかってしまっていいのか、とか、こんなに面白くていいのか、という思いを抱きながら読んでいた。およそ想像しうるかぎり最善の文章が使われているように感じる。読んでいて、田中ロミオの原点を見たような気がする。ミームだとか、家族計画だとかは、ここからとったものなのだろうか。ミームは確実だから、家族計画も当然、そうなのだろうとは思うが。少しずつ引用しながら先に進んでいくとする。 私は、淘汰の、したがって自己利益の基本単位が、種でも、集団でも、厳密には固体でもないことを論じるつもりである。それは遺伝の単位、遺伝子である。全ては、遺伝子なのである、という考え方は、最初は意味がわからなかったものの、最後にはなるほど、と考えるようになり、さらに何故そうなったのかというその先まで考えられるようになった。それはつまり、何故遺伝子は体というものを構築するのであるのか、というような問いである。 ことばというものはわれわれが自由に使う道具にすぎず、またたとえ「生きている」というようなことばが辞書にあるからといって、そのことばが現実世界における何か明確なものを指しているとは限らない。人間の苦難はこういったことを理解していない人があまりに多いために生じているのだ。これは完全に同意である。ことばは、ことばとして発せられた時点で、ありのままの意味を失ってしまう。何かしゃべればしゃべるほど、その人はウソをついているといってもいいかもしれない。およそ本当の事なんて、ことばで説明できるものではない。哲学的な見方かもしれないがあなたのみている赤と、私のみている赤は、違う赤かもしれない、というような話でもあるし、違う意味でもある。うまく説明できなっ 一つの生存機械はたった一個のではなくて何十万もの遺伝子を含んだ一つの乗り物である。ここでいう生存機械というのは人間にとどまらずにこの世に生きている、と定義されるありとあらゆるものである。生きているという言葉は上に書いたように、特に明確に決まった意味があるわけではない。 DNAのいう真の「目的」は生き延びることであり、それ以上でもなければそれ以下でもない。今こうして笑ったり泣いたりしている自分は、DNAが生き延びるための装置でしかない。 意識とは、実行上の決定権をもつ生存機械が、究極的な主人である遺伝子から解放されるという進化傾向の極致だと考える事が出来る。意識というものを持っている人間が、特別な存在だという事。このことについてはのちに後述。 ──利他的なものにせよ利己的なものにせよ──が進化するためには、その行動のための遺伝子が別の行動のためのライバル遺伝子、すなわち対立遺伝子よりも遺伝子プール内でうまく生き延びることが必要である。これも本書の中でかなり重要な話である。すべての遺伝子は、現場に適応していける遺伝子のみが生き延びていける。人間でたとえれば、狩りを主流とする人間の足が、長ければ長いほど、狩りに有利だ。そうすると足の長い遺伝子を持った人間は、のちの生存競争を生き抜く可能性が高くなる。短い脚の遺伝子を持った人間は、獲物を狩れず死んでいくからだ。その場合、足の長い遺伝子が残り、短い遺伝子は消えていくことになる。第五章、攻撃──安定性と利己的機会では、生存に効果的な戦略、という観点から遺伝子というものを見ている。戦略は基本的にシンプルなもので、たとえば小さければ逃げろ、大きければ攻撃しろ、といったたぐいのものである。ライオンはたまに、自分の子供を食べる事はあるが、他のライオンの子供を食べる事は決してない。それは報復の危険が高いからである。第六章、遺伝子道では、利他的な行動をとる時に、いったいどういう計算がおこなわれているか、というような事が書かれている。例えば兄弟がおぼれかけていたとして、その兄弟は自分の遺伝子を50%は持っているわけである。その場合、あまり危険でない場合なら確実に助けるであろう。もし仮に危険で、死亡率が50%を超えそうな場合は考えるかもしれない。50%を得るために、自分が持っている遺伝子100%を潰すことはないからだ。全く知らない他人でも、それがほとんど危険のない場合ならばプラスになる可能性が高い。なんらかの「見返り」が得られるかもしれないからだ。仮に得られなかったとしても、それはしょうがない。このことについても、のちほど後述する。見返りを求める遺伝子の話は非常に複雑なため、一度に説明することはできない。 溺れかかっている人間が野生のイルカに助けられたという話をよくきく。少なくともその一つには確実な証拠がある。これは、群れの溺れかけているメンバーを救うための規則の誤用だと考えられる。この規則における、群れの溺れかけているメンバーの定義は、次のようなものであるにちがいない。「水面近くで息ができずにもがきまわっている細長い物体」。 多くの種では、母親は父親より自分の子を確信できる。母親は、目に見え、触れることのできる卵や子どもを産む。彼女には自分の遺伝子の持ち主を確実に知るチャンスがあるのだ。あわれな父親ははるかにだまされやすい。だから、父親は母親ほど育児に熱をいれないのだと考えられる。なるほど、確かに。この件についてはまたあとで書く事があるのでその時でもいいか。第七章、家族計画では、全ての動物が、個体数を増えすぎないように自動的に調整する遺伝子を持っているという話である。どこかの宗教のいうように、子供を自然なやり方で産むか産まないか決めていたら、この地球はあっというまに人間で埋め尽くされて、飢餓によってみんな死んでしまうだろう。それと同じ事を動物は本能レベルでやっているという。たとえば 個体群があまり大きくなると、なわばりをもてない個体が出来、彼らは繁殖できないことになろう。ウィン=エドワーズによれば、なわばりの獲得は繁殖への切符あるいは許可証をてにいれるようなものである。成立しうるなわばりの数には限りがあるので、いわば繁殖許可証の発行数が限られているようなものだ。しかしこの説は正しくないらしい。というよりも、証拠がない。ここで新説が出る。 子をたくさん生みすぎる個体がふりをこうむるのは、個体群全体がそのために絶滅してしまうからではなく、端的に彼らのこのうち生き残れるものの数が少ないからなのである。たとえば鳥が、たくさん産めるからといって5個も6個も卵を産んだとしても、それを育てるために必要な量が増えて、結果的に食べさせてやる事ができなくて全員死んでしまうかもしれない。だったら初めから、3個か4個の卵しか産まなければ、エサもやれて結果的に生き延びる数は多くなる。間引き、というような行為である。それが今の人間の文明ではおかしくなってきていると作者は言う。たとえば日本でも、経済的に問題があって、とうてい育てられそうになくても、国家に託すという選択肢が出来てしまう。産んで産んで、それで赤ちゃんポストなどに捨ててしまえば、育てるという面倒な行為をしなくても、自分の遺伝子を大量にばらまく事が出来る。 自分でやしなえる以上の子どもをかかえている人々は、たぶんほとんどの場合無知のゆえにそうしているのであり、彼らが意識的に悪用をはかっているのだと非難するわけにはいかない。ただし、彼らが多数の子を作るよう意図的にけしかけている指導者や強力な組織については、その嫌疑を解くわけにはいかないと私には思われる。日本みたいにどんどんうめ、なんて言われたって、経済的に厳しいのだから無理にきまっているんだ。本当に産ませたかったら、補助金を出すしかない。だいたい年金を下の世代が支えなきゃいけないような、そんなわけのわからない破綻しか見えない年金制度にしたのがおかしいのだが。七章終りと、ここまでで13章立ての本書の半分である。そろそろ文字数が一万文字を超えそうで危ないので次のエントリに移って書こう。
2008.06.21
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あらすじミミズクと名乗る少女と、魔物の住む森の、夜の王の物語。って面白いぐらい連続で~のって続いてるやんん感想 ネタバレ無なんというか読み終わった感想が、まんま有川浩のコメントと同じ感想だ。奇をてらわないまっすぐさに負けました。泣きはしなかったけれども、まっすぐな、悪くいえばありがちな、他の作家が問題を別のものに置き換えて、表現していくようなところをそのまま直球で、物語にしたような、そのストーリにつまらなかった、なんていう事はできなくて。さすがは電撃小説大賞受賞作か。感想を書こうとしても、恐ろしいほどにシンプルな話であって語るに落ちるというか、というか意味もわからずに語るに落ちるなんて使っているのだけれども、意味あってるのか。確かに面白かったのだけれども、どこか一か所を取り上げてあーだーこーだいうような作品でもない。これこれこーいう作品だよ、というような説明がしづらい。赤ずきんちゃんを、話の核心に触れずにどういう作品か説明するのが難しいように、説明が難しい。だからここはこれで終わりだ。
2008.06.21
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あらすじ死んだ姉の声が頭の中に聞こえるようになったりなんかしちゃったりなんかしてー感想 ネタバレ無面白いなー。さくさく読めた。とても自然な話だった。というかこのネタ、どっかで見たことあるようなネタだけれども。最近どっかで見たネタだなぁと思っても、それをどこで見たのか全く思い出せない。乙一のCalling Youかなぁとも思ったけど漫画でこんな話があったような。まぁいいや。今マガジンでやってるサッカーのやつもある意味似たような話か。完璧超人の姉or兄とそこそこ出来るものの、完璧超人の姉or兄に圧倒されて劣等感にさいなまれる妹or弟の成長物語という構図は、いったいいつまでこの世に居座り続けるのだろうか。自然にするすると話が頭の中に入ってくるものの、なんかそのまま頭の中から抜けて行ってしまったような・・・正直いって2日前に読み終わったばっかりなのにあまり内容を覚えていない。ベテラン作家で何作も出しているからだろうか。純粋に面白かったけれど、残るものがない、なんていったら生意気か。その分、安定した面白さがある。リズムが崩れない。雰囲気が崩れない。あるべき結末へと向かっていく。青春ものらしく、色々な事で悩む。家族の事、友達の事、学校の事、恋人その他いろいろ。これ以上ないほど青春している。ああうまく書けないけれど、そういう事が書きたいわけではなくて・・・。なんていうのかな、リアルであるというわけでもなく、かといってリアルじゃないというわけでもなくて、その中間?青春の一つの形?そんな感じ。ネタバレ有お姉ちゃんが、あまりにも完璧すぎてちとつらいなぁ。弱さを見せるような描写がほとんど無い。死ぬ間際でさえ周りの事を考え続けるそのひたむきさはある意味戦慄した。それでいて声になって妹の中に生き続けるとか、あまりにも強い執念といえよう。というか、これはすでに呪だな。呪いだよ。声だけの存在になっても、恨み事を何一つ言わないとか少し・・いやかなりおかしい。それでいて、妹にどこかへ行ってしまえと言われれば、即座に消えうせる潔さ。似たような話で、消えちゃえと言われたら返事はしなくなったけれども、実は居るんだよ、というようなオチの話があったような気がする。今回の話も似たようなオチかと思ったら、勝手に美加はもうお姉ちゃんはいないんだ、と納得してしまっている。霊感でも備わってんのか?お姉ちゃんの事を忘れないように、お姉ちゃんの話を書くよ、といって、その話のタイトルがふたり、だった時はやはりいい気持ちになったものだ。他には特に書くような事もナシ。
2008.06.19
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あらすじ死んだが、抽選にあたって、人生をもう一回やりなおさせてもらったが、魂を入れてもらった身体はなかなかひどい状況だという話。感想 ネタバレ無いやいや、しかしこれはなんだ。思ったよりずっと面白かったな。物凄い簡単な文章でまるでライトノベルのようだと思ったが。あれだな、だがカラフルというタイトルなのに、カバーがまっ黄色なのはどういうことなのかと、読み終わった時に思わず突っ込んでしまった。何でやねん。黄色と白と黒しか使われないじゃないか。批判しようと思ったら氷菓の批判がそのまま当てはまるような気もするのだが、面白かったと感じるのはこれ単に、相性の問題なのだろうか。それにしても重い話がポンポンと飛び出てくる物の、なんとも軽いタッチで次々とかわしていくのはある種気持ちいいものがある。星々のように、いちいち真に受けて暗くなっていく展開も好きだけれども、こっちも好きだ。ひとつ問題点としては、最終的に、結局人間みんないい人なんだよ、というような、そんなノリで終わる作品を、作品としては受け入れられてもなかなか現実的には受け入れられない心情になってきた。簡単にというつもりはないが、改心するシーンなどがあるだけで、どうにも反抗心がむくむくと起き上がってきてしまう。人間そんなに簡単に改心したりしねーよ、と。それでも面白かった事には変わりがない。一気に読んでしまった。最後のオチはなんだかどっかで見たことのあるような、ふーんというような平凡さをもっていたけれど、それ以外ないというような、気持ちのいいオチだ。ネタバレ有お母さんが、そんな簡単に今までの事を悔やんだりして、あなたの気持ちがわからなかったーなんていって改心するのは、白けたといえば白けた。そういう意味では最後まで変わらなかったひろかなどのキャラクターはよかったといえなくもないが、何かひろかはひろかで怖いもんだ。まぁこんな人格破綻したような人間じゃないと、売春なんてテーマどん底まで暗くなるしかないのだろうけれども。「・・・いろんな絵の具を持っているんだ、きれいな色も、汚い色も。この世があまりにもカラフルだから、ぼくらはいつも迷っている。どれがほんとの色だかわからなくて。どれが自分の色だかわからなくて。」 ときには目のくらむほどカラフルなあの世界。あの極彩色の渦にもどろう。あそこでみんなと一緒に色まみれになって生きていこう。たとえそれがなんのためだかわからなくても──。主人公の特性というか、抱えている悩みみたいなのは、本来誰にだって当てはまるものだから、普遍的すぎる。主人公だけの悩み、みたいに書かれている部分があるけれど、誰だってもってる悩みだ。要約してしまうといろんな人間がいて、強そうに見える人間も弱そうに見える人間もみんなみんな悩みとかを持ってるんだよ、というような事を言っていたような。それにしても上みたいに、こんなにカラフルを強調してるのに何で表紙がまっ黄色なんだよ、ありえないだろーもっとカラフルな表紙にしろよ!短いから、人間が薄っぺらく思えてしまうのも、しょうがない事だろう。ひろかとか、ここに書いてある事だけを読めばただのおかしい女だし、唱子もまるでストーカーだし。何故生きてるのか、なんて常日頃から考えなきゃいけないぐらいなら死んだ方がましだ、なんて考えている。ゲームをやっている時に、ふと、何で自分は大切な時間を使ってクリアに何十時間もかかるようなゲームをやっているのだろうと考えが浮かんでいつまでも消えない時があるが、そんな事を考えてしまったゲームは即座にやめてしまう。ゲームに限らず小説でも漫画でも勉強でも何でも同じだ。何でこんな事やってるんだろう、という問いはそのまま何故生きているのか、という問いに直結している。なんでこんな時間をかけてブログを書いているんだろう、なんて考えがおかしい。本質的にいえば全て無意味だ。人の記憶に残る事を、なんていう綺麗事は通用しない。遺伝子だって子供が生まれたとしても二分の一、その子供だと四分の一、五世代も離れたら自分の遺伝子なんてほとんどなくなってしまう。小説を書いても、何をしても後世に名が残ったとしても、それは人の世だけの話だ。名が残るといっても、すでにそれは自分ではなくて、ミームだ。情報的模倣子としての存在しか残っていない。ただ書きたいから書いている。なぜ生きているのか、なんて関係ない、そんな疑問を感じる余地もないほど熱中して、生きてるんだから。たまに考える事はもちろんある。が、いつだって長続きしない。生きていて良かった、というような出来事があるから。何故こんなことをしているのか、なんて事が頭にのぼらないほど夢中になって生きればいいのだ。思ったら死ね、極論だとそうなる。森博嗣の言葉を引用すれば おそらく、プラスが不足している人は、1つのマイナスが消えても、すぐに新しいマイナスを見つけてきて、落ち込んでしまうだろう。 夫婦仲が悪く、仕事も上手くいかなくて、借金は増え、子供たちもにも見放され、友達もいない、信頼できる人は死んでしまい、どん底の状態だ、という場合に、夫婦仲を戻す、仕事を上手くいかせる、借金をしない、子供たちに戻ってきてもらう、友達を作り、新たに信頼できる人を探す、というようなことをすべて実行するなんて到底不可能だ。だから、もう駄目だ、と思い詰めている。そういう人が、たとえば、子犬を一匹飼うだけで、一時的にでも問題が解決するかもしれない。この「一時的」が大事である。僕は、生きるということは、そういうものだと感じている。面白い。
2008.06.18
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感想 ネタバレ無お、おおおお。凄い、凄いぞ。もうずーっと昔の本なのにちっとも古さを感じさせない。時代設定はもろ昭和初期で、作品の中身といえばもうまるっきり今と似てもにつかないほどの古さなのに、その中に流れる空気が、新しい。太宰治の作品なんて、教科書に載っていたようなものしか読んだ事ないもので、読んでいて何故、2作品とも女性が語り部なのだろうと不思議に思ったものだ。しかも違和感を感じない。男だからかもしれないが、それでも驚くほど自然だ。解説を読んで知ったが、女性の書き方に定評があったらしい。納得。太宰をほとんど読んでこなかった自分を悔やむ。ほんの数ページの短編であるおさんでさえ、その存在感はそこらの長編よりもでかい。できれば当時の時代背景までよく知っていたら、もっと楽しめただろうに。現在との、あまりの価値観の違いに戸惑う事も多かったもので。どこにでもちりばめられているはっとするような表現も凄いし、セリフの端からにじみ出てくる各人物の思想も凄い。それがそのまま作者の意見へと繋がっているのかはわからないが、ズドンとくる。今まで何度も人が死ぬその間際に何を考えるか、という事が気になって気になって、小説の中にそれを求めて、同じような作品を何作も読んできたけれども、何かがここに極まった感がある。生きるとは何なのか、なんていう高尚なテーマがあるとは言わないが、よく考えなくてもそんなテーマは、小説というテーマで生き物が出てくるのならば、意図しなくても勝手に出てくるものだ。ついに行き着いたか、という感覚。斜陽にはその一例が書かれているだけれども今まで読んできたものの中でも、格別の読後感だった。文学だから、読んで為になったとか、教養が身についたとか、人に自慢できるとかそんなくだらないことではなくて、純粋に面白い。ネタバレ有幸福感というものは、悲哀の川の底に沈んで、かすかに光っている砂金のようなものではなかろうか。理解しがたいがなんとなく気になった。いつかうまい感じに、スルっと理解できるようになる時が来るかも。今は意味はわかるものの、感覚として伝わってこない。作中でお母さんと、弟が死ぬ。そのどちらも、思わず唸った。母親が死んだ描写の次のページが、戦闘、開始。で始まるところから、意味もわからず鳥肌がたった。いったい何と闘うんだよ、いきなり戦闘開始ってなんだよ、なんていう疑問は全く浮かんでこなかった。ただ格好良い、と思ったし、否定的な文句が出てこない。ここから作品の雰囲気も、ガラっとという表現を使ってもいいぐらいに、変化したように思う。戦闘、開始。が意味するように、今までの停滞した、状況から流動的に。動かし始めたような、展開が急加速を始めたような、実際に加速しはじめたのだが。いったい何と闘うんだよ、なんて野暮な突っ込みをいれなくても、何と闘うのかなんてのは、すぐ次の行に書いてある。僕は自分がなぜ生きていなければならないのか、それが全然わからないのです。生きていたい人だけは、生きるがよい。人間には生きる権利と同様に、死ぬる権利もあるはずです。社会性というものを持った瞬間に、自殺というものはタブー視されるはずだから、死にたいから死にまーすっていってみんな死んでったら、社会が保てないんじゃないか。だから死ぬ権利なんてほんとはないんだと思うなぁ。だからこそ人間は生まれながらに死ぬ事が出来ない、という不自由を背負って生まれてくるわけであって。誰も自由ではない。大体が、弟も社会不適格者と呼ばれるにふさわしい人格を持っていたわけで。自然の中に、生活していたなら、勝手に死んでいってしまうような弱い人間でも、今の人間の社会というやつはそれを助けてしまうわけであって。弱肉強食があてはまらない今の世に生まれてきたこと自体が不幸という話でもあるのだけれども。そんな話をしだすと、ヒトラーばんざーい!といっているのと何ら変わらなくなってくるから困るのだが、助けないわけにはいかないというのが、なんかもう、生まれた瞬間に、死ぬ権利を奪われて不自由になるのと同様に、すでに欠陥といえるのかもしれぬと思ったわけで。姉さん。僕には希望の地盤がないんです。さようなら。中略夜が明けてきました。永いことご苦労をおかけしました。さようなら。ゆうべのお酒の酔いは、すっかり醒めています。僕は、素面で死ぬんです。もういちど、さようなら。姉さん。僕は、貴族です。何でこんなに、手紙なのにさようなら、と何度も書いたのか、とか僕は、貴族です、にはいったいどれだけの思いが込められているのか、とか希望の地盤がないというのはどういうことなのか、とか本当に色々語りたい事があるのだけれども、そんなに書いているのはさすがに面倒くさい。それに語るためには相手が必要だ。この時代の貴族というものに、どれだけの重さがあるのかが、理解できないものの正直、この文章を読んだときの衝撃は計り知れない。陸上競技で大会に出たら、自己ベストで走りきった、みたいなー衝撃が。意味がわからないな。いやいやいやだって僕は、素面で死ぬんです。なんて壮絶にすげー、すげー。ってもう単純な表現しか出てこないぐらいポカーンとしてしまうわ。とりあえずスゲー。上の文章のあとに、姉の手紙という形式で次の文章が入るのだが。ゆめ。みんなが、私から離れて行く。ゆめ。って何ぞや・・・?ゆめゆめお忘れなきように、とかいう感じのゆめ、なのか? 言葉がわからぬ。それとも、夢でーす☆みたいな意味なのか?そりゃないわな・・・。
2008.06.16
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あらすじ短編がいっぱい感想 ネタバレ無戦争とは何なのかを、一度考え直してみる本となった、なんて書いたら格好いいかもしれないが特にそんな事もなく。結局戦争が何なのかなんて単純化はできなくて村上春樹の解説を読んでもわからなくて読み終わったらハイさよならで忘れてしまいそうなそんな考えしか残らなかったけれども、深く洞察するような読み方なんて全くしてないけれども、それでも少しぐらいは考えさせられるわけで。現実と非現実の間が戦争であるなんていう一本筋の通った答えなんて見つからんのう。いろんな出来事が起こるけれど、全部どうにもやるせない話で(そりゃ全部戦争の話なのだ)、夢や希望なんてものは皆無だけれども、ってなんて書こうとしたか忘れたなぁ。ようするに、ただやるせない。やるせないったらやるせない。苦しみながら戦ったとか、自分は本当は自ら望んで残虐非道の限りをつくしたのだ、とかいう自らの醜い部分を他人に打ち明けて逆に許しを乞うような、そんな話ではなかった。御気の毒に、というのも変だし、ふーんと素通りするには重いし、ただただやるせない。書いてある事は、最初に書いてあるとおりにほとんどフィクションだろう。異常に心理描写がすっきりしすぎているし、自分の若い頃の話など通常考えたらあり得ないほど克明に描かれている、明らかに創作だと分かる。ただ、だからといってそれが事実ではない、という事ではないというのは繰り返し書かれている事であって、それについては全くの事実であろう。間違いなくフィクションとして面白い。どの短編も印象的で、どの短編も、現実か、もしくは非現実か、わからなくなるような構成になっている。あるいはこれは作者の実体験なのだろうか、それともこれは創作なのだろうかと、普通は考えるだろう。ただ、そこが狙いなのかなと思った。戦争を語る時に、どこかシュルレアリスムのような感覚を持ってしまうという文章があったが、要するに、読者にも物語の現実性と非現実性の合間をさまよってほしかったのではないか、と思ったのである。そういう意味でいえば、まんまとハメられた、と言わざるを得ない。ネタバレ有本当の戦争の話というのは全然教訓的ではない。それは人間の徳性を良い方向に導かないし、高めもしない。かくあるべしという行動規範を示したりもしない。またひとがそれまでやってきた行いをやめさせたりするようなこともない。もし教訓的に思える戦争の話があったらそれは信じない方がいいなんとなくわかると書いた後によくよく考えてみたら全くわからなかった。教訓的というと、どういうことだろうな。その話を聞いた時に、戦争はやはりダメなのだ、と感じたり、戦争というのは人をおかしくしてしまうのだ、と感じたり、そういうことだろうか。確かにこの本を読んでいてそんな事を感じた事はなかった。戦争がいけないなんて一言も言っていないし、戦争を恨んでもいない。ただ戦争があって、戦争にいって、滅茶苦茶になっただけだ。ひどくやるせない話だ。戦争はいけないというよりも、ただただ戦争に参加したくないという思いが高まっただけだ。つまるところこれが本当の戦争の話だろうか。戦争の最中にこんなことがあった、あんなことがあった、とひたすら書かれているが、戦争のせいでこんなことになった、などというのは、ほとんど書かれていなかったか、あるいはまったく書かれていなかったように思う。あったとしても、誰誰のせいで誰誰が死んだ、などというあくまでも個人個人の話だ。全体がまるで見えてこない。戦争という大きな枠組みとして書かれているよりも、その中の本当に一部隊の話だけだろうか。どの短編も印象的で、どの短編も、現実か、もしくは非現実か、わからなくなるような構成になっている。あるいはこれは作者の実体験なのだろうか、それともこれは創作なのだろうか上でも書いたが、だからこそ作者は村上春樹の解説するところの、危険な行為をしたのだろう。特に内容については触れないでおこう。うまく書ける気がしない。ただ、本当に感想としてはやるせない、というだけだ。
2008.06.13
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ブログTOPに書いた事なんてどこ吹く風、根も葉もない罵倒が並ぶ。あらすじなんかする感想 ネタバレ無最初の3ページ目で、読むのをやめようかと思う。主人公の一人称が始まった瞬間にぽーいと放り投げてしまいそうな衝動に駆られるも、思いとどまる。なぜなら、こんな早さで読むのをやめたくなる小説は初めてだったからだ。そしてそれは新たな可能性を秘めていたのだ。嫌い嫌いも好きなうち、嫌悪感を抱くぐらいなら、ひょっとしたら凄い面白いと思えるようになるかもしれない。そう思って読み進めていたのだ。省エネ、主人公、いいじゃないか省エネ。読み進めていくうちに、他のキャラは、まぁ普通だった。キャラクターだけみたらエロゲでも書いてろ、と罵倒がよぎるも我慢して読む。短いし、すぐ読み終わるだろうと思いながらも読む。青春ミステリと書いてあったのでいつか人が死ぬのだろうと思い読み続ける。人が死ねば、なんとか面白くなるかもしれない。半分ぐらい読み終わった時に気づく、ひょっとしてこれは、人死なないんじゃ・・・・。読み終わった時に思う、人が死ななかったと・・・。そういうのもありだろう。これもミステリだ。それでこそミステリー。最初からそのことを知っていたら読まなかったとかいうのは全部自分が悪い。ただあまりにも事件が面白くなくて、謎解きに意味がもてなくて、意味のわからないエロゲの日常シーンを延々と見せられたようなこの不快感を吐き出さずにはいられなくて。読みながら鳥肌がとまらなかった、気持悪くて。ていうか主人公気持ち悪いっす・・・マジで・・・厨二とか邪気眼とかじゃねぇ・・・もっと恐ろしい物の片鱗を味わったぜ・・・。読み終わったときそのあまりのオチのくだらなさに涙が流れた、本当に。気持ち悪くて涙が流れるなんて初めての事だ。人間簡単に涙なんて流れるものなんだなと悟ってしまった。何しろ主人公の地の文が出るたびに目をそらしたくなるほどの色々な感情が生まれるわ、あまりにもくだらない謎を得意げに解明する主人公が気持ち悪いわで・・・もうほんと簡便してくれ・・・。まともな事言っているのに、主人公がしゃべるだけで全部気持ち悪い。最初の3ページ目でやめておけばよかったのだ。ほとんどの場合直観は正しいのだ。ただあまりにも印象が悪すぎて悪すぎて一回転してひょっとしたら面白いかもなんて勘違いをしたのがそもそもの間違いだったのだ。人間第一印象が何より大事なんていうけれど、小説だって同じ事だ。最初に気持ち悪・・と思った印象がそうそう覆るはずがない。もし仮に途中でいいシーンがあったとしても、気持ち悪い・・・という感情に押し流されてもう通常の判断なんて下せない。ネタバレ有氷菓→アイスクリーム→I screamって何・・・?ナメてるの・・・?頑張って読み進めた結果がI screamって・・・あまりのアホさと無意味さと他色々なものがよみがえってきて泣いた。近年まれに見るひどいオチだ。記憶を消してしまいたい。そして起きる興味のない事件の数々・・・。鍵がかかったからどうだっていうんだよ・・・文集の謎解きしてどうなんだよ・・・。殺人事件なんて起こらなくていいよ・・・事件に魅力さえあれば・・・。そして全く魅力のないサブキャラ・・・。幼馴染なんてナニアレ・・・アノコイッタイナンノタメニイタノあまりにもつまらない事にいちいち驚く描写があるのには泣いた。こんな青春なら正直いらないっす。
2008.06.11
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不覚にも泣いたあらすじわかんね感想 ネタバレ無一章ごとに、一人一人視点が変わっていって、全六章、六人の視点で語られる物語。一方の視点だけじゃ見えてこない物も、他人の立場にたって初めてその意味がわかってくる。家族とは何か、というのが書きたかったのかどうか知らないが、何を読んでいて思ったのか自分でもわからん。家族について考えたかもしれないし、別の事について考えたような気もする。単純に家族とは何かを問う小説であるというのではあまりにも漠然としすぎている。かゆいところに手の届く小説、というような印象だった、途中までは。特にその心理描写において。ただ、最終章らへんはあやしい。途中から意見が変わったのは自分でもよくわからんな。章ごとに気に入るものと、気に入らないものが出てくるのはしょうがないだろうが、そのたぐいのものだろうか。どの登場人物の言っている事も、極端ではあれども決して大枠をはずしていない。直球すぎる表現もまたいい。一つの家族の在り方に注目して読んだのなら、この形式で文句なしだろうが、もっと各々の問題について読みたいと思ったのならこれは不満が出るかもしれないな、と思った。女性作家だと思うのだが、全く男の書き方に違和感がない。女性作家なのかどうか、疑ってしまうほどだ。しかし章ごとに語り手が変わるとは思わなかったから、読んでいる途中は面喰ったなぁ。ネタバレ有暁なんか、一章に出たっきりあんまり出てこないしな。片やどのエピソードにも顔を出す重之は、一家を書いた、その大黒柱なのだから当然かもしれない。締めも重之だしなぁ。締めの重之の話には、ぐっとくるものがあったものの、それを書いている筆者が、別に戦争体験をしたというわけではないのがひっかかるか。いや、してるのかもしれないが。それに、体験していないからといって、そんな話を書いてはいけないという話でも、もちろんないわけであるが。ところどころのセリフは、あまりにも直球すぎる名言とでもいうべき言葉で読んでいてちょっと恥ずかしくも、しんみりとさせたものだ。「幾つになっても、人は誰かの子どもだろ?」特に美希の章はとてもお気に入りだ。ただ、考え方には全く同調できないがな。同調出来るか出来ないかでいえば、同調できるようなキャラクターなんて、この一家の中にはどこにもいない。誰かに頼る事が出来ないのなら、一人だけで生きて行く、という生き方もあれば、農作業に没頭して生きる実感を得る生き方もある。家族というよりも、生き方を示唆する内容が多かったように思う。暁と紗恵に関しては、よくわからぬが。この結末が、いったいどんな生き方に繋がっているのか。野菜など買った方が安いことくらい、言われなくとも知っている。土に這いつくばり、腰や膝の痛みをこらえながら汗だくになっている最中にふと、何のためにこんな思いまでしているのかと疑問に感じることだってある。しかし、その問いはそのまま、自分はいったい何のために生きているのかという問いにまでつながっていて、いつだったか貢は、体の芯の芯、骨の髄の髄まで疲れきって立つ事もできなくなった夕暮れ、自分の耕した畝の上に秋の日が斜めにさしているのをぼんやり眺めていた時にふと、打たれたかのようにこたえが見えた気がして思わず涙ぐみそうになったことがあった。<何のために>ではないのだった。いまここに生きているという圧倒的なまでの実感──それだけでいいのだった。もしも自分に若い頃と同じような生命力がみなぎっていたなら、そんな境地にたどり着く事はなかっただろうと思う。光の中では見えず、日が陰って初めて見えるものもあるのだ。問いがそのまま、自分はいったい何のために生きているのかにつながってしまうというのは、よくある。こんな無駄な事をして、一体何の意味があるのか、なんて考えてしまったら最後、じゃあ何のために生きてんの?という事に繋がってしまう。結局、無駄な事をやるために生きているのだ。真に有意義な事なんて何一つ無い、と思う。時がたてば何もかも蒸発してしまうのだ。数学者の名前は後々まで残るかもしれないし、科学者の名前もずっと残るかもしれないが、人の歴史の中での話だ。それだけに、この話はある意味、ありがちだけれども、直球すぎるかもしれないけれど、故に心に残った。ただ、重之の章の、教訓的な話のオンパレードにはちょっと引いたな。いや、戦争の話ではなくて。そこはまぁ特別な感想なんて無いけれど。あまりにも普通の事を言っているように思えるのに、作中では親父の最高の名言だった、などと書いてあってちょっと温度差が・・・。最後は、暁と紗恵のせつねぇーやりとりがあったり、怒涛の重之描写に圧倒される。というか重之ほかの章と、この重之章とで、随分人間が違うような・・・。と冷静になると考えてしまうのだが考えるのはやめよう。要するにこれが一人一人の視点の変更から見えてくる事の真実というものなのだろう。──幸福とは呼べぬ幸せも、あるのかもしれない。叶う恋ばかりが恋ではないように、みごと花と散ることもかなわず、ただ老いさらばえてかれてゆくだけの人生にも、意味はあるのかもしれない。何か・・・・こうしてまだ残されているなりの意味が。この考えには希望が持てる。まるで、その後、僕たちは幸せに暮らしました、と1行で終わらせてしまえそうなそんな人生にも何か意味があるのかもしれない、と思えるというのは幸せな事だ。
2008.06.10
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あらすじ西の魔女が死んだ感想 ネタバレ無びっくしたーびっくしたー。ラストびっくしたー。でも帯にラスト3ページであなたはすげーものを見るぜ!というような事が書いてあって身構えてしまったのが痛い。そんな事を帯に書くなと。見てしまっただろうが、そして身構えてしまっただろうが。最悪のネタバレだぜ。同じ事を今自分がやっているわけだが空気の演出がとてつもなくうまい。ゆったりとして、何もかも許されて、漫然と過ぎていく日常という時間の流れを実際に自分がおっているかのような錯覚に陥る。一人一人、登場人物なんてそう多くないけれど、立派な立ち位置をもって生きてるというのがその少ない描写の中から、十分に伝わってくる。父親と母親なんて、ほとんど会話なんて出てこないのにその人がいったい、どういう人なのかが伝わってくる。ただ淡々と続く日常描写は退屈といえば、非常に退屈なのだよなー。ラスト3ページのために読んでいたようなものだ。それでも、大切なものはあるけれど。無条件に注がれる愛というのは、なかなか得がたいものがあるよな。顔がいいからでも、成績がいいからでもなく、ただその人がその人であるから愛す、というような。ネタバレ有まいがところどころ大人びすぎているように感じた。母親が扱いにくい子と自分の事を言っているのを聞いて、認めざるを得ない、と即座に認められる中学生というのは、ちと怖いな。「わたし、やっぱり弱かったと思う。一匹狼で突っ張る強さを養うか、群れで生きる楽さを選ぶか・・・・・・」 こんな事言う中学生ちょっとイヤだわ・・・!しかも一年生だし。でもかたくなに一つの考え方に固執するところが、やはり中学生なのだろうか。少なくとも自分が中学生の時はこんな事考えていなかったが。群れとか個とかをほとんど意識していない時だったからな。ハブかれる事によって個を意識したら、こういう考えにいたるのかもしれぬ。「その時々で決めたらどうですか、自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、だれがシロクマを責めますか」なんというか、ダメ人間に言ったら涙を流して喜びそうなセリフだ。ようするに気に入らなかったらどんどんやめちまえばいいんだからな。仕事が気に入らなかったらやめればいいし学校が気に入らなかったらやめればいいと。そのかわり、やめることによって生まれるリスクは、甘んじて自分自身で受けないといけないのだけどな。このご時世つらいから仕事やめるなんていってたらどんどんつらい場所においやられていくだけやねん・・・そう簡単にやめられないっすよ・・・。リスクと釣り合ってないもん・・・。だれもシロクマの事を責めないけど、周りの環境がシロクマの事を責めるだろう。それに極論すぎるな。自分が突然傭兵として雇われて何の訓練もなしに、戦場に送り込まれた時とかはこのセリフが適用されるような気がするが、現実問題北極か南極かの些細な違いしか身近にある中ではないきがする。北極か南極かって物凄い違うけどななんで魔女が、まいがおばあちゃん大好きって言ったときだけ英語で、アイ・ノウっていうのだろう。普段あんなにペラペラと日本語喋っているくせに、アイ・ノウだけ英語て・・・・ああ、あとマイ・ディアとかも喋ってたな。結局英語でしゃべってんのこの二つしかないじゃないか。いったい他のパターンとどういった違いが・・・。気になって夜も眠れないわ。いやでもおばーちゃん大好きーっていわれて、私は知っているよ、なんて日本語で答えたらちょっと恥ずかしいかもしれない。だから英語でいってんのか?ちょっと自意識過剰っぽいしな、私は知っていますよ、なんていうと。アイ・ノウっていうときの雰囲気がちょっと神聖な感じなんだよなー。それにしてもラスト3ページはかなり凄いな。魔法が実際にあるかどうか、っていうのは置いておいて、なかなかいい話だ。ここに書かれてある事だけじゃ、本当に魔法なのかどうかなんて事は区別がつかないことだ。思いこみと言われれば、そうか思い込みかと簡単に納得できるようなことしか書かれていないし。離れたところにいるはずのあいつから声が聞こえた、とかも、こういったオカルト的な話だとよくある話だしな。一般的な解釈は思い込み、だがそう考えるのは邪道だろう。最後ページを変えて「アイ・ノウ」は卑怯だ。じわーっとくる。ガラスに指で何かをなぞったあとでニシノマジョ カラ ヒガシノマジョ ヘ オバアチャン ノ タマシイ、ダッシュツ、ダイセイコウもし仮に魔法に否定的な意見でかかるとすれば、死期が近い事を悟ったばーちゃんが、死んだら来るはずのまいを見越して書いておいたという仮説がたてられるが、そもそも窓ガラスの埃を利用して書かれたものだから、そうそう長いこと持たないだろう。そして心臓発作なのだから、予期出来ていたかどうかはかなり疑問だ。おばあちゃんは先に起こる事が一つだけわかる、といっているけれど、これは確実に死のことだよなぁ。だれだってわかるし、自分が死ぬ事は。そう考えると、わかるのは死だけなのだから、未来を知ることによって利用できるのも、死だけだ。つまり上のガラスに指で何かをなぞったあと、というのは死を利用したサプライズという事になる。正しい読み方は本当の魔法なんて存在しないけど、おばあちゃんはある意味、魔法を使っているんだよ、的なノリなんじゃないかなあ、魔法はあるよ派と、魔法はないよ派だと、どっちが多いんだろう。自分はどっちかというと魔法無い派だが。もし仮に魔法なんてものが存在するとしても、少なくともおばあちゃんには魔法なんて使えなかったんじゃないかと思う。他の人につかえたとしても。魔女修行なんていうのも、完全に実生活に重要な事だしな。毎日規則正しい生活をして、何でも自分で考えるクセをつける。森達也でも伊坂でもないけど、思考の停止を起こさせない。毎日空は晴れていて空気は気持ちよくて、そんな日常が何よりも大切なのだ、というような事が感じられるいい小説だった。
2008.06.07
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あらすじ世界は豊からしい感想 ネタバレ有何が言いたいのかはわかるが、うじうじとよく悩むやつだ。テレビ業界への不満たらたらのくせに、いつまでも居座ろうとしたりと行動がわからぬ。業界が不満なら辞めればいいし、不満でも好きで好きでしょうがないならやればいいっていうそういう単純な思考が出来ない人のようだ。単独の価値や感覚は異物として場から排除され、時には丸めこまれ、私であるはずの主語が気付かぬうちに複数となり、個は全体の動きに無自覚なままに同調する。小さな場は川の流れのように幾つも合流しては吸収され、やがて抗えないほどの巨大な流れとなり、人はその奔流にのみ込まれる。いったんどっぷりと浸かってしまったら、この流れはもう自覚できない。なぜなら周囲すべてがその流れの中にいるのだから。ようするに森達也氏がエッセイの中で愚直にも繰り返し繰り返し述べているのは、上記の事だと思う。伊坂幸太郎の魔王も似たような話だ。ようするに自分で考えるのを放棄して、周りの流れに同調するだけで何がおかしいのか、自覚できなくなってしまうこの状況が何よりも危険だ、と言っているだけだ。マスコミが悪だといったものに、同調して何故悪なのかを自分でよく調べもせずに、マスコミが悪だといったから悪なのだというようなアホな考え方をする人間を、少なくしたいらしい。正直いって、そんな事知っちゃこっちゃないよな、と思いながら読んでいた。他人が同調してまるで見当違いの人を叩こうが、間違っていることに自分だけが気付いていようが、まるで興味がない。勝手にやってくれというような感じだ。ただ自分がその被害者になりそうな時は、なんとかわかってもらおうとするだろうが。自分の番が来るまでこんな問題に関わろうとしたくない。森達也の行いが無駄とは思わないが、限りなく意味がない事だとは思う。エネルギーの無駄だ。自分が困ったら初めてアクションを起こせばいいのだ。見過ごせないほど人がいいのなら、抗議すればいい。ほとんど意味がないだろうけど。とりあえず気が済むだろうから。要するに、自分が森達也に対して思った感想はこの結論に収束する。やりたきゃなんでもやればいい、俺は関係ないけどねなんという無責任な人間だ。最悪である。この社会は平等じゃないとつくづく感じていた。機会さえ均等なら後は本人の能力や努力次第という言い方もできるけど、でも実はその機会すら決して平等ではないし、さらにその機会を逸した人に対しては、いつの世も過酷な状況が待っている。何を今さら当たり前の事をいっているんだ、というような気もする。いったいどこのだれがこの社会が平等だなんていったんだ。機会も均等なわけはない。読めば読むほど色々な事に悩んでいるお人である。自分とは全く正反対の考え方だと思う。こんなにいろいろ悩まなくちゃいけないことが、思考の停止への脱出だというのならそんな脱出はいらん。思考停止したままで居た方がよっぽどマシだ。おそらく、思考停止したままでいるというのは最も安易な道なのだろう。自分で決定しなくていいのだから。だが思考停止から抜け出すために悩むというのは、まるで意味がない。悩みなんて解決策がないのなら同じところをぐるぐる回っているだけで停止しているのとなんら変わりないじゃないか。
2008.06.06
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最近ノンフィクションのほうに偏り気味だ。感想 ネタバレ有結局シュルレアリスムってなんだったの・・・?現実的な事みたいな意味らしいってことはわかったが、何がどう現実的なのかわからん。ただ書いてある事は非常に面白かった。話しながら内容を考えていると、公言しているぐらいなので、正直いって内容はまとまっていない。あっちに脱線してこっちに脱線して結局まとまるのが凄いとよくいわれるんですよーみたいな事を、途中で書いてるけど実際のところまとまってないと思うんだが・・・。それは置いておこう。まとまっていないというのは確かにそう感じたのだが、語っている内容は面白いからな。講演をまとめたものだから、しょうがないのかもしれないのだが、いちいち(笑)などと文章に、ところどころなんていうレベルじゃなく頻繁に混ざっているのは辟易した。笑ったのはわかったから書かなくていいよ・・・!不満だったのは上に書いたものだけで、ここからは全て賛辞だ。完全にシュルレアリスムについて無知の状態から100を上限として30ぐらいの知識を蓄えたような気分にさせてくれた。メルヘンとは何かというのも読んでいて非常に納得させられる話だったし、ユートピアについてもそうだ。ことシュルレアリスムについて、という事だとよくわからない事も多かったが、上記二つの話は面白い。もっとも正しいのかどうかわからないけれども。シュールという意味が誤解されていると書いているけれど、すんなり受け入れる事が出来た。だいたいシュールなんていう言葉の意味をまともに考えた事なんて無くて、シュールはシュールだろ?という次元だったのだから矯正もたやすいのだろう。今でも、多くの人が使ってるこれはシュールだな、という言葉の意味はわからんが。メルヘンやユートピアについても同じだ。メルヘンについて持っていたイメージなんて、やたらほんわかした空気とか抽象的な話ばっかりだな、というものと、ユートピアはきっといいところなんだろうな、というような、どっちもぼんやりとした印象論でしかない。そのイメージが、がっしりと固まったという意味でもよかっただろう。何故シュルレアリスムとは何かを読んで、メルヘンやユートピアについての認識を改める事になってるのかというのはよくわからんが。しかし18世紀以前は「子供」という概念が無かったというのはなかなか面白い話だ。確かに誰も子供扱いしなければ、子供というものが無くなるのもうなずける。というか今の状況がおかしいのかな?とちらりと考えたが、無い方がおかしいと想うんだよなぁ。どんな動物だって小さい時というのはあるんだし、それをほとんど大人と同様に扱うというのはおかしな話に感じてしまうのは自分が21世紀に生きる人間だからだろうか。子供という概念があるというのも考え物だな。大学生だとまだ子供気分が抜けていない人間が多すぎる。いったい20年も生きてきてお前はいつ大人になるのかと。日本人は子供で居る期間が長すぎるなぁ。かといってどうするわけでもないのだけれど。いったいいつから大人なのか、とかいうつまらない定義論もあるけど。自分が大人だと思ったら大人でいいんじゃないかな。子供でいる時間が長いと何かまずい事があるだろうか。真面目に考えてみると、何もかもマズイような気がしてくるんだよなー具体的に書けないけど。大体大人と子供って何が違うんだろうなぁ。責任を持てる持てないでもないし、自分の面倒を自分で見られる、でもないし、大人な考え方が出来るなんていうのは愚の骨頂だ。大人な考え方なんてのはある意味テンプレートであって、単純な平均値でしかない。そんな事言ったら世の中の奇人変人全員大人じゃなくなってしまうしな。学校なんていう大量の子供を平均化しようとする地ならしがあるから昔の芸術家みたいな感性を爆発させて作品を作り上げるような人間が生まれなくなった、というような話もあるぐらいだし。社会的に自立しているかどうか、というのも全く問題外。やはり子供か大人かという二元論は根本的に問いが間違っているのだろう。間違っている問いに正しい答えは出ない。おとぎばなしについてその物語はすべて運命に支配されているがゆえに、主人公の自我とか主観とか心理とかはなんの力ももたない。というよりも、そんなものはじめっからない。そういえばあかずきんちゃんも何でもそうだけど、特に心情が語られているわけじゃないなぁ。言われるまで全く気付かない。極力無駄を省くように省くように、出来る限り短く短くしようとした結果があの洗練された事実のみを書き記したような形だと思っていたのだが。受動的に、ただあるがままの運命を受け入れるというのは昔自分が言っていたことと全く同じだ。中学生ぐらいだったかな。おとぎばなしにおぼれていたのかも知れぬ。今も正直、あまり変わっていないけれど。微妙に形を変えて残っている。主義主張を持たない、という主義主張になって自分の中に残っている。つまりその主義主張ももたないわけだから、結局たまには主義主張も持つということになるのだが。ようするに何でもありだ。何でもありが自分の人生観とかいうと、適当なやつだといわれるが結構ありじゃね?と思っている。人生観もアホらしいと思いながら書いている。ちなみにここに書いている内容は全て適当に書いてあるので10秒後には全く別の主義に変わっている可能性もあり得る。2日前までは自民党賛成と叫んでいても今日では突然社民党万歳と叫んでいるかもしれない。それぐらい適当だ。ほとんど浮いているといってもいい。ユートピアすなわちこの世に存在しない空間というのは、同時に時間も消去してしまうところだということになります。時間が幾何学的に構成されているということでもある。時間割というのは非歴史的なものです。ユートピアっていうのは理想郷なんだから、人は死なないんだろうなーとか勝手に思っていたがよく読んでみると死ぬらしい。そんなのユートピアじゃねえ、と思うけどそれはそれ、先入観が捨てきれない人間のエゴというやつでそういうものじゃないのだなぁ。ぼんやりとした印象しか持ってないと書いておきながら、実はしっかりとした内容もある程度は頭に残っていた。 世の中でいちばん自由のない国はどういう国かというと、自分たちが自由だと思い込んでいる国でしょう。自由とは、じつは獲得しようとするものであって、あたえられるものである。自由を謳歌している気分になっているとき、その人々は本当は自由じゃない。よくわからんが、自分たちが自由だと思い込んでいるのならそれはそれでいいと思うけどな。そいつらに本当はお前らは自由じゃなくてかりそめの自由なんだよ、なんていったって意味がない。確かに与えられた自由なんて、自由じゃないけどな。ユートピアというものを完璧に構築した場合、そこは地獄に近くなる。みんな均一になって漫然と生き続けるっていうんだから、そりゃ地獄だろうな。そんときはそこが地獄かどうかも考えられなくなっているだろうから、結局ユートピアってことでいいんだろうけど。無限に近いエネルギーが湧き出てきて、誰も生きるのに不自由しなくなって、死ななくなったら、そうなるかもしれんな。均一化という夢想的な手段に頼らなくても。
2008.06.04
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