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「日本と国交がない台湾籍の人には中国の法律が適用され、日本国籍を選んだ時点で台湾籍が自動喪失する」、という奇怪な説について この、情報の出どころや拡散した者については、充分、検証する必要があると思う。 報道した者は謝罪すべきだと思う。 台湾に関係のある人にとっては非常に重要なことで、このような虚偽の報道をされると迷惑を受ける人は多い。 実際、法務省に多くの問い合わせがあって、法務省は直ちに否定している。 もし、蓮舫が多少ともそれに近いことを言ったとすれば、収拾のつかない国際問題にもなりかねない原因にもなる発言で、政治家としての資質はない、ということになると思う。 外国法の適用は、一般的には、「法の適用に関する通則法」に定められているが、ざっと見たところ、国籍に関する適用法規の規定はないようですし、台湾のようなデリケートなところに関する規定はないようです。 しかし、基本的な考え方は、「最も密接な関係がある地の法」を適用する、ということなので、台湾のように、過去も現在も中国の法律の適用が及んだことがない地域の人に、中国の国籍法を適用するはずはないし、もしそうすれば混乱するだけでなく、人権上も大問題である。 実務的には、台湾の国籍法を適用しているはずです。 具体的には、蓮舫に対する国籍の付与や離脱は、台湾の国籍法に基づき台湾政府が行い、それを日本政府が認めている、と いうこと。 もし、蓮舫が「日本と国交がない台湾籍の人には中国の法律が適用され、日本国籍を選んだ時点で台湾籍が自動喪失する」と思っているなら、中国大使館に行って、国籍離脱証明書を書いてもらうべきで、そうすれば、たぶん、中国大使館は喜々として発行してくれると思います。 なぜなら、台湾籍の人が中国の法律の適用を求めているのだから。 しかし、それをもって日本の戸籍課に行って国籍喪失届をしても、受理されるとは限らない。 もし、そこで、法務省が、台湾の人には台湾の法律を適用する、とでも言おうものなら、ただちに、大々的な報道、報道機関が中国にご注進、中国からは、例の脳天に突き刺さるような声で、日本政府に対する強烈な抗議、収拾のつかないことになって日中関係悪化が、お決まりのコース。 報道機関の一部は、教科書問題、慰安婦問題や靖国問題と同じような、ただちに、国際問題となるお決まりのコースを狙っていたと思う。 法務省は、台湾の国籍法か中国の国籍法か、と問われ、日本の法律だ、といって逃げた。 台湾の人に日本の国籍法を適用する、という意味ではありません。 特別の協定などもないようなので、「法の適用に関する通則法」(もちろん、日本の法律)解釈などから、「個別具体的なケースとして」台湾国籍法を適用しているので、間違いではありませんから。 ちなみに、中国は、日本政府が台湾の人に台湾の法律を適用しているのを知らないのではなく、それを大声で言われるとむかつく、ということ。
2016年09月17日
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国籍の「選択」は、中国国籍離脱か、もしくは、選択の宣言のどちらかによるが、蓮舫は、台湾代表処で中国の国籍を離脱したと思っていた、と言っているのだから、「市役所に行って」国籍法14条の「選択の宣言」はしていないはずである。 もし、していれば、国籍法16条1項の努力義務違反ということで済むのかもしれないが、「選択の宣言」をしていないとすれば、客観的事実としては、今まで一度も国籍の「選択」はしていない、ということになる。 政治家としての蓮舫は、自らの意思で日本国籍を「選択」したような印象を持たせるような表現をしているが、単に、国籍法改正によって,届出によって日本国籍を取得しただけのことで、最近になって、二重国籍問題が浮上して台湾代表部に行くまで、国籍の「選択」という重要な決断をしたことがない、ということになる。 蓮舫は、「帰化」とも言っているが、考慮期間中の二重国籍を前提とする法務省への届出で国籍を取得したのと、法務大臣の許可を要する帰化とは別のもので、帰化要件には二重国籍を排する規定がある。 また、国籍法改正によって日本国籍を取得したのと、日本国籍を「選択」したのとでも、全く違う。 国籍「取得」、国籍「選択」、「帰化」は使い分けなければならない。 前者は、考慮期間2年の間に「選択」することを前提に、とりあえず、与えられるものである。 国籍法15条に法務大臣による国籍選択の催告の制度があるのに、蓮舫がこれまで国籍選択の決断をしたことがない、というのは不思議な気がするが、現実には、次のようになっているらしい。 二重国籍者が法務省の催告に応じてくれればよいが、もしも、催告をしても、国籍「選択の宣言」をしないような場合、日本国籍喪失に直結して、二重国籍者やその周りの人対する影響が大きすぎるので、法務省は今まで一度もやったことがない(平成21年5月12日法務委員会の稲田朋美の質問に法務省が答えている)。 ということで、蓮舫は、国籍法改正によって日本国籍を取得して、以後、誰からも国籍選択を迫られることもなく、これまで過ごしてきた、ということも充分考えられます。 蓮舫が、あちこちでお気軽に、自分は二重国籍者だ、と言っていたのは、法務省の重国籍に対するこの緩い対応を知っていたから、だと思う。 第十五条 法務大臣は、外国の国籍を有する日本国民で前条第一項に定める期限内に日本の国籍の選択をしないものに対して、書面により、国籍の選択をすべきことを催告することができる。2 前項に規定する催告は、これを受けるべき者の所在を知ることができないときその他書面によつてすることができないやむを得ない事情があるときは、催告すべき事項を官報に掲載してすることができる。この場合における催告は、官報に掲載された日の翌日に到達したものとみなす。3 前二項の規定による催告を受けた者は、催告を受けた日から一月以内に日本の国籍の選択をしなければ、その期間が経過した時に日本の国籍を失う。ただし、その者が天災その他その責めに帰することができない事由によつてその期間内に日本の国籍の選択をすることができない場合において、その選択をすることができるに至つた時から二週間以内にこれをしたときは、この限りでない。
2016年09月17日
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蓮舫民進党代表の具体例で、国籍法、戸籍法の勉強を、個人的にしてみます。 まず、当時、中華民国に国籍のあった蓮舫のお父さんと、日本人である蓮舫のお母さんの結婚で、新戸籍の作成。 この場合の戸籍は、お母さんの単独戸籍で、お父さん関しては、氏名、生年月日、国籍、何年何月何日結婚、というように記載されるらしい。 国籍は、「中国」と記載されるらしい。 中華民国にも結婚届をして、新戸籍ができた、と思う。 ついで、1967年11月28日、蓮舫出生、日本の戸籍課に出生届が出され、お母さんの戸籍に記載される、同時に、中華民国大使館にも出生届を出して、中華民国の戸籍に入って、蓮舫が中華民国国籍取得。 この時点で、当時の国籍法では、蓮舫は中華民国の単独国籍だが、日本の戸籍課は、蓮舫の親が蓮舫の中華民国の国籍証明書を持って来ない限り、国籍を記載することはできないと思う。 ということで、日本の戸籍では、戸籍の一員ではない単なる子、「蓮舫」で、姓及び国籍不明、中華民国では、「謝蓮舫」、国籍中華民国となるのだと思うが、自信はない。 1972年日中国交正常化で、台湾と断交、日中共同声明で「日本政府は、台湾が中国の一部とする中国の立場を尊重する」とした。 ここで、お父さんの国籍の記載を、「中国」のままなのか、「中国台湾省」に変えるのか、分からない。 1985年1月1日、改正国籍法の施行。 それまでの父系主義から、改正で、母親の系統からも国籍が与えられるようになった。 蓮舫17歳。 蓮舫が日本国籍を取得するためには、改正国籍法附則5条に基づき、3年以内に法務大臣に届ける必要があるが、この届出が、改正法施行後間をおかず、蓮舫17歳の時になされているらしい。 この日本国籍「取得」は、考慮期間内に、国籍の「選択」をすることを前提としたものだが、蓮舫が日本国籍をこの時点で取得しているのは間違いないと思う。 政治家としての蓮舫が、度々、「私は日本人です」というのは、間違いではない。 しかし、聞いた人は、「同時に中国人(台湾)です。」というのを付けなければならない。 なぜなら、蓮舫は、現に台湾に籍があるから。 市役所の戸籍課には、多分、法務省から蓮舫が日本国籍を取得したことの連絡があって、戸籍には「昭和何年何月何日国籍法附則5号の届出によって日本国籍取得」、というようなことが記載され、お母さんの戸籍の一員になるのだと思う。 このときから、日本の戸籍では、「斉藤蓮舫」になるが、台湾の戸籍では、「謝蓮舫」のまま現在に続くと思われます。 蓮舫が、「renho_sha」と名のるのは、戸籍上正確なものであると思う。 もともと、蓮舫は、台湾の戸籍を正式な自己の戸籍だと認識しているので、 市役所の戸籍課は、その時から、戸籍法第104条の3に規定されている通知をしなければならない可能性があると思ったはずで、たぶん、蓮舫の戸籍にチェックをつけていたと思う。 なぜなら、戸籍上、少なくとも、蓮舫がこの時点で国籍を「選択」すべき者だということは分かるから、蓮舫が22歳になるまでに、台湾の国籍離脱証明書をもってきて外国国籍喪失届をするか、または、国籍法14条にいう国籍「選択の宣言」がなければ、法務省に通知しなければならないので、5年後に確認しなくてはいけないから。戸籍法第104条の3 市町村長は、戸籍事務の処理に際し、国籍法第十四条第一項 の規定により国籍の選択をすべき者が同項 に定める期限内にその選択をしていないと思料するときは、その者の氏名、本籍その他法務省令で定める事項を管轄法務局又は地方法務局の長に通知しなければならない。国籍法第14条 外国の国籍を有する日本国民は、外国及び日本の国籍を有することとなつた時が二十歳に達する以前であるときは二十二歳に達するまでに、その時が二十歳に達した後であるときはその時から二年以内に、いずれかの国籍を選択しなければならない。2 日本の国籍の選択は、外国の国籍を離脱することによるほかは、戸籍法 の定めるところにより、日本の国籍を選択し、かつ、外国の国籍を放棄する旨の宣言(以下「選択の宣言」という。)をすることによつてする。第15条 法務大臣は、外国の国籍を有する日本国民で前条第一項に定める期限内に日本の国籍の選択をしないものに対して、書面により、国籍の選択をすべきことを催告することができる。2 前項に規定する催告は、これを受けるべき者の所在を知ることができないときその他書面によつてすることができないやむを得ない事情があるときは、催告すべき事項を官報に掲載してすることができる。この場合における催告は、官報に掲載された日の翌日に到達したものとみなす。3 前二項の規定による催告を受けた者は、催告を受けた日から一月以内に日本の国籍の選択をしなければ、その期間が経過した時に日本の国籍を失う。ただし、その者が天災その他その責めに帰することができない事由によつてその期間内に日本の国籍の選択をすることができない場合において、その選択をすることができるに至つた時から二週間以内にこれをしたときは、この限りでない。附則(国籍の取得の特例)第5条 昭和四十年一月一日からこの法律の施行の日(以下「施行日」という。)の前日までに生まれた者(日本国民であつた者を除く。)でその出生の時に母が日本国民であつたものは、母が現に日本国民であるとき、又はその死亡の時に日本国民であつたときは、施行日から三年以内に、法務省令で定めるところにより法務大臣に届け出ることによつて、日本の国籍を取得することができる。2 前項に規定する届出は、国籍を取得しようとする者が十五歳未満であるときは、法定代理人が代わつてする。3 第一項に規定する届出をしようとする者が天災その他その責めに帰することができない事由によつて同項に定める期間内に届け出ることができないときは、その届出の期間は、これをすることができるに至つた時から三月とする。4 第一項の規定による届出をした者は、その届出の時に日本の国籍を取得する。 蓮舫は、17歳の時に父親と一緒に、台湾代表処に行ったといっているが、国籍離脱の申請はしていないことは、はっきりしている。 ということは、市役所の戸籍課は、蓮舫が、22歳までに、国籍法14条の「選択の宣言」に来なければ、戸籍法104条の3の「国籍法第十四条第一項 の規定により国籍の選択をすべき者が同項 に定める期限内にその選択をしていないと思料」したはずで、蓮舫の「氏名、本籍その他法務省令で定める事項」を法務省に通知したはずである。 日本の戸籍課は、細かいことまできっちりやると思うから、戸籍法104条の3の法務省への通知を忘れる、ということはないと思う。 いつか知らないが、蓮舫結婚、新戸籍作成。 ここで、蓮舫に関する事項を記載する欄に国籍が記載がされるのかどうか。 「中国」国籍のことは、たぶん、前述のように、結婚前の戸籍に記載がなくて、そのまま、新戸籍にも記載しない、ということだったと思う。 そうでないと、結婚前の戸籍に、「国籍中国」とあれば、たぶん、結婚して新戸籍になっても引き継がれるであろうから、現在の戸籍に記載されているので、いくらなんでも、「17歳の時に台湾籍を抜いた」、とは言わないと思う。 姓名は、日本の戸籍では、「村田蓮舫」、台湾では、本人がネット上で使っている「謝蓮舫」のまま、だと思う。 もしも、台湾代表処にも、結婚届を出していれば、蓮舫がいうところの、台湾の籍を抜いたと思っていた、ということは成り立たない。 ということで、日本の戸籍上、この時点で、蓮舫の日本国単独国籍風の戸籍が完成したと思う。 しかし、結婚以前に自分の戸籍をみる機会は、度々あったはずで、父親の事項欄には「中国」とあり、蓮舫の事項欄に中国の国籍離脱の記載がなければ、戸籍上、自分の国籍は一体どこだ、と考えるのが普通で、考えれば、確かめると思う。 もし、相続があって、台湾にある財産を相続するようなときは、台湾の戸籍をみる機会があるので、台湾籍が残っているのは分かる。 現在でも蓮舫在籍の台湾の戸籍は閉鎖されていないので、どのような状況で残っているのか、また、台湾政府発給のパスポートや身分証明書の発給年月日も気になる。
2016年09月17日
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宿泊しているボルツァーノから、アルペ・ディ・シウジへの日帰りハイキングです。 アルペ・ディ・シウジの状況が分からないので、とりあえず、ボルツァーノからだとシウジよりも遠くにあるオルティセイからゴンドラで上がってからルートを決める、という感じで出発しました。 ボルツァーノからオルティセイまで、所要時間が異なるルートがあるようですが、私の乗ったバスでは、約1時間。 バスは、どこで止まっているか、ということに関しては、一切、表示をしませんし、アナウンスもありませんから、オルティセイに着いても、しばらくバスの中に留まっていましたが、連れが「地球の歩き方」に出ている特徴のある建物を見つけて、オルティセイであることを認識して下車。 オルティセイは観光地化が進んでいるようで、日本でいえば、山間の温泉地といった感じで、日本と違って、どこにでも温泉が出る、という環境ではないが、その代わりに絶景があるので、スキーやハイキングをする客を集めている、というような所。 ロープウェイがいろいろな方向に出ているので、連泊すれば、ハイキングには都合がいいのですが、こういうところに泊まると、雨の日にすることが無くて困ります。 ボルツァーノだと、簡単に、インスブルクかボローニャまで行くことができます。 オルティセイからのゴンドラを降りたところは、アルペ・ディ・シウジでも高いところにあるようで、おそらく、コンパスあたりからハイキングをした人がオルティセイに帰るのに際に使うのだと思いますが、アルペ・ディ・シウジ側の低いところからも短いリフトが出ています。 信仰心の厚い土地柄なのか、小さな祠の中に、キリストやマリア様の像があるのをよく見かけます。ここでは、聖母子像。日本の、お地蔵さまのような感じ。 全般的に牧草地なので、山塊に近づかなければ、危険なところは、多分、ありません。 子供でも、自転車でも大丈夫、というようなところです。 標識がいたるところにあるので、夕方までに、コンパスからシウジに降りることができるように考えて、ルートを設定。 とりあえず、サルトリアを目指します。 サルトリアは、サッソルンゴ(3181m)やサッソピアット(2956m)に近いところにあり、サルトリアから、リフトで上がったところからは、サッソピアット(2956m)に登る、中級者向きの登山道があるようです。 サッソピアット山頂には十字架があるようで、今回は、リフトで上がったものの、前日に、連れの登山靴の底が剥がれ、普通の靴だったので、登山道には踏み込んでいませんが、機会があれば、ぜひ、登ってみたい。 サルトリアから、リフトで上がったところにあるレストランで昼食。 割と民族色の強い店で、スープを適当に注文したら、出てきたのは、以前にも食べたことがある、コンソメスープの中に肉団子が、でぇん、でぇんと鎮座したチロル風の料理。小口切りにしたアサツキをふりかけてあり、あっさりした味で、ハイキングの昼食には、とてもいい。 昼食後は、リフトで降り、コンパスに向かって歩き始めました。 歩き始めたものの、かなり距離がありそうなので、引き返してバスに乗ることにしました。 ざっと見たところ、アルペ・ディ・シウジの自動車乗り入れは、コンパスまでは自由、それ以外は、サルトリア・コンパス間のバスのみ、といった感じです。 バスは、1時間に1本程度はあったと思います。 コンパスからは、リフトやゴンドラがたくさん出ています。 私が選んだのはBullaccia(2174m)ですが、けっこう、退屈。 Bullacciaからコンパスまでリフトを降りて、さらに、コンパスからシウジまで、長いロープウェイで降りて、降りたところに、バスステーションがあったので、バスに乗って、ボルツァーノまで帰って今日の予定は終わり、と思ったら、そうはいきませんでした。 時刻表は貼ってあるのに、ボルツァーノ行きのバスはいくら待っても来ません。 残りの便数は、あと少しです。 こういう場合、近くにいる旅行者に聞いても、たいてい、いい加減なことを言われますが、そのとおりでした。 近くの事務所に飛び込んで聞いてみると、下の方にある道にバスステーションがある、と言われ、降りてみると、シウジ方向のバスステーションはありましたが道の向かい側にあるはずの、ボルツァーノ行きのバスステーションはありません。 しかたなく、15分ほどシウジ方向に歩いて、シウジのバスステーションからバスに乗りましたが、バスの中で確認したところ、ロープウェイ乗り場のすぐ下のシウジ方向に向かうバスステーションから、少し坂を下ったあたりに、ボルツァーノ向きのバスステーションがありました。
2014年07月21日
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コスタルンガ峠のバスステーションでバスを降りても、絶景というほどの景色がみられるということではなく、また、近くに、動いているリフトもありません。カレッツァ湖とコスタルンガ峠の中間に、どちらからも、バスで数分ほどの距離ですが、パオリナという所があって、そこに、2~3個所バスステーションがあって、そのうちの、どれかで降りれば、歩いて10分ほどのところに、リフト乗り場があります。ただし、リフト乗り場は見つけにくい。この日は、朝、8時35分にボルツァーノ発のバスに乗り、ポンテ・ノーヴァで乗り換え、9時25分にカレッツァ湖でバスを降り、次のバスが来るまでの間の1時間ほどカレッツァ湖の周りをぶらぶらして、10時28分にパオリナに到着しました。リフトは、牧草地に敷設されており、カウベルの音が聞こえ、ハイキング気分を盛り上げてくれます。リフトを降りたところからハイキング。コスタルンガ峠を見下ろしています。右の方に、カレッツァ湖も見えます。30分ほど、えっちらおっちら坂道を歩くと、鷲のモニュメントのあるところに到着。日本の登山道でいえば「***出合」というような名前がついているようなところです。そそり立った崖のすぐ下に、ほぼ水平に細い道がついており、コスタルンガ峠から上がってきた人と出合うところ、というようなこと。とりあえず、カレッツァ湖の方向に、崖のすぐ下の細い道を歩いてみました。適度に怖い道です。いったん足を踏み外すと、とことん下の方まで止まりそうもありません。小一時間歩いて、標識があったので、リフトを降りたところまで引き返すことにしました。ここで、日本ではおろか、カナダやニュージーランドですら、なかなか、経験できない、絶景を見ながらの、冷たいビールと温かい料理で、昼食。このために、飛行機に乗って、ヨーロッパまでやってきました。昼食後は、コスタルンガ峠まで下ります。コスタルンガ峠からボルツァーノへの帰りのバスは、ポンテ・ノーヴァで乗り換える便があるので、ほぼ1時間に1本、夕方6時半頃まであるようです。ボルツァーノから、日帰りハイキングする場合、余裕を持っていけるのは、ヴィーゴ・ディ・ファッサあたりまでのような気がします。カレッツァ湖に寄らなければ、ヴィーゴ・ディ・ファッサからリフトで上がり、パオリナのリフト乗り場まで歩くこともできそうな感じです。
2014年07月19日
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カレッツァ湖は、水面に背景の森と山塊を鏡のように映して、とても美しい。前日、一日中雨が降っていたので、水量が多かったためもあるのでしょうが、特に美しかった。私がいたのは、朝9時30分頃から小一時間ですが、さざ波が立ってきて、徐々に背景の映し込がぼやけてきました。ボルツァーノからは、バスで50分ほどで行くことができます。バスは、1時間に1本の割合で有りますが、そのうちの半分はポンテ・ノーヴァで乗り換え。ポンテ・ノーヴァはドロミテ街道をバスで行くには、割と重要なバスステーションだと思います。乗り換え時間は3分。数台のバスが止まっているので、運行番号180番を探して、さっさと乗り込みます。バスは、時刻表どおり非常に正確に運行されています。バスがどこに止まっているか、などということは、バスの中には表示されませんから、どこで降りるかの判断の頼みの綱は、ほぼ時刻表のみ。
2014年07月19日
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えっちらおっちら山道を歩いて、お昼頃になると、屋外にテーブルを並べたレストランで、絶景を見ながら、渇いたのどにぐびりぐびりとビールを流し込み、温かい料理で空腹を満たす、というのは至福の時です。 ところが、このようなことができるのは、いろいろな条件が必要なようで、ハイキングコースの途中にレストランがあるようなところは、なかなか、お目にかかれません。 日本では、ハイキング関係の施設の整っている立山でも、見たことがないし、自宅近くのいくつかのハイキングができるところにも、ありません。 ニュージーランドやカナダに、ハイキングに行ったことがありますが、おそらく、車以外でのアクセスが難しいからだと思いますが、見つけることはできませんでした。 ということで、ヨーロッパアルプスへ行くことにし、今回は、イタリア北部のドロミテに行ってきました。 ドロミテは初めてですが、ヨーロッパには、上のような条件を満たすところは、いたるところにあるので、情報はなかったが、多分、あるだろう、ということでいってみました。 比較的大きな町であるボルツァーノに連泊して、日帰りで、ハイキングに行く、という、楽な計画です。 山の中の小さな町に宿泊すると、雨の日にやることがなくて困るし、雨が降らなくても、経験的に、ハイキングは、2日間で、飽きる。 アルプスのイタリア側と北ヨーロッパ側に東西に、それぞれ、ミラノ・・・ヴェローナ・・・ヴェネツィア、シュツットガルト・・・ミュンヘン・・・ローゼンハイム・・・ウィーンを結ぶ太い線があって、南のヴェローナと北のローゼンハイムを結ぶ、これまた、太い線上に、ボルツァーノとインスブルクがある、という位置関係にあります。 航空券の入手しやすいミュンヘンやインスブルクから行くのがいいと思うのですが、航空券の値段の関係で、今回は、ミラノからボルツァーノヘ。 ボルツァーノは、昔からアルプス越えの中心地であったようですが、現在では、果樹栽培でも有名なようです。 ブドウ、リンゴの果樹園はいたるところにあり、大粒のチェリーやジャムが売られていて、とてもおいしそうです。 ホテルはたくさんあると思うが、土産物を売っているような店は少なく、地域の商業活動の中心地といった感じの町です。 ハイキングに関する主要な情報源は、イタリア政府観光局のサイトで、以前に買ってあった「地球の歩き方 ミラノヴェネツィアと湖水地方'11~'12」では、ドロミテ西側のハイキングの良さは、あまり、伝わらない。 峠道のドライブに慣れた日本人は、ドロミテに、レンタカーで回ることが多いのか、その線で書かれている。 スイスに匹敵する景色のよさに加えて、食べ物が、安くておいしい。 ボルツァーノは山に囲まれているが、魚介類の料理が多く、魚介のスパゲティやグリルしてオリーブオイルをかけたものは、とびきりおいしい。 寿司屋もありますが、日本人の職人によるものではないので、イタリア料理の方がはるかにおいしい。 心配していた、バスの便も、無理をして遠くに行かなければ、日帰りハイキングに支障はないようです。 とりあえず、ハイキングの様子をyoutubeにupしておきました。
2014年07月08日
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病院に入院している父の調子が悪いので、今治に行ったついでに、四国八十八箇所の一部を回ってみました。 今治市には、54 延命寺 55 南光坊 56 泰山寺 57 栄福寺 58 仙遊寺 59 国分寺 と6つあるので、割と密度が高い。 55南光坊は、父が入院している病院のすぐ近くなので、 実際に回ったといえるのは、56泰山寺 57栄福寺の二つだけで、しかも、今治駅の近くでレンタサイクルを借りて、です。 しまなみ海道のサイクリングが観光業の目玉なので、自転車道が、非常によく整備されていて、多少、ふらふらしても、車に当てられる心配が少ないようになっています。 山の上にある58仙遊寺に自転車で行くのは、多分、大変なことなので、最初から、やめておきました。 休日だったので、お遍路さんは多く、大抵、菅笠をかぶったり、白衣を着ていて、普通の服装をしている人は少ない。 車で回る人が多いようだが、歩いている方も、結構いる。 55南光坊は、ウィキペディアによると、「594年(推古天皇御代二年)勅により、伊予の国一宮で大三島に鎮座する大山祇神社の『供僧寺』のうちの一坊として南光坊が造立された。」とあるので、本体は、どうやら、大山祇神社の方で、大山祇神社の行う仏事関係の施設であったらしい。 さらに、ウィキペディアによると、「四国八十八箇所の55番札所は大三島の大山祇神社であったが、鎌倉時代以後は当社付属の別当寺・光明寺が札所とされた。明治初年に現在の南光坊として分かれ札所も移ったが、現在でも境内は隣接している。」とある。 ということで、本来の四国八十八箇所55番札所は、大三島にある大山祇神社なのだが、鎌倉時代になって、おそらく、船に乗って大三島まで行くのは非常に大変なので、大山祇神社の関連施設のあった現在の場所でもいいよ、ということになったらしい。 もっとも、四国八十八ヶ所霊場会公式ホームページによると、「縁起によると、大宝3年、伊予水軍の祖といわれた国主・越智玉澄公が、文武天皇(在位697?707)の勅をうけて大山積明神を大三島に勧請し、大山祇神社を建てた際に、法楽所として24坊の別当寺を建立したことが創始といわれる。これらの別当寺は翌々年、海を渡っての参拝が不便なことから現在の今治市に移されているが、和銅元年(708)に行基菩薩が24坊のうち8坊を「日本総鎮守三島の御前」と称して奉祭した。さらに、弘法大師がこの別当寺で法楽をあげて修法され、霊場に定められた。」とあるから、現在の場所が、最初から、55番札所かもしれません。 その後、明治初年の神仏分離令にしたがって、仏事を行う部門が切り離され、南光坊が、現在のように、四国八十八箇所霊場第55番札所になって、隣に別宮大山祇神社が存在する、ということになったようです。 57栄福寺も、明治政府の神仏分離令の影響を受けているようで、現在、栄福寺の前に鳥居があって、上に上がると見晴らしの良い石清水八幡宮が、どうやら、本来の57番札所だったようですが、分離して栄福寺が札所となったようです。 南光坊にも栄福寺にもお遍路さんが多かったのですが、すぐ近くにあるにもかかわらず、別宮大山祇神社にも石清水八幡宮にも、誰もおまいりしていませんでした。 明治政府の神仏分離令の影響だと思うのですが、お寺に行ったその足で、ついでに近くの神社にも行くのは、何となく効果が薄れるような感じがしないでもありませんが、しかし、まあ、現在は分かれているとはいえ、もともと一体的なものだったのですから、日本の伝統からいえば、両方行った方がよいような気がします。少なくとも、罰は当たらんでしょう。 栄福寺も56泰山寺も参拝者が多く、立派な建物が建っていて、経済的にも潤っているようです。 それに対して、別宮大山祇神社や石清水八幡宮に人が集まるのは初詣の時くらいかな、という気がします。 56泰山寺と57栄福寺の途中に、延喜式神名帳にも載っているという「大須伎神社」という立派な神社があって、そこにも行ったのですが、大須木神社に関しては、ウィキペディアに記事がありません。 廃仏毀釈の祟りかどうか分かりませんが、どうも、神社側の旗色が悪いような感じです。 というようなことが関係あるのかどうか、数十年ほど前にできた「新四国曼荼羅霊場」のように、明治政府の神仏分離令に逆らうような動きもあるようです。 これは、近畿地方における「神仏霊場巡拝の道」と軌を一にしたものであるようですが、「新四国曼荼羅霊場」の方が早くからできています。
2014年03月22日
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「空海の風景(下)」(司馬遼太郎著、中公文庫)に、次のような箇所があります。 私事になるが、太平洋戦争中の夏、学生のまま兵隊にとられるというので、似た運命になった友人二人と徒歩旅行をした。計画というのは吉野からまっすぐに熊野の大山塊を突きぬけて潮ノ岬へ出、熊野灘を見ようということで、吉野の下市の小さな駅舎にあつまり、やがて山へ入った。友人の一人が、熊を追うための脇差をもってきたのは、滑稽というべきだった。最初は昼歩いて夜は野宿した。そのうち昼の暑さがつらくなり、昼は山中のお堂や炭焼き小屋などを見つけて睡眠をとり、夜、星明かりを頼りに歩くことにした。やってみると、体がくたびれず、都合がよかった。 当時、物が欠乏していて、参謀本部の地図なども売っていなかったように思うが、ともかくあらかたの方角さえ見当をつければ行けるだろうと思い、地図をもたずに歩いた。 吉野の黒滝村は、暗夜に通り過ぎた。天川村へ出、天ノ川の渓流をさかのぼれば十津川に出られるはずと思い、幾夜かかさねて大塔(おおとう)村にたどりつき、寺にとめてもらった。そのあと、やはり川筋をたよりにさかのぼったが、途中、川筋をとりちがえたのか、ゆくほどに流れが細くなり、道もけものみちのようで、空木(うつぎ)の木などがはびこり、歩くのに難渋した。それでも一晩中登りにのぼるうちに、不意に山上に都会が現出した。悪いものにたぶらかされているようでもあり、夢の中にいるようでもあった。深いひさしの下にある門燈に寄って行ってきくと、ここは高野山だという。いまふりかえってみると、このときの驚きが、私にこの稿を書かせているようでもある。 1942年夏のことのようです。 今であれば、吉野からだと、大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)に入ってしまえば、標識が整備されているので、とりあえず、道に迷うことはないのでしょうが、当時は、多分、あまりにも無謀。 まあ、今でも、充分な装備が必要ですが。 ということで、黒滝村・・・天川村・・・大塔村・・・十津川村と行くつもりだったのでしょうが、大塔村から方角違いの高野山に行ってしまった、ということのようで、そのことが原因でこのような面白い本ができているとしたら、迷いがいがある。 ちなみに、大塔村から十津川村へは、現在、国道168号線で行くことができますが、途中に、谷瀬のつり橋がある道で、奈良県南部の幹線道路とはいうものの、車で行くには、お世辞にもいい道とは言えません。 話を戻し、私が面白いと思ったのは、紀伊半島の主要な霊場である吉野から高野山に行くことができる山中の道があるということです。 しかし、考えてみれば、熊野古道は、大峯奥駈道以外は、いわばお公家さんでも通ることのできる道で、それ以外に、紀伊半島山中には、大峯奥駈道のような、主に修験者が通る道が縦横に張り巡らされていたはずです。 というようなことを考えながら、昨日、インターネットも見ていると面白いものを見つけて、一日中それを見ていました。「ニートで馬鹿だから歩いて高野山いった」 この方は、大阪市から高野山をめざして歩きます。 大阪外環状線(国道170号線)に沿う道を河内長野まで南下するが、河内長野から橋本へは向かわない。 京都・大阪から高野山への参拝の道は、河内長野に集まったのち、国道371号に沿って橋本に行くのがメインのルートで、実際、高野街道という名前がついています。 この方は、お公家さんでも通れるような道には興味がないようで、旧国道170号線に入り、天野山金剛寺に行った後、さらに、170号線を西へ進み、国道480号線から山に入って、和泉山脈を越えて紀ノ川に至ろうとするようです。 この方の行動は、司馬遼太郎よりも役行者(えんのぎょうじゃ)に近い、というより、霊気ただよう場所を好んで山中を移動する様は、役行者の生まれ変わりかと思えるほどです。 この方は、出雲大社にも歩いて行っているようで、その際、兵庫県から鳥取県への県境越えは、わざわざ、兵庫県最高峰氷ノ山(1510メートル)を越えているが、そのあたりも、修験道の開祖である役行者によく似ている。 また、日本古来の神仏習合の伝統にそって、神社仏閣を問わず神聖な場所を訪れている。 吉野の金峯山寺などに行くと、どこで売っているのか、私のスーツよりも高そうな山伏の衣装一揃いを着ている方を見かけて、ちょっと、違和感があるが、この方は、違う。 おにぎり数個で、山の中を一日中歩くことができる恵まれた体質らしい。 大阪和泉地方から高野山へ行くには、わざわざ、河内長野まで行くのは遠回りなのですが、国道480号線は車で行くには、道が悪い。 私は、途中まで行って、引き返し、河内長野へ迂回したことがあります。 話を戻して、この方は、国道480号線沿いにある子安阿弥陀寺に寄った後、府道40号線に移動し岸和田市の紅葉の名所である大威徳寺に参拝し、さらに、そのまま和泉葛城山山頂まで登っています。 和泉葛城山は大阪府と和歌山県の境にあるので、そのまま、和歌山県側に下ることもできるのですが、その後、さらに、和泉側に下り、泉佐野市にある修験道で有名な犬鳴山七宝滝寺を訪れ、大阪府道和歌山県道62号線を通って和泉山脈を越え、和歌山県に入ったようです。「和泉葛城山に登った」、「犬鳴山にハイキングに行った」というレベルではなく、山中の霊場を自由に移動しています。 紀ノ川側に入ってからは、粉河寺、八王子神社、丹生都比売神社などに寄った後、二つ鳥居で、高野山の表参道である高野山町石道に入って、高野山に一泊して、帰路は、高野山町石道を九度山にある慈尊院まで下り、その後、JRで帰宅のようです。 紀伊山地の霊場と参詣道と同じように、紀伊山地とは吉野川・紀ノ川で隔てられた和泉山脈・金剛山地の山中にも多くの霊場とそれらを結ぶ道があります。 それらの道の一部は、大阪府によって整備された自然歩道であるダイヤモンドトレールと重複しているようです。 私としては、自然に親しむためのダイヤモンドトレールもいいですが、先ほどの、大威徳寺から七宝滝寺に至る道のように、かつて、霊場を結ぶ道としてあった道を探り出して整備する方が、より自然な感じで、魅力があるような気がします。 北アルプスなどは、ヨーロッパ流の登山が似合うのでしょうが、関西の山々はそうではありません。 「日本百名山」に数えられる山は、むしろ、少ない。
2014年03月02日
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昨年12月に、大阪府は、大阪府南部にある泉北ニュータウンの主要な公共交通機関である泉北高速鉄道などを運営する大阪府の第三セクター「大阪府都市開発(OTK)」の株式を、外資系の投資ファンドに売って、その売却益を、大阪府北部にある北大阪急行およびモノレール延伸費用に充てる、という方針を出しました。 その際、外資系投資ファンドとともに購入提案を行った、泉北高速鉄道に乗り入れを行っている南海電鉄の提案内容も明らかになり、南海電鉄は、提示した購入金額は低かったものの、乗り継ぎ料金の値下げが、外資系10円に対して、南海電鉄80円、とかなり差がありました。 つまり、大阪府は、泉北ニュータウンの住民の交通費の値下げによる利益を犠牲にして、大阪府北部の住民のために公共交通機関の整備を行おうとした、ということです。 その後、泉北ニュータウンを抱える堺市の反対や、維新の会議員の造反などもあり、ごちゃごちゃした挙句、今年2月になって、手続き的に不透明な形で、南海電鉄に売却する、ということになったようです。 それで、、泉北ニュータウンの住民である私が、昨年の12月に思ったことは、日本の大動脈を外れるということは、こういうことなのだ、ということです。 つまり、大阪近辺でいえば、京都、大阪、神戸を結ぶ線から外れると、この種の悲哀を経験せざるを得ない、ということで、かつて、日本の首都であったこともある奈良や、明治維新までは御三家が置かれていた和歌山が、主に明治時代以降経験したのと同じようなことを、今頃になって、大阪府南部で経験している、という感じです。 というようなこともあり、日本の大動脈からちょっと外れたところは、どのような感じかな、ということに興味があったので、有馬温泉に行ったついでに、黒田官兵衛ゆかりの地である姫路まで足を延ばしたのですが、あえて、山陽本線などの大動脈はできるだけ使わず、阪急宝塚線(宝塚駅)・・・バス・・・有馬温泉・宿泊・・・神戸電鉄(ありまおんせん駅)・・・(ありまぐち駅)・・・(すずらんだい駅)・・・(あお駅)JR加古川線(粟生)・・・(加古川駅)山陽本線・・・(姫路駅)というルートで行ってきました。 地図で見ると、宝塚市は六甲山地の東北端に接しているようで、山が迫っていますが、中心部は大阪平野部の端なので、多分、標高数十メートル、有馬温泉は宝塚中心部からほぼ真西10キロメートルほどですが、神戸電鉄有馬温泉駅で標高357メートル、温泉街はそこから標高の高い方へ展開します。 バスは、宝塚を出るとすぐ、九十九折の細い山道を登ったのち、割と平たい高地を走って、30分ほどで、有馬温泉に到着します。 すぐ北を、中国自動車道が通っているので、わざわざ、悪路を運転する人は少ないようで、有馬温泉はともかくとして、途中の道は、空いています。 有馬温泉は神戸市北区ですが、神戸市中心部とは六甲山地で隔てられているので、港町神戸の雰囲気は一切なく、山間の温泉街以外のものではありません。
2014年02月28日
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思い込みの激しい人を、なめてはいけません。 特に、そのような人がいるなどとは思ってもいない人は、簡単に、その人のペースに乗せられてしまいます。 私も、たまたま、そういう人を相手にしなくてはいけない羽目になって、大いに、悩んでいます。 私は、その人より20歳ほど年上なのですが、その人の、キレる、命令する、小馬鹿にする、などで、妄想に振り回されていますし、反論しても、大抵、私の方がやり込められてしまいます。 口だけでは、思い込みの激しい人には、なかなか、勝てません。 しかし、文書ではごまかしは利きません。 ただし、その人が、自分の非を認めることは、絶対にありません。 最終的には、キレてしまい、一方的にその話を打ち切るか、嘘をつくしかないのですが、全体の思い込みに、その人なりの現実性があるようで、嘘をつくのは必ずしも本意ではないようです。 「細胞生物学の歴史を愚弄するものだ」と言われた、という、審査員を小馬鹿にしたようなことを言った女性科学者も、この言葉だけで、かなり、思い込みの激しい人であるような気がします。 また、やれヴィヴィアンだ、割烹着だ、ムーミンだと、マスコミが飛びつきそうな話題を提供していながら、いきなり、取材拒否で、マスコミでさえ振り回されています。 理研の他の研究者が手玉に取られたとしても不思議はありません。 研究の根幹部分だけでも、捏造ではないことを祈っていますが、この女性科学者は、私の知っている人と、言動に共通点が多くみられるので、かなり、心配。(追記)J-CASTテレビウォッチというところに 小保方さんの共同研究者・若山照彦教授(山梨大)によると、本人は画像の使い回しを認めているという。<「十四日に本人が泣きながら、『ご迷惑をおかけすることになるかもしれません』と電話をしてきました。ただ、『こんなことで研究そのものまで疑われるのは悔しい』とも話していた。ということが書かれています。 「泣きながら」とか、『こんなことで』とありますが、これらは、私の心証を「黒」に傾けます(2月22日)。(追記2) どのような展開になるか、まだ、分からないのですが、この先も同じようなことが起きるでしょうし、現在の日本も、お隣の国の思い込みの激しさに振り回されている状況ですから、いろいろ考えることもあるので、忘れないように、これまでのことを、書き留めておきます。 多分、1週間ほど前、ネット上で「STAP細胞」の横に、「捏造」とか「疑惑」の文字が目立つようになったと思うのですが、私が知ったのは、16日(日)、ネット上の書き込みで。 冷静なトーンで疑問があるとする意見と、感情的にそれを打ち消そうとする意見がありましたが、どちらかというと、後者が多かった。 その後、専門的な話題が中心になり、それでも、強引に疑惑を打ち消そうとする意見もあったのですが、だんだん、ついていくことが難しくなったのか、最近は、少数。 NHKや私がとっている新聞で、割と控えめな感じで「不自然な写真が使用されている」と報道されたのが、18日(火)か19日(水)。 20日(木)発売の週刊誌に、関連の記事が出るだろうということでしたが、「文春」の新聞の広告に、最初見落としたほどごく小さく出ています。 毎日新聞が、割と積極的に疑惑を追及しているようで、ネトウヨなどは、それで、韓国人による言いがかりだ、と反発しているようなところがある。 他の報道機関は、再現実験の結果待ちのような感じですが、2月20日朝日新聞digitalには、「安全性の差、検証これから STAP細胞」と小保方論文を間違いのないものだということを前提の記事がある(2月22日)。 2月25日(火) 産経新聞や関連のZAKZAKが、小保方論文は基本的に正しい、というような感じの記事を載せたので、書き込みでは、それに同調する意見が多くなっている。 ネット上では、産経新聞は信頼性が高い。 私は、この件に関してはかなり深い疑惑をもっているので、再現性が確認されない限り、とてもじゃないが、安心できない。
2014年02月18日
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「文明が衰亡するとき」(高坂正堯著、新潮選書)の中に、ハルバースタム著「ベスト・アンド・ブライテスト」を評した次のような文章があります。 印象深いので、きっかけがあると、思い出します。 今回の、きっかけは 、駐日アメリカ合衆国大使キャロライン・ケネディが、広島訪問、首相の靖国参拝に対して行った失望コメント、和歌山のイルカ漁批判、などと同時に行っている、ツイッター上の反対意見を削除したらしいということ、百田尚樹の発言を理由としたNHKの取材を拒否などの行動です。 「 ベトナム戦争介入という悲劇を、これほど見事に描いた書物はないが、アメリカの『タカ派』の名誉のために、この書物について私が個人的に知っていることも含めて書いておく。ハルバースタムはニューヨーク・タイムズとハーパーに記事を書いていた記者であったが、この書物を仕上げる過程で、はじめアンドレイ・スチーブンソン研究所で研究し、その研究員の任期が切れた後、フレッチャー・スクールのグリオン部長のスタッフとして研究をつづけた。このことを、著者の註で見たときほど私は驚いたことはない。 グリオンは、ベトナムではアメリカは正しかったという信念の持ち主であり、私も出席した日米会議で、そのことを20分にわたってぶちまくり、すっかり座を白けさせたこともあるぐらいだからである。その人物が、自分とは正反対の見解の書物を仕上げるのに力を貸したことは、グリオン部長のフェア・プレーの精神を雄弁に物語っている。 『理想主義者』でそのような行為をした例を私は余り知らない。 彼らは偏狭である。 もうひとつ、14章に若い国務省の官僚としてベトナム戦争に反対し、若くして国務省を去らなくてはならなかったポール・カッテンバーグという人物が出てくる。 6年ほど前、私はカッテンバーグ氏に思いがけないところで会った。 北カロライナ大学にリチャード・ウォーカー学部長(現在中国大使)の招きで集中講義に行ったとき、カッテンバーグ氏はウォーカー学部長の招きで、その教授となっていた。その時も私は同様に驚き、うれしく思った。というのは、ウォーカー学部長も、グリオン氏と同様、ベトナムでアメリカは正しかったという説の頑固な持ち主だからである。ウォーカー学部長もフェアな精神の持ち主であった。 アメリカの「タカ派」は、少々頭は単純でも、このグリオン氏やウォーカー氏のような精神のフェアな人物が少なくない。そこにアメリカの救いがある。」 私は、キャロライン・ケネディほど、「理想主義者」と呼ぶにふさわしい人を見たことがありません。
2014年02月15日
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韓国大統領パククネの告げ口外交は、これだけ長期にわたり一貫してやっているわけですから、何らかの、戦略的な意味があるはずなのでしょう。 それで、まあ、私としては、何の根拠もなく次のように考えるわけです。 韓国は、北朝鮮崩壊にかかわる何らかの兆候をつかんでいて、近々、崩壊すると見越して、中国の日本に対する先兵の役割をはたすことによって、中国から韓国主導の朝鮮半島統一の了解を得る、というようなことを考えているのではないか、と。 しかし、中国と朝鮮半島とは、唇歯の間などといわれることがあるのですが、中国は、歴史的には、朝鮮半島を、常に疑惑の目で見ており、忠義心を試します。 それに、韓国はアメリによって作られた国で、中国にとっては、清と、明に味方した李氏朝鮮との関係に近いので、中国から暖かく迎えられるとは考えにくい。 結果は、李氏朝鮮のように、中国に首根っこをつかまれることになる可能性が高い。 ということで、ある時期から急に、手のひらを返したように日本にすり寄るかもしれないのですが、しょせん悪口を触れ回っただけのことなので、お人よしの日本人は、それまでのことは忘れ、ホイホイ、仲良くしてくれるだろう、と、多分、虫のいいことを考えているのでしょう。 あとは、日清戦争前後の時代のように、大国のバランサーになる、というような、これまた、とほうもなく虫のいいことを考えているのかも。
2014年02月11日
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佐村河内守さんは、実は、耳が聞こえていたらしい。 耳が聞こえるかどうかというのは、自己申告で判定されることが多く、厳密には、脳波を測定しないと分からないらしい。 この、情報が駆け巡る時代に、世間を長い間だますことができた。 ということは、クラシック音楽に全く素養のない筆者としては、本家本元のベートーヴェンはどうなの、本当に聞こえてなかったの、とまず、疑問に思ってしまう。 まあ、実際に作曲をしていたのは間違いないことだと思うので、佐村河内さんと同類ということはないのでしょうが、耳が聞こえてなかったかどうかに関しては、疑問がないことではないかも。 今となっては、判定のしようがないことなのかもしれませんが、一つだけいえることは、世の中には、特別に騙されやすいのか、または、だまされたふりをしているだけなのか分からないですが、疑問をさしはさむことが困難なほど、美談を強力に作り上げる方々がいらっしゃる、ということです。 そして、その方々は、時代が変われば、また、別のタイプの美談を強力に作り上げるのです。
2014年02月10日
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朝刊に、タイトルのような記事が出ていました。 日本人にとっては、一見、それがどうした、というような感じの記事ですが、実は、日本にとって大きな影響のある出来事であると思って注目しています。 新聞によると、スコットランドは人口約530万人イングランドとの争いの後、1707年統合1997年住民投票、1999年議会と自治政府が設立され現在、「独立の動きをみせている」、ということです。 日本にある人口約140万人の地域は、ある程度、スコットランドと関連した動きをするのではないかと思いますが、そのときは、イングランドにおけるよりもはるかに大きい安全保障上の問題が生じるし、外国からの影響も強いでしょうから、心配しています。 スコットランドのことはよくわかりませんが、日本でこれが大問題になれば、おそらく、誰も得をすることはないでしょう。
2014年02月09日
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出直し大阪市長選で、民主党だけではなく自民党の大阪府連も対抗馬の擁立を避け、黙殺する構えを見せている、ということで、開いた口がふさがらない。 まあ、民主党がそういう消極的な戦術をとるというのも分からないではありませんが、自民党本部は、そのような方針を許すのでしょうかねえ。 私としては、橋下の政策に賛成しているというわけではありませんし、維新の議員の出来も良いとは思えないのですが、それでも、橋下は、大阪の現状を何とかしてよくしたいと思って、もがいていると思うわけで、それを、黙殺というのは、自民党大阪府連の感覚を疑ってしまう。 そもそも、「黙殺」などという小賢しくて姑息な手段は、現状に安住している者が、現状に異議を唱える者や現状に変更を迫る事実に対して、よく使う手段で、そのような組織は、活力をなくして、徐々に衰退してゆくことが多い。 落日の商都大阪に置き換えれば、自民党大阪府連が、大阪をよくしようとする対案を出さないで、「黙殺」などということを公然と言うことに、長期にわたる大阪の衰退の原因があるような気がします。
2014年02月05日
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「靖国 戦略」をGoogle検索すると、上位に、次の3つが出てきました。1 ウォール・ストリート・ジャーナル日本版から最近出た、「安倍首相の靖国参拝は戦略的な一手」http://jp.wsj.com/article/SB10001424052702303572904579335721221681920.html?dsk=y2 東洋経済onlineの「靖国参拝は日本の戦略的利益にとって無意味 ダニエル・スナイダー氏に聞く」http://toyokeizai.net/articles/-/282873 同じく、東洋経済onlineの「靖国参拝で露呈した、戦略なき安倍外交 なぜ中国の仕掛けた『古いワナ』に、自らはまるのか?」http://toyokeizai.net/articles/-/27379 まず、3は、NHKなどでもよく見かける方のもので、なんというか、日本の報道のレベルを示すもの、という感じのものです。 首相の靖国参拝のすぐ後に発表されているので、多分、その方の反射的な反応でしょうが、その分、普段何を考えているかが、よく反映されている気がします。 「戦略なき」と断定しておきながら、自らたてた副題の疑問に、「私には理解できない。」という答えでは、いくらなんでも、ひどすぎる。中国や韓国の反応は、必然的に起きることで、アメリカにしても、快く思わないのはあたりまえで、そのことを主な根拠に、「戦略なき」ということになるようですが、これも変。必然的に起きる反応は、戦略的に利用できるものなら利用したいと考えるのが普通のような気がしますし、また、戦略などはいくら同盟国でも、阿吽の呼吸で気づいてよ、というようなことでしょうから。2は、アメリカではこういう考え方をする方が多いと思うのですが、日本人の多くは、とてもじゃないが納得できないし、マクマリーの「平和はいかに失われたか」等を読むと、根本的なところで、かなり、危険な考え方のような気がします。1は、唯一、「安倍首相の見事な戦略的ゲーム」と戦略面で高い評価。司馬遼太郎が、「すぐれた戦略戦術というものはいわば算術程度のもので、素人が十分に理解できるような簡明さをもっている。」と書いているようですが、これは、素人の私にもよくわかる。靖国問題は、中国のカードであるとともに、日本側も利用可能で、時期は、日本が選べる。戦略が理解できなかったアメリカのコメントもあって、名護市長選ではうまくいかなかったが、集団的自衛権問題など、利用できる局面は多い。失策は、首相の靖国参拝ではなく、アメリカの「失望した」コメントであるのは明らか。まあ、アメリカも、そのうち気づくのでしょうが。
2014年01月27日
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これの続きです。 南海高野線の極楽橋行きは、九度山駅あたりで、それまでの郊外列車の雰囲気から、がぜん、登山鉄道の様相を呈してきます。 以前に、これと同じような光景を見たことがあります。 10年ほど前に行った、アルプスの東の方のティロル地方にあるインスブルックで、市街地を走っていた路面電車が、山の中腹にある集落を目指して、いきなり森の中に入り、ぐんぐん登り始めたのにびっくりしたことがありますが、それに似たような感じ。 もっとも、南海電鉄自身は、スイスのローヌの谷からツェルマットに上るマッターホルンゴッタルド鉄道などを意識しているのかもしれませんが。 南海高野線の上古沢駅や紀伊細川駅は山の中腹にあり、健脚者でなければ駅まで登ってこれないであろう、というような急な坂の下にある谷底に集落があるという、登山鉄道以外では見られない光景を見ることができます。 というようなことで、登山鉄道のことを調べてみると、日本でも、「全国登山鉄道‰会(ぜんこくとざんてつどうパーミルかい)」という登山鉄道経営者の団体があって、参加者は以下のようです。南海電気鉄道神戸電鉄富士急行大井川鐵道叡山電鉄箱根登山鉄道私の家から、日帰りで行けそうなところが3か所ある。大井川鐵道には、アプト式の鉄道がある。 ウィキペディアによると、全国登山鉄道‰会は、「2009年9月5日 - 南海難波駅で第1回目となる共同PRキャンペーン」が最初の活動のようですから、日本の登山鉄道に関しては、南海電鉄が第一人者で、南海電車に登山鉄道といえるようなものは高野山近くにしかありませんから、九度山駅から極楽橋駅までが、日本における代表的な登山鉄道といえるのかもしれません。 富士山五合目までの登山鉄道構想というものがあるようで、実現すれば、富士急行あたりに取って代わられるのかもしれませんが、天空の宗教都市高野山を目指して上る登山鉄道にも、おおきな魅力がある。 登山鉄道とハイキングコースが日本的に組み合わさっていて、とても良い。
2014年01月08日
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秋ジャガイモがこんなに大きく育つとは思っていませんでした。ひょっとしたら、春ジャガイモより効率よく育てられるかもしれません。大きいもので、470グラムほど。スーパーで売られているものと比べても、かなり大きい。品種はメークィーンだと思うが、という程度にしかわかりません。9月10日頃に植えて、収穫は12月23日。種イモを植えたときは、まだ、かなり暑くて、20センチほど掘り下げた地面の土も、かなり高温でした。収穫は、できるだけ遅くしましたが、畑のある大阪府和泉市でも、12月下旬になれば、最低気温が3℃ほどで、地上部は枯れて、それ以上は成長しない状態です。種イモは、半分は切って植え、半分は切らずに植えたのですが、切らずに植えたほうは全部育ちましたが、切って植えた方の半分は、芽を出さずに、そのまま、腐ったようです。元肥として化成肥料を種イモの間において、面倒臭いのでマルチはせずに、追肥が2回、10月下旬以降は放置で、それ以後の天候は、割と雨が多くて、常時、土が、湿っている感じ。秋ジャガイモは、種イモが、収穫時にも、ほぼ、植えた時のままの状態で残るようですが、しょせん、種イモですから、廃棄。芽かきで、一株1本にしたので、一株当たり3個ほどの収穫しかありませんでしたが、まあ、満足です。ただし、大きすぎるものは、内部に空洞ができるようで、昨夜、切ったものは、空洞がありましたから、2本にしたほうがよかったのかもしれません。
2013年12月24日
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先週の日曜日と今週の日曜日の二日をかけて、高野山町石道を歩いてきました。 町石(ちょういし、ちょうせき)の町は「まち」ではなく、丁とも書く距離の単位で、1町は約109メートル。 高野山根本大塔を起点に、紀ノ川沿いの九度山町にある慈尊院まで、1町ごとに石柱があり、石柱には、根本大塔までの距離が、町単位で彫られています。 私の歩幅で、だいたい、130歩が1町のようで、130歩ごとに、根本大塔までの距離を書いた石柱が現れることになります。 慈尊院が180町ですから、メートルに直すと、全行程は、109×180=19,620メートル。 石柱は、高さ3メートルほどもあり、それが109メートルごとにあるわけで、これほど立派な標識を持つハイキングコースを、いままでに、見たことがありません。 スイスのハイキング標識などとは、格が違います。 おそらく、世界一立派な標識を持つハイキングコース。1日目 駐車していいのか悪いのか知らないのですが、九度山町役場に車を置いて、スタート。 正規の駐車場は真田庵の向かいあたりにありますが、九度山駅まで遠い。 慈尊院・・・古峠(根本大塔まで124町、13516メートル)、ここで町石道を離れる・・・南海高野線上古沢駅、電車で九度山に戻る、運賃200円2日目 今度は正規の駐車場に車を置いて、九度山駅から上古沢駅まで電車上古沢駅・・・古峠、ここからが前回の続き・・・大門(根本大塔まで6町、645メートル)、バス(370円)、ケーブル・電車(700円)で九度山駅 弁当と飲み水が必要です。 二日に分けて登りましたが、効率を考えれば、一気に登り切った方がよい。 急な登りは、最初、尾根に上るまでと、矢立から1時間ほどの限られたところくらいで、後は、平坦または緩やかな下りが多い。 町石道からは外れる古峠(ふるとうげ)から上古沢駅までの道は、急な坂道で、2.5キロあり、下りは筋肉痛になり、上りは、きつい。 よほどの健脚でないと一日で歩くことは難しい、などと書かれているものもありますが、胴回り94センチで、医者から、「あなたの肝臓は、一般的な鶏や豚の肝臓のようなものではありません、フォアグラのように脂肪がついています」と言われた、私でも、標準時間で歩くことがきる道ですから、大したことはありません。 一つ一つ町数を減らし、森の中の最後の急坂を登りきったところで、忽然と現れる高野山大門を見ると、とても感動します。 自動車で上ると、道が狭くくねくねと曲がって、対向車もあるので、運転に集中せざるを得ないのと、大門を迂回して高野山に入るので、この感動は、まったくありません。 また、電車、ケーブル、バスを乗り継いで行くと、なんだか、裏口のようなところから高野山に入る。 高野山には、大門から入るのがよい。 大門から入るのと、そうでないのとでは、統一感の有無が生じるような感じで、高野山全体の印象がまるっきり異なります。 続く
2013年12月10日
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新聞・テレビの報道の内容と、ネット上とでは異なった世界が出来上がっているようです。 このところ、特に、西村眞吾の「日本には韓国人の売春婦がうようよいる」や橋下の慰安婦発言など、韓国に関係するものにおいて、あまりに違いすぎるので、いろいろ考えさせられます。 ネット選挙解禁のようですが、報道機関には、かなり大きな影響を与えるのではないかという気がします。 西村、橋下の発言に関する報道には、批判の電話などが、かなり、あったのだと思いながら、このところの、新聞やテレビをみて、気が付いたのですが、新聞・テレビは、偏向報道に関しては、すでに、かなり、開き直っている感じがします。 テレビなどでは、たいてい、さらりと言っていまが、その中に、橋下は、「素人ではないのですから」、というようなことを言っていた報道機関の人間がいましたが、要するに、素人は、公平に報道しているものと思っているかもしれませんが、現実は違いますよ、橋下はそれを知っているでしょう、と自ら言っているわけです。 で、まあ、何のかんのといっても、西村眞吾や橋下の発言にしても、ほぼ全部が正確に報道されて、情報量に限りのある新聞はともかくとして、ネット上にはあるわけですから、私としては、特に不便は感じません。 ただ、新聞でも、評価が記事のタイトルになって、大きな文字で、真っ先に目に入りますから、影響はかなり大きいのですが、まあ、これは仕方がないか、という気がします。 しかし、毎日新聞5月30日付朝刊、「橋下市長の問責決議可決へ」のなかに、「自民、民主系、共産の3会派が共同提案し、公明も賛成する。」と断定しているのは、これは、まあ、記者の希望が入りすぎた誤報でしょう。 実際は、松井府知事の脅しが効いて、公明は反対。 5月27日の橋下の外国特派員協会での記者会見の反応の記事で、韓国人記者の感想などが載っていたりするのですが、あれは、記事にする値打ちのあるものなんですかねえ。 「犬が人を噛んでもニュースにならないけれど、人が犬を噛むとニュースになる」というらしいですけど、どうみても、「犬が人を噛ん」だという範疇ですから。 私としては、フランスやドイツの記者の感想を聞きたかったので。 それでも、新聞は購読をやめればいいわけで、問題はないのですが、NHKはそうはいきません。 というようなことで、話をネット選挙に戻すと、しばらくは、新聞・テレビを重視する人と、ネットを重視する人との間で、投票結果にかなり差が出てくると思いますが、問題は、そのあと、どのような展開になるか、ということです。
2013年05月30日
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ある新聞の見出し。 西村氏「韓国の売春婦うようよ」 維新は除名方針 鍵カッコ内は、ほぼ、公知の事実。 しかし、この見出しを読めば、ほぼ公知の事実でさえも、事実ではない、事実かどうかわからない、または、言ってはいけないこと、という状態にしてしまうから怖い。 しかも、1社だけではありません。 どうやら、報道機関は、情報の流れを妨げる行為も、簡単にできるようで、事実を伝えるためにある報道機関が、このような無神経な報道をしても良いものかと思っていましたが、案の定、ネット上には、かなり、反発があります。 大阪難波のすぐ南あたりに、ある時から急に、韓国関連の店が増えたようなので何事かと思っていた時期がありました。 以下は、ネット上にある情報から、たぶんこういうことだろうと私が考えていることです。 原因のひとつは、2004年に韓国で制定された「性売買斡旋等行為の処罰に関する法律」と「性売買防止及び被害者保護等に関する法律」のようです。 ウィキペディアによると、斡旋者と買受者が処罰されるというもののようで、かなり厳しいものですが、現実的には、この種の行為を無くすることは難しい。 アメリカでも、1または2州の一部以外禁止されているようですが、女性の地位が高いアメリカとまだまだの韓国とでは環境が違いすぎます。 結局、禁酒法のように、禁止されたことが、地下潜行、売り手買い手共に国境を超えて行われる、という結果になっているようです。 とまあ、これは、どこかに書いてあったことです。 しかし、韓国でこのような法律を施行すればどのような結果になるか、ということは、通常の感覚で、十分予想できることなので、実は、もっと深い意味があって、このところ、一貫して、韓国が執拗に追求している日本の国際的イメージを落とそうとしていることと無関係ではなく、無理を承知で始め、同時に、現実感を失った、と考えるほうがわかりやすい。 この種の問題で、アメリカと韓国が同調するなどということは、いかにも妙なことです。 先進国では、当然、この種の行為は禁止されているものと考えがちなのですが、むしろアメリカが特別で、ヨーロッパ大陸では、通常、認められていることなので、先進国かどうかとは関係ないようです。 必要性というか合法化の理由は、性病対策、性犯罪対策防止のようで、これは、日本・アメリカ・韓国・中国で、とんでもない発言をする政治家のように扱われている橋下がいうところの、かつて日本軍が必要とした理由とほぼ同じ。 現在の日本は、売春防止法があるので、アメリカや韓国型だと誤解している方が多いと思いますが、制定時の政治家・官僚がアメリカの理想主義を巧みにかわしているので、実質的には、ヨーロッパ大陸型で、しかるべきところで行われる限り、お縄になることはありません。 日本はアメリカと異なるということを明確に自覚していないと、橋下のように、みごとに韓国の戦略にはまってしまって、弁解すればするほど墓穴を掘ることになる。 しかし、日本人だけだとうまくいくシステムも、外国人が大挙して押し寄せてくる事態には対応できず、とりあえず、性病予防をしようとしても、売春防止法の建前上、ヨーロッパ大陸のように行政的な規制を行う法律を制定するのは、多分、難しい。 ということで、役所には確たる資料も無いでしょうから、自分で調べなければならないので、西村氏の、「計数を計ったことがない」ということになるのだと思います。 なお、警察庁が出している風俗関係事犯の取り締まり状況に出ている数字は、売春防止法の処罰範囲から考えて、外国人売春婦数とは、ほとんど関係ないと思いますが、捜査上で得た関係する情報は、入管に通報されるでしょうから、そちらのほうに、多少、反映した数字があるかもしれません。 日本で、ヨーロッパ大陸のように法律を制定しようとすれば、女性を中心に猛反発が起き、大騒ぎになるでしょうし、かといって、実質的にも禁止すれば、多分、地下潜行、国境超え、ということになるのでしょう。 話を戻すと、韓国での法律制定の2年あとだと思いますが、日本側から韓国人の短期滞在に対して査証免除の扱いが始まったことも、原因の一つになっているようです。 これも、あちこちに書かれていること。 査証免除は、通常、相互に行われるものですが、それまで、韓国側が日本に対し一方的に認めていたものを、経済交流などを緊密にするために、日本も認めたというもので、入管は、多分、相当の懸念を持っていたと思います。 ということで、将来のことですが、TPP発効の後、韓国は加盟していませんから、他の国との関係で、同じようなことで、問題になり、その際、性病が蔓延するようなことにでもなれば、今回のような報道は無くなると思います。 (追記) というようなことを書いているうちに、韓国出身の方が事務総長をしている国連の委員会から報告書が出ました。 たしかに、ネット上には、全部が日本人によって書かれたかどうかはともかくとして、日本語での誹謗中傷の記事が多くあり、西村氏の発言も全体を見れば、誹謗中傷だといわれても仕方のない部分があります。 本文でも書いたのですが、日本の国際的イメージ低下は、韓国の国家戦略かどうかはよくわかりませんが、国民生活を混乱させてでも、一貫して執拗に追求していることなので、十分な注意が必要です。 この点、腹の中は煮えくり返っていると思うが、表に出さない日本政府の態度が参考になります。 今、事を起こしても負ける可能性が高いので、風向きが変わるのを辛抱強く待っているというところでしょう。 (追記2)というようなことを書いている間に、またしても、事件が起きています。5月22日早朝、大阪生野区で、韓国籍の男が、刃物で、通りがかりの人を二人刺し、「生粋の日本人なら 何人も殺そうと思いました」 といっているというもの。 日本人も決して我慢強いほうではないから、わたしは、この種の事件は、まず、日本人が起こすのではないかと心配していましたが、ネット上の過激な書き込みの割には、冷静なところもある。刑事責任能力に問題がある可能性があるからだと思いますが、衝撃的な事件である割には、ほとんど報道されない。 韓国で、東亜日報と発行部数第2位の座を争っている中央日報5月20付けに、広島、長崎への原爆投下は「神の懲罰」だったと主張する論説委員のコラムを掲載。どこのだれが書き込んだか分からないような、ネット上の書き込みではありません。 これは、売春問題と同様、アメリカとの連携を強める、という意味があると思っているのかもしれません。 韓国の、現実感を失い、イケイケどんどんの行動は、すでに、病気の域に入っている可能性は十分ある。その原因の一端は、何でもかんでも、「国民感情に配慮」してきた日本の報道機関にもある。 日本人のナショナリズムを刺激して、コントロールできない状態になることを恐れるということもわかるが、それにとらわれるあまり、かえって、かつての過ちと同種の過ちを犯しているのだと思います。 (追記3) ここで、売春の強制性に関連して、大阪の遊郭の面影を残す場所に通っていた人から聞いたことです。 1980年代の半ばだったと思いますから、今もそうなのかどうかは、知りません。 正確には覚えていませんが、多分17歳かそのあたりの、かなり若い子と親しくなり、どうしてこのような仕事をしているのかを尋ねたところ、その子は、ポロポロ涙を流して泣き出し、親の借金を返すために働かされている、と告白したそうです。 戦前ならばともかく、売春防止法が施行されて30年もたつ日本で、親の借金を返すため、などということは、当時の私には、にわかに信じられなかったことですが、一般的に女性の地位が高くなった時代においてさえも、何らかの事情で、自立できるだけの教育を受けることができなかった状態で、周りからの強い圧力がかかれば、このくらいの年齢の少女には、抗うことは難しい、ということだと思います。
2013年05月22日
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池田市長の高級外車購入の関連で問題になっているこの種の外郭団体のことを調べようとすると、かなり面倒ですし、よく分からないことが多い。 「財団法人 池田市公共施設管理公社」が開設しているサイトを見ても、味気のない文書がアップされているだけです。 平成元年ころ設立されたようなのですが、そもそも、設立の理由がよく分かりません。 公務員の定数削減要求に対する役所流の対応、というような感じもしますが、はっきりしたことは分かりません。 マスコミなどでは、公務員の定年後の再就職先確保のため、などといわれているのですが、それでは表向きの理由になりませんから。 さらに、表立った議論はしたくないのか、池田市議会での疑惑追及なども、まったくやる気なし、という感じです。 調べるのが面倒なので、最近のことは知らないのですが、橋下以前の大阪市にも、この種の外郭団体は山のようにありましたから、もし、橋下が何らかの改革を行っていれば、実体の分かる文書があるのかもしれません。 ということで、以下は、多分こういうことだろう、と私が思っていることです。 寄付行為(外郭団体は、財団法人以外に社団法人のこともあって、その場合は定款)は、まあ、同じようなものなのですが、ここで、池田市公共施設管理公社の寄付行為の目的と事業を見てみます。 (目 的) 第3条 この法人は、池田市(以下「市」という。)と密接な連携を保ち、市が設置する公の施設(以下「施設」という。)の管理運営について協力し施設の設置目的を効果的に達成するとともに施設の利用の拡大を図り、もって市民の福祉の増進に寄与することを目的とする。 (事 業) 第4条 この法人は、前条の目的を達成するため、次の事業を行う。 (1) 施設を利用し市民の教養、健康及び福祉の増進を図ること。 (2) 施設の管理運営に関すること。 (3) 緑化の推進及び調査研究に関すること。 (4) 施設の利用増進に関すること。 (5) その他この法人の目的達成に必要な事業 第4条の「事業」をある程度具体的にしたのが、事業計画書で、これも公社のサイト内にあります。 一見すると、まるで、自らが行うかのように書かれている場合であっても、この種の外郭団体自らが直接行うのではなく、正確に書けば、「契約によって、これらの事業を各種業者にやらせる」、ということで、実質上、取次業に近いこともあります。 あるいは、人件費がかかる現業職員を抱えているのかもしれませんが、その場合は、何らかの理由で、役所の一部を切り離して、別法人にしたということかもしれません。 外郭団体は、普通、役所との取引や補助金以外には、特に、自らがお金を稼いで団体を維持できるだけの技能や才覚はありません。 池田市とこの外郭団体との関係は、高額の、長期間にわたる契約関係にあるはずなのですが、100パーセント池田市出資で、おそらく、収入全部が税金から出ているであろう外郭団体側のサイトに、契約書の類は公表されていません。 これは、池田市公共施設管理公社だけのことではなく、一般的に、外郭団体といわれているものについて言えることです。 このことが、外郭団体をわかりにくくさせている原因だと思います。 なあなあの関係でやっていて、きちんとした契約書がないのだと思いますが。 一般に、役所と役所以外の団体や個人との契約関係は、役所の物品購入と公共工事、それに、業務委託というように分類されます。 事業内容からして、物品の納入や公共工事ではなく、体育館や公園の管理などの業務委託ということでしょうから、分類としては警備業務の委託などと同じ、ということになるのだと思います。 その相手方・金額に関しては、物品購入や公共工事は、公平を期するため、基本的に入札で決められ、少額の場合は見積もり合わせでもよい、というようになっています。 建前上、業務委託も同じなのですが、現実は、業務内容にもよりますが、たまに入札を行う程度で、随意契約で済ませることが多いようです。 外郭団体の行う業務委託に関しては、さらに徹底していて、入札参加資格者名簿も用意されていないことが多いので、「公園の管理くらい、もっと安くきちんとできるわい」、などと民間の業者が名乗りを上げても、相手にされることはありません。 民間の業者が参入しやすいように制度を整えること自体は、さほど難しいことではないと思いますが、なぜか、このようなことを一生懸命やるのは、橋下以外にはほとんどいません。 結局、役所と外郭団体との間の高額・長期間に及ぶ契約が、非公開・競争なしで行われている、たとえ、市長が変わっても制度を変えようとはしない、ということです。 次に、外郭団体と各種業者との関係です。 物品購入や工事などで、自治体が直接発注する場合は、現在、入札情報の公表などが徹底されているので、あまり変なことはできませんが、この種の外郭団体が物品や工事を発注する場合は、そうではありません。 公園の管理上必要な工事など、実質的には、公共工事であっても、しょせんは、一財団法人が発注者です。 入札参加資格者名簿などは、役所にあるものをそのまま使うので、公社発注の仕事をしたいと思う業者は、池田市の入札参加資格者名簿登載手続きをして、公社が行う見積もり合わせに参加させてほしい、と主張すれば参加できるのかもしれませんが、いかんせん、公社側には、情報を公開する意思がまったくありません。 「財団法人 池田市公共施設管理公社」のサイトをみても、この財団が発注者となる入札情報などは、一切出ていないどころか、発注をしていることをうかがう痕跡さえありません。 外郭団体との何らかのつながりがないと、事実上、入札に参加できないし、閉鎖的な関係にある者だけで処理されるので、談合も行われていることが多いようです。 現在は知りませんが、大阪市でも、一昨年あたりまで、外郭団体の発注工事では、しきりに談合が行われていました。 もっとも、それで業者が暴利をむさぼっていたというものではなく、単に、取引方法が不公正だということだとは思いますが。 今回の池田市の騒ぎでは、市長または発注者である公社の働きかけがどの程度あったのかよく分かりませんが、業者は談合で見積書を出し、発注者はそれを知りながら契約をした、ということのようで、どうやら、かつて官民ともに盛んであった談合体質が、いまに至るも、市の外郭団体に残っている、ということでしょう。 さらに、もしも、この種の団体設立について、公務員の定数削減に源があるとすれば、労働組合なども関係したりするので、市議会での、臭いものにはふた、という対処の仕方もわからないではありません。
2013年04月05日
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「人々が革命に陥るのは、必ずしも悪状態から最悪の状態に進むことによって、そうなるのではない。何の不平もいわずに、最も耐え難い法律に対してさえ、感じないかのように耐え忍んできた民族も、重圧が緩和されるや否やこれを烈しく拒絶するということは、しばしば起こっていることである。革命が破壊する制度の多くは、この直前の制度よりも優れた値打ちをもっているのである。悪政府にとって最も危険な瞬間は、普通この悪政府が改革され始める瞬間であることは、経験によってよく知られていることである。長い間の圧政ののち、臣民たちへの重圧を緩和しようと企てる君主を救済することができる者は、偉大な天才だけである。不可避なものとして辛抱強く耐え忍ばれた害悪も、避けられるものだと思われるようになるや否や、耐え難いものとなってくるようである。そのとき、悪弊についていくらかのものが排除されると、あとに残る悪弊がいっそう明らかになり、この残っているものを排除したいという感情が強められるのである。そこでは本当のところ、害悪は減少しているのである。けれども害悪に対する態度はいっそう鋭敏になっている。」(『アンシャンレジームと革命』A・deトクヴィル) 私が、この本を読んだのは、ソ連が崩壊して、まだ、10年もたっていない時期でしたから、けっこう、感動しました。 この本は、フランス革命のことを書いているのですが、ソ連が崩壊したのも、ゴルバチョフの改革が行われていた時でしたから。 ただし、ソ連崩壊の原因として、改革の不十分さを指摘することは多いが、改革され始めたこと自体に原因を求めるものは、みたことがありません。 しかし、改革を始めれば、ほぼ必然的に、改革は不十分なものと感じられるようになる、というべきでしょう。 北朝鮮などは、いくら最悪状態を更新しても、それが原因で、体制が崩壊しそうにはみえませんが、自らが、国民に対する重圧を緩和しようなどと企てると、かなり危険なことになりそうな感じがします。 習近平の中国は、どうなるのだろうと考えてしまいます。 もっとも、ゴルバチョフとは違い、習近平が、「最も危険な瞬間」であることを認識していないとは考えられないのですが、それでも、「偉大な天才」がいるかどうかは、また、別のことです。
2013年03月27日
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いればいればいればいれるかわいいのいればいれる♪~ 城崎温泉に遊びに行っていた配偶者が買って帰ったブランドガニ(たぶん、津居山がに)を食べている最中に、左下の歯が折れてしまいました。 神経は、既にとってあるやつで、痛くはないのですが、みっともないし、将棋倒しで隣の歯まで倒れそう。 歯科医院に行くと、歯根が弱いので、支柱を埋め込んで被せものを付けるのは無理、ブリッジまたはインプラント、手っ取り早いのは入れ歯!、ということで、入れ歯第一号。 きゃりーぱみゅぱみゅの歌が浮かんできました。
2013年03月26日
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旅行の目的、美しい景色を見ることと美味しいものを食べることのうち、まず、美味しいものを食べることから。 これは、シャモニ・モンブラン第4日目で、前日までの3日間は、シャモニ近くの展望台に行ったり、ハイキングをしていましたが、どんなに美しい景色でも同じような景色を3日間も見ていると飽きるので、アヌシー湖畔の町アヌシーまで、電車で行く事にしました。 シャモニ・モンブランからアヌシーまでは、電車で2時間とちょっとかかりますから、あるいは、スイス領内のジュネーブからの方が早い場所にあるのかもしれません。 これは、la cibouletteというお店で食べたもので、このお店は、ミシュランの星付きのレストランのようです。 フランス料理というものに関しては、最近は、本町にある、かつて、星付きであったというお店に、年に一度、行くか行かないかという程度のものですが、どうも、日本のフランス料理とは、採点の基準が違うのではないかというような感じがします。 これは、揚げ物のようなものと、チーズ臭いもの、それに、ガラス瓶には、串に刺したかなり厚めの生ハムが立ててあります。 これは、メロンは潰していますが、要するにメロンと生ハム。 これは、その拡大写真で、メロンが温まらないように、分厚いガラス容器に入れています。 これは、店内。 これは、かなりの自信がないと、ちょっとやそっとでは出せない料理だと思います。 周りにごく薄い生ハムを、少量散らしているが、動物性のものはそれだけで、あとは、どこにでもあるような野菜だけ。 ニンジン、ソラマメ、トマト、ズッキーニ、アーティチョークなど。 京都に行くと、どこにでもあるような野菜を見事な味付けと盛りつけで出す日本料理店があるが、一脈通じるところがあるのかも。 感覚的には、頭をとる前は、50センチくらいの魚の片身を二切れにしている、というくらいのボリュームなので、しつこい味付けはしていませんが、それでも、日本人の胃袋には、けっこう、こたえます。 切り身が大きいので、料理の見栄えがします。 ジャガイモは、ごく小さいもので、この感覚は、日本人と同じ。 これが、ドイツだと、普通サイズより大きなものが3~4個、ごろごろしていることが多い。 アイスクリームとチョコレートケーキ、横にあるのはアプリコット。 最後にこれ。 胃袋は限界を超えていますが、食べきりました。 グラスシャンペンとワインを一本を空けたので、歩こうという気にもなれず、この後、貸しボートを借りて、しばらくの間、アヌシー湖にプカプカ浮かんでいました。
2012年07月28日
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シャモニ・モンブランへ行ってきました。 旅行の目的は、美しい景色を見ることと、美味しいものを食べること。 具体的なプランは、エギュイユ・デュ・ミディ山頂にある展望台に行って景色を楽しむことと、せっかくフランスに行くのですから、星付きレストランでフランス料理を食べること。 スイスのジュネーブで飛行機を降り、ジュネーブで一泊した後、直通バスで、フランス領内シャモニ・モンブランへ。 シャモニで4泊してから、ちょうど、レマン湖を一周するように、スイス領内マルティニを経由して、再び、ジュネーブへ戻り、一泊した後、日本へ帰るというもの。 写真中央がエギュイユ・デュ・ミディ。 「エギュイユ」は針峰という意味のようで、「ミディ」という名の針のように細くとがった山、ということなんでしょうか。 山頂に展望台があって、ロープウェイで揚げてくれます。 右の方が、ヨーロッパアルプス最高峰のモンブラン。 モンブランは、多少奥まったところにあり、特徴がないので、存在感が薄い。 これが、エギュイユ・デュ・ミディ山頂部で、ここに、展望台があります。 スイスの、ユングフラウ・ヨッホやゴルナーグラートに匹敵する展望台だと思いますが、日本では、それらほど知名度が高くないのは、多分、ロープウェイであるため、運行に安定性が無いため。 私が、滞在した5日のうち、運行したのは2日だけで、強風で2日間運休、残りの日は、まったくガスの中で視界ゼロで運休でした。 旅行会社としては、ユングフラウヨッホやゴルナーグラートならば、たとえ視界ゼロでも、一応連れて行って、「今日は、視界が悪くて残念ですね。せめて、犬と一緒に写真でも撮りましょうか。」で済むが、エギュイユ・デュ・ミディでは、そういうわけにはいきません。 山頂部に突起している建造物は、多分、エレベーターの一部で、マンションの屋上などに突起しているものと同種のものではないかと思っていますが、確認はしていません。 これは、帰りに、ジュネーブ空港であった、バレーボール女子のオリンピック選手。 スイスで、合宿をしていたようで、ロンドンのヒースロー空港に向かうようです。 この日のジュネーブ空港は、非常に人が多く、あまり、ヨーロッパの雑踏慣れをしていないような感じでした。
2012年07月24日
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地下鉄御堂筋線天王寺駅の改札を出て、そのまましばらく進み、左側に折れると、阿倍野再開発でできた巨大なショッピングモール、あべのキューズモールというものがあります。 気楽にいくことができるお店が並んでいて、梅田や心斎橋にあるような高級ブランド店は入っていないようです。 キューズモールを南の端まで歩いて、その後、建物の外に出て、ゆるい下り道を西の方に5分ほど歩くと、道路の向こう側に、ちょっと低地になっている区域があって、この建物はその一画にあります。 この区域に入ると、国立文楽劇場に入ったのと同じくらい、日本の過去の文化に触れることができます。 法律上、正式な呼び方かどうかは、よく分からないのですが、写真の建物は、「遊郭の面影を残している飲食店」と呼ぶようで、呼び名の通り、外装、内装ともに遊郭の風情を残し、予約をしないとなかなか入れないほど人気のある飲食店のようです。 文化財的な価値のある建物はおそらくこれ一軒ですが、すぐ近くに、独特の雰囲気のある建物で、表向き飲食店として営業しているお店が軒を連ねています。 どの店も、玄関の戸が開け放たれ、中に、若い女性と中年の女性が1人ずつ、スポットライトを浴びた若い女性が正面に座り、脇に中年の女性が腰かけています。 道を歩くと、中年の女性が、「どうぞ」と声をかけます。 若い女性の方は、着飾ってライトアップされているので、道からのぞく限りでは、美しい方もたくさんいらっしゃいます。 中年の女性は、多分、「遣(や)り手」と呼ばれる方です。 「遣り手」を広辞苑で引くと 1 物事を(引き受けて)する人。「――のない仕事」 2 ものを与える人。(対語・反義語)もらい手。 3 腕まえのある人。敏腕家。「彼はなかなかの――らしい」」 4(省略) 5 妓楼で遊女を取り締まり、万事を切り回す女。花車(かしゃ)。香車(きょうしゃ)。一代男六「――が欲ばかりの算用もきかず」 6 7 (省略) で、営業の内容は、多分、「ちょんの間」。 これも、広辞苑で引くと 1 ちょっとの間。短い時間。 2 遊里で短時間の遊興。ちゃんのま遊び。ここで、短時間というのは、ネットでみてみると20分くらいが多いようです。 橋下大阪市長が、西成特区構想というものを打ち出しており、この種の問題にも手をつけるのではないかと、注目しています。 ウィキペディアによると、ヨーロッパでは、ほとんどの国で合法で、規制は緩める方向にあるようです。
2012年07月05日
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難波にあるスイスホテル36階にあるレストラン、タボラ36に行ってきました。 ホテルのフロントは、6階という高い階にあって、地上階からのエレベーターは、そこまで。 6階で、乗り換えです。 6階にあるホテル玄関まで、自動車が上ることができるようになっていて、何台か、車が止まっているのですが、南海難波駅の真上にもかかわらず、ここから上は、こてこての大阪とは、別の世界です。 リニューアルして、かなり広くなって、ティファニーが入ったりしている、すぐ横にある高島屋には、大阪の風が吹きこんでいますが、スイスホテルでは、そのような感じがしません。 タボラ36からの夜景は、美しい。 地上にあるこてこての大阪を、まったく連想させません。 大阪の夜景は、けばけばしさを感じて、美しいものとは思っていなかったのですが、節電で光を落としているからかもしれません。 料理は、日本人のみの舌に合うようには、細工されていません。 訊いてみると、調理は日本人がしているが、調理方法などは、イタリア人の指示でやっている、とのこと。 クセのあるチーズをふんだんに使っていたりして、私の苦手な料理の部類で、なぜか、後で、天ぷらうどんを食べたくなったりします。 スイスホテルの宿泊室も見てみましたが、当然とはいえ、ヨーロッパの大都市にある四つ星ホテルそのものです。 で、食事の後、千日前にあるジュンク堂書店まで歩いて行ったのですが、天空のヨーロッパと地上にあるこてこての大阪のギャップがすごいです。 欧米人が、スイスホテルに宿泊して、道具屋筋を観光したりすると、そのギャップに、おそらく、たじろぐ。
2012年07月04日
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基本法の方は、おそらく、書き換えるだけでいいのでしょう。 原子力基本法と、6月20日成立した原子力規制委員会設置法とは、一般法と個別法の関係で、個別法で、一般法の第1条とか第2条とかの、前の方に出ている条項を、全然議論もせずに、改正してしまうなどというのは、かなりの、荒技ですが、消費税率引上げ法案などで、国会議員の先生方が、ワーワーやっているうちに、改正してしまいました。 このような荒技、または、厳しい審判員だと反則にするかもしれないような手段を使わなくてはならないということに、国の中枢に焦りがあるのかもしれません。 毎日新聞によると、「附則による関連法改正というのは、ある法令を変えると必然的に他の法律も変えざるをえないときにやるもの」とのことです。 現行の、というか、すでに改正されているのですが、ネット上にある原子力基本法は、(目的) 第1条 この法律は、原子力の研究、開発及び利用を推進することによつて、将来におけるエネルギー資源を確保し、学術の進歩と産業の振興とを図り、もつて人類社会の福祉と国民生活の水準向上とに寄与することを目的とする。 (基本方針) 第2条 原子力の研究、開発及び利用は、平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする。 となっているのですが、6月20日からは、原子力規制委員会設置法の附則第12条によって、(原子力基本法の一部改正)附則第12条 原子力基本法(昭和三十年法律第百八十六号)の一部を次のように改正する。 第1条中「利用」の下に「(以下「原子力利用」という。)」を加える。 第2条中「原子力の研究、開発及び利用」を「原子力利用」に改め、同条に次の一項を加える。 2 前項の安全の確保については、確立された国際的な基準を踏まえ、国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資することを目的として、行うものとする。次のようになっているようです。つまり、原子力基本法は、(目的) 第1条 この法律は、原子力の研究、開発及び利用(以下「原子力利用」という。)を推進することによつて、将来におけるエネルギー資源を確保し、学術の進歩と産業の振興とを図り、もつて人類社会の福祉と国民生活の水準向上とに寄与することを目的とする。 (基本方針) 第2条 原子力利用は、平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする。 2 前項の安全の確保については、確立された国際的な基準を踏まえ、国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資することを目的として、行うものとする。 となっています。 原子力利用の安全確保に関しては、国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全だけではなく、わが国の安全保障に資することも目的として行なえ、というように改正されています。 6月17日に、NHKのETV特集「核燃料サイクル”迷走”の軌跡」で放送していた内容を思い出します。 これも、参考になります。 法律上は規定されていないが、核戦略上、これまで現実に行われていたことを、法律に載せた、というような気がします。 「もんじゅ」もおかしなことになっているようで、こうでもしないと、国家にとって最も重要な安全保障政策が、維持できない。 それにしても、国会議員の先生方の大半は、かなり、間抜けですなあ。 詐欺的手法で成立した法律だから取り消せ、などということは、恥ずかしくすぎます。
2012年06月26日
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「 政党の依って立つ所は地方にあり、政治上の勝敗は政党の勝敗に因し、政党の勝敗は地方の勝敗に因す。裸体的にいえば、政治上の変革は大磯、早稲田、帝国ホテルの会議より来るものを近因にして、地方の勝敗は実に其遠因なりと謂わざるべからず。地方のこと最も重し。」 1899年3月9日、第13議会が閉会、そのすぐ後、3月19日、星派の機関誌日刊「人民」に掲載された、「機運漸く将に塾せんとす」の中の一節。 自民党政権下で、つい最近まで行われていた、地方での公共工事と引き換えに、選挙権者の支持を得る、というやり方は、星亨が開発したようです。 もっとも、どの程度、国会議員の先生方が影響を与えたのか、よくわかりませんが。 当時の政党領袖ですら、「地方的利益欲求は田舎代議士たちのご機嫌をとるために無視するわけにはいかなぬ厄介物としか考えられていなかった」ようで、伊藤博文も、バークのブリストル演説のようなことをしきりに言っていたようです。 星亨がこのような考えを持つようになったのは、秋山真之が戦術を勉強していた同じ時期に、アメリカの政党について研究していた成果なのでしょう。 秋山真之は星亨に対し、「公使は貴重な書物をいろいろお求めになりますが、とてもそんなにたくさんお読みになれますまい、ワシがかわって読んでさし上げているのです」、と言ったそうですが、秋山に政党のことは分からない。 立憲政友会設立に際しては、このあたりが、大きな問題になります。 そもそも、自民党が保守政党である、等というのは、かなり、おおざっぱな言い方で、大半の先生方は、バークも何も関係なしに、地方的利益を追求することを中心に活動されていました。 しかし、これが、自民党の力の源泉であったようで、星亨が開発したこのやり方ができなくなくなると、急速に、その力を失ってしまいます。 上記の星亨の言葉は、今では、通用しないのか、それとも、政党にとって、力の源泉は、やはり、地方にあるのか、よく分かりません。 橋本ブームなどを見ていると、やりようによっては、政党にとっての宝の山は、相変わらず、地方にあるような気がしないでもありません。
2012年02月17日
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第一次大隈内閣が崩壊した時期の年表を見ると、次のようになっていて、新聞を読んでいるだけで、日本はこの先どうなるのだろう、と不安になってくるような情勢です。 その点では、今の日本と同じようなものです。1898年3月6日 ドイツ、膠州湾租借 3月27日 ロシア、旅順・大連租借 4月20日 米西戦争始まる 7月1日 イギリス威海衛租借 7月6日 露清間に中東鉄道南満支線敷設契約 7月7日 アメリカ合衆国、ハワイを併合 ロシア、ドイツ、イギリスだけでなく、アメリカまでもが迫ってくる、という感じです。 川上操六は、早くから、ロシアを仮想敵国とし、諜報活動を行い、1896年9月から4カ月、台湾、広東、順化(安南)、サイゴン、プノンペン、バンコクを訪れていますが、日本の台湾支配が日英関係に及ぼす影響、フランスのインドシナ支配後の仏清関係、仏英関係の確認などが目的のようで、さらに、その後、ハバロフスクも訪問しています。 しかし、これは政府中枢にいる専門家の行動で、国会にいる先生方の行動は、別のものです。 第2次山県有朋内閣(1898年11月から1900年9月) 1898年11月7日第13議会召集 「山県有朋」(岡義武著)によると、このころ、山県有朋は、星亨と会見し、「ロシアの動向を縷縷説明して陸軍拡張の急務であることを述べ、かつ星に対して入閣して政府を援助するよう懇請し、どの省の大臣になるかは全く希望通りに取り計らうとまで述べた。これに対して、星は国際情勢の重大性を承認した後、しばらく沈思し、首相の意見は愛国の至誠に発すると考えるから、自分は幕下のものとともに増租案成立のために努力するであろう。ことは容易である。心配されるに及ばない。ただし自分としてはこの際入閣することは辞退する、と答えて辞去した。増租案の運命をかけたこの会見の成行について山県の憂慮は一方でなく、現にこの会談の際、隣の部屋には平田、大浦、小松原(英太郎)、安広伴一郎など彼の腹心を呼び寄せてあった。それだけに、星の以上のような返答は、憲政党操縦を画策して来た彼にもさすがに強い感銘を与え、星が辞去すると、山県は隣室の人々を招いて、泣きながら卓をたたいて喜んだ。山県は星の人柄を後年までも賞揚している。」 星亨は、第一次大隈内閣の失敗から、学習をしているようです。 というようなことで、昨年の「菅降ろし」が成功していれば、あるいは、小沢一郎と森喜朗とのあいだに、このような美しい光景を再現したかもしれませんが、昔も今も、現実は、それだけですむものではありません。 星亨は、3年後、それらのことが原因で、命を落としますが、どうやら、大部分は山県がネコババして造園費に回していたとか。 それは、ともかくとして、第2次山県内閣は、第13議会、14議会で、必要な予算、法案をほとんど成立させます。 一方、星亨は、第一次大隈内閣を叩き潰したときからの、「今の所は致し方ないから首班には伊藤でも引っ張り出さう。併し、永く老人連を戴くべきではないから、基礎が定まったら伊藤始め老人連を悉く退かして、われわれを以て思うさま遣り捲らう」という野望、つまり、本格的政党政治の実現を目指す活動に集中し、山県との約束をまもって一般の党員を抑え、政府との争いは、休止。 この野望が、戦前の大政党である立憲政友会、さらには、完成品である戦後の自由民主党につながります。 で、その自由民主党は、というと、星亨の時代から120年を経て、現在は、ぼろぼろで、再生の道筋は、見つけにくい。 ということで、体たらくが過ぎると言われている国会議員の先生方は、一種の革命的状況の中で、右往左往している、ということなのかもしれません。 星亨と山県有朋のように、思惑の違いがあれ、妥協が成立すれば良いのですが、ともに地獄へ進むというストーリーも考えらるので、その時は、怖い。
2012年02月15日
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この時期、今と同じように地震が多いです。1891年10月28日 岐阜・愛知県一帯に濃尾大地震、全壊消失14万2177戸、死者7273人、ちなみに、阪神淡路大震災は、死者6434人、行方不明3人、全壊10万4906棟、全焼7036棟 第一次松方正義内閣の時期ですが、濃尾大震災復旧予算・法案だけは、通したようです。1896年6月15日 三陸地震津波、死者2万7122人、流失・全半壊8891戸、船被害7032隻、ちなみに、昨年の東日本大震災は、使者1万5843人、行方不明3469人、漁船2万2000隻以上 日露戦争まで8年、第一次世界大戦が1914年、関東大震災が1923年ですから、預言者風にいえば、日本のギリシャ化は、なんとか乗り越えることができるが、その後、ヨーロッパで大ごとが起き、首都で大地震が起き、さらにその後数十年で、日本は滅びるであろう、ということで、この先大丈夫かいな、という感じがします。 政治の混迷はまだまだ続きます。 これから、しばらくの間、貴族院が、反政府ですが、相変わらず、ねじれ国会。第一次大隈内閣(隈板内閣ともいう、1898年6月から10月) 衆議院で多数を占める政党から内閣首班を出すという、日本の議会政治史上、画期的な内閣で、議会制度を始めてから、10年を経ずして実現。 山県有朋、伊藤博文、松方正義は、よく耐えてきました、といっても、憲法を停止すれば、さらに大混乱でしょうから。 メンツを重んじる中国人が、議会政治を行わないのが、よくわかります。 もし始めても、山県や伊藤のように、耐えることができるかどうか。8月 前内閣の置き土産の総選挙 これが本当の置き土産で、憲政党260当選ということで、定数が、たしか、300だと思いますから、2009年の民主党以上の圧倒的勝利。 数だけは多いですが、どういうわけか、やはり、鳩山・菅内閣とおなじようなものでした。 民主党は、第一次大隈内閣の失敗を勉強すべきでした。 まず、陸海軍首脳が反発。 民主党政権でも、野党のときの癖で、「暴力装置」と言ってしまい、批判されていた方がいましたが、当時の軍部は、山県や松方に近いので、当然、反発します。 今は、ちょっとした騒ぎになるだけですが、当時は、軍部を怒らせると組閣ができないことにもなりかねません。 前内閣の陸相・海相を留任する勅語を出して、なんとか解決。 次が、増税。 当時は、今とは異なり、軍拡には、みなさん、割と好意的だったので、自由党も憲政党も、軍備増強に対しては賛成していたのですが、問題は、財源。 政権の中枢にいないうちは、無駄の削減をすれば増税は必要ない、等と叫んでいても、現実に政権を取ると困難に突き当たるのは、今と同じで、結局は、増税しないとどうにもなりません。もう一つが、猟官運動。 当時は、官僚機構にまで及びます。 それでも、ポストは、限られているので、それが原因で、旧自由党・旧進歩党両派の間に亀裂が入ります。 「答弁は3つ覚えればいいんです」といった柳田法務大臣にあたるのがこの方です。 8月21日 尾崎文相、共和演説事件 10月24日 尾崎文相、共和演説事件で引責辞任、後任をめぐり憲政党の内紛激化 鳩山政権の当初から小沢一郎の処遇が問題になっていたようで、同じように、星亨に対する処遇問題があり、星亨が暴れだします。 「作戦の骨子は、まず予定されている11月1日の憲政党大会にさきだち、10月29日に憲政党臨時大会を神田青年館で開き、その場で憲政党を解散し、ただちに同じ名称の新党を、進歩派を排除して発足させる」というもの。 そして、「党本部の建物は元来自由党のもの(当時は星配下の日向輝武の所有名義)だったので、進歩党の持ち物を道路わきへ積み上げ、事務員を追い払って、三多摩壮士数十名を動員して警護を固めた。進歩党は当然怒って、その夜、若手代議士・同派壮士たちが多数憲政党本部へ押しかけたが、三多摩壮士たちが撃剣用の面・籠手(こて)で身を固め木刀をひっさげ警護しているので、悪口を放っただけで引き上げねばならなかった」とのこと。 10月29日 板垣内相ら旧自由党系閣僚ら辞表提出、憲政党分裂、旧自由党だけで新憲政党結成。 昨年の、東日本大震災・東電福島第一原子力発電所事故のさなかの菅降ろしを思わせる荒っぽいやり方です。 菅降ろしで、小沢一郎は森喜郎を通じて自民党との提携をめざしたようですが、星亨は、桂太郎を通じて、山県有朋と自由派だけとなった憲政党との提携を目指します。10月31日 大隈首相ら旧進歩党系閣僚も辞表提出。 ということで、菅直人ほどのしぶとさを示すことなく、第一次大隈内閣崩壊。 現行憲法では、衆議院解散・総選挙・特別会・首班指名が一連の流れになっているので、国会を経ない内閣というものは考えられないのですが、この内閣は、どうやら、国会の経験が無いようです。 小沢一郎にとって、「菅降ろし」は、おそらく、失敗作でしょうが、星亨の方は山県有朋と憲政党(自由派)との提携を成功させます。 小沢一郎が自民党との提携に成功したとしても、優遇されたとは思いませんが、星亨も同様。 しかし、この後、憲政党の主導権を完全に掌握して山県に圧力を加えることができる星亨と、相変わらず党員資格停止で、「菅降ろし」に失敗した小沢一郎では、大きな差があります。 ということで、このままでは、小沢一郎は、「星亨になれなかった男」、ということになるのかもしれません。
2012年02月05日
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第3次伊藤内閣(1898年1月から6月) 日本国憲法のもとでは、衆議院を解散して総選挙を行うまでの間に新しい内閣ができる、ということはないのですが、大日本帝国憲法下では、内閣は、あくまでも、天皇の信任に基づいているので、総選挙(3月)の少し前に新内閣成立。 伊藤博文は、挙国一致内閣を目指そうとしますが、失敗、政党との提携は無し。4月13日 閣議、自由党の板垣入閣拒否を決定 19日 自由党本部、現政府との提携断絶を各支部に通告。5月14日 第12議会(特別)召集 「第3次伊藤内閣は、挙国一致内閣の失敗作である超然内閣の姿で、 地租増税をひっさげて第12特別議会へ臨むほかなかった」とのこと6月10日 自由・進歩両党提携、地租増徴案を否決、衆議院解散6月22日 自由・進歩両党合同、憲政党結成6月24日 伊藤首相、元老会議で政府党組織を提議し激論、伊藤首相、辞表提出、後継首相に大隈・板垣を推す なにか、総選挙の結果に一縷の望みをかけて挙国一致内閣を目指そうとしたが、失敗し、政権の途中で、衆議院の多数に支えられた政権でなければ維持できない、政府も政党をもたなければならない、と考えを変えたような感じですが、そのあたりは、よくわかりません。 政党側も、伊藤博文の考えにそったように、政党の合同が起きたのは、どうしてなのか、ということも、よく知りません。 多分、だれが仕組んだ、ということではなく、双方、雰囲気的に、次の段階に備えた、ということなのでしょう。
2012年02月04日
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第2次松方正義内閣(1896年9月から1897年12月) 松隈内閣(しょうわいないかく)ともいわれ、この年3月に結成された進歩党の支持を頼りに成立、大隈重信は外務大臣に。12月第10議会招集(1897年3月まで) 前内閣の戦後経営方針を続行して乗り切る。 議会閉会後、任期切れによる総選挙が翌年(1898年)中に予定されている中で、松方首相は、増税を決意するとともに、進歩党との提携を強めようとします。 日一日と大きくなるロシアの軍靴の足音に怯え、地租増徴を決意した松方首相と、日本のギリシャ化を恐れ消費税増税を決意した野田首相が置かれている状況とは、よく似ています。 このあたり、政治家は、どのように情報を集めて、どのように分析し、どのような行動をとるのか、ということが、現在の政治でも、よく分かりません。 当時の、中国とロシアとの関係や、満州で何が起きているのか(シベリア鉄道、旅順港)、などという情報や、それが何を意味するのか、ということについて、一般の国会議員に共有されていた、などとは、思えませんし、また、現在の日本のギリシャ化が、どの程度可能性のあることなのか、などということが、国会議員の先生方に、判断できるとも思えません。 ということなのだと思いますが、話の展開は、かなり異なっているものの、それに対する政治家の反応も、まあ、同じようなもの。 このような場合、松方内閣と進歩党との間には隙間風が入るし、進歩党内部にも亀裂が入りかねない、松方内閣は、自由党との提携を探ろうとする、伊東巳代治はそれを妨害しようとする、自由党内にも対立が生じる、というようなことがおきます。 この本は、当然、星亨を中心に書かれているのですが、今でいえば、性格の似たところのある、小沢一郎と比べながら読むとおもしろい。 ここでは、星亨のもくろみは失敗。 小沢一郎は知りませんが、星亨は、もともと、増税は必要だと思っていたようで、松方内閣との提携を目指すが、結末は次の通り。1897年10月22日 進歩党、内閣改造・経費節減などを松方内閣に要求決議 29日 松方首相拒絶 31日 進歩党代議士総会、松方内閣との提携断絶を決議 11月6日 大隈外相兼農商務相辞職 12月15日 自由党大会で、松方内閣不信任提案の可否が採決され可決 21日 第11議会招集 24日 衆議院、内閣不信任決議案上程、決議を行わないうちに衆議院解散 28日 内閣総辞職 野田首相が、最も恐れているであろう、最悪の結末です。 ここで、24日の不信任案が可決される前に衆議院を解散したのは、最初の不信任案可決内閣になるのを避けたかったためのようです。 現在、不信任決議案上程中に、衆議院解散、などという器用なことができるのかどうかは、よく知りませんが、憲法上は可能なような気もしますが、賛成・反対の演説の後、直ちに決議をとるようなので、タイミングが難しいと思います。 もっとも、それ以前に、辞職するでしょうが。
2012年02月04日
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私たちの世代のように、自民党の全盛期の時代に生きてきた期間が長いと、ねじれ国会で、なかなか法案が成立しないというような状況では、これから先どうなることやら、などと心配しながら国会中継を見ているのですが、そういう時代も、さほど、珍しいことではないようです。 ということで、「星亨」(有泉貞夫著、朝日新聞社)という本を読んでいるのですが、国会でやっていたことは、今とあまり変わらないようなことなので、テレビを見るときの参考になります。 「坂の上の雲は」どちらかというと官僚の世界ですが、こちらは、大体同じ時代の国会の話で、こんなことをやりながら、あの時代を、よく乗り越えてきたものだと不思議な感じがします。 今の北朝鮮とはタイプが違いますが、適応性に問題のある朝鮮にちょっかいを出しているうちに、清国と戦争をしなくてはいけないような雰囲気になって、軍拡をしなけれならない、というような状況ですが、それよりも恐ろしいのは、ヨーロッパ勢。 シベリア鉄道(着工1892年)が完成すれば、極東で何が起きるか分からない、その前に、朝鮮問題に決着をつけたい、というような、かなり緊迫した時代の国会です。 第一次山県有朋内閣(1889年12月から1891年4月) 大日本帝国憲法下で、1890年7月に第一回総選挙、11月通常議会召集。 衆議院には、政府寄りの議員も当選しているのですが、自由民権運動が浸透しているので、第一回総選挙もその後も、自由党や改進党などの勢力が多数です。 今と同じように、主な争点は税金です。 予算が、なかなか成立しません。 日本国憲法下の内閣は、衆議院の信任に基礎を置いているので、関連する法律はともかく、衆議院の過半数を制している限りは、強力な衆議院の優越が認められている予算自体が成立しないということは、考えにくいのですが、明治憲法下の内閣は、天皇の信任に基礎を置いているので、衆議院が承認しないため予算が成立しないということが起きます。 そのかわり、第71条に前年度予算を執行する、という規定があります。 貴族院は、勅選ですから、この時期は、大体政府よりです。 「土佐派の裏切り」というような不名誉な言われ方をされていますが、自由党の一部が政府と妥協して、予算は成立しましたが、山県有朋は、やる気をなくして、「あなたとは違うんです」とは言いませんでしたが、首相をやめてしまいました。 後継内閣は、伊藤博文が引き受けないので、伊藤や山県に比べると格落ちの薩摩閥の松方正義が首相。 この後、10年間ほどは、4か月間ほどの第一次大隈内閣を除いて、伊藤、山県、松方の3人で、政権をたらい回しにします。 第一次松方正義内閣(1891年5月から1892年7月) 11月に第2議会を召集したが、どうにもならなく、12月に衆議院を解散、翌年2月第2回総選挙。 猛烈な選挙干渉をしますが、結果は、政府寄りの勢力は少数派で、状況はよくなりません。 1892年5月2日 第3議会(特別)召集。 5月14日選挙干渉の責任を追及する衆議院の問責決議案可決。 ここで、明治憲法下での衆議院の問責決議は、現在の参議院の問責決議と同じようなもので、憲法上規定がないので、条件が許せば突っぱねることもできます。 予算は、天皇の勅裁まで出して、やっと成立したようですが、第一次松方内閣は辞表を出して、野垂れ死。 ということで、問責決議は、今も昔も効果はあるようです。 第二次伊藤博文内閣(1892年8月から1896年8月)は、「明治政府末路の一線」と位置付けた内閣で、明治の元勲総出の内閣。 後が無い野田内閣もおそらくは、できうる限りのメンバーをそろえているのだと思いますが、ここでは、内相井上馨、法相山県有朋、陸相大山巌、逓相黒田清隆、農商務相後藤象二郎というそうそうたるメンバーをそろえ、さらに、一匹狼的な陸奥宗光を外相に、という感じで、比べてみると、野田内閣は、しょぼすぎる。 ここで、よくは知らないのですが、伊藤博文の議会に対する影響力行使には、陸奥宗光経由で板垣、星亨(自由党関東派)等と伊東巳代治―林有造(自由党土佐派)、それに、後藤象二郎ー大江卓の線などがあるようです。 1892年11月第4議会召集。 議会対策が効いたようで、政府と自由党とのあいだに妥協がうまれ、非公式ながらも政府と自由党との提携が成立し、翌2月、予算は成立します。 1893年11月、第5議会召集。 自由党の政府との連携は、あちこちから恨まれたようで、星亨は衆議院議長を辞めさせられうえに、除名されます。 この年、本腰を入れて、条約改正問題に取り組んでいた陸奥宗光も、条約励行建議で苦境に陥り、議会に対して強硬姿勢を貫くことを求め、12月に解散。 ここで、不平等条約の改正だから日本人なら反対する人はいない、と思ってはいけないようで、外国人が日本で、土地や家を買ったり、自由に商売をしたりするようになるのですから、条約励行ということも支持者はいたようです。 2~3年前に、中国人が日本の山林を買っている、というので、テレビで大騒ぎしているのを見ましたが、あまり変わっていない、という感じ。 1894年3月、総選挙。 条約励行派は減少しましたが、全体として、政府寄りの議員が減少したようで、自由等と政府寄りの会派を併せても、過半数に達せず、伊藤内閣の苦境は続く。 「内国の形成は日一日と切迫し、政府において何か人目を驚かすほどの事業をなすにあらざれば、この騒々しき人心を鎮静すべからず。さりとて故なき戦争を起こす訳にも不参事故、唯一の目当ては条約の改正の一事なり。」(陸奥宗光から、ロンドンで、条約改正交渉にあたっている青木周蔵あて書簡(3月27日付)) といいながらも、この後、陸奥宗光は、強引に、清国との戦争に導いていきます。 1894年5月第6議会(特別) 5月31日衆議院、内閣弾劾上奏案可決 7月25日に、豊島沖海戦で日清戦争がはじまり、戦争は連戦連勝で、翌95年4月、日清講和条約調印。 戦争中に、1894年10月第7議会(臨時)、12月から翌年3月まで第8議会(通常)。 当時の衆議院議員の多くは、多分、李鴻章が太っ腹なところを見せた講和条約調印のあたりまではうまくいっていると思っていたのでしょうが、講和条約調印の6日後の4月23日に、三国干渉、怒り狂ったと思います。 しかし、政府は、そうではないと思います。 朝鮮政府は、そっぽを向いてしまう、さらに、10月に、閔妃を殺害し、翌年1896年2月には、国王がロシア公使館に入り親露政権樹立、という具合に、朝鮮は、最悪の流れになります。 また、清国とロシアを接近させることになり、ロシアは、日本に支払わなければならない賠償金で苦しんでいる清国の窮状につけ込んで、シベリア鉄道の満洲通過と、旅順に不凍港を獲得すべく動き出す(1895年10月福島安正からこのような情報が送られています)。 衆議院議員の多くは、この情報に接することはなかったと思いますが、伊藤博文や山県有朋は、ロシアの軍靴の足音が急に近づいたと感じ、震え上がったと思います。 臥薪嘗胆のムードの中で、軍備拡張や産業・交通・通信手段、教育機関拡充のため減税は到底無理、それまで、減税を叫んでいた自由党への政治献金も減って懐具合も悪くなり11月に、自由党が政府と提携宣言(多分、これだと思います)。1895年12月25日第9議会召集(1896年3月29日閉会)1896年3月、立憲改進党・立憲革新党などが合同し、進歩党結成、自由党と拮抗する議席数になる。 5月、伊藤博文が、挙国一致体制をつくろうとして、大隈進歩党総理に入閣交渉を始める。 自由党からの強い反発を招き、伊藤博文は、政権担当の意欲をなくして、8月に辞職。 これも、福田内閣の大連立構想と辞職、民主党の反応を思い出させます。 ただし、後の方は、多分、小沢一郎あたりに振り回されて、単に、嫌になったと、いう程度だと思いますが、前の方は、かなり深刻。 この間、6月に、山県・ロバノフ協定調印。 山県有朋が、ロシア皇太子戴冠式に参列した皇族について行ったついでに、ロシアのロバノフ外相と「日露両国は協力して朝鮮の独立維持を保持する」、という合意をしたものですが、ロシア側に、日本の腹が読めた、と判断されたようです。、 「戦略日露戦争」という本に、「見当違いの山県外交」というタイトルで、詳しく書かれています。
2012年02月03日
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昨日は、初めて、JR大阪ステーションシティーに行って、一日中、うろうろしてきました。 けっこう楽しめました。 難波や天王寺も新しくなっていますが、完全に差ができてしまった、というような感じで、比較すると、なんだか、しょぼい。 京都駅や三宮駅あたりも、圧倒しそうな、感じ。 規模の大きさに、3年前に行ったドイツのベルリン中央駅の感じを思い出しました。 ただし、ベルリン中央駅近くには、デパートは無かったですから、迷うことは無かったですが、大阪駅はそうはいきません。 大丸の6階から、時空の広場を通って、三越伊勢丹に行くと、そこは、なぜか5階。 三越伊勢丹から、大丸に戻るには、5階又は7階からでなければいけません。 地方から出てきて、電車の待ち時間にデパートで買い物をすると、多分混乱するでしょう。 そのためかどうか、あちこちに、案内の方がいらっしゃいます。 外国人は、意外に少ない。 今日は、春節ですから、今日から多いかもしれませんが。
2012年01月23日
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この続きです。 2日に、宇治の平等院に、初詣に行ったときに、甘いものが食べたくなって、お茶屋に行ったのですが、大混雑で入れず、そこで、抹茶を買ってきました。 30グラムで、たしか、2000円ほどだったと思います。 で、抹茶カプチーノを作ってみました。 宇治のお茶屋さんにも、カプチーノ用の抹茶はあったのですが、砂糖が入っている、というので、買いませんでした。 抹茶をお湯で溶いて、スチームで泡立てたミルクを注ぐ、というだけのことですが、コーヒーカップの中で抹茶を混ぜても、茶筅があまり効かないのか、だまが残る。 抹茶用の茶わんの中で混ぜると、割ときれいに混ざりました。 以前使った、おけいこ用で、100グラム500円か600円の抹茶に比べると、格段に、おいしい。 抹茶も値段によって、かなり味が違うようです。 一杯あたりの値段は、エスプレッソポッドでつくる、普通のカプチーノよりも高くつきそうです。 ちなみに、抹茶は、伊藤久右衛門のあじろ木。
2012年01月07日
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学生の時からの付き合いで、大阪市の職員をしている友人から、早朝4時過ぎに、携帯電話にメールが入っていました。「橋下が市長になると思うと、寝付けない。せっかく寝付いても、うなされる。」、というもの。 「心配無用。給料や手当が1割か2割ほど減るくらいのものです。」、という、一応、慰めになるかならないかの返信メールを出しておきましたが、笑ってしまいました。 過度に政治に介入したのであれば、政治の世界のことですから、法律の範囲内という限度はあるが、報復を受けるのも、仕方のないことなんでしょうが、別に、反橋下の選挙運動をやっていたようでもないので、まあ、そんな程度のものだろうと思います。 ということで、夜も眠れないなどというのは、普通の感覚では、いくらなんでも、怯えすぎ。 労働組合役員およびそれに関連する地方議員との間には、特別な利害関係があると思いますが、特に、そういうことに関わっているようにもありません。 選挙結果が出た11月28日の毎日新聞朝刊に、「中之島一家の憂鬱」というのが出ており、大阪市職員の他、市議会の民主系、自民、公明の3会派、そして労働組合や地域振興会(町内会)を合わせたものを「中之島一家」というようで、一応は、自主投票の形となった公明以外は、こぞって、反橋下で選挙運動を行なったようです。 そのうち、地域振興会(町内会)の幹部が、維新圧勝の選挙結果に対して、「各区の振興会トップは、社会福祉協議会とか他の地域団体の幹部を兼務している。うちを敵に回すことなんてできんわ」、とかなり強気の反応を示していました。 しかし、町内会は、「市内全体の7割弱にあたる約86万5000世帯が加入」しているらしいので、その構成員は、今回の選挙結果から見ると、反橋下どころか、橋下支持が多数である可能性が高い。 で、その辺のところを考えてみました。 私のようにマンションの住民で、町内会とか自治会とは全く接触がなく、どこの誰が役員をして事務所がどこにあるのかも分からないし、町内会の活動など一切していない人間でも、自治会費だけはしっかり取られています。 おそらく、マンション建設の際に、ディベロッパーと自治会との間に約束ができるのだろうと思いますが、共益費のなかに自治会費というのがあって、月額500円ほど取られています。 賃貸マンションでも同様に、共益費として、会費を取られているのではないか、このような世帯が加入すれば、7割弱くらいになるのではないか、という気がします。 町内会の役員をされている方は、地元の方で、自営業をされている方が多く、本来、古くからのその地域独特の慣習によって活動するので、私のようなマンション住まいのよそ者が町内会に出席しても、考え方がかなり違っており、浮いてしまうでしょうし、町内会の役員の方も、おそらく、望まないでしょう。 町内会の活動と言えば、地域の祭りや火の用心、最近では、小学生の登下校時刻に通学路に立っている人、という程度のイメージしかなくて、あまり、利権などとは関係がないようですが、実は、そうでもありません。 大阪市が特別なのかもしれませんが、交付金や補助金が出ており、その使途が不明朗なようで、具体的には、会館の建設など、税金が使われているのに、相変わらず建設業者の談合が行われているようです。 で、まあ、こういうところでは、労働組合などと同じように、町内会と建設業者、それに地方議会議員との間で特別な利害構造があるのでしょう。 例えば、役所が廃棄物処理場のような不人気なものを作るのに、地元の了解が欲しいような場合、町内会役員との話し合いで、会館などを建設をすることなどの条件で認められることがあるようなのですが、役所としては、地域住民に反対運動されたり、町内会役員の息のかかった議員に議会で追求されたりするよりは楽でしょうし、町内会役員としても地元の建設業者が潤ったり地元の土地が取引されたりするので嬉しいでしょうし、お金も動く。 もっとも、これらは、建設業界や入札制度の問題なのですが、町内会として政治に介入しすぎるので全体として不透明な印象が拭えない。 同じように、自民党国会議員と建設業者、土地改良区との間にも、特別の関係があったようですが、前回の総選挙後で政権が交代した後に、当時、全国土地改良事業団体連合会の会長をしており、小沢一郎が大嫌いな野中広務ですら、当時の民主党幹事長小沢一郎に頭を下げに行きました。 ここで、土地改良区とは、農地の改良などを行う組合のこと。 「区」というのは、構成員が農地を所有しているなどの農地と関係をもっていることから、「組合」と言わないで「区」と言っているだけのことで、農業をやっている地域なら、別に珍しいものではありません。 工事の額も補助金の額も土地改良区の方が桁違いに多いと思いますが、それも含めて、全体として不明朗。 それに比べて、大阪市の地域振興会幹部の余りにも強気の発言に驚いていたのですが、その後の報道では、どうやら、新市長の「大阪市地域団体への運営費補助廃止、事業費補助に改める」との方針に、一気に弱気になったような感じです。 市の職員の場合も含めて、支持している候補者が負けた時のことを考えないで、選挙に介入しすぎるような気がします。 原因はよく分からないのですが、とりあえず考えているのは、市職員に関しては、組合幹部・関係する地方議会議員などによって、一般の市職員が、異常に大きな恐怖心を植え付けられていること、町内会に関しては、一般の構成員が町内会の役員の行動に対して無関心であることに加えて役員をやっている人間の資質、役所と地方議会の議員との特殊な関係に問題がある、というふうに考えています。 で、橋下と小沢の違いは、橋下は、労働組合・町内会をまとめて敵に回して勝ったのに対して、小沢は、民主党と労働組合の特別な関係を解消できなかったこと。 ちなみに、さきほど出てきた野中広務は、私の記憶では、「中之島一家」を支持していました。
2011年12月05日
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坂本龍馬のすごいところは、土佐藩の下級武士出身の脱藩浪人の身で、日本の新しい政治体制を作り上げようとしたこと。 西洋諸国の干渉を受けないために、内乱にならないように、という条件で。 そのためには、幕府に政権を返上させるようにしなければならないのですが、単に説得するというだけでは、誰がやっても、まず、無理。 ましてや、下級武士出身の浪人では。 戦略が必要ですが、その戦略は、というと、一方で、幕府に対抗できるだけの軍事力をもつ勢力を作り上げ、そののちに、幕府に対して政権返上を迫る、という、かなりシンプルなもの。 平和的に交渉で、というだけのものではなく、一歩間違えると、大変なことにもなりかねないが、結果は、条件がそろったためか、途中までは、かなり、見事に決まった。 そのあたりのことが、陸奥宗光著「後藤伯」に要領よく書かれている。 その下準備のための坂本龍馬の活動は、同時代の周辺の人にとっては、単に、何か訳の分からないことをチョロチョロやっている、というようなものだったと思いますが、本人は、おおまじめで、けっこう、楽しかったと思います。 で、最近の政治家で、楽しそうに政治をやっている人をほとんど見たことがありません。 まあ、どうやって借金を返そうか、どうやってあげあしを取ってやろうか、というようなことばかりを考えているのでは、当たり前ですが。 ところが、大阪市の新市長は、何か訳の分からないことをチョロチョロやっている。 大真面目に、けっこう、楽しそうに。
2011年12月02日
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「 ベトナム戦争介入という悲劇を、これほど見事に描いた書物はないが、アメリカの「タカ派」の名誉のために、この書物について私が個人的に知っていることも含めて書いておく。ハルバースタムはニューヨーク・タイムズとハーパーに記事を書いていた記者であったが、この書物を仕上げる過程で、はじめアンドレイ・スチーブンソン研究所で研究し、その研究員の任期が切れた後、フレッチャー・スクールのグリオン部長のスタッフとして研究をつづけた。このことを、著者の註で見たときほど私は驚いたことはない。 グリオンは、ベトナムではアメリカは正しかったという信念の持ち主であり、私も出席した日米会議で、そのことを20分にわたってぶちまくり、すっかり座を白けさせたこともあるぐらいだからである。その人物が、自分とは正反対の見解の書物を仕上げるのに力を貸したことは、グリオン部長のフェア・プレーの精神を雄弁に物語っている。「理想主義者」でそのような行為をした例を私は余り知らない。彼らは偏狭である。 もうひとつ、14章に若い国務省の官僚としてベトナム戦争に反対し、若くして国務省を去らなくてはならなかったポール・カッテンバーグという人物が出てくる。6年ほど前、私はカッテンバーグ氏に思いがけないところで会った。北カロライナ大学にリチャード・ウォーカー学部長(現在中国大使)の招きで集中講義に行ったとき、カッテンバーグ氏はウォーカー学部長の招きで、その教授となっていた。その時も私は同様に驚き、うれしく思った。というのは、ウォーカー学部長も、グリオン氏と同様、ベトナムでアメリカは正しかったという説の頑固な持ち主だからである。ウォーカー学部長もフェアな精神の持ち主であった。 アメリカの「タカ派」は、少々頭は単純でも、このグリオン氏やウォーカー氏のような精神のフェアな人物が少なくない。そこにアメリカの救いがある。」「文明が衰亡するとき」(高坂正堯著、新潮選書)から。 ここにいう「書物」は、ハルバースタム著の「ベスト・アンド・ブライテスト」。 大阪市長選挙関係の記事で、「中学校前で演説後にトイレを借りようとした橋下氏が“門前払い”」という記事を見て、昔読んだ本を思い出しました。 まあ、橋下徹が、きれい事をいう教師が、しばしば、偏狭であるということに、幼いうちから気づいていたと思うので、本人は、今更、驚きはしなかったでしょうが。 橋下徹の激しい教師批判の背景には、そのような認識があると思う。 で、これは、少々、程度が低すぎて、どうでもいいことなのですが、問題は、東京電力福島第一原子力発電所の事故などなどに関連して。 日本の「タカ派」に、当時のアメリカの「タカ派」のような、フェアな精神があるのかどうか、ということ。 テレビで見かける評論家などには、どうも、フェアな精神の持ち主であるとは思えない方が多いような気がする。
2011年11月27日
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統帥とは、本来は、作戦用兵の目的を達するために陸海軍を統括して活動させる国家作用を言う。 この作用は性質上、専門的知識をもって機密裏に迅速に行われることが必要であるので、国務大臣の輔弼(大臣助言制)の外に置かれ、天皇が単独で行うべきものとされた。 しかし実際には、政府から全く独立の地位にあった軍令機関(陸軍参謀総長・海軍軍令部総長)が輔弼の任を務めた。 軍国主義が支配的になるにともない、陸海軍大臣が武官であったため、憲法12条の定める軍の編成・装備などに関する事項(これも国務大臣の補筆に属するもの)も、統帥事項だとされ、軍部の独裁を導く引き金となった。「憲法」芦部信喜著、岩波書店から 関係の条文は、多分、次のようなもの。 第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ 第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス 第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム 第55条 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス 2 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス 統帥と陸海軍の編制及常備兵額の決定が、11条、12条と並んであるので、統帥とは、性格が異なりますが、陸海軍の編制及び常備兵額の決定も、統帥と同じように、軍令機関が輔弼する、と考えることも、できなくはないように規定されています。 大日本帝国憲法は文章が非常に完結で、この憲法に慣れた方が日本国憲法を読めば、日本国憲法は、文章がまったくなっていない、外国人から押し付けられた憲法だ、と感じるのも、理解できます。 で、なんとなくですが、雰囲気が似ているのが、プロ野球の球団。 軍令機関がプロ野球の監督で、国務大臣が球団会社(代表というのか、そのあたりが、普通の会社の言い方と異なるのでよく分からないのですが)。 さらに、天皇のようなのがいることがあります。 軍令機関が国務大臣に不満を抱くのはよくあることのようで、戦後の話で、軍令機関と言うのかどうかわからないのですが、5年ほど前にも航空幕僚長を辞めさせられた方がいて、大騒ぎになっていました。 陸海軍の活動は、安全保障に直結するので、軍令機関としては責任があるが、国務大臣は、そのことばかりを考えるというわけにもいかない。 同じような感じで、プロ野球の監督も、球団に不満を持つことがあるようです。 トレードが気に食わないとかいうのは、外交が間違っている、というのと同じような類のものでしょう。 強くても魅力のない球団もあるのと同じように、かつての日本のように、強い軍隊を養っていても、周りが敵ばかりになれば、よってたかって、負かされてしまうし、隣の将軍様の国のように、貧乏になれば、強い軍隊を維持することもできない。 どちらの三者も、それぞれ役割と責任がある。 戦前の軍令機関や野球の監督は人気があるので、強気のことを言うことが多い。 戦前の軍令機関と、「ユニホームを着ている人間を軽く見ている」、と今回の事件で怒っている東北の球団の某監督とが、イメージとして重なる。 戦後の元航空幕僚長も、辞めてからですが、けっこう、人気がある。 ここで、大日本帝国憲法を引用したように、「株式会社読売巨人軍定款」を引用すればわかりやすいのですが、どうも、ネット上では見つからない。 球団の天皇のようなものが、口を出して、一方的に、軍令機関の方が正しい、というようなことを言うと、それは、体制がおかしなことになるでしょう。 国務大臣が天皇に報告して、それでよい、となったものを、あろうことか、球団の天皇のようなものと監督との「非公式というかね、チームを高めるためにたくさんいろんな会話はしているわけですから、それの1つです。」として出た案を、球団の天皇のようなものが勝手に進めた、ということが発端となった、というのが、今回の大騒動のようです。 本物の天皇は、もちろんですが、そのようなことはされなかった。 報道されている終身名誉監督の発言は、戦前の、東郷平八郎を思わせる。 ちなみに、ウィキペディアによると、「末次信正、加藤寛治らのいわゆる艦隊派の提督が東郷を利用し軍政に干渉した。1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議に際して反対の立場を取ったロンドン軍縮問題はその典型であるが」、とある。
2011年11月20日
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時の総理大臣は若槻礼次郎で、民政党内閣。 前前年に、ニューヨークの株式市場大暴落、次から次へと起きるクーデター未遂や暗殺事件、9月に起きた柳条湖事件では、軍部はいうことを聞かない、ということで、今で言う、大連立構想というようなものが生まれたようです。 で、その辺のことを、「幣原喜重郎とその時代」(岡崎久彦著、PHP)で見てみると、「 そのころは、もういくら閣議で不拡大を決め陸相を通じて軍に注意しても、現地の軍はどんどん独走して統制がきかない状況となっていた。 そしてそれを抑えるには民政党内閣では無理で、各政党連合して挙国一致内閣を作れば国民の総意ということで軍を抑えられるかもしれない、という考えが台頭してきた。 若槻も一時その考えに共鳴して、安達謙蔵内相に話、安達はそのために活動を始めた。 他方、若槻が幣原や井上準之助増床に話すと『とんでもない』という。連合政権では従来の民政党の外交、財政政策を貫けるはずがないというのである。 たしかに、ただ政権党の数を増やしても指導力の強化につながるものではないのであろう。むしろ政策を水で薄める効果しかなく、従来幣原外交に批判的な勢力の思う壺となるだけであろう。現に安達は、閣内で幣原外交に最も批判的な一人であった。 そこで若槻は安達の方を抑えようとしたが、もう手遅れで安達の方は頑として意見を変えない。辞表を求めても、一人だけの辞表は出さないという。ここで閣内不一致で若槻内閣は瓦解した。 」 とうことで、若槻礼次郎は、連立構想を捨て、幣原外交に賭けたようです。 「明治・大正・昭和政界秘史 古風庵回顧録」(若槻礼次郎著、講談社学術文庫)という本にも、同じようなことが書かれているが、もっと、生臭い。「 安達の執着した連立内閣というのは、どんなものか、私は全然それを知らない。富田が私のところへ持ってきた書きつけに、その筋書きが書いてあったか知らんが、私は手にも触れなかった。安達はどんな夢を見ていたのか。あるいは安達総理大臣の下に、民政党からも政友会からも人を入れて、安達内閣を夢見ていたのか。それとも犬養総理大臣で、足立は副総理となって実権を握ろうというのか。そんなことであったろうと思う。安達という男は、平素そういう策士的の考えを、抱いていたと思う。 」 ここで、富田とは富田幸次郎のことで、当時の民政党幹事長。、少し前に、若槻を訪れ、「連立内閣のことについては、こうこう決めて来たからといって、なにか巻紙に書いたものを、私に示した。」とのこと。 まあ、こういうのを見せつけられると、政党政治が国民から愛想をつかされるのも、不思議はありません。 というようなことで、幣原外交を失い、挙国一致内閣もできず、その14年後、日本は滅ぶ。
2011年09月01日
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最近、美味しいと思ったもの二つです。 まず、白とうもろこし。 配偶者の田舎で食べてみて、美味しいと思ったので、配偶者の父親が地元の生産者から買ったものを、送ってもらったのですが、割と高価なもののようで、ひと箱に、7本しか入っていませんでした。 非常に甘くて、つぶの周りの皮が、黄色のものに比べて、格段に柔らかい。 一気に、黄色いものを駆逐してしまっても不思議ではないほど、おいしい。 もう一つは、借りている市民農園で、私が作ったニューメロン。 「ニューメロン」といっても、本格的なメロンとは、異質なものです。 ホームセンターで買った種から育てたもので、最初は、蔓の整理をしていましたが、そのうち、込み合ってきてわけが分からなくなるし、足の踏み場もなくなったので、このひと月ほどは、水もやっていません。 4株で、30個ほどできましたが、そのうち、10個ほどは、下の方から腐ってしまったので、20個ほどの収穫ですが、これも、下の方は少し腐りかけです。 ビニールマルチをして、実の下に、枯れ草を少しくらい敷いておいたのでは、腐るのを防ぐことはできないようです。 で、その味ですが、かなり甘味が強い。 甘いが、多少青臭いので、段々、冷蔵庫の中に溜まっていきます。 なんとかしなければ、と思い、昨日、近くのスーパーで生ハムを買ってきて合わせてみると、これが、びっくりするほど、おいしい。 青臭さが無くなり、生ハムの塩分で、甘さがことさらに、際立つ。 昨日から、一気に4個、消費されました。
2011年08月08日
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この写真は、第2日目に行ったサースフェーで撮ったもの。 ツェルマットから、電車で50分ほどシュタルデンまで下って、シュタルデンからバスで、サース谷を上がって行きます。 ツェルマットから、サースフェーに行く人も、結構います。 上りのバスは、身動きができないほど、混雑していました。 帰りの便は、サースフェーで、バスを降りたときに予約。 帰りのバスは、予約状況を見て、増便しているようで、同時にバス3台が出て余裕があったので、予約の変更もOKでした。 何かの本で、昔は、ツェルマットからイタリアに抜けることができた、というようなことを読んだ記憶があるが、今では、それはできません、 ここサースフェーは、ツェルマット以上に、どん詰りの印象を与えます。 「地球の歩き方」によると、村は、周囲をぐるりと氷河に囲まれて、今にも押しつぶされそうで、13の4000メートル峰に囲まれている、とのこと。 この写真は、そういう感じが出ているものを選んだつもりですが、どうも、あまりうまくはない。 地図を見ると、このあたりで、スイスからイタリアに抜けることができるのは、西の方にあるマルティニからグラン・サンベルナール峠へ行くか、東の方のブリークからシンプロン峠に行くかしかないようで、ツェルマットにせよ、サースフェーにせよ、その間にあるので行き止まり。 サースフェーは、観光地としては、ツェルマットと比べると、かなり見劣りしますが、それでも、けっこう、楽しめます。 というか、ツェルマットが、異常に、繁栄している、というべきなのでしょう。
2011年07月16日
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昨年、カナダに行ったときは、天候がひどかった。 バンフから、ジャスパーに行く途中で、雪になって、次の日も、冷たい雨。 車で出かける気にもなれず、一日中、ホテルで寝てました。 今年は、割りと天候に恵まれました。 それでも、マッターホルンが、雲に隠れていなかったのは、4連泊して、この日だけのようでした。 ツアーで来ると、ガスがかかっていてもゴルナーグラートまで登山列車で登るらしく、その時は、セントバーナード犬と一緒に写真を撮るようで、天候次第で、値打ちが違いすぎる。
2011年07月15日
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ここからの写真は、どうも、うまく撮れない。 なにか、ひと工夫、必要なのかもしれません。 左がモンテ・ローザ(4634メートル)、右がリスカム(4527メートル)。 「るるぶスイス」によると、スイスの山は高い順に、1位 モンテローザ(4634メートル)2位 ドム(4545メートル)3位 リスカム(4527メートル)4位 ヴァイスホルン(4505メートル)5位 タッシュホルン(4491メートル)6位 マッターホルン(4478メートル) ドムは、ツエルマットからは見えないが、東隣のサースフェーからよく見えます。 ということで、ツェルマット周辺には、ヨーロッパアルプスでも特別高い山が集まっています。 ちなみに、ユングフラウ(4158メートル)は、22位。 このあたりは、日本で言えば、北アルプスのようなもの。 日本でも、一番高い山がちょっと離れたところにある富士山ですが、ヨーロッパアルプスでも、一番高いのは、フランスにある、モンブランで、次が、モンテローザとのこと。 ガイドブックにのっている地図によると、モンテローザとリスカムの間にある氷河がグレンツ氷河で、リスカムの右がツヴェリングス氷河で、合流して、ゴルナー氷河ということのようです。 写真が上手く撮れないのは、写真を撮っているところと、モンテローザやリスカム、それに、氷河の間に、巨大な空間があるのですが、それが、なかなか、うまく出せないからのような気がします。 実物は、写真では想像できないほど素晴らしい。
2011年07月15日
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ジュネーブ空港に到着し、手荷物を受け取るところからの出口付近に、ユニレゾ・チケットhttp://www.myswiss.jp/jp.cfm/transport/international/airport/の発券機が設置されています。 「ユニレゾ」は、80分間、ジュネーブ州の公共交通機関を、無料で利用できるものですから、空港からジュネーブ市内行きの電車の切符を買ったり、ユニレゾの有効範囲の利用であれば、スイスパスを有効化する必要はありません。 他に、ジュネーブのホテルに宿泊すれば、「ジュネーブ・トランスポート・カード」という、宿泊日の前後二日間、公共交通機関を利用できるカードを、これは、要求しなくても、無料で発行してくれます。 というように、やたらと、タダの切符を発行しているのですから、ジュネーブ近くでは、電車の検札も甘いのかな、と思っていたら、そんなことはありません。 空港駅からジュネーブ駅まで7分間、到着した日は、車内検札に来ませんでしたが、帰るとき、ジュネーブ駅から空港駅までの間では、きっちり、車内検札に来ました。 そのときは、宿泊したホテルで貰った「ジュネーブ・トランスポート・カード」を出すと、裏側に記載されたの有効日を確認していました。 写真は、自然のエーデルワイス。 畑に植えていることもありますが、自然のは、なかなか見つけにくい。 シベリア原産で、シベリアでは、単なる 雑草とのこと。 これは、ブラウヘルトからシュテリゼーに行く、上側にある細い道で見つけたもの。
2011年07月13日
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スイスに行ってきました。ツェルマットに宿泊して、日帰りであちこちに行く、というもの。5月中に航空券は確保していたのですが、どうやら、目的地を間違えたらしい。ジュネーブ空港への往復券を予約したのですが、以前と異なり、今では、ジュネーブからツェルマットへ行くより、チューリヒから行くほうが、時間がかからないようです。このサイトhttp://www1.myswiss.jp/d/news/news.php?id=713によると、2007年に開通したレッチベルク・ベーストンネルによって、それまで、4時間24分かかっていたチューリヒ・ツェルマット間が3時間12分に大幅短縮されています。ジュネーブからだと、今でも、4時間ほどかかりますから、知っていれば、チューリヒまでの航空券をとったのですが、変更するのも面倒くさいので、そのまま、ジュネーブから行くことにしました。ツェルマットは、相変わらず、観光客が多い。 新しいホテルの建設も盛んなようで、あちこちに、クレーンが立っているし、ガソリン車の乗り入れが禁止されているので、小さな電気自動車で、土砂や建設資材を運搬しているのをよく見ます。第1日目は、朝7時30分頃ジュネーブ駅を出て、予定通り11時30分頃、ツェルマットに到着。天気が良かったので、登山電車でゴルナーグラートまで行って、ゴルナーグラートから、リッフェルアルプまでハイキング。結局、マッターホルンが雲に隠れていなかったのは、この日だけだったようでした。ゴルナーグラートのレストランの食事は、濃いめの味付けですが、日本人の舌にもよく合って、ビールも注文すると、おいしい。 このコースの、後半は、ガイドブックにはあまり紹介されていないのもうなずけます。リッフェルベルクあたりからリッフェルアルプまでは、いつ落石があっても不思議ではないようなところもあるし、道から滑り落ちると命にかかわるようなところもある、割と、危ないコースでした。 第2日目は、ツェルマットの東側の谷底の村サースフェーへ。マッター谷を電車で50分ほど下って、シュタルデンでバスに乗り換え、サース谷を40分ほど登ったところにある、ツェルマット同様イタリア側に抜けることができない、どん詰りの山奥のちいさな村で、氷河が村に迫っています。美しいが、日帰りで十分で、宿泊してまで、とは思わない。 第3日目は、遠出するのに疲れたので、ロートホルンパラダイスまで、ケーブルカーとロープウェイで登って、スネガまでハイキング。ケーブルカー乗り場へは、ホテルから100メートルもありません。ブラウへルトからは、「スイスアルプス・ハイキング案内」という本に載っていたトゥフテルンから撮ったマッターホルンの姿が美しかったので、それを見ようと、トゥフテルンまで歩きましたが、途中からは、しばらく雨。マッターホルンは見えません。ゴルナーグラートから見えるマッターホルンは、主に東壁で、ツェルマットやスネガから北壁も含めてみたほうがバランスがよい、というようなことは、よく書かれているのですが、今回は、到着した日にツェルマットから見ただけです。 第4日目は、ハイキングも飽きて、足も痛くなってきたので、スイスの首都ベルンへ行くことにしました。 ユングフラウヨッホから流れ出てくるアレッチ氷河を見に行くつもりで計画を立てていたのですが、3日もハイキングを続けると、嫌になります。さきほど出てきたレッチベルク・ベーストンネルhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%ABのおかげで、ツェルマットから、ベルンまでは、フィスプで乗り換え、全部で2時間10分ほどで行くことができます。電車は、早朝から夜遅くまでありますから、十分日帰りで行くことができます。ブリーク、フィスプ、シュピーツ、ツゥーン、ベルン、チューリヒを結ぶ電車は、1時間に2本、走っており、ブリーク、フィスプ、ツェルマットは、1時間に1本。インターラーケンは、シュピーツで乗り換えれば直ぐなので、フィスプに宿泊すれば、グリンデルワルドへも、ツェルマットへも日帰りで行くのに便利な感じはしますが、良いホテルがあるのかどうかは分かりません。ブリーク、チューリヒ間の列車は綺麗で、乗り心地が良い。「地球の歩き方」に載っている地図では、どのように進むのかよくわからなかったのですが、フィスプから、少し西へ行って、その後、北上すると同時に、全長34.6キロメートルのトンネルの中に入ります。フィスプのあるローヌ谷では、牧草地はあまりなく、北側の斜面がぶどう畑、という景色が多いのですが、トンネルを抜けると、車窓の風景が、ガラリと変わり、ぶどう畑はなくなり、グリンデルワルドにあるような、きれいな、牧草地が目に入ってきます。スイスの都市は、どうも、あまり面白くはありませんが、スイスの首都で街全体が世界遺産であるベルンは、チューリヒやジュネーブに比べても、なんというか、かなり、地味な感じで、あまり、都会的な感じはしません。 第5日目は、せっかくジュネーブに来たのですから、ヴヴェイで電車を降りて、世界遺産の「ラヴォー地区の葡萄畑」へ。ヴヴェイでは、ワイン祭りをやっていたようで、ごった返していました。ヴヴェイからワイン列車でシェーブルへ。ぶどうの栽培は、日本の野菜の栽培のように、蔓の何節目を摘心し、わき芽をとって、というように、パターン化された栽培法があるようです。シェーブルからリヴァまで、ぶどう畑の中を歩きましたが、ぶどう畑のある北側の斜面には、日陰というものは、まったくありません。持っていた水も、あっという間になくなり、アスファルト上の干からびたミミズのようになりながら、やっと、リヴァの駅に到着。次の日の飛行機に乗るため、この日は、ジュネーブに宿泊。 写真は、リッフェルゼーとマッターホルン。
2011年07月12日
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このところ雨が多いので、市民農園に6本ほど植えたズッキーニの下の方の葉には、既に、うどんこ病の兆候が見られます。 それでも、まあ、元気に育っていて、雄花も咲いているし、雌花も受粉して小さな実になっています。 野菜作りの入門書によると、株に負担がかかるから、早く実を採れ、ということなので、3日ほど前に、10センチほどの実が付いた雌花を5個ほど採ってきて料理してみました。 花の中の雌しべをほじり出して、チーズやエビを詰めて、オリーブオイルを引いたフライパンで炒めて、そのあと、フライパンに蓋をして、10分ほど蒸し焼きにしました。 かなり高温になるオリーブオイルの中でも、花も実も色落ちしなく、油がついて、かえって、鮮やかさが増したようで、非常にきれいな料理になります。 チーズやオリーブオイルと相性が良く、実の方は非常に柔らかく、花びらも、けっこう、美味しい。 ということで、花ズッキーニの料理に、はまってしまいました。 本格的に、研究する価値があります。 今日も、2本ほど、雌花を採ってきましたが、どうやら、雄花の方が美味しいらしい。
2011年06月18日
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