【西洋陶器を求めて】 0
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科学の歴史は、女性の苦難の歴史でもあります。ロザリンド・エルシー・フランクリンは、1953年にDNAの二重螺旋構造の解明につながるX線回折写真を撮りました。分子構造の解明にとって、分析技術は最も重要です。その分析と解析で、分子構造が判明するから。しかしフランクリンと仲の悪かったモーリス・ウィルキンスは、そのX線解説写真をフランクリンに無断で、DNA発見の競争相手のジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックに見せます。構造解析の研究では、最高機密に当たる写真を。そしてその写真が、DNA構造を決定する鍵となります。ワトソンとクリックは、直ちにこの短いDNAの論文を、Natureに投稿します。論文には、フランクリンの名はありません。その結果、1962年にノーベル生理学・医学賞を受賞。受賞者は、ワトソンと生物学に転向してたった6年目のクリック。そして、情報提供者のウィルキンスでした。フランクリンは、どうなったのでしょう。彼女は、1958年に37歳の若さで卵巣癌と巣状肺炎により死亡しました。X線撮影で、大量にX線を浴びたための癌と言われています。DNAの構造解析は、彼女が命を削って追究したテーマだったのです。もちろんノーベル賞は、彼女には与えられませんでした。死人にくちなし。ワトソンは著書「二重らせん」で、フランクリンを「気難しく、ヒステリックなダークレディ」、「出しゃばりでセンス悪い醜い女ロージー」と書きます。X線回折の知識が乏しいワトソンは、彼女の写真が必要だったにも関わらず。このイメージは科学界に定着し、ごく最近まで、彼女は無視し続けられました。ようやく最近になって、フランクリンの評価が高まります。それと同時に、情報提供者ウィルキンスは忘れられていきました。2004年、ウィルキンス、そしてクリックが相次いで亡くなりました。大統領自由勲章、アメリカ国家科学賞も受けたワトソンは、今も健在です。2007年5月末には、個人名が特定できる初の情報として、ワトソンのDNAの全遺伝情報が公開されました。ワトソンひとりのDNA構造解析には、1億2000万円も投入されたそうです。それほどの価値があったのでしょうか。ワトソンは、こう言います。「鳴かず飛ばずの大学教授で終わるより、有名になった自分を想像した方が楽しいに決まっている」しかし、ドクター・ワトソン。「死人にくちなし」の鉾先は、次は誰に向けられるのでしょうね。
2007.08.27
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ルノアール。彼が描く少女たちは、まばゆいばかりのきらめきを放つ。印象派の絵画の世界は、優しい光に満ちた世界。しかし、ルノアール。あなたの生涯は苦痛に満ちている。あなたを蝕む慢性関節リウマチ。53歳から続くリウマチは、彼に激しい痛みを与える。関節の軟骨が破壊され、骨が破壊され、そして関節さえも破壊される。車椅子の生活となったあなた。それでもあなたは、絵を諦めない。絵があなたの全てだから。絵だけがあなたに、希望の光を灯してくれるから。しかし指が使えない画家に、何ができるだろう。すでに指は外にねじ曲がり、人差し指と中指は横を向く。絵筆をつかめる指が、あなたにはない。それでもあなたは、描き続ける。絵筆を腕に縛りつけて。77歳のルノアールを訪れた、画商ルネ・ジャンペルは言いました。「両腕はテープで巻かれ、その指は羽根をむしられ、縄でくくられ、焼き串で刺される寸前の、鳥の脚のようです」ルノアール。神はあなたに絵の才能を与え、そして絵を描くための指を奪い去った。ああ、神様。わずかな時間でもいいから、彼に絵を描かせてあげてください。彼には、絵しかないのです。あなたは絵を描く。暗く湿った病室を、光射す森の木陰にかえて。動かない指を、踊り子たちのダンスにかえて。腕を貫く痛みを、少女たちの微笑みにかえて。そして、あなたの苦痛が増すほどに、絵の主人公たちは輝きを放ちます。死ぬ前日、あなたはアネモネを描き、言いましたね。私はまだ進化していると。そして最後のとき、あなたは幻の鳥をその眼で捕らえ、叫びました。「私にパレットを!」あなたが全てを捧げた絵は、今も光に満ちています。晩年、あなたを照らすことがなかった、優しい光に。ルノアール。私は、あなたから学びました。あなたほどの天才も、苦痛なしには何も得られなかったことを。
2007.08.25
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騎士ドン・キホーテは、巨大な風車に突進する。その大きな羽根に弾き飛ばされようとも、彼は諦めることはない。「ドン・キホーテ」の作者ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラは、波乱万丈の生涯を送ります。その生涯は、ドン・キホーテに勝るとも劣らない。なかでも1575年、バルバリアの海賊の捕虜となった話は他に例をみない。海賊アルナウテ・マミーに捕まった彼は、奴隷市場で売られます。マミーの補佐役ダリ・マミーは彼を購入。その後、5年間、セルバンテスは奴隷になります。その間、野蛮なダリは、必ず毎日ひとりのキリスト教徒を虐殺します。4回もの脱走を繰り返すセルバンテス。彼は諦めない。そして1580年9月19日。ついにセルバンテスは、ガレー船のこぎ手として、鎖につながれようとしていました。ガレー船のこぎ手の奴隷は、鎖で4~5人がつながれ、寝るときもそのままです。食料はわずかにビスケット。打ち打たれ、こぎ続け、倒れると容赦なく海中に投棄されます。つまり生きて帰ることのない地獄の入り口。しかしガレー船につながれる、まさにその日。スペインから身代金が届き、ようやく彼は開放されるのでした。諦めない彼の想いが、ようやくかないました。そうしてセルバンテスは、ドン・キホーテを書き始めます。不朽の名作は、こうして生まれました。*我こそは、何しおう騎士ドン・キホーテ。ゆくぞ、サンチョ・パンサ!我の行く手を阻む、あの巨人を倒すのだ!愛しき姫をお守りするために。はいや、名馬ロシナンテ!その俊脚で、我を風となせ!さすれば、いかに巨人といえども、我の敵ではない。*ドン・キホーテ。セルバンテスの化身として、あなたが挑戦を続けるなら。それならば、私も挑戦を続けよう。如何に、それが愚かだとしても。
2007.08.22
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起こるべくして、起きることはあります。フランス革命でのマリー・アントワネットの悲劇は、彼女の生き方に原因があると思われます。もちろん、浪費癖もありますが、致命的だったのは、最後まで庶民の立場に視点を落とせなかったことでしょう。高慢は、しばしば悲劇を招きます。ここでワーズワースの言葉は、端的に生きる指針を教えてくれます。ワーズワースの言葉を、内村鑑三は次のように訳しました。低く生き、高く思う(Plain living and high thinking.)青春をフランス革命の中に生きたワーズワース。彼が詩の創作活動を始めたのは、この革命のわずか後でした。不幸にも、マリーがこの言葉を聞くことはありませんでした。
2007.08.14
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ハリー・フーディーニ。稀代の奇術師。そして、サイキック・キラー。先日、超能力の公開実験を書きましたが、フーディーニは降霊会に参加して、霊媒師のトリックを暴きました。奇術を知り尽くした彼には、簡単に霊媒師のトリックを見破ることができたのです。彼がサイキック・キラーを始めたのは、母親を亡くしてから。真の霊媒師を見つけようとするあまり、霊媒師のトリックが許せない。霊媒師を詐欺師と呼び、次々と霊媒師を叩きのめすフーディーニ。あまりに激しい、フーディーニの声が聞こえます。だめだ、こいつも偽物だ!霊媒師の名をかたる詐欺師め!ああ、おかあさんに会いたい。ついに、交流のあったコナン・ドイルの主催する降霊会でも、そのトリックを暴露。そしてドイルとも絶縁します。霊媒師や超能力者に戦いを挑み、彼らの名誉も収入も生活も、全て奪い去ってしまうフーディーニ。その犠牲になったのは、見方を変えれば、大半がフーディーニの同業者の奇術師。もうやめないと、フーディーニ。このままでは、あなたがひとりぼっちになってしまう。うんざりだ。偽物の相手は、うんざりだ。だれも、かあさんに会わせてくれない。それなら、もう、茶番劇は終わりにしよう。でも、フーディーニ、あなたは孤高の奇術師。だから、トリックの幕引きは、あなたにしかできない。1926年、フーディーニは、急性虫垂炎で死亡します。彼のトリックにかかり、彼を不死身の男と信じ込むファンに、腹部を殴られたのがきっかけで。ついに最期まで、真の霊媒師は見つけることができませんでした。でも、今なら、フーディーニ、あなたの声が聞こえます。おかあさん、ぼくは、やっとあなたに会えました。
2007.08.09
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こゑはせで身をのみこがす蛍こそ いふよりまさる思なるらめ古くから、人々を魅了してきたほたる。ゲンジボタルの雌は1年で羽化するが、雄は羽化までに2~3年かかる。そのために、雄の割合は雌の1/5。その後の寿命は約15日。しかし外敵の多い自然界では、3~4日と言われます。飛ぶことの多い雄は、クモの巣にかかるなど、更に短命。ゲンジボタルの卵は水辺、幼虫は水中、さなぎは土中、成虫は空間で過ごします。この全ての環境が、1年を通じて彼らに適していなければならない。変態ごとに生活環境を変える昆虫は、極めて稀な存在。無理だ。あまりに繊細すぎる。進化論に反するかの様な、彼らの求める生態系は、今も破壊されつつある。そんな彼らには、奇跡の発光システムが備わります。その光は、発光素ルシフェリンが、酵素の助けを得て、ATPと反応して得られます。ルシフェリンの酸化による発光は、全エネルギーの98%が光に変わる奇跡の光。熱のないほたるの光は、冷光と呼ばれます。もしこの奇跡がなければ、彼らの体は熱で破壊されることでしょう。村岡 範為馳(むらおか はんいち)は、蛍の光からはX線の様な未知の光が出ているのではないかと考えます。それを「渣蛍線(きけいせん)」として、1896年に発表しますが、後年、誤りと分かります。N線同様に、思い込みによる誤認でした。聡明な学者をも誤認させる神秘の光。ほたるの光は、あまりに幻想的。「幽鬼めいた蛍の火は、今も夢の中にまで尾を曳いているようで、眼をつぶってもありありとみえる。」(谷崎潤一郎 「細雪」より)ほたるの光。その光には、人の心の奥深くにまで届く、神秘の透過力がある。わたしは、渣蛍線の存在を信じよう。
2007.08.06
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江戸川乱歩。言わずと知れたミステリーの巨匠。私の読書熱は、乱歩の「怪人二十面相」に始まったと思います。小学生の頃、ポプラ社の江戸川乱歩全集を片っ端から読み進め、それでは足りず、文章を書き写していました。*乱歩は晩年、恐ろしい病魔に侵されるのでありました。それは、あの不可思議な奇病、パーキンソン氏病でした。たとえ病魔に冒されていると申しましても、そこはダンディな乱歩のことであります。トイレはみずから歩いてゆくのでありました。ああ、しかし体の不自由さを、どうすればよいのでしょう。ころばないのが、不思議なくらいなのです。はたしてその足取りは、よろめき、もつれ、ついには転倒してしまうのでありました。脳内出血。もはや、なすすべもないでしょう。高名な医者とはいえ、静かに臨終を告げるしかなかったのであります。しかし、なんと不思議なことでありましょうか。家族が乱歩の名を呼んだ、まさにその時、死んだはずの乱歩がカッと目を見開いたではありませんか。そして、そのじつに悲しげな目で、家族を見渡しはじめるのであります。次の瞬間、乱歩は目に涙を浮かべ、その涙はツウと頬を伝いました。そして、そのまま目を閉じ、再び開かれることはなかったのであります。はたして乱歩の意識は、このとき戻ったのでありましょうか。これぞまさしく、乱歩が残した最後のミステリーなのであります。聡明な読者諸君には、この答えはもうおわかりなことでありましょう。*私に、ただ言えること。それは今でも、乱歩は作品の中に生き、読者を魅了し続けているということだけなのです。
2007.08.05
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偉人にも、おっちょこちょいな人はいるものです。例えば、エレキテルを発明した平賀源内。彼はつまらない勘違いをします。大工の久五郎の見積もりが高すぎると、丈右衛門という男が相談に来ます。建築に詳しい源内は、久五郎の1/3の見積もりをはじき出します。不満顔の久五郎と3人で、源内は酒を飲み和解し、そのまま寝込みます。しかし翌日、源内の見積もりがありません。久五郎が盗んだと思い、源内は久五郎を刀で切りつけます。間もなく久五郎は亡くなりますが、その後、源内の見積もりは見つかりました。何のことはない、源内の早合点だったのです。この結果、源内は投獄され、間もなく破傷風で獄中死。命を奪う、大きな失敗でした。では、もうひとり。野口英世が黄熱病の研究中に、黄熱病に罹り亡くなったのは有名。彼が黄熱病に罹ったのも、彼の性格に関連しそうです。英世はルーズな面があり、感染力の高い菌も手袋なしの素手で扱いました。さらには細菌を扱うピペットを口にくわえ、それをうっかり飲む事故まで起こします。つまりは、いつ黄熱病に罹っても、妙ではなかったのです。さらに彼は黄熱病とともに、梅毒にも罹っていました。これも事故かどうかは分かりません。いずれにせよ、彼の性格は命を縮めたかもしれません。彼らの性格は天才のあかし。そして人生を狂わす危険信号でもあったのです。
2007.08.04
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死の運命がベートーベンに訪れる時、彼にはある疑問がありました。「私は何の病気で死ぬのだろうか。」有名な聴覚障害、そして命を奪う肝臓疾患。1827年に58歳で亡くなるとき、彼自身、病気の原因が分かりませんでした。しかし2000年10月17日、彼の遺髪をウィリアム・ウォルシュ博士が依頼され鑑定したことで、その原因が明かされます。依頼元は、サンホセ州立大学のベートンベンセンター。遺髪はなんとサザビーズのオークションで入手したといいます。遺髪からは通常の100倍の濃度の鉛が検出。死因は、鉛の過剰摂取による中毒死と推定されました。鉛の異常摂取の原因は分かりません。鉛による治療の結果とも言われます。しかし可能性として、鉛のグラスでのワインの摂取が考えられます。古代ローマでも鉛のコップで、好んでワインが飲まれました。ワインは鉛を溶かし、ワインに甘みを与えるから。古代ローマの滅亡を早めたのも、鉛の食器といわれます。ところで、20%以上の鉛を含むクリスタルガラスは大丈夫でしょうか。ご安心ください。クリスタルガラスでの中毒例はありません。安心してワインをお楽しみください。*ところで、今日はなぜ、「運命」などが出てくるのでしょう。実はあることが起きたのです。それは、★野いちご★さんの日記で。
2007.07.31
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電話を発明したのは誰でしょう?今でも、この問いに、多くの人はこう答えるでしょう。はい、アレグザンダー・グラハム・ベルですと。電話の特許申請でのドラマは有名です。初めに電話の特許申請をしたのはエジソン。しかしあまりに概念的な申請に、この特許申請は却下されます。そして1876年2月14日、ベルが電話の特許を申請。その2時間後に特許保護願いを申請したイライシャ・グレイに先んじて、電話の特許権を取得します。この出来事は早期の特許申請の重要さを語るエピソードとなりますが、今日では更に新事実が語られるようになりました。ベルは特許申請の際に、グレイの特許保護願いを事前に見て、その場でグレイの可変式抵抗器による送話器のアイデアを自らの申請書の欄外に書き込んだのです。実際にベル初の通話試験でも、グレイ型の電話が使われます。そして後にグレイとの特許紛争では、特許権で得た資金にものをいわせ、有能な弁護士団でグレイを叩き潰します。さらに他の発明者からも、電話器に関わる特許権を買収。拒む発明者は、グレイと同様に特許紛争に巻き込まれます。そしてそれは、資金が尽きるまで続きます。まさに、ベルを電話の発明者にしたのは、後の「ベル帝国」が生み出した多額の資金だったのです。先発明主義のアメリカでは、グレイが手続きをすれば発明者として認可されたはずですが、紛争に疲れたのか、グレイがその手続きをすることはありませんでした。一方でベルは、後のAT&Tとなるベル電話会社で利益を生み続けます。今日では電話の発明者は、エジソンでもグレイでもベルでもないとされています。その発明者は、ドイツのカッセル公国のヨハン・フィリップ・ライス。彼は遅くとも1860年にはガルニエ工科大学で、電気による送話器を発明しています。徐々に事実が明らかになってきましたが、全ては過去のこと。ちょっと電話をかけてみます。もしもし、電話を発明した方はいらっしゃいますか?すみませんが、あなたはどちらさまでしょうか?
2007.07.28
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甘党にとって、ケーキなどの甘い洋菓子は魅力的。甘い和菓子も夏には最高のデザートです。しかしご注意を。虫歯は甘党のあなたを襲います。このブログでの登場したイギリス女王エリザベス一世は大の甘党でした。砂糖菓子やケーキを、宮廷の贅沢なデザートとともに食べていました。しかも彼女は歯を綺麗にみせるため、硝酸や軽石で歯を擦っていました。エナメル質の取れた歯に、多量の砂糖が襲い掛かります。かくして彼女は虫歯に。虫歯は歯槽膿漏となり、更に血液中に細菌が入り込みます。つまり敗血症です。度重なる発熱、ふるえ、頭痛、関節痛。さらにはあらゆる臓器が侵されていく。そして彼女は息を引き取ります。ヨーロッパ諸国を畏怖させたイギリス女王は、ケーキの誘惑に敗れたのです。皆さん、くれぐれもケーキの誘惑にはご注意を。それでは今日は、ねこさん、いぬさんのお菓子をご紹介しましょう。ふふふふ。
2007.07.23
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季節柄、お化けに会いたくなってきました。お化けや妖怪が好きな私ですが、残念ながらまだ出会ったことがありません。感性が不足しているのでしょうか。ラフカディオ・ハーンは「怪談」で日本を紹介しました。帰化して小泉八雲に改名したハーン。むじな、耳なし芳一などは多くの人に親しまれました。戦後、ハーンは西洋の視点でしか日本を見ていないとして否定されます。たしかにハーンは日本の因習を誇張して捕らえすぎ、西洋との違いを強調しすぎました。しかし明治において、ハーンは日本をこよなく愛した作家でした。ハーンの書いた「むじな」と「耳なし芳一」。のっぺらぼうに化けたむじなも芳一も、どちらを目を持ちません。そしてハーンも極度の近視なうえ、若くして左目を失明しています。見えない左目で、異界の者達を捕らえたのでしょうか。私も生まれながらの弱視で、右目はほとんど見えません。しかし右目で異界を捕らえることはできない様です。感性をつかさどる右脳につながる左目が、異界への世界を開くのでしょうか。ハーンは見えない左目を、人目から隠したといいます。私の右目の外観は普通ですので、隠す必要は全くありません。ハーンの異界への扉は、その外界からの隔絶にも一因がある様に思えます。いつかお化けに出会えたら。そんな私の願いは、当分は、かないそうもありません。
2007.07.18
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科学と錬金術の境界は、かつてはほとんどありませんでした。マイセンの陶磁器を作り上げたベドガーやカリオストロ伯爵は、錬金術師として有名です。しかしニュートンが「最後の錬金術師」と呼ばれていることは、あまり知られていない気がします。近代科学の父と言われるニュートン。しかしその本質は錬金術師でした。彼の科学的業績は、人生の前半の50年のみです。後半の30年は錬金術に専念し、錬金術で使う水銀に侵されていました。万有引力も、ニュートンは次の様に考えていました。「引力の存在は、万物が神の意思により地に引かれることの証明である」近代科学の解釈は、ニュートンを近代的な考えの持ち主と位置づけました。しかしニュートン自身は、あくまで中世の人だったのです。時代の見方により、その人の印象が大きく変わるということでしょう。錬金術があるとすれば、核反応の世界。核反応の研究者が錬金術師とすれば、ニュートンはやはり先進的な科学者とみなすことができるのでしょうか。
2007.07.15
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「則天去私」は、晩年の夏目漱石の人生観。解釈は様々ですが、私心を捨てて、自然の摂理に従うという考え方。自然の流れに身を任せるとする、人生を達観した境地です。「明暗」の連載を開始した頃、漱石は既に満身創痍でした。胃潰瘍、糖尿病、神経痛、神経衰弱などに蝕まれ、執筆を続けます。しかし1916年12月9日、容態はいよいよ悪化します。小学生の娘の愛子さんが泣き出すのを見て、泣いていいよ、と声をかけたきり、意識は混濁します。夕方、意識朦朧としたまま、自らの胸を開いて最期の言葉を残します。「水をかけてくれ、死ぬと困るから。」そしてそれに看護婦が応じた後につぶやいた、「よし」という言葉が最期となります。自然の流れに身を任せるとした則天去私。しかし最期の言葉は、それとは逆の「死ぬと困るから」でした。子供達が気になったのか、それとも未完の「明暗」が気になったのか。真意は分かりません。でも私は少しほっとしました。そして、いっそうに漱石が好きになったのです。
2007.07.12
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天然理心流の天才剣士にして、新撰組一番隊隊長、沖田総司。剣の達人でありながら、肺結核を患っていたことはあまりに有名。池田屋事件では、全身に浴びた返り血で、誰も沖田の喀血に気がつかなかったほど。それからも、毎日のように人を切ったという。しかしついには病に倒れ、闘病生活に入ります。1868年5月28日。沖田は庭の梅ノ木の下に、黒猫を見つけます。猫に嫌なものを感じた沖田は、猫を切ろうとします。しかし猫の視線に射すくめられ、切ることができません。翌日も、猫とのにらみ合いは30分も続きます。翌30日の昼頃、沖田の容態は急激に悪化します。傍で看病する植木屋の婆さん。そして目を閉じたまま残した、最期の言葉。婆さん、あの黒猫は、また来てるだろうな。黒猫を切れなかった天才剣士。あの黒猫は、死神の化身だったのでしょうか。幸い私のもとには、死を伝える黒猫はいない様です。まだ、今のところは。
2007.07.08
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アントニオ・ガウディが残した未完の傑作サクラダ・ファミリア。そのサクラダ・ファミリアに倒壊の危機があると言います。高速鉄道AVEのトンネルが、この教会の地盤から僅か数mの距離に掘られるためです。スペイン政府は安全と説明していますが、実際に落盤事故も起きている軟弱な地盤。協会側は政府に対して、工事中止の裁判を起こす姿勢です。しかし現在の工事が、教会から申請されておらず、政府は不法建築として反論する構えです。重要な世界遺産を不法建築とは驚きです。サクラダ・ファミリアは、9本の塔が完成し、20年後には現在の設計は完成すると言われます。永遠に作り続けることを命題としたサクラダ・ファミリア。その教会は成長を止めるとき、まさに崩壊の危機を迎えています。このことに、私はガウディの教えを感じます。教会は建設を終えれば、あとは崩れていくしかない。人も成長を終えれば、崩れ去るのみ。その厳しいガウディの声を。
2007.07.02
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大豪邸に住み、既に7冊の著書を出版していたアガサ・クリスティ。幸せそうな彼女は、1926年のある日に突然の失踪事件を起こします。彼女の愛車モリスを乗り捨てたまま、彼女は消えてしまったのです。実は彼女の夫は浮気をしており、見掛けほどは幸せではなかったのです。11日の失踪後、彼女はホテルで発見されます。手には彼女を掲載した新聞を持ったまま。記憶喪失と言われますが、この事件は謎のままです。なぜ彼女は自分の顔が載った新聞紙を気付かずに持っていたのか。なぜ、ホテルの宿泊名に、夫の愛人名を使ったのか。ホテルで着ていた衣装はどこで手に入れたのか。数ポンドの所持金は、なぜ300ポンドに増えていたのか。これらは謎のままです。しかしこの事件の結果、次作「ビッグ・4」は大ヒットし、その後にベストセラー作家となります。今でもこれは彼女の演出による事件とさえ言われています。真実は分かりません。しかし著名な人は、見かけほど幸せでないのも確かなこと。幸せは、喧騒を嫌うものかもしれません。
2007.06.28
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アルブレヒト・デューラーは15世紀のドイツの版画家。彼は小さな村の、貧しい家庭に生まれました。兄のアルベルトと弟のアルブレヒトは画家を目指します。しかし美術学校に行く学費は、とても賄えそうにありませんでした。ふたりは相談して、解決法を考えました。まずアルベルトが鉱山で働いて学費を稼ぐ。その間にアルブレヒトが美術学校で学び、卒業後は交代するという考えです。大学でのアルブレヒトは才能を開花させ、絵の注文も受けられるようになりました。彼は芸術家としての成功を手にしたのです。兄を招いて彼は言います。今度はお兄さんの番です。どうぞ絵の勉強をしてください。しかし兄のアルベルトは、うつむいて首を振るばかりでした。涙にほほをぬらしながら。アルベルトは手を差し出して、話し出します。アルブレヒト、もうだめなんだ。僕の手の指はどれも一度は骨が砕け、関節炎も酷く祝杯のグラスさえ持つことができない。そう、だめなんだ。とても絵筆を持つことなんかは、二度とできないんだ。アルブレヒト、遅すぎたんだ。危険な鉱山の作業は、兄の芸術家への夢をすべて奪い去っていたのです。アルブレヒトは、兄への感謝の気持ちを込めて、兄の手を描きます。痛ましく曲がった指の手が、祈るように合わされたデッサン画。彼はその絵を「手」と名付けます。しかし人々は、その絵を「祈る手」と呼ぶようになります。人々はその手から、お互いを思いやる気持ちを感じたから。支える人。その人は時に、自らのチャンスを犠牲にします。そして強い愛を残します。支えられる人。その恩返しは、往々にして、果たされることがありません。時の流れが人を待たないから。ほんの一瞬のチャンスを生かすには、人の支えが必要なのです。
2007.06.23
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ナポレオンが愛したジョセフィーヌには、浪費癖がありました。ナポレオンに内緒で、ドレス900枚、手袋1000枚を購入します。更になんと1年で500足の靴も買ったのです。不審に思ったナポレオンが調べさせた彼女の借金は、驚くことに6億円。ナポレオンの秘書は困り果て、業者と1つ1つの品を値段交渉し、半額の支払いで済ませたのでした。しかし彼女も、マリー・アントワネットには及びません。彼女は衣装代だけで年間10億円を浪費します。1億円のブレスレットを衝動買いし、侍女には3億円の持参金。ただ、母親となってからは、彼女は変わります。ですがフランス国民の怒りは、すでに静まりようがありませんでした。女性の美の追求は凄まじいもの。ただその美の追求は、時には西洋陶磁器の発展を促しました。今日はナポレオン3世の妃ユージェニーの食器をご紹介します。西洋陶磁器の発展には、常に女性の姿が見え隠れするのです。
2007.06.21
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初めて帝大に入学した3人の女性。彼女たちの生涯は三様でした。黒田チカは日本最初の女性化学者。お茶の水女子大学名誉教授となり、天然色素の結晶の研究に一生を捧げます。紅の色素といえば彼女の名が出るほどに、大きな功績を残します。化学界から第1回真島賞を受賞。彼女は語ります。「私の生涯は、結晶から結晶へと続いていました。」丹下梅子は日本初の女性農学博士。卒業が病気で遅れますが、さらにスタンフォード大学などで栄養化学を修めます。日本女子大教授を務め、その後に理化学研究所に入所。鈴木梅太郎のもとでビタミンB2複合体を研究します。そして東京帝国大学から農学博士の学位を受けます。まさに栄養学一筋の人生。牧田らくは数学を専攻。数学が好きでたまらず、周囲の女性への偏見を跳ね返して入学した彼女。しかし卒業後は、東京女子高等師範学校教授の職を辞して、洋画家金山平三の夫人としての人生を歩みます。孤高の芸術家と呼ばれ、気難しい金山平三。その平三に外乱が入らず芸術に専念できるよう、主婦に徹したのでした。納得できる絵を描くことに専念し、売る絵を描かない平三。このまま目が開かないで死んでいたら、どんなに楽だろう。そう思う厳しい生活が続きました。現在、平三の絵を語る時、常にらくの内助の功が取り上げられます。そして130の平三の作品を美術館に寄贈し、らくは88歳で永眠します。生涯を独身ですごし、大きな功績を残した黒田チカと丹下梅子。婦人であることに徹した牧田、いえ、金山らく。3人の生き方は対照的ですが、3人ともに幸せでした。幸せには、万人に対する正解はないのです。3人の生き方は、今日の本「拓く」にあります。最後に、金山らくの言葉を記します。私が主人の犠牲になったと言う方がおられますが、とんでもありません。私の全てを主人の肥やしにしようとして、主人と歩んだまでのことです。私は主人の仕事の中に、充実して生きることができました。もちろん、後悔などは、微塵もございません。
2007.06.19
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雨、紫陽花の季節。紫陽花の学名は“おたくさ”。日本に西洋医学を広めたシーボルトが愛した女性、楠本たき(お滝)から名がつけられています。美人のお滝は遊女とも、あるいは出島に入ることを許されるために遊女を騙ったともいわれます。シーボルトとお滝の間には、シーボルト・イネ(朱本 伊篤)が生まれます。しかしシーボルトは、イネが2歳の時にスパイ容疑で国外追放となります。いわゆるシーボルト事件です。ハーフと分かる茶褐色の髪のイネは、周囲の偏見の眼を恐れます。部屋にこもり、本を読むイネ。文盲のお滝との間には、激しい葛藤があったといわれます。女性が学問に打ち込むことが、理解されない時代でした。しかしイネは、ついに日本女医1号となるのです。お滝とイネが、シーボルトと再会するのは、分かれてから30年後でした。その間、紫陽花は30回、咲いては枯れていきます。“おたくさ”の名からは、シーボルトの孤愁が感じられます。紫陽花が憂いに満ちているのは、雨のためばかりではないのでしょう。
2007.06.16
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革命、それは時代を塗り替える新しい風。革命、それは民衆に救いを与える希望の光。革命、それは旧体制の悪政を罰す正義の動き。フランス革命の頃、ひとりの大科学者が現れます。それはアントワーヌ・ラヴォアジエ。ラヴォアジェは、燃焼は物と酸素が結合することと説明します。そして化学反応の前後では質量が変化しない、「質量保存の法則」を発見します。まさにそれは科学史上画期的な発見。後に人はラボアジェを、「近代化学の父」と呼びます。彼は実験費用を得るために、市民から税金を取り立てる徴税請負人として働いていました。そして一方で、民衆のために、税金の負担を減らす活動もしていました。しかしフランス革命が勃発。混乱の中、ラボアジェは徴税請負人として、民衆の敵とされ、断頭台の露と消えます。ジョゼフ・ルイ・ラグランジュは嘆きました。「彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を生み出すには100年はかかるだろう。」ラボアジェ、彼は科学史を塗り替えた新しい風。ラボアジェ、彼の行為は民衆の税率を下げようとした希望の光。ラボアジェ、彼が起こしたのは旧時代の科学を正す正義の動き。革命、それは時代を塗り替える新しい風。革命、それは民衆に救いを与える希望の光。革命、それは旧体制の悪政を罰す正義の動き。
2007.06.03
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クリストファー・コロンブスは1492年、新大陸を求めて旅に出ます。彼は危険な北方の流氷を避けるため、航路を南方に取ります。しかしカナリア諸島近辺を通る南方ルートには、ハリケーンという大きな自然の脅威が待ち受けていました。なぜコロンブスは、危険な南方ルートを選んだのでしょうか。それは当時のヨーロッパでは、ハリケーンが全く知られていなかったからです。そのためスペインの祭りが終わる、最もハリケーンの危険性が高い時期に航海に出ることになります。奇跡的に1492年の航海は、ハリケーンを避けることができました。しかし2度目の航海以降、1494年、1495年にはハリケーンで、3隻の船を失います。もし1度目の航海で小型な彼らの船がハリケーンに会ったなら、歴史は変わったことでしょう。気象に関する知識の少なかった当時、アメリカ大陸の大きな寒暖の差もヨーロッパ人は理解ができず、多くの入植者が犠牲になりました。気象学の発展は、私たちの生活を安定したものに変えました。今、私たちは乾燥化や温暖化など、異常気象という新たな自然の脅威に直面しつつあります。私たちは似ていないでしょうか。危険の迫る最中を、全くの無知ゆえに、意気揚々と進むコロンブスたちに。
2007.06.02
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心理学の巨匠ユングとフロイト。ふたりは同性愛者と見紛うほどに、お互いを讃えあい、親しく交流していました。しかし出会いからわずか6年でふたりは決定的な決別をし、以降、両者はユング派,フロイト派として対立します。ユングの心霊現象の研究を、フロイトが理解しなかったため。フロイトの深層心理の性的解釈に、ユングが疑問を感じたため。様々な理由が挙げられますが、確かな理由はありません。ここに、ザビーナ・シュピールラインという女性がいます。彼女は、もとはユングの患者。しかしユングと恋仲に落ちます。妻のあるユングはスキャンダルを恐れ、フロイトに相談します。やがてユングとシュピールラインは別れますが、彼女はフロイトと交流を持ち始めます。彼女はユングとの恋愛体験に基づく論文を発表し、フロイトはそれに感銘を受けます。そしてこのことは、ユングとフロイトの関係に、大きな溝を作っていきます。ユングとフロイトの決別の、真相は分かりません。しかしシュピールラインの存在が、ふたりの関係に無関係とは思えません。心理学派を分断したそのきっかけは、実はごく人間的なできごとにあるのかもしれません。天才といえども、彼らも人にすぎません。その中心にあったシュピールライン。いつも、そしてどこでも、時代の中心には女性があるのです。
2007.05.26
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かつて一世を風靡した科学者ニコラ・テスラ。彼は交流誘導モータの発明者。そして商用発電に関して直流支持派のエジソンを打ち破り、交流による電力供給システムを完成させた偉人。大財閥モルガンの支援も受け、まさに時代の寵児となります。テスラが持つ天才的才能は「直感像素質」。一度見た光景を、写真の様に細かく記憶に焼き付けることができました。さらにその記憶のパーツを、個々に回転,移動,分解し、他のパーツとも組み合わせることも可能。図面なしでの設計を可能とする、天才設計者。しかしその絶頂において、彼は大きな過ちを犯します。テスラ・コイルを利用した、超光速エネルギー送信システムの発明を目指したのです。交流を利用して地球の中心を貫き、光より早くエネルギーを送るシステム。到底不可能なこの夢に、高さ57mの鉄塔を築いて挑戦します。その結果、彼が向かったのは、果てしのない没落。全ての資金援助を失い、そして名声も。さらにこの頃、彼の才能「直感像素質」も失われていきます。晩年、ホテルの一室で、孤独な死を遂げたテスラ。今日、彼の名は、わずかに磁束密度の単位として残ります。起動させると、稲妻の様な放電現象を起こすテスラ・コイル。彼自身も稲妻の様に一瞬眩しく輝き、そして消えてゆきました。夢、それはいつも危険とともにあります。天才さえも破滅させた夢。それでも、あなたは、夢への挑戦を続けますか。
2007.05.20
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今から150年前、妊婦の産褥熱での死亡率は高いものでした。ウィーン総合病院のゼンメルヴァイスは、あることに注目します。第一産科では産褥熱の死亡率は13%もあるのに、第二産科では3%しかない。これはなぜか。第一産科では産褥熱の患者に医師が触れた後、そのまま妊婦に手を触れます。しかし第二産科では、医師が患者に触れることはありません。ゼンメルヴァイスは提案します。妊婦に触れる前に手を消毒すること。当たり前のことですが、細菌も知られていない時代には、全く行われていないこと。この提案で、死者は2%に減少します。しかしこのことは、ウィーン大学にとってはまさに内部告発。ゼンメルヴァイスは、上司のクラインにより解雇されます。そしてクラインは医学史に名を残します。最も無能な医学者として。さらに善良な医者の自殺が相次ぎます。手を洗わなかったことで患者を死なせたとして。そしてゼンメルヴァイスは精神を病み、若くして亡くなります。享年、わずか47歳。晩年、ゼンメルヴァイスは公園を徘徊。そして泣きながら、アベックにこう頼みました。子供を生む時は、医者に手を洗うように言いなさい。ゼンメルヴァイスの涙は、多くの女性を救いました。そして自らは、歴史の闇に消えてゆきます。ゼンメルヴァイスさん、あなたの涙は今も私たちの目に映ります。ただそれは、赤ん坊の誕生を喜ぶ母親の、歓喜の涙となって。
2007.05.19
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今は亡き私の師が、私に教えて下さった話があります。それはあのフランス科学史に汚点を残すN線の話。ナンシー大学教授ルネ・プロンスペル・ブロンローは、1903年にN線を発見します。その見えない光は、X線に似て物を透過しますが、プリズムで屈折、つまり曲がります。赤外線にも似ていましたが、アルミを透過する赤外線にない性質がありました。しかしN線は、ブロンローら一部の研究者にしか確認できません。さらにフランスの科学者から、N線は人体からも出るとの報告がされます。特に感情の起伏等とN線の発生は、関連があるというのです。N線は生命との関わりが深い光なのです。N線はドイツで発見されたX線に対抗し得る、フランス科学の大業績。科学アカデミーは、ブロンローにルコント賞を与えます。フランスの期待を一身に担ったN線。米国のロバート・ウッドは、ブロンローにトリックを仕掛けます。ブロンローがアルミのプリズムでN線の屈折を証明した実験。この実験中、彼はそのプリズムをこっそり抜き取ります。プリズムなしでは観測できないN線の測定値を、次々と読み上げるブロンロー。ウッドが黙って差し出す掌。その掌にはプリズムがありました。1909年、ブロンローはナンシー大学の教授職を辞職します。科学者には未知への挑戦が必要です。しかし極度の思い込みは、見えないはずのものを見せます。それが恐ろしい病的科学。未知への情熱と、冷静な観察力。そのバランスを、私たちは忘れてはなりません。見えないものを見ることは、とても簡単なことなのですから。
2007.05.16
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光と影の画家、レンブラント。彼の作品「夜警」は、アムステルダムの火縄銃隊の集団肖像画。画面左でスポットライトを浴びる少女の腰には、火縄銃隊のシンボルの鶏の爪。この絵は時代共に汚れ、保護のため2重3重に塗られたニスで絵は黒ずむ。そのため後世に「夜警」と呼ばれます。しかしこの絵は昼間の風景。また「夜警」は、レンブラント没落のきっかけと言われます。3人の子供と愛妻サスキアを失った彼は、この「夜警」を描いた頃から没落したという。しかしこれは俗説です。真実は彼の浪費癖と、その絵が時代感覚にあわなかったため。レンブラント独自の明暗法、キアロスクーロ技法。この技法は、闇の中に静かに人物を浮かび上がらせます。しかし、静かに、時代の闇に消えていったレンブラント。世に認められず、経済的に破綻し、孤独な晩年を送ったレンブラント。もう、スポットライトは、彼のためにはありません。後世のこの絵の高い評価を、誰も知らないままに。
2007.05.15
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アルルの地に芸術家のコロニーを作りたい。その想いから、1888年2月にヴィンセント・ヴァン・ゴッホはアルルのアトリエに移り住みます。ゴッホは、ゴーギャンがアルルに来るのを待ちます。ゴーギャンにひじ掛けのある立派な椅子を用意して。芸術家ゴーギャンを尊敬していたから。自らは粗末な椅子を12脚揃えます。ゴーギャンをキリストに、自分を12使徒のひとりに見立てるために。貧乏のどん底で食事も儘ならないない画家が、12脚もの椅子を。10月、ついにゴーギャンはやってきます。しかしゴーギャンは、画家になるために妻子も平気で捨てる自分勝手な男。初めから分かっていた破滅への道。12月23日の夜、剃刀を持ち、ゴーギャンを追うゴッホ。ゴーギャンに威嚇され、襲撃を諦めたゴッホは、有名な耳切り事件を起こします。貧困の中、ゴッホが用意した粗末な椅子は、「ゴッホの椅子」として、この事件の前後に描かれます。そして「ゴーガンの肘掛け椅子」も。絵の歪んだ線、暗い床、そして持ち主の座らない椅子。「ゴッホの椅子」の後ろの箱にも、征服の意味を持つ“Vincent”が描かれています。何か追い求めるものを、箱に入れ、征服するために。ゴッホを破滅させたもの。それは、まさに強すぎる想い。そう、ゴッホの想いは、あまりに強すぎて。
2007.05.13
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スコットランド女王であり、イギリス王権をめぐりエリザベスと争い、そして断頭台の露と消えた女王メアリー・スチュアート。彼女の悲劇はダーンリー卿との恋愛に始まります。分別も知恵もあった彼女はダーンリー卿との恋の虜となり、電撃結婚。しかし1年後には破局、音楽家リッチオを重用。ダーンリー卿は報復に身重のメアリーを襲撃し、リッチオを惨殺。肩に傷を受けたものの、メアリーは後に子供を出産。そして翌年、ダーンリー卿を暗殺。その暗殺の首謀者ボズウェル伯爵とメアリーは結婚。しかしこの結婚が国民の反感を買い、ついにはエリザベス女王に幽閉されることになります。その後、19年に及ぶ幽閉が続くが、エリザベスにとって危険な存在でした。メアリーはあまりに陰謀のヒロインを演じすぎました。メアリーを処刑することすら、エリザベスにとっては危険でした。ついにイギリスにカトリックの復興を目指す教徒達は、メアリーとスペインに援助を求めます。その結果、イギリスとスペインの関係は悪化し、スペイン無敵艦隊の敗北で、エリザベスの勝利が確定します。1587年2月7日、メアリーは処刑されます。苦難の時代は、メアリーを気品にあふれ、深みのある人間に変えていました。死刑判決を下す裁判官に彼女は言い放ちます。「世界という舞台は、イングランドより広い。」こうしてメアリーは処刑され、エリザベスはイギリスを世界一の王国とします。しかし、メアリー・スチュアートは、ある意味で勝者です。エリザベス亡き後、イギリス,スコットランドで乱舞するのは、メアリーの末裔たち。そして、現エリザベス女王エリザベス2世は、メアリーの13代目の子孫です。死を迎えた彼女の荘厳な強さと、将来を見通す目は、エリザベスをも超えていました。波乱の人生は、人に強い信念を与えるから。強い信念は、長く引き継がれるから。そして強い信念は、いつか必ず人の心を動かすから。
2007.05.05
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夏目漱石を魅了した絵。その絵がロンドンのナショナル・ギャラリーにあります。それがあのポール・ドラローシュ の絵、レディ・ジェーン・グレイの処刑。描かれているのは、悲劇の女性ジェーン・グレイが首切り台を探す様子。ジェーンは、処刑人に聞いています。「どうすれば、いいのですか。台はどこにありますか。」1554年に、わずか16歳で処刑された彼女。エドワード6世の死後、ノーサンバランド公爵の大きな陰謀に嵌められた彼女。無理やり王位を押し付けられ、それに対抗するメアリーに孤立無援のまま降伏。メアリーはジェーンが大人の操り人形に過ぎないことを理解し、一度は彼女を許します。しかしスペインの要請により、7ヵ月後に行われた処刑。その処刑により、プラトンの「ファイドン」を原書で読む、学問好きの若きレディの命が奪われます。エリザベスに匹敵するといわれた学識の持ち主の命が。 夏目漱石は、「 倫敦塔」でジェーンを語ります。*薄命と無残の最後に同情の涙をそそがぬ者はあるまい。・・・踏みにじられたる薔薇のしべより消え難き香の遠く立ちて、今に至るまで史をひもとく者をゆかしがらせる。・・・余はジェーンの名の前に立留ったぎり動かない。動かないと云うよりむしろ動けない。*たった9日間の王位。わずか16歳での処刑。大人の陰謀に抗する力を持たなかった彼女。あまりにジェーンの人生は儚すぎます。しかし彼女は記憶は残ります。人々の心の奥深くに。
2007.04.28
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マリー・アントワネットの生涯はあまりに有名で、書きつくすことができません。ですから多くは書きませんが、マリーには心に残る言葉があります。賭け事で浪費をしたマリーは、市民の反感を買います。それにくわえ、マリーは軽率で、快楽を追う性格でした。その結果、必要以上の非難中傷を受けることになりました。ダイヤの首飾り事件ではマリーは被害者でしたが、非難はマリーの浪費に向けられました。10月行進でのパンを求める市民の抗議。これは何者かがパンを買占め、パン価格が上昇したための仕組まれた暴動。しかも、マリーのものではない言葉が、あたかもマリーからの様に語られました。「パンがなければ、お菓子を食べればいいのに」マリーは、こんな言葉は発していない。この頃、マリーは賭け事をやめ、マリー・テレーズらの子育てに喜びを見出していたのに。王妃ひとりの贅沢で、国家財政が危機に瀕す訳はありません。また、今のマリーがどうであるかは無関係でした。彼女は旧体制の象徴として、批判され、処刑される運命にあったのです。マリーは自らの処刑を前に悟ります。自分が歴史的人物になるさだめであることを。そして深い言葉を残します。そこには若い頃の軽率で、不注意だったマリーの面影はありません。「不幸にあって初めて人間は、自分が何者であるかを知ります」死を前にしたマリーは、まさに王妃でした。
2007.04.27
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この頃になると思い出します。1994年5月1日 日本時間9時17分、サンマリノGP タンブレロ・コーナーで、音速の貴公子と呼ばれたレーサーが亡くなりました。この日、私は、いつもの様に鈴鹿サーキットでレースを観戦していました。確かフェレッシュマン・トロフィーだったと思います。今は西洋陶磁器と骨董を愛する私も、当時は毎週の様にレースを鈴鹿で観戦していました。新人戦フレッシュマン・トロフィーは、F4,FJ1600,RS,N1,N2,シビックレース等の異なるレースの予選と決勝を1日で完了する強行プラン。本業で得た資金を投入して参戦するレーサーに、客席から、パドックから、声援を送っていました。時差の関係から、まだF1サンマリノの決勝は始まっていませんでしたが、鈴鹿には予選でのセナのポールポジションを告げるアナウンスが流れていました。新人レーサーの全てがあこがれるレーサー。それがアイルトン・セナでした。鈴鹿でのレース観戦後に私を待っていたのは、衝撃のサンマリノの事故のニュースでした。トップを走るセナを猛追するのはシューマッハ。セナの操るウィリアムズFW16ルノーが、超高速のタンブレロ・コーナーへ。310kmの高速コーナーで突然、ステアリング・シャフトが破損。セナは電光の反射で、わずか0.2秒後にはブレーキ。しかし210kmまでの減速しかかなわず、1.5秒後に0.5秒の滑空の後、コンクリート・ウォールに衝突。右フロント・サスペンション・アームは折れ、ヘルメット・バイザー上部からセナの頭部を貫通。ほぼ即死に近い状況。原因はレースの直前に行われた、ステアリングの改造と推定されます。本来は直径22mmの高剛性ステアリングシャフトを切断し、厚さわずか1.2mmのパイプで溶接した応急処理。しかも溶接不良さえ見られました。しかし事故後にチームがレースデータを記録したテレメトリーボックスを隠匿、FIAもセナの車載映像を提出しなかったため、正確な原因は特定されませんでした。コーナーをセナ足で駆け抜けるセナ。私もあれだけレースを観戦しながら、セナは死なないと思い込んでいました。しかしこれはマスコミにより作られた虚像でした。セナは日本のマスコミが作った英雄です。日本では音速の貴公子と称されましたが、イギリスでは近代レース史上で最も危険なドライバーと呼ばれました。乱暴な走行でケケ・ロズベルグに接触し、タイヤでヘルメットを轢いたセナ。予選での他チームのドライバーへの悪質な走行妨害。ピットでのドライバーへの暴行。プロストがリタイヤすれば優勝が確定するレースで、“故意に”車をぶつけ両者リタイヤ。速いが、勝つためには、危険な行動も躊躇しないレーサー。それが本当のセナでした。頭部を破壊され、呼吸、心臓がともに停止したセナは、信じ難いことに1時間後に蘇生させられます。作られた英雄は、死ぬことすら許されなかったのです。英雄セナは死なない。その様なたわごとを本気で信じた私たち。マスコミとは、かくも恐ろしいものです。
2007.04.22
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ヘンリー8世の第1王妃キャサリン・オブ・アラゴンは、離婚後に毒殺とも言われる死を遂げます。代わって王妃になったのは、キャサリンの侍女だったアン・ブーリン。つまりエリザベスの母です。アンは前妻キャサリンの娘に冷たい仕打ちを加えます。その娘こそ、メアリーでした。メアリーは心身症に苦しみ、王位継承権も一時失います。結果的に王権を得たメアリーは、自らに冷たい仕打ちを与えたアンを許せませんでした。そしてその娘エリザベスに王位を与えることだけは避けたいと考えます。自分の妹であるのに。王権を自分の子供に与えることに執着するあまり、メアリーはスペインと婚姻関係を結び、国民の反感を招きます。そしてその反乱を鎮圧するために、多くの反乱軍を処刑します。しかし王権の継承に必要な男子は、37歳からの結婚では当時はかないませんでした。そればかりか2年後に、スペインと共にフランスと交戦することになり、大敗。イギリスは領土を奪われ、経済は破綻します。そして結婚からわずか4年で、卵巣癌と脳膜炎から死の床につきます。死の床で、メアリーはついにエリザベスを次期王位継承者に指名します。最も恐れた結果を、自ら選択することになったのです。メアリーはイギリスに何ももたらしませんでした。そればかりか残虐な処刑は、国民の反感を招きます。ブラッディ・メアリー。国民はメアリーをこう呼びます。まさに血まみれの生涯でした。継母への復讐に駆られた時、すでに彼女は未来への可能性を失っていたのでしょう。恨みは、人に、何ももたらさないのです。
2007.04.17
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イギリス経済を建て直し、海軍を一新。スペイン無敵艦隊を破り、イギリスを世界一の国家にした女王エリザベス1世。しかし彼女の幼少期は、とてもつらく悲しい。父ヘンリー8世は、妻に対して冷酷。第1王妃は離婚後に死亡。死因は毒殺といわれます。第2王妃アン・ブーンはエリザベスの母親。しかし期待された男の子を流産したために、不義の偽りの罪で処刑されます。母親を父親に処刑されたエリザベスは王位継承権を失います。「どうしてプリンセスではなく、レディになるの?」幼い彼女は、レディが王位継承権のないことを知らず、こう質問したといわれます。その後も第3王妃は後継ぎエドワードを生むが、産褥死。アン・ブーンを処刑台に送った報いを受けます。因果応報。第4王妃は容姿が悪いという理由で6ヶ月で離婚。第5王妃は本当の不義で処刑されます。しかし第6王妃キャサリン・パーは、前妻の子エリザベスに教育を受けさせ、さらに王位継承権を復活させます。この教育のお陰で、エリザベスはイギリス最高の学者と言われるほどの教養を持ちます。ヘンリー8世の死後は、エドワード6世が王位に付きます。そしてキャサリン・パーは、エドワードの弟のトマス・シーモアと再婚します。しかしキャサリン・パーはその後の35歳での初産で、女の子を出産後に亡くなります。エリザベスを救った、慈悲深い義母は他界してしまいます。その後、トマスは何と王位を狙って、エリザベスに接近します。しかし弟の陰謀に気が付いたエドワード6世は、弟トマスを処刑します。エリザベスは泣いて処刑の中止を懇願しますが、拒否されてしまいます。トマスの処刑の日、エリザベスは日記にこう書きます。「今日、知恵に富むが、判断力に欠ける男が亡くなった」エリザベスは既に、政治の世界の恐さを知り尽くしていました。エリザベス自身も危うい中、彼女の目標は定まります。それは、生き抜くこと。そしてそのための努力が、イギリスを世界一にする政治手腕につながるのでした。人は逆境の時に何をするかで、その後の運命が決まります。辛い時こそ、努力すること。その大切さを、エリザベスの生き方は教えてくれます。
2007.04.16
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忘れてはならないもの。それは人の恩。春、若者は恩師のもとから旅立ちます。彼ら、彼女らの旅立ちを、誰が助けてくれたのでしょう。母の面影を求め、美人画を描き続けた蕗谷虹児さん。蕗谷さんのデビューは、竹久夢二さんのお陰でした。夢二さんは蕗谷さんを、編集社の水谷まさるさんに紹介します。それは蕗谷さんの「少女画報」へのデビューのきっかけとなります。同じ美人画を描き、将来は夢二さんの仕事をも奪う可能性の高い蕗谷さんを、夢二さんは惜しげもなく編集社に紹介したのです。蕗谷さんは生涯この恩を忘れず、夢二さんを「夢二先生」と呼び続けたそうです。私も大変お世話になった恩師がありますが、今年度で退官されます。いつかは恩返しをと思いつつ、かなわぬままなのが心残りです。ただ感謝の思いを忘れないこと。それしか私には出来ませんでした。私は多くの人の恩を受けて生きています。ブログも皆さんからの恩で、今日も続けることが出来ます。これからも皆さんへの感謝を忘れません。ありがとうございます。そしてもうひとりのブログの恩人へ。ねこさん、きみに感謝。【 理知と官能の女性美 蕗谷虹児展 】
2007.03.31
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間違った研究成果にノーベル賞が贈られたことがあります。それは発癌についての研究。ノーベル賞候補は、デンマークのヨハネス・A・G・フィビガー博士と、東京帝国大学の山極勝三郎博士と市川厚一博士。フィビガー博士は癌の原因を寄生虫と提唱し、山極博士は市川博士とともに刺激説を唱えます。山極,市川両博士は実験での立証のため、毎日、ウサギの耳にコールタールを塗り続けます。しかし、1926年ノーベル医学生理学賞は、フィビガー博士に与えられます。ネズミにゴキブリを与えることで発癌するとした、フィビガー博士の説が認められたためです。山極博士も市川博士とともに、ウサギでの刺激説の実証をしたにも関わらず。その後、フィビガー博士の寄生虫説は、完全に誤りであることが分かります。彼が作ったと発表した腫瘍は、癌ではなかったのです。本当の人工癌は、山極,市川両氏により作られ、また刺激説も正しかったのです。フィビガー博士がノーベル賞を受賞した理由。それはフィビガー博士が高名であったことによる、権威尊重主義があります。そしてもっと大きな理由は、東洋人に対する人種差別でした。過去の過ちは仕方がないと思います。しかし、私は大きな疑問を感じます。なぜ、フィビガー博士のノーベル賞は、今日でも取り消されないのかと。科学は正誤を見極める学問であったはず。80年以上経った今日でも、医学書には、山極,市川両博士の実験が紹介されています。しかし、フィビガー博士の寄生虫説を教える医学書は、全く存在しないのでした。
2007.03.26
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19世紀ヨーロッパを代表する美女にして、悲劇のオーストリア皇后エリザベート。天賦の美貌に加え、172cmの長身、50kgf以下の体重、そして50cmのウエスト。人々は白百合の様に清楚で、白鳥の様に典雅と彼女を讃えます。しかし彼女の生涯は、悲劇に満ちています。幼少の頃、彼女はアルプスのバイエルン山中で、自然と共に自由に暮らします。風を友とし、花を話相手に育ちます。その彼女は15歳で結婚相手を決められ、そして彼女の意思に関わらず皇后となります。太公妃は自然児の彼女に、宮廷生活の教育を押し付けます。この時から、嫁と姑の対立は始まり、彼女は精神的に崩れていきます。ハプスブルグ家の伝統の重圧に耐えかねた彼女は、ウィーンを離れ、地中海の孤島マディラ島に静養に出ます。小鳥に囲まれ、蝶を集め、鸚鵡と歌う日々。彼女は本来の明るさを取り戻します。その後もウィーンに帰ると体調を崩す彼女は、旅に生活の中心を置きます。生涯で数千キロを走破。彼女は子供の頃から、乗馬の名人でした。彼女が編み出した横座りの乗馬の姿勢は、通称アマゾネス。「天使の容貌だが、悪魔の様に馬を駆る」と言われた、競馬並みに疾走するライディング。馬を4頭代え、8時間疾走し続けたこともありました。自然の多いハンガリーを愛し、ハンガリー王妃にもなった彼女。50歳を過ぎてもその美しいスタイルは変わりませんでしたが、彼女は人目を避け、若い頃の自分の姿のみを国民の記憶に留めようとします。あまりに強い美への執着。52歳の時、一人息子の皇太子ルドルフが公女と心中をします。あまりに大きな悲嘆は彼女の精神を蝕んでいきます。ルートビッヒ2世の溺死、そして彼との婚約破棄があったエリザベートの妹ゾフィーの焼死。彼女の厭世的な姿勢は強まり、喪服姿で旅先を異常な速さで移動する姿が、各地で見られる様になります。そして最期の時は訪れます。スイスのレマン湖で遊覧船に乗ろうとした彼女は、暗殺者に刺され亡くなります。悲劇的ですが、既に生きることに疲れていた彼女には、ようやく訪れた安息でした。幼少の頃の彼女の呼び名は「シシィ」。シシィと呼ばれ、アルプスの自然に囲まれていた頃の彼女は幸せでした。繊細で、情熱的で、飾り気がない。それが彼女の本質でした。美しさが彼女を皇后にし、そして彼女を不幸にしたのです。美しいということは、拘束という代償を強いるものなのでしょうか。
2007.03.18
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ノイシュヴァンシュタイン城を作ったバイエルン王、ルートヴィヒ2世。騎士道、音楽、演劇等の芸術を愛した王。作曲家ワーグナーのパトロンとしても知られます。戦争を嫌い芸術に逃避する王は、普墺戦争で最強のプロイセンのビスマルクに敗退します。一方でビスマルクは、ルートヴィヒ2世の高尚さに尊敬の念を抱きます。背が高く美貌の王は、生涯独身でした。ただ同じ様に王室を嫌うオーストリア皇后エリーザベトとは、精神面で共感しました。しかし彼女は人妻でした。王はベルサイユ宮殿に感化され、城作りに専念します。ルネサンス様式のリンダーホーフ城。ヘレン島に立てられたヘレンキームゼー城。そして、美しいノイシュヴァンシュタイン城。城は王のためだけの城とされ、公開は拒否されます。これらの城は王室の私費で建造されますが、戦争の賠償金と合わせて国家予算を危うくします。ノイシュヴァンシュタイン城に住み始め、王は昼夜逆転の生活を送り始めます。また王は太り、かつての美貌を失っていきます。厭世的な王を総理大臣らは精神病と称し、ベルク城への幽閉を決めます。更に城の建造を中止させられ、生きていく意味を失った王。幽閉された翌日の散歩中に、王は同伴の医師とともに湖で水死体とし発見されます。41歳でした。自殺か、陰謀か、事故か。真実は不明です。人はルートヴィヒ2世を夢想王と呼びます。まさに高尚な夢の世界に生きた王でした。王が公開を拒否したノイシュヴァンシュタイン城は、今では有名な観光地です。皮肉にも公開によって、城は存続したのです。
2007.03.17
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ラファエル前派の画家、ロセッティ。彼を語るには無視できない、ふたりの女性がいます。それは、彼の妻エリザベス・エリナ・シダルと、美女ジェーン・バーデン。ロセッティとジルダは、10年の交際の後に結婚します。しかし、それは幸せな結婚ではなかったのです。ロセッティは、ジェーンに惹かれていました。しかしジェーンが結婚したため、ロセッティはジルダと結婚したのです。結核を病み病弱で繊細なジルダ。ロセッティはジルダを残し、ジェーンをモデルに絵を描き、愛の言葉をささやきます。冷え切った夫婦関係に心を病むジルダ。さらに死産をきっかけに、阿片チンキを多量に服用し、彼女は他界します。結婚からわずか2年後の自殺同様の死でした。ロセッティはジルダの死を悼み、降霊会を開くなどします。さらに彼女と共に、自らの詩集を埋葬します。しかしその後も、人妻ジェーンとの関係は続きます。そしてジルダの死から7年後に、詩集が惜しくなり、墓を暴きます。爆発的に詩集は売れ、ロセッティは潤います。しかしこんなことが許されるでしょうか。ジェーンとの関係への世間の批判、そして妻の墓を暴いた罪悪感は、ロセッティを追い詰めます。幻聴に悩まされ、酒と薬におぼれるロセッティ。その彼も54歳で、妻の後を追います。妻と同じ阿片チンキ中毒でした。ジェーンはロセッティから解放されますが、彼女には「男を破滅に導く妖女」の汚名が残されます。ロセッティが彼女をモデルに、妖女を描いたためでもありますが。誰も幸せになれなかった関係。ロセッティの絵からは、彼のジェーンへの想いは伝わります。しかし彼の絵は妖しくはあれ、少しも魅力的な女性像には、私には思えないのです。ロセティの絵画: http://www.korega-art.com/rossetti/
2007.03.14
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「このすばらしい世界」は、ガガーリンと出会ったロバを描く絵本。もう昔になりますが、ユーリ・アレクセービッチ・ガガーリンは、人類初の宇宙飛行を達成します。1961年のことになります。地球は青かった。その言葉は、私たちに大きな誇りを与えました。私たちの地球は、宇宙でかけがえがないほど美しいのだと。地球は知っていたのでしょう。いつか人類が、その美しい地球の姿に気がつく日が来ると。そしてその地球の大切さを、実感する日が来るのだと。宇宙飛行から7年後、英雄は飛行機事故で亡くなります。でもそれは、幸せなことかもしれません。今日の地球に起こっていることを、知らないで済んだのですから。私は、今もう一度、ガガーリンの言葉を思い出します。地球は青かった。これからも私たちは、地球のこの青さを保つことができるでしょうか。
2007.02.27
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文豪ゲーテは恋多き人。生涯に、幾人もの恋人と出会います。そんなゲーテが結婚したのは、16歳年下のクリスティアーネ。長く辛い愛人生活の後のことでした。ゲーテは高名な文豪にして、枢密顧問官。一方のクリスティアーネは、教育を十分に受けられなかった造花工場で働く女性。貴族社会の風は、そんな彼女に辛く当たります。結婚に際して、既に妊娠していた彼女は犯罪者扱いをされ、郊外に追い出されます。その間も、ゲーテは新しい愛人との交際を続けます。ゲーテの全てを受け入れること。それが彼女の宿命でした。晩年、病気のゲーテを看病するクリスティアーネ。しかし彼女の体調は、ゲーテ以上に悪かったのです。結局、彼女は病に苦しみ、16年も早くゲーテより先立ちます。彼女の最期の日々に、ゲーテは彼女を看取ろうとはしませんでした。彼女の死に耐えられない。それがゲーテの言い分でした。ゲーテも来ない寝室で、彼女は長い病気の苦しみに、孤独にもがきます。孤独から、強い痙攣の苦しみから開放された、彼女の直接の死因は尿毒症。そして初めてゲーテは、友人に手紙を書きます。「私の愛する人が、かわいい妻が、この日我々のもとを去った」孤独な妻には、かけられなかった言葉です。天才を愛することは、かくも残酷なことなのです。
2007.02.20
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歴史から忘れられた女性、ミレヴァ・アインシュタイン。アルバート・アインシュタインの最初の妻にして、悲劇の女性。ミレヴァはアルバートが学生時代から交際。この時から悲劇は始まります。結婚を先延ばしにされ、婚前に女子を授かります。両親の猛反対後に結婚。しかし、その女の子の姿はありません。養子に出されたのでしょうか?今では誰も知りません。ミレヴァは、アルバートと対等の物理学者でした。しかし結婚によって、そのキャリアを捨てます。アルバートの妻として生きることを選んだのです。間もなく1905年に、アルバートは相対性理論を発表します。その理論には、ミレヴァの考察も反映されているのではないか?それが最近浮上してきた説です。しかし相対性理論の栄光は、アルバートにのみ与えられます。学者の道を捨て、妻であることに徹したミレヴァ。それにも関わらず、アルバートは愛人エルザを愛し、ミレヴァを捨てます。ミレヴァはその後、精神を病み、忘れられ、亡くなります。世界的に有名になったアルバート・アインシュタインは、こう言いました。「結婚は、想像力を欠いたブタによって発明されたものだ」天才アルバート・アインシュタイン。彼は本当に偉人でしょうか。
2007.02.16
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先日の日記で、ジョサイア・ウェッジウッドの孫が、ダーウィンだと話しました。ではねこさん、ジョサイアの息子はどうだろう。実はジョサイアの息子、トム・ウェッジウッドは化学の世界で有名。紙や皮に硝酸銀を染み込ませ、その上に葉を置く。そして日光に当てると、硝酸銀が還元されて、葉の形が焼きつく。つまり簡易な白黒写真。1802年、まだ日光写真も完成する前の偉業。化学への興味や、紙や皮などに焼き付ける実用性。このあたりはウェッジウッド家らしい。この後に写真は進化していくが、そのきっかけは彼の業績。すばらしい家系。ところで、ねこさん。中央のカメラは面白い。こんなデジカメがあるんだね。しかもローライフレックス。画角が6×6判なのも面白い。ねこさん、きみを撮ってあげようか。
2007.02.15
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世界で初めて飛行機で空を飛んだ男、サントス・デュモン。こう言うと、きっと皆さんは間違いを指摘されるでしょう。それはライト兄弟だと。サントスは飛ぶことを愛し、1901年にはエッフェル塔を飛行船で30分以内に周回。そして1906年の複葉機14bis号は220mを21.2秒飛行し、世界初の飛行に成功したと認定される。生涯に22機の飛行船と飛行機を開発したパリの英雄。彼はお洒落で紳士的。“ハイカラ”は彼の白く高い襟に由来する。カルティエはお洒落な彼の名を取り、腕時計サントスを発表した。昼食を取りに飛行船で散歩し、小型飛行機で飛行を楽しむ。飛行技術の普及のために、彼は特許も取らず、お金も受け取らなかった。パリ市民は人柄の良い彼を愛し、プティ・サントスと讃える。しかし数年後、世の中は一変する。ライト兄弟が、突然、1903年12月に飛行に成功していたと主張。冷淡な性格のライトをパリ市民は嫌いながらも、次第にサントスの空の英雄の座は奪われる。そして、さらに戦争が始まる。彼が愛した飛行機は、最も有効な殺人マシンと化す。加えてこの頃、彼は多発性硬化症になり、精神的に悪化をたどる。飛行機が殺人に使われるのに耐えられない彼はブラジルへ。彼を歓迎する水上飛行機が、著名人を乗せて飛び立つ。しかし歓迎のメッセージを落とすはずの飛行機は、彼の目の前で爆発。乗客全員が死亡。飛行機が人を殺す。彼にとっての最悪の出来事。「わたしごときのために、いくつの生命が犠牲になったことか」彼は取り乱し、全員の葬儀に参加。病状は悪化する。事態はさらに悪化。ブラジルも参戦する。1932年7月23日。彼は飛行機が、爆弾を落とす様子を目撃する。飛行機が罪のない人を殺す・・・・。発作的に、彼は首にネクタイを巻き、そしてフックに掛けた。かつて彼は栄光を讃えるパリ市民にネクタイを投げた。そして今、そのネクタイが彼の命を奪う。サントスの名は、1978年にカルティエが腕時計サントスを復活させるまで、ほぼ完全に忘れ去られた。特許で儲けようとしたライト兄弟とは異なり、彼が特許も何も取らなかったため。控えめな彼の性格が、彼の存在を忘れさせた。私は思いたい。本当に空を愛した、世界初の飛行機乗りはサントスだと。
2007.02.14
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進化論で有名なチャールズ・ダーウィン。その祖父が、ウェッジウッドの創業者で有名なジョサイア・ウェッジウッド。ウェッジウッドのイメージは、ジャスパーのブルー。しかしジョサイアは黒を好んだ。「黒は純粋であり、永遠である」その思いから、ブラックバサルト、つまり黒い玄武岩の様なせっ器を愛した。ストーク・オン・トレントの駅前に立つジョサイアの像は、ポートランドの壺を手に両足で立っている。しかし実際のジョサイアは天然痘で12歳から足が不自由。38歳で右足を切断する憂き目に会う。しかしジョサイアはそれをばねに、陶芸を巨大産業に成長させる。不断の努力と、天才的なビジネスセンス。苦難を乗り越えた時、人は本当の才能を発揮する。
2007.02.08
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セザンヌの絵を見ていると、頭が痛くなってこないかい、ねこさん。例えば、この静物画。テーブルが左右でねじれているよね。右の籠は真横から見ているのに、中央の壺は斜め上からの視点。その横の壺も真横からで、傾いている。右の洋ナシは大きく、左の洋ナシはとても小さい。見ているとめまいがしてくる。絵の中でしか存在しない空間をセザンヌは描く。それがセザンヌの手法。そうは分かっていても、私はセザンヌが十分に理解できない。抽象絵画ではないために、なおさら不思議な空間。それがセザンヌの世界。
2007.02.06
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前田美千雄さんは東京美術学校卒業後、軍隊に召集。昭和17年に日中戦線から戻り絹子さんと結婚しますが、わずか1年後に再召集されます。配属は凄惨な戦いの続くフィリピン。「たぶん戦死されていると思うから、そちらが希望するなら戦死の公報を出します。」陸軍からのこの回答を残して、美千雄さんは戻ってきませんでした。絹代さんの手元には、美千雄さんが戦場で絹代さん宛に描き続けた728枚の絵手紙が残されます。絹代さんは本土の空襲警報時でも、この絵手紙だけは守り続けました。前にも私は書きました。戦争は戦いの残虐さだけでなく、戦争に合意していない国民までも巻き込んでしまうから、悪なのだと。絹代さんと一緒にいたかった、絵を描きたかった美千雄さんの無念が偲ばれます。最期の1年は、1枚も日本に届かなかった絵手紙。美千雄さんの戦死は、推定で昭和20年8月5日。終戦には、まだ10日もの長い時間が残されていました。絹代は語ります。「もし戦争がなかったら、一緒に美しいものを眺めて、 同じ思いを分かち合えたのに。 毎日の些細な出来事も伝えたいから、 私は返事を書くために、一心にペンを走らせました。」
2007.01.28
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テレビで「写真物語」が放送されていました。いくつかの出来事が、その時を記録した1枚の写真で紹介されていきます。見逃された方は、再放送で是非、ご覧ください。とても感動する話ばかりでしたが、私は沢田教一さんの話が印象に残りました。フォトジャーナリスト沢田教一さんは、戦地で写真を撮り続けます。いつ命を落としてもおかしくない状況。海外の危険な戦地で奔走する教一さんを、妻のサタさんは黙って支えます。妻には夫の撮る写真だけが、夫の安否を知る便りでした。ベトナム戦争を撮影し、ピューリッツァー賞を受賞した写真「自由への逃避」も、妻にとっては夫の危険を報せる恐ろしい写真でしかありません。妻に次々と送られてくる、夫が撮影した戦地の写真。恐ろしい写真でも、それは夫の安否や心情を知る唯一の情報源でした。結局、教一さんはカンボジア戦線を取材中に、狙撃され亡くなります。そして、奥さんの好きな、1枚の写真が選ばれました。それは夫が撮影した写真ではなく、“夫が写っている”写真でした。夫が撮影した写真だけをずっと見ていた奥さんにとって、本当に見たかったのは夫の姿だったのです。時に、人は与えるべきものを、誤ってしまうのかもしれません。
2006.12.31
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マリー・アントワネットの娘、マリー・テレーズを知っているかい、ねこさん。フランス史に、悪女として名を残す女性だよ。マリー・テレ―ズはフランス革命の犠牲者。わずか12歳で革命に巻き込まれ、タンプル城に幽閉される。窓さえ塞がれた部屋でひとり幽閉された彼女は、16歳の時にようやく解放される。その時、彼女はあまりの孤独に、言葉すら失っていたと言われる。釈放された彼女が知ったのは、父母のギロチンによる処刑。そして弟の獄中死。孤独な彼女は、その後、オーストリアで政略結婚する。しかしナポレオンに追われ、ワルシャワ、ロシアと流浪。ナポレオンや民衆は、常に彼女にとって攻撃する者であった。その後、ナポレオンの失脚による王政復古で、彼女は女王に返り咲く。ようやく掴んだ自由な時間。彼女はこの時間を民衆への復讐に費やしてしまう。白色テロによる死刑や処罰で、8万人もの人々を虐待する。マリー・アントワネットは死に際して、復讐はしないでと、遺書に残したのに。それが原因となり、再び起きた革命で、彼女は失脚する。大切な時間を復讐に費やしてしまったマリー・テレーズ。彼女は笑ったことがないと言われ、晩年は泣いてばかりいたと言う。彼女は知らなかったから。復讐は過去への執着であり、未来を生み出さないことを。
2006.12.24
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