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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2024.05.25
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 熊谷次郎直実は1141生まれの平安末期から鎌倉時代初期、武蔵国熊谷郷、現・熊谷市で活躍した武将です。
 下級武士の家に生まれ、治承・寿永の乱で獅子奮迅の活躍をしました。
 ”熊谷直実 浄土にも剛の者とや沙汰すらん”(2023年12月 ミネルヴァ書房刊 佐伯 真一著)を読みました。
 一ノ谷合戦でついに平敦盛を討ちとるに至った、熊谷直実の生涯を紹介しています。
 父親の直貞は熊谷郷の領主となって熊谷の姓を名乗り、当初は平家に仕えていました。
 石橋山の戦い以降は源頼朝の御家人となり、数々の戦さで名を上げて鎌倉幕府成立に貢献しました。
 熊谷直実は、一ノ谷の戦いで平家の若武者の平敦盛を打ち取りました。
 しかし、息子ほどの年齢の若者だったため、戦の無情さや世の無常観を感じて心に深い傷を負いました。
 もともと気性が荒く直情型で反骨精神が強く、源頼朝の命令を拒否したため領地を没収されたこともあります。
 挙句に領地問題の訴訟に際して頼朝の目前で髪を落とし、出家してしまいました。
 その後、法然に弟子入りして蓮生と名乗り、京都・東山で修行を重ねました。
 そして熱心な念仏信者となり、各地に寺院を開基しました。
 佐伯真一さんは1953年千葉県生まれ、1976年に同志社大学文学部文化学科国文学専攻を卒業しました。
 1977年に早稲田大学大学院文学研究科日本文学専攻博士前期課程を中退し、東京大学大学院人文科学研究科国語国文学専攻修士課程に入学しました。
 1979年に同修士課程を修了し、1982年に東京大学大学院文学研究科博士課程を単位取得退学しました。
 1982年に帝塚山学院大学文学部日本文学科専任講師、1985年に同助教授、1990年に国文学研究資料館整理閲覧部参考室助教授となりました。
 1995年に青山学院大学文学部日本文学科助教授、1999年に同教授となり、2022年に定年退職しました。
 1986年に第12回財団法人日本古典文学会賞を共同受賞し、2005年に第3回角川財団学芸賞を受賞しました。
 熊谷直実は現代でもなかなか有名な人物です。
 熊谷氏は桓武平氏・平貞盛の孫・維時の6代の孫を称しますが、武蔵七党の私市党、丹波党の分かれともされ、明らかではありません。
 直実の祖父・平盛方が勅勘を受けたのち、父直貞の時代から大里郡熊谷郷の領主となり、熊谷を名乗りました。
 幼い時に父を失い、母方の伯父の久下直光に養われました。
 1156年7月の保元の乱で源義朝指揮下で戦い、1159年12月の平治の乱で源義平の指揮下で働きました。
 その後、久下直光の代理人として京都に上りましたが、一人前として扱われないことに不満を持ち、自立を決意して平知盛に仕えました。
 源頼朝挙兵の直前、大庭景親に従って東国に下り、1180年の石橋山の戦いまでは平家側に属していました。
 以後、頼朝に臣従して御家人の一人となり、常陸国の佐竹氏征伐で大功を立て、熊谷郷の支配権を安堵されました。
 1184年2月の一ノ谷の戦いに参陣し、源義経の奇襲部隊に所属しました。
 鵯越を逆落としに下り、息子・直家と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入しました。
 しかし、平家の武者に囲まれて、先陣を争った同僚の平山季重ともども討死しかけました。
 この戦いで直実は、波際を逃げようとしていた平家の公達らしき騎乗の若武者を呼び止めて一騎討ちを挑みました。
 直実が若武者を馬から落とし、首を取ろうとすると、ちょうど我が子・直家ぐらいの年齢の少年でした。
 直実は死後のご供養をいたしましょうと言って、泣く泣くその首を斬りました。
 これ以後直実には深く思うところがあり、出家への思いはいっそう強くなったといいます。
 敦盛を討った直実は出家の方法を知らず模索していました。
 法然との面談を法然の弟子・聖覚に求めて、いきなり刀を研ぎ始めました。
 驚いた聖覚が法然に取り次ぐと、直実は真剣にたずねたといいます。
 1193年頃、法然の弟子となり法力房 蓮生と称しました。
 直実の出身地である熊谷市に行ってみると、鎧兜に身を固め馬にまたがった勇ましい武士の像があるそうです。
 台座には「熊谷の花も実もある武士道の香りや高し須磨の浦風」の歌が刻まれています。
 インターネットで検索すれば、熊谷市観光局が熊谷の偉人として直実を紹介しています。
 直実は、郷土の英雄として地域のアイデンティティの確立に重要な役割を果たしているようです。
 しかし、熊谷直実のイメージとして勇ましい武士の像を思い浮かべるのは、実は必ずしも伝統的なあり方ではありません。
 今から120年あまり以前に新渡戸稲造が「武士道」を著した頃までは、直実は蓮生でもあったが故に有名だったのではないでしょうか。
 蓮生の足跡は今も各地に残っていて、直実の屋敷跡には蓮生山熊谷寺が広い寺域を占めています。
 また、蓮生は法然のもとで浄土をめざして修行しましたので、その跡を残す寺は京都にも多く、代表的な存在は金戒光明寺でしょう。
 寺内の塔頭の一つである蓮池院は、自作と伝えられる蓮生像や敦盛像など、多くの寺宝を蔵しています。
 また、京都市の西南、長岡京市にある西山浄土宗総本蓮生は、この地で結んだ草庵、念仏三昧院をもととしています。
 蓮生はこの大寺院の開基であり、現在も御影堂の中心に法然像があり、左側には証空と蓮生の像が並んでいます。
 京都における蓮生ゆかりの寺院としては、熊谷山法然寺を挙げることができます。
 蓮生開基と伝えられ、版本『熊谷蓮生一代記』や巻子本『蓮生法師伝』、掛幅絵『蓮生上人一代略画伝』を生んだ寺でした。
 熊谷直実ゆかりの寺は他にも全国各地にあり、たとえば藤枝市の熊谷山蓮生寺はその代表例です。
 直実=蓮生は、武士としてだけでなく、浄土信仰の僧としても、近年まで非常に有名な人物でした。
 それは、直実が敦盛を討って発心したという物語が、多くの人々の心に広く強く訴えかけたからです。
 下級武士として、生活のために血眼になって功名をめざしていた直実が、自分の息子と同年配の美少年を殺害するという行為の非道さを痛感しました。
 そのことにより、武士という生き方をやめて信仰の道へと転じたという物語が、無数の人々の共感を呼びました。
 直実が有名になったのは、なにしろ、武士であることをやめたからであるといってもよいでしょう。
 本書は、この物語については、その史実性よりも、なぜこの物語が非常に多くの人々の心に訴えかけたのかという精神史的な問題を、最大の問いとしたいといいます。
 それは、過去の人物の考証を越えて、現代に生きる私たちにとって重要な問題を提起してくれるからです。
 実際の直実=蓮生は、僧となってからも、武士らしさを十分に保った人物であったようです。
 武士としては剛直に勲功をめざし、そして僧としてはひたむきに浄土をめざしました。
 このような直実=蓮生という人物の実像に迫ることもまた、本書の重要な目的です。
 第一章では熊谷直実の生い立ちと基本的な資料の扱い方について記述しています。
 第二章では『平家物語』に描かれる熊谷・敦盛の物語について述べています。
 第三章では合戦後の熊谷直実―蓮生の出家と往生について記載しています。
 第四章では直実の死後、日本人がこの人物をどのように語り継いでいったのか、その変化に富んだあり方を見ています。
 そして最後に、現代に生きる私たちが熊谷直実から何を学ぶことができるのかを考えて、まとめとしたいといいます。
序章 熊谷直実とは何だったのか/第1章 生い立ちと生き方/第2章 敦盛を討つ/第3章 出家と往生/第4章 熊谷直実伝の展開/終章 熊谷直実から何を学ぶか

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Last updated  2024.05.25 07:41:39
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