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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2024.09.14
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 岡倉天心は日本の思想家であり、日本美術の発展の種まきをし耕した人物です。
 ”岡倉天心『茶の本』の世界 ”(2024年5月 筑摩書房刊 岡倉 登志著)を読みました。
 ボストン美術館で中国・日本美術部長を務めた岡倉天心が、日本の茶道を欧米に紹介する目的でニューヨークの出版社から刊行した『茶の本』の世界を紹介しています。
 明治時代初期に横浜で生まれ、幼少期から英語を得意としてエリート街道を進みました。
 官僚となってから日本美術の素晴らしさに目覚めました。
 語学力を活かして、日本美術・日本文化の発信者として生きる道を選択しました。
 現在の東京藝術大学の前身の東京美術学校の設立に貢献し、のちに日本美術院を創設しました。
 近代日本における美術史学研究の開拓者でもあり、明治時代以降の日本美術成立に大いに寄与しました。
 代表作は東洋の美術を欧米に紹介した『茶の本』であり、1906年に出版され全米ベストセラーとなりました。
 現在では20数種の言語に翻訳され、世界的名著として知られています。
 日本国内でも誰もが認める、日本を代表する書といえるでしょう。
 岡倉登志さんは1945年千葉県生まれ、1974年明治大学大学院政治学研究科博士課程を単位取得退学しました。
 1975年に西アフリカに半年滞在、その後もエチオピア、ジブチ、ケニア、タンザニアで数回の調査・研究旅行を行いました。
 1988年4月から2011年3月まで、大東文化大学文学部教授を務めました。
 現在、大東文化大学名誉教授、横山大観記念館評議員となっています。
 専門はヨーロッパ・アフリカ関係史、日本と西洋の交流史です。
 岡倉天心の曾孫にあたり、2002年に天心研究会「鵬の会」を結成し、論文発表や講演活動を行っています。
 岡倉天心は1863年横浜生まれ、日本の思想家、文人で、本名は岡倉覚三、幼名は岡倉角蔵といいました。
 福井藩士・岡倉覚右衛門の次男で、福井藩は覚右衛門に神奈川警備方を命じて赴任させました。
 福井藩は横浜で海外貿易の盛隆を目の当たりにし、生糸を扱う貿易商店石川屋を1860年に横浜に開店しました。
 店を訪れる外国人客を通じて、岡倉は幼少時より英語に慣れ親しんでいきました。
 里親とそりが合わず、神奈川宿の長延寺に預けられました。
 寺の住職から漢籍を学び、高島嘉右衛門が開いた高島学校へ入学しました。
 1873年に、廃藩置県によって石川屋が廃業となりました。
 父親が蛎殻町で旅館を始めたため、一家で東京へ移転しました。
 天心は、官立東京外国語学校、現在の東京外国語大学に入学しました。
 1875年に、東京開成学校、後の東京大学に入学し、1878年に結婚しました。
 1880年7月に東京大学文学部を卒業し、11月より文部省に音楽取調掛として勤務しました。
 1881年に、アーネスト・フェノロサと日本美術を調査しました。
 アーネスト・フェノロサは、1853年生まれのアメリカの東洋美術史家、哲学者です。
 明治時代に来日したお雇い外国人で、日本美術を評価し紹介に努めました。
 1882年に専修学校、現在の専修大学の教官となり、専修学校創立時の繁栄に貢献しました。
 1884年に、フェノロサとともに京阪地方の古社寺歴訪を命じられ、法隆寺夢殿を開扉し、救世観音菩薩像を調査しました。
 1886年から1887年にかけて、東京美術学校、現在の東京芸術大学美術学部設立のため、フェノロサと欧米を視察しました。
 1887年に東京美術学校幹事となり、翌年に博物館学芸員に任命されました。
 1889年に日本美術学校が開校され、5月に帝国博物館理事に、12月に大博覧会美術部審査官となりました。
 1890年10月に天心が東京美術学校初代校長になり、フェノロサが副校長となりました。
 同校での美術教育が特に有名で、福田眉仙、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月らを育てました。
 1898年に東京美術学校を排斥され辞職し、同時に連帯辞職した大観らを連れ、日本美術院を下谷区谷中に発足させました。
 1901年から1902にかけてインドを訪遊し、タゴール、ヴィヴェーカーナンダ等と交流しました。
 1902年に来日した、ボストン生まれのアメリカ医師、日本美術研究家、仏教研究者のビゲローと交歓しました。
 1904年にビゲローの紹介で、ボストン美術館の中国・日本美術部に迎えられました。
 この後は、館の美術品を集めるため日本とボストン市を往復することが多くなりました。
 それ以外の期間は、茨城県五浦のアトリエにいることが多くなりました。
 1905年と1907年に渡米し、美術院の拠点を茨城県五浦に移しました。
 1910年にボストン美術館に東洋部を設けることになり、美術館中国・日本美術部長に就任しました。
 1911年に帰国し、1912年に文展審査委員に就任しました。
 1913年に、静養に訪れていた新潟県赤倉温泉の自身の山荘にて、9月2日に50歳で永眠しました。
 同日、従四位・勲五等双光旭日章を贈られ、戒名は釈天心でした。
 『茶の本』は、茶道を仏教、道教、華道との関わりから広く捉え、日本人の美意識や文化を解説しています。
 天心没後の1929年に邦訳され、2019年時点で約90年を経て118刷56万部に達しています。
 新渡戸稲造の『武士道』と並んで、明治期の日本人による英文著書として有名です。
 ジャポニズム興隆や日露戦争における勝利によって、日本への関心が高まったヨーロッパ各国でも翻訳されました。
 2016年には、世界的な名著を集めたペンギン・ブックス双書にも加えられました。
 『茶の本』の解説書はすでに数多く刊行されています。
 本書では、『茶の本』の世界を、できるだけ多岐にわたって紹介していきたいといいます。
 筆者は天心の人的交流に詳しく、その背景となる天心の書簡・日誌類など一次資料を丹念に見ています。
 先行研究の著作を参考にしながら、それらを補足・訂正し新しい視点を提起しています。
 また、国際的な文化交流の文脈で、『茶の本』を再考していくことにしたいとのことです。
 さらに、筆者ならではの視点から、120年前の『茶の木』を21世紀の現代から見るということです。
 序章では『茶の本』が執筆・出版されるまでの経緯ついて述べ、天心のコスモポリタンな思考と類いまれな英語力に着目しています。
 第一章では天心の幼少期から振り返りその思想的背景を概観し、六角堂について考察し数々の著名人との関わりについて心論じています。
 第二章では『茶の本』刊行100周平記念行事にについて触れ、『茶の本』の成立事情と構成について述べています。
 第三章はユーモリストで風流人でもあった天心に着目し、重要な思想的立脚点について論じています。
 第四章では清国を視察した天心の中国文化・思想への強い関心をテーマとし、『茶の本』に見える道教、詩歌について考察しています。
 第五章では1893年のシカゴ万博について詳しく述べ、天心が内装を手がけた鳳凰殿と併設のティーハウスに注目しています。
 第六章は天心の精神的支えであったガードナー夫人の来歴と、10年間にわたる両者の交流について考察しています。
 第七章では天心が愛した東洋の詩人たちに注目し、ブリヤンバダ・デーヴィ-、アンリーミショー、タゴールについても論じています。
 終章では晩年の天心が多忙な生活の中で夢見た二重の人生や、死への旅立ちを意識した天心の辞世ともいえる詩を考察しています。
序章 『茶の本』の世界/第1章 『茶の本』は「茶の湯」の経典か/第2章 宗教と哲学から『茶の本』を読む/第3章 文学・演劇にみるユーモリスト/第4章 中国文化との関連/第5章 万国博覧会と日本の建造物/第6章 ガードナー夫人のサロンに集う人々/第7章 詩で詠む『茶の本』の世界/終章 黄昏





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Last updated  2024.09.14 08:08:41 コメントを書く


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