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2003年、アメリカ、スティーヴン・キング原作、ローレンス・カスダン監督、モーガン・フリーマン。スティーヴン・キング原作でモーガン・フリーマンと、相当に期待をもたせる作品です。ストーリー:メイン州の小さな町に住む4人の少年、ジョンジー、ヘンリー、ピート、ビーバーはある日、風変わりな少年ダディッツを助ける。4人はその時、ダディッツから彼の持っている不思議な力(テレパシーや予知能力)を分け与えられ、以後その秘密を共有することで強い絆が結ばれる。20年後、大人になった4人にとってそのパワーは今では重荷として彼らにのしかかっていた。そんなある時、ジョンジーが交通事故で重症を負うが、奇跡的に一命を取り留める。やがて4人は北方の森にある狩猟小屋で再会を果たす。それは彼らにとって毎年恒例の楽しいイベントのはずだったが…。 冒頭、青を基調とした秀逸なCGではじまり、これがなかなか奇麗です。この基調としての青は、映画の最後まで維持されます。ただ、この映画、私としては見るべきものは、これのみですね。残念ながら。上で紹介したストーリーは前半部分のみですが、なかなかミステリアスな雰囲気が漂い、後半の展開に期待をもたせはします。後半は、邪悪な地球外生命体(エイリアン)が登場し、それを軍の特殊部隊が退治してゆく、といった展開になります。エイリアンは映像的になかなか良くできていますし、特殊部隊の軍用ヘリコプターが登場してダイナミックな戦闘シーンを披露してくれもします。しかし、いまどきB級SF映画でも、こういった陳腐な内容にしないのではないのか、と思わせるほど内容は薄いです。イメージ・テクニックは決して悪くないのですが、プロットが安易で進行は平板です。どこにも驚きはありませんし、退屈ですらあります。これは、SFモノとしては致命的ですね。『エイリアン』、『遊星からの物体X』、『サイン』といった作品の影響が濃い、といいますか、それらを組み合わせただけで、新鮮なものは殆どないと言っても過言ではありません。これで、135分はきついでしょうね。◇ ◇ ◇ ◇ ◇ドリーム・キャッチャー:昔、インディアンの人々は、棚の下にある大きな蜘蛛の巣を発見し、夢や人生におけるすべてのこ事はその蜘蛛の巣を通過してくるものと考えた。良い夢(事)は夜の空気と共に巣を通過し眠っている者のもとに届けられ、悪い夢(事)は巣に絡め取られて夜明けと共に太陽の光を浴び消えてしまうと信じていたのだ。そこで、信仰の対象として蜘蛛の巣をかたちどり、身近な素材で思いを込めて作ったのがドリームキャッチャーだ。今日まで「悪運を払って幸運を呼び、夢を実現する」お守りとして、伝統的に伝えられている。ドリーム・キャッチャーは、一つの輪を中心に四つの輪が取り囲む。中心の輪はダディッツ、四つの輪は四人の仲間を象徴している。ドリーム・キャッチャーが悪夢を取り払うように、四人は協力してエイリアンを退治し、人類の悪夢を払拭する。==============数日、ネット不在となります。
Feb 17, 2005
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2003年、日本、清水崇監督。かつてヴィデオでヒットし、いまハリウッドでリメイクされ公開されている人気ホラー作品です。私は、『呪怨』シリーズは、本日のテレビではじめて観たのですが、正直いってあまり”怖さ”は感じませんでした。本作品はストーリーが淡白で、したがって”空気”でもって恐怖心を湧き上がらせる、そういう雰囲気は希薄なのです。幽霊・超自然といたアイテム、物陰や背後といった空間設定、血やメイクによる視覚効果、不気味な音などによって”怖さ”が演出されています。また、冒頭から「くるぞ、くるぞ」と思わせておいて、なんのケレン味もなく「はい、どうぞ」という具合に怨霊が登場します。これは、かつての楳図かずお氏などの「少女漫画」ホラー、最近では「トイレの花子」さんやRPG、そういったノリの作品で、心の底から怖さが湧きあがってくるというより、心地よく鳥肌がたつといった雰囲気の仕上がりになっています(これはこれである種の”快感”を覚えますが)。ホラーやオカルトの怖さを、私は二種類に分けて考えています。一つは、精神的な怖さで、もう一つは、肉体的な怖さです。精神的な怖さというのは、人間心理の深層に潜んでいる残酷さ、脆弱さ、怨恨などを抉り出してみせて、それらを観客自身に投影させることによって(観客自身の心にもああいった面が潜在しているのか、といった具合に)共感的に恐怖させものです。肉体的な怖さは、暴行するとか傷つけるとか、身体的に死を示唆して恐怖させるものです。精神的な怖さは”空気”や”雰囲気”によって心理的に、肉体的な怖さは”血”や”死体”によって視覚的に表現されるのが一般的です。それで、『呪怨』ですが、題名からすると、この作品の本来のテーマは精神的な怖さの表現にあるのではないでしょうか。ところが、この映画では、肉体的な恐怖の手法が多用されており、どうもテーマと手法との間でバランスを欠いているようですね。この原作(小説)やヴィデオ版を見て既にストーリーの細部やテーマを理解している人、または、肉低的・視覚的なシーンのみで十分にホラー映画を堪能できる人にとっては、面白い作品なのでしょうけど、私のようにそうでない人にとっては物足りなさが残る作品でしょうね。
Feb 16, 2005
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2004年、日本、横山秀夫原作、佐々部清監督、寺尾聡。*************元捜査一課の警部で現在は警察学校の教職に就く梶聡一郎(寺尾聡)が、妻・啓子を殺害したと自首してきた。夫妻は7年前に白血病で息子をうしっているのだが、アルツハイマー病に苦しむ妻から「息子を覚えているうちに死にたい。殺して!」と半狂乱で嘆願され、止むに止まれずに首を絞めたという。だが謎が残った。梶が出頭したのは事件の3日後だった。空白の2日間に何があったのか?梶は頑なに黙秘、そして否認を続ける・・・・・。**************2002年のミステリー・ランキングを総なめにし直木賞の候補にもあがった、横山秀夫氏の傑作小説を映画化したもので、俳優陣は豪華です。俳優陣が豪華なのには理由があります。刑事、検事、新聞記者、弁護士、裁判官たちが、各々の立場から梶の行為の謎を自問自答し、解答を見出そうとするわけですが、立場が違えば、与えられる情報の質や内容もいろいろで、解釈も異なり、彼ら独自の苦悩を深いものとして表現する演技力が必要とされたからです。梶が関係者たちに投げかけた最大の謎は「高潔な人格の梶が、なぜ、自殺を思いとどまったのか?」ですが、裏を返せば「子供も妻も失った梶は、何のために生きているのか?」ということになります。この謎を解くために、皆、自分自身の内面に向かって問いかけることになります。「自分は、何のために生きているのか?」と。しかし、皆、「自分のため」という、ある意味消極的な答えしか思い浮かんできません。「自分のため」という答えが”悪い”と言いたいのではありません。ただ、単に「自分のため」という理由のみでは、自殺を思いとどまって敢えて生き恥をさらしている梶の行動が説明できないのです。なぜなら、梶という人物は、エゴイズムとは最も縁遠い人間なのですから。生きることには確かに価値があります。しかし、すべてを失って、生きることが無意味となった、否、それどころか(妻を殺害したのに、自分は自殺を思いとどまって)生きのびていること自体、恥辱に他ならない・・・・・あの高潔な梶が、なぜこの屈辱に耐えているのか?登場人部も観客も、終始この謎に惑わされることになります。
Feb 15, 2005
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1990年、イギリス、ベルナルド・ベルトルッチ監督、デブラ・ウィンガー、ジョン・マルコヴィッチ。ベルトルッチ監督の作品を観るたびに感心するのは、彼の映像は、”光と闇”の配置・コントラストが秀逸かつ絶妙であるということ。また、ダンス・シーンも、それぞれの作品で個性的で印象的なものが多いですね。 ****************終戦後まもない1947年、北アフリカ。ニューヨークからやって来た作曲家のポート・モレスビー(ジョン・マルコヴィッチ)とその妻で劇作家のキット(デブラ・ウィンガー)の目的は、単なる観光ではなかった。求めるべき夢を失なった彼らの深い喪失感を、あてどもない拡がりを持つ異国の世界で癒すためだった。その旅の道連れとなったのが、ポートの友人で上流社会に属するタナー。結婚して10年、夫との心のすれ違いを感じるキットに、かねてより彼女に心を寄せるタナーは接近してゆく。やがて3人は次の目的地に向かうが、車で向かうポートに対して、キットとタナーは汽車で別行動をとった。ある日、ついにキットとタナーは一夜を共にするが、アフリカ奥地の風土に嫌気がさしたタナーは別の土地へ向かった。二人きりになったポートとキットは、アフリカの蒼穹の下でひとときの愛を確認しようとするが、上手くいかない。やがて、ポートは伝染病(チフス)に罹患する。キットの献身的な看護も虚しく、医者もいない砂漠の果ての町でポートは息絶えた。一人きりになったキットの旅は、しかしまだ続く。彼女は砂漠を往来するアラブ人の隊商の中に身を埋め、男と体を重ねるが、彼女の眼はもはや何ものも映し出さないかのように虚ろであった。キットは砂漠からタンジールへと連れ戻されるが、もはや彼女はもとの自分へと返ることなどできない。タナーが一瞬目を離すともはや彼女の姿はどこにもなかった。****************原作はポール・ボウルズによる同名の小説で、ポール自身この映画に出演しています。それも、冒頭とラストの同じ飲食店のシーンで。つまり、キットは、ポールに見守られてアフリカのたびに出発し、そして最後にポールの前に帰ってくるのです。このようにして、物語の円環が閉じられるのでした。映画や小説では、夫であるポートが先に死亡し残された妻が旅を続けますが、現実には作者のポールは妻に先立たれています。ですから、作品と現実は鏡像の関係にあるわけです。ポールは、先立たれた愛妻のことを想いながら、(亡くなった妻のメタファとしての)キットに作中で旅をさせていたわけです。題名の「シェルタリング・スカイ」は「守りの空」といった意味です。・では、空とは何(誰)なのか?・また、空は、誰を何から守っているのか?私は、空は死亡したポートで、空(ポート)がキットを宇宙の闇・虚構(=死)から守ってくれているのだ、と解釈しています。この映画の前半・中盤の基調は、ポートとキットは確かにお互いに愛し合っているのに、お互いに自分を見失っていて、一緒にいてもどうしても幸福になれない、という重苦しい空気にあります。ポートは、この空気をニューヨークで既に感じ取っており、それを払拭するためにアフリカの地へとやってきたのでした。ポートは思い出の地にキットと二人でやってきます。その地は、ちっぽけな人間なぞゴミぐらいにか思えなくなる雄大な場所です。ポートは、自然と融合するかのごとくその場でキットと交わり、すれ違いの愛をなんとか克服しようとしたのでした。しかし、残念ながらその試みは失敗してしまいます。タナーという”触媒”によっても、この問題は解決しません。その後、ポートは伝染病で死亡し、キットが一人で旅をするのですが、この設定は原作者ポールの実生活の鏡像になっていることは前述しました。思うにポールは、亡くなった後も常に自分を見つめ庇護してくれる妻の存在を感じながら、アフリカで生活を続けていたのではないでしょうか。その感謝の意を伝えたくとも、妻はもうこの世にはいません。ですからポールは、小説を執筆し、そのなかで逆に自分(=空)が妻を庇護することをもって、感謝の意や愛情を切なく表現したのです。現世では幸福になれない愛しあう二人。先に亡くなったほうが空に登り、護りの天使となる。そういう愛のかたちもあるのだ、と。
Feb 14, 2005
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2000年、スペイン、アレックス・デ・ラ・イグレシア監督、カルメン・マウラ主演。スペインだけでも150万人の観客を動員し、2001年ゴヤ賞3部門の受賞ほか12部門にノミネートされるなど、スペインの映画賞を総ナメにしたヒット作です。***********不動産会社の女性営業員フリア(カルメン・マウラ)は、自らが担当する豪華な物件(アパートの一室)に失業した旦那を呼び寄せてともに一晩を過ごしたが、それが全てのはじまりだった。二人がベッドでくつろごうとした瞬間、天井の穴から大量の水とゴキブリが落ちてきた。翌日、消防員が調査したところ、上の部屋に住んでいた老人が腐乱死体で発見された。フリアは、偶然拾った暗号めいた紙切れを手がかりとして、老人が隠していた3億ペセタを見つけて歓喜した。しかし、その金は、アパートの住人たちが全員で以前から狙っていたものだった。彼らは、契約を交わして一致団結して、20年もの間老人が金を持ち出さないよう交代で監視し、彼の死後、皆で金を山分けする算段をたてていたのだった。そのことを察知したフリアは恐怖し、金とともにアパートからの脱出を試みるのだが、果たして成功するだろうか?************この映画の原題は『La comunidad』で、これは「共同体」という意味だそうですが、老人の金をめぐってアパートの住民たちが結束し一種の「(利益)共同体」を形成していたことの表徴となっています。実は、フリアが担当していた物件の前の住人(エンジニア氏)は、彼らの策謀に協力することを拒んだ結果、殺されてしまっていたのです。それほどまでに、彼らは欲の皮を突っ張らせていたのでした。そういうところへ、一人の中年女性(フリア)がやってきて金を独り占めしようとしているのですから、住民たちが黙っているはずがありません。そして、フリアと住民たちの間で、文字通り血みどろの死闘が演じられることになります。・・・・・とまあ、こう書きますとシリアスなサスペンス映画のように思えるかもしれませんが、実は遊び心満載のブラック・コメディまたはパロディ作品です。例えば、オープニングは『007』を彷彿させます。アパートを舞台として新参者が怪しげな「共同体」の思惑に巻き込まれるというプロットで、小物としてナイフや包丁が何度も登場しますが、これは『ローズマリーの赤ちゃん』や『デリカテッセン』のパロですね。冒頭でダース・ベーダーに仮装した男が現れますが、もちろん『スター・ウォーズ』。一人のオバさんが、『マトリックス』風アクションで大ジャンプを見せてくれたりします。終盤の追跡劇はヒッチコック風(『北北西に進路をとれ』、『めまい』)です。コミカルで気丈夫なフリア(カルメン・マウラ)から漂う雰囲気は『キカ』を連想させます。この映画でもう一つ特徴的な点は、表現の露骨さです。老人の腐乱死体、血やスプラッター、バイオレンス・シーンは必要以上にリアルです。通常、女性の主人公は、残虐な仕打ちを受けてもバイオレントな描写は抑えられるものですが、この映画ではその辺、容赦がありません。女同士の格闘も手加減なしですね。また、フリアにしても住人たちにしても、金に対するエゴイスティックな執着を隠そうともせず、殆ど開き直っています。「共同体」とは称しながら、住人たちはフリアと一対一になりますと、即座に二人で金を持って(つまり「共同体」を裏切って)一緒に逃亡しようと持ちかけます。さらに、フリアは、いい年をした女性なのですが、若い男性に対する欲望を隠そうとはしません。そのためには、自分の夫を死んだことにしてしまうくらいです。単なるブラック・コメディまたはパロディ作品にとどめず、血、暴力、エゴ、欲望、性といった暗部を露骨にかつ開けっぴろげに表現したことが、スペイン人気質に受けた要因のひとつではないでしょうか。それともうひとつ、円熟した役者が揃っているだけあって、演技はどれも素晴らしいものがあります。この映画は、「コメディ・パロ」と「露骨」との間で微妙なバランスを保つことによって独特の雰囲気を醸し出しているのですが、大根役者が演じてしまっては退屈なドタバタ劇に終わってしまったことでしょうね。
Feb 11, 2005
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1997年、オーストラリア、サマンサ・ラング監督、パメラ・ラーブ主演。出演する役者や監督をはじめとして、製作陣の殆どが女性でしめられており、また作品内容も女性の解放をテーマとした、フェミニズム映画です。*****************足が不自由な中年女性へスター(パメラ・ラーブ)は長い間父親とふたりで暮していたが、そこへ家政婦として施設育ちの若い娘キャスリンがやってきた。質素で単調な田舎暮らしに嫌気がさして飛び出したキャスリンを追いかけて、なだめて戻るように説得するへスター。キャスリンとへスターのぎこちない共同生活が始まるが、やがてふたりの間には親密な感情が生まれる。父親が亡くなりへスターが遺産を相続すると、ふたりは思うままに金を使い、ぜいたくな生活を送るようになる。そのお金が底をつくと、ふたりは農場を売って大金をえて、外れにある小屋に移り住む。その家の庭には古い井戸があった。ふたりは将来の欧州旅行を約束しながら、お金を小屋の中に隠し田園暮らしを再開する。この時点では、お互いに必要とするものを与えあうふたりの関係は、バランス良く保たれていた。ある夜、酒に酔って車を運転していたキャスリンが、山の小道で見知らぬ男を轢いてしまった。怯えるキャスリンに代わってヘスターは、男の死体を庭の井戸に捨てる。翌日、偶然立ち寄った近所の人から、最近空巣が出るという話を聞き、もしやと思い確かめてみると、隠しておいた大金が跡形もなく無くなってしまっていた。ふたりは、昨晩轢き殺してしまったあの男が空巣だったに違いない、だからなくなったお金は死体と一緒に井戸の底にあるのだ、と思い至る。ヘスターは、キャスリンに井戸の中に入ってお金を取ってくるように言うが、キャスリンは人を轢き殺してしまったことに怯え、さらにヘスターの命令にも強い嫌悪を覚える。キャスリンはやがて「井戸の中の男はまだ生きており、自分は井戸の食べ物を与えてきた。彼は私を愛しているといい、私も彼を愛している」と言い出した。ヘスターは、男は死んでいたと説得しようとするが、キャスリンは聞く耳を持たない。かみ合わない言い争いを続けるうちに、ふたりが心に秘めていた確執が明らかにされていく・・・・・。外は嵐を前にして雨が降り続いている。涸れていた井戸の水位は雨で上昇し始める。彼は本当に生きているのか? 消えた大金はどこにあるのか? *****************原題は『The Well』ですが、井戸は二人の女性の関係のメタファとなっています。人は、井戸から水を汲み上げ、その水によって渇きを癒します。足が不自由で、少女時代のヨーロッパ旅行を唯一の華やいだ思い出として、あとは父を扶けて家を切り盛りすること以外になんの変化もみられない生活を当然のこととして甘受していた、クラシック音楽好きの中年女性ヘクスター。施設育ちで自由奔放、テレビやディスコやロック音楽がなければ生きていけない、キャピキャピの現代娘のキャスリン。タイプも性格もまったく違うこの二人の女性は、お互いに自らの生を充実させるためのアイテムを相手から汲み上げてきたわけです。中年女性のヘスターはキャスリンから自由への予感や恋を得、対してキャスリンはヘスターからお金や愛情を得てきました。つまり、両者とも相手と交わることを通じて、人生の新たな可能性(=エロス性)を相手(=井戸)から汲み上げていたのでした。かくのごとく、庭の井戸は、二人の良好な関係性のメタファとなっていたわけです。そこへ一人の男が登場します。酒に酔って車を運転していたキャスリンに轢かれ死亡(?)した男です。そして、その男の死体は、こともあろうに、二人の良好な関係を象徴する庭の井戸に投げ込まれてしまったのでした。このことによって、二人の良好だった関係に徐々に亀裂が生じてゆくことになります。なくなったお金は井戸のなかの男(空巣)が持っているとされ、また、その男は生きており、キャスリンはお互いに愛し合っていると述べるようになります。このことは、それまでのキャスリンはお金や愛情を(井戸たる)ヘスターから汲み取っていましたが、井戸に男が投げ込まれた結果、お金や愛情の源(井戸)がヘスターから井戸の男へと移行してしまった、ということを意味しています。恋人の片方に別の恋人ができて破局をむかえる物語・・・・こう書いてしまうとあまりに俗っぽいものになりますが、この作品の射程はもっと広いものがあります。どう広いのかというと、ひとつにはフェミニズム、もうひとつには「欠如」という要素がみられることです。フェミニズムについてですが、ヘスターとキャスリンの間を仲介するとともに破局に導いたものとして、「父」が重要な要素をなしています。ヘスターは、父権的な支配・被支配という関係のもと、キャスリンにお金と庇護的愛情というこれまた父性的なアイテムを与え続けていたわけです。ヘスターとキャスリンの関係は結局は破綻するわけですが、このように欺瞞的な父性に基いた(女二人の)人間関係の脆さを、この作品は告発しているといえます。「欠如」についてですが、足が不自由なヘスターは父親と二人っきりでずっと自閉的な生活を送ってきたわけで、彼女の生活には自由や恋愛というものが欠如していました。対して、施設育ちのキャスリンには、経済的基盤や家族愛というものが欠如していました。二人はお互いの欠如を補いあい埋め合わせあっていたのですが、このような消極的なモチーフに基いた関係では、将来的にそう長続きはしない、とこの作品は訴えているようです。つまり、このような関係からは一時的な癒しの効果は期待できるでしょうが、生を充実させるために本当に必要な環境は、欠如の埋め合わせではなく新たな創造性を喚起しあえるような人間関係なのであって、それが無理なら早晩破局をむかえるしかないのだ、と。◇ ◇ ◇ ◇ この映画では「足」が各場面で強調されています。足が不自由で杖がなければ歩けないヘスターの姿に対して、キャスリンの健康的な足は必要以上に露出され、ヘスターの不自由ぶりを表徴するとともに、二人の性的関係(レズ)のメタファともなっていますね。実は、この映画ではラブシーンらしきものは一切登場しません。他にもブーツ、髪の毛、鍵などが象徴的に用いられています。また、ブリーチ・バイパスと称される、青を基調とした映像、さらには、いかにも女性中心の作品らしい繊細な映像やアクションが印象的でした。
Feb 9, 2005
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”俺たちは、いったい何のために戦っているのか?”アフリカ植民地のゲリラを鎮圧するために派遣された部隊のカブリタ少尉が、軍用トラックで揺られながらこう呟きます。対して、まわりの仲間たちが思い思いに「戦う理由」をあげていきます。法律、愛国心、国益、家族・・・・しかし、本土防衛のためならいざ知らず、植民地の独立運動を弾圧するという行為を正当化しうる理由はついぞ提示されません。そもそも、この時代(第二次世界大戦後)に植民地を保持すること自体がポルトガルにとって良いことなのか悪いことなのか、という問いにさえ誰も答えが出せないのです。良いことといえば、植民地支配によってアフリカの部族同士が争うことを止めポルトガルに反抗し一致団結できたこと、また、これら部族の団結にあたって公用語(統一語)としてのポルトガル語が大いに役立ったこと、というブラック・ジョークのようなものしか兵士たちは思いつきません。カブリタ少尉は、やがてポルトガルの四つの敗北の歴史を語っていきます。1) ローマ時代、現在のポルトガルにほぼ一致する地域を支配したいたのはルシタニア族でした。紀元前2世紀、カルタゴを打ち破ったローマ軍は、その勢いをかってイベリア半島に攻め込みますが、ルシタニア族は指導者ヴィリアの活躍でこれを退けます。しかし、紀元前139年、ローマ軍に内通した身内の裏切りにあってヴィリアは暗殺されてしまいました。結局、紀元前後にポルトガルはローマに征服されます。2) 15世紀後半、イベリア半島はカスティリャ、アラゴン、ポルトガルの三つの王国が割拠しており、それぞれの王国が統一の機会をねらっていました。ポルトガル国王アフォンソ5世は、カスティリャの王位継承問題に介入してスペイン進出をねらいますが、トロの戦いに敗れて野望を打ち砕かれます。後を継いだジョアン2世は、政略結婚によって統一王国を目指しますが、息子のアフォンソ王子がカスティリャの王女の結婚した直後に落馬して絶命してしまいます。こうして統一王国の夢はついえたのでした。3) 16世紀、虚栄心が強く狂信的な気質をもつセバスチャン王は、イスラム征伐に固執し時代遅れの十字軍戦争を計画します。1578年、モロッコのお家騒動に便乗して北アフリカに上陸するも、アルカセル・キビルで歴史的な敗北をきっします。国王自身が行方不明となり、世継ぎがいなかったためアヴィス王朝は途絶え、ポルトガルは以後60年間スペインに併合されてしまいます。4) この映画の”いま”の舞台となっている20世紀後半。第二次大戦後の1960年は「アフリカの年」と称され、イギリス領やフランス領だった地域の多くは独立を果たしました。しかし,ポルトガルは国連の勧告にもかかわらず一切の独立を認めませんでした。1960年代後半から,ギニア=ビサウ、アンゴラ、モザンビークで独立運動が激化しましたが、サラザール独裁政権は多額の軍事費を投じ,勝つ見込みのない植民地戦争を継続させたのでした。戦争が長期化するにつれ、1974年4月25日リスボンで軍がクーデタをおこし,放送局や政府の諸機関を占領しました。首謀者は3月半ばにカエターノに解任された前参謀総長ゴメス将軍と同次長スピノラ将軍で、スピノラを中心に臨時政府が発足し,言論の自由・労働組合の許可・自由選挙の実施が宣言されるとともに(「カーネーション革命」)、ポルトガル植民地帝国も滅びたのでした。映画の舞台は「4)」の途中ですので、「歴史を語る」というより、歴史の反復性と運命にこの部隊の兵士たちが翻弄されながら破滅的な結末へとむかう「実体験」ということになります。つまり、カプリタ少尉をはじめとして、多くの兵士がゲリラとの戦闘で負傷し命を落とすことになります。しかし、この映画に終始漂う閉塞感は何でしょうか。もちろん、植民地支配は現代ではもはや肯定的に語ることはできませんので、植民地と密接不可分の関係にあるポルトガル近現代史を語ろうとすると、どうしても暗いものなってしまうという事情はあります。それに加えて、その暗さが、個人の内面にまで重く影をおとしており、それがえも言われぬ閉塞感の原因となっているようです。兵士たちは国家のために戦いますが、必ずしもその戦い自体の意義を理解しているわけでも、賛同しているわけでもありません。しかし、彼らは家族や生活を抱えているわけで、それを犠牲にしてまで政府の命令に逆らうわけにはいきません。この「生活の糧を国家に依存しているが故に、国家の命令には逆らえない」という構図がもたらす絶望的状況、それがもっとも明らかになるのが戦争という事態なのです。映画中、この絶望的状況をなんとか糊塗しようと、兵士たちは愛国心、正義、国益などを口にします。しかし、このような(絶望の)「飼いならし」は、遠い場所でデスクにふんぞり返って命令をだすのみの連中にとっては意味があるかもしれませんが、戦場という外面的にも内面的にも厳しい現実に直面している兵士にとっては偽善にしかうつらず、なんの説得力もないのです。なぜなら、彼らにとっての愛国心、正義、国益なぞ、戦闘相手のそれらと真っ向から対立するもの、つまり他者(戦闘相手)によって簡単に相対化されうるものなのですから。民主主義国家といえども戦争を行わざるをえない状況が出来しえますが、その時本当に怖いのは、この絶望感に捉われてニヒルに陥ることかもしれません。独裁国家や軍事主義国家のほうが、戦争の悪を国家に転嫁できるので、まだ気が楽ともいえます。この出口のない絶望感を、オリヴェイラ監督は「ノン」と称しているわけです。”NONとは恐ろしい言葉だ。それには表もなく裏もない。どちらから読んでもNONだ。まるで自分の尾を咬む蛇のようだ。”『プラトーン』、『フルメタル・ジャケット』、『地獄の黙示録』といった新しい戦争映画の基調をなすのは、戦争というものに対するこの感覚です。
Feb 8, 2005
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1990年、ポルトガル・フランス・スペイン、マノエル・ド・オリヴェイラ監督。90歳を過ぎてもなお現役のポルトガルのオリヴェイラ監督ですが(2003年、つまりなんと95歳で『永遠の語らい』を発表しています)、『ノン、あるいは支配の空しい栄光』(以下、『ノン』と略)は1974年4月25日のポルトガルの「カーネーション革命」に触発されて製作された映画です。ポルトガルというとスペインと一緒くたにされる傾向があるかもしれませんが、ポルトガル人気質は、スペイン人に比べ穏健で、熱狂的な面は少なく、交際能力に長け、地中海沿岸の諸国民のうち最も秩序があり、洗練されているとのことです。国民の90%がカトリックで、比較的同質的な人種集団を形成し、言語・風習も地方的偏差は少ないですが、ただ、南北の二重構造(貧富の差)が顕著で、北部の生活水準が高いようです。ポルトガルの歴史で我々にポピュラーなものは、大航海時代(15-17世紀)における活躍でしょうし、ポルトガル人が種子島に着き鉄砲を伝えたのもこの頃(1543年)でした。オリヴェイラ監督といいますと、男女間や共同体における個人的または内面的な葛藤をテーマにした作品が多いですが、『ノン』はポルトガル民族・国家という集団の歴史や命運に焦点を合わせています。”満たされない愛というテーマは絶対的なものを夢想する典型的に女性的な問題である。それに対して、敗北というテーマは男性に固有な問題だ。”(オリヴェイラ)つまり、それまでの作品は、個人の「満たされない愛」という女性的な問題が主なテーマでしたが、『ノン』の場合は、民族・国家の「敗北」という男性的なテーマを扱っているというわけです。確かに、『ノン』はそれまでの作品と比べて方向性(男性的か、女性的か)こそ違います。しかし、徐々に破滅へと向かう独特のリズムや、個人の内面から事象を捉えるというナイーブな視点には大きな変化はなく、これらの点ではいつものオリヴェイラの作風を踏襲しています。オリヴィラといえば、アンゲロプロスと並んで長回しをよく用いることで有名ですが、『ノン』でも冒頭でいきなり青々と茂った樹を360度から映す長回しと、それに続いて軍用トラックの長回しが登場します。樹という悠久の生命の象徴ともいえる自然をじっくり映した後で、無機質な鉄の道具を登場させ、両者のコントラストが嫌でも強調されることになるわけです。そして、今度はトラック上の兵士たちが映し出されるのですが、そこにいるのは通常の戦争映画のような”戦闘機能としての兵士”ではなく、一人一人が苦悩し迷う人間・個人として描写されていきます。このように、「樹→軍用トラック→人間」とじっくり描いてゆく映像シークエンスは見事という他はありませんね。観客の心には、この長回しの間、いろいろな想念がよぎることになるでしょう。兵士たちは、ポルトガルの植民地のゲリラを鎮圧するためにアフリカへ派遣されてきたのですが、やがて中隊長のカプリタ少尉が「俺たちは、いったい何のために戦っているのか」とつぶやき、ポルトガルの過去の壮絶な戦いの歴史を語ってきかせます。さて、このようにして始まるポルトガルの物語ですが、、四つの敗北の歴史が紹介されます。それぞれの物語にはそれぞれに意味があり、現在のポルトガルの苦悩や閉塞感へと繋がっています。======私事で数日ネットを離れますので、残念ですが続きは週明けになります。
Feb 4, 2005
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1972年、ヴェルナー・ヘルツォーク監督、クラウス・キンスキー。ドン・ロペ・デ・アギーレという実在の人物と実話を基にした映画で、『地獄の黙示録』に大きな影響を与えたとされています。**************1560年、南米の征服者ピサロが率いるスペイン軍が現地人奴隷たちとともに、黄金郷エルドラドを目指してアマゾンの奥地を進んでいく。しかし、糧食がつき先へ進むことが困難となり、ピサロは40人の先遣隊を先へと送り出すこととした。先遣隊の副長はドン・ロペ・デ・アギーレ(クラウス・キンスキー)。兵士の他に分隊長ウルスアの愛人イネス、15歳になるアギーレの娘フロレス、僧侶ガスパル・デ・カルヴァハル、貴族のドン・フェルナンド・デ・グズマンも一緒だった。三隻の筏に分乗したアギーレたちはエルドラドを目指すが、飢え、病い、そして人食い人種たちの脅威にさらされながら次々と倒れていく。しかし、アギーレはあきらめない。そして、彼の言動は徐々に狂気を帯びてくる。全員が死にただ一人の生存者となった”狂人”アギーレは、筏のうえで猿たちと戯れながらむなしく自分に語りかけるのだった。「これほど偉大な反逆があるだろうか。やがて新世界のすべてを奪おう。神の怒りである俺は、神話の通り自分の娘と結婚して、地上にかつてなかった大帝国を打ちたてるぞ」 ***************ヘルツォーク監督と主演のキンスキー(ナスターシャ・キンスキーの父ですね)は、ともに映画界でも屈指のエゴイストで、その凄まじさは伝説的です。とりわけキンスキーのエゴは強烈で、奇行のエピソードには事欠かず、ヘルツォーク監督より一枚も二枚も上手のようです。ちなみに、彼は、寺山修司監督の『上海異人娼館〈チャイナ・ドール〉』にも出演していますね。この映画の撮影中もキンスキーは、乱闘シーンで重い刀をふりまわしてエキストラに重傷を負わせたり、ジャングルで延々と続く撮影に飽き飽きして帰ると言い出したり。対して、ヘルツォーク監督は銃をつきつけて、「お前が帰るというのなら、お前を殺して俺も死ぬ」などとわたり合っています。キンスキーが”地”のままで荒れ狂い、それをヘルツォーク監督が無理やり映像に押し込め、その両者の激突から生まれたのがこの映画で、「ニュー・ジャーマン・シネマ」の金字塔的作品とも称されています。ただ、この両者のキレぶりもさることながら、この映画の真の魅力は表現の芸術的な素晴らしさにこそあります。まず、映像は褐色や濃厚な色彩を多用していおり、詩的かつ官能的な近代ヨーロッパ絵画を連想させるシーンが満載です。人物はもとより、自然にしても動物にしても、画面の隅々までスキというものがまったくない構成で、役者の衣装やメイクも、エクストラにいたるまで手抜きというものをまったく感じさせませんね。音楽はポポル・ヴーが担当しており、夢幻的なシンセサイザーの音色が全編にわたって流れます。映画の冒頭、霧のアンデス山脈の峠に連なるスペイン兵や現地人たちの姿を遠景ショットで撮ったシーンから、ヴーの音楽とも相まって、観客は否応なく幻想的な雰囲気に引き込まれることになるでしょう。これはもう、一大叙事詩または歌劇であって、ヴァグナーの世界の再現と言っても過言ではないのではないでしょうか。そうなると、ラストで孤立して狂気を顕わにするアギーレは、「超人」を目指しながら狂気に陥ったニーチェのメタファにも思えてきます。作品のテーマやストーリー性はともかく、映像や音楽としては完璧といってよい出来の作品です。
Feb 1, 2005
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