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シルク・ドゥ・ソレイユの『アレグリア2』名古屋公演を観てきました。シルク・ドゥ・ソレイユはカナダのケベック州で生まれましたが、そこはサーカスや大道芸人のメッカで、毎年夏には世界中の大道芸人たちが集まるサマー・フェスティバルが開催されています。さらに現在シルク・ドゥ・ソレイユが拠点をおくモントリオールには、約30ほどのサーカス関連会社や国立のサーカス学校もあります。シルク・ドゥ・ソレイユの設立は1984年。ケベックで活動する二人のパフォーマーを中心として細々と大道芸を演じていたのですが、やがて評判となり、それに気をよくした二人はケベック州に後援を求めたのでした。その後はご存知のとおりで、現在は世界中から集まったアーティスト600名を含む2700人のスタッフたちにより、同時に世界でさまざまな作品の公演が行われています。シルク・ドゥ・ソレイユのオーディションには、有名となった現在では多数が応募してくるのですが、その面接風景はというと・・・・・。面接官のセリフは「君は何ができるのかね。得意な技を、いま、この場でやってくれたまえ」で終わり。後は、応募者が面接官を満足させる技をその場で披露できるかどうかです。完全な実力主義ですね。日本には、1992年に『ファシナシオン』、1994年に『サルティンバンコ』、1996年に『アレグリア』、2000~2001年に『サルティンバンコ2000』、そして2003~2004年に『キダム』と公演を重ねてきました。去年は、シルク・ドゥ・ソレイユの創立20周年、『アレグリア』誕生10周年を迎える年でしたが、これを記念してフジテレビの主導のもとシルク・ドゥ・ソレイユと会議を重ね、今もなお北米ツアー中の『アレグリア』に敢えて時間と労力と資金を投下し、再演出して出来上がったのが『アレグリア2』です。ただ、DVDの2001年オーストラリア公演と比較しまして、そう大きな変更はありません。さて、私の『アレグリア2』(稲沢駅横の会場)への旅ですが、稲沢駅の横の特設駐車場のチケットをとり忘れたので(「ぴあ」やコンビニであらかじめ駐車チケットを購入しておかないと利用できない。路上駐車すると、まずレッカー移動されるらしい))、また連休中ということもあって、米原まで車で行き、そこからは新幹線で名古屋、さらに東海道本線で稲沢という経路。これが正解で、新幹線から名神高速が見えたのですが、渋滞の真っ最中。あれに巻き込まれていたら、開演に間に合わなかったかもしれません。米原駅西口には、有料駐車場が多数ありますが、一日500~700円と低料金です。私が利用した駐車場は、爺さんたちが数人で管理しており、なかなかアバウトな方たちばかりで面白かったです。「この駐車場は管理人は6時までで、それまでに帰ってこなかったら、カギはフロント・カーペットの隙間にで挿んでおくから、適当にもってってくれ」だそうです。同様の雰囲気は、F1観戦で利用した、鈴鹿サーキット近辺の臨時有料駐車場でもありましたな。さて『アレグリア2』ですが、期待を裏切らない素晴らしいパフォーマンスでした。私はシルクの作品は、DVDやヴィデオ化されたものは殆ど観ており、実際に観たのは『キダム』に続いて2作目です。それだけの経験しかないのですが、やはり『キダム』が一番気に入っています。クールな雰囲気、オブジェっぽいアイテム配置の多用、現実との接点(「超現実」)と、シュルレアリスムの原点を観るような思いがするものですから。『アレグリア(2)』は『キダム』と比較しますと、パフォーマンスや技がダイナミックですね。そこに生じる躍動感は、確かに、「アレグリア」(スペイン語で「歓喜」の意味)という題名に相応しいものです。”動”の『アレグリア』、”静”の『キダム』ということですね。歌や音楽も、どこかもの悲しい雰囲気が漂う『キダム』に対して、『アレグリア』は壮大です。キャラクターは、たぶん、『アレグリア』は昆虫をイメージしており、『キダム』は自然(星、太陽、月、そして精霊)です。ストーリーは・・・・・シルク作品に、固定したストーリーがあるとするならばの話ですが・・・・・、『キダム』は、現代社会から疎外され居場所を見失った自閉気味の少女が、表面的には隠匿されている自然というものに接して、その豊穣かつ神秘的な世界の素晴らしさを感じ取りながら、遂には自分と世界との関係性を取り戻すというものです。『アレグリア』は、辛い過去を背負った男が、そこに展開される世界像の素晴らしさに接し、心の傷を癒して歓喜するといったもの。クラウン演じる「スノー・ストーム」には、そういう意味が込められていると思います。そして、『アレグリア(2)』で、私が最も印象に残ったのはこの「スノー・ストーム」でした。
Apr 29, 2005
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2002年、スペイン、ペドロ・アルモドバル監督・脚本昏睡状態となり眠り続ける、二人の美貌の女性バレリーナの卵と女闘牛士話しかけ、触られた一人の女性にだけ奇跡が訪れる・・・・映像に装飾品、ファッション、そして色彩を”過剰”なまでにつめ込むことによって、独特のエロティシズムを表現してきたアルモドバル監督の最新作品です。しかし、この作品では”過剰”は若干抑えられたものになっており、そのぶん情緒性が増しています。1999年の『オール・アバウト・マイ・マザー』はアルモドバルのそれまでの集大成とされる作品ですが、それから3年、アルモドバルの作風には一つの転機が訪れたようです。◇ ◇ ◇ ◇【ストーリー】事故で昏睡状態に陥り、病室の清潔なベッドで深い眠りについたままのダンサーのアリシア。そんなアリシアを献身的に看護するのは、彼女を「生前」から慕っていた看護士のベニグノ。ベニグノは、眠り続けるアリシアの髪や爪を手入れし、体を拭き、クリームをぬり、服を替える。さらに、ベニグノは彼女に日々の出来事や感動的な舞台や映画について語りかけ続け(トーク・トゥ・ハー)、はや4年が過ぎようとしていた。ベニグノは、15年もの間、家に閉じこもり母親を介護するだけの生活を送ってきたという過去があり、アリシアの看護に全く抵抗感がない。一方、女闘牛士であるリディアが、競技中の事故によって昏睡状態に陥り、ベニグノが勤務する病院にやってきた。”話しかけてみて。女性の脳は神秘的だから。”突然の事故に困惑し、彼女の傍らで泣き、悲嘆にくれていたリディアの「恋人」のマルコを、ベニグノは「彼女に話しかけて」と諭す。しかし、マルコは、眠り続ける「恋人」に話しかけるどころか、触れることさえできない。愛する女性が同じ境遇にいるベニグノとマルコの2人は次第に心を通わせ合い、いつしか厚い友情が芽生えていた。ある日、マルコは、リディアの前恋人から、彼女の本音を聞かされ絶望に打ちひしがれる。失意のうちに、マルコは病院を去る。そんなある日、病院では、アリシアが妊娠していることが発覚する。そして奇跡が…。◇ ◇ ◇ ◇アルモドバルは、以下のような過去10年間に起きたいくつかの事件と日々の記憶からインスピレーションをえて、本作品を企画しました、 ・美は痛みたりうる(コクトー)---人は、予感できないほどの、また、信じられないほどの美しさに遭遇すると、喜びというより、痛みに似た感情に襲われ、それが涙を生むものだ。涙は、何かを失った人の目に湧き出て、不在や欠損を補うものだ。本作品では、マルコは頻繁に涙を流しますが(「泣く男 マルコ」)、アルモドバルはこういう意味を込めているわけです。 ・米国人女性が16年の昏睡状態から目覚めたという出来事。医学的に説明しずらい回復をとげた彼女が、看護婦に介助されながら歩く練習をする写真を見て、アルモドバルはいたく感銘を受けました。 ・ルーマニアであったのですが、死体安置所の夜警の男が、孤独にさいなまれて、また、あまりの美しさから、安置してあった女性の亡骸をレイプし、それがきっかけで彼女を息を吹き返したという事件。その女性はカタレプシーという病で仮死状態にあり、死んだように見えましたが実際には息があったわけです。夜警は逮捕され裁判を受けますが、娘の復活に感謝した家族は、彼に弁護士を雇い弁護料を払ったそうです。 ・ニューヨークの病院で、脳死状態の女性が妊娠した事件。犯人は病院の用具員と判明しましたが、脳が死んでいても命を宿すことが出来るという神秘にアルモドバルは驚きを覚えました。 ・アルモドバルは、『悪魔の人形』(1936年、トッド・ブラウニング監督)と『縮みゆく人間』(1957年、ジャック・アーノルド監督)を観て以来、「僕は家具の足や床のレリーフ模様が主な舞台の、小さな人間の出てくる映画を撮りたいと思っていた」と語っています。
Apr 27, 2005
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1963年、アメリカ、アルフレッド・ヒッチコック。60年に低予算映画『サイコ』が予想外の大ヒットとなり、ヒッチコックは『サイコ』を超える作品作りに奔走することになります。そして、自ら大の鳥嫌いであるヒッチコックがたどり着いたのが、実際に起こった鳥襲撃事件を基にしたダフネ・デュ・モーリアの短編『鳥』を映画化することでした。映画では鳥の襲撃をなかなか信じてもらえないのですが、実は鳥は結構人間を襲います。私も経験があります。子どものころあるトンビにつけ石を投げつけたら、しばらくそのトンビに付け狙われたことがあります。まあ、そのトンビは「札付き」で、数人の子どもを襲っており、ある子どもなどは右目の下数ミリのところに爪を突き刺されましたが(トンビは目を狙ったようです)。また、カラスが食べ物を持った人間を背後から襲う場面を、何度か目撃したことがあります。それと、襲われたわけではありませんが、近所にカラスの溜まり場となっている公園があり、夜中に数万羽にもなるカラスが木に止まっている中を歩いたことがあります。さすがに不気味でした。見た目は可愛いカモメなども、結構意地汚いですし獰猛でもあります。【ストーリー】ペットショップで出会った弁護士ミッチに無礼な態度をとられたメラニーは、気まぐれと好奇心からミッチを追ってデボラ湾に向かうが、その途中一羽のカモメに襲撃される。その翌日、カモメだけでなく、あらゆる野生の鳥たちが人間を襲い始め、小さな町は大混乱に陥る。普段は人間に無害なスズメやカラスといった野生の鳥たちが人間たちを襲いだす・・・・。ヒッチコックは本作のテーマについて「自然は復讐する」と語っています。映画の冒頭、ペットショップで籠に入れられたおびただしい数の鳥が映し出されますが、そのことに対する復讐でしょうか。または、環境破壊の危険を訴えていたのかもしれません。この映画は、馴染みがある鳥たちが得体の知れないモンスターに変じて集団で人間を襲うというものですが、これでひとつ思い出したのは、欧米映画に登場するモンスター、とりわけ集団で登場するモンスターは「アジア」のメタファになっている、ということです。「アジア」とは、中国人、イスラム教徒、そして日本人などを意味します。主人公のミッチとヘイワースは、それぞれ弁護士と新聞社社長令嬢で、容姿端麗で会話が上手く嫌味もない。つまり典型的なアメリカ中流階級に属するわけで、どこから見ても羨ましいカップルなのですが、実は共に「家族」的な病理を心のうちに抱えています(ヒッチコック映画ですから、当然ですか)。そして、その心の傷に忍び込むように、鳥が彼らを襲いだします。かつて「日記(2004年1月24日)」で述べたように、ヨーロッパ社会の根底には「アジア」というものに対する恐怖があるようです。古くはトルコ帝国、イスラム教徒、中国(黄禍論)、日本(「エコノミック・アニマル」)と。そして、欧米人にとってこの「アジア」というもののイメージは、不規則、迷路、集団主義(個が見えない)、「何を考えているかわからない」、「死を恐れない」といったものではないでしょうか。この「アジア」のイメージは、この映画の「鳥」とそっくりなんですね。ベトナム戦争がはじまったのが1960年。もしヒッチコックがベトナム戦争を念頭におきながら『鳥』を製作したのだとしたら、戦争の結末を見事に先取りした内容に仕上がっているといえるでしょう。
Apr 25, 2005
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2004年、アメリカ、M.ナイト・シャラマン監督。いま私がもっとも気に入っているシャラマン監督の最新作で、期待を裏切らない内容でした。==============深い森に囲まれたそのでは、60人ほどの住民たちが家族のような絆で結ばれながら、自給自足の暮らしを営んでいる。金や個人所有がない地上の楽園のようなこの村に、決して破ってはならない三つの掟があった。森に入ってはならない、不吉な赤い色を封印せよ、警告の鐘に注意せよ。誰が何のために掟を作ったのか、確かなことは誰一人知らないが、村人は森に棲む怪物を恐れ、外界との接触を絶って慎ましく生活していたのだった。そんなある日、ひとりの若者ルシアスが、村にはない医薬品を手に入れるために、禁断の森を抜ける許可を申し出る…。==============シャラマン監督というと、デビュー作の『シックス・センス』以来あっと驚くどんでん返しが有名で、この作品にもそれが用意されています。ただ、この作品の本質はホラーやミステリーではありません(これらは、あくまでテイストにすぎません)。『ビレッジ』は紛れもなくラブ・ストーリーですね。この作品には、いろんなカタチの「ラブ」の表徴が描写されています。通常の恋愛はもとより、献身、勇気、庇護、秘密、嫉妬、狂気、恐怖、そして沈黙と嘘・・・・。彼らの「ラブ」はあまりに”イノセント”であり、そうであるが故に、相手への信頼や、「裏切り」に対する復讐なども尋常ではありません。閉ざされた村であるが故に、あまりにイノセントな住民たち。村の囲りを固めるのは、怪物が棲む森です。森の怪物を象徴するのは「赤」、村を象徴するのは「黄色」。「赤」は、血を意味します。血は生命のパワーの源泉であるともとに、不安や恐怖心に訴えそして狂気へと繋がります。「黄色」は、平和や安定を意味します。村は<心>、森は<身体>、という具合に一人の人間のメタファになていますね。村の結界が破られ「赤」が侵入してきた時、村は狂気に包まれ、それを契機として村の住民の一人が外界と接触するため森の深くへと旅立ってゆきます。この時、森は<杜>と化し、この住民とともに村全体がイニシエーションを受けることになります。つまり、この物語は一種の「メルヘン」ですね(この辺については、この日記以降を参照ください)。私がシャラマン監督に注目している最大の理由は、彼の作品が、シュルレアリスムをもっとも正統的かつ現代的に具現していると思われるからです。私はかつて「シュルレアリスムを現代的に読み直して、是非とも復活させたい」と述べたことがあります。具体的には、客観主義に偏りすぎていた(ブルトンらの)シュルレアリスムを、実存主義的・現象学的に読み解くというものだったのですが、なんのことはない、シャラマンがシュルレアリスムにラブストーリーを組み合わせて見事それを成し遂げてしまいました。そういう意味でも、忘れることが絶対にできない作品です。◇ ◇ ◇ ◇俳優陣はホアキン・フェニックス、エイドリアン・ブロディ、シガニー・ウィーバー、ウィリアム・ハートと豪華ですが、その中にあって新人のブライス・ダラス・ハワードの演技も輝いてました。エイドリアン・ブロディの狂人(ノア)ぶりも、アカデミー主演男優賞(『戦場のピアニスト』)を獲得しているだけあって見ごたえがありました。恐怖シーンを効果的に盛り上げていたのは、彼の「笑い」です。ワンシーン、ワンシーンの充実ぶりはいつものシャラマン流ですが、音楽は20代後半の新鋭バイオリニストのヒラリー・ハーンが奏でる音色が素晴らしい。私がもっとも好きなシーンは、前半、怪物が村を襲った時に、ルシアス・ハント(ホアキン・フェニックス)が、彼を信じて手をずっと差しのべ続けていたアイヴィー・ウォーカー(ブライアン・ダラス・ハワード)の手をとって地下室に駆け込む場面です。盛上げ方やスロー・モーションの使い方といい、音楽といい、感動的なシーンでした。
Apr 23, 2005
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2002年、オーストラリア、フィリップ・ノリス監督。1930年代から70年代にかけてオーストラリアでは、先住民アボリジニに対する隔離・同化政策がとられていました。この政策の対象となったのは、アボリジニと(イギリス系)白人との間に生まれた混血児たちです。その多くは、アメリカにおける黒人と白人との混血児同様、白人男性によるアボリジニ女性の「レイプ」によって産まれた子供たちです。「レイプ」のほうではなく混血児の存在そのものを問題視したオーストラリア政府当局は、幼い混血児をアボリジニ家族から引き離して隔離し、子供達に英語教育、白人文化、キリスト教を施して白人社会に適応させ、一定の年齢に達したら少年は農夫として、少女はメイドとして白人家庭で使用するという政策をとりました。隔離された子供たちは、施設から出ることはもとより、母親と再会することさえ禁じられていました。先住民女性のメイドという職業ですが、これまたアメリカと同様、白人男性の性の対象と暗黙に了解されていたわけですが、この政策の主眼は、混血女性を外見的(皮膚の色)にも白人化させることでした。白人男性とアボリジニ女性との間の混血児(ハーフ)を(アボリジニ男性から隔離して)メイドとして使用しながら白人男性と交わらせ(クォーター)、その子供に対してさらに同じことをくり返せば(オクタム)、外見上は白人と殆ど変わらない人間になってゆくという次第です。このようにして、現存する混血女性を<白人の側>に取り込み、もって混血児問題を”解消”しようとしたわけです。この隔離政策に遭った子供たちのことを「Stolen Generation(失われた世代)」と称します。シドニーオリンピックで現役の選手としては異例の聖火の点火役をつとめ、陸上女子400m走で金メダルに輝いたキャシー・フリーマンの祖母も、この隔離政策の犠牲者でした。オーストラリア政府としては、フリーマンを起用することによって、白人と先住民アボリジニとの「和解」を国際的にアピールしたかったのでしょうが、アボリジニたちからは、フリーマンのように華々しく活躍する者にだけスポットライトがあてられて、貧困にあえいでいる他の大多数の先住民に目が向けられない、と批判する声もあがったそうです。しかし、フリーマン自身は、いろんな声があることに悩みながらも、「自分がオリンピックで活躍することで、アボリジニの子どもたちに希望を与えることができる」という判断で、オリンピックでのさまざまな役割を引き受けたのでした。オリンピックで彼女がみせた複雑な表情の背景には、そういう事情があったのです。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇【ストーリー】1931年、オーストラリア。先住民アボリジニの混血児を家族から隔離し、白人社会に適応させようとする隔離・同化政策により、14歳のモリーと妹で8歳のデイジー、モリーの従妹である10歳のグレイシーという3人の少女が、強制的に寄宿舎に収容された。気丈なモリーは息がつまるような施設の環境が耐えられず、母のもとへ帰ることを計画。脱走した3人は、1500マイル(2400キロ)にもなる厳しい家路を歩き始めた。あてどなく荒野をさまよっていた3人だったが、ある白人女性に、故郷ジガロングへと通じるオーストラリア大陸を縦断するうさぎよけ用のフェンス("RABBIT PROOF FENCE"=映画の原題)を教えてもらう。フェンスを頼りに歩いていく彼女たちを、アボリジニ保護局の局長ネヴィル、そしてアボリジニの追跡人ムードゥが追い掛ける。やがてグレイシーが彼らに捕まってしまう。最後の気力を奮い起こし逃げ続けるモリーとデイジーだったが、フェンスは途中で途絶えていた。絶望する彼女たちだったが、やがて精霊の助けを得て、見事2人は故郷にたどり着いて母との再会を果たし、90日に渡った旅を終えたのであった。この映画の原作は、『RABBIT PROOF FENCE』という同名の本です。著者はモリーの娘ドリスで、母についての物語を綴ったノンフィクションです。この親子の物語りはまだまだ続きがあります。映画ではモリーが8歳の妹とともに無事母の元へ帰りついたところで終わっていますが、モリーはその後砂漠の奥地に移り住み、結婚して2人の娘を産み穏やかに暮らしていました。しかし、1940年11月、モリーと娘達は再び収容所へ移送され、その翌年、モリーは上の娘のドリス(4歳)を残し、1歳半の娘のアナベルを連れて再び逃亡し、なんと9年前と同じルートを辿ってジガロングへと戻ったのでした。さらにその3年後に、アナベルが再び捕まり南部の施設へ送られ、それきり家族はアナベルとは再会していません。収容所にひとり残されたドリスは母が逃亡したことを知らないまま収容所で暮らしていましたが、やがて隔離同化政策が見なおされ、キリスト教のミッションができ、ドリスはクリスチャンとなり、行政の思惑通り「完全に白人化した人間となった」ことをのちに自らも認めています。自らの出自を知ったドリスは、アイデンティティを求めてアボリジニの言語や歴史を修得するうちに、叔母にあたるデイジーから母のことを聞き本にしたのが『RABBIT PROOF FENCE』です。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇この映画には、明らかな「悪人」は一人も登場しません。モリー姉妹たちは逃亡の途中でいろんな人物に出会いますが、アボリジニはもとより白人にしても、皆彼女たちに同情的です。憎まれ役の隔離・同化政策の実権を握る保護局長ネヴィルにしても、隔離・同化政策は社会のためだと確信していたのですし、逃亡したモリー姉妹の追跡も、彼女たちを保護するためという動機が強かった。つまり、この映画に登場する者たちは、皆、普通の人間たちなのです。普通の人たちが、それぞれの使命、職務、善意にかられながら行動しているのです。それにオーストラリアの自然の優美かつ霊験的な描写や夢幻的な音楽(ピター・ガブリエル担当)が相まって、シーン全体が非常に柔らかい空気につつまれてます。従来の紋きり型の「糾弾映画」とは、一線を画する内容となっていますね。オーストラリアでアボリジニに対する過酷な「差別」があったのは事実ですし、現在でも完全に解消されてはいないでしょう。しかし、その「差別」の存在を単に糾弾するだけでは、「差別」は解消しません。勢いのおもむくところ、被差別側は「差別」をより一層残酷かつ非道なものとして描いて糾弾を続けようとしますが、しかし、残念ながら、それでも「差別」は解消することはありません。そうなると、被差別側に到来するのは絶望やニヒルという感覚で、反体制・反社会的に「差別」解消運動をより激化させるか、「差別」解消を諦めるか、二つに一つの選択を迫られることになります(最近は、人権意識の昂揚により、前者が選択されることが多いようですが)。では「差別」を解消するにはどうしたらよいのか・・・・この点についてはそのうち述べるつもりですが(『オペラ座の怪人』の項でも示唆しておきました)、この映画の作風はこれに関してヒントを提供してくれる内容になっていると思います。
Apr 19, 2005
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幽霊というのは現実における存在でもなければ、まったくの虚構でもない(と考えられています)。現実と虚構の間に横たわり、時として現実世界に顔をのぞかせて「死」を示唆したり、我々の生存可能性を脅かすものが幽霊というものです。ただ、よく考えてみますと、現実と虚構(=あの世)の双方に佇む存在であるがゆえに、幽霊というのは魅力的でありますし、ある意味では希望にもなりえるのです。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇幽霊がなぜ魅力的であり、希望にさえなりえるのかについて説明する前に、「死」についてちょっと考えてみましょう。私は先に「”嫌悪”としてのホラー」について、以下のように説明しました。===========”嫌悪”とは、不快や驚きといった人間のエモーショナルな反応のことですし、人間の生存が脅かされる事態(死が示唆される状況、現実をコントロールできない状況)において生じる心的反応といってもよいでしょう。===========我々が幽霊を”嫌悪”する根本的な理由は、「死」が示唆されるからです。「死」は我々にとって最大の恐怖です。なぜ恐怖なのかといえば、「死」とは自分自身の消滅すなわち<無>を意味するからです。「死」すなわち<無>とは何か? などと問うてみても無駄です。対象として、我々の思考どころか(通常の)感覚さえも拒否するのが<無>という状態なのですから。人は必ず死ぬ・・・・・このことに異論がある人はまずいないでしょう。つまり、「人は必ず死ぬ」というのは、もっとも客観的な事実と我々は認識しているわけです。人間は「死」について、結構幼少の頃から恐怖の念を抱くようですね。私は小学生の頃でしたが、私の子どもたちもそうでした。小学生の末娘なども最近「私、絶対に死にたくない!」などと涙ながらに訴えてきております。「死」の恐怖を和らげるために、人間は、例えば宗教という「物語」を創り出してきたといってよいでしょう。宗教的な死後世界には、極楽、天国、浄土、地獄などといった「虚構」がつきものです。つまり、宗教の癒しのメカニズムは、「物語」の力によって「死」が孕む<無>を<有>へと転換することにあるわけです。そして、幽霊にも宗教と同様の「物語」性があるんですね。「現実と虚構の間に横たわり、時として現実世界に顔をのぞかせて我々の生存を脅かすものが幽霊」であるとして、もし、実際に幽霊が存在するのであれば、間接的にではありますが、現実世界のほかに虚構世界(=あの世)も存在することが証明されることになり、我々にとって「死」はまったくの<無>ではなくなるわけです。そういう意味で、「幽霊というのは魅力的でありますし、ある意味では希望にもなりえるのです」。つまり、幽霊という存在は「死」を示唆しつつも、「死」の乗り越えの原理をも到来させえる、ということですね。私はかつて、近所の寺の住職に、「幽霊というものを是非とも見てみたいものだ。死後の世界があるのなら、私は死を怖れるどころか、場合によってはすすんで死ぬかもしれません」と言ったことがあります。住職の答えは「そういう人間は、死んでも幽霊にはお目にかかれんよ」というものでしたが(笑)。バタイユによれば、エロティシズムとは「死の乗り越えの可能性」とほとんど同義なのですが、そう言われてみると怪談ってどこかエロティシズムが漂うものが多いですね。と言いますか、人間は(バタイユ流の)エロティシズムを求めて幽霊という「物語」を創りだしてきたのかもしれません。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇先に紹介したように、小中千昭氏などは、幽霊”そのもの”が「本当に怖い」と考えているわけです。皆さんは、小中氏による(観客を恐怖させるための)「小中理論」の骨子は、作品で 【 幻想に他ならない幽霊を、いかにリアル(客観的)に描写するか 】 に最大の力点がある、ということにお気づきなられたと思います。人智を超えた客観存在として幽霊を描写すれば、観客は本当に怖がる、と。「小中理論」で前提されているのは、幽霊というものは絶対的に怖い存在である、ということです。しかし、いかに映画や小説の中とはいえ、そう前提してよいものかどうか?その前提で作品をつくり続けると、たぶん、マンネリ化してしまうと思います。そうなりますと、観客受けするために、より衝撃的つまり”嫌悪”を増幅させるような刺激的なシーンを取り入れていかざるをえないことになります。つまり、技術的なアイデアの勝負になるということですね。実際、いまの日本の「幽霊映画」はそういう状況にあるのではないでしょうか。幽霊が怖いのは、幽霊の存在によって、普段の日常生活にまぎれて心の深層に隠匿されている「死」すなわち<無>の恐怖が顕在化させられるからです。さらに、幽霊が絶対的に怖いという前提に立つ限り、幽霊という存在によってこそ心に湧きあがってくる魅力や希望、さらにはエロティシズムについては、軽視され続けることにもなるでしょう。それでは、奥の深い幽霊映画を製作することはできません。幽霊=「本当に怖いもの」と先験的かつ客観的に扱うのか、それとも、幽霊を一度「心」に還元して意味や本質をとりだすのか・・・・そこが小中氏(前者)と私(後者)との根本的な違いです。
Apr 18, 2005
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本日、オペラ「トスカ」を観てきましたので、「ホラー映画」は一休みします。「トスカ」といえば、ご存知プッチーニの代表的名作オペラで、初演は1900年。この度、金沢観光会館で、オーケストラピットが前3列から6列に拡大され、そのこけら落としとして企画されたのでした。ソプラノは、地元金沢出身で現在はヨーロッパを中心として活躍中の濱真奈美さん。イタリアに留学した後、1990年ドイツ・フルト歌劇場にて「蝶々婦人」にてデビューを飾っています。レパートリーは他に「椿姫」、「トロヴァトール」、「ラ・ボエーム」等。10年ほど前に、彼女が歌う「ある晴れた日に」を目の前で聴いて完全に圧倒され、それ以来私のディーヴァ的存在です。声は全体的に伸びと厚みがあり、中低音域が特に魅力的です。彼女の同級生だった人を知っているのですが、その人によると、濱さんは小さい頃から腰周りに迫力があって(ただし、体型は太っているというわけではありません)、オペラ歌手になったと聞いて「ああ、彼女ならおかしくない」と友人同士で納得しあったそうです。容貌は、前回見たときよりぐっと色っぽくなっていましたし、歌声にもより一層の艶が出てきた印象です。彼女はいまが円熟期といってもよいようです。そういう彼女が歌ったアリア「歌に生き 愛に生き」、最高でしたね。 歌に生き恋に生き 決して他の人に悪いことなんかしませんでした 多くのかわいそうな人たちに会いました そのたびにそっと内緒で助けてあげてきました いつも心から神を信じて祭壇にお祈りを捧げてきました いつも心から信仰して祭壇にお花を捧げてきました それなのに神様、この苦しみの時にどうして、 どうして私にこんな仕打ちをなさるのですか 聖母さまのマントに宝石を寄進し 私の歌を星に、天に捧げ 天はその歌に優しく微笑んで下さったではないですか それなのにこの苦しみの時にどうして、どうして神様、ああ どうして私にこんな仕打ちをなさるのですか「歌に生き 愛に生き」の歌詞に象徴されているように、このオペラのテーマは「不条理」です。ストーリー)恐怖政治が行われていた1800年のローマ。画家のカヴァラドッシが教会で絵を描いていると、彼の友人で前の領事のアンジェロッティが脱獄してきた。ちょうどそのとき、カヴァラドッシの恋人、美貌の歌姫トスカが来たために、彼はアンジェロッティをかくまう羽目になる。トスカが帰った後、2人は慌てて逃げる。警視総監のスカルピアは、脱獄犯を探している最中にトスカと出会う。スカルピアは以前からトスカに横恋慕しており、言葉巧みにトスカの嫉妬心を煽るとともに、カヴァラドッシの隠れ家をつきとめる。ファルーネーゼ宮殿のスカルピアの執務室に脱獄犯をかくまった罪で、カヴァラドッシが連行されてくる。そこにトスカを呼び、隣室でカヴァラドッシを拷問し、アンジェロッティの隠れ家をトスカに白状させる。カヴァラドッシは投獄され死刑が宣告される。彼を助けるためには、トスカはスカルピアに身をまかせなければならない。一度はやむなく承諾するが、ふと目にとまったナイフでスカルピアを刺し殺す。殺害する寸前にスカルピアに書かせた通行証明書を手に、トスカはカヴァラドッシを救いに行く。死の覚悟を決めたカヴァラドッシのもとにトスカがやってくる。(トスカが身をまかせることと引き換えに、スカルピアの命令で)空砲による偽の銃殺刑を装うことになっており、その後2人で逃走しようという段取り。ところが、実際には実弾が込められており(つまり、スカルピアの命令は偽だったのだ)、トスカの目の前でカヴァラドッシは本当に処刑されてしまう。絶望したトスカは、「おお、スカルピア、神の御前で!(Avanti a Dio !)」と叫び城の屋上から身を投げる。歴史的背景)フランス革命の後、ナポレオンは1798年にローマを占領し「ローマ共和国」を建国した。(この時、ナポレオンはカトリックの総本山ヴァティカンなどにあった美術品を数多くフランスに持ち去っている)。しかし、同年11月には、ナポリ王国軍がローマを攻撃しフランス勢力を追い出した。フランス革命の「自由・平等」の精神を広まったために、「トスカ」に登場するアンジェロッティやカヴァラドッシのように「フランス支配下のローマ共和国」を支持するイタリア人もいた(ヴォルテール主義者=啓蒙思想主義者:理性と自由を掲げて封建制、専制政治、信教に対する不寛容に反対する)。一方、フランス革命は「反キリスト教」的でもあったため、カトリック教会のお膝元イタリアでは、これに抵抗するスカルピアらの勢力もまた強かった(スカルピア男爵は実在の人物で、この歌劇では悪者だが、実際には良い統治を行っていたらしい)。「トスカ」の時代設定は1800年6月で、イタリア勢力がローマを回復しており、フランス=ナポレオン支持派はローマでは弾圧されていたわけである。「トスカ」第2幕に「ナポレオン敗北の知らせは誤りで、ナポレオンが大勝利を収めている」との知らせが舞い込んでくるシーンがあるが、このマレンゴの戦いは、6月14日、ナポレオンが北イタリアでオーストリア軍を破った戦いである。そして、1808年に再びフランス軍がローマに侵入し、以後1815年のナポレオン没落までローマはその支配下にあった。「トスカ」で登場する主要な人物のうち、女性はトスカのみです。また、主要人物の4人(トスカ、カヴァラドッシ、スカルピア、アンジェロッティ)はすべて死亡してしまいます。つまり完全な悲劇なわけです。4人はそれぞれに思惑や謀(はかりごと)を有していたのですが、ことごとく裏目に出て失敗してしまいます。物事が成就するには「天の時、地の利、人の和」が必要とされますが、皆これらのうちどれかを欠いていたわけです。また、スカルピアが劇中で「目的は二つ」と言います。彼の目的とは、トスカをものにし、ヴォルテール主義者を根絶やしにすることです。他方で、トスカの目的は恋人の救出とスカルピアの魔手から逃れること、カヴァラドッシの目的は愛と革命です。彼らは、これら二つの目的を同時に成就させようとするのですが、性格や手法がこれを邪魔します。スカルピオは強引な手法と策を弄しすぎて、トスカは嫉妬心が強すぎて、カヴァラドッシは優柔不断な性格が災いして。「二兎を追うもの、一兎をもえず」といったところでしょうか。プッチーニはオスティナートと称される音楽技法を多用しているそうです。オスチィナートとは、ひとつのモチーフ(動機)が予想以上に長く繰り返されることを指しますが、ベートーヴェンが有名ですね。ベートーヴェンの5番第一楽章は、たったひとつのモチーフで構成されています。ただし、プッチーニの場合は、モチーフのリズムとメロディ、和声進行はいじりませんが、調性をめくるめく展開させて繰り返しており、真のオスティナートとは異なるようですが。「トスカ」は2時間もありますが、使われているモチーフは、10個にすぎないとのことです。そうそう、アンドリュー・ロイド・ウェバーの「オペラ座の怪人」もオスティナートが多用されているようで、さらに、メロディラインが「トスカ」にそっくりな部分も数箇所あります(考えすぎか?)。
Apr 17, 2005
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『ホラー映画の魅力 ファンダメンタル・ホラー宣言』より、(観客を恐怖させるための)「小中理論」の紹介を続けます。2)脚本描写 ・イコンの活用 説明する台詞なしで、視覚的に伝える怖さというものは 強い。音響にも同様の効果がある。 ・霊能者をヒロイックに扱ってはならない 説明不能な不条理にこそ恐怖が宿るのであり、霊能者の 解説をその物語の真相としてしまうと、作品は「因縁話」 に堕してしまうことになる。あくまで、解釈の一つに留 めておくべきである。 ・ショッカー場面はアリバイに 観客を「びっくりさせる」ショッカー場面はもっとも印 象に残るものであるが、これはほんとうの怖さとは違う ものである。ただ、ショッカー場面は、「あなたが見て いるのはホラー映画なのだ。怖がっていいのだ」という メタ・メッセージとして伝わり、観客を自動的に「怖が るモード」へと移行させる手段として有効である。 ・幽霊の「見た目」はありえない これから襲われようとしている人物を幽霊の「見た目」 (=幽霊からみた主観描写、Point of View; POV)から 描写するのは安易な手法であり、観客を「はらはら、ど きどき」させる効果はあるであろうが、ほんとうの怖さ とは別の感覚である。 ・幽霊はどう見えたら怖いのか 半透明や青い照明を当てたような古典的な幽霊は怖くな い。ぼうっとボケたような不確かな見え方のほうが怖い。 また、不自然な場所に現れる幽霊や、不自然な大きさの 幽霊は怖い。 ・幽霊ナメはやってはならない 幽霊の背中越し(撮影用語でナメると言う)に犠牲とな る人物を映すアングルはホラー映画ではおなじみである が、これは恐怖する人物を客観視するアングルであり、 いわば「醒めた」観点といえる。人物の主観的な恐怖感 こそが観客に伝播されるべきものであり、幽霊ナメは やってはならないショットである。 ・幽霊はしゃべらない 人情話的な怪談ならいざ知らず、実話怪談では幽霊に会 話させるべきではない。幽霊が話すと肉体感が強調され、 「役者が演じている幽霊」にしか見えなくなるケースが 多い。ただし、幽霊の声そのものは、怖さの有効な要素 である。 ・恐怖する人間の描写こそが観客の恐怖を生みだす 観客に恐怖を感じさせるには、その場面に登場する人物 が感じている恐怖を伝播させることが最大の決め手にな る。ファンダメンタルな恐怖を生成する最大の要素とは、 そこに映し出されている人物のリアクションなのだ。 ・つまり、ほんとうに怖いのは幽霊しかないのだ ホラー映画でほんとうに怖いのは、怪物、吸血鬼、ゾンビ、 SF的な存在などではない。ほんとうに怖いという感覚を醸 し出す怪異は、結局のところ幽霊しかないのだ。小中氏は、以上のような「小中理論」=「恐怖の方程式」を示した後、最後を以下のようにしめくくっています。==============よく、サイコ・ホラー物を評すときに、「一番怖いのは人間の心だ」などとしたり顔で書かれているのを目にするが、私は問いたい。「あなたは、本当に怖いものに遭ったことがあるのか」と。暴力的なまでに不条理な存在と対峙したことがあるのかと。私はホラーを愛している。怪物が登場する作品は大好きであるし、私自身も作り、またこれからも作りたいと願っている。コメディ仕立てのホラーだって愛している作品もあるし、ホラーの様式ということについても、まだまだこれから掘り下げていくべき事柄だろう。だが、観客が座席から尻をずらしていくような、映画を観た後でも、悪夢にうなされるような本当の恐怖を与え得るホラーは、幽霊しかないのだ。==============この辺、私と小中氏とでは考え方が異なります。小中氏が「本当に怖い」と思っているのは幽霊”そのもの”ですが、私の場合はちょっと違う。私は過去の日記で以下のように述べています。===============我々は、作品を通してなにか「ほんとうのもの」を感じ取る。だからこそ、それが表面的な感情としては「快」を呼び起すものであれ、「不快」を呼び起こすものであれ、感動を覚えるのである、と。・その「ほんとうのもの」というのは、結局は、自分(鑑賞者)自身の「心のありよう」のことではないでしょうか? 芸術作品の鑑賞のように主観が大いに関わってくる場合は特にそうなのですが、物事の「見え方や感じ方」を規定するものは、結局はその人の「心のありよう」だろうと思います。例えば自分の心がはずんでいる時は、普段はなんでもないものも心地よく感じられることがありますし、逆に心が沈んでいる時は、なにを見ても不愉快に思えるものです。恋愛なんかの経験を思い出していただければ、このことがよく納得できると思います。つまり、自分が物事から受け取る印象というものは、自分自身の「心のありよう」の”逆投影”である、といえると思います。ですから、芸術作品は、鑑賞者自身の「心のありよう」を映しだす鏡のようなものということになり、さらに、優れた芸術とは、それを通して人の「心のありよう」をより深く、またはより明瞭にえぐりだすものということになります。そうしますと、芸術作品によって覚える「感動」の正体とは、「快」や「不快」の感情の生起をきっかけとして、我々が普段認識しえていなかった(認識することを拒んでいた)自分自身の「心のありよう」を新たに自覚する、そのことによって生じる「驚き」の感覚のことである、ということになるかと思います。つまり、「ああ、自分はこういうモノに魅力を感じる人間だったのか!」とか、「自分は本当はこういうモノを欲していたのだ!」とかいった感覚ですね。この現象は、作品を通した「自己了解」、もう一歩すすんで「自己確認」といっていいとも思います。自分の「心のありよう」というものを知る場合、自分自身で自己の心を把握するという努力(「内省」)が必要不可欠なのですが、純粋に「内省」するだけではなかなか窺い知ることができないものです。何故なら、自分の心を把握しうるのは、自分自身の心に他ならないのですから。例えば、人の心がある観念によって強固に捕らわれている時は、その観念によってその人の物事の見方(=心の作用)がいかに歪められていようとも、自分自身ではなかなか認識できるものではありません。典型例が、カルト宗教による洗脳でしょう。ですから、脱洗脳において重要なことは、心が抱いている絶対的な観念をいかに相対化するか、ということになります。普段は認識しえない、または種々の因習や慣習や道徳によって縛られていて認識することが拒まれている、「心のありよう(の深層)」=「ほんとうのもの」というもの、それを垣間見させてくれるのが芸術作品というものではないでしょうか?===============上は芸術一般について述べたものですが、当然ホラー映画にも通じるものがあります。普段は気づかないが自分自身の心のうちに潜んでいる残酷さを垣間見させてくれるホラー映画こそが、ほんとうに怖い作品である、私はそう考えているわけです。つまり、「一番怖いのは人間の心だ」と考えている者とは、私に他ならないことになるわけです。次回は、私と小中氏の違いをもう少し深く掘り下げて考察してみます。
Apr 15, 2005
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最近、どういうわけか、日本のホラー映画を立て続けに観ております。刺激が欲しくなったのかもしれません(笑)。作品は『呪怨』、『リング(らせん)』、『ほんとうにあった怖い話』、『学校の怪談』などのシリーズです。「ホラー(horror)」には、”恐怖”または”嫌悪”という日本語があてはめられています。・”嫌悪”としてのホラー人に嫌悪感をもよおさせるような映画の作製は、現在の技術からするとそう難しいことではありません。典型が血のスプラッター描写です。あと、死体や化け物をリアルに・残虐に描くとか、画面を暗くしておいて突然または背後からモンスターや殺人鬼を登場させるとか。”嫌悪”とは、不快や驚きといった人間のエモーショナルな反応のことですし、人間の生存が脅かされる事態(死が示唆される状況、現実をコントロールできない状況)において生じる心的反応といってもよいでしょう。・”恐怖”としてのホラーほんとうの”恐怖”とはどのようなものでしょうか。私は、(人間の生存が脅かされる状況において生じる)”嫌悪”との対比でいえば、「自らの生存本能(欲望)に基づいて他人に残虐行為をなす者をみる時に湧き上がってくる”恐怖”感」と考えています。そして、その残虐行為をなす者が理性的であればあるほど、”恐怖”の度合いも増してゆくことが多いです。この”恐怖”の典型が「ホロコースト」におけるナチの行為です(逆に、ユダヤ人からすると、民族浄化はこの上もない”嫌悪”の対象となるわけです)。理性的であるということは、それだけリアルであるわけで、現実にいつ自分がそれと同様の残虐行為をなすか分からない、という恐れが生じるわけで、これはほんとうに怖いですね。ほんとうの”恐怖”を感じさせる映画について、小中千昭氏(ホラー、SF、ファンタジー系の脚本家)が面白い分析(「小中理論」)を披露してくれています。上で示した私の考えとは多少の違いがありますが。以下は、小中氏の『ホラー映画の魅力 ファンダメンタル・ホラー宣言』(岩波アクティブ新書)より。ほんとうに怖い映画(ファンダメンタル・ホラー映画)が備えている要件とは、「小中理論」によれば以下のようなものになります。1)脚本構造 ・恐怖とは段取りである 観客が恐怖を感じるまでには、段階的な情報を提示して いく必要がある。 ・主人公に感情移入をさせる必要はない 怖い映画では、観客は登場人物に対して感情移入してい るのではなく、自分とは異なる人間の、自分のそれとは 異なる人生を擬似体験している。 ・因縁話は少しも怖くない オチ、すなわち何故幽霊が現れ脅かしたのか、という理 由が明らかになるや、その幽霊は非常に「頭の悪い」存 在になってしまう。 恐怖とは不条理に宿るものなのだ! ・文学は忌まわしい ストーリーの流れを分断したり、展開を無機的に消化し たりして、いま観ている作品は普通のドラマではない、 というサインを強制的に送る。 ・情報の統一は恐ろしい 一人の人物だけの体験であるよりも、「幽霊を見てしま う」といった体験が伝染病のように多くの人に伝わって いくことが、恐怖を構造化してゆく。 ・登場人物を物語内で殺さない 実話ホラーに限った話であるが、主人公(報告者、語り 部)を物語中で殺してはならない。この後、「2) 脚本描写」の項が続くのですが、今日は時間が遅いので明日にでも。
Apr 13, 2005
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2、3日、東京出張のついでに楽しんできましたので、ご報告を。・騎馬オペラ「ジンガロ」、日本公演『ルンタ』「ジンガロ」は、バルタバスという”正体不明”の人物が率いるフランスの舞台芸術集団。特徴は、なんといっても「馬」です。直径30mほどの特設スタジオで馬、ダンス、音楽、光、曲芸がミックスされて演出される表現は、なかなか夢幻的です。フランス流の舞台芸術といいますと、ケベック(カナダ)を発祥の地とする「シルク・ド・ソレイユ」が有名ですが、夢幻的な雰囲気という点で「ジンガロ」とよく似ています。「ジンガロ」とは放浪の民、「ルンタ」とはチベット語で風の馬という意味だそうです。『ルンタ』にはいろいろと見どころ・聴きどころがありましたが、本物のチベット僧侶たちによる読経にまず圧倒されました。なんでも、ダライ・ラマの許可をえて、彼らは『ルンタ』に参加しているとのことです。読経とはいいましても、殆ど民族音楽と言っていい趣があり、低音主体で単調にも思えるリズムで構成されているのですが、魂が揺さぶられる想いがしました。馬の演技は、サーカスっぽい曲芸などもありましたが、繊細なテクニックが素晴らしかった。馬の”横歩き”はかなり高度な技術のはずですが多彩なステップで難なくこなしていました。それらの動きは、一部、バレエのステップにも取り入れられてるのではないでしょうか。5分間ほどBKGなしで男性がひとりでダンスするシーンがあるのですが、これまた独特の雰囲気といいますか迫力がありました。私の席は前から3列目(プレミアム席)だったのですが、値段は24000円で、さすがにこれは高い!A席は8000円ですが、会場が狭いうえに、席は急勾配で配置されていますから、A席でも十分に堪能できるでしょう。席に下手にお金をかけるなら、DVDを買うお金にまわしたほうがいいかもしれません。・マシュー・ボーンの『白鳥の湖』バレエ「白鳥の湖」といえば、チュチュをまとった可憐な乙女たちが白鳥として舞うシーンが最大の見どころですが、この作品では上半身裸の男性たちがどこかユーモラスにそれを披露してくれます。もちろん、そのシーンは「ゲイ」の象徴となっているわけです。ストーリーは、高貴な身分に生れついた男性が、社会との葛藤のうちにあって自身の本性をなかなかつかめずに苦悩しながらも、最後は「ゲイ」という安住の地を見出すというものです。シーン構成や色彩感覚は繊細かつ官能的で、かつエロティシズムに溢れ、私としてはディレク・ジャーマンを連想してしまいました。遊び心やユーモア感覚は満載で、ダンスに手抜きはなく、殆どの方が楽しめるでしょう。・「ルーブル美術館展 19世紀フランス絵画 新古典主義からロマン主義へ」(横浜美術館)ルーブル美術館が所蔵する絵画のうち、新古典主義からロマン主義へ、そして写実主義の誕生に至るまでの73点を借り受けて展示しているものです。メインはアングルで「泉」、「トルコ風呂」、「スフィンクスの謎を解くオウディプス」、ジェラールの「プシュケとアモル」、ピコの「アモールとプシュケ」、ドラクロワの「怒りのメディア」等。題材としては神話、そして政治性の強いものが目立ちました。テクニックとしては、人間の顔の表情が精緻に描かれているものが多かったです。・「東京写真美術館」「Ten Views-スペイン現代写真家10人展」、「小林伸一郎写真展 BUILDING THE CHANEL LUMIÈRE TOWER」、「写真はものの見方をどのように変えてきたか 第一部 誕生」。・観逃したもの「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展」「光と闇」、すなわち闇を一本の蝋燭が照らし出すような明暗のコントラストを特徴とする画家ですね。私が好きな画家の一人です。写真では散々観ていますが、実物ではあのコントラストはどのように描かれているのか興味津々だったのですが都合により断念。 「 瀧口修造:夢の漂流物 同時代・前衛美術家たちの贈物 1950s-1970s 」 瀧口修造はシュルレアリスムを日本に紹介した詩人かつ評論家で、彼が収集した作品を中心とした展示です。これも是非観たかったのですが、彼の収集作品は「富山県立近代美術館」に多数ありますから、今度でそこへ出かけることとしましょう。
Apr 12, 2005
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