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緊急事態宣言下で自粛中の特別企画1~3 そしてラスト4弾。ラストも島にしました。本当なら緊急事態宣言解除前にアップする予定でしたが、簡単予定がちょっと懲りすぎて遅れてしまいました。カプリ島 青の洞窟(Grotta Azzurra)リンク カプリ島 青の洞窟(Grotta Azzurra)マダガスカル島(Madagascar Island) 1 曲鼻亜目リンク マダガスカル島(Madagascar Island) 1 曲鼻亜目マダガスカル島(Madagascar Island) 2 カメレオン(Chameleon)の島リンク マダガスカル島(Madagascar Island) 2 カメレオン(Chameleon)の島エーゲ海のキクラデス諸島南部に位置するギリシャ領のサントリーニ島(Santorini)からです。こちらも以前一度紹介していますが、視点を変えての編纂になります。地中海に浮かぶ島はアテネから飛行機で約1時間。あるいはクルーズ船での寄港でしか行けないので、なかなかアクセスの悪い島でもあります。風光明媚なサントリーニ島はセレブのリゾート地としても有名でしたが、自分のクルーザーで立ち寄るセレブはともかく、かつて一般の観光客は地中海のクルーズ船で日帰りに立ち寄るのがほとんど。※ 近年は港や道路が整備され、船が着岸しやすくなったと同時に港への大型バスも入るように整備され大量のツアー客を誘致するようになったようです。いずれにせよ、今回のコロナ騒動ではダイヤモンドプリンセスの感染拡大で船の危険性がクローズアップ。近年のクルーズブームに影を成したでき事となっただけに今後はクルーズ企画も減りそうな気がします。何よりワクチンが出来なければ世界旅行自体が危険故に難しいでしょう。日本でなら治るはずの病気が国の医療体制によっては死亡もあり得る訳ですから・・。そう言えば、前々回ジャパン・パラドクス(Japan Paradox)について紹介していますが、世界の中で見ても日本のコロナ感染者と死亡者はすごく少ない。これも新たなジャパン・パラドクスです。感染者が少ないか? はともかくとして、死亡者が少ない理由は何より日本の医療の素晴らしさ故にです。それはまた未知の病原体を相手に前線で身を挺して戦ってくれた医療従事者の方々の勇気と責任感故です。今ある平和は彼らのおかげだと言っても過言ではない。本当に私たちは感謝しなければならないのです。今回の戦いにおいて、戦士であった医療従事者の方々。あなた方は日本の英雄です。ありがとうございました。m(_ _)mサントリーニ島(Santorini)カルデラの島&アトランティス伝説キクラデス諸島海に沈んだアトランティス(Atlantis)なぜキクラデス諸島は沈下したのか? 伝説のアトランスティス大陸とは?サントリーニ島(Santorini)聖女イレーネ(Sant'Irene)メトロポリタン正教会大聖堂(Orthodox Metropolitan Cathedral)今回写真は2005年と2009年、クルーズ船でオールドポートからの上陸です。サントリーニ島は外輪山で形成されている。上ので写真で見える島は外輪山の中央にある火口を持つ島。下の写真、奥の島も外輪山です。つまりここは海の中にあるカルデラ島なのである。詳しくは後から説明します。キクラデス諸島(Kyklades)サントリーニ島はキクラデス諸島の最南(ギリシャ本土からは東南へ約200km)にある島。エーゲ先史では、2万年前に旧石器時代が始まっている。近年、ギリシャ各地からの遺跡が発掘されBC5500年~BC3500年新石器時代の遺構も発見されている。BC3000年~BC2200年ギリシャ本土ではヘラディック文明が花開く。※ ペロポネソス半島のレルナ遺跡(Lerna)では初期ヘラディック文明の遺跡が出土。クレタ島では初期ミノア文明。キクラデスの島々では初期キクラデス文明が花開く。それはミノア文明にほぼ平行している。因みにエジプトは古王国時代である。BC2000年~BC1800年クレタ島は海上貿易で地中海の周辺国と交易して繁栄。ミノア文明中期にさしかかりさまざまな用途の青銅器が普及。またクノッソス宮殿が建てられ栄えていた。クレタ島のすぐ北のサントリーニ島にも遺跡が出土。キクラデス諸島も同じように繁栄していた。しかし、サントリーニ島は火山島。紀元前1628年頃爆発したのである。下の地図はギリシャ(Greece)の半島やエーゲ海の島々の位置確認に載せましたピンクで囲った所がキクラデス諸島。(最南にサントリーニ島)。キクラデス諸島の下に少し離れてクレタ島(Crete)が位置します。赤がペロポネソス半島で、星がBC5500年~BC3500年新石器時代の遺構の発見されたレルナ遺跡(Lerna)つまり、ここエーゲ海域一帯が紀元前6000年前に遡る古来進んだ文明のあった場所だと言う事です。キクラデス諸島 主要な所だけ名前を入れましたサントリーニ島とミロス島が火山島です。Kyklades は英語でCyclades。神聖な島デロス島を囲むCycleを成す島々と言う意味らしい。※ デロス島はオリンポスの神々の生誕地であり古来ギリシャの聖地の島らしい。海に沈んだアトランティス(Atlantis)ところで、この地図で気づく事がある。キクラデス諸島はかつてはギリシャから伸びる半島の一部を成していた形なのである。つまり、キクラデス諸島に点在する島々はかつての陸地の高台にあたる部分が海に突出して島となっている。と、言う事は、相当な昔、ここには大きな陸があったと考えられる。実際、今ある島々は海底に沈んだ残骸ようなのである。クレタ島やサントリーニ島に幻の島アトランティス大陸伝説があるが、それぞれでなく、実はこのエーゲ海上のキクラデス諸島一帯が陸であった時、アトランティスであったのではないか? と考察できるのだ。で、なぜキクラデス諸島は沈下したのか? 考えてみた。想定通りの事実が判明。以前「クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)」「地の裂け目、地溝帯」のところでプレート・テクトニクス(plate tectonics)による大陸の割れ目の話しを紹介しているが、今回もまさにプレート・テクトニクスにより起きた天変地異だった可能性がある。リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)ペロポネソス半島から、トルコのバルカン半島を一部含み、南はクレタ島までを含む一帯がエーゲ海プレート(Aegeam Sea Plate)であり、ユーラシアプレート、アフリカプレートが交作する三角地帯なのであるキクラデス諸島をピンクで円しました。アフリカプレートがエーゲ海プレートの下に沈み込み北端にはコリンティアコス湾があり、ユーラシアプレートとの境界となっている。当然ここでは度重なる地震が頻発。マントルに影響するので火山活動も頻発に。コリンティアコス湾(ペロポネソス半島の上)はエーゲ海プレートとユーラシアプレートの境界でいわゆる地溝帯、リフトバレー(rift valley)なのである。どんどん離れて行っている事実も解った。キクラデス諸島の沈下の要因はクレタ島からキクラデス諸島の下まですべり込んでいたアフリカプレートが反発して戻ったから? と考えられる。伝説のアトランスティス大陸とは?※ 伝説のアトランティス(Atlantis)については、以前「サントリーニ島 2 (幻のアトランティス)」でも触れています。リンク サントリーニ島 2 (幻のアトランティス)そもそも理想郷とされたアトランスティスの存在は古代ギリシア、アテナイ出身の哲学者プラトーン (Plato-on)(BC427年頃~347年頃)がその著述の中で記したお話です。実際、それは伝承であるので、現実を語った話しなのかも定かで無い。もしかしたらブラトーンは世俗に対する批判を寓話として理想郷を語っただけなのかもしれない。プラトーンの著「テイマイオス(Timaeus)」は中世も知識人にも読まれたが、実際、新世界(大陸)が発見される時代にアトランティス伝説はあくまで伝説。しかし、イギリスの哲学者ランシス・ベーコン(Francis Bacon)(1561年~1626年)は太平洋上に存在する架空の理想国家を描いたユートピア小説「ニュー・アトランティス」において再び古代のアトランティスを紹介。フランシス・ベーコンのSFチックな理想郷はともかく、一般大衆の幻のアトランティスへの興味はこれにより高まって行く。そして1870年フランスの作家ジュール・ヴェルヌ(Jules Verne)1828年~1905年)がSF小説「海底二万里」で海中に没したアトランティスを描くと謎の大陸伝説は世界の不思議となるのである。「海底二万里」は映画にもなったが、私も小学生の頃に読みアトランティスはどこか? は今に続く興味の対象となった。サントリーニ島(Santorini)見えるのはサントリーニ火山島の外輪山一画。左がティラシア島である。島の港はカルデラ内部に位置するのでここからカルデラ湾内部に入る。サントリーニ島は群島で構成されている。本島が、現 、ティーラ島(Thira)ティラシア島(Therasia)ネア・カメニ島(Nea Kameni)パレア・カメニ島(Palaia Kameni)アスプロニシ島(Aspronisi)クルーズ船は早朝に島に到着。だからまだ周囲は暗く、写真を明るくしてもこれが限界です。サントリーニ島(Santorini)の名はカトリックの聖女サンタ・イレーネ(Santa Irene)に由来している。それ故? ギリシャ政府は19世紀になって古代ローマ以前の呼名「ティーラ(Thira)」に戻したのである。だから正式名称はティーラ島(Thira)なのである。でもやはりサントリーニの方が浸透してしまっているようです。聖女イレーネ(Sant'Irene)(Santa Irene)聖パウロ (san Paolo),の弟子Timoteoによって洗礼を受けイレーネ(Irene)の名をもらう。彼女の殉教については詳しくは解らないが、カトリック教会のみならず正教会やコプト教会でも一時、崇敬されていた聖女らしい。しかし、今も島の守護聖人になっているかは不明。ジョルジュ・ラ・トゥールの絵画作品に「聖イレーネに介抱される聖セバスティアヌス」がある。一説には彼女はセバスティアヌスに刺さった矢を抜いた聖女とされている。またその為に病人や負傷者、看護師の守護聖人にもなっているらしい。が、聖セバスティアヌス(Sebastianus)はローマ軍の指揮官で皇帝ディオクレティアヌス(Diocletianus)(在位:284年~305年)とマクシミヌス(Maximinus)(在位:308年~313年)の時代に生きた人。黄金伝説によれば実際彼は矢では死なず、後に棍棒で打たれて殉教したとされている。聖セバスティアヌス側の資料にも聖イレーネの名は出て来ないし時代も合わない気がする。聖人伝説は地域でも一貫していないのである。サントリーニ島(Santorini)地図右の大きいのが本島ティーラ島(Thira)であるがかつては左のティラシア島(Therasia)とは繋がっていたと言うので島が沈下したのかもしれない。OP・・旧港 Old Port(skala) ・・・大型客船など着岸できない船がテンダー・ボートで送迎NP・・新港 New Port(Athinios)・・着岸できるフェリーなどの発着場。Old Portの崖の上がサントリーニの中心の街ティーラ(Thira)orフィラ(Fira)上の写真が旧港、Old Port(skala)とティーラ(Thira)客船の乗客を上陸させる為の送迎用テンダーボート(Tender boat)外輪山の島はおそらく海中がすりばち式で大型船などは接岸できないのだろう。度重なる噴火による素材の異なる堆積物の層。白いのは軽石。ローマン・コンクリートの素材に使われたが、現在もサントリン土(santorin earth)と呼ばれ島にはセメント工業がある。テレ・フェリック(Teleferik)オールドポートに道路はないので崖の上にあるティーラ(Thira)orフィラ(Fira)の街まで、テレ・フェリック(Teleferik)に乗車。テレ・フェリックはロープウェイである。テレ・フェリックに乗らない場合は、徒歩、もしくはロバタクシーである。下りは良いが、行きの徒歩はキツイ。何しろ300m前後の断崖絶壁の島なのである。上まで587段の階段が待っている。因みにニュー・ポートからは市バスやタクシーもある。絶景である。サントリーニの湾には島に上陸するための観光船が続々やってきて停泊中。クルーズ船の場合は、朝入港して観光し、夕刻には船に戻り夜に出向するから長く停泊する船はいない。それにしても、そこは火山の火口の内なのである。しかも現在も活動中らしい。※ サントリーニ島の噴火は1950年1月以降記録されていない。南北12km、東西7kmのカルデラを形成。外輪山に相当する周囲の島の高さ200mから300mで崖状に切り立っている。火山の火口のあるネア・カメニ島(Nea Kameni)や、温泉が湧き出るパレア・カメニ島(Palaia Kameni)へは地元の旅行社によるツアーがある。サントリーニ島が今のようなカルデラを形成するに至ったのは海底火山の爆発噴火だったようだ。地中のマグマが噴き出してできた空洞状の陸地が陥没してカルデラを形成。この爆発的噴火は、エーゲ海一帯に灰燼をまき散らし災いをもたらしたと言う。BC1628年頃、ミノア文明期に起きたのでミノア噴火と呼ばれている。エーゲ海プレートの影響もあり古来から噴火のみならず、地震による被害もしばしば。時に島を放棄しなければならない事もあったようだ。近年では1950年1月10日に噴火があり、今ある街は1956年の大きな震災後に再建されたものらしい。先に写真で紹介しているが、岩肌は崩れやすそう。絶壁街区への居住が禁止されたらしいが、いずれにせよ活火山なのであれば危険は変わり無い。街の向こうに見える山合はブドウ畑です。その右手側奥の方面にアクロティリ遺跡があります。アクロティリ遺跡はBC1628年頃に起きたサントリーニ島の火山爆発(ミノア噴火)により放棄され火山灰に埋もれた街ですが、そこからワインの絞りかすが発見されたそうです。つまりミノア期にはワインが作られていたと言うことに・・。サントリーニは、ヨーロッパでも最も古いワイン産地と言われる所以です。サントリーニ島はクレタ島に近くミノア文明(BC2000年頃)の影響を多大に受けていたと考えられ、高度な文明の痕跡もうかがえるそうです。またミノア文明では交易が盛んで港湾都市の繁栄がさらに街の発展に寄与していると思われます。おそらくサントリーニ島もクレタ島の交易の港湾都市の一つであり、主な輸出はサントリーニのワインと石灰。そして鉄や硫黄では無かったのか? と思います。メトロポリタン正教会大聖堂(Orthodox Metropolitan Cathedral)1827年に献堂。1956年にの地震では壊滅的な破壊を受け再建されたギリシャ正教の教会堂です。堂は新しいのでシンプルですが、モザイク画やフレスコ画の絢爛さなどカトリックには無い豪華さを感じます。聖域である至聖所(しせいじょ)との障壁に描かれたイコノスタシス(iconostasis)下はドーム裏のキリストの図キリストの周囲を囲む天使の階位に興味があったが、セラフィムしか解らなかった。夜のOld Port(skala)とティーラ(Thira)の街次回、アジアと欧州を結ぶ交易路 に戻る予定です。皆様、長い自粛ご苦労様でした。それぞれ家にこもっていたわけですが、肉体的、精神的、同じ苦労をしていたわけで、何となく皆が同士になっていた気がします。コロナにより亡くなった方々にはお悔やみ申し上げますが、それでも世界よりも最少の人的被害に押さえた事に日本人の絆があった気がします。まだワクチンが開発されない今、再び緊急事態宣言が発令される場合もあるかもしれません。気を抜かないよう日々を過ごして行きましょう。 p( ^ ^ )g
2020年05月26日
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イスタンブール、地下宮殿のメドゥーサの柱から(一昨日のブログ)メドゥーサ信仰の衰退と神殿破壊の事をずっと考えていました。そしてメドゥーサ信仰は消えたのにナザール・ボンジュウ(Nazar boncuğu)は今も広範囲で利用されている。メドゥーサの蛇眼を護符にしたナザール・ボンジュウを調べていて、ふとギリシャ神話との関連に思うところがあり、自分なりに仮説を立ててみました。メドゥーサの目玉とメドゥーサ信仰 2 パルテノンアテナイ信仰vsメドゥーサ信仰(ギリシャvsペルシャ)ペルセウス=アレクサンダー大王 そしてアテナイ神のサジェストナザールボンジュウの遠征アテナイ信仰vsメドゥーサ信仰一つは、メドゥーサが首を落とされアテナイの楯になったと言うギリシャ神話ですが、それらは、案外元になる史実があったのではないかと思ったのです。メドゥーサの首は最終的にアテナイの盾アイギスにはめ込まれる。ギリシャ神話では当然ギリシャ側が正義で、対する怪物は悪です。信仰で置き換えると、アテナイ信仰が勝利者で、メドゥーサ信仰は負け組。でも、実際はアテナイ信仰が勝ったわけではなく、メドゥーサ信仰のあったトルコがギリシャの手に落ちた事をさしている。と思われるのだ。※ トルコ(当時はアケメネス朝ペルシャの時代)、ギリシャ(都市国家アテナイをさす。)当時、地に落ちていたギリシャ諸都市、とりわけアテナイの衰退。マケドニアの王アレクサンダー大王のおかげで、バルカン半島(現トルコ)の一部の征服権利を勝ち得て奇しくもアテナイは復活できた。一時ないがしろにされ、ギリシャ神域が破壊された報復を今度はペルシャ側にしたのではないか?「アテナイ(アテナイ神)が゜ペルシャ(メドゥーサ神)に勝った!! その史実をギリシャ神話に刻んだのかもしれない。BC5世紀アテナイはギリシャ諸都市の中でもトップにいた。ところが、ペロポネソス戦争でスパルタに大敗(BC404)してからギリシャでの主導権も失う。アテナイは領地もどんどん失い地に落ちていた。一方ペルシャ王アルタクセルク2世の勢力はすごく、黒海沿いのエフェソス、ミレトス、プリエネなどの多くの都市がペルシャの支配下に置かれていった。、アテナイの雄弁家イソクラテスはアテナイのふがいなさを激怒して「ギリシャの危機の書」の中でこう言い放っています。「ペルシャの押し付けた屈辱に終止符を! ギリシャの神域の破壊に復讐を! 王の王(ペルシャ王)のくびきの下につながれた小アジアの姉妹都市を解放に行こう!」ではどこがそのイニシャチブを握るのか? アテナイに失望していたイソクラテスはマケドニアのフィリポス2世(アレクサンダー大王の父王)をたきつけるのですが、あっさり王は暗殺され、まだ20になったばかりのアレクサンダーが王位と後を引き継ぎ、あの大遠征につながります。結果イソクラテスの望みはアレクサンダー大王により叶えられた。アレクサンダー大王はギリシャの北部のマケドニア王国の出身(現在のマケドニアは関係ない。)で、むしろギリシャを征服した側の国であるが、王はバルカン半島をあっさり落とすと処理をギリシャ諸都市に委ね(一部)自らは、アジア遠征に向かってしまいます。つまり大王は取り返した土地を自分のものとせず、ギリシャに返したのである。(小アジアの姉妹都市はペシャから解放された。)こうした中で、「マケドニアに批判的だったアテナイがアレクサンダー大王に勝利の祝辞を贈っている。」想定外な事が起きた? ギリシャ諸都市の歓喜とアレクサンター大王への感謝がそこに見えます。何しろ自分らは何もせず、バルカン半島をギリシャの手に戻せたのですから・・。ペルセウス=アレクサンダー大王 そしてアテナイ神のサジェストギリシャ神話の中のペルセウスの冒険のメドゥーサ退治ですが、これはある意味アレクサンダー大王の遠征の成功に繋がる気がします。ペルセウスがアレクサンダー大王だったと考えてみると解り安いです。ペルセウスの成功の鍵はアテナイ神の存在です。神話では、アテナイがその力を見せる為にペルセウスの物語の要所要所でサジェストする。それはアテナイ神の存在をアピールしているかのよう。ペルセウス物語は、もしかしたらアレクサンダー大王への祝辞であったのかもしれません。でも執拗な物語の中のアテナイの存在。それは、現実に重ねて・・。アレクサンダーの活躍は「アテナイ神のおかげですよ」と暗に語っている風にも読めます。いや。そう語っているのかもしれない。最古の歴史書と言われるヘロドトス(BC485~BC426)の「歴史」は、現在はかなり信憑性がなくなってきているらしい。「ヘロドトスの悪意」として、歴史的事実がかなり歪められて語られている事がわかって来たからだそうだ。ギリシャの歴史は、ギリシャ側でない角度からも見ないと真実にたどり着けないようですね。ナザールボンジュウの遠征もう一つ。ナザールボンジュウのメドゥーサの蛇眼がなぜイランまで渡っているのか? それはいつ頃広まったか? です。確信は持てていませんが、アレクサンダー大王の遠征にともなって広がったのでは? と考えてみました。ひょっとするとそれ以前のアケメネス朝ペルシャの可能性もありますが、アレクサンダー大王の遠征、征服後の各国諸都市にとった彼の行動から考えると彼以後は考えられないからです。彼の没後の帝国解体からヘレニズム文化が始まります。その時はすでにメドゥーサ信仰は途絶えていたと思われる事もあります。アレクサンダー大王は征服後も各諸都市にほとんど変わらない自由を与えています。言語も文字も宗教さえも、ペルシャを押しつける事はせず、各諸都市の文化伝統を非常に重んじて慎重に取り扱っています。彼の遠征が成功したのはそうした文化尊重があり、とりわけ地方のエリート層の協力? 見方につけたからだとも考えられます。(そうすることでこそ安定した政権が望めると言う教育を受けていたからかもしれませんね。)彼の治世はとても短いので、「短期間」と考えるとやはり無理があるように思われますが、遠征に加わった者の中にメドゥーサのお守りを持っていた者いたかも?それが友好的な征服と遠征の過程で広がって行ったかも?アレクサンダー大王の遠征は、異文化交流の橋渡しになったと考えられるからだ。下はギリシャ、アテネのアクロポリスの丘に建つパルテノン神殿パルテノン神殿はアテナイ神を祭る神殿です。(BC438~)現在残る神殿はペルシャ戦争(BC492~BC449)後に建築されたもの。破壊などにあい、修復、増築などを繰り返している。※ 現在も修復工事中ですし、外から眺めるだけです。長さ68.7m、幅30.6mの周ドーリア式神殿。 ユネスコの世界遺産文化遺産)に登録。アテナイ神は知恵、芸術、工芸、戦略を司るギリシア神話の女神で、オリュンポス十二神の一人で、アルテミスと並んで処女女神として有名。起源的には、ギリシア民族がペロポネソス半島を南下して勢力を伸張させる以前より、多数存在した城塞都市の守護女神であったと考えられている。女神を都市の守護者とする崇拝は、ギリシア全土に及び、有力な都市でも中心となる丘上には必ず女神の神殿があったとされる。(女神アテナイの話は次回に)下はアクロポリスの向かいにあるフィロパポスの丘より撮影。アレクサンダー大王は私が好きなキャラです。彼の話は、いつか特集をするつもりで温めていたので、こんな所でサブ的に登場では不本意です。良い関連写真が見つかったらきちんと主役で取り上げる予定です。
2009年05月26日
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実は昨日に引き続きメドゥーサ関連です。メドゥーサの目玉とメドゥーサ信仰 1ナザール・ボンジュウ(Nazar boncuğu) Evil eyeトルコ語でナザール・ボンジュウ(Nazar boncuğu)。ナザールは「目」、ボンジュは「ガラス玉」。イランではチェシェ・ナザール、ギリシャではバスカニアと呼ばれ、青いガラスの目玉型をしており、目的はいずれも同じ魔除けとしてのお守りである。ナザール・ボンジュウ(Nazar boncuğu)はメドゥーサ(Medousa)の目玉なのである。つまり人を石に変えたと言うメドゥーサの邪眼(じやがん)。すなわちEvil eyeを模したもの。上はトルコ土産でもらったもの。左3つは、布製のバックのチャームになっていたもの。右上はギリシャの土産。下はトルコの土産物屋で売られているブレスレット。こっちが欲しかったです。もともとトルコでは、紀元前から存在していると言われ国民に愛されているお守りで、メドゥーサ信仰の頃からの発祥と思う。妬み深い人から出る視線(邪視)や悪霊が人にとりつき災いが降りかかると信じられ、その嫉妬や妬みなどの悪意ある邪視から身を守り、災難を払う為に持つお守りとされている。メデゥーサの蛇眼が人を石に変える所から来ているのか? 視線(邪視)を跳ね返すだけでなく、割れた時やヒビの入った時は、自分の身代わりとして災いや嫉妬を受け止めてくれる身代わり護符でもあります。「凶眼の魔力」として、悪いもの全てを、目の威力により打ち砕き、青いガラスによってはじき飛ばすと言う事らしい。ギリシャではバスカニアと呼ばれ、トルコと全く同じです。ギリシャ中どこでもたくさん売られています。(目玉付きのキーホルダーを車のハンドルに下げたり、玄関先に飾ったり。)(ギリシャやイランではトルコが起源である事や、目玉がメドゥーサの目であることを知らないようです。が、いづれも古くからあるお守りとして国民に知られています。)イランでは「チェシェ・ナザール」チェシェ・ハザド(恨みの目)とも呼ばれ他人やその人の持ち物に対して向けられる羨望、嫉妬、悪意の感情を持ったまなざしを差し、それを跳ね返す力があるとされます。車や部屋のドアに飾られたり、服のポケットに入れて持ち歩く人もいると言う事です。土産物屋で売られるネックレス、タイプです。下はブレスレットのカラー・バリエーションです。ナザールボンジュウ(Nazar boncuğu)は、大小、デザイン別にいろいろな種類がある。守るものの対象に合わせて目玉の大きさを選ぶのが良いとされています。また、デザインも多様にあり、ブレスレットやネックレス、キーホルダー等どこで使うか考えて選ぶ事もできます。唯一日本のお守りと違う事は、お土産屋で簡単に買える品だと言う事です。(日本は寺院仏閣、神社、教会でないと買えない。御利益が得られないから・・。)ところでお守りの普及を調べていて疑問に思った事は、イランまで浸透しているなら、恐らくシリアやイラクにもひろがっているのではないか? と思い調べてみました。やはり、予想通りイスラムの世界の中でもそれはアッラーと合体して存在していました。(シリア旅行の方のブログで確認。)イスラム教徒限定商品 イマームアリーの剣が付いているイスラム仕様です。これはネットで日本で売られているものです。アッラーの教えの書いてある帯付きの物もあります。(イスラム教徒はイーブル・アイは自分たちのものだと信じているようです。何しろ一神教ですから。)メドゥーサ信仰の話は・・つづく・・。2017年12月「メドゥーサ(Medousa)の首」でメドゥーサ(Medousa)についてはより詳しく書いています。ナザール・ボンジュウについてもまた触れていますリンク メドゥーサ(Medousa)の首
2009年05月26日
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