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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2022.12.24
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 大妻コタカは、1884年に広島県世羅郡三川村、現、世羅町に生まれ、旧姓は熊田とい いました。

 後に、大妻学院、現、大妻中学高等学校、大妻女子大学を創立し、日本における女子教育の草分けとなりました。

 ”三番町のコタカさん 大妻学院創立者 大妻コタカ伝”(2016年4月 ワック社刊 工藤 美代子著)を読みました。

 私財と人生のすべてを大妻学院に捧げ尽くして、三番町の校内に建てられた学寮の玄関脇の一間に住んだ、「三番町のコタカさん」の生涯を紹介しています。

 コタカという名前は、6月の農繁期に6人兄弟の末っ子として生まれた女児であったため、忙しい時に困った子が訛ったものだといいます。

 しかも農繁期であったため、出生届の提出が遅れ、入籍されたのは11月20日となりました。

 現在、この11月20日が大妻学院の学校記念日とされています。

 3歳で父を14歳で母を亡くしましたが、農業と両立させながら勉学に取り組み、広島県立高等小学校へ進学しました。

 当初、物理と数学を学ぶことを志し、周囲に反対されましたが、向学の志やみ難く、1902年に手芸裁縫を学ぶために上京しました。

 叔父宅へ寄宿し、和洋裁縫女学校、現、和洋女子大学に入学しました。

 洋裁を学びながら、東京府教育会附属の小学校教員伝習所や、神奈川の女子師範学校、現、横浜国立大学で学び、小学校正教員免許を取得しました。

 1907年に鎌倉尋常高等小学校の教師となり、のち訓導を務めました。

 同年に、宮内省御陵係・大妻良馬と結婚し、大妻姓となりました。

 軍人の家庭の仕立て物を縫わせてもらったのが切っ掛けで、好きな瓶細工や袋物の手芸などを近所の人に手ほどきして好評を得ました。

 工藤美代子さんは1950年東京都両国生まれ、父親はベースボール・マガジン社および恒文社を創設した池田恒雄さんです。

 母親の実家は両国の工藤写真館で、両親が離婚したため工藤姓を名乗りました。

 大妻女子高校を卒業後、父親の意向でチェコ・プラハのカレル大学に入学しましたが中退しました。

 日本文学研究者の鶴田欣也さんを追ってカナダ・バンクーバーに渡り、1973年に鶴田と結婚しましたが、1993年ころ離婚しました。

 のち、コロンビア・カレッジを卒業し、1982年に友人のスーザン・フィリップスと協力して田村俊子の伝記を執筆しました。

 以後、ノンフィクション作家として活動するようになり、1991年に”工藤写真館の昭和”で講談社ノンフィクション賞を受賞しました。

 そして、1993年に元集英社出版部長の加藤康男さん、元恒文社専務取締役、現ノンフィクション作家と結婚し、今日に至っています。

 大妻良馬は1871年高知県高岡郡戸波村生れ、医家の大妻定馬の三男で、1891年に現役志願兵として広島の工兵第五大隊に入営しました。

 1894から1895まで日清戦争に従軍し、1897年に試験検定により陸軍工兵監護に任じ、1902年に現役満期、後備役に編入しました。

 1904年に日露戦争のため充員召集され、旅順攻囲軍に参加し、翌年工兵少尉に任じ、奉天包囲戦に参加しました。

 1906年に退役し宮内省内匠寮に雇員として勤務し、翌年技手となりました。

 1907年に、当時24歳だった熊田コタカと結婚しました。

 コタカは軍人の家庭の仕立物を縫わせてもらい、これが自信となりました。

 1908年に良馬が山階宮家勤めとなり宮家の中にある家に移ると、コタカは大妻学院の前身となる縫製・手芸の私塾・技芸教授所の看板を掲げ開設しました。

 当時は女子が高等教育を受けること、まして職業婦人として社会に出て働くことは容易ではありませんでした。

 しかしコタカは、女子も自ら学び、社会に貢献できる力を身につけ、その力を広く世の中で発揮していくことが、女性の自立につながると確信していました。

 当初は近所の子供を集めた10数人でしたが、教え方が上手いと評判となり、加えて女子教育普及の波にも乗り生徒数が増加しました。

 第一次世界大戦に伴う好景気により、女性の就学熱や技芸教育の広まりにより、女子中等教育は拡大しました。

 1916年に各種学校として大妻技芸伝習所を設立し、三越主催の学校展覧会に出品し、婦人記者の小橋三四子に取り上げられ、コタカの名が広まりました。

 1917年に麹町に私立大妻技芸学校を開校して、手芸・裁縫を教授しました。

 校訓の”恥を知れ”は、正式な学校として発足するにあたって、教職員、生徒の賛同を得て制定されたものです。

 この校訓はあくまでも自分に対して言うことで、人に見られたり、聞かれて恥ずかしいようなことをしたかどうかを自分で戒めることだといいます。

 1919年に大妻実科高等女学校に発展し、後に高等技芸科、高等家政科を増設しました。

 良馬は1921年に宮内技師に任じ、ほどなく依願免官となり、妻経営の大妻学校校主に専念しました。

 校主として、経営面では、事務の決裁、施設の企画、工事の設計監督、教育の面では、学則の改正、職員恩給制度の創設等寝食を忘れて精励しました。

 同年に、私立大妻実科高等女学校を、4年制の私立大妻高等女学校に組織変更しました。

 1922年に大妻技芸学校を実業学校に組織変更し、大妻中等夜学校を設立しました。

 1923年の関東大震災で校舎が焼失しましたが、直ちに再建に着手し、翌年に千坪の木造校舎を竣工し、学校復興の先鞭をつけました。

 1925年に大妻中等夜学校を廃止し、大妻技芸学校に夜間の技芸科第二部を設置しました。

 1927年から1932年頃に、和服の裁ち方、縫い方、手芸などを分かりやすく図で説明した本を次々と出版し、どれもベストセラーとなりました。

 また、五尺帯や半反でできる服やツーピースの着物や、風呂敷を三角にした戦時袋などを考案して評判を呼びました。

 1929年に財団法人大妻学院を設立し、理事長に就任しました。

 同年、夫の良馬が急性肺炎にて逝去し、子宝に恵まれなかったこともあり、学校経営に情熱を燃やすようになりました。

 1937年に世界教育大会が東京帝国大学で開催され、女子手工芸教育界を代表して発表しました。

 1942年に大妻女子専門学校と改称し、良妻賢母教育を行ないました。

 戦時中は国粋主義的な婦人団体の幹部として活動し、戦意昂揚の講演などを行ったため、戦後は公職追放・教職追放令となり学校を追われました。

 1951年に追放解除された後は校長に復帰し、同年、再び大妻学院の理事長・学長・校長として復帰しました。

 家政学部に被服・食物・家庭理学の各科を設置し、中学校から大学までの大妻学院に発展させました。

 教育方針は、和装を中心に良妻賢母の養成を行うことでした。

 家事評論家としても活躍し、文部省認定の裁縫や手芸に関する教科書を手掛けました。

 1954年に藍綬褒章を受章し、1962年に自叙伝”ごもくめし”を刊行しました。

 1964年に第1回生存者叙勲で、女子教育者としては初めて勲3等宝冠章を受章しました。

 生涯にわたり女子教育に尽し、1970年に住み慣れた東京三番町にて享年85歳で逝去し、従4位勲2等瑞宝章を追贈されました。

 家事評論家としても活躍し、関連雑誌の評論のほか、文部省認定の裁縫や手芸に関する多くの著書があります。

第1章 大妻良馬とコタカの旅立ち
㈠「写真を持って来るように」/三三九度の盃/小走りに良馬の背中を追う/家郷にも吹く維新の新風/「コマッタ」転じて「コタカ」?/とにかく厳しかった母のしつけ/校長のひと言で将来は先生に/手のひらに「鬼」と書いて/母の死に間に合わず/やりたかったのは、これじゃない
㈡広島の寒村をあとにして/「あなたちょっと田舎くさいからねぇ」/和裁も洋裁も/常に一歩先を
㈢黒肌の花嫁誕生/字を書くと、ハの字が増える/大妻良馬という男/前妻の両親の墓石を建てたい/「離縁してくれ」
/山階宮の邸内で開校/良馬の心意気、金の指輪
第2章 「女性が輝く」先駆けとして
 大妻技芸伝習所開校/大成功の講習会/私塾から学校へ/現在の場所に移転/宮家の姫に手芸を教える/高等女学校設立へ/車の両輪として/志願者激増、新校舎増築/「学校経営を生活の糧としない」/関東大震災、生徒の死と校舎壊滅/焦土からの出発/働く女性に門戸を開く
第3章 「良妻賢母」は古くならない
 女性教育者が続々と/裁縫・手芸と人間形成/口先だけの人間になるな/校訓は「恥を知れ」/私は感謝役/褒め上手になれ/「らしくあれ」/良き妻、賢き母/礼儀作法の重視/感謝と勤労/創意工夫/女であるから/仕事に追われるな、仕事を追え/質素倹約/廃物利用と裁縫教育
第4章 良馬の死を乗り越えて
 神も仏も/浅草寺参り/良馬、突然の死/財団法人「大妻学院」へ/良馬あっての私/生涯一校長として生きたい/吉岡彌生の助言/東郷さん来校/新聞・雑誌・ラジオに/新校舎の完成/専門学校の認可/戦時下でも活発だった講演活動
第5章 戦禍をくぐり抜け、再建へ
 勤労動員/空襲で校舎炎上/焦土からの出発/GHQから教職「不適格」令が/自分なりの銃後の闘い/家もなく財産もなく子どももなく/住まいを求めて/「大妻」の名前をはずせ/四年五カ月ぶりの追放解除/追放中に大学発足/大妻の伝統を取り戻す/学院への復帰/藍綬褒章受章/創立五十周年/「大妻学院講堂再建定期預金」
第6章 学長の名は「三番町のコタカさん」
 学長・校長に就任/喜寿祝賀会/若さの秘訣は実行にあり/学長はお母さま/「家の子」/「愛の贈り物」/卒業の日に/逆立ちをして生徒を驚かす/勲三等宝冠章受章/危篤になったが/「あとを頼むわね」/痛む足を引きずって/「私の罪を清め給え」/自分が知らないで犯した罪/八十五年の人生のハイライト/最後の帰郷/永眠

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Last updated  2022.12.24 20:49:42
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