【西洋陶器を求めて】 0
― 0
・ 0
, 0
・・・・ 0
- 0
・・ 0
. 0
~ 0
** 0
*** 0
・・・ 0
' 0
全211件 (211件中 101-150件目)
主役でなくても、人は大きなチャンスを手に入れることができます。1878年のパリ万博。スペイン会場、第2ホールに皮手袋店「コメーリャ」は出店していました。その店に立ち寄ったのは、エウセビオ・グエル。バルセロナで繊維会社を経営し、有力な政治家の父を持ち、留学経験も豊富な教養人でした。グエルはその店の、1辺60cm、高さ2mのショーケースの前にくぎづけになります。彼を惹きつけたのは、手袋ではありません。その手袋が置かれた、ショーケースでした。ケースの作者に、並々ならぬ才能を感じたグエル。彼はその作者を調べ、まったく無名の建築家アントニオ・ガウディを見出します。そしてこれをきっかけに、グエルはガウディのスポンサーになるのです。グエル32歳、ガウディ26歳の時でした。もしこのショーケースを作らなければ、ガウディは無名のままだったかもしれません。手袋の脇役の仕事でも手を抜かなかった、ガウディの芸術への情熱。それが彼を救いました。あきらめてはいけません。たとえ、今は主役でなくても。才能は、そして努力は、いつかは認められるものだから。【過去の日記】 ガウディの教え - サグラダ・ファミリア -
2008.09.19
コメント(42)
トロイア遺跡発掘を夢見たシュリーマン。彼の情熱は、尊敬に値するものです。しかし発掘をめぐり、彼は多くのトラブルに巻き込まれます。トルコからの発掘中止命令、ギリシアとの発掘品をめぐるかけひき。それを支えたのは、30歳も年下で16歳で結婚した伴侶ソフィア。事実、トロイアを発見してからの彼は、名誉欲に取りつかれていました。それは発掘品は彼の手に残らず、金銭的なメリットがないこともありました。しかし最も強かったのは、彼がアマチア考古学者だったことでしょう。結果的に、その名誉欲は、ドイツ考古学界の強い反感を招きます。学術的検証の弱い発掘、発掘における遺跡破壊。それらが激しい攻撃の口実になりました。それに加え、持病の内耳炎が悪化。激しいあせりにかられた彼は、ついに発掘を放棄します。発掘現場での陣頭指揮を生きがいとした彼が、なんと株式取引のためにキューバに渡ったです。その後も、海外を点々とするシュリーマン。ついに、1890年のクリスマスの日、彼はナポリの路上で昏倒します。警察は彼を行き倒れとみなしましたが、その懐には多量の金貨が詰まっていました。翌日、彼はその黄金とともに、息を引き取ります。名誉と黄金を手にした彼の最後は、誰にも看取られず寂しいものでした。夢は人を輝かせ、欲は人を闇に誘う。それは誰にでも、そしていつの時代でも変わらない、あまりに確かな法則なのです。【参考】谷沢永一:「世界の十大伝記・プラス・ワン」,集英社,(2000年)278P
2008.09.08
コメント(52)
後世に、謀略家と呼ばれる人がいます。フランス革命を生きた、ジョゼフ・フーシェ。僧院の教師、2年後には教会の破壊者、そして翌年には共産主義者に転身します。フランス国王ルイ16世を支持した彼ですが、その処刑を決める投票では死刑を宣言。情勢をみて、身を翻す。それが彼の生き方でした。革命派に転じた彼は、反抗するリオンの街の抹殺を試みます。後に言う「リオンの虐殺」で、彼はリオン人口の10%の処刑を目指しました。ギロチンより“効率の良い”大砲で、または処刑者に穴を掘らして銃殺で。さらには効率的な川への死体の投下で、1600人の市民を虐殺します。革命の急進派、恐怖政治でラボアジェも処刑したロベスピエールさえも、その残虐さに驚きます。ロベスピエールは、フーシェの虐殺の責任を追及。圧倒的権力者ににらまれた、フーシェの命は風前の灯でした。しかし気がつけば、ギロチンに処せられたのはロベスピエール自身でした。フーシェの謀略に負けたのです。ナポレオンが帰国すると、すぐにナポレオンを支援します。しかしすぐさま、ナポレオンの抹殺を図ります。それでも、ナポレオンはフーシェを排除しきれません。彼は権力者の秘書に、料理人に、召使に、彼はスパイを送り込んでいたから。権力者の秘密を握る彼は、政治の世界で圧倒的な力を持っていたのです。ワーテルローでナポレオンが敗退すると、すぐさま彼はナポレオンの抹殺にかかります。そして今まで排除されていたラファイエットを擁立し、ナポレオンを退任させたのです。しかしここで、彼は過ちを犯しました。ナポレオン亡き後の世は、ふたたび王権の時代。その時、彼はルイ16世の「国王殺し」の主犯でしかありませんでした。時代から排除された人々は、冷ややかに彼の転身の様を観察していたのです。彼が忘れていた、ルイ16世とマリー・アントワネットの娘。復讐に燃えるその娘、マリー・テレーズが、彼を受け入れるはずはありませんでした。国外追放となった彼は、権力者の秘密を盾に、ただ命を守るのがやっとでした。彼は政治的には、生きながらにして埋葬されたのです。追放されたフーシェの最期には、逸話があります。「遺体はリューマチで醜く曲がり、棺桶も変形して作られた。 そして棺桶を載せた霊柩車は、吹雪にあおられ横転した。」残酷な逸話が残るほど、どれほどに彼は憎まれたのでしょう。時代の流れを読んだ生き方は大切。自らの主義に固執すれば、いつかは時代から排除されるでしょう。しかしそれが自分らしい生き方なら、排除され朽ちてゆくのもよい。歴史は、その生き方の“すべてを”記録するのだから。【過去の日記1】誰が正義を語ることができるのでしょう - フランス革命 -【過去の日記2】私は何者か? ― マリー・アントワネット ―【参考】谷沢永一:「世界の十大電気・プラス・ワン」,集英社,(2000年)278P
2008.08.30
コメント(44)
非常識でありながら、人に愛されるとはどういうことでしょう。1858年、ジョシュア・ノートンは、アメリカ合衆国“皇帝”であることを宣言しました。定職を持たないノートンは、自ら「帝国債権」を発行します。市民はこれを快く買い取り、公共の交通機関も無料にします。それほど、皇帝はサンフランシスコ市民に愛されました。飲食もサンフランシスコ内のレストランは無料、衣服も無料です。さらには2匹の飼い犬の食費も無料でした。レストランも洋服屋も、「皇帝御用達」であることは、とても宣伝になったから。一度、皇帝を浮浪者扱いし、留置場に入れた警官がいました。驚いた警察署長は皇帝に謝罪しましたが、翌日の新聞の警察批判はすさまじいものでした。また皇帝は、銀行に“徴税”にも行きましたが、数百ドルもの税金を、銀行は皇帝に支払いました。20年間も皇帝であり続けたノートン。1880年に急死した時は、市費で皇帝の葬式が行われました。その葬儀には、3万人もの市民が参加しました。合衆国皇帝。そのあまりに滑稽な称号。しかし確固たる信念は、人の何かを揺さぶります。その信念が呼び起こすのは、同情でも、憐憫でもなく、一種の愛情に近い、本当の共感と呼べるものなのでしょう。
2008.08.14
コメント(42)
オーソン・ウェルズの映画「市民ケーン」のモデル、ウィリアム・ハースト。金・銀・銅の鉱山や鉄道会社を経営する御曹司として生まれたハースト。彼は甘やかされて育ち、数多の問題を起こし、大学も中退します。そして、父親から新聞社「エグザミナー」を相続します。それが、全ての問題の始まりでした。自らの新聞の売り上げを増やすため、次々とデマを新聞で書き立てます。キューバ人によりアメリカ人虐待の作り話を書きたて、アメリカ人の対キューバ感情を悪化させます。それは間もなく、1898年の米西戦争開戦を引き起こします。さらには、水遊びをする子供の写真をメキシコ政府による児童虐待と報道。新聞の説明には、子供はメキシコ政府に射殺されたとまでありました。さらには、スペイン内乱でも嘘の報道を続けます。ハーストの新聞の利益のために、どれほどの人命が失われたことでしょう。彼の莫大な財力は、これらの虚偽を知る者の口を封じるのに十分でした。しかし、オーソン・ウェルズは、彼に挑戦します。映画「市民ケーン」で、ハーストの私生活を扱ったのです。今日でも、映画の手本の様に語られるこの作品。しかし、その結果は惨めでした。アカデミー賞9部門でノミネートされますが、受賞は逃します。この作品名が出るたびに、会場のハースト派からのブーイングの嵐が起きたからです。さらにはオスカーでも脚本賞以外は逃し、当然に得られるはずの、最優秀作品賞、監督賞などは得られませんでした。そして、興行も信じられないことですが、大失敗に終わります。この失敗で彼の次回作もずたずたにカットされ、実質的に監督生命を奪われます。彼自身も、ハーストからの脅迫や、新聞でのゴシップ報道で傷つけられます。その後、世界恐慌をきっかけとして、ハーストは没落します。オーソン・ウェルズやその作品が再評価を受けるのは、その後のことになります。常に正義が、正当に評価されるとは限りません。むしろ歴史は、その逆を語っています。正義を貫くため。そのためには、十分な慎重さと器用さを、持ち合わせなくてはなりません。
2008.08.02
コメント(30)
柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺法隆寺の石碑にもある、正岡子規の句。この句を詠んだ時、子規は結核性の脊椎カリエスに苦しんでいました。雅号、子規。彼は結核になり、喀血します。当時の結核は、死に至る病。この血を見た彼は、以降、子規と称します。子規は、ほととぎすの異称。ほととぎすは、血に啼くような声で、そして血を吐くまで鳴くと言う。血を吐きながら、句を詠み続ける彼。それはまさしく、ほととぎす、子規そのもの。雑誌「ホトトギス」を創刊し、ほととぎすにこだわった子規。身を裂く痛み。詠み続けることが、生きる意味。それでも、結核性脊椎カリエスは、ついに子規の命を奪います。柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺夕闇迫る法隆寺。柿の色が、一瞬鮮やかな、血の色に思えました。
2008.07.31
コメント(48)
「不思議の国のアリス」の作者、ルイス・キャロル。本名は、C.L.ドッジスン。オックスフォード大学の数学講師で、写真家の彼。彼のイメージは、写真家としての活動によって形作られています。彼は少女の写真を多量に撮り、名簿にも107名の少女の名があります。洋服を着た少女、仮装した少女、裸の少女。その作品自体、学寮長の娘で10歳のアリスに捧げられたもの。彼が独身だったこと、そして彼の次の言葉も、いわゆるロリコンの印象を人々に与えます。「子供が好きだ。男の子を除いて。彼らには全く興味を感じない。」彼自身は、天才の特徴を備えています。天才は、右脳が発達していると言われます。そのため、左脳が司る、言語、数学、文字認識、人の顔の認識などが、しばしば劣ります。また左利きが多いとも言われます。彼も言葉に関しては、吃音症の障害を持っていました。数学講師でしたが、数字が覚えられませんでした。写真家なのに、人の顔をほとんど覚えることができませんでした。そして、左利きでした。彼のイメージはゆがんでいますが、その作品が少女への偏愛からもたらされたことは、否定できないようにも思えます。しかし、それは彼の様な天才が持つ、非凡性によるのかもしれません。「不思議の国のアリス」は、風刺的な作品。その作品には、社会的な地位のある大学講師でありながら、言語や記憶に苦悩する、彼自身が反映されているようにも思えます。ルイス・キャロルとして成功した彼。しかし本当の彼、C.L.ドッジスンが如何なる人物か。その問いに答えられる人は、今はもういません。
2008.07.28
コメント(34)
ナポレオン3世の皇后ウジェニー。彼女は月の神秘的な力を信じ、ルナソサエティを開催しました。満月の日や月曜に、舞踏会を開催した彼女。彼女は真珠を愛し、舞踏会でも身にまといました。真珠には、月の力が宿ると考えたから。30歳で初産の彼女。それは難産でした。しかし彼女は、月曜には月神アルテミスの加護によって生まれると信じました。事実、王子は月曜に誕生しました。王子の誕生の翌年、アメリカで淡水真珠が発見されます。海水真珠より、貴重で美しい真珠。ウジェニーは淡水真珠をことのほか気に入り、「クイーンパール」として広まります。ウジェニーは、ナポレオン3世にも、王子にも先立たれます。そして40年もイギリスの片田舎で生き、天寿をまっとうします。彼女は最期まで、真珠とともに過ごしました。神秘的な真珠の色。純粋な白に、華やかな橙に、気高い淡い紫に、輝いて。人の心を和ませ、そして静かに、なだめてゆく。月が満ち、欠ける様に。【過去の日記】 使いすぎに注意しましょう - ジョセフィーヌ -【参考文献】 「淡水真珠」、山中茉莉、八坂書房、2003年、125P
2008.07.14
コメント(44)
真実は闇の中。フランス人哲学者、そして数学者の、偉大なるルネ・デカルト。スウェーデン女王クリスティーナに招かれたデカルト。彼は、朝5時に起き、寒い街を宮廷に毎日通いました。そのため、肺炎にかかり、なくなったとされています。しかし近年、デカルトは暗殺されたという説があります。それはデカルトの最期を書き記した、医師の書簡が調べられたから。医師の書簡には、死因は胸膜炎と書かれています。肺炎の記述はなく、その症状に、セキ、発熱がほとんどありません。突然、2日間意識不明となったデカルト。その後、2日間、眠らず、食べ物をとりません。そして血尿などの症状の後、10日後に亡くなります。これは、砒素と睡眠薬を飲まされた時の症状。砒素を吐き出させないため、睡眠薬を与える暗殺が当時なされていました。暗殺は、女王クリスティーナの改宗の意志にあるとされます。プロテスタント大国スウェーデンの女王は、カトリックに改宗しようとしていました。そしてデカルトは、その女王に改宗を推奨したとみなされたのです。真実は分かりませんが、デカルトが宗教家から憎まれていたのはたしかです。彼の哲学が、神を否定すると考えられていたから。いずれにせよ、デカルトの死後、女王クリスティーナは改宗します。多くのいさかいや、犠牲者を多数生みつつ。国家の運命をも左右して。そして、クリスティーナの改宗の理由。それは、「暖かいローマで、日光浴を楽しみたいから」でした。
2008.07.10
コメント(36)
アインシュタインの娘、リーゼルについて考えていました。以前の日記で、妻のミレヴァに、アインシュタインが酷い仕打ちをしたことを書きました。そしてミレヴァとの間に、婚前に生まれた娘が行方知らずであることも。行方不明のアインシュタインの娘。その名はリーゼル。その不幸は、婚前に生まれたこと。ミレヴァは学生、アインシュタインは無職。未婚での子供の存在は、アインシュタインの就職を困難にします。そのために、娘のリーゼルは歴史から姿を消します。リーゼルは、病死したという説があります。一方で、里子に出されたという説も。しかし、消息はつかめていません。結婚後に生まれた長男ハンスと次男エドワルト。ハンスは建築関連の博士となりますが、アインシュタインと別れ、孤独となったミレヴァを置いて去ります。父親譲りの冷淡さ。エドワルドは精神を病み、母親を追い詰めます。そしてたびたび暴力を奮い、ミレヴァも精神を病んでしまいます。父親に似たハンスとエドワルド。もし娘のリーゼルがいたなら、ミレヴァは救われたでしょうか。ミレヴァとリーゼル。偉人のために、闇に消えていったふたりの女性。相対性理論を支える、視点の変化。視点を変えて初めて浮かび上がる、ふたりの女性。【過去の日記】 「アインシュタインの最初の妻 ― ミレヴァ・アインシュタイン ―」
2008.06.28
コメント(38)
ポンパドゥール夫人が通った、タンサン公爵夫人のサロン。そのタンサン夫人、ルイ十五世の摂政フィリップら多くの男性と浮世を流しました。生涯結婚さえしなかった彼女。彼女は、ある時に私生児を、協会に捨て置きます。その子は、幸い優しいガラス職人に拾われ、育てられます。そのガラス職人の妻の名は、アランベール。そして、その捨てられた子こそ、18世紀の物理学者、ジャン・ル・ロン・ダランベール。ダランベールは、ほぼ独学で数学などを学び、そして物理に慣性の概念を構築します。彼の努力と、母の愛が、彼を大学者にしました。しかし、ダランベールの名が有名になったとき、なんとあの産みの母が名乗り出て来たのです。タンサン夫人は、とても裕福な貴族。タンサン夫人と、ガラス職人のアランベールでは、その地位や財産の差は明らかでした。上級貴族を前に、狼狽する年老いた育ての母。その育ての母には、なす術がありませんでした。しかし、その時、ダランベールは、こう明言しました。「私の母は、ひとりしかいない。それは、ガラス職人の妻である。」地位や財産に、代えられないもの。ダランベールは数多くの知識とともに、真に価値あるものを得ていました。絶え間ない努力と、優しい母によって。
2008.06.20
コメント(62)
X線を利用した結晶構造の解析で有名なブラッグ。彼は、わずか22歳でノーベル賞を受賞しました。これは今日までの、最年少受賞記録。パスカルは17歳で、投射幾何学の定理を発見。物理学者ケルビン、そしてマクスウェルは、わずか15歳で論文を投稿。物理学者ラマンの論文も、18歳で投稿されました。イギリス数学者マクローリンは、19歳で大学教授に。天賦ともいうべき、彼らの才能。その栄光を、早急に求めすぎた者もいます。1926年、オーストリア生物学者カメラーは、遺伝に関する重要な発表をします。しかしそのデータの捏造を指摘され、ピストル自殺してしまいます。2001年、ドイツ物理学会の神童ショーン博士は、15本もの捏造論文を、ネイチャー、サイエンスに掲載しました。8日に1本の論文を生み出すベル研のホープ、物理学会の神は、奈落の底に落ちました。また2004年、ソウル大学教授ファン ・ ウソクの、ヒトES細胞の論文データ捏造は記憶に新しい。彼のES細胞の研究は、全てが捏造でした。その事実にも関わらず、捏造の判定は難しいもの。静電気の研究のクーロンや、ノーベル賞受賞者ミリカン。彼らのデータも不自然に誤差が小さく、捏造と言えなくもありません。しかし、その研究で得られた結果は真実でした。目の前に現れた栄光への鍵。その鍵は、早く捕らえなくては、他の誰かに奪われてしまう。特に現代社会では、躊躇する暇はありません。光を捕らえるか、闇に消えるか。科学者は、まさに命がけの挑戦を強いられているのです。
2008.06.16
コメント(42)
かえるが、にぎやかになりました。たんぼから、かえるの合唱が聞こえてきます。よくあれだけ鳴き続けるものだと感心します。しかし、夜中の鳴き声はうるさくもあります。「昆虫記」で有名なファーブルは、かえるの声が嫌いなひとりでした。粘り強い観察が得意なファーブル。その鋭い感性は、一方で神経質な面をみせます。かえるの声にたまりかねたファーブルは、かえるに散弾銃を打ったといいます。また、鳥のナイチンゲールの鳴き声もうるさいと感じ、散弾銃を打っています。動物好きなはずですが。昨年は、ある時期から急に静かになったかえるたち。今年はいつまで、元気な鳴き声を聞かせてくれるでしょう。【過去の日記】 かえるの子守唄 - 讃岐の子守唄 -
2008.06.08
コメント(48)
1882年、心霊を追い求め、科学者は心霊現象研究協会(SPR)を創設します。場所は、イギリス、ケンブリッジ大学。またアメリカでも、1885年に米国心霊現象研究協会(ASPR)が創設されます。高名な科学者でありながら、彼らは心霊、霊媒、降霊術、テレパシー、透視などを追い求めました。SPRの歴代会長,協会員には、歴史に名を残す著名人がみられます。○ レイリー卿ジョン・ストラット: レイリー散乱などの光学,音,流体力学で有名。アルゴン発見でノーベル賞受賞。そして、SPR会長。○ シャルル・リシェ: アナフィラキシー・ショックの発見でノーベル生理学・医学賞受賞。そしてSPR会長。エクトプラズムの命名者となる。あの女性初のノーベル賞受賞者マリー・キュリーを、降霊会調査に招いたことも。○ ウィリアム・クルックス: タリウム元素の発見,真空放電管,放射線測定器の発明家。英国学術協会会長の就任演説で超常現象への支持を力説し、人々を驚かせる。SPR会長。○ オリバー・ロッジ: 電磁波研究、コヒーラー,点火プラグも発明。そして心霊検知器の研究を進め、SPR会長就任。○ ウィリアム・バレット: ケイ素鋼の発見者。その後、催眠術,ダウジングの研究後、SPR会長就任。○ ウィリアム・ジェイムス: 実験心理学創設者。ハーヴァード大学教授で、プラグマティズムを代表する哲学者。そしてSPR会長にして、ASPR創設に尽力。また作家では、シャーロックホームズで有名なアーサー・コナン・ドイルも、SPR協会員。多くの降霊会に参加したのは有名です。「トム・ソーヤの冒険」のマーク・トウェインもSPR会員で、熱烈な支持者でした。各分野の頂点を極めた彼らが、なぜ心霊研究に没頭したのでしょう。その答えは、彼らの言葉にあります。「本当に大切なことは、人はまだ何もわかってはいない。」
2008.05.15
コメント(38)
国立科学博物館で開催中の、ダーウィン展を拝観してきました。期待はしていなかったのですが、予想外に面白い展示でした。人生を変えた全長23mの小さなビーグル号での世界一周。3×3.3mの狭い部屋を大人3人で寝泊りする苦難を超え、進化論を導き出すきっかけをつかみます。教会からの批判を恐れ、進化論を遺言とし、生前は発表を断念していたダーウィン。しかしウォレスが進化論の論文を発表すると知ります。「わたしの研究が駄目になってしまう。」このダーウィンの言葉に、大きな動揺がみられます。そして、ふたりでの連名の論文発表となりました。最後にあるシーラカンスの標本もお勧め。よろいの様なうろこが、迫力あります。しかし最後のコーナーの、「論理と真理は異なる」という展示エリアは一般には難しすぎるのでは?私たちの様な、マニアには良いのですが。もっとも、私としては展示場の初めにある、ウェッジウッドのポートランドの壷にも興味津々。高さ30cmほどの、黒いジャスパーの壷を、しばらく眺めていました。なぜダーウィン展で、ジャスパーがあるかはご存知ですよね。ヒントは、私の過去の日記。さて、この展示会で、私も少しは進化できたでしょうか。どうも,駄目だった様な…。(あきらめ早い)【ダーウィン展】 開催案内【Wikipedia】 ポートランドの壷【関連日記1】チャールズ・ダーウィンとジョサイア・ウェッジウッド 【関連日記2】その多様性が 進化を促進する - アルフレッド・ラッセル・ウォレス -
2008.05.11
コメント(49)
科学が、万能ではないとしたら。進化論は、チャールズ・ダーウィンとウォレスにより得られました。しかし後年、ウォレスは心霊主義に向かいます。「君は、幼虫へ変態している。 君の進化論への冒涜は、私が許さない。」ダーウィンにこう忠告されても、降霊会に参加するウォレス。ウォレスは考えます。肉体は、自然淘汰により進化した。しかし、精神はもっと大きな力によって進化したのでは。その力は、心霊主義の神秘の世界に答えがあるのだろう。1869年、ウォレスは論文を発表します。自然淘汰には限界がある。精神や道徳は、「すべてを統べる知性」によって進化する。ウォレスの心霊主義は、彼の業績に影を落としたかもしれません。彼が目指したのは、科学と精神の融合。生物の進化が、科学の合理主義にのみよるとすれば、あまりに悲しすぎる。生物は、人は、ときにはとても非合理的。もし合理主義にのみ従うなら、私はブログを書きはしないでしょう。でも、ウォレス、私がブログを書く理由が分かりました。それはきっと、こうでしょう。多様な世界によって促進される、精神の進化のため。【参考】ジョサイア・ウェッジウッドの息子 -チャールズ・ダーウィンの伯父-
2008.05.08
コメント(36)
悪筆に隠された恋。ベートーベンのピアノ曲、エリーゼのために。このエリーゼとは、誰でしょう。この曲の楽譜は、ある女性への手紙入れから見つかりました。その女性の名は、テレーゼ・フォン・ブルンスウィク。テレーゼは、39歳のベートーベンが結婚を申し込み、断られた女性。彼女は当時、18歳でした。つまり、「エリーゼのために」は、実は「テレーゼのために」と考えられています。ベートーベンがあまりに悪筆で、「テレーゼ」が「エリーゼ」と読み間違えられました。彼女に捧げられたその曲は、願いを聞き届けてはくれませんでした。何か物悲しいその調べは、彼の気持ちを今に伝えます。悪筆ゆえに、隠された恋。その果たされなかった恋は、ひとつの芸術となり、後世に伝わります。「エリーゼのために」を聴く、恋人たち。失恋の調べは、今に願いをかなえます。調べが届けられるのは、テレーゼへではありません。夢の女性、エリーゼのために。
2008.04.19
コメント(31)
かぐや姫の竹取物語の登場人物は、実在したと言われます。これは、江戸時代の国学者,加納諸平が唱えた説。かぐや姫に求婚する公達たち。石作皇子、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂。これらはそれぞれ、丹比真人島、阿部御主人、大伴御幸、石上麻呂足。石作氏と丹比氏は同族です。みな壬申の乱後の権力者。問題は、車持皇子。これは、藤原不比等と言われます。車持は、藤原不比等の母の名前。車持皇子は、蓬莱の枝を工人に作らせ、それがばれてしまいます。さらに工人から、金を奪い去り、「腹黒い人」と記されます。特に、車持皇子は酷く書かれているのです。竹取物語の書かれた平安時代、藤原氏の全盛でした。壬申の乱以降、藤原氏は様々な陰謀により、権力を握りました。竹取物語は、その藤原氏を恨み、揶揄するために書かれた物語。腹黒い藤原氏から逃れ、月に昇ったかぐや姫。地上でかなわぬ清き世を、かぐや姫は月の世界に求めたのでしょう。物語に秘められたメッセージ。それは千年以上の歳月を越え、確実に私たちに届きました。悪業で成し遂げられたこと。それは、いつかは、明らかとなるものなのです。
2008.04.12
コメント(34)
私たちが、テレビアンテナとして長く親しんできた八木アンテナ。今では、八木・宇田アンテナと呼ばれるようになりました。1925年に、東北大学の八木秀次氏と宇田新太郎氏によって発明されたアンテナ。ふたりの共同発明品でしたが、その後、宇田氏の名前は忘れられます。その理由は、特許が八木氏の単独出願であったためです。また製造会社にも、八木アンテナ株式会社と、宇田氏の名前はありませんでした。八木氏の助手として、研究を続けた宇田氏。発明後50年もして、八木氏に対する苦言を公表します。ついに耐え切れなくなったという形で。その後も、最後まで自分の名前を残して欲しいと主張した宇田氏。亡くなるまでにその夢はかないませんでしたが、今日ではその夢は実りました。八木氏に悪意があったわけではありません。アンテナは、八木氏が発案し、宇田氏が実験的に性能向上させたのです。特許的には、八木氏の貢献が大きいとも言えます。日本の発明でありながら、戦時中は米軍のレーダに使われた皮肉な技術。優れた技術は、常に波乱に満ちた変化を続けます。しかし、その戦争も終わりました。これからのデジタル放送の時代。発明者の名前がそろうことで、ようやくアンテナもその落ち着きを取りもどしたようです。平和と協調の象徴。それが生まれ変わった、八木・宇田アンテナ。
2008.03.23
コメント(50)
電球の発明者といえば、エジソン。人々はそう言います。しかしエジソンは、電球の改良を行ったにすぎません。電球の発明者は、英国のジョセフ・スワン。1848年、フィラメントの発光を利用した電球を製作します。しかし電球内を高真空にするポンプがなく、開発は中断します。1860年代、高真空ポンプが発明され、スワンの電球開発も再開します。そしてついに、1878年、40時間の寿命を持つ電球が開発されたのです。長年の夢がかない、スワンは幸せだったことでしょう。この成果が発表された翌年から、エジソンも電球開発を始めます。そしてフィラメントにふさわしい、炭素材料を探します。スワンが、炭素系フィラメントを使用しているのを確認して。1880年、エジソンは、竹を炭化させたフィラメントの電球を開発。その後、さらに電球の寿命は数百時間に延びます。しかしそれは、世の中の真空ポンプの性能アップによるものです。それからは、エジソンの本領が発揮されます。電球と同時に送電システムも事業化し、会社を設立します。さらにスワンを取り込んで、エジスワン社で共同事業を開始します。ただし、エジソンの電球はねじ込み式。スワンの電球は、差し込み式。その結果、英国だけは今日でも差し込み式の電球が使われます。そして電球の発明者は、英国ではスワンとされているのです。しかし世界では、なぜスワンが電球の発明者と言われないのか。それは、次の理由とされています。1. スワンは薬品工場を経営し、電球の開発は趣味であった。2. スワンは特許をほとんど取らなかったが、エジソンは精力的に特許化した。3. エジソンはパリ万博などでも、1万個の電球によるショーを開催。一躍有名となった。つまりエジソンの得意とする、特許化、事業化、パフォーマンス。それらに対する執着が、他の開発者との決定的な違いでした。やはりエジソンは、卓越した事業家。そのイメージは、電球にあっても、変わることはありませんでした。【関連日記1】 手段を選びはしない - エジソンとテスラ -【関連日記2】 肝心なのは いかに盗むか ― 映画とエジソン -
2008.03.09
コメント(30)
エジソンの3大発明のひとつ、映画。しかしその発明の歴史は、闇の歴史。エジソンは、箱を覗いて動画を見る「キネトスコープ」の発明者とされます。映画の原点となるこの仕組み。しかし実は彼の部下、ウィリアム・ディクソンの発明品。そして、それを特許申請したのは、エジソンでした。その後、有能なディクソンは独立し、別会社を創立。しかしたちまち、エジソンの標的にされ、特許紛争で敗訴します。エジソンは、ディクソン自身の発明を武器にして、自分で自分の首を絞めさせたのです。そもそもエジソンは、英国のエドワード・マイブリッジの動画装置からアイデアを奪ったと言われます。回転する円盤に、40コマの連続写真がある「ズープラクシスコープ」を数日借りて検討したのです。人のよいマイブリッジは、無警戒にその発明品を渡してしまいます。そしてマイブリッジは、人々から忘れ去られました。さらに、フランスのル・プランスは、さらに悲劇的。現代の映写機に相当する発明をした彼。その発明は、エジソンの覗き箱式映写機を過去のものとしました。しかし1890年、多量の設計図と特許資料を持参して外出した彼は、2度とその姿を見せることはありませんでした。遺族は彼が、エジソンに「消された」として訴訟を起こしますが、裁判の長期化で有耶無耶に。エジソンには、有能な弁護団がついていたのです。しかし、エジソンの栄華も続きません。フィルム横の送り穴に関する特許で、多方面に特許紛争を繰り広げたエジソン。それは「フィルム・パイレーツ」という反対勢力を生み出します。そして、1915年、エジソンに独占禁止法違反の判決が下ったのです。忘れられたマイブリッジ。奪われたディクソン。そして消されたル・プランス。エジソンの陰には、多くの真の発明家が消えています。発明家と言うより、事業家であったエジソン。最後に、彼の言葉を記します。「商工業の世界では誰もが盗む。わたしもずいぶん盗んだものだ。肝心なのは、いかに盗むかである。」この様に断言する人物。彼こそが、盗みの天才エジソンなのです。【関連日記】 手段を選びはしない - エジソンとテスラ -
2008.03.04
コメント(36)
地動説を主張し、ローマ教皇庁から有罪判決を下されたガリレオ。1633年、彼の主張は、大半の人には理解されませんでした。後世の人々は彼を哀れみ、彼に復讐を遂げさせようと考えます。1737年、ガリレオの亡骸はフィレンツェのサンタ・クローチェ教会の本堂へ移されます。その時、彼の中指は切り取られ、フィレンツェの科学史博物館に収められます。上部をレース状の金属で飾られた、コップ状のガラス容器。その中に、ガリレオの中指はあります。その指は、まっすぐに天を指しています。中指を立てる行為、それが何を意味するかはお分かりでしょう。キリスト教への抗議を暗示し、人々はガリレオに報いようとしました。しかし、ガリレオがその様な行動を、取りはしないでしょう。むしろこの中指は、ガリレオの品格を汚すばかりです。過去においても、現在も、ガリレオは理解されません。あまりに偉大すぎる発見は、彼を今なお翻弄し続けています。彼が望んだこと。それは中指を立てる、抗議ではありません。片手を差し出す、和解の握手。ただそれだけに、違いないのです。闘争で得るのは、無限の苦悩。協調で得るのは、永遠の歓喜。その選択をするのは、私たち自身。
2008.02.17
コメント(36)
キャベンディッシュの知名度は、日本ではまだ低い。1810年に78歳で亡くなるまで研究を続けながら、大半を未発表のまま。そのため生前の彼の業績は、ほとんどが陰に隠れています。彼への追悼の言葉が残っています。「ニュートン以来の偉大な天才を失った。 そして彼の業績は、現在よりも未来において高く評価されるだろう。」彼の死後に判明した業績は偉大です。地球密度の測定と万有引力常数の測定。オームの法則を先行して発見、クーロンの法則を先行して発見。水素の発見、水が化合物であることの発見、大気組成の定量化。ヒ素の合成、硝酸合成、水蒸気圧の測定、水溶液の電気伝導性の測定など。後世に発見された数多くの法則を、彼は発見しながら未発表のままでした。そのために、オームの法則、クーロンの法則などは、その発見が遅れることになります。高精度の実験データの測定が、彼の特技でした。しかし極端な恥ずかしがりやと女性嫌いで、人を避けていました。生まれつき、高い社会的な地位に恵まれた彼。そのために、研究成果を発表して、名誉を求める必要はありません。父親からの膨大な財産に恵まれた彼。生活費の心配なく、高価な実験装置に囲まれて、研究に没頭できました。あまりに余裕がありすぎて、研究は彼の趣味でしかなかったのです。そのため彼の研究業績は、後世まで歴史に埋没していたのです。幸せすぎる環境は、むしろ人を不幸にします。今を変えたいと思う気持ち。それは、人が社会的に生き続けるために必要な気持ち。そして、私たちを苦しめる不幸。それは幸福への案内状なのです。
2008.02.10
コメント(40)
人はなぜ、金に魅かれるのか。人はなぜ、金を生み出そうとするのか。錬金術は多くの学者を魅了し、その貴重な時間を奪ってゆきました。大阪帝国大学初代総長、貴族院議員、学術振興会理事長、帝国学士院院長、学術振興会学術部、第一回文化勲章受賞で、戦前の科学行政の最高地位を極めた理学博士、長岡半太郎。彼も、そのひとりでした。1924年、彼は水銀を金に変える実験の成功を発表。いわゆる水銀還金事件です。もちろん誤りであったこの発表ですが、反対する人は少なかったと言われます。そして彼自身、この誤りを生涯認めることはなく、時間を浪費することとなります。錬金術の魅力がもたらす罠。しかし彼にあるのは、それ以上に大きな罠。それは、だれも過ちを指摘できない彼自身の権威。権威者は、悲しいほどに孤独なもの。孤独ゆえ、錬金術に魅かれます。金の輝きが、心の闇を明るく照らすから。錬金術を讃えよう。錬金術は、ベドガーにマイセンの歴史を拓かせます。金よりも、陶磁器に魅かれます。やさしく白い陶磁器が、心を静かに輝かせるから。【過去の日記】 「マイセンの歴史」※)この2006年11月17日は、思えば今につながる日記でした。
2008.02.06
コメント(38)
超能力者 御船千鶴子は、追いつめられていました。1910年、千里眼の能力者という彼女は、透視の公開実験に挑みます。対するは、東京帝国大学総長の山川健次郎。透視するのは、はんだ付けされた鉛管につめられた紙の文字。しかし結果は失敗。それどころか、彼女が透視したのは、前日彼女に練習用に渡された、鉛管の中の文字。鉛管の中を盗み見た疑いが、彼女にかけられます。そしてその4ヵ月後、彼女は重クロム酸を飲み、自殺します。まだ25歳の若さでした。もともと彼女の予言は、些細なことでした。母親の“へそくり”のありかを当てました。軍服のバンドが切れるのを当てました。馬が暴れるのを当てました。本来の彼女は、少し勘の良い女性にすぎませんでした。しかしある日、有明海の炭鉱のありかを当て、謝礼をもらいます。その金額は、当時の価値で2,000万円。ひとりの女性の人生を狂わせるのに、十分な金額でした。この時から、「よく当たる」ではなく、「必ず当たる」予言が彼女に求められ始めます。そして、彼女は追いつめられてゆきます。しかし追いつめた山川健次郎も、それが本意ではありませんでした。そのことは、のちの彼の言葉から分かります。「世の中の人が、すべて目が見えないとする。人々は触覚で物の形を判断する。そのとき、ひとり目が見える人がいて、手で触れないで、卵は丸いと言ったとする。すると、皆、その人を嘘つきと呼ぶだろう。超能力とは、その様なものかもしれない。」超能力、超常現象、幽霊、妖怪、UFO、UMAなど。これらが、今も論じられる理由。それは、それらが必ずそこにあるからではなく、それらを、わたしたちが求めるからに、違いありません。【過去の日記】 超能力 公開実験 ― リングの世界 ―
2008.02.05
コメント(40)
「モディリアーニ ― 真実の愛 ―」を拝見しました。ようやくですが、Yahoo動画で無料配信されているのに気がついたのです。2月1日までの配信。早速拝見しました。とても良い映画でした。前半は単調で駄目かと思いましたが、後半とても良くなります。特にチャプター4以降が良いですね。1920年頃のエコール・ド・パリの画家たちとの関わりも見ることができます。モディリアーニの生き方は、無鉄砲。後先を考えない無鉄砲は、「無点法」から来ています。つまり、漢文で返り点や送り仮名がないこと、わけが分からないことです。それが鉄砲の伝来とともに、無鉄砲の当て字に変わりました。「真実の愛」の中で、モディリアーニと対立するピカソは、いつも鉄砲を手にしていました。対するモディリアーニは無鉄砲というより、「向こう見ず」の方がしっくり来ます。また映画を見ると、ジャンヌの行き方に賛同できなくなってきます。特にお腹の子供のことを考えると。モディリアーニは、心をこめてジャンヌを描きます。体を酷使してまで。その答えは、彼の作品にあります。きみの、こころがつかみたい。そして、それができるまで、目はうつろなままで、いるしかないから。【動画】 「モディリアーニ ― 真実の愛 ―」【過去の日記】 「アメデオ・モディリアーニ」
2008.01.21
コメント(40)
世界初の宇宙船有人飛行。ガガーリンは公式には、世界初の有人の宇宙飛行士とはいえません。ガガーリンの宇宙からの帰還は、現在ではこう判明しています。1961年4月12日7時25分。逆噴射ロケットに点火。しかしトラブルが発生。機械船と降下船の切り離せません。このままでは落下速度が速すぎ、大気の摩擦熱で燃え尽きます。しかし限界高度寸前で、機械船の分離に成功します。そして高度約7kmで、降下船から座席とともに射出。打ち上げの108分後、パラシュートで地面に降り立ちます。問題はこの着地。当時、国際航空連盟が定める有人飛行の認定基準がありました。それは、「宇宙飛行士が宇宙船に乗った状態で、着地または着水すること」とあります。そのためソ連は、ガガーリンは降下船に乗って着地したと、虚偽の発表をしていたのです。つまりガガーリンは、公式には世界初の有人宇宙飛行士ではありません。ガガーリンには多くの謎があります。帰還後に、彼が精神的に追いつめられたことは知られています。それほどに、彼には国家からの大きな圧力がありました。しかし1968年のミグ戦闘機での墜落事故死で、それも永遠の謎となりました。そしてその事故にも謎があるのです。地球の青さを除いては、宇宙は暗黒の空間でした。そしてガガーリンの周辺も、やはり暗黒に包まれていました。「地球は青かった」闇の中の光は、本当に眩しく、そして美しい。
2008.01.18
コメント(42)
愛知県美術館のロートレック展もまもなく終わります。その人生に興味を持ちながらも、私はロートレックを理解しているとは言えません。パリの有名キャバレー、ムーラン・ルージュのための宣伝ポスター。それを手がけた彼は、身長153cmの小柄な男性でした。遺伝的とみられる骨粗しょう症に加えて、幼い頃の骨折。それがとても足が短い彼の外見を作り上げます。しかし彼は、自らの外見をジョークのネタにし、酒場で陽気に酒を飲みます。酒はアルコールのきついアブサン。その彼も自身に対する差別を感じていたようです。彼の描く絵は、踊り子や娼婦といった夜の女性。差別されるものへの愛情が、彼の絵にはこめられています。猛烈に絵を描き、猛烈にアブサンを飲む。そして酒で体を病み、1901年、わずか37歳で夭折します。ロートレックの絵がお洒落で陽気です。彼自身がジョークを好んだ様に。それゆえに、私は本当の彼を理解できません。彼がなぜ、酒と娼婦と絵に命をかけたのかを。人の本当の苦悩を理解することは、かくも難しいことなのです。そして、いつかはロートレックを理解したいと思うのです。【ロートレック展】 愛知県美術館 ロートレック展
2008.01.05
コメント(38)
今日のお話は少し残酷。怪我や痛みのお嫌いな方は、読まれませんように。読まれるなら、1行毎に、ゆっくりとスクロールしてお読みください。気分が悪くなるようでしたら、すぐにおやめください。////////////////////////////////彼女の生涯を知れば、私たちがいかに幸せかが分かります。メキシコの画家、フリーダ・カーロ。彼女の生涯は、苦痛に満ちていました。幼くしてポリオに罹り、右足が不自由となった彼女。それでも快活な生活を送る気丈な彼女。しかし18歳の時、更なる不幸が彼女を襲います。彼女の乗ったバスが、市電と衝突。バスの手すりで、彼女は串刺しにされます。左腰から子宮を串刺しにした手すり。右足は11箇所の骨折。足首は砕け、背骨、鎖骨、肋骨、骨盤も骨折。奇跡的に命はとりとめますが、生涯、手術と後遺症に苦しめられます。この事故をきっかけに、彼女は絵筆を手に取ります。ひたすら自画像を描く彼女。その自画像は、血が流れ、釘が突き刺さり、引き裂かれています。自画像について、彼女は語ります。「私は、私自身の現実を描いています。」代表作「折れた背骨」の彼女は、コルセットを身にまとう。体は裂かれ、全身に突き刺さった釘。それでも彼女は、しっかりと前を見据えている。これは、手術で鋼鉄のコルセットを身に着けた彼女の現実。43歳でディエゴ・リベラと結婚。フリーダは子供を望みますが、体が許さず、流産を繰り返します。更にはリベラの浮気が、彼女を精神的にも苦しめます。ますます悪化していく彼女の体。大量の鎮痛剤の服用は、幻覚症状を引き起こします。そしてついに壊疽した右足を切断。病状は悪化し、1954年、彼女はその苦痛に満ちた生涯の幕を閉じます。まだ47歳の若さでした。自画像を描き続けた彼女でしたが、最後の作品はスイカの静物画。限りない苦痛の連続だった彼女の生涯。しかしそのスイカの側面に描かれた文字は、「人生万歳」だったと言います。
2007.12.19
コメント(38)
マリー・アントワネットとの命がけの愛。ルブランの絵の彼女が持つ薔薇の花は、フェルセンへの愛の証。長身で美貌,魅力にあふれ、栄達の道を歩むフェルセン。その教養から社交界でももてはやされ、アメリカ独立戦争にも参加する行動力も兼ね備えます。彼には資産家からの結婚話も多くありました。しかし彼の根底にあるのは、騎士道的精神。騎士道では、愛の対象は命を懸けるに値する女性。それは危険なほどに燃え上がる愛。マリー・アントワネットは、まさにその愛に相応しい女性でした。国王の人妻であり、革命で命を奪われる可能性もあります。友人も廷臣も革命で逃げさり、マリー・アントワネットが孤独な王妃となったとき、彼の愛はいっそう燃え上がります。1791年6月20日、フェルセンは国王一家の国外脱出を実行します。しかし重過ぎる馬車、計画時間のずれ、連絡ミスなどが重なり脱出は失敗します。そしてこの国外脱出失敗により、彼女は幽閉され、その死を決定的にします。「私はあの日に死んでおくべきだった」フェルセンは、後にこの日をこう語ります。1793年にマリー・アントワネットが処刑されてから、彼は民衆を憎むようになります。そして、それは彼自身が民衆から憎まれることを意味していました。1810年、スウェーデン王太子が急死。フェルセンはこの暗殺疑惑に巻き込まれ、民衆によって虐殺されます。それは奇しくも、彼が死を望んだのと同じ、6月20日のことでした。障害があるからこその、捨てきれない情熱。かなわないからこそ、純粋に全てを投げ捨てることができる希望。仮にその希望を失うが、命を奪うことであったとしても。○ 幻影の 甘美な罠に 捕らわれて ― エリザベート・ヴィジェ=ルブラン ―
2007.12.08
コメント(28)
幻影は、人を惑わすほどに美しい。マリー・アントワネットの肖像画家であるヴィジェ=ルブラン。彼女はロンドン・ナショナルギャラリーの自画像に、その美しさを伝えます。「白い服を着て、若く美しく、すべては幻影の様でした。」後年、彼女は王宮の様子を、その様に語ります。繊細な彼女の指から生まれる絵は、妖精の様に、やさしく優雅です。同時代の肖像画家ドルーエの描くマリー・アントワネットは、目の下にくまがあり、疲労しています。彼女が描いた王妃は、まさしく彼女が生み出した幻影でした。彼女は貧しい画家の娘でした。しかし彼女の才能と美しさが、彼女に名声を与えます。それだけに、彼女は王宮に憧れ、幻影を見出すのでした。マリー・アントワネットこそは、ブルボン王朝落日前の最後の夢。その儚い夢を、彼女は描きます。彼女の描いたマリー・アントワネットは、手に一輪のピンクの薔薇を持っています。それは、ただひとりを愛するという、愛の象徴。夫以外の、唯一人のあの人を。幻影は、消え去るもの。儚く、もろく、美しい、刹那な存在。ゆかないで、もう少しいて。幻影は、いつかは消え去るとわかっていても、わたしは、その甘美な罠から、逃れる術を知りません。○ エリザベート・ヴィジェ=ルブラン・自画像2点とマリー・アントワネットの肖像画も掲載あり。
2007.12.03
コメント(36)
マリー・アントワネットは、友達を求めていました。6歳年上で、やさしく穏やかな女性、ランバル公妃。それが彼女の女友達でした。女官長に任じられたランバル公妃は、マリー・アントワネットを支えます。決して、その寵愛に、つけこむことはありませんでした。しかし気まぐれなマリー・アントワネットの寵愛は、ポリニャック伯爵夫人に移ります。そしてランバル公妃の女官長の地位も、ポリニャック伯爵夫人に移ります。ポリニャック伯爵夫人は、無邪気で美しい女性。しかしそれは、うわべの美しさでした。ポリニャック伯爵夫人は、一族ぐるみであらゆる地位と金銭を巻き上げます。彼女の無能な親族達は、次々と高官になります。彼女自身も破格の高級で雇われ、ますますフランスの国家財政はひっ迫します。「彼女といると私は王妃ではなく、自分自身に戻るのです。」マリー・アントワネットは、パリニャック伯爵夫人をこの様に讃えました。しかし、フランス革命が勃発。その時に、ポリニャック伯爵夫人は、マリー・アントワネットを見捨てて真っ先に国外逃亡します。マリー・アントワネットの悲しみは、どれほどだったでしょう。一方、冷遇にも関わらず、ランバル公妃はマリー・アントワネットを見捨てませんでした。そして不幸にも、ランバル公妃は9月虐殺で殺害されます。国王の否定を強要された彼女は、それを拒否します。あまりに彼女は、マリー・アントワネットに忠実でした。民衆は、彼女を裸にし、腹を切り裂き、首を槍に刺して翳します。革命に名を借りた、暴徒の虐殺行為。これが正義のフランス革命の実態です。ここで、ポリニャック伯爵夫人も、亡命先のウィーンで病死したことは伝えなくてはなりません。それはランバル公妃が虐殺された翌年、奇しくも享年もランバル夫人と同じ44歳でした。マリー・アントワネットは、親友を取り違えたことが不幸でした。真の友は、謙虚で、ひかえめなのです。そしてその真の友を、見出すために必要なこと。それは、わたしたちが、友以上に、謙虚でひかえめであることです。【関連日記 1】私は何者か? ― マリー・アントワネット ― 【関連日記 2】誰が正義を語ることができるのでしょう - フランス革命 -
2007.11.29
コメント(33)
フェルメールを語るなら、この人は忘れられない。ハン・ファン・メーヘレン。史上最高のフェルメールの贋作者。メーヘレンは優れた才能の画家。しかし1920年代、オランダの画風はモダニズムが主流でした。反モダニズム派の彼は、宗教的絵画を描き、美術評論家から無視されます。古い絵画の修復で生計を立てるまでに忘れられた彼は、美術界への復讐を誓います。17世紀の無名の絵画を集め、古いキャンバスと枠を手に入れます。青金石、ラピスラズリを含む古い顔料を買い集め、当時の技法で調合します。17世紀の穴熊の毛の筆までも自作したのです。こうして古いキャンバスに、当時の顔料で絵を描きます。メーヘレンの天才的な宗教絵画の技法によって。完成して絵は、暖炉で繰り返し過熱され、丸めて伸ばされます。そうしてできた細かい亀裂に、墨汁を塗りこみ、古色をつけたのです。ここでは美術修復の経験が役立ちました。そして、ついに復讐の時は来ました。フェルメール研究家の権威、プレディウス博士に絵を見せたのです。「この絵に驚愕を覚える。全ては一体化し、崇高な美を形成している。」絵は真作と認められ、彼は復讐を果たすはずでした。しかし、なんと彼は、その絵を売却し、多額の金銭を受け取ってしまったのです。「自分がコントロールできない。ただ、流れに逆らえず、作り続けるしかなかったのです。」その彼の言葉どおり、9作もの贋作を作り、売却したのです。その売価は、フェルメールの真作の売価の1万倍と言われます。そして彼は浪費生活に明け暮れ、女性と麻薬に溺れます。彼が贋作作りを名乗り出た時、誰も信じませんでした。顔料の化学分析でも17世紀と同じその絵は、全くにフェルメールの絵そのものだったから。今日になって、ようやく顔料の鉛210の半減期の違いから、真贋が判別できるようになったほどに。当時、彼の贋作の実演で、ようやくその贋作が認められたとき、評論家はこう述べました。「我々はフェルメールを失い、メーヘレンを得た。」しかし1947年11月12日に有罪判決を受けた彼は、病院に入院します。そして12月30日には他界したのです。死因は心労からの心臓麻痺でした。最高の技術を持って美術界に挑戦したメーヘレン。彼はその歪んだ信念と、自らの欲望の前に、全てを失ったのです。彼は忘れていました。優れた才能も、純粋でなければ、輝かないということを。【関連日記】デルフト フェルメール
2007.11.19
コメント(31)
過去を否定したくなる。その気持ちは分かります。人は絶えず、成長しているのだから。形而上絵画で有名なキリコは、過去を否定しました。1910年頃、形而上絵画で有名になりながら、やがて古典的絵画に作風を変えます。そして驚くべき行動に、キリコは出るのでした。1946年.彼はパリのアラール画廊に飾られている彼自身の作品を、贋作と宣言します。それらは1910年頃の形而上絵画でした。さらに1947年、画商サバテロの所持する作品を贋作と断じます。彼自身が売った作品にも関わらず。そして彼は裁判で負け、賠償金を払うことになるのです。しかし次々と贋作宣言を出す彼。画廊、コレクター、さらには美術館にまで。多くが裁判になり、真贋を巡って紛糾することになるのです。彼は自身の過去を否定したくて、真作を贋作と宣言したのです。100点以上の形而上絵画の作品を残したにも関らず。後年の古典的絵画の作品は、十分に評価されなかったにも関わらず。しかし、彼は1933年、1973年に、自身の過去の形而上絵画作品を模写するのです。自身が否定した作風の、ある意味で贋作を作ったのです。この過去を否定しつつ、人気のある過去は捨てきれない。この自己矛盾は、彼を苦しめたことでしょう。自身の真作を贋作と認定し続けた晩年の彼。否定したい過去があり、今を認めてくれない世の中がある。認めたくない過去と、認められたい現在。この葛藤は、とても辛い自己矛盾への入り口なのです。【参考】 キリコの作品:徳島県立近代美術館
2007.11.15
コメント(42)
有名な話ですが、エジソンとテスラは電流戦争をしました。つまり家庭用送電を、直流にするか、交流するかの戦いです。直流を支持したエジソン。そして交流を支持したテスラ。結果はご存知のとおり、エジソンは負け、交流が採用されます。しかし、その争いの中でのエジソンの行動には、狂気を感じます。交流のイメージを悪くするしかない。エジソンは、こう考えました。街中の野良犬を集めるエジソン。集めた犬は、一匹ずつ金属板に載せられます。おびえる犬たちの載る鉄板に、次々と電流が流されたのです。もちろん、その電流は交流でした。それはエスカレートし、大きな象を使う感電ショーが計画されました。さすがに、この計画は中止されましたが。そこで、エジソンは天才のひらめきで、良いアイデアを考えます。ターゲットを、人間にしたのです。死刑の道具の絞首台は、電気椅子に変えられます。そして人間に流される電流は、もちろん交流です。技術宣伝のために、無用に命を奪う行為。それは、決してあってはなりません。天才エジソン。今日の偉人の再評価で、彼の栄光に徐々に現れる陰り。時を越え、その再評価、その酷評を、彼は受けなくてはなりません。それは、生命の尊さを忘れた、彼が背負うべき罪なのだから。【関連日記】○ それでも夢へ挑戦しますか - 稲妻博士 ニコラ・テスラ -
2007.11.09
コメント(40)
法隆寺。多くの人が五重塔や金堂を訪れる。そのなか、私は夢殿のある法隆寺東院に佇んでいました。法隆寺東院。そこはかつての斑鳩宮の跡。山背大兄王の想いの残る場所。厩戸皇子、つまり聖徳太子の子である山背大兄王。人気絶頂で、度重なる皇位継承の機会がありながら、天皇とならなかった王。643年、蘇我入鹿は、皇位継承の邪魔となる山背大兄王を襲撃します。父、厩戸王には、遺言がありました。「諸々の悪をなさず、善を行え」この遺言を守り、山背大兄王は決意します。「もし入鹿と戦えば、私は勝つだろう。 しかし、私ひとりのために、多くの百姓が命を落とすことになる。 それならば、我が身を入鹿にささげよう。」戦闘放棄した山背大兄王。彼は一族23名全員とともに、集団自殺して果てます。その最期の場所が、斑鳩宮。法隆寺東院。今日、法隆寺は、山背大兄王が望んだ平穏に満ちています。東院の回廊を吹く清々しい風は、静かに秋の訪れを報せます。今から1300年以上前、法隆寺には、平和を願うひとりの王が生きていたのです。
2007.11.01
コメント(26)
2度のノーベル賞を受賞したマリー・キュリー。ラジウム,ポロニウムの生成・発見など、放射線の研究に対する貢献は甚大です。研究設備が十分でない中での研究は、才能も当然ながら、強い意志と不断の努力が見られます。2度もノーベル賞を受賞しながら、授賞式を欠席したキュリー。そこには研究者として純粋でありたいと願う、彼女の姿勢が見られます。しかし彼女の業績は、あまりに眩しすぎました。分光器でラジウムが新元素であることを特定したウジェーヌ・ドマルセー。そして共同研究者で、ラジウム発見の論文に連名であったグスタフ・ベーモン。このふたりはキュリー夫妻の研究に重要な貢献をしながら、夫妻の業績の陰に消えてゆきます。太陽が輝くとき、星はその輝きを失います。眩しすぎる業績は、多くの人の業績を覆い隠します。そして光が眩しすぎるなら、人はその光を消すことを始めます。夫ピエール・キュリーの死後、弟子のランジュヴァンとの恋愛関係が、スキャンダルとして広まります。真相は明らかではありませんが、マスコミによる過剰な報道であったと私は思います。しかしこれも、必然の結果もしれません。人は完璧な人間を望まないのですから。精神的に苦しめられた彼女。そして肉体的には、酷い放射線障害に苦しめられます。放射能汚染物質に指定されるほどの彼女の実験ノート。ポケットに入れて持ち歩いた放射性物質。さらに、戦争で傷ついた兵士を救うため、自家用車を改造したレントゲン車で、戦地を奔走したこと。放射線という見えない光は、彼女の生命の光を奪い去ります。皮肉にも彼女はレントゲン診断で結核と誤診され、家族からも隔離されて孤独な最期を迎えます。このスキャンダルと孤独の晩年は、彼女自身の眩しすぎる業績の陰で、あまり知られてはいません。彼女の人生から学ぶこと。それは、眩しすぎる業績は、周囲の人の業績を消し去る恐れのあること。そしてその反動は、いつかは輝く本人への攻撃として返ってくること。私が書く偉人の話も、輝く偉人の業績に影を落とします。それはその業績の陰から、隠れた人物を見出そうとするためです。今日もドマルセーとベーモンの、ふたりの業績が見えてきました。この私の行いが正しいことか、そこには常に迷いもあります。ただ、いつも思うこと。それは、人は眩しすぎる光を、望みはしないということです。
2007.10.28
コメント(41)
文字が読めない。これは想像する以上に、辛いことです。トム・ハーケンは、文字が読めませんでした。なぜなら幼少の時に、8年間の隔離闘病生活を送ったから。小学校に行くチャンスを失い、文字を習うことができませんでした。しかしトムには、素晴らしい記憶力がありました。顧客を完璧に覚える才能を生かし、ビジネスで大成功を収めます。そして巨大レストラン・チェーン「CASA」を展開し、億万長者となるのです。その彼が抱える悩み。それは自分のレストランのメニューすら読めないことでした。いかに綺麗なメニューを作ろうとも、トムには料理の名前が読めないのです。そしてついに、恐れていたことが起こります。ある夜、トムの子供がおねだりをしたのです。「パパ、この本を読んで」明らかに動揺する父親を、不思議そうに眺める子供の顔。その顔を見たとき、トムはついに決心します。「今からでも遅くはない。文字を学ぼう。」大人になってからの、初めての語学は辛いものです。毎夜、奥さんから一文字ずつ教わるトム。そこにはビジネス界の雄トム・ハーケンの姿はなく、子供に本を読んで聞かせたいと願うひとりの父親の姿がありました。そして数年後、ようやくトムは子供に本を読んで聞かせる夢がかないました。それは億万長者になった時より、さらに大きな喜びでした。トムは教えてくれます。諦める必要はないことを。そして、遅れを取り戻すチャンスは、人生には何度もあることを。
2007.10.24
コメント(29)
名門私立小学校に入学したステファン。しかし、文字を少しも読むことができません。結局、1年目は落第。4年生ではついに退学となります。文字を読むのが遅く、記憶力もよくないステファン。そうです、彼は難語症だったのです。一方で、彼には豊かな想像力がありました。いつも空想にふける彼。両親は彼を理解し、ステファンを教育し、高校に入学させます。そしてフットボールの才能があった彼は、奨学生としてオレゴン大学に入学します。そかし大学でも、彼は学力不足で落第してしまうのです。失意の彼でしたが、文章表現が専門のラルフ教授と出会います。教授の講義は、ステファンの豊かな空想を現実のものとするのに役立ちます。そして彼は作家を目指します。文章を書くことはとても苦痛でしたが、ステファンは書き続けます。そして、ついにテレビ脚本「アダム12」で、鮮烈なデビューを果たします。その後も、「特攻野郎Aチーム」、「ロックホードファイル」、「ベレッタ」、「ハンター」、「激流」、「ワイズガイ」、「コミッシュ」とヒット作を生み出すのです。難読症でのけ者にされた彼。その彼の描く作品の主人公達は、同じ様なアウトサイダーです。作品の主人公達は、ステファンの夢そのものなのです。諦めてはいけません。夢をかなえる方法は、ひとつではないのですから。
2007.10.21
コメント(36)
人はなぜか、スピードに魅了される。果てしなく高速であることに、不思議なほどの魅力を感じる。ジョン・ポール・スタップは、1954年に地上最速を記録した。スレッドと呼ばれるロケットエンジン搭載の乗り物で、レールの間を走る。その速度は、時速1017km。45口径のマグナムの弾丸より速い。しかし5秒で最高速に到達するには、かなりの犠牲をともなう。そして恐ろしいのは、その減速。速く走った後は、止まらなくてはならない。時速1017kmで、水の中に突然、ブレーキ板が打ち込まれる。わずか1.4秒での急停車。その衝撃は、時速200kmの車がレンガ塀に衝突するのに等しい。改良を重ねたシートに、手足も縛り付けて固定した。彼自身、35Gまで耐えられる訓練を続けていた。それでも、その衝撃は恐ろしい力でした。腕が、手首が、肋骨が、そして背骨までが折れた。全身には激しい打ち身、腹部ヘルニア、水ぶくれ、脳震盪。そして一時的な失明。減速の勢いで眼球が飛び出しそうになり、両目の周囲にはあざができた。歯の詰め物も、全て飛び出していた。速く走り続けた後は、いつかは止まらなくてはなりません。そして減速のとき、今までの全てが襲いかかります。人類の文明の進歩は急激です。加速し続ける私たち人類は、減速の恐怖を、まだ知らない。
2007.10.15
コメント(36)
真理を追究するあまり、人はしばしば禁断の領域に踏み込みます。ペルーの医学生ダニエル・カリオンは、ある病気の研究に行き詰っていました。それは「ペルーいぼ病」という奇病で、高熱や貧血を特徴とします。かえるの毒が原因とされるなど、正体不明の奇病。人間などしか感染せず、マウス試験はできません。思い悩んだ彼は、1885年、自らの体で人体実験をします。患者の血液をつけたメスで、自らを傷つけるという恐ろしい実験。その実験で仮説通り、彼は感染します。そして病因は、血液中の細菌によることが判明したのです。しかし、現実は残酷です。病気は彼の予想を超えて進行します。そして「オロヤ病」を発症します。そうです。「ペルーいぼ病」は「オロヤ病」の初期段階で、両者は同一の病気だったのです。そして「オロヤ病」は死に到る、治療法のない恐ろしい病気でした。彼は予想外の事態に狼狽します。しかしなすすべなく、発症からわずか19日で死亡するのでした。その後この病気は、バルトネラ菌をサシチョウバエが媒介することで感染することが分かります。そして治療法も確立され、その病名は彼にちなんで名付けられます。「カリオン病」です。彼を愚か者と呼ばないで。彼の行為を自殺と言わないで。彼は純粋に、真理を追究したかっただけなのです。真理を追究するあまり、真理への近道を急ぐあまり、彼は自らを守ることを軽視しました。わすれないでください。危険な領域に踏み込むことを、人は挑戦と呼ぶのです。
2007.10.12
コメント(38)
第2次世界大戦中、イギリスを悩ませたドイツの潜水艦Uボート。Uボートの通信に使われた、解読不可能といわれる暗号。その暗号解読機こそ、あの名高いエニグマです。数学の天才アラン・チューリングは、仮想計算機理論を構築した数学界の華でした。彼は、イギリスの窮地を救うため、暗号解読を志願します。数学の研究を放棄し、自らの夢を捨ててまで。そして、エニグマの暗号解読を成し遂げるのです。成果は目覚しく、実質、ドイツのUボート作戦は停止。チューリングは、イギリスを救いました。しかし戦後もイギリスは、暗号解読の事実を隠蔽します。イギリスの植民地各国に、解読不能と偽りエニグマを供給、各国の情報をスパイしていたためです。このことは、チューリングの業績が闇に葬られることを意味しました。業績を失ったチューリング。6年の数学界のブランクは大きく、かつての輝きも失われていました。そして、彼はホモセクシュアルでした。当時のイギリスでは、同性愛は犯罪。彼は逮捕され、女性ホルモンが投与されます。乳房が膨らみ女性化し、さらに精神を病みます。そして2年後の1954年、彼は青酸カリ中毒で死亡します。自殺とされますが、施設刑事に常に尾行されており、暗殺との説もあります。同性愛者は拷問に弱いとされ、最重要の国家機密を彼が漏らすと思われていたためです。イギリスでは機密業務に同性愛者が就けないという法律は、2000年まで維持されていたほどです。いずれにせよ、国家のために全てを捧げ、国家を救ったチューリング。彼は国家の邪魔者となり、闇に葬られました。エニグマの暗号を解読したとき、彼は光の中にありました。そして同性愛という彼自身の暗号が解読されたとき、彼は闇に封印されたのです。こころしたい。秘密を知られては、なりません。
2007.10.04
コメント(42)
時には想像を超える天才がいるものです。それはインドの数学者、シュリニヴァーサ・ラマヌジャン。インドのバラモンの生まれながら、貧しかった彼。カーの「純粋数学要覧」との出会いが彼を変えます。そこには証明も説明も不十分に、6000もの数学の定理が掲載されていました。それを彼は次々と独学で証明し、数学に没頭してゆきます。貧しい彼は、奨学金なしでは学校に行けません。しかし数学以外は全くできない彼は、奨学金を打ち切られます。それでもやがて彼の才能を認める一部の人の支援で、港湾局の経理部員に採用されます。そしてイギリスに、彼の考えた公式を送ります。その公式集は無視されます。しかし4人目の送付先のハーディは、丁寧に無名のインド人の手紙を読み解きます。そして天才現るの確信を得て、狂喜乱舞するのでした。しかし海を越えてはならないというバラモンの戒律を破り、ケンブリッジ大学に彼が来たのは1914年。そして彼が独学で考え出した公式は、彼が持参したぼろぼろの3冊の「ノートブック」に書きとめられていました。その公式の数は3254個。教育を受けることもなく、「女神の啓示」によって得られた公式でした。この公式の証明に数学者達は取り組み、1997年になったようやく完了したほどです。その後、半日で1ダースの公式を生み出します。しかし30時間働き、20時間寝る生活は彼の体を蝕む。しかも彼はイギリスの人種差別に傷つき、第一次世界大戦が終わった1919年にインドに戻ります。しかしインドにあったのは、、重病の彼の枕元で繰り返される嫁と姑の口論。インドにも、安息の場はありませんでした。「嫁姑のいさかいが彼を殺す」と言われるほどの状況の中、彼は亡くなります。インド帰国後わずか1年。32歳の若さでした。病名は、ビタミン欠乏症といわれます。このわずか1年で、彼は多量の公式を生み出していました。それは「失われたノートブック」に書き留められており、1976年に偶然発見されます。そしてその公式の証明は、いまだに完成していません。特殊相対性理論は、アインシュタインがいなくても2年以内には証明されたと言われます。しかしラマヌジャンの「ノートブック」の公式の数々は、どうして考え出されたかも分かりません。まさにラマヌジャンが聴いた「女神の啓示」なのです。数学の魔術師ラマヌジャン。彼の謎の業績には、人の可能性が秘められています。*もしラマヌジャンの天才ぶりの確認がご希望でしたら、ウィキペディア「シュリニヴァーサ・ラマヌジャン」の円周率の公式をご覧ください。この様な式を瞬く間に生み出してゆくのです。
2007.09.29
コメント(29)
携帯電話のバッテリー寿命の短さには困ります。少し外出先で連続通話すると、たちまちに電池がなくなります。昨日は少なくても良いから、なぜもっと電池寿命の長い携帯電話ができないか不思議です。電気メーカーさんの方向性が間違っている気すらします。その点、車のバッテリーは長寿命。色々な構造や使用条件が違うことは分かりますが、それにしてもカーバッテリーは高性能です。そこで思い出すのは、日本電池のGSバッテリー。現在は日本電池は、ジーエス・ユアサバッテリーとなっていますが。ご存知でしょうか。GSバッテリーのGSは、創設者の島津源蔵氏の頭文字。格好良いスポーツカーに乗っているバッテリーも、“源蔵さん”のバッテリーなのです。そして間違い易いのですが、島津源蔵はふたりいます。分析機器で有名な島津製作所の創設者の初代・島津源蔵氏。そしてバッテリー等の日本電池の創設者の2代目・島津源蔵氏。ふたりとも同じ名前ですから、間違い易くなります。親子で同一名を世襲するのは珍しいことです。いくら長持ちでも、あのGSバッテリーが携帯電話に付いたら重いだろう。そんなことを思いつつ、電池がすぐ切れる携帯電話を眺める今日でした。
2007.09.26
コメント(38)
電気化学で有名なファラデーは、控えめな性格。生まれの貧しさゆえに、小学校しか卒業できなかった彼。製本業に従事していたところを、デービーに助手として雇われます。デービーはボルタの電池を改良。さらに、カルシウム、ストロンチウム、バリウム、マグネシウムを発見した優れた化学者。しかしデービーは、生まれの貧しいファラデーを軽蔑していました。それでもファラデーは、デービーを尊敬します。ファラデーを救ってくれたのは、デービーなのですから。しかしデービーは、彼を越えていくファラデーを許せませんでした。電気分解の法則、電磁誘導の法則、ベンゼンの発見。ファラデーは次々と、すばらしい業績を残します。それでも控えめな彼は、ナイトの称号も辞退します。さらに後には、王立協会の会長も辞退します。それほど優秀で控えめなファラデーを、まだデービーは許せません。ファラデーの王立協会への推薦を、デービーが反対したのは有名な話です。しかしついには、デービーもファラデーを認めます。デービーは、次の言葉を残します。「私は科学上の発見を成したが、生涯最大の発見はファラデーを見出したことです。」今日、デービーは、ファラデーの発掘者として名を残します。ファラデーを認めたとき、デービーも真の偉人となったのです。本当に才能のある人は、他人の才能も認めることができる人。他人の才能を、認めなくてはなりません。他人を認めることで、自らも真の高みに到達できるのですから。*【参考】 対照的なふたり過去の日記(1):ニュートン過去の日記(2):ワット
2007.09.24
コメント(40)
ニュートンは、いじめにあっていました。その相手はロバート・フック。ばねの伸びが荷重に比例するフックの法則で有名な彼。彼は、光の粒子説、波動説などでニュートンと対立します。24年間に渡るニュートンへの攻撃は熾烈でした。しかしフックの死後、ニュートンの反撃が始まります。王立協会に君臨したニュートンは、フックの全ての論文を焼き尽くします。更に手稿や実験データも抹消し、協会の名簿からも消し去ります。今日に到るまで、イギリス王立協会には、フックの記録は何も残っていません。「焼き尽くせ! 抹消しろ!」復讐を成し遂げたニュートンですが、その復讐は彼の性格をも蝕みます。まるで晩年のワットの様に。学会でニュートンに反論するものは全て抹殺。だれもニュートンに反論できません。造幣局の監事も勤めた彼は、通貨偽造の犯人を次々捕らえます。そして、それほどの重罪でないにもかかわらず、十人以上を死刑にしました。いわゆるニュートンの恐怖政治の時代です。学会でも恐怖政治を進めたニュートン。世の中は代数学の時代でしたが、ニュートンはそれを認めません。それでも誰も、ニュートンには逆らえません。そのためイギリスの運動力学は停滞し、フランスを中心とした時代に変わります。100年以上は遅れをとったイギリスは、その後、運動力学で大陸に勝ることはありませんでした。ニュートンは、運動力学を生み出し、そして自ら破壊したのです。夢を手に入れたなら、夢への道を続く人に譲らなくてはなりません。さもないと、あなたが手にした夢は、全て悪夢に変わってしまうから。【参考】過去の日記:『錬金術師ニュートン』
2007.09.21
コメント(36)
珍しくテレビを拝見しました。ほとんどテレビを見ない私が2時間も。とても珍しいことです。番組はダイアナ妃の生涯について。ご覧になった方もおられるかと。ダイアナ妃の生涯は、ハプスブルグの華エリザベートの生涯を想起させます。王宮の格式は、自由を求める彼女たちを苦しめます。エリザベートもあれほど嫌悪した王室の象徴として暗殺されました。王室に嫁がなければ、エリザベートはアルプスの自然の中にあったでしょう。女性にとっての結婚の意味の大きさを感じます。*あなたは光と風を身にまとう。しかし王宮に、空はない。ねむっても、めざめても、それは変わることがない。この悲しみはだれのせい。この苛立ちはだれのせい。美しくあれ。優雅であれ。完璧であれ。涙を流すほどの自由は、あなたにはない。そして、あなたを殺しにくるものがあれば、その時は、喜びをもってむかえなさい。*すべては残酷です。マスコミはダイアナ妃を追いつめ、死とともに美化しました。そして今は、死者の過去を掘り起こし始めています。命を賭した死によって得られた自由は、また奪われます。哀しみの記憶の底に沈むその姿は、そっとそのまま留めておきたい。
2007.09.08
コメント(32)
ワット、憶えていますか。トレビシックという若者を。ワット、あなたは蒸気機関の父と呼ばれます。しかし、本当の発明者はニューコメン。あなたはニューコメンの蒸気機関に冷却用復水器をつけた「改良者」。しかし改良は飛躍的。改良発明の重要さをあなたは知っています。ただ、ボールトン・ワット商会で、ワット機関の大量生産を始めてからのあなたは変わりました。ワット、憶えているでしょう。トレビシックという若者を。リチャード・トレビシックは、あなたをも越える天才技術者。蒸気を再加熱する手法で生み出した「高圧蒸気機関」は、ワット機関のわずか1/5の大きさ。それは1801年に「パッパ・デビル」という車に搭載され、クランク機構を用いた史上初の蒸気自動車となります。さらには1804年には、史上初の蒸気機関車を走らせます。ワット、あなたは恐怖しましたね。トレビシックの才能に。あなたは、トレビシックに特許侵害の訴訟を起こします。あなたは、トレビシックを商会の見張りに監視させます。あなたは、トレビシックに殺すと書いた脅迫状を何通も送ります。そしてあなたは、トレビシックに殴る蹴るの暴行を用心棒に加えさせます。ワット、あなたは財力を凶器に変えました。ついにトレビシックは精神を病み、1814年、イギリスから南米に逃げ出します。そしてスペインとの戦いに巻き込まれ、破産するのです。その後、トレビシックのSLは改良を加えられ、1825年に実用第1号が出来上がります。それはジョージ・スチーブンソンのロコモーション号。1827年、スチーブンソンの長男は、ニカラグアでひとりの男性を見つけます。それは物乞い同然となったトレビシック。同情した長男は、トレビシックの旅費を支援し、イギリスに戻させます。しかしすでに貧困は、トレビシックの全てを奪い去っていました。1829年、スチーブンソンはレインヒル競争で大勝利を収め、イギリスに鉄道の時代が訪れます。しかしその4年後、SLの生みの親トレビシックは、貧困のうちに生涯を閉じました。ワット、憶えていますか。トレビシックという若者を。ワット、憶えていますか。あなたがトレビシックにしたことを。いつかは、人は、若い世代に超えられてゆくもの。認めなくてはなりません。わたしたちを超えてゆく者を。
2007.09.05
コメント(46)
コロンブスによる大虐殺。今日、アメリカで認められつつある出来事です。新大陸アメリカに移住した欧州人は、新大陸に災いをもたらします。それは天然痘。免疫を持たない先住民は、次々と病に倒れます。1520年までのわずかな期間で、全人口の80%が亡くなりました。特に、イスパニョーラ島のタノイ族は、500万人が全滅。500万人は、当時のイギリスの人口より多い数。まさに、コロンブスによる大虐殺でした。しかし先住民からの報復もありました。欧州人は先住民を奴隷として船に乗せます。もちろん、飲み水として多量の水も。その水には新大陸にしかない黄熱病を運ぶ蚊が住んでいました。奴隷たちは黄熱病に抵抗がありますが、船乗り達は次々倒れ、帰国時の船乗りは1/3しか生き残りません。そして生き残った船乗りは、欧州に黄熱病を広めます。それはまさに新大陸の呪いでした。黄熱病の症状は、映画エクソシストを連想させます。腕や脚が折れたと思うほどの激痛に患者は暴れます。患者をベッドに押さえつける医師。強烈な頭痛と目の痛み。肌は黄色くなり、眼は赤く染まる。口と鼻からは血が滴り、そして真っ黒な嘔吐物を吐き出します。あまりの悲惨さに、人々は祈るしかありません。神様、新大陸からの悪魔を払いたまえ!謎の病気、黄熱病は長く、人々を苦しめます。後の時代でも1793年のフォラデルフィアでは、人口の1/10が黄熱病で亡くなります。黄熱病。その病気には、新大陸の奴隷達の怒りが込められていたのです。そして今日、私たちは新たな奇病に遭遇し始めています。あなたには聞こえますか。あの地球の怒りの声が。
2007.09.02
コメント(38)
差別的な扱いを受けた女性化学者で有名なのは、やはりリーゼ・マイトナーでしょう。優秀な女性物理学者の彼女は、ドイツでオットー・ハーンとともに核分裂の研究に携わります。1907年頃のこと。ベルリン大学での彼女は、激しい女性差別に遭います。大学の教授達は、女性研究者を嫌いました。地下実験室以外への出入りは禁止され、トイレさえも使えません。しかも彼女はユダヤ系。ヒトラー政権下の弾圧で、やむなくスウェーデンに亡命します。そしてひとりになったハーンは、単独名で核分裂に関する論文を発表します。1944年、その功績で、ハーンはノーベル化学賞を受賞します。その後もハーンは、マイトナーの名を隠し続けました。しかし、マイトナーはアメリカで再評価されます。それとともに、ハーンの名はドイツ以外では忘れられていきます。元素番号109番、マイトネリウムは、彼女の名前にちなんだ名です。科学者の再評価で、マイトナーは救われました。しかし、核分裂の発見に関しては、今もアメリカではマイトナー、ドイツではハーンの評価で二分されます。アメリカ対ドイツという図式の元、原爆の戦勝国アメリカで、むしろ過大に評価される感のあるマイトナー。控えめだった彼女が、この評価を望んだでしょうか。核分裂の発見は、マイトナーの物理の知識と、ハーンの科学の知識の融合で生まれたもの。まさにふたりの共同での成果。名誉を独占しようとしたとされるハーン。しかし彼が、ユダヤ人マイトナーが弾圧されるドイツにあったことを忘れてはなりません。もしあの戦争がなかったら、二人の運命は違ったでしょう。ヒトラー政権下で、きっとハーンは、このことを言い出せなかったに違いありません。「リーゼ、戦争が終わったら、その時は、もう一度、一緒に研究をしないか。」(今日、誕生日を迎えた、kopanda06)
2007.08.29
コメント(54)
全211件 (211件中 101-150件目)