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言葉が私を作る。 言葉が私である。 言葉がなければ私はない。 私がなければ、「私のA」もない。 私がなければ、私の体/私の持ち物/私の苦悩・・・もない。 思考がやむとき、私は作られず、意識の拡がり/存在/至福だけがある。
2006年04月12日
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映画や小説や人生といった物語/ゲームとはちがって、現実の私たちは、たった今ここに存在している。 存在はゲームではなく、祝福である。 人生をゲームとして楽しみ/苦しみ、だけど人生はゲーム/物語だということを忘れず、せめて日に数時間は、「私は存在である」ことに気づこうと試みること。 数時間でなくても、せめて日に数分、数秒でいいから、私の家族、私の会社、私の人生、私の・・・がすべて物語だということを思い出し、「私は存在している」ということに気づこう。「私」とか「存在」といった考えもまた、物語である。 言葉/時間/場所を使って組み立てたものはすべて、物語である。 自分が存在だと確認するには、人生という物語をいったん落とさなくてはならない。 人生という物語を忘れたとき、存在は見事に美しい。 物語がなければ、暗い気分や嫌な感じは作られない。 物語がなければ、ただたんに、明るい気分や良い感じがひろがっていることに気づく。 人生という物語に飽きないためには、物語を作りつつも、瞬間ごとに物語を否定して、瞬間ごとに「今ここにあろう」とすること。 言葉抜きで世界を知覚しようと試みること。 言葉抜きの「感覚/理解/知性」は、とてつもなく美しい。「人生/物語/言葉」の世界では苦楽を楽しむ。それはそれで楽しめば/苦しめばいいのだけれど、それでは生きた人間が味わいうる世界の半分なのだ。あとの半分は、光明世界にある。 いや、「半分」というのは比喩であって、ほんとうは「半分」なんかじゃない。「人生/物語/言葉」の世界はごく一部であって、人が味わえる無限の喜びは、たった今光明世界にいると気づくことによってもたらされる。「人生/家庭生活/社会生活/日常生活」が「物語/作り物」であると気づいたら、とても空虚な気分になる。 ところが、その物語を作っているのは「思考/言葉」だということにも気づけば、状況は変わってくる。「私の人生」についてあれこれ考えて「私の人生」の内容を変えようとするのではなく、「私の人生」を「思考/言葉」が作っていく仕組みを理解すれば、「思考/言葉」は落ち、「人生/物語/作り物」ではなく「生命」がひろがっていることに気づく。 すると、「日常」が生き生きとした至福に変化する。
2006年04月12日
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言葉には根拠が無い。 たとえば『1+1=2』とは何か?「1」「2」「+」「=」が何なのか、究極的には語れないのだから、それらを組み合わせた『1+1=2』が何なのか、究極的には語れない。 ところが、『1+1=2』にとらわれないと、数学は存在しない。 数学の究極的な根底は、数に根拠の無いことであり、経済の究極的な根底は、お金に根拠の無いことであり、人生の究極的な根底は、言葉に根拠の無いことである。 ああ、でも、「お金」は「数」に含まれるし、「数」は「言葉」に含まれるから、やはり「言葉」のことになるのだな。 言葉に根拠が無いので、数やお金にも根拠が無い。「根拠」や「無い」にも、根拠は無い。■ あなたが車を運転しているときに、助手席にいる人が、「あなたが今車を運転しているというのは考えであって、事実ではない」と言ったとしよう。 あなたはびっくりして、「何を言ってるんだ? 私が今車を運転しているのは考えなんかじゃない、事実に決まってるだろ」と言い返す。 いったい何が起こっているのだろう?「私は今車を運転している」というのは、文章であり、言葉の組み合わせである。「私」「は」「今」「車」「を」「運転」「している」という言葉と、「私」自体、「は」自体、「今」自体、「車」自体、「を」自体、「運転」自体、「している」自体は、別である。 現実に起こっている状況自体は、言葉でできていない。 根本的には、「私は今車を運転している」ということ自体を、言葉で理解することはできない。 現実に起こっている状況自体は、言葉を持たない現象/出来事/奇跡である。
2006年04月12日
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言葉は(言葉を知らない)言葉である。「歩く」という言葉がなければ、「歩く」と言うことはできない。「悩む」という言葉がなければ、「悩む」と言うことはできない。「A」という言葉がなければ、「A」と言うことはできない。「A」という言葉を使わなければ、「A」と言うことはできない。 すべての言葉は、ただの言葉である。 これは思想ではない。思想なら、「何か」を言おうとするか、「何かについては、言うことができない」と言うか、「何かについては、言っても無意味だ」と言うか、何かしらを言う。 それに対して、「すべての言葉は、ただの言葉である」と言うのは、「言葉にすると、それは言葉である」と言っているだけだ。「言葉にすると、それは言葉である」もまた、ただの言葉である。「ただの言葉」もまた、ただの言葉である。 言えないことを言っているのだが、「言えないことを言っている」と『言葉にすると、それは言葉である』「すべての言葉は、ただの言葉である」ではおおげさで、「言葉は言葉である」でいいのだが、それではわかりにくいのではないかと迷い、言葉を重ねる。 言葉を使うと必ず迷う。「おおげさ」「わかりにくい」「言葉を重ねる」「言葉を使う」「必ず迷う」もまた、言葉である。「言葉は言葉である」でやめればいいのに、どんどん言葉を膨らませて、言葉による苦しみ/楽しみにふけってしまう。 それはもう、言葉を使えば使うほど、言葉の網の目にとらわれもがくのである。「言葉は言葉である」もまた、言葉である。「言葉」もまた、言葉である。「言葉」は線や点でできた図形だし、「こ・と・ば」と言う音である。「こ」も「と」も「ば」もまた、線や点でできた図形だし、音である。「図形」や「音」もまた、線や点でできた図形だし、音である。「たったいま考えていることもまた、言葉である」と考えることによって、言葉の迷路から抜け出そうとしても、抜けだせはしない。どうしてかと言うと、「「「たったいま考えていることもまた、言葉である」と、たったいま考えていることもまた、言葉である」」と、たったいま考えていることもまた、言葉である」」」と、たったいま考えていることもまた・・・『言葉は言葉である』のを、言葉で説明することはできない。「『言葉は言葉である』のを、言葉で説明することはできない」もまた、言葉である。「言葉は言葉である」と考えつづけていくと、言葉による認識/行為での日常生活ぜんぶが意味を失い、生きるのがまったく無意味でばかばかしいことに思えてくるかもしれない。けれども、そこで考えるのをやめてはいけない。「生きるのがまったく無意味でばかばかしい」と考えているのもまた、言葉で考えているのであり、さらにいっそう考えつづけてみれば、「無意味」や「ばかばかしい」もまた、意味を失う。「意味を失う」もまた、意味を失う。「意味」も「無意味」も言葉である。「言葉を使えば切りなく迷う」と考えているけれども、そんな考え/迷い/言葉もまた、幻/言葉である。 すべての文字は、ただの線や点でできている。 線や点も幻である。「線」「や」「点」「も」「幻」もまた、言葉/幻である。 いったい何が言いたいの?「言葉は(言葉を知らない)言葉である」ことの重大さを伝えたくて、こんなふうに、たとえ話のような/たわ言のような言葉を、つぶやいたり、うめいたりしている。 言葉にすると、かならず、たとえ話になる。 人は、自身の心の中で、言葉を使って作り出した、ただの言葉である悩みや苦しみを、「こんなにありありと感じるのだから、私のこの苦悩は実在にちがいない」と言葉で思い、言葉で悩み苦しむ。「悩み」も「苦しみ」もまた、作った言葉である。あらゆる言葉は妄想/言葉である。そのような作った言葉である妄想/言葉を、しゃべるときでも考えるときでも夢のなかでも、物心ついたころから、すなわち、言葉を覚えだしたころから、たえまなく脳に流しこんで洗脳しているものだから、妄想/作り物/言葉であることをほとんど忘れてしまう。 言葉によって、人間だけが迷ったり死んだりする。というのは、人間だけが「迷う」という妄想/思いや「死ぬ」という妄想/思いを、言葉によって作るのだから。「死ぬ」という言葉を使わずに、「死ぬ」事自体に全身全霊入っていけば、そんなものはどこにも無いという事実が、あらわになる。■「A」という物事自体と「A」という言葉とは別であるにもかかわらず、「A」という言葉を使わずに「A」と言うことはできない。 人は、物自体について考えることができないばかりか、事自体についても考えることはできない。 なぜなら、物事の存在自体と、物事について語ることとは、異なっているのだから。 事実と事実についての考えはまったく別である。 人はいつだって「何か」について考えているのだけれど、その「何か」と「何かについての考え」とはまったく別である。「現実に起こっていること自体」と「現実に起こっていることについての考え」はまったく別である。「物自体」を考えることはできないように「現実に起こっていること自体」を考えることはできない。「AはBなので、もしCならばD」と考えているのは幻である。 なぜなら、ABCDという言葉抜きで、「AはBなので、もしCならばD」ということ自体に全身全霊入ってゆけば、そこには何も無いと気づくからだ。「私」という言葉は、「わ・た・し」という音であり、『私』という図形である。「私」自体というものがあるにしても、その「私」自体と「私」という言葉は、まったく別である。「私」という言葉抜きで「私」自体を感じようとすると、「私」自体というものを、有ると見なそうが、無いと見なそうが、そのどちらでもある(有り、かつ、無い)と見なそうが、そのどちらでもない(有るのでもなく、無いのでもない)と見なそうが、「私」という言葉から自由になる可能性が出てくる。「現実に起こっていること自体」については言葉では言えないのに、このようにして言葉にしているのは、まったく矛盾している。 にもかかわらずこうして言葉で確認していく作業を通して、思考の中の出来事ではない、言葉とは別の世界である現実自体のエネルギーを感じ取る手がかりに触れることができる。 現実の世界に言葉/考えは無い。 現実の世界は言葉/考えでできていない。 現実の世界は言葉/考えではなく、たとえてみれば、エネルギー/光/祝福でできている。
2006年04月12日
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「考え/言葉」と「考え/言葉」自体は別である。 この事実に気づいたとき、僕は深く深く驚いた。しかしながら、これは人に伝わる文章になっていない。これについてあれこれ考えたところで、人に伝わる言葉になりそうにない。 だけど、どんなふうに驚いたのか、その驚きの感じはどんなものなのか、なんとなく気配が伝わればいいと思って、言葉にしてみます。「机」という言葉と「机」自体とが別であるばかりでなく、「机という言葉」と「机という言葉」自体とは別である。「別である」ことと「別である」こと自体は別である。「言葉」と「言葉」自体は別である。「考え」と「考え」自体は別である。「何かをしている」ことと「何かをしている」こと自体は別である。「行為/認識」と「行為/認識」自体は別である。「たった今頭に言葉が流れている」ことと「たった今頭に言葉が流れている」こと自体は別であると気づけば、言葉が言葉でなくなる。「たった今頭に流れている言葉」を言葉抜きで見つめれば、言葉が言葉でなくなる。 頭に流れている「考え/言葉」に気づいたとしても、その「考え/言葉」をぼんやり眺めているのでは、「考え/言葉」は消えない。「考え/言葉」が「考え/言葉」自体とは別であることを、言葉抜きで確認し、理解/実感したとき、「考え/言葉」は消えている。 言葉抜きで考え/言葉を見つめる。 言葉を言葉抜きで見つめれば、言葉が言葉でなくなる。 これらを実感することは、恍惚とするほど美しい。
2006年04月12日
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