【西洋陶器を求めて】 0
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ノーベル生理学・医学症を受賞した、ロビン・ウォレン。彼はピロリ菌(ヘリコバクター・ピロリ)が、十二指腸潰瘍の原因とつきとめました。その発見には、偶然がともないました。いつもは48時間の、菌の培養。しかしその時、彼はイースター休暇に入りました。そのため培養中の菌は、5日以上放置されました。この培養実験の放置がなければ、ピロリ菌の作用は解明されませんでした。ピロリ菌の培養には時間がかかり、48時間では短すぎるから。休暇が、ノーベル賞を生みました。たとえ忙しくとも、休養とこころの余裕は欲しいもの。働きすぎのあなた、ときには休んでみませんか。
2012.09.08
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ガリレオ・ガリレイが望遠鏡を製作したのは、パトロンからの報酬が目的でした。17世紀初め、パリなどでは倍率3倍の望遠鏡が売られていました。そもそも望遠鏡は、オランダの眼鏡職人ハンス・リッペルスライら、複数の技術者によって発明されたもの。当時、イタリアのガリレオは、ベネチア総督をパトロンにしていました。ところがガリレオは、オランダ人からこの総督に、望遠鏡がプレゼントされる情報を入手します。パトロンの歓心を失ってはならない。パトロンからの報酬を目的に、大あわてでガリレオは倍率8倍の望遠鏡を作成します。ガリレオの望遠鏡を支えたのは、ベネチアのガラスレンズ製作の技術でした。「高倍率の望遠鏡なら、敵艦を早く発見できる」これがガリレオが、パトロンへの望遠鏡プレゼントの宣伝文句でした。そして、目的どおり、ガリレオの報酬は2倍に引き上げられました。しかし、間もなくイタリア情勢の不安から、報酬は引き下げられます。仕方がなくガリレオは、望遠鏡で星をながめ始めます。それがやがて、木星の衛星発見や、地動説の発想につながります。現代でも、科学研究費の争奪は壮絶です。ひとの活動の原動力にある、名誉欲、金銭欲。つねに欲は、ひとの活動を支えています。
2012.08.26
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1906年、フッ素の分離と電気炉の製作でノーベル化学賞を受賞した、フランスのアンリ・モアッサン。何人もの命を奪った、猛毒フッ化水素を扱うフッ素分離の研究。彼自身も、実験中に片目を失いながらの功績でした。モアッサンには、もうひとつ、重要な研究がありました。それは、1893年に発表された、ダイヤモンドの人工合成成功の発表。人工ダイヤモンド合成という、まさにノーベル賞相当の成果。しかしそれは、彼の死後に、捏造された成果と判明しました。それは、彼の助手が合成炉の中に、天然ダイヤモンドを入れた捏造。モアッサンを喜ばせるために。結果としてその捏造は、モアッサンの成果に汚点を残しました。支援する気持ちは、大切です。しかし、過剰すぎる想いは、相手を苦しめることもあります。誠実に、適切に。人への想いには、バランスが必要なのです。 ※フッ素の原料、蛍石を濃硫酸中で加熱すると、猛毒フッ化水素を発生します。厳禁。
2012.06.23
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1896年8月、現在の岩手県花巻市に、宮沢賢治は生まれました。それは、その年の6月起きた三陸地震と津波の爪痕が、まだ残る夏でした。賢治は、石集めが好きでした。「石っこ賢さん」、それが彼の呼び名でした。東京で、人造宝石を作る。23歳の彼は、真剣に宝石店の開業を考えました。残念ながら、それは父に反対されました。宝石店をあきらめ、作家になった賢治。その作品にも、石の話が多く登場します。「あれはみんな水晶なんだ」(銀河鉄道の夜)夜空の星は、彼にとっては宝石でした。震災や、冷害ではなく、石は自然が彼にくれる、数少ない安らぎでした。雨ニモマケズ風ニモマケズ農民の困窮を想い、いつも自然災害を憂いた賢治。ただ、自然が穏やかであることを願いました。しかし、1933年3月、ふたたび三陸沖地震が発生しました。哀しみの中、その年の9月、賢治は肺炎で亡くなります。三陸地震の年に生まれ、三陸沖地震の年に亡くなった賢治。自然は、自然を愛した賢治に、最期まで厳しく辛い試練を与えました。最期の年、賢治は震災後の様子を書簡に記しています。「海岸は実に悲惨です」
2012.04.14
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画家ダヴィッドの作品「皇帝ナポレオンの聖別式と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式」。ナポレオンの権威を後世に伝える、貴重な絵画。その大きさは、6m×9m。戴冠式は、当初は屋外の広場を予定していました。しかし革命直後の不安な情勢。大衆注視のもとでは、不満が爆発するとナポレオンは恐れました。そこで急遽、戴冠式はノートル・ダム大聖堂の中で開催されました。戴冠式の絵も、初めの予定は、ナポレオンが自ら王冠を被る構図。それでは国民の反感を買うと恐れ、ジョセフィーヌへの戴冠に変更されました。国民の反感を恐れた、ナポレオン。強大な権力者は、彼は国民におびえていました。大きな絵に隠された、権力者のおびえ。力を示そうとする者ほど、実は臆病なものなのです。【絵画】 「皇帝ナポレオンの聖別式と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式」【過去の日記】 「使いすぎに注意しましょう - ジョセフィーヌ -」
2011.11.10
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あの医者は治療もせず、俺を殺そうとしている。あの看護婦も食事に毒を入れ、俺を殺そうとしている。ふざけるな!殺されてたまるか!アメリカ人数学者、ゲーデル。彼の代表的な業績は、不完全性定理。不完全性定理とは、「数学は自身の完全性を永久に証明できない」というもの。数学といえども完全ではなく、人間の理性には限界があるとする定理。ゲーデルは、生涯、被害妄想に悩まされます。医者の治療の遅れは、医者が彼を殺そうとしているからと考えました。1978年、ゲーデルは亡くなります。病院の食事も、医者が毒を入れていると思い込み、食事を拒否しての餓死でした。彼の業績、「選択公理の無矛盾性の証明」や「一般連続体仮説の無矛盾性の証明」。これらは彼が、入退院を繰り返している時期の業績でした。人を疑う、猜疑心。疑問を問いかける、探究心。これらは、表裏一体の存在にあります。常にこころにブレーキを、その境界を越えないように。わたしから、あなたへ忠告します。天才になっては、なりません。
2011.10.16
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小松左京さんの訃報から、しばらく昔を懐かしんでいました。子供の頃から、読書好きだった私。私立の図書館に通っていました。その図書館は、子供用と大人用が別の部屋。ポプラ社などの本を読み切り、いつしか大人室に通っていました。そこにあったのは、SFの全集。出版社は覚えていませんが、大きな黒いハードカバーの背表紙に金文字のタイトル。小さな文字での2段組み、1巻あたり400~500頁の大著。全20巻以上はありました。その重い全集が、小松左京さんとの出会いだったと思います。正直、小松左京さんのSFは、あまり好きになれませんでした。その後の角川映画ブームも、私にはマイナスに。小説は映画より本で読むものと、当時は思っていたから。やがてSF全集を読み終えて、次は同じシリーズのミステリー全集を読んでいました。思えばあれが、本格的な読書習慣のきっかけ。小松左京さんの最近の記憶は、「ホシヅルの日」の提案者。星新一さんの描く鳥は、ホシヅルと呼ばれていました。ホシヅルは、私もよくまねをして描いていました。左京さんの作品で、印象に残ったのは、「くだんのはは」。この作品だけは、左京さんで別格に好きでした。今思い返しても、名作です。凶報を予見するという、くだん。災いがある年に、生まれます。3月の東北の震災。そして左京さん自身もなくなりました。今年は、くだんは、生まれたでしょうか。【過去の日記】 「あらゆる不幸を 予見して ― 件(くだん)―」
2011.08.08
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できることを、すればよい。19世紀初頭、すでにエレベータは工場などで使われていました。動力に内燃機関を使った、機械的なエレベータ。しかしそのエレベータには、落下防止機能がありませんでした。ロープが切れれば、落下するエレベータ。荷物は運べても、人が乗るにはあまりに危険。それを変えたのは、イライシャ・グレーブス・オーチス。アメリカの発明家。非常停止・落下防止用のツメを、エレベータに付けました。彼は博覧会で、その技術を紹介します。安全性を証明のため、彼はエレベータのロープを切断。見事、エレベータは停止しました。しかし彼自身は、この技術の有用性を十分に認知していませんでした。考案の9年後の1861年。とりあえず特許は取得したものの、その年に彼は他界します。その重要性に気付いたのは、彼の息子チャールズ。さらに改良を続け、近代的なエレベータを生み出します。もしエレベータがなかったら、高層ビルがこれほど普及することはありません。もしエレベータがなかったら、都市部は深刻な土地問題を抱えたことでしょう。わずか、落下防止のツメが、高層ビルを生み、街を変えました。大発明ではない、わずかな技術改良が、世の中を変えることもあります。高度な文明社会を支えるのは、ひとりひとりができることで、良くしようとする、想いの積み重ね。 ・今週はかなり多忙になります。 そのため、今週はブログが半休止状態になります。 ご了承くださればと思います。
2011.06.19
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マダム・タッソーの呼び名で知られる、マリー・グロシュルツ。ロンドンに、ろう人形館を設立したことで有名です。ヴェルサイユ宮殿に居住していた、マリー・タッソー。フランス国王ルイ16世の妹、エリザベートにろう人形の作り方を教えていました。しかし、1789年、フランス革命が起こります。1792年のテュイルリー宮殿襲撃。彼女はそこで、死体の山の中に知人を見つけます。その体験が、後のろう人形館「恐怖の部屋」開設のきっかけになります。さらにフランス革命は、彼女に試練を強います。国民議会は彼女に、ギロチンで切られた頭の、デスマスク作りを命令します。ルイ16世や、マリー・アントワネットに、彼女は親しみを感じていました。そのルイ16世やアントワネットのデスマスクさえも、彼女は作ることになります。切断された頭から、型取りをして。さらに、運命は過酷です。彼女は突然、逮捕されます。理由は・・・?フランス革命の処罰に、正当な理由は必要ありません。牢の中で、後のナポレオンの后ジョゼフィーヌと出会った彼女。ふたりは、ただ、ギロチンのその時を待っていました。ギロチン用に、髪も切られていた彼女。しかし、その時、奇跡が起きました。彼女の処刑を命じていた、ロベスピエールが失脚、ギロチンに処せられたのです。解放された彼女。彼女は逆に、ロベスピエールの頭から、デスマスクを作ることになりました。時には、友人の頭を手に。時には、宿敵の頭を手に。デスマスクを作り続けた、マダム・タッソー。デスマスクを作れたから、彼女は生き延びました。デスマスクを作れたから、彼女は過酷な試練を強いられました。おのれの力に、放浪され続けた彼女。芸は身を助ける。このことわざを聞いたなら、彼女は、なんと答えたことでしょう。【参考】 「幽霊屋敷」の文化史,加藤耕一,講談社現代新書,2009年,286P 【AFPBB NEWS】 「マダム・タッソー館のろう人形たち」 ※マダム・タッソー館のろう人形を、こちらで見ることができます(ハリウッド館)
2011.05.31
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文明の発達を支えた人々。アインシュタインなど、多くの人がアスペルガー症候群だったと言われます。アスペルガー症候群は、広い意味での自閉症。近年では、ビル・ゲイツもアスペルガー症候群と言われています。アスペルガー症候群では、興味あること爆発的なパワーを発揮します。集中力と粘り強さは、特定分野では他の追従を許しません。一方で、しばしば、社会は失われます。アスペルガー症候群の人々は、文明の進化に大きな変化点をもたらしました。考えれば、この世は「おたく」のおかげで進歩した社会。しかし、その社会自体は「非おたく」です。おたくが作り上げた、非おたく社会。誰がおたくが作り上げたものを、非おたくにしたのか。「おたく」を「非おたく」に変えるもの。その存在が何か、とても気になってなりません。・・・・・・・・・Yahoo オタク検定。私は、オタク不合格になりました。【診断1】 「Yahoo オタク検定」とてもマニアなオタク検定。これも当然不合格と思ったら、オタク度120%、オタクの真髄と認定されました。【診断2】 「GoisuNet オタク検定」
2011.03.05
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シャープペンシルが、家電のシャープ株式会社で販売されていないのはなぜでしょう。シャープペンシルの発明者、早川徳次氏。画期的なその発明も、和服に似合わないために販売不振でした。不眠不休で働く日々。海外で売れ始め、やがて従業員200名の会社にまで成長。ようやく、発明家の夢がかないました。しかし続く過労で、早川氏は倒れ、生死の境を彷徨います。一命を取り留め、仕事に復帰。それでも、運命は残酷。翌1923年、関東大震災が起こります。シャープペンシル工場は、焼け落ち、崩壊。妻と、2人の子供も失います。彼に残されたのは、莫大な債務と孤独。彼の唯一の希望であった、シャープペンシルの特許も日本文房具に売却。無一文になり、失意のどん底で、大阪に移り住みます。しかし早川氏はあきらめず、国産鉱石ラジオを製品化。シャープ株式会社を設立します。文房具から、家電メーカに生まれ変わり。関東大震災。早川氏を襲った悲劇。それは結果として、シャープペンシルの普及につながりました。私たちが安価なシャープペンシルを入手できるのも、複数企業の競争のおかげでしょう。また早川氏も、より大きな家電メーカを設立しました。わざわいを、チャンスに変えて。希望を捨てては、なりません。あきらめなければ、夢はきっとかなうのですから。・・・・※「早川式繰出鉛筆」の復刻品が、プラチナ万年筆から販売されています。 「繰出」の名の通り、リングをねじって芯を送り出す方式でした。※ 一番右のリンクは「ゼブラ・テクト」 最近見つけたシャープペンシルで、安価なのに製図用シャープペンシルの書き心地。 私も日常に愛用しています。
2011.02.17
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人気作家でありながら、財産を残さなかった山本周五郎。花街で毎夜遊び、無一文になる周五郎。小説を書く前は、散財の毎日でした。「原稿料は、収入ではない」それが、彼の考えでした。原稿料は、作家「山本周五郎」へのジャーナリズムからの投資。その金を「私」が貯めこむのは、横領に他ならない。それが、彼の考えでした。ある日、妻の箪笥を開けた彼は、愕然としました。妻が里から持ってきた、箪笥5段一杯の着物が、ひとつもなくなっていたのです。「自分の躰(からだ)が唐竹割りにされたようなショックを受けた」山本は、こう書きました。しかし、その後も、彼の散財は続きました。編集者が気に食わないと、原稿料を灰皿で燃やした彼。酒を飲みながらでしか、原稿を書けなかった彼。何とも言えない危うさが、常に作家には、ともにあります。
2011.01.24
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スペインでは、名前が長いほど幸運になると信じられています。そのため、彼の洗礼名は、かくも長くなりました。「パブロ・ディエーゴ・ホセー・フランシスコ・ デ・パウラ・ファン・ネポムセノ・マリア・ デ・ロス・レメディオス・クリスピン・ クリスピアノ・デ・ラ・サンテシマ・トリニダード・ マーター・パトリシオ・クリート」子を想う、親の気持ちが名に現れます。その願い叶ってか、彼は有名になりました。長い洗礼名の後に、次の姓を加えれば、彼の名前が完成します。ルイス・イ・ピカソ。そうです、彼は画家のパブロ・ピカソです。結局彼は、父方の姓のルイスさえも使いませんでした。長すぎる名は、彼にも負担だったのでしょう。長い名に込められた、強い願い。強すぎる想いは、時には負担に変わるものです。
2010.12.28
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追いやられて。20世紀初頭のこと。ピエール・テイヤール・ド・シャルダンは、進化論に強い関心を持っていました。しかし、そこには問題がありました。テイヤールは、カトリックの神父でした。猿から人が進化。それはカトリック教会には、受け入れ難いこと。聖書では、人は神が作ったもの。パリから追いやられた、テイヤール。教会から疎まれた結果、彼は中国に移ります。進化論から彼を避けようとした教会。しかし彼は中国で、北京原人の鑑定に関わることになりました。妨害にも負けず、進化の謎に深く関わった彼。その成功のカギは、夢を捨てなかったこと。逆境でも、投げ出さない。夢を簡単に、あきらめない。あなたを、夢は裏切りません。あなたが、夢の価値を、忘れないでいるかぎり。【参考】 アミール・D・アクゼル,神父と頭蓋骨,早川書房,2010年,326P
2010.11.10
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貧困と結核に苦しんだ画家、モディリアーニ。特に貧困は、彼の寿命を削り取ってゆきました。画商ルイ・リボートに、何度も絵を買って欲しいと頼んだモディリアーニ。しかしリボートは、まったくそれに応じませんでした。1920年、モディリアーニは倒れ、その余命いくばくもない時。街を駆け巡り、彼の絵を買い漁る男がいました。その男は、他ならぬ画商リボートでした。「モディリアーニは、生きていては駄目だ。死んで価値が出る!」絵を買い漁るリボートは、そう語りながら。間もなく、モディリアーニは、結核性髄膜炎により36歳で死去。妻のジャンヌもその2日後、後を追い飛び降り自殺します。そして、リボートの予想通り、モディリアーニの絵は死後、急騰しました。画商として、最高の仕事をしたリボート。しかしその心は、あまりに汚れて。あの美し絵を見る、審美眼を持ちながら。【過去の日記1】 「アメデオ・モディリアーニ」
2010.10.29
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ラフカディオ・ハーンの書簡集が読みたい。耳なし芳一のはなし,むじな,雪女。いくつもの怪談を残した、ラフカディオ・ハーン。日本への関心の高さがうかがわれる、その作品。小泉八雲の名は、日本への愛情すら感じます。しかし、彼が愛したのは、日本の神秘。住んでいる日本、日本人は、好きではありません。日本への嫌悪、不快が書かれた書簡。アメリカへの移住を願う書簡。彼の書簡集には、その心が見え隠れするという。その原因は、彼を「外国人」と見る日本人。街では、洋服に、中折帽、洋靴。家では、様式机を使った彼。彼は小泉八雲ではなく、やはりラフカディオ・ハーン。歩み寄る姿勢。もう少し、それがあったなら、彼は小泉八雲になれたのに。忘れてはなりません。人の目が冷たい、その理由は、しばしば、私たち自身にあることを。
2010.10.11
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二列目の人生。ロサンゼルスの全米水泳選手権。古橋選手、世界新記録樹立。その陰に隠れた、橋爪四郎選手。この大会、予選A組で世界新記録を樹立。しかしその直後、予選B組の古橋選手に世界新記録を更新されます。11回も世界新記録を樹立した、橋本選手。しかし古橋選手との対戦結果は、全60戦で59敗。常に、2列目の人生でした。1勝はヘルシンキ・オリンピック代表選考会。アメーバ赤痢で体調を崩した古橋選手に、初めて勝利。勝利の喜びは、ありませんでした。今も、スイミングクラブ代表取締役社長、財団法人日本水泳連盟顧問などの要職を歴任している橋爪氏。充実した日々を過ごされています。人との勝ち負けではなく、自分との戦い。充実した人生に、悔いが残ることはありません。たとえ、ナンバーワンになれなくても。【参考】 池内紀,ニ列目の人生 隠れた異才たち,晶文社,2003年,230P
2010.10.09
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【葛飾応為 それから】応為の絵に、驚く声が多くありました。時代を考えると、先進的な絵です。もうひとつの作品、「夜桜美人図」(下中央)も素敵です。応為の最期を、悲しむ声も多くありました。寂しい最期。行方は判りません。映画「北斎漫画」には、応為が出ているそうです。また「応為坦坦録」(山本昌代 著)という本もありました。387円の安価な本ですが、楽天ブックスでは品切れです。【日記1】 よぶこえが きこえる - 葛飾応為 -【お岩さん それから】あの怪談では、お岩さんは怒っていることでしょう。それと同じくらい、子孫の方も怒りたいでしょう。新宿区左門町の於岩稲荷田宮神社。この神社の宮司、田宮均さんは、お岩さんの子孫です。心霊現象の話題も。怪談でお岩さんを演じると、祟られるという噂。実話とのギャップを考えると、真実味を帯びてきます。死んだはずだよ、お富さんって・・・。(笑)【日記2】 汚名を 着せられて - お岩さん -
2010.10.08
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うらめしや。有名な怪談、東海道四谷怪談。主人公のお岩さんは、実在の人物。御先手組同心、田宮又左衛門の娘、田宮いわ。彼女と伊右衛門は、大変に円満な夫婦でした。最愛の夫と苦しい家計のお家のため、お岩は商家に奉公にまで出ます。その努力により、お家も再建、昔のように栄えました。人々の話題となった、この田宮家の再興。田宮家の屋敷神は、稲荷祠を建てられ信仰を集めます。これに注目したのが、鶴屋南北。お岩さんと稲荷信仰を利用して、怪談話を創作します。四谷怪談は、大ヒット。お岩さんは怨霊に、お稲荷さまも祟り神とされてしまいました。御家再興につくし、36歳で亡くなったお岩さん。その2年後に他界した、最愛の夫、伊右衛門。200年も後の鶴屋南北の怪談には、さぞや悔しい思いをしていることでしょう。うらめしや。お岩さんが本当に祟りたいのは、鶴屋南北かもしれません。
2010.10.06
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葛飾北斎の娘、お栄。画号は、応為。お栄は、奔放な性格。離婚の原因は、夫の絵を下手だと笑ったこと。絵の才能は素晴らしく、美人画では父、北斎に勝ったとも言われます。女性でありながら、春画さえも描き、時には、北斎の代筆をこなす。西洋の明暗法を取り入れた、その画力は秀逸でした。画号、応為は父の呼ぶ声。「おーい、おーい」と、父が呼ぶ声にちなみます。93回も転居した、奇人北斎の世話をした応為。北斎の他界後、深い悲嘆にくれます。やがて旅に出て、行方不明になりました。父親思いの、お栄。その絵から聞こえる、父の呼ぶ声。おーい。しかし、その声に応える人は、もう、どこにもいません。ただ絵からその声が、いつまでも響いても。「応為作: 吉原格子先の図」
2010.10.04
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ガラス細工のラリック。1900年のパリ万博でデビューした、天才芸術家ラリック。しかしその存在は、1930年ごろには忘れられていました。ラリックへの、冷遇の理由は明確でした。斬新な、裸婦像を取り入れたアクセサリーのデザインが、「挑発的」とみなされたため。ラリックを受け入れるには、まだ未熟な時代でした。「女性には似つかわしくないアクセサリー」。批評家がそう唱える中で、そのアクセサリーを好んだ女性もいました。女優サラ・ベルナールもそのひとり。女優らしく、波乱万丈に生きたサラ・ベルナール。彼女は、その審美眼の高さでも名を残します。芸術は、創作者と、それを見る者で、存在価値が認められます。その偶然の調和が、時代に愛されるということ。*****※リンク先(箱根ラリック美術館)にあるシルフィードなどのデザインが、当時は批判の的でした。【箱根ラリック美術館】 「ラリック 作品」【Wikipedia】 「サラ・ベルナール」【参考 イヴォンヌ・ブリュナメェル,「ルネ・ラリック」,創元社,2009年,ページ変則
2010.07.05
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蒸気機関車の発明者、リチャード・トレヴィシック。優秀な技術者だった彼は、ワットの暴力によって、夢も希望も奪われました。不遇の一生を終えた彼。しかし、その夢は子へ、そして孫へ受け継がれました。彼の子も、機関車技師になりました。さらにその才能は、孫に受け継がれます。孫の名は、リチャード・フランシス・トレビシック。彼は来日し、帝国鉄道局神戸工場で第3代汽車監察方を務めます。そして製作したのが、日本初の国産蒸気機関車 860形蒸気機関車。その後も、2100系など、多くの傑作車を残します。その弟は、フランシス・ヘンリー・トレビシック。やはり来日し、新橋工場の汽車監察方を務めます。日本人女性とも、結婚しました。孫に受け継がれた、トレビシックの才能。その才能は、日本に蒸気機関車の歴史を拓きました。かなわなかった夢、その空しさは、引き継がれ、より大きく、姿を変えて。たとえ、今はかなわなくても。その夢が、尊いものであるほどに。いつか、きっと、明日のあなたが。【過去の日記】 たたきつぶす ― ワット、スチーブンソン、そして、トレビシック ―【参考】 前田清志,日本の機械遺産,オーム社出版局,2000年,162P
2010.06.25
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むかしむかし、江戸の頃、今の福島に目が不自由な若者がおりました。その若者、幼名を城秀と申しました。若くして京の都に移った彼には、大きな夢がありました。筝(こと)の演奏を極めたい。それが彼の願いでした。その夢は、彼の情熱により間もなくかないます。今までにない曲を作り、美しい調べを奏でる彼。彼は、最高官位「検校」となりました。そして名を、八橋と変えました。八橋検校(やつはしけんぎょう)。彼の筝の形にちなんで名づけられた京都の銘菓。それがあの有名な「八ツ橋」。目が不自由な彼は、音に生きがいを求め、味にその名を残しました。なにか欠けた喪失感は、追い求める気持ちをかきたてます。右目が見えない私だから、その気持ち、わかる気がします。
2010.05.11
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エイズウィルス研究の第一人者、ロバート・ギャロ。アメリカの重鎮ギャロは、エイズ研究で有名でした。常に知名度では世界一。エイズウイルスの発見も発表していました。しかしエイズウイルス発見のノーベル賞受賞者は、フランスのリュック・モンタニエ。ギャロがノーベル賞を逃した理由は何でしょうか。1984年、ギャロはエイズウイルス発見を発表。しかしその前年に、モンタニエが発見を発表済みでした。両者の争いは、レーガンとシラク大統領の会見にまでつながります。しかし決着は意外な形でつくことになります。それは、ウイルスの遺伝子解析。ギャロが発表したウイルスは、モンタニエのウイルスと同一。ギャロも、モンタニエが送ったウイルスを盗んだことを認めます。さらにギャロの蛮行が明らかになります。ギャロは権力を利用して、モンタニエらの発表を妨害、論文さえも改ざんしていました。結局、ギャロはノーベル賞受賞を逃します。しかしこのスキャンダルにも関わらず、アメリカでギャロが失脚することはありませんでした。それほど強大な権力を、ギャロは得ているのです。権力争い。研究には本来不要なこの愚行が、なくなることを願ってやみません。
2010.04.29
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良い状態から、元に戻る「元の木阿弥」。戦国武将、筒井順昭。彼が亡くなった時、息子の順慶はまだ2歳。自国の統率力低下を恐れた順昭。彼は遺言で、影武者を求めました。選ばれた影武者。それは、順昭に声が似た盲目の僧、木阿弥。木阿弥は、病床からの声で影武者を果たします。領主としてすごす木阿弥。しかし3年後、順慶に代替わり。元の木阿弥に戻ります。偽ることを続けた木阿弥。その後の木阿弥は、質素ながら平穏を得たに違いありません。幸せを失う意味の元の木阿弥。偽りの栄華と、質素ながら平穏な日々。どちらが幸せかは、問いかけなくてもおわかりでしょう
2010.04.17
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かつて、人類を脅かした天然痘。種痘は、その画期的な予防法でした。種痘を考案したエドワード=ジェンナー。天然痘にかかった牛の膿を、彼は人に接種しました。最初の実験台に、我が子を選んだと言われたジェンナー。しかし、それは真実ではありません。ジェンナーが、牛痘にかかった女性の膿を接種した相手。それは、ジェイムス・フィップスという、貧しい使用人。人体実験が、我が子ではなく、貧しい使用人。その事実は、批判されるべきでしょうか。当時、人体実験は慣例的でした。しかも、天然痘にかかった人に、再発がないことも確認済み。そして種痘をきっかけに、天然痘は自然界から消滅しました。我が子を実験台にしたという誤解。それは日本のみのこと。明治時代の「修身」に、それが美談として描かれたため。批判されるべきは、この作為的な美談の創作。科学の発展は、多くの犠牲を強いるもの。その道のりには、時として誤りもあります。そして、最も恐ろしいもの。それは、作為的な情報操作。犠牲と、過ちと、作為と。科学の発展に付きまとう、暗い陰。その暗い陰を回避する術を、まだ誰も知り得てはいません。【参考】 佐倉 統,「わたしたちはどこから来て どこへ行くのか?」,ブロンズ新社,2000年,141P
2010.02.25
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苦難を乗り越え、日本に渡った鑑真。唐から5度の渡航失敗を乗り越えて来日した鑑真。日本で大僧都となった鑑真ですが、数年で東大寺を追われます。当時、僧侶は無税。庶民は重税から逃れ、僧侶が急増していました。朝廷が鑑真を招いた理由。それは僧侶を許可制とし、税収を増やすため。純粋に僧侶を増やそうとした鑑真は、朝廷には厄介者でした。高齢で、失意の鑑真。しかし援助により、唐招提寺を建立。仏の教えを伝え続けました。日本に没した鑑真。渡航の失敗で失明したと言われますが、近年、それを否定する説もあります。正倉院文書が、鑑真が来日後の直筆とみられるから。来日後にも、目が見えていたかもしれない鑑真。その目を闇に閉ざしたもの。それは、仏より金にすがる、醜い人の姿かもしれません。
2010.02.16
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弘法大師も人の子。京都でひときわ目立つ、東寺の五重塔。東寺は真言宗、空海の寺。しかしその歴史は、意外に世俗的。平安時代、東寺と西寺がありました。西寺は、守敏僧都(しゅびんそうず)の寺。仲が悪い、空海と守敏。ある日、守敏は空海に矢を射ます。しかし身代わりとなった地蔵尊が、空海を守ります。今に伝わる、矢取り地蔵。空海は、最澄とも対立します。桓武天皇の寵僧として、比叡山に天台宗を開いた最澄。その翌年、嵯峨天皇から東寺を勅賜された空海。国家宗教として、天台宗と真言宗は対立を深めます。心配した嵯峨天皇は、最澄に山修山学を認めます。そして空海には、東寺への僧50人の住寺を認めます。空海も、僧同士の勢力争いに奔走していました。名僧でも、容易に消えない人の煩悩。だからこそ、寺では鐘が衝かれます。煩悩が、祓われるように。【参考】 か舎+菊池昌治,京都の魔界をゆく,小学館,1999年,127P
2010.01.29
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寒いときは、寒くなる話を。明治政府で司法卿として、司法制度の整備を進めた江藤新平。しかし先進的な三権分立の導入は、多くの反発を招きます。そして彼の礼を失した態度も、それに輪をかけました。征韓論をめぐる意見の対立などから、佐賀の乱を起こした江藤新平。政界での確執が、その後の彼を追い詰めてゆきます。反乱後、逃走する江藤新平。その捜索に使われた、指名手配写真。写真を使った指名手配制度は、彼が司法卿時代に導入したもの。その指名手配の第1号が、彼自身でした。拘束された江藤新平。彼は、かつての部下の河野敏鎌によって、死刑判決を下されます。政敵大久保利通により設置された、臨時裁判所で。わずか2日の審議、答弁,上告の機会もなく。判決の即日、斬首処刑された江藤新平。大久保は、彼の身分剥奪と、さらし首を自ら宣言しました。さらし首は、彼の新法にはない、昔からの悪法に従って。江藤新平のさらし首。信じられないことが起こります。その台に置かれた首は写真に撮られ、土産物として売られたのです。佐賀の乱以降の出来事。すべては、大久保利通による江藤新平への私刑だったとも言われます。対立。それはいつの世にも起こり得る、ひとがひとではなくなるまでの、些細なきっかけ。【参考】 石黒敬章,幕末明治の肖像写真,角川学芸出版,2009年,247P
2009.12.11
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心霊学に傾倒したコナン・ドイル。しかしそれには、理由がありました。シャーロック・ホームズの作者の彼が、オカルト主義になった理由。それは、第一次世界大戦での息子の死にありました。息子の死を信じられず、あの世との交信を望みました。同じ頃、ハリー・フーディーニも似た境遇にありました。しかし奇術師の彼は、霊媒師のトリックを次々とあばきます。いつしか人は、彼をサイキック・キラーと呼びました。フーディーニがサイキック・キラーとなったのにも理由があります。それは亡き母との、交霊会での再会を望んだから。再会を望むあまり、霊媒師のトリックが許せませんでした。オカルト主義となったコナン・ドイル。サイキック・キラー、フーディーニ。ふたりの願いは、ともに霊界との交信にありました。その気持ちから、ふたりはただ妄信する者と、否定し続ける者に別れました。しかし、それも遠い昔。今、ふたりはともに同じ世界にいます。教えてください、ふたりとも。今、あなたのいる世界は、夢にえがいたとおりですか。そして念願の、いとしき人との再会を果たせましたか。ただ答えは、待つしかありません。いつか、あなたたちと会える、そのときまで。【過去の日記1】 まだ 何もわかってはいない -幽霊を捕まえようとした科学者たち-【過去の日記2】 フーディーニ、あなたの声が聞こえます
2009.10.18
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なぜか、ベーコンという言葉を久しく聞いていない気がします。朝食によく出されるベーコン。かつてのベーコンは、非常に安価な食物として知られていました。「ベーコンさえ買えない貧困ぶり」と言われるほど。しかし最近、ベーコンに縁がありません。ベーコンと言えば、むしろ哲学者フランシス・ベーコンを想像するほどに。研究熱心なフランシス・ベーコン。ある日、ベーコンは、鶏の肉を雪で冷凍保存する実験をします。凍りつく寒さ。その寒さは鶏肉以上に、ベーコンの体を冷やします。その結果、ベーコンは肺炎で亡くなりました。鶏肉で命を落としたベーコン。その名は、豚肉の名称に引き継がれます。そうです。肉のベーコンの名は、フランシス・ベーコンにちなんだもの。死因となった肉に名を残す彼。あまりに皮肉な現実を、彼は憎憎しく思っているかもしれません。
2009.09.29
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電球の発明家は誰でしょうか?それは、言わずと知れた英国のジョセフ・スワンです。以前にも書きましたので、覚えておられるかたもみえるでしょう。1878年に電球の特許を取得したスワン。当初は炭素系フィラメント。やがてはセルロース系フィラメントに改良します。エジソンはそれを真似て、翌年に電球の特許を取得。それからは、竹のフィラメントを使った発明の宣伝に奔走します。やがて実業化し、いつしか電球の発明家であるかのように振舞いました。発明家は、技術者は、技術力が長けただけでは功を成し得ません。業績を宣伝し、広める力も必要。その点で、エジソンは発明家としてだけではなく、事業家としての才能がありました。それでも、しかし。電球の発明では、スワンの発明を握りつぶし、映画の発明では、ウィリアム・ディクソンの発明を盗み、テスラとの送電の直流・交流競争では、宣伝のために人の命さえ奪ったエジソン。すべては、その栄光をもとめて。しかし誠実な真実が、闇の中にこそ埋もれている時。闇から光に集う、その姿は、愚かにも電球に羽を焼き、燐片を撒き散らす、求めるものを見失った哀れな蛾に、少しも変わりはありません。【日記1】 チャンスを逃さない ―電球とエジソン―【日記2】 手段を選びはしない -エジソンとテスラ-【日記3】 肝心なのは いかに盗むか ―映画とエジソン-
2009.09.22
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これは、何と読めば良いでしょうか。「子子子子子子子子子子子子」平安時代の賢者、小野篁。遣隋使の小野妹子の子孫で、小野小町や小野道風の祖父である彼。その彼は、上の文字を次の様に読みました。「猫の子、子猫、獅子の子、子獅子」小野篁の才覚を伝える話ですが、これは良い話ばかりでもありません。上の12文字は、嵯峨天皇が彼に読めと命じたもの。天皇にさえ反抗的な彼を、懲らしめようとしたものでした。この時は、天皇が彼に感心して、おとがめはありませんでしたが。しかし、嵯峨上皇を批判した小野篁は、ついに上皇の怒りに触れて隠岐に流されます。後には隠岐から戻りますが、奔放で攻撃的な彼の性格。しばしばその性格が、彼自身のあしかせとなりました。「コココココココココココココ」私なら、こう読みたい。ただ鶏の様に、「コ」を繰り返し。もちろん、篁の様な才覚がないために。しかしそれ以上に、「子猫・・・」と読みたくない私がいます。自分に素直に、生きたいから。ただ、私らしく読むならば、ほんのわずかに、目立たぬように、静かに連なる、「コ」の数を間違えて。
2009.09.02
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紛らわしい名前で思い出したことがあります。雷を電気と証明した凧の実験で有名な、ベンジャミン・フランクリン。そして、アメリカの独立宣言書に署名した政治家もフランクリン。この同一の名前に、戸惑ったことはないでしょうか。戸惑うまでもなく、この両者は同一人物。フランクリンは科学者であり、政治家でもありました。第二次世界大戦で名高い、ルーズベルト大統領。間違えるまでもないかもしれませんが、名前はフランクリン・ルーズベルト。雷のベンジャミン・フランクリン、原爆のフランクリン・ルーズベルトと覚えましょう。(かなりブラック)名前の類似は、とても厄介。しばしば混乱を招きます。世界を変えたフランクリンは、今は受験生を悩ませています。偉人はいつの時代も、ある意味で悩ましい存在です。悲劇の女性フランクリンを、最後に掲載致します。【過去の日記1】 女性化学者の苦難 ―ロザリンド・エルシー・フランクリン―*【過去の日記2】 届かない その距離 -「滝川製ルノワール」へのコメント-
2009.06.17
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マゼランへのコメント、ありがとうございました。目的達成には柔軟さと継続する力。そのとおりですね。意志の強さは必要ですが、頑固すぎてはいけません。時には引くことも大切です。皆さんがおっしゃるとおり「退くのも勇気」です。そもそも力で征服しようとしたのが、マゼランの大きな過ちですね。アドバイザーの忠告も不十分だったのかもしれません。コロンブスとは違いがあります。ご指摘のとおり、ラプ=ラプ王はフィリピンでは英雄とされています。しかしマゼランは、星雲,海峡など多くのものに名を残すことはできました。当時のスペインの強大な力のおかげとも言えるでしょう。最後まで航海を続けた、船員達のおかげでもあります。ただ、意志の強さ自体は賞賛されるべきものでしょう。何事もバランスが大切です。今日も快晴。みなさん、素敵な休日をおすごしください。【日記】 その道を 迷い続け -フェルディナンド・マゼラン-
2009.05.10
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世界一周の旅から、帰ることのなかったマゼラン。1519年、鉄の意志を持つ男マゼランは、世界一周の旅を目指します。長旅の途中、フィリピンに立ち寄ったマゼラン。悲劇は、その場所で起きました。セブ島のフマボン王と条約を結び、全フィリピンの支配権を得たマゼラン。しかしマクタン島には、マゼランに従わないラプ=ラプ王がいました。スペインの威信に酔うマゼランは、ラプ=ラプ王との戦いを決意します。フマボン王は無謀な戦いを避けるよう忠告しましたが、鉄の男マゼランは聞こうとしませんでした。3隻の船に60人の兵士を乗せて、戦いに挑むマゼラン。艦砲射撃の計画でしたが、浅瀬の岩が邪魔で船が接岸できません。やむなく11人の兵士を船に残し、マゼラン他48人の兵士が上陸します。しかし敵ラプ=ラプ軍は、4000人で待ち構えていました。4000対49。圧倒的戦力差を前に、船に撤退すべきでしたが、鉄の男マゼランは退くことをしませんでした。しかもマゼランが指揮官であることを知ったラプ=ラプ軍は、マゼランに攻撃を集中。そして多数の兵士にめった刺しにされ、マゼランは命を落とします。マゼランの遺体は、ラプ=ラプ王に持ち去られ、返されることもありませんでした。それから1年半後、ビクトリア号はセビリアに寄港し、世界一周を成し遂げます。世界初の世界一周を成し遂げました18名。しかしその中には、当然、マゼランの姿はありませんでした。もしマゼランが、幾たびかの忠告を聞き入れれば、きっと生還できたに違いありません。しかし世界一周の冒険には、鉄の意志も必要です。強い意志と、あやまちを正す柔軟さ。つよく、そしてしなやかに。それが夢への最短ルート。
2009.05.09
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ロシアの作家、レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ。「戦争と平和」、「アンナ・カレーニナ」などが有名です。しかし、彼と16歳年下の妻ソフィアとの不和は有名です。貧しい人に物品を与えてしまうトルストイと、人並みの家庭を守りたいソフィア。生活観の違いが、ふたりの口論のもとでした。トルストイの作品の出版を助ける女性に、チェルトコフがいました。そのチェルトコフとトルストイの関係を、ソフィアは疑い始めます。疑惑と嫉妬に半狂乱になるソフィア。あまりの監視に耐えられなくなり、トルストイは家出します。そして悲劇は起こります。捨てられたと感じたソフィアは、失望のあまり池に身を投じます。ソフィアの死に、呆然とするトルストイ。あてもなく電車でさまよい、アスターポボ駅で肺炎による高熱で倒れます。懸命の手当てにも関わらず、家出から9日後、彼は亡くなりました。嫉妬。すべてをうしなう、あまりに哀しいこころのまよい。悔やみきれない、いまも想う、取り戻せないあやまち。
2009.04.23
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「長い間、彼でないことを願い続けた。彼だと知っていれば、けっして撃たなかったのに。」昨年、ドイツ軍操縦士ホルスト・リッパートは、そう語りました。陽の光に、海はまぶしく輝いて。その海に、何が眠っているかも教えずに。「肝心なことは、何も目に見えない。」だから彼は、目に見えない友情を大切にしました。「どうしてもなぐさめなくてはならない人だから」その本のはしがきにある、ひとりのユダヤ人の名前。その本は、戦争で苦しむ友人に宛てられました。地中海に眠る偵察機。2003年、それは彼のものと確認されました。彼の名は、サン・テクジュペリ。1944年7月31日、帰ってこなかった彼の偵察機。ユダヤ人の友に宛てて書かれた、「星の王子様」。冒頭の嘆きは、彼を撃墜してしまった、彼の愛読者の声。行方不明の彼を、敵国のドイツ軍さえ探しました。それほど世界中で愛された、彼とその童話。「行かなくてもよい理由はいくらでもある。でも、ぼくは行くよ。」友人のため、戦場に向かった彼。彼が守りたかったのは、目にみえないもの。みえないもののため、みえるものがうしなわれる。ほんとうに守りたいもの。ほんとうに守るべきもの。それは、みえるもの、それとも、みえないもの。その問いは、あまりに無力です。あの狂乱の、争いをまえにしては。
2009.04.10
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夢を追う弟ウォルト、それを支える兄ロイ。アニメーションに夢を追ったウォルト・ディズニー。しかしその才能は、決してひとりでは開花することはあり得ませんでした。その夢の実現には、経営、金銭などで、莫大な苦難を強いられたから。そのすべての苦難を引き受けたのが、兄ロイ・ディズニーでした。資金調達、支援者との契約、マーケティング、人事、著作権保護など、膨大な会社経営の厄介事を、ロイは裏方に徹して支えました。そのおかげで、ウォルトは純粋に夢に向かうことができました。アニメーションばかりではなく、ウォルトには大きな夢がありました。裕福ではなかった子供の頃。新聞配達、アルバイト、家事に追われ、家族団らんの余裕はありませんでした。家族で楽しめる、思い出の場所を作ること。それが究極の夢でした。この夢をかなえるため、ロイは資金調達に奔走し、ついにフロリダにディズニー・ワールドの開設を計画します。しかしこのとき、ウォルトは癌に侵されていました。5年後の1971年の開園を、ウォルトが見ることはありませんでした。ロイはウォルトの死を悼み、テーマパークの名称を「ウォルト・ディズニー・ワールド」に変更します。「夢を見ることができるなら、それはいつかは実現します。 わすれないでほしい。 何もかも一匹のねずみから始まったということを。」しかし、わすれてはなりません。あなたの夢をかなえるために、それを支える誰かがいたことを。歴史をつくるのはひとりの天才ではなく、陰で支えた多くの人。
2009.04.08
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偉人といえども、失敗はあります。納税を忘れていた、アインシュタイン。納入期限当日に、あわてて窓口にかけこみます。しかし、なんと、彼は自分の名前を忘れてしまいます。あきれた職員は、窓口をしめてしまいました。もちろん、納税はできません。飼い猫のため、ドアにくぐり戸をつけようとした、ニュートン。長時間かけ、親猫用と子猫用の大小2個の穴を開けました。しかし、そこで彼は気がつきます。親猫用の大きな穴があれば、もちろん子猫用は不要なのです。失敗は、誰にもつきもの。落ち込む必要は、ありません。ケ・セラ・セラ。座右の銘は、なんとかなるさ。【過去の日記1】 アインシュタインの最初の妻 ―ミレヴァ・アインシュタイン― 【過去の日記2】 焼き尽くせ、抹消しろ ―ニュートン― 【参考】 伊藤哲朗ら,最先端生命科学がわかる本,学習研究社,2005年,271P
2009.03.05
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人生最後のあやまち。ガルバニ電池の発明者。今も電気化学の分野に名を残す、イタリアの科学者ガルバーニ。栄光に包まれた人生を歩むかと思われた彼。しかしその晩年は不遇でした。カエルの解剖で、2本のメスを押し付けると足が痙攣するのに気づいたガルバーニ。その原因は、「動物電気」だと考えました。これは動物の中で発生する電気が原因とする考え。それに異論を唱えたのはアレッサンドロ・ボルタ。2本の種類の違う金属が接することで、電気が発生すると唱えました。もちろん、動物電気は否定して。激しい論争を繰り返す、ガルバーニとボルタ。電気化学の先駆者としての誇りだけでなく、ガルバーニにはボルタに負けられない理由がありました。当時は、ナポレオンにイタリアが征服された時代。イタリア人でありながらナポレオンを支持するボルタを、ガルバーニは許せませんでした。ナポレオンへの反感もあり、動物電気にこだわるガルバーニ。しかし結局、ボルタの説の正しさが証明されます。そして、ボローニャ大学を去ることになったガルバーニ。彼は、失意のうちに亡くなります。さらに、ボルタの電池の発明により、電池の発明者の主役まで奪われました。一方、ボルタはナポレオンから金メダル、さらに伯爵の位、元老院議員の地位まで与えられます。ナポレオンへの反感が、科学者としてのガルバーニの冷静な判断力を失わせたのかもしれません。天才科学者も、感情のある人なのです。人は心があることで、幸せにもなれば、不幸にもなります。それは、変わることがありません。いつの時代でも、だれであろうとも。
2009.02.28
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イギリス人のキノコ嫌いは有名らしい。イギリス人は、野生のキノコに興味がありません。マッシュルームなど栽培したキノコは食べます。しかし野生では、ほんの数種しか口にされません。カナダのイヌイット、北アメリカの人々も野生のキノコを嫌います。キノコが豊富な地域ほど、キノコ嫌い。その原因は、先祖がキノコ中毒にあったためらしい。18世紀、ベルサイユ宮殿付きの有名なオルガン奏者がいました。名前は、ヨハン・ショベルト。ある日彼は家族とともに、パリ郊外でキノコを摘みました。そのキノコをレストランに持ち込み、調理を頼んだショベルト。しかしシェフは、これは毒キノコである、と答えました。怒った彼は、別のレストランに頼みますが、やはり断られます。ついに彼は、自分で調理してキノコを食べます。結果は予想通り。ショベルト、妻、ひとりを除く子供全員が亡くなります。こうして、モーツアルトにも匹敵する才能が失われました。忠告は、時には受け入れなくてはなりません。それがどんなに、自分の意に反していても。何度も、そして何人も、同じ忠告をくれるなら、それはやはり、真実かもしれないのですから。【参考】 エリオ・シャクター,「キノコの不思議な世界」,青土社,1999年,300P【関連日記】 世界で一番大きな生物
2009.02.26
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自動車のエンジンに、ガソリンが使われなかったら。19世紀後半、カール・ベンツは自動車用エンジンの開発をしていました。彼の発明は、石炭ガスを使うエンジン。石炭を加熱して出るガスを燃やし、エンジンを回転させます。それは強力で、当時とても好評でした。しかし石炭の加熱部が大きく、重いエンジンでした。ベンツは、ガソリンエンジンは非力だと思っていました。実際、当時のルノアールのガソリンエンジンは、とても非力で非実用的。そんなある日、ベンツの意識を変える事故が起きました。マインハイムの街で起きた大爆発。それは、着物の染み抜きにつかったガソリンが気化し、引火したものでした。家を吹き飛ばす大爆発に、ベンツはガソリンの爆発力を見直します。ルノアールのエンジン設計が良くないと考えた彼。圧縮しガソリンの爆発力を高め、電気着火で爆発させる。その新方式で、石炭ガスエンジンより小型の、自動車用のガソリンエンジンを開発します。一見、無関係な事故も見逃さない観察力。今をよく見ることから生まれる、未来を見通す千里眼。それは、だれもが持ち得る、夢への希望。
2009.02.16
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電気抵抗の単位に、その名を残すオーム。電圧は、電流と抵抗の積となる。著書「電気回路の数学的研究」でその法則を、オームが発表したのは1827年。ドイツ連邦のケルン高校教師だった彼は、この著書で認められ、大学教授と迎えられると期待していました。しかし著書は売れず、内容も認められません。それどころか、ドイツでは激しい批判を浴び、高校教師を辞任することになります。今では小学生でも簡単に実験できる法則。しかし当時は、乾電池の様な安定した電源がなく、追試験ができなかったから。就職先すら失ったオーム。彼はドイツを追われるように、1833年、バイエルン王国に移ります。そしてニュルンベルク工業高校教師となります。その後、フランス、イギリスで、ようやくオームの法則は認められます。さらに1841年、ロンドン王認学会からコプリー賞を受賞します。著書出版後、2年以内の受賞が慣例のコプリー賞。14年後の受賞は、極めて異例でした。オームは1852年に、夢かなってバイエルン王国ミュンヘン大学正教授となります。38歳に著書を出版し、大学教授となったのは63歳でした。法則の認定を頼りに、大学教授の夢を追い続けたオーム。25年をかけて、ついにその夢はかないました。しかしその歳月の代償は、あまりに大きなものでした。教授になってわずか2年後の1854年、オームは65歳で永眠します。生涯、結婚することもありませんでした。夢を追うことの代償は、時としてあまりに大きい。だから夢を前に、人は何度となく悩みます。何が本当の幸せか、と。
2009.01.25
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巨匠ピカソの愛犬、ダックスフントのランプ。ピカソとその妻ジャクリーヌは、愛犬ランプと芸術活動の日々をすごしました。そしてその生活を撮り続けた、写真家ダンカン。ある日、ピカソは、ウサギを描きました。ウサギを切り抜いて、実物大のウサギのオブジェを作ります。ピカソ最新作の完成です。愛犬ランプはローマ育ち。ウサギを見たことがありません。そのランプの前に、ウサギのオブジェを差し出します。ランプはしばらくウサギを見つめ、そして無邪気にかみつきます。そしてジャクリーヌに見せるため、ウサギを運んでいきました。ピカソは拍手し、大笑いします。「ほら、あいつはウサギが好きなんだ!」ピカソの最新作が、犬に食べられた一瞬でした。ピカソと愛犬ランプは、17年の時をともにすごします。ピカソの作品にも、胴の長い犬がたびたび登場することになります。ピカソの芸術を支えた、愛犬ランプ。やがて訪れた、ピカソ旅立ちの時。ピカソの享年、1973年。そして、愛犬ランプの享年も、1973年でした。【参考】 D.D.ダンカン:「ピカソと愛犬ランプ」,ランダムハウス講談社,2007年,101P
2008.12.22
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あまりに想像を超えた出来事を前に、何をすべきか見失っていました。あまりに変化が早すぎて、何もできなくなりつつありました。しかし、常に、答えは自分自身にあるものです。チャールズ・ダーウィンが、進化論について記した本「種の起源」。爆発的に売れたこの本は、決して読みやすい本ではありません。ダーウィンは、文章が苦手でした。ダーヴィン自身、語ります。「私は自分の考えを文章で表現するのに、ひどく苦労する。 間違った意見や、へたくそな文章を書かせてしまう欠陥が、私にはある。 しかしそのおかげで、私は注意深さを身につけた。」ダーウィンが何度も注意深く読み返し、修正を繰り返した文章。それは読みやすくはなくても、読者に誤解を受けにくい文章でした。文章が下手な欠点から、ダーウィンは注意深さという長所を得ました。「種の起源」は、学術専門書ではありません。そのため、専門書に必要な引用も脚注もありません。一般向けの教養書「種の起源」は、専門家以外も読むことができました。一般向けのこの本は、専門家も惹きこむ内容を持っていました。こうして、文章下手のダーウィンから、ベストセラー「種の起源」が生み出されました。自身の欠点を知り、魅力に変える。どんな状況でも、それを越えてゆくのに必要なのは自分自身。欠点も、長所も、それらを含めて、自分自身。自分を知り、大切なものを忘れなければ、如何なる試練も越えることができます。何も迷うことはありません。自分が信じる「たしかな真理」を、貫き通せばよいだけ。如何なる苦難が訪れても、如何なる課題が課せられても、過去も、現在も、そして未来も、私たちを支えてくれるのは、「たしかな真理」に変わりありません。【過去の日記】 進化論とともに -ダーウィン展-【参考文献】 渡辺正隆:「一粒の柿の種」,岩波書店,2008年,197P
2008.12.20
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夢を持ちながら、それを捨てざるを得ない時。昨日のウォルター・ロスチャイルドの話は、天才的奇人が生み出した科学の金字塔として終えることもできます。しかし、どうしても、ある事実に触れなくてはなりません。兄ウォルター・ロスチャイルドは銀行家としては務めを放棄し、夢に走りました。そのため、そのツケは弟に回りました。弟チャールズ・ロスチャイルドも、新種のノミを発見するなど、昆虫学・熱帯医学に深い関心を持っていました。しかしチャールズは、兄よりロスチャイルド家の家長としての自覚があり、昆虫学への興味を断念します。それは家のため。兄のため。その後、父ナサニエルの死により、チャールズは天文学的な相続税負担を背負います。さらに時は、第一次世界大戦中。全世界に広がったロスチャイルド家の財産は各国から狙われ、財産の回収さえままなりません。その難局を、チャールズはひとりで乗り切らなくてはなりませんでした。銀行経営に関心のない兄ウォルターの支援は、望むべくもありません。昆虫学者の夢を捨て、不器用に銀行経営に遁走するチャールズ。しかし国家も、時代も、彼に味方はしませんでした。1923年、ついにチャールズは、自宅で自らの命を断ちます。ロスチャイルド家を支える重圧に耐え切れず選択した死。その死は科学雑誌「ネイチャー」にも、「昆虫学・熱帯医学のはかり知れない損失」として発表されました。兄ウォルターが、弟を支えることができたなら。そう思わざるを得ません。ひとりの夢の追求が、他のだれかの犠牲を強いるとするならば、わたしたちは、何を求めて生きればよいのでしょうか。【昨日の日記】 「変わり者 そして天才 ― ウォルター・ロスチャイルド ―」【参考図書】 小山慶太:「道楽科学者列伝」,中公新書,(1997年)205P
2008.10.31
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世界に名だたる大財閥ロスチャイルド家。19世紀、急成長したロスチャイルド家は、自らの財産を守るため、一族の半数を超える近親結婚を繰り返しました。近親結婚は、時には天才、時には奇人を生み出しやすいと言われます。そして生まれたのが、まさに天才的奇人ウォルター・ロスチャイルド。ウォルターは、ロスチャイルド家5代目長男。財閥の跡継ぎたるべき彼は、銀行経営に全く興味を示しません。彼の興味は動物学。異常なほどの動物コレクションを彼は始めます。莫大な財産を使い設立したトリング博物館。個人のコレクションながら、一般動物標本7,500、学生用標本305万、蔵書3万冊。ロンドンの郊外に、ガラパゴスのゾウガメを144匹も飼ったことでも有名です。ロスチャイルド家には、ふさわしくないウォルター。彼の父ナサニエルは絶望し、1908年ウォルターを銀行から解雇します。一族の疫病神となった彼は、父から無視され、しかし嬉々として動物学にますます傾倒していきます。彼は王立協会会員に選出、英国科学振興協会動物部門会長、そして大英博物館評議員を30年勤めます。彼は1,200の論文や書物を書き、5000の動物の新種発見に関わります。そして、250種もの新種の動物に、ウォルターの名が冠せられました。例えば、5本ツノのキリンにもロスチャイルドの名が与えられます。そのため、ケニアでロスチャイルドの名を名乗ると、「キリンと同じ名ですね」と言われたというほど。科学の新発見に、250もの名を残す人物は多くはありません。ロスチャイルド家の、ひとりの天才、ひとりの奇人の物語。【参考図書】 小山慶太:「道楽科学者列伝」,中公新書,(1997年)205P
2008.10.30
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フランス革命で、断頭台の露と消えた大科学者ラボアジェ。彼の運命を決めた、徴税請負人の職。科学者でありながらその職に就くことは、学会でも疑問視する声がありました。そして科学者としての厳格さは、脱税を許さない厳しさとして、人々から誤解を受けることになります。彼の致命的な失敗は、パリを囲う壁の建設。パリへの入市税逃れを防止するため、彼は高さ3m、周囲30キロメートルの壁の建設を政府に提言します。この壁はパリ市民に息苦しさを与え、徴税制度の象徴となります。事実、フランス革命勃発とともに、この壁は市民に破壊されます。科学反応の法則を根本から変えたラボアジェ。美貌の夫人マリーとともに、実験に専念した彼は幸せでした。莫大な収入を高価な実験装置につぎ込み、激務といえる実験計画を嬉々としてこなしました。革命での即日裁判、即日死刑判決、即日死刑執行。断頭台に向かう彼に、迷いはありませんでした。彼の妻に向けた、最期の手紙が残されています。「わたしは長い、非常に幸せな人生を送ってこられた。 そしてわたしの思い出にはいくらかの栄光がともなうだろう。 それ以上、何を望むことがあろうか? わたしに起こるできごとは、たぶん、わたしに老年の不如意を免れさせてくれるだろう。 とにかく、わたしは死んでゆく。 これは、わたしが今まで享受してきた数々の喜びに加えるべき、なおひとつの喜びであろう。」科学を道楽とし、道楽の喜びを享受しつくした、ひとりの人の美学がそこにはありました。【過去の日記】 この日記もラボアジェについて。誰が正義を語ることができるのでしょう - フランス革命 - 【参考図書】 小山慶太:「道楽科学者列伝」,中公新書,(1997年)205P
2008.10.18
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あまりに途方もなく、書きようのない人物がいます。南方熊楠、その人です。ある本で、南方熊楠の「ネイチャー」掲載回数が50回超で、日本人最多と読んだことがあります。事実、「ネイチャー」25周年記念号に、チャールズ・ダーウィン,ハーバード・スペンサー,そして南方熊楠が、世界の三大碩学として論文掲載されました。粘菌の研究は有名ですが、変わり者としても有名です。そして愛猫家としても有名。ロンドン留学時、南方は着物を全て売り、本を買います。夏も冬もいつも素っ裸ですごし、金があると本か酒を買います。いつも猫を手放さず、冬は猫を抱いて寝るので布団もいらないとか。62歳のときに、植物学者の昭和天皇へのご献上品を、キャラメルの箱に入れて渡したのは有名です。昭和天皇も、「献上品は桐の箱に入っていると思ったけど、しかしそれでいいじゃないか。」と後日回想されています。いつも猫や犬を飼い、歴代の猫は全て名前は「チョボ六」、犬は「ポチ」でした。名前は三毛でもトラジマでも関係なく、どれも可愛がるので、丸々と太っていました。その南方も、37歳で神官の娘の松枝さんと婚約。すると松枝さんの下に一斗樽一杯の書物が届けられ、暇があれば読むようにとの伝言が。さらに、浴衣で片手に書物、片手に汚い猫を抱いて訪問してきます。そして、猫の行水を頼むのです。猫が綺麗になると大喜びで、その後も次々と猫を連れてやってきました。婚約者より、猫の行水が大切な様子でした。奇人のイメージが強いものの、実は礼儀正しく、ジェントルマン。生き物に、とても優しい人でした。彼の最期の言葉が残っています。「縁の下に白い小鳥が一匹死んでいるから、明日の朝ちゃんと葬ってやってくれ。」と。昭和16年永眠。享年75歳でした。南方の言葉です。「予の一生全てが小説同様に面白い。ちょっとした続き物より、予の伝のほうが面白かろうと思うが如何。」とても、こんな人の話は書ききれません。【参考図書】 「吾輩のご主人」,原口緑郎,河出書房新社,2007年,213P***● 救いを待つ子達 ●● よし@兵庫さんのブログ ●
2008.10.10
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