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今回は、パナマ地峡を開拓して大西洋と太平洋をつないだ航路、パナマ運河の紹介です。パナマ地峡の通過は経済的に非常に活気的な事です。2019年11月にパナマ運河クルーズの船に乗った友人の写真を提供してもらいました。航海写真に加え、各種資料を送付いたたぎ、かつ何度も電話で応対いただき感謝しています。m(_ _)m写真、たくさん載せています。さて、前回、「マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図」の中で「サラゴサ条約線と教皇勅書スブリミス・デウス(Sublimis Deu)」ですでに書いていますが、1537年、「スブリミス・デウス(Sublimis Deu)」の公布をもって、1493年公布の「インテル・カエテラ(Inter caetera)」で決められた教皇子午線は無効となった。つまり、「東方面がポルトガルの領地」、「西方面がスペインの領地」と言う教皇裁定は1537年に事実上消滅し、以降、スペインとポルトガルの国以外の欧州各国が早い者勝ちにアメリカ大陸やアジアを植民地にする事が可能になったのである。リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図欧州からアメリカへ、アジアへ、各国の船が向かった。航海の利便性の向上は重要案件である。造船、航海術に加え、特に寄港地の問題があるので航路は特に個性が出たかもしれない。いかに最短のコースをとれるか? 各国の航海士らの航路の開拓は進んだはずだ。当然潮流の問題があるから直線での航海は不可能。途中に自国の補給や整備の為の船舶寄港地が持てるか?あるいはどこかの港を定期便に利用できるか?英国は北海航路やロシア航路も試して失敗している。やはり前回触れたが、マゼラン隊が太平洋(東→西)を初横断してから(西→東)の太平洋航路が発見されるまでに40年を要した。それは帆船ならではの問題であった。1565年のスペインによる太平洋横断航路「マニラ←→アカプルコ航路」の発見はアジアと新大陸をつなぐ合理的な航海路となり定期便となった。が、アカプルコは太平洋側。その後、いかに大陸を越え大西洋に荷を運んだのか? 南米を回るには距離がありすぎる。スペインはパナマ地峡をラバに荷積みして大西洋岸に運び、そこで再び船に荷積みして本国に輸送していたそうだ。余談だが、パナマ地峡を陸路行くスペインのラバ隊を襲って金銀を強奪していたのがフランシス・ドレイク(Sir Francis Drake)(1543年頃~1596年)である。奴隷商人だったドレイクは港の利権問題から生じた恨みから? スペインを敢えて狙って金品を強奪。何しろカリブ海は最初に発見したスペインが大きく権利を持っていたし、港のほとんどはスペインが建設していた(スペインの領有)と思われる。※ カリブ海域はコロンブスが発見してからドレイクが現れるまで、すでに50年はスペインの統治下にあった。ドレイクはフランスの盗賊と協力して太平洋岸のパナマから大西洋岸のノンブレ・デ・ディオス(Nombre de Dios)に金銀を運ぶスペインのラバ隊を襲撃しては大量の財宝を奪い、自分の船に載せて英国に逃げ帰っていたから、海賊ドレイクと呼ばれるようになった。しかし、陸路を襲っていたのに海賊?? 海から現れ襲って来る部外者の盗賊はすべて海賊だったのかも・・。そもそもスペインの商船には艦隊の護衛船が付いていた。しかもスペインの無敵艦隊と恐れられていた最先端の護衛艦を振り切って海上で強奪できたとは思えない。実際、ドレイクは小さな港湾を奇襲して盗賊しているほうが多い。そんなドレイクの成功にあやかり、英国からの海賊が増えたと言うのもこの時代だ。つまりスペインが支配していたカリブ海域での海賊の出没。ほぼ英国からの出稼ぎだったのかもしれない。戦利品は全て本国(英国)に運んで換金していたと思われるからだ。英国にとってドレイクは宿敵スペインを打ちのめすヒーロー。金銀を強奪して来る盗人でも自国の利益になる。「サー(Sir)」の称号までもらっているし・・。実際、敵国の足を引っ張る為には何をしても合法と考えられていた時代らしい。話がそれたが、スペインにとってパナマ地峡の問題は、当然、その発見当初からあった。結局、彼らの夢がかない、16世紀からの悲願だった「パナマ運河」が完成するのは近年の事。10年の歳月をかけて1914年に開通した。でも、建設したのはスペインではないのです。アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)パナマ運河とパナマ地峡問題パナマ地峡はなぜこんな不思議な地形をしているのか?パナマックス(Panamax)と複数の閘門(こうもん)パナマ運河建設の歴史パナマ地峡鉄道(Panama Canal Railway)フランスによるパナマ運河建設アメリカによるパナマ運河建設返還されてからの値上げ問題パナマ運河(Panama Canal)ココリ閘門(Cocoli locks)ミラ・フローレス閘門(Miraflores locks)船の牽引(けんいん)するラバ(mule)運河の通行時間と制限世界最大の人造湖、ガトゥン湖(Gatun Lake)ガトゥン閘門(Gatun Locks)アグラクララ閘門 (Agua Clara locks)今回はセレブリティクルーズ社のミレニアムクラスの船。セレブリティ インフィニティ(Celebrity Infinity)でのカリブ海とパナマ運河のクルーズから写真を持ってきています。COVID-19 のパンデミックが始まる前年(2019年11月)に乗船した友人から提供された写真です。サンディエゴ発 → マイアミ着 15泊16日 コース下はカリフォルニア州サンディェゴ港から出港する直前の写真です。写真上下 カリフォルニア(California)のサンディエゴ湾(San Diego Bay)に停泊中の豪華客船セレブリティ インフィニティ(Celebrity Infinity)。2000年6月にフランスで造船され進水。就航2001年。このセレブリティ インフィニティでのパナマ・クルーズはサンディェゴ発とマイアミ発があります。サンディェゴ発の時は太平洋からパナマ運河を通行し大西洋に。マイアミ発の時は大西洋からパナマ運河を通行し太平洋岸に出るコースとなっています。全長 294m。全幅 32m。91000トン。乗客定員 2158~2184名。乗務員 1022~1027名。客室数 1079~1092室(ベランダ付き52~58%)写真下 コロンビア(Colombia)のカルタヘナ(Cartagena)に停泊中のセレブリティ インフィニティ(Celebrity Infinity)全景。カリフォルニア(California) サンディエゴ港(Port of San Diego)セレブリティ インフィニティ(Celebrity Infinity)乗船のゲートサンディエゴ港では下が荷積みで使われていたから? ゲートは高い位置。セレブリティ インフィニティ(Celebrity Infinity)のサンライズ・デッキからのリゾート・デッキサンライズ・デッキから船首からのサンディエゴのビル群サンライズ・デッキからの船尾方面サンディェゴ港 夕刻に出航カリフォルニア→ メキシコ→ グアテマラ→ コスタリカ→ パナマ→ コロンビア→ マイアミ太平洋岸からクルージングして南下してパナマ運河を通過し、大西洋側ではカリブ海をクルーズしてフロリダ州マイアミで下船。メキシコ カボ・サンルーカス (Cabo San Lucas)メキシコのバハ・カリフォルニア半島南端の岬にある市。クルーズ船は早朝に港に到着。だからまだ薄暗い。メキシコ(Mexicanos) カポ・サン・ルーカス(Cabo San Lucas)ではテンダーボート(tender)で上陸クルーズ客船のテンダーボートは緊急時の救命ボートとしても使用されるので救命艇兼用である。その場合、気象条件の悪い中での使用もあるからは安定性が高く傾き(heeling)が小さい双胴船設計(catamaran)が好まれるらしい。この船もそうですね。※ 双胴船(catamaran)のルーツを紹介しています。リンク 双胴型ヨット カタマラン(Catamaran)メキシコ(Mexico) プエルト バジャルタ(Puerto Vallarta)港 グアテマラ(Guatemala) プエルト・ケツアル(Puerto Quetzal)港コスタリカ(Costa Rica) プンタ・レナス (Puntarenas)港歓迎のダンスパナマ共和国(Republic of Panama) パナマ港(panama port)アメリカ橋(Bridge of the Americas)をくぐって早朝に湾内に。南北アメリカ大陸を結ぶ唯一の橋。この橋は以前紹介したパンアメリカンハイウェイ(Pan-American Highway)の一部でもある。※ パンアメリカンハイウェイについては「新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)」の中で説明。リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)全長1654m、アーチ部の径間は344m。海面からアーチのトップまでの高さ117m。裄下は干潮時で61.3m。橋の幅は10.4mパナマ運河通行の船舶の高さ制限は、アメリカ橋を通過できるか? である。事前承認を得れば、干潮時に限り、最大高62.5mまでの船舶の通航は可能らしい。湾内はコンテナ船のコンテナを積み卸す為の、ガントリー・クレーン (gantry crane)が並ぶMSC(Mediterranean Shipping Company S.A.)はスイスのジュネーヴに拠点を置く世界有数の海運会社。まもなく運河に入る分岐点前方左にはココリ閘門(Cocoli locks)前方右にミラ・フローレス閘門(Miraflores locks)パナマ運河とパナマ地峡問題パナマ地峡は南北アメリカ大陸を結ぶ細いS字形をした長さ約650km、最小幅50kmの特殊な地形。下はパナマ共和国(Republic of Panama)の位置。ズーム コスタリカとコロンビアに挟まれたつなぎ目の地上下の赤の点が運河の位置。表記したガトゥン湖(Gatun Lake)はパナマ運河構築の為にチャグレス川(Chagres River)を堰(せ)き止めて1907年~1913年に造られたダム湖である。それは世界最大の人造湖でもあるらしい。パナマ地峡はなぜこんな不思議な地形をしているのか?実は6500万年前(白亜紀末)、南北アメリカ大陸はまだ別々の大陸だった。正確にいつ合体したかまで分からなかったが、4500万年程前にインド亜大陸が北上してユーラシア大陸に衝突。ヒマラヤ山脈を形成した頃には南北アメリカ大陸も合体していたようだ。だから地峡は押しつぶされるように繋がったからS字形になったのかもしれない。※ 地球の大陸移動の話は以前書いています。リンク ナミビア・コーリシャス石化の森と地球の大陸移動パナマックス(Panamax)と複数の閘門(こうもん)パナマ運河ができたのは、あくまで、大西洋と太平洋間の船での航路をつなぐ為。物流の合理性の為にできたのです。よく、太平洋の高さと大西洋の高さは異なるといいますが。決して両洋の水位が違うからパナマ運河で水位調整している訳ではありません。潮の干満差は太平洋側で±3.2m以上、大西洋側で60cmの変動があるらしいですし、確かに太平洋側の平均水位はカリブ海側より24cm高いらしいが・・。実はパナマ運河を開削する為に地峡の真ん中に造られたガトゥン湖の海抜は26m。つまり太平洋から大西洋に出るには海抜26mの湖を持つ山を越えるという現実があるからです。それ故、一度上り、降りる工程が存在する。だから全長80kmのパナマ運河には水位の異なる水面の調整をする為の Lock gate (閘門・こうもん)が数か所、存在するのです。下は地峡の運河の断面図左:太平洋 ← パナマ地峡 → 右:カリブ海(大西洋)パナマックス(Panamax)・・パナマ運河を通過できる船舶の最大上限。従来のLock gateでのパナマックス(Panamax)全長:294.1m、全幅:32.3m、喫水:12m、最大高:57.91m以下2016年6月完成した「第三閘門」のネオ・パナマックス(Neo Panamax)※ ココリ閘門(Cocoli locks)とアグラクララ閘門 (Agua Clara locks)最大全長:366m、全幅:49m、喫水:15.2m従来のLock gateでのコース(上図では左から)↓↑ 太平洋側ゲート(Pacific side gate)↓↑ ミラ・フローレス閘門(Miraflores locks)↓↑ ミラ・フローレス湖(Miraflores Lake)↓↑ ペドロ・ミゲル閘門(Pedro Miguel Locks)↓↑ 掘削した人工渓谷 クレブラ・カット(Culebra Cut)の水路↓↑ ガトゥン湖(Gatun Lake)↓↑ ガトゥン閘門(Gatun Locks)↓↑ 大西洋側ゲート(Atlantic side gate)2016年6月26日の拡張工事完成後の超大型船舶用Lock gate ↓↑ 太平洋側ゲート(Pacific side gate)↓↑ ココリ閘門(Cocoli locks)↓↑ 進入航路↓↑ 掘削した人工渓谷 クレブラ・カット(Culebra Cut)の水路↓↑ ガトゥン湖(Gatun Lake)↓↑アグラクララ閘門 (Agua Clara locks)↓↑ 進入航路↓↑ 大西洋側ゲート(Atlantic side gate)パナマ市は太平洋側。ピンクのラインが運河航行の船のルート。赤い円は閘門(こうもん・ locks)の位置。パナマ運河建設の歴史先に触れたが、スペインは、その発見当初(16世紀)からパナマ地峡の横断を探っていた。なぜなら大西洋から太平洋に出るには南アメリカ南端パタゴニア(Patagonia)の海峡(マゼラン海峡)を回り込む必要があったから。でも、それはあまりに距離があり日数もハンパ無い。パナマ地峡の最狭部は64km。とは言え簡単ではない。冒頭触れたが、スペインはインカ帝国から集めた金をラバに積み、パナマ地峡を越えていたらしい。パナマ地峡を船舶が横断できるようになり、13000kmが短縮できたらしい。※ 前回「マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図」のラスト「南米最南パタゴニア、マゼラン海峡」で地図なども紹介。リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図パナマ地峡鉄道(Panama Canal Railway)パナマ地峡の横断は船ではなく、鉄道から始まった。パナマ市とコロン市を結ぶ全長77kmの鉄道。パナマ地峡鉄道(Panama Canal Railway)が1855年に開業している。この鉄道は1849年に始まった北米のゴールドラッシュ(Gold rush)も影響し、太平洋岸に出たい労働者が多いに利用したらしい。それまでカリフォルニアに金の採掘に向かう者はロッキー山脈を駅馬車で越えていたらしいが、割高ではあるが、パナマからの鉄道と船舶(蒸気汽船)の方が安全に加え、時間が短縮できたそうだ。早く行って掘った方がいいからね尚、この鉄道は運河ができた後もすたれる事はなかった。当初の運河には船舶の制限があり通行できない船の荷は鉄道に乗せ換えて運搬もされていたらしい。フランスによるパナマ運河建設1869年11月、スエズ運河(Suez Canal)が開通していた。※ スエズ運河(Suez Canal)はアラビア半島の紅海(Red Sea)と地中海(mediterranean sea)をつないだ運河です。アフリカ大陸を回り込まずにインド洋から欧州(地中海)に出られるスエズ運河も活気的な運河建設でした。このスエズ運河の建設をしたのがフランスの外交官であったフェルディナン・ド・レセップス(Ferdinand de Lesseps)(1805年~1894年)。1880年、フェルディナン・ド・レセップスは今度はパナマ運河会社 (Panama Canal Company) を立ち上げパナマ運河の建築に着手するのである。しかし難工事が続く。黄熱病の発生や財政難にもなり工事は中断された。1888年、宝くじ付き債券を発行し資金を集めたらしいが、結局、翌年1889年に会社は経営破綻。※ 最終的に債権は紙切れとなった。工事の続行を政府が願い、運河会社の清算と新会社設立を進めるも、フランスは続行できず、20世紀に入ってアメリカに売却された。アメリカによるパナマ運河建設フランスの会社の破綻からアメリカに仕事が渡ると建設場所から計画は見直される。当初、2つのルート候補があったらしい。1.パナマルート(panama route)2.ニカラグアルート(nicaragua route)双方湖を利用するものであったが、この頃、カリブ海で大規模な火山爆発が起こった事から火山のあるニカラグアルートは候補からはずされ、1902年、パナマルートに決まった。パナマ運河は10年の歳月をかけ1914年に開通。ところで、パナマ地峡の自治権は当初、コロンビアが持っていたが、アメリカは地政学的重要性から運河の管轄をアメリカに置きたいと考えていた。だが、コロンビア議会がこれを認めなかった事でアメリカは1903年11月、パナマ市を独立させパナマ共和国( Republic of Panama)を樹立させ、パナマ運河地帯の主権を得たのである。※ 1904年、日本はパナマと国交を結んだ。アジアでは最初の国だったらしい。※ 余談だが、アメリカはクーデターを起こしては自国に有利な政権の樹立と言う手法をあちこちの国で行っている。その陰にCIAありと言うのももはや定説?パナマ運河の主権であるが、当初永久的なものであったが、1960年代になるとアメリカ支配からの離脱を求めるパナマ国内でのナショナリズムの高まりが「パナマ運河地帯の主権返却」を掲げて反米運動が始まった。パナマでのクーデターや政治的動乱は続くもアメリカも返還に応じる事になる。1999年末(1999年12月31日)をもってパナマ運河はパナマ共和国に完全返還された。返還されてからの値上げ問題ところで、パナマの物はパナマに? これは良い事なのだろう。が、しかし、問題は返還されてからパナマ政府によりパナマ運河の通航料の値上がりが激しい事。ぶっちゃけ、どうしても通過したい国々の足下を見た値上がり方らしい。2017年10月の改訂ではコンテナ船には往復利用の割引料が設定されたが、好調のLPG船やLNG船の通航料は15~50%の値上げ。さらに2020年1月の国際海事機関(IMO)によるSOx規制に乗った値上げ? らしい。SOx規制は、燃料油硫黄分濃度を、これまでの3.5%以下から0.5%以下に抑制強化するための規制。これにより従来の燃料油より割高の低硫黄燃料油の使用を船会社が検討する事が想定され、パナマの使用率がより高まると見たのだろう。コンテナ船を除き好調な利用を見せるネオパナマックス級の船舶に対する値上げという側面が強いと在パナマ大使館一等書記官 河内 昭徳 氏がWorld Watchingで書かれている。リンク 1910pdf.pdf (phaj.or.jp)しかし、2020年初頭から発生したコロナウイルスによるパンデミックがあったから、パナマ運河の可動も激減したと思われる。パナマ政府の思惑ははずれた?実際、今どうなっているか? パナマ運河クルーズパナマ運河の見学は、一部陸からの見学もできますが、全長約80km。3つの閘門(こうもん・locks)を通過する運河となっているので、当然通過は船でなければできず、クルーズ船に乗る必要があるのです。※ 小型船でのツアーも現地にはあるようです。先に触れましたが、パナマ運河には水位を調整する複数の閘門(こうもん・locks)が存在しています。実は船舶の規模で通過する閘門(こうもん・locks)が分けられているのです。近年はコンテナ船も大型化してパナマ運河を通行できない船も増えていたので2007年に拡大計画が始まり2016年6月26日の拡張工事が完成。それがパナマ市側のカリブ海側のココリ閘門(Cocoli locks)とコロン市側のアグラクララ閘門 (Agua Clara locks)です。この完成により、今まで通過不可能であった大型コンテナ船の98%が航行可能になったと言う。※ アグラクララ閘門 (Agua Clara locks)は高台からの展望ができます。後で紹介します。パナマ運河庁が出している地図に加筆しました。今回のクルーズ客船は従来の運河コースを通過しています。コロンで下船してパナマシティーの見学をした帰りに陸路アグラクララ閘門 (Agua Clara locks)の記念博物館兼展望台に立ち寄りしているそうです。↓↑ 太平洋側ゲート(Pacific side gate)↓↑ ミラ・フローレス閘門(Miraflores locks)↓↑ ミラ・フローレス湖(Miraflores Lake)↓↑ ペドロ・ミゲル閘門(Pedro Miguel Locks)↓↑ 掘削した人工渓谷 クレブラ・カット(Culebra Cut)の水路↓↑ ガトゥン湖(Gatun Lake)↓↑ ガトゥン閘門(Gatun Locks)↓↑ 大西洋側ゲート(Atlantic side gate)ココリ閘門(Cocoli locks)2016年6月26日に完成。初開通した大型コンテナ用のココリ閘門(Cocoli locks)を横目に通過。下も同じくココリ閘門(Cocoli locks)を上がって行く船が見えます。ミラ・フローレス閘門(Miraflores locks)奥に見えるのはミラ・フローレス湖(Miraflores Lake)。ミラ・フローレス閘門(Miraflores locks)では、船舶は 2 段階で 16.5 m(54ft) 上下降してミラ・フローレス湖と太平洋の湾をつなぐ。水位を調整するのが閘門(こうもん・locks)です。セレブリティ インフィニティ(Celebrity Infinity)は全長 294m。全幅 32m。全長ではギリ古いミラ・フローレス閘門(Miraflores locks)ではほぼパナマックス。※ 新しい閘門(こうもん・locks)ではパナマックスももっと大きくなっている。船の牽引(けんいん)するラバ(mule)ところで、水位を調整する閘門(こうもん・locks)に入る時、船はエンジンを切る事になります。エンジンを切った船をタグボードで押してロックに押し込むと船は運河脇のミニ鉄道のような物(mule)にワイヤーをひっかけてそれが船を前方に引っ張り、完全にロックに収まらせるようです。ウィキメディアでそれらしい別の船の写真を引っ張ってきました。船からのワイヤーがmuleつながっています。下の写真もウィキメディアから件(くだん)の牽引車(けんいんしゃ)はミュール(mule)と呼ぶようです。ミュール(mule)の意味はラバとか、運び屋。もともとパナマ地峡をラバで荷運びしていた伝統からラバ(mule)と呼ばれるようになったらしい。大型船では、船首の両側に 2 つずつ、船尾の両側に 2 つずつ、計 8 つのラバ(mule)が付き、船を制御している。しかし、新しい拡張されたココリ閘門(Cocoli locks)やアグラクララ閘門 (Agua Clara locks)では使用されていない。下は ガトゥン閘門(Gatun Locks)muleを出た後に待機していたタグボート(tugboa)運河ではタグボート(tugboa)が活躍する。運河の通行時間と制限眺めているのは隣のレーン。下はミラ・フローレス閘門(Miraflores locks)を振り返った西(太平洋)方面船はこの後、ミラ・フローレス湖(Miraflores Lake)を通過し、さらにペドロ・ミゲル閘門(Pedro Miguel Locks)で再び水位調整をして掘削した人工渓谷 クレブラ・カット(Culebra Cut)された水路を通過しガトゥン湖(Gatun Lake)に入ります。実は友人の写真にミラ・フローレス湖(Miraflores Lake)、ペドロ・ミゲル閘門(Pedro Miguel Locks)、クレブラ・カット(Culebra Cut)された水路の写真が無かったのです。パナマ運河ではさらにこの後、ガトゥン湖(Gatun Lake)とガトゥン閘門(Gatun Locks)を通過。船からパナマ運河通過の証明書が出されていたとの事。以下時間です。ミラ・フローレス閘門(Miraflores locks)の通過07時35分~8時45分 (70分)ペドロ・ミゲル閘門(Pedro Miguel Locks)の通過09時15分~10時05分 (50分)ガトゥン閘門(Gatun Locks)14時15分~16時40分 (145分)友人の乗ったセレブリティ インフィニティ(Celebrity Infinity)は早朝にアメリカ橋(Bridge of the Americas)をくぐって待機し、パナマ運河に突入(07時35分)しています。結局最後の ガトゥン閘門(Gatun Locks)を抜けて大西洋側に出たのは夕刻(16時40分)だったそうです。つまりパナマ運河の通行にかかった時間はトータル9時間5分。ほぼ1日かがりです。だから最初から最後まで張り付いて撮影はしていなかったと言う事です。ところで、パナマ運河の運用は、早朝に両洋側から船舶を運河内に進入させガトゥン湖(Gatun Lake)で待機。夕方頃に双方反対側の海に抜けさせるというシステムらしい。が、航路の狭小部クレブラ・カット(Culebra Cut)では大型船の行き交いができない事から太平洋側から進入してきた船舶がクレブラカットを通過し終わるまで大西洋側から進入した大型船舶はガトゥン湖(Gatun Lake)より先に進めない。つまり出口前の閘門までたどりつけない。大西洋側からのが不利のようです。それ故、2016年6月の拡張工事完成後のネオ・パナマックス(Neo Panamax)を持つ第三閘門も通航予約枠は一日8隻と限定的らしい。世界最大の人造湖、ガトゥン湖(Gatun Lake)クレブラ・カット(Culebra Cut)された水路の写真はウィキメディアから借りてきました。もともと、パナマの分水嶺だった中央山脈を切り開いてダム湖につなげた場所のようです。運河の最も狭小部ですが、運河全体の5分の1(12.7km)に相当。その掘削(くっさく)工事で発生した土石や石灰岩を積み上げるとエジプトのピラミッドが63基建設できるくらいの容積らしい。先に、ガトゥン湖(Gatun Lake)は運河建設の為にチャグレス川(Chagres River)を堰(せ)き止めて1907年~1913年に造られたダム湖と紹介。当時から今まで、運河自体も大型船の出現に合わせて拡張が続けられてきたので、最初からこれほど広かったのかわかりませんが1907年~1913年頃に開削しているのだから凄い事です。重機もあまり無かっただろうし・・。ガトゥン湖(Gatun Lake)ガトゥン閘門(Gatun Locks)いよいよ大西洋側に出るラストのガトゥン閘門(Gatun Locks)です。先にも、実際の通過時載せ載せましたが、14時15分~16時40分 (145分)どこよりも長く時間がかっていすます。たぶん行きに2か所に分けた水位調整の閘門(こうもん・locks)がここでは一気に一度で終わらせるからかも?かなたにはPuente Atlántico(大西洋橋)が見えている。上下、ガトゥン閘門(Gatun Locks)を振り返った所。セレブリティ インフィニティはパナマックス、ギリだから1隻しか入れないが、小型の船は複数、閘門(Locks)に入っているのが見える。ガトゥン閘門(Gatun Locks)を出てフォークス川を下る。向こうの水路が2016年6月完成したアグラクララ閘門 (Agua Clara locks)につながる水路。Puente Atlántico(大西洋橋)リモン湾(Limon Bay)、コロン港(Port of Colon)アグラクララ閘門 (Agua Clara locks)先に紹介した2016年6月完成した「第三閘門」の一つアグラクララ閘門 (Agua Clara locks)。大西洋と海抜26mのガトゥン湖を3連のプールで一気につなぐ。先にネオ・パナマックス(Neo Panamax)は最大全長:366m、全幅:49m、喫水:15.2m。と紹介しているが、こちらのプール自体は一つ、全長:427m、全幅:55m、水深:18.3m。ネオ・パナマックス(Neo Panamax)を持つこちらは超大型コンテナ船やLPG船やLNG船に対応する為に造られた閘門(こうもん・locks)です。アグラクララ・ビジターセンターからの展望写真背景、奥に見えるのがPuente Atlántico(大西洋橋)ここではミュール(mule)は使用せずタグ・ボートが直接牽引しているようですね。この「第三閘門」によりこれまでの約3倍の積載能力を持つコンテナ船や液化石油ガス(LPG)船や液化天然ガス(LNG)船の航行が可能になった。※ 液化石油ガス(LPG : Liquefied Petroleum Gas)※ 液化天然ガス(LNG:Liquefied Natural Gas)これまで通れなかった大型コンテナ船の98%が航行可能になるとパナマ運河庁は言っているらしいが、通行料がどんどん高額になるのは問題。でも航海史を考えると、パナマ運河の存在は、スエズ運河と共に歴史上の偉業である。間違いなく物流の時間を短縮させ、同時にエネルギーを削減したのは確かだから・・。水門ゲートも全く異なります。水門は高さ26m~33mのスライド式。貯水槽を持ち水の再利用をしている。実はパナマ運河は近年水不足だったらしい。私は説明を受けていないので解らないが、下の写真のブロックがゲート? あるいは貯水タンク? なのかな?こちらのビジターセンターはコロンからパナマシティーの1日観光でラストに寄ったらしい。この後セレブリティ インフィニティ(Celebrity Infinity)はカリブ海をクルーズしてマイアミまで向かう。ラスト、コロンの港で終わりにします。新市街ちゃんとビル群もあるのですね。それにしてもクルーズ良いですね。コロナで船も避けられていたけど・・。クルーズ船に乗ってリアルタイムでブログを発信するのが夢です。次回は全く未定です。東インド会社に行かなければならないのですが、アジア方面の写真が無いのです。Back numberリンク 静物画にみるメッセージリンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器) アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2023年04月24日
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今回は地図の紹介と併せて「アジアと欧州を結ぶ交易路」のスピンオフ(spin-off) 回となっています。地図を見るのは子供の頃から好きで、今でも世界地図は数種持っていますが、世界を俯瞰(ふかん)して見たい私には一般的なメルカトル図法(Mercator projection)やモルワイデ図法(Mollweide-projection)の世界地図には不満があったのです。双方の長所は緯度、経度の線が直角に表されているので地理的な緯度や経度は解り易い。が、地球という球体を展開して表記している以上、赤道から離れ北や南に向かう程に面積や距離は実寸とはかけはなれ、広がって表現されると言う短所がある。つまり国のサイズや形は実際とはかなり異なってくる。と言う問題がどうしても生じてくる。結局のところ、どのような表記をしようとも平面の地図に完璧な図は存在し得ないのだろうが・・。さらに不満は、たいていの地図は南北の極が上下に固定されているので極地帯の距離感は普通以上にわかりにくくなっている点だ。加えて、日本の世界地図では日本が中心に据えられるという点も気に入らない。日本がどこに存在しているか? また、日本からの諸外国への距離間を知るには当然の配慮なのかもしれないが、両サイドに来るアメリカ大陸や大西洋、欧州は余計にゆがんで表現される。世界をグローバルに捉えたい時に中心に見たいのは太平洋なんかではない。だから子供の頃は平面の地図よりも地球儀をコロコロさせていた。地球儀って、必要ないようで、実は必要かもしれない。困ったのは、ブログを始めて平面地図がほしくなった時だ。以前、北極を中心にした地図の紹介をしたことはあるが、欧州を中心に据えた地図や大西洋を中心にした地図を探したいと思ってもなかなか見つからないのである。今回のような大航海時代を紹介する時にポルトガル視点、スペイン視点、大西洋視点、モルッカ諸島視点などで見たいし、考えたいし、紹介がしたい。その度に視点の変えられる地図が欲しかった。最近は、Googleのおかげで視点を好きな場所に変えて確認する事はできるようになったが、もっと広域に視点の変えられる平面世界地図があったらいいなと思っていた。実は、平面で視点の変えられるAuthaGraph projection(オーサグラフ投影)と言う手法で造られた地図を最近見つけたのだ。AuthaGraph World Map(オーサグラフ世界地図)は北極を中心に切り取ったり、南極を中心に切り取ったり、南米を中心に切り取ったり、アフリカ大陸を中心に切り取ったりできる地図なのである。現段階では小さな図しかないけれど・・。私の不満がカバーできる地図なのだ。今回は、このオーサグラフ世界地図(AuthaGraph World Map)を紹介しつつ、それを使ってマゼラン隊の世界周航を一筆書きで紹介しようと考えたのです。でも地図だけで絵は足りない。残念ながらモルッカ諸島の写真は無い。どうするか?友人がパナマ運河就航の写真を提供してくれたので、それで行く予定でしたが、写真の中身に関して確認が終わっていないので、パナマの写真は別枠で次回にしました。そんなわけで今回は、ほぼ地図のみでマゼラン隊に触れます。 m(_ _)mマゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図オーサグラフ世界地図(AuthaGraph World Map)とはモルワイデ図法(Mollweide-projection)による世界地図メルカトル図法(Mercator projection)による世界地図オーサグラフ(AuthaGraph)の利点「アジアと欧州を結ぶ交易路」のスピンオフ(spin-off) マゼランポルトガルとスペインの競争から始まったアジアの植民地化コロンブスの計画案を引き継いだスペインスペインによる太平洋の発見マゼランが遠征隊長に抜擢された訳と重要人物マゼラン艦隊の内紛問題インテル・カエテラ(Inter caetera)とトルデシリャス条約線 問題東に進んだポルトガルの成功Battle of Mactan の記念碑世界周航と太平洋航路の確立マゼラン亡き後マゼラン隊を率いたエルカーノアントニオ・ピガフェッタの著「最初の世界周航」トランシルヴァーノのモルッカ諸島遠征調書サラゴサ条約線と教皇勅書スブリミス・デウス(Sublimis Deu)マゼランのルート(Magellan Route)モルッカ諸島の利権を手放した件南米最南パタゴニア、マゼラン海峡オーサグラフ世界地図(AuthaGraph World Map)とはauthalic(面積が等しい) & graph(図・グラフ) オーサグラフ(AuthaGraph)による世界地図大陸が複数、描かれているのには訳がある。下方左からグリーン・・南アフリカを中心にした世界地図オレンジ・・ブラジルを中心とした世界地図ブルー・・・南極を中心にした世界地図レッド・・・北極を中心にした世界地図どこを中心に切り取っても、世界の大陸や海の位置関係がわかるようになっている地図なのである。オーサグラフ(AuthaGraph)は、ほぼ等面積の世界地図投影法なのであるが、なんと日本の建築家が考案した地図なのである。※ 1999 年、成川肇氏(Narukawa Hajime)によって発明。※ 2016 年グッドデザイン賞、受賞。※ 上の地図は購入したポスターから撮影。地図帳のようなものはまだ販売されていないようです。オーサグラフ(AuthaGraph)による世界地図AuthaGraph(オーサグラフ)は、球面を96個の三角形に等分し、面積比を保ったまま四面体に移し、四角形に展開して作った多面体を統計して作った地図なのだそうです。故に、すべての海,陸の面積比はほぼ正確に表記され、かつ形の歪みも従来よりかなり低減しているという。それはネーミンが示すよう authalic(面積が等しい) graph(図・グラフ) 。中心だけでなく、どの位置から見ても大陸は変形していない。実に建築家らしい発想による地図ですね。最も、地球と言う球体を平面に展開しての地図であるから、経緯度線が無いと大陸同士の緯度が計りにくいかもしれない。モルワイデ図法(Mollweide-projection)による世界地図モルワイデ図法(正積図法)1805年、ドイツの天文学者・数学者カール・モルワイデ(Karl Brandan Mollweide)(1774年~1825年)が考案した地図投影法。地図の外周は、長径2、短径1の楕円形で表現。※ 比率は2:1緯線は水平。経線は中央経線以外は弧を描く。図の中心は正積なのだろうが、中心から離れるほどに歪む。日本の国を見てもらえば、形が変形しているのがわかるし、南極のサイズが大きくなりすぎ。メルカトル図法(Mercator projection)による世界地図中心(赤道)から離れるほど緯線の間隔は拡大して行くので大陸のサイズも拡大。本来、オーストラリア大陸とほとんど変わらない南極が異常なビッグサイズに表現されてしまう。北極圏のグリーンランドもしかり。メルカトル図法(正角円筒図法)1569年、フランドル出身の地理学者ゲラルドゥス・メルカトルGerardus Mercator)(1512年~1594年)が採用した地図(アトラス)で知られた。が、正角円筒図法自体は16世紀初頭にはすでに存在していたらしい。この地図は大航海の時代に向かい、航海用の地図の図法として有効であった。メルカトル無き後息子が継承して発表された世界地図はイギリスその他のヨーロッパ諸国とアジア・アフリカ・アメリカの諸図を加えた107図による地図帖形式で販売。その地図帖は、ギリシャ神話の天空を支える巨人の名をとり「アトラス (Atlās)」と命名された。地図帖がアトラス(Atlas)と呼ばれるようになったのはそうした理由だ。オーサグラフ(AuthaGraph)の利点大陸の相互関係を見るならオーサグラフ(AuthaGraph)。位置関係は断然解り易い。グリーンランド(Grønland)を挟んでカナダと北欧やロシア連邦が向かい合っている。ロシア連邦(Russian Federation)とアメリカ合衆国(united states of america)は近接している。同じく、英国 (United Kingdom)も思う以上にロシア連邦に近い。本来地球上の大陸は北半球に密集している。それ故、人口は歴史的に北半球に偏ってきた。地球全体での陸地と海の比率はおよそ3:7北半球全体の陸地の面積比は39.4%。南半球の陸地の面積比18.4%。北半球の陸地と海の比率はおよそ4:6 → 2:3 の割合になる。極からの北半球円周が赤道に相当。赤道より上(北半球)に大陸が集まっているのがわかる図。極からの南半球でも実際の大陸の位置関係は下のオーサグラフ(AuthaGraph)の方が正しい。下の図はどの角度、どの位置からも地球をカテゴライズできる地図となっています。地球は、6つの大陸(北アメリカ大陸、南アメリカ大陸、ユーラシア大陸、アフリカ大陸、オーストラリア大陸、南極大陸)と3つの大洋(インド洋、太平洋、大西洋)からなっている。オーサグラフ(AuthaGraph)では、あらゆる大陸や海洋との位置関係がわかる。南極に行く船が南米から出航する。やはり一番近接しているからだ。サイズで言うなら南極はオーストラリア大陸より少し大きい程度?そしてブラジルやメキシコは、今までのイメージよりも大きいかもしれない。いろいろ発見が出てくるね「アジアと欧州を結ぶ交易路」のスピンオフ(spin-off) マゼラン先に地図ありき・・でした。それにマゼラン隊の世界周航の航路を載せてみよう。と思ったのが始まりです。そもそも「アジアと欧州を結ぶ交易路 」でマゼランの世界周航を載せるべきか? スルーしても良いか?欧州各国の以後のアジア植民地化を見据えた時に、やはりマゼランは触れておかなければならない問題でした。スペインとポルトガルがアメリカ大陸(中南米)を植民地にしようとも、香料諸島の富は絶大であり、あわよくば植民地に欲しい場所に代わりはなかったからです。結果、彼らの挑戦で世界が広い事を知る。同じ一つの球体の上で、別々の文明が存在していた事を知る。時に友好的に、時に支配的に文明は交流する事になる。今や飛行機でひとっ飛び、世界は近くになりつつあるけど、その昔、命かけて世界をつないだ彼らの航海の意義は大きい。ポルトガルとスペインの競争から始まったアジアの植民地化ポルトガルはエンリケ航海王子(Prince Henry the Navigator)(1394年~1460年)の元、ポルトガル国家としての事業で遠洋航海を始めた頃から香料諸島を目指していた。だから、どこの国よりも先に外洋に出て目的を果たした。因みに、ポルトガルはその過程でマデイラ諸島、アゾレス諸島、カナリア諸島、ベルデ岬諸島を発見して植民地開発をしている。また、エンリケ王子は資金源をたくさん持っていたからポルトガルにお金はあった。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス1497年7月リスボンを出航したヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)(1460年頃~1524年)は1498年5月インドに上陸。ポルトガルは東周りでアフリカ大陸南端(喜望峰)を回りインド洋に出る航路を開いたのだ。一方、レコンキスタで出遅れたスペインには航海技術も船も、航海士もいない上にお金もなかった。外洋への進出を願ったのは、国ではなく、国家という保証と名誉を求めた航海士と、ゆくゆく得るであろう利益をあてにした商人が持ち掛けた話だったからだ。だから資金のほとんどは航海士本人の借金とそれをバックアップした商人が用意している。※ コロンブスの時はフィレンツェに拠点を置くメディチ銀行とジェノバの商人がいた。リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)当初のスペインは基本、船は航海士の持ち込みで、出来高の一部をスペインに献上するという形で新大陸の冒険航海が行われていた。新大陸で利益を得た以降のスペインは多少事情が変わった?※ マゼランの時はアウグスブルクに拠点を置くフッガー銀行とやはり商人がかかわっていた。マゼランの時に関しては、スペインが国として香料諸島のビジネスに参入したかったから? 商人クリストファー・デ・ハロの全額出資を断って、スペイン国が全て負担したらしい。スペイン王(カルロス1世)でもあるカール5世(Karl V)(1500年~1558年)が神聖ローマ皇帝になる為の選挙資金をフッガー家から借金していた話は有名だ。オーストリア・ハプスブルグ家はともかく、兼任しているスペイン王室自体はそんなに裕福ではなかったはずだ。また、フッガー家とスペイン王室のつながりはそこから始まっている。後々、スペインが香料諸島の利権をすべて、それもかなり格安で売り払ったのも、結局お金が必要だったからだ。ところで、メディチ銀行は1499年倒産していたので、代わるようにフッガー銀行が台頭してきたのかもしれない。フッガー銀行は現在も残っている。フッガー家の事書いてます。リンク アウグスブルク 5 フッゲライ 1 中世の社会福祉施設リンク アウグスブルク 6 フッゲライ 2 免罪符とフッガー家航海の話に戻ると、結果、スペインは特使のマゼランが西回りで香料諸島をめざして南米を回り太平洋航路を開き、アジアに到達(1521年)した。※ マゼラン自身は香料諸島到達前に途中フィリピン、セブ島で死亡。マゼランを引き継いだマゼラン隊はその後、香料諸島であるフィリピン南方のモルッカ諸島(Malacca Islands)に到達。たくさんのスパイスをゲット。※ 欧州から西周りルートでも香料諸島にたどりつけると言う事を証明した。だが、東から香料諸島に先陣していたポルトガルに見つかり、追われ、マゼラン隊は逃げるようにモルッカ諸島を脱出して帰国する事になる。その時点でマゼラン隊の船は2隻。太平洋航路を戻るルートをとった(逃げた)トリニダード号はポルトガルに拿捕(だほ)され船舶は沈められた。西に進み続け、インド洋航路をとった(逃げた)ヴィクトリア号のみが逃げ切り、スペインに戻る。この時、マゼラン隊は期せずして世界周航を果たした訳で、同時に世界が球体である事を完全に証明してしまった。 地球が球体と言うのは、また別の問題をはらんでいたが、それ以上に欧州人は香料諸島以外にもあるアジアの可能性を見いだしていた。それは以降、各国の航海術の向上を持って多くの国が競ってアジアを目指したからアジアは植民地ラッシュとなるのである。現在中国の特別行政区となっているマカオ(Macau)が1999年までポルトガルの海外領土だったのは当時の名残り。マゼラン隊の偉業が間違いなく、きっかけとなったのである。コロンブスの計画案を引き継いだスペインところで、なぜスペインは香料諸島をめざすに至ったのか?以前、「アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス」のところですでに書いてますが、コロンブスの計画案は、西回りで大西洋を横断してのインディアスの発見と黄金の国ジパングの発見だった。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスコロンブスがたどり付いた場所はジパングではなかったし、アジアでもなかったが、コロンブスはすぐそこにアジアがあると信じたまま亡くなった。スペイン政府も当初は彼らがたどり付いた場所(中米)は、アジア東端の半島だろうと信じていたフシがある。だが、中米と南米北西部の植民地化を進める中で、新大陸(アメリカ大陸)は北と南の二つの大きな大陸でつながっていた事がわかる。そこに切れ目はなかった。※ 後にそこに運河を構築して大西洋と太平洋をつなげる事になる。次回パナマ運河やります。スペインによる太平洋の発見バルボアが黄金郷(エル・ドラード・El Dorado)を探している時にパナマ地峡を横断。そこには広大な海が広がっていた。※ バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア(Vasco Núñez de Balboa)(1475年~1519年)1513年、バルボアが「南の海」と命名した、それこそが太平洋だったのである。期せずしてバルボアは太平洋の発見者となった。だが、この太平洋の発見により、スペインはアメリカ大陸を越えるには、新たに航路を見つけなければアジアにはたどり着けない。と言う問題に当った。その頃、ポルトガルはすでに東周りでアフリカ大陸を越え、インド洋ににたどり着き、香料諸島に到達していたからスペインは西回りで香料諸島に行く遠征隊の航海士を慌てて探していたのだ。マゼランが遠征隊長に抜擢された訳と重要人物そもそもはマゼランの友人が経験のある彼をスペイン王に推挙したのである。重要な推薦人と仲間デュアルテ・バルボーザ(Duarte Barbosa)(1480年~1521年)1500 年~1516 年の間ポルトガル領インドの将校をしていた彼はマゼランの妻の兄? (同じ年に生誕した義兄弟)バルボーザは マゼランを強く推挙し、彼と共に航海に出るが1521 年4月、フィリピン、マクタン島の戦いでマゼランが亡くなった数日後、ラジャ・フマボン(Rajah Humabon)の晩餐会で彼も暗殺されている。生誕年と没年までマゼランと一緒。クリストファー・デ・ハロ(Christopher de Haro)(生没年不明)ブルゴス出身のカステーリャの金融家で商人。もともとハロはフッガー家の元、リスボンに拠点を置いていた商人。陰謀によりポルトガル王の信用を失い1516年、活動をスペインに移していた。1519年のマゼランの航海では 4分の1を彼が財政支援している。※ たぶんマゼラン個人の分の支援。また、マゼランを推挙し資金提供しただけでなく、後にエルカーノの遠征資金も提供している。結局、マゼランは途中で亡くなり、エルカーノも太平洋上で亡くなったから資金回収はどれだけできたか? 冒険航海に資金を出すのはロマンだけど、リスクが大きすぎですねフランシスコ・セラーン(Francisco Serrão)(生年不明~1521年没)マゼランの従弟。セラーンは1511 年に香料島であるモルッカ諸島に到達。テルナテ島(Ternate)で妻を娶り島に残った。セラーンはテルナテ島からマゼランに手紙で香辛料諸島の情報を送っていた。二人は結局会う事なく、セラーンも、ほぼマゼランと同じ頃に暗殺されたと考えられている。ところで、セラーンが居たテルナテ島(Ternate)はポルトガル配下である。エルカーノ率いるマゼラン艦隊は隣のティドレ島(Tidore)にたどり着く事になる。事もあろうに両島はもともと仲が非常に悪かったそうだ。フェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)(1480年~1521年)1550~1625年頃所蔵 The Mariner's Museum Collection, Newport News, VA実はすでにマゼランはポルトガルの元でヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)(1460年頃~1524年)が見つけたインド航路をたどりインドへ行っていた。さらに彼は遠征で香料諸島であるモルッカ諸島まで行っていたのである。この経験を買われスペイン王はマゼランと契約したのである。ただ、マゼランは間違っていた。「西周りの方が航路が短いからポルトガルよりも安いコストで香料が手に入る。」と、プレゼンしたらしい。実際は、東周りルートで香料諸島に行ってはいたが、西周りルートの経験はもちろん無い。直面する太平洋航路がいかに長いか彼は全く知るよしも無かった。アブラハム・オルテリウスによる太平洋の地図(1608年) ウィキメディアから借りました。ブラバントの地図製作者、地理学者、宇宙学者アブラハム・オルテリウス(Abraham Ortelius)(1527年~1598年)図は太平洋の海図である。オルテリウスは近代的な世界地図(アトラス)の製作者として知られる。Nao Victoria ナオ船ヴィクトリア号のレプリカ 写真はウィキメディアからチリ、プンタ アレナス(Punta Arenas, Chile)ナオ・ヴイクトリア博物館(Museo Nao Victoria)展示2011年建造※ キャラック(Carrack)をスペインではナオ(Nao)、ポルトガルではナウ(Nau)と呼ぶ。実際のヴィクトリア号には砲弾もそなわっていたはずだが、艦隊は当初、トリニダードを旗艦とする5隻の船とされ、ほとんどが「nao」(キャラック船 )であったが船の詳細は不明で、どの船のイラストも存在しなかったらしい。だから後世のレプリカは実物とは異なるのかも。図はウィキメディアから※ 大航海時代の帆船については「アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人」のところで詳しく書いてます。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人ポルトガル人のマゼランによるスペイン特使としての香料諸島への航海が始まる。ただし、ポルトガルに察知されないよう、マゼランの直接指揮下にある船長以外には真の目的地を話さずスペインを出航したのである。1519年9月、5隻の艦隊を率いてマゼランはスペイン・セビリアを出発。ヴィクトリア号 (Nao Victoria) Captain Luis Mendoza・・キャラック船。旗艦。マゼラン亡き後、エルカノが船長としてスペインに帰還させた船。トリニダード号 (Nao Trinidad) Captain Ferdinand Magellan・・香料諸島から逃げ帰る時に拿捕。コンセプション号(Conception) Captain Gaspar de Quesada・・損傷が激しかった船はマゼラン亡き後、セブ島で沈めて処分。サン・アントニア号(Nao San Antonia) Captain Juan de Cartagena・・パタゴニア海峡で離反し逃亡。サンティアゴ号(Nao Santiago) Captain João Serrão・・サンタ・クルス川の河口 付近で難破。船団員270名のうち、1522年にスペインまで帰還できたのは18名。ただし、ほかの人員が全員亡くなったわけではない。逃亡やポルトガルに捕まった者も結構多い。※ 捕まった者はポルトガル・ルートで本国に帰還している。マゼラン艦隊の内紛問題ところで、スペイン王がポルトガル人のマゼランを抜擢した事自体が後の波乱の問題となった。マゼランは1519年9月、5隻の船を率いてセビリアを出港したのだが、南米のサン・フリアン湾(San Julian)で乗組員による暴動が起きる。謀反者は40人に上り処罰された。マゼラン以外の船長や航海士はスペイン人である。そこそこやり手の船長らは自分が選ばれなかった事に腹を立てて後にマゼランの暗殺を企てたと言うもの。実はポルトガル陰謀説もある。スペインが西周りで香料諸島に来れないようじゃましてほしかった。と言うもの。それもあり得そうな話である。かくしてサン・フリアン(San Julian)湾での反乱後、今度はマゼラン海峡の発見直前には食料船サン・アントニア号が脱走した。サン・アントニア号はスペインに帰還するのであるが、残されたマゼランらは、彼らが逃げたとは思わなかったらしい。帰国してから知る事になる。だが、サン・アントニア号の脱走のせいでスペインが西回りで香料諸島を目指している事がポルトガルに知れてしまった。やはりスパイがいたか?太平洋を横断して東アジアに到達したエルカーノらが、香料諸島から追われたのはそれ故なのだ。Nao Trinidad ナオ船トリニダード号のレプリカ重さ 150t、長さ 93 ft、26 ftのビーム、3 つのマスト、バウスプリットを備え、 メインマストの高さは82 ft。5 枚の帆と 5 つのデッキを備えている。建材はイロコ(Iroko) と松材。※ イロコ(Iroko) はアフリカ南部の広葉樹。比重の割に硬度もあり安価。チークの代替材として船やボートで使われる素材。トリニダード号 (Nao Trinidad)のレプリカはNao Victoria Foundation(ナオ・ヴィクトリア財団)により海事遺産の共有、歴史的な船の修復、建造など研究目的で建造されたらしい。浮遊博物館として世界を周航して展示。乗船も可能。上の写真はオハイオ州クリーブランド2022年のTall Ships Festivalの宣伝の時のもの。インテル・カエテラ(Inter caetera)とトルデシリャス条約線 問題ポルトガルが東周りで香料諸島に。そしてスペインが西周りで香料諸島に到達しなければならなかった理由のおさらいです。これも「アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス」の中「世界を分割したトルデシリャス条約とサラゴサ条約」ですでに書いていますが・・。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス1493年、ローマ教皇アレクサンデル6世(Alexander Ⅵ)(1431年~1503年)の教皇勅書「インテル・カエテラ(Inter caetera)」により「教皇子午線」が決められ、スペインとポルトガルの権利域が確定された。翌年(1494年)、両国は協議して「教皇子午線」を少しずらしトルデシリャス条約(Treaty of Tordesillas)線を決めた。西経46度37分の東側がポルトガル。西側がスペインに属する。※ おそらくこの線は両国の利権的に納得の行くラインに子午線がずらされたものと思う。このずれた事によりポルトガルは後々ブラジルの利権を大きく獲得する事ができた。両国はトルデシリャス条約(Treaty of Tordesillas)線を遵守しなければならなかったから、スペインは東には進めない。現段階では東方面はポルトガルの領域で、西方面の領域は全てスペインの領とされたからである。すでに地球が丸い事はうすうす解っていたから、ポルトガルが先に香料諸島に到達してしまった以上、スペインは西周りで香料諸島に到達して利権を行使(こうし)するしか方法が無かったのである。以前紹介した図ですが東に進んだポルトガルの成功アフリカ大陸を南下して喜望峰を回り、東に北上したポルトガルはインド洋に到達。さらに東に進み彼らは香料諸島に到達する事ができた。1499年バスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)がインド航路を開いてからポルトガルは安定したインドへの航海ルートを確立していた。先にマゼランもインドや香料諸島に行っていた事(8年駐留? 1513年帰国)に触れたが・・。ポルトガルは1513年までのわずか14年の間に欧州の香料貿易を独占し、天下を取っていた。直接仕入れる香辛料はヴェネツィアがアラブ人から購入していた時よりも安価。イタリアの商人やドイツ商人(フッガー家)がこぞってポルトガルから商権を奪い合う事になる。つまり、16世紀までその地位にいたヴェネツィアから一気に富を奪いポルトガルはトップの大海洋国に成り上がったのである。それ故、スペインは、ポルトガル人の航海士フェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)(1480年~1521年)を航海士に抜擢して西のルート開拓を急いだ。この当時、スペインはまだ航海技術が乏しく、航海士には引き抜いたポルトガル人を雇っていたのが現状。スペインの看板を背負ったマゼランが(1519年9月)西回りでアメリカ大陸を超え、太平洋を横断しフィリピンに到達する。(1521年3月)そこがスペインが求めたアジアの東の果てであった。海図の本「Eary Sea Charts」からSea chart of Malacca,the Indonesian Archipelago,and the Philippines.モルッカ、インドネシア諸島、フィリピンの海図Petrus Plancius Amsterdam.C.1595地図にはスパイスも書き込まれている。下はフィリピンと南方の香料諸島 モルッカ諸島(Malacca Islands)を拡大。不完全さは下の地図と比べると一目。上が1595年当時。地図としてはよくできている。下は現在の地図 ピンクで囲った所がいわゆる香料諸島。モルッカ諸島(Malacca Islands)である。パプアニューギニアのすぐ西の海域ですね。Battle of Mactan の記念碑マゼランは太平洋を横断。目的の香料諸島が近い事を知りながら、不幸にもフィリピンで巻き込まれた戦闘の果て、命を落とす。マゼランが命を落とした場所にスペイン統治時代の1866 年にモニュメントが建てられた。フィリピン政府は2021 年の500周年記念でフィリピンのセブ島ラプラプ市にあるマクタン島にある記念公園のマクタン神殿(Mactan Shrine)を整備。以下写真2枚はフィリピンの観光局のものを利用させていただきました。マゼラン記念碑(Mallelan's Marker)高さ差30mの石のオベリスクマゼランのキリスト教の布教活動 (1521年) を讃えたもので、1866 年のスペイン植民地時代に建立。ラプラプ像(Lapu-Lapu Monument)高さ20m 像はブロンズ1521 年のマクタンの戦いでマゼラン率いるスペイン兵を破った英雄王の像。マゼランの義兄弟のバルボーザ(Barbosa)は 1521 年4月、マクタン島の戦いの数日後、マゼランから初めてキリスト教の洗礼を受けたセブ島の族長ラジャ・フマボン(Rajah Humabon)が開催した晩餐会で暗殺された。世界周航と太平洋航路の確立船長マゼランはフィリピンのマクタン島(Mactan Island)においてラプ=ラプ王(Lapu-Lapu)(1491年? ~1542年)との戦いで戦死した。だからこの時、マゼラン自身は香料諸島に到達していないし、まして世界周航はしていない。だが、マゼランが隊長として率いた船(ヴィクトリア号)が、結果敵に世界周航を果たしたので、マゼラン隊が世界周航を果たしたと言うことになった。最も、マゼランは東ルートで過去に香料諸島に来てはいる。理論的には彼は地球を一周しているのと同じ。この段階ではまだサラゴサ条約線は存在していない。香料諸島の領有権をめぐり、ポルトガルとスペインにとっては、トルデシリャス条約線の180度裏にも線引きが必要になったのだ。どうも、今回は教皇抜きに2国間で話し合いが行われた模様。実際、線引きはしたが、フィリピンをスペインが取り、モルッカ諸島の利権はポルトガルと、後々棲み分けをしている。マゼラン隊、マゼランとエルカーノが航海したルート図※ 緑の枠内(フィリピン)、マゼランが亡くなった場所。そもそも、もしポルトガルに追われて慌てて香料諸島を出る事がなかったなら、マゼラン隊は太平洋をもと来たコースをたどって戻っていたかもしれない。そして、もし両船が太平洋航路をとっていたなら、誰もスペインに戻る事はできなかったかもしれない。ポルトガルに追われた彼らは東コースと西コースの二手に分かれて逃げた。実際、トリニダード号 (Nao Trinidad)は太平洋横断の東コースをとったが、向い風と嵐により断念して戻どった所をポルトガルに拿捕(だほ)された。実は太平洋越えのルートは往路も距離があり大変であったが、それ以上に復路が困難を極めた。赤道を南下し、マゼラン海峡に到達する必要があったが、向かい風で東に進め無かったのだ。貿易風が東から西に吹いているからね。当時は帆船だから偏西風を見つけるまで誰も横断できなかった。危険なコースとされ、マゼラン隊以降、挑戦が試みられたが太平洋を西から東に渡るのに成功するまで40年近く要した。この往路太平洋越えの開拓は1565年にアンドレス・デ・ウルダネータ(Andrés de Urdaneta)がマニラ=アカプルコ航路を確立するまで、なしえなかったのである。参考に太平洋航路を確立した(16世紀頃)のスペインとポルトガルの航路です。ポルトガル航路に長崎が入ってますね。ウィキメディアから借りたマニラ・ガレオンの航路図を合体してポルトガル航路(Portuguese Routes)とスペイン航路(Spanish Routes)に仕分けしました。マニラ・アカプルコ航路は年に1回か2回の定期船となり1565年から19世紀初頭までの250年存在。太平洋横断し、定期便を持つ頃にはスペインはNao(キャラック船)から積荷が多く積めるガレオン船(Galeón)に移行。このスペイン貿易船はマニラ・ガレオンと呼ばれている。積み荷の大半は中国産だったそうだ。因みに、ガレオン船(Galeón)は砲列を増やして戦闘に特化した戦列艦ガレアス(galleass)に発展する。ガレアス船は1571年のレパントの海戦 (Battle of Lepanto)でヴェネツィア軍により登場。勝利に貢献している。リンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦マゼラン亡き後マゼラン隊を率いたエルカーノマゼラン亡き後、マゼランの隊の旗艦の一つ、ヴィクトリア号を率いたのはバスク出身の航海士ファン・セバスティアン・エルカーノ(Juan Sebastián Elcano)(1476年 ~1526年)である。1521年12月、エルカーノ(Elcano)は香料諸島(Malacca Islands)に到達する。しかし、隣の島にポルトガルが来ていた事を知る。彼らに知られれば捕まってしまう。1522年2月? マゼラン隊は詰めるだけの香辛料を積んで逃げるように香料諸島(Malacca Islands)を出発する。先にも触れているが、来たコースを戻るべく太平洋に向かった船と、危険のあるポルトガル領域を通過してアフリカを回る二手に船は分かれた。太平洋コースに向かったトリニダード号は戻ってポルトガルに捕まった。ヴィクトリア号を率いてインド洋を横断したのがエルカーノ(Elcano)である。ピガフェッタの著によればジョアン・カルヴァッジョ以下隊員50人が島に残留。帰国の船に乗ったのは47名とインディオ13名。※ 上記、60名は、ヴィクトリア号だけ? トリニダード号については語られていない。エルカーノはポルトガルに見つからないようインド洋での寄航は一切せず一気にアフリカ南端を目指した。しかし、喜望峰を越える為に9週間洋上で? 風を待つ事になる。寒さはひどく、船も浸水していたが、近辺はポルトガル領域。どこにも寄航しない道を選び天気が恵まれるまで待った。2ヶ月食料の補給もできなかったから、この間に21人が死亡。喜望峰の座標: 南緯34度21分29秒 東経18度28分19秒船は喜望峰でも停泊せず、北上して北大西洋上のヴェルデ岬諸島(カーボ・ヴェルデ・Cape Verde)まで一気に航海。※ 南半球から赤道を越え北半球に入る為に海流の関係で一気に北上はできない。ベルデ諸島の座標: 北緯14度44分41秒 西経17度31分13秒ここでやっと寄港し、食料調達をするも、ここもポルトガル領。13人が抑留された。前帆柱が折れて修理の必要があったが、慌てて出港。食料が不足しても、船が破損しても補修ができず、船は半壊しながらかろうじてスペインに戻ったのである。(1522年9月)モルッカ諸島を出港した時点で船員は60人いた。船員はほとんどが餓死か病死。ティモール島で逃亡した者、罪を犯し処刑された者、ポルトガルに捕らえられた者も多かったが、食糧が無くて餓死した者。病気になった者はもっと多く、無事に帰国した彼らもほぼ病気になっていた。だからスペインのサンルカル(Sanlúcar)に入港した時点で居たのは18人。2日後に船は華々しくセビリアに入港。航行総距離14460レーガ(約81000km)。地球を西から東に一周した。香料諸島で積んだ積み荷は18人を豊かにした。エルカーノはカルロス王からは生涯年金と紋章を受ける。ローマ教皇にも謁見している。その後のエルカーノは2度目の香料諸島と世界一周航行? を試み、太平洋上で壊血病と栄養失調により亡くなった。彼の失敗は、彼の物語を本にしなかった事だ。彼の成功は、当時皆に知られていたが、時がたち、彼は忘れられた。アントニオ・ピガフェッタの著「最初の世界周航」マゼラン隊の船で日誌をつけていた、ヴェネツィアのアントニオ・ピガフェッタ(Antonio Pigafetta)は、帰国後に「最初の世界周航(The first voyage around the world)」について著した本を書いた。教皇の薦めで著した本はマゼラン隊の乗組員による唯一の記録である。※ マゼラン隊の記録としては、彼らの帰国後にスペイン王の秘書トランシルヴァーノがエルカーノら乗組員3名からの聞き取り調査書した「トランシルヴァーノのモルッカ諸島遠征調書」が存在する。セブ島セブ市独立広場 アントニオ・ピガフェッタのモニュメントウィキメディアからかりて周りを少しトリーミングしています。アントニオ・ピガフェッタ(Antonio Pigafetta)(1491年~1534年)ピガフェッタの記録は、日記をつけていただけあって、立ち寄った民族や土地や、言語、食べ物の事など割と細かに書かれている。彼の関心はあくまで、特別な体験や知識にあった?ピガフェッタはセブやモロッカの単語と訳を単語集としてたくさん記録し残している。それが後の言語研究に役立っている。要するに世界周航で見た世界の話と経験した事がまとめられたエッセイなのである。タイトルの「マゼランの世界周航」から期待したのは現地の風俗より、マゼラン隊がいかに海峡を越え、太平洋を越え、モルッカ諸島にたどり付き、喜望峰経由で帰って来たのか? 難航海をいかに制したか? である。航海士目線が欲しかったが彼が航海士ではなかったのでそういう目線が無い。そもそもピガフェッタは直前交渉で船に乗船させてもらった身。とは言え、遠征隊の公式記録者として登録されていたらしい。それにしても疑問なのは、マゼラン隊長に対するリスペクトは感じられるが、彼の本には最後を率いたヴィクトリア号の船長ファン・セバスティアン・エルカーノ(Juan Sebastián Elcano)の事も全く描かれていない事だ。唯一、マゼランが亡くなった後に船長に選ばれた1人として名が出てくるが、その後置き去りにされ生死不明とされている。(・_・?)はて?また、もう一人のヴィクトリア号船長のドゥアルテ・バルボーザもそこで殺されているし、彼らを見殺しにしたジョアン・カルバッチョは最終的に島に残り帰国はしなかった。その辺の事情も全く無い。では誰がその後の船長なのか? 記述がないのも不思議。何にしてもヴィクトリア号はエルカーノがいたから無事に帰国を果たせたと言って過言でない。本来は辛い航海を制した船長へのリスペクトがあってもよさそうなのに・・。意図的にエルカーノの事を消したのか?どうも忖度(そんたく)があったから、マゼランに対する反乱など敢えて濁したらしい。もっとも、エルカーノは最初にマゼランに反旗をしたメンバーの一人であったから、ピガフェッタが彼を良く思っていなかった事は明白だ。トランシルヴァーノのモルッカ諸島遠征調書カール 5 世の廷臣で、個人秘書でもあったマクシミリアン・トランシルヴァーノ(Maximilianus Transylvanus)(1485~90年~1538年)が帰国後のヴィクトリア号の生存者に航海の事、香料諸島の話、領海問題など聞き取り調査している。公式記録者なのに? ピガフェッタの日記では全く抜けている部分だ。トランシルヴァーノの調書「モルッカ諸島」初版 1523 年スペイン国として、今後どう扱って行くか。条約線をどちらかが越境していた場合は、解消しなければならない問題もある。彼はこの航海で得た情報と現実を王に報告し、国として早く世間に公表しなければならなかったらしい。彼の報告の手紙として、「モルッカ諸島(De Moluccis Insulis)」初版は 1523 年 1 月に出版された。※ ピガフェッタの著は1525年以降。※ この手紙が「トランシルヴァーノのモルッカ諸島遠征調書」らしい。これは現在ピガフェッタの「マゼラン最初の世界一周航海」(岩波文庫)に一緒に収められている。絶版本かもこの報告でピガフェッタが避けたサン・フリアン湾の反乱の事もはっきりスペインの将校と兵士の間での「恥ずべきで卑劣な陰謀」としている。また、香辛料の栽培なども詳しく紹介されているらしい。まだ完読していません因みに、トランシルヴァーノの妻は実は先に紹介した商人クリストファー・デ・ハロ(Christopher de Haro)(生没年不明)の姪であった。だからマゼランやバルボザとも親しかったのだろう。「トランシルヴァーノの調書」は埋もれた? ピガフェッタの本がマゼラン隊に関する唯一の記録? として長い事世間に知られていた。だからファン・セバスティアン・エルカーノは歴史から忘れさられ、最近になってその偉業がサルベージ(salvage)されたのである。サラゴサ条約線と教皇勅書スブリミス・デウス(Sublimis Deu)たった船一隻でもその財は大きかった。香料諸島の利権問題が勃発する。香料諸島はポルドガルのものか? スペインのものか?ポルトガル王とスペイン王の間で話し合いがもたれ、1529年4月、サラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)線が東経144度30分に敷かれた。ところでトルデシリャス条約線は西経46度37分。ポルトガルの方が広いようだが、実際には完全な線引きではなく、地域で部分部分の例外が決められていた。しかし、いずれにしてもこれはスペインとポルトガルが決めた事。確かに最初の教皇子午線はローマ教皇による裁定であったが、これから海洋に進出して来る欧州のほかの国が黙っているはずはない。また、植民地となり、奴隷とされた原住民の人権問題も考慮される時代になりローマ教皇庁も変化した?※ スブリミス・デウス(Sublimis Deu)では、アメリカ先住民は、たとえ異教徒であっても自由や私有財産の権利を持つ完全に理性的な人間であると述べている。1537年の教皇パウルス3世(Paulus III)(1468年~1549年)が公布した教皇勅書スブリミス・デウス(Sublimis Deu)によって、1493年の教皇アレクサンデル6世の教皇勅書インテル・カエテラは無効となった。つまり、スブリミス・デウス(Sublimis Deu)の公布をもって、かつての教皇子午線は無効となり、よって東方面がポルトガルの領地で、西方面がスペインの領地と言うかつての裁定も事実上消えたのである。これにより、ポルトガルとスペイン以外の国の海洋進出が始まり、世界各地に欧州の植民地の建設が開始されるのである。マゼラン隊のルート(Magellan Route) (By AuthaGraph)香辛料諸島を目指し、かつ地球を一周したコースをAuthaGraph World Map(オーサグラフ世界地図)上に載せてみてみた。フェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)(1480年~1521年)隊が成し遂げた世界周航のルート。1本で示してみた。そこにローマ教皇と取り決めしたポルトガルとスペインの権利分配のラインも書き込みました。西経46度に引かれたトルデシリャス条約(Treaty of Tordesillas)のライン東経144度に引かれたサラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)のラインスペインのテリトリー(Territory of Spain)ポルトガルのテリトリー(Portuguese territory)上のルート図を見るに、やはり太平洋の距離があるのがわかる。マゼランは食料船を失い、ただでさえ、食糧不足の中、マゼラン海峡を出た後に食料補給もせずに太平洋に入った。すぐに陸地があると読んだのだが、それは大きな間違い。大西洋航路より、インド洋横断より、はるかに距離があった。アジアまで1万km以上。食糧不足は100日も続く。壊血病など死者も多数。船員がなくなると、マゼランはすみやかに海に流した。人肉を喰らう事を避けたからだ。モルッカ諸島の利権を手放した件ところで、モルッカ諸島では島にジョアン・カルヴァッジョ以下隊員50人が島に残留した。スペインが領有権を主張する為にも残留しなければならなかったのだろう。香料諸島はスペインとポルトガル、どちらの領域か?1529年のサラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)はポルトガルとスペインの話し合いで決まった。この時点で、香料諸島は線からはずれている。最終的にスペインは、マゼラン隊が苦労して得たモルッカ諸島を安い値段でポルトガルに売り払らったのだ。しかし、代わりにポルトガル領内ではあるが、スペインはフィリピンを手に入れた。スペインが太平洋航路を見つけると、フィリピンとアメリカ大陸間の交易が始まる。スペインは香料以外の交易品を多数見つけたのである。フィリピンからではなく、中国から・・。南米最南パタゴニア、マゼラン海峡1519年9月、セビリアを出港。マゼラン一行が最初に寄港した南米大陸はリオデジャネイロ?※ 座標 : 西経43度11分47秒南緯22度54分30秒 西経46度まではポルトガルのテリトリー(領域)だったから本来はここはポルトガル領だったはず。当時の座標が正確かはさておき、かつてアメリゴ・ベスプッチ(Amerigo Vespucci)(1454年~1512年)が南米大陸東岸を南下し南緯50度まで到達している。※ 1501年~1502年、ポルトガル王の依頼で南米大陸を計測している。※ 実はアメリゴの計測結果でポルトガルはトルデシリャス条約をたてにブラジルの領土を主張した。だからアメリゴ・ベスプッチはブラジルの発見者として知られている。リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)1494年6月に締結したトルデシリャス条約(Treaty of Tordesillas)により西経46度を超えたらスペインのテリトリー。これはローマ教皇の裁定により決まった条約です。※ 後に撤回された。マゼランは密かに太平洋に抜ける航路を探していた。南緯50度まではかつてアメリゴ・ベスプッチが到達している。彼はデータを取っていたのでポルトガルには海図はあったはずだ。いずれにせよ南緯50度から先の海図は存在しなかったから、船員は海図の無い領域に進む船長に対する不信にあふれていただろう。マゼラン船団がスペインを出港したのは1519年9月。おそらく大西洋に吹く貿易風を待って横断したからかもしれない。しかし南米に到着するまでに2か月が経過していた。陸に上がらず、どんどん南下し寒さが増す中、サン・フリアン湾で反乱もおきた。逃亡する船もあらわれた。そんな中やっと抜けられる水道を発見する。それがマゼラン海峡(Strait of Magellan)と名付けられたパタゴニア(Patagonia)の海峡だ。パタゴニア(Patagonia)は現在の南アメリカ、アルゼンチンとチリの両国にまたがる南緯40度以南の地域。要するに南米大陸の最南端に位置する秘境である。上の地図はウィキメディアより借りました。諸島の中を抜けて太平洋につながる航路をマゼラン隊は見つけて欧州人としては初めて航海に成功。それは重大な発見であり、航海図に記される大発見であった。しかし、交易が盛んになってもマゼラン海峡を通過する航路は表に出ていない。マゼラン海峡を通過してアジアに行くのは非常に危険な航海となった事から、スペインは別のルートを模索し、太平洋航路を確立させた。次回、大西洋から太平洋を横断する、新たなルートの紹介です。最初に書きましたが、今回は「アジアと欧州を結ぶ交易路」のスピンオフ(spin-off) 回です。一往Back numberをいれます。Back numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal) マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2023年03月21日
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Break Time(一休み)32年前の1990年10月3日ドイツが再統一を果たした。それまでのドイツは西と東に分断され、2つのドイツが存在していた。第2次世界大戦の敗戦後、ドイツは東西に分断され、鉄のカーテンが下ろされ、行き来もできない険悪な状況に置かれていた時代があったのだ。そしてそれを最も象徴したのがドイツの首都を分断したベルリンの壁(Berlin Wall)の存在であった。今年(2022年)2月24日に開始されたロシアのウクライナ侵攻は、当時の冷戦時代に逆戻りしたような衝撃のニュースでした。ベルリンの壁の崩壊と共に冷戦にも終わりを告げ、世界は一つになりつつあると信じていたのに・・今回はその壁にまつわる話しにしました。1990年、ドイツが再統一に至れたのは、その前年1989年11月9日に東ドイツ政府が壁の撤去を公式に認めた? からだった。そもそも、壁が築かれドイツの首都だったベルリンの街が分断されたのが1961年。それから28年を経て、1989年11月9日、ようやく東西のベルリン市民は相まみえる事ができた。同じ街の中で家族も引き裂かれ、28年の月日、会うこともできなかったと言う特殊な事情がドイツには存在していたのである。壁越しにも会話もできなかったベルリン市の不幸。それをなくす事は市民の悲願であった。その出来事は世界が見守っていたからテレビで見て居た人は多かったのではないか?ベルリンの壁を破壊するベルリンの人々。世界中の人がそれを見守った。それは間違いなく重大な歴史の一編だった。※ 再びベルリンが統合後のドイツの首都に戻るのは2001年5月。パリの知人はそれを見る為にパリから車でベルリンに向かったと言う。歴史が動いた瞬間を直接見たかったそうだ。今回の写真はその翌年、統合直前の1990年夏のベルリンです。但し、この当時はまだフィルムカメラが主流の時代。そもそも東ベルリンの美術館に行くのがメインであったので、壁の写真は思ったほど撮っていなかった・・ 足りない写真はウィキメディアから借りています。ベルリンの壁(Berlin wall)とゴルバチョフそもそもドイツはなぜ分断された?何故、ベルリンの壁は建設されたのか?ベルリンの壁崩壊とゴルバチョフ書記長イーストサイドギャラリーのキスの絵が示す意味ゴルバチョフ書記長ゴルバチョフとホーネッカーベルリンの壁(Berlin wall)崩壊の真実追記、ゴルバチョフのコメントベルリン詣での戦利品正真正銘のベルリンの壁(Berlin wall)の破片です。こう見えて一つ10cm以上の大きなかけら。実はジプロックの袋2つ分の壁のかけらを購入。考えたら飛行機で持ち帰るのだ。破片と言えどコンクリートはかなり重かった。小さなかけらのほとんどは土産に配ってしまったが、大きいのは残していた。写真は現在所持している分です。下は旧東ドイツ側。資料としてフィルム写真を撮影しましたが元の写真じたいが少しボケてました。壁の近辺では壁の破片やソ連兵の帽子などいろいろ売っていた。ソ連兵の帽子も土産に購入したけど、後から購入した赤ラインの帽子にはどうも男の方が付いていたようなのでコンテナにしまい込みそれ以来出していません。目覚められると困るので出しての撮影もしませんでした。( ^ ^ ;)1990年8月の段階で壁はかなり撤去され、残った壁もこんな状態です。近年の観光スポット? イーストサイドギャラリー(East Side Gallery)はまだ無かったし、そもそもこんな状況の壁しか現存していなかったと思う。皆、観光客に壁の破片を売る為に破壊されていたし、何より市民にとっては憎むべき壁。ベルリンの壁は残らずたたき壊して捨てたかったのが本音だろう。ブランデンブルク門(Brandenburger Tor)の近く。これは東ドイツ側のベルリンから撮影。薄い壁は西側前線の物。実は東側には簡単に近づけない防護壁や干渉の鉄条網などおかれていた。ここはかつてのデス ストリップ(death strip)だった部分。下ピンク矢記が西の壁。 ウィキメディアから借りました。東側は簡単に西の壁を越えられないよう車止め、さらに障壁など張り巡らされ、監視棟がおかれていた。このデス ストリップ(death strip)ができる以前は壁を越えて亡命をはたした者が5000人ほどいたらしいが、壁の内は強化され、尚且つ東ドイツ政府は、亡命者を扱う国境警備隊に発砲命令を出していたので壁を越えようとして失敗し逮捕された者は3000人を越え、殺された者は200人を越えたらしい。※ ベルリンに壁が建設された1961年8月から1989年11月までの28年間のベルリンでの数字です。そもそもドイツはなぜ分断された?第二次世界大戦で敗戦したのは日本だけではない。日本は敗戦後にアメリカ軍の占領下に入ったが、同じ敗戦国でも、欧州のドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソビエトの4国に分割管理されたから問題が起きたのだ。東部地区はソビエト社会主義共和国連邦、北西地区は連合王国イギリス、南西地区はアメリカ、西部地区はフランス簡単に言えば東は社会主義国が、西側は資本主義国が占領統治した事からドイツ国内は思想による分断がおき、政治的分断が生まれる事になったのだ。※ 東側ドイツではソ連型の社会主義国として1949年10月ドイツ民主共和国(Deutsche Demokratische Republik; DDR)が建国された。そもそも、ソビエトにとっては一時的占領ではなく、戦利品として自分の国の一部になったという認識だったのだろう。だから北方領土も返す気が無いのでしょうね。1945年~1990年のドイツ占領下の分割図ウィキメディアから借りた図に国名だけ加えました。本来の首都ベルリンは完全にソビエト占領内。飛び地のベルリンの街がさらに4国で分割されて占領されていた。何故、ベルリンの壁は建設されたのか?首都ベルリンのみは四つの国の司令官によって管理されると言う取り決めがあった。しかし、そもそもベルリンの街自体がソビエト占領下の中に小島のように存在していたのである。つまり、ベルリンの街にはアメリカやイギリスやフランスの領事館が存在していたので、亡命の駆け込みができたのである。それでも1961年夏まではベルリン市内の東西の往来は自由であった。だが、1961年8月13日。突然ベルリンの壁の着工が始まりベルリン市内も東ドイツにより強制的に境界線(壁)がひかれて分断される事になってしまった。写真はウィキメディアから借りてきました。1961年11月20日ベルリン 壁の建設の風景壁建設のイニシアチブはソビエトの共産党中央委員会第一書記ニキータ・フルシチョフ(Nikita Khrushchev)がとっていたらしいが、Goサインを出したのは東側のトップ、ヴァルター・ウルブリヒト(Walter Ulbricht)(1893年~1973年)(ドイツ社会主義統一党 第1書記1950年~1971年)1986年ウィキメディアから借りました。ペイントのあるのが西側です。東側内はおいそれと市民が近づけないハザード(hazard)がある。一つの街中に施設された3mの壁はただの境界ではなく、国境になったのである。それは、最も越えにくい国境となって28年間存在する事になる。東西の違いはそもそも経済の基盤であるが、あまりに社会体制が違いすぎた。しかも同じドイツと言う国の中での強制的分断。突然建設されたこのコクリートの壁はドイツ人の悲劇の象徴でもあり、敗戦国ドイツの戦後はこの壁が取り払われ、統一を果たすまで続く事になる。1989 年時点のベルリンの街(西ベルリン)にめぐらされた壁と国境検問所ウィキメディァから借りて多少色を付けました。西側のドイツではいつか1つのドイツに戻る事を願っていたが、東側のドイツは強硬な社会主義者が指導者となり両国はどんどん乖離(かいり)していく。そんな中で東に組み込まれた国民は自由な西側へ亡命を続けた。その数は壁で閉じ込められるまで一日2000人が出国し、全体で200万人にのぼったと言う。※ 数字はドイツ連邦共和国大使館・総領事館のサイトから。要するに東側ドイツから「国民が逃げて行く」状態であったのだ。そこで東のトップは国民が逃げ出せないよう国民の囲い込みを考えた。それが壁と言う簡単に越せない国境線の敷設である。今も再び西欧と東欧の間に鉄のカーテンが降ろされつつあるが、実際に東西ドイツの唯一の首都であったベルリンの街は西側諸国の部分をぐるっと巨大な壁で囲った。それが西ベルリンができたわけである。突然できた壁は同じベルリン内で暮らす家族も引き裂いた。以降、東から西へはいかなるゲートでも簡単には越せなくなったのだ。1961年8月に突然ベルリンに出現した壁は第二次世界大戦後の東西冷戦の最前線となる。また同時に両国を分断した忌まわしいこの壁は東西の冷戦の象徴として存在する事になる。1959年のブランデンブルク門(brandenburg gate) 壁が建築される前ウィキメディアから 元はポストカードかも。ブランデンブルク門(brandenburg gate)からベルリンの大通りがウンター・デン・リンデン (Unter den Linden) 。写真には見えないが菩提樹の並木で有名。森鴎外の小説、舞姫に出で来る場所だ。※ 森鴎外はドイツに留学していたからね。1961年夏 ウィキメディアから借りました。ブランデンブルク門は東ドイツに完全に入っていたのですね。壁はもともといらない物。たくさんの家族を引き裂き、多くの人の命を奪った。完全に撤去して消え去るのかと思っていたが・・。最近のイーストサイドの壁画問題を見ると、当時を知らない人達が残したがっているのか? と不思議。1990年8月 壁の高さは3m。ポケ写真ばかりで使えるのがなくて・・。1990年8月のブランデンブルク門(brandenburg gate) 東ドイツ側からドイツが統合される直前に慌てて修復? 修復中だから積極的に撮っていなかったようです。( ^ ^ ;)2005年のブランデンブルク門(brandenburg gate)自前の写真です。高さ26m、横幅65.5m、奥行11m。門はアテネのアクロポリスの入り口にあったプロピュライア(Propylaea)の門を模したと言われ、時代的にも新古典様式の門である。建設は1788年から始まり1791年8月完成。門の上部には4頭馬で仕立てられたフェートン(Paeton)に乗った勝利の女神ニケがいる。ニケはギリシア神話に登場する女神。ローマ神話ではヴィクトリア(Victoria) 。この女神像は門の完成直後にナポレオン率いるフランス軍にベルリンが占領された時、持ち去られた過去がある。門は東側ドイツ領内。馬が向いている方が旧東ドイツ側だった。全体図はウィキメディアから借りました。同じく2005年が下。パリ広場と門2011年ライトアップされたブランデンブルク門(brandenburg gate)こちらもウィキメディアからかつてはこのすぐ後方に壁が立てられていた。ブランデンブルク門は今やドイツ統合の象徴。ベルリンの壁崩壊とゴルバチョフ書記長1990年11月9日、東西冷戦の落とし子「ベルリンの壁(Berlin wall)」が崩壊し、ドイツは再統一を果たした。その前年(1989年)、夏くらいから?ベルリンで東ドイツ政府に対するデモが公然と行われ、不穏な状況になっていた事がマスコミでも報道されていたから、興味津々でその行く末を見守った日本人も多かったろう。当然、その近隣諸国にとって、大戦後に分断されていた二つのドイツは問題であり、さらに首都ベルリンを東西に分断する壁の存在は懸案事項。東ドイツは、もはやドイツではなくソビエト連邦の一員となっていたが、もともと国民が望んだわけではない。そもそも社会主義の国が住みよければ問題はさほど無かったのかもしれないが、どんどん貧しくなる経済。締め付けの社会体制への不満もたまってきていた。1989年、徐々にベルリンの市民の怒りは激しさを増してきていたから、西側諸国の関心はそこに集中。実際、日本でさえベルリンでの騒ぎがニュース映像でずっと放映されていた。ベルリンの市民は命を賭けて東ドイツ政府に抵抗をこころみていたから世界が固唾を飲んで見守っていたと言う状態だった。最も、世界の人は祈るしかできなかったが・・。今なら激励のSNSくらいは発信できたろうが・・。それ以前は抵抗を試みればすぐさま銃殺されていた。東ドイツのトップがそう指示していたからだ。それでも命を賭けた彼らの必死の抵抗とアピール(暴動)は日増しに大きくなっていく。1989年夏を過ぎ、近く・・何かが動くかもしれない。世界中がその行く末を見守っていた中、まずゴルバチョフが動いた。そして東ドイツのホーネッカーの解任。混乱する東ドイツ政府。1989年11月9日最終的に壁の崩壊は、スポークスマンの誤発信が引き金で起きる事になる。1989年11月10日のブランデンブルク門(brandenburg gate) ウィキメディアから借りました。最初に壁によじ登って破壊を始めた若者。東の警備も発砲はしなかった。少なくとも政府のスポークスマンは東ドイツ国民の旅行の自由化を認めた。※ 亡命を恐れた政府はおいそれと市民を旅にも行かせなかったからだ。今すぐにでも国境ゲートから東西が出入りできると言われ人々が集まった。東ドイツ政府は壁の撤去に関しては全く触れていなかったが、壁の崩壊が自然と始まってしまったと言う事らしい。1990年8月の時点でのベルリンの壁(Berlin wall)1年を待たずして壁の破壊はかなり進んでいたし、撤去も進んでいた。完璧な壁などすでになかったろう。東ドイツ政府が方針転換したのは、彼らの取りまく世相(東欧の状況)が変わった事が大きい。何よりソビエトの共産党書記長にミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフ(Mikhail Sergeevich Gorbachev)(1931年~ 2022年8月30日)(書記長:1985年~1991年)が就任したからだ。壁の破片とソ連兵の帽子を購入したオマケにいただいたゴルバチョフ書記長のポートレートA4より少し大きい。たぶん東の方はこれを額に入れて飾っていたのでは? と思われる。彼は壁の取り壊しに貢献してくれた人物。当時、英国の首相であったマーガレット・サッチャー(Margaret Hilda Thatcher)(1925年~2013年)は「東に話しの解る男が現れた」とアメリカ大統領に彼との会談を勧めたと聞いたが、実際、ゴルバチョフはその後のベルリンの壁崩壊や東西冷戦終結に至る過程で重要な役割を果たした人物なのである。東側の変化はロシアの変化(ゴルバチョフが書記長となった事)に影響されたのである。イーストサイドギャラリーのキスの絵が示す意味後に描かれるイーストサイドギャラリー(East Side Gallery)の有名な壁絵に「ブレジネフとホーネッカーのキス」or「兄弟のキス」なる奇妙な絵がある。それは冷戦時代の東ドイツとソビエトの当時の関係を象徴する絵でもあった。※ レオニード・ブレジネフ(Leonid Brezhnev)(1906年~1982年)はソ連共産党中央委員会書記長を1964年から彼が死去する1982年まで務めた人。筋金入りのスターリン主義者。※ エーリッヒ・ホーネッカー(Erich Honecker)(1912年~1994年)ドイツ社会主義統一党書記長(1971年~1989年)東ドイツの旧体制を象徴する人物。1990年、イーストサイドギャラリー(East Side Gallery)初期の作品。 ウィキメディアから現在のギャラリーの壁画は2009年、ベルリンの壁崩壊20周年を記念して書き換えられている。そもそもそれは1979年ドイツ民主共和国30周年を祝う会で実際に2人がキスした時の写真を元にロシアの画家ドミトリー・ヴルーベリ(Dmitri Vrubel)(1960年~2022年)が描いたもの。これ自体で当時の東ドイツとソビエトの関係が一目で解るもの。実際抱擁の1979年10月、東ドイツとソビエトは10ヶ年の相互支援協定を調印している。ところで、サブタイトルに「My God, Help Me to Survive This Deadly Love(神よ、この恐ろしい愛から生き延びさせてください)」とある。これをどう解釈するのか? ドミトリー・ヴルーベリがこれを描いた意味が解らなくなった。単純に彼がソビエトとズブズブの当時の東ドイツ体制を描いたものか?あるいは体制には意味はなく、ある意味キス魔のブレジネフの熱いキスを揶揄(やゆ)したものか?ソ連の首脳たちは同志たちと熱く抱擁し、キスを交わす事が慣習としてあった事からその行為は「同士(兄弟)のキス」と呼ばれたらしい。右頬、左頬、そして口に・・。特にブレジネフがトリプルキスをする時は特別だったらしい。でも内心おじさん(ブレジネフ)とキスをしたくない政治家は多かったらしいけど・・。最もキスが主体であるなら、この絵はイーストサイドギャラリーの絵としてふさわしくはない。ゴルバチョフの顔を描いた方が良いかもしれない。いずれにせよ、ソビエト占領下の東側ドイツはソビエトのスターリン主義の体制下に組み込まれていた。しかし、スターリン主義は失敗だった。1970年代後半から始まったソビエト経済の停滞。スターリンの大規模な工業化政策では産業経済は国家が管理する物。自営農民もいなくなった。国家が管理し、給与をもらうようになると皆仕事をがんばらなくなるのである。してもしなくても給与は一緒だからである。やる気の無い人たちでは当然生産性は落ちる。ゴルバチョフ書記長ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフ(Mikhail Sergeevich Gorbachev)(1931年~ 2022年)ゴルバチョフは非スターリン時代に政治家になった。彼自身はマルクス・レーニン主義だったらしいが、1989年から1990年にかけて、東欧諸国がマルクス・レーニン主義の統治を放棄した際、ゴルバチョフは軍事的な介入を断念。自身も1990年代初頭には社会民主主義に移行している。ゴルバチョフが素晴らしい所は、失敗の見直しをし、正すべく道の修正をしている事だ。ゴルバチョフは、社会主義の理想にこだわりながら国の立て直しに尽力した。彼は今までの政治経済の状態ではダメだと反省し、積極的に改革を行っていく。1986年のチェルノブイリ原発事故以降は国の金銭的負担も増大したからかもしれないが、結果的にアフガン紛争(1978年~1989年)から撤退する。アメリカ大統領ロナルド・レーガンとの首脳会談を4回行い核兵器の制限と冷戦の終結に務めた。1985年11月 ジュネーヴ(Genève)1986年10月 レイキャビク(Reykjavík)1987年12月 ワシントンD.C.(Washington, D.C.)1988年6月 モスクワ(Moscow)主な議題はいずれも軍縮と東ヨーロッパ問題。今までのソビエトの書記長とは望んでもできなかった話しができた事だけでも快挙。サッチャー女史が言ったようにゴルバチョフは話しの通じる相手であった。レーガン大統領はゴルバチョフと親密な関係を構築。腹を割って会話ができるくらい気心知れる盟友になれたと言った。国内問題でもゴルバチョフは大きな改革を行って行く。ペレストロイカ(perestroika)の重要な一環として展開された情報政策言論・報道の自由を認めるグラスノスチ(glasnost)など国内での大規模改革も急速に断行。一連の改革はソビエトを改革し民主化をもたらす事になる。レーガン大統領はゴルバチョフの命を真剣に心配したと伝えられている。1991年、マルクス・レーニン主義の強硬派によりクーデターも起きているし・・。実際、ゴルバチョフの政策は、最終的にはソビエト連邦の解体を進める事になったからだ。※ 民主化の過程で情報公開,グラスノスチ(glasnost)を積極的に行っていった結果、ソビエトの国民の中に反共産党を産み出してしまった。ゴルバチョフとホーネッカー話しをベルリンに戻して・・。ゴルバチョフが書記長となり、ソビエトが方針を変えても東ドイツのホーネッカーは相変わらず強硬路線のマルクス・レーニン主義者としての姿勢を崩さなかった。ホーネッカーは「社会主義はいつの日にか西側のドアを叩くことになる」とまで発言している。だが、東欧革命が始まったことにより、東欧革命の波は東ドイツにも及ぶ。ハンガリーやチェコスロバキア経由で国民は再び逃げ出し始めていた。するとホーネッカーは東西国境に対人地雷を拡充し、かつ逃亡者の射殺令を強く出して国民の流出を阻止している。この後に及んでも聞く耳持たず、現実を認めない男にあきれたのはゴルバチョフも同じだった。1989年10月7日、建国40周年記念式典の出席でゴルバチョフは東ドイツを訪問。その会談でも楽観的に話すホーネッカーに対し改革か引退か? ゴルバチョフが引導を渡したのである。かつてブレジネフとホーネッカーはキスを交わしたが、ゴルバチョフは彼とのキスを拒否したと言う事だ。ゴルバチョフは幹部らに早く退陣させるよう促しさっさと帰国。10月18日、党の中央委員会でホーネッカーは正式に退任させられた。ゴルバチョフがいなければ東西ドイツは未だ分かれたままだった可能性すらあったわけで、彼は統一ドイツの功労者だったのである。ベルリンの壁(Berlin wall)崩壊の真実先に、1989年11月9日に東ドイツ政府が壁の撤去を公式に認めたから、直後から壁の崩壊が始まったと書いたが・・。本当は東ドイツ政府は「外国への旅行の自由化の政令が決議された事を踏まえ、旅券発行の大幅な規制緩和がなされる事」を10日に国民に通達する予定だったらしい。つまり壁の撤去など全く考えてもいなかった。ところが書記長であり、党のスポークスマンであるギュンター・シャボフスキー(Günter Schabowski)(1929年~2015年)が内容を熟知していなくて勘違いによる誤発信報道を行ってしまった。「ベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」また、政令の発効期日についても「直ちに発効する」「遅滞なく」と発言してしまった。これが引き金となり、東ベルリン市民が東西ベルリンの境に設けられた検問所に殺到。また、若者らが一部壁を壊して、また穴を開けて東西のベルリンを繋げた。当然のように以降壁の破壊は進み、ベルリンの壁崩壊となるのである。語彙によりニュアンス(nuance)も変わる。発表後、当の本人も幹部等も、壁が撤去されて行くなど考えてもいなかったろう。だから彼らもきっと、若者らが壁を破壊していく様を唖然(あぜん)と見ていたのかもしれない。もう、誰も止められないし、取り返しがつかない状況だったのは確かだったからね。1945年5月ナチス・ドイツ第二次世界大戦で敗北1945年7月のポツダム会談で米ソ英仏の4カ国による分割統治が決定。1949年10月ドイツ民主共和国(東ドイツ)建国1961年8月ベルリンの壁建設1989年11月9日 東ドイツ政府の誤発信報道→壁の崩壊1990年10月3日ドイツ再統一悪名高かったベルリンの壁はこうして歴史に名を残したのである。因みに、現在イーストサイドギャラリー(East Side Gallery)として残された壁にアーティストが絵を描いた壁が残っている。壁の崩壊後、1990年以降に一部壁を修繕して敢えて描かれたもので、壁崩壊以前からあった絵ではないはずだ。その壁は2005年の段階では確かに道路につらなっていた。2005年シュプレー川に近接したミューレン通りに残っていた壁。バスの中から撮影しているので窓に映り込みが入っています。観光客が訪れる観光スポットとなっていた。当初はアーティストが描いたと言うより一般の人のラクガキに近かったのでは?広告のようなものも在るし・・。2009年の時点で移動させた?先にも書いたが現在のギャラリーの壁画は2009年、ベルリンの壁崩壊20周年を記念して修復して書き直されたものである。200万ユーロをかけた壁そのものの修復から行われた。穴を埋め、蒸気を当てて塗料を取り除いた後、元絵のアーティストが前と同じ絵を描いたと言う。最も100人以上のうち、8人は過去作品の複製を拒否。現在の壁のギャラリー この写真のみウィキメディアから借りました。2013年には、高級ホテル建設のため、壁の23m分にあたる3つの壁画が開発業者によって取り壊されて問題になったらしい。壊して撤去した事を怒った人達がいるそうだ。負の歴史を残す貴重な観光地の壁絵と言う事だかららしいが・・。そもそも壁はベルリン市民に辛い思いをさせた憎むべき壁だった。ミューレン通りの壁は、とりあえず残されていただけで、いずれは撤去されるはずだったのでは?絵も、そもそもベルリンの壁が崩壊する前から描かれていたものではないはずだ。※ ベルリンの壁崩壊後は壁の表層面は削りとられてお土産になっていたからだ。絵付きの壁の破片は当然人気。時がたつと、表層面は売り切れるから、どこのコンクリートかわからないコンクリのクズまで売られていた。2009年以降に、そもそもあまり関係の無いアーティストが描いたものでは?同じ絵を描いて残す意味も無いし、まして壁はほぼ元のコンクリートの壁ではないはずだ。1990年8月の時点で壁はすでにボロボロ鉄筋むき出しだったのだから・・。そもそも絵が描かれたのも、西側の壁面だけ。壁を上れず撃たれて落ちて死んだ者もたくさんいる。家族を失った当事者からしたらそんな壁は消し去りたい物なのではないか?もともとあってはいけない壁だったのだから、それを負の歴史として残したいと言うのは逆にエゴなのではないか? と思ってしまう・・。残すなら少しで良い。絵もいらない。彼らが受けた悲劇を考えるなら、破片と言う残骸くらいがちょうどいい・・。追記、ゴルバチョフのコメント2019年10月31日(ロイター/Hannibal Hanschke)1989年11月9日のベルリンの壁の崩壊から30年を迎えるにあたり、ゴルバチョフ元ソ連大統領がコメントを出している。ロシアと西側諸国の間に物理的な壁や目に見えない壁を新たに生み出すべきではない。東西の違いに形を与えるべきではないと強調したと言う。彼は現在の状況がどれだけ危険であったとしても、冷戦の再来ではない。とコメントしていたのだ。が、2022年2月から始まったウクライナの現状はそれを完全否定してしまった。ゴルバチョフ元ソ連大統領は今年(2022年)8月に亡くなった。彼はきっと今の現状を残念に思ったに違いない。そしてこれからロシアが向かう世界を危惧しているに違いない。おわり
2022年11月08日
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Back numberの追加をしました。さて、今回も大航海時代の新大陸からです。内容盛り沢山です。コロンブスが「西インド諸島を発見、到達。黄金を見付けた。」と報を受けると17隻の大艦隊が組織され、1493年9月、大量のスペイン人が西インド諸島に向かった。(コロンブス2回目の航海)エスパニョラ島にはイザベラ女王の名を冠した植民都市が建設される。コロンブスは最初の約束により、それら発見された島々や陸地の福王にして総督に就任する事になる。だが、前回「コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)」ですでに触れたが、彼は統治に専念せず、アジアの探検に向かう。正確には彼はジパングにたどり付いたと思っていたので中国や東南アジアを探しに探検を続けたのである。彼がエスパニョラ島から離れている間に島では大混乱が始まった。それは最終的には収集のつかない武力闘争に発展し事態を収拾できなかった。それ故、福王のはずのコロンブスはエスパニョラ島から切り離される結果になる。(今後の島への立ち寄りさえも禁止)そもそも17隻の艦隊で西インド諸島にやってきた後続の彼らはコロンブスの黄金の発見を知り、自ら黄金を獲得しようと乗り込んできたトレジャーハンター(Treasure hunter)ばかり。植民地としての街を造りに来た者はそもそもいたか?自分が、自分が、と黄金探しに目の色変えた輩(やから)が原住民と争い殺し合いに発展する。それにしてもコロンブスはこうした事態を全く予測していなかったのか? 最もコロンブスが先頭だって統治に専念したところで、結果は同じだったかもしれないが・・。新大陸に渡ってきた者は皆、欲にまみれていた。人を出し抜いて成功者に成り上がりたい者ばかり。コロンブスを出し抜きたい者は彼の悪口を本国に告げた。コロンブスばかりではない、後に隊を率いる長も部下の先走り(略奪)には苦労していたようだ。コロンブスがエスパニョラ島で黄金を見付けてから20年はまさにゴールドラッシュ(gold rush)の様相。新地に追随する者は皆、一攫千金を狙ってカリブ海での黄金探しに夢中になっていたそうだ。だが、そもそも西インド諸島で採掘出来た金の量はそんなに多く無かった? 枯渇(こかつ)した? 彼らは対岸の大陸に目を向け新たな産地を求める事になる。そして彼らが最初に侵略したのは南北大陸を繋ぐメソアメリカ(Mesoamerica)。ところが、大陸にはすでに原住民族がいた。身なりは西欧にこそ劣るが、マヤ文明は天体観測から導かれる暦の計算においては西欧より正確だった。※ グレゴリオ暦より1000年早く出現。そんな文明を持った彼らを武力で脅し、金鉱を見付けるよりも手っ取り早く金品を奪い黄金を手にする。※ 原住民を脅して奪い盗った金の装飾品は溶かされ、本国スペインに運ばれたのだ。スペイン語でコンキスタドール(Conquistador)とは、征服者とか侵略者の意味がある。無礼で非礼で残忍なスペイン人侵略者らに付けられた呼び名です。今回はアメリカ大陸に存在していた文明と、侵略者との関係を少々触れます。欧州との関わりはなかったがアメリカ大陸には先史文明が存在していた。独自に発達したその文明はかなり高度なものだった事がわかってきている。尚、今回自前のメキシコの写真がカメラ時代の物で使え無かったので、メキシコ編はほぼウィキメディアから借りています。自前の写真はペルーが中心です。※ メキシコは直行便が無くなったので日本からのツアーは近年減りました。飛行機の直行便があるか? ないか? で旅行の行き先人気は変わるのです。アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)目的が異なった2つの国ポルトガル(Portugal)スペイン(Spain)新大陸に来たスペイン人の功罪(疫病)メソアメリカ(Mesoamerica)の文明マヤ文明(Maya)ティカル(Tikal)チチェン・イッツァ(Chichén Itzá)ウシュマル (Uxmal)テオティワカン文明(Teotihuacan)とマヤの衰退征服者・コンキスタドール(Conquistador)の侵略と功罪黄金郷(エル・ドラード・El Dorado)の噂の発端セビリア大聖堂(Cathedral of Seville)の黄金製品トレド大聖堂(Catedral de Toledo)の黄金製品バルボア・ピサロ・コルテス生贄(いけにえ)問題失われたマヤ文字インカ帝国とマチュピチュインカの技術12角の石マチュ・ピチュ(Machu Picchu)ワイナ・ピチュ(Huayna Picchu)山からのマチュピチュインカ道(Inca Road)目的が異なった2つの国前々回の「アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史」から考察したのは、そもそも大航海時代を迎えるに至った最初の要因が、欧州では生育しない香辛料・スパイス ハーブ(spice herbs)を求めた結果だからである。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史ポルトガル(Portugal)最初に大海洋に進出したのはポルトガル(Portugal)。※ ポルトガルの海洋進出については「アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガル」で紹介。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルよくよく考えれば、ポルトガルの海洋進出は金銭的バックにいたジェノバ の商人の指示だったのでは? と推測できる。もともと国土の拡大のできないポルトガルにとって、未知の土地への植民と商売は生き残りを賭けた戦いであったからそれは必然だったと言える。実際、彼らはアフリカの各地で商取引もしたし、インド洋を目指す過程で大西洋上のカナリア諸島(Canarias Island)、マデイラ諸島(Madeira Islands)、アゾレス諸島(Azores Islands)を領有し植民地としてサトウキビなどの生産を初めている。だが、喜望峰を回り、インドに到達しても、ポルトガルは強引な植民政策は行っていない。ポルトガルは国家の為になる商取引を願ってインド洋を目指していたからだ。ポルトガルは海洋航海におけるシステムがすでにできていたから船長他、船員も国家公務員のようなもの? スペインのような欲にまみれた個人はいなかったと思われる。スペイン側と比べるまでもなく、彼らの海洋進出は国家主導の真っ当な国家戦略だった。※ ただ、ポルトガルは植民地開発においては現地で調達した奴隷が早くから使われていた。国内の人口不足が要因でもあったが・・。スペイン(Spain)一方、スペインはレコンキスタ(Reconquista)が完了するまで時間がかかったし、その為にお金もなかった。でも、ポルトガルには負けたく無かったから、イザベラ女王はコロンブスと契約した。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスそこにはポルトガルのように商売と言う観点は最初から無かったのだろう。※ 支援した商人にはあったが、スペイン王室にはほとんど無かった?建て前にはキリスト教の布教もあるにはあったが、コロンブスがあわよくば黄金の国ジパングを見付けて、さらに香辛料貿易に参入できれば万々歳と思ったのでは?コロンブスも、冒険が成功した暁には黄金が手に入るし、あわよくば黄金の国の統治者にでもなれると言う夢? も少なからずあったろう。また、付随して香辛料諸島を見付けられれば支援者へ借金も恩も返せると思った? はずだ。当時、欧州側はイスラム経由で香油やスパイスハーブを高額(彼らの言い値)で購入していたからねView of Habana 1650~70年17世紀 カリブ海、西インド諸島(West Indies)に浮かぶ現キューバ共和国(República de Cuba)の首都ハバナ(Habana)港の眺め海図の本「Eary Sea Charts」からSea chart of The West Indies and Atlntic Ocean1625~30年 1685~90年下は部分(カリブ海)Sea chart of The West Indies and Atlntic Ocean1625~30年 1685~90年海図の本「Eary Sea Charts」からそもそも、前回「コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)」の中「コロンブス(Columbus)の野望」でもすでに触れたが、コロンブスの本当の狙いは、実は憧れのジパングを発見して到達する事にのみあったのでは? と思う。※ 「東方見聞録」は当時の船乗り? 冒険者? らの憧れの書物(Bible)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)しかし、女王へのプレゼンはもうけ話をメインにした話しであったろう。ロマンの話しでは女王の気はひけない。ポルトガルを出し抜けるかも・・とも言ったかもしれない。出航前にコロンブスはスペイン国王と利益の分配について契約書をかわしている。実際スペイン王室は航海の許可は出したが、資金は出していない。王室が負うリスクは何も無かった。冒険の資金はコロンブスの支援者が調達したし、コロンブス以降の新参者らも、探検の旅費は自前で調達とされた。にもかかわらず、何れの場合も発見された土地はスペインに帰属する事になっていたからねだからコロンブス以降の入植者は最初からトレジャーハントが目的の野心家集団が集まった。かりにトップが紳士的に振る舞おうとも、トップの言う事も聞かずに暴走するならず者が多いから過激な侵略になって行った? のかもしれない。そもそも、それなりの利益を約束しなければ人(部下)は集められなかったようだ。大航海時代の最初の覇者(はしゃ)、ポルトガル国とスペイン国は一見同じように見えて、実は目的も行動も全く異なっていた。と言うのは理解しておかなければいけない部分だろう。少なくとも、商品と商売相手を見付ける為に地道に船を進めてルートを開拓したポルトガルは正統派だったと言える。新大陸に来たスペイン人の功罪(疫病)コロンブス以降、1495年4月、スペイン王室は西方への探検航海を希望する者は届けで制で、かつ厳重な審査を通った者のみに許可を与えると言う勅令を発表したらしい。※ 但し探検費用は自分持ち。この時点でまだコロンブスは2回目の航海中。本来はコロンブスのみに与えられていた権利? この勅令に権利の侵害だと怒ったらしいが・・。王室は、勝手に黄金探しをしだした現地の輩にある意味釘を刺した勅令だったのではないか? と思う。基本、コロンブスの探検により発見した新地の開発権利はスペイン帝国が有する。帝国に上がり(利益の5分の1)があるのだから、かっては許さない・・と言う意味もある。※ 因みにスペイン帝国の新大陸の航海事業は後にも先にも、カステーリャ王国の独占であった。この勅令以後、王室の指示で5つの調査隊が南米北岸を探索していてこの中の一隻にアメリゴも入っていた事は「コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)」の中で紹介している。リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)この調査隊ではコロンブスが発見した真珠の産地の調査を含む南米北岸の地理調査がメインであったと思うが、その後、多くの船がカリブ海に渡来する。そして真珠の争奪で現地住民の社会を荒廃させる事になる。また、大量のスペイン人の増加は別の問題を引き起こしたと言う。カリブ海の諸島での金の採掘に奴隷として使役していた現地住民が次々疫病で倒れたのだ。それが始まりである。ウイルス性の風邪菌やインフルエンザ、風疹だって耐性の無い彼らには即命取りになる。今まで新大陸にはなかった病気が欧州より持ち込まれ、多くの感染者や患者を発生させるパンデミック(pandemic)が現地で起きたのである。耐性のあるスペイン人に被害はさほど出なかったが、彼らの船に奴隷として乗船していたアフリカの奴隷らがすでに船で感染。※ 当時、天然痘はムーア人によってアフリカから持ち込まれ、スペイン(欧州)で流行していたらしい。最初に入植したエスパニョラ島でも1505年に黒人奴隷が大量投入されている。元の島民が減少、替わる人材の補充だったと思われる。そして以降コルテスやピサロが内陸に進み侵略する中で、病気は内陸部にまで拡大、蔓延する事になる。天然痘の犠牲者を描いた 16 世紀のアステカの絵ウィキメディアから借りてきました。コロンブス以降、およそ150年でメソアメリカ(Mesoamerica)の先住民族は、麻疹、天然痘、インフルエンザを含むウイルスにより人口の80%が減少したと言われる。突然現れたスペイン人の侵略者が武力で彼らの持ち物を奪い。かつ、彼らの持ち込んだ疫病(天然痘)が現地部族の命を大量に奪った。滅亡の直接原因は、疫病のパンデミックだったのである。そもそもコルテスの軍隊がアステカを破りメキシコ征服できたのは天然痘の蔓延のおかげだとさえ言われている。つまりアステカもインカ帝国の滅亡もその要因の一つが天然痘の蔓延だった。病気と言う災いがアメリカ大陸に運ばれた事により、原住民族は戦わずして命を落とし、入れ替わるように欧州人らが住み着いた。新大陸にあった先住の文明はそうして滅びに至ったのである。メソアメリカ(Mesoamerica)の文明コンキスタドールが最初にめざしたのはメソアメリカ(Mesoamerica)薄いパープルで色つけました。現在の国名をブルーで示しました。メソアメリカで定住農村落が形成されるのはBC2000年頃?都市と呼べる社会が形成されるのはBC1250頃? オルメカ文明(Olmeca)はタバスコ川周辺から始まったようだ。※ 「オル」とはゴムの意で、天然ゴムの産地であった事からオルメカ(Olmeca)とはゴムの国の人々と言う意味らしい。オルメカではすでにゼロの概念を持っていたといい、数学や暦のシステムがすでに存在していたらしい。熱帯で雨量は多く川はよく氾濫したが逆に肥沃ではあったからメソアメリカでは全域でトウモロコシ農耕が始まり定住が確立して行く。またオルメカ文明は象形文字を持ち、神殿と言う文化を持ち、生け贄を捧げると言う儀式を持っていた。BC3世紀~AD16世紀、メキシコ南東部や、グアテマラ、北はユカタン半島方面へとメソアメリカに現れたマヤ文明(Maya)はタバスコ川を中心に発展したオルメカ文明(Olmeca)から継承されているらしい。マヤ文明(Maya)遺跡マップ ユカタン半島ウィキメディアから借りてわかりやすさの為に着色しました下はマヤ(Maya)の遺跡の中でも有名な所を3ヶ所、時代の古い順に載せました。マヤの神殿はエジプトのピラミッドとは似て非なる石積みです。時代で造りの違い? 技術の違い? 一目です。安定を求めると四角錐になるのかな?ティカル(Tikal) 形成期~古典期グアテマラのペテン低地3世紀~10世紀頃ごろ繁栄今はティカル国立公園 (Tikal National Park)となっているティカル(Tikal)の遺跡は広域で4000の建築物が数えられると言う。 写真はウィキメディアから借りました高さ51m。9層の神殿上部入口にジャガーの彫刻が発見された事からこの1号神殿には大ジャガーの神殿の名もある。8世紀頃の建築。神殿下部には26代アフ・ササウ王(在位:682~723年)と思われる墓と装飾品が見つかっている。この1号神殿は間違いなく王墓。幾つかあるピラミッド型の神殿? 王の偉業を示すものだった?ティカルの王朝は29代目で終わる。1525年、エルナン・コルテスはティカル(Tikal)をスルーしているらしい。チチェン・イッツァ(Chichén Itzá) 古典期後期~後古典期前半メキシコ南部のユカタン半島の密林中。9世紀~13世紀頃ごろ繁栄 ウィキメディアから借りた写真です。高さ24mスペイン語で城塞の意を持つ通称「カスティーヨ(Castillo)」別名「ククルカンのピラミッド」、「ククルカンの神殿」。神殿にはジャガーの玉座や生贄台チャクモール(Chacmool)が置かれている。メキシコ国立人類学博物館所蔵のチチェン・イッツァのチャクモール像 写真はウィキメディアからかりました。生け贄の心臓を太陽へ捧げたと言う。ウシュマル (Uxmal) 古典期後期~後古典期チチェン・イッツァ(Chichén Itzá)に程近いユカタン半島8世紀~12世紀頃この遺跡の多くの建物は建築された? ウィキメディアから借りた写真です高さ36.5m。73m × 36.5m。 このピラミッドは四角錐ではなく、底辺は楕円形に近い形。118段の階段を持つ。ウィキメディアから借りた写真ですウシュマル (Uxmal) はユカタン西部でもっとも強力な都市。チチェン・イッツアと同盟を結んで北部ユカタン全域を支配していたと言う。テオティワカン文明(Teotihuacan)とマヤの衰退先に紹介したマヤのピラミッドや神殿都市は、実はテオティワカン文明(Teotihuacan)の影響を受けたものだと言う。現メキシコ東北部。メキシコ中央高原。BC5~8世紀頃アメリカ大陸最大規模の宗教都市遺跡テオティワカンはマヤ世界の中心として栄えていた。テオティワカンの最盛期は5世紀頃で人口は20万人と言う巨大都市。それは古代のペルセポリスのような都市だった? 街は非常に宗教的意味あいを持った造りになっている。テオティワカン写真、全てウィキメディアから借りた写真です。下は月のピラミッド」からの眺望テオティワカンMAP ラテンアメリカ博物館のマップに方位のみ追加しました。南北に40mの死者の大通りを軸に東に太陽のピラミッド(62m)。西に農業の神殿。北に月のピラミッド(42m)。南に城塞や宮殿が配置された計画都市。月のピラミッドから正面に死者の大通りと太陽のピラミッド太陽のピラミッドからの月のピラミッド 月のピラミッド 42m太陽のピラミッド 62m底辺はエジプトのピラミッド・サイズに近い(225m)が、高さ62mはエジプトの半分以下。※ クフ王のピラミッドは高さ138.74m。底辺一辺の長さは230.26m~230.44m。こちらも墳墓である。手前の台形に近い物は積み上げ途中の墳墓と思われる。こちらの場合、上に上にと遺骸を積み上げて行く形で造成されてるようだ。最終的にピラミッド型になるのかな?因みにエジプトではピラミッドは面が東西南北がきっちりしていて、東から西は太陽の道。南北方向はナイル川への道を表しているらしい。このテオティワカンでも太陽は東から西に。死者の道が南北となっている。何となくエジプトのピラミッドを知っていた人間がいたのでは? と言う気がしてしまう。実はテオティワカン(Teotihuacan)の名さえ、真実ではない。ほとんどが謎のこの遺跡は、便宜的に名がつけられている。この巨大な都市は突然衰退して消えた。その理由も定かではない。人口増加からの食糧難。農地開発の為の大規模森林伐採による弊害(水害)か?出土する遺骸から飢餓状態だった事がわかると言う。都市の人口増加→食糧不足 との考察が生まれたのだろう。7世紀に入ると急激に衰退したと言う。そしてここに影響を受けた他のマヤ都市も、ほぼ8世紀頃には衰退している。しかし、人は動物とは異なる。人が増加しても環境収容力を超えると人口増加にはブレーキがかかり個体数は減少へ転じる。ロジスティック方程式(logistic equation)では環境収容力まで減少はするがそこで収束。だから減少に転じた人口も滅びに至るまで減少する事はないはずなのだ。ここでふと思い出した。以前、「アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)」の冒頭で、ローマ帝国の衰退がパンデミックと地震に加えて、新たに気候の低下があげられたのではないか? と言う推察をした。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)北海及び地中海でも起きていた蛮族の海賊行為。これは人口増加ではなく、地球のかなり広範囲に気象の問題による食糧不足が起きていたのではないか? と言う考察だ。まさにマヤの衰退と同時期。北海及び地中海だけでなく、大西洋を越えたアメリカ大陸でも同じ事態が起きていた。と考えても良いのかもしれない。マヤの人が皆死に絶えたとは思えない。急速な気候低下が起きて今までの作物が育たなくなった可能性がある。つまりこの土地に環境収容力が低下? いや、全く無くなったのかもしれない。だから原住民はここを捨てた?ここでも民族の大移動が起きたのではないか? と考えられるのだ。もう一つ仮説が立てられる。メキシコは日本と同様に環太平洋造山帯の上にスッポリ乗っている。と、同時に環太平洋火山帯とほぼ一致。そして日本のようにすぐ沿岸には海溝(Middle America trench)が沿って存在。テオティワカン(Teotihuacan)をピンクで示しました。つまり地震の多発地帯なのである。テオティワカン文明(Teotihuacan)が栄えていた頃もかなり頻発した地震はあったはず。それらも影響しているのかな?滅亡理由は、どうも複合的要因の結果なのかもしれないね。征服者・コンキスタドール(Conquistador)の侵略と功罪カリブ海での金の争奪は冒頭触れたが20年は続く。そして金が枯渇し始めると、彼らは新たな探検を望むようになり、内地に進んで行く。だが探検資金は自前であるから、誰もが単独で向かったわけではない。またスペイン王室の許可制であるので、誰もが許可をとれたわけではない。探検隊のリーダーとなる者、資金を提供する者、おこぼれをもらう為に同行する乗船者。すでに人を出し抜いての駆け引きも、争いも、裏切りも多数。正直、知れば知るほど、新地への開拓がサバイバル的であった事が解る。己の欲がどんな困難も乗り越え死闘を繰り返した。特にスペイン人侵略者の残酷極まり無かった事が解る。古代アメリカ大陸の文明の時代が解りやすい資料を本から持ってきました。時代の前後は資料で異なるようです。また、多少付け加えていますアステカ文化の下には 1521年滅亡 征服者エルナン・コルテスインカ文化の下には 1533年滅亡 征服者フランシスコ・ピサロ それぞれ征服者の名と滅亡年も入れました。古代アメリカ大陸では、スペイン人が中米の海に到達する15世末まで欧州との接点はなかったので、その文明も独自路線での発展。にも係わらず天体観測から暦に関しては欧州を上回る高度な文明も持っていた。しかし、彼らには鉄器の使用がなく、また彼らは西欧人のような衣服は着てなかった(ほぼ裸?)スペイン人等は彼らを原始的な者としてかなり見下していたのだろうと思われる。※ 前回紹介した1518年~1519年に書かれたSouth Atlantic(南大西洋) Homem and Reinel`s portolano of Brazil の地図内に彼らの絵図がある。リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)スペイン人は、探検調査と称し、実は金探しの為に内陸に侵入していく。彼らは武力で先住民に迫る。彼らをおどす為に多数の砲台を備えたガレオン船(Galleon)も利用した。※ スペインが開発したガレオン船(Galleon)は大量の砲台を配備できる海上輸送船。商船兼護送軍船と言う目的ではあるが、見た者を圧倒させ砲台が並ぶ500〜600トンの船。ガレオン船は後に戦闘を目的にした戦列艦に発展する。黄金郷(エル・ドラード・El Dorado)の噂の発端1500年、コロンビアからパナマにかけて沿岸航行したおりに、この地方には冶金(やきん)の技術を持った民族が多数いて黄金製品を造っていた事から、金が採れる? 黄金帝国があるのでは? とスペイン人は勘違いしたらしい。しかし実際は、冶金術はもっと南方のペルーやボリビアから伝播された技術だった。黄金の装飾品を身に着ける文化も実は南方の文化。黄金の装飾品が北に伝播すると北アンデスやパナマ方面の各部族の首長らもまねてそれらを身に付けるようになる。と同時にそれら黄金の加工技術も伝播したのだろう。また、彼ら原住民は自ら装身具を着けるだけでなく、首長や貴族の墓には副葬品(ふくそうひん)として黄金の装飾品を埋めると言う文化も持っていた。スペイン人はそれも聞き知った?そう言う事だから、そもそもコロンビアからパナマで金が産出されていたわけではなく、ペルーのような黄金文化を持つ帝国はそのあたりには無ったのが真実。でもスペイン人は国を挙げて黄金の捜索にやってきたのだ。スペイン人らが黄金郷(エル・ドラード・El Dorado)を求め、多数の部隊を引きつ連れてスペイン政府公認のもと繰りだしたのはそんな勘違いから始まっている。しかもスペイン人は彼らの墳墓まで荒らして彼らの黄金を奪おうとした。バルボアの探検隊もその中の一つである。※ バルボアの失敗をペルーではらしたのが部下のピサロである。ペルーで黄金郷? 発見。そんな黄金装飾品の写真はないか? と探したが見つからない。そうだそのはずだ、彼らが奪った金の装飾品はすぐさま溶かされて金塊にしてスペインに運ばれたのだから・・これから紹介する黄金製品は、新大陸で奪いとり金塊にしてスペインに送られ製造された装飾品です。スペインに金の豪華な装飾品が多いのは、こうした理由でしょう。セビリア大聖堂(Cathedral of Seville)の黄金製品フェルディナンド3世(Ferdinand III)がレコンキスタを終えた後、イスラムのモスクから転用され1403年に礎石され建築が始まった。一応の完成は18世紀になってからだと言う。セビリア大聖堂は聖母に捧げられた教会堂です。聖具も金製品が多い。いろいろ教会は見てきていてますが、これだけキンキラの聖具は初めてかも。さすがスペインです。黄金と宝石で造られた聖体顕示台(せいたいけんじだい)(Ostensorium)真ん中が抜けているが本来はここにガラスがはめ込まれていて、中にキリストに関する聖遺物が納められていたと思われる。この顕示代の足の部分が人の像になっているが誰かわからない。聖フェルディナンドかな?イベリア半島からイスラムを追い出しレコンキスタを完了させたカスティーリャ王でありレオン王であるフェルディナンド3世(Ferdinand III)(1201年~1252年)は後にカトリックの聖人に列伝。聖フェルディナンド(St. Ferdinand)と尊称された。下はその聖フェルディナンドの像 セビリア大聖堂内ペドロ・ロルダン(Pedro Roldán) (1624年~1699年)作 1671年製作 スペインバロックの彫刻家剣とオーブ(orb)を持つ聖フェルディナンド(St. Ferdinand)(1201年~1252年)※ 製作された時代の衣装と思われる。13世紀にこの甲冑は無い。聖遺物(Holy relic)の入った聖遺物箱黄金の水差しとポッド聖ロザリアの銀色の胸像(Bust-reliquary of Saint Rosalia)1687年スペインが南米から持ちかえったのは黄金ばかりではない。1545年、南米ボリビアのポトシ銀山(Potosí Silver Mine)を発見すると大量の銀も欧州に持ち込んだ。17世紀末以降はメキシコ産の銀を独占して交易の対価として利用する。以前「大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局」の所で、欧州と日本の金と銀の交換レート(金銀比価の比率)が違い過ぎた事を紹介した。日本では 1金対5銀。 外国は 1金対15銀。その理由は、スペインが南米や中米から大量の銀を持ち込んだ事による欧州での銀相場の値崩れが原因? かもしれない。リンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局トレド大聖堂(Catedral de Toledo)の黄金製品トレド大聖堂(Catedral de Toledo)はカスティーリャ王フェルナンド3世時代、1226年に礎石。完成はグラナダを陥落させたカトリック両王時代の1493年。※カトリック両王とはイザベラ1世(Isabel I de Castilla)(1451年~1504年)と夫フェルディナンド2世(Fernando II de Castilla)(1452年~1516年)の2人の同時カステーリャ王の事。※「アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス」で書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスイザベラの王冠(Couronne d’Isabelle) バルボア・ピサロ・コルテススペインの侵略者(コンキスタドール)として名を上げられるのがアステカ帝国を征服したエルナン・コルテスとインカ帝国を征服したフランシスコ・ピサロ。二人共に偉大な文明を滅ぼす形での征服者となっている。また、彼らほど知られていないが、黄金郷(エル・ドラード・El Dorado)の探検隊長であったバルボア。彼はその過程でパナマ地峡を横断して太平洋の発見者となっている。調査遠征のスタイルは3つ・大規模な遠征はスペイン王室と協約を結んで派遣・中小規模の遠征は現地植民地の王室役人との協約or許可のもと実施。・無許可でかってに遠征した者? らによる小規模なものもあった。正式に許可のあった遠征はともかく、無許可の物はただの略奪が強盗と言え無くもない。しかし、最初はスペイン王室と協約を結んだ正式隊のはずが、途中でトップが入れ替わり無許遠征になったものもあると言う。密航者であったバルボア(Balboa)(1475年~1519年)がまさにそれで、食糧不足や先住民との戦いで、スペイン側のリーダーとして才覚を発揮。後にバルボアは王室に認められ正式に遠征隊長にも任命され活躍する事になる。バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア(Vasco Núñez de Balboa)(1475年~1519年)ウィキメディアから借りました。1791 年にマドリッドで出版された著名なスペイン人の肖像画からの複製。ダリエン南方の黄金郷の探検では太平洋を発見して実績を上げた。新たな植民都市ダリエンの建設を指揮し、総督にまでなっている。因みにダリエン遠征で部下にピサロがいた。バルボアはピサロを目にかけて起用していた。フランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)(1470年頃~1541年)ウィキメディアから借りました。1835年 製作 ルイ・フィリップ コレクション ※ オルレアン家出身のフランス王 ルイ・フィリップ1世(Louis-Philippe I)(1773年~1850年)先にも少し触れたが、ピサロが南米ペルーでインカ帝国を滅亡させるに至る最初のきっかけがバルボアの黄金郷(エル・ドラード・El Dorado)探検に起因していたのである。ピサロは第2のコルテスを目指して成功者となるが、身代金を取っておきながら相手を殺すなど、やり方は一番汚いかもしれない。上司であったバルボアを捕らえたのもピサロ。バルボアはその後すぐに絞首刑にされたと言う。他と違うのが学歴のあるエルナン・コルテス(Hernán Cortés)である。コルテスは紳士だった? 勝手に略奪を始める部下らを押さえ、(略奪禁止)、通訳をうまく使い先住民に戦意がない事を告げての穏やかな対話での関係構築を主義としていた。※ コルテスはサマランカ大学の法学出身。エルナン・コルテス(Hernán Cortés)(1485年~1547年)ウィキメディアから借りました。1519 年にメキシコに侵入。1521 年にメキシコを征服したスペイン軍の将軍エルナン コルテスの肖像画。 1525 年製作 メキシコ植民地時代、コルテスが生きている時に作成された作品のコピーらしい。和議を結ぶと先住民はコルテスに金や食料、また女奴隷を20人も贈られた事もあったと言う。コルテスは最初に贈られた奴隷の1人がナワトル語とマヤ語が話せた事から彼女を愛人として通訳として側に置いた。彼はコミュニケーションを大事に先住民を傘下にしていく。愛人であるマリーナ(Marina)(洗礼名)の活躍(通訳の意義)は大きかったと言う。※ 複数愛人が増えて行く中で彼女だけは最後まで側にいたらしい。彼らの事は本がたくさん出ているので詳しい事は飛ばします。因みに主に参考にしたのが「コルテスとピサロ」世界史リブレット人。安村直己 氏著生贄(いけにえ)問題古代ユダヤ教には生贄の習慣があった。もっともそれは人ではなく、子羊であった。ユダヤ教をベースにするキリスト教では現実的な生贄は存在しないかわりに、イエス・キリスト自身が「過越の小羊」の身代わりとして、すべての人の罪を負ったのである。しかし、新大陸の住人が信仰する宗教には人を生贄にする風習があった。例えば、インカでは帝国の発展と繁栄の為に太陽神に子供を生贄に捧げていたと言う。トウモロコシの収穫祭で生贄に選ばれた子供らはコカの葉やアルコールで眠らされている間に現実世界では凍死。神の国に派遣され大使になったのだそうだ。また古代メソアメリカ(マヤ、テオティワカン、アステカ)では生きた人の心臓を太陽神に捧げ祀ると言う風習を持っていた。それは特に重要な儀式において行われていたし、その生贄を得る為に他部族と戦い、捕虜となった者らがあてられていた。だからスペイン人の兵士もかなりその犠牲になっているらしい。この儀式の恐ろしい所は、いきなり石のナイフで胸を開かれて心臓を取り出すのでまだ心臓は動いたまま。当人はかなり抵抗をするだろうと思いきや、薬で幻覚を見て麻痺しているので陶酔しているのだと言う。取り出された心臓は先にチチェン・イッツァの所で紹介したチャクモール像に乗せられた。生贄の心臓と血液は神々の糧として捧げられたらしい。※ 心臓を取り出された後の体は階段から蹴落とされ、皮を剥がれ、解体された。尚、それら幻覚剤にはアルカロイドなどの陶酔性成分メスカリンを含むサボテンの一種、ペヨーテ(peyote)の他、トリプタミン系アルカロイドのシロシビンやシロシンを含んだ現在のマジックマッシュルーム(Magic mushroom)の一種、アステカではテオナナカトル(Teonanacatl)と呼ばれるキノコが利用されていた。こんな儀式を見てしまったスペイン人が動揺しないわけはない。※ これら生け贄問題では、原住民が異国の侵略者に助けを求めたケースもあったらしい。スペイン人の征服者らは、新大陸の人々が神事で生きた人間を生け贄(いけにえ)として捧げる行為にドン引きした。ドン引きしただけではない。そんな彼らを攻撃して争いが勃発したのである。こうした事件から、下々の兵隊でさえキリスト教を布教しようと言う想いにかられたのだろう事は想像できるし、同時に、そこに、彼らが「侵略」と言う自分達の行為を正統化する為の方便が多分に含まれたと推察する。確かに当時の認識では、キリスト教徒らにとってキリスト教徒でない者は敵であり悪。とは言え彼らが生け贄を殺す事は否定するのに、自分等は平気でそんな彼らを殺すのはありなのか? 正当なのか? 疑問符がつく。スペイン人侵略者は、高度な文化を持っていた先住民族の文明をまるごと潰して個人の利益を優先に踏み入って新大陸へ植民を展開して行った。彼らの文化に「人の生贄」と言う文化があったとしても、スペイン人らは、あまりにも傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に振る舞ったのでメソアメリカにあった現住の文明(アステカ・Azteca)も南米にあった文明(インカ・Inca)も滅びに至ったのである。※ 滅びの理由はそれだけではないが・・。彼らの文化を全否定して彼らを滅ぼす権利など、そもそも西欧の侵略者らには無かったはずなのに・・。先住民のインディオからしたらスペイン人こそ自分達の土地に突然現れた悪魔そのものだったろう。失われたマヤ文字ところで、メソアメリカで栄えたマヤ文明では複雑な絵文字が使われていた。マヤ文字は人や動物など図像で示されていて、暦と関係が深い? 文字だったらしい。上は都市を現す紋章文字この図は単なるに都市名でなく、左部に血統、右上部に支配者層の称号。右下部が場所。と言うパーツで構成されている。都市名左から順コパン(Copán)・・ホンジュラス西部、現在のコパン・ルイナスに隣接する古典期マヤの都市。キリグア(Quiriguá)・・グアテマラ東端部、イサバル県のモタグア川中流域にある古典期マヤの都市。ティカル(Tikal)・・グアテマラのペテン低地にあった古典期マヤの最古で最大の都市。マヤの言語は4000年前に成立した? と言われ、16世紀には30の言語に分かれていたらしい。それ故、部族が異なると通訳を必要としたようだ。文字は? BC700年頃、メキシコ南部で発祥。250年頃にはメソアメリカ各地に広まったと言う。しかし、1300年近く使われ絵文字は16世紀、スペインのコンキスタドールが侵略して入植を始めると徐々にすたれていく。マヤ文字によりマヤの人々は、昔の事蹟を記録として、また学問を書に記していたそうだ。本来はこれら資料が、ロゼッタストーンのようにマヤ文字の解読のガキとなるはずであった。だが、キリスト教徒らはその中身が「迷信や悪魔の虚偽」として焼き捨ててしまったと言う。※ 一説には1562 年に行われた異端審問で燃やされたと言う。だから、そもそも難解なマヤ文字はその解読もままならなくなり彼らの文化を知る手立てが無く、近年までほとんど手つかずだったらしい。インカ帝国とマチュピチュ先に紹介したメソアメリカのマヤ文明と異なり、南米アンデス山系に展開したインカ帝国の文化には文字が存在しなかった。それ故、皮肉な話しだが、インカ帝国に関する資料は16世紀、スペイン人侵略者らが記した記録文献が唯一の手がかりとなっている。インカの技術12角の石ペルーのクスコ(Cusco)の観光名所の一つに12角の石と呼ばれる石垣がある。実はクスコは1200年代~1532年までインカ帝国の首都であった街なのである。現在のクスコの街はスペイン人によるペルー侵略後に、元々あったインカの城跡の上に建てられている。12角の石は、インカ時代の技術が垣間見られる一品なのである。インカの石の加工の精巧さと石組み技術の繊細さが見て取れる。金属が無い文化なのに、どうしてここまで精巧に成形できたのか? 不思議。下はクスコの北に位置するサクサイワマン(Saksaq Waman)の遺跡1438年頃建築が始まり50年かけて完成したサクサイワマン(Saksaq Waman)はクスコがスペインに陥落した後の首都奪還作戦の拠点になった所でもある。かなりの巨石がくみ上げられた石垣にはリャマやヘビ、カモ、魚等の動物をイメージして組み上げられた所もある。マチュ・ピチュ(Machu Picchu)ペルー観光で最も人気のマチュピチュ(Machu Picchu)はアンデス山系、ペルーのウルバンバ谷(Urubamba Province)に沿った山の尾根に残るインカ帝国の遺跡の一つだ。見える尖った山はワイナ・ピチュ(Huayna Picchu)。意味は「若い峰」。標高2720m。山頂には神官の住居。中腹に月の神殿があった? 後で頭頂からの写真紹介。遺跡が展開している所がマチュピチュ(Machu Picchu)。こちらは老いた峰を意味する。左眼下がウルバンバ谷(Urubamba Province)でありウルバンバ川が流れている。石切場からの大広場方面大広場解説書により若干違うようですが・・。次ぎは右側居住区側面です。南緯13度で、10月から翌年4月までの長い雨季と5月から9月までの短い乾季に分かれると言う。いつ使用していたのか? 5月から9月の乾季かな?農耕地皆が生活できるだけの食糧の為の段々畑は3mずつ上がり40段。3,000段の階段でつながっていると言う地図は右がワイナ・ピチュ(Huayna Picchu)山側です。マチュピチュは山の尾根にあるので、左右は崖っぷちです。下はウィキメディァから借りたパノラマ写真です。隠れた尾根上に存在している事から、発見されにくい場所。「空中都市」等とも称されるが、クスコのような街とは異なり、あくまでここはインカの王族や貴族の為の離宮(避暑地)として建設された場所。だから住人も少なく、王族等が居住していない時は尚更、管理の住人ら少数しかいなかったとされている。ワイナ・ピチュ(Huayna Picchu)山からのマチュピチュ写真左のジグザグ道路は駅からのマイクロバスが上ってくる道。本当によくこんな所に造ったな・・と言う場所です。それ故、マチュピチュの発見は1911年。アメリカの歴史学者ハイラム・ビンガム3世(Hiram Bingham III)(1875年~1956年)が偶然発見。彼は最後のインカの都市、ビルカバンバ(Vilcabamba)を捜していた。が、ここはビルカバンバではなかった。ワイナ・ピチュ(Huayna Picchu)頂上近辺の写真確かに何やら石造りの建物の遺跡が残っている。下は上の段のあたり。危険一杯の登山。落ちる人もいる。でも自己責任です。責任問題があるのでガイドは上らないそうです。下りのが絶対怖いインカ道(Inca Road)インカ帝国の発展には「王の道」と呼ばれる道路網があった。16世紀以降はインカ道(Inca Road)と呼ばれた。インカ以前から使われていた交易路も再利用れていたがインカ道は領土の拡大にともなって東方の熱帯や西方の海岸線にいたるまでチリ、アルゼンチン、エクアドル、コロンビアまで建設。それはまるでローマ帝国のローマ街道のようであるが、インカ帝国が終焉すると道路整備をする者もいなくなりそれは荒廃して行ったそうだ。ローマ街道は軍隊の派遣を目的としていたので、道幅も広く舗装されていたが、インカ道は強いて言えば諜報網? 早急な情報の伝達の為に造られた? と言う側面が多分にあったせいか? 部分ですたれた理由もわかる気がした。下はインカ道の一つを紹介。危険故、現在使用はできない。マチュピチュ、岩場のかけ橋まるで獣道。岩肌に沿って造られた道は普通の人には通れない? 隠密のような人達が使う裏道のような感じ。途中、橋がかけられていて、いざと言う時はそれを落として敵の追撃を阻んだらしい。インカ橋(Inca Bridge)壁には石の突起も見える。よじ登る為なのでしょうね。もう少しコンキスタドールの事、丁寧に載せたい所でしたが、押しているのでこれで終わります。実は先月、私が実質、後見している伯母が施設で転び大けがしまして、病院の付き添いで忙しかったのです。片道2時間の施設に迎えに行き、それから病院の科をあれこれ・・。腰と、腕と顔面をケガしていたから整形外科、皮膚科、眼下、これから形成外科も行かなければならないかも・・。行きか、帰りのどちらかが通勤ラッシュになるのでかなり辛い。実は今日も行くので睡眠3時間とれないかも・・。誤字チェックは後からします。m(_ _)mBack numberリンク 静物画にみるメッセージリンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図 アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2022年10月11日
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Back numberの追加をしました。予告に変更がでました。「新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)」はまたまた延期。その前に入れたかった案件です。実はイントロで書き出した謎から違う方に興味が湧きどんどん横道にそれてこの冒頭部たけで10回くらい書き直してます。コロンブスの事、アメリゴ・ベスプッチの事、メディチ家銀行の事。メディチ家の経営や人々の事など膨らみ、何転も主軸の話しが変わりました。全体には「新世界アメリカ大陸の発見」に関する話しですが、当時の取り巻く環境としてメディチ銀行の話しも詳しく入れました。結果論で見ると「アメリゴ・ベスプッチを探求した章」になりすぎた感じです。尚、アメリゴ・ベスプッチ、長いので途中からアメリゴ呼びしています(;^_^A「アジアと欧州を結ぶ交易路 」番外の扱いに入れられるのかな? 新大陸を発見したのはクリストファー・コロンブス。なのに新大陸はアメリゴ・ベスプッチの名から命名された。なぜ? と思った人は多いだろう。実際、「コロンブスの名誉を横取りした人」と非難されてもきたアメリゴ・ベスプッチ。最初に到着したコロンブスか? そこが新しい大陸と証明したアメリゴか? 今でも賛否両論あるらしい。そこでアメリゴの経歴共に調べて見たら、コロンブスの最初の航海から係わっていたらしい事も解ったし、表には出ていないが、アメリゴの功績は極めて大きかった事も解った。今ではアメリカで良かったのではないか? と言うアメリゴ擁護派に・・。今回はそんなアメリゴが新大陸と特定するにいたった経緯と同時に、コロンブスを支援した資金源にメディチ銀行がかかわっていたのではないか? と言う疑問から始まったのです。また、南米の国々の公用語にも不思議を感じた人は少なからずいるはず。ほぼスペイン語が公用語。それはアメリカ大陸における最初の取り分が影響している。追加で加えました。コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)アメリカ大陸のネーミングアメリゴ・ヴェスプッチとメディチ家アメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)メディチ家とメディチ銀行プリマヴェーラ(La Primavera) 春の寓意ヴィーナスの誕生 (Nascita di Venere)(Birth of Venus)パラスとケンタウロス(Pallade e il centauro)メディチ銀行(Medici Bank)メディチ家の事業形態複式簿記を用いていたメディチ家ジャンネット・ベラルディ(Gianotto Berardi)ジャンネット・ベラルディとコロンブスアメリゴ公証人から航海士? への転換?ポルトガルによる南米大陸到達ポルトガル領ブラジルの証明の為に利用されたアメリゴアメリゴがスペインの初代の航海士総監となった理由Amerigo Vespucci, Mundus Novus アメリゴ・ベスプッチ「新世界」これはあくまで私の推測ですコロンブス(Columbus)の野望記念碑 コロンブスの塔(Mirador de Colom)西インド諸島(West Indies)とコロンビア(Colombia)中南米巣の公用語アメリカ大陸のネーミング冒頭触れたように、アメリカの名はアメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)に由来している。但し、ヨーロッパとアジアがそうであったようにアメリゴ(Amerigo)をラテン語読みして女性形にした名前である。※ 南ドイツの地理学者マルティン・ヴァルトゼーミュラー(Martin Waldseemüller)(1470年頃~1520年)が1507年、自書の添付地図にアメリカとして大陸名を記したのが初らしい。実はアメリゴ・ヴェスプッチは、新大陸を最初に新世界(New world)と提唱した人なのである。確かに結果論で見るとアメリカ大陸に最初に辿り着いたのはクリストファー・コロンブス (Christopher Columbus)ではあったが、彼は南米大陸の発見者である。※ コロンブスが辿り着いたのは南北大陸の狭間にあるカリブ海の島。※ アメリゴは南緯50度まで南下し、ブラジルの発見者となると同時に、そこが新しい大陸(南米大陸)と特定している。世間の評価はそこにある。コロンブスがたどり着き、すでに植民地となっていたカリブ海のイスパニョラ島他から金や奴隷が欧州に運ばれていたが、そこはアジアのどこか? と思われていた。何より、コロンブスは絶対的にジパングと信じて亡くなっていたし・・。もしそこがジパングであるなら、大きな海峡(日本海の事?)があり、その向こうにアジア大陸があり、香辛料豊富なインド諸島が無ければならない。コロンブスが新地の提督になっても統治に専念する事を放棄し、まだ調査航海に出たのは、それらを見付ける為であり、自分の理論を証明する事でもあったからだ。皆も薄々違うのではないか? と言う疑問もあったかもしれない。でも皆は自分が富めればそこがどこでも良かったのだろう。後にアメリゴ・ベスプッチはカリブ海沿岸に広がる土地を大きな島ではなく、欧州人が知る三つの大陸(アジア・アフリカ・ヨーロッパ)以外の全く別の新たな大陸だったと報告。それを新世界(New world)と伝えている。むろんそれにはきちんとした理由があった。それは彼の書簡を持ってまとめられ、世間に公表されたのである。内容自体が非常にセンセーショナルな報告であり、逆に、彼の航海が本当なのか? 書簡が本物なのか?論議は中世来続いている。 彼の名が新大陸に付けられた事自体にもかなり批判は出ていたようだ。が、当時の有識者は彼の名をつける事を否定する理由は無いとした。彼の証明は確かなものであり、事実であったからだ。そもそも彼は本来、探検家でも地理学者でもなかったし、まして船乗りでも無かった。彼の本業は実はメディチ家傘下のビジネスマン。それもかなり有能な・・。アメリゴベスプッチはフィレンツェのロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(Lorenzo di Pierfrancesco de' Medici)(1463年~1503年)に仕えてセビリアに来た。そこでコロンブスの探検に係わる事になったのだ。コロンブスがアジアと信じていた大陸は、実は全く別の未知の大陸だったと証明するに至る理由はそこから派生している。彼が南米の探検航海に出たのはスペイン王やポルトガル王からの依頼に始まっている。43歳で初航海。文系の彼がそこに至るには結構なドラマがあったのです。アメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)の肖像ウィキメディアから仮りました画家 クリスピン・ファン・デ・パッセ(Crispijn van de Passe)(1564年~1637年) オランダ出身、彫刻家であり印刷出版者。製作 1590年~1637年書かれているのは、フィレンツェ出身のアメリゴ・ヴェスプッチはブラジルの土地の発見者であり征服者であると言う内容らしい。オランダが海洋国として台頭してくる中でブラジルの土地の発見者として紹介されている所に意味がある。アメリゴ・ヴェスプッチとメディチ家※ アメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)(1454年~1512年)ヴェスプッチ家はもともとフィレンツェでメディチ家に仕える家系。彼の家は両替商で、父は公証人をしていた。兄2人はピサの大学に進み、彼自身はドミニコ会修道士である叔父のジョルジョ・アントニオ・ヴェスプッチから教育を受ける。※ ジョルジョ・アントニオ・ヴェスプッチ(Giorgio Antonio Vespucci)(1434年~1514年)実はこの叔父はフィレンツェで最も有名な人文学者の 1人。勉学は文学、哲学、修辞学、ラテン語と幅広く、また、地理と天文学もそこで学んだらしい。とにかく学者としては申し分無い博識の人物で、彼に学んだ事が彼の好奇心をもふるいたたせたのかもしれない。そして、この時に天体の観測から器具を使い地図を書く原理も学んでいたのではないか? と思われる。先に言うと、この学舎の友2人が新世界に関する書簡の受取人である。アメリゴはセビリアでコロンブスの事を知ると、帰りにピサに立ち寄り金130ドゥカートもする航海地図を購入している。いつか自分も航海に出てみたい・・と言う夢をこの時持ったかもしれない。ところで、アメリゴはこの学舎で後に仕えるロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチに出会うのである。※ ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(Lorenzo di Pierfrancesco de' Medici)(1463年~1503年)後にヴェップッチ家遠縁のセミラデ・アッピアーノがロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチに嫁いだので親戚同様の関係となった。※ セミラデ・アッピアーノ・アラゴナ(Semiramide D'Appiano D'Aragona) (1464年~1523年)美女だったらしいロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(Lorenzo di Pierfrancesco de' Medici)の肖像ウィキメディアから仮りました画家 サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)(1445年~1510年)制作 1479年 テンペラタイトルが若い男の肖像になっている。これで推定年齢は16歳。言い方を変えると、この学舎でアメリゴ・ヴェスプッチはその能力を買われてロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチにリクルート(recruit)されたのである。このメディチ家の学友ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチと後にセビリアで知り合う商人ジャンネット・ベラルディ(Gianotto Berardi)(1457年~1495年)。またジャンネットがらみで知り合う航海士クリストファー・コロンブス Christopher Columbus)(1451年頃~1506年)との出会いにより彼のその後の人生を大幅に、確実に変えたのである。セビリアに置かれているアメリゴの像車内からの撮影なのでアップがありません。彼らの関係に入る前に先に紹介したいのが、メディチ家との関わりである。実はこの時代、フィレンツェで銀行を起こしたメディチ家は欧州中の富を得たような成功ぶり。彼らは政治の世界にも進出して行く。時代はちょうどルネッサンス期、メディチ家は芸術家のパトロンとして惜しみなくお金を使った事でイタリア・ルネッサンスは花開いたのである。メディチ家とメディチ銀行アメリゴより12歳年下の学友ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチはメディチ銀行を創設したジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチのひ孫である。※ ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ(Giovanni di Bicci de' Medici)(1360年~1429年)また本来は分家筋になるのだが、父の早世により彼は現メディチ本家の当主ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)の養子でもあった。※ ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)(Lorenzo de' Medici detto il Magnifico)(1449年~1492年) つまり彼はメディチ家本家の当主(メディチ家銀行の頭首)の元で育てられたのである。※ メディチ家は30~40代で若死にしている者が多く、その子はたいてい親族の養子となっている。ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)(Lorenzo de' Medici detto il Magnifico)の肖像ウィキメディアから仮りました画家 ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari)(1511年~1574年)製作年 1533 年~1534年の間。テンペラタイトル ヴァザーリによる偉大なるロレンッオ・デ・メディチ(Lorenzo el Magnífico, por Giorgio Vasari)。ヴァザーリ作品なのでつい載せたが、ロレンッオの生没年は1449年~1492年。画家の生まれる前に亡くなっているのでこれは肖像画を参考にしてのリスペクト作品なのだろう。偉大な人(イル・マニフィコ・il Magnifico)と形容されるロレンツォ・デ・メディチは20歳にしてメディチ家(本家)の当主となるとメディチ家の黄金時代を作り上げた。優れた政治、外交手腕を持った人物で特に芸術家を庇護。美術書によく名前が出る人物だ。※ ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)の祖父がフィレンツェにおけるメディチ支配を確立したコジモ・デ・メディチ(Cosimo de' Medici)(1389年~1464年)である。芸術家のパトロンとして? メディチ家は後世に貢献した。ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチの結婚記念に画家サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)(1445年~1510年) にプリマベーラとヴィーナスの誕生を発注している。プリマヴェーラ(La Primavera) 春の寓意画家 サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)(1445年~1510年)製作年1482年 テンペラ縦203 cm×幅314 cmプリマベーラが結婚祝いに依頼された作品であるのは確かだが、養父が頼んだのか? 本人が発注したのかは不明。フローラが妻となるセミラミデ・アッピアーノ・アラゴナ(Semiramide D'Appiano D'Aragona) (1464年~1523年)で、マーキュリーがロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコである。※ 先に触れたが、セラミデはアメリゴの母方の従姉妹にあたる。ヴィーナスの誕生 (Nascita di Venere)(Birth of Venus)画家 サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)(1445年~1510年)製作年1485年 テンペラ縦172.5 cm×幅278.5cm初期ルネッサンスを代表する絵画フィレンツェ ウフィッツィ美術館(Galleria degli Uffizi)ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ本人が カステッロ邸(Villa di Castello)に飾る為にプリマヴェーラ(La Primavera)の後に依頼したものとされる。ヴィーナスが妻セミラミデ・アッピアーノ・アラゴナである。プリマベーラとヴィーナスの誕生は幼少期(8歳頃)、父の美術書を見て初めて興味をもった絵。だから初イタリアではフィレレンツェまで行ってウフィッツィで見て来た。素敵な絵。結婚祝いとは知らなかった。この結婚祝いに養父ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)が贈ったのもボッティチェリである。パラスとケンタウロス(Pallade e il centauro)画家 サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)(1445年~1510年)製作年1482年 テンペラ縦207 cm ×幅148 cmこれも寓意画で、タイトルの意味はパラス・アテナイ(アテナイ神)、ケンタウロスを飼いならす」である。アテナイは妻セラミデであり、ケンタウロスは夫ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ。養父はセラミデに夫を「飼いならすように努めよ」と示唆した作品らしい。さらにロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコには女性に対して「理性の女神への野蛮な本能の降伏」をせよ? との意味が込められているらしい。サンドロ・ボッティチェッリのパトロンとして後世に素晴らしい作品を残した二人であるが、養父ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)との関係は後に崩れてしまう。金欠になった養父ロレンツォ・デ・メディチが息子の遺産を使い込んだ・・と言うのが発端らしい。半分は返しているらしいが・・。後に二人は喧嘩別れするが、趣味は同じだったのかもしれない。因みに、ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチはダンテの神曲の装飾写本もサンドロ・ボッティチェッリに委託している。地獄絵図を以前紹介しています。また、私のお気に入りボッティチェッリ作品はミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)で紹介した美しい聖母子です。リンク ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)フィレンツェにメディチあり。ルネサンスの中心がフィレンツェであったのは必然だったと言える。が、メディチ家の内情はすでに財政破綻が始まっていた。メディチ銀行(Medici Bank)薬屋から発したメディチ家はジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ(Giovanni di Bicci de' Medici)(1360年~1429年)の時(1397年)にその資本で銀行業に参入。メディチ銀行は瞬く間に成功して富を増し、同時に銀行を欧州中に展開。その発展に比例して政治的権威も拡大して行く。彼らの出身地であるフィレンツェを中心にメディチ家の「我が世の春」が至来したのはそうした銀行ビジネスの発展と成功があったからだ。この頃のメディチ家の人間は、分家筋にしても何らかの政治的地位に就き、メディチ家銀行or個人銀行に付随して商取引を行っていたと思われる。だが、銀行業はそもそも長くは続かないものらしい。メディチ銀行は世界最大バンクとして君臨もしたし他銀行よりは長く存続しているが、その業績はロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)の頃から? 陰りをみせる。特に言われるのはお金の使いすぎである。ルネッサンス芸術が花開き始めたフィレンツェで彼らは多くの芸術家のパトロンとなった。(それ故後世に残る素晴らしい芸術作品が生まれているが・・。)当主が政治にのめり込みすぎビジネスをしなかったとか、政治的判断を誤り市民に嫌われたとか、理由はいろいろあげられているが・・。本当の所は、肝心の銀行業務における現地ビジネスパートナーの選定の失敗が多分を占めていたと思われる。つまり本家ではなく、いわゆる現地法人の支店銀行の経営が破綻しその負債を被った事による。メディチ銀行の負債は増大し、最終的にロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)の息子の代に破綻(1499年)する。※ この破綻は財政難のみでなく、1494 年から始まるフランス王シャルル8世のイタリア侵攻も大きく影響している。アメリゴがメディチ家のロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(Lorenzo di Pierfrancesco de' Medici)の元で働いていたのはまさにメディチ銀行破綻の時代にかかっているのである。そしてまた、この学友にして雇い主であったロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチこそが、アメリゴの新世界発見を報告した書簡の主の1人なのである。コロンブスとアメリゴ・ベスプッチの所でなぜメディチ銀行の説明をするのか? と言えば、アメリゴ・ベスプッチのバックボーン(backbone)を理解してほしいからだ。彼の人生は必然的に、成るように成って行った結果のような気がするからだ。メディチ家の事業形態メディチ銀行の仕組みは直接支店を造る事ではない。まず、現地で業務を委託できる人物を専任して共同出資のカンパニーを立ち上げパートナーシップを結ぶのである。契約や条項は細かくあるものの、実質現地の代表者に丸投げ的に近い委任した形をとっている。要するに経営判断はほぼ現地にまかせた形である。その上でメディチ銀行と、現地の代表者との取り分があらかじめ決められている。つまり、「メディチ家は現地代表を信頼してまかせている」と言うスタンスである為、委託先は初期段階で慎重に調査が行われ、かつ有能そうな人間が選ばれるはずなのだ。アメリゴはメディチ銀行のエージェントとして、セビリアで同郷の商人ジャンネット・ベラルディ(Gianotto Berardi)(1457年~1495年)を見い出しロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチに推薦した。ベラルディは合格。契約は成立し、ジャンネット・ベラルディは共同出資してカンパニーを造るとセビリアでのメディチの事業を全て請け負う代理店となった。※ 推薦した段階でアメリゴはフィレンツェに戻っている。代理店がベラルディに決まると、今度はメディチ銀行からの監査役として1491年に再びセビリアへ赴きベラルディ商会に入っている。それ故、有能な人間であれば現地事業は成功し、もうけも増えるわけだが、銀行業務も付随しているのでで資金回収できなくなるケースがどんどん増えてくるのである。例えばイギリス薔薇戦争の時は、馬鹿なロンドン支店長が敵対する両者に資金を貸している。チューダー家が負ければ良かったが、もともと銀行に負債を負っていて返済の滞っていたヨーク家が負けた。ヨークのエドワード4世はメディチ家に借金が返せなくなり踏み倒したので、結局全てメディチ家の負債となった。ロンドン支店は、すでにパートナーシップの契約にも違反し、負債の全額回収は無理であった。本部から有能な監査役が来て一度整理しロンドンからは撤退。ブルージュ支店が業務を引き継いだ。ところが、そのブルージュ支店でも代表は返済不能な過度な融資を宮廷てにしていて、さらに詐欺まがいの事をやらかしてメディチ家に莫大な負債を与えていた事が判明。メディチ家は信頼できるエージェントを派遣して徹底的監査をしている。結果、違反だらけでパートナーシップを解消。ロンドンに続きブルージュ支店も消えた。利益の落ちてきたベネチア支店の閉鎖も考えたらしい。この頃のメディチ銀行は縮小しても構わないから負債を整理して立て直す事に舵をとったのだろう。※ ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)は負債者に負債返済の為のローンを組むよう進めて非難をあびたらしい・・。王侯貴族は踏み倒しが多い事も解ってきた。だから世俗の支配者には貸すな・・とまで言ったらしい。※ 王侯の場合には商品の輸出入や税の事に制限を付けて脅しもしてくる。つまりメディチ銀行の最盛期には支店網を広げ、欧州中の商人のみならず王侯貴族にまで融資し、名声と共に一時は莫大な富も集中させていた。が? にもかかわらず? 結果論から見れば返金されず巨額の負債をかぶってメディチ銀行は倒産においやられたのである。※ 創業期間は1397年~1499年。これでも同一の銀行としては長く続いた方らしい。当然ながら、銀行の縮小でさえメディチ銀行で働らいていた者、融資を受けていた会社、閉鎖された銀行関係各所が路頭に迷う問題に発展する。銀行の倒産、撤退におけるフィレンツェ市民の怒りは大きかったようだ。だからメディチ家の信用はがた落ちしたのである。複式簿記を用いていたメディチ家もっともメディチ銀行がほめられる所は別にある。先に紹介したよう一つ企業の下に各支店があるのではなく、各拠点はそれぞれ現地代理人とパートナーシップに基づいて造られたいわゆる合弁会社のような形を取っているのでリスクは組織全体ではなく、各拠点毎に精算される。また、複式簿記を用いた財務システムがすでに利用されていたと言う点だ。すでに借方(かりかた)と貸方(かしかた)が明確な貸借対照表(balance sheet)が存在したと言う事は、資産(プラスの財産)と負債(マイナスの財産)のバランスが明確にされていたと言う事だ。だから有能な監査が入れば不正はすぐにバレたのだろうが、ロンドンやブルージュは信用しすぎていた分監査が遅かった事が問題だ。当然だが、メディチ家は人材のリクルートには力を入れていたはずだ。アメリゴのように現地でビジネスを任せられるような人材を捜してくる任務。エキスパートの監査役。メディチ家が直接動かなくても信用して任せられる有能者。彼らはそんな優秀な人材を学友などから捜していたのだろう。ジャンネット・ベラルディ(Gianotto Berardi)先にも紹介したようアメリゴは叔父の学舎で知り合ったロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(Lorenzo di Pierfrancesco de' Medici)(1463年~1503年)に、その能力を買われたのだろう。メディチ家の海外事業のビジネスサポートをする事になる。学友の元でまかされた仕事はセビリアのメディチ銀行の不正に伴い新たなパートナーを捜す事にあった。アメリゴはセビリアで同郷のジャンネット・ベラルディ(Gianotto Berardi)と知り合い意気投合。ベラルディはすでに雑貨や奴隷貿易の商売をしていたがアメリゴの紹介からセビリアでのメディチ家の事業(貿易や金融)を管理する事になった。商人ジャンネット・ベラルディ(Gianotto Berardi)(1457年~1495年)1491年、アメリゴは契約が交わされるとセビリアに住居している。メディチ家側の人間としてベラルディの商売に不正がないか監査役である。この時点でのアメリゴの雇い主はメディチ銀行になったのだろうと思われる。※ メディチ銀行が繁盛している間はセビリアに居る事になるだろうと思っていただろうが、メディチ銀行は思っているよりも早く撤退する事になる。(1494年に破綻)おそらくメディチ銀行が破綻した時、ベラルディがメディチ家の仕事を止めた後もアメリゴはセビリアに残ったと思われる。それはベラルディの為? あるいはコロンブスの航海支援の為?※ ベラルディはコロンブスの支援を始めた頃にカナリア諸島と大西洋を越えてインドに至るカスティーリャの拡大を促進する為のサークルの中心人物になっていたと思われる。それをアメリゴが引き継いだかは定かでない。また先にも触れたが、ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチに出した書簡により、メディチ家とのつながりは依然としてあった。と思われる。最も書簡の主も1503年には亡くなっている。ジャンネット・ベラルディとコロンブス実はこのジャンネット・ベラルディ自身もコロンブス遠征の出資者の1人だった。しかもコロンブスを支援する団体の中心人物で、スペイン王との関係を取り持ち、1492年の初遠征の資金も提供しているし、コロンブス個人に相当のお金も貸し付けしていた。Portrait of a Man, Said to be Christopher Columbusクリストファー・コロンブスと言われる男の肖像 ウィキメディアから仮ました航海士クリストファー・コロンブス (Christopher Columbus)(1451年頃~1506年)画家 Sebastiano del Piombo (1485年~1547年)製作1519年コロンブス第1回航海(First time)。1492年~1493年 3隻で出航。※ コロンブスについては、すでに以下でも紹介。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人上のリンクでは、ジェノバの商人がポルトガルとスペイン両国に資金提供をしたと書いたが、ジャンネット・ベラルディ自身はフィレンツェ出身者だった。また、Wikipediaには「セビリアのフィレンツェ人銀行家ベラルディ」と書かれているが、彼の本業は商人で、メディチ家の銀行とパートナーシップを結んでセビリアでの代理店を務めていたにすぎない。これら関係からコロンブスの遠征費用に、メディチ銀行からの融資が少なからずあったのでは? と推察できる。また、ベラルデイは個人でコロンブスにお金を貸していて、彼の死の時にも未返済で残っていた。コロンブスは第一回航海でアジアを発見? 金の発見を手土産に戻ったので、1493年の2回目の航海の時は武装船を含めて大艦隊で出航。前回は3隻だったので大出費がのしかかる。そもそもスペイン王室に資金は無かったので廻りの商人がお金を出さなければならない。つまり、コロンブスが何か依頼すれば、王室経由でベラルディらの所に出金要請が来る。ベラルディはその度に金策に動いたと思われる。回収できるか? それは不確実な賭けだったのにベラルディは支援を続けた。新世界より戻ったクリストファー・コロンブス Christophe Colomb au retour du Nouveau Monde画家 ウジェーヌ・ドラクロワ(Eugène Delacroix)(1798年~1863年)製作 1839年最初の航海から帰還したコロンブスがイザベラ1世(Isabel I de Castilla) (Isabel la Católica)(1451年~1504年)とフェルディナンド2世(Fernando II de Aragón)に帰国の報告にきている図。この後、ジャンネット・ベラルディ(Gianotto Berardi)の所にも挨拶にきているらしい。ジャンネットには個人的にもお金を借りているからね。むしろもっと貸してくれ・・と言ってたりして。そんなお金が必要な時にベラルディはメディチ家の仕事を辞めている。なぜか?メディチ銀行側から調べると、ベラルディが辞めたのではなく、メディチ家の没落に起因してパートナーシップが解除されたのだと思われる。時期的にメディチ銀行が採算の合わない支部の閉鎖をしていた事。またメディチ銀行は最終的に1494年に破綻し、全ての支部の解散宣言が出て1499年に閉鎖している。コロンブス第2回の航海は1493年~1496年。17隻で出航。1494 年、コロンブス兄弟はベラルディに大量の奴隷を送っている。メディチ銀行の破綻で経済的打撃を受けていたベラルディが少しでも経済的利益が得られれば・・と言う配慮だったか?しかしこれは合法性に疑念を抱いた国王が売買をやめさせている。※ その時は取引を中止したが、スペイン政府は1505年にはイスパニョラ島に黒人奴隷を大量投入しているけどね1495年、追加で12隻のキャラベル船をイスパニョラ島のコロンブスへ派遣するよう王室から依頼が来たが資金不足でベラルデイは船4隻しか準備できなかった。しかも出航前の1495年、12月にジャンネット・ベラルディは急死した。死因は書かれていないが、彼もまたメディチ家の破綻で自分の会社も整理しなければならないなど金策と心労だったのではないか? と推察する。不運は続き、翌年1496年1月、ベラルディ商会が調達した4隻の船すべてがカディス沖で難破。回収どころかより負債を抱えて破産である。遺言でアメリゴがその債務整理をしている。その後のベラルディ商会については書かれていない。ベラルディはとりまとめ役として奔走? コロンブスの冒険に共に夢を見ていたのかもしれないが最後はコロンブスの為にお金を集めるのさえ、至難だったと言う事だ。それ故、アメリゴは少なくとも多忙なベラルディの代わりにコロンブスの2度目の航海には係わっていただろう。そもそも彼はセビリアに来た後にピサで海図を購入している。非常に興味があったのだろうと推察できる。また、彼は同郷の学友等にコロンブスの冒険を話していただろうし、彼自身がコロンブスの冒険を非常に期待を持って応援していたのではないか? と思う。やはりコロンブスの計画にはロマンがあったと思うからだ。ただ、ベラルディ商会が破産した後、アメリゴがコロンブスの航海にかかわっていたかは不明だ。コロンブスの第3回の航海1498年~1500年。6隻の船で出航。コロンブス自身が逮捕され本国へ送還。コロンブスの第4回の航海1502年~1504年。小型のボロ舟4隻。イスパニョラ島への寄港禁止。4回目の航海ではイスパニョラ島への寄港禁止だったはずだが・・。コロンブス兄弟のイスパニョラ島の状況を知れば、コロンブス自身による返済も不可能に思えた。何よりコロンブスには商才も無かったし、人をまとめて統治するなどと言う能力も皆無だ。結局、コロンブスがベラルディのお金を返済したかも不明。1504年末にイサベル女王が亡くなるとスペイン政府はよりコロンブスに冷淡に。名誉だけは残されたが・・。ただスペイン政府はコロンブスの功績を高く評価せざる終えなかった事は事実。それだけ新大陸からの上がりは大きかった。最も、後世振り返ればベラルディら商人のコロンブスへの投資は別の形で還元されている?新大陸で略奪して得た一時的な金銀宝石よりも、実は新大陸からもたらされた農産物(トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、トマト、タバコ)の方がはるかに欧州人に恩恵をもたらしている。何にしても現場が一番キツイ。身銭をいっさい切らなかったスペイン王室が一番楽して得をしたと言う事だ。アメリゴ公証人から航海士? への転換?アメリゴは必然的に? ベラルディ絡みで当初からコロンブスの航海に関与したのだろう。いや、その後の行動を見ればアメリゴは積極的にベラルディの意思を引き継いだのではなかろうか?セビリアに留まりベラルディの死後、アメリゴは新世界への 2 つの航海に参加している。1497年~1498年第1回航海(First time)? カリブ海沿岸を探検。※ この航海に関しては本当に行っているか物議があるらしいが、アメリゴ自身がいつか渡航してみたいと願っていたのは確かだろう。その最初がどこか? が解らないが・・。1499年~1500年第2回航海(second time) カリブ海を南下。ブラジル北岸まで探検。この航海はスペイン王の依頼によるものとされ、5つの探検隊が南米を航海しベネズエラ沿岸とブラジル沿岸を探索している。(これは現在の南米大陸北岸への探検である。)この時点で、ここはアジアでもインドでもまして日本の近くではない。と疑問に思ったスペイン政府による調査だったのでは? と思われる。アメリゴもこの調査隊に参加はしていたが、彼の役割がはっきりしていない。投資家の代表として商人として乗っていた可能性。あるいは実は測量機器を扱えるアメリゴはこの航海で緯度など多少の測量をしていたのではないか? と思われる。これは、コロンブスの3回目の航海(1498年~1500年)期間で、コロンブスが報告したベネズエラの真珠の産地調査も含まれていたが、スペイン政府は、植民地と本国の貿易を統括する後のセビリア通商院の設置(1503年)に向けた現地調査であったのではないか? と思われる。ポルトガルによる南米大陸到達この頃、東廻りで本物のインドに到達していたポルトガルの遠征隊が南緯16度52分の地点で偶然にも(現在の)ブラジルを発見(1500年)してしまう。ポルトガル貴族のペドロ・アルヴァレス・カブラル(Pedro Álvares de Gouveia)(1467年or1468年~1520年)である。ポルトガル王マヌエル1世は、そこが未発見の土地なのか? また島なのか? 大陸なのか? ブラジル北岸の探検経験をもつアメリゴを呼び寄せた。ただの探検ではない、ポルトガルでは天体観測から導き出した測量による正確な位置の特定(地図の製作)が求められていた。アメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)(1454年~1512年)かくしてアメリゴ・ベスプッチは1501年~1502年第3回航海(Third time)、今度はポルトガル王の依頼で南米大陸東岸に沿って南下(南緯50度まで到達)し測量?※ 彼は南米初の天体観測? を行ったヨーロッパ人と言う事になっているらしい。天体観測するアメリゴ・ベスプッチ ウィキメディアから借りました1499 年の航海中にアストロラーベ(astrolabe)で南十字星(Crux)を発見。南天でも天の南極近くにある星座のため、大航海時代以来おもに南十字座が天の南極の方角を知るために使われた。確かに北半球と南半球では見える星座も違うからね。計測するにしても常識が覆るから慌てたでしょうね。因みに、アメリゴはこの航海で立ち寄った大西洋上のベルデ岬諸島? カーボベルデ (Cabo Verde)で問題の書簡をしたためたとされている。その書簡こそが新世界を世に知らしめた2つの書簡の一通である。South Atlantic(南大西洋)Homem and Reinel`s portolano of Brazil 1518年~1519年ポルトガルがたどり着いた南大西洋にあった大陸。南米ブラジルの絵図です。海図の本「Eary Sea Charts」からポルトガル領ブラジルの証明の為に利用されたアメリゴポルトガル王の元でアメリゴは翌年2回の探検調査にも行っている。1503年~1504年第4回航海(4th time) 南米北東部沿岸を探検。※ この遠征に関しても物議があるらしい。この時点で、アメリゴはすでに地理学者? のごとき扱いとなっているが、経歴を見ても彼がどこでどうして計測を習得したかは書かれていない。ただ考えられるのは叔父の学舎時代? である。もともと天文学が好きだったと言うアメリゴはすでに計測はできたのかもしれない。あるいはポルトガル船で南米に向かったこの時、ポルトガルの航海士から測量や地図の製作について学んだ可能性もあるかも。。それにしてもポルトガル王はなぜアメリゴを呼び寄せたのか? 水先案内人として南米の確認をしてもらいたいだけだったのか? 実は、最初からそこにはポルトガル王の思惑があったのだ。と後から解る。後にアメリゴは学術書の執筆の為にこの航海時のデータが欲しいとポルトガルに求めたらしいが、機密情報として応じてくれなかったらしい。それはアメリゴの調査報告により? ポルトガルはトルデシリャス条約を盾に南米のこの領土も主張する事になるからだ。※ ブラジルがポルトガル語圏になったのはこの条約のおかげだ。これら経緯を鑑(かんが)みると、ポルトガルは最初からペドロ・アルヴァレス・カブラルが発見した土地はトルデシリャス条約(The Treaty of Tordesillas)ラインである西経46度37分内に入っている事は解っていた。だから敢えて、スペインからアメリゴを呼び寄せ、彼がスペイン人として探検した領土がどちらの領域に入っているのかの確認の意味が大きかったのではないか? と推察できる。また、ポルトガルはスペインがまだ到達していない未開の以南を南緯50度まで進んだ。そこにフラグを立てて自領にしたのである。スペインのアメリゴが証人でもある。ポルトガルにしてやられた感じもする。ポルトガルは正統性を主張する為の正確な南米地図を製作しているのである。South AtlanticPortolano of the coast of southern Brazil and Rio de la Plata1538年ブラジル海図の本「Eary Sea Charts」からポルトラノ(portolano)とは、いわゆる海図です。13世紀頃から地中海の船乗りたちの間で用いられた海図で、方位線網が図面を覆っているのが特色。羅針盤の登場がこうした海図を誕生させた。それはポルトガルが先導した為? 大航海時代に新大陸のブラジルの地図もすぐさま造られている。※ 以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊」の中、「ポルトラノ(portolano)と磁石羅針盤」で1554年の黒海の海図(Portolano)を紹介しています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊当時、ポルトガルはすでに詳細な海図の作成ができたが、スペインにそれは出来なかった。当時のスペインは測量も調査もせずにアバウトにお宝のありそうな地域に侵入していただけだった?※ 当時の測量器については以前「ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)」の中、サンカントネール美術館から観測器具の写真を紹介している。リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)アメリゴがスペインの初代の航海士総監となった理由スペインの入植地はインディアではなく、新大陸であった。そしてまもなくポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)(1460年頃~1524年)が香料諸島に到達しようとしていた。※ ヴァスコ・ダ・ガマ最初の航海1497年~1499年。インド西岸到達は1498年5月。ポルトガルの行動にスペインが慌てたのは言うまでもない。外海への海洋進出においては、ポルトガルよりスペインぱ遙かに遅れていたからだ。だいたいスペインは航海技術も地理情報の管理にしてもポルトガルより遙かに劣っていた。航海士の訓練や免許にしてもしかり。行き当たりばったりで先に船を出したから、おそらくカリブ海の測量なども当初全くしていなかったのだろう。※ スペイン本国では、どこの土地からどんな産物が上がってくるのか? など当然データとして残さなければならなかったはずだ。(後にセビリア通商院が設立され管理。)1505年、アメリゴがポルトガルよりスペイン(セビリア)に帰国。アメリゴはスペイン王フェルナンドに招かれる。そこでアメリゴはスペインがポルトガルよりいかに遅れているかを語ったのだろう。アメリゴの助言から? 航海士免許制度、航海訓練所の創設、王立地図台帳の作成をスペインでも導入する事になった。以降スペインの海洋進出の遅れを取り戻すべくアメリゴは尽力する事になる。そして1508年にアメリゴはスペインで初代の航海士総監(Pilot Major)に就任した。アメリゴが初代となって航海技術を教え、新大陸へ行くスペインの航海士を育てたのだろうと思われる。このアメリゴの経緯を見ると、逆に? もしかしたらアメリゴは敢えてポルトガルに渡り、そして残り、海洋研究や船乗りの学校の事、地図製作の為の計測技術など航海に関するあらゆる事を学んでいた可能性が考えられる。つまり、アメリゴがポルトガルにいた1501年~1505年はスペインの為に海洋学と航海術の勉強の為に留学していた期間と言う解釈ができる。そしてその時、ポルトガルで彼は最新のアジアの地図を入手し、アジアの最南端の緯度を確認したのかもしれない。アメリゴは1501年~1502年(Third time)、新大陸で南緯50度まで到達している。コロンブスがアジアの証明をしようとやっきになっていた最後の航海の時、すでにそこはアジアではないとアメリゴが証明していた事になる。アジア最南端は北緯1度のマレー半島なので、南緯50度以上続くそこはアジアではない。全くの別の緯度に存在する大陸に他ならない。・・と言う理論だ。※ マレー半島の最南端でありユーラシア大陸最南端でもある町はマレーシア(Malaysia)のタンジュン・ピアイ (Tanjung Piai) 北緯01度16分 東経103度31分因みに北米と南米が陸続きである事、また太平洋が確認されるのは1513年の事。アメリゴは1512年に亡くなっている。Amerigo Vespucci, Mundus Novus アメリゴ・ベスプッチ「新世界」アメリゴの業績はどのように世間に知れ渡ったか?それはアメリゴが生前したためた書簡2通が本として出版され紹介された事による。1通は学友でありかつての主であるロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチに宛てた手紙である。「Amerigo Vespucci, Mundus Novus, Letter to Lorenzo di Pierfrancesco de' Medici」『アメリゴ・ベスプッチ「新世界」』ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチへの手紙。※ 新世界(Mundus Novus)の初版がいつか定かでないが1504年にはすでに発行されていて、出版から 1 年以内に、イタリア語、フランス語、ドイツ語、オランダ語など多言語で翻訳され12 の版が印刷。1550 年までに 50版は発行された。もう1通はフィレンツェ共和国の政治家ピア・ソデリーニ(Pier Soderini)に宛てた手紙とされている。彼もまた叔父であるジョルジョ・アントニオ・ヴェスプッチの元で学んだ学友らしい。※ 1505 年頃にフィレンツェで出版先に触れたが、アメリゴはポルトガルの下での航海での帰途「我々の祖先も、誰も知らない土地」、「そこは島ではなく大陸」、「新世界」としてメディチ家のかつての主にして学友であるロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチに手紙を送っている。もともと学友である。コロンブスの航海の事も度々報告していたと思われるし、自分がついに船で航海に出た事。そしてそこは「未発見の土地」と言う「ビッグニュース」を真っ先に知らせたかったのかもしれない。この書簡が送られたのは1502年。ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ (1463年~1503年)は1503年に亡くなっているので、もしかしたら見舞いを兼ねた手紙だった可能性もある。また1505年に書かれた? とされるソデリーニの手紙は、ポルトガルの海図に基づいて新大陸を発見したとする報告である。こちらもまたかつての学友への書簡であるが、もと学友として送ったのか? 故郷フィレンツェ共和国の政治家への報告だったのか? ソデリーニの手紙はロレーヌ公国の学者らの目にとまったらしく、彼らは手紙のフランス語訳と、最新の西大西洋の沿岸を表したポルトガルの海図を入手して、アメリゴの功績を称賛したと言う。この2つの書簡により新世界(Mundus Novus)は広く認知される事になる。しかし、新世界を知らしめたこれらアメリゴの書簡自体が、疑問や疑惑や信憑性などが当初から多数取り沙汰され論議されている。これはあくまで私の推測です二つの書簡はそもそもアメリゴの功績を世間に知らしめる目的の手段であったと思う。実際にロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチに送った手紙は本当だったと思えるが、彼はまたこの事実を複数の人間に伝えていたはずだ。彼が最も伝えたかったのは彼を教育した叔父ジョルジョ・アントニオ・ヴェスプッチ(Giorgio Antonio Vespucci)(1434年~1514年)であったはず。(叔父はまだ存命中)先に紹介している通り、この叔父はフィレンツェで最も有名な人文学者の 1人。アメリゴの新世界の証明を誰よりも支持したであろう人物だ。それ故、この功績をどうにか世に出してあげたいと考えたのではないか?その最も効果的な方法としてメディチ家の名を利用した。次にフィレンツェ共和国の政治家ピア・ソデリーニへ報告の手紙を出した。(こちらも元学友)これは事実か? 事実でないかはさておき、フィレンツェ共和国の代表に出したと言う所に意味がある。本来ならフレレンツェ共和国の代表にロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチがなっていたかもしれなかった。(養父と上手くいっていれば)ところが先に紹介したようメディチ家でいろいろあった時代である。メディチ家はフィレンツェから追放されていた期間でもある。※ メディチ家は1512年にフィレンツェに帰還。まず、多くの者に知ってもらう為の手段として、この形をとって公表したのではないか? 彼がそもそも専門の学者であったら、もっと他に公表の仕方はあったのかもしれないが、アメリゴはどこにも所属していないただの一般人。世論からアメリゴの功績として評価させたかったのではないか?それ故、もはやアメリゴが何回航海に出たかは問題ではないと思う。また、世に出す為に関係者が悪意はなく、意図的に手紙の内容を変更した可能性は十分考えられる。そもそも効果的に世に知らしめる事のみが目的だったろうから・・。だから今更、そんな論議で彼を否定するのは違うだろう、と思うのだ。文系だった彼が、計測の技術を身に付け、データを出して新大陸の存在を世界に知らしめた人物である事は間違いないのだ。そしてかつての仲閒が彼の仕事を評価して後押ししてくれた。・・と言う話しなのではなかったのか?コロンブス(Columbus)の野望すでにコロンブスについてはあちこちで紹介しているが・・。ジャンネット・ベラルディとアメリゴ・ヴェスプッチが惚れた? コロンブスの魅力は何だったのだろう。ジャンネットもアメリゴも、コロンブスに共感した? そして同じ夢を見たのだろうか?コロンブスは後に名の出る征服者・侵略者・コンキスタドール(Conquistador)と同質ではない。彼は純粋に冒険者(adventurer)だったのかもしれない。彼の一生はアジア探求の旅だったと言えるからだ。コロンブスはマルコポーロに憧れていた?彼のバイブル「東方見聞録・マルコポーロの冒険(The Travels of Marco Polo)」で知った黄金の国・ジパング。未知のアジアを旅したマルコポーロが記した東の果てにあるとされる伝説の黄金の国。そこに辿り付きたい。と言うロマンを多分に秘めた夢の冒険家だったのではないか?※ 件(くだん)のジパングは日本ではないと言う説もあるようですが・・。私なりに考察したものを以前紹介しています。ジパングが気になる方は是非一読お願いします。「京都五山禅寺 3 禅庭の世界と文化+黄金の国ジパング」・クビライとマルコボーロと黄金の国ジパング・黄金の国ジパングの出所リンク 京都五山禅寺 3 禅庭の世界と文化+黄金の国ジパング「西廻り」と言うポルトガルとは反する航路でアジアに向かおうとしたクリストファー・コロンブス (Christopher Columbus)(1451年頃~1506年)。当時まだ地球が球体だと言う事は証明されていなかったが、どうもコロンブスは球体だと信じて「西に進めば東のジパングに辿り付く」と確信していたようだ。その根拠となるのは、ポルトガル宮廷で最古の地球儀を作ったと言われるマルティン・ベハイム(Martin Behaim)(1459年~1507年)と知り合い意見交換していたと言う説である。ただ彼は地球のサイズをかなり小さく見積もっていたと思われる。実際コロンブスは中米の海をアジアと勘違いした。たまたまエスパニョラ島から金が産出されたが為にそこをジパングと勘違いした。だから彼はそこがアジアだと証明する為に今度は香料諸島を探すべく、統治を弟にまかせて調査航海に奔走する。(それが失敗だった。)実は彼は、アジアに到達できたなら、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地からの上代の10分の1を獲得する事をイザベル女王と契約していたので、発見した土地の統治を優先させるべきであった。野心的な部下らの暴走があった事も事実だが、彼は発見したエスパニョラ島の統治に失敗。度重なる現地反乱などの失態が続き最終的に排除される事になる。※ エスパニョラ島とは完全に引き離され、3回目以降立ち寄る事も出来なくなった。明らかにそれはスペイン政府の契約違反であるが・・。彼はエルナンコルテスやピサロのようなコンキスタドールとは違っていた。本質の所で、彼は夢の冒険者であったから、金や名誉よりも己の探究心の方が勝った結果だろう。エスパニョラ島を取り上げられても、嘆願し、今度は香料諸島の発見を目的に3回目、4回目と調査航海に出る。「西に進んでもアジアに到達できた」論を証明したかったのだろう。むろん香料諸島が発見出来れば、黄金に匹敵する香辛料の市場が開け、それはスポンサーらの収益となる。先にも触れたコロンブスの3回目の航海では大西洋を最も南側ルートで南米大陸北岸に到着。その時ベネズエラで真珠を見付けて報告。コロンブスは出資者の為に還元できる財を常に求めていたのは確かだ。※ アメリゴらはその場所を特定し、後にスペイン人は真珠の市場として現地を荒らすのである。運にも見放されたのかもしれない。アジアではなかったが、4回目の航海では、すぐ彼の目前に黄金文化を持った人々の土地があったし、あと少しの距離で太平洋だったのに・・。。彼は沿岸探索しかしなかったからだと思われる。調べれば調べるほどアジアは遠のいた。結果、香料諸島もアジアの海峡も見付けられず、でも最後までアジアと信じて? 亡くなったらしい。最後の扱いも悪く、無念な死ではあったが、コロンブスがスペインにもたらした恩恵は大きい。ベラグア公爵(Duke of Veragua)の称号をもらい受け、その家系は現在も続いている。ところでコロンブスに追随した輩(やから)はどうしたか?コロンブスがエスパニョラ島で黄金を見付けてから、20年は皆、カリブ海での黄金探しに夢中になっていたらしい。もともと黄金の量は多くはなかったから黄金の産出が減ると今度は対岸の大陸の方に目を向け、また奥地に進む事になる。その話は本線の「アジアと欧州を結ぶ交易路 」の方で・・。記念碑 コロンブスの塔(Mirador de Colom)バルセロナのベイ・エリアにあるコロンブスを頂いた塔は1888年のバルセロナ万博の時にアメリカとカタルーニャの交易を記念して建てられたもの。高さ60m。コロンブスは大西洋岸のパロス港から出航してセビリアに戻っているのでバルセロナは全く関係無いと思うが・・。左手に航海図を持ち、右手は新大陸(アメリカ)の方角をさしているらしい。バルセロナからでは方角解りにくいですよね。コロンブスは確かにスペインでは称えられています。彼がスペインにもたらした経済的功績は大きい。新大陸に名前は付かなかったけど、本人はジパングであって欲しいと最後まで願っていたのだから。まあしょうが無いね。※ 実際、南米大陸(ブラジル)の発見者? はアメリゴ・ベスプッチで間違いない。しかも測量したのも彼でポルトガルはそれを認めている?西インド諸島(West Indies)とコロンビア(Colombia)でも代わりにコロンブスの名が付いた国が南米にある。コロンビア共和国(República de Colombia)である。それはかつてコロンブスが4回の航海で回遊していたカリブ海域に位置している。下は現在のカリブ海の地図です。※ カリブ海の名はコロンブス以前に南アメリカを現住としていたカリブ族(Caribs)に由来する。コロンブスが1492年12月イスパニョラ島(La Española)(Ispayola)に到達。欧州人による新世界最初の街が建設された島である。現在イスパニョラ島は西側3分の1がハイチ共和国(Repiblik d Ayiti)、東側3分の2がドミニカ共和国(República Dominicana)の統治となっている。因みにこの南北アメリカ大陸に挟まれたカリブ海域、キューバやイスパニョラ島に連なる諸島群には西インド諸島(West Indies)の名がつけられている。これは、インドに到達したとコロンブスが誤解したことに由来する名前がそのまま残った場所だ。地球儀を見ながら、なぜインドでないのにインド諸島の名が付いているのか子供の頃は疑問であった。理由を知った後もややこしいから止めて欲しい・・なんて思ってた中南米の国々の公用語以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス」の中、「世界を分割したトルデシリャス条約とサラゴサ条約」について紹介したが、地球をスペインとポルトガルで分割したまさにその支配権の公式が現在にも跡(あと)を残している。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス以下に中南米の国と公用語を記しましたが、スペイン語が多勢を占めています。トルデシャリス条約でポルトガルは辛うじてブラジルの権利を得て南米に進出。スペイン、ポルトガルの後に続いてアメリカに植民地を開いたフランス、オランダ、イギリス。が、ナポレオン戦争が勃発するとその戦火はアメリカ大陸にも飛び火。ここで再び利権が移動。現在の国は植民地と言う支配からほぼ独立を果たしているがその公用語に旧支配国が見える。自分用に仕分けした物です。参考にどーぞ一部間違っていた所を修正しました。中米スペイン語(Spanish)を公用語とする国メキシコ(Mexico)エルサルバドル(El Salvador)グアテマラ(Guatemala)コスタリカ(Costa Rica)ニカラグア(Nicaragua)パナマ(Panama)ホンジュラス(Honduras)ドミニカ共和国(República Dominicana)英語(English)を公用語とする国ベリーズ(Belize)フランス語(French)を公用語とする国ハイチ共和国(Repiblik d Ayiti)南米スペイン語(Spanish)を公用語とする国アルゼンチン(Argentina)ウルグアイ(Uruguay)エクアドル(Ecuador)コロンビア(Columbia)チリ(Chile)パラグアイ(Paraguay)ベネズエラ(Venezuela)ペルー(Peru)ボリビア(Bolivia)ポルトガル語(Portuguese)を公用語とする国ブラジル(Brazil)オランダ語(Nederlands)を公用語とする国アルバ(Aruba)スリナム(Suriname)※ ギアナ地方は1499年発見。その後にオランダ、イギリス、フランス、スペインの探検家等が探検するが、入植したのはイギリス人とオランダ人。両国は領有権を巡り争ったが最終的にオランダが領有権を得た。当初、彼らは黒人奴隷を使役してタバコ栽培を行っていたが加えてコーヒー、カカオ、サトウキビ、綿を栽培。奴隷の待遇は劣悪で逃亡奴隷が多く出たらしい。英語(English)を公用語とする国ガイアナ(Guyana)※ スペイン人とポルトガル人の手が及ばなかったが後にオランダ西インド会社の管轄下に入る。が、ナポレオン戦争が勃発すると欧州のみならず戦闘はアメリカ大陸にも及ぶ。中南米のフランス領およびオランダ領はイギリス軍によって陥落し奪われていった。フランス語(French)を公用語とする国フランス領ギアナ(French Guiana)※ フランスがギアナに入るのは17世紀初頭。ルイ16世がトリアノン宮殿の植物園で働いていたルイ・クロード・リシャール(Louis Claude Marie Richard)(1754年~1821年)を1781年ギアナに派遣。植物の調査研究をさせている。ギアナもオランダ、イギリス、ポルトガルと分割されたり支配者が交代。今回は「アジアと欧州を結ぶ交易路 」番外 扱いでお願いします。Back number入れて起きます。Back numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador) コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン体調不良で1週間ダメでした。書けないと思っていたのに結構たくさん書きましたね。写真が少ないのが難ですが・・。
2022年08月27日
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リンク先追加しました。「神の香はユダヤ教とキリスト教の典礼にも継がれた」の項、年代など書き足し、若干詳しく書き換えさせていただきました。ユダヤ教に香を伝えたのはもしかしたらモーセかもしれない? 欧州からアジアへの航路が開けた大航海時代、先にルートを開いたポルトガルに続き、香辛料(Spices)貿易に参入する国が増えた。各国は主なスパイス・ハーブの産地であるアジアへ直接買い付けに向かったのである。その少し前、大航海時代以前、それらは主にアラブ人により、ヴェネツィアやジェノバの交易商経由で欧州にもたらされていた。それらは非常に重要な交易品であったが、欧州人はそれがどこで生産され、どんなルートで運ばれてくるのかは全く知ら無かった。※ アラブ人はそれを秘密にしていたからだ。この頃の用途はむろん古来からの香(こう)の材料であり、教会の典礼でそれらは非常に重要な品であったが、同時に薬事品としての需要もかなり増えていたと思う。※ スパイス・ハーブの薬用としての記述はローマ帝国時代に遡る。煎じたハーブティーの歴史は古代ギリシャ時代に遡る。中世初期でもハーブティーは飲まれていただろうし、また食生活の中でも需要を増してきていただろうが、それはあくまで一部金持ちのもの。スパイス・ハーブが薬用としても、嗜好品としても一般庶民にまで浸透してきたのが大航海以降と思われる。また、その頃コショウ、クローブ、シナモンの需要が増大してきていた。スパイスのシナモンには体を温める作用、発汗・発散作用、健胃作用を持つ生薬があり、クローブには体を温める作用、胃腸の消化機能を促進、(消化不良・嘔吐・下痢・しゃっくりや吐き気)の他に腹部の痛みにも効く。上の素材にオレンジピールorレモンを加えて赤ワインで煮込んだらグリューワイン(Gluhwein)ができる体を温めるそれは風邪をひいた時には最適な飲み物だ。リンク クリスマス市の名物グリューワイン一般庶民も家庭でスパイ・スハーブを煎じて飲む時代になっていたと言う事だ。話しを戻して・・化粧としての利用も古代ローマ時代から確立されていたが、スパイス・ハーブから精製した精油・エッセンシャルオイル(essential oil)で化粧水やクリームも造られていただろう。おそらく女性の基礎化粧品としての販売および普及も中世には始まっていたと思われる。10世紀には香水も登場しているし・・。スパイス・ハーブは、オールマイティーな万能素材(主に薬用)で、中世の欧州人にとっても、もはや絶対になくてはならない必需品となっていたから、当然彼らは欧州中でそれらを捜したであろう。が、どうしても手に入れられない物が多数。そのほとんどは欧州では生育しない事を知った?当時はキリスト教徒 vs イスラム教徒の対立が酷くなった時代である。否が応でもそれらをイスラム教徒のアラブ人から買わなければならない。それらは彼らの言い値で、高価なお宝として、金や宝石と同等に扱われていたと言うわけだ。イベリア半島のレコンキスタが終息し、キリスト教徒が再び北アフリカに侵攻した時、ポルトガルが真っ先に北アフリカ遠征隊を送ったのは、スパイス・ハーブを求めた事が最大の理由だったと思う。だが、北アフリカルートでは見つからなかった。ポルトガルはアフリカ大陸をぐるっと回って船でスパイス・ハーブの産地であるインド洋を目指すに至ったのだ。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルさて、今回は単独にするか悩みましたが「アジアと欧州を結ぶ交易路 18」に入れ込みました。ちょっと趣向を変えて香や香辛料のトレードから交易の歴史を考えてみる事にしました。しかし、インパクトのある写真が無くて迷走BC15世紀からエジプトのスパイス・ハーブが増えた事など踏まえて、キーマンであるハトシェプスト女王がらみでルクソールのハトシェプスト葬祭殿デル・エル・バハリ(Deir el Bahri)となりました。偶然にも葬祭殿には香木の絵もあり、第18王朝ハトシェプスト女王の元でプント国との交易が活発化していた事が判明。※ プント国はエジプト古王朝時代(ハトシェプストの時代より1000年も前)からの取引先。古代から遡ってスパイス・ハーブの歴史をたどったら・・。神の香り → 薬用 → 料理 大航海時代に彼らが欲しがったのは薬としてのスパイス・ハーブ。料理を美味しくする為のスパイスなんてレベルではなかった。最も料理に入れられるスパイスも本来は薬用が加味されていたが・・。アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史デル・エル・バハリ(Deir el Bahri)、ハトシェプスト葬祭殿第18王朝第5代王 ハトシェプスト(Hatshepsut)ハトシェプスト女王とプント国(Land of Punt)中継ぎ貿易国? アクスム王国(Kingdom of Aksum)エーベルス・パピルス(Ebers Papyrus)エジプトのキフィ(Kyphi)太陽神ラーへの信仰から生まれた?朝昼夜に焚かれた香キフィ(Kyphi)の成分ミルラ(Myrrh 没薬)とフランキンセンス(frankincense 乳香)ムクロジ目(Sapindales)カンラン科(Burseraceae)の樹液ミルラ(Myrrh 没薬)フランキンセンス(frankincense 乳香)キフィ(Kyphi)に影響を受けた中東や欧州グレコローマン(Greco-Roman)時代ローマ帝国時代神の香はユダヤ教とキリスト教の典礼にも継がれたキリストへの贈り物ボタフメイロ(botafumeiro)精油・エッセンシャルオイル(essential oil)お菓子造りでお馴染みシナモン(Cinnamon)はセイロン島原産であるが、BC2700年頃の中国で、すでに香木(こうぼく)の一つとして使用されていたらしい。また、そのシナモンはBC1500年頃にはエジプトまで伝わり香のみならず防腐剤としても利用されていたらしい。特にシナモンは女性が身に付ける必需品の香りにもなったとか・・。シナモンがいつエジプトに入ったのか? の時期は特定できなかったが、冒頭ふれたように、BC1500年頃と言うのがエジプト第18王朝時代で、古代エジプトが最大販図に領土拡大していた時代なのである。特に平和外交を推し進めたハトシェプスト女王の治世に交易販図も拡大。インドや遠く東南アジアや地中海のクレタに至るまで交易範囲を広げている。特にスパイス・ハーブの取引先、プント王国との関係に、ハトシェプスト女王がかなり力を入れていたようだ。多くの使者が貢ぎ物献上してくる姿や交易品の数々がルクソール(Luxor)西岸に女王が建てたデル・エル・バハリ(Deir el Bahri)の壁画から伺い知れる。デル・エル・バハリ(Deir el Bahri)、ハトシェプスト葬祭殿第1テラスからエジプト、ルクソール(Luxor)のナイル西岸、王家の谷と山を隔てて位置する窪地(くぼち)にハトシェプスト女王が建立したデル・エル・バハリ(Deir el Bahri)がある。イエロー上のがハトシェプスト女王の葬祭殿デル・エル・バハリ(Deir el Bahri)ブルーが王家の谷ピンクが王妃の谷オレンジが貴族の墓地第18王朝の時に伝統的なピラミッドを造るのを止め、王家の谷に岩窟墓を造った。また、それまで死者に対する儀式を行う施設は墓に隣接して造られていたが、18王朝以降、墓と葬祭殿は独立して建てられるようになったのである。ナイル川河岸(ルクソール西岸)は実質の死者の国である。西岸の砂漠の縁に古代テーベの遺跡として王墓の集まる王家の谷、王妃の谷、貴族の墓があり、また、西岸にはおよそ15の葬祭殿が発掘されている。最も北にあるのがセティ1世:(Seti I)( 在位BC1294年~BC1279年)の葬祭殿。最も南西にあるのがラムセス3世(RamessesIII)( 在位BC1198年~BC1166年)の葬祭殿。特に有名なのが、ハトシェプスト女王(Hatshepsut )(在位BC1479年~BC1458年) の葬祭殿として知られるデル・エル・バハリ(Deir el Bahri)である。特殊な構造を持つこの葬祭殿は古代エジプト史上、建築では最高傑作として一目置かれているそうだ。第2テラスから1997年11月、この階段前でイスラム原理主義過激派による無差別テロによる銃撃事件が起きて、たまたま運悪くいた日本の観光グループ10名も標的になった。主に被害は外国人観光客で62名が死亡し85名が負傷。酷い事件だった。この時、エジプトには日本のグループが3つ入っていて、私の家族が前日にここで観光していた。事件の一報を聞いてカイロのホテルに何度も電話したがエジプトの電話回線が制限されてなかなか繋がら無くてやきもきした事を思い出す。亡くなった方の事を思うと、運があったと手放しに喜べ無いが、理不尽な死は、海外に行けば行くほど確率も高くなる。旅行も良い事ばかりではないと言う事だ。第2テラス向かって左にハトホル女神礼拝堂がある第2テラス左、ハトホル(Hathor)女神礼拝堂のハトホル柱第3テラス本来は左右に11柱のオシリス像が並んでいた。第3テラス オシリス神(Osiris)の列柱基本、神殿の中は撮影できないので、撮影している壁画は外の部分です。第2テラス アヌビス神礼拝堂の壁画から供物を受けるアヌビス神(Anubis) ハトシェプスト女王葬祭殿 供物台には香油や飲料、羚羊(かもしか)や水鳥の肉、野菜、果物、ロータス(蓮)の花が並ぶ。供物を受けるアメン神(Amen)下は香油の部分を拡大羚羊(かもしか)水鳥、アヌビス神礼拝堂セケル神(Seker)にぶどう酒を捧げるトトメス3世(Thutmose III)(在位 BC1479年~BC1425年エジプト考古学の第一人者、吉村作治氏の解説によると、ぶどう酒を捧げているのは天空の神ホルス神(Horus)ではなく、冥界の神セケル神(Seker)らしい。※ セケル神とホルス神、そもそも役割が違った2柱であったが、今はミックスされてしまったのかも?因みにこちらはホルス神(Horus)かも。極めて芸術性が高いので載せましたところで、ここには香木の樹液を運ぶ人や女王が和議を結んだプント国(Land of Punt)からの貢ぎ物、またプント国から運ばせた? 香木も描かれている。香木と牛 第2テラス下は部分拡大。よく見ると牛が数頭描かれている。アメン神の庭園にプント国から運ばれた香木が移植された。牛もプント国から連れてこられたのかもしれない。第18王朝第5代王 ハトシェプスト(Hatshepsut)ハトシェプスト女王(Hatshepsut)(在位BC1479年~BC1458年) は第18王朝、新王国時代のファラオである。ハトシェプストは女性でありながら王として君臨。本来男性が継ぐ王位をなぜ彼女が継げたのか?そもそもハトシェプスト女王はトトメス1世の正妻の娘。夫(トトメス2世)はトトメス1世の第2婦人の子。二人は異母兄弟の結婚。正統性は十分あったが、男でなければファラオにはなれなかったから王位はトトメス2世(在位 BC1518年~BC1504年)が第18王朝の第4代ファラオとして即位。自分はその王妃となった。しかしトトメス2世は早世する。二人には世継ぎがいなかった事から次代はトトメス2世と側室? 巫女?の子がトトメス3世(Thutmose III)( 在位BC1479年~BC1425年)として即位するのだが、幼少故? 摂政も必要だ。彼女は王位の正統性を再び持って、トトメス1世の息子として、男装して王(ファラオ)として即位する事になる。付けひげを付けて短い腰巻きをし、そんな姿で現されていたから後世の人がハトシェプストが女王だったと気付くまで時間がかかったらしい。下に紹介するハトシェプストのスフィンクスはそんな意味が込められていたと言うわけだ。また、壁画の中にオベリスク(obelisk)を運ぶ船も描かれている。オベリスクも本来は王でなければ建てられなかったらしい。BC1479年、共同統治者として、ハトシェプストは即位。第18王朝の第5代と第6代ファラオは同時に誕生するに至る。※ 共同統治は22年。※ トトメス2世との間に娘がいたが早世?※ ハトシェプストを第5代とするのが一般的だが、本当はトトメス3世の方が第5代だったかもしれない。彼はハトシェプスト女王亡き後、32年長く生きてエジプトを統治した。ハトシェプスト女王のスフィンクス(BC1473年~BC1458年頃) 6759 kgニューヨークメトロポリタン美術館のアーカイブから借りました。花崗岩でできた6759 kgの像は、採石場に捨てられていたものをメトロポリタン美術館の発掘チームが1920年代に発見し復元したもの。元は共同統治時代に葬祭殿入口の両脇(対)に置かれていたものと考えられているそうだ。なぜ採石場で見つかったのか? ハトシェプスト女王亡き後、トトメス3世の指示で破壊され採石場に捨てられたらしい。ハトシェプスト女王とプント国(Land of Punt)古代エジプト以来ミルラやフランキンセンスなどの香木は神事には欠かせない素材であり歴史を見ればBC4000年頃から神に捧げる香りとして使われていた。それ故、ミルラを得る為に古代エジプトの王らはアラビア遠征を行っていたとも言われている。冒頭に触れたが、第4王朝の頃、BC2500年にはプント国(Land of Punt)との間で没薬・ミルラ(Myrrh)と白金(platinum)の取引があったと記されいるそうだ。ハトシェプスト(Hatshepsut)の夫、第18王朝の第4代王トトメス2世(Thutmose II)(在位 BC1518年~BC1504年)の時代まではエジプトは領土拡張の遠征を推し進めていたらしい。※ それ以前は謎の異民族ヒクソス(Hyksos)との戦いで劣勢だったらしい。BC15世紀頃エジプトは最大販図を示している。上にプント国の位置を示したが、実際の所は特定にまでは至っていないらしい。ハトシェプストが王位に付くと軍事遠征は無くなり内政や交易を重視し、この時代にプント国との平和な交易が再開された。ハトシェプストが建立した葬祭殿、デル・エル・バハリ(Deir el Bahri)の壁画は、そんなプント国(Land of Punt)との交易の絵画が驚くほど多く描かれている。また、ハトシェプストは地中海の島クレタとの交易も拡大しているし、シナイ半島では鉱物資源の採掘の遠征も出しているそうだ。天然ソーダと共にガラス製品も運ばれていたと思われる。絵画にゴブレットらしき物も見える。ガラスのグラスはあったろうし、ガラスの香油の壺もすでにあったはずだ。また、シナイ半島からはレバノン杉を建材として運んだはず。それらは棺の材料にもされていた。※ クレタ島からはぶどう酒と石灰が入ったかもしれない。壁画では、プント国の長からの貢ぎ物が多数献上され、エジプトの兵士も多数プント国に出向いている。実際、葬祭殿の建築が開始された頃にプント国に大規模な交易船団を出している。これは葬祭殿の為に必要な物資の調達が主な目的と思われるが、そもそも侵略を目的とした圧(あつ)による外交ではなく、あくまで穏やかな外交関係を上位のエジプトから求めたと言える。先に紹介したが、ハトシェプストはプント国から得た香木をアメン神の庭園に移植している。育つか育たないか? の別問題はあるが、本来お宝である香木自体を他国の者に教える事はないはずだ。エジプトに贈ったと言う事自体が驚きであり、よほど信頼関係ができたのではないか? と言う気がする。神の国(Ta netjer)と形容されたプント国からエジプトへは金? (白金?)、ミルラ(没薬)、フランキンセンス(乳香)、アフリカン・ブラックウッド(アフリカ黒檀)、コクタン(黒檀)、象牙、奴隷、野生動物などが運ばれたと言う。※ 金については疑問。エジプトはその支払いを何でしたのか? 金は逆にエジプトからの支払いだったのではないか? 中継ぎ貿易国? アクスム王国(Kingdom of Aksum)アクスム王国については「アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロード」の中、「アクスム王国(Kingdom of Aksum)の役割」で書いていますが・・。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードアクスム王国は紅海入り口を入った東アフリカにあった王国で中継ぎ交易国としてBC5世紀頃~AD1世紀が最盛期。950年頃滅ぼされた? らしい。先にハトシェプストの所で紹介した古代エジプト以来の交易相手、プント国(Land of Punt)を紹介した。BC2500年前には存在していたプント国は一時交易は途絶えたものの、エジプト第20王朝(BC1185年頃~BC1070年頃)ラムセス3世の時代までは記録にあるらしい。が、新王国の時代が終わるとプントとの交易は途絶えた? その後のプント国は解らないので神話と伝説の国にされたらしい。そのプント国はほぼアクスム王国と同じ場所に位置していたのである。ただ、BC10世紀~BC5世紀までの間が謎だ。かつてのアクスム王国(Kingdom of Aksum)の位置ピンクは現在の地名右のAl Ghaydah(アルガイダ)は現、イエメン南東部のマフラ県の州都。下が現在の国境線明確に線引き出来なかったので想像でカバーして下さい。もっと周辺拡大図ついでに乳香と没薬の産地を入れました。アクスム王国の位置はまさに乳香(フランキンセンス・frankincense)や没薬(ミルラ・Myrrh)を集積するのにベストな場所。同じ理由でプント国(Land of Punt)が繁栄したのは間違い無い。ただ、プント国の交易相手は古代エジプトや古代シリア、またフェニキア人の交易商もいたと思われる。対してアクスム王国の主な交易相手はエジプトではなくなっていた。BC525年にアケメネス朝ペルシアはエジプトの第26王朝を倒し併合。古代オリエント統一を果たしている。アクスム王国が歴史の表に出るのはその頃だ。そのアケメネス朝ペルシャはBC332年アレクサンドロスの遠征で破れ、エジプトはギリシャ配下のプトレマイオス朝に移行。そのプトレマイオス王朝もクレオパトラを最後にローマ帝国に接収された。だからこのアクスム王国自体の繁栄期はローマ帝国の共和制期末から帝政期の初期と考えられる。ローマ帝国に贅沢品が大量に運ばれたのは、まさにアクスム王国の繁栄期に重なっている。因みにアクスム王国衰退のきっかけはローマ帝国の衰退理由と同じだった可能性がある。ローマ帝国の衰退は、16代皇帝(在位:161年~180年)マルクス・アウレリウス・アントニヌス(Marcus Aurelius Antoninus)(121年~180年)の治世に発生した疫病が大きな要因となり人を失い経済も落ち込んだ。疫病も世界規模で広がっていた事もあるし、大きな取引先を一気に失った事もアクスム王国の衰退に繋がった? と考えられる。尚、この疫病は天然痘によるパンデミック(pandemic)だったらしい。※ これについては「アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の中、「五賢帝とローマ帝国の販図」でも書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックエーベルス・パピルス(Ebers Papyrus)古代エジプトではどんな香が使われていたのか?先にすでに触れたが、古代エジプトではBC4000年頃から神に捧げる香りとして没薬(ミルラ・Myrrh)や乳香(フランキンセンス・frankincense)など香木の樹液が香の材料として使われていた。※ 古代エジプトでの使用法は主に直接火に投じて燃焼させて香りを立たせる方法がとられていたのではないか? と推察する。ところで、古代エジプトにはエーベルス・パピルス(Ebers Papyrus)と言う古代エジプト医学について記されたパピルスが存在する。※ それ自体はBC1550年頃? に記されたものであるが、実はBC3400年頃に遡る文章の写しらしい。それは様々な病気と、それら治療方や薬? などが記された古代エジプトの医学書。たとえば心臓についての論文、癌についての論文など細かにかかれているらしい。内容も幅広く、膿瘍や癌の外科手術から、接骨、火傷、皮膚病。また避妊や妊娠に至る婦人科の分野にまで及んでいるそうだ。また、この中にはその治療法として700程の調合法や治療薬が記されていると言う。最も当時は病気の理由は魔や呪い? なども考えられていたのだろう、魔を退散させる呪文も多いらしい。実はこのエーベルス・パピルス(Ebers Papyrus)の中に「聖なる煙」と呼ばれる古代エジプトの香、キフィ(Kyphi)調合のレシピも記されていたようだ。ルクソール、王家の谷 ゲート先の地図で見てもらうとわかる。デル・エル・バハリ(Deir el Bahri)と王家の谷は隣接している。下、ツタンカーメン王(Tutankhamun)(BC1341年頃~BC1323年頃)の墓。KV62中の撮影はできない。ツタンカーメン王(Tutankhamun)(在位:1332年頃~BC1323年頃)の墓から、シナモン(Cinnamon)、クミン (Cumin)、クローブ(Clove)、ガーリック (Garlic)、オニオン(Onion)、コリアンダー(Coriande)、胡椒(Pepper)が出土しているそうだ。それらもキフィの材料だ。シナモンもまたエジプトでは当初、香として燃焼させて使用していたと思われる。焼くとより香りは立つ。シナモン(Cinnamon)発汗・解熱作用。血流改善から冷え性の改善、毛細血管の修復。冷えからくる肩こり・関節痛・腹痛・下痢・月経痛などの鎮痛。発汗・解熱作用から風邪の予防や初期症状に効果。また食欲不振、胃のもたれ、胃痛改善からい胃腸薬の多くで配合されている。シナモン(cinnamon)はクスノキ目(Laurales)クスノキ科(Lauraceae)ニッケイ属(Cinnamomum)で、主な種がクスノキ、シナニッケイ、ニッケイ、セイロンニッケイ。産地で種類もある。樹皮をはいで乾燥させたものが使われる。※ シナモンはBC500年頃の旧約聖書の詩編にも記述されている。神殿の奉納品リストにあるらしい。クローブ(Clove)消毒、抗菌、鎮痛、歯痛や食辺り、食欲不振にも利用される。カルダモン(Cardamom)抗炎症作用、殺菌、免疫活性。香りは消化器系への働きかけにより食欲増進、消化不良の解消、胃の痙攣を抑える。また高い鎮静効果で交感神経の興奮を鎮静。胡椒(Pepper)抗菌・防腐効果、消化促進、血行促進。筋肉痛の緩和。抗酸化作用からエイジングケア。辛味成分ピペリンにリラックス効果。虫の多くが胡椒の香り成分を嫌う事から肉の長期保存に利用されたり衣類の防虫にも使われた。ブラックペッパー(黒胡椒)・・熟す前の緑色の実を、皮付きのまま乾燥させた物。ホワイトペッパー(白胡椒)・・完熟した胡椒の果実を水に漬けて皮を取り除き、乾燥させた物。グリーンペッパー(青胡椒)・・熟す前の果実を摘んで、短時間で乾燥させた物。※ 写真は白と緑を混ぜています。ピンクペッパー(赤胡椒)・・赤く熟した胡椒の果実を乾燥させた物。ウルシ科のコショウボクの実。西洋ナナカマドの実。3種の別物がピンクペッパーとして流通している。全部ミックスして、スケルトンのミルで使用するとオシャレですよ。下、生胡椒(Pepper)ハワイの朝市で購入。生胡椒をそのままオイルで炒めてオイルに香り付けして食材を炒めるのも良し。エジプトのキフィ(Kyphi)先に触れたエーベルス・パピルス(Ebers Papyrus)に記されたエジプトの香(こう)であるキフィ(Kyphi)は複合香である。16種類? のスパイス・ハーブのブレンドで造られている香がキフィ(Kyphi)。そしてキフィにはレシピがたくさんあるそうだ。「聖なる煙」を意味するキフィ(Kyphi)は再生と蘇(よみがえ)りを意味する。神に捧げる香りとして、当初は主に熱して炊き上げる薫香(くんこう)として始まったと考えられる。。インセンスバーナーを使用して樹脂香・レジンインセンス(Resin incense)を焚いてみたミルラ、フランキンセンス、ドラゴンブラッドの3つ。着火タイプの炭チャリスを半分でお試し。樹脂(レジン)のそれらはすぐに熱で溶けてしまう。だから溶けると度々樹脂を足して入れた。香りは微少。香りだけなら濃縮されたエッセンシャルオイルの方が効率が良いし安全。でも一つ感動したのはその煙の帯である。燻煙の上がり方が美しく見惚れてしまう。まるで生きている何かのように踊っている。ここに癒しもあるのかもしれない。但し、マンションの火災警報器がなるのではないか? と窓辺で換気を最大にして焚いたから香りはほとんど残らなかった。確かに一種よりはブレンドして好みの香りにした方が面白い。また、大量に焚いて香らせるなら樹脂も大量に必要となる。やはり効率で言うなら少しお高いが、エッセンシャルオイルを使った方が安全だし、よく香るかもしれない。太陽神ラーへの信仰から生まれた?エジプト第4王朝(古王朝)の頃( BC2613年頃~BC2498年頃)は、とりわけ太陽神ラーへの信仰が強かった。この頃の死生観は「太陽は毎日東から昇り、西に沈む、夜には暗黒が支配し、生ける者は仮死状態になるが、朝にはまた復活した太陽が昇る。」と言うもの。つまり、太陽神ラーは、1日で一生を過ごし夕方には死ぬが、朝にはまた復活して再生誕生すると考えられていた。また、ファラオ(王)は太陽神ラーと結びつけられていたから、例え人として死んでも死後ラー神と共に太陽の舟に乗れば翌朝には蘇るとも考えられていたのである。※ それが、ピラミッド建造の原点だとも言われている。リンク エジプト 6 (クフ王の太陽の船)朝昼夜に焚かれた香キフィ(Kyphi)は役割を持って、1日3回、日の出・正午・日没で異なる香が炊かれたらしい。フランキンセンス(frankincense)は太陽神ラーの汗の塊(かたま)りと考えられ、その薫香は魂をラーのいる天へと連れて行ってくれると信じられ、日の出に焚かれた。※ フランキンセンス(frankincense)の和名が 乳香(にゅうこう) ミルラ(Myrrh)は太陽神ラーの涙の塊と考えられ、不死鳥が生まれ変わる時のようにそれを亡骸と共に焚けば蘇る事ができると信じられ? 昼に焚かれた。※ ミルラ(Myrrh) の和名が没薬(もつやく) 日没にはオリジナルブレンドのキフィ(Kyphi)が焚かれた。キフィは先に紹介したよう複合香であるので、そのレシピは絶対であるが、王により好みがあり調合されていたと思われる。これは現在で言うアロマテラピーの意味があったと考えられる。アロマテラピー(aromatherapy)は、植物のもたらす香りによって体と心を癒やす芳香療法です。当時は日没と共に眠りに就いたのだろうから、ファラオの睡眠や高僧の睡眠前の瞑想時間に心身をリラックスさせる効果と共に、魔除けの意味も込められていた? と考えられる。キフィ(Kyphi)の成分キフィの代表的な材料を系統で分類してみた。これらの数種を合わせてオリジナル・ブレンドしていたものと思われる。しかし、エーベルス・パピルス(Ebers Papyrus)から見るエジプトの医学から考えると、お香もただの香ではなかったのかもしれない。キフィ(Kyphi)の材料はそれ自体が薬として存在している。薬として、飲食や美容にも利用されたのは明白だ。レジン(樹液)系 ミルラ(Myrrh 没薬)・・沈静、消炎、収れん、抗菌、美容 フランキンセンス(frankincense 乳香) ・・沈静、呼吸器機能調整、気管支炎、美容 ベンゾイン(benzoin 安息香)・・消炎、緩和、収れん、気管支炎、美容 パインレジン(Pine resin 松脂) アラビアガム (Gum arabic)アカシア属樹皮系 シナモン(Cinnamon 桂皮) シナニッケイ(Chinese cassia チャイニーズ・カシア)・・抗酸化、抗炎症、抗菌性根系 カラマスルート(Calamus Rootd)・・カラマスの和名はショウブ(菖蒲)生殖器系の健康を増強? 媚薬として利用された。 ガランガルルート(Galangal root) ショウガ科・・血流促進作用、胃痛の軽減など消化器症状、中世の媚薬葉系 サイプレス(Cypressイトスギ)・・収れん、デオドラント、むくみ。 レモングラス(シトロネラ)・・消化器系・虫垂神経系機能調整。抗菌防虫。アーユルヴェーダでは伝染病、発熱、鎮静剤、殺虫剤。 ミント(mint)・・消化器系機能調整、中枢神経機能亢進、鎮痛、鎮痙 ヘナ(henna)・・髪・眉・爪・手足などの染色。花系 バラ (Rosa)・・内分泌調整、神経緩和、婦人病、美容実系 ジュニパー(Juniper)・・利尿、抗菌、鎮痛 カルダモン(Cardamom) ショウガ科・・抗炎抑制・殺菌、免疫活性ピスタチオ レーズン オレンジ他 蜂蜜 ワインハトシェプスト女王の所で紹介したよう彼女の治世(在位BC1479年~BC1458年) 、シナイ半島も押さえていたので、フェニキア人からはシナイや北アフリカ、欧州の品が、プント国との交易ではインド、アジア方面のスパイス・ハーブの輸入も種類もより増えたと思われる。また、その使用方法の幅も広がったのでは? と想像する。ミルラ(Myrrh 没薬)とフランキンセンス(frankincense 乳香)ミルラ(Myrrh 没薬)とフランキンセンス(frankincense 乳香)は、古代より黄金に値するものとして珍重さてきた素材の一つ。「聖なる煙」、キフィ(Kyphi)の素材は、薫香だけでなく、複数の用途を持って利用されていたのである。主に薬用であるが、特にミルラ(Myrrh)はすぐれた殺菌作用を持ちミイラ造りには欠かせない素材でもあった。ムクロジ目(Sapindales)カンラン科(Burseraceae)の樹液ところで乳香(frankincense)と没薬(Myrrh)。じつは非常に近しい共通点がある。APG植物分類体系による分類ではそれは共にムクロジ目(Sapindales)カンラン科(Burseraceae)の樹液から抽出されるレジンインセンス(Resin insense)なのである。※ ゲノム解析から実証した最新の植物分類体系がAPG(Angiosperm Phylogeny Group)です。ムクロジ目は熱帯アフリカの乾燥地帯に多く,また数種が西アジアからインドに分布。芳香性の樹脂を出す。それらは産地で色も香りも違いがある。ムクロジ目(Sapindales)カンラン科(Burseraceae)コンミフォラ属(Commiphora)の樹脂が ミルラ(Myrrh 没薬)ボスウェリア属(Boswellia) の樹脂が フランキンセンス(frankincense 乳香)因みに、インドシナやスマトラで摂れる安息香(benzoin)もツツジ目(Ericales)エゴノキ科(Styracaceae)の樹脂から摂れるレジンインセンスである。ミルラ(Myrrh 没薬)コンミフォラ属(Commiphora)は干ばつ耐性があり、乾生植物の低木、季節的に乾燥した熱帯林の森林地帯全体に共通。ミルラ(Myrrh)の主な産地はアフリカ北東部(スーダン、ソマリア)、南アフリカ、マダガスカルアフリカの乾燥地帯,紅海沿岸の乾燥した高地に自生。先に紹介した地図を見てね。実は購入したミルラは不純物の多い粗悪品。写真は違う物を利用した。フランキンセンスに比べるといずれも色はブラウンが強くなっていて不純物も見られる。香りはそのままでは微少。これ単独ではあまり使わないらしい。フランキンセンス(frankincense 乳香)ボスウェリア属(Boswellia)はアフリカとアジアの熱帯のやや乾燥した地域に自生。フランキンセンス(frankincense)の主な産地はアフリカ北西部(北アフリカ、ケニア)、アフリカ東部(ソマリア、エチオピア)、アラビア半島(オマーン、イエメン)これはかなり小粒。インセンスバーナーが小さいので私には扱いやすかったが・・。溶けるとピンセットで一粒ずつ足してみた。大きくて透明感があり硬度があるものほど良質。特に青みがかった乳白色のフランキンセンスは最高級品。グレードは産地や収穫時期によっても異なるらしいが・・。かつて、シバ王国があったイエメンのフランキンセンスは最高ランクらしい。抗菌作用があり心と体の浄化に役立つ。また呼吸器への作用と、皮膚細胞の再生を促すからクレオパトラはこれを美容パックとして利用していたと言う。おそらく、それは抽出してエッセンシャルオイルとなったフランキンセンスだろう。因みに英国王室の亡きダイアナ妃のアロマオイルのレシピ(ダイアナレシピ)にもフランキンセンスは入っていた。下チュニス、メディナのバザールから上は中東の市場の写真から唯一見付けたフランキンセンスの山(左)。その上の左端がミルラかもしれない。下アスワンのバザールからハイビスカスかな? 後ろ2列はいろいろな種類のナツメヤシの実(Date)。ハイビスカス(Hibiscus)・・代謝促進、強壮、利尿、肉体疲労には良いらしい。ナツメヤシの実、デーツ(Date)・・抗酸化作用、食物繊維や豊富なミネラル(カリウム、マグネシウム)。老化や動脈硬化などの予防になる。クレオパトラがよく食べていたらしい。下カイロのバザールから右の実はジュニパー(Juniper)ではないか? その隣がセージでまたその隣がローリエだと思う。ジュニパー(Juniper)・・蒸留酒のジン(Gin)の香り付けに使われるヒノキ科のベリー。スパイス・ハーブとしては発汗を促し、利尿作用があるので毒素を出す(浄化作用がある)のでデトックス効果がある。殺菌消毒剤としてそのエッセンシャルオイルは近年まで欧州では使われていたらしい。因みにジンの発祥は11世紀のイタリアの修道院に遡るようで解熱・利尿用薬用酒だったらしい。下テヘランのバザールから上段はカレーとかのスパイスかもしれない。ターメリックとか、サフランとか、オールスパイスか?見た事ない木の実? やゴーヤを干したようなものまで・・。アラビア語で読めない。下テヘランのバザールから真ん中がディル(dill)。ディル(dill)・・消化不良を治療する薬草として古代エジブトでは5000年以上も前から使われていたらしい。確か魚料理に使うスパイス・ハーブだったか・・。他ははっきり見え無いが、セージとか、タラゴンとかタイムとかローズマリーかな? 料理の為のスパイス・ハーブらしい。下イスタンブールのバザールからカレー用のスパイスがそろっている。さすがトルコ、英語表記だから解る。それにしても国で売り方それぞれ。でもトルコは少し先進国。売り方が綺麗。下イスタンブールのバザールからスパイスハーブではなくオリーブですが、こんなに種類が・・。オリーブ好きの私は全部食べ比べてみたい。キフィ(Kyphi)に影響を受けた中東や欧州エジプトのキフィ(Kyphi)は近隣の文化にも継がれた。ところで、BC10世紀には原産地インドで胡椒栽培の増産が行われていた事が解っている。これらはインドよりエジプト方面への輸出が増えたからだと思われる。グレコローマン(Greco-Roman)時代エジプトがペルシャの支配下に落ち、BC332年、今度はアレクサンドロス3世(BC356年~BC323年6月10日)に占領されると状況は一変? ギリシャ人のアレクサンドロス3世がファラオとなりエジプトは以降ギリシャ人統治の国となるからだ。また、一時的にもアレクサンドロス王がペルシャ帝国の王になった事で、アジアと欧州の間に位置する巨大ペルシャ帝国領を通過する物産は増えただろう。それは、後に帝国が分割されようとも、交易のルートは残ったと考えられる。エジプトはアレクサンドロス3世亡き後、幼なじみのプトレマイオスが後を継承し、プトレマイオス朝を開くとよりギリシャ化が進んだと同時に、ギリシャにもエジプトの文化は伝わったはずだ。しかしプトレマイオス朝もクレオパトラ7世(Cleopatra Ⅶ)(BC69年~BC30年)を最後に滅亡し、エジプトはローマ帝国の支配下に落ちる。ローマ帝国時代ローマ帝国がエジプトを占領した事でアラビア、東アフリカ、インドやマレイ・シナ方面の珍しい物産がローマに大量に入るようになった。平和になったからこそ交易は増大する。そして裕福になったローマ人は贅沢をはじめた。個人で遠い異国の物品の輸入も始めたらしいローマ帝国の属州総督であり、博物誌(Naturalis historia)を著した学者でもあるプリニウス (Plinius)(23年~79年頃)は、当時のローマ市民らがスパイス・ハーブを求めるあまり、大量の金銀貨を国外に流出させる事態を非常に嘆いていたと言うのだ。女性はシルクをまとい、東洋の真珠やセイロンの宝石などで着飾り、アラビアから入る乳香を焚いた。特にインドの胡椒はローマ帝国の貿易量を増やして行く。ローマ市民は贅沢になりすぎた?その支払いにはローマ帝国の金銀貨が驚くほど巨額に使われたらしい。実際、胡椒の産地、北部インドでは輸出で得たローマの金銀貨を改鋳(かいちゅう)して自国通貨として利用していたと言う。よほど大量に入ったのだろう。帝制初期のローマは進軍につぐ進軍で販路拡大。景気が良かったからハドリアヌス帝(Hadrianus)(76年~138年) 14代皇帝(在位:117年~138年)の頃はローマ帝国史上最大の領土に拡大されペルシャ湾北岸まで拡大していた。それ故、インドの南端を越えて東部のベンガルやマレー半島の品まで交易で手に入れる事が可能だったのだろう。※ 出土するローマのコインで証明されている。最もローマ人がそこまで買い付けに行っていたかは疑問だ。アラブ人らは産地を隠していたらしいから。たぶん、欧州人がその産地を知るのはポルトガルがインド航路を開いた大航海時代に入ってからだろう。神の香はユダヤ教とキリスト教の典礼にも継がれたユダヤ教では幕屋時代(Tabernacle)と第一神殿時代(First Temple)と第二神殿時代(Second Temple)の香の祭壇の香の供物で細かく語られている。※ 幕屋時代(Tabernacle)・・幕を張ってできていた簡易式の神殿は移動式であった。※ 第一神殿時代(First Temple)・・第一神殿とはソロモン王の神殿(Solomon's Temple)の事。 およそBC11世紀頃? ~BC597年にバビロニアに破壊されるまでエルサレムの神殿の丘に存在した。※ 第二神殿(Second Temple)・・エルサレムの神殿。同じ神殿の丘に再建したもの。エルサレムのソロモンの神殿にも同様の香の祭壇があり毎朝と夕方、神聖な香が燃やされていたらしい。※ 古代イスラエル王国の第3代ソロモン(Salomon)王(BC1011年頃~BC931年)(在位BC971~BC931年)古代イスラエルの民にとって、香を焚く事は幕屋での祭司の重要な務めとされていた。あくまで私個人の推測であるが、モーセ(Moyses)がイスラエルの民(ヘブライ人)を連れてエジプトを脱出するのがおそらくBC1200年頃と推測される。香はモーセがエジプトから持ち出し、始まった可能性が非常に高いのでは?※ 「アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ」の冒頭で旧約聖書時代の話しに触れています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナやがて香を焚くと言う行為は宗教行事だけでなく、商売をする時など、あらゆる所で始まる。民族文化として根付いたと思われる。そのレシピは、エジプトのキフィと同じように数種の中からTPOに合わせてブレンドされたのだろう。今日残る香の種類からも推察できる。キリストへの贈り物すでにいろいろ書いているが、ミルラ(Myrrh 没薬)とフランキンセンス(frankincense 乳香)はキリスト教では、東方の三博士(マギ)らがイエス・キリストの誕生に贈った3つの品で知られている。金以外の2つの素材は共に植物の樹脂。ミルラ(Myrrh 没薬)フランキンセンス(frankincense 乳香)その3点は古代イスラエルの時代にシバの女王がソロモン王に贈った贈り物からなぞられている。実の所、何れも史実かどうかは不明であるが、それは近隣国の賢者がイエス・キリストに最高の敬意を現した品を贈って祝ったと解釈できる。そしてそれこそが重要な部分なのである。だからキリスト教や正教会ではミルラ(Myrrh)やフランキンセンス(frankincense)は聖祭の時に香炉に入れて炊き上げて使用されている。これらはやはり「神の香」なのである。ボタフメイロ(botafumeiro)今や香も正教会でくらいしかほとんど焚かないのでは? カトリックでの香と言えば・・。思い当たるのはこれしかない。サンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)の巨大振り香炉ボタフメイロ(botafumeiro)でしょう。天に香を炊きあげて神の御前に届かす。つまり神に捧げる香りであるが、それは神に祈りを届ける事と同じ意味を持つそうだ。香炉に火だねを入れている所。中身はフランキンセンス(frankincense 乳香)と思われる。抗菌作用があり心と体の浄化に役立つ香。長い旅路を経てサンティアゴ・デ・コンポステーラに辿り付いた巡礼者はかなり汚れていたはず。しかも、彼らは堂内に寝泊まりもしていた。病気の者もいただろう。不衛生な状態の巡礼者と堂内の濁った空気を清める意味で11世紀頃から香を炊きはじめたらしい。この巨大香炉、ボタフメイロ(botafumeiro)見たさに巡礼者は増えた事だろう。※ 確か映画「バラの名前」のラストに出てました。通常は儀式の時にしか行わないが、事前予約である程度まとまれば(有料)やってくれるらしい。だからお金を払った者が撮影のできる前の方にいるのです。カトリックでは側廊にそった横ふりが一般的らしい。最もこんなに大きな香炉を振るところは他にない。まれに飛び出しの事故もあったらしいので振るのも慎重です。※ 「サンティアゴ・デ・コンポステーラ最終章最終章で載せています。リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼)精油・エッセンシャルオイル(essential oil)精油は、植物の花、葉、果皮、果実、心材、根、種子、樹皮、樹脂などから抽出した液。例えば、バラを蒸留してローズオイル(rose oil)を抽出。それらを希釈してバラ水(cologne)やバラの香水(perfume)が造られる。そもそも精油・エッセンシャルオイル(essential oil)は古来インドの伝統的医学であるアーユルヴェーダ(Āyurveda)から発していたと思われる。アーユルヴェーダが体系としてまとめられたのBC5 ~BC6世紀頃? 実際、古代ペルシア、古代ギリシア、チベット医学などに影響を与えたと言われている。エジプトには古代ペルシアか古代ギリシア経由? で伝わったのではないか? と思われる。プトレマイオス朝のクレオパトラはすでにそれらから抽出されたエッセンシャルオイルを使用して美容液やクリームを調合していたようだ。※ クレオパトラのレシピが残っている。古代から存在し使用されてきたスパイス・ハーブの用途は神に捧げる香、健康の為の薬、化粧品と用途が広がる中、ローマ帝国時代はさらに種類も増えて、また嗜好品として料理にも使われるようになった。胡椒の取引はローマ帝国時代に増大している。だが、パクス・ロマーナ(Pax Romana)以降は東ローマ(ビザンチン)帝国はともかく、かつての西ローマ帝国側は動乱時代。失われた文明の時代を経験している。イタリア半島から海洋共和国が台頭してくるまでは輸入は非常に限られたものだったはず。イスラム教国に西側のキリスト教国が反撃をはじめた頃から貿易は再び活発化。特に一時的にもパレスチナに西側の十字軍国家が置かれた事は西側への交易品の品目を増やした事だろう。西側は知ってしまった? 今まで教会で香を焚くとか、煎じるなどで活用されていたハーブは、精油・エッセンシャルオイル(essential oil)にする事でもっと用途が広がった事を・・。当時、西側の交易で1位を競っていたのが、海洋共和国のヴェネツィア(Venezia)とジェノバ(Genoa)である。両者は武力闘争し、ジェノバは負けた。そして1381年のトリノで講和条約で完全に利権を失った。ジェノバはスパイス・ハーブの重用性を知っていたが、ベネツィアに負けて東洋の物産を仕入れる事ができない。そこでスパイス・ハーブを仕入れる為に別のルートを模索をする事になる。結果が、ポルトガルやスペインの後ろ盾となって欧州以外の世界への航海を後押しすると同時に収益と利権を手に入れたのである。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス前にも書いたが、ポルトガルのエンリケ王子をそそのかして大海洋に向けたのは、まさにこうした思惑を持ったジェノバの商人だったと思われる。船に乗れないエンリケ王子が、なぜ大海洋をめざしたのかずっと不思議だったんです。「アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史」今回はここまでです。中世のスパイス・ハーブも言及したかったのですが、古代の段階で長くなりすぎました。次回は南米に進むので、南米からのスパイス・ハーブ、トウガラシなど触れるかも?とりあえず、つづく今回は、先も考えずに漠然と走り始めたから2転3転どころか10転くらいしたのです。写真をエジプトにしたのでそれもまた内容変わりました。毎回自分でハードルあげているしね・・Back numberリンク 静物画にみるメッセージリンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador) アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2022年06月17日
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ラストにback number入れました。すっかり忘れていました。今回は、大航海時代を支えた船の事を入れたいと思います。写真は南アフリカ、ケープ半島の喜望峰です。いわゆる船の始まりはガレー船(galley)である。動力はオールのみのガレー船(galley)と帆とオールによる動力で船を動かすタイプのガレー帆船が存在する。※ 紀元前の戦闘においてすでに利用されていた船。そのオールを動かす行為は人力であるから長時間航行には限界があった。寄港地を多く必要としたので割と陸の近くを航行した船である。ガレー船にも小なり大なりの船があり小型のガレー船でマストが1~2本。オールの数はその用途でも変わった。ただの運搬船の場合は積荷の重量を優先して漕ぎ手は少くない。つまりオールは少ない。※ 小型のガレー船フスタ(fusta)は漕ぐよりも帆走をメインとしていた。マストは1本。が、軍用船の場合、速度が重視されるから漕ぎ手は増える。昔は戦士がそのまま漕ぎ手となっていた。後に大砲など銃器も積むようになると重量も増しオールの漕ぎ手の数も増える。※ 兵士50人~150人程度?当然、船自体が大型化する。食糧や水などの供給の為に長時間航行には限界があり、補給と休息の為の寄港地も増える。※ ガレー船については、以前「海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦」の中「ガレー船(galley)の変遷」のところで紹介しています。リンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦上に紹介したガレー船は地中海の比較的穏やかな海で誕生したものだ。ジブラルタル海峡を出て外洋に出ると、海にはただならぬ風と海流が存在し、海も荒れた。安全な寄港地だってあるかわからない。外洋航海を目指した彼らは外洋に耐えられる船造りの必要性に迫られる。特に水面(喫水)から上甲板までの距離(乾舷・Freeboard)は重要である。外洋は波も高くなるので船の乾舷を大きく(高く)しないと沈没しやすい。ポルトガルのエンリケ王子は未知への航海に踏み出し海図を少しずつ書き足した。同時に船の開発もしたとされる。彼がエンリケ航海王子(Prince Henry the Navigator)(1394年~1460年)と呼ばれるのは、彼の元にそれら研究が推し進められていたからだ。彼らは遠洋航海に適した大型の船の開発と、未知の探検に適した船の開発を成功させた?※ ポルトガル南部のサン・ヴィセンテ岬(Cape San Vicent)に王子のヴィラがありそこに研究施設と学校があったとされる。大航海時代、当初、世界の植民地化においてポルトガルとスペインの独壇場となったのは、外洋に出て行ける船を持っていた両国だけだったからだ。ところで船の写真はほぼウィキメディアから借りました。船の本探しましたが無いのです。あっても近年の帆船の本ばかり。中世の帆船を詳しく順序立てて解説している本が欲しかった。アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人嵐の岬から喜望峰に名称変更大航海時代の船Georg Braunの鳥瞰図キャラベル船(Caravel)キャラック船(Carrack)ガレオン船(Galleon)ケープ・ポイントと希望の岬ジェノバの商人(The Merchant of Genoa)ポルトガルとの関係ジェノバの商人の見返りは何か?スペインとの関係ジェノバ人の報酬帆船の風フォールス湾シール島自然保護区(False Bay Seal Island Reserve)嵐の岬から喜望峰に名称変更ケープ・ポイント(Cape Point)からの喜望峰(Cape of Good Hope)少し時化(しけ)た時の喜望峰(Cape of Good Hope)少しの時化でも沿岸は岩場が多いせいか波が立ってますね。ケープ半島(Cape Peninsula)の南端に喜望峰(Cape of Good Hope)はあるが、実際はケープ・ポイント(Cape Point)の方が少し南。もっと言えばアフリカ大陸の最南端は喜望峰ではない。ケープ半島南端は岩礁がすごくて海底が渦巻いているのかも。バルトロメウ・ディアス (Bartolomeu Dias)は実際、アフリカの最南端であるアガラス岬(Cape Agulhas)まで進み船をターンさせた。実は喜望峰(Cape of Good Hope)を発見するのはその後なのである。彼はアフリカ大陸の南の海で嵐に遭って13日間漂流。気付いたらアガラス岬まで来ていたのである。アガラス岬はアフリカ大陸の最南端と言うだけではない。実はここはインド洋(Indian Ocean)と大西洋(Atlantic ocean)の分かれ目なのである。それは海流(Agulhas Current)により明確に分断されている。だから彼はそこより先に進め無かったのだろう。遭難してさんざんな目にあい彼はやむなくターンしてケープ半島(Cape Peninsula)の南端まで戻る。彼はそこを嵐の岬(Cabo das Tormentas)と報告したそうだ。※ 帰りはベンゲラ海流(Benguela Current)に乗るので早い。希望の岬(Cape of Good Hope)と名を変えさせたのはジョアン2世(João II)(1455年~1495年)。東方への道が開けた「希望」が込められた名前らしい。日本ではなぜか「喜望」が用いられているが・・。大航海時代の船ポルトガルが喜望峰に到達するのは1488年。喜望峰に到達したバルトロメウ・ディアス (Bartolomeu Dias)(1450年頃~1500年)はキャラベル船(Caravel)2隻と補給船1隻でリスボンを出港。一方スペインからクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)(1451年頃~1506年)が大西洋横断するのは1492年の事。コロンブスはキャラック船(Carrack)のサンタ・マリア号(La Santa María)を旗艦としてピンタ号とニーナ号と言う少し小型のキャラベル船(Caravel)の3隻でパロス(Palos)港から出港。コロンブスの船は何れも中古船だったそうだ。それにしても二人はほぼ同級生だったのね。大航海時代を迎えるにあたり、まず造られた船は外洋に出られる船だ。高波にも沈まない安定した船体の船。すでにベースはあったと思われる。遠洋航海が始まると食糧など物資がたくさん詰める船倉も必要になる。交易品を積む上でも必要だ。そのうち到達した未開地の探索の為の船も必要となる。入江や川を遡上しての探検に適した小廻りがきき機動力のある船も必要とされた。植民の為の侵略が始まると、現地との争いも起こる。相手を威嚇する為に砲台の数も増えて行く。植民地との運送船には護衛する船が併走するようになる。護衛船は砲台の数を増やし戦列艦と呼ばれる砲撃戦用の完全なる軍船に進化もみせる。また砲台は減らして速度を重視したフリゲート(Frigate)も生まれている。つまり大航海時代に生まれたガレオン船(Galleon)は、戦える船として輸送と兼務した活躍をみせる。Georg Braunの鳥瞰図1572年のポルトガル、テージョ川(Tagus river)河口のリスボン港ドイツの地形地理学者 ゲオルク・ブラウン(Georg Braun)(1541年~1622年)が編集長として世界で最も重要な都市? として編纂した本「Civitates Orbis Terrarum」Volume 1、1572 からの出展? ウィキメディアから借りましたが、これの原本はハイデルベルク大学図書館のデジタル・アーカイブらしい。ゲオルク・ブラウン(Georg Braun)は546の都市の展望、鳥瞰図や地図を編纂。1572年から始まり1617年にVolume 6(第6巻)まで刊行している。当時も役に立ち、且つ後世の重要な歴史的資料にもなってます。ポルトガルではキャラベルは2本マストの三角帆が好まれたと言う。新機種 大型のガレオン(Galleon)ここにはかつてのガレー(Galley)と小型ガレーのフスタ(Fusta)もいます。キャラック(Carrack) とキャラベル(Caravel)はなんとなく分けたので間違っているかも・・。大航海時代初期に利用されたキャラック船(Carrack)もキャラベル船(Caravel)も共にポルトガルが開発した? と考えられいる。外洋航海の為に開発された安定性と容積の大きいキャラック船(Carrack)。未知の土地での探検に適した小廻りのきくキャラベル船(Caravel)確かに探検用のキャラベル船(Caravel)の完成型はポルトガルであったとは思うが、外洋航海用のキャラック船(Carrack)はポルトガルではなくジェノバの造船所が開発したものだった? 可能性もある。何しろジェノバは1312年の段階ですでにカナリア諸島まで到達していたし・・。実際、ジェノバは船も売ってたからね。海洋共和国ジェノバの事は「アジアと欧州を結ぶ交易路 12~14 海洋共和国」編の中で書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)※ 海洋共和国ジェノバ(Genoa)と交易先,十字軍遠征に対するジェノバの功績、海洋共和国ジェノバ(Genoa)の快進リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)※ キリスト教国の逆襲、十字軍(crusade)の中、十字軍効果の経済リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊※ ヴェネツィアvsジェノヴァの交易キャラベル船(Caravel)1450年頃、ポルトガルの国家管理の下で開発された探検船と言われている。それは確かに、エンリケ王子(1394年~1460年)のチームが、必然により開発した船だったかもしれない。先に紹介したよう1488年、バルトロメウ・ディアス(Bartolomeu Dias)(1450年頃~1500年)が喜望峰に到達した時に利用していた船である。しかもキャラベルは浅い沿岸海域で上流に航行する事が可能。まさに西アフリカの川を遡上しての探検の為に開発されたような船だ。50〜160トン、マストは1〜3本。3.5対1、狭い楕円体フレームを持つ。初期のキャラベル船の平均の長さは12〜18 m 39〜59トン。また、初期のキャラベル船は2つまたは3つのマストを搭載。後に4本のマストも。サイズで用途も変わるからマストの数は船のサイズによるだろうし、当然用途で異なる。また帆の形などで機能性はかなり変化する。帆の操作次第で風上に向かって航行する事も可能。小型ゆえ積載量は限られるが、その操作性と機敏さから非常に高速での移動も可能だったらしい。三角帆のキャラベル船 ウィキメディアから借りました。パリの国立海軍博物館のコレクションからのポルトガルのキャラベル船のモデル。3本のマストを持つ小型の帆船で、小廻りもきくし高い操舵性を有していた。当時ポルトガルは西アフリカ沿岸から川を遡っての未開地での調査と同時に植民地や鉱物資源を探していた。探検家たちは機動力を求めてラテンセイルを備えたキャラベルや100トン前後の軽キャラックなど小型帆船を求めたのだろう。特にポルトガルでは三角帆のラテンセイル(lateen sail)が好まれたらしい。四角帆のキャラベル船 ウィキメディアから借りました。ヨット (yacht)の語はオランダ語の 「jacht」から由来するらしいが、ヨットのルーツ自体はポルトガルのキャラベル船(Caravel)だったのではないか? と思った。ところでコロンブスの旗艦のサンタマリア号はキャラック船(Carrack)であるが、ピンタ号とニーナ号はキャラベル船とされている。小さいピンタ号やニーナ号の方が動きも迅速なのでコロンブスは旗艦のサンタマリア号よりも好んだと言う。ニーナ号(La Niña)の復元船横帆を帆装に持つキャラベル船 写真はウィキメディアから借りました。ニーナ号のマストの数は現在も論議中。2~4本?排水量およそ60トンで船団の中で一番小型だったと言うが、これを見る限りではほぼ漁船。ピンタ号(La Pinta)の復元船横帆を帆装に持つキャラベル船 写真はウィキメディアから借りました。スペインのパロス(Palos)港のドッグに繫留されているピンタ号(La Pinta)の復元船。約60〜75トンの約15〜20mの小さなキャラベル船ピンタ号とニーナ号はキャラベル船とされているがポルトガルのキャラベル船とはちょっと違う気がする。キャラック船(Carrack)ポルトガルではナウ(Nau)、スペインではナオ(Nao)と呼ばれた。キャラベル船(Caravel)よりも大型のキャラック船(Carrack)も、14~15世紀にポルトガルで開発されたとされている。全長は30mから60m。3本~4本のマスト。丸みを帯びた船体は全長と全幅の比は3:1。特徴的な複層式の船首楼、船尾楼を有する。船の安定性は高く、外洋航路での貿易船として都合が良く、貨物と物資の積載能力も高かった。ポルトガルのキャラック船は、当時は非常に大型の船であり、多くの場合1000トンを超えていたと言う。コロンブスの旗艦であるサンタマリア(Santa Maria)。レプリカのキャラック船(Carrack)の写真をウィキメディアから借りました。キャラック船(Carrack)コロンブスによるアメリカ大陸到達500周年(1992年)記念のイベントとしてサンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号の船団三隻が復元。製作は1986年に開始され、復元された船体は1992年にスペインで開催されたセビリア万博で展示。下は船体部分のみカットしたものです。キャラック船(Carrack)のシンプル図。(ウィキメディアの図を借りました。)冒頭も紹介したが、それまで地中海で使用されていたガレー船は沿岸航行が主流。外洋航海ではより強い風と海流に絶えうる転覆しない安定した船の開発は必須。高波にも安定する船体を持つキャラック船(Carrack)に近い船はすでにジェノバやポルトガルでは利用されていたと思われる。先にも触れたが、ジェノバも早くから地中海からジブルラルタル海峡を出て大西洋を北上。北海への航路を持っていたから当然、大西洋の高波にも絶えうると同時に積荷を汚さず、濡らさず運ぶ為の広い船倉を有した船の開発はポルトガルより先だったと思われる。ハンザ同盟で栄えるブルージュの羊毛製品をポルトガルが独占的に取引するのは1430年以降である。ブルージュの羊毛のタペストリーの御得意様はローマ教皇庁であり、その運搬をジェノバが担っていたと考えられるからだ。※ ジェノバとローマ教皇庁の関係は十字軍以前に遡る。前に「アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガル」の中、「海洋王国ポルトガルの誕生」ですでに書いているが、リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルポルトガルが海洋王国を目指したのは1317年頃。第6代ディニス1世(Dinis I)(1261年~1325年)(在位:1279年~1325年)の時である。以降、ジェノバの商人をリクルートして船や航海、交易のノウハウをポルトガルは獲得していく。第10代ジョアン1世(João I)(1357年~1433年)(在位:1385年~1433年)の時代にはポルト港に400~500隻の船が出入りするほどの立派な海洋王国に成長を見せていた。そのジョアン1世(João I)の娘イザベル・ド・ポルテュガル(Isabelle de Portugal)(1397年~1471年)が1430年1月、ブルゴーニュ公フィリップ善良公に嫁いだ。結婚の縁きっかけでポルトガルと北海方面の通商が始まったと思われる。※ イザベルとエンリケ王子は同母兄妹である。※ 仕入れた羊毛タペストリーは北アフリカでイスラムの商人とも取引されていた。取引自体はポルトガルではなくジェノバの商会が行っていたと思われる。造船に関しては、そもそもジェノバの方が歴史は深い。ジェノバの造船造りのノウハウを得てまた人材を引き抜いてポルトガルが開発した可能性もある。何れにしても、この外洋の高波や海流に絶えうる安定の大型輸送船キャラック船(Carrack)は、ガレオン船(Galleon)が登場するまで大西洋航路で主流の大型船であった。※ ガレオン船は16世紀半ば頃登場。下はポルトガルが軍船として開発したキャラック船(Carrack)サンタ・カタリナ・ド・モンテ・シナイ(Santa Catarina do Monte Sina)部分を拡大一見ガレオン船(Galleon)だと思っていたが・・。船底は広く安定してますね。もしかして?ポルトガルは軍船もキャラックから発展しているのでガレオン船は造っていなかったかもしれない。1547年、ポルトガルはキャラック船(Carrack)で種子島に到達。ガレオン船(Galleon)は16世紀半ばにはすでに開発されていたが、日本に来たポルトガルの交易船は最後(1638年)までキャラックのままだった?※ 数々の屏風絵に彼らと船が描き残されている。すべてキャラックだ。下は神戸市立博物館所蔵のコレクションから狩野内膳作「南蛮人渡来図」屏風絵からウィキメディアで借りました。上は部分。下が全景。狩野 内膳(1570年~1616年)安土桃山時代から江戸時代初期の狩野派の絵師因みに1637年の暮れに勃発した島原の乱が決定打? となって日本政府はポルトガルを排除し、交易相手をプロテスタントのオランダ国に乗り換えたのである。詳しくは以下に書いています。リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)ガレオン船(Galleon)ガレオン船(Galleon)はキャラックから発展したとされる遠洋航海用の船。16世紀半ば〜18世紀頃主流の帆船。キャラックより小さめの船首楼と大きい1〜2層の船尾楼を持ち、4〜5本のマストを備え、1列~2列の砲台を備えて敵の襲来を防ぐ事も可能。大航海の時代には武器も必須。護衛船として有用な船だった。ガレオン船の全幅の比は1:4。(キャラック船は1:3 )キャラックよりも幅に対しての全長が長くスリムな船。形状だけでキャラックより速度が出ただろう事は解る。積載量も大きいが、喫水も浅く速度は出る反面、船体のスリムさ。重心は上に行くので安定性に欠ける。いざと言う時に転覆しやすい船であったそうだ。ガレオン船(Galleon)のシンプル図。 (ウィキメディアの図を借りました。)海上輸送で利用されると同時に大量の砲台を配備できる船は戦闘に特化した戦列艦へと発展もしている。スペインのガレオン船(Galleon)の軍船 (絵画部分)スペイン船(上図)とオランダ船(下図)では砲台の数が違う。スペインのガレオン船は、3本マストを搭載。船体は500〜600トン砲台の数が多く豪華で派手。見た目重視? 見た者を圧倒させる目的があったのだろう。先にガレオン船は吃水が浅い為に速度も出ると紹介したが、この船に関しては性能は悪くスピードも出なかったらしい。ただ、並んだ砲台により一斉砲撃戦術が確立された戦列艦となっている。植民地間を行く商船兼護送軍船でもあったので特にスペインでは大型化される傾向にあったらしい。スペインでは新大陸の護衛艦として活躍。オランダのガレオン船(Galleon)の軍船 (絵画部分)原画 米国ワシントンD.C.の国立美術館(The National Gallery of Art) 出展(ウィキメディアから)タイトル オランダとスペイン軍艦の遭遇(A Naval Encounter between Dutch and Spanish Warships) 1618〜1620年画家 Cornelis Verbeeck (1585or1591年~1637年頃)オランダ黄金期の海専(うみせん)の画家スペインとの80年に渡る戦い(1568年~(休戦1609年~1621年)~1648年)を経てオランダは独立。※ オランダを導いた中心人物がオラニエ公ウィレム1世(Willem I)(1533年~1584年)つまりこの絵はオランダvsスペインの80年戦争の最中の絵なのである。但し、描かれた年代は1618〜1620年とされている。だとすると休戦期間(1609年~1621年)ただ中になってしまうが・・。ケープ・ポイントと希望の岬下図は南アフリカのケープタウン界隈です。喜望峰はケープ半島の最南に位置しています。大西洋側からの喜望峰(Cape of Good Hope)フォールス湾(False Bay)側からの喜望峰喜望峰の手前 ダイス海岸(Diaz Beach)新ケープ・ポイント(Cape Point)からの喜望峰(Cape of Good Hope)ここまで上るのは至難です。途中からフニクラ(Funicular)があります。Flying Dutchman Funicularのレール目指すは新ケープ・ポイントの灯台(New Cape Point Lighthouse)New Cape Point Lighthouseまでラストは階段です。下の灯台はウィキメディアから借りてきました。大西洋側の旧? ケープ・ポイント 喜望峰(Cape of Good Hope)の看板このあたりはケープポイント自然保護区(Cape Point Nature Reserve)なっている。マクレア海岸(Maclear Beach)ジェノバの商人(The Merchant of Genoa)大航海時代の主役は確かにポルトガルとスペインであるが、細かく見て見ると、何れの国も海洋共和国ジェノバ(Genoa)との関わりが深い。深い・・と言うよりは何れの国も全面的に金銭をジェノバ(Genoa)に頼っている・・と言う関係だった。ポルトガルとの関係ポルトガルが海洋国家になる為にジェノバの商人を国家がリクルートしたと言う事はすでに「アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガル」の所で触れているが、海運事業を立ち上げ、国際交易に参加する為のノウハウもすべてジェノバ商人の指導を受けている。※ ポルトガルが海洋王国を目指したのは1317年頃、第6代ポルトガル王ディニス1世(Dinis I)(1261年~1325年)(在位:1279年~1325年)の時商船を持ち運営するのは、ただ船があって船員を雇えば良いと言うだけのものではない。交易をするとなれば、それは技術だけではなく商売をする上で金融のノウハウも必要になる。当然、運営の資金の調達から契約の仕方、経理、法律など事務的な事のノウハウも必要となる。また、ポルトガルは100年後には自国での造船も行っている。それらの全てをジェノバの商人らがお金も貸し付け指導もしていたのである。ではジェノバの商人の見返りは何か?実はこの頃(1312年)にはジェノバの航海士がカナリア諸島にすでに到達していた。ジェノバはアフリカ大陸からもたらされる金にすでに目をつけ、西アフリカ方面に関心を寄せていたらしいのだ。ポルトガル高官の中にはリクルートされたジェノバ人も入っていた。ジェノバの商人はポルトガルに海運のノウハウを教えると共に自分達の通商に有利に計らえるよう契約? 特権? があったのだろう。1415年、ポルトガルは北アフリカのセウタに侵攻した。この時も当然バックにはジェノバがいた。※ 北アフリカの金の取引の市場は他に移転してしまい予定が外れた。しかもセウタからは何も得られなかったが・・。ポルトガルによる外洋航海にジェノバは当然力を貸している。セウタは失敗したが、もしかしたらエンリケ王子をそそのかして海洋に興味を持たせ、ポルトガルを外洋航海に向かわせたのは彼らだったのかもしれない。1425年にはポルトガルによるマデイラ諸島(Madeira Islands)への植民が始まっていた。ここにはジェノバ人によりサトウキビが持ち込まれ15世紀中には黒人奴隷を使用してのサトウキビ畑の一大プランテーシヨン(plantation)ができあがり欧州へ輸出された。ジェノバのサン・ジョルジョ商会が出資。マデイラ諸島は欧州の砂糖の主要な供給地となっていた。また、マデイラ諸島はブドウの一大産地でもありポートワイン(Port Wine)と同じく酒精強化ワインのマデイラ・ワイン(Madeira wine)の産地である。※ フォーティファイド・ワイン(fortified wine)について書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス1427年にエンリケ王子が派遣した船長によりアゾレス諸島(Azores Islands)が発見される。ここは小麦粉とブドウと藍(あい)色の染料となる大青(たいせい)の産地に育てられた。1440年、セネガル川河口で金の交易が始まる。※ 金はセネガル川上流のサハラ地区? で採掘されそれ以前は北アフリカのイスラム商人の隊商によって北アフリカの港に運ばれていた? らしい。1450年、大西洋中央に位置するカーボベルデ (Cabo Verde)で奴隷を使用してのサトウキビのプランテーションがジェノバ資本で始まった。後にポルトガルが南米ブラジルを植民地化すると、そこにもジェノバ資本のサトウキビのプランテーションができあがる。つまり表看板はポルトガル国であるが、大西洋上、マカロネシア(Macaronesia)でのプランテーションや西アフリカでの交易にはジェノバ商人の資本とサポートが多大に入っていたと言う事実だ。それにしても15世紀以降の欧州の砂糖の市場はジェノバの商人が独占していたのかな?マカロネシア(Macaronesia)アフリカ西の大西洋上の島々、マカロネシア(Macaronesia)に属するマデイラ諸島、アゾレス諸島、カナリア諸島、ベルデ岬諸島の大半にジェノバの資本が入り、15世紀にはすでに欧州への食料庫として大量生産のシステムで開発が進められていた。※ プランテーション (plantation)・・ 大農園による生産システム驚きなのはそれだけではない。ジェノバの商人はすでに新天地にもかかわっていた大西洋上のマカロネシアでのプランテーションが確立される頃、1453年5月、コンスタンチノポリスが陥落している。すでに(1381年)トリノ講和条約にてジェノバは東方交易の利権を全て失っていたが、かつては黒海周辺に植民都市をたくさん持っていたジェノバである。さらなる影響もあった? いや、逆に商機を得た?ジェノバは窮地に落ちたと思っていたが・・。地中海を捨て、大西洋に、南米に。ジェノバの商人根性、先見の明。ヴェネツィアと違った意味で凄いと思った。スペインとの関係スペインが大航海時代の覇者となるきっかけを作ったのがコロンブスによる新大陸の発見。その新大陸発見はコロンブスによる持ち込み企画で、当初はポルトガル王もスペイン王も断った非現実の冒険企画だった。でも、その夢の企画に乗って現実に近づけてくれたのが、コロンブスと同国人のジェノバの商人だった。実はジェノバ人は12世紀にはすでにスペイン国内で商業金融を営んでいたと言う。つまり12世紀にはジェノバの資本がスペイン(カステーリャ、アラゴン、レオン)に入っていたと言うことだ。しかも、彼らはスペインから免税や徴税権などたくさんの特権を受けていた。それもこれも実はスペインの王室も貴族も財政的に苦しく、王や貴族は自分らが持っていた諸々の特権を借金の代わりにジェノバ人に譲渡していたからなのだ。今回大きいのはジェノバの持っていた徴税権である。教会、騎士団、警察組織などの徴税権を持っていたジェノバはそれらの中から融通の利く税収入を一部コロンブスの航海の為に捻出している。コロンブス自身も個人でジェノバの銀行から借金もしている。実際問題として、大航海の為に一番必要なのは資金である。その資金を捻出できたのは、国王ではなく、ジェノバの商人だったと言う事実なのだ。だからコロンブスがジェノバの商人を味方につけた事は間違いなくこのプロジェクトの成功の鍵となった。※ コロンブスはジェノバ出身者。同国人だったと言うのが大きかったかも・・。つまり、コロンブス探検隊による「インディアスの事業」は表向き、カステーリャの王室が行った事業であったが、実際ジェノバ商人らによる経済力で実行し、成功できた。そして成功した暁には、ジェノバの商人は使ったお金以上の回収を望んでいたからコロンブスはそれに応える成果が何より先に欲しかった。コロンブスとスペイン帝国の名誉は後の話だ。それにしても商人らは本気で期待していたのか? 最初からギャンブルと思っていたのか?ちょっと気になる。ジェノバ人の報酬コロンブスが到達したのは、アジアでは無かった。そこは、インドでもなくジパング島でもなかったが、金鉱が見付けられたのはまさにラッキーだった。スペイン帝国は南米から産出された金をジェノバへの返済金? 報酬? にしている。ヴェネツィア駐在のスペイン大使の報告(1595年)1530年以後、8000万ドゥカード(ducato)の金銀がスペイン船によりアメリカ大陸から欧州に運ばれた。※ ドゥカート金貨はヴェネツィア共和国の当時の冶金技術で精製できる最高峰の純度を誇る金3.545gで純度99.47%の金貨。(8000万ドゥカートで金283.6トン?)しかし、全てがスペインのもうけになったわけではない。1530年から1595年までの間にその30% (2400万ドゥカード)がジェノバ人のものになっていたと伝えている。金鉱が見つかった時の取り分30%? それは最初の契約にあったのかも知れない。地中海交易でヴェネツィアと争って負けたジェノバは東洋の物産を諦めはしたがスペインやポルトガルの航海に投資していたので大航海時代に双方の交易に係わり利益を得ていたのだ。実際、スペインが南米に開いた植民地、また鉱山開発に初期投資し、アメリカ大陸との貿易に大きく組入っていたジェノバの商人。ヴェネツィアの商人よりも柔軟でやり手だったかもしれない。帆船の風地球を吹く風は大きく2種に分けられる。一年中ほぼ同じ方向に吹く恒常風(constant wind)と、夏と冬で風向が変動する季節風(モンスーン・monsoon)である。恒常風は大気大循環に伴い緯度帯ごとの循環で3種に分けられる。極東風(Polar easterlies)、偏西風(Westerlies)、貿易風(Trade wind)※ 北半球、南半球共に3つの帯がある。季節風(monsoon)は地域で異なる。日本では、冬季には陸から海へ北西風が、夏季には海から陸へ南東風が吹く。帆船の航海には風が重要なので、昔は船乗りの経験による勘(かん)で風を読んでいたのだろうが、外洋に出た大航海では地球規模の風の影響を受ける。恒常風と季節風を読めなければ外洋の航海は成しえなかった。まさに貿易風(赤道前後30度)はこの風を利用して帆船が海を渡ったことに由来するらしい。そもそもそれら風は地球の自転に起因する。だから北半球と南半球では、極東風、偏西風、貿易風の風向は反転している。下の図はオリジナルです。図を補足するのが下です。北極・・・・極渦(きょくうず・polar vortex)極高圧帯ーーーーーー極東風(北東風)・・・・高緯度地域や極地で東側から吹く 極高圧帯から亜寒帯低圧帯に向かって吹く東風亜寒帯低圧帯偏西風(南西風)・・・・30度から65度の中緯度地域で西側から吹く 亜熱帯高圧帯から亜寒帯低圧帯に向かって吹く西風亜熱帯高圧帯ーーーーー貿易風(北東風)・・30度以下の低緯度地域で吹く 亜熱帯高圧帯から熱帯収束帯に向けて吹く風熱帯収束帯赤道ーーーーーーーーー熱帯収束帯貿易風(南東風)亜熱帯高圧帯ーーーーー偏西風(北西風)亜寒帯低圧帯極東風(南東風)極高圧帯ーーーーーーー南極・・・・極渦(きょくうず・polar vortex)地球が丸い事も自転している事も知らなかったのに、経験則から風を読み、潮の流れを読み、広い海洋に繰り出し遙かかなたの大陸まで辿り付いて世界を広げた彼ら、凄すぎる。最後におまけフォールス湾シール島自然保護区(False Bay Seal Island Reserve)先に紹介したケープ半島が囲むフォールス湾(False Bay)から写真を数枚。湾に浮かぶ大きな石? 島? はケープオットセイ(Cape fur seals)のコロニーとなっている。面積は5エーカー(2ha)。64,000頭のケープオットセイが生息していてるらしい。フォールス湾の近いビーチからでも5.7 km。船で向かい遠くから撮影。接近して撮影できていないのと、デジカメの解像度が低かった時代の写真なので拡大ができません。前回、「アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス」の中、「エンリケ王子の資金源」で石鹸の製造販売権の独占と言うのを紹介した。彼は王国内での石鹸の製造と販売の独占権を持っていたのだが、その材料がオリーブ油とアザラシ油脂だったと言う。アザラシとオットセイは似ているからね。まさかここから調達? ボウルダーズ・ビーチ(Boulders Beach)は枚数が増えそうで今回入れられなかった。「アジアと欧州を結ぶ交易路」まだつづくBack numberリンク 静物画にみるメッセージリンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史 アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2022年04月18日
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ロシアによるウクライナ侵攻に心が痛みます。21世紀にもなって稚拙な個人的野望で国を軍隊を動かすプーチン大統領。中国の習近平氏も同じ穴の狢(むじな)。独裁制に陥りやすい共産国の政治体制って、やはり問題です。この二人に世界が握られたらヤバい以外の何ものでもない。さて、海洋越えの大航海時代は、16世紀半ばまではポルトガルとスペインの独壇場であった。16世紀後半から新興国オランダと国内統一を終えたイギリスが後に続く。オランダはスペインから独立を勝ち取るとポルトガルの勢力圏であるアジアに進出して勢力を拡大。実際日本は当初ポルトガルと交易していたが、そのポルトガルを追い出しオランダが後釜に座った。※ オランダは江戸時代が終わるまで日本と独占的商売をした。後進のイギリスがインドで成功し、同じく後進のオランダが極東の日本や南アジアで成功したが、大航海時代を考えた時、やはり称えられるのは最初の道を開いた(大航海時代を牽引した)ポルトガルとスペインのひるまぬ勇気と冒険心であったろうと思う。さて、前回は、ポルトガルによる北アフリカのセウタ(Ceuta)侵攻まで紹介。ポルトガルの海洋進出はここきっかけで始まったと考えられる。なぜなら、当初描いた図式では、ここから北アフリカの侵略を始め、同時にキリスト教を広める予定であり、かつ紅海まで広げられればインドとの独自交易も可能と期待していたからだ。ところが実際は、無防備のセウタはあっさり攻略したものの、強いイスラムの前にそれを広げるどころか、維持するのもやっとの状態であった。この戦いには多大な借金があったし、戦闘に加わった諸侯にはそれなりの報酬を与えなければならない。ポルトガルが海洋に船を出したのは欧州最西端に位置する国の宿命だったのかもしれない。ポルトガルは金食うだけのセウタから手は引きたいと苦悩しただろうが、ローマ教皇に十字軍として認定されている以上、もはや独断で退く事もできなかったはずだ。しかもローマ教皇の期待は大きかった。ローマ教皇は北アフリカに踏み出したレコンキスタ(Reconquista)を全力で応援した。戦士の補充、免罪、資金といろんな形で支援し続けた事が解っている。ところで、小国ポルトガルのだいそれた海洋進出の資金源はどこか?テンプルの遺産が舞い込んだからだと思われいるが、私は違うと思う。信心深く真面目なエンリケ王子はセウタに遺産を使ってもプライベートの海洋研究にテンプルの遺産は使う事は絶対になかったと思う。何よりエンリケ王子はプライベートでいろいろ資金源があった。公私混同はなかったと思う。今回写真はイザベル女王とコロンブスの墓所などグラナダ(Granada)とセビリア(Sevilla)から。アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスユーラシア大陸最西端 ロカ岬エンリケ王子の資金源ポルトガルの交易品 ポートワイン(Port Wine)フォーティファイド・ワイン(fortified wine)奴隷売買をしたポルトガル海洋王国スペインを誕生させたコロンブスの計画スペイン王墓 グラナダの王室礼拝堂のイザベラの棺ポルトガルとスペインの海洋史世界を分割したトルデシリャス条約とサラゴサ条約トルデシリャス条約(The Treaty of Tordesillas)サラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)コロンブスのお墓とセビリア大聖堂コロンブスのおかげで豊かになったセビリア(Sevilla)セビリア大聖堂(Catedral de Sevilla)グラナダ(Granada)アルハンブラ宮殿(la Alhambra)アルベルザナ・ウォールレーン(Carril de Muralla Alberzana)ユーラシア大陸最西端 ロカ岬ユーラシア大陸の最西端がポルトガル(Portugal)のロカ岬(Cabo da Roca)である。首都リスボン(Lisbon)から西へ30kmに位置する。北緯38度47分 西経9度30分ロカ岬(Cabo da Roca)の灯台前回振れたが、ポルトガルの植民地となるアゾレス諸島(Azores Islands)はこの大西洋のほぼ同緯度の西方に位置している。※ アゾレス諸島 およそ西経25度~31度 北緯37度~39.5度の間に点在ここには前回「発見のモニュメント」の所で触れたポルトガルの大詩人ルイス・ヴァス・デ・カモンイス(Luís Vaz de Camões)(1524年頃~1580年)の詩が刻まれた石碑が建っている。自ら航海に参加して執筆した栄光の記録「ウズ・ルジアダス(Os Lusiadas)」第3詩20節の一節。「ここに地終わり海始まる(Onde a terra se acaba e o mar começa)」難しい格言のように聞こえるが、よく考えればシンプルに「ここは(ユーラシアの)陸の端っこで、ここから先は海だよ。」と言っているわけで、加えるなら「ここから先は海の冒険物語が始まる・・。」と言う事なのだろう。ルイス・ヴァス・デ・カモンイス(Luís Vaz de Camões)は最初から文人だったわけではなく、軍人としてセウタやインドのゴアにも参戦している。そして軍務終了後、マカオの士官として勤務している時にウズ・ルジアダス(Os Lusiadas)の執筆にとりかかったと言う。ポルトガルへの功績(軍務と文学)、特にポルトガル文学史上最大の詩人として評価されている。エンリケ王子の資金源1415年、セウタ侵攻の翌年に(1416年)エンリケ(Henrique)王子(1394年~1460年)はセウタの防衛と補給の最高責任者に任命されている。また1420年に、テンプル騎士団の後継であるキリスト騎士団(Military Order of Christ)のマスターにエンリケ王子が選ばれている。ポルトガル王の推挙はあったが、これは教皇によりセウタ十字軍として正式に認定されたからこその抜擢であったと思う。セウタ防衛には戦士もお金も必要だった。これはキリスト教軍が死守するセウタの為にテンプル騎士団の遺産を使っても良い。と言う教皇裁定であったのではないか?もはやエンリケ王子はポルトガルが侵略したセウタの防衛最高責任者だけではなくなった。お金の心配こそなくなったが、セウタ防衛を使命としたキリスト教騎士団のマスターとしての重責がのしかかる。先にも書いたが、ローマ教皇はセウタ死守の為に人材を出すよう他の騎士団に働きもかけている。もはやポルトガルの一存でセウタから撤退する事など絶対に考えられない状況に追い込まれたと考えられる。ポルト(Porto)の街にあるエンリケ航海王子(Henry the Navigator)を称える像自前の写真ですが、天気が悪いのと、古い写真なので解像度か低いのです。バックはフェレイラ・ボルヘス・マーケット(Mercado Ferreira Borges)左にボルサ宮殿(Palácio da Bolsa)がある。下はウィキメディアから借りた同じ像の角度違い。 周囲を少しカットしましたAutor: Manuel de Sousaエンリケ王子はこのポルトの近くで生まれたらしい。1894年に、彫刻家トマスコスタによって、エンリケ王子の記念碑としてパリで鋳造され1900年に設置。下もウィキメディアから借りて少しバックをカットしましたPhotographer: Bob Smithテンプルの遺産をあてにしなくともエンリケ王子には別に資金源が複数存在した。本国の領地最初に与えられたヴイセウ(Viseu)公爵領のコヴィリャン(Covilhã)の領地の他、内陸に69件の物件。ベルレンガ(Berlengas)群島 (北大西洋のイベリア半島沖合)バレアレス(Balears)諸島 (最大の島がマヨルカ(Majorca)島)ヴィセウ(Viseu)公爵領は、所領では全体の3分の1の収益。ヴィセウ公爵領内でのマーケット開催権。家屋敷は各地に複数植民地区の領地マデイラ(Madeira)諸島に3島(ポルト・サント、マデイラ、デゼルタス)アゾレス(Azores)諸島カボ・ヴェルデ(Cabo Verde)諸島のサンディァゴ島木材伐採権マデイラ島の木材は重要な供給地。またテージョ川流域の王領地における木材伐採権も持つ。木材は船の材料であり、またワインや食物貯蔵の樽(たる)を造る上で重要な素材であった。石鹸の製造販売権の独占石鹸が実用化して安価になり世間に出回るのがこの頃。ポルトガルではオリーブ油と共にアザラシ油脂が使用されていた。エンリケ王子はサンタレン(Santarém)とリスボン(Lisbon)で石鹸の製造を始めるとジョアン1世から王国内での製造と販売の独占権を得た。後に全ての石鹸の輸入も禁止され完全に独占状態となる。※ この権利は死ぬまではなさなかったと言うが、この権利を街限定で家臣に分割譲渡もしている。※ アザラシは西アフリカから入手。漁業権の独占川や海における漁業権。特にマグロの漁業独占権。漁業権には国王税が10分の1。また商品譲渡税が付随する。そのうち国王税が免除された。モンテ・ゴルド海域、ベルレンガ及びバレアル海域での漁業権には免税された分の国王税10分の1を課税できた。珊瑚の採取権ポルトガル海域での珊瑚採取と加工の独占権。※ 独占の代償に国王に5分の1税と商品譲渡税は支払った。その他アルコバッサの羊毛権の取得複数の都市での市場開催権の取得ボジャドール岬の商業特権及び岬以南の航海、貿易、戦争の独占権取得。エンリケには多方面からの収益があったのだ。しかも彼は生涯独身であり、家族の為に使う事も無いから、それらを海洋航海や探検の為の資金に使ったのではないか? と推測する。甥のフェルナンドを養子にしているが財産全てを譲渡されたかは不明。亡くなる2ヶ月前に遺言の書き換えをしているが、総じてエンリケの残した財産はほぼポルトガル国に帰属したと思われる。因みに元テンプル騎士団であるキリスト騎士団の財産は1426年以降、内陸にテージョ川周辺など60カ所の不動産。土地に与えられた特権として現金、小作料の他にヴィセブ地方のワイン販売の特権。キリスト教騎士団の本部トマールのマーケット開催権。タロウカ、ボンバルのマーケット開催権があった。それにしても15世紀と言う時代に、ポルトガルでは利権のオンパレード。何をするにも権利の独占が生じているのだから驚く。エンリケは土地も沢山持っていたが、利権だけで相当に裕福でやっていけたはず。それよりも、エンリケは利権集めのマニアだったのではないか? とさえ思う。ポルトガルの交易品 ポートワイン(Port Wine)ポルト(Porto)のドゥェロ川(O Douro)河口の河畔はポートワイン(Port Wine)のワイナリーが連なる。かつてワイン樽を輸送した船が係留展示されている。この対岸に、先に紹介したエンリケ像やマーケット、ボルサ宮殿がある。ドゥェロ(O Douro)川はスペインに水源を持ち、ポルトガルを横断してポルトの街に注ぐ河川。この河川の沿岸では、小麦やワイン用のブドウの栽培や羊の放牧などが行われていて、そこで採れたワインの醸造がこの河岸で行われ、出荷された事からポルトのワインは有名になった。ポルトのワインの生産は14世紀中頃、レコンキスタ後に始まっている。キリスト教ではワインは聖祭に必要な飲み物であるからだ。ポートワイン(Port Wine)は、ポルトガル語でヴィーニョ・ド・ポルト(Vinho do Porto)。ポルトガル特産の特殊な製法で造られる酒精強化ワインの一つである。※ ポルトガルのマデイラワイン、スペインのシェリー酒も同じ酒精強化ワインです。ポートワインの商標と品質は政府機関で厳しく管理されている。このポートワイン(Port Wine)には原産地指定DOCが付されていてこのポルトの街で醸造後、最低3年間樽の中で熟成され出荷される。ここで醸造されたワインのみポート・ワインと呼ぶ事ができるのである。現在はワイン自体はあちこちから集められている? ここで醸造され造られた所にブランドが付加されているのかもしれない。下はポートワインでポピュラーな1790年創業のサンデマン(SANDEMAN)ポートワインは日本の酒税法では甘味果実酒に分類される。それは、ポートワインは通常のワインではなく、敢えて甘く造られているからだ。フォーティファイド・ワイン(fortified wine)まだ糖分が残る発酵途中のワインに、アルコール度数77度のブランデーなど蒸留酒を加えて酵母の働きを強制的に止める事により糖度を残す製法だ。これによりアルコール度数は通常のワイン(10度~15度)よりも5度~10度上がり20度前後と高くなるが保存もきく。封をきってからも劣化が遅い。独特の甘みとコクが出る上に、長く熟成させれば芳香は増し、味わいもよりまろやかになるそうだ。それ故、ポートワインは食前酒や食後酒として利用される。チョコレートや葉巻に合うらしい。ワイン販売の特権は、エンリケ王子の権利一覧には無かったと思うが、エンリケ王子はワイン等の樽を造る木材の伐採権は持っていた。原産地指定DOCの特許もどこよれも早くからおこなっていたポルトガル。権利大好き? エンリケ王子の時にできたのかも・・。ところで、エンリケ王子の所領であるヴィセウ(Viseu)のワイン販売の独占権はキリスト教騎士団が持っていた。ワインは聖祭で使われる品なので、どこも教会の小作農園にブドウ畑はあった。それ故、ワイン自体は特別で、どこも教会の管理下に置かれていたのかもしれない。ポート・ワインの知名度が上がるのは、18世紀にポルト港からイングランドに大量に輸出された事による。イングランドは寒いから当時、ブドウの栽培はできなかったからね。※ ブドウ栽培の北限が近年の温暖化で北にシフト、1970年頃から? イギリスでもワイン用ブドウ栽培が始まった。奴隷売買をしたポルトガル奴隷と言う概念は古代ローマ時代からあったが、暗黒の中世、イスラムの海賊がはびこると、奴隷となったのはむしろキリスト教徒の方であった。エンリケ王子が西アフリカまで航海を進めると、ポルトガルはムーア人をとらえて連れ帰り奴隷としたと言う。当初は? 1348年の疫病の蔓延による人口減をカバーするべく北アフリカから集められた。そして航海技術が進むと西アフリカから金と象牙と奴隷を集めたと言う。彼らはマデイラ島のさとうきび畑などでも働かされたがアルギン島に交易所が開設されると奴隷はそこに集められた。その時、エンリケが奴隷の5分の1を確保し残りが奴隷市場で競売にかけられたと言う。奴隷売買もエンリケ王子の大きな収入源であったのだ。これはついでに集められたと言う人数ではなく、完全に商売としての市場が成立していた。たしかに最初は国内の人材不足を補うのが目的だったのかもしれないが・・。1551年、リスボンの人口は10万人。そのうち奴隷人口は5000人? 1万人? (5%から10%)彼らは家内奴隷として使役されたり家内商売で使役されていたらしい。キリスト教国が奴隷を持つのは許される事なのだろうか? 不思議な気がする。その点イスラムの場合、奴隷はイスラム教徒に改宗すれば自由人になれたはず・・。※ 征服された土地の場合は改宗すれば自由人。改宗しない場合は奴隷にされた。但しケースバイケース。最初から奴隷としてさらわれてきた女子供は奴隷として売られ終生奴隷だったかも。かつて鎖国をしていた日本は交易先をポルトガルからオランダに切り替えた。それにはいろいろい事情が存在したのだが、その一つにポルトガルが奴隷を使役する国だから。と言うのがあったと思う。ポルトガルが来航し、以来、日本人も奴隷として連れて行かれた? 売られた? と言う話しがある。鎖国時代の出島問題は以下に書いています。リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)海洋王国スペインを誕生させたコロンブスの計画ローマ教皇の連合艦隊 vs オスマン帝国艦隊が戦ったレパントの海戦 (Battle of Lepanto)(1571年)時点ではすでにスペインはヴェネツィアも一目置く強い海軍力を持っていた。スペインはいったいいつから海運国になったのだ?1492年、アラゴン・カスティーリャ連合(後のスペイン帝国)はグラナダ王国を陥落させイベリア半島のレコンキスタ(Reconquista)を完了した。スペインが本格的に海洋に目を向けるのは1492年以降なのである。前回少し触れたがコロンブスの持って来た計画のスポンサーになる事を了承したのはカスティーリャの女王イサベル1世(Isabel I de Castilla)である。※ クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)(1451年頃~1506年)実はコロンブスが1483年、最初に計画を持って行ったのはポルトガル王であった。ポルトガルで断られ、スペインで断られ、再度ポルトガルで断られ、4度目、グラナダ陥落で気をよくしていたスペインのイサベル1世からやっと支援をとりつけたと言う経緯があった。グラナダ市街の中心部にあるイザベラ・ラ・カトリカ広場(Plaza de Isabel la Catolica)に置かれた像イザベラ女王にひざまずき何やら説明しているコロンブス像コロンブスのプレゼンは完璧だった?コロンブスの大西洋を横断してのインディアスの発見と黄金の国ジパングの発見の計画案は当初誰も取り合わなかった。彼の計画はアジアに西廻りで到達しようとする無謀な考えだったからだ。何しろ地球が丸い事はまだ証明されていなかったし、何よりコロンブスは無一文で、全ての計画の資金を提供しなければならなかったからだ。計画立案から8年の間にコロンブスは支援者を見付けていた。コロンブスの出身地であるジェノバの商人とフランシスコ会の修道院長である。その頃、ポルトガルはすでに西アフリカを南下しプレステ・ジョンの国に迫ろうとしていたから、スペインの教会としては心穏やかではない。西廻りでアジアに到達して先に布教できるかもしれないと言う競争心にかられたのだろう。実際、イザベラ女王への謁見は教会の押しで決まった。また、スペインの商業金融にかかわっていたジェノバの商人は東洋の黄金を目指す同国人のコロンブスの可能性を見越してコロンブスにもお金を貸したし、金欠のスペイン国(カスティーリャ)にもその資金を融通する措置をとった。こうして援助してくれる者が増えた事で、この「インディアスの事業」は、コロンブスにとって「何が何でも成果を上げなければならない。」と言う絶対的使命に変わった。コロンブスの交渉相手をスペインとしてきたが、正確に言えばその時点ではカスティーリャ王国である。グラナダ陥落以降に世界史ではスペイン帝国と一括りにされる。スペインの方が解り易いから敢えてスペインにしたが、スペイン帝国でも、海洋に進出できたのはコロンブスと契約したカスティーリャ王国だけなのである。つまりスペイン帝国の海洋進出の事業はカスティーリャの独占で行われていたと言う事になる。ところで、イベリア半島でのレコンキスタを完了させた事でローマ教皇は大喜び。これも前回振れたが、カスティーリャ王女イザベラの夫はカスティーリャの王であると同時にアラゴン王太子フェルナンドであった。結婚してフェルデナンドはカスティーリャ王の称号を得た。カスティーリャには同時に二人の王が付いた。※ フェルナンドは王配でなく、カスティーリャの王として扱われた。ここにカスティーリャとアラゴンの連合王国ができてグラナダ陥落の偉業がなされたのだ。イスラム教徒の国を追い出した事でフェルナンド(Fernando)とイザベラ(Isabel I de Castilla)の二人はローマ教皇アレクサンデル6世(Alexander VI)よりカトリック両王の称号 (the titles of the Catholic Monarchs)を授与された。スペイン王墓 グラナダの王室礼拝堂のイザベラの棺王室礼拝堂(Royal Chapel of Granada )障壁の向こう、祭壇前に2つのサルコファガス(モニュメントとしての石棺)が置かれている。右がイザベラ夫婦の石棺。古い写真だし、拡大のはボケてて使用不可でした。狭いのと暗いので撮影もできない。最も今は聖堂内の撮影自体ができないらしい。それぞれに夫婦のものであるが、実際の棺は地下に安置されている。イザベラ1世(Isabel I de Castilla) (Isabel la Católica)(1451年~1504年)※ カスティーリャ女王・イザベラ1世(在位:1474年~1504年)夫フェルディナンド2世(Fernando II de Aragón)(Fernando el Católico)(1452年~1516年)※ カスティーリャ王・フェルナンド5世(在位:1474年~1504年) 王配ではない。※ アラゴン王(在位:1479年~1516年)娘フアナ1世(Juana I de Castilla)(1479年~1555年)※ カスティーリャ・レオン王(在位:1504年~1555年)※ アラゴン王(在位:1516年~1555年)※ 娘フアナ結婚後、美形夫の浮気性? から精神異常? 夫の死で奇っ怪な行動。以降女王ではあったが、ほぼ修道院に幽閉状態で40年。夫フェリペ1世(Felipe I)(1478年~1506年)※ 美公 ブルゴーニュ公フィリップ4世(在位:1482年~1506年)※ カスティーリャ女王フアナの王配地下納骨堂(gruft)レコンキスタを終え、カトリックの王の称号をもらった事でイザベル女王がグラナダを終の住みかとするべく、王墓として建立した礼拝堂である。1504年礎石が置かれ、1521年に完成したが、イザベラもフェルナンドも完成を見る事はなかった。ポルトガルとスペインの海洋史1419年 ポルトガル エンリケの部下、ポルト・サント島に到達。1420年 ポルトガル マデイラ(Madeira)諸島の再発見。1427年 ディオゴ・デ・シルヴェス(Diogo de Silves) アゾレス(Azores)諸島サンタマリア島に到達。1434年 ポルトガル ジル・イアネス(Gil Eanes) ボジャドール岬(Cape Bojador)を迂回してカナリア諸島(Canarias Island)のテネリフェ(Tenerife)島に到達。1443年 ポルトガル ヌノ・トリスタン(Nuno Tristan)船長 モーリタニア西岸でアルギン (Arguim)島到達。そして1444年、セネガル川発見。1445年 ポルトガル アルヴェロ・フェルナンデス(Alvero Fernández)ギニアに到達。 アルギン (Arguim)要塞の建築開始。ブランコ岬に最初の占領標識を建てる。1452年 ポルトガル ディオゴ・デ・ティベ、アゾレス(Azores)諸島フローレス島とコルヴォ島発見。1456年 ポルトガル エンリケが派遣したヴェネツィアのアルヴィーゼ・ダ・カダモスト(Alvide da Ca' da Mosto)、ガンビア川を遡上。ギニア探検とマデイラ諸島の航海探検。カーボ・ヴェルデ(Cabo Verde)諸島に到達。前回ラストに載せたエンリケ航海王子の調査隊により発見された航路図を再び参考に1460年 エンリケ王子死去。1482年 ポルトガル ディオゴ・カン(Diogo Cão)コンゴ川河口に到達。1488年 ポルトガル バルトロメウ・ディアス(Bartolomeu Dias)喜望峰に到達。最終的にポルトガルがたどるコース1492年、グラナダ王国を陥落させイベリア半島のレコンキスタ(Reconquista)完了。スペイン始動。1492年~1493年 スペイン コロンブスの第一回航海。探検開始から新大陸発見。 8月3日、バロス港 出航。 9月6日、カナリア諸島のゴメス島出航。大西洋横断の航海。 37日間で大西洋を横断している。コロンブスの計算通りだったらしい。 10月13日、サンサルバドル島到達。 12月 6日、エスパニョラ島到達。ここに金山があった事からここがジバンゴ島(日本)だと信じた。 キューバ発見。これは中国と理解した。 ~1493年当時の探検家のバイブルは、マルコポーロ(Marco Polo)(1254年~1324年)の東見聞録(Il Milione)だったらしい 間違ってはいたが、結果的にコロンブスは黄金を見つけ、その富をスペインにもたらした。※ 東方見聞論とマルコポーロについては以下に書いています。リンク 京都五山禅寺 3 禅庭の世界と文化+黄金の国ジパングスペインによる新たな大陸の発見をローマ教皇は喜んだ。キリスト教をもっと広められると思ったのだろうと推察する。1493年 ローマ教皇により教皇子午線(Inter caetera)が設定される。※ 次の項で説明するがポルトガルは教皇子午線に異議を申し立てた。1494年 スペインとポルトガル間でトルデシリャス条約が締結。※ 新たな子午線が敷かれた。1493年~1496年 スペイン コロンブス2度目の航海1497年 ポルトガル ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)リスボン出航。1498年 ポルトガル ヴァスコ・ダ・ガマ喜望峰を越えモザンビーク海峡を通過 5月インド洋を通過してインドへ。インド洋航路発見1498年~1500年 スペイン コロンブスの3度目の航海1499年 ポルトガル ヴァスコ・ダ・ガマ、アフリカ東岸まで戻り南下。帰路に就く 7月リスボンに帰着コロンブスの航海ルートウィキメディアから借りた図に数字を加えました。1492年~1504年の間にコロンブスは4回アメリカ大陸に行っている。付随してスペインによる南米の征服と植民地化が急速に始まった。コロンブスは意外にもあっさりとアメリカ大陸(南米)に到達したのでスタートは遅れたが、スペインの海外進出は成功。その時点でポルトガルをあっさり追い抜いていた。コロンブスが航行した距離も最短で4ヶ月である。合理的に大西洋を横断しているので距離も短い。一方ポルトガルの方はそもそもアフリカ南端まで向かうのにそれだけでも地球を縦に3分の2くらいの距離がある上、さらにアフリカ大陸を北上してインド洋まで到達為なければならない。気が遠くなりそうな距離だ。距離や航海の難易度から言えばポルトガルの方が大変なのだが、結果は収益であるから、南米に金や銀を見付けて、広大な植民地を得たスペインの方が賢く勝ったかもしれない。それにしても、ヴァスコ・ダ・ガマは喜望峰にもすんなり行けていない。大西洋上のセントヘレナ島まで流されるなど、そのままアメリカに行った方が良かったのでは? 航行に無駄が多すぎる。赤道一周分以上の航行をしているらしい。また、ヴァスコ・ダ・ガマは無礼なのか? 非礼なのか? 食糧や水の補給でも常に現地でもめてトラブル続き。そもそも人選ミスだったのではないか? とさえ思う世界を分割したトルデシリャス条約とサラゴサ条約先に触れたが、コロンブスの新大陸到達の知らせを受けて、1493年ローマ教皇は教皇子午線(Inter caetera)をひいて、ポルトガルとスペインの領土エリアをかってに決めた。1493年の教皇子午線は、アゾレス(Azores)諸島、最西部にある★フローレス島 (Flores)とコルヴォ島 (Corvo)がライン上にひっかかっている。これにポルトガルは異議を申し立てた?翌1494年に新たにトルデシリャス条約がスペインとポルトガル間で締結され、ラインは少し西にずれた。トルデシリャス条約(The Treaty of Tordesillas)ポルトガル語: Tratado de Tordesilhasスペイン語: Tratado de Tordesillas)ポルトガルとスペイン(カスティーリャ連合王国)の間で世界を分割した条約が1494年のトルデシリャス条約(The Treaty of Tordesillas)である。※ スペインのトルデシリャスで署名され、ポルトガルのセトゥーバルで承認。トルデシリャス条約では西経46度37分(ほぼ子午線に沿った線)を基準として※ 北米側大西洋のほぼ真ん中を経度で分断東側の新領土がポルトガル西側の新領土がスペインアフリカ南端を回って東に進路をとったポルトガル。→インド・アジア方面へ大西洋を越えて西に進路を取ったスペイン。→南米東海岸。やがてはマゼラン海峡(Strait of Magellan)を越えて太平洋に出る。この条約は大航海を成し世界を侵略の範疇とした新たな2大海洋国家スペインとポルトガルの領土の取り合いを基準を持って制限分割したものである。※ 新たな土地とは非キリスト教徒の土地。両国はこれを遵守したが、そもそもこの条約は2国の独断によるもので世界の国が認めたわけではない。サラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)また、地球は丸かったので後に世界の裏側問題が起きる。1529年サラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)によって裏側にも分断線が引かれた。およそ東経143度のラインである。因みに、日本領土(東経122度~154度)はそのライン上にある。本州以下はポルトガルだが、東経143度の北海道はスペイン領となった。尚、両線は明確に2等分されていない。ポルトガル分の方が180度を上回っている。コロンブスのお墓とセビリア大聖堂コロンブスのおかげで豊かになったセビリア(Sevilla)1492年~1493年のコロンブスによる新大陸の発見航海。これがセビリア(Sevilla)の街を豊かにした。もともと西ゴート王国(Regnum Visigothorum)(415年~711年)の首都だった街。1503年、イザベラ1世は新大陸アメリカとの交易活動を増進調整する為にセビリアにインディオ通商院(Casa de la Contratacion)を設立。この組織は新大陸との交易、航海を監督し航海士の育成や海図の製作に当たった。この優位な独占的通商は1717年まで続きセビリアに恩恵を与えたが、 グアダルキビール川(Guadalquivir)に砂州がたまり船の航行に不便が生じた事からインディオ通商院(Casa de la Contratacion)は大西洋岸の港湾都市カディス (Cádiz)に移転した。移転はスペイン継承戦で勝利したフェリペ5世(Felipe V)(1683年~1746年)(在位:1700年~1724年)(1724年~1746年)の即位とも関係していると思われる。彼はスペイン本国と新大陸アメリカ間の貿易をより推進した政策をとっている。セビリア大聖堂(Catedral de Sevilla)左が後陣側で右が聖堂側世界で3番目に大きい聖堂である。全景は撮影できない。もともとイスラムのモスクが建っていた場所を王家の礼拝堂として転用していた。カトリック教会の建築が決定されたのは1401年7月です。1403年にアロンソ・デ・エヘア大司教が最初の礎石を積んで工事は開始された。モスクの取り壊しが始まった時、参事会は後世の人が度肝を抜く大聖堂の建立を誓ったらしい。この建築では1506年に一度は完成したらしいが、セビリアは地震が多かったらしくその度に再建されている。ところで、イスラムの建築は壊れずに残り、カトリックの建築で建てられた部分は壊れたと言う。丈夫に作られていたからなのか解らないが、イスラム時代のミナレット(ヒラルダの塔)は鐘楼としてそのまま転用され今に残る。※ ミナレット頭頂部は地震で崩壊して再建されている。またオレンジの中庭(Patio de los Naranjos)パティオもそのまま残されパティオの北側回廊に免罪の門が置かれている。下は聖堂裏側とヒラルダの塔(La Giralda)ヒラルダの塔(La Giralda)はイスラム時代の1184年着工。完成は1198年。キリスト教下では鐘楼として利用された。現在も上れます。そもそもヒラルダはヒラール(Girar)「回転する」から由来。女神像は文字どおり回転する風見鶏となっている。が、これで風向を観ていた訳ではない。キリスト教では魔除けや信仰に向かう強さも示されているらしい。ヒラルダの塔から見た大聖堂の屋根と左向こうがアルカサル。聖堂内部障壁いたる所に垣間見られるプラテレスコ様式(Plateresque)と呼ばれる細かい文様の装飾。スペイン語で「Plateresque」は「銀細工職人のように」の意味を持つ。イベリア半島のレコンキスタ(Reconquista)後から急速に広まったこの様式はキリスト教徒に改宗したイスラムの職人を抱えたイベリア半島ならではの独特な融合文化として生まれた様式だ。つまりキリスト教の建築様式にイスラム職人の技術が融合された特異なスペインの建築スタイルなのである。15世紀後半のゴシック後期からルネサンス初期にかけての2世紀間にスペインで生まれ流行。それは当時スペインの支配下にあった新大陸のメキシコなどにも影響が残る。下はコロンブスの棺。その背景の装飾文様がまさにそう。聖堂が広いから小さくみえるが、通常の人より大きい像が棺をかつぐ姿の造形だ。実はコロンブスの初めての大航海の出陣式をこのセビーリャ大聖堂でおこなっている。でもここから船でグアダルキビール川(Guadalquivir)を下ったわけではなく、その河口の街でもない。実際の船の出航は8月3日、リオ・ティント川河口のパロス(Palos)港なのである。それはコロンブスは1490年から2年間、パロスの港に近いラ・ラビダ修道院(Monasterio de La Rábida)に客人として滞在していた縁があったからだと思われる。ところで、コロンブスを押したラ・ラビダ修道院(Monasterio de La Rábida)はフランチェスコ会に属していた。だからスペインでは多くのフランチェスコ会の宣教師が新大陸の布教の為に海を渡った。※ クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)(1451年頃~1506年)スペイン帝国(カスティーリャ王国、アラゴン王国、レオン王国、ナヴァラ王国)を象徴する4人の王が棺をかつぐ姿のモニュメント。1492年4月17日、イザベルは正式にコロンブスと契約した。内容は、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地からの上代の10分の1の獲得。しかし、航海士としての感はあったが統治能力には欠けていた。今なら大犯罪。インディオらに殺戮の限りを尽くし金を供出させるなど統治とは言い難い酷い有様だったらしい。まかせていた弟の統治もロクデモ無く内部反乱が起きていた事もあり1500年には全ての地位が剥奪されている。だから第4回航海の頃はすでに期待もされていなかった? 与えられたのは小さな船4隻。イザベラ女王が亡くなると尚更、誰も相手にしなくなったと言う。コロンブスは以下に書いています。リンク スペイン・セビーリャ 8 (コロンブスの墓所) 1506年5月20日スペインのカスティーリャ・イ・レオン州のバリャドリッド(Valladolid )で逝去。遺骨は当初セビリアの修道院に納められたが1542年にドミニカ共和国のサントドミンゴ(Santo Domingo)の大聖堂に移動。1898年、イスパニョーラ島がフランス領になったのを機にフランスと返還交渉。彼は再び、スペインに戻りセビリアの大聖堂に収まったと言うわけだ。※ 現在イスパニョーラ島(Ispayola)西側3分の1がハイチ、東側3分の2をドミニカ共和国が統治。南米での話しは次回入れる予定。おまけにグラナダを少し入れました。グラナダ(Granada)グラナダに向かうハイウェイオリーブ畑が続く道。オリーブオイルの生産量世界一と言われるスペイン。なかでもグラナダやコルドバと北のハエンの南アンダルシア地方は、スペインのオリーブ生産量の75%を占める一大産地。かなたに連なるシエラ・ネバダ(Sierra Nevada)山脈。イベリア半島南東部スペインのアンダルシア州グラナダ県とアルメリア県にまたがる山脈。雪の山の意を持つシエラ・ネバダ(Sierra Nevada)は一年を通して万年雪が残る。最標高3478.6mのムラセン(Mulhacén)山はグラナダに属している。スキー場として有名で、山麓のグラナダはスキー客が宿泊で利用する。みんながアンダルシアの観光に来るわけではない。アルハンブラ宮殿(la Alhambra)グラナダ(Granada)はシェラネバタ(Sierra Nevada)山脈の北西に位置。3つの丘、アルバイシン(Albaicin)、サクロモンテ(Sacromonte)、アルハンブラ(Alhambra)の上に広がっている。とりわけ、歴史を語るアルハンブラ宮殿(la Alhambra)はグラナダ最大の観光名所であるのは言う間でもない。アルハンブラはイベリア半島に最後まであったイスラムのグラナダ王国ナスル朝の造った城塞型の美しい宮殿。ヘネラリフェ(Generalife)からのアルハンブラ宮殿パルタル庭園実はイスラム教徒の国ではあるが、イベリア半島に在りながら、カステーリャ王国の臣下と言う立場をとり外交政策でうまくやっていた。第4代ナスル朝グラナダ王国の君主ナスル(Nasr) (1287年~1322年)(在位:1309年~1314年)はカスティーリャのフェルナンド4世(Fernando IV)(1285年~1312年)と平和条約を締結その為に征服事業にも軍を派遣したと言う。だから小国ではありながら、訪れた平和によりアンダルシア各地から手工業者や知識人が集りグラナダ王国は割と長く繁栄、素晴らしい文化遺産を残したのであるナスルの時代にアルハンブラ宮殿 (la Alhambra)のアブル=ジュユーシュの塔の建設をする。14世紀後半第8代ムハンマド5世(Muhammad V )(1339年~1391年)の治世下で、ナスル朝はその時最盛期を迎えている。ムハンマド5世は、ライオンの中庭とメクサールの宮殿、またはクアルトドラドでアルハンブラ宮殿を完成させている。ライオンのパティオコマレス宮 アラヤネスのパティオメスアール宮のパティオ丘の下からのアルハンブラ宮殿アルハンブラ宮からの眺望アルベルザナ・ウォールレーン(Carril de Muralla Alberzana)アルバイシン(Albaicin)の丘に敷かれた城壁をピンクでラインしました。14世紀、ナスル(Nazarí)朝のスルタンユースフ1世(Sultan Yusuf I)の命令により建築されたアルバイシン(Albayazcin)のナスル朝の壁の北壁壁の頭頂にあるのはサンミゲルアルト(San Miguel Alto)教会アルハンブラからの撮影なので向こう側がキリスト教圏かな?強固な城壁で鉄壁な守備をしていた?陥落したのはナスル朝内部の内紛にキリスト教軍は乗じたからのよう。絵のタイトルは グラナダの降伏(rendición de granada)Francisco Pradilla y Ortiz (1848年~1921年)1492年、イベリア半島に残った最後のイスラムの国、グラナダ王国ナスル朝がカスティーリャ王国に降伏している図のようだ。この絵画の原本は王室礼拝堂(Capilla Real)にあった。描かれたのは近年だけどね。「アジアと欧州を結ぶ交易路 17」につづく3回目のワクチンを打ちぐったりしていました。いつもの事ですが、後から修正あると思います。昔クイズ形式でのせたものにタイトルを付け再度紹介。結構貴重な資料かもしれないので是非見てください。1~4作まであります。リンク パンチボール(Punchbowl) 1Back numberリンク 静物画にみるメッセージリンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人 アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2022年03月24日
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ラストにBack numberを追加しました。やっと大航海時代に突入です。当初、ここが2回目くらいの予定でしたなんだかんだと深く掘りおこし過ぎた感もありますが、歴史は繋がっているので過去から段階的にやってきて良かったかも知れません。私達が習ってきた世界史はポイントだけ。繋ぎの歴史が無いからいきなり展開? いきなりその部分だけをクローズアップしても本当の意味は解らないと言う事がよく解ったからね。さて、大航海の時代に入る前に過去ログを少しおさらいしつつ、大航海時代の道筋を簡略に説明。「アジアと欧州を結ぶ交易路 」リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦ローマ帝国が衰退し、パレスチナや北アフリカがイスラムの勢力に塗りつぶされて行くと、もはやローマ帝国時代の地中海を中心とした華やかな交易は消滅していた。しかも穏やかであった地中海もイスラムの海賊の狩り場となり地中海の島々ばかりか、フランスやイタリア南岸のキリスト教徒らの街は襲われ、人はさらわれ奴隷にされた。激しく治安が悪くなった時代が数世紀。「暗黒の中世」と呼ばれる時代が到来する。8世紀頃になると、自国の商船を守りながら護衛をして地中海交易に乗り出す港湾都市がイタリア半島から複数誕生する。それが「海洋共和国(Marine Republics)」である。海洋共和国は11世に始まった十字軍遠征の恩恵を受けてどこも最盛期を迎える。聖地やパレスチナの十字軍国家に物資を運ぶと共に巡礼者を運んだからだ。だが、十字軍特需による恩恵は聖地が再びイスラムの元に包囲されると一気に失われた。彼らは時にイスラム商人とも取引したし、パレスチナや黒海の向こうから来る東洋の物産を仕入れては欧州に運んだ。そんな海洋共和国の中でも長きに渡り生き残ったのがジェノバとヴェネツィアである。特に両者の海運力は抜きん出ていた。以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)」でも書いているが、リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)1453年、東ローマ(ビザンツ)帝国の帝都コンスタンティノポリスがオスマン帝国により陥落すると西側の交易事情は大きく変わった。ボスフォラス海峡がイスラム支配圏になると以前のように通れなくなり黒海に入れ無いと言う事はシルクロードで運ばれる東洋の物産も手に入らなくなる・・と言う事だからだ。※ シルクロードで運ばれた荷は黒海南岸の街で船に乗った。西側諸国にとってコンスタンティノポリスを経由しない新たなルート開拓が急務となった。もちろんイスラムと取引した海洋共和国はあったが、結果論として、東洋を繋ぐ唯一のルートが閉ざされた事は大航海時代を迎える要因の一つとなったのは間違いない。同時にアドリア海の交易不振は急速に進んだのだろうと思われる。その頃はパレスチナから北アフリカは完全にイスラム支配下にあり、地中海でさえ、イスラムの海賊が闊歩して安心して航海できない現実があったからだ。ただ、海洋共和国ヴェネツィアだけはイスラムと取引。かつジェノバを負かし、東地中海交易を独占する事になる。※ レパントの海戦ではイスラムと戦ったヴェネツィアであるが海戦後(1573年)に再びイスラムと取引して交易を続けた。リンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦ヴェネツィアの船は最後まで東地中海交易に特化。1380年、キオッジャの戦い(Battaglia di Chioggia)に負けたジェノバは1381年のトリノ講和会議で完全に利権を失ったから、結果、東洋貿易においては、最終的に黒海の制海権を全てヴェネツィアが独占する。他方、ジェノバは生き残りをかけて新たな道を模索せざるおえなくなった。そもそもヴェネツィアは交易による関税が主な収益であったから貿易一筋的な所があった。対してジェノバは当初からローマ教皇の為に働き、見返りに利権を受けたり植民都市を得て利益をあげていた。※ イスラムの勢力拡大と共にたくさんあったジェノバの植民都市も次々失われていた。地中海での交易の限界? 負けたジェノバは地中海交易に見切りを付け新たな商機を求め外洋に絶えられる船を造作して北海への航路を開拓。ジェノバはジブラルタル海峡(Strait of Gibraltar)を越えて北にルートを取りハンザ同盟で栄えていたフランドルのブルージュへ定期航路を持つ。売れ筋の高額商品であるフランドルのタペストリーはポルトガル王女の嫁ぎ先の品だ。ポルトガルはそれらを独占して仕入れていたのでポルトガルとジェノバの関係は深くなる。多くのイタリア人がポルトガルの港に移住してきたそうだ。以前、「アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊」の中でヴェネツィアに地中海交易を取られた後のジェノバを紹介している。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊そこでは西への商路拡大と共に神聖ローマ皇帝カール5世(1500年~1558年)のガレー船を請け負ったり、スペインと同盟を結んだ事など紹介しているが、それ以前の14世紀以来、ジェノバはポルトガルの海洋進出にも力を貸していたのである。つまり、ジェノバは海運国としてのノウハウを輸出。また資金の貸し付け業もしていた。海運国なので当然造船技術はある。ヴェネツィアもたくさん船を造って売っていたが、ジェノバは造船だけでなく、航海士の育成の為の学校もあり、船も人(航海士)も航海技術も、また精度の高い海図なども早くから輸出していた。1317年にはポルトガル王はジェノバの商人をリクルートして商売や海運を学ぶと、その100年後には有数の海運国にのし上げている。ポルトガルが海洋国家になる一歩は間違いなくジェノバのおかげであった。今回写真はポルトガル関連、セウタ(Ceuta)が多めです。かつてポルトガルのエンリケ王子が侵攻して得た北アフリカのセウタは、ある意味大航海時代を迎える要因の一つになったのではないか? セウタ侵攻の意味も含めてエンリケ王子の紹介をします。ところで、セウタは現在スペインの所領になっています。アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガル大航海の前章発見のモニュメント(Padrão dos Descobrimentos) ベレンの塔(Tower of Belém)ジェロニモス修道院(Mosteiro dos Jerónimos)バスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)の石棺インド航路発見のの探検隊イベリア半島のレコンキスタ(Reconquista)海洋王国ポルトガルの誕生長子制度と3つの騎士団ポルトガルの海外進出、セウタ(Ceuta)征服モンテハチョの要塞(The Fortress of Mount Hacho)セウタの王室城壁(The Royal Walls of Ceuta)セウタ十字軍? サンフェリペ壕(Moat of San Felipe)大西洋上の船舶寄港地と植民地大航海の前章地中海を出て大海洋へ乗り出した大航海の時代、表の主役は一気に変わる。海図を書き換え地球が丸かった事を証明したのはジェノバでもベネツィアでもなくポルトガルとスペインなのである。新たな海洋国家の出現による海洋交易の主役の変更はイベリア半島で起きていたレコンキスタ(Reconquista)に大きく関係していた。(後で詳しく紹介)ポルトガルは先に紹介したよう1400年初頭にはすでに海運国となっていたが、これもレコンキスタと無縁ではない。アラゴン・カステーリャ連合(後のスペイン帝国)はイベリアに残っていた最後のイスラムの国(グラナダ王国)を陥落した。その1492年以降、本格的に海事に参戦する事になる。コロンブスにGo sign を出したのはカスティーリャの女王イサベル1世(Isabel I de Castilla)だったのである。コロンブスおかげでスペイン帝国(カステーリャ王国)は新たな海洋国として仲間入りする。※ イサベル1世の夫はアラゴン王でありカスティーリャ王でもある。※ 世界史では、1492年のグラナダ王国陥落以降をスペイン帝国と呼ぶ。スペイン帝国は西に航路をとり大西洋を横断した。コロンブスの功績でスペインは新地を発見し、スペイン帝国は多くの植民地と富を手にする事になる。「太陽の沈まない国」と形容されるほどに・・。但し、スペイン帝国と言えど、海運はカステーリャ王国が独占したし、資金は借りていたので全ての利益を手にしたわけではなかった事も判明。(後で詳しく紹介)ポルトガルは中東の市場の豊かさを知り、アフリカを南下するルートからインド洋を目指した。イスラム商人を介さず、何とか直接仕入れができないか? 北アフリカの探検隊も出している。当然、船も変った。海洋を越える長距離の航行できる船体の開発が必要不可欠だったからだ。とりわけエンリケ航海王子の貢献は大きい。ポルトガル南部のザグレスに航海学校を設立。そこでは船の造作、航路の開拓から海図の作成もしたし、天文台を置いて星の観測も余念なくした。実際に船を出して、少しずつ航海図を書き足して道を開いたボルトガル。エンリケ王子が求めなければできなかった事だ。エンリケ王子がなぜ海洋越えをめざしたのか?そこにも複数の理由が存在するが、大きくはポルトガルと言う国の立地からの領有地の拡大と収益問題につきるだろう。それは1415年、セウタ(Ceuta)攻略の根底にもある。北アフリカを押さえ、インドとの交易につなげる事が最大の目的であった。セウタ侵攻には北アフリカのレコンキスタと言う側面も確かにあった。だが、セウタ侵攻に経費がかかった上にそれ以上広げられなかったし、維持費もかかった。諸侯に与える報酬も無しではすまされない。そして、1434年、ポルトガルがボジャドール岬(Cape Bojador)を越えた時、道は開けた。カナリア諸島ついでにマデーラ諸島とアソーレス諸島を発見しポルトガルは植民地を得た。※ カナリア諸島の利権は当初は個人。後にスペインが参入。(1479年最終決着)ポルトガルは海を越えて領地を求め続けたのである。むろん、そこには未知に対する多大な好奇心もあったであろう。伝説ではボジャドール岬より先に世界は無いはずであったから、船乗りにとって越えられない壁であった。ボジャドール岬越えの衝撃は、大航海時代の本格的スタートとなる。※ ボジャドール岬はカナリア諸島南東240km現在の西サハラ海岸にある。それまで、地球が球体で在ることを皆知らなかった。ボジャドール岬を越えた船はどこまでも進み新地を見付けた。※ ポルトガルは1488年にはアフリカ大陸南端の喜望峰まで到達する。1494年、トルデシリャス条約が締結される。これから獲得するであろう西の領土をスペインが、東の領土をポルトガルが得る事を教皇が認めた裁定だ。地球が丸い事が解ると、裏側にも協定線ができた。(サラゴサ条約)先住民がそこにいようと、世界の未発見の土地は、先に見付けた国が権利を有するとローマ教皇が裁定したから、我先にと大航海の競争が始まったのである。ポルトガル、リスボン、ベレン地区発見のモニュメント(Padrão dos Descobrimentos) 東側キャラベル船の船首をモチーフにした大航海時代を記念したモニュメントで1940年にポルトガルで開催された国際博覧会の為に制作された。高さ52m。その後1960年にエンリケ航海王子没後500年の記念の時にコンクリートで造り直しされている。モニュメントの東側先端に立つのがエンリケ航海王子(Prince Henry the Navigator)(1394年~1460年)。手には大航海の為に制作されたカラベル船(Caravel)の模型を持っている。※ カラベル船はポルトガルとスペインの探検家らに愛用された船。次がアルフォンソ5世(Afonso V)(1432年~1481年)その次がヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)(1460年頃~1524年)騎士がいて、その次にブラジル発見者、その次がマゼランらしい。モニュメント西側探検家、芸術家、科学者、地図制作者、宣教師などモニュメントは西側と東側合わせて30人。左から兄ペドロ(Pedro de Portugal)(1392年~1449年)エンリケの母でジョアン1世の妃フィリパ(Philippa of Lancaste)(1359年~1415年)右の巻物を持っているのがルイス・ヴァス・デ・カモンイス(Luís Vaz de Camões)(1524年頃~1580年)。作家で航海に同行して「ウズ・ルジアダス(Os Lusiadas)」を執筆。それはポルトガルの大航海における栄光の記録を叙事詩で壮大に描いた作品らしい。発見のモニュメントは後ろから見ると十字になっていて、さらに十字架がデザインされている。これは騎士団の意味があるらしい。そう言えばエンリケ王子はキリスト教騎士団(前身はテンプル騎士団)のマスターであった。モニュメントの手前、モザイクで描かれた方位図中心の世界地図に各地の発見年号が記されている。上空からの撮影なのでウィキメディアから借りました。ベレンの塔(Tower of Belém)サン・ヴィセンテ(San Vicente)が正式名称で、リスボンの守護神の名前らしい。もともとエンリケの時代には川の中にあったと言うサン・ヴィセンテ(San Vicente)要塞。テージョ川を航行する船の検問を行っていた。1515年~1521年にかけてヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)(1460年頃~1524年)のインド航路発見(1498年)を記念してポルトガル王マヌエル1世(Manuel )(1469年~1521年)により再建されたものである。※ ヴァスコ・ダ・ガマは、ここから航海に出た。とは言え、当時リスボンの港には海賊が多発していて、リスボン防衛とテージョ川に出入りする船の監視が目的での再建であったから、全てのコーナーに守備の塔や砲台が備えられている。五層式の建物で、3~5階は王族の居室。東洋からの帰国船の謁見にも使われた。塔の下は塩の満ち引きを利用した水牢(すいろう)になっていたと言う。1983年に「リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔」合わせてユネスコの世界文化遺産に登録されている。共にマヌエル様式(Manueline style)と言われる装飾の用いられた特徴的建築故と思われる。ポルトガルでの後期ゴシックに入るようだが、航海事業の拡大による文化の影響か? 非常に多文化の要素が組み込まれた特殊性はマヌエル王の時代の特徴らしい。レコンキスタ後のスペインやポルトガルでは残留イスラム教徒(ムデハル)らの職人によるイスラム的な建築様式が生まれている。それにさらに複数の要素が組み込まれたもの?ジェロニモス修道院(Mosteiro dos Jerónimos)ポルトガルの大航海時代の最盛期の王マヌエル1世(Manuel I)(1469年~1521年)によって着工(1502年)された。こちらはエンリケ航海王子の偉業を称えての建立らしいが、こちらも建築資金もまたバスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)が道を開いたインド航路によりもたらされた富が活用されている。発見のモニュメントの所から撮影した写真。全景を入れるのは遠くないと無理。中央から左が修道院の回廊で、現在は国立考古学博物館になっている。塔は教会の尖塔で、そこから右が修道院付属? のサンタマリア・デ・ベレン教会(Igreja de Santa Maria de Belém)である。下の写真はウィキメディァからかりました。手前が教会。ジェロニモス修道院に隣接するサンタマリア・デ・ベレン教会(Igreja de Santa Maria de Belém)こちらもマヌエル様式と呼ばれる特徴的な装飾が見所。大部分は1511年にできていてたものの王の逝去など時世もあり、最終的に完成するまで300年かかったと言う。不思議なゴシック。独特な柱。正確にはジェロニモス修道院に隣接するサンタマリア・デ・ベレン教会(Igreja de Santa Maria de Belém)です。バスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)の石棺ここにはバスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)(1460年頃~1524年)の石棺が置かれている。石棺は棺を納めるサルコファガス(sarcophagus)。つまり外容器。彼はインドで亡くなり、ポルトガルに戻りヴィディゲイラ(Vidigueira)で一度埋葬され、後にジェロニモス修道院に移動されたと言う。写りの良い方の石棺の写真にオーブ(orb)が現れていたのでこちらにしました。王族や貴族にしか与えられないドン(Dom)の称号と年金を与えられた。つまりポルトガル貴族の仲間入りである。ポルトガル領インドの副王及び、航海士ヴァスコ・ダ・ガマの肖像ウィキメディアより借りてきました。第一回航海の後、シネスの土地(town of Sines)を王より与えられたが、これには問題が起きた。ヴァスコ・ダ・ガマはサンティアゴ騎士団の1人であったが、シネス(Sines)がサンティアゴ騎士団の領地であった事からもめたらしい。その為にキリスト騎士団に移籍? 1519年にはヴィディゲイラとフラデスの町が与えられ、今度はヴィディゲイラ伯爵の称号を与えられた。1497年、リスボン港からヴァスコ・ダ・ガマ、インドへ出発 の絵画 ウィキメディアから借りました。画家 Roque Gameiro(1864年~1935年) 1900年画リスボンのまさにベレンの塔の辺りから乗船し、出発した。すでにジョアン2世は亡くなりりマヌエル王が次代を継いでいた。反対派も多い中、インド航路開拓のGo Signをマヌエル王(1469年~1521年)は決断。これは国が立案しての計画。ヴァスコ・ダ・ガマ(1460年頃~1524年)には4隻の船と170名の乗員が与えられた。ヴァスコ・ダ・ガマのサン・ガブリエル(San Gabriel) 船は178tのキャラック(Carrack)船。全長27 m、幅8.5 m、喫水2.3 m、帆372 m新造されたキャラック船(Carrack)2隻にはヴァスコ・ダ・ガマと彼の兄が乗り、少し小さいキャラベル船(Caravel)と補給船の4隻。(帰還したのは2隻55名)小国ポルトガルには分不相応の大冒険を国家が特に王が推進しての出航であった。ところで、経験豊富な航海士候補が複数いる中で、なぜヴァスコ・ダ・ガマ兄弟に決定したのか? は不明。ヴァスコ・ダ・ガマ第1回航路ウィキメディアより借りてきました。(Indiaは足しました)喜望峰に到達するまでに、ヴァスコ・ダ・ガマは大西洋のセントヘレナ島まで流されている。無駄に航行しているのでその距離は赤道の距離(40,075km)より長かったそうだ。※ 南アフリカのモッセルベイ(Mossel Bay)で補給船? が沈没している。インド航路発見の為の探検隊ところで、中東からもたらされる香油や、アジア方面からもたらされる香辛料の生産地を西側の人間は知らなかった。それはアラブ人が秘密にしていたからだ。いわゆる東洋貿易がヴェネツィアの独占となり、アラブ人から仕入れるにしても値段は非常に高かったから、産地が解れば直接出向いて取引したいと思うのは最もな話し。ポルトガル王ジョアン2世(João II)(1455年~1495年)は中東に探りの探検隊を出していた。地中海からロードス島経由でアレクサンドリアへ、コビリャン(Covilhã)(1450年頃~1525年頃)とアフォンソ・デ・パイパの2つの隊。目的はアラブ人が仕入れているインドの香辛料の市場の特定? そして当時話題になっていた異国のどこかにいるキリスト教徒の王(プレスター・ジョン・ Prester John)を捜す事。また、船でアフリカ大陸を南下して進むコースの探検にはバルトロメウ・ディアス(Bartolomeu Dias de Novais)(1450年頃~1500年)を向かわせた。彼は1488年、ヨーロッパ人として初めて喜望峰に到達。これもまたインド航路開拓の1つとなった。因みにディアスは遭難して偶然発見した経緯から「嵐の岬」 と報告したらしい。喜望峰と命名されたのは、これから先に可能性が秘められていると言う希望?とか喜びかららしい。1488年、コビリャン(Covilhã)(1450年頃~1525年頃)は船でさらにインドのカナールへ。パイパはエチオピア方面に向かうが、途中で客死。コビリャンはインド南のマラバール海岸(Malabar Coast)でムスリムの動向を1年程観察。彼らは2月にモンスーンを利用してペルシャ湾や紅海に船を出している事を知る。またアフリカからインドへ渡る航路があるかを調査し、報告書を送っている。コビリャンのこうした調査がインド航路の発見、すなわち航行可能な海図が描かれ、バスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)の実際のインド航路発見に繋がるのである。因みにコビリャンは紅海からカイロに戻った所でパイパの死亡を聞く。パイパの代わりか? 彼もまたエチオピアへ向かう。それはジョアン2世からの指令で今度はプレスター・ジョンを捜す事にあった。コビリャンはムスリムに変装して旅を続け、エチオピアでコプト教会を発見。そこが伝説のキリストの王の国か?コビリャンはそこの王に気に入られ? 帰国を許されず30年そこで過ごし亡くなった。イベリア半島のレコンキスタ(Reconquista)ポルトガルやスぺイン帝国が海洋の先に目を向けたのはイベリア半島内でのレコンキスタが完了し、イスラムとの戦いが終結した事に起因する。レコンキスタ(Reconquista)とは何か? の解説を入れましたイベリア半島を西ゴート王国(Regnum Visigothorum)(415年~711年)が支配していた時代、レカレド1世(RecaredoⅠ)(559年頃?~ 601年)(在位:586年~601年)王の時にキリスト教国となった。(589年)が、711年にイスラムのウマイヤ朝がイベリア半島を侵略し、西ゴート王国は滅亡する。この時、イベリア半島はイスラムの勢力下に置かれた。以降、イベリア半島をキリスト教の地に取り戻すべく戦いが始まる。キリスト教徒による再征服活動(戦い) がレコンキスタ(Reconquista)である。北に逃れた西ゴート王国の貴族Pelayoがイベリア半島北部にアストゥリアス王国(Reinu d'Asturie)(718年~910年)を建国して抵抗をみせた。キリスト教徒による奪還の為の抵抗戦、レコンキスタ(Reconquista)はこの時を開始とするらしい。※ アストゥリアス王国は、後に国名をレオン王国(Reino de León)(910年~1252年)に改名。終わりは? 再征服するまでを指すので、それはグラナダ(Granada)王国陥落。ナスル朝の滅亡1492年までのスパンが該当とされる。イベリア半島をオセロに例えてみよう。キリスト教徒を白、イスラム教徒を黒とする。キリスト教国、西ゴート王国の滅亡した時点で9割は黒になった。そこから再征服活動は開始。グラナダ陥落は最後の黒のピースを白に変えた戦いである。イベリア半島を完全に白(キリスト教)の国に戻してレコンキスタは完了する。但し、このキリスト教国は1国ではない。グラナダ攻略でスペインはポルトガルの介入を許さなかった。だからポルトガルはジブラルタル海峡を押さえる意味もあり北アフリカのセウタを攻略した。※ 北アフリカはまだイスラム教徒の世界。レコンキスタを北アフリカに広げたと解釈もできる。因みに、レコンキスタの過程では、フランク王国のカール大帝も参戦している。フランク軍は地中海側からも侵攻し801年にはバルセロナを攻略。865年、フランクはバルセロナ伯を置いて、カタルーニャを統治。欧州の中からイスラムを追い出す事はキリスト教徒全員の願いであった。以前ブルゴスの所でカスティーリャ 王国の騎士でレコンキスタの英勇エル・シド(El Cid)(1045年?~1099年)を紹介した事があるが、キリスト教徒軍が本格的に巻き返しを始めるのは10世紀頃ではないか? と思う。リンク ブルゴス(Burgos)番外編 エル・シドちょうど十字軍が始まった頃で、欧州全体がイスラムに反撃を開始した頃、イベリア半島内部で再編が起き11世紀には複数の所領? 王国が確認できる。13世紀半ばにはグラナダを残すのみとなっていたが、難攻不落のグラナダは最終的に1492年にやっと陥落。そのグラナダを陥落させたのはカスティーリャ王国(Reino de Castilla)(1035年~1715年)で、女王イサベル1世(Isabel I de Castilla)(1451年~1504年)(在位:1474年~1504年)の時。戦場に出たのはアラゴン王の夫である。因みに、コロンブスは自身の計画のスポンサーになってくれるようグラナダ陥落で気を良くした女王イサベル1世に願い出る。コロンブスは、インディアスを求め大西洋を越える航海に旅立つ許可をカステーリャ(スペイン帝国)で得たのである。※ コロンブスの話しは次回改めて入れます。海洋王国ポルトガルの誕生「アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊」の中、「アルセナーレ(Arsenale)造船所と4th Crusade」の所でダンテの時代にはヴェネツィアのアルセナーレ造船所はすでにヨーロッパで最も重要な造船所となっていたと紹介したが、同じ頃、海洋共和国ジェノバも自国造船していた。しかもジェノバには航海士育成の学校もあったのだ。そしてそれら技術は早くからポルトガルの海事発展の為に貢献?ポルトガルが海洋王国を目指したのは1317年頃、第6代ポルトガル王ディニス1世(Dinis I)(1261年~1325年)(在位:1279年~1325年)の時である。ディニス1世は経歴をみるとなかなか有能な人物だ。王権強化の為、土地台帳を細かく作り貴族の領主裁判権を制限、逆に相続法を改定して貴族の、また聖職者の権力抑制した上で様々な事業も立ち上げ、大学も創設。ポルトガルと言う国の基礎を造っている。何より海運の発展に力を注いだ事は功績だ。ディニス1世はジェノバの商人を役職に就け、海運事業の発展に貢献させている。当初は有能な船長や航海士を引き抜いて、王室所用の帆船を指揮させ運営した。ジェノバとの関係はかなり密でジェノバからの移住者には金融業者など銀行家もいた。海運事業が発展すれば商機は増えるからイタリア中の商家がポルトガルを目指した。フィレンツェからは地中海貿易の商家バルディ家がポルトガル領内でも営業をした。そうなると信用制度や為替手形などの金融システムなどもポルトガルに持ち込まれる。要するにジェノバを中心としたイタリア人らの力によりポルトガルは急速に発展して行く事になる。そもそもBackにはポルトガル王がいるのだ。王が商人を率いて事業を率先して行っているのだから商売は円滑に成功して行ったに違いない。※ ポルトガルも領内に割と早く自国の造船所を持った。カスティーリャ王ペドロ1世の庶子? 第10代ポルトガル王ジョアン1世(João I)(1357年~1433年)(在位:1385年~1433年)の時代にはポルトガルの港に400~500隻の船が出入りするほどの海洋王国になっていたと言う。地中海交易の中心は西に移動しつつあった。ポルトガルの商船は北はノルウェー、南はジブラルタル海峡を越えて北アフリカの港に及んでいた。オリエントやアフリカから香辛料、貴石、真珠、オリーブ、ワイン、ナツメヤシの実などを輸入し、北ヨーロッパに転売。※ この頃、穀類不足も起きていたと言うのでパンやヘーゼルナッツ、果物も売った。逆にイスラムにはフランドルのタペストリー(毛織物)、欧州産の馬、チーズ、バター、漁獲物、武器、木材、鋼(はがね)などを売ってもうけた。※ マデーラ諸島とアソーレス諸島が植民地となると小麦、ワイン、染料など生産。それは西アフリカにも売った。ところで、ジョアン1世はエンリケ航海王子の父でもある。以前「金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)」の所で紹介しているが、ジョアン1世とイングランドから嫁いできた王妃の元で子供達は男女に関係なく、外国語、数学、科学を学び、政治学まで学んでいる。あらゆる分野の高い教養が与えられたのだ。つまり、このジョアン1世の子息、子女はかなり賢い王子、王女なのである。ポルトガルはジョアン1世の息子エンリケ航海王子の元で大航海時代の先陣を切る。また、娘は当時欧州一の盛況をほこるブルゴーニュのフィリップ善良公(Philippe le Bon)に嫁いだイザベル・ド・ポルテュガル(Isabelle de Portugal)(1397年~1471年)である。彼女は英仏100年戦争の終結にも力を貸している。※ フィリップ善良公(Philippe le Bon)・・フィリップ3世(Philippe III)(1396年~1467年)欧州で人気の商品「フランドルの羊毛タペストリー」は娘のルートから仕入れられたと思われる。※ リンク サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)※ リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)ポルトガル王家の勤勉さがポルトガル海運を育て、神聖ローマ皇帝の一翼であるスペイン帝国に対抗する海洋国家にまでのし上げたのだろう。長子制度と3つの騎士団ジョアン1世から始まるアヴィス王家(Avis royal family, Portugal)から、諸々、イングランド式が採用されている。貴族制度もそうであるが、長子相続制度も息子のドゥアルテ1世の時には法律で制定されている。※ 長子相続では、全ての財産を長子が総取りする。つまり次男以下に、財産はない。アヴィス王家では、子供達の位置と役割が子供の頃から分けられていたのだろう。兄弟は兄を助け、長兄の死にあたり、次男と三男で長子の子供の摂政を務めている。(他王家では兄弟で争うのはザラだ。ここも争いが少なからずあったが収まっている。)しかし、ジョアン1世は長兄以外の子供らにも、それぞれ後に獲得した領地を分配し爵位を与え、そうでない場合は騎士のトップにしている。長男 ドゥアルテ(Duarte I)(1391年~1438年) ポルトガル王。次男 ペドロ(Pedro)(1392年~1449年) コインブラ(Coimbra)公爵位。三男 エンリケ(Henrique)(1394年~1460年) ヴイセウ(Viseu)公爵位とキリスト騎士団長(Military Order of Christ)マスター四男 ジョアン(João)(1400年~1442年) サンティアゴ騎士団(Military Order of Santiago)マスター五男 フェエルナンド(Fernando)(1402年~1443年) アヴィス騎士団(Military Order of Avis)マスター驚くなかれ、アヴィス王家には3つの騎士団のマスターが存在した。通常1国で一つあれば良いところ。それが3つの騎士団を有する王国なのである。騎士団はローマ教皇により認められた正式なもの。つまり騎士団直属の所領もあるし年貢もある。それらは実質マスターの財産に近い。特にエンリケが拝命した「キリスト教騎士団」は、かつての「テンプル騎士団」を継承したもの。以前テンプル騎士団の悲劇の最後について書いているが、ポルトガルでは、解散したはずのテンプルの財産も、騎士も領地もそのまま「キリスト教騎士団」が受け継ぐ許可をローマ教皇から取り付け、ほぼまるごと相続していたのである。テンプルの領地がポルトガル領内にどれだけあったか? は不明だが、相当な財産を有していただろう事は間違いない。また今後の年貢も約束された。※ テンプル騎士修道会に触れたカ所のリンク先です。テンプルの末路は「騎士修道会 2」です。リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)リンク 騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会)リンク ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)こうした財産もあったのでエンリケは当初の海洋航海船の研究費や調査試験航海、また北アフリカ探険など資金が出せたのである。また、エンリケ王子はセウタ最高責任者の任務と同時に海洋航海の調査船も指揮していた事になる。ポルトガルの海外進出、セウタ(Ceuta)征服なぜ? エンリケ(Henrique)(1394年~1460年)王子が外洋に船を進めたのか?結果論から見れば、それは新天地の獲得であった事は間違いない。が、最初の一歩は何だったのだろう?研究施設まで持って、海図を造りながら、さらに船まで造ると言う並々ならない研究をしての外洋進出である。当初は利益よりも支出の方が多かったはずだ。お金と時間的余裕のできたエンリケ王子。彼の自身の知的好奇心が推進力だった? 西アフリカ沿岸の探検航海では得る物もあった。では次は? 世界の果て? と言われたボジャドール岬の先に何があるのか? 好奇心は増幅されて行った? のかもしれない。明確な答えは無いが、ポルトガルによる北アフリカのセウタ(Ceuta)侵攻が少なからずきっかけになったと考えられる。ポルトガルはカステーリャと和平を結んだ。もう国教でのいざこざも無い。また、カステーリャはグラナダ攻略の戦いにポルトガル介入させなかった事もありポルトガルには平和が訪れていた。※ 平和となったがお金は無い。ジョアン1世の3人の王子らの成人のイベントとして、1415年、セウタ(Ceuta)侵攻を思いついたらしい。それは王子らの騎士デビューの大々的なイベントとなったし、また諸侯らへの景気づけもあったのかもしれない。※ 戦が無いと困る人達もいるのだ。北アフリカのイスラムの世界に殴り込みをかけるのである。征服のあかつきには土地が得られる。略奪できる品もあるだろうし、キリスト教の布教と言うプロパガンダ(propaganda)がある。また、セウタの確保は地中海への入り口、ジブラルタル(Gibraltar)海峡の確保でもありモロッコへの足がかりでもある。その意義は大きい。実際の所、地理的にポルトガルが広げられる領土は北アフリカ方面しかなかったので、多大な借金をして下準備をタップリしてからセウタ(Ceuta)攻撃が行われている。スペインからのフェリー船上からのセウタ(Ceuta)あいにく天気が悪くかなり明るくしてもこれです。近づいてやっと見える感じ。現在のセウタはスペイン領になっているのでモロッコ入リの時はセウタに着岸してからバスでモロッコの国教を越える。高いツアーの時はセウタのバラドールに宿泊。下はセウタの突き出た部分モンテハチョ山(Mount Hacho)モンテハチョの要塞(The Fortress of Mount Hacho)標高190mのモンテハチョは市内どこからでも見える。城壁の高さは26m。一周1550mの城壁には5つの堡塁(ほうるい)が置かれている。元はビザンチン時代に造られた要塞であるが、ポルトガルが1415年にセウタを征服した時点では半壊していて使用できなかったと言う。ポルトガルとスペインの支配の間に、万が一セウタがイスラム教徒によって攻撃された場合の最後の防御的な砦として再建している。州立アーカイブ図書館からセウタの王室城壁(The Royal Walls of Ceuta)セウタの見所はモンテハチョ要塞ではなく、市内に残る王室城壁(royal walls)とサンフェリペ壕(Moat of San Felipe)である。海上からの攻撃から都市を守るための防衛設備である。半島を横断するように掘り(サンフェリペ壕)があり城塞が控えている。城壁の上から後方、右が半島の突端であり、左のみぎれている山がモンテハチョ山(Mount Hacho)上が朝で下が夜要塞の向こう側サイドにハーバーがある、見える山はモンテハチョ山(Mount Hacho)。セウタ十字軍? 1411年にポルトガル王はローマ教皇より、セウタ攻略を十字軍として公認してもらっている。つまり、セウタ攻略の部隊は十字軍として扱われる事になった。そして1415年8月、ポルトガルによるセウタ侵攻にはドゥアルテ、ペドロ、エンリケの3人の王子が戦闘に加わった。戦いは一日で勝敗が決まったらしい。彼らはこの戦いでめでたく騎士となり、信仰心が熱くこの計画に乗り気だったと言うエンリケ王子が1416年にセウタの防衛と補給の最高責任者に任命される。彼は1450年までその地位にあった。セウタの総守備は2500人を数え、エンリケ王子はセウタ総督として船団も持った。だが、先の「大航海の前章」ですでに書いた通り、セウタからは思った通りの収益が見込めないばかりか、維持費に逆にお金がかかったのだ。当初見込んでいたスーダンの金の取引も、ポルトガルの侵攻により、市場が移動してしまった。何より、セウタの守備は外に出られないほど囲まれて完全孤立。所領の拡大どころか、食糧も本国からの輸入による調達しかできなかった。セウタの軍は周辺の集落を襲って食糧調達したり、海賊行為もしたらしい。セウタ維持の騎士集めにも苦労する。ポルトガル王らは収入ゼロの上に兵器や人件費にお金のかかるセウタを実際のところお荷物に感じていた。ただ信仰心に熱いエンリケ王子(総督)は「経済は二の次、神への奉仕が絶対」と、セウタの保持にこだわったらしい。ただ、このこだわりの為に後に末弟のフェエルナンド(Fernando)王子(1402年~1443年)を死に追いやる事になる。(1437年、西のタンジール(Tangier)を得る戦いで敗戦し人質に取られ獄中で赤痢で亡くなった。)セウタにこだわったのはローマ教皇も・・。1418年にローマ教皇は、セウタで戦う騎士に7年の免罪を公布した。翌年には10年足して17年の免罪を公布。さらに数ヶ月後には8年を加え25年の免罪にしている。「セウタはアフリカ大陸で唯一のキリスト教徒の地」ローマ教皇も必死にセウタをフォローしたらしい。エンリケ(Henrique)(1394年~1460年)王子は1420年、キリスト騎士団長(Military Order of Christ)のマスターに任命された事から、その人材と財産がセウタの為に使用できるようになった。ローマ教皇もまた1456年にはポルトガルに所在する4つの騎士団に1/3の人材をセウタに派遣するよう指示し、支援している。何しろセウタ死守は正式な十字軍の任務に認定されているからね。ところで、タンジール(Tangier)での敗戦で人質を決める時にエンリケは自分が行く事を最初に申し出たが、総司令官の彼を出すわけにはいかないと、フェエルナンド(1402年~1443年)が人質になり結果、獄死した。エンリケのセウタ執着が弟を死に追いやった? もはやエンリケだけのせいではないが・・。※ 当時のイスラムの人質の扱いは、例え王族であっても特別はなかったようで、衛生状態の悪い牢獄での環境が死期を早めたと言える。父王はセウタを手放す事を進めていたらしいが、エンリケは反対した? ローマ教皇の手前、手放す事はできなかったのかもしれない。エンリケは相当に後悔したのではないか? と思える。ところで、セウタ侵攻からすぐにエンリケは海洋航海の実証実験を始めている。1434年にはボジャドール岬を越えいたし、もっと以前の1427年にはアゾレス諸島(Azores Islands)も発見している。ポルトガルは捕まえた人間を奴隷として市場で売買する事も始めていた。フェエルナンドが獄中にいる1438年にはアゾレス諸島(Azores Islands)の植民地化を本格的に開始している。タンジール(Tangier)の敗戦以降ポルトガルは北アフリカの植民から完全に手をひいているのだ。スペインとポルトガルの併合により1580年、セウタはスペイン領となる。サンフェリペ壕(Moat of San Felipe)メイン広場(Plaza de Armas)ライティングされている所に砲台が置かれた。ローマ時代にはすでに城壁が存在していたらしい。ポルトガル軍はその古代遺跡を利用して1541年から1549年の間に要塞、航行可能な堀、跳ね橋などの王室の城壁を建設することで防御を強化。現在の壁を築き上げたと言うが・・。ポルトガルがセウタに侵攻したのは1415年。エンリケ王子の時代にはここまでの城塞はなかったようだ。そして16世紀に再建。18世紀にはその隣に要塞化した兵舎が増設された。それにしても半島の右岸から左岸への船での移動ができる意義は大きい。半島を分割する運河は1540年代に本当に作ったのか? 古代、フェニキア人が地中海交易していた時代にすでに存在していたのではないか? と言う気がする。大西洋上の船舶寄港地と植民地エンリケ王子が星を観測したり、海洋調査をしながら海図を書き進めている過程で、大西洋上の諸島群を発見している。中でもカナリア諸島(Canarias Island)の発見は早く1312年、ジェノバ航海士がたどりついた時はすでに北アフリカのベルベル人が住んでいたと言う。おそらく、ジェノバの船が北上する時に偶然たどりついたのだろうと思われる。エンリケ王子が調査隊を出す以前、1341年にもポルトガル人とジェノバ人の遠征隊がすでにカナリア諸島に行っているが、カナリア諸島より先に船を向ける者はいなかったかった。それは潮流と風向の問題で、そこから先の海域では、通常コースでの帰路ができなくなるからだ。ボジャドール岬(Cape Bojador)より先は、船が戻れずほぼ遭難する事が確定されていた。この問題の理由と攻略ができた事が大航海を制する事につながったと言える。カナリア諸島(Canarias Island)マデイラ諸島(Madeira Islands)アゾレス諸島(Azores Islands)カナリア諸島(Canarias Island)カナリア諸島はすでに古代に発見され、北アフリカのベルベル人がすでに移民していたらしい。それによりここは奴隷の供給地にもなった。1312年、ジェノバ航海士が再発見。1341年、ポルトガル人とジェノバ人の遠征隊をカナリア諸島に派遣している。1402年、ノルマン人の征服にあうが個人レベルのもので征服者と先住民が共存。コロンブスが新大陸を発見するとカナリア諸島はどうしても必要な場所。カステーリャの介入が始まる。1496年、カナリア諸島の利権はカステーリャの勝利で終了する。カステーリャは大西洋を南下する時の寄港地として、またこれから始まる南米進出の際の船舶寄港地として利用した。ボジャドール岬(Cape Bojador)問題カナリア諸島はアフリカ大陸西海岸まで約115kmのサハラ沖に位置。北緯27度37分~29度24分。西経13度20分~18度10分。7つの島からなる。地理的にカナリア諸島の緯度は偏西風(北)と貿易風(南)が分岐する位置にある。北大西洋環流のコースは沿岸を南下しているのでカナリア諸島を越えると帆船の時代の船は来たコースをそのまま戻る事はできなかった。世界の果てと思われていたボジャドール岬(Cape Bojador)問題はそうした理由により船が戻れず遭難したものと思われる。エンリケ王子の指示で1434年、ジル・エアネス(Gil Eanes)はボジャドール岬を越えた。彼はもう少しアフリカ沿岸を南下し、潮流を逃れて沖にでて偏西風に乗ると言う帰路のコースを発見したのである。この時、現地の人間を連れ帰り、それが後の奴隷売買に発展する。マデイラ諸島(Madeira Islands)1419年、ポルトガル船がポルト・サント島に漂着し植民が始まる。黒人奴隷を使用してのサトウキビ栽培が行われた。現在もポルトガル領である。アゾレス諸島(Azores Islands)1427年、エンリケ王子の配下の船長によって発見。1439までに7島。以降植民地化。本国への食糧の生産が目的だったが小麦粉の栽培には50年かかったらしい。また、染料の藍(あい)色の原材料である大青(たいせい)の栽培をしている。大西洋上の船舶寄港地であり、捕鯨および遠洋漁業の基地として使われた。スペインが横取りしようとポルトガルともめた場所。コロンブスもここに寄港している。現在自治国となっているが公用語はポルトガル語。下にエンリケ航海王子の調査隊により発見された航路図を入れました。今回はこんな所で終わります。次回はスペイン編です。とりあえず載せて、誤字チェックは後からするのでご了承お願いします。今回は、諸事情でかなり遅れてのUPとなりました。本を取り寄せたりと出だしも遅かったのですが、新しい所に入る時は内容も、組みたても、写真も、いろいろ考え無ければならないから特に頭を使います。夜中の作業が中心なので昼閒疲れると睡魔には勝てません。待ってくれていた方ゴメンナサイ。m(_ _;)mBack numberリンク 静物画にみるメッセージリンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2022年02月26日
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Back numberをラストに入れました。禅庭三昧の予定でしたが、今回もあれこれ発見が込められておりますしかも禅だけに収まっていません。まず、冒頭の挨拶つもりで書いていた元寇(げんこう)の話し。長くなったので五山禅寺に直接関係ないけど本文に入れました。タイトルにも入れましたが・・宋に至るまでの交易を調べていた過程で大発見? アジアにおける「黄金の国ジパング」伝説は元寇(げんこう)の襲来に関係していたのかもしれない。歴史もいろんな分野から掘り進めて行くと、思いもかけないところで重なる事がある。マルコポーロと元寇の襲来が繋がるとは私も思っても見ませんでした。本筋の禅寺では、京都五山の相国寺の塔頭(たっちゅう)として、再び鹿苑寺(金閣)と慈照寺(銀閣)も取り上げました。今回禅寺と言う認識でアプローチした時に、金閣と銀閣の意味が解ったのです。義満が、また義政がこれを造形し、いかに使ったのか・・。それを踏まえて、金閣と銀閣がある点において相克する。その観賞の仕方も実は全く異なるのだと言う事に気が付いたのです。また夢窓疎石がらみの天龍寺ではまたまた交易の話しが登場です。他にも禅庭の石組も追求したし、能楽の成立についても触れています。もはや内容多過ぎで小雑誌です室町時代の文化は、今に繋がる物が多く、興味は尽きないほどいろいろ出て来るので大変です。でも面白かった。京都五山禅寺 3 禅庭の世界と文化+黄金の国ジパングクビライとマルコボーロと黄金の国ジパング黄金の国ジパングの出所日本仏教の再構築(禅の導入)足利家が生み出した北山文化と東山文化足利義満と北山文化世阿弥と義満北山澱北山澱の作庭家は誰?鏡湖池に組まれている石組み義政の東山文化向月台(こうげつだい)と月相克する金閣と銀閣の演出雪舟筆の山水図2幅夢窓疎石(むそう そせき)の禅庭なぜ禅僧が作庭家になったのか?京都五山 第1位 天龍寺天龍寺船(造天龍寺宋船)による貿易曹源池(そうげんち)庭園 龍門瀑(りゅうもんばく)クビライとマルコボーロと黄金の国ジパング宋(そう)(960年~1279年)の国は1279年に南宋が滅ぼされて終焉した。その南宋を滅ぼしたのがモンゴルから南下してきたモンゴル帝国の第5代皇帝クビライ(Khubilai)(1215年~1294年)である。彼はモンゴル帝国の国号を大元と改め1271年、元(げん)(1271年~1368年)の国が誕生する。それは唐の滅亡(907年)以来の中国統一王朝となった。クビライ(Khubilai)は内陸、モンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一したチンギス・カン(Činggis Qan)(1162年~1227年)の孫である。彼もまた攻めの領土拡大政策をとり朝鮮半島の高麗を従属させ、大陸のみならず樺太、日本、東南アジアのジャワ、ベトナムにまで船団を組んで襲撃した。※ 内陸のモンゴル出身と思いきや、元(げん)は何千と言う船を操り東南アジアからペルシャに至る海上ルートも手中に収めた海洋国? でもあったのだ。日本へも最初は服属を求め使者が来たが日本が使者を斬り殺すと2回襲撃に来ている。「元寇(げんこう)or蒙古(もうこ)襲来」と日本史で言われる戦いである。実は3回目の予定もあったらしい。前回記したが、日本では鎌倉時代(1185年 ~1333年)にそれは起きた。first 1274年、文永の役(ぶんえいのえき)・・元と高麗の連合軍の艦隊で襲来。second 1281年、弘安の役(こうあんのえき)・・東路と江南の二手から大船団が襲来。first は28000人の兵に船舶900隻が壱岐、対馬経由で博多に上陸。日本軍は騎兵含み1万人で対応。苦戦したが元軍も損害を受けてfirst は撤退した。second は東路4万人(船舶900隻)と江南からは移民団など計10万人(船舶3500隻)と言う大軍で日本に襲来。日本軍は騎兵含み4万人で対応。※ 因みに2度とも日本軍の指揮は北条実政(ほうじょう さねまさ)(1249年~1302年)が執っている。鎌倉幕府も博多の防備を強固にしていたが、暴風雨(神風)も重なり船団は難破したりと撤退。日本の損害も非常に大きかったが、撃退したのは奇跡と言えた。クビライ(Khubilai)は日本を植民地にしようとしていたのか? 幕府は毅然(きぜん)とした態度で応対。立ち向かった事で危機回避できたと言える。それにしてもこんな状態にありながらも、元との交易自体は途切れる事なく存在していたと言う。それはクビライ(Khubilai)が対外貿易振興策をとり、日本からの貿易船の受け入れも留学僧らの上陸許可も出していたらしいのだ。(・_・?) なぜ?黄金の国ジパングの出所ところで、東見聞録を著したマルコポーロ(Marco Polo)(1254年~1324年)が、まさにこの時代に元(げん)来ている。(1271年~1275年頃クビライと謁見?)彼はクビライ(Khubilai)の使者として活躍し、気に入られてクビライの元で長く働いている。おそらく帰るに帰れない状態だったと思われる。1295年、本国ヴェネツィアに帰国できたのは、ある意味奇跡だった。 欧州への帰国後、彼は元(げん)で聞いた「黄金の国ジパングの話し」を東見聞録で紹介した。※ 東見聞録はマルコが直接著した本ではなく、1298年頃、牢獄で知り合ったイタリア人小説家がマルコの冒険話しを著したもの。全4冊。実は正式タイトルは不明。他国ではイル・ミリオーネ(Il Milione)(100万)とか、マルコポーロの冒険(The Travels of Marco Polo)とも呼ばれている。「黄金の国ジパングの話し」は、ひょっとしたらクビライ自身がマルコに語った事なのかもしれない。クビライが攻めた高麗の前に新羅の国があった。※ 936年に朝鮮半島の新羅を含む後三国の統一を果たして建国したのが高麗。新羅は黄金文化の国。かつて日本は新羅(しらぎ)(668年~836年)との交易で金を輸出していた。また宋との貿易でも砂金を輸出している。日本が言われる程黄金に満ちている国とは到底思えないが、新羅の黄金文化は日本から輸入される金で支えられていたと伝えられていた? あるいは信じられていたのかもしれない。実際の砂金の産地は不明だが・・。佐渡金山の鉱山発見は1601年頃の山師によるとされているが、それ以前から川で砂金が採れたのではないか? もしその砂金が朝鮮半島に売られ、新羅の黄金文化を少なからず支えていた可能性は十分考えられる。当時、新羅と現 石川県の港に定期航路があったらしい。(韓国中央博物館に地図あり。)韓国中央博物館から新羅時代の黄金物新羅王国-ファンナムの金冠5〜7世紀に韓国の新羅王国で作られた王冠は慶州の墳墓から発掘された。韓国の国宝となっている。冠に付いている翡翠(ヒスイ)の勾玉(まがたま)は日本産? の可能性が高い。新羅の黄金文化は4世紀頃に突然登場して200年程で消えたと言う。下も新羅の耳飾りであるが、独特な線の細工はソグド人の金細工ではないかと思う。新羅はシルクロードで遠いペルシャ方面とも交易をしていた。「草原の遊牧民?との関係性が問われている。」と博物館では解説されていたが、草原の遊牧民ではなく、彼らはソグディアナ(Sogdiana)を源郷とする交易商人ソグド人と思われる。ペルシャから長安(ちょうあん)や長江(ちょうこう)に至るまでシルクロードで荷を運び続けたのは彼らソグド人なのである。※ ソグド人の説明は以下でしています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)左は耳飾りにも使われている細かいリーフが束になっている首飾り。墓に黄金の副葬品を入れる文化は仏教の伝来と共に消えたらしい。三国時代 新羅の純金官母。約5世紀頃(書記400年代)と推定朝鮮半島統一王朝の高麗(こうらい)を従属させたクビライが金は海の向こうジパング(日本)からもたらされたと思い込んだ可能性は高い。それ故、クビライは「日本へ行けは砂金がいくらでも採れる」と信じて日本攻めを決行した可能性が高い。first でクビライは高麗の者らを連れて日本に進軍してきている。道案内か? secondでは大量の移民団をすでに連れて来ている。「黄金を採りに日本へ行くぞ!」とトレジャーハンティング(Treasure hunting)的な日本攻めだったのかもしれない。その執着は大きかった。3度目はかなわなかったが・・。クビライはマルコに「私は再び日本に行って金を我が物にする。」なんて自慢したのかもしれない。元寇の襲来は「黄金の国? ジパング伝説」がベースにあったのかもしれない・・と言う仮説でした。さて、ここからが本スジの五山です。日本仏教の再構築(禅の導入)ところで、武家の信仰を一心に集めたのが、鎌倉時代から比護されてきた禅宗である。禅の精神は武家の精神に通じる所があって? 室町幕府の時代に入っても禅宗が興隆(こうりゅう)したと紹介した。確かに禅宗は武家に合っていたがそれだけではなかった。実のところ当時の仏教界の現状に起因する。老舗仏教の天台や真言系の寺の堕落(勢力拡大や争い)が酷い有様で、皆の心が離れていたからだ。栄西(1141年~1215年)禅師が1187年、再度南宋行きの船に乗ったのも日本の仏教界の現状を嘆いたからで、禅の心に真の仏教を呼び戻そうと禅の導入に未来を見たのだろう。そして禅師は持ちかえった禅を布教し、武家らに禅が受け入れられた。実際、争いの絶えない彼らを納める為に、例えば平清盛(1118年~1181年)も延暦寺と僧兵の駆除の攻撃をしている。第6代将軍 足利義教(あしかがよしのり)(1394年~1441年)も僧兵の制圧をしている。天台系仏教寺の延暦寺(えんりゃくじ)はすでにこの頃から軍事独裁国家のごとき様相を呈していた。(調べるとかなり悪さをしている。)仏道の者が仏道以外の道に進んでいたので世間は逆にドン引きだったのだろうと思われる。(すでに堕落の極みだった。)※ 以下のリンク先は信長による焼き討ちの事を書いたものですが、平清盛と足利義教の事も触れています。これに終止符を打ったのが織田信長なのです。リンク 比叡山(延暦寺)焼き討ちの理由足利家が生み出した北山文化と東山文化後醍醐天皇の新政(1333年~1336年)に対して武士や朝廷内部からの不満が爆発して起きた南北朝の長い動乱(1336年~1392年)。これは皇統の分烈が招いた戦いでもあった。後醍醐天皇(南朝) VS 足利尊氏 光明天皇(北朝)1336年、光明天皇より足利尊氏(1305年~1358年)は権大納言に任命された。自ら鎌倉殿を継承すると言う意味で「鎌倉大納言」と称す。室町幕府の実質的誕生である。1338年、光明天皇より足利尊氏(在位:1338年~1358年)は征夷大将軍に任命され室町幕府が名実ともに成立する。南北朝の動乱が決着するのは1392年。北朝の勝利で終決。すでに第3代将軍 足利 義満(1358年~1408年)(在位:1369年~1395年)の時代である。この時に義満は幕府を京都に移転させた。京都と言えば今まではきらびやかな貴族文化が花開いていたが、室町時代は、京の街が幕府の本拠となると武士が増え、武家の好む文化が京でも開花するのである。足利義満と北山文化いわゆる北山文化と東山文化と呼称されるそれらは、室町幕府の権勢下で3代将軍 足利義満が引退後に北山に建てた別邸(後の鹿苑寺)、その北山澱を意識して8代将軍 足利義政が東山に建てた別邸(後の慈照寺)。それらから発信された文化の総称である。室町時代(1336年 ~ 1573年)。この内1336年 ~ 1392年は南北朝動乱の時代である。1392年、皇統分烈の動乱を収めたのが3代将軍の足利義満(1358年~1408年)だ。平和になった義満の時代(在位:1369年~1395年)大陸(明)との交易も再開される。だからこそ文化は花開き始めた。また義満自体が芸術、芸能に造詣(ぞうけい)があり、好きだったのではないか?と推察する。だが足利将軍家によって統治されていた室町時代(1336年~1573年)は15代将軍 足利義昭(1537年~1597年)(在位:1568年~1588年)の時代まで続きはするものの、幕府(足利家)の権勢が安定して続くのは 応仁の乱(1467年 ~ 1477年)までなのだ。つまり実質の足利時代は1392年~1467年と割と短い。残りおよそ100年は将軍家の弱体により動乱時代となり続く。因みに、足利家の権勢が弱体を始めるのが8代将軍 足利義政(あしかが よしまさ)(1436年~1490年)(在位:1449年~1474年)の時。彼が慈照寺(じしょうじ)を造営したのは応仁の乱後の1482年。引退後である。第3代将軍 足利義満(1358年~1408年)(在位:1369年~1395年)の時代に(前期)北山文化が開花する。北山文化を代表する建築が鹿苑寺舎利殿(ろくおんじしゃりでん)通称 金閣寺(きんかくじ)。その北山澱から俗に北山文化などと呼称されるのだが、それは義満が37歳で引退した後の話である。彼は引退した後に明とのプライベート貿易を始めている。北山澱は彼の引退後の宮殿であった。金張りされた金閣寺を見ればわかるよう一見、建築は豪華な貴族文化が見てとれる寝殿造り。が、金閣自体のコンセプトは極楽浄土の表現らしい。思想が盛り込まれて作庭された「禅庭」は今、特別史跡・特別名勝・世界遺産に認定されている。北山澱は皇族や武将らの接待などでも派手に利用されたと思われる。また、彼は芸術を奨励して美しい物を愛でるのは事の他好きだったようだ。ここでは観劇など色々なイベントが夜な夜な催され、また色々な文化が発信されたと思われる。要するにセレブの娯楽場? 的な要素も多分にあった? ところで、3代目義満はおぼっちゃまと言って良い育ち。そもそも足利家は源氏の出自。2代目将軍の父の早世により義満はわずか10歳で家督を継承し、12歳で征夷大将軍になっている。帝王学を学ぶのはそれからだが、回りの人間にめぐまれたのだろうと推察する。それ故、様々な改革など本当に彼の功績によるものなのか? が今ひとつ見えない。旧態の天台や真言系の寺が勢力を持って敵対していた時代である。宋に習って五山を京都にも導入して他勢力を抑えた事など良きブレーンがいてアドヴァイスがあったと思われる。実際、管領細川頼之が幼少の義満を助け、また将軍職を継いだ後も補佐役として活躍したらしい。1383年、左大臣に就任し源氏一の長者となる。人柄は解らないが、人望はあったらしい。義満の出家時には、多くの武家や公家、皇族らまでが追従して出家しているらしいので・・。金閣と銀閣については、後でまた触れます。世阿弥と義満足利家は明との交易で財を成したので経済的余裕もあるし、義満は育ちが良い。半ば公家のような生活をしていたので元々、芸能は好きだったのだろう。観阿弥(かんあみ)(1333年~1384年)、世阿弥(ぜあみ)(1363年~1443年)親子を見い出したのも義満である。世阿弥(ぜあみ)12歳。義満がいかに贔屓(ひいき)にしていたのが観劇の記録にも残っている。南北朝時代まではものまね芸に近い猿楽芸能(現在のコントに踊りがついたようなもの?)あるいは神楽の一種(各種神事で神に献げる舞)であった舞台芸能。当時は大衆の芸能に近かったものを至高の芸能に高め能を完成させたのが世阿弥(ぜあみ)である。能は今や最高級の芸能舞台である。余談であるが、少年藤若(後の世阿弥)は舞のみならず、連歌や蹴鞠(けまり)も堪能でまた賢かったようだ。義満のみならず、当時の関白 二条良基にも気に入られた。藤若にプレゼントすると義満が喜んだので、諸大名もこぞって藤若に贈り物をしたと言われている。因みに二人は5歳違いです。義満は弟のように可愛いがったのかもしれない。才能だけでなく美貌もあった。ある意味それも才能である。世阿弥は貴人らの保護により芸能の道を究める事に精進(しょうじん)できたのである。能楽(のうがく)は禅由来の芸能ではありませんが、空間の中での舞に見る動と静の使い方。独特な時間軸を持つ優美な舞台である。幽玄(ゆうげん)と言う言葉は能にこそ表されていると思う。それは至高の美かもしれない。能楽の完成に関しては、世阿弥はともかく、足利義満がいなければ完成は出来なかった。そういう意味で彼の存在の意義は北山澱造営よりもあったと私的には思う。ところで、能のスローな動きは当時の人の生活のリズムだと言われた事がある。本当か? 参考写真に能を振興する銕仙会(てっせんかい)の写真館からお借りしました。能に興味のある方は勉強できるサイトです。リンク 銕仙会 能楽事典写真は世阿弥の作品である井筒(いづつ)です。「筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 生いにけりしな 妹見ざるまに」by在原業平伊勢物語の井筒をベースに書かれた続編的な作品で、帰らぬ夫を幽霊になっても待ち続ける女の霊の話しです。能を初めて観る方にも解り易く美しい作品かと思います。たしか私が学生時代に観世能楽堂で初めて見た能も井筒だった。北山澱1397年、足利義満は北山に山荘(北山澱)を建築するのだが、それに先立ち1382年、御所の北に相国寺を建立している。それが京都五山、第2位の寺格を持つ禅の伽藍(がらん)である。※ 現在、北山澱は相国寺の山外塔頭「鹿苑寺(金閣)」と位置づけされているがそれは義満の死後である。生前は寺ではないので。※ 東山の慈照寺(じしょうじ)(銀閣)も相国寺の山外塔頭となっている。京都五山2位 相国寺山外塔頭 鹿苑寺(金閣)1397年、もともと西園寺家の寺のあった場所を譲り受け足利義満はそこに離宮として山荘(北山澱)を建立。1398年舎利殿が完成すると亡くなるまで義満はこの舎利殿に住み着いたらしい。※ この時、舎利澱金閣以外は解体され、南禅寺や建仁寺に寄贈された。北山澱の作庭家は誰?禅寺となるのは義満の死後で1408年以降。遺言があり夢窓疎石にを開山を依頼。義満の法号「鹿苑院殿」から北山鹿苑禅寺(ほくざんろくおんぜんじ)と命名された。上は相国寺のホームやWikipediaにも書かれているが・・。夢窓疎石(むそう そせき)の方が先に亡くなっています。と、言うか、そもそも義満が生まれる前に夢窓疎石はすでにこの世に居なかった。足利義満(1358年~1408年)(在位:1369年~1395年)夢窓疎石(1275年~1351年)※ 夢窓疎石(むそう そせき)は臨済宗の禅僧にして日本初の作庭家。義満の死後に禅寺として開山され、その開基は夢窓疎石(むそう そせき)にお願いしていると言う話しがそもそも通用しない。ところでこの鏡湖池(きょうこち)や金閣は義満がここを造営した1398年頃に完成? 石は大名や義満が中国から運ばせた名石が置かれているので西園寺時代の池ではない。さて、この庭であるが、最初に造営した1398年も、すでに夢窓疎石はこの世に居ない。つまり誰の作庭か全く謎になってしまった。因みに、庭自体は江戸期に改庭されているようです。一つ考えられるのは、夢窓疎石(むそう そせき)の名を継承する2世が居たのかもしれない? と言う事。確かに「夢窓派」と呼ばれる門派は存在しているが、その話しは聞かない。まあ、義満に協力したのは夢窓派なんだろーなとは思うが・・。それにしても誰も気づかなかったの? ※ 現在の金閣は、1950年(昭和25年)に放火で消失。1955年(昭和30年)再建されたもの。鏡湖池(きょうこち)の中の金閣(きんかく)鏡湖池(きょうこち)は池泉(ちせん)回遊式庭園であると同時に舟遊式庭園でもある。※ 回遊式庭園とは、庭内を歩き回って様々な角度から観賞できる庭園です。金閣は三層造りになっている。一層・・寝殿造の法水院(ほっすいいん)。※ 法水とは、煩悩を洗い流す水を意。二層・・武家造の潮音洞(ちょうおんどう)。※ 海の音のように遠くから真実がやってくるという意。三層・・(中国風)禅宗仏殿造の究竟頂(くっきょうちょう)。※ 「究極」という意。床は漆塗りで、それ以外の柱や天井には金箔が貼られて仏舎利が安置されていたと言う。湖面に写るよう計算されて建築された金閣であるが、高台から眺める夕陽に映える金閣が特に良いらしい。さらに金閣が夕陽によりきらめき、より美しく水に写るように? 金箔が貼られたとも言われている。つまり、今風に言うと「映える(ばえる)」仕様に敢えて造られていたのである。鏡湖池の中の小島は金閣の漱清(そうせい)から眺められる。鏡湖池に張り出す切妻造りの釣殿、漱清(そうせい)は船着場にもなっている。下、手前、出亀島。右奧、入亀島鏡湖池の中の石や小島には名前がそれぞれあり(出亀島、入亀島、淡路島、葦原島など)、日本各地から集められた名石が置かれている。九山八海石は、将軍・足利義満が中国から運ばせた名石。実は日本庭園の石組は、仏教の世界観を表す石組みと、道教の流れを汲む神仙蓬莱思想(しんせんほうらいしそう)を表す石組み、他、道教思想から来る石組み、また自然景観を表す造形の石組みなどから造られているそうだ。つまり、適当なバランスで置いているわけではなく、テーマに沿った配置がある程度決まっていると言う事でもある。しかし、金閣は仏教を示すものであったが、鏡湖池に配置された複数の石や石組は仏教だけにとどまっていない。およそ日本庭園の石組みほとんどのスタイルが込められているように思う。それは思想的にはチャンポンである。鏡湖池に組まれている石組み三尊石組(さんぞんいわぐみ)・・仏教の三尊仏をなぞった石組。神仙蓬莱石組(しんせんほうらいいわぐみ)・・中国の道教を由来とする神話、神仙思想からきている。須弥山石組「九山八海(くせんはっかい)」・・古代インドの仏教思想である須弥山(しゅみせん)の世界観を表す。他にも蓬莱思想に由来する夜泊石(よどまりいし)など石へのこだわりが強い。※ 4つの石で停泊する舟を表す夜泊石。舟は蓬莱島(ほうらいじま)に仙薬を取りに行く? 蓬莱島は神仙の島。そこには不老不死の薬があるらしい。※ 鏡湖池では葦原島(あしはらじま)島が神仙の蓬莱島(ほうらいじま)を表しているらしい。鶴亀石組(鶴石組、亀石組)・・鶴は千年、亀は万年の長寿を願う思想が込められている。鏡湖池には無いが、金閣の裏手に自然の景観を表現する石組がある。龍門瀑(りゅうもんばく)、鯉魚石(りぎょせき)・・滝を表す石組みである。滝を登る鯉(こい)? 水量によって見え方は微妙。この水量だと修行僧が滝に打たれているように見え無くもない。鏡湖池は盛り沢山。金閣の派手さに合ってはいるが・・。葦原島と赤松中心右の少し大きめの3つ石が三尊石組(さんぞんいわぐみ)優美な北山の鹿苑寺(ろくおんじ)庭園。芸術性の高い庭園ではあるが、義満が最初に作った時にもこうだったのか? ちょっと疑問がわいた。後世、石が追加されているのではないか?義政の東山文化8代将軍 足利義政(1436年~1490年)(在位:1449年~1474年)の時代、東山文化が隆盛(りゅうせい)する。足利義政は応仁の乱(1467年~1477年)のさなかでも能を愛でていたと言う楽天家?政治よりも文化芸能の方に興味があったのでしょうね。実際、足利義政は政治を省みなかったが、文化の振興には力を入れ、唐物と呼ばれる中国舶載の書画、茶道具などを熱心に収集、鑑賞したと言われている。足利義政は応仁の乱後、京都の東山に祖父義満にならって山荘を建てた。山号が東山(とうざん)。慈照院殿(銀閣)は東山文化を代表する建築と禅庭を持つ。※ 慈照寺(銀閣)も相国寺の山外塔頭に鹿苑寺(金閣)と位置づけされている。特に夢窓疎石(むそう そせき)由来の禅庭はこの時代には完成されていた? 枯山水(かれさんすい)は禅庭の行き着いた最終局面かもしれない。北山澱と東山では、そもそも活用の仕方も違うが、義満時代の仏教をベースにした華麗さを持つ鹿苑寺の禅庭と比べると、東山ではシンプルさの中に哲学を観るような進化を遂げている。義満時代の北山文化が発展し、昇華(しょうか)されたのが東山文化と言われる所以(ゆえん)だ。京都五山2位 相国寺山外塔頭 慈照寺(銀閣)錦鏡池と銀閣月待山(つきまちやま)手前の展望所からの撮影写真上下とも松の木で向月台は隠れている。慈照寺の看板から庭園をいろいろな角度から干渉し楽しめるよう散策コースがもうけられている。これを池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)呼ぶ。向月台(こうげつだい)と銀沙灘(ぎんしゃだん)向月台(こうげつだい)高さ180cm。最初からこの形ではなく、今の形になったのは近世らしいが、名前通り向月台(こうげつだい)の向こうから月は出るのだろう。向月台バックに月待山が在るし・・。敢えて言わせてもらえば、松の木が大きくなりすぎである。全体に銀閣の前の木の高さを低くしないと月が見えないではないか。※ 今はどうなっているか解りませんが・・。向月台(こうげつだい)も銀沙灘(ぎんしゃだん)も白砂の砂盛りで造作されている。モダンとしか言い様の無い形をしているが、これらは月を愛でる為に作られた造作と考えられる。月光が白砂に反射して銀閣を照らし銀色に輝く事から銀閣と呼ばれる・・との説もある。確かに銀閣の屋根も光を反射しやすい文様がある。輝銀沙灘(ぎんしゃだん)で造られた台地と月を盛る為の高台(こうだい)これら砂にも色々種類があるらしい。室町時代に隆盛する諸文化は禅(Zen)による所が大きいのも納得である。また禅自体も室町時代に権勢を誇るが、足利氏の力が衰えると臨済宗も衰退して行ったと言う。相克する金閣と銀閣の演出銀閣の粗めの白砂が敷き詰められた銀沙灘(ぎんしゃだん)と白砂で形造られた向月台(こうげつだい)。銀閣手前にあり、撮影に邪魔だと思っていたが、これは銀閣から向月台(こうげつだい)そしてその向こうに月を観る為に造られたのは間違いなさそう。銀閣から観ると月は調度、向月台(こうげつだい)の向こうに見えるはず。月を迎える台なのだから・・。また、時に向月台の上に乗っかる場合もあるのではないか? 向月台は高台(こうだい)の役割もしているかも。月が昇ると海面のようにきらめく銀沙灘(ぎんしゃだん)。向月台は月を背にしているので逆光でシルエットだけが浮かぶ。その上に光輝く月が鎮座した時は最高の時。月光の中で輝きを放つ銀閣と言うよりは、月光に照らされた銀沙灘(ぎんしゃだん)の青白い輝きと月の美しさを銀閣から愛でる為に、確かに設計されたのだと想像できる。向月台の影は一服のアクセントでもある。いずれにせよ、月待山に登る月を愛でる為に考案された、奧の深い造詣であるのは間違い無い。※ そう言う意味でやっぱり松の木がじゃまなのだ。一方、金閣は先ほど金閣が陽によりきらめき、より美しく水に写るように? 金箔が貼られたとも言われている。と紹介したが・・。私は違うと思う。「金閣造営」のところでも触れたが金閣もまた夜に「映える(ばえる)」よう造営されたと思うからだ。引退後に明との交易で舶来物も富も手にした義満は北山澱で観劇など色々なイベントを夜な夜な催し余生を過ごしたと思われる。引退した時、義満はまだ37歳だった。それにセレブは夜に活動するものだからね。金閣前の鏡湖池(きょうこち)にはたくさんの松明がかかげられ、金閣はきらびやかに発光し夜の闇の中に浮かび上がるように光輝いていたはずだ。まさに黄金の宮殿だったはず。義満はそれを舟で池から眺めていたかもしれない。まさに北山澱の目玉である金閣は極楽浄土にある宮殿を表現した建物だったのではないか? と推察した。つまり銀閣と金閣の用途は大きく異なる。派手に振る舞った義満に対して、静を感じながら風流を愛でていた? 義政の余生。金襴の極楽浄土を表現した義満。余計な物を排除してシンプルさの中に美しさのみを取り出した義政。義政の銀閣は、禅文化の行き着いた所の造形だったのだろう。それらを踏まえて言えるのは、金閣も銀閣も夜に「映える(ばえる)」よう設定されたイルミリオン(Ilmilion)のようなもの。双方日中に観覧してもその持つ意味を理解は出来ないだろうと言う結論です。是非夜に体現(たいげん)してみたいものです。雪舟筆の山水図2幅 共に国宝左(1470年筆) 秋冬山水図2幅のうちの冬景図右(1495年筆) 破墨山水図(はぼくさんすいず) 雪舟自序月翁周鏡等六僧賛の詩画軸の下部両作には25年の歳月の開きがある。雪舟(せっしゅう)(1420年~1502年 or 1506年) は48歳の時に明に渡っている。左の作品は帰国してすぐ? 「宋では李在(りざい)と長有声(ちょうゆうせい)に画法を学んだ」と右の作品(上部)に書かれている。つまり、左の作品が宋で学んだ技法で描いた山水画。右の作品が雪舟76歳のときの作で本来は詩画軸。破墨山水図(はぼくさんすいず)は雪舟が辿り付いた山水画の境地? 相国寺の塔頭(たっちゅう)慈照院に伝来。6人の禅僧の賛が付されているので「雪舟自序月翁周鏡等六僧賛」とタイトルされている。夢窓疎石(むそう そせき)の禅庭夢窓疎石(むそう そせき)(1275年~1351年)は禅僧であり作庭家。また漢詩人でもある。後醍醐天皇より「夢窓国師」の国師号を下賜。禅僧としても当然立派な方ではあるが、禅庭の作庭家としそての方が知名度がある。代表するのが天龍寺庭園や西芳寺(苔寺)の庭は「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。何より禅庭「枯山水(かれさんすい)」の第一人者として世界的な作庭家である。京都の建仁寺で禅宗を学んでいるので臨済系の禅僧であるが、最初から禅宗だったわけではないようだ。天台で満足出来なかった夢窓疎石は禅宗に移り各地で修行を行っている。なぜ禅僧が作庭家になったのか?明確な理由はわからなかったが、禅僧にとって作庭も修行で在るらしい。作庭に修行の成果も現れる?いずれにせよ、夢窓疎石は修行で各地を回っている。修行地の地形、景観、自然をたくさん見聞し、また禅の修行の中で自(おのず)と自然の眺望や景観を体得したのだろうと思われる。渓流、滝、海岸、海などでは水場の風景を。坐禅の修行場では洞窟や坐禅石から石と石組みを得たのかもしれない。また生き物である亀や鳥を観察。伝説の獣である龍なども想像して石に投影させる。山や島においては石の置き方、また松などの配置でいかようにも変化がつけられる。そう考えると、観察力がするどく、また想像力もずば抜けてあった人なのかもしれない。夢窓疎石の作り出す庭園が人工物であるにもかかわらず、滝は本物の滝のようにあり、池も川もおよそ人工物とは思えないリアルさがあるのもうなずける。寺の庭と言う限りある敷地の中で、山野を作り池や小川、時に海を造って表現した。夢窓疎石は本当に天才です。ザックリ言うと、前期の禅庭は景観演出につきるが、それらは石組みに集約されている。自然に見える自然(実は人工)の中に様々な石を置き、その配置で、何かしらの世界を表現する。山、川、滝、島、龍、亀、etc。後期の方は、もはや自然の岩や木々や水さえ使わずに自然の世界感を表現すると言う大胆な発想による進化をみせた。枯山水(かれさんすい)はもはや庭を越えた至高のアートだ。また、苔をふんだんに使った演出では精神の静寂をいともたやすく導いてみせた。禅庭はただの景観演出からより深い精神性を示すものに進化している。確かに、作庭する禅僧の力(りき)次第で善し悪しも変わったのだろう。水を白砂で表現して海や池、川など水面を表現。当然、その中に絶妙なバランスで配置される石の意味は大きい。何より全体のバランスとアートしている白砂の文様。それ自体にも禅の心が投影される?それらはただのアートで終わらせない奥深い意味を持つ。現代アートでは、アートの意味は作家の言ったが勝ち。作家がそう表現したと言えばそれが正論であるが、枯山水の表現は作家がわざわざ言わなくても見た者が感じ取れるものなのだ。京都五山 第1位 天龍寺夢窓疎石により作庭された曹源池(そうげんち)庭園は国の特別名勝・史跡となっている。夢窓疎石からの流れで京都嵐山にある天龍寺も再び紹介しますが、前のとはアプローチが違うので別物です。山号 霊亀山(れいぎざん)臨済宗天龍寺派の大本山。開基 足利尊氏(1305年~1358年)(在位:1338年~1358年)開山 夢窓疎石(むそう そせき)(1275年~1351年)1994年「古都京都の文化財」としてユネスコ世界文化遺産に登録された寺社17の中の一つ。曹源池(そうげんち)庭園前の大方丈創建1339年。足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔う為に建立。天龍寺船(造天龍寺宋船)による貿易この天龍寺は足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔う為に建立したものだ。天皇とは言え、南北朝の動乱(1336年~1392年)では敵対していた相手なのに・・。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)(1288年~1339年)第96代天皇・南朝初代天皇 (在位:1318年~1339年)元々大覚寺統の離宮であった嵯峨野の亀山殿を禅院に改め開山する事になったが、天龍寺の創建には莫大な費用がかかる事が予想された。尊氏や光厳上皇が荘園を寄進しても全く足りず、造営費捻出の為に考え出されたのが、貿易船の一時的再開だったそうだ。元冦(げんこう)以来途絶えていた元との貿易。※ 元寇の襲来(first 1274年、second 1281年)室町幕府公認の下に「寺社造営料唐船」として天龍寺が舟を出し、その利益で造営費用を捻出したそうだ。そうして天龍寺は1339年に創建し、1345年に落慶したと言われる。こうした室町幕府のバックアップもあり、苦労もあり。また、立派な寺でなければならなかった。天龍寺をどうしても五山の第1位に据えたかったのだろう。※ 相国寺は1382年建立。最初から2位?※ 南禅寺は繰り上がり「別格」と言う特別措置になった。それにしてもなぜ足利尊氏は敵対していた後醍醐天皇の為にそこまでしたのか?一説には尊氏が後醍醐天皇の怨霊に悩まされていたから・・とも言われる。夢窓疎石の勧めも在り、もともと禅宗は後醍醐天皇や大覚寺統が支持していた事もあり縁の地に大きな禅寺の建立が決められたと言う事らしい。やっぱりね・・。と思った。ところで、1342年8月に2隻の天龍寺船(貿易船)が元に向かい、莫大な利益を上げて帰国したと言われるが、一体何回、何を売って商売してきたのかが不明です。庭園は広く、池の全景写真は撮影ができません。下は大方丈からの庭園池泉回遊式庭園で嵐山や亀山を取り込んだ借景式庭園。見所は池の中央奥に見える龍門瀑と手前に見える龍の石組みです。右手前、龍が海面から頭と背中を出しているところらしい。曹源池(そうげんち)庭園 龍門瀑(りゅうもんばく)先ほど金閣の所で滝を表す石組み「龍門瀑(りゅうもんばく)」と鯉魚石(りぎょせき)の事はふれたが、こちらはもっと大きな龍門瀑(りゅうもんばく)である。鯉が滝を登ると龍になるという故事「登竜門」にちなんで鯉を石に見立てる鯉魚石(りぎょせき)は滝造りに欠かせないアイテム。天龍寺の鯉魚石は、鯉が滝を登り龍へと変化する瞬間を表現した珍しい配置らしい。そもそもは、ひたすら修行を繰り返すという禅の理念を鯉の滝登りに当てた? 石組が龍門瀑(りゅうもんばく)。他に遠山石が蓬莱島(ほうらいじま)を表現。水落石が三石で三段の滝を表現?となる。石が多く、他にも石橋が置かれたりと、遠くから観たら一体にはなっているが、実際は間隔があって寄せて組まれた石組らしい。京都五山禅寺終わります。南禅寺のお庭、結局紹介出来なくて・・。「京都五山禅寺 4」はやるつもりないですが、絵になる石組みや枯山水もあるので特別編で紹介するかも・・。先週から毎日今日載せよう・・。と、一週間がすぎ、もう年末です。今年も一年が早かった。結局今年もコロナに振り回された感がありますが、ワクチンや治療薬も来年には国産が登場。少しは明るい年になる事を期待しています。例によって後から修正あるかと思います。訪問ありがとうございました。m(_ _)mback numberリンク 京都五山禅寺 1 大乗仏教の一派 禅宗と栄西禅師リンク 京都五山禅寺 2 遣唐使から日宋貿易 & 禅文化 京都五山禅寺 3 禅庭の世界と文化+黄金の国ジパング
2021年12月28日
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Back numberをラストに追加しました。今回は海洋共和国の続編です。でもその前に・・。前回「アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)」で触れた十字軍(crusade)ですが、3回目の十字軍(3rd Crusade)(1189年~1192年)については全く触れていません。紹介する必要があるか? と言うと交易には関係ないので飛ばしたのですが・・。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)実は十字軍(crusade)を中世の騎士物語として見た時、最もドラマティックなのがこの3rd Crusadeなのです。それは最強のイスラムの戦士サラディン(Saladin)との戦いで西欧方も大国の大物が参戦して多数のドラマが伝えられているからです。イングランド王リチャード1世(Richard I)(1157年~1199年)フランス王フィリップ2世(Philippe II)(1165年~1223年)神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(Friedrich I)(1122年~1190年)(皇帝在位:1155年~1190年)特にイングランド王リチャード1世は王と言うよりは騎士そのものだった人。その生き様もドラマティック。聖地奪還こそかなわなかったが、サラディンとリチャード1世は戦いの中でお互いを尊敬し合うほど理解。それが1192年の「リャード・サラディン協定」(休戦協定)を生んでいる。要するにスターになる騎士がいたからです。第3回十字軍(3rd Crusade)(1189年~1192年)については以前リチャード1世と共に「ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)」で少し紹介。リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)リチャード1世に仕えた臣下に英雄騎士のウィリアム・マーシャル(William Marshall)がいる。リンク ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世は小アジアを陸路聖地を目指したが途中セレウキアで水死。部隊はオーストリア公レオポルト5世と有志のみがフランス王に率いられてアッコの戦いに参戦。フランス王フィリップ2世とイングランド王リチャード1世は海路進軍してシチリア島で合流。パレスチナに向いイスラムと戦いアッコを取り戻している。しかし、このアッコでの戦果でトラブルがあり、オーストリア公レオポルト5世もフランス王フィリップ2世も帰国。3rd Crusadeにリチャードの十字軍と別名があるのは聖地で実際にサラディンと対峙し激戦したのは、結局イングランド王リチャード1世だけだったからです。騎士になってから予期せず王権を手にしたリチャード1世。しかし彼はほとんど国には居なかった。王と言う職業より騎士として生きる方を好んだからだ。若いが頭は切れ、しかも勇猛果敢。リチャード1世の戦いぶりとその姿勢に敵方も一目おいた。サラディンが騎士として認めた男なのである。※ 正統派の騎士道は日本の武士道に近い流儀や精神性があったようです。それ故、サラディンはリチャードを信用して取引に応じ、約束通りキリスト教徒のエルサレムの巡礼再開を認めたのである。これは快挙でありローマ教皇もイングランドのリチャード王を高く評価した。彼がイングランドの中でも別格の英雄王とされる所以だ。ウェストミンスター宮殿(the Palace of Westminster)上院側の翼の前騎馬のリチャード1世(Richard I)(1157年~1199年)像リチャード1世にとってイングランドには何の思いも無かったらしい。だから彼の遺物は何一つ本国に無い。あるのは後世に造られたこの像だけ。ヴァッハウ渓谷 のデュルンシュタインにはオーストリア公レオポルト5世の逆恨みで一時期リチャード1世が幽閉されていた城跡が残っていて、リチャード1世に想いを馳せながら山の城跡まで登った時の事。「この城跡に本当に捕らわれていたのか? 伝説では吟遊詩人の歌声に返した唄でリチャード1世の場所を特定したとされる。絶景ではあるがここまで高台に声は届かないゾ。もっと麓の村の中だったのではないか? 」そんな事を考えていたら同じようにリチャード1世を想い城跡に上ってきた日本人に遭遇。異国の辺境地で日本人とリチャード1世で語り合う。これも旅の面白さですね。 アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊第3回十字軍(3rd Crusade)海洋共和国おさらいドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)バルトロメオ・ボン(Bartolomeo Bon)の建築スタッコ(stucco)ため息橋(Ponte dei Sospiri)アルセナーレ(Arsenale)造船所と4th Crusade第4回十字軍(4th Crusade)1202年~東ローマ帝国の本当の滅亡はいつか?海洋共和国ヴェネツィア(Venezia)の交易図ポルトラノ(portolano)と磁石羅針盤サン・マルコ広場の天文時計特異なヴェネツィアの建築ヴェネツィアvsジェノヴァの交易フッガー銀行からサン・ジョルジョ銀行へ法王庁海軍結成と共和国連合艦隊ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)中庭の入口福音記者 聖マルコ(San Marco Evangelista)を象徴する輪光(こうりん)を持つ有翼の獅子。※ 輪光(こうりん)・・。ラテン語でニンブス(nimbus)ヴェネツィアのシンボルそのもの。これは最も造形が細かい。海洋共和国おさらいさて、今回は海洋共和国の続きですが・・。当初「海洋共和国」編は2部構成の予定でした。結局3部となったので一応振り返っておきます。時は西ローマ帝国が消滅し、東ローマ帝国も数々の危機で衰退を始めた5世紀以降、地中海は治安が崩れイスラムの海賊が闊歩。地中海に面した港湾は、どこも常に海賊の危機にさらされていた。一度海賊に襲われれば、略奪のみならず誘拐され奴隷として売られる。カトリック側住民からしたらまさに暗黒の時代。そんな時代が数世紀?9~10世紀になるとようやくイタリア半島の中に自力で海賊に対する防衛力と海軍力を高めた港湾都市がいくつか誕生。それが「海洋共和国(Marine Republics)」である。彼らはその海軍力で商用船を護衛しながら交易も始め成功する。★「海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)」ではラグーサ共和国、ジェノバ共和国、アンコーナ共和国の交易ルートなど紹介しながら海洋共和国の説明をしています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)★「海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)」では、11世紀、欧州で起きたキリスト教軍の逆襲とも言えるエルサレムの奪還をかけた十字軍の遠征を紹介。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)First Crusade(1096年~1099年)ではジェノバ共和国が夫大きく貢献。また聖地奪還後、彼ら海洋共和国は聖地に大量の巡礼者や戦士を送り、物資を運んだ。十字軍の恩恵(軍事特需、巡礼など)により海洋共和国は繁栄のピークを迎えるのである。※ 海洋共和国の特性によりに寿命は各々異なるが・・。そして今回「海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊」では、聖地が再びイスラムの手に落ち十字軍がパレスチナを撤退した後の話になる。聖地が奪われただけではない、パレスチナにあった十字軍による王国も無くなり、イスラムの勢力が再び地中海域に拡大するとまたイスラムの海賊が闊歩(かっぽ)。それに対抗するよう共和国側は連合軍で応戦するのであるが、今度はその中核となったのがローマ教皇庁なのである。何と過去の教訓からローマ教皇庁は海軍を持ったのである。そんなに規模の大きな物ではなかったが教皇庁が軍隊? それはこの時期の特例だった。写真は引き続きヴェネツィア(Venezia)でドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)、サン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)など紹介します。ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)海側からのドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)右上は夕景、下は夜のもの。年は異なります。必ずどこかが修復中であり、広告も派手についていて、なかなか完璧な写真はとれません。下は広場側の面。正面と側面はほぼ一緒のデザインです。ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)と裏側のサン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)は隣接している・・と言うよりは中庭を介して接続されている。バルトロメオ・ボン(Bartolomeo Bon)の建築布告門(Porta della Carta)ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)の正式な宮殿の正門。※ そもそもここは元首(ドージェ)のアパルトマンの為の玄関だった? 隣接のサン・マルコ寺院も当初は元首のプライベート教会だった。彫刻家であり建築家であるバルトロメオ・ボン(Bartolomeo Bon)(生年不明~1没年1464年以降)により1438年~1442年建造。ヴェネツィアンゴシック建築からヴェネツィアンルネサンス建築の移行期? と紹介されている。下もバルトロメオ・ボン(Bartolomeo Bon)の傑作。ソロモンの審判(Judgement of Solomon)旧約聖書「列王記」2人の母が子供を取り合い。どちらが本当の母親か? ソロモン王の賢い采配により真の母の愛が決め手に。バルトロメオ・ボンは大運河カナル・グランデ沿いに建つ黄金の館カ・ドーロ (Ca' d'Oro)の建築家でもある。正式名は、(Palazzo Santa Sofia)今は面影も無いが、かつては外壁に金箔など多彩色の装飾が施されていたと言う。建築は1428年~1430年頃。カ・ドーロ (Ca' d'Oro)は8人のヴェネツィア元首を輩出したコンタリーニ(Contarini)家の為に建てられた貴族の邸宅(Palazzo Santa Sofia)である。カ・ドーロ (Ca' d'Oro)の後にドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)の布告門(Porta della Carta)が造られている。門はそもそもドージェ(元首)のアバルトマンに繋がる入口である。但し、やはりゴシックは取り入れられているものの非常にかわいらしい造り。今ではこれがヴェネツィアらしさとなっている。布告門(Porta della Carta)にも聖書を持った有翼の獅子がいる。布告門(Porta della Carta)は勅令を告げる場所?ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)はスクエアの中庭を持つ宮殿。布告門(Porta della Carta)を抜けると巨人の階段。 軍神マルス(Mars) と海神ネプチューン(Neptune)の像が迎える。軍事力と海の神に加護されたヴェネツィアを表しているらしい。最初の獅子はここのフロントのもの。つまり福音書記者、聖マルコを象徴とする有翼の獅子。14世紀と15世紀のヴェネツィアの彫刻の傑作ですがレプリカに代わっています。布告門(Porta della Carta)の中庭側 Arc Foscariこちらはより一層ゴシックから解離。ルネッサンス色もあるけど色々ミックスしすぎて何とも形容しがたい・・ 下、布告門(Porta della Carta)の側面とその後ろがサン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)中庭には16世紀に遡る井戸が二基。ヴェネツィア(Venezia)一とも言えるサン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)であるが、ここは実際ヴェネツィア・ドージェ(元首)の為の礼拝所であったので司教座聖堂になるのはヴェネツィア共和国が滅亡した1807年の事らしい。前回の地図からヴェネツィアの行政を司るドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)は元首のアパルトマンも兼ねていた。つまり役職が付いていた時は宮殿に住み込みだったと言う事。実家はとても近いのに・・。黄金階段下、天井画の一部 ティントレット(Tintoretto) (1518年~1594年)スタッコ(stucco)装飾がふんだんに使われ豪華。修復はされているのだろうが、ほぼ残っている所がすごい。ここは王宮ではなく、あくまで官庁の庁舎であるのに・・。かつてマルコ・ポーロ(Marco Polo)(1254年~1324年)がコンスタンテイノポリスを訪れた時に街の豊かさに驚愕している。250年前はヴェネツィアにとってもコンスタンテイノポリスはあこがれの街。ヴェネツィアが街に求めたのもまたコンスタンテイノポリスのような訪問者か度肝を抜く富の豊かさだったのかもししれない。スタッコ(stucco)スタッコ(stucco)とは、立体化粧漆喰による室内装飾の技法。※ 以前「フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)」の中、「フレスコ(fresco)画とスタッコ(stucco)」で説明入れてます。リンク フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)富のあったドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)はとにかく豪華です。お金かかってます。当時の一流が集まったそれ自体が美術館のようなもの。ヴェネツィアを代表する画家らの絵画も多く描かれています。残年ながら絵画の写真は撮影できていません。そもそも人も多い広い部屋の中で写真を撮るのはかなり至難です。そんな訳で下の写真はウィキメディアから借りました。なかなかこんな写真は撮れません。大評議会の間(Sala di Maggior Consiglio)議員となれるのは貴族出身者のみ。議員の数は13世紀に1000人強。16世紀に2000人を超えたと言う。その数がこの部屋に収まっていたと言う事です。この部屋にはキャンバスに描かれた世界最大級の油彩画、ティントレット(Tintoretto) (1518年~1594年)による天国(Il Paradiso)1588年製作? がある。1577年、ドゥカーレの火災で以前の絵は消失。1582年のコンペでチャンスを得たのがティントレットだった。下もウイキメディアからの写真ですが、見やすさの為に中心部のみ抜粋させてもらいました。本来の作品は22.6 m×9.1 m。部屋の壁一面に広がっています。中央のキリストとマリアを取り囲み聖人や天使が多数描かれたスペクタクル(spectacle)な作品。ダンテの神曲に着想を得た? と言われている。たぶん階層式に聖人らを配置して描いている所ねそもそもテーマは消失前のフレスコ画「聖母戴冠」からきているのだろう。ため息橋(Ponte dei Sospiri)ドゥカーレ宮殿内の異端審問官の尋問室と運河を隔てて対岸の牢獄を結ぶ橋。投獄されたら当分? あるいは一生見る事はできないかもしれないヴェネツィアの景色。だから囚人が投獄される前に少し垣間見える外の景色に「ため息をついた」と言う意らしい。最もその名は後世の人が付けた呼称だが・・。その景色が下。格子越しにサン・ジョルジョ・マッジョーレ 島が見える下は海側の橋から撮影。窓に鉄格子がはめられ(右)牢獄だとわかる建築家アントニオ・コンティ(Antonio Contin)(1566年~1600年)の設計。彼はリアルト橋を造ったアントニオ・ダ・ポンテ(Antonio da Ponte)(1512 年~1597年)の孫? 甥?らしい。リアルト橋、ドゥカーレ宮殿、そして新しい刑務所の建設と1591年からに祖父と協力して一族で携わったプロジエクトらしい。アントニオ・ダ・ポンテは1597年に亡くなっているのでその後をアントニオ・コンティが引き継ぎ、ため息橋の設計も担当し、1600年に新しい刑務所を完成させている。運河の上をしかも建物間をつないでいる。これは当時かなり活気的だったのではないか? 400年以上前の橋が現存している事自体驚きだし・・この一族は橋のエキスパートのようですね。前回、ヴェネツイア(Venezia)の街の成り立ちの所で、「697年にはラグーナに分散していた彼らは自分達の代表として元首(ドージェ)を選出。その公邸を中核として自治機構を構築し共和国の基礎を造るに至った。」と、紹介しているが、ヴェネツイア(Venezia)の街が完成され歴史の表に現れてくるのは12世紀頃になる。13世紀になると小路(Calle)、広場(Campo)、教会、舘(palazzo)、商館(Fontego)などを持つほぼ現在の街の形になったとされる。※ ヴェネツイアの街の構造は「交通網としての運河や水路」があり、他方「人の生活する小路、広場を中心にした屋敷、河岸の商館」と2つに分けられる。そしてそれらはたくさんの橋により繋がれている。地上の土地のように横に増やすのには限界があったので、老朽化などによる再建や増改築により生活の場は少しづつ可能な限り水路上に広がった。だから逆に水路が路地化した。とは言え、限られた土地ではあったが、14世紀にはヴェネツイアの人口は13万人に上っていたらしい。そしてそれは共和国が終わる19世紀とほぼ代わらなかったと言う。※ 人口の増加の一つ要因は造船所の労働者の増加にあったのではないか?こんな不便な特殊な街ではあるが、ヴェネツイアは海洋共和国として成功し、一時は世界貿易の中心地とも言える繁栄をみせた。裕福な街は美しく着飾り長く欧州人の憧れの街で在り続けた。それはヴェネツイアが終焉した後もだ・・。アルセナーレ(Arsenale)造船所と4th Crusadeところで、海洋共和国ヴェネツィア(Venezia)を支えたのは海軍力である。その海軍力のベースとなったのが国営のアルセナーレ(Arsenale)造船所の存在である。現在その土地はヴェネツィア市とイタリア海軍の所有に代わったが、11世紀以降から近年まで大きな造船所がドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)のすぐ近くにあった。下はドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)とサン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)越しのアルセナーレ(Arsenale)造船所の跡地アルセナーレ(Arsenale)造船所は1104年頃設立。大きな積載量を持つ船の造船が始まる。それはまさに第1回十字軍(First Crusade)(1096年~1099年)成功の経済効果により始まった?パレスチナの港へ接岸する利権を得たヴェネツィアは十字軍景気に乗って欧州と聖地に多くの物資や人を運ぶ事になったからだ。※ 他の海洋共和国もこのFirst Crusade直後から軍事特需に湧いて好景気となっている。第4回十字軍(4th Crusade)(1202年~1204年)でヴェネツィアの制海権はさらに拡大する。しかし、これは一言で片付けられない問題である。第4回十字軍(4th Crusade)1202年~4th Crusadeも当初はローマ教皇の呼びかけに始まり、フランスやフランドルの諸侯による遠征計画から始まっていた。(4thと付くのだから当然である。)この計画は海路遠征が予定されていた為に遠征に必要な船を結果的にヴェネツィアが用意する事になったのだが、そもそも最初から船の賃貸料が払えないと言う問題も生じていた。だから遠征計画に大幅な修正が加わり、船賃代わりに十字軍は同胞のカトリックの国を襲撃すると言う暴挙に出るに至ったのである。先に結論を言えば十字軍至上最も最悪な遠征になった理由は、そもそもお金のかかる海路の遠征となった事による資金不足が招いた結果である。船賃問題で当然ヴェネツィアの関与は大きくなる。輸送はヴェネツィア海軍が担う。しかもその船団にヴェネツィア元首自らが乗った。当然船団の指揮は第41代ヴェネツィア元首(在任1192年~1205年)エンリコ・ダンドロ(Enrico Dandolo)(1107年?~1205年)が担ったからこの4th Crusadeは、スタート時点ですでにヴェネツィア共和国主体の軍隊の遠征に代わっていたのである。船団はヴェネツィアからスタートしアドリア海を南下する。先ずヴェネツィアにとって商売のじゃまになるザラ(Zara)の街を攻略させた。次に(1203年)、十字軍はお家騒動でもめていた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のコンスタンティノポリスに進軍。現東ローマ第3代皇帝アレクシオス3世アンゲロス (Alexios III Angelos)(1156年~1211年)を追放。1203年7月、新たな皇帝を置いた。※ すでに帝位の奪い合いをしていたアンゲロス王朝のアレクシオス4世アンゲロス(Alexios IV Angelos)(1182年~1204年)とその父に帝位を与えると父子は共同皇帝としてアンゲロス王朝の第3代皇帝(在位:1203年~1204年)として即位。実はコンスタンティノポリス襲撃の裏には彼ら父子との金銭的契約があったらしい。一見、十字軍が新たな東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の帝位者をサポートした形であり、十字軍は彼らに壮大な恩を売った? と思われるだろうが、ヴェネツィア自体にはもう一つ理由があった。東ローマ帝国(ビザンチン帝国)はヴェネツィアを追放してお金も利権も全て差し押さえジェノバに乗り換えていたから恨みがあったのだ。落ち着いたかに見えた戦いであるが、新たな皇帝は契約金を十字軍に支払えなかった事から1204年、十字軍は再びコンスタンティノポリスを攻撃した。この戦いでは居留民も含めて街が十字軍に敵対した為に、十字軍の暴行は過激さを増し抵抗する者へ容赦無かったし、略奪の限りを尽くした。もはやキリストの軍隊とは思えない卑劣な行動。結果、十字軍はアンゲロス王朝も倒し、新たにこの遠征に参加したフランドル伯ボードゥアンを皇帝に即位させ、帝国領は十字軍の騎士達が分割したのである。※ ロマニア帝国(Imperium Romaniae)(1204年~1261年)を樹立。(俗にラテン帝国と呼ばれる)だが、広大な帝国を凡人が維持するのは難しい。ラテン帝国の衰退は早く1261年、東ローマ帝国の亡命政権によって滅ぼされた。これにより東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が復活したと捉えられているが・・。さて、ヴェネツィアは? 今後の交易に必要な港の確保と制海権が欲しかったので、国内領土よりむしろ黒海やエーゲ海の島々にまで制海権を広げ東方との交易に有利な島の獲得を望んだのだろう。それ以前は黒海の通商特権を持っていたのはジェノヴァとピサだけ。※ クレタ島、レパント海域のエーゲ海(Aegean Sea)諸島。またマルマラ海(Marmara Sea)からコンスタンティノポリスを通過して黒海(Black Sea)内のトラブゾン、クリミアなど諸都市の港を押さえた。実際、海洋都市国家としての基礎を着実に固める事に成功している。東ローマ帝国の本当の滅亡はいつか?一般的には、オスマン帝国によってコンスタンティノポリスが陥落した1453年5月とされている。ラテン帝国滅亡(1261年)からの復活よりも以前、ローマ教皇の十字軍がコンスタンティノポリスで暴れまくって皇帝をすげ替えた1203年を東ローマ帝国自体の終焉とする説もある。私的には、以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊」の中、「ローマ帝国を終焉させた? ヘラクレイオス1世」で書いた通り、東ローマ皇帝ヘラクレイオス1世が620年に「公用語をラテン語からギリシア語へ切り替えた時」、古代からのローマ帝国は終わったと思っている。※ ヘラクレイオス1世(Heraclius I )(575年頃~641年)(在位:610年~641年)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊いずれにせよ、1202年からのそれは4th Crusadeとは言い難いもの。※ 1204年のラテン帝国を樹立するにいたる暴挙は、さすがにCrusadeには含まれていない模様。実は第1次十字軍(The First Crusade)(1096年~1099年)の時も彼らは同じような事をしてエデッサ伯国、アンティオキア公国、トリポリ伯国、エルサレム王国を建国している。実際、十字軍は「聖戦」と言っても一攫千金を狙った武将も多かったと言う事だ。結果論から見ても4th Crusadeに聖地奪還は最初から見え無かった。それにしても、1204年の彼らの暴挙から見えてくるのは、彼らを同胞とは思っていなかったと言う点だ。東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と今は呼称されているが、当事者から見ると中身はすでにギリシャ語を公用語とする東方の異国、ギリシャ人の国でしかなかったのだろう。カナレット(Canaletto)(1697年~1768年)によるアルセナーレ(Arsenale)造船所の入口を描いた絵画。1732年制作。下は現在の同じ場所。造船所入り口。 上下共にウィキメディアから借りた写真ですアルセナーレ(Arsenale)造船所では1270年頃からさらに積載量の多い大型船舶の造船が始まる。1303年から1304年にかけ、また1320年には造船所の面積は4倍に拡張。さらに1325年には大がかりな拡張工事が行われているらしい。船は交易船だけでなく軍船も含まれる。同時に造船の規格の標準化を進め船の大量生産化にも成功。規格化されているので修理も手早くできる。むろんそれらは職人技術によりささえられる物、アルセナーレ(Arsenale)で働く職人の労働条件や待遇も考慮され、かつ海運に関する法律も完備されて行った。ところで、ダンテの時代にはすでにヨーロッパで最も重要な造船所の一つになっていたらしい。※ ダンテ・アリギエーリ(Alighieri)(1265年~1321年)ダンテが神曲の地獄編(21歌第5嚢)の中でアルセナーレ(Arsenale)の事を書いている。おそらくフィレンツェを追放された後の放浪中にヴェネツィアにも滞在していたのだろう。船の防水に使うタール? の煮えたぎる漆黒と悪臭を亡霊の責め苦として地獄の表現の一つに利用している。つまりそれだけ過酷な職場でもあった? 少なくともダンテはそう思ったのだろう。下は16世紀のアルセナーレ(Arsenale)造船所。2000~3000人の職人がいた。古代に出現したガレー船であるが、中世に入ってからも地中海の交易に使われたのでヴェネツィアではガレー商船が多く造船されたらしい。また1570年のレパントの海戦1年前に、2ヶ月で100隻の船が増産されていたと言う。こちらは軍船か?流れ作業で非常に効率的に作られたらしい。産業革命以前からこうしたシステムがあった事が凄い。下はウィキメディアから借りた近年の元造船所最盛期には2万人の労働者が勤務していたらしい。ヴェネツィア共和国が衰退した後も造船所として、また武器工場の機能を持つ複合施設として維持し続けたが第一次世界大戦の頃から減産。そして第二次世界大戦後には造船所としての機能は完全に終わった。1000年以上可動し賑わった造船所の跡である。この凪(な)いだ海面が感慨深さを増幅しますね海洋共和国ヴェネツィア(Venezia)の交易図15世紀、ヴェネツィア共和国は最盛期を迎えた。領土はイタリア半島の北東地域、ダマルツィア沿岸、ギリシャ。さらにキプロス王の未亡人を通じて1454年にキプロス島を領有。下は15世紀~16世紀のヴェネツィア共和国※ 赤が所領。黄色はヴェネツィアの所持した制海圏と思われる。すでに敵対するイスラムの元にあるパレスチナの諸都市。それに近接しているキプロス島。また北アフリカのアレクサンドリアとも前と変わらぬ交易が続いているようだ。トリポリとチュニスは船舶寄港地の要素が強い?クレタ島やレパント海域のエーゲ海(Aegean Sea)諸島。そしてイタリア東岸のダマルツィア沿岸はアドリア海に至る重要なポイント。またエーゲ海、そしてマルマラ海(Marmara Sea)からコンスタンティノポリスを通過して黒海(Black Sea)に至るルート。黒海内では東方の交易窓口とも言えるトラブゾン。ドナウ河ルートで銀を運んだ? ドナウデルタの諸都市。クリミアからは塩、石灰岩、鉄鉱石を輸入? それらの港を押さえたのだから最強である。ポルトラノ(portolano)と磁石羅針盤下は1554年のヴェネツィアの黒海の海図(Portolano)制作者 Battista Agnese 資料は海図の本「Eary Sea Charts」から。13世紀頃から大航海時代までポルトラノ(portolano)と呼ばれる海図が用いられたと言う。羅針盤の登場がこうした海図を誕生させた。32本の方位線と海岸線,主要な沿岸地名が描かれていて、沿岸の地形や島などもかなり正確に描かれていると思う。※ 「Eary Sea Charts」は数十年前にアムステルダムの海洋博物館で購入した本。世界限定1000~2000冊程度の稀少と言われて買わされたが当時で1万円くらい? 大きくて重い本で持ち帰りも大変で買って後悔した本でした少しでも役に立てば報われます下はミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)からMagnetic and Azimuthal sundials 磁石方位日時計磁石羅針盤の発祥は、アマルフィ(Amalfi)共和国だと言う。船員用コンパス(sailor's compass)を発明したのは、イタリアのアマルフィ出身の船乗り(水先案内人?)、フラヴィオ・ジョイア(Flavio Gioia)(1300~ ?)だとされてている。sailor's compassの出現により、精度の高い海図が描かれるようになり、またそれは航海術を大幅に発展させる事になった。後でも触れるが、sailor's compassを使用して描いた海図が海洋共和国ジェノバの特産品となる。上は都市名が入っているので航海用の磁石式羅針版?下は普通に日時計ですね。ボディーは象牙のようです。サン・マルコ広場の天文時計当然であるが、時計は潮の満ち引きを計算できるので海洋共和国にとって必需品です。前回行政館にはさまれた15世紀に造られたヴェネツィアの時計塔を外観だけ紹介しましたが・・。建物は1496年~1499年にマウロ・コドゥッチ(Mauro Coduss)が建設。1499年2月1日、一般に公開された時計は、海路を航行する旅人に潮の流れや航海に適した月を教えた。十二宮(黄道)を通る太陽と月の動きから航海に出る時期や期間を知る事ができる天文時計である。時計塔は火事にあっているようです。1755年にジョルジョ・マッサーリにより上にテラスが増築。1757年時計が復元。時計塔は海から見える位置に向いている。文字盤はラピスラズリ(lapis lazuli)らしい。外側の文字盤は時刻を示し、内側の円盤は12宮の星座の位置を示している。文字盤の中央には地球があり、当時知られている惑星(土星、木星、火星、金星、水星)の動きが表され、その周りを太陽が回転して月の満ち欠けと黄道帯の太陽の位置も表示された。また時計の上には マドンナの黄金の像に向かって行列を組んでいる東方の三博士の機械人形(オートマタ・Automata)が置かれた。時間が来ると扉が開き周回するシステム。オートマタもまた機械装置が複雑。技術と美しさの傑作だったのは間違いない。時計職人ジャンカルロ・ライニエーリ(Giancarlo Reinieri)とその父ジャンパオロ・ライニエーリ(Gianpaolo Rainieri)によって造られ、ジャンカルロ・ラニエリとその家族全員でフルタイム時計のメンテナンスもしたらしい。二人は自動装置の功績により共和国から相当の褒美はもらったが、伝説では2度とこのような精度の時計が造れ無いように共和国によって目を潰された・・とも伝えられている。目をつぶされたら時計のメンテナンスができないので疑問ですが・・。特異なヴェネツィアの建築それにしても15世紀になって、パレスチナや北アフリカがイスラムの国になってもヴェネツィアの交易先はそんなに変わっていないのではないか? と思う。相手がどこに代わろうと、必要があればどことでも契約し、取引するのがヴェネツィアだった?コンスタンティノポリスがイスラムに落ちる時もヴェネツィアはすかさず敵国に乗り込み契約を交わしている。実はヴェネツィアにとっては、イスラムと交易する方が、東ローマ(ビザンツ)帝国と交易するよりビジネスライクに仕事ができたのではないか? ヴェネツィアの商売の仕方は西方よりむしろ、極めて東方的なタイプだと思う。そして、気付けば、文化もイスラムからの影響がかなり強い? いや、オリエンタルか?当初ヴェネツィアが東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の庇護にあった関係から建築もビザンツ風なのか? と思っていた。実際サンマルコ寺院(Basilica di San Marco)はコンスタンティノポリスにかつて存在した聖使徒教会(Church of the Holy Apostles)を模して1090年代に建てられたと伝えられているからだ。※ 聖使徒大聖堂は老朽化もあり、オスマン帝国によって1461年に破壊されたらしい。だが、本当にそうなのか?一般の西欧の教会とはかなり違う独特なヴェネチアンな建築。サン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)正面ファサード教会とは思えない独特な不思議なフォルム。ちょっと築地本願寺のファサードに形が似ている。築地本願寺の建物は、インド等アジアの古代仏教建築を模したオリエンタルが意識されているらしいが・・。こちらも確かにロマネスクもゴシックもミックスされているのはわかるが・・。聖使徒教会(Church of the Holy Apostles)を模したのはギリシャ十字の5つのドームを持つ聖堂の形? だけ? の気がする。建築及び装飾はオリジナルなのでは?ファサードの5つの入口。全てが異なるのだ。上は向かって左端のゲート。イスラム教の寺院に近い。下は向かって右端のゲート。仏教的。下、中央ゲート。ロマネスクとも言い難い。(+_+)??色大理石の柱、なぜそんなに使用? 建材見本みたい。まさにそうだったりして・・正直、何なんだ? と言う不思議ミックスである。ここまで来ると、何か意図があって5つのゲートの形態を変えたのか? と勘ぐる。ヴェネツィアは国際交易都市、取引先の文化を尊厳している・・と表現したかったのか? としか思えない。ここで使用する言葉ではないが、外観の美観的統一性は支離滅裂(しりめつれつ)なのである。サン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)聖堂内部。今回は内部載せられそうにありません。別の回に紹介できれば・・。(*_ _)人ゴメンナサイ※ サン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)内部写真 以下に載せました。リンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦ヴェネツィアvsジェノヴァの交易ところで、4th Crusade(1202年~1204年)でヴェネツィアがコンスタンティノポリスを襲撃した理由の一つに東ローマ帝国(ビザンチン帝国)がヴェネツィアを追放してお金も利権も全て差し押さえジェノバに乗り換えた事。と紹介しているが、実際、4th Crusade以降の13世紀から14世紀同じ海洋都市国家であるジェノバ共和国は東方貿易の利権争いでヴェネツィア共和国にとって最大のライバル? 敵? となって抗争は続いていた。1380年、ジェノヴァ軍がアドリア海深く侵入し、キオッジャ(Chioggia)の小さな漁港を占領しヴェネツィアに喧嘩を売った。キオッジャの戦い(Battaglia di Chioggia)。しかし、帰還したヴェネツィア軍船の挟み撃ちにあいヴェネツィア軍が圧勝。1381年にトリノで講和条約が結ばれると事実上の抗争は終結。ジェノバは利権を失った。つまり東方貿易のマウントを取ったのはヴェネツィアだと言う事。欧州と東方との交易品全てがヴェネツィア経由となり、ヴェネツィアは東方貿易を完全に独占する事になる。アフリカの金、中央ヨーロッパの銀。ワイン、オイル、小麦。東方からはキャラバンで香油となる乳香(にゅうこう)や没薬(もつやく)、絹織物や磁器が運ばれる。全ての商品はヴェネツィアを通る。ヴェネツィアでそれら商品は荷揚げされ、一時保管されると関税がかけられた。それこそがヴェネツィア共和国の財源となる。※ 前回「海の税関ドガーナ・ダ・マーレ(Dogana da Mar)」を紹介しています。※ 1381年から独占体制に入るから100年程は富が入りすぎて笑いがとまらなかったであろう。因みに、ガレー船は漕ぎ手の容積がいるので商品の積載量が少ない。だから高額商品の運搬を担い、積載量の多い帆船が食料、綿や羊毛などの原料、資材などを運んだそうだ。またそうした商用の帆船は国営のアルセナーレ(Arsenale)ではなく、私立造船所で建造されたそうだ。だからヴェネツィアでは商人も官僚も一丸になって協力しあい、結束を固める為にあらゆる所にヴェネツィアのシンボルである有翼の獅子が取り付けられたと言う。この官民一体の協力体制はジェノヴァにはなかったらしい。一方、ジェノヴァは以降、西方のイベリア半島や北アフリカ方面に交易を拡大。もともと地理的にもその方が良かった16世紀には北アフリカやスペイン。そして大西洋を北上してイングランドのサザンプトン港やフランドルのブルージュを目指している。これはガレー船による定期便となった。これから大航海時代が来てスペインやポルトガル、オランダなどが新たな海洋国として台頭。アジアの諸都市と植民地交易が開始されると、船はアフリカを南下して喜望峰を通りアジアを目指すから東洋との交易の主軸は東地中海から西に移動する。ジェノバの新たな商業圏は正解であった。また、航海に猛けたジェノバである。海洋学校からはすぐれた航海士が生まれたし、磁石式羅針版を得てジェノバの航海図は人気の輸出品となる。※ 「アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)」ですでに触れているが、コロンブスはジェノバ出身。フッガー銀行からサン・ジョルジョ銀行へFirst Crusade(1096年~1099年)以降でジェノバ共和国が得た植民都市を次々に失い1453年のコンスタンティノポリス陥落では黒海の植民都市も失い痛手となるもののジェノバ共和国は当初からローマ教皇に忠実で寄り添ってきた歴史がある。西への商路拡大と共に神聖ローマ皇帝カール5世(1500年~1558年)のガレー船を請け負い、スペインと同盟を結び、フッガー(Fugger)家の後継として? ジェノバは 欧州カトリックのメインバンクとして金融業で成功するのである。ジェノバのサン・ジョルジョ銀行(Bank of Saint George)(1148年~1805年)はジェノヴァ共和国の財政を一手に引受けると同時に、カール5世にも融資。クリストファー・コロンブス(1451年~1506年)もここから借り付けしていた。※ 因みにカール5世は神聖ローマ皇帝になる時の選挙資金はフッガー家から借りている。フッガー家の銀行は、新大陸などから大量の銀が流入するとヨーロッパ鉱山の経営が悪化。さらにフェリペ2世 (1527年~1598年)の時に軍事費の借り入れが最大となるが結果戦争に負けてスペイン王室からの債権回収に失敗。三十年戦争(1618年~1648年)が終わると銀行は分割? 現在もフッガー銀行は存在しているが・・。※ フッガー家について書いています。リンク アウグスブルク 5 フッゲライ 1 中世の社会福祉施設リンク アウグスブルク 6 フッゲライ 2 免罪符とフッガー家つまり、ジェノバのサン・ジョルジョ銀行はフッガー家の銀行破綻に乗じてハプスブルグ家に取り入り南米の銀の採掘にも投資。結果、南米の取引はセビーリャからジェノヴァへ移った。17世紀にはオランダ東インド会社やイギリス東インド会社などとも競争するに至るが、スペイン王室の度重なる破産や戦争での敗戦はジェノヴァにも大きな負の影響を与えスペインと共に没落して行く。結果的にはヴェネツィアよりも少し長く生き残ったが・・。法王庁海軍結成と共和国連合艦隊聖地がイスラムの手に落ちてから地中海の海賊は再び活動を始めていた。しかも、15~16世紀のイスラムの海賊はかつてのようなコソドロではなく、ガレー船団数十隻の大船団で襲来するようになっていた。それはもはや海賊の規模ではなく、襲われれば商用船などひとたまりも無い。海上での戦力はガレー船の数で決まるからだ。また、防御の無い港街だったら襲われたら即OUT。ローマ近郊のオスティア(Ostiae)港の防備を固めたのも法王庁自体が襲撃されるかもしれない事を想定したからだろう。イスラム側の海賊の規模が拡大した理由は、その海賊業で功績を挙げた者をイスラムはリクルートして将軍にすると言う暴挙に出たので、海賊らは逆に沸き立ち戦果を競ったからだ。※ オスマン帝国軍は正規軍少数と海賊多勢で連合されていた。ところで、以前、「アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊」の所で中世初期にサラセン(Saracen)の海賊に悩まされた暗黒時代を紹介した。当時、西ローマ帝国が解体されてから軍隊を持たない教皇庁は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)にも見放され本当に危機を感じていたのだろう。当時教皇の意を汲み助けに来てくれたカール王を神聖ローマ皇帝(800年に戴冠)にはしたが、それでは不十分? と15世紀になると海賊からの防衛と言う理由で、ローマ教皇(法王)直属の特別海軍を造ったのだ。とは言え、オスティア(Ostiae)港の防衛の為に当初法王庁が整備した軍船はガレー船1隻のみ。聖年の1500年にローマ教皇(法王)庁が導入した軍船は以下。戦闘用ガレー船(galea)3隻。戦闘用小型ガレー船(fusta))3隻。輸送用大型帆船(galeone)2隻。小型の帆船(brigantino)3隻。小型の快速船(baleniera)1隻。 計12隻。※ 上の資料は塩野七生 氏の「ローマ亡き後の地中海世界」から。公には聖年に集まる巡礼者の保護が目的であり、維持する財源にローマに入る物産に税を掛けたと言う。※ 聖年については「聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂」の中、聖なる扉(Porta Santa)で触れています。リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂当初は聖年を目的としていたが聖年が終わっても海軍は継続された。抑止力があった? と言う事だろう。また、地中海でのイスラムの海賊行為はエスカレート。先に紹介したように、もはやイスラムの海賊はただの小規模なコソドロでは無く、大規模な盗賊集団? 軍隊のようにガレー船団で襲ってきていた。最初はペロポネソス半島やキクラデス諸島あたりの海域を通行する船がオスマン帝国と海賊とに標的にされた。ヴェネツィアは独自の海軍を護衛につけてしのいでいたが、ローマ教皇にキリスト教国による団結を持ちかけたらしい。※ ヴェネツィア共和国とオスマン帝国との間では 1499年からすでに戦闘状態。多勢の海賊相手に、西欧側も団結しかなく、海賊対策は法王庁先導による共和国が連合しての大規模な戦いに展開。それにしても、いくら海賊だからと神に仕える者が軍隊とは? と当然思う。しかし、全ての戦争はローマ教皇(法王)が認めるか否かで正しい戦争かそうでないかが決まるらしい。(・0・。) ほほーっ 1502年に結成されたローマ教皇(法王)による連合軍の軍船は以下。ヴェネツィア共和国から 50隻※ ヴェネツィア共和国海軍の最高司令官 (任期1500年~1503年)はベネデット・ペサロ(Benedetto Pesaro) (1430年~1503年)聖ヨハネ騎士修道会(Knights Hospitallers) 3隻・・当時はロードス島に本拠があった。フランス 4隻ローマ教皇(法王)庁 13隻これらはローマ教皇(法王)庁の司教ヤコボ・ペサロ(Jacopo Pesaro)(1460~?)が教皇の特使として艦隊の指揮をとった。と、されるが・・。50隻の軍船で参戦したヴェネツィア共和国海軍の最高司令官 (1500年~1503年)ベネデット・ペサロ(Benedetto Pesaro) (1430年~1503年)は司教ヤコボ・ペサロの弟? 従兄弟らしい。つまり実質この連合は50隻で参戦したヴェネツィア海軍の司令官がとっていた事になる。それ故、本来はローマ教皇(法王)による連合軍艦隊 VS オスマン帝国軍+海賊 (1499年~1503年)の戦闘なのだが、前半にヴェネツィアが単独参戦している事もあり歴史的にはヴェネツィア共和国 VS オスマントルコ軍として捉えられているようだ。ところで、オスマン帝国軍の方は、大部分が海賊だった。正規の兵士には戦争捕虜の特権を与えたが、海賊の方は即、絞首刑にしたらしい。この戦闘の結果、海賊はヴェネツィア共和国軍をさけ、東地中海から西地中海に狩り場を変えたそうだ。また海賊も船を大型化し、大砲などの火器もたくさん積み込むようになったらしい。この頃のローマ教皇(法王)はメディチ家のレオ10世(Leo X)((1475年~1521年)。彼は現実志向の人物だった。彼は「オスマントルコの戦いと海賊に勝つ為には祈りや説教では無理だと確信していた。我々が彼らからの恐怖や不安から逃れ安らかになる為には、こちらも武装して戦わなければならない。」と、すみやかに動いて法王庁海軍を再建したのである。因みにこの頃の戦闘はまだ、接近戦からの敵船に乗り込み・・の白兵戦。だから風で動く帆船よりは微調整のできるガレー船にならざるおえなかったらしい。また、ガレー船の数が増えれば乗り組み員も増えるのでガレー船の数で勝敗が決したそうだ。オスマン帝国の赤ひげ、バルバロッサ(Barbarossa)との戦いではこのクラスのガレー船が使われた?海洋共和国編はここで終わります。ちょっと中途感があるのですが、疲れて続行中止。が、サン・マルコ寺院の写真もあるし、法王庁海軍と共和国連合艦隊が戦った宿敵、海賊バルバロッサの話しもあるので番外編を造る・・か? 次回の冒頭に繋げるか・・。(^ O ^)/~~ see youBack numberリンク 静物画にみるメッセージリンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海戦アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2021年09月25日
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海洋共和国続編と番外のリンク先をラストに追加しました。※ 教皇庁の聖人の認定について書いているリンク先を聖ベルナールの所に追加しました。が、不完全であったので書き直ししました。リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂コロナ・ウィルスが蔓延を始めた頃、深夜の番組で映画「ヴェニスに死す」が放映された。トーマス・マン(Thomas Mann)(1875年~1955年)の小説「ヴェニスに死す(Death in Venice) 」(1912年発表)。それを原作に映画化(1971年公開)したのがルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)(1906年~1976年)監督。小説での主人公は作家である。トーマスマンの友人であった作曲家のグスタフ・マーラー(Gustav Mahler)(1860年~1911年)をモデルに描いたとされるが実際の所はトーマスマン自身が出会ったポーランドの美少年をモデルに描いた作品らしい。ヴィスコンティは映画にするにあたり、主人公を老作曲家にし、映画の音楽にグスタフ・マーラーを敢えて起用している。※ 敢えて? 主人公グスタフ・フォン・アッシェンバッハ (Gustav von Aschenbach)の姿もマーラーに寄せている。「主人公のおじ様(アッシェンバッハ)が美少年(タージオ)に恋をして、その地を離れられず疫病にかかり命を落とす。」簡単に言うとそんなストーリーなのだが、叙情的で感慨深い作品であった。小説も映画も高校生の頃に読んだし観た。※ 高校生の時、試験終りはいつも吉祥寺でマック片手に2本だての安い映画を見てから帰るのが恒例だった。学生服で平気で入ってたからねだからヴェネツィアに行った時、映画のロケ地となったリド島のホテル・ドュヴァンに宿泊できた時はとても嬉しかった。(4泊した)そのリド島はヴェネツィアの島の一つではあるが、昔から欧州貴族のリゾート地であっただけに一般的なヴェネツィア感は全く無い静かで綺麗なハイソな島であった。時は9月、映画祭が行われている時でホテル・エクセシオール(Hotel Excelsior)は賑わっていたが隣接するホテル・ドュヴァン・リド(Hotel Du Vin Lido)は静寂に満ちていた。すでに海水浴シーズンも終わり? 映画のラストで主人公アッシェンバッハが息を引き取った海辺のハウスはまだ連なっていたし、美しいタジオが立っていた回廊のテラス。十分映画の世界を堪能(たんのう)させてもらった。それこそが私の旅行の醍醐味だったかも・・。※ ホテル・ドュ ヴァン・リド(Hotel Du Vin Lido)は今は無くなってしまったらしい。おそらくエクセシオール(Hotel Excelsior)に吸収されたのだろう。ところでヴェネツィアの街は車が入れ無いのでホテルなど個人旅行では特に利便を考え無ければならない。石畳の上をスーツケースは引きずれない。たいていのホテルは運河が玄関口になっている。※ まれではあるが、スーツケースを運河に落とされる事もあるらしい。※ ツアーの場合日帰りが多い。宿泊すると高いから、ましてヴェネツィア内部に宿泊するツアーは実は少ない。リド島は干潟を埋め立てたヴェネツィアの街よりも歴史は古い。サンマルコ広場から乗合船もあるが、ホテル専用のボートで10分。実際、リド島へはマルコ・ポーロ国際空港からホテル専用ボートで入った(有料)。ホテルは外海側なので島の運河を抜けて専用船はエクセシオールの庭に到着するのだが、空港からリド島までの海の道が圧巻である。広大な海のようではあるがところどころ浅瀬があるらしい。だからヴェネツィアの海は航路の杭が打たれていて船はその杭に沿って走る。つまり通行する船の海路が定められているのだ。地上の道路のように・・。全てが日常と違うので訪問のしがいはあるが、映画でわかるようにヴェネツィアは度々ペストなどに襲われている。ある種閉鎖された街は一度病気が発生すれば感染の広まりは早い。今回のようなパンデミックでは尚更だ。完全終息するまで行けないですね。さて、今回は前回に引き続き「海洋共和国」Part2で、予定通りヴェネツィア(Venezia)編です。ヴェネツィアもイタリアを代表する4つの海洋都市国家の一つ。しかも長く繁栄を続けたエースです。前回ジェノバの紹介はざっとしましたが、ヴェネツィアの商売の仕方はジェノバとはかなり違っていました。ヴェネツィアは国の結束が強くシステムが早くに構築されていた事が大きいかも。敵国とも同盟を結び交易を続ける。恐い物なしのヴェネツィアの挑戦は経済力と海軍力があったからだ。そして15世紀~16世紀に繁栄のピークを見せる。地中海の海賊は以前より増して問題であったが、共に海軍力に秀でていたジェノバとヴェネツィア。他の共和国とは全く違う両者。しかも海運へのアプローチも全く異なるのに両者は長く生き残った。ジェノバとヴェネツィアの違いは何であったのか? 尚、ヴェネツィア、写真がたくさんあり中身もあるので次回も写真はヴェネツィア(Venezia)となります。行った事のない人にもヴェネツィアが解る写真のセレクトになっています。諸々(もろもろ)こだわったので組みたてに迷走しました。結局「海洋共和国」編、3部作となります。「海洋共和国」Part2 「ヴェネツィア(Venezia)」「海洋共和国」Part3 「法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊」(仮題)アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)ヴェネツィア(Venezia)と東ローマ(ビザンツ)帝国キリスト教国の逆襲、十字軍(crusade) そもそも十字軍の公式部隊とは何か? 果てしなく遠い聖地 十字軍効果の経済 第2回目の十字軍(second Crusade)ヴェネツィア(Venezia)の街ヴェネツィア(Venezia)の成り立ち海との結婚とブチェンタウロ(Bucintoroto) 海の税関ドガーナ・ダ・マーレ(Dogana da Mar)ヴェネツィアのパノラマヴェネツィア(Venezia)と東ローマ(ビザンツ)帝国前回ジェノバが第1回目の十字軍遠征(First Crusade)の時に大きく貢献してローマ教皇やエルサレム王国に恩を売り利権を得た事は紹介。実はヴェネツィアも東ローマ(ビザンツ)帝国との間に同じような事情があったらしい。以前「モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人」の所で「イタリア半島を南下したノルマンの一派数十人がイスラム教徒に戦いを挑み南イタリアとシチリア島の奪還に成功している。」と紹介した事があるが、彼らノルマン人(Norman)はさらにその勢力を伸ばしコンスタンティノポリスにまで及ぼうとしていたらしい。リンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人それを脅威に思った東ローマ(ビザンツ)帝国の皇帝の依頼でヴェネツィアが帝都とアドリア海の防衛をまかされ活躍している(First Crusade以前)。※ 1080年~1085年、アドリア海上でルマン人と海戦もしている。これによりヴェネツィアはエーゲ海や地中海の港での税の免除と言う特権が東ローマ(ビザンツ)帝国より与えられ、また帝都コンスタンティノポリスの一等地に居住地をもらい店や倉庫、専用の港も与えられ、アマルフィよりも優位な待遇を受ける事になる。ヴェネツィアはこの時点でエジプトとの貿易も拡大している。(First Crusade以前) ところで、 First Crusade(1096年~1099年)へのヴェネツィアの参戦は1099年の陥落後らしい。いろいろ戦略あっての事? いや、そもそも東ローマ(ビザンツ)帝国側は、ローマ教皇率いる神聖ローマ帝国側がまさかエルサレムを襲撃するとは考えていなかったからだろう。当初、東ローマ(ビザンツ)帝国皇帝アレクシウス2世が望んだのは、1071年の戦いでセルジューク朝トルコに奪われた土地を取り返す為に軍隊の派遣を要請しただけだったからだ。それ故、「何でこんな事に?」西側の行為に彼らは非常に横転したのである。ヴェネツィアが出遅れた理由はまさにそこだったと思われる。それでも開戦してしまった以上のらなければ損。エルサレ王ボードゥアン1世(Baudouin I)(1065年頃~1118年)に相当の恩を売ったのではないか? と思われる。ジェノバより遅れたが同じウトラメールの諸港への利権を与えられているからだ。まさに「我が世の春」的なヴェネツィアの快進撃がこれより始まる。それもこれも東ローマ(ビザンツ)帝国との蜜月があっての事。だから1202年の第4回十字軍(4th Crusade)? の時のヴェネツィアの蛮行は青天の霹靂(せいてんのへきれき)である。 (*꒪⌓꒪)唖然ヴェネツィアは十字軍と共に東ローマ(ビザンツ)帝国に侵攻して1204年、コンスタンティノポリスを陥落。 自らラテン帝国を樹立する。ヴェネツィアの狙いは当初から東方の富を象徴する都の航路と貿易でありマルマラ海(Marmara Sea)の制海権は元よりエーゲ海(Aegean Sea)や黒海(Black Sea)の制海権全てを握る事に成功した。※ スペインのナバール人の訪問者の記録であるが12世紀中葉のコンスタンティノポリスを以下に評している。陸路と海路で世界が繋がった国際都市で、寺院には金と銀の柱が建ち並び壁は純金の装飾がされ貴石で飾られたランプがともされている。ここのギリシャ人は恐ろしく金持ちで黄金と貴石を財産とし、金糸や貴重な物で飾られた絹の衣服をまとっている。因みにマルコ・ポーロ(Marco Polo)(1254年~1324年)はこの都市にしばらく滞在してから東洋を陸路めざした。私が気になったのは、ギリシャ人の件。やはり東ローマ(ビザンツ)帝国は完全にギリシャの帝国に変わっていたのだと言う事。もはや東ローマの冠はいらないが、経緯的に今後も載せておきます。ヴェネツィア(Venezia) 大運河・キャナル・グランデ(Canal Grande) 入り口大運河全長3.8km。川幅30m~70m。サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂 (Basilica di Santa Maria della Salute) 左岸ヴェネツィア(Venezia)は度々ペストに襲われた。そのたびに教会が新設されてきた。このサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂 もその一つ。1629年夏から始まったペスト終息の為に1630年に教会の建設を決定。聖母マリアに献堂されている。ペストは症状が進行すると敗血症で皮膚が出血斑で黒ずむ事から黒死病(Black Death)と呼ばれた。しかし、以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の中、「ユスティニアヌスの黒死病」の所で、中世の黒死病はペスト菌ではなく出血熱ウイルスによるものではないか? と言う論文について書いている。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック12~18世紀に建てられた貴族の邸宅。パラッツォ(Palazzo)が並ぶ。200軒くらいあるらしい。ロマネスク、ビザンチン、ゴシック、新古典までそろっている。ライトアップされているのはHotel Bauer Palazzo。ホテルやレストランとなっている場合もあるが、今も個人の所有のパラッツォが結構あるらしい。とは言えヴェネツィア内部に住めるのはかなりの高所得者らしい。下はリアルト橋(Ponte di Rialto)からの撮影この時間になれば観光用のゴンドラは店じまい。水上バスのヴァポレット(Vaporetto)がこの街の足。これでも唯一の公共の交通機関。現在はディーゼルらしいが初期は蒸気船。この町の歴史は古いからね。※ 水上タンシーはあります。空港前にもいるのでタクシーでヴェネツィア入リするのはお勧めです。夜のリアルト橋(Ponte di Rialto)大運河・キャナル・グランデ(Canal Grande) には4つの橋がかかっていて、16世紀半ばに建設された最古の橋がこのリアルト橋(Ponte di Rialto)。長さ48m、幅22m、高さ7.5m。橋の上には商店が並ぶ。前回ラストにレガッタ・ストーリカ(Regata Storica)の写真を載せたが、パレードのメインはこのリアルト橋。橋の上に人が集まりすぎてかつての橋は何度も崩落。1557年、コンペが開かれ1588年~1591年に現在の石の橋が建造された。アントニオ・ダ・ポンテ(Antonio da Ponte)(1512 年~1597年)の設計で決まったが、このコンペにミケランジェロ(Michelangelo)(1475年~1564年)も参加していたらしい。位置情報の為に地図を載せました。リアルト橋(Ponte di Rialto)は、ほぼヴェネツィアの街の中心にあります。なぜなら、海抜が比較的高く水害が少ないと言う理由でリアルト橋界隈を中心にこの町は発展したからです。この界隈は商業の中心地となり、交易品は陸からも海からも運ばれてこのあたりの倉庫に保管された。銀行や商品取引所の他、近くに陸の税関ドガーナ・ダ・テッラ(Dogana di terra )も置かれていた。先にも少し触れたが、「東方見聞録」を書いたマルコ・ポーロ(Marco Polo)(1254年~1324年)の船もここから出発したと言う。元々、彼の父親はヴェネツイアで中東貿易に従事する商人。息子を連れここからコンスタンティノポリスへの船が出た。キリスト教国の逆襲、十字軍(crusade)ラテン語: cruciata、仏語:croisade、英語: crusade ※ 十字軍に参加していた者はフランス人が多く彼ら十字軍国家が公用語にしていたのがフランス語。第一次十字軍(The First Crusade)1096年~1099年。聖地エルサレム奪還の為の西欧の軍隊の出動。ジェノバは自国の売りであるガレー船で向かったが、First Crusadeの場合、陸路でエルサレムを目指した部隊の方が大多数である。※ コンスタンティノポリスまで内陸の北方ルートでは3.5~4ヶ月。南方の船を含むルートでは7~8ヶ月かかっている。公式部隊は、1096年8月から順次故郷を出発。有力諸侯はパリからルイ王の弟、ロレーヌからはロレーヌ侯、プロバンスからはレイモン伯、ノルマンディーからロベール公など。さらにイタリアのノルマン人らが参加。道中は盗賊もいたし、イスラムの侵略地もあり、彼らは戦いながら前進。コンスタンティノポリスに全ての隊が集結したのは翌年1097年1~5月頃。※ その先はさらにかかっている。そもそも十字軍の公式部隊とは何か?ローマ教皇は西ヨーロッパのキリスト教圏の諸侯全体に聖地奪還の為の部隊を出してほしいとお願いをした。※ 本来の東ローマ(ビザンツ)帝国皇帝のお願いはそんな話しではなかったのだが・・。教皇が望んだ戦士は、まず大国の王による正式な戦士による部隊である。王が参加できない場合は、代理となる近しい臣下や騎士を伴う諸侯による軍隊を指していた。そう言う者らは教皇に「私が行きます。」と正式な書状が出されているはず。つまり正式にローマ教会からの発令と受理があったか? がポイントだろう。むろん諸侯が地元の者を戦士として募って正式に領主から参加許可が出された者はましな方。First Crusadeではおよそ騎士4200人~4500人。歩兵3万人とされるが、実際は、貧しさ故にどさくさで土地を離れたい者らが行列の後ろにまじっていた? 戦士になるどころかお荷物の者のが多い部隊もあったので彼らを守る為に隊の進軍は遅れていく。本末転倒。実際の戦力は1/6程度?※ 戦士以外に調理人や聖職者なども隊にはいた。最初から戦力外は当然いたが・・。いらない者が付きすぎて足手まといだったのが真実。実際聖地まで辿りついたのは数%だったと言う。本来は免罪のキップを手にする為の参加ではなかったか? たいていの者は一攫千金をねらって部隊に入った? それは彼ら諸侯らも同じだった。彼ら諸侯がこれから樹立するウトラメール(十字軍国家)の主になるのだから・・。※ 少年十字軍。自発的に十字軍に参加したいと、大人に騙(だま)され人買いに売られてしまったのもいた。果てしなく遠い聖地陸路で中東のエルサレムを目指す。今、地図で見てもそれは容易な距離ではない。国によってはなおさらだ。ほとんどの者はそれがどこにあるかさえ知らなかったであろうし、簡単に行って帰ってこれると参加した者のが多かったろう。当然だが、陸路組はその道が過酷で命を落とす者の方が多かったのだ。そんな中でも初心を忘れずに真に信仰の元に動いたのがロレーヌ出身のゴドフロワ・ド・ブイヨン(Godefroy de Bouillon)らである。彼は聖地を取り戻す為に前進しようと皆を鼓舞したが、有力な騎士である仲閒は自分が獲得した土地を守る為に聖地へ行くのをこばんでいる。だから聖地に近づくにつれて隊の人数は減って行くのである。First Crusadeでは聖地に至るまでのがとても難しかったのだ。だから聖地近くから突然船で参戦したジェノバは、精神的には楽勝であったはず。しかし、先に書いたが海ルートで7~8ヶ月。ガレー船は風まかせと基本手こぎだしね。十字軍効果の経済ジェノバは十字軍の騎士らが建国した4つの植民都市。ウトラメール(Outremer)の主要港に接岸する権利と同時に商取引の権利を得ていく。※ またこれから陥落させて増える十字軍の港もそれにあたる。もともと農作物の採れる場所ではないので、食糧は、ほぼほぼ西欧からの輸入に頼るしかなかったので彼ら商人は4つの王国に食糧他、生活物資も当然運んだが、武器、武具だって大量に運んだ。船の納品だってあったはず。商機はいくらでも転がっていた。今後は聖地詣でをする巡礼者らを大量に運んで行く事にもなる。ところで、First Crusadeで活躍した戦士のほとんどは任務を終え、故郷に帰ってしまった。後続の軍隊や巡礼者のほとんどは、十字軍らが切り開いたパレスチナの港へ船で到着するようになるのだが、パレスチナへ接岸する航路をもっていたのはジェノバやヴェネツィアの他、ピサ、アマルフィ、アンコーナなどの一部 海洋共和国である。だから聖地に向かう戦士や巡礼者はまず、欧州でそれらの国の港をめざしたのである。本国の共和国の街は人が増えてどこも経済は大きく動いたはず。だが、ヴェネツィアはこの時すでにもっと先の商売に目をむけていた? 軍事特需の向こうに東洋を見ていた? ヴェネツィアは商売に対して純粋に貪欲だったのかもしれない。船賃も恐ろしく高額であったろうと思うが、巡礼者の数は以外に多かったのだろうと想像する。今もそうであるが、巡礼者をあなどってはいけない。信仰の為なら命もお金も惜しくはなかった人達だ。11世紀に海洋共和国の経済が好景気を迎えたのも道理である。大量の民族の移動が起きていたのだから・・。それにテンプル騎士団は彼ら巡礼者を守る為のボランティアから誕生している。リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)第2回目の十字軍(second Crusade)1144年12月、最初に得た最も大きいエデッサ伯領の陥落を受けたからだ。キリスト教国は激しく同様。当然そこにはローマ教皇の要請が再び出たであろう。が、それよりもインパクトがあったのがクレルヴォーの修道士ベルナール(Bernardus)(1090年~1153年)による「再度聖地へ」と言う十字軍勧誘の演説が各地で行われた事だ。※ シトー会出身のベルナールは後に聖人認定されて聖ベルナールとなる。また彼はテンプル騎士団設立に強く貢献している。テンプル騎士の白装束はシトー会の衣なのである。※ 教皇庁の聖人の認定について書いています。リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂福者については「ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)」で列福者を紹介しています。リンク ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)この歴史的にも有名な演説効果は大きく、実際ものすごい数の戦士も集まったが、肝心のsecond Crusade自体はことごとく途中の経路で失敗して終わっている。当然であるが、負け戦が始まり、聖地から十字軍兵士等が追い出されれば、聖地での需要は減る。共和国側の特需も激減して行く事になる。ヴェネツィア(Venezia)の街大運河(キャナル・グランデ)入り口 右岸 サンマルコ広場側ここが共和国時代のヴェネツィアの表玄関である。左 サンマルコの 鐘楼(Campanile di San Marco) 右 ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)下 ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)の後方に連なっているのがサン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco) 見えているのは堂の右側面上下共にドゥカーレ宮殿の回廊からヴェネツィア生まれの景観画家 カナレット(Canaletto)(1697年~1768年)Piazza San Marco verso la Basilica 1735年※ 海は尖塔の右方面。尖塔の後方にドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)が見切れている。広場前にはエジプト産の花崗岩の円柱が立ち、その上にはヴェネツィアの守護聖人が乗っている広場の名前にもなっているサンマルコ(Piazza San Marco)とはこの街の守護聖人、福音記者マルコ(San Marco Evangelista)であり、円柱の上にのっている有翼の獅子は聖マルコのアトリビュート(attribute)。すなわち象徴である。これを持ってヴェネツィアの街は聖マルコの加護の元にあると言う事を示している。聖マルコはキリスト教の四人の福音記者(聖書を記した人)の1人。828年、ヴェネツィア商人によってアレクサンドリアから聖マルコの聖遺物がヴェネツィアに運ばれ祀られる事になったと伝えられている。重さ3トン。長さ3m。かつては金色にペイントされていた。「有翼の金のライオン」がヴェネツィアをシンボリックに現す意匠となり、前回紹介したイタリア海軍旗などヴェネツィア共和国にかかわる所には絵なり、彫像なりが残されている。足下には福音書(Evangelium)。ヴェネツィアの最初の守護聖人であったアマセアの聖セオドア(Theodore of Amasea)踏みつけているのはドラゴンらしい。当時は海からしかアプローチできなかったので、サンマルコ広場の円柱は海からの玄関となる門柱として造られた。しかし、中世に門柱間に公開処刑の台が置かれた事からヴェネツィアの人々からは縁起の悪い場所となってしまったらしい。海からの写真が無いので広場側からサン・ジョルジョ・マッジョーレ (San Giorgio Maggiore)島島はほぼサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂(Basilica di San Giorgio Maggiore)となっている。790年頃に最初の教会の建設が始まり、982年に島全体がベネディクト会に与えられ、修道院となっていたが1223年の地震で倒壊。新しい教会は1610年に完成。下はウィキメディアからかりました。鐘楼の上からの眺望です。奧に見える集落はジュデッカ (Giudecca)島です。修道院建築ですね。他の教会が派手なのと異なり、長らくベネデイクト会であるだけに地味らしい。ヴェネツィアはとにかく教会が多い。そしてたいていの教会には名画がかけられていたりする。ヴェネツィア派と呼ばれる著名な画家が多くこの街から誕生しているからね。こちらにはルネサンス期のヴェネツィア派を代表する画家の1人、ティントレット(Tintoretto)(1518年~1594年)「最後の晩餐」,「マナの天降」があるそうだ。昔見に行ってると思うが記憶にないな。ヴェネツィア(Venezia)の成り立ちヴェネツィア(Venezia)はアドリア海の北に位置するヴェネタ潟(Laguna Veneta)と呼ばれる潟(かた)の中にある。アルプス山脈を分水嶺としてロンバルディア平原を通りアドリア海に注ぐポー川(Po River)が土砂を運びデルタ(Delta)を形成。それは潮流とぶつかり徐々に潟(かた)が形成。最後の氷河期が終わった6000年ほど前から水位が上がり閉じられた要塞のような潟(かた)を形成した。こうしたデルタの潟(かた)はどこの都市にもあった。通常なら潟(かた)自体を埋め立ててしまうものだが、ヴェネツィアでは歴史がそれを許さなかった?水の都と呼ばれるヴェネツィアの街を維持する事に努力がされてきたようだ。それは最盛期のヴェネツィアの繁栄に欠かせない要素であったと同時にその栄光の歴史を留めておきたかったからだろう。※ 現在は観光と言う目的が一番だろうが・・。ヴェネタ潟の衛星画像 ウィキメディアからかりました。潟(かた)の中に点在する島々。118の小さな島々からなっている。本土から4km。海から2kmの潟(かた)の島? 標高わずか2mのヴェネツィア(Venezia)の街がある。それは一応ヴェネト州(Veneto)の州都となっている。下のピンクがヴェネツィア(Venezia)の街と呼ばれる部分。ヴェネツィア(Venezia)の街は100の島、100を越える運河。400を越える橋でつなぎ止められてできている。それも、そもそもはわずかな砂州に丸太の杭を打って底上げしてできた張りぼての土台だ。位置的には西ローマ帝国の領域。ローマ時代には潟(かた)の近くにはローマ人の集落がありローマ貴族のヴィラ(別荘)が華麗に連なっていたと言う。※ 実際ラグーナ(トルチェッロ島近くの水中)から古代ローマ時代のヴィラの遺跡が発見されている。ローマ時代は今よりも水位も低かったらしい。ゲルマン民族の諸部族のローマ侵略が始まると、ここはローマ市民の避難所となって行ったと言う。476年、西ローマ帝国が解体されここは東ローマ(ビザンツ)帝国の属州扱いになっていた?568年頃、ローマ帝国自体の力が衰えはじめるとスカンディナヴィア半島を源郷とするゲルマン人のロンゴバルド(Longobardi)らが南下しヴェネツィア自体の侵略が始まる。※ ロンゴバルド(Longobardi)は、インド・ヨーロッパ語族(Indo‐European languages)ゲルマン語派(Germanic languages)の民族。いわゆる「蛮族」と呼ばれた人達です。元の住人であるローマ人? らは侵略者からのがれるべく潟(かた)や中の島に逃げた。ラグーナまで侵略される事はなかったので、彼らは先のように丸太で基礎を造り石灰でかためレンガを積み上げてそのままそこに住みついた。それはまるで海鳥の巣のようだったらしい。車内からの写真なので綺麗ではありませんが潟(かた)の一部です。こんな所に丸太で基礎を打ったのでしょう。トルチェッロ島 (Torcello)は潟(かた)の中でも人が定着した島としては最も古く当初は10世帯程。5世紀~6世紀頃から人口増加し、639年、アルティーノ(Altino)の司教がトルチェッロ島 (Torcello)に司教座聖堂を建立する頃は相当人口は増えていたらしい。人々の多くは漁と塩焼きをし、やがて塩の交易で成功を見せる。東ローマ(ビザンツ)帝国からは自治が認められ彼らは東ローマ(ビザンツ)帝国とのつながりをより強化して安全を計ると共に697年にはラグーナに分散していた彼らは自分達の代表として総督(ドージェ)を選出。その公邸を中核として自治機構を構築し共和国の基礎を造るに至った。811年頃、フランク族のカール王が進軍してきたが、彼らはそれを押さえた。しかし、それをきっかけに安全で新しい政治の中心となる都の必要性が生じラグーナの中に新たに街を建設。それが現在のヴェネツイア(Venezia)の街である。デフォルメされた地図ですが、解り易いかと・・。ピンクで囲ったのがサンマルコ寺院とドージェ宮のある中心地です。海との結婚で指輪を投げたのが紫で囲った海域と思われる。下はヴァチカン美術館から 中世のヴェネツィアを描いた図です。高台など無いのにこの鳥瞰図(ちょうかんず)ヴェネツィア生まれの景観画家 カナレット(Canaletto)(1697年~1768年)The Entrance to the Grand Canal, Venice 1730年上下共にカナレット(Canaletto)で、ウィキメディアからかりました。最初の一枚。大運河(キャナル・グランデ)入り口と同じ場所です。左が税関ですね。Return of the Bucintoroto the Molo on Ascension Day 1729~32年波止場(molo)に戻る共和国元首(Doge)が乗った御座船(Bucintoroto)とタイトルされているが、これはまさにヴェネツィアと海との結婚の儀式を終えて元首と船がドゥカーレ宮殿に戻ってきた図である。海との結婚とブチェンタウロ(Bucintoroto) 復活祭から40日後の木曜日、それはキリストの昇天日(Ascension Day),ヴェネト語で(Sensa)。共和国時代、毎年行われていた儀式がある。ヴェネツィアの繁栄はまさに海との賜(たまもの)。ヴェネツィアはアドリア海に指輪を投げ込み結婚をとりおこなった。ドゥカーレ宮殿前の波止場(molo)から共和国の元首(Doge)が乗ったブチェンタウロ(Bucintoroto)と呼ばれる特別の御座船が潟(かた)の出口を目指す。アドリア海との合流点がその場所だ。潟(かた)に住むヴェネツィア人にとって、潟(かた)は要塞そのもの。要塞の出口がまさにアドリア海へのゲートだからだ。※ 先に紹介したデフォルメの地図に場所示しました。ヴェネツィア共和国の元首が、海に金の指輪を投げ入れる。それは最初(1117年)教皇からヴェネツィアへの感謝として与えた指輪が発端らしい。ヴェネツィアはその指輪を自分のものとせず、海に与えたのだ。後にそれが海との結婚に変化していったらしい。「海よ、我は汝と結婚せり。真に、永遠に、汝が我がものであるように。」アドリア海が夫、花嫁はヴェネツィアの街自身。だからヴェネツィアはアドリア海の花嫁と呼ばれて来たのだ。アドリア海に敬意を表しつつ アドリア海と永遠に共生したいと願ったのだろう。センサの祭り(Festa della Sensa)と呼ばれるのは近年の事かと思われる。絵画のタイトルにそのような記述は付いていないので。ブチェンタウロ(Bucintoroto)と言う元首の船は金の装飾のついた特別仕様のガレー船である。過去に4隻建造されているらしい。元も豪華だったのが、1729年に処女航海に出たブチェンタウロ(Bucintoroto)で長さ34.80 mの喫水線船体。高さは7.31 m。40人以上の乗員に168人の漕ぎ手を必要としたと言う。※ 上のカナレットの絵画の製作年代から、画中の船がそれと思われる。これもまたヴェネツィア共和国を象徴するものらしく、ナポレオンの侵攻、そしてイタリア王国の樹立にあたって、最後のブチェンタウロ(Bucintoroto)は1798年に燃やされた。ヴェネツィア共和国の完全なる終焉だ。※ 2004年ブチェンタウロ財団が設立され2000万ユーロで1729年のブチェンタウロの再建がはじまったらしいが、資金不足で2016年9月中止されている。サンマルコ広場前の波止場(molo)からサン・ジョルジュ・マジョーレ(San Giorgio Maggiore)島とジュデッカ(Giudecca)島右が大運河(キャナル・グランデ)入り口大運河(Grand Canals)(手前)とドルソドゥーロ(Dorsoduro) 地区奧にジュデッカ運河(Giudecca Canals)とジュデッカ(Giudecca)島下 ジュデッカ(Giudecca)島ジュデッカ(Giudecca)島の奧左 サン・クレメンテ島(San Clemente)右 サッカ・セッソラ・ラグーナ(Sacca Sessola Laguna)海の税関ドガーナ・ダ・マーレ(Dogana da Mar)大運河(Grand Canals)(手前)とジュデッカ運河(Giudecca Canals)の間、ドルソドゥーロ(Dorsoduro) 地区の端にあるのがプンタ・デラ・ドガーナ(Punta della Dogana)。隣接するのがサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂大運河入リ口。サンマルコ広場前のこの場所は税関であり船の検問所があった場所。船舶は、サンマルコ前の海に錨を下ろし、海からの来訪者はここで検閲をまった。つまりここは海の税関ドガーナ・ダ・マーレ(Dogana da Mar)があった場所。実はこの場所はヴェネツィア初期に塩の倉庫があった場所。ヴェネツィアは塩の生成と販売で、当初成り上がった街。繁栄期のヴェネツィアでは需要の多さから、15世紀に海からの入国と陸からの入国で税関をわけている。陸の税関ドガーナ・ダ・テッラ(Dogana di terra )はリアルト橋近くのワイン河岸に置かれていた。1677年に行われたコンペにより1678年~1682年の間に新たな税関としてジュゼッペ・ベノーニ(Giuseppe Benoni)(1618年~1684年) のデザインで建築された。ジュゼッペ・ベノーニはバロック時代のイタリアの建築家。2006年に安藤忠雄 氏によりリノベーションがされている。2009年からフランスの実業家 フランソワ・アンリ・ピノー(François-Henri Pinault)(1962年~ ) 氏のプライベート・コレクションの美術館になっているようです。黄金の天球を支えるアトラス(Atlas)とその上に乗るのは運命の女神像。それ自体が風見鶏(Weathercock )となっている。スイス、イタリアの彫刻家バーナード・ファルコーニ(Bernardo Falconi)(1630年~1697年)製作。ヴェネツィアのパノラマ撮影はサンマルコ広場にあるヴェネツィアで一番高い鐘楼から360度パノラマで・・鐘楼に上るのに行列です。夏場は特に・・。下のサンマルコ広場中央にあるのが鐘楼です。美術館見学や土産を買いたい人、ゴンドラに乗りた人には時間無いかも。ヴェネツィアに来たら、確かにこれで街は一望出来るけど、美術館に行かないのは損です。ヴェネツィアはティッィアーノなどヴェネツィア派と言うジャンルがあるくらい絵画が秀逸です。ここでしか見られ無い持ち出しのできない大きな絵画もありアカデミア美術館は絶対必須です。島ではなく、潟(かた)の上の浮島のような街です。これら建物のあいだには無数に小さな運河が路地を形成しています写真下はドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)に隣接(接続)して海より奥側にサン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco) がある。サン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco) 内容については次回に・・。上の写真はサンマルコ広場(Piazza San Marco) からの撮影。下の写真では寺院は右下で見切れている。行政館にはさまれた15世紀に造られたヴェネツィアの時計塔。この時計塔は海の都ヴェネツィアにとって意味のある時計。これも説明は次回に。下は時計塔の尖塔部写真向こうの陸がイタリア本土です。ヴェネツィアの街と本土(メストレ地区)とを結んでいるのがリベルタ橋(Ponte della Libertà)。鉄道橋と併走しています。下はウィキメディアから借りてきたリベルタ橋(Ponte della Libertà)の写真です。全長3850m。ツアーではバスでこの橋を渡り、渡ったすぐ右の波止場? トロンケット・マーケット(Tronchetto Mercato)で船に乗り換えるそうです。サンマルコ広場(Piazza San Marco)一周です海洋共和国ついでにヴェネツィア観光も含めました。けっこう盛り沢山です。なかなかこのご時世、当分海外旅行など行けそうにありません。いつか行く時の参考にしてください。次回も続きますが・・。ところで、数日前にワクチンを打ちました。1回目なのに腫れて熱持って痛いし・・。翌日も翌々日も薬を飲み、集中力が保てず遅れた事申しわけありません。m(。-_-。)mス・スイマセーン2回目恐いな ブンッ!!(((>_<。≡。>_<)))ブンッ!! Back numberリンク 静物画にみるメッセージリンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂 アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2021年07月17日
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back numberを追加しました。久しぶりに「アジアと欧州を結ぶ交易路」に戻ってきました。いよいよ本格的な交易に突入です。暗黒の中世で停滞した地中海での交易が復活の兆しを見せ始めた。と言うのが今回(前編)です。地中海の海運状況が活性化し出すと共にキリスト教徒の逆襲が始まるのです。そのイントロに気候の話しを入れました。「モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人」の所で「インド・ヨーロッパ語族」の民族移動についてすでに紹介している。リンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人4世紀以降にローマ帝国の国境は異民族の流入により動乱。また、以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の所でも「テオドシウス1世の治世376年にゲルマン民族の移動が顕著になる。4世紀~8世紀、ローマ帝国領を含む欧州全域が東や北からの民族の 流入? で荒れるのである。気候変動、疫病の蔓延、人口の増加? 食糧難?」とも書いているのだが・・。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック近年、気候科学者と考古学者により、年輪による降雨と気温の測定から過去2500年間のヨーロッパの夏の気候が再構築されている。それによれば「ローマ時代、気候は主に湿度が高く暖かく、比較的安定。」していたそうだ。だが、ヨーロッパが寒くなり始めた頃、西ローマ帝国も衰退を始めていると言う。顕著な気候変動は300年程続いているそうで、どうも欧州の社会情勢の不安に比例しているようだ。リンク Climatic fluctuations in last 2,500 years linked to social upheavals寒さは飢餓誘発もしている? また気候変動が病気を蔓延させた? そもそも気候も現代以上に昔は極端だったらしい。データでは気候変動と歴史的事象に何らかの影響があるらしい事は解るが、原因と結果に関して即断はできないとしている。人が係わっているので歴史は単純ではないからだろう。もう一つ、気候科学者による研究で6600万年に遡る地球における気候変化がまとめられている。リンク High-fidelity record of Earth's climate history puts current changes in contextこちらでは、4つの特徴的な気候状態を示しながら古代北ヨーロッパでは北大西洋循環の減速により気候の激変をもたらしたらしい事もわかったそうだ。※ メキシコ湾から北上する暖流の影響か?もしかしたら? それが民族の大移動に影響を与えたのかも知れない。こちらの記事は個人的に非常に興味がわいた。気候データは深海盆地から高品質の堆積物コアを回収し、その中にいる微細なプランクトンの殻から読み取ったらしいが、そもそも起こる気候変動の原因は何にによるものか? も示されている。地球における気候変動は地球軌道の離心率に起因して起こる変動だったようだ。軌道変動とは・・地球が大陽の衛星として周回する時の描く軌道。地球自体の地軸(回転軸)の歳差運動と傾き。により起こる変動。軌道の離心率(orbital eccentricity)天体の軌道のパラメータ。軌道離心率は、この形がどれだけ円から離れているかを表す値円 e = 0楕円 0 < e < 1放物線 e = 1双曲線 e > 1※ 地球の軌道離心率は惑星間重力の相互作用により、長年の間にほぼ0から約0.05までの間を振れていて現在は約0.0167。国際協力によるデータ解析では、気候は太陽の周りの地球の軌道の変化に対応するリズミカルな変化を示していたそうだ。※ 地軸の傾きは21.5度~24.5度の間を定期的に変化。その周期は4.1万年。現在は23.4度。傾きが大きいほど季節差が大きくなると言う。地球が真円でなく、楕円で軌道をとっている事は知っていたが、そのわずかなブレが地球そのものの気候を大きく揺るがしていたと言う事実に改めて驚く。※ 3400万年(始新世時代)以前、世界の平均気温は現在より摂氏9度から14度も高かったと言うが2300年にはさらに地球が過去5000万年で見たことのない気温のレベルに引き上がるシナリオらしい。それらを鑑(かんが)みると、ローマ帝国の衰退がパンデミックと地震に加えて、新たに気候の低下があげられたのではないか? と言う推察も加わる。北海及び地中海でも起きていた蛮族の海賊行為。これは人口増加ではなく、地球のかなり広範囲に気象の問題による食糧不足が起きていたのではないか? と新たな考えに及ぶ。それ故、地球規模での民族の大移動が起きた? と、考察もできる。ふと、アゲハの幼虫の事を思い出した。以前ベランダのレモンの木にアゲハの幼虫が大量に発生しレモンの葉が枯渇した事がある。その瞬間、幼虫達は同時に木を飛び降りて放射状に散った。そのレモンの木に見切りをつけて次の木を探す為の行動は信じられ無いほど早かったのだ。※ それにしても、どうして彼らは同時に最後の葉が無くなった瞬間を知ったのだろう? と、疑問が・・。因みに、諦めた者はまだ小さいのに変態を始めた。※ 保護した大多数の幼虫は庭に山椒の木がある友人に引き取ってもらいました。話しを戻すと、北欧にいたゲルマン人らの移動は、そんな切羽詰まった危機的状況であったのかもしれない。と、思ったのだ。少しは核心に近づいてきたか? さて、今回は海洋都市による交易の話しである。民族移動による激動の混乱期ではあるが、それでも人は生活している。中世期の地中海も北海も危険な海に代わりはなかったが、危険でも貿易にいそしんだ人々がいた。その先陣を切ったのがイタリア半島の港湾都市。前回、アマルフィで少し触れたがイタリアには隆盛(りゅうせい)を極める海洋都市(共和国)が複数誕生し、イスラムの海賊に負けじと交易を続けたのである。※ 彼らの行動は欧州を越え、もっと遠い海の先にも繋げる事になる。しかし、隆盛を極めたそれら都市国家もナポレオンの侵攻。そしてイタリア王国の樹立により終焉する。今回その中の幾つかの交易図から紹介。純粋に? 通商で栄えた? 共和国と、十字軍遠征と言う欧州の一大イベントの中でボロ儲けし繁栄した共和国を紹介。写真は最も長きに渡り繁栄したアドリア海の共和国、ラグーサ(現クロアチア)とヴェネツィアから。全2回くらいの予定。アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)地球軌道の離心率に起因する気候変動と民族移動交易の復活と海洋共和国(Marine Republics)海洋共和国アンコーナ(Ancona)の交易先古代紫の生産地海洋共和国ラグーサ共和国(Respublica Ragusa)ドゥブロヴニク(Dubrovnik)海洋共和国ジェノバ(Genoa)と交易先十字軍遠征に対するジェノバの功績海洋共和国ジェノバ(Genoa)の快進ヴェネツィアのレガッタ・ストーリカ(Regata Storica)クロアチア、ドゥブロヴニク(Dubrovnik)旧港交易の復活と海洋共和国(Marine Republics)繁栄期のローマ帝国で行われていたのは広域な経済圏(economic bloc)での物流。それは驚く程現在の物流に近い完成された物であった。※「アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易」で紹介。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易 しかし、ローマの平和の時代、パクス・ロマーナ(Pax Romana)以降の欧州の状況は、蛮族の流入により酷い有様。476年、西ローマ帝国が解体されると西ローマ帝国領は蛮族の移民に浸食される。さらに本家東ローマ帝国の国力低下により地中海も海賊で危険極まりない海となり、おいそれと海上交易もできない混沌の世界になっていた。※ それは陸路も同じ。かつての秩序は完全に失われ荒廃。冒頭紹介した気候変動? による民族の大移動が重なり中世初期から中期は世界的な動乱期にあったのだ。だが、そんな危険な世の中にあっても、9~10世紀頃になると地中海沿岸に沿って商業ルートを開拓。中世初期に中断された欧州、アフリカ中東の諸都市と交易する港湾都市がイタリア半島の中に複数出現する。彼らは自国防衛と地中海域の航海の安全の為に艦隊を保持。ハブとなる港湾のネットワークを造るなど、広範囲な交易の為のサポート体制を構築して海に出た。各港湾都市の取引先は様々。商人はアラブ人に占領されている敵国とも交易を始めていたし、戦いの前線基地への武器食糧の補給も担った。それ故、取り扱う交易品は都市毎に差別化があったのでは? と思われる。例えるなら、これら海洋共和国は現代の総合商社だ。かつてのローマ帝国には及ばない狭域な経済圏ではあるが、途絶えていた? 東洋との交易も再び活発化してきたのは明るい兆しであった。Map and coats of arms of the maritime republics 海洋共和国の地図と紋章ウィキメディアから借りました。当時隆盛を極めた海洋共和国の位置を、その紋章で示したものです。※ アマルフィ(Amalfi)はカンパニア州の旗章になっています。なぜ?前回紹介しているアマルフィ(Amalfi)もその一つでイスラムのイタリア上陸を阻(はば)んだアマルフィ(Amalfi)は海洋共和国(Marine Republics)として成長し11世紀頃に全盛期を迎える。同じくイタリアを代表とする海洋共和国として台頭してきたのがヴェネツィア、ジェノバ、ピサ、ラグーサなどだ。 11世紀頃にどこも全盛期を迎えたのは十字軍の遠征と言う大イベントの特需があったからだ。イタリア海軍旗はかつて隆盛を極めた4つの海洋共和国(Marine Republics)をリスペクト? その紋章が今も使用されている。上もウィキメディアからですが、説明を略す為に中に都市名を明記しました。アマルフィとピサは十字軍に起因した図案と思われる。それら海洋都市の特徴は商取引が主流な事からどこも商人階級が力を持った特殊な統治システムを持っていた。それは必然から生まれた産物だったと思われる。これら都市は共和制をとっていたので海洋共和国(Marine Republics)と言うのが本来の言い方だ。都市単位の小さな共和国だから? 関連本では「海洋都市国家」として紹介されている。悪く無い表現であるが、交易に特化した「通商港湾都市国家」のが正解かも海洋共和国(Marine Republics)盛衰グラフです。(ウキペディアから)主要な海洋共和国の始まりと終わりが確認しやすい図なのでのせました。歴史の古いのがアマルフィ(Amalfi),ガエタ(Gaeta),ヴェニス(Venice)※ 表に合わせました。イタリア表記ではヴェネツィア(Venezia)中期に消えたアンコーナ(Ancona)、ピサ(Pisa)近年まで残ったのが、ヴェニス(Venice),ジェノバ(Genoa),ラグーサ(Ragusa),ノリ(Noli)それぞれの共和国の交易先とルートは本来別々に全部紹介したいくらい興味があるが、ポイントを絞ってピックアップしました。海洋共和国アンコーナ(Ancona)の交易先地図の元はウィキメディアから借りて、さらに解り易いよう都市名など大きく入れて編集しました。 アンコーナ(Ancona)が通商で繁栄するのは11世紀頃から16世紀遡る事、BC390年頃アンコーナ(Ancona)はシラクサの植民都市として古代紫の染料を造っていた。位置的にはヴェネツィア共和国の少し南位にありヴェネツィアとはライバル同士。アドリア海対岸の現クロアチア一帯のダルマチア(Dalmacija)地方のラグーザ共和国とは同盟を持っていた。交易港は他に比べると多くはないが、主要都市は抑えている。メインの交易相手は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)でコンスタンティノポリスへの出入りばかりか黒海内のコスタンザ(Costanza)やトラブゾン(Trabzon)などの交易都市にまで及んでいる。そのトラブゾン(Trabzon)はペルシアやメソポタミアへの通商路の基点として古来から重要な都市であり、これはペルシャのみならずその向こうのインドあるいは東洋からの品の仕入れであった事がうかがえる。※ 後にビザンツ皇帝が亡命した時、トレビゾンド帝国(Empire of Trebizond)を樹立している。また、宗教的にも敵対するイスラムとも外交関係を持ちパレスチナやエジプトのアレクサンドリア(Alexandria)も交易相手とした。これは全ての海洋都市に言えるのだが、切れない需要があったからだろう。シリア・パレスチナ、エジプトとの交易では没薬(もつやく)や乳香(にゅうこう)などの香油の輸入はキリスト教国にとって必要不可欠な品だから・・。先に存在していたアマルフィ共和国(Repubblica di Amalfi)もアンコーナ(Ancona)とほぼ同じ交易先を持っていたが、その違いはアマルフィが半島のティレニア海側にありフランク王国やイベリア半島にまで交易を伸ばしていたのと対象にアドリア海側のアンコーナは東方面に力を入れていた。またアンコーナと同盟していたラグーサ(Ragusa)はバルカン半島を横断する陸路で黒海に至るルートも持っていた。また両者の取引は北海側のフランドルにまで及んでいる。フランドルの毛織物のタペストリーやブラバントのリンネルは13~14世紀から需要を増していた。古代紫の生産地ところで、先に紹介したアンコーナ(Ancona)の古代紫の染料は王者の紫(Royal purple)と呼ばれローマ帝国時代、使用できる者が限られていたカラーである。日本においても、紫は高位の色。わずかしか採取できない染料は非常に高価な品であったと同時に乱獲で減少。その為にRoyal color 自体が紫から青(Blue)に変遷したらしい。軟体動物門腹足綱アクキガイ科の貝の鰓下腺(さいかせん)から分泌される粘液から採取。貝はシリアツブリガイ(Bolinus brandaris)が使用されていたらしい。下は参考にウィキメディアから借りてきました。どのサイトでも使用されている唯一の写真です下もウィキメディアからですが、ウィーン自然史博物館の展示で示された貝別のカラー見本のようです。フェニキア人は貝が生きている時の分泌物から染料を造る技法を持っていたのではないか? と思うのです。死滅させて採取するようになったから激減したのでは?古代紫の染料はBC1600年頃に遡ると言われるフェニキア人の交易品の一つで、彼らの本拠、シリアのテュロス(Tyros)の街から出荷されたのでテュリアン・パープル(Tyrian purple)と呼ばれていた。当然その製法は企業秘密であったから、もともとフェニキア人が古代紫の染料を造っていた? 養殖していた? 彼らの土地をギリシャが奪い取った可能性も考えられる。そのフェニキア人の街テュロス(Tyros)はマケドニア王のアレクサンドロス3世(BC356年~BC323年6月10日)によるペルシャ遠征の折(BC332)にひどい滅ぼされ方をしている。以前テュロス(Tyros)の街については、「アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン」の中「フェニキアとアレクサンドロス王との攻防」で書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン アンコーナ(Ancona)はユリウス・カエサルがルビコン川を横断した(BC49年)頃に古代ローマの属州になり、また西ローマの時代には教皇領に含まれているので古代紫故に教皇庁御用達? になったのかもしれない。※ ルビコン川(Rubicon river)は現在ヴェネツィアとアンコーナの中間リミニ(Rimini)の街10kmほど北でアドリア海に注いでいる。(非常に小さな川なのでかなり拡大しないと地図上に表記されない。)古代紫と言う地場産業を持っていた事がアンコーナ(Ancona)を生き残らせたのは間違いなさそう。通商港になるのは古代紫の染料の出荷元としてテュロス(Tyros)が滅ぼされた時にすでに始まっていた?フェニキアの取引先が直接アンコーナの顧客に変わったのかもしれない。上の図でもかつてテュロス(Tyros)のあったパレスチナを結んでいる。そんなアンコーナは12世紀からイタリアで教皇派と皇帝派の衝突が始まると教皇派についたので皇帝軍やヴェネツィア軍と戦うことなる。アンコーナの海軍は十字軍の遠征でも利用されるくらい強かったからヴェネツィアに負けることはなかったが、1532年、アンコーナは教皇領に併合され終焉している。海洋共和国ラグーサ共和国(Respublica Ragusa)アンコーナ(Ancona)の写真はありませんが、ラグーザ(Ragusa)の城壁の写真がありました。同じアドリア海の真珠と称されながら、ヴェネチアとは全く趣の違う港です。アドリア海東岸の現クロアチアのドゥブロヴニク(Dubrovnik)はクロアチア語。イタリア語でラグーサ(Ragusa)。つまりここがかつてのラグーサ共和国です。※ 隣接するボスニア・ヘルツェゴビナの政情から現在はクロアチアでも飛地扱いになっているようです。旧市街を囲む城壁下は聖イヴァン(Sveti Ivan)要塞 1346年建設聖イヴァン要塞は現在海洋博物館となっている。1979年「ドブロヴニク旧市街(Old City of Dubrovnik)」として世界文化遺産に登録されている。現在はクルーズ船の寄港地としても人気。中世のラグーサ共和国は紋章にこそ入らなかったが、アマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアと共に5代海洋共和国の一つに入っていた。エーゲ海(Agean Sea)のキオス(Chios)島は要塞の補給の為の寄港地。クレタ島も同じく十字軍時代は要塞となっていた。先に触れたが、アンコーナ(Ancona)とは同盟関係。どの海洋共和国もコンスタンチノポリス(Constantinopoli)とアレキサンドリア(Alexandria )は寄港地がかぶる。ぱっと見、イタリア半島とバルカンに、ほぼ特化している。ラグーサ(Ragusa)の歴史はギリシャの時代に遡るようだ。当初は船舶寄港地、ハブ港的な始まり? それに適した地理と環境を有していたらしい。ローマ帝国時代、特に東ローマ(ビザンチン)帝国の時代にその保護下で飛躍している。それは十字軍による特需と思われる。しかし、アナトリアは帝都コンスタンティノポリスを除けば船舶寄港地としてしか利用していないし、パレスチナにも全く入っていない。後のジェノバでまた触れるが、パレスチナ湾岸の十字軍の主要港の利権はラグーサには無かったのだろう。地理的にアドリア海から黒海に至るバルカン(Balkans)のアドリア海南位にある為、東ローマ(ビザンチン)帝国領の勢力次第で、めまぐるしく支配者が交替しているのも特徴である。1453年、東ローマ(ビザンツ)帝国の帝都コンスタンティノポリスがオスマン帝国により陥落。交易事情は大きく変わる。※ コンスタンティノポリスと取引していた海洋共和国の事情は変わる。ジェノバとヴェネツィアの取引状況などについては次回に載せます。ラグーサは15世紀から16世紀にかけて最盛期を迎える。オスマン帝国との取引に成功していた? のかもしれない。それでもボスフォラス海峡が以前のように通れなくなり黒海に入れ無いと言う事はシルクロードで運ばれる東洋の物産も手に入らなくなる。西側諸国にとってコンスタンティノポリスを経由しない新たなルート開拓が急務となった。それが結果として大航海時代を迎える大きな要因となったのだ。地中海には未だヨハネ騎士団の要塞も残ってはいたが、すでに十字軍の特需も無くなっていたはず。アドリア海の交易不振は急速に進んだのだろうと思われる。最も、ラグーサの衰退は地震の頻発が原因らしい。1667年に壊滅的な地震が発生。最終的にはナポレオンの侵攻により、イタリア王国に組み込まれ終焉。ドゥブロヴニク(Dubrovnik)そこには中世オスマン軍からの防衛の為に建設された城壁が街を囲って残っています。同じアドリア海のヴェネツィアとはライバル。実はヴェネツィアより少し長く生き残った。プラッツァ通りからの左がSponza Palaceオノフリオの噴水 (Onofrio's Fountain)ナポリ出身のイタリア人建築家Onofrio di Giordano della Cavaにより1435年から1442年にかけて建設した上水道設備です。2km離れた泉(Knežica spring)からの水道で、この上水道は19世紀の終わりまで使用された。16面の水道口にはそれぞれ石の彫り物が・・。地震で壊れる前は全面に装飾があったらしい。上は2面を重ねて表示した写真です。城壁は周囲約1900m。厚さ5m、高さ20m。最初に造られたのは7世紀とされるが現在見られる主要部分は12世紀から17世紀のものらしい。「中世の趣があって良いね」と思って観光する人が多いのだろうが、よくよく考えればここは要塞都市。生きる事に必死であったからこその街なのである。その重みを感じながら巡ってほしいですね。海洋共和国ジェノバ(Genoa)と交易先中世後期には、海洋交易で他より抜きん出たジェノバの成功は地中海と黒海の一等地に植民地を持つ事ができたからである。それは教皇の指示、あるいはエルサレム国王ボードゥアン1世により特別な配慮があり、独占的に良い場所を提供してもらえたからだ。つまりジェノバは第一回目の十字軍遠征の時に大きく貢献して利権を得る事に成功したのである。ちょっと想像以上ですヴェニスとジェノバ、両者、甲乙付けがたい規模の展開です。上の地図は第一回十字軍出発の1096年8月からエルサレム陥落1099年7月までの間に十字軍が陥落させて開いた十字軍国家が含まれている。トリポリは第一回十字軍の遠征で貢献したトゥールズ伯レイモン(Raymond IV de Toulouse)が開いたトリポリ伯領と思われる。そんな十字軍派遣の副産物国家がウトラメール(Outremer)である。エデッサ伯国、アンティオキア公国、トリポリ伯国、エルサレム王国の四つをさす。※ ウトラメールについては以下に書いています。リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 2 (キリストの墓)ところで、十字軍は、聖地を奪還したから終わったわけではない。イスラムの中の飛地であるエルサレムに人や物資を運ぶ為の交易路や港、巡礼路を確保する為の戦いが陥落後に新たに始まったのである。だから後続部隊が進軍しているのだ。海洋共和国の商機(しょうき)はそこに生まれた。ジェノバやヴェネツィアはそれら十字軍関連の物資や人を運ぶ利権を独占的に占有していたと思われる。上の図で見るのはまさに十字軍の恩恵による地中海交易の販図のようだ。エルサレムより離れたトリポリ港はエルサレムを陥落した後に開かれている。敢えて北アフリカの船舶の寄港地として開かれた港街だったのだろう。位置的に・・※ 十字軍の説明を次回「アジアと欧州を結ぶ交易路 13」の中「キリスト教国の逆襲、十字軍(crusade)」に加えました。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会(The Church of the Holy Sepulchre) 1リグリア海(Ligurian Sea)に面した港湾都市ジェノバ共和国(Repubblica di Genova)とピサ共和国 (Repubblica di Pisa)リグーリア州の州都ジェノバ(Genova)リグーリア州ポルトヴェーネレ(Portovenere)トスカーナ州ピサ(Pisa)ピサとジェノヴァは1060年に戦争してピサが勝利。当初ライバルなので仲は悪かったが、ジェノバ(Genoa)の発展はピサと組み、1016年サルデーニャをイスラムから防衛した事に始まる。ポルトヴェーネレ(Portovenere)はジェノバがピサとの境に造った要塞都市参考の為下の写真3枚はウィキペディアから借りてきました。南フランスのニースから続くリヴィエラ(Riviera)海岸のイタリア領内がリグーリア(Riviera)海岸と呼ばれる。イタリアン・リヴィエラ( Italian Riviera)らしい。フランスのリヴィエラは高級だが、こちらは庶民的?ウィキペディアからです。Portovenere, Cinque Terre, and the Islands (Palmaria, Tino and Tinetto)1997年世界文化遺産に登録されている。ドリア城(Castello Doria) ウィキペディアからです。現在の城は、1161年に古代の建造物の遺跡の上に建設。時代で銃器の変化など要塞の形もだいぶ変更されているらしいが、ジェノバの要塞建設の典型らしい。十字軍遠征に対するジェノバの功績さらに、1087年には、ジェノヴァとピサに加えてアマルフィ、サレルノ、ガエタの連合軍でローマ教皇の指示の元、北アフリカ(現チュニジア)を占領していたズィール朝の首都マフディーヤ (Mahdia)を攻撃。つまり、地中海を荒らしていたサラセンや、イスラム正規軍の進出をイタリアの小国の連合艦隊が一矢報いた戦いがマフデイーヤ攻撃であった。マフディーヤの戦いでは、完全占有の持続はできなかったが、湾内のアラブの艦船を焼き払って逃げた。このアラブ艦隊の壊滅が西地中海にしばしの安全を与え、1096年から始まる聖地奪還の戦いにおいて海からの十字軍の遠征において役に立ったのである。強い海軍力を保持できるようになった事がそもそもの発展の起源になる。第一次十字軍では、ジェノヴァ人口約10000人のうち、1200人のジェノヴァ人が十字軍に参加し、12隻のガレー船で海から聖地に向かった。と言う。ジェノバには先見の明(せんけんのめい)があったね※ 第一次十字軍(The First Crusade)1096年~1099年。公式の第一次十字軍によるエルサレム陥落は1099年7月13日夜半。それに先がけ1099年6月7日,エルサレム攻防が始まるのだが、水も食糧もなく兵士らは飢餓に苦しみ人も馬も死に始めていた。※ 城外の井戸水は毒が入れられ使用できなかったようだ。そんな時にジェノバのグリエルモ・エンブリアコ(Guglielmo Embriaco)(1040年~1102年)が指揮するガレー船が聖地に近いヤッファ(Jaffa)に上陸し、十字軍兵士らの命を救ったのである。※ ヤッファ(Jaffa)は現在イスラエルのテルアビブ(Tel Aviv)さらにエンブリアコ(Embriaco)は8月12日のアスカロンの戦いで200人から300人の兵士と共に海軍部隊を指揮して貢献。エンブリアコは総司教やゴドフロア・ド・ブイヨンの手紙を持って一旦帰郷。12月にジェノバ到着。※ ゴドフロワ・ド・ブイヨン(Godefroy de Bouillon)(1060年頃~1100年)は初代エルサレ首長。彼は王の称号を拒んだ。聖地にはもっと兵士が必要であるとエンブリアコ(Embriaco)は進言。翌年1100年8月1日に、新たな教皇特使オスティアの枢機卿を乗せ、ガレー船(26隻? )と貨物船(4隻~6隻)と共に3000人~4000人の兵士を乗せて再び聖地に向かう。※ 1100年7月に初代首長ゴドフロワ・ド・ブイヨンは亡くなり次代の王は弟のボードゥアン1世(Baudouin I)(1065年頃~1118年)が継いでいた。彼は元エデッサ伯。それもまた十字軍遠征の副産物国家ウトラメール(Outremer)の一つだ。聖地では越冬してボードゥアン1世と共にサラセンの海賊と戦いながら近隣の港の陥落に力を貸した模様。その戦利品の1/3を受け取っている。さらに1000人程のアラブ商人を人質にし、ジェノバは彼らから多くの身代金も受け取っている。また、聖地に至る現ヨルダン西岸にヤッファ(Jaffa)、アンティオキア(Antiochia)含めて3カ所の港をヴェネチアより先駆けて獲得。それは後にサラディンにより失われるが、当時の交易港として大きな特権である。帰途、エンブリアコはガリラヤ王子のタンクレードと条約を結ぶ。またコンスタンティノープルに大使を送る手配をして帰国。1102年2月エンブリアコは執政官に選出されたと言うが、その年に亡くなっている。エンブリアコの活躍のおかげで以降もジェノバはエルサレム王国と教皇に力を貸す形で発展し、報酬として独占権や植民地を与えられると言う恩恵を受けて中世発展していくのである。先に紹介したラグーサとは全く異なるのです。ジェノバ(Genoa)は写真が無いので「1481年のジェノアの鳥瞰図」と言う絵画からイタリア版のウィキメディアからかりてきた写真の色調補正をしました。原本はワニスで黄色に変色しすぎていたので・・。ガラタ博物館蔵海洋共和国ジェノバ(Genoa)の快進1255年、クリミア半島のカッファに植民地を建設。1261年、スミルナがジェノヴァ領となる。 ジェノヴァ人はソルディア、ケルコ、ツェンバロに植民地を建設。1275年、東ローマ(ビザンツ)帝国によりにキオス島とサモス島が与えられる。(エーゲ海の寄港地)1316年~1332年、黒海沿岸のラ・ターナ、サムスンに植民地を建設。1355年、レスボス島が与えられる。14世紀後半、黒海沿岸のサマストリに植民地建設。キプロス島が与えられる。また、東ローマ帝国の帝都コンスタンティノポリスのガラタ地区と黒海の通商都市トレビゾンド帝国のに居住区が与えられた。ここのポイントはメソポタミア、インド、中国など東西交易路の拠点トレビゾンド帝国(Trapezuntine Empire )(1204年 ~1461年)を押さえた事だ。没落の始まりは15世紀にオスマン帝国の台頭。そして1453年5月、コンスタンチノポリスの陥落。ジェノヴァ共和国領の大半が奪われ、1797年に共和国が消滅。残ったのは現リグーリア地方だけだったそうだ。それでも港湾都市ジェノヴァ(Genova)は現在もイタリア最大の港であり、マルセイユ、バルセロナと並ぶ地中海域ではトップクラスの港である。観光で寄る所ではないが・・。ところで、ジェノバ出身の有名人に探検家のクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)(1451年頃~1506年)がいる。彼はタイミングが悪かった。ジェノバ没落後でなかったら、彼はジェノバから航海に出ていただろう。※ クリストファー・コロンブスについてはお墓を紹介しています。リンク スペイン・セビーリャ 8 (コロンブスの墓所)ヴェネツィァのレガッタ・ストーリカ(Regata Storica)ヴェネツィアで、毎年9月第一週の日曜日に開催されていたレガッタ(regata)祭り。正式にはレガッタ・ストーリカ(Regata Storica)「歴史的なレース」と呼ぶらしい。かつて海洋共和国として交易で地中海域で最も繁栄を見せていたヴェネツィアの栄光の時代を再現する時代祭りである。起源は15世紀末にさかのぼると言うものを近年復興させたもの。 最も今回の写真は数十年前、まだカメラの時代に撮影したものをスキャナーで読み取りしたものなので解像度も画像も今一つ。無いよりましか? と載せました。実際ものすごい混雑で、写真撮影ができる状況ではないのをやっと潜り込んでリアルト橋 (Ponte di Rialto)の所で数枚撮影したもの。本当にF1(エフワン)観戦のように行ってもほとんど見えません。下はヴェツィアの元首を載せたパレード船。時代コスプレが当時を偲ばせます。時代パレードと実際のボートレースが行われます。9月第一週の日曜日がくせもので、毎年リド島で行われているヴェネチア国際映画祭と日が被っていたのです。8月のイタリアはホテルが押さえにくく、やっと取れた9月がたまたま重なった偶然です。しかし、レガッタが頭に無かったので、キャナル沿いのホテルをキャンセルして系列のリド島に変更していたので上からの撮影もできなかった。今思えば惜しい事でした。次回「アジアと欧州を結ぶ交易路 13」では海洋共和国ヴェネツィアを予定しています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)Back numberリンク 静物画にみるメッセージリンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia) アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2021年06月19日
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ノルマン人をパリで撃退した人物を追加しました。次の関係で・・。今回は、単独にするか、かなり迷走しました(;^_^Aこの民族移動問題は「アジアと欧州を結ぶ交易路 12」の伏線にもなっています。彼ら「蛮族」と呼ばれた民族を単純に紹介するのにノルマン人の例はわかりやすいかと、モンサンミッシェルの中に入れ込みました。 だからいろんな情報が混在しています。オムレツまで載せたし・・。言語体系で民族を分類した系図(Family tree)があります。「インド・ヨーロッパ語族(Indo‐European languages)」はその祖の一つで、その言語を源流とする民族は、ヨーロッパ大陸からロシアそして中東からインドに及ぶ。※ 大航海時代以降は、南北アメリカ大陸やアフリカ、オセアニアにも広がった。この語族に属する言語を公用語としている国は現在100を超えている。つまり世界の国の半分近くはこの言語民族をルーツとしているかもしれないと言う規模だ。国際連合では現在6つの公用語がおかれているが、英語、フランス語、スペイン語、ロシア語の4つは「インド・ヨーロッパ語族」である。※ 残り2つの公用語は中国語とアラビア語。つまり「インド・ヨーロッパ語族」の発祥から移動をたどれば必然的に欧州の世界史が見えてくるはず。しかし、今回は「インド・ヨーロッパ語族」そのものでなく、その一部一派のみです。また、「ローマ帝国vs蛮族」の「蛮族(ばんぞく)」とは何か? の説明を兼ねています。モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人インド・ヨーロッパ語族(Indo‐European languages)どこが発祥(源郷地)か?エデンの園の場所、考えてみました初期の民族移動ローマ帝国内の異民族の協力者スカンディナビアの民(北方系ゲルマン人)ヴァイキング(Viking)の源郷ヴァイキング(Viking)の移動ノルマン人(Normands)とノルマンディー公国(Duché de Normandie)ノルマンディー公国(Duché de Normandie)の成立「インド・ヨーロッパ語族」以外の言語体系は?モン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)インド・ヨーロッパ語族の分布図ウィキメディアの図に書き込みしました。実は、欧州の歴史をいろいろ調べていて個人的にちょっと思った事がある。欧州には、ほぼ2世紀毎に大量の異民族が流入してきているように思う。どこかで人が湧くように人口が爆発的に増えている場所があるのではないか? 彼ら異民族は、元の土地に人があふれ過ぎて食糧が足り無くなり、他の地に移住する為に集団移動してきた人々だろう。また、部族に追われて逃げるように移動して来た集団もいただろう。かつてモーセがイスラエルの民をカナンに導いたように指導者が大量の移民を携えての民族移動であったのだろうと想像できる。歴史を見ると、それはある程度の期間で定期的に起きているように思ったからだ。どこが発祥(源郷地)か?「インド・ヨーロッパ語族」の発祥となる源郷は現在2説あげられている。トルコのアナトリア説・・8000~9500年前のアナトリアを発祥とする説。南ロシアのクルガン文化説・・5000~6000年前の黒海・カスピ海北方(現在のウクライナ)に存在したクルガンを発祥とする説。上の説については、それを導く学説があると思われますが、私はその源郷説以前があったのではないか? と考えたのです。そこが発祥ではなく、そこにたどりつく以前の場所と言う意味です。あくまで個人の仮説であり、何の根拠もない突拍子もない仮説ですが・・。アナトリア半島からカスピ海あたり? の経度はともかく、緯度はもう少し南だったのではないか?※ 先の2説はいずれも緯度が高いので寒いと思われる。なぜなら、環境の思わしくない土地での人口増加は考えられないからだ。暖かい方が断然良い。※ スカンディナビア半島に居たゲルマン人が他に移動したのは食糧の問題だったし・・。もしかしたら最初のスタートはメソポタミア(Mesopotamia)あたりだったのではないか? 温暖で肥沃なティグリス川とユーフラテス川周辺なら人口増加は可能。※ そこにはナツメヤシがたわわに生(な)っていたと思われる。※ BC8000年には文明の片鱗が見えている。そこは世界最古の文明が存在した場所とされている。また、そこはまさにアダムとエヴァ(Adam and Eve)が住んでいたエデンの園があったとされる場所でもあるのだ。旧約聖書は案外史実を語っているのかもしれない。エデンの園の場所、考えてみましたメソポタミア周辺の地図ティグリス川(Tigris)とユーフラテス川(Euphrates)中流域? 私の予想位置がピンクの円あたり。ティグリスの源流あたりのアルメニア説もありますが、緯度が高く寒い。実際イラクとパキスタンの国境には巨大なザグロス山脈が走っている事もあり、アルメニア説は厳しいかと思う。ノアの箱船はそのあたりらしいが・・。クウェートより下の説もあるが・・。民族の発祥地としてはなさそうなので消去。裸で暮らしていた事は無いだろうが、気候を考慮すると.北緯35度以下の方が温暖で良さそうだ・・と言う理想論も入っています※ 中東は、今は砂漠化していますが、数千年前は森林もありもっと緑が豊だったようです。※ メソポタミアの中流域にしたのは水害を考慮したからです。初期の移動はザグロス山脈があったから、北上(黒海の向こう)するか西方(アナトリア半島)に活路を見いだすしかなかった? と、考えてみた。絵画によるエデンの園ウイーン造形美術アカデミー、ヒエロニムス・ボスによる三連の祭壇画の一部、楽園から。ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)(1450年頃~1516年)作※ 三連の祭壇画は、左翼に楽園(エデンの園)、中央に最後の審判、右翼に地獄が描かれている。図は、楽園(paradise)と称されるエデンの園(Garden of Eden)であるが、エデンを描く時のお決まりだろうか? 誰もがこれを描く時にストーリー仕立てに描いている。イヴを創生するキリストから始まり、ヘビにそそのかされて約束を破り木の実を食べる二人。そして原罪を背負って楽園を追放される二人。ボスの場合、さらに上に天の天使と堕天使サタンとの戦いも描かれている。以前「造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 1 (楽園)」で紹介しています。リンク 造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 1 (楽園)クラナッハ(Lucas Cranach)の「アダムとエヴァ(Adam and Eve)」、「エデンの園」、「楽園」はクラナッハ(Cranach)特集で紹介しています。リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)初期の民族移動源郷地を出てから、彼らは一端北上して東へ、西へと進路を分かち入植地を求めた。アナトリア半島から欧州に入植した者、あるいは黒海北部にいったん定住してから再度移動を始めさらに北へ、西へ。北ルートはスカンディナビア半島まで到達。西はバルカン半島から欧州へ、あるいはアナトリア半島から欧州へと考えられる。下の図はオリジナルですが、史実と混ぜて仮説を足したものです。私の案(欧州側のみ)では全て南から北へ移動。スカンディナビアからは後にリターンして来たのでは? と考えている。※ リターンしてくる時にはゲルマン語派(Germanic languages) になっているが・・。古代ギリシャの文明を開いたギリシャ人も、古代ローマの文明を開いたローマ人も彼らの子孫達である。彼らもまた「インド・ヨーロッパ語族」のメンバーなのだ。※ ギリシヤ文化を造ったギリシャ人はヘレニック語派(Hellenic languages)の祖。※ ローマ帝国をつく造ったローマ人はイタリック語派(italic languages)の祖。そして、後に入植地を求めてローマ帝国を脅かした蛮族(ばんぞく)は後発の入植者であり、彼らもまた出自は「インド・ヨーロッパ語族」だったのである。※ ヨーロッパ中北部に広まり、そこを原郷地としたゲルマン人のゲルマン語派はドイツ語、英語、オランダ語、デンマーク語、ノルウェー語、スウェーデン語、アイスランド語などの祖語となるのだ。彼らはある程度の集団で移動し、入植地を見つけるが為に欧州各地に散った。時にその地の者を滅ぼし、時に融合してローマ帝国とも戦う事になった。やはりインド・ヨーロッパ語族の系統図「family tree」が欲しい左側が欧州系です。また、今回の所「北ゲルマン語群(ノルド諸語、北欧諸語) の古ノルド語」をピンクで囲ませていただきました。英語史に関する話題を提供する堀田隆一氏による「History of the English Language Blog」で公開されていた「インドヨーロッパ語族の系統図(日本語版)」から出典させていただきました。リンク hellog~英語史ブログ #455. インドヨーロッパ語族の系統図印欧語系統図として最も解り易い図かと思います。ローマ帝国内の異民族の協力者ローマ帝国の力に陰りが出始める4世紀以降。進軍での戦いなら得る物もあるが、防衛での国境線での戦いは無益(むえき)でしかない。ローマ皇帝は時に彼らと和議を結んだ。ローマ帝国内の居住を許す代わりに彼らにはローマの兵隊として戦ってもらうと言う条件で・・。それがローマ帝国内にできた直轄領以外の異民族の協力者による属州である。※ もちろんキリスト教が導入されてからは、キリスト教に改宗する事も条件である。しかし、ローマ帝国に力が無くなると、彼らの態度は一変した。「アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の時に590年のイタリア半島地図を紹介したが、半島では、すでに移民の彼らロンゴバルド人(Longobardi)に浸食されつつあった。西ローマ帝国が消滅してからローマ帝国との契約は反故(ほご)? 彼らは568年頃イタリア半島内にロンゴバルド王国を建国して一時勢力を拡大しローマ教皇を悩ませた。だが、ローマ教皇の依頼を受けたカール大帝により彼らは駆逐される。774年には首都パヴィア陥落。因みに、ロンゴバルド(Longobardi)とは長い顎鬚(あごひげ)を意味。顎鬚を蓄える事が彼ら民族の特有の掟だったらしい。(民族の特性が呼び名に)そして彼らも、彼らを滅亡させたカール大帝率いるフランク王国(Frank kingdom)のフランク人(Franks)もまたインド・ヨーロッパ語族のメンバーである。※ ロンゴバルド(Longobardi)人はゲルマン語派。下の図はオリジナルですが、史実です。カール大帝率いるフランク王国人の祖がどこからの分派か不明ただ、フランク王国(Frank kingdom)の祖は俗ラテン語を起源とするロマンス諸語の中の西ラテン諸語であり、フランス語はそこから成立している。因みにイタリア語は東ラテン諸語です。4世紀以降に起きた? 東のアジア系遊牧民フン族(Hun)の西進によってゲルマン系諸民族は大移動をしたと言われているが、スカンディナビアに関してはそれが理由とは思えない。※ ゴート族についてはまだこれからです。スカンディナビアの民(北方系ゲルマン人)ところで、今回は「モン・サン・ミッシェル 3」です。このノルマンディーに住み着いた民族のルーツから入ります。彼らはどこから来たのか?ノルマンディー地域 (Région Normandie) 首府ルーアン(Rouen)「モンサンミッシェル」のあるノルマンディー地方(Normandie)はインド・ヨーロッパ語族、北ゲルマン語群(ノルド諸語、北欧諸語) の古ノルド語を話すノルマン人の土地です。以前、「ヴァイキング(Viking)」を特集した事がありますが、彼らもまたインド・ヨーロッパ語族であり、古代にスカンディナビア半島や北海沿岸に定住したゲルマン語派北ゲルマン語群に属し古ノルド語を話す人々だったのです。つまり、地域により呼び方は違うが、スカンディナビア半島や北海沿岸に居た彼ら北方系ゲルマン人(主にノルウェー)がいわゆるヴァイキング(Viking)と呼称された人々なのである。北方系ゲルマン人が移住したスカンディナビア半島は環境が厳しい。農業や漁業はあったにせよ、農地は少なく、冬の日照も極めて少ない。生産すると言うよりは海賊行為による略奪を生業(なりわい)?船の操作は長けていたので商人色の強い一派もいたが、イスラムのように、彼らもまた奴隷交易をしていた事がわかっている。最も彼らのメインの交易品は皮革製品。主に毛皮?実際の所、略奪で得た物よりもむしろ交易で得た富の方がはるに大きかったと言う。しかし、彼らは絶えず良い土地への移住を求めていたようだ。だからアイスランドやグリーンランドにまで到達するのである。(行ってから失敗と気付いている。)ヴァイキング(Viking)の源郷ヴァイキングと言う呼称は古ノルド語で「湾」、「入り江」、「フィヨルド」の意らしい。実際彼らはそうしたスカンディナビア半島のフィヨルドの入江を源郷にしていた。陸地の殆どはスカンディナヴィア山脈で平地はほとんど無いノルウェー(Norway)は北緯57度以上という高緯度だが暖流の関係で冬でも不凍港らしい。海岸には巨大な氷河が削れてできたフィヨルドが発達。それは数万年掛けて積もって固まった雪が氷河を形成。それが氷河時代の終わりごろに融解して海水域が変わり土地の隆起と沈降が始まり削られた谷に海水が進入してできたものだ。※ BC6000年頃には現在の地形になったらしい。ソグネ フィヨルド(Sogne fjord) ノルウェー最大のフィヨルド。写真はおそらくフロム近く?上下の2枚は2006年5月。北欧の観光時期は限られている。5月ではまだ早い感じベストは7月から8月。メキシコ湾から北上してきた暖流は欧州西部で東グリーンランド海流とノルウェー海流に分岐する。その暖流の影響で。高緯度にもかかわらずノルウェーの海は凍らない(冬でも不凍港)。しかし、外は寒い。だからクルーズは冬でもあるらしいが、寒くて冬は船外に出られない。最深部の深さで1308m、平均幅5km。世界で最も長く、深いフィヨルド下の写真3枚は2004年8月。これが夏のピーク北欧の名物と言えばエビやカニがある。冬でも捕れるのだろうが、やはりエビのシーズンは初夏 ?ヴァイキング(Viking)らも食べ物には困った事だろう。冬は野菜不足からヴィタミン不足だったかも。なんでこんな寒さの中に暮らしていたのか? 暖かい土地があるなんてきっと知らなかったのだろう。グリーンランドに移民した人々はだまされて渡っているし・・。ヴァイキング(Viking)の移動その彼らは8世紀から11世紀あたりに人口増加? 新たな入植地を求め幾度めかの民族移動を始めた。北フランスのノルマンディーに侵略して入植した人々がノルマン人と呼ばれる人々だ。また、船を操る彼ら一部はアイスランド、グリーンランド、アメリカ大陸にまで到達するのである。※ 北極圏を中心に地図を見るとアイスランドもグリーンランドもノルウェーからは割りと近い。ノルウェー、オスロ(Oslo)のヴァイキング博物館(Vikingskipshuset)からヴァイキング(Viking)の大型船800年代後半に使用されていたとされるオーセバルク船(Oseberg)※ 1904年に発掘特徴は船首と船尾をつなぐ竜骨が大きい。その構造により喫水線を浅くする事ができ安定性が高い。フォルムは非常に美しいです。独特な装飾も彫刻されている。ヴァイキング(Viking)の小型ボート写真の入れ替えの必要もあるのですが、2010年2月、ヴァイキング博物館(Vikingskipshuset)書いています。リンク ヴァイキング 2 (ロング・シップとクナル)リンク ヴァイキング 3 (竜頭柱とヴァルハラ宮殿)リンク ヴァイキング 4 (副葬品)ノルマン人(Normands)とノルマンディー公国(Duché de Normandie)8世紀末、フランク王国の販図がまさに北はドーヴァー海峡、南はピレネー山脈。東はライン川を越えてエルベ川に達していた頃。毎年春になると北フランスはヴァイキング(Viking)に襲撃されるようになっていた。春先は海が穏やかになったかららしいが、彼らは街や修道院を襲って金品や食糧を奪い、ついでに女子供をさらって行く。さらわれた者は奴隷として使役されたり売られて行く。また身分のある者を捉えた場合には身代金と引き換えにしたと言うので、前回「アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊」で紹介した地中海でのサラセンの海賊と同じような状況が、同時期に北海側でも起きていたという事になる。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊ところで、フランク王国の人々は、彼らの事をヴァイキングではなく、「北国の人」の意で、ノルマン人(Normands)と呼んで恐れていた。身代金効果は大きく、より人さらいは過激に増したらしい。もちろん東フランクの男たちは武器を手に取り戦い撃退していたらしいが、西フランクは騎士が戦い、一般人は逃げるしかすべがなかったので悲惨だった。だからなのか・・。なぜ北欧に近い場所でなく、少し遠いノルマンディーだったのか? の疑問の理由が分かった気がする。フィヨルドを出て北フランス(西側)に略奪をしに来ていた一派は、地元民を追い出し帰国せず砦を築いて越冬し、徐々に「居座り」定住を始める。そして、885年、ノルマンに定住した彼らはセーヌ川を遡り、直接バリに多勢で侵略に向かった。この時は3万人のノルマン人(ヴァイキング)が700艘の船でパリに襲来。大事件である。しかし、この時はロベール家のウード(Eudes)(852年以降~898年)により撃退されている。※ ロベール家は後のフランク王国カペー家の開祖そして、911年、西フランク国王シャルル3世 (Charles III)(879年~929年)(在位:893年~922年)はその脅威? いや、王として国民を守る決断? により、彼らと契約を交わす。ノルマンディー公国(Duché de Normandie)の成立蛮族であったノルマン人の侵略者の長ロロ(Rollo)(846年頃~933年)は北フランス(ノルマンディー)への正式な定住を許される。最もそこはすでにロロが陣取りしていた場所。族長ロロ、以下皆キリスト教に改宗。フランク王国の貴族となりロベール1世(Robert I) (在位: 911年~933年)と改名して即位。ノルマンディー公国(Duché de Normandie)を開いたのである。※ 妻にシャルル3世の娘をもらう。契約では、これから北フランスに到来するノルマンの侵略者はノルマンディー公国が撃退すると言うもの。つまりこれでフランク王国は自ら防衛をせずにロロに丸投げした事になる。まさに「夷(い)を以て夷(い)を制す」を実現させた内容であるが、西側諸侯からのシャルル3世の評価は低い。創始者ロロの銅像 ウィキメディアからですが、下をカットしました。ノルマン公国時代の首都があったのがファレーズ(Falaise)。ロロこと、ロベール1世はヴァイキングの親分だっわけです。しかし、ノルマン人は封じたとは言え元ヴァイキング。じっとして敵が来るのを待っているだけの人々ではなかった。下の図はオリジナルですが、史実です。スカンディナビィアにいたインド・ヨーロッパ語族、北ゲルマン語群(ノルド諸語、北欧諸語) の古ノルド語を話す一派は北フランスを侵略してフランク王国内にノルマン公国を得る。→ ノルマンディー公国(Duché de Normandie)さらに彼ら(ノルマン公国)はイングランド攻め異教者を駆逐。ノルマン・コククエストを果たしイングランドを得る。→ イングランド王国(Kingdom of England )ノルマン王朝(Norman dynasty )の開始。ロロ(Rollo)から7代目の子孫ギヨーム2世(Guillaume II)(1027年~1087年)はノルマン・コンクエストによりイングランドを征服しイングランド王に即位してしまう。※ ノルマン朝の初代イングランド王ウィリアム1世(William I)(在位: 1066年~1087年)として即位。つまり一介の海賊にすぎなかったノルマンの征服者は最終的にイングランドまでも手中にしたのである。さらに少数ではあるが、イタリア半島を南下したノルマンの一派数十人がイスラム教徒に戦いを挑み南イタリアとシチリア島の奪還に成功している。ゲルマン人の根性恐るべし・・である。総じて、古来文明のあったギリシャやローマ帝国と戦ってきた、いわゆる蛮族と呼ばれる彼らもまた「インド・ヨーロッパ語族(Indo‐European languages)」を源流とした同族の民族であったと言う事である。「インド・ヨーロッパ語族」以外の言語体系は?ところで新たな疑問が・・。では「インド・ヨーロッパ語族」以外の言語体系はあるのか? と言うと、ある程度の地域での語族研究はあるものの、「インド・ヨーロッパ語族」ほどに広域に及んだ研究はされていないようなのだ。例えば台湾から東南アジア島嶼部、太平洋の島々、マダガスカルに広がる語族のオーストロネシア語族(Austronesian languages)。南北アメリカ大陸の先住民の言語体系であるアメリカ先住民諸語(Native American languages)。など、あるにはあるが他を含めて地域が分散しすぎているのだ。もしかしてこれらの幾つかはどこかで祖がつながっているかもしれない? と考えが及ぶ。実際、つながりそうな地域はある。新たな仮説として、アジア・ヨーロッパ・北方アフリカの全言語と、アメリカ先住民諸語は同祖ではないか? とする少し拡大したボレア大語族(Borean languages)説も出ている。また、もっと広範囲に実はユーラシア一帯? あるいは北半球? が実は同祖? ではないかと言うような仮説もある。※ ユーラシア大語族(Eurasiatic)※ ノストラティック大語族(Nostratic languages)多分個別に学者が研究していて相互間が無いからなのかもしれない。もし、各所で研究している全てをコンピューターに入れ込んで解析したら? 面白い結果が出るだろうなと思う。ただ、言語族は必ずしも民族を示していない。DNAとは結果が違うのだろうなさて、タイトルはモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)でした。本土側からのモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)過去ログです。リンク モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞リンク モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエルモン・サン・ミッシェルはノルマンディー公国でもブルターニュとの境界に近い西の端にある。難攻不落の城塞型の修道院になるのは966年の事。でもその話は次回です。なるべく早めになんとかします。 m(_ _)m今回は参道などちょっとだけ紹介。いざ、モンサンミッシェル内部へ跳ね橋式の王の門が見える。王の衛兵が派遣されていたのでそう呼ばれる。王の門の手前に3ッ星のホテル・レストラン ラ・メール・プーラール(La Mere Poulard)がある。ホテルの創業は1888年。アネット・プラール(Annette Poulard)とヴィクター・プーラール(Victor Poulard)夫妻のホテルでは併設しているレストランのオムレツが有名。プーラールおばさんのオムレツと店の名前にもなっているが、アネットが考案したもの。卵を泡立てたスフレのようなオムレツに塩をふりかけただけのシンプルなもの。焼け具合により中程は、ほぼエスプーマ(Espuma)料理の状態。※ エスプーマ(Espuma)は食品を泡々にするエルブジ発祥のマシンです。リンク エルブジ・ホテル アシエンダ・ベナスサ 4 (料理後編)当時は栄養価の高い卵は贅沢品であり旅の巡礼者にはもってこいのご馳走であったと思われるが・・。世界展開の中で? 有楽町にも店舗がありましたが今年2021年2月14日に閉店したようです。旅の土産話しに食すのは良いが、オムレツ自体はわざわざ東京で食べに行くほどの物ではなかったのは確か・・。味より、その歴史に価値があるのでしょうね。下は王の門の上から撮影。右がホテル・レストラン ラ・メール・プーラール下は王の門の内側メイン参道であるが、回りは店舗が所狭しと並ぶ。グーグルで確認したら現在はテイクアウトの店が増えているようです。そして下は早朝かも。店舗が開いていない時の静かな参道。次回はモンサンミッシェルの内部を載せて完結予定です。なる早で頑張ります。載せるだけなので次は楽かと・・。そしてその次に「アジアと欧州を結ぶ交易路 12」の予定です。そこはちょっとお待たせするかも・・。back numberリンク モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞リンク モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエル モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人リンク モンサンミッシェル 4 ベネディクト会派の修道院とラ・メルヴェイユリンク モンサンミッシェル 5 山上の聖堂と修道院内部
2021年04月26日
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ラストにBack number追加しました。前回、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(在位 : 527年~565年)が帝国の再統一を目指し戦闘をおこなっていた時に歴史的パンデミックが発生。野望は断念せざる終えなかったと言う所まで紹介。542年~543年頃からエジプトで発生した疫病は地中海世界に蔓延。東ローマ帝国にも到達し帝国の人口の半数近くを失うダメージを受けている。エジプト、パレスチナはローマ帝国の穀倉地でもあったから、農作物の生産さえ滞る事態で、街からパンは消え食糧難による飢餓も発生した。疫病の進行ペースは現代よりは遅いにしても、時間をかけて欧州全土に蔓延していく。60年は続いた? とされている。※ 実はそれだけではなかった事も判明。パンデミック以前に、ユスティニアヌス1世はイタリア半島と北アフリカの異民族統治の属州を奪還、再征服の途中にあった。西ローマ帝国の失われた領土を全て回復するべく腹心の部下ベリサリウス将軍の活躍はすさまじかった。※ フラウィウス・ベリサリウス(Flavius Belisarius)(500年/505年 ~565年)ユスティニアヌス1世の為に何度も頑張ったのに帝の嫉妬で不遇な生涯を送っている。)ユスティニアヌス帝の評価はこの再征服にある。しかし、ベリサリウス将軍がいなければ無理だったかもしれない。勢いに乗った才能ある軍師がいたからこその勝利だったのではないかと思う。実際、帝の後を継いだユスティヌス2世(Justinus II)の代で先帝の拡大した領土はあっと言う間に奪われてしまったからだ。以降、ローマ帝国は縮小の一途をたどる。ユスティヌス2世(Justinus II)(520年~578年)(在位:565年~574年,578年)ユスティニアヌス1世の甥であると同時に妻はテオドラ王妃の姪である為に息子のいなかった伯父ユスティニアヌス1世の後帝位を継いだ。しかし、彼は有能ではなかった? ササン朝との戦争で北アフリカをロンゴバルトとの戦いで再びイタリア半島の大部分を失うとユスティヌス2世はショックのあまり? 精神に異常をきたしたと言う。※ その為にユスティヌス2世の娘婿ティベリウス2世(Tiberius II) (520~582年)は義父ユスティヌス2世の代わりに574年頃から副帝として政務についていた。(在位:574年,578年~582年)ユスティヌス2世は自分を攻めたのかもしれない。フォローするなら、部下にめぐまれなかった事はもとより、疫病の発生や地震による影響があったのだろうと思われる。さて、今回は衰退して行くローマ帝国の続きですが、前回予告したように「地中海を荒らして暗黒の中世と言わしめたイスラムの海賊の話し」もあります。これは交易において重大な事件なのです。しかし関係する海賊の写真はほぼ無いので、ローマ帝国時代のトルコの遺跡アフロディシアス(Aphrodisias)とイタリアのアマルフィ(Amalfi)から持ってきました。トルコのアフロディシアスは、エフェソスの近くにありますが、あまり紹介されていないので。※アマルフィ(Amalfi)のおまけはイスラムのミックスした建築です。しかし、その前に今回も最初はアルマ・タデマの作品からローマの祭りについて・・。アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊セレアリアの祝祭(festival of Cerealia)祭りと舞台劇シンクレティズム(syncretism)アフロディシアス(Aphrodisias)ローマ帝国を終焉させた? ヘラクレイオス1世アウグストゥス(Augustus)からバシレウス(Basileus)へ東ローマ帝国と 元 西ローマ帝国領の関係ローマ教皇とカール大帝イスラム教徒の海賊に荒らされる地中海サラセン(Saracen)の海賊ムデハル(mudejar)様式に似たアマルフィの大聖堂セレアリアの祝祭(festival of Cerealia)春(Spring) 1894年 油彩 179.2cm×80.3cm画家ローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema)(1836年~1912年)J. Paul Getty Museum, Los Angeles完成まで4年を費やしたと言うタデマの作品の中でも人気の作品。絵画の中のモデルはタデマの家族や友人達だそうだ。当初、ドイツの銀行家Robert von Mendelssohnが購入。1895年ロイヤルアカデミー、1899年ベルリン、1900年にはパリ万国博で展示され複製画が大量に売れたらしい。作品は人気と相まって? なのか? 不思議にも所有者が転々と変わっている。タイトルは春(Spring)となっていて、実際内容はメーデー(May Day)に子供たちが花を集めるビクトリア朝時代の慣習を表現。それを古代ローマ帝国時代の春に行こなわれていたポピュラーな祭りであるセレアリアの祝祭(festival of Cerealia)に例えた絵画となっている。が、そもそもCerealia(セレアリア)は穀物の女神セレス(Ceres)の事。彼女はローマ神話に登場する12人の最高神であるディー・コンセンテース(Dii Consentes)のメンバーの1人。※ ディー・コンセンテースとは、ギリシャの神々ではオリンポス12神(Olympus 12 God)の事。穀物神である女神セレス(Ceres)のセレアリアの祝祭(festival of Cerealia)は4月中旬から下旬までの7日間開催されていたらしいが、詳細はわからない。祭りと舞台劇ところで、祭りと言えば演劇がつきものである。セレアリアの祝祭にもBC175年以降、演劇が含まれていたらしいが、神に奉納する演劇のルーツはもちろん古代ギリシャである。古代ギリシャでは演劇は神事に欠かせない捧げ物としてディオニューソス神の祭りから始まったとされる。以前、古代ギリシャと古代ローマの劇場の違いに触れた事があるが、古代ギリシャの劇場にはステージに祭壇が付いていて、ディオニューソス神に敬意を表する儀式から開始され、神に犠牲の動物を奉納するのが伝統であったそうだ。演目は当初は悲劇が中心。後に喜劇やサテュロス劇が加わるが、劇場で神々の物語や後に陥落した街の悲劇も演じられるようになった。※ 演じたのは男性であるが、女性のキャラクターも後に登場してくる。口承で伝わっていた話を、文字に起こし、神々や英雄らを体系的に整理したのが叙事詩人ヘシオドス(ēsíodos)(BC700年頃)が最初と言われているが、個々の神や英雄の詳細は、後世の詩人の創作力による所が大きい? 神事で創造され演じられたギリシャ神話も多かろう。上はアフロディシアス(Aphrodisias)から出土した女神? 「悲しみの仮面」を持っている。劇場に置かれていたものかもしれない。解らないのはなぜ古代ローマ帝国がギリシャの神々をローマに翻訳したのかである。確かにギリシャの文化を継ぐエトルリア文化をもってローマ帝国は建国されているけれど・・。シンクレティズム(syncretism)古代ギリシャのオリンポス12神(Olympus 12 God)をはじめとする神々は対応するように古代ローマ帝国ではローマの最高神ディー・コンセンテース(Dii Consentes)として置き換えられている。因みに、先の穀物のローマの女神セレス(Ceres)は、ギリシャではデーメーテール(Dēmētēr)である。ギリシャ神話とローマ神話の中身が同一だと子供の頃から不思議に思っていたが・・。古代ローマの政治家にして博物学者であるプリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus)(23年~79年8月)はこれら置き換え(translatability)について「nomina alia aliis gentibus(他の国の他の名前)」と表現している。これは単に名前をラテン語に置き換えただけではない。神話や図像さえも自分たちの神と同一化? 同一視? して文化に取り込んでいるのである。「その神様はうちの国ではこう呼ばれているのですよ。」的な事だ。つまり最初からそうであったようシンクロ(同期)させちゃっている?いや? 迎合か?文化が違うのだから、当然相異するべき信仰を、しかも矛盾するようなものまでも混合して結合する。と言う荒技でギリシャの文化に乗っかっちゃっているのである。※ 最も全ての宗教でそれができる訳ではないがたいがいの国は後から来た宗教との折り合いを付ける為にしばじば使用されてきた技かもしれない。おもに宗教、神学、神話において、元来異種なものを「無理くり」地元神と関係性を持たせて、地元に根付かせる。的なやり方である。これがシンクレティズム(syncretism)である。ローマがそれをしたのは意図があっての事か? 今回交易で調べていて「ローマの市民権」の下地に「ギリシャの市民権」を借りてベースにしている事などを見ると、もしかしたら古代ローマ人はギリシャ文化を尊厳していたからなのかもしれない。「寄らば大樹の陰」か? 「先祖は一緒」としたいのか? もしそれが正しいなら逆に潔(いさぎ)良い真似方かも・・。アフロディシアス(Aphrodisias)トルコ南西部エフェソスにほど近いアフロディシアス(Aphrodisias)は、BC3世紀に築かれたアフロディーテ(Aphrodītē)神殿を中心にBC2世紀頃に急速に形成された古代ローマの都市群の遺跡がある所。世界文化遺産に登録されている。アフロディーテ(Aphrodītē)神殿BC1世紀のイオニア式神殿 13×8本の円柱を持つ。神域自体はBC3世紀にはあったとされる。東ローマ(ビザンツ)時代はカリア地方の大主教が置かれアフロディーテ神殿はキリスト教の教会に転用されていた時期もある。※ シチリアのアグリジェント(Agrigento)の神殿も教会に転用されてましたね。カリアの町はローマの帝国の軍人ルキウス・コルネリウス・スッラ・フェリクス(Lucius Cornelius Sulla Felix)( BC138年~BC78年)が、デルポイ(Delphoi)の神託を受けてBC82年「アフロディーテ神殿に斧と金の冠を奉納」した事から、以来アフロディシアスの名で呼ばれるようになる。スッラは共和制期末のローマ帝国内で、民衆派の内乱を粛正。その奉納の年に独裁官に就任する。デルポイの神託の効力は本当にあったと言う事か? スッラの後、まもなくローマは共和制から帝制に移行する。この街は以降ローマと関係が深まり大きく発展。ジュリアス・シーザーの頃に街も建て替えられたのかもしれない。特権が彼と帝制ローマの初代皇帝アウグストゥスに与えられている。※ 「アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソス」の中、「リュディア王国とデルポイの神託」でアポロン神殿を載せています。デルポイの神託は本当に人気があったようです。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソス下は一応アフロディーテ(Aphrodītē)と言うことになっているが、本来はカリア地方で祀られていた地元神だったようだ。この土地はアッシリア人により始まっている。ヘレニズム期に歴史の表に出て来た時はエフェソスと同じようにギリシャ的な街造りがされている。アフロディーテ(Aphrodītē)はギリシャのオリンポス神の一柱。ローマ帝国ではウェヌス(Venus) 美の女神ヴィーナスである。ここに、先に紹介した神様のシンクロ(同期)が行われているのであるが、そもそもアフロディーテでもなかったようだが・・。 円形劇場(Theater)ヘレニズム期に造られた劇場は山の斜面が利用されている。聴衆席、半円形舞台(オーケストラ)、舞台の3部構成になっていて、ローマ帝国時代になると、都市の名士の為に半円形舞台の中に特別席がもうけられるようになる。※「アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソス」でエフェソスの劇場も紹介していますがエフェソスの方が規模は大きい。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソス※ 初期の頃「音楽堂と野外劇場と競技場と闘技場」について少し紹介しています。リンク 古代ローマの円形劇場 1 (ギリシャとローマの違い)奧に見えるのはアゴラ(Agora)。 集会場や市場などの商業地区である。オデオン(odeon)音楽堂小規模な劇場である。会議場として造られたのかも。スタジアム(stadium)他の遺跡ではなかなか見られないほぼ完璧なスタジアムが見学できる。地中海域では一番良い状態のものらしい。262m×59m トラックのサイズ 225 m (738 ft) × 30 m (98 ft).30000人収容スタジアム内の石の残骸は、かつて地震で劇場が失われた後、ここを一部改装して劇場を造った跡らしい。テトラパイロン(Tetrapylon) 門かつては、街は城壁で囲まれて4つの門があったのかもしれない。3つの門と書いている人がいるがテトラ(Tetra)と言うのだから4つのはず。この門は街のメインストリートの北に位置するので古い時代の北門か? と思ったが東門らしい。街はさらに拡大している跡が空撮でわかるので、すでに門ではなく、街のモニュメントと化していたのかも。メインストリート度重なる地震で修復はままならず、最後は放棄? ポンペイと違った事情で保存されたのである。この遺跡は割と良く残っている方である。共和制ローマの時代から最終的に14世紀までアフロディシアス(Aphrodisias)は辛うじて存続したが、やはり衰退のきっかけは度重なる地震の影響かと思われる。ウィキペディアには7世紀初めの地震となっているが、トルコの地震の歴史から見ると該当する巨大地震は以下3件。262年のアナトリアの西と南の海岸に起きた震度9の地震。※ エフェソスの街の多くが倒壊している事からご近所のこちらも同じレベルと考えられる。526年のアンティオキアを中心にした震度8の地震。557年のコンスタンティノポリスで起きた震度10の地震。※ 東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の首都コンスタンティノポリスは完全倒壊していたらしい。※ 550年の地図をベースに書き込みました。557年と言えば先にも紹介した東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(在位 : 527年-565年)の治世である。前回紹介したよう、542年~543年頃、歴史的パンデミック(pandemic)が起きたばかりである。立て続けに557年の巨大地震では、再征服など行けるわけがない。マルクス・アウレリウス・アントニヌスの治世同様にユスティニアヌス1世の治世後半は気の休まる時が無かったと言う波乱の時代だったかもしれない。ところでアフロディシアス(Aphrodisias)の街の繁栄は近隣での大理石の採掘にあった。同時に彫刻でもローマ帝国内でカリアの彫刻師は評価が高く、石のみならず、彫像も小アジアの属州や帝国の各地に輸出される交易品だったのだ。どこかの壁面に組み込まれていた? と思われる巨大パーツの彫刻。改めて「手彫り」なのだと思うと凄い作品です。アフロディシアスには彫刻家の学校がヘレニズム時代後期から存在し、5世紀の東ローマ帝国時代までは盛況だった? らしい。技術のある職人が育ち、また寄って来ていた事もあったのだろう。完成、未完成の大理石の彫像や石棺がアフロディシアスには埋もれていたのである。前回「アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」で紹介した「ロリカを付けたアウグストゥス帝」の大理石の彫像もアフロディシアスの工房作品だった可能性が極めて高い。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックローマ帝国を終焉させた? ヘラクレイオス1世栄耀栄華(えいようえいが)を極めたローマ帝国はいつのまに消えたのだ? と思っていたのは私ばかりではないだろう。ローマ帝国の歴史はユスティニアヌス1世(在位 : 527年~565年)あたりでだいたい終わっている。正式に東ローマ帝国が滅亡するのは1453年。まだ900年弱残っているのにだ・・。1453年の滅亡の時はすでに歴史の主役では無くなっていたからまさにフェードアウトして行った感のある終わり方である。滅亡するまでの間に何があったのか? これを説明するのは確かに容易ではないし長い歴史を細かく説明するのは無意味かと思う。私流のザックリ解説です。ユスティニアヌス1世以降は東ローマ帝国自体が変容してもはや今までのローマ帝国では無くなった。・・と言うのが大きな理由の一つだと思う。ユスティニアヌス朝もユスティニアヌス1世を除いて以降ろくな皇帝は出なかった。強いて言うなら次の朝を築いたユスティニアヌス1世の縁戚、ヘラクレイオス1世(Heraclius)(575年頃~641年)(在位:610年~641年)は特筆しなければならない皇帝だ。※ 彼はクーデタを経て帝位に就いている。ヘラクレイオス1世が帝位に就いた時は前回紹介したようユスティニアヌスの時代に発生した疫病がパンデミックとなり60年にわたって流行していたし、先に紹介している557年にコンスタンティノポリスで起きた震度10の地震の影響で人口が激減していた。※「アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の中「ユスティニアヌスの黒死病」で書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック壊滅した帝都コンスタンティノポリスの再建で莫大な費用がかかっていたし、属州だって同じくパンデミックと地震の影響で壊滅状態。穀物の生産もままならなかっただろう。国庫は財政破綻の状態であり、当然軍事力も低下していた。そんな時にサーサーン朝ペルシアに襲撃され大事な穀倉地であったシリア・パレスティナを、次いでエジプト・アナトリアを占領されローマ帝国の権威が失われる事態が起きる。一度は絶望したヘラクレイオス1世であるが627年にニネヴェの戦いでサーサーン朝に勝利、翌628年に自らサーサーン朝の首都クテシフォンへ侵攻し、結果サーサーン朝は滅亡する事になる。が、勝利の向こうで、次の強敵、イスラム教を信仰するアラブ人の勢力がシリアへの侵攻を開始していた。636年、自ら軍を率いるがヤルムークの戦いでアラブ人に敗戦。シリア・パレスティナを今度は別の敵に奪われる事になったのだ。※ シリア・パレスティナを失った事はローマ帝国にとって非常に大きな痛手となった。このイスラム教を信仰するアラブ人の勢力こそが、中世期のキリスト教国を苦しめる最大の敵となるのである。話しはヘラクレイオス1世に戻って、抵抗むなしく帝国領土を減らす事になった皇帝ヘラクレイオス1世であるが、それ以上の功罪が彼にはある。彼の治世に公用語をラテン語からギリシア語へ切り替えたのだ。「公用語はラテン語」と言うのはローマ帝国のアイデンティティ(identity)であったと言える。もはやローマ市民のローマ帝国ではなくなり、ギリシア人のローマ帝国? になってしまったようなもの。これはもうローマ帝国ではないだろう!! と私もツッコミたくなる。この時点で「ローマ帝国は終わった。」と言うのも確かに、致し方無いのだ。アウグストゥス(Augustus)からバシレウス(Basileus)へアウグストゥス(Augustus)は、ラテン語で「威厳者」または「尊厳者」を意味する歴代のローマ皇帝の称号のひとつ。初代ローマ皇帝アウグストゥス(オクタウィアヌス)以降ローマ帝国の皇帝を示す最高の称号であった。しかし、ヘラクレイオス1世はそれを好まずギリシャ語で「主権者(sovereign)」を意味するバシレウス(Basileus)と称している。それはギリシア語の君主の称号を意味。そしてその称号は以降の東ローマ(ビザンチン)帝国で800年間使用される事になる。ローマ帝国がローマ帝国でなくなった決定打かもしれない。東ローマ(ビザンチン)帝国と 元 西ローマ帝国領の関係前回の「アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の中で以下に紹介している。東西の皇帝は等しく同等の権限を有し、東西いずれかの皇帝が没した時は残り一方の皇帝が東西の両地を統治する事が決められていた。それ故、西ローマ帝国が滅した時は東ローマ帝国の皇帝が全土を担当することとなり、法律的にはローマ皇帝権の再統一がされた事になった。476年、軍人オドアケルがクーデターを起こし西ローマ帝国の皇帝制は解体された。この時、西ローマ帝国は実質滅亡した。先の事を踏まえると、もはや東ローマ(ビザンチン)帝国自体も以前のローマ帝国では無くなっていたが、かつての西ローマ帝国領は、まだ東ローマの直轄領としてイタリア半島にも残っていたのだ。※ イタリア半島でもローマやラヴェンナ、地中海域にはシチリア島やサルデイーニャ島など。下は717年、東ローマの直轄領の販図。かつての規模のローマ帝国はもう無い。驚く程縮小されている。地図はウィキメディアのを借りて若干構成を変えました。そもそも西ローマ帝国で皇帝がないがしろにされていたのはローマ教皇の力が強かったからに他ならない。しかし、ローマ教皇は軍隊を持たない。それはこれから起きるイスラム教徒の侵略に対して絶望的な事態を招いたのである。※西ローマの皇帝制が解体された時、付随する軍隊も当然消滅している。危機の時は本家の東ローマ(ビザンチン)帝国がフォローしなればならなかったのだが・・。いざ危機となり、ローマ教皇は再三助けを求める手紙を送っても、ローマがまさに襲われた時でさえ東ローマ(ビザンチン)側は軍隊さえ送ってくれなかった。もっとも東ローマ(ビザンチン)側にもそんな余裕はなかったのだ。だからイタリア半島のみならず、地中海域の警備もがら空きの空白を生んでいた。だからその時になって、ローマ教皇側は慌てて自衛の道を探る事になった。因みにこの時の恨みは後に東ローマ(ビザンチン)が滅亡する時の因縁となる。ローマ教皇とカール大帝教皇に応(こた)えてくれたフランク王国のカール(Karl)王(742年~814年)に大帝の称号を与えたのはまさにローマ教皇の感謝であったが、同時に神聖ローマ帝国と言う新たなローマ帝国の樹立は東ローマ(ビザンチン)帝国との縁切りを示していたと思われる。カール(Karl)大帝=シャルルマーニュ(Charlemagne)大帝 神聖ローマ皇帝(在位:800年~814年写真はウィーン王宮内宝物館で撮影北方蛮族でしかなかったフランク族であるが、カトリックに改宗したのはどこよりも早かったと言う。ローマ教皇レオ3世(Leo III)(750年? ~816年)(教皇在位:795年~816年)はカール(Karl)王率いるフランク族の軍事力に賭けたのだ。フランク王国の覇権は北はドーヴァー海峡、南はピレネー山脈。東はライン川を越えてエルベ川に達していた。イタリアではロンゴバルト族を南伊に排除し勢力を拡大していた。カール王はローマ教皇レオ3世により「神聖ローマ帝国の皇帝」に任ぜられた。つまりかつてのローマ帝国に変わり、カール大帝はキリスト教国である西欧の国を守る大任を教皇からまかされたのであった。もっとも二人の死後、再び戦乱となるが・・。以前、ザルツブルグのザンクト・ペーター修道院の所で「カール大帝の文教政策」について書いています。軍才だけでなく、考え方においても、統治者としても、ただ者ではなかった。リンク ザルツブルグ(Salzburg) 5 (ザンクト・ペーター墓地・カール大帝の文教政策)イスラム教徒の海賊に荒らされる地中海622年~750年に至るイスラム帝国の販図 ウィキメディアから借りたものに書き込みしました7世紀に入ってイスラム教徒の勢力が拡大。時代的に先に紹介した東ローマの直轄領の販図に重なる時代です。ローマ帝国の力が弱まってくると北から、東からゲルマン民族が流入し戦いが続く。すでにイスラム正規軍?はイベリア半島を手中にしピレネーまで越えようとしていたし、中東やアフリカはイスラム化してその彼らは盗賊や海賊となってまずは地中海から欧州への侵略が始まったのである。同時に各地で起こる侵略者との戦いにローマ帝国の軍隊は足り無かった。もはや東ローマは自身の帝都も危ぶまれる事態であり、かつてのように地中海の警備もままならず、地中海は盗賊の思いのままに荒れ放題と化す。※ ローマ帝国が安泰していた時代は帝国の海軍が地中海交易の安全を確保していた。ローマ帝国による地中海の警備がいつの頃からか? 消えた。地中海域でのかつての大規模農園は中世まで多少残るには残ったらしいが、輸送途中でイスラムの海賊に襲われる事も・・北アフリカのイスラム教徒は誰もが盗賊となって地中海に繰り出した。人を人と思わない誘拐に近い略奪。それは聖戦の名の元に彼らは正当化した。地中海域の島や沿岸(フランス南岸やイタリア半島)では多くのキリスト教徒のローマ市民が連れ去られ、売られイスラムの奴隷として生涯を終えるなどと言う暗黒時代を迎えたのである。中世初期から中世に至る暗黒の時代(Dark Ages)とはまさにイスラム教徒の侵略によるキリスト教徒の苦難を指している。サラセン(Saracen)の海賊中世のローマ帝国側ではイスラム教徒の海賊達をサラセン人(Saracen)と呼んでいた。本当はアラブ民族でも砂漠に住むベドゥインを指したワードだったらしい。北アフリカにいた彼らベルベル人やムーア人はイスラム教徒となり、海賊を生業(なりわい)にしたからだ。古代ローマの時代の北アフリカでは牡蠣の養殖や大規模な生け簀で魚も養殖していたらしい。また大規模農園が広がるローマ帝国の重要な穀倉地帯でもあったのに、彼ら新たなイスラムの住人は農業など見向きもしなかったらしい。(そう言う仕事は得意ではなかったのだろう。)アルジエリアとチュニジアは7世紀末には完全イスラム化。中世を通じて海賊の一大基地に成り上がったと言う。サラセンの海賊が常用するのはガレー船の中でも小型のフスタ(fusta)。帆柱は1本、船の長さと同じくらいに大きな三角帆。漕ぎ手は16人~20人。船頭に漕ぎ手と戦闘要員を合わせても40人程度の乗員。そんな彼らの海賊行為はまさに行き当たりばったり。地中海の島々や、後にフランス南岸やイタリア半島に密(ひそか)に忍びより、村人をさらい、食糧など奪い逃げる。組織化された海賊ではないが部族単位? そんなのが無数にいて、地中海の島々や後にフランス南岸、イタリア沿岸は彼らのターゲットとなるのである。村々では自衛の為に「サラセンの塔(Torre Saracena)」と呼ばれる見張塔を建てる事になる。それで彼らが忍び寄るのを監視したのであるが、フランスやイタリア沿岸の海岸腺に沿って無数に建てられていたのだからいかに酷かったか・・を物語っている。今も地中海沿岸にはそれら塔が残っていたりする。下はイタリアのアマルフィから 見張塔 トッレサラチェーノ(Torre Saracena)の跡である。アマルフィの街は840年頃に作られたと言うが、すでに当時は海賊に侵略されていた防衛の痕跡がある。アマルフィ(Amalfi)の街はそもそも絶壁に建っているが、他の島や沿岸の村々でも、みな高台に居を構えるにいたったのである。当然、襲われにくいし、逃げられやすいように・・。決して風光明媚(ふうこうめいび)などと言う事情ではなかったのだ。イスラム教徒は、オセロのように世界をイスラム教一色に変える為に戦いを拡大して行く。「右手に剣、左手にコーラン」がスローガン。「誤った教えを信仰する異教の信徒に対して、武力を持って(強制時に)改宗させる。」それこそが彼らの言う「ジハード(jihād)」だった。※ イスラム法学上のジハードは、まさにこの異教徒との戦闘を意味するそうだ。また、それを達成する為にはどんな手段であっても問題無しとされた。アマルフィ(Amalfi)の街からアマルフィ大聖堂(Duomo di Amalfi)聖アンデレに献堂されたのでサンアンドレア聖堂(Cattedrale di Sant'Andrea)とも呼ばれる。987年頃、マンソネ(Mansone)公爵によって建てられたと言う。入口の門の写真のみウィキメディアからかりました。Xにクロスした十字架で殉教したのでそれが聖アンデレ(Sant'Andrea)の象徴となっている。景観が人気のアマルフィ海岸であるが、そもそもこんな土地だから耕地は無い。輸出に向けられる特産品も無い。だから彼らは海に出て行くしかなかった。アマルフィはイスラムの攻防の後に海洋都市国家に成長して行く。土地は少ないのにイタリアを代表する4つの海洋都市国家の一つにまでなったのである。イスラムと渡りあえる海上戦力が役にたったのだろう。海賊に侵略されていた過酷な時代があったとは、今の人は思いもよらないだろうが・・。ところで、サラセン人の海賊行為も後にビジネスライク(businesslike)な変化を遂げる。拉致した人々は当初は奴隷として売り飛ばされていたが、新たに身代金を取ると言うビジネスが生まれたのだ。身代金は身分の高い者からだけでなく、都市全体も対称となった。街や村の回りを荒らし回り、彼らを散々脅してから退去をほのめかしお金を受け取る。シチリアの守備の堅かったシラクサまでもが身代金を払って退散の取引をしていると言う。彼らサラセン人も海賊であげた収益の一部を上納していたからだ。つまり、正規のイスラム軍ではなく、彼らサラセン人の場合は、聖戦に関係なく、単純にビジネス海賊だった? と言える。シチリア島もシラクサを除いてイスラムに略奪された。965年に全島が陥落すると都はパレルモに移される。そうなると彼らの次の狙いはイタリア本土。シチリアを拠点に襲って来るのだから皆戦々恐々。アマルフィだって対岸の近くだ。そしてついにイスラム軍はローマにまで達するのである。そんな時代だから地中海で遠くに船を出す事さえ危険でできなくなった。共和制から帝制初期のローマ帝国で行われていた大型輸送船による大規模な物流などすでに夢幻(ゆめまぼろし)? キリスト教徒側からしたら危険な地中海での交易は消えたに等しい、だが、イスラム側からすれば地中海でのキリスト教徒を対象にした誘拐略奪行為自体が地中海交易の目玉であったと言える。これは落ちか? せっかくなのでアマルフィの写真を追加しました。ムデハル(mudejar)様式に似たアマルフィの大聖堂実は大聖堂の建築にイスラム建築の影響が見られるのです。実際、アマルフィはイスラムの支配を受けた事はないはずなのですが・・。それはまるでイベリア半島のムデハル様式のようなミックス? なのです。教会横の鐘楼は、そもそもイスラム教のミナレット(Minaret)のようです。※ イスラム教の礼拝の呼びかけをするアザーンが流される塔。マジョルカのタイルで装飾されているらしい。タイルを使うのはそもそもスペインだものね。イタリアならガラスのモザイクが本当。教会の工事をしていない状態の時の正面写真。逆光だし、カメラの解像度も悪いのであしからず。増築されてチャンポンなのは解るが・・。やはりモスクの跡を改築したように見えてしまう。もっともシチリア島でイスラム文化が育っていたのでブームはあったらしいが・・。天国の回廊(Chiostro del Paradiso)ロマネスクのようでロマネスクでも無い。以前アルカサルの所で紹介していましたが、ムデハル(mudejar)様式 はイベリア半島がレコンキスタ(Reconquista)された後に育った特殊な融合文化です。それはイスラム教徒の建築様式にキリスト教の建築様式が融合された特異なスペインの建築スタイルです。※ キリスト教国家によるイベリア半島の再征服活動がレコンキスタ(Reconquista)です。そもそもムデハル(mudejar)とは、イスラム教徒を指すワードです。レコンキスタされ、イスラムの国からキリスト教の国に変わった後も、改宗して土地に残った元イスラムの人々をスペインではモリスコ(Morisco)と呼んでいました。その元イスラム教徒の職人達(モリスコ)の技術がいかされて、キリスト教の様式と融合。ムデハル様式(イスラム的要素のある様式)が生まれたようです。それは単純な「文化の融合」ではなく、ムデハル達の職人技術の上に成り立つ様式なのだそうです。それが、シチリアでも育っていたのかもしれません。さすがにイタリア全土には及ばなかったかもしれないが、シチリアに近い地中海の湾岸部ではそうしたモリスコ系のムデハルのデザイナーや職人がたくさんいたのかも知れない。実際、シチリアのバレルモにあるヌォーバ門(Porta Nuova)は確実に影響が出ています。参考にヌォーバ門(Porta Nuova)紹介どう見たってムーア人にしか見えません。1535年、神聖ローマ帝国皇帝カール5世が隣接するノルマンニ宮殿(Palazzo dei Normanni)に入城する記念に建築されたらしい。そもそも、何で門柱にムーア人像を取り付けたのか? 理解できません。魔除け?※ カール5世(Karl V)(1500年~1558年)。スペイン国王としてはカルロス1世(Carlos I) 神聖ローマ皇帝(在位:1519年~1556年) スペイン国王(在位:1516年~1556年)エマヌエル通りの終点に位置する。観光の目玉らしいが、これを見て皆は何を思う?さて、今回も長くなりましたが、実質のローマ帝国はここで終わりとします。が、11世紀から始まるキリスト教徒側の反撃? 西ローマ側だった者らによるエルサレム奪還の十字軍の遠征。西側はそのどさくさで東ローマ(ビザンチン)帝国を滅亡に導いている。次回は、海洋都市国家の予定ですが、伏線として「インド・ヨーロッパ語族(Indo‐European languages)」の説明を「モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人」に入れてます。リンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人Back numberリンク 静物画にみるメッセージリンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa) アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2021年04月07日
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ラストにBack number追加しました。「騎士修道会 3 (ロードスの騎士)」の所にウイーンのマルタ教会の写真を追加しました。マルタ教会は聖ヨハネ騎士団をルーツとする教会です。リンク 騎士修道会 3 (ロードスの騎士)パンデミック(pandemic)とは、人にも感染する動物由来の感染症が、地理的に広い範囲で感染拡大(世界的流行)し、結果多くの感染患者を出す状態です。現在世界で流行しているコロナウイルスの蔓延がまさにパンデミックですが、歴史を紐解くとペストや天然痘によるパンデミックの発生がかなり伝えられています。今回、ローマ帝国の歴史を振り返り、イスラム海賊の実態にも驚きましたが、古代ローマ帝国の衰退の影にあった2つの大きなパンデミックに触れないわけには行かなくなりました。ローマ帝国の最強神話がくずれ始めた要因の一つは歴史的なパンデミックが発端であった事に間違いありません。最初はマルクス・アウレリウス・アントニヌス(在位:161年~180年)の治世。次は東ローマ帝国のユスティニアヌス1世(在位:527年~565年)の治世。いずれも大量の死者が出て都市機能もマヒ。人口の減少、食糧難。これらはローマ帝国の軍隊にも当然大きく影響した。マルクス・アウレリウス・アントニヌスの時は165年から167年にかけてメソポタミアで始まり軍により166年にローマに運ばれた。165年~180年まで続いたと記録されているようです。東ローマ帝国のユスティニアヌス1世の時は542年~543年頃エジプトで始まりパレスチナ経由で帝都コンスタンチノープルに到達。流行の最盛期は1日に5000~10000人の死者が出たと言われ、人口の約半数を失い帝国は一時機能不全に陥たと記録されている。しかも最初の発生から約60年にわたって流行したらしい。※ 昔はワクチンだって無いし治療法も当然無いから自然終息しかなかったのだろう。何よりユスティニアヌス1世自身がこの感染症に感染しているし、人口の減少は軍人不足となる。ユスティニアヌスが推し進めていた帝国の再統一を完全に断念せざる終えない結果となって現れている。今の私たちなら、このパンデミックの危機が理解できるだろう。歴史に残るパンデミックなのだ。一過性の伝染病の扱いですむ訳がない。確実にローマ帝国の歴史にインパクトを与えた事件です。ところで、これは「欧州の交易路」の話でしたが、次をどこから始めるかが大きな悩みでした。番外にするか? とも思ったのですが、やはりここはローマ帝国の滅亡に至る歴史をスルーするわけにはいかない。しかし、ローマ史は長い。短くしても長い。さらにパンデミックと経済を足しているからね。そんなわけで、今回はローマ帝国を衰退させた大きな要因の一つ、パンデミックの話。次回、地中海を荒らして暗黒の中世と言わしめたイスラムの海賊の話しと2回に分けて三度ローマ帝国の話になります。長くなりすぎて分割しました f^^*) ポリポリ これで前半です。アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック皇帝の遊戯 ヘリオガバルスのバラ初期の帝国と属州五賢帝とローマ帝国の販図伝染病の季節3世紀の危機帝国の分割統治テトラルキアとディオクレティアヌス農業形態の変化と停滞したローマの再建再びローマ帝国を一つにしたコンスタンティヌス1世地中海交易を牽引したソリドゥス金貨(Solidus)ドルの通貨記号はなぜDではなくSなのか?東ローマ帝国と西ローマ帝国、そして西ローマの解体「眠らぬ皇帝」ユスティニアヌス1世の挑戦ユスティニアヌスの黒死病以前、「ローマ帝国のシステムでは、無産市民は兵員になれなかった」と紹介した事があるが、カラカラ(Caracalla)帝(188年~217年)(在位209年~217年)は212年「アントニヌス勅令(Constitutio Antoniniana )」を発布し全属州民にローマ市民権を与えている。これは今まであった差別を取っ払った素晴らしい英断のように思えるが、実際の所は増税が狙いであった。今までローマ帝国では市民権を有さない者は相続税や奴隷解放税などが免除されていた。決してローマ帝国が金欠だったわけではない、もっとお金を必要としたのは兵士の俸給を上げる為であったらしい。前帝の遺恨に「兵士を富ましめよ。」とあったと言う。カラカラは兵士の俸給を年額500デナリウスから750デナリウスへと1.5倍も昇給させているのである。確かにローマ帝国にとって兵士は大事。彼にとっても頼れるのは兵士のみ? (元老院とは敵対)だから兵士からの人気は絶大であったらしい。最も遠征中に29歳の若さで暗殺されているが・・。※ カラカラ浴場の建設も有名であるが弟を殺すなど人としては問題のある皇帝であった。なぜ紹介したかと言えば兵士の待遇である。給料が良ければ兵士は集まる。ローマ帝国の躍進は兵士なくしては成り立たなかったのだから兵士に十分な給料が払えるうちは帝国は安泰だったと考えられる。だが、そうも言っていられない事情で兵士不足が起こっていた。かつての強靱(きょうじん)な軍隊はどこへ? ローマ帝国は属州を守る為の軍隊さえ出せなくなって縮小されていく。皇帝の遊戯 ヘリオガバルスのバラヘリオガバルスのバラ(The Roses of Heliogabalus) 1888年画家ローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema)(1836年~1912年)「Juan Antonio Pérez Simón」コレクション英国の男爵Sir John Richard Airdの発注で描かれたローマ帝国の23代皇帝ヘリオガバルス(Heliogabalus)(203年~222年)(在位218年~222年)の遊戯を描いた図。天幕の上の大量の花を来客の上に突然落として驚かすと言うネロ帝もやっていたと言うサプライズである。実際には大量の花で窒息死する者も出ていたと言う。※ 本来はスミレの花などが使用されたと言うがアルマタデマはバラの花をフランスから取り寄せて描いている。ヘリオガバルス帝はカラカラ帝の従姉妹の子供。現在ではヘリオガバルス帝はインターセックス(intersex)であったと理解できるが、娼婦になったりと奇っ怪な行動で有名であった。母と祖母の摂政で15歳で皇帝になるが、その行動故に19歳で暗殺されている。アルマ=タデマは好きな画家の1人である。彼は古代ローマやギリシャをモチーフに多くの美女の絵を残している。実に写実的に美しく描いた人である。実際の富めるローマ帝国の時代に、皇帝らはこんな事もしていたと言うイメージでまずは美しい絵を載せてみました。初期の帝国と属州帝国の属州は元老院管轄地と皇帝直轄地に二分される。治安の安定した元老院管轄の属州では元老院が属州総督を選出し派遣したが治安の安定しないガリア、イスパニア、ダニューブ地方、エジプト、シリアなどの帝国辺境地には尚、強力な軍事力で押さえる必要があり、皇帝によって任命された使節レガトゥス(legatus)が置かれた。つまり軍人総督である。※ レガトゥス(legatus)はラテン語で使者、使節、軍隊の副官、司令官、総督代理など高級将校や幕僚。エジプトなど豊かな穀倉の属州は皇帝の私領のように扱われ、元老院の影響が及ぶ事は無いよう排除されていた。それは次の理由による。皇帝直轄の属州における正規軍(ローマの市民)の常駐に加え補助軍隊として属州民で編成された軍団で軍事力を強化。また皇帝の身辺を警護する近衛軍の創設。それら経費は国庫だけで賄えないので皇帝直轄の属州からの収入が充てられていたからだ。初代皇帝のアウグストゥスは権限と権威を持って元老院を納め元首政(Principatus)を開始。帝国を支える軍隊と財政をしっかり確保して帝国を不動のものとし、ローマ市民や属州民の支持も得ていた。初代ローマ皇帝アウグストゥス(Augustus)(BC63年~BC14年)(在位:BC27年~AD14年)本名 ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス(Gaius Julius Caesar Octavianus Augustus)写真は上下共にウィキメディアから借り下は部分カットしています。プリマポルタのアウグストゥス(Augusto di Primaporta)別名アウグスト・ロリカート(Augusto loricato)。戦闘直前のサインを出す瞬間の姿らしい。ローマ時代のロリカを付けたアウグストゥス帝の大理石の彫像です。高さ2.04m。※ 元々は大理石の上に彩色されていたらしい。※ 足下にいるのはヴィーナス神の子エロス。ユリアス家はヴイーナスの子孫を公言している。1863年、ローマの北に位置するプリマポルタ(Prima Porta)にあるアウグストゥスの妻リヴィアドルシラの別荘(villa)から発見された。(それ故保存状態が良い。)現在はバチカン美術館に保管されているようです。自分の写真に無かったので撮影できなかったのかも。ロリカの正面図柄にはローマの軍旗を返すパルティア王フラーテス4世(Phraates IV)。※ パルティアとはBC20年に和議を結んで戦争を回避している。※ BC17年には内外にローマの平和を宣言する世紀の祭典を開催。BC28年~BC27年頃の作とされているが、パルティアの和議を考えるとBC20年~BC17年頃かも。尚、誇張していたとしてもおそらく、最も本人に近い彫像と考えられている。五賢帝とローマ帝国の販図ローマ帝国始まって以来の平和と繁栄が訪れた時代がこの五賢帝(ネルウァ=アントニヌス朝)の時代である。アウグストゥス帝より始まり「五賢帝」の最後マルクス・アウレリウス・アントニヌスの終わりまでをローマ帝国の平和の時代としてパクス・ロマーナ(Pax Romana)と呼ぶ。五賢帝(ネルウァ=アントニヌス朝)12~16代皇帝ネルウァ(Nerva)(35年~ 98年)(在位:96年~98年)トラヤヌス(Trajanus)(53年~117年)(在位:98年~117年)ハドリアヌス(Hadrianus)(76年~138年)(在位:117年~138年)アントニヌス・ピウス(Antoninus Pius)(86年~161年)(在位:138年~161年)マルクス・アウレリウス(Marcus Aurelius)(121年~80年)(在位:161年~180年)ところで、たまたま能力のある皇帝が5代続いたわけではない。帝位の継承を血の世襲とせず、広い範囲から有能な人材を抜擢して養子にしてから帝位を継承していたからである。帝国の販図は第13代ローマ皇帝トラヤヌス(Trajanus)(53年~117年)(在位:98年 ~17年)の時に最大規模となる。経済もしかり。117年トラヤヌス帝からハドリアヌス帝の時 ローマ帝国最大の販図ローマ帝国(Roman Empire)競合する地域(Contested Territory)一時的な征服(Tenporary Conquest)トラヤヌス(Trajanus)(53年~117年) 13代皇帝(在位:98年~117年)ウィキメディアからローマ帝国の販図は最大規模となる。トラヤヌス帝は初の属州出身の皇帝であるが軍人として有能であり元老院からも信頼され尊敬されるべき人物であった。治世19年の間に現ルーマニアにあたるダキアとシリアの要所ナバテアを併合。かつてのペルシャ帝国領のパルティアまで及んでいた。とは言え、まだ当時は近隣諸国が脅威になる程の力を持っていなかった時代らしい。ハドリアヌス(Hadrianus)(76年~138年) 14代皇帝(在位:117年~138年)ウィキメディアから帝国の拡大路線は止めるが治世の半分を属州の視察に費やし国境安定化と街の防壁建造など防備もした。私が特筆したいのはハドリアヌス帝がローマ市内のパンテオン(Pantheon)を再建し、ここをあらゆる神を祀る万神殿とした事。各属州を回ったハドリアヌスは、それぞれの属州の文化を尊厳(そんげん)したのである。ローマ帝国が多神教と言うのもこれで納得できる。下はローマにあるパンテオン(Pantheon) 写真は上下共にウィキメディアから借りてきました。実はこの建物はハドリアヌス帝が再建(118年~128年頃)した当初のオリジナルなのです直径43.2m の円堂の上に天窓の開いたドームが載った構造で、壁面の厚さ6mのローマン・コンクリートでできている。天窓のオクルス(oculus)などネロ帝の黄金宮殿ドムス・アウレア(Domus Aurea)の建築が応用されているらしい。ローマ帝国がキリスト教を国境にした後、608年頃キリスト教の聖堂となった。ラファエロの墓がここにある。アントニヌス・ピウス(Antoninus Pius)(86年~161年) 15代皇帝(在位:138年~161年)ハドリアヌス帝の路線を継承彼の治世は「歴史が無い」と皮肉るほど平和で安泰した時代だったらしい。マルクス・アウレリウス・アントニヌス(Marcus Aurelius Antoninus)(121年~180年)16代皇帝(在位:161年~180年)ウィキメディアから先に紹介したとおりマルクス・アウレリウス・アントニヌスの治世165年~180年は疫病が大流行した。彼の治世は戦争や洪水、飢餓、疫病が相次ぎ気の休まる時が無かったと言う波乱の時代であった。ローマの平和、パクス・ロマーナ(Pax Romana)はここに終焉する。アルメニアの覇権をめぐるパルティア王国と戦争に勝利したは良いが、ローマに凱旋した軍隊が戦利品だけでなく、疫病も運んで帰還したのである。600万人以上の犠牲者を出した。アントニヌスのペストと呼ばれているが、実際は天然痘によるパンデミック(pandemic)だったようだ。もっとも天然痘の他にも腺ペスト、麻疹(はしか)、インフルエンザが大流行している。この天然痘はそのまま定着して残りその後も猛威を振う。ローマの歴史家カッシウス・ディオ(Cassius Dio)によれば,189年に再び発生した疫病では1日2000人の死者を出し、帝国全土に広がり総死者数は500万から1000万人と推定されている。※ カッシウス・ディオ(Cassius Dio)(155年,163年,164年~229年)は22年間で80巻からなる「ローマ史」を書き残している。The angel of death striking a door during the plague of Rome疫病のローマでドアを叩く死の天使伝染病の季節毎年の夏のポピュラーな疾病は腸チフス、マルタ熱、マラリア。次いで肺炎、結核でこれらで当時の死亡率の60%を占めていたのではないか? と推測されている。またこれらに次いで、赤痢、コレラ、壊疽(えそ),壊血病。さらに少なくなるが恐水病、破傷風、炭疽病、梅毒があったとされる。ローマでは夏の終わりから初秋にかけて成人の死亡率のピークを迎えた。それは夏に伝染病が猛威をふるったかららしい。※ 5歳未満の乳幼児の場合は夏がピーク。※ 1歳未満の場合は1月から2月。これは出生の時期が晩秋から冬が多かった事による。なぜなら1年以内に新生児の30%が亡くなっていたからだ。当時の医学のレベルでは伝染病の流行を止めたり根絶など不可能。パンデミックとまではいかないが、都市の伝染病は度々発生していたらしい。例えば77年のウェスパシアヌス(Vespasianus)(9年~79年)の治世末の帝都ローマでは数週間に渡り毎日1万人が死亡すると言う日が続いたと言うのも記録にある。ところで、ローマの医師達は疫病が発生する場所として、とりわけ沼や池などの沼沢地(しょうたくち)の危険性を知っていた。水流の無いよどんだ場所は病気を媒介する害虫が出る事も解っていたからだ。※ かつて「古代ローマの下水道と水洗トイレ」の中で建国当初のローマ市内の沼地の排水工事について触れています。リンク 古代ローマの下水道と水洗トイレだから医師たちは農場を建てる立地条件として人間や家畜、養蜂用のハチの為にも沼沢地を避けるよう助言も出している。それ故、都市開発の提言もしていたらしいが、ローマ帝国では早くから上下水道が完備されていたにもかかわらず、都市部のローマでさえ衛生状況は良くならなかった。それはローマの街では毎年100万立方メートルの糞尿やゴミが直接テヴェレ川(Tevere)に流されていたからだ。(汚水処理の問題)テヴェレ川の魚は汚染されているので危険。食べるなと言う警告も出される程に。また上水道も一度(ひとたび)上流で汚染されれば最悪であるし、大規模な公共浴場の建設も問題であったかもしれない。飲料となる公共の水道水(泉)が汚染されれば病気はあっと言う間に広がっただろう事も想像できる。※ 公共の泉の汚染は中世都市のペストの蔓延(まんえん)にも言える。ローマ、ベルニーニ広場にあるトリトーネの泉(Fontana del Tritone)このトリトン(海神)像、自体は17世紀にジャン・ロレンツォ・ベル二ーニ(Gian Lorenzo Bernini)(1598年~1680年) がウルバヌス8世のために造ったもの。中世はこんな泉が街の広場に必ずあって飲料となっていた。中世に再建されたウィルゴ水道 (Aqua Virgo) の取水の終端施設として、トレヴィの泉( Fontana di Trevi)が造られている。古代ローマ時代のウィルゴ水道の終端施設はアグリッパ浴場(Thermae Agrippae)であった。※ 古代ローマ時代のアグリッパ浴場(Thermae Agrippae)はパンテオンの南に隣接していた。ウィルゴ水道はローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの腹心であったマルクス・ウィプサニウス・アグリッパ( Marcus Vipsanius Agrippa)(BC63年~ BC12年)が手がけた事業で、同じくアグリッパ浴場はローマ帝国最初のテルマエ(公共浴場)であった。他に彼は最初のパンテオンやポン・デュ・ガール(フランスの水道橋)などアウグストゥス帝の元で多数の建築物を手がけている。※ ポン・デュ・ガール書いています。リンク 古代ローマ水道橋 1 (こだわりの水道建築)サンタンジェロ城とサンタンジェロ橋とテヴェレ川円形をしたサンタンジェロ城(Castel Sant'Angelo)も実はハドリアヌスが建設を指示したものだ。これは彼の霊廟として建てられている。135年建設開始。完成は139年。サンタンジェロ橋の上の10体の天使像はバロックの大家ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini)(1598年~1680年)が据(す)えたもの。サンタンジェロ城(Castel Sant'Angelo)は歴史の中で用途を変えた。サンタンジェロ城と名が付くのは590年に流行したペストの終焉祈願があったらしい。時の教皇グレゴリウス1世。彼は城の頂上で剣を鞘に収める大天使ミカエルを見て命名?※ サンタンジェロ城トップの大天使ミカエル像をモンサンミッシェルで紹介しています。リンク モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエル14世紀以降はローマの城壁の一部に組み込まれ、要塞として、また牢獄や教皇の避難所としても利用された。それ故サンタンジェロ城からコッリドーリ通りに併走して伸びる城壁上の通路がバチカン宮殿までつながっている。下の写真のみウィキメディアからかりました。3世紀の危機帝国辺境の緊張が激化。パルティア王国は滅んだが、226年すでに東方からはパルティアに代わるササン朝ペルシャが勃興(ぼっこう)してきていた。彼らはメソボタミアへ進行。ローマの属州シリアが脅かされていた。ペルシャとの戦いは続く。233年、北方からはゴート人を初めとするゲルマン諸族が西北部国境を越え帝国領に侵入。ドナウ川周辺地域にゴートが侵略し混乱を極める。またローマ自体が異民族の脅威にさらされた。ローマの旧市内を囲むアウレリアヌス城壁(Mura aureliane)(271年~275年)が建設される。皇帝の名を覚える間もなく次の皇帝に変わる。半世紀で70人の皇帝が現れた。そんな激動の時代であった。3世紀の危機は帝国の四方からの異民族の侵略と防戦。政治は軍人による「皇帝の椅子取り合戦」に。さらに、またも疫病の発生による戦力の低下と経済政策の失敗による経済危機の発生である。※ この時期、皇帝自身が敵に捉えられて殺されると言うも失態も起きている。帝国の分割統治テトラルキアとディオクレティアヌスローマ帝国では皇帝に軍事と政治の両方が委ねられていた。つまり皇帝は国家の最高指導者であり、前線における軍の司令官でもあった。だが、このシステムでは同時に2つの才能が要求される。実際、皇帝自身に軍才は無くてもその采配により当初は問題無く機能していたらしいが・・。しかし領土が拡大して度々対外から多数の侵略を受けるようになると皇帝の能力は大きな問題となる。293年テトラルキア時代ディオクレティアヌス(Diocletianus)(在位284年~305年)東方正帝ガレリウス(Galerius)(在位305年~311年)東方副帝から正帝マクシミアヌス(Maximianus)(在位286年~311年)西方正帝コンスタンティウス(Constantius)(在位305年~306年)西方正帝広大な領土の統治と軍の統率は1人では不可能。ディオクレティアヌス帝は皇帝権を正帝2人と副帝2人とに4分割。293年、テトラルキア(tetrarchia)を考案した。テトラルキア(tetrarchia)は広大な領土を有するに至った帝国を合理的に統治する事を目的として造られている。最も当初のテトラルキアは職務の分担であって地理的な分割は想定されていなかったらしいが・・。実質帝国を2分(東帝と西帝の誕生)し自治は4分割した事になる。これは独裁を避ける為でもあったが、次代の皇帝候補が明確にされた・・と言う利点もあった。また皇帝の早期退職も勧めている。皇帝の仕事は厳しく、若くしては足りず、老いては過酷と言う事らしい。また有能な者に帝職を継承させるシステムを構築。これは世襲による特定の一族の権力の集中を防ぐた為でもあったらしい。ディオクレティアヌス(Diocletianus)(244年~311年)(在位:284年~305年)17世紀の大理石の胸像。ウィキメディアから農業形態の変化と停滞したローマの再建 改革だけ見ると策士と言われるほど計算されている。インフレが起きて経済政策だけでも大変な時代であった。この時期、軍を維持する為の財政が破綻し、治安はどんどん乱れていく。海賊や山賊も闊歩(かっぽ)。実はパクス・ロマーナ(Pax Romana)と呼ばれたローマの平和の時代は繁栄の反面経済を停滞させた。征服戦争が無くなった事で物流は減る。また奴隷の供給も減るので奴隷の値段は上がった。共和政末期〜帝政初期に盛んであったラティフンディウム(latifundium)と言う奴隷労働に頼った低コストな大土地農園の経営は、奴隷が減ったので変化を余儀(よぎ)なくされる。奴隷の代わりに没落農民をコロヌス(小作人)として使用するコロナトゥス(colonatus)制に移行せざるおえなくなり当然生産性は低下した。※ ラティフンディウム(latifundium)について書いてます。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 (帝政ローマの交易)難しかったのは宗教の取り扱いだったかもしれない。とりわけディオクレティアヌスは後世のキリスト教徒から嫌われている。彼の時代、辺境出身者が増え、軍の将校にも異民族がいる時代となっていた。もはやローマらしさもラテン語さえも薄れてきていたようだ。それ故か? 彼は古来ローマの神々への礼拝を義務として再興させた。同じ宗教を持って帝国を結束させる。と言う意図があったのではないか? と推察。だがキリスト教徒はローマ神への礼拝をあからさまに嫌う。違反者には罰則もあったのでキリスト教徒限定の迫害ではなかったが結果はキリスト教徒迫害の時代になった。革新的な政策をやってのけ、20年であっさり引退したディオクレティアヌス帝はローマ史においては、やはり特筆されるべき皇帝であったのは間違いない。それにしてもこれだけ大きな帝国ではトップがダメだとすぐにアウトだったのだろう。長く統(す)べた皇帝の特徴から「絶対的能力とカリスマ性」は欠かせない要因であったとつくづく思う。再びローマ帝国を一つにしたコンスタンティヌス1世東西の皇帝は等しく同等の権限を有し、東西いずれかの皇帝が没した時は残り一方の皇帝が東西の両地を統治する事が決められていた。それ故、西ローマ帝国が滅した時は東ローマ帝国の皇帝が全土を担当することとなり、法律的にはローマ皇帝権の再統一がされた事になったらしい。※ ローマ市はいずれの場合も皇帝の支配権が及ばない特別自治として扱われていた。ザックリ説明すると、西方正帝となったコンスタンティヌスはマクセンティウスと戦い勝利する。同盟のリキニウスはマクシミヌスと戦い勝利し、東方正帝となる。後に西方正帝のコンスタンティヌスと東方正帝リキニウスは戦う事になりコンスタンティヌスが勝利した。つまり西方正帝であるコンスタンティヌスが総取りし、ここにローマ帝国は1人の皇帝の元で統一を果たす事になった訳です。コンスタンティヌス1世(Constantinus)(270年代前半の2月27日~337年)(在位:306年~312年)西方副帝(在位:312年~324年)西方正帝(在位:324年~337年)ローマ皇帝ローマ カピトリーノ美術館(Musei Capitolini) ウィキメディアから高さ2.8mの像の頭部コンスタンティヌスの凱旋門(Arcus Constantini)右に見切れているのがコロッセオ(Colosseo)です。312年、ローマ近郊ミルヴィオ橋でマクセンティウス(Maxentius)(278年頃~ 312年)の軍隊に勝利した記念に315年に建立されたとされるが・・・。彫刻に2世紀の部分が含まれているなどリメイクの可能性も指摘されている。確かにローマ帝国では素材の使い回しはあたりまえにあった。コロッセオの壁面の大理石も剥がされたから穴だらけなのだ。※ コンスタンティヌスの凱旋門については「クリスマス(Christmas)のルーツ」の中「ラバルム(Labarum)とコンスタンティヌス帝の戦略」で触れています。リンク クリスマス(Christmas)のルーツ下は凱旋門の側壁上部コンスタンティヌス1世(Constantinus I)はテトラルキアで分割されていた帝国を再統一。306年、元老院から大帝マクシムス(Maximus)の称号を与えられた。ローマ帝国再統一以前、313年、東帝のリキニウスと共に、あらゆる宗教を認めるとした「ミラノ勅令」の発布。即位後にはキリスト教会、初の全体会議となる第1ニカイア公会議を開催。また統一 ローマ帝国の帝都をローマからバルカン半島の東端、コンスタンチノープルに遷都(せんと)した事に加えソリドゥス金貨(Solidus)を鋳造発行。これらは彼の業績の中でも特筆のポイントである。ミラノ勅令についてはリンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾)地中海交易を牽引したソリドゥス金貨(Solidus)ソリドゥス金貨(Solidus)はローマと地中海全域の経済を長期に支えた金貨として特筆される。ディオクレティアヌス帝の時代には、インフレが起きて経済政策だけでも大変な時代であった。と、先に紹介しているが、実は3世紀の危機の時、皇帝が兵士の給料の為に銀の含有量の少ない銀貨の改鋳を繰り返していた。結果、通貨の信用力が落ちて物価が上がっていたのである。もはや多少の通貨改革ではインフレは止まら無かった。ディオクレティアヌス帝は通貨の価値の安定を図るべく経済政策をしているが、これを継承してコンスタンティヌス1世は貨幣改革をした。純度の安定した信用力のある通貨として新たな金貨を鋳造したのである。ローマ人の重量単位1ポンドから72枚のソリュドゥス(solidus)金貨を造った。ソリュドゥス(solidus)金貨の含有量は4.48g(純度95.8%)の高品質。それと共に銀の含有量2.24gの銀貨も発行。ソリュドゥス(solidus)金貨1枚は銀貨24枚に相当。金貨の重量と純度は歴代皇帝によって遵守されたのでこの金貨は国際的にも信頼のおける金貨として700年は維持され地中海世界の交易で利用されたのである。※ 11世紀後半頃から金貨の純度が低下し、信頼も低下。この金貨は1453年にコンスタンティノープルが陥落するまで使用されるが、帝国末、一時は純度が50%を切る時もあったらしい。下はコンスタンティヌス1世の肖像が刻印されたソリドゥス金貨ウィキメディアから借りてきました。ところでドルの通貨記号はなぜDではなくSなのか?ソリュドゥス(solidus)金貨は国際交易において長期に渡り最も信用の高い金貨として評価されてきた。同じく、アメリカの持つ経済力と軍事力を持って今日の紙の米ドル紙幣が国際通貨として末永く流通してほしい?要するに長期に渡り世界で通用されたソリュドゥス(solidus)金貨にあやかって付けられた記号だと言う。諸説ある中の一つであるが、金融関係や貨幣の本ではその説が伝えられている。※ 700年も価値が維持される貨幣はもう出ないであろう。東ローマ帝国と西ローマ帝国、そして西ローマの解体コンスタンティヌス1世(在位:324年~337年)の死後、再び帝国の安定は崩れる。国内ばかりか、外敵との戦いも再び始まった。ローマから遷都した事で帝国の東西分烈の傾向は決定的となる。帝国の重心はアレクサンドリアやアンティオキアなど繁栄が継続した都市を有する東方へ移動したので尚更である。テオドシウス1世(TheodosiusⅠ)(347年~395年)(在位:379年~395年)テオドシウス1世1世の肖像が刻印されたソリドゥス金貨 21mm 4.55 gテオドシウス1世の顔がわかる彫像が見当りません。唯一これです。ウィキメディアからキリスト教を公認した皇帝テオドシウス1世。ソリュドス金貨の裏に天使に祝福される帝と時の皇帝が座っている図が刻印。 379年、ローマ帝国の内戦や異民族の流入が続く危機的状況の中でテオドシウス1世は即位する。380年、宗教的内紛の解決に重点を置いた結果、多神教を棄てキリスト教をローマ帝国の国教に制定した。ところで、テオドシウス1世の治世376年にゲルマン民族の移動が顕著になる。4世紀~8世紀、ローマ帝国領を含む欧州全域が東や北からの民族の 流入? で荒れるのである。気候変動、疫病の蔓延、人口の増加? 食糧難?いずれもDNAをさかのぼればアナトリア(現トルコ)あたりにいたインド・ヨーロッパ語族に集約する民族である。フランク人、ヴァンダル人、東ゴート人・西ゴート人、ランゴバルド人など。彼らはローマ領内の各地に入り建国して行く。西ゴート族はドナウ川を越えて帝国内に居をかまえ始めていたが、食糧が不足して暴徒化。軍と衝突していた。テオドシウス1世は駆逐を諦め、382年に西ゴート族と同盟を締結。彼らはローマ帝国に対し軍事的な援助の義務を負い、その代わりにドナウ川からバルカン半島に至る地方への定住を認めた。また彼はサーサーン朝ペルシア帝国とも講和締結している。※ あっちもこっちも、あまりに数が多すぎてそうせざる終えなかったのかもしれない。そんなテオドシウス1世は異教徒を重要官職に登用するなど、当初はローマの伝統的異教に対してはさしあたり寛容であったらしいが、途中で転換する。ミラノ司教アンブロシウス(Ambrosius)(340年? ~397年)の影響であったと考えられる。それ以前はあらゆる宗教を認めていた。皇帝の礼拝が無くなったので皇帝の大理石彫刻像も消えたのかもしれない。帝国が宗教行事に使用していた予算も見直しされたのだろう。ローマ帝国、建国以来フォロ・ロマーノで女祭司が絶やさなぬよう「聖なる火」を炊いていたらしいが、それもテオドシウス帝が祭祀の予算を中止したことにより無くなった。テオドシウス帝により中止された異教の祭祀の中には古代オリンピックも含まれていた。宗教はキリスト教を強要したが、ローマ帝国の軍事力の主要部分はゲルマン人などの異民族に委ねられて行く事になる。395年、テオドシウス1世が亡くなると帝国は長男と次男がそれぞれ継承し、帝国は2たつに分裂する。395年 東ローマ帝国と西ローマ帝国長男アルカディウス(Arcadius) (377年~408年)東ローマ皇帝(在位383年~408年)次男ホノリウス(Honorius)(384年~423年)西ローマ皇帝(在位:393年~423年)「西ローマ帝国最後の偉大な皇帝」と呼ばれたウァレンティニアヌス1世(Valentinianus I)(321年~375年)(在位:364年 - 375年)の死後、ほとんどの西ローマ皇帝は実権を失い帝国を支えていたのはバウト、アルボガスト、スティリコ、アエティウス、リキメルといった異民族出身の将軍たちだったと言う。そんな異民族だらけのイタリアでは都市住民も減ったから交易も停滞。皇帝はローマを棄て異民族の流入の少ないコンスタンティノープルを帝都にしたので交易は倍増。格差は尚更だ。402年、西ローマ皇帝ホノリウスは西の帝都をローマからラヴェンナに遷都。ラヴェンナは辛うじて交易で栄えた港湾都市。ローマよりもまし? だったのかも。しかしホノリウスの代にはすでにイタリア半島を支配するのも精一杯の状態。以後は異民族に対して常に劣勢。特に西ローマ帝国ではローマ教皇の力が強く皇帝も立場がない。もはやローマ帝国にとって軍事力も無い西ローマ皇帝は無用の存在。423年、ホノリウスは39歳の誕生日を前に子供を残さずに逝去。476年、軍人オドアケルがクーデターを起こし西ローマの皇帝制は解体。西ローマ帝国は滅亡した。東ローマの皇帝は、そこをローマ帝国のイタリア領主と位置づけし、その後のトップはイタリア王を名乗る。ユスティニアヌス1世(Justinus I)(483年~565年)(在位: 527年~565年)黄金の聖体皿を持つユスティニアヌス1世東ローマ帝国ラヴェンナ総督領の首府ラヴェンナ(Ravenn)サン・ヴィターレ聖堂(Basilica di San Vitale) のモザイク壁画から546年~547年の間に司教マクシミアヌスによって献堂。584年、東ローマ帝国がイタリア半島統治のためにラヴェンナに政府機関として総督府をー置いた。※ 戦略的目的があったからだ。上はユスティニアヌス1世の顔である。それ故、このラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂のモザイク画は非常に有名である。何よりモザイク画の出来は良く、以降ラヴェンナはモザイク製作で有名になった。ヴィザンチン文化の代表格として現れるラヴェンナが総督府になるのはユスティニアヌス1世亡き後である。ユスティニアヌス1世とラヴェンナはどんな関係か?上の図はユスティニアヌス1世を宗教的にたたえた典礼の図であるし、対になってテオドラ王妃のモザイク画もある。が、調べて驚いたのはユスティニアヌス1世はこのラヴェンナに一度も来てはいない。上のような典礼も当然行ってはいない。どうもラヴェンナと司教のマクシミヌスが勝手に皇帝を持ち上げて造ったモザイク画であった可能性があるのだ。じゃあ顔も実物じゃないかもね。と言う事です。「眠らぬ皇帝」ユスティニアヌス1世の挑戦下はユスティニアヌス1世(在位527年-565年)時代の帝国領土 ウィキメディアから青色部分が東ローマ帝国領。青色と緑色合わせてトラヤヌス時代のローマ帝国領。赤線は395年の東西ローマの分割線下は590年のイタリア半島。実は虫食いだらけの帝国領です こちらもウィキメディアからローマ帝国の直轄はオレンジの部分のみ。他は異民族の王が納めていた。帝国の中心はコンスタンチノープルに移動していたのでローマ周辺はもはや捨て置かれていた。だからイスラム教徒が大挙してせめて来た時でもままならなかったのである。とは言え、ユスティニアヌス1世(在位527年-565年)は再び帝国の版図を押し広げた皇帝なのだ。彼は帝国の再建(renovatio imperii)を目指した。532年サーサーン朝ペルシアとの間に「永久平和条約」を締結。533年、ベリサリウス将軍を北アフリカへ派遣してゲルマン人国家ヴァンダル王国を征服。東方国境の安全を確保するとユスティニアヌスは西方に目を向ける。535年、ゲルマン人国家東ゴート王国からベリサリウス将軍によってローマを奪回。※ ユスティニアヌス自身は全く戦地に赴いていない。東ゴート王国側の強固な抵抗に遭い戦争は長期化する。それは543年から発生したペストが蔓延したからだ。実際、帝国の人的被害は大きく帝国の拡大は断念せざるおえなくなった。イタリアにおける最終的な勝利とイベリア半島南端の征服は東ローマ帝国の力を示すものとなったが、征服のほとんどは儚いものとなる。ユスティニアヌスの黒死病中世の黒死病はペストと認識されてきたが、英国リバプール大学動物学名誉教授のクリストファー・ダンカン博士(Christopher Duncan)と社会歴史学の専門家スーザン・スコット(Susan Scott)博士による研究で(教会の古い記録、遺言、日記など調査)。黒死病はペスト菌ではなく出血熱ウイルスによるものではないか。と言う論文が出されている。過去の歴史の資料例では、エボラ出血熱、マールブルグ病などウイルス性出血熱にきわめて似ている症例もあったと言う。総じて疫病とするが、病種によっては確実にヤバイ系(全滅するまで)のもあったのかもしれない。ε = ε = ヒイィィィ!!!!(((・・。ノ)ノ542年~543年頃、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)で流行した疫病は帝国の衰退の大きな要因の一つになった可能性が極めて高い。エジプトからパレスティナへ、そしてコンスタンチノープルへ疫病が運ばれると人口の約半数を失い帝都は一時機能不全に陥たと言う。確実に大きなパンデミックである。542年には疫病は旧西ローマ帝国の領域に547年にはブリテン島周辺に567年にガリアへヨーロッパ、中近東、アジアにおいて最初の発生から約60年にわたって流行したらしい。ユスティニアヌス自身も感染。幸い軽症で済み数ヶ月で回復したと言われているが「ユスティニアヌスの斑点」との別称が在る事からやはりペストではなかったのかも。冒頭触れていますが、コンスタンチノープルでは、流行の最盛期に一日に5000~10000人の死者が出て、製粉所とパン屋が農業生産の不振により操業停止に陥った。疫病の流行による東地中海沿岸地域の人口の急減のために「東ローマ帝国による統一ローマの再建」というユスティニアヌスの理想は断念された。非常に長くなってしまいました。これで前半のみです。f^^*) ポリポリ Back numberリンク 静物画にみるメッセージリンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊 アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 (帝政ローマの交易)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2021年03月02日
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関連 Back numberをラストに追加しました。当時のフランスには身分制度があり3つにカテゴライズされていた。第1身分 聖職者(司教、司祭、助祭) 第2身分 貴族 (公爵、侯爵、子爵、男爵)第3身分 平民 (ブルジョア、都市の市民、農民)当時のフランスの人口はおよそ2700万人。比率で言うと、特権階級の第1身分(聖職者)と第2身分(貴族)が全体の2%。(52万人)残り98%が第3身分(平民)である。第1身分(聖職者)は0.5%(約12万人)、国王の権威は神から与えられたものと解釈されていたので、カトリック教会と聖職者は上位にある。司教、司祭、助祭と言っても司教座を持つ大聖堂などの高位聖職者は貴族出身者しかなれなかった。第2身分(貴族) 40万人。階級だけでなく、国王から年金の出る宮廷貴族や、荘園経営して地代の入る地方貴族。司法官などの官職に伴い地位を得た法服貴族の3種類の貴族がいた。※ 法服貴族の地位は金銭で購入する事もできた。貴族と言えど収入がなく、貧しい貴族もたくさんいたが、特権により税の免除などがあったので労働をして税を納めるのは第3身分の平民の役目であった。しかし、逆に第3身分(平民)でも、徴税請負人や銀行家、大商人などお金持ちのブルジョア層は、平均的貴族よりも裕福であったかもしれない。※ 都市のブルジョア10%、農村の大規模経営をするブルジョア13%彼らはポンパドゥール夫人のように貴族の子弟の行く学校で高等教育やマナーを学び、サロンではむしろ主催者側にいた。ルイ16世はフランスの抱えた多額の負債を返済する為に増税しか道がなく、とは言え第3身分(平民)からの徴収は限界。特権階級の彼らにも税を納めてもらうべく議会にかけている。※ アメリカの独立戦争に協力した事と前の7年戦争の債務と合わせて33億1510万リーブルの借金があった。特にアメリカへの参戦で用立てた借入金は非常に高利であった。しかし、議会は第1身分(聖職者)と第2身分(貴族)に有利にできている。175年ぶりにルイ16世は全国3部会を開いて平民と共闘して特権階級から税を徴収する法案を通すつもりでいたのだ。その為に第3身分(平民)の投票人数を倍(600人)にまでした。第1身分(聖職者)と第2身分(貴族)はそれぞれ定数300人。1789年5月5日、3部会開催。なのに王は身分毎に議決を取ると発表。(  ̄∇ ̄; ) ナヌ? (・_・?) バカなの? 当然だが第3身分(平民)は「身分毎に議決」をしたら勝てないので反対。議会は空転し解散となった。ルイ16世のそれ以降の対処は、もはや目的が何か解らなくなってきていた。王は選択を誤ったのだ。確かに当初市民らは王に新たな憲法を望んでいただけだったのだから・・。3部会開催の2ヶ月後、1789年7月14日革命が勃発する。最もその至る経緯、諸悪の根源はマスメディアによる市民扇動であった。マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃身分制度マリーアントワネットのプチトリアノン(le Petit Trianon)マリー・アントワネットの子供達フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)王妃の寝室と私室マリー・アントワネットのファッションとマリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタンマリーアントワネットの浪費革命後の放浪タンプル塔(Tour du Temple)パレ・ド・ジュスティス (Palais du Justice)コンシェルジュリー(Conciergerie)サン・ドニの教会(Basilique de Saint-Denis)革命をあおったマスコミマリー・アントワネットのプチトリアノン(le Petit Trianon)花の女神フローラの領域と言われるトリアノン域のフランス式庭園の中に小宮殿の建設を勧めたのはポンパドゥール夫人であった。結局夫人の存命中に完成できず、ここを最初に使用したのがポンパドゥール夫人の次にルイ15世の公妾となったデュ・バリー夫人である。そして奇しくもルイ15世はこの宮殿で病状が悪化し本宮殿に戻りそれから2週間後に崩御した。マリー・アントワネットの邸宅となったプチトリアノンと左方面がマリー・アントワネットが造りあげた王妃の村里です。この一帯がマリー・アントワネットの家と庭園と言う事になります。上はウィキメディアのプチトリアノンの空撮写真を位置紹介の為に部分カットさせてもらい。さらに書き込みしました。下の写真は、上から愛の神殿、小トリアノン宮殿、パヴィヨン・フランセが直線上に配置されていた。パヴィヨン・フランセ(Pavillon français)はポンパドウール夫人縁(ゆかり)の建物なので「新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)」で紹介しています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)以前「新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリー・アントワネットの村里」でもふれているが、もともとデュ・バリー夫人の事を良く思っていなかったルイ16世は即位(1774年)後すぐにプチ・トリアノン(le Petit Trianon)宮とその周辺を王妃マリー・アントワネットに与えたのである。リンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里マリー・アントワネットは本宮殿での窮屈な儀礼を嫌いプチ・トリアノンを自分の邸宅として好んで使用する事になる階段の手すりや2階の欄干、バラスター(baluster)はマリー・アントワネットの「M」が金箔でデザインされたおしゃれなアイアン・ワークとなっている。吊り燭台はナポレオン妃でありオーストリア皇女であったマリー・ルイーズ(Maria Luisa)(1791年~1847年)の為に1811年に取り付けられたもの。1793年6月、革命で王政が終焉し主のいなくなった宮殿は競売にかけられ一時は居酒屋になっていた事もあるらしい。プチトリアノン内、マリー・アントワネットの寝室マリー・アントワネットが使用する時に大がかりなリフォームがされているが部屋は当時のものでなく、マリー・アントワネットを意識して再現したもののようです。マリー・アントワネットが使用した当時は鏡が下からせり上がり、窓を塞ぐ仕掛け等なされていたと言う。プチトリアノン内、音楽のサロンマリー・アントワネットの近しい親族、友人が集まった部屋(メイン・サロン)がここ。プチトリアノンではマリー・アントワネットが取り決めたルールがあり、マリー・アントワネットが部屋に入って来た時も皆、手を止める事無くピアノを弾いたり、刺繍の手を止める必要もなかった。現在この部屋に置かれている家具類はマリー・アントワネットの時代の物に似てはいるがナポレオン3世の妃ウジェニー・ド・モンティジョ(Eugénie de Montijo)(1826年~1920年)が置いたものらしい。マリーアントワネットがハープを奏でている絵画が残されている。描いたのは1777年、内容は1775年らしい。場所は宮殿の王妃の寝室のようです。当時の宮廷画家、ジャン・バティスト・アンドレ・ゴーティェ・ダゴディ(Jean-Baptiste André Gautier-Dagoty) (1740年~1786年)マリー・アントワネットを描く画家自身が右端に見切れている。上の絵はウィキメディアからプチトリアノン内、サロンロココから新古典様式に移行する家具。神殿の柱を思わせるスラッとした脚。俗にルイ16世様式と呼ばれる椅子である。プチトリアノン内、ビリヤード・ルーム親しい友だけを誘って遊んでいたと思われる。先に「マリー・アントワネットの気晴らしと暴走」の所で触れたが、王妃になった途端にマリー・アントワネットの側近いじりがあからさまに始まる。プチ・トリアノン近くに建設されたマリー・アントワネットの劇場内部1780年、リシャール・ミック(Richard Mique) (1728–1794)により完成されたマリーアントワネットが演じる為に建設された劇場。その他の演者は近しい友人達。観客も親族と友人のみだったらしい。演目は喜劇や喜歌劇と日本訳されているが、おそらくオペレッタ(Opérette)だったと思われる。内部はベルサイユ宮殿の劇場に構想を借りているが素材など非常にリーズナブルに建設されているので現在では消防法の問題がありほとんど公開されていないようです。マリー・アントワネットの子供達ベルサイユ宮殿、王のアパルトマン、メルクリウスの間1787年 マリー・アントワネットと子供達の肖像画画家 エリザベート・ヴィジェ・ル・ブラン(Élisabeth Vigée Le Brun)(1755年〜1842年)結婚から7年を経て子供を授かる。母性愛が目覚めて夜遊びは減ったと言う。ルイ16世とマリー・アントワネットの子女 左からマリー・テレーズ・シャルロット(Marie Thérèse Charlotte)(1778年~1851年)※ 長女 唯一幽閉生活を生き延びた王女は後に叔父(ルイ16世の弟シャルル10世)の長男(ルイ・アントワーヌ王太子)の妃となる。ルイ・シャルル・ド・フランス(Louis-Charles de France)(1785年~1795年)※ 次男、父王ルイ16世の処刑によりルイ17世となるがタンプル塔に幽閉されたまま2年後に病死。マリー・アントワネットの膝の上の子。ルイ・ジョセフ・ド・フランス(Louis-Joseph Xavier François de France)(1781年~1789年)※ 王位継承者であったが、病弱に生まれ乳母ポワトリンヌから結核をうつされ夭折。マリー・ソフィー・エレーヌ・ベアトリクス・ド・フランス(Marie Sophie Hélène Béatrix de France)(1786年~1787年)※ 第四子で第二王女であったが結核により10か月で夭折。空のバシネット(bassinet)ベビー籠はソフィーのもの。フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)王妃の寝室と私室マリード・メディシス(ルイ13世妃)からウジェニー・ド・モンティジョ(ナポレオン3世の妃)まで歴代の君主の妻の為の寝室がある。フランス宮廷では秋になるとベルサイユからフォンテーヌブローに宮殿が移動する。※ 秋の狩猟シーズンにあわせているのか?役者や舞踏家、音楽家もそうであるが王家が移動するのであるから、召し使いや取り巻きの貴族も移動となる。そればかりか役職もないのにただ居候するだけの貴族もやってくるので彼らにも部屋を用意しなければならなかったそうだ。フォンテーヌブロー宮殿の客室は172室。客室が一杯になると街に部屋を用意為なければならなかったと言うのでここでも、王室は無駄な出費を強いられていたのだろう。※ ルイ16世の頃には金銭的にかなり苦しくなっていたので役者の衣装は聖別式の衣装がリメイクされたりと倹約はかなりされていたらしい。頻繁には使用しないが、歴代の王は少しずつ宮殿を改築している。1786年から1787年にかけてマリー・アントワネット自身により彼女の住居棟の一部を新たに装飾させている。新古典様式のグロテスク仕様の壁面を持つ王妃の私室。とは言え、革命の時にベルサイユ同様にフオンテーヌブロー宮殿も家具調度は略奪と競売に駆けられているので現存しているのはナポレオン時代に修復されたものと考えられる。下はマリー・アントワネットの為に1787年に考案され有名な家具師により造られたと言う寝台。天井の装飾はマリー・レグザンスカ(ルイ15世妃)の時代のまま残っている。革命が起きた為にマリー・アントワネットは結局一度も使用できず、最初にこのベッドを使用したのはナポレオンの最初の妻ジョセフィーヌだと言う。しかし、革命で家具調度が略奪され部屋の調度が持ち去られているのなら、これが革命前の本物のマリー・アントワネットの寝台なのか? ナポレオン時代の修復再現による寝台なのか? 疑問がある。フォンテーヌブロー宮殿のパンフレットにもそれは書かれていない。テキスタイルの壁布はリヨンの会社が20年かけてブロケードとシェニール(モール糸)で織った絹のランパス(浮き模様)が特徴。現在の物はそのオリジナルを忠実に再現したものらしい。※ テキスタイルは経年劣化があるので当時の物でないのは確か。寝台前の椅子は昔は無かったので近年造って置かれたもの。これらは妃の為にドレスやペチコート、下着などを渡す役職を持った貴族夫人らの待機席と思われる。マリー・アントワネットのファッションとマリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタン1783年、画家 エリザベート・ヴィジェ・ル・ブラン(Élisabeth Vigée Le Brun)による物議をかもした肖像画がportrait of the Queen in a "Muslin" dress モスリンドレスを着た女王の肖像画である。公式の肖像画なのにカジュアルすぎるとされた肖像画。 ウィキメディアから借りてきました。マリー・アントワネットは最先端のファッション「レイヤード・モスリンドレス(layered muslin dress )」を身につけていた。モスリンドレスはシンプルでフェミニンなデザインでこれからの女性のドレスの主流となっていくのだが、まだ普段着の域を出ていなかった?それ以前はパニエ(panier)でスカートをふくらませたりと重く体を締め付けたりと豪華ではあるが不自由なドレスであったのだ。マリー・アントワネットが嫁いだ頃1770年の主流はローブ・ア・ラ・ポロネーズ・スタイル(robe à la polonaise style) 下メトロポリタン美術館(Metropolitan Museum of Art)から借りて着ました。ぴったりとしたボディスとスカートの後ろが3つのパフで構成されスカートには横にボーンが入り広げられている。1788王妃マリー・アントワネットの肖像 絵はウィキメディアから借りてきました。ドレスはマリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタン(Marie-Jeanne Rose Bertin)のローブ・ア・ラ・ポロネーズ・スタイルと思われる。マリー・アントワネットの時代のファッションと言うと大きなヘア・デザインも象徴的である。大きくふくらませた頭の上にはいろんな物がのっかっている。髪を結うと言うよりは髪と髪飾りがオブジェ化して巨大化して行くのである。マリー・アントワネットは頭の上にイギリス庭園の全景を乗せて登場した事があると言う。つまり頭の上に庭園のジオラマを乗せて来たのである。そこには牧場や丘陵があり、小川も流れていたらしい。こうしたけったいな度肝を抜くヘアデザインの発端はルイ15世の崩御に伴う悲しみの表現を髪飾りでした事から始まったらしい。最初は髪の毛の中に糸杉と豊穣(ほうじょう)の角をかざし、国王の喪と新しい治世への希望を象徴するような表現をした。もちろん目的は自分のアピールでもある。オリーブの枝を刺したりから豊穣の女神が刈り入れするジオラマとなり、頭に軍艦をのせているようなものまで現れる。機械じかけで可動するものまで・・。皆趣向をこらしすぎて大きくなり馬車にのれなくなり大変な事に・・。しかも造作にはお金もかかった。この髪結いの発端を作ったのが王妃が信奉するデザイナー、マリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタン(Marie-Jeanne Rose Bertin 1747~1813) と言われている。彼女はサントノーレに店(Le Grand Mogol)を構えるモード商。つまり宮廷ドレス専門ブティックのデザイナー。※ 1770年オープン。シャルトル公爵夫人がパトロン?シャルトル公爵夫人を通うじ紹介されるとマリー・アントワネットはすぐに彼女の店を王妃御用達としている。マリー・アントワネットはドレスのみならず髪型のアドヴァイスもローズ・ベルタンからもらっている。何しろ元が髪結いの美容師である。※ マリー・アントワネット専用の美容師は別に存在。とにかくローズ・ベルタンのデザインセンスを気にいり王妃自身が広報活動していたのでおおいに彼女の服は売れた。フランスのみならず諸外国の貴族からもオーダーは入った。マリー・アントワネットの影響でローズ・ベルタンのドレスは長きに渡り宮廷ファッションを牽引して行く事になる。マリーアントワネットが特に好んだのが羽毛の羽根飾りだそうだ。物議をかもした写真の帽子にも、1788年の肖像画などあらゆる帽子に羽根が描かれている。※ 珍しい羽根をプレゼントする者もいたらしい。王妃と同じ物が欲しい。真似したい。と回りの婦人らが思うのは当然、マリー・アントワネットはローズ・ベルタンのおかげでモードの最先端で流行を作って行くのである。が、女性達がエスカレートして行く様に「王妃がフランスの貴婦人を破産させるだろう。」と言われたそうだ。また、これらを母マリア・テレジアは苦々(にがにが)しく思っていたようで羽根の付いた娘の肖像画にケチを付けて送り返している。1775年の肖像画 油彩 画家は宮廷画家、ジャン・バティスト・アンドレ・ゴーティェ・ダゴディ(Jean-Baptiste André Gautier-Dagoty) ドレスはマリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタン(Marie-Jeanne Rose Bertin 1747~1813) と思われる。ところで、服一つ着替えるにもベルサイユにはやっかいなルールがあった。下着を渡す者、ペチコートを渡す者、ドレスを渡す者など仕事が細分化されていたので、他人の仕事を奪う行為は許されない。が、目上の貴族が居る場合は権利はその者に渡る。ある冬の日に下着を着ようとしていたマリーアントワネットの所に次々貴族の夫人が来るので下着は彼女らの間を移動するばかりでマリーアントワネットはいつまでも震えて待ってい無ければならない状態。水が飲みたくても、水をマリーアントワネットに渡せるのは女官長と主席侍女のみ。彼女らがいなければ水さえ飲めない不自由。当初は怒りを笑いでごまかして済ませていたようだが・・。それ故、王妃となってからマリーアントワネットはルールの簡素化を始めたのである。よって仕事を失った貴族の恨みが増える事になる。因みにルイ14世が造ったこのルールをルイ15世もルイ16世も守っていたらしい。下は1785年のマリー・アントワネットと二人の子供の肖像。 ウィキメディアからの写真です。ドレスはローブ・ア・ラ・ポロネーズ? バックにはプチトリアノン庭園の中にある愛の神殿(Temple Amour) マリー・アントワネットお気に入りの羽根飾りの付いた帽子王妃の村里 ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ(Le hameau de la Reine)「新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里」の中で王妃の村里については紹介しています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里1774年、ルイ16世は即位するとプチトリアノン(le Petit Trianon)宮とその周辺を王妃マリー・アントワネットに与えたので、王妃の関心はまずはプチトリアノンの改装に向かう。次に庭園造りに励む。※ 当時はイングランド・ブームが起きていた。庭園はイングリッシュ・ガーデンであったと思われる。庭園のみならず、トリアノンの域に「王妃の村里」ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ(Le hameau de la Reine)と言う村をまるごと造っている。しかし、そこでマリーアントワネットは農作業をしたわけではなく、ただ彼らの労働を眺めて居ただけ。むしろ王妃の村里自体をサロンとして利用していたと思われる。実際の農村と言うよりは、ランドスケープ(landscape)にこだわって、水車小屋を造ったり、見晴らしと塔を造ったりと、絵になる景観の良い村里なのである。この庭園や村は王妃マリー・アントワネットの理想郷(ユートピア・Utopia)として造られた物と思われる。(現在の庭園はそれに匹敵していない。)庭園と村里については「新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村」で紹介しています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里マリーアントワネットは本宮殿での儀礼の簡素化をすすめたが、うっとおしい貴族の目から解放されるプチトリアノンでの生活をより好んでいた。問題は王妃のプチトリアノンや村里には限られた貴族しか出入り出来なかった事だ。マリーアントワネットの失敗はお気に入りのわずかの取り巻きのみをプチ・トリアノンや村里に呼んだので貴族の中に差別を造ってしまった事だ。マリーアントワネットの浪費「麗しいからっぽの頭」とはオーストリアの兄ヨーゼフ2世がマリー・アントワネットにつけたあだ名だ。彼女の浪費や経済改革をしていた大臣の罷免をするよう働きかけるなど無謀な振る舞いにあきれての事だ。ローズ・ベルタンの店「Le Grand Mogol」だけでもかなりの支払いがあったと思われるが・・。1775年の末に50万リーブルのダイヤのイヤリングを購入。さらに25万リーブルのブレスレッドを購入。その為に借金までしている。資料には1972年でトータル75万リーブル(1億5000万フラン相当)とされている。※ 1972年のフランス通貨はユーロ導入前のフランが使用されていた。フランは当時変動相場制であったので1972年の平均値は1フラン60.04円。1億5000万フランを換算すると当時の日本円で90億600万円相当になる。最もフラン(Franc)はどんどん暴落していくので1972年の90億600万円の価値は、現在は無いかもしれない。母、マリア、・テレジアは「将来の心配で胸が張り裂けんばかりだ」と手紙を書くと、娘は「こんながらくたの事で・・」と返す。母の言葉も兄の言葉ももはや届かない。遊びも外出が増え、オペラ座の舞踏会に朝までいたかと思えば一度ベルサイユに戻り今度はブローニュの森の競馬に出かける。それも各国大使の謁見をすっぽかしてだ。競馬にはまり馬の頭数はを300頭を越え先代王妃よりも20万リーブル多く40万リーブル以上の出費。夫、ルイ16世が古いフロッグコートを着ているのに対して、マリーアントワネットはゴージャスな毛皮をまとって舞踏会から朝帰り。金銭感覚は無かったのかもしれないが、プライドはあった。だから歴史に残るサギ事件に当事者として巻き込まれる事にもなった。「首飾り事件」の首飾りはもともとルイ15世がデュ・バリー夫人の為に発注していたダイヤの豪華ネックレスであった。ウィキメディアからの写真です。レプリカです。本物は当時、詐欺師にバラされて売り飛ばされている。ルイ15世が崩御したので宝石商はマリー・アントワネットに買い取ってもらいたかったのだが彼女は断る。値段もさる事ながら、それはデュ・バリー夫人の為の品であったからだ。高価なネックレス160万リーブルをどうしても売りたい宝石商とマリーアントワネットに好意を持つ問題ありの聖職者ローアン大司教がサギ師にひっかかったのだ。※ 1784年発覚し1785年裁判。※ 先の計算によれぱ160万リーブルは192億1280万円当時で軍艦2隻が買えたとか・・。それ故、マリーアントワネットには何の落ち度も無かったのだが、評判の落ちていたマリー・アントワネットが首謀者のように語られる事になり、より評判を落として行ったのである。フランス王宮の財政難については「新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里」ですでに紹介しているが、ルイ15世の時代の7年戦争の債務に加え、ルイ16世がアメリカ独立戦争につぎ込んだ13億リーヴルと合わせてトータルで33億1510万リーブルの借金を抱えている。先に紹介した宮殿の改築や季節の移動など諸経費、ベルサイユなど王宮の維持費、衛兵含む雇用人の費用に加え、貴族への報酬など考えれば、マリー・アントワネットに贅沢の余地は無い。そもそも彼女は最高の王家に嫁に来たと思っていたからお金はいくらでもあると思っていたのかも・・。もはやフランス王宮は火の車。破産確定のところまで来ていたのだから彼女が賢ければ、贅沢はなかったかも知れない。夫(ルイ16世)が妻に優しすぎて何も言えなかったのか? いや、そもそも彼には妻に意見する気は何も無かったのかもしれない。ルイ16世は、パリ市の災害の時にも個人的に寄付を行っている。また毎日、朝に散策しては貧しい者に多少のお金を渡したり、裁きから助けたりしている。彼は本当に心優しい王であった。統治者としての王の能力は無かったが・・。革命後の放浪1789年5月、全国3部会が失敗に終わり、7月14日革命が起こる。革命後、国王一家はヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄が移送される。この時、最後まで誠実に王妃に従ったのは、王妹エリザベートとランバル公妃だけだったと言う。※ さんざん寵愛され、一族まるごと優遇され批判の対称にもなったポリニャック公爵夫人は早々に亡命している。1791年6月20日、国王一家は庶民に化けてパリを脱出する。オーストリアにいる兄レオポルト2世の元に亡命するつもりでフェルセンに力を借りたのだ。が、王妃のワガママにより計画が大幅に遅れ、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し逃亡計画は失敗する。これにより国王一家は親国王派の国民からも見離され、パリ市民の怒りを買った。それまでは比較的自由にすごしていたのに、以降はテュイルリー宮殿の国民衛兵によって厳重な監視下に置かれる事になった。1792年6月20日武装した市民が国王の住居たるテュイルリー宮殿の中まで踏み込んできた。そして王政の廃止を最初に口にするジロンド派。1792年8月10日、民衆の総勢2万はくだらない大集団がテュイルリー宮殿へ向かった。一方、国王の側は、宮殿にルイ16世が契約していた950名のスイス人の傭兵。宮殿外に議会によって解散させられた元近衛兵や田舎から出てきた王党派支持者の若者(通称「聖ルイ騎士団」)、200〜300名とパリから国民衛兵隊2,000名が国王のために集結。スイス人の傭兵はかなりがんばったのに結局はルイ16世の采配のまずさで降伏となり最終的に生き残ったスイス人兵士等も殺害される。※ 以前「ルツェルンのライオン慰霊碑とスイス人の国防」でこの悲劇で亡くなったスイス傭兵の事に触れています。スイス側の資料では786名のスイス人兵士が亡くなったと記録されていた。リンク ルツェルンのライオン慰霊碑とスイス人の国防1792年8月10日、テュイルリー宮殿襲撃で蜂起側の勝利が明らかになると、王権の停止が宣言される。この後、ルイ16世、王妃マリー・アントワネット、マリー・テレーズ王女、ルイ・シャルル王太子、王妹エリザベート王女は脱出の難しい古い城塞に幽閉される事になる。タンプル塔(Tour du Temple)ウィキメディアから借りてきました。1792年8月10日市民によるテュイルリー宮殿が襲撃され国王一家は宮殿ではなく、タンプル塔に幽閉される事になる。(とりあえず内装工事はされたらしい。)※ 8月12日に移送場所の審議がされるがいつ移動したかの記録が無い。ただ9月3日にはタンプルに居る事が記録されている。タンプル塔では、従者2名、侍女4名の随行が許された。幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり家族の団らんもあり、使用人も雇えたので豪華ではないにしろ、後に革命裁判で移される旧王宮、コンシェルジュリーよりはましな生活がおくれていたと思われる。マリー・アントワネットの部屋には空色の絨毯が敷き詰められ、エンボス加工の青と白の絹の布が壁に貼られ、肘掛け椅子も置かれていた。折りたたみのハートの椅子も置かれ、ささやかながら優雅な部屋が造られていたらしい。そもそもバスチーユの監獄にしても、家具調度も持ち込みできるし、料理人を雇う事もできたし、娯楽室もあったと言う。好んでそこに住む者がいたと言うくらいフランス王政下での政治犯に対する扱いは悪くはなかった。とは言え、8月19日の晩にどこかに連れ去られたランバル公爵夫人の無残な遺体をわざわざテンプルまで引きずってマリー・アントワネットらに見せに来ると言う嫌がらせをされていた。マリー・アントワネットは見てはいないがその事実に気絶したらしい。ところでタンプル塔はもともとテンプル騎士団のパリの事務所でした。そもそもテンプル騎士団の解散はフランス王、フィリップ4世( Philippe IV)(1268年~1314年)がテンプルに借りていた多額の借金踏み倒しと、資産の没収が目的の蛮行であったと思われる。※ バチカンは正式謝罪はしていないようだが、認めている。1312年テンプル騎士団は解散。1313年総長ジャック・ド・モレーはシテ島の王宮前でフィリップ4世によって火刑にされる。テンプルの資産はヨハネ騎士団が引き継ぐはずであったのに、フランスだけはフィリップ4世が総取りし、タンプル塔(テンプルの事務所)だけがヨハネ騎士団の所有となっている。※ テンプル騎士団については以下に書いています。リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)リンク 騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会)テンプル解散後は修道院になり、バスティーユ監獄が完成するまで牢獄にもなっていた曰くのある場所であった。ここにマリー・アントワネットやルイ16世が幽閉されていた事もあり、ナポレオンがこの塔を忌み嫌い1808年に取り壊されている。1790年のマリー・アントワネットの肖像画1789年にエリザベート=ルイーズヴィジェ=ルブランがフランスを去るとポーランドの肖像画家Alexander Kucharsky (1741年~1819年)がマリーアントワネットの画家となる。彼は幽閉中のタンブル塔で彼女や子供達を描いたと言われている。上の肖像画が1790年頃とすればヴァレンヌ逃亡前なのでタンプル塔ではない。因みに先に紹介したマリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタンは1793年2月、ロンドンへ渡るがその後もマリー・アントワネットの注文に応じドレスを届けたと言う。一説には、デザイナーとして宮中に出入リしていた彼女はメッセンジャーとして活躍したとも言われている。1793年のマリー・アントワネットの肖像画 上と同じポーランドの画家による衣装を喪服と考えるとルイ16世が処刑され亡くなった1793年1月21日以降からマリーアントワネットがコンシェルジュリーに移動される8月までの間にタンプル塔で描かれた肖像画と思われる。※ 衣装はマリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタンの作品だろう。パレ・ド・ジュスティス (Palais du Justice)コンシェルジュリー(Conciergerie)旧王宮、現 裁判宮 (Palais du Justice)ファサードまさにこの裁判宮の正面広場でテンプル騎士団が火あぶりの刑に処されている。フィリップ4世は宮殿の窓からそれを見ているのだ。1793年1月、革命裁判は夫のルイ16世に死刑判決を下し、ギロチンによる斬首刑とした。1793年8月2日、マリー・アントワネットはコンシェルジュリー監獄に囚人第280号として移送され裁判が結審するまで閉じ込められる事になる。※ コンシェルジュリー(Conciergerie)は旧王宮であり現裁判宮の一部である。セーヌ川からのコンシェルジュリー(Conciergerie)5世紀、メロヴィング朝の時代に宮殿の基礎が築かれたと言う。かつては王が裁判で判じていた。ここは王宮でなくなった後も裁判所として残ったのだ。下、宮殿がこの形になった当初は王宮の食堂であったらしい。セーヌ川が反乱すると水に沈んだ広間。ネズミが行き交うジメジメした衛生の悪い場所。ここは革命裁判の時は一般の牢獄に利用された。リンク フランス王の宮殿 3 (Palais du Justice)(コンシェルジュリー)リンク フランス王の宮殿 4 (Palais du Justice)(フランス革命とアントワネット最後の居室)上のホールの左手方面、中庭に面した部屋に結審するまでマリー・アントワネットが入れられていた独房が下。若干部屋の位置は異なるが再現されている。部屋の中では、常に兵士2人が監視。マリー・アントワネットの最後のベッドは粗末な代物。実際は布団くらい差し入れできていたかもしれない。何しろ牢屋の環境は金銭でいくらでも改善できたからだ。1793年10月16日、コンコルド広場で夫と同様に元王妃マリー・アントワネットはギロチンにより刑が執行された。「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」前日に義妹エリザベートに宛てた手紙であるがロベスピエールが秘匿し、この手紙の存在は1816年まで解らなかった。裁判自体がろくでもない罪状であったから理不尽な処刑であったのは言うまでもない。問題は「どうして市民が王様を殺す」等と言う状況を生んだのか? と言う事だ。諸外国も王政であるだけに、フランス市民の蛮行は許される事ではなかった。サン・ドニの教会(Basilique de Saint-Denis)歴代フランス国王ら王室関係者の埋葬墓地です。現在は大聖堂に格上げされています。下は1844年から1845年のサンドニの教会です。 写真はウィキメディアから革命以降うち捨てられて荒廃。ナポレオンにより修復が勧められたが、建築家ドブレの修復は重量計算もできなかったのか? 重すぎて1846年に取り壊さざるおえなくなったと言う。上が取り外された後、ノートルダムで問題の修復をしたヴィオレ・ル・デュク( Viollet-le-Duc)(1814年~1879年)が1847年今の姿に・・。※ 首を持つ聖人サンドニの事もそこで紹介しています。サン・ドニ教会のルーツです。リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 2 1841年の改修問題下はルイ16世とマリー・アントワネットの慰霊碑です。 こちらもウィキメディアから借りた写真です。革命で弾劾(だんがい)されギロチンで公開処刑された二人の遺骸は当初パリのマドレーヌ墓地に並べられた。王政復古の時にルイ18世が捜して王家の墓所にやっと葬られる事になったが、遺骸は一部しかなかったと言う。※ 王政復古が無ければ二人の遺物は何一つ見つからなかったであろう。取り外される前のサン・ドニの教会革命をあおったマスコミ冒頭触れたが、革命に至る経緯、諸悪の根源はマスメディアによる市民扇動であった。フランスの歴史において、16世紀末の宗教戦争時にはすでにマスメディアによる情報が市民を動かしていたらしい。印刷技術の進展は新聞やチラシを出現させた。確かに「全国三部会の開催」に王はマスメディアの力を借りているが、マリー・アントワネットの評判が落ちたのもこれらマスメディアによる所が大きかった。事実ではない噂話しが事実のようにマスメディアで流される。これは現在もある事であるが、今よりも情報が限られていた事。また市民がそれを見極められ無かった事により市民は心情を扇動されて行ったのだ。1789年7月、革命の後も食糧難は続いた。パリに小麦粉が無くなりパンが不足した。市民はそれを反革命派の陰謀とした。が、実際は1770年以来、不作が続いて小麦粉不足となりパンの値段が高騰したものだった。また商人たちの買占めや売り惜しみもあり1775年の時は市民が王に直訴するべくベルサイユに赴き小麦の値段を下げてもらうと言う事件があった。1789年の革命においても、女達がベルサイユ行進したのも王に直訴する事が狙いであったと思われる。※ 行進は違った意味に解釈されている。有名な「パンではなく、ブリオッシュ(菓子パンの一種)を食べればいいのに」と言ったエピソードはルソーの「告白」の中の一説らしい。20年以上前の出版物でマリー・アントワネットが言ったわけではなかったが今に至るまでそれを信じている者は多い。話しは戻って、革命期に新聞の数は増大する。出せば売れるから参入も増えた。また所謂(いわゆる)ビラの発行はとんでもない数に上る。ビラや冊子に通番がついて現在の週間誌の前身のような物も出現する。検閲をくぐり抜けた発行元不明のビラも増えて行く。煽動(せんどう)的な出版物に対する処分もあるにはあったらしいが、論点はだんだんにズレて行く。誤発信もあったであろうが、間違った解釈を訂正する物は無い。当初はそう言う目的では無かったはずがマスコミ同士の出版合戦で市民は王を憎む所まで持って行かれたのだ。後は祭りのような物である。一度燃えた闘志は頂点に達さなければ昇華(しょうか)できない。つまり行く所まで行かなければ納得や満足ができない状態だ。もはや王族を殺さなければ腹の虫が治まらない。と言う市民感情が造られたのだ。1783年、王妃マリー・アントワネットの肖像Marie-Antoinette with the Rose画家 エリザベート・ヴィジェ・ル・ブラン(Élisabeth Vigée Le Brun)物議をかもした肖像画portrait of the Queen in a "Muslin" dress モスリンドレスを着た女王を正装にして書き直した作品かも。最も可憐で美しかったオーストリアの姫は至上最高の王族に嫁ぎ、悲劇の王妃となってしまった。確かに彼女の贅沢は目にあまる金額ではある。が、ルイ14世の時代を考えればそれほどのものではない。むしろアメリカの独立戦争での負債の方が遙かに大きい。そのアメリカ独立を助けろと言ったのも市民である。そうか、これもブルジョワジーだね。※ ブルジョワジー(Bourgeoisie)は、ただの市民ではなく、財力を持つ有産階級である。つまり資本家。当然学識もある。「民衆は統治者を選ぶ権利を手にした」?フランス革命の本質は啓蒙思想を知るブルジョワジー(Bourgeoisie)から発信された陰謀か・・。「マリー・アントワネットの居城」全4編終わります。Back numberリンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃 マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃その他Back numberリンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)リンク 新 ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)リンク 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情リンク 新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)リンク 新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)リンク 新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)リンク 新 ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)リンク フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)リンク フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)リンク フランス王の宮殿 3 (Palais du Justice)(コンシェルジュリー)リンク フランス王の宮殿 4 (Palais du Justice)(フランス革命とアントワネット最後の居室)
2021年01月31日
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関連 Back numberをラストに追加しました。マクシミリアン1世(Maximilian I)(1459年~1519年)以来長らく、オーストリアのハプスブルク家とフランスのブルボン王家との間で抗争が続いていた。そもそもはマクシミリアン1世の婚約者であったブルゴーニュ公女の為にブルゴーニュ公領を守った戦いが発端である。※ この戦いは「金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)」の中「金羊毛勲章がハプスブルグ家に継承された訳」で触れています。リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)しかし、マリア・テレジアによるオーストリア継承の時に起きたプロイセンのフリードリヒ2世(Friedrich II)(1712年~1786年)によるオーストリア領シュレーゼン(Schlesische)の強奪。そして勃発したオーストリア継承戦争。オーストリアにとって、女帝マリア・テレジアにとって、もはやフランスよりも許せない目前の敵はプロイセンのフリードリヒ2世となった。マリア・テレジアはフランスとの和解を計る事になる。※ オーストリア継承戦争、プロイセンの進行、フランスとの和睦については、「新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)」の中、「エセ啓蒙専制君主フリードリヒ2世の討伐」で詳しく書いています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)が、この和睦の申し入れはどちらの国が先にしたのかは定かになっていない。この仕掛け人がポンパドゥール夫人だったのではないか? と私はみているが・・。1750年10月、女帝から全権を委任されたカウニッツ(Kaunitz)(1711年~1794年)はフランスへ向かう。フランスではポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour)(1721年~1764年)を通じ国王ルイ15世との交渉が続く。また、同じくフリードリヒ2世を嫌悪するロシア帝国のエリザヴェータ女帝とも交渉はすんなりまとまった。しかし、ウィーンとサンクトペテルブルクの中立地としてザクセンのドレスデンで交渉したことから、プロイセン側もオーストリアとロシアの接近を察知し、先手を打たれてしまう。プロイセンはイギリスと手を組んだのだ。1756年5月1日、ヴェルサイユ条約をもってオーストリアとフランスが遂に和睦の為に同盟を結ぶ事となった。フランスはオーストリアのシュレーゼン奪還を全面的に応援する事になる。そこにエリザヴェータ率いるロシアも参戦してプロイセン包囲網ができあがった。これはマリア・テレジア、エリザヴェータ、ポンパドゥール夫人にちなみ3枚のペチコート作戦」等と俗に呼称される。※ それについても「新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)」の中で書いてます。マリア・テレジアはポンパドゥール夫人に深く感謝し、高価な贈り物をした。と言う後日談からも、この和睦はオーストリア側からと言うよりは、やはりポンパドゥール夫人の発案? であったのでは? と思った所以だ。オーストリアからでは提案できる立場では、なかっただろうし・・。とにかく、3人の女性は卑怯者のフリードリヒ2世を嫌っていた。と言うところで確実に一致していた。※ 返す返すも、この包囲網が失敗した事は非常に残念でした。このフランスとオーストリアとの和睦に伴い、両国間の友好の印として、縁戚を結ぶ案が出る。フランスの将来の王太子とオーストリアの姫の結婚である。(後のルイ16世とマリー・アントワネットの結婚)しかし、これはすんなり決まった話しではなかった。何しろ長年の宿敵である。特にフランス側のオーストリアへの嫌悪は簡単に消す事はできなかった。何にもまして、ルイ16世の父ルイ・フェルディナンの反対は大きかったので、長らく話しは保留状態。話が進んだのはルイ・フェルディナンが早世したからだ。※ ルイ・フェルディナン・ド・フランス(Louis Ferdinand de France)(1729年~1765年)もし、ルイ15世が先に亡くなり、ルイ・フェルディナン自身がルイ16世として王位継承をしていたなら、この結婚のみならず、和睦自体もどうなっていたか・・。つまり、婚約まではすんなり決まったが、結婚の契約まではには時間を要したのだ。ところでマリア・テレジアは何よりも早い結婚を望んでいたが不安はあった。オーストリアでは、しきたりや作法は特別の時の儀礼でしかない。通常は宮廷内でもノンビリ。市中では庶民が王族の馬車でも平気で抜いて行く事もあったそうだ。だが、それでお咎めはない。そんなアットホームなオーストリアに対してフランスは訳が違う。ルイ14世以来の細かい宮廷儀礼にしばられる事になる。国境を越えたらプライベートは無いにひとしい。マリア・テレジアは勝手が違いすぎるフランスで娘が途方に暮れるのではないかと心配したのも最もな話しなのだ。だが、窮屈(たいくつ)を嫌って、好きほうだい羽目を外しはじめた娘の行動は女帝の危惧以上の問題に発展する事になる。マリーアントワネットの行動は、貴族の中からの「謀反(むほん)」と言うブルボン王家自体の屋台骨をゆるがす結果につながったからだ。フランス革命は市民の反乱だけではない。本来王政側に居るべき貴族の反発。彼らの信頼をも失い王族は裸同然に市民の中に放り出されて弾劾(だんがい)された。マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃フランスとオーストリアの和睦マリーアントワネットの美貌フランス領内の馬車旅王太子との出合いヴェルサイユ宮殿(Palais de Versailles)結婚と寝所マリー・アントワネットの気晴らしと暴走デュ・バリー夫人問題1773年6月8日パリ入市の反響ルイ15世崩御から新国王ルイ16世誕生後半ラインナップマリー・アントワネットの居城 4 プチトリアノンからパレ・ド・ジュスティスマリーアントワネットのプチトリアノン(le Petit Trianon)マリー・アントワネットの子供達フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)王妃の寝室と私室マリー・アントワネットのファッションマリーアントワネットの浪費パレ・ド・ジュスティス (Palais du Justice)コンシェルジュリー(Conciergerie)サン・ドニの教会(Basilique de Saint-Denis)マリーアントワネットの美貌フランス側、ストラスブールでマリーアントワネットは上々の歓待を受けた。それはマリーアントワネットの美貌に寄るところが大きかった。彼女も常に微笑みを保ち、社交に勤めてはいたが、まさに百合(ゆり)と薔薇(ばら)がまざりあったような肌色した彼女を一目見るなり、皆、感嘆したのである。少女のあどけなさの中にも優美な身のこなしと優雅な物言い。彼女が微笑んだだけで一瞬にして全ての人が魅了される。春の花のよう可愛いらしく春の風のようにさわやかな姫の至来。英国の作家にして政治家エドモンド・バーグ(Edmund Burke)(1729年~1797年)は彼女は「春の香」と称しているが、ある意味それも彼女の才能だろう。実際、ルイ15世さえも初めて彼女会った時に魅了されてしまったらしい。フランス語版のウィキメディアから パブリックドメインの写真です。説明によれば前回紹介したフランスの画家ジョゼフ・デュクルー(Joseph Ducreux),(1735年~1802年)がアントワネットの肖像を王太子に届ける為にウィーンに行った1769年。最初に描いた肖像画が元になっているらしい。前回紹介した正式なアントワネットの肖像は老け気味。こちらの方が年相応のかわいらしさが見られる。が、1773年フランソワ=ユベール・ドルーエ(François-Hubert Drouais)(1727年~1775年)の作品となっています。(・_・?)はて? 何にしてもこの肖像画から解るマリーアントワネットの愛らしさと気品。オーストリアとの長年の確執から当初嫌悪していた者達まで、彼女の容貌はさることながら礼儀正しさに驚き。また、彼女の微笑みと立ち居振る舞い、その物腰しの優雅さに魅了されてしまうのである。宮中の者は皆彼女の回りにひしめき合い、お上手を言う。ベルサイユはマリーアントワネットによって征服された。と評されるほど・・。フランス領内の馬車旅前回、ルイ15世から送られた馬車の事に触れたが、長旅の為にマリーアントワネットには巨大な寝台馬車が2台用意されていた。内部は完全なる寝室? 横になって休む事ができる広さ。緋色の繻子の布団、肘掛けイスと衝立、折りたたみイスがセットされたものだったと言う。50名の近衛兵を先頭に盛大な行列が進む。オーストリア側でもそうであったが、フランス側でも中継地毎に馬を交換するので宿駅毎に386頭の馬をかき集め無ければならなかった。変え馬集めは遠い宿駅からも調達せざる終えなかったらしい。馬車の走る道も整備されたが、従僕の数だってハンパな数ではない。それも容姿優先で選抜雇用されたらしい。「顔つきが悪い。小男過ぎる。」など当時の従僕募集における落選者の問題点が記録され今に残っているらしいのだ。自分が就職に失敗した理由が何百年も残っていて、後世の人に知られる・・ってとんでもない話しですね下はフランス領内の馬車がたどったベサイユまでの行程です。1770年5月8日 ストラスブール(Strasbourg)→サヴェルヌ(Saverne)→リュネヴィル(Lunéville)→ナンシー (Nancy)→コメルシ(Commercy)ー→バル・ル・デュック(Bar-le-Duc)→サン・ディジェ(Saint-Dizier)→シャロン・アン・シャンパーニュ(Chalons・en・Champagne)→ランス(Reims)→ソワソン(Soissons)→1770年5月14日コンピエーニュ(Compiegne)ルイ15世と王太子が出迎えに来ていて合流。マリーアントワネットはこの時、始めて夫になる王太子と対面する。ラ・ミュエット(La Muette)→ヴェルサイユ(Versailles)王太子との出合いところで、60歳を迎えるルイ15世がマリーアントワネットを一目で気に入ったのとは対象に、15歳と9ヶ月の少年(王太子)は、彼女に興味を示していない。無関心にさえ見えたようだ。近眼で見えていないにしても思春期の少年である。まして自分の妻になる女の子に全く興味を示さないなんて事があるだろうか?「一風変わった男ですよ。」と評価された彼(王太子ルイ・オーギュスト)は、11歳で父を失い、12歳で母と死別。祖父であるルイ15世は自分の事で忙しく、結局、他人に委ねられたのだが虚栄心が強く優柔不断なド・ラ・ヴォーギユイヨン公爵に恐ろしく適当に育てられたらしい。年齢の割には幼稚な少年? 後に影響する身体的問題もこの時に気づいて解決できていれば、彼はもう少しりっぱな青年になっていたかもしれない。因みに彼が興味を示したのは職人らの仕事。錠前や左官などの技術職にただならぬ興味を示し、それは結婚後もしばらく続き汚れた服で戻ってくるのでマリー・アントワネットをあきれさせている。当然であるが、マリーアントワネットは自分に興味さえ示さない夫(王太子)にかなり失望したに違いない。ベルサイユ宮殿(Palais de Versailles)1668年の再建時のヴェルサイユ宮殿(ピエール・パテルの絵画))ウィキメディアから内側の門この扉の向こうは国王の前庭現在の宮殿見取り図からベルサイユ庭園側上の写真のみウィキメディアから借りています。ベルサイユ宮殿の建設工事が始まったのは1662年。ルイ13世の狩猟用城館があったとは言えやせて貧弱な土地。そんな場所に広大な宮殿の建設をルイ14世は強行。湯水のようにお金を使って建設している。宮殿建設にはお金と労力と技術が必要。とりわけ水のない庭園に水を引くための造園工事は難工事だったらしい。※ ベルサイユの宮殿建設には25000人の労力が、庭園の造園には36000人の労力がかかったと言われている。セーヌ川に直径12mの大水車を14個据え、200余りのポンプ群からなる装置で、水を汲み上げ、高さ154mのマルリーの丘まで運び庭園の噴水に水を供給していた。※ 頓挫した水道橋の計画もある。1674年ベルサイユ宮殿庭園ファサード ウィキメディアから「鏡の間」ができる前のテラスがある当初のファサード。しかし、ルイ15世の時代にはすでに財政逼迫が始まっているのでルイ14世当時ほどの数の噴水は無かったと思われる。今現在はもっと少ないだろうし、庭園の様相もかなり異なっていると思われる。ベルサイユ宮殿の黄金期は最初のルイ14世の時代がピークだったのかもしれない。造園家アンドレ・ル・ノートル(André Le Nôtre)は、フランスの平坦な地勢にも適した新たな、独創的なデザインの造園法を生み出した。ベルサイユ宮殿の広大な庭の造園は、造園家アンドレ・ル・ノートル(André Le Nôtre)(1613年~1700年)が中心に構想しているが、実は首席建築家マンサールから建築学的要素を取り入れながらベルサイユとトリアノンの造園を指揮したと言う。建築と庭園は一体となってデザインされているのである。また庭園装飾の為の彫像や鉢などのオブジェや噴水は画家のシャルル・ル・ブランがデザインし図案と設計図を書き上げている。つまりベルサイユ宮殿はヴォー・ル・ヴィコント城(Château de Vaux-le-Vicomte)同様に3人の共作と言える。建築家ルイ・ル・ヴォー(Louis Le Vau)(1612年~1670年)画家シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun)(1619年~1690年)造園家アンドレ・ル・ノートル(André Le Nôtre)(1613年~1700年)刺繍花壇今は庭園内を回る乗り物が・・。ツアーの人に時間はないでしょうが・・。結婚と寝所ベルサイユ宮殿内、王室礼拝堂(The royal chapel)チャペル2階チャペル1階 下の写真はウィキメディアから1770年5月16日二人の結婚式はベルサイユ宮殿内にある王室礼拝堂(The royal chapel)で行われた。王太子ルイ・オーギュスト、後のルイ16世 (Louis XVI)(1754年8月23日~1793年1月21日)15歳マリー・アントワネット (Marie-Antoinette)( 1755年11月2日~1793年10月16日)14歳。エッチング? こちらの写真はウィキメディアから※ この礼拝堂では、1745年2月23日ルイ15世の息子でルイ16世の父(ルイ・フェルディナン)とスペイン、フェリペ5世の娘のマリーテレーズ・ラファエルとの結婚式も行われている。この日、王太子ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)はいつものようにお腹一杯食して新婚初夜の晩なのに大いびきをかいて寝たらしい。ルイ15世はお腹一杯食べるとまずいのではないか? と忠告したらしいが、沢山食べた方が良く眠れると返されたとか・・。以前、「ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリー・アントワネットの村里」のところでルイ16世について書いたが、二人が夫婦となるのは1777年末から1778年初頭と推察。それまで二人りは寝室を共にしても何もなかった。リンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里下はベルサイユ宮殿内の王妃の寝所 夜なので写真が暗いです。二人の初夜は皇妃の寝所。そこは王太子自身が生まれた部屋。ランスの大司教が寝所を聖別。宮廷中の人々が押し合いへし合いで見学にきている中、国王が寝間着のシャツを手渡すと言う儀式が行われ、着替え姿まで見学の中で行われる。カーテンの影で二人が寝所に入ると、寝所のカーテンは突然開かれ二人床に付いた姿が公開される。まさにベルサイユ劇場である。見学の貴族らは彼らに会釈して部屋を出る。※ 一連の儀式はルイ14世の造った宮廷儀礼と思われる。王族にプライバシーなど全く無い。これがベルサイユのようだ。これはマリーアントワネットでなくても、面食らう面妖な儀式。マリーアントワネットが受けたカルチャーショックはかなり大きかったろうと思う。前述したよう王太子は儀礼の時から大あくびしていたので爆睡。翌日の日記には「無し」とだけ記されたそうだ。因みに、出産も公開である。一連の儀式を貴族らが見学する。毎日爆睡する王太子、3日目には自身は早朝から狩りに出かけ、戻ると子犬と遊ぶマリー・アントワネットに「良く眠りましたか?」と声をかけている。この事はウィーンのマリア・テレジアにすぐさま報告が行く。王妃の間、リュエル(ruelle)の域にある隠し扉の向こうが王妃のプライベート・アパルトマンとなっている。7月8日、王太子はマリー・アントワネットに結婚について自分はちゃんと解っていると弁明している。「敢えて規則だった振る舞いを自分は課して来た。心づもりの期日がくれば・・。」しかし、その心づもりと言う日(8月23日、16歳の誕生日)が来ても何も起こらなかった。そのうち宮廷中がその問題を知ってしまう。9月20日には、10月10日には・・と約束しながら自室に引きこもる王太子。マリー・アントワネットは叔母達に相談。励ましは逆効果となり、ついにルイ15世も介入。王太子は王の質問に対して「妻が可愛いらしいとは思うのですよ。私はあの人を愛しています。でも自分の気後れに打ち勝つにはまだしばらく時間が必要なのです。」と返している。ルイ15世は「待つ」と答えたようだが、同盟を強固にする為に孫がほしいマリア・テレジア。マリー・アントワネットほどの顔立ちの少女が王太子をその気にさせられないのだから、どんな薬だってダメなのではないか? と絶望している。医者の見解では解剖学上の異常がみられ、本来、成長を阻害しないよう若い時に外科手術が必要であったのに見過ごされて来た事。加えて、異論の余地無い発育不全?※ 以前「新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里」で書いたルイ16世のコンプレックスに関する疑問は解決した。問題は王太子にあるのだから仕方が無い。だが決断できない王太子の為にマリア・テレジアのやきもきは7年も続くのである。マリー・アントワネットの気晴らしと暴走赤い狩猟服を着たマリー・アントワネット 1771年(パステル画) ウィキメディアから何か企みをたたえた利発そうな16歳のマリー・アントワネットが描かれている。画家はオーストリアの画家兼彫刻家であり帝国宮廷画家であるヨセフ・クランツィンガー(Joseph Kreutzinger )(1757年~1829年) 母国のマリア・テレジアの為に描かれ送られた。シェーンブルン宮所蔵。王太子との問題は彼女の自尊心を大きく傷付けていた。それに気付かなかったのは王太子だけだ。マリー・アントワネットは必死に気を紛らす暇つぶしを求めていた。そんな中で現れた彼女の本性? 問題点? 次々と露見してきていた。上の写真は狩猟着姿のマリー・アントワネット。実は乗馬をしたいと申し出たが、危険があるので妥協策としてルイ15世からokが出たのは馬ではなくロバ。が、すぐに約束をやぶり小馬になり、すぐに馬に変わった。せめて並足で乗るようメルシー伯爵は言ったが聞かず疾走させる。メルシー伯爵は困りマリア・テレジアにまた手紙を送る。女帝は当然怒る。乗馬は肌の色を損ねるから止めるよう諭したが聞かなかった。女帝は娘が狩りに行かなければ良いが・・と心配していたが、狩りには出かけるし、フェートンにも乗っていた。マリー・アントワネットの狩りの問題は危険だけではない、それに同好する者や食糧にまで及ぶ。とにかくマリー・アントワネットは自分はもう大人だから・・と人の意見を聞かなくなって暴走しだしていたのだ。パリ駐在のハプスブルグ家の大使であるメルシー伯爵とブルボンの宮廷関係者、さらにはウイーンのマリア・テレジアとの間で、いかにマリー・アントワネットを制御するかで悩む事になった。※ フロリモン=クロード・ド・メルシー=アルジャント(Florimont-Claude de Mercy-Argenteau)(1727年~1794年)。オーストリア外交官。また、別の問題があった。彼女は回りの者の観察をするのが好き。その中で見つけたその者の個性を面白可笑しく回りの女官らに話し笑いものにする。人の滑稽(こっけい)な所を見つけてはその者を材料にして、より機知にとんだ語彙(ごい)を見つけるのが上手(じょうず)なのだ。メルシー伯爵はさすがにマリア・テレジアに警鐘の手紙を送る。マリア・テレジアはすぐさま叱責(しっせき)の手紙をマリー・アントワネットに送っているし、この事はルイ15世の耳にも入り王も不快を示す。王は公の場ではしないよう警告するが、いずれもマリー・アントワネットはろくに耳を貸すことがなかったと言う。※ こうした人をからかう行為は、マリー・アントワネットが王妃になるともはや歯止め無く酷くなる。デュ・バリー夫人問題こんな性格が表に出て来たのは、宮中にいる内親王の悪影響もあった。夫に相手にされない代わりに訪ねた内親王は、メルシー伯爵によればゴシップと陰謀の温床で、友人にするにはふさわしくない老嬢。マリー・アントワネットに良からぬ事を吹き込んでいた争いの元凶だった。当時ルイ15世の公妾(こうしょう)であったデュ・バリー夫人(Madame du Barry)(1743年~1793年)と宮中の貴婦人らとの抗争にも巻き込まれて行く事になる。デュ・バリー夫人のポートレイト 1770年、プラド美術館蔵そもそもデュ・バリー夫人は国王の公妾になるには出自が悪すぎた。ブルジョア出身であったポンパドゥール夫人(Madame du Barry)(1743年~1793年)とは比べるのも失礼なくらいレベルが低い。教養こそ少しはあったが少女の頃から素行も悪く、男性遍歴を繰り返していた。デュ・バリー子爵に囲われると、子爵は彼女を高級娼婦として友人らをもてなしさせていたらしい。ルイ15世はそんな中で1769年に紹介され知り合っている。宮中の女性等が彼女を嫌悪するのは最もだ。しかも、いじめられたらデュ・バリー夫人はルイ15世に言いつけて必ず反撃の仕返しをする。宰相までクビにさせた。マリー・アントワネットは自分の取り巻きの1人が追放された事がとりわけ許せなかった。メルシー伯爵もマリア・テレジアもマリー・アントワネットが何かしでかすのではないかと心配する。それで出た行動が「デュ・バリー夫人無視」である。マリーアントワネットはベルサイユに来てまだ一度もデュ・バリー夫人と会話していない。王妃に声をかけてもらう事は認めてもらった事に値する。彼女は王妃に認めてもらっていない事になる。※ フランス貴族の独特の風習で、身分の高い者からしか声をかける事が許されない。マリーアントワネットはデュ・バリー夫人の存在そのものを消して無視をし続けた。この事は内親王である叔母や夫である王太子も望んでマリー・アントワネットにそうさせていたらしい。マリー・アントワネットは誇り高く強情な気性。マリア・テレジアでも今回は苦戦したが、オーストリアの国益の為(ポーランド問題でフランスの合意が欲しかった。)彼女を説得。マリー・アントワネットがデュ・バリー夫人にただ一声掛けるだけで事が収まるからと促し承諾させた。彼女は約束どおり一度だけ声をかけたが・・。「これだけにしておきます。彼女は2度と私の声の音色を効く事はないでしょう。」と言い実行した。因みに、ルイ15世の病状が悪化した1774年5月、デュ・バリー夫人はベルサイユから、プチトリアノン宮からすぐさま追放された。1773年6月8日パリ入市の反響王太子夫妻の結婚の時、1770年5月 パリ市からの結婚祝いに催された祭りがあった。花火が盛大に上がる大きな祝典でマリー・アントワネットもベルサイユから見学に訪れたのだが、あまりに多くの人間がパリに集まり群衆事故が起きた。それは大量の死者を出す悲劇でマリー・アントワネットは恐怖の帰還をしている。以来、マリー・アントワネットはパリ市を訪問していなかったようだ。パリ市の要請もあり、正式な王太子夫妻のバリ入市が1773年6月8日に決まった。パリ市は祝砲も鳴らし、騎馬や馬車もたて盛大な行列行進で出迎えのパレードを催している。マリー・アントワネットらが正餐の為にテュイルリー宮に向かう道々、マリー・アントワネットのみならず、王太子、ルイ・オーギュストにも歓呼の嵐があり、テュイルリー宮に至っては熱狂的な歓声の歓迎を受け、2人は10回もアンコールに答えるように繰り替えし顔を見せると言う人気。ブリサックが「ここには妃殿下の恋人が20万人はおりますな。」と言う盛況ぶり。二人は信じられないほどの市民の歓迎の熱狂ぶりに「一生忘れられない祝祭」と評している。因みに、これに気を良くしたマリー・アントワネットは早くも王太子を伴い16日にバリのオペラ座に観覧に出かけている。この時も熱狂を持って歓迎されているが、気をよくしたのはマリー・アントワネットだけではない。王太子ルイ・オーギュストは1773年以降、無邪気で美しく、市民に人気の妻の側を離れなくなったと言う。ニコニコやってきては会話をし、妻の助言に感激して新たな魅力と慈善心を知る。気後れしていた少年はどこへやら? マリー・アントワネットに誘われて友人のとの集いにも出るようになり王太子の心を溶かしたと言える。当時のマリー・アントワネットも夫(王太子)のやさしさや気づかいに少なからぬ尊敬の念もあり、夜の問題以外は順風であったようだ。また、オーストリアのフランス駐在大使メルシー伯爵はマリア・テレジアに喜びの手紙を送っている。が、マリア・テレジアはさすがマリー・アントワネットの母である。娘の性格を熟知している。彼女が素直になるのは関心が無い事に関してのみ。自分の意志を通す為には何度もトライする性格である事。国王の公妾に対する態度など、思慮に欠ける振る舞い。また危険な行動の上に執念深くもある性格。彼女の軽はずみさから生まれる結果をいつも危惧しているとメルシー伯爵に釘を刺している。いずれにせよ、この時点ではパリ市民は若い二人に期待していたのだ。そんな期待と歓迎を持って迎えられた二人であったのにわずか16年後には期待を裏切った国王への市民の逆襲が始まる。以前(1358年)、シテ島(Île de la Cité)にあったパリの古い王宮、パレ・ド・ジュスティス(Palais du Justice)がパリ市民の暴徒に襲われ恐怖でシャルル5世が宮殿を棄てた事件を紹介した事があるが、パリ市民は伝統的に? かなり凶暴なのだ。リンク フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)ルイ15世崩御から新国王ルイ16世誕生ルイ15世(Louis XV)(1710年~1774年) (在位:1715年9月~1774年5月10日)1774年4月27日国王が発熱と頭痛でトリアノンから戻ってきた。その時点では重篤ではなかったが、翌日の夕には2度の瀉血(しゃけつ)が行われていた。※ 瀉血(しゃけつ)は体の毒素を抜く為の血抜きらしい。今では医学的根拠は無いらしいが当時は主流。3度目の瀉血は秘蹟(ひせき)の儀式が必要になる。それもかなり危ない時なのでルイ15世は時を稼いでいたが、顔に赤い発疹。天然痘であった。5月7日、王は最後を覚悟して聖体拝受を受ける。そして1774年5月10日15時15分。国王の寝室の窓辺に点されていたロウソクが消えた。ルイ15世崩御。別室に待機する王太子とマリー・アントワネットの元に地響きが近づいて来る。鏡の間を我先に新国王の下に走り寄る廷臣達。二人は直感で王の崩御を知り、同時におびえ、ひざまずき泣きながら神に祈りを捧げたと言う。「神よ、私どもを守りたまえ。いと若く君臨する身となりました故。」でも神はそのお願いを聞いてはくれなかった。ルイ16世在位:1774年5月10日~1792年8月10日 1789年に起きたフランス革命による裁判で1792年8月10日王権は停止。翌年裁判で有罪となり「ギロチン(guillotine)」と言う手法で首を落とされ処刑される事になる。※ ルイ16世(1754年8月23日~1793年1月21日)※ マリー・アントワネット(Marie-Antoinette) (1755年11月2日~1793年10月16日)ルイ16世とマリー・アントワネットの肖像 ウイーンの美術史美術館で撮影マリア・テレジアに送られた二人の肖像画ところで、先王が無くなると心臓を取り出しパリの教会に付託する習わしがある。以前、分割埋葬の事を紹介した事がある。国王やフランス貴族、またハプスブルグ家では、遺骸と心臓を別に保存すると言う不思議な儀式の事だ。リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓ところがルイ15世の場合、病気が病気だけに腐敗も早く取り出す事が不可能となった。それ故、ルイ15世だけが心臓を付けたままその遺骸は王家の墓所であるサン・ドニの教会(Basilique de Saint-Denis)へ運ばれたのだ。だから彼の心臓だけは絵の具になるなどと言う悲劇からは免れた。リンク 溶けた心臓で造られた絵の具 Mummy brown毎日少しずつ書いていたら着地点が定まらず、一度に載せるには長くなりすぎました。後半の「マリー・アントワネットの居城 4 プチトリアノンからパレ・ド・ジュスティス」は一両日中に載せます。m(_ _)mBack numberリンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿 マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃関連 Back numberリンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)リンク 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情リンク 新 ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)リンク 新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)リンク 新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)リンク 新 ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)リンク 新 ベルサイユ宮殿 2 (入城)リンク 新 ベルサイユ宮殿 1
2021年01月25日
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昨年末から忙しくなりパソコン前寝てしまう状態です予定の「マリー・アントワネットの居城 3」もう少しお待ちください m(_ _)mで、今回も以前紹介した「お勧めブログ・バックナンバー1」をリンク付けして多少改定しました。今回は読み物系の紹介です。お勧めブロメグ・バックナンバー 1 (騎士と十字軍、聖遺物、ナポレオン他)郵便ポストと郵便のルーツ騎士と十字軍と騎士団歴史ネタナポレオン関係聖なる物自分の所には前日に読まれた過去ログのアクセス数が表示されるのですが、それを見ていて「なぜ?」と思う物も結構あります。逆に、こちらが「読んで」と思うものはいがいに読まれていないんだな・・と思うものも・・。今まで知らなかった世界を覗いてもらえれば良いかな・・と言う事でちょっとお勧めを載せてみました。ところで「わたしのこだわりブログ(仮)」の「(仮)」は、もともと仮題だったからです。今更変えても・・と結局変えずに放置しているのでこのようなタイトルになっています。郵便ポストと郵便のルーツ郵便事業のルーツ 欧州の黄色いポストの由来 2015年12月リンク 欧州のポスト 1 郵便事業のルーツと黄色いポストの由来下、観光用に復刻された郵便馬車。古来、神聖ローマ帝国圏内を走っていた郵便馬車は黄色であった。欧州の郵便ポストが黄色いのはこの郵便馬車に由来する。欧州のポスト 赤色編と緑のポスト 2015年12月リンク 欧州のポスト2 赤色-ポストの誕生と緑のポストエルサレム 岩のドームエルサレム 神殿の丘エルサレム 苦難の道騎士と十字軍と騎士団十字軍(The crusade)と聖墳墓教会(The Church of the Holy Sepulchre) 1 2013年08月リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会(The Church of the Holy Sepulchre) 1十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 2 (キリストの墓) 2013年08月リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 2 (キリストの墓)騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会) 2013年08月リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会) 2013年08月リンク 騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会)騎士修道会 3 (ロードスの騎士) 2013年08月リンク 騎士修道会 3 (ロードスの騎士)ロンドン(London) 9 (テンプル教会 1) 2013年07月リンク ロンドン(London) 9 (テンプル教会 1)ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker) 2013年08月リンク ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士) 2013年09月リンク ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)ロンドン テンプル教会テンプル教会 騎士の墓英雄騎士ウィリアム・マーシャルの墓標歴史ネタデルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外・・中世日本の交易 2016年11月リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)アウグスブルク 6 (フッゲライ ・Fuggerei) 2 フッガー家と免罪符 2016年05月リンク アウグスブルク 6 フッゲライ 2 免罪符とフッガー家2013.9 クイズ 解答編 秘密結社? フリーメイソン 2013年09月リンク 2013.9 クイズこのロゴは何? 解答編 フリーメイソン・グランドロッジ・ロンドンブルージュ(Brugge) 13 (ベギンホフ・Begijnhof) 2014年06月リンク ブルージュ(Brugge) 13 (ベギンホフ・Begijnhof)ブルージュのベギンホフ(Begijnhof)フランス フォンテーヌブロー宮殿 ナポレオンの図書館ナポレオン関係ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠 2017年01月リンク ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式 2017年02月リンク ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau) 2017年02月リンク フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)ナポレオン(Napoléon) 1 ワーテルロー(Waterloo)戦線とナポレオンの帽子 2019年02月リンク ナポレオン(Napoléon) 1 ワーテルロー(Waterloo)戦線とナポレオンの帽子ベルギー ワーテルロー(Waterloo)ワーテルロー・ライオンナポレオン(Napoleon) 2 セントヘレナからの帰還 2019年02月リンク ナポレオン(Napoleon) 2 セントヘレナからの帰還オテル・デ・ザンヴァリッド( L'hôtel des Invalides)へ向かうナポレオンの葬列 絵はがきナポレオンのデスマスクパリの軍事博物館所蔵ナポレオン(Napoléon) 3 ヒ素中毒説とParis Green 2019年03リンク ナポレオン(Napoléon) 3 ヒ素中毒説とParis Greenナポレオンの肖像(ウィーン王宮宝物館)レジョン・ドヌール勲章(ウィーン王宮宝物館)・・ナポレオンが創設ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車) 2015年09月リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車) ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ) 2015年09月リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)ニンフェンブルグ宮殿 ルードビッヒ2世が結婚式で使用する予定だった馬車ニンフェンブルグ宮殿 ルードビッヒ2世の雪ゾリサンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他) 2014年01月リンク サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)ブルージュ(Brugge) 3 (鐘楼とカリヨン) 2014年03月リンク ブルージュ(Brugge) 3 (鐘楼とカリヨン)ブルージュ(Brugge) マルクト広場の鐘楼グエル公園(Parc Guell) 2 (ファサードのサラマンダー) 2012年06月リンク グエル公園(Parc Guell) 2 (ファサードのサラマンダー)グエル公園 ファサード跳ね橋とゴッホ 2009年08月リンク 跳ね橋とゴッホ精神病院 エスパース・ヴァン・ゴッホ 2009年08月リンク 精神病院 エスパース・ヴァン・ゴッホシシィとゲルストナーのスミレ菓子 2014年09月リンク シシィとゲルストナーのスミレ菓子サンテミリオンの特産品 (マカロンとカヌレ) 2009年10月リンク サンテミリオンの特産品 (マカロンとカヌレ)バチカン サンピエトロ寺院バチカン ピエタ(ミケランジェロ)聖なる物と人の話マギ(magi)の正体 2013年12月リンク マギ(magi)の正体クリスマス(Christmas)のルーツ 2018年12月リンク クリスマス(Christmas)のルーツサンドロ・ボッティチェリ(Sandoro Botticelli)の「Madonna of the Book」ミラノ ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)リンク ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)聖母子絵画とクリスマス歳時記 1 アドベント(Advent) 2017年12月リンク 聖母子絵画とクリスマス歳時記 1 アドベント(Advent)聖母子絵画とクリスマス歳時記 2 無原罪の御宿り日 2017年12月リンク 聖母子絵画とクリスマス歳時記 2 無原罪の御宿り日ヨハネとヨハネの黙示録 in Patmos 2009年07月リンク ヨハネとヨハネの黙示録 in Patmosファティマの聖母巡礼(Pilgrim Virgin of Fatima) 2014年01月リンク ファティマの聖母巡礼(ファティマ第三の預言)聖母マリアの家とマリア崇拝 2009年07月リンク 聖母マリアの家とマリア崇敬サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼) 2011年12月リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼)ウィーン宝物館 皇帝の十字架ウィーン宝物館 オーストリア帝国の三種の神器(帝冠、宝珠、王笏)聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance) 2014年12月リンク 聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance)ハプスブルグ家の三種の神器 2014年11月リンク ハプスブルグ家の三種の神器ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱) 2016年01月リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱) デルフト(Delft) 4 (新教会とオラニエ公家の墓所と聖遺物の話) 2016年10月リンク デルフト(Delft) 4 (新教会とオラニエ公家の墓所と聖遺物の話)レジデンツ博物館 ハンガリーの聖エリーザベトの頭部ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは) 2020年07月リンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾) 2014年09月リンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾)キリスト教がローマ帝国で公認され、最初にできた教会がミラノのサンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio)です。サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 2 (聖アンブロージョの聖櫃) 2014年10月リンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 2 (聖アンブロージョの聖櫃)Part 2に続くback numberお勧めブログ・バックナンバー 1 (騎士と十字軍、聖遺物、ナポレオン他)リンク お勧めブログ・バックナンバー 2 (芸術家の話と、墓所、他)リンク お勧めブログ・バックナンバー 3 (イエローストーン国立公園)リンク お勧めブログ・バックナンバー4 (グランドティートン国立公園 他)リンク お勧めブログ・・バックナンバー 5 (Navajo Nationとハワイのビーチ)
2021年01月03日
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タイトルだけで盛り沢山にさて、「旧ベルサイユ宮殿」ですが、ルイ14世、ルイ15世と紹介してきたので、やはりルイ16世にも触れなければならないでしょう。風貌もさえないし、意思も弱そうでマリー・アントワネットの夫と言う認識しか持っていない人のが多いだろうが、実は彼はアメリカの独立戦争を応援してアメリカに海軍のみならず陸軍まで出して支援した王なのである。つまり今のアメリカと言う国はルイ16世のおかげで建国できたと言っても過言ではなかったのです。ニューヨークのリバティ島(Liberty Island)にある自由の女神像(Statue of Liberty)は自由と民主主義の象徴としてアメリカ独立の100周年にフランスが贈ったというのもなるほど・・なのである。ベルサイユから遠く離れた感は今回もありますが・・。後半しっかり載せてます。新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里アメリカ独立戦争参戦のつけ・・財政赤字拡大ルイ16世とラ・ペルーズ(La Pérouse)調査隊ルイ16世のコンプレックストリアノン(Trianon) 大トリアノン宮殿 (Le Grand Trianon) 小トリアノン宮殿(le Petit Trianon)トリアノンの庭園造り ユベール・ロベールの世界感 ベルヴェデール (Belvédère) 愛の神殿(Temple Amour)王妃の村里ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ(Le hameau de la Reine) マールボロタワー(Marlborough Tower) 粉碾きの水車小屋(Mill)アメリカ独立戦争参戦のつけ・・財政赤字拡大1776年7月4日に独立宣言したばかりのアメリカから、その9月、ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)(1705年~1790年)がパリにやって来た。アメリカ大陸会議の特使としてフランス王(ルイ16世)に支援を要請する為だ。アメリカは独立宣言したものの、このままではイギリスにつぶされることは目に見えていた。イギリスに対向できる相手としてフランスが協力してくれれば勝てるかもしれない・・と言う理由だ。因みにベンジャミン・フランクリンは、この渡航でフランス、スペイン、オランダから1000万ドル以上の戦費の借金をして帰っている。ルイ16世の学力は決して悪くはないらしいが、タイプとしては地味な理系? 若い頃は錠前造を趣味としたオタク系だったのかもしれない。しかもコンブレックスを抱えたルイ16世は自信がないのか? 慎重すぎるからなのか? 決断力が足り無い。肝心な時に決められない。そう言う意味では本来トップの器では無いのだろう。でも、真面目で報われなかったが、頑張ってはいた。(議会に対して・・。)しかし、押しの強さが足り無い・・以前に「この王には大きな問題点があった。」バージニアヘンリー岬の戦い アメリカ独立戦争で戦うフランス海軍の艦隊Hampton Roads Naval Museum所蔵 ウィキメディアから借りてきました。アメリカの独立をフランスが支援する理由は果たしてあるのか? 財政難なのに・・。答えはすぐに出なかったが不思議なものでフランス国内でアメリカを助けろ・・と言う声が上ってきていた。7年戦争での仇(かたき)を取りたい臣下の思いもあった。また、アメリカに義勇軍師としてかってに乗り込み軍隊を指揮する青年貴族もいた。※ 7年戦争ではイギリスvsフランス艦隊のキブロン湾の海戦におけるフランスの大きな敗北。21隻の戦列艦のほとんどが壊滅させられた恨みがあった。何よりフランスはアメリカ大陸の植民に遅れをとっていた。それ故、イギリスの領土が減らせれば・・と言う引き算による力の均衡も考えた。それが海軍のみならず、陸軍まで遠い異国に派遣しての大々的参戦となった理由だ。1778年、フランスのアメリカの独立戦争への参戦はイングランドvsフランスと言う対立の代替え戦争にもなっていたのである。※ 1778年2月、ルイ16世はベンジャミン・フランクリンと友好条約に調印し、13植民地と正式に同盟を結んだ。これが正式なフランスの参戦である。フランスとアメリカ連合船隊 vs イギリスのフリゲート鑑 1779年 ウィキメディアから作者 Richard Paton 1780年結果、アメリカは勝利して独立を果たした。フランスはアメリカ、アフリカおよびインドにおける領地を回復し、勝ち組になったが、得た領土も実は少なく利益はそれほどなかった。※ アメリカの交易相手のメイン国は戦前のままイギリスであり、フランス独占にはならなかった。また以前北アメリカにあったフランス領を取り戻す事もできなかった。結果は徒労(とろう)に終ったと言える。戦士としてフランスは褒めたたえられはしたが・・。結果論で言えば、イギリスに一矢報い(いっしむくい)はしたが、むしろ借金が増えた。この戦いでフランスがアメリカ独立戦争につぎ込んだお金は13億リーヴル(約5600万ポンド)前の7年戦争の債務と合わせて33億1510万リーブルの借金を抱える事になってしまった。※ 現在の価値が解りませんが、イギリスがつぎ込んだ金額は8000万ポンド。フランスより当然多い。またその借入金には高利が付き返済は利子分だけで消える。フランスはもはや火の車。増税しか返済の見込みは無かったが、議会の承認がおりなかった。これもまたフランス革命の大きな要因となった負債である。ルイ16世とラ・ペルーズ(La Pérouse)調査隊このアメリカ独立戦争の遠く向こうにフランスには「インドからイギリス人を追い出す」と言う別の目的があったらしい。だからルイ16世は同時にインドとセイロンにも艦隊を送っていたと言う。またそれとは別にルイ16世はフランス海軍士官のペルーズ伯爵を1785年、科学探査の遠征隊として艦船をまかせ世界の海へと調査航海に出している。※ ラ・ペルーズ(La Pérouse)(1741年~1788?年) 海軍士官であると同時に彼は探検家として名が残されている。ウィキメディアから借りてきました。右がルイ16世。左がラ・ペルーズ。この遠征の目的は、ラペルーズが崇敬するジェームズクック(James Cook)(1728年~1779年)による太平洋の発見。その後の正確な地図の作成と、フランスの新しい植民地及び交易先の確保。また新たな海上交易ルートを開く事がまず任務として与えられていた。これは、とてつもなく大変な任務であり、全て完了すれば世界から称賛されるべき偉業であった。彼は大西洋を南下し南米南端のドレーク海峡を通過して太平洋に出るとイースター島によりハワイ諸島も押さえ、アラスカに向かう。アメリカ西岸の沿岸を南下して再びハワイ近海に戻ってから太平洋を横断してアジアへ。フィリピン、マカオと今度は日本海を北上して樺太、カムチャッカ半島そして再び太平洋の中心を通って南下しオーストラリアに到達。パプアニューギニア方面に向いソロモン諸島で消えた。ペローズの艦隊は世界を回ったあと、「1789年6月までにフランスに戻る予定である」との報告を最後に1788年消息をたったのだ。遠征の114人の乗組員の中には、10人の科学者もいた。天文学者で数学者、地質学者、植物学者、物理学者、自然主義者、イラストレーターの他、船の牧師(チャプレン)も乗っていた。また、この航海に応募した者の中に16歳のナポレオンが入っていたと言うのには驚いた。彼は最終的に航海リストには入らなかったのだ。運命とはいかに・・である。ルイ16世は死刑執行の朝(1793年1月)、「ラ・ペルーズのニュースはありますか?」と尋ねたと記録が残っているそうだ。世間はすでにラ・ペルーズを諦めていたが、ルイ16世は自分が死ぬ寸前までラ・ペルーズの帰還を楽しみに待っていたのだろう。そして航海の話しをたくさん聞きたかったのだろう。寡黙な彼は錠前造りが趣味とずっと言われてきたが、大人になった彼には別の趣味があった?彼の妻マリーアントワネットは彼がアメリカ問題で苦労している時にトリアノンの庭造りにいそしみ、子供ができてからは田舎暮らしの疑似体験で暇を潰して・・と得たのは自分の満足ばかり。ルイ16世のささやかな趣味が広い世界を知る事への投資であったのか? 本当は自ら船で航海に出たかったのかもしれない。地味ではあるが、激動の世の渦中で1人奮闘していたルイ16世。3人の王の中で一番真面目に政治をしていたのではないか? と思ってしまった。全ては先王らが造った借金と制度がいけないのに・・。ルイ16世のコンプレックスルイ16世(Louis XVI)(1754年~1793年)ルイ16世(推定20~22歳) 製作年 1774年~1776年1774年はルイ15世が亡くなりルイ16世が即位した年。つまりこの絵は王になったばかりのルイ16世か?※ 雰囲気的には王太子時代に見え無くもないが、金羊毛勲章をさげている事から即位した後に描かれたと推測できる。1770年に挙式しているので結婚して4年。しかし王と王妃はまだ夫婦になってはいなかった。祖父のルイ15世と対称に、ルイ16世は女性に興味が無かったらしい。かなりの奥手の上に実は肉体的コンプレックスがあった事が後年判明する。1777年、なかなか子供ができない事を心配したオーストリアの母、マリア・テレジアからの使者としてマリーアントワネットの兄ヨーゼフ2世がフランスを訪問。ルイ16世の相談にのり指導をしている。後にルイ16世はプチ手術するに至り、1778年12月、やっと長女マリーテレーズをもうけているが、結婚から8年目の快挙である。ここで幾つかの疑問を持った。ルイ16世にはそんな事を相談できる友も臣下もいなかったのだろうか?女性に対する扱いや指導を誰も助言してくれなかったのだろうか?女好きのルイ15世は孫にそう言う指導を一切しなかったのか?なかなか孫ができない事を不思議に思わなかったのだろうか?確かに、ルイ16世はルイ15世の孫なので相談するには年が離れていた事もある。また老いても若い愛人を造る女好きのルイ15世の事を、父と同様に嫌悪していたと考えられる。※ ルイ16世も彼の亡き父も愛人を作る事はなかった。もちろん反面教師がいたからだ。ルイ15世とルイ16世の間には血縁以外、本当に何もつながりが無かったのかもしれない。問題は、祖父よりも回りの臣下である。将来の王になる王太子に誰も関心を持っていなかったのだろうか?ルイ15世の時のフルーリー枢機卿のようなすぐれた爺やは彼の側にいなかったのだろうか?爺やでなくても友でも良い。過去も未来も彼の回りに信頼に足りる人間が見えて来ない。彼は子供の頃から1人孤高の少年であったのか?そして王になっても孤高の王であったのではないか? と言う気がしてきた。アメリカ独立戦争でもしかり、王の煮えきらない態度、誰か彼を真剣に思い、サポートする人材は本当に1人もいなかったのだろうか?マリーアントワネットがかなり人事や政治に口を挟んできている。ルイ16世は王妃の言葉に弱い?政治も1人ぼっち? 普通なら王妃の介入は非難されるべき事。そう言えば、ルイ15世が亡くなった後、臣下は一新されている。よりによって、ルイ15世に追放されたモールパ伯爵を呼び戻し宰相にした事で戻った彼は、仕返し人事を行ったのである。つまり啓蒙派からまた保守派へと逆戻りしたのである。※ モールパ伯爵は、ルイ15世が1739年に取りやめた「王が病人に手を触れて病を治す奇蹟の儀式」も復活させているらしい。もはや啓蒙の時代に即さない古い頭。これもまたブルボン家を崩壊に導いた要因の一つかもしれない。要するにルイ16世は良い臣下にめぐまれなかった。そればかりか何でも相談できる友もいなかった。これは単純に彼にそれを見極める能力が無かった・・とは言えない気がする。良い人材が本当に誰もいなかった。と言う「不幸」だったのかもしれない。もっともルイ14世、ルイ15世と見てきて、確かにフランス王は友人が作れる環境で育てられていない。当然、学友はいなかったであろう。心を打ち解けて話せる人は彼ら(王)にはいなかったのかもしれない。※ しかし、ルイ14世とルイ15世には良い宰相がいた。ルイ15世がポンパドゥール夫人と性を越えて友人? ブレーン? 側近としたのはやはり希有(けう)な事だったのだろう。前述の「この王には大きな問題点があった。」とはまさにそこ。彼の為に真剣に寄り添ってくれる人間が皆無だった事である。妻である妃(マリーアントワネット)は幼くして嫁ぎすぎた。成長してもルイ16世が頼りにできる相手にはなれなかった。それどころか、先にも触れたが、夫が、フランス国が、アメリカで必死で戦っているさなかも自分の遊びに更けているだけ。自分の都合で人事に介入する事はあっても国家の為に少しでも何かできたか? と言えば誤解を生んで夫(王)の足を引っ張っただけだったかもしれない。28項目の起訴状をあげられ、1793年1月20日死刑が確定。ルイ16世はそれを平静に受け止めたと言う。下は、昔、本から持って来た写真なのですが、出典がわからなくなりましたタンブル塔での家族最後の別れのシーンです。私が見つけた写真の中で、最も家族らしい写真がこれ。ルイ16世の胸にうなだれるマリーアントワネット。トリアノン(Trianon)ベルサイユ全景メイン宮殿が下方。トリアノン(Trianons)とはベルサイユの北西部に位置する敷地内に造られた休息用の小宮殿です。ルイ14世によって最初に造られたトリアノン宮殿とルイ15世によって造られたトリアノン宮殿。最初のが大トリアノン宮殿(グランド・トリアノン)、後のが少し小さく小トリアノン宮殿(プチ・トリアノン)と呼ばれます。プチトリアノン庭園の奥にマリーアントワネットが建設させたのが造り物の農村。通称マリーアントワネットの村里。王妃の村里ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ(Le hameau de la Reine)です。大トリアノン宮殿 (Le Grand Trianon)1687~88年 ウィキメディアから借りた写真です。建設ジュール・アルドゥアン・マンサール(Jules Hardouin-Mansart)(1646年~1708年)最初の宮殿はルイ14世がトリアノン宮殿の建設を指示。愛妾モンテスパン侯爵夫人に建てた離宮でした。※ルイ14世(Louis XIV)(1638年~1715年) (在位:1643年5月~1715年9月)最初の建物は建築家ルイ・ル・ヴォー(Louis Le Vau)(1612年~1670年)が設計。「磁器のトリアノン」(1670年)と呼ばれた。夏の世、ルイ14世は舞踏会や晩餐会を開催。損傷がひどくこれは後に建て替えられ、ジュール・アルドゥアン・マンサールJules Hardouin-Mansart)(1646年~1708年)の設計で1687年「大理石のトリアノン」が完成。現在の外観。高級な大理石をふんだんに使ったギリシャ・ローマが意識された宮殿。帝政の時代始め、ナポレオンが2番目の妻マリア・ルイーザと住居にしていた時もあり内装はその時に修復改装されている。広いので全景写真は難しいのです。小トリアノン宮殿(le Petit Trianon)(1762~68年)写真左が正面ファサード(自分の写真です)写真右が庭側(ウィキメディアから)建設アンジュ=ジャック・ガブリエル(Ange-Jacques Gabriel)(1698年~1782年)ルイ15世が小トリアノン宮殿の建設を指示。ポンパドゥール夫人のために建築されたが間に合わず、次の公妾デュ・バリー夫人が最初に使用し、ルイ15世が亡くなる(1774年)と、マリ・アントアネットの所有となった。宮殿エントランスなど一部は以前「新 マリー・アントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情」で紹介。リンク 新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情次回「マリー・アントワネットの居城 3」で多少扱う予定。トリアノンの庭園造り ユベール・ロベールの世界感1774年、ルイ16世は即位するとプチトリアノン(le Petit Trianon)宮とその周辺を自分の好みに合うように改装することを許可して、王妃マリー・アントワネットに与えたのである。※ マリー・アントワネット(Marie-Antoinette)( 1755年~1793年)以降、マリー・アントワネットは本宮殿での窮屈な儀礼を嫌いプチトリアノンを自分の邸宅として使用する。しかも限られたお気に入りの側近のみが入る事を許され、ルイ16世でさえ許可無く入れなかったらしい。※ 貴族を公平に扱わなかった事もマリー・アントワネットの失敗であった。プチトリアノン(le Petit Trianon)に住み着くと、マリー・アントワネットは今度は庭園の造作に乗り出した。それ以前の庭園はトリアノン宮殿の植物園で働いていた植物学者ルイ・クロード・リシャール(Louis Claude Marie Richard)(1754年~1821年)の一家が30年に渡り育てていた観賞と研究用の植物群が植えられていた。パイナップル、アロエ、コーヒー、ゼラニウムなど。マリー・アントワネットが自分の庭をそんなもので飾りたくなくて、貴重な植物なのに1775年以降全て除去される運命となった。散々な目にあったリシャール一家であるが、1781年7月、ルイ・クロード・リシャールはフランス領ギアナに派遣され調査研究し革命の年、1789年に4000の植物標本をもって帰国。植物学者となる。ルイ16世はそちらの研究にも力を入れ彼らの研究を応援していた。新たな庭園の造作はイギリス式の庭園で画家ユベール・ロベール(Hubert Robert)((1733年~1808年)の世界感を現した景観になるよう建築家リチャード・ミケ(Richard Mique)が手がける。平坦なフランス式庭園ではなく庭に起伏を持たせ自然を意識。川があったり、小山があったり雑木林や花の咲き乱れる野原,鳥の戯れる池などを庭園に配置。さらに、そんなランドスケープ(landscape)の中に古代遺跡のような建物が配置され演出された。上は現在である。マリーアントワネットの時代にはもう少しナチュラル感があってイングリッシュガーデンのように四季様々な花が咲いていたのではないか? と想像する。現在の整備では、どこかのゴルフ場にありそうな景色ですね。下も18番ホール手前・・って感じところで、ユベール・ロベールの絵画は古代遺跡や架空の遺跡などを描き入れた風景画。それは時に廃墟の古代神殿跡の姿であったり、廃墟でない物まで敢えて廃墟風に描いて味を出すと言う特異な手法の作風。故にノスタルジーを感じる作風なのである。下は参考に彼の絵画から。2点、いずれもウィキメディアから借りています。凱旋門とオレンジ劇場(1787年) ルーブル美術館所蔵ちょっとペトラの遺跡に見え無くもない。完全に創造の産物でしょう。ルーヴル美術館の廃墟としての想像上の眺め、1796年のサロン敢えてルーブルを廃墟にしてみた・・と言う想像のノスタルジー。発想は斬新。現在でも通用する奇抜な試みです。トリアノンの庭では、それを実際の景観で造ろうと言うちょっと贅沢な庭造りであり、そのノスタルジーな景観の中に自分が居ると言う贅沢な構想? である。その為にトリアノン内には古代の神殿のような建物が建造されている。また王妃の村里ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ(Le hameau de la Reine)も計算され配置された景観絵画になる。そう言う意味で、ランドスケープ・デザイン (Landscape design) が重視された庭園造りがされていた。※ 過去形にしました。今は違うので。ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌから絵になりそうなショットのみ選んでみました。マールボロタワー(Marlborough Tower)湖を見下ろす為の塔らしい。王妃の家水車小屋下はマリーアントワネットの庭の為に造られたトリアノン庭園の景観のオブジェ的建物であるが、建物はともかく、周囲の景観は当時と全く違うだろうと思う。全く感動が無いから・・。要するに今の庭園の整備が今一なのです。ベルヴェデール (Belvédère) 1777年完成愛の神殿(Temple Amour) 1778年完成製作 リチャード・ミケ(Richard Mique)(1728年~1794年)ちょっと解りにくいが、川に挟まれた小島の上に建てられている。しかもここは王妃の寝室から見えるのだそうです。現在のでは風情が無くて残念です。1746年に造られた天使のオブジエの本物はルーブルに保管されている。通称 マリーアントワネットの村里王妃の村里ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ(Le hameau de la Reine)庭園の奥に造られたこの一体は、農村を模した王妃の為の田舎風離宮です。建築家リチャード・ミケ(Richard Mique)が画家のユベール・ロベールのデッサンに着想を受けた村里は、大きな池の湖畔に、農園と花園で囲まれた12軒のわらぶき屋根と、農場、酪農小屋、釣り場の塔、水車小屋 鳩舎等があったが、あくまで農村を模した物で、実際の農家を建てたわけではなく、外観は素朴なコテージであるが造りはしっかり。内装はそこそこ豪華にできていて、実際ビリヤード場も付いている。(そんな農家ない)※ 昔、全く知らないでル・アモーを訪問した。農家風のくせにビリヤード (・_・?) ハテ? ここが一体何なのか全く解らなかった。最も、現在村里のほとんどはナポレオン帝政下にマリー・ルイーズの為に修復されたり、一新されたもののようです。※ 大トリアノンにナポレオンが住居していた時がある。1783年、リチャード・ミケ(Richard Mique)王妃の家連結してビリヤードの家左上の螺旋階段上がビリヤード場?ジョルジュ・ジャコブが豪華な家具をそろえ、家具職人ジャン・アンリ・ケーズナーによって、ビリヤード場が木造廻廊で接続された。およそ農場には似つかわしくないビリヤード台ですが、ここはサロンの一つ。王妃は農婦を演じていたのではなく、農場での仕事そのものを遊戯として捉えていた。また、子供たちにとっては教育的役割を果たしていた。何しろ家畜である羊はリボンでつながれていたらしいから・・。王妃の家は食堂、番人の部屋、客間、娯楽部屋に図書室まであったそうです。階段は王妃のイニシャル入りの特注の鉢(サン・クレマンのファイアンス陶器)で飾られていたらしい。穀物小屋は舞踏会場にされ、(今はない?)釣殿があり、絞られたミルクを飲む時、王妃は磁器の食器を使っていたという。侍女カンパン夫人によれば、「村の全ての家を訪れる事、雌牛が乳を搾られているのを見る事、湖で釣りを楽しむ事・・・王妃はそんな事に夢中になっていおいでだった。」当初、マリー・アントワネットが子供達と田舎での楽しみを味わう為に発案されたものであったと言うが、多くは田舎風サロンとして親しい友人らと利用されていたのかもしれない。実際に農業で使用されている建物も存在する。納屋、粉碾きの小屋(Mill)、家畜小屋、漁師の小屋、警備の家。ろばが粉をひくための小麦を水車小屋に運んだり、女たちが洗濯物を池のまわりで叩いたりするのを王妃は家の廻廊から眺めていたと言う。マールボロタワー(Marlborough Tower)粉碾きの水車小屋(Mill)革命が勃発した時も彼女はここにいた。トリアノン通りの並木道旧ベルサイユ宮殿の11~15まで削除しました。昔のは毎日更新で中身も無かったので・・。削除した当初のルノートルの庭園部分はいずれどここかで書き加えるかもしれませんが、庭園の写真があまりないので考中です。アナログカメラ時代に車で庭園を一周しているのですが、写真が無いのです。※ ロココ様式も中途と言えば中途でしたね。とりあえず年内に「マリー・アントワネットの居城 3」を終えてベルサイユ関連を終了させたいと思いますが、年内に終えられるか? 先に書きましたよう、母が入院して忙しいと言うよりはストレスで睡魔が・・。また、読んでくれている方もそうでしょうが、少しベルサイユ飽きてきました「アジアと欧州を結ぶ交易路」も、これから大航海の時代に入るわけで、まだ続きます。今の所何も構想ができていませんが・・。いつも行き当たりばったりで書いている自分が凄い・・。(* v v)。懲りずに読んでくださる方ありがとうございます。それが原動力です。 ( ^ - ^ )ゝBack number新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)リンク 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情リンク 新 ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)リンク 新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)リンク 新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)リンク 新 ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)リンク 新 ベルサイユ宮殿 2 (入城)リンク 新 ベルサイユ宮殿 1関連 Back numberリンク マリーアントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃
2020年12月22日
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写真の入れ替えや書き直した所に「新」を入れさせてもらいました。ラストにback numberを入れました。どこかの記事かブログで、ベルサイユ宮殿は一般庶民にも開放されていて観光客で賑わっていた風な事が書かれていた。が、これはちょっと違う。「ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)」のところでチラっと触れた「王権神授説(おうけんしんじゅせつ)」に関係した事象なのである。王権神授説では「王は、神から選ばれて王権を与えられた人」として存在している。それ故、負うのは神のみで、それ以外の例えばローマ教皇や神聖ローマ皇帝でさえも、何ら逆らえるものではない。との立場をとっている。つまり王は神に次いで特別な存在だと解釈しているのである。さらに中世には、カリスマ性のアピールもあり、王には霊験(れいげん)が宿っていると言う拡大解釈がされていたのである。もはや「王はただの人間ではなく、奇跡を起こす聖人となって庶民の病気を治していた」と言う事実がブルボン家にはあった。ルイ14世に継いでルイ15世もならい「王が病人に手を触れて病を治す奇蹟の儀式」が存在していたのである。これは国王の神聖性と権威の象徴として欠かせない行事でもあった。件(くだん)の庶民が宮殿に集まる様はまさに王に病気を直してもらうための参詣(さんけい)であったと思われる。これはルイ15世が儀式を止めてしまう1739年まで続いた行為である。フルーリー枢機卿はむろん反対したであろうが、まさに啓蒙思想が勃興(ぼっこう)してきている世の中にあって、さすがにルイ15世も続けられないと思ったのかもしれない。しかし、これは王権を存続させると言う意味においては大変意義のある行為であった。以降、王と市民の直接の関係性は無くなるのだから・・。さて、今回はルイ15世の公妾(こうしょう)(Royal Mistress)であったポンパドゥール夫人を中心にした話しになりますが、私が採用した夫人の経歴は英語版のウィキペディアがベースです。実はデュックドゥ・カストルの「ポンパドゥール夫人」と言う本も手に入れました。非常に権威のある作家らしいが、夫人の経歴からしても驚くほど中身が他と異なる。並べて比較もできないほど離れすぎ。何より今見てきたかのような、今本人が言っているような書き方。伝記とは言いがたい創作性を感じずにはいられなかった。しかもやたらと登場人物など情報は細かい。しかし、要所となるポイントは全く信用できない。使える所は使おうかとも思ったが、結論からすると無い方がマシと言う判断になった。私が求めるのは確実な史実の部分。特に年代は大事。それらを集めて再構築した方が新しい事が解るから。今回は幾つかの発見があった。また絵画に関しては、大方の所でウィキペディアから借りてきました。敢えてパステル画を集めたのです。ロココのちょっとぼやけた絵画はpastel paintingで描かれた物が多かったのです。当時パステル(pastel)画はパリで流行で、それもまたロココの印象を形作った要素の一つです。でも本来のロココはデザインの意匠です。装飾美術の本から少し持ってきました。今回も記録更新的に長くなりました。f^^*) ポリポリ 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)王の妾(めかけ)となるべく育てられた少女結婚とサロン・デビュー初期サロンの友人ルイ15世との出合い公妾(こうしょう)(Royal Mistress)正室(せいしつ)と公妾(こうしょう)ポンパドゥール夫人とルイ15世の関係ロココ時代に流行したパステル画ルイ15世(Louis XV)ベルヴュ城 (Château de Bellevue) パヴィヨン・フランセ(Pavillon français)ロココの意匠 ロカイユ(rocaille)エセ啓蒙専制君主フリードリヒ2世の討伐王の妾(めかけ)となるべく育てられた少女ジャンヌ・アントワネット・ポワソン(1721年~1764年)は1721年12月パリで誕生する。彼女の実の父親が誰かははっきりしていない。ただ、1725年に父の借金で国を離れる事になった時、チャールズ・フランソワ・ポール・ル・ノルマン・ド・トルネヘムと言う徴税請負人が彼女の法定後見人になっている事など、彼の可能性は高い。彼女の転換点となったのは、1730年。9歳で帰国した時「いつか王の心を支配する娘になる。」と占い師に予言された事。喜んだのは母である。その時から、ルイ15世の愛人になるべく、彼女には貴族の子女が受ける以上の高い教育が施され、育てられる事になった。(弟も良い教育を受けている)母は自宅に最高の講師を呼んだ。ダンスはもちろん絵画、彫刻、演劇、芸術全般の知識。絵画ではデッサンも学んだようだし、演劇については全て暗記するよう求められたらしい。つまりポンパドゥール夫人は、王の愛人になるべく、それにふさわしい教養を英才教育されていたのである。狩りをするダイアナ(Diana)に扮したポンパドゥール夫人 1746年(25歳) ウィキメディアから借りてきました。 画家 Jean-Marc Nattier (1685年~1766年) 宮中の肖像画家まさにルイ15世が射止められた仮面舞踏会の時の夫人の姿。出合の翌年に描かれた作品。結婚とサロン・デビュー1740年12月彼女は19歳でシャルル・ギヨーム・ル・ノルマンデティオール(Charles Guillaume Le Normant d'Étiolles)(1717年~ 1799年)と結婚する。相手は彼女の後見人ポール・ル・ノルマン・ド・トルネヘムの甥である。※ この結婚で2児をもうけるが、1歳と9歳で二人とも早世している。なぜ結婚したのかの疑問はある。が、この結婚の真意は、実は本当の娘? ジャンヌ・アントワネットへの合法的相続の為? との説がある。実際、この結婚で彼女はエティオル(パリの南28 km)の土地を相続する。そこは王室の狩猟場セナールの森(la forest de senart)の端に位置していて、後にそこでルイ15世と出合うのである。結婚後、彼女はパリのサロンへ出入りするにようになり、また自身でサロンも開いている。これらサロンで、時の重要人物である啓蒙思想家(けいもうしそうか)の第一人者らと知り合いになっている。※ なんとなくですが、啓蒙思想につては以下で紹介。サロンの事もこちらの前に是非一読お願いしたいです。その為に作った章です。リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)初期サロンの友人ヴォルテール(Voltaire)(1694年~1778年)本名フランソワ=マリー・アルエ(François-Marie Arouet)※ 啓蒙主義を代表する哲学者。作家、詩人。ヴォルテールの名称はペンネームみたいなもの。チャールズ ピノ デュクロ(Charles Pinot Duclos) (1704 年~1772年)※ フランスの作家シャルル=ルイ・ド・モンテスキュー(Charles-Louis de Montesquieu)(1689年~1755年)※ フランスの哲学者。モンテスキュー (Montesquieu) の男爵 でもある。クロード=アドリアン・エルヴェシウス(Claude-Adrien Helvétius)(1715年~1771年)※ フランスの哲学者、啓蒙思想家。ベルナール・ル・ボヴィエ・ド・フォントネル(Bernard le Bovier de Fontenelle)(1657年~1757年)※ フランスの著述家。アカデミー・フランセーズの会員。彼女自身のサロンにも多くの文化的エリートが出入りしていた。彼女の人脈はこの時からすでに造られていたと考えられる。もっとも、啓蒙思想家はフランスのような絶対王政下では敵となるのであったが・・。彼女のサロンの客ヴォルテールモンテスキュークレビヨンフィル(Crébillon fils,)(1707 年~1777年)※ フランスの作家フランソワ=ジョアシャン・ド・ピエール・ド・ベルニ(François-Joachim de Pierre de Bernis)(1715年~1794年) ベルニス枢機卿(the Cardinal de Bernis)※ フランスの枢機卿であり外交官。ルイ15世との出合いジャンヌ・アントワネット・ポワソンは、結婚しても王の妾(めかけ)になる事を諦めてはいなかった? らしい。母の執念もあったのかも・・。※ 実際、王の愛人はたいてい人妻から始まっている。一方、ルイ15世の方は1742年にはすでに彼女の評判を聞いていた。彼女は自分の領地エティオル(セナートの森の隣)で狩猟の指揮をしながら王に会わないかと網を張っていたのである。チャンスは1744年にきた。(ジャンヌ・アントワネット23歳)王の前を一度はブルーのドレスを着てピンクのフェートン(phaeton)に乗り横切る。二度目はピンクのドレスを着てブルーのフェートンに乗って横切り印象づけた。これは成功し、この時王から彼女に鹿肉が贈られたと言う。※ フェートン(phaeton)でのアピールは他でも書かれている。下はヴェルサイユのプチトリアノン近くで撮影したフェートン(phaeton)ガラス越なので光の反射を少しカットして修正しています。フェートン(phaeton)は2頭だての小ぶりの四輪馬車。太陽の戦車を駆って天に上ろうと暴走しゼウスに打ち落とされたパエトーンから派生している。フランスではこの頃、古典的な物が流行っていたようだ。女性の1人乗り用と思われるが資料が全くなく、座って自ら御していたのか? よく解らない。写真これが唯一かも。たまたまこの年、ルイ15世の愛人(Royal Mistress)であったシャトールー公爵夫人(Madame de Châteauroux)(1717年~1744年)が1744年12月に亡くなり公妾(こうしょう)の席も空席になった。※ 彼女は問題児。暗殺説がある。翌1745年2月ヴェルサイユ宮殿で開催された王太子の婚礼祝賀の仮面舞踏会に出席するよう正式な招待状が王から届く。ジャンヌ・アントワネットはこの時、狩猟の女神ダイアナに扮して現れる。王は、7人の廷臣と一緒にイチイの木に変装。ルイ15世は彼女の美しさに即、彼女への愛を公に宣言して公妾(こうしょう)として受け入れる決心をしたらしい。※ 本命視されていたネール公爵家の4女がいたが、宮廷にコネの無い彼女が選ばれた。王の強い押しらしい。このあたりは諸説あるが、この舞踏会が決め手になったのは間違いない。公妾(こうしょう)(Royal Mistress)とは、ただの愛人ではない。実質の妻である。それは正室が国の都合で政略的に選ばれ、決められた結婚であったからだ。正室とは別に、王自身が自ら好きになり選んだ相手を公的に認めたパートナーなのである。だから愛人なのに・・と言うのはちょっと誤なのである。もっともルイ15世の場合、妻との仲も非常よかったようだが・・。恋愛結婚して仲睦まじいオーストリアのマリア・テレジアにしたら納得できなかったのだろう。女帝はフランス王室の愛人制度を良く思っていなかったようで、それがマリー・アントワネットにも伝えられていた。1745年3月、ジャンヌ・アントワネットは翌月にはすぐにベルサイユに引越をする。彼女としては、夢が叶ったのであるから問題はない。しかし夫は? 納得できなかったが相手は国王。ルイ15世は彼を遠ざけたくて、夫シャルル=ギヨームにオスマン帝国の大使館のポストを用意したが彼は拒否したそうだ。1745年、5月二人は公式に別居。娘はジャンヌ・アントワネットが引き取ったが9歳で夭折(ようせつ)。1745年6月、ルイ15世はポンパドゥールの侯爵(Marquess)位を購入。所有権と紋章付きの土地をジャンヌアントワネットに与え彼女を侯爵夫人(Marquisate)にした。マダムポンパドール(Madame Pompador)の誕生である。※ 彼女の最終の爵位は公爵(Duke)。公爵の妻なら公爵夫人(Duchess)である。ジャンヌ・アントワネット24歳。この時後見人であったポール・ル・ノルマン・ド・トルネヘムも侯爵(marquis)の称号と王室造営物総監の任をもらう。それは後にジャンヌ・アントワネットの弟アベル=フランソワ・ポワソン・ド・ヴァンディエール(Abel-François Poisson de Vandières, marquis de Marigny)(1727年~1781年)が相続すると言う条件が付いていた。1745年9月、王家に入る正式な手続きを終えると同時に正室である王妃マリー・レクザンスカ(Marie Leszczyńska)(1703年~1768年)への敬意と忠誠を誓う。ジャンヌ・アントワネットは以降ポンパドゥール夫人(Madame Pompador)として1745年から1751年まで正式にルイ15世の公妾(こうしょう)(Royal Mistress)となるのである。正室(せいしつ)と公妾(こうしょう)ところで、ルイ15世の愛人問題を正室ががどう思っていたか? であるが・・。その前にルイ15世と正室の関係性を紹介する。当初ルイ15世の結婚相手はスペインとの和睦の為に選ばれた8歳下のスペイン王女マリアナ・ビクトリア(Mariana Victoria)(1718年~1781年)であった。が、1725年に婚約は急遽解消され、今度は7歳年上の22歳になる元ポーランド王の娘、マリー・レクザンスカ(Marie Leszczyńska)(1703年~1768年)に白羽の矢が立った。この結婚は世継ぎ欲しさに非常に急がれた結婚であった為、領地拡張とか、政治取引とか、すべての政治的理由は外されて選考されていた。ルイ15世に何かあっては一大事とフランス王家は早い跡継ぎを望みすぐにでも子供の産める妃にチェンジしたのである。かくして1725年9月ルイ15世とマリー・レクザンスカは結婚する。15歳のルイ15世は年上の綺麗なお姉さんであるマリーにすぐに夢中になった。そして期待通りマリー・レクザンスカは1727年から1738年の間に2男8女を出産。ドクターストップがかかるまで、ほぼ毎年妊娠させられていたのである。母体の負担もあるが1737年頃からマリーはついに扉を閉めてルイ15世を部屋に入れない抵抗を見せたと言う。そもそもルイ15世が公妾(こうしょう)を持つに至ったの1734年頃。王妃の妊娠続きが発端らしい。それ故、ルイ15世の公妾(こうしょう)に対して、マリー・レクザンスカは嫌悪よりもむしろ喜んでいたのではないか? 実際、ポンパドゥール夫人はマリー・レクザンスカに優しく声をかけられ感激している。彼女の妃への崇敬は本物であったと思う。以降二人がどのように係わるのかは定かで無いが、少なくとも、公妾退任後の二人の仲はかなり良かったのではないかと私は推察する。共にお互いの気遣いができる二人であったと思うからだ。それにポンパドゥール夫人は1756年には女性としては最高位の王妃付きの女官(lady-in-waiting)に昇進している。ポンパドゥール夫人とルイ15世の関係正式な公妾(こうしょう)期間は1745年から1751年。1751年から夫人が亡くなる1764年までは公式に政務もまかされていたし、最後まで王のサポートをしていたと考えられる。最も病弱になり王に看病される事も。最後は喀血もあり42歳で結核の為亡くなった。ルイ15世は非常に悲しみ途方に暮れたと伝えられている。ポンパドゥール夫人は、宮中に来て3度妊娠し流産している。その処置が悪かったのか? 原因不明の帯下(こしけ)の異常が続いて悩んでいたらしい。トリコモナス腟炎など細菌感染や子宮内膜炎なども考えられる。もはやその気になれないほど酷かったらしく1750年には王との性的関係の継続はできなくなっていたようだ。だからこそ1751年には正式にルイ15世の公妾(こうしょう)(Royal Mistress)の役を降りているのである。※ しかしこれは当時でも一部の人間しか知らなかった事。最近だからこそ公的な資料が出てきているのかも・・。もはや肉体関係はあきらめざる終えなかったが、ルイ15世には十分未練があたのだろう。何より王が彼女から学んだ事は多い。狩りしか知らなかった王が彼女の勧めで園芸の楽しみ、美術の鑑賞、セーブル陶器の製造に興味を持ったり、文学や建築についても学んだ。彼女の発案で画家ブーシェや思想家ヴォルテールが宮中に出入りし、王の見識もかなり広がったと思われる。彼女は王に女性関係以外の新たな知的な楽しみを与え、王の世界を広げたと言っても過言でないだろう。彼女は王のスケジュール管理など秘書のような仕事もしていたらしい。信頼していた王はその後も彼女を側に置き続けた。それ故、世間は関係が続いていると思っていたのだろう。実は彼女の手腕を買って? 正式に仕事までまかせていたのに・・・。世間の間違いは、彼女が亡くなるまで妾が継続されていたと思っている点だ。だから妾が政治に口を挟み国家を動かしていた・・などと非難されてきた。しかし実際は妾から転職して権限を正式に与えられてフランス国家の為に働いていたのである。文化の育成、保護もその中の一環であるし、大きな政治的勝負もしている。オーストリアと和睦し、次期王とマリーアントワネットとの縁談を結んだ事。これは大きな彼女の業績である。※ もし彼女が王を手玉にして政治に口を出していたのだとしたらシャトールー公爵夫人のように早くに殺されていただろう・・と思う。ロココ時代に流行したパステル画ルイ15世 (10歳) 1720年 パステル画画家 ロザルバ・カッリエーラ(Rosalba Carriera)(1675年~1757年)1720年にパリに呼ばれフランスの王室から36点の肖像画の注文を受けた。ルイ15世の肖像画もその一つ。カッリエーラのパステル画による新しい肖像画のスタイルはパリで大きな成功を収める。しかし、妹たちに手伝わせてさっさと仕事を終えると翌1721年にはヴェネツィアに戻ってしまった。※ 後にマリア・テレジアに絵の指導もしている。甲冑を付けたルイ15世 (38歳) 1748年 パステル画画家 モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール(Maurice Quentin de La Tour)(1704年~1788年)1746年に王立絵画彫刻アカデミーの会員となりにフランスの宮廷肖像画家として1773年まで働いている。彼の技法はpastel painting パステル(pastel)を使った肖像画家として有名なロココを代表する画家の1人。代表作は1755年に描いたポンパドゥール夫人(34歳)の肖像。 パステル画ルーブル美術館所蔵 画家 モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール(上に紹介)パステル画と(pastel painting)言うと印象派の画家ミレーやドガなどの絵で知られるが、1662年にはすでにフランスに登場していたらしい。先に紹介したヴェネツィアの画家ロザルバ・カッリエーラにより1720年頃からパリでの流行が始まった。モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール自体は1727年頃からパステル画に取り組み始めたらしい。ロザルバ・カッリエーラ作品よりも格段に精密になりこんな写真や遠目に見たら一見油絵(Oil painting)にしか見えない完璧さである。これを見ると印象派の作品など素人作品に見える。自分もパステルに挑戦した事があるが、パステルは細部を描くのが難しい。こうした写実的な絵は本来パステルには向かないと思っていた。それにしてもこの時代にこのカラーバリエーション。パステル(pastel)スティックは完成されていた? パステル画はロココを代表する物? 油絵よりも早く描け完成できるのが利点です。ルイ15世(Louis XV)ルイ15世(Louis XV)(1710年~1774年) (在位:1715年9月~1774年5月)「ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)」の所ですでに紹介しているが、先王ルイ14世が亡くなり、彼はわずか5歳で即位した。リンク ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)摂政にはルイ14世の甥オルレアン公フィリップ2世が付いた。摂政による政治(摂政時代)は9年。(1715年~1723年)「ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)」で彼の摂政(Regent)時代をレジェンス様式(Régence)として紹介している。リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)実はルイ14世の遺言では、享楽的なこの甥を気に入らなくて遺言では外されていた。しかし、パリ高等法院は王の遺言を棄却しオルレアン公フィリップ2世を「制限無しの全権摂政」に決めたのである。※ 法院との闇取引があったらしい。彼の政治政策は結論から言えば大失敗である。彼の治世末に経済政策の失敗でパリの株価を大暴落させるミシシッピー・ショックを引き起こした。これは後のフランス革命の要因の一つとなったからだ。※ 1720年財務総監にスコットランドの経済学者で銀行家のジョン・ロー(John Law)(1671年~1729年)を呼んだ。全ては彼の革新的経済政策の失敗が原因であった。※ 「ミシシッピー・ショック」はリーマン・ショックになぞって私が作った造語です。一方10歳になったルイ15世は摂政顧問会議に出席するようになり、帝王学を学ぶようになる。何しろ家庭教師はアンドレ=エルキュール・ド・フルーリー (André Hercule de Fleur)(1653年~1743年)。後のフルーリー枢機卿である。※ フルーリー枢機卿は (1653年~1743年)1726年から枢機卿が亡くなる1743年にまで実質の宰相を務めた。王が最も信頼した人物である。王はラテン語、イタリア語、歴史、地理、天文学、数学と描画、地図作成の指導を受けている。 ロシア訪問ではロシアの地理を良く勉強していてロシア皇帝が感激したと伝えられているし、 晩年、王の科学と地理への情熱が学術研究機関コレージュ・ド・フランス(Collège de France)の前身であるコレージュ・ロワイヤル(Collège Royal)内に1769年物理学と1773年力学の部門を創設している。但し王の学業の能力については語られていない。必ず伝えられるのは乗馬と狩猟のスキルである。そして狩猟の為の馬や犬の調教には熱心だったらしい。少年ルイ15世が何より熱中したのが狩猟であり、1722年、ベルサイユに再び宮殿を戻したのも実は狩猟が目的であったらしい。1723年、王は13歳となり成人した。これにより王の新政が始まるのだが、国の政治に対してルイ15世は意欲的ではなかった。宮廷の儀礼も嫌々。それ故、宰相(さいしょう)を置いている。1726年にはブルボン公を排除する為に宰相を廃止したが、以降王は自ら政治する事もなくほぼ「爺や」であるフルーリー枢機卿に丸投げだったらしい。フルーリー枢機卿は、本来イエズス会系の聖職者。政治家としてもすぐれた政策を打ち出し実質の宰相をしていた。※ フルーリーが代打していた時のみ収支が均衡を保ったと言われている。※ フルーリー枢機卿についても「ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)」の中で紹介しています。リンク ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)とにかく宮中内で徹底的な節約をした事は特筆される。また、何より平和主義者? 平和であればお金は使わないからと平和外交を勧めていた。(ルイ14世の造った財政赤字が要因である)にもかかわらず、ルイ15世が独断で妻の父親の為にポーランド継承戦争に参入した事は近隣諸国との関係を崩し大問題となった。ルイ15世が女好きになったのは超イケメンであったが為に宮中の女性が王をほっておかなかった事も確かにあるが、わずか15歳で結婚して世継ぎを残す為にはげんだ事。そのゆがんだ少年時代に形成されたのは間違いない。当時の彼の頭の中には、女、狩り、乗馬、馬,犬くらいしかワードが無かったのではないか?政務の方は今まで通りまかせっきり。もちろん時には政務にも出席してはいたが信頼のおける爺やがいつも見守り、代わって政治をしてくれていた。少年から青年になっても同じ。心配は何もなかったのだろうが、問題はにフルーリー枢機卿が亡くなった1743年以降である。この頃、最もしたたかだった女性にふりまわされている。ネール侯爵家の5女マリー・アンヌ・ド・マイイ=ネール(Marie-Anne de Mailly-Nesle)はシャトールー公爵夫人(Madame de Châteauroux)(1717年~1744年)である。ポンパドゥール夫人の一つ前の公妾であった女性だ。姉らも王の愛人であったようだが、その姉らを追い出し爵位、領地、邸宅や宝石などの財産を贈与だけでなく王との間に生まれた子供を嫡出子にする約束などを取り付けて地位を固めるしたたかさ。また政治や宮廷の人事にも口を出している。王がゾッコンなのを良い事に戦場にまで押しかけてやりたい放題。さすがに回りの重鎮らからは別れるよう言われる程。そして一度は王は別れたものの寄りを戻そうとしている時に彼女は急死した。シャトールー公爵夫人のこうした態度がポンパドゥール夫人と混同されているのではないか? と思う。ベルヴュ城 (Château de Bellevue) ウィキメディアでパブリックドメインになっていた図です。セーヌ川を東に見下ろす斜面の上、ムードンの広い高原にルイ15世は土地を購入し夫人にプレゼント。そこにポンパドゥール夫人は小さな城を建設した。ベルヴュ城 (Château de Bellevue)である。建物は800人かがりでり1749年開始され1750年に完成。王は度々立ち会いに来ていたようだ。建築家 Jean Cailleteau庭園家 Jean-Charles Garnierd'Is室内装飾 フランソワ・ブーシェ(François Boucher)に絵を依頼。城の建設はポンパドゥール夫人の公妾(こうしょう)引退に合わせて建設されたと考えられる。ベルサイユに一室を持っていても、大抵の貴族は別に屋敷を持っている。新たな人生の住まいとして王が夫人に贈ったもの? で間違いないだろう。ヴィーナスの化粧 1751年 油彩 ベルヴュ城の為にブーシェが描いたものの一つ。現在はニューヨーク、メトロポリタン美術館所蔵。フランソワ・ブーシェ(François Boucher)(1703年~1770年)ベルヴュ城 (Château de Bellevue)はフランス革命の後(1791年)、城主は不在となり1823年に取り壊されている。もし革命も無く、残っていたならロココ(Rococo)の様式美は、もっとはっきり解ったのかもしれない。城は夫人自身が創作した傑作であったろうから・・。ポンパドゥール夫人は、1747年から1764年に亡くなるまでブーシェのパトロンであったと伝えるものと、ブーシェはルイ15世の愛人の為に描いた。と両極の伝え方がされている。果たしてブーシェにとってはどちらだったのか?実物はすでに無いので、以下に夫人の城をイメージで捜してみました。ミュンヘン・レジデンツ(Residenz)博物館から持って来ました。ロココ様式の天井です。化粧室と思われる鏡貼りの部屋からこちらのシャンデリアもロココの意匠のデザインです。おそらくベネチアングラスで間違い無いでしょう。レジデンツも、ニンフェンブルク宮もヴィテルスバッハ家の宮殿です。ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) アマリエンブルク(Amalienburg)から鏡とガラス窓の中央ホールリンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 3 (狩猟用宮殿アマリエンブルク)パヴィヨン・フランセ(Pavillon français) 建設は1750年、こちらはルイ15世の為にポンパドゥール夫人がトリアノン宮殿の改築の指揮をとった中の一つ。トリアノンのフランス式庭園の中央に小さなパビリオンが建設された。建築家はアンジュ=ジャック・ガブリエル(Ange-Jacques Gabriel)(1698年~1782年)時期はフランスが参戦していたオーストリア継承戦争が終決した後だ。※ 1748年4月アーヘン講和会議にて終決。この戦争では無理して得たネーデルランドを返却しなければならず、結果的にフランスは一文にもならなかったどころか戦費による財政悪化を招く。新税の導入もあるし王の国民からの信頼はがた落ち。気にしていた?ポンパドゥール夫人はルイ15世を慰める為に音楽やボードゲーム、会話を楽しむ為のラウンジを持つガーデンファクトリーを建設。鶏(トリ)、牛、羊も飼っていて、王は乳製品を好んで食していたらしい。王は宮廷での汲々(きゅうきゅう)とした政務から逃れ、ここでのんびりブルジョワ風の生活をして気をまぎらわせたのだろう。下の写真はウィキメディアから借りた写真で、宮殿部分のみアップに切り取ったものです。※ 自分のはボケ気味だったので。これは4面のうちの一辺です。ベルサイユ宮殿とその別棟に歴史的建造物としてリスト。2008年に完全復元されているらしいが、内装はポンパドゥール夫人の頃のものではなさそうです。建設は1749年の春に始まり1750年の春に作業が完了。その秋に室内装飾が完了。(・_ ・。)? 先に紹介したベルヴュ城 の開始と落成期もこちらとほぼ一緒。こちらは夫人が王の為に建設。ベルヴュ城は王が度々視察して建設されている。偶然ではないだろう。もしかしたらお互いにプレゼントし合った企画だったのかもしれない。もしそうなら二人の間には消えぬ愛があった。2人の関係を愛(いと)しく感じてしまう。建物はちょっと変わった形をしている。この形を利用して、マリーアントワネットはポールを立ててテントを張ってパーティーをしている。ナポレオン妃マリールイーズもしかり。小さいけれど魅惑的な建物のようだ。下もウィキメディアから借りたパヴィヨン・フランセの図面です。真ん中に八角形のホール。十字の先に4つの小部屋。それらはボードゲームをしたりと小さなサロンになっている。設計図から見るに床は色大理石でそれぞれデザインが異なるよう。※ その後の使用者の関係もあり、現在の修復は当初の物と違うようです。※ Google の地図に場所の記載が無かったので書き込みしたら礼状が来ました女庭師姿のポンパドゥール夫人の肖像 1754年~1756(33歳~35歳) ウィキメディアから画家 Charles André Van Loo(1705年~1765年)ムクミが出ていて体調が悪そうです。下の方がむしろ若い。ブーシェとの付き合いは長いから昔の夫人を描いたのかもしれない。フランソワ・ブーシェによるポンパドゥール夫人の肖像 1758年(37歳)頬紅(ほおべに・チーク)をさしているポンパドゥール夫人ロココの意匠 ロカイユ(rocaille)今回も夫人の話しが多くなりロココの詳しい解説までできなくなりました。本当は古典古代から解説を入れたいのですが、それだけで1回になりそうです。別に改めて書くか? あるいは保留にして、今回はザックリ解説で濁(にご)したいと思います。m(_ _;)m1480年頃、地中から古代ローマのネロ帝の屋敷の一部が発見された。※ Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus(37年~68年)(在位:54年~68年)帝政ローマの5代目皇帝。洞窟のような地下に一部しか残っていなかったものの、それはネロ帝の黄金宮殿ドムス・アウレア(Domus Aurea)だったのだ。芸術に造形の深かったネロ帝の屋敷であるこれは世間が大騒ぎとなる一大ニュース。多くの芸術家がそこを訪れ、学び、ラファエロもバチカンにそれらを応用しているが、これこそがルネッサンスの元になる古典古代礼讃の序章となる大発見であった。このドムス・アウレアの壁画の様式はラファエロがバチカンで見せた壁面装飾にも現れている。マニエリスム時代に壁面を造形したスタッコ(stucco)の元もここからだ。しかし、ラファエロもマネしたグロテスク文様はロココや新古典様式の壁面装飾でも取り上げられ、三度び現れたのである。※ 地下の洞窟や墓地から発した「グロッタ(grotta)」はイタリア語であるが、それが語源となりグロテスク(grotesque)と言う造形や文様を生んだ。実はロココの様式はこの時発見された貝柄で造られたニンフのオブジェ装飾など、過剰に装飾されたこの宮殿の装飾から元を発している。※ ドムス・アウレア(Domus Aurea)は海辺のヴィラのような造りであったそうだ。このドムス・アウレアを模した? グロッテンホフ(Grottenhof)がミュンヘンのレジデンツ(Residenz)内にある。それを見ると本当にグロイと思う。以前グロッテンホフ(Grottenhof)は紹介している。リンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)それがロココにつながるには、以前「ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)」でちょっと触れたジル・マリー・オップノール(Gilles-Marie Oppenordt)(1672年~1742年)のようなデザイナーがいたからだ。彼はロカイユのボーダーとシェルの装飾をグロテスクから着想したらしい。今回グロテスクの壁は無いが、これがロココの意匠と言うデザインを持ってきました。ロカイユ(rocaille)上下ともにすべて銀細工師ピエール・ジェルマン(Pierre Germain)(1645年~1684年)の作巻貝から着想.を得た? 曲線の装飾文様。まさしくこれが本来のロカイユ(rocaille)を指すもの。本来はロココは文様から始まっているわけで、様式でもないし、時代でもないのだが、拡大解釈でいろいろ広げられてしまったのである。そもそもバロックやロココと言うワードは、少しバカにして名づけられたものらしい。夫人の誕生は1721年なので、夫人の前後60年間には確かに入るが、夫人誕生以前からロカイユ(rocaille)の意匠は現れていたと言う事がわかる。ピエール・ジェルマンには息子がいて、Thomas Germain (1673年~1748年) もまた銀細工師。彼が父の意匠を継いだかは定かではないが、彼も当時ロココを代表する職人となり大成している。ジル・マリー・オップノール(Gilles-Marie Oppenordt)(1672年~1742年)キャビネットの脚などに見られる人頭象。これも元はネロ帝の黄金宮殿ドムス・アウレアから来ていると思われる。先にリンク先載せましたが、レジデンツ博物館のグロッテンホフの貝でできた人頭のニンフ像。たぶん同じものがドムス・アウレアにあった? それがルーツだろう。ドムス・アウレアは発見当時から崩落がひどくかなり危険な状況だったらしい。カーブしたこの脚は猫足。ガブリエル(Gabriel)。俗にルイ15世様式と呼ばれる脚である。建築、絵画、彫刻、彫金、あらゆる芸術はやはりイタリアが先端。皆がイタリア留学を目指し古典古代から学ぶので古代の意匠は忘れられる事無く継承され、時に繰り返し現れてくる。ルネッサンスの時はドムス・アウレアの発見がきっさかけであったが、18世紀にはヴェスビオ(Vesuvio)山の噴火で滅んだ古代ローマの都市ポンペイの遺跡が発見されネオ・クラッシズム(Neoclassicism)新古典様式のブームが巻きおこった。つまりどちらも考古学的発見が古典古代を蘇みがえらせブームを作ったのである。※ ヘルクラネウム(Herculāneum)はローマ支配以前のポンペイの旧名。1738年、継いで1748年にポンペイの遺跡が発見。(ポンペイの遺跡は非常に広域なのである。)※ ポンペイ以外でも18世紀から19世紀と欧州では古代遺跡の発掘ラッシが起こり同時に古代礼讃のブームが巻き起こっている。今よりもレベルが高かったのではないか? とさえ思う高度な文化と思想を持っていた古代ギリシャ人や古代ローマ人。彼らの遺跡は同時に古代人の叡智(えいち)をも示してくれる。絶えず憧れの対象である事は良くわかる。それにしても流行とは、やはり何かしらのきっかけから始まっている。ジュスト・オレール・メッソニエ(Juste-Aurèle Meissonier )(1695年~ 1750年) 時計金細工職人、彫刻家、画家、建築家、家具デザイナー下はロココ様式の燭台(しょくだい) パリのクリニャンクール(Clignancourt)の店舗で昔購入したきたもの。素材は真鍮(しんちゅう)? ぽいです。最初28万円とか言われて、最終的にオマケでもらったのでお値段わからず。何倍にふっかけて言われているか? さぐりさぐり値段交渉をするのが難しい。クリニャンクールは蚤(のみ)の市で有名ですが、良いものはちゃんと店を構えているところで買った方が良い。後々、クレームも入れられる。これと新古典様式の時計と燭台のセットをこの時購入。店のおじさんが突然すべてのシャッターを閉めだしてちょっと怖かった。ミュンヘン・アルテピナコテーク美術館からフランソワ・ブーシェによるポンパドゥール夫人の肖像 1756年(35歳)年代からも完成したばかりのベルヴュ城 (Château de Bellevue)で描かれた絵かもしれない。下の写真はウィキメディアから借りた写真の部分のみカットしました。解像度が良いので、でもカラーは実物より派手目です。3枚のペチコート作戦を決行していた当時の夫人の姿。キャビネットから羽根ペンと封書が見えます。おそらく夫人はオーストリアの女帝マリア・テレジアとロシアの女帝エリザヴェータに直接手紙を書き送り計画の詳細を伝えていたと思われます。その方が間違いないし、偽りの無い思いも伝えられる。3人の女性は同じ気持ちで打倒フリードリヒ2世の討伐に軍隊を動かしたのだと推測。「打倒フリードリヒ2世」のこの計画、叶わなかった事が個人的にも残念です。さて、今回一番私が書きたかった事。それは公妾を退任した後のポンパドゥール夫人が政治に関わった部分です。上に触れた「3枚のペチコート作戦」と言われるプロイセンのフリードリッヒ2世包囲網の真意を考えてみた。エセ啓蒙専制君主フリードリヒ2世の討伐前回の「ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想) 」の中ですでにフリードリヒ2世の著書の事について紹介していますが・・。プロイセン王フリードリヒ2世(Friedrich II)(1712年~1786年)は1739年から1740年の時期に「反マキャヴェリ論(Anti-Machiavel )」を書き上げヴォルテールに推敲(すいこう)を送った。1740年(5月)は、父王が崩御しフリードリヒ2世として即位した年なので、これからの君主としてあるべき自分の理想の姿像を描いたはずであったと思う。ヴォルテールはフリードリヒのこの原稿をオランダで密かに出版する。フランス語からドイツ語など数ヶ国語に翻訳され、かなりのベストセラーになったようだ。実際、諸国の若手の皇太子らへの受けは絶大でかなりの信奉者が生まれている。フリードリヒ2世(Friedrich II)の肖像 1745年 (32歳)フリードリヒ2世(Friedrich II)(1712年~1786年)ヴォルテール(Voltaire)(1694年~1778年)モンテスキュー( Montesquieu)(1689年~1755年)ジャンヌ・アントワネット・ポワソン(1721年~1764年)フリードリッヒとヴォルテールは長らくの文通相手であったと言う。啓蒙思想家のヴォルテールは、この著書を褒めたし、モンテスキューもこれを高く評価したと言う。ところで、この1740年と言う年はジャンヌ・アントワネット(後のポンパドゥール夫人)が結婚した年でもある。以降彼女はサロンにデビューし前出のヴォルテールやモンテスキューとはサロン友達になるのである。当然その話題にフリードリヒ2世と著書「反マキャヴェリ論(Anti-Machiavel )」はあったであろう。もしかしたら、彼女もこれからの君主として理想の王になると期待したかもしれない。それなのに、同じその年の10月、オーストリアのカール6世の逝去に伴う皇位継承であらかじめカール6世が諸侯に承認を受けていたにもかかわらず、それを無効としてフリードリッヒ2世はオーストリア領のシュレーゼン(Schlesische)を奇襲して奪った。警告無しのいきなりの奇襲と言うそのやり口も非常に汚いが、フリードリッヒ2世はカール6世に恩があったはずだ。何よりカール6世の取りなしが無ければプロイセンから追い出されて今頃はただの人であったのに・・だ。さらに1713年の国事詔書により長女マリア・テレジアへのハプスブルグ家の継承を認めていたにもかかわらず、カール6世が亡くなると手のひら返して約束を反故(ほご)にし、女性の継承を認めないとした。出版したばかりの「反マキャヴェリ論(Anti-Machiavel )」は何だったのだ? と言う話しである。これからの理想の君主にるあるまじきおこないにヴォルテールも、言っている事と行動が違うと強く非難したと言う。ハプスブルグ家のオーストリア及びボヘミアとハンガリー継承は、男性であればそのまま継承できていた話しでもある。この腹立たしさは私にも解る。ジャンヌ・アントワネット(後のポンパドゥール夫人)も非常に怒ったのではないか? と推察する。当事者であるマリア・テレジアの怒りは怒髪天である。このオーストリア継承戦争(1740年~748年)は8年続いた。マリアテレジアの味方は当初イギリスだけ。1748年にロシアが参戦してくれた。乳飲み子を抱えた若い女王の苦労は計りしれなかったろう。しかも結果的に1741年4月、オーストリア軍はモルヴィッツでプロイセン軍に敗北し富めるシュレーゼン(Schlesische)はフリードリッヒ2世に取られてしまったままだ。この怒りはシュレーゼンを取り返すだけではすまされない。打倒プロイセンがオーストリアの目標となった。その為に敵はプロイセンのみ。フランスとの和睦は願ってもない案であったと思う。私がもう一つ怒るのはフリードリッヒ2世は一時はマリア・テレジアの婚約者候補になった男ではないか。マリア・テレジアがフランツを選び振られた腹いせなのか? 自分が結婚していたらハプスブルグ家の領土は全て自分の物になっていたのに・・と言う嫌がらせなのか?最低な男だ 紳士に非ず。1756年、ベルサイユでポンパドゥール夫人が動いた。今はそれなりの地位がある。フランスは長年の宿敵であったオーストリアと和睦し、打倒プロイセンで手を組んだのである。これは信じられ無いほどの転換外交である。外交革命と後に呼ばれるほど・・。※ 七年戦争(1756年~1763年)と言うとイギリスとフランスの間の紛争の方がメインになるのかもしれないが、今回は欧州内での女傑のタッグにのみを焦点にしています。また7年戦争は世界初の大戦に数えられる戦いです。フランスとオーストリアの和睦。これを協力的に支援したのがポンパドゥール夫人と言われている。が、協力支援と言うよりは、そもそもポンパドゥール夫人が持ちかけた話だったのではないか? とさえ思う。目的はもちろん打倒フリードリッヒ2世である。嘘つき啓蒙思想家の退治だ。さらにロシアの女帝エリザヴェータも個人的にフリードリッヒ2世を嫌悪していたので、欧州を誇る女傑が手を組んでフリードリッヒ2世を包囲して駆逐する作戦に打って出たのである。※ 3人の女傑 が手を組んだ事から「3枚のペチコート作戦」と呼ばれるそうだが、英語版にもフランス語版にもそんな言葉見当たらない。誰が名付けたのだ? 3枚のドレスならともかくペチコート(スカート下の下着)とは何だ? これ名付けた人は女性蔑視の人か? あきらかにバカにしている。この「7年戦争」には例のシュレーゼンの帰属がかけられていたので「第3次シュレーゼン戦争」とも呼ばれる。フランスはオーストリアのシュレーゼン奪還に協力を惜しまなかった。帝国のほとんどの国がオーストリア側に付き、一時はフリードリヒ2世を自殺に追い込むほどに優勢であった。しかし1761年ロシアの女帝エリザヴェータが急死して情勢が変わる。フリードリヒ2世を信奉していたピョートル3世が皇位継承をしたからだ。もう少しでプロイセンを破る直前。新帝ピョートル3世は勝利目前にしてプロイセンとの単独講和へ持ち込んだ。国益を損ねた愚か者以外の何者でもない。※ その半年後には妻(後の女帝エカテリーナ2世)と近衛部隊によるクーデターで新帝ピョートル3世は玉座を追われ暗殺されるが・・。すでに取り返しの付かない事をやらかした後だ。ロシアの戦線離脱を受け情勢は一転。オーストリア側はシュレーゼン奪回を諦め1763年プロイセンとの間で講和条約を結ぶ事になる。敗北だ翌、1764年、ポンパドゥール夫人も亡くなった。この試みは失敗したが、結果的にフランスとオーストリアは長い戦いに終止符を打ち和睦に成功。マリーアントワネットが後にルイ16世となる王太子に嫁ぐ事になったのである。2人の結婚は平和の象徴でもあったのだ。これはまぎれもなくポンパドゥール夫人の功績の賜(たまもの)であったと思う。それにしてもピョートル3世は愚か者であるが、マリア・テレジアの息子ヨーゼフ2世(Joseph II)も同じく愚か者だ。皆フリードリヒ2世の著書「反マキャヴェリ論(Anti-Machiavel )」にだまされたのだ。本は立派でも、理想論だけで、それほどの器の男では無かった。3人の女傑はこの嘘つき男が許せなかったのだろう。と結論した。ポンパドゥール夫人はサロンで友人のヴォルテール(Voltaire)からフリードリッヒ2世の真実を聞いていたに違いない。フランソワ・ブーシェによるポンパドゥール夫人の肖像 1759年(38歳)ウィキペディアから借りてきました。相変わらずお美しい。汚れない乙女のようです。今までの王の愛人は貴族の令嬢が多かった中で、ポンパドゥール夫人はブルジョア層出身。教養に関してはどんな女にも負けなかっただろうし、男性もしかり、そこら辺の臣下よりも知識も豊富で賢かったと想像できる。それはおそらくいつもの会話からも感じられたであろう。政治学さえも学んで来た彼女にはあらゆる方面への見識がありマルチにその能力を発揮きできる素養があった。ポンパドゥール夫人に対して「公妾のくせに政治にかかわらせて・・」と非難する声が大きいが、実際、彼女に政治手腕はあったと思うし、それをルイ15世は良く知っていたと言う事だ。※ 君主たるもの、己が直に政治をしなくても、良い人材を登庸(とうよう)し、動かせる能力があれば良いのだ。加えて言うと先にも触れたが、ポンパドゥール夫人が政治に関わるのは公妾を止めてからである。病気故に、彼女はルイ15世との関係継続が出来なくなったからだ。※ 本来は、公妾を退任したなら、彼女はすみやかにベルサイユ宮殿から退居しなければならなかった。王は彼女を愛するが故に最後まで手放したく無かったのだろう。また能力も評価し、多大な信頼もしていたのだろう。オーストリアやロシアとの交渉は正式に彼女にまかせていたと推察できる。彼女を友人として? ブレーンとして? 宮中に残す為に当初は「公妾は引退」と正式に発表できなかったのかもしれない。※ 後に役職が正式についている。先に書いたが1756年には王妃付きの女官(lady-in-waiting)にまで昇進している。以降、二人は友人になれたのか?エピソードから見えるのはルイ15世は男女の関係が終わっても、ずっと愛していたのだろうな・・と言う事。信頼か絆か? 彼女の存在が消える(亡くなる)まで諦(あきら)められなかったのだろう。世間とは全く違う見方となりました。次回、旧ベルサイユはマリーアントワネットの村里の予定。リンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里Back number削除したり新バージョンで書き換えしたので年月がとんでいます。リンク 新 ベルサイユ宮殿 1リンク 新 ベルサイユ宮殿 2 (入城)リンク 新 ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)リンク 新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)リンク 新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)リンク 新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)リンク 新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)リンク 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想) 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)lリンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里マリーアントワネットの嫁入りから革命で亡くなるまでがまとまっています。リンク マリーアントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃
2020年12月06日
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天球儀の写真を見つけたので追加しました。「ロココ様式を生んだポンパドゥール夫人とサロン文化」で書いてるはずでしたが、啓蒙思想と地動説の方に流れてしまいました。ポンパドゥール夫人から生まれたロココ様式の話しは彼女の経歴と共に「ベルサイユ宮殿 9」に持って行きます。 m(_ _)m17世紀の欧州での啓蒙思想の発展はサロン無くして無かったであろう。また女性を中心に花開いた極めて女性的な文芸文化。特にブーシェ等絵画に見られる恋人達をテーマにした官能を刺激する作品はサロンの中で生まれた。女性がホストになる事が多かったサロンにおいて、乙女の心を揺さぶる甘いテーマは宮廷の女性達の好物だ。彼女らの知性と教養はこれらサロンの中で磨かれ昇華され一つの文化を造りあげた。ロココ様式もその一つ。ポンパドゥール夫人を中心にしたサロンから始まったと定義されている。 以前「ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)」で一度紹介しているが、再度・・。。フランス・アカデミーは「ロココ(Rococo)」と言うジャンルはルイ15世の公妾(こうしょう)であったポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour) (1721年~1764年)を中心とした前後の60年間の期間に限っている。その定理にのっとってポンパドゥール夫人からロココ文化の紹介予定でしたが、ロココ様式を生むに至った「サロン」文化の話しを先にしないといけなくなりました欧州のハイソサエティー(high society)の中で始まった「サロン」は、特にフランスで盛り上がりを見せた。ポンパドゥール夫人もまたサロンを多く開いた人だ。彼女はルイ15世に見初められる前からパリですでにサロンを主催しヴォルテールとも顔見知りであったし、彼女の宮廷での洗煉された立ち居振る舞いや会話は全てサロン経験の成果なのである。だが、サロンが影響を与えたのは文化芸術だけではない。最初は単なるおしゃべりで始まったサロンの話題はだんだんに政治や思想にまで及ぶ。欧州に啓蒙(けいもう)思想が芽生え、皆の意識が変わる中で未だ、絶対王政を続けるフランス。足下のパリで臣下の彼らは平気で啓蒙思想を語り出した。サロンはフランスにおいて、いろんな、文化に影響を及ぼしたのである。むろん革命にも・・。写真はフォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)とレジデンツ(Residenz)博物館、それに観測器具はブリュッセルのサンカントネール美術館(musée du Cinquantenaire)から持ってきました。フォンテーヌブロー宮殿の建設はルイ13世(Louis XIII)(1601年~1643年)の時代。ちょうど今回紹介するランブイエ侯爵夫人の時代にはまるのです。イタリアからマニエリスムの職人を呼び寄せて建設されたフォンテーヌブロー宮殿の旧部屋のスタイルはランブイエ侯爵夫人が故郷イタリアをイメージした物に近かったはずだと推察しました。※ 実際、ルイ13世の母マリー・ド・メディシスはランブイエ侯爵夫人の家を参考にしているようです。もう一つ、ミラノのレジデンツの方は元はバイエルン王家ヴィッテルスバッハ家の宮殿です。建設は1385年と古いのですが、良い感じの調度品があったので使用しました。ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)ランブイエ侯爵夫人から始まったフランスのサロンアカデミー・フランセーズ(l'Académie française)アンリファインド(unrefined)なフランスロココの予兆? 摂政(Regent)時代のレジェンス様式(Régence)ジル・マリー・オップノール(Gilles-Marie Oppenordt)サロンのホストと来客ルイ15世の時代に全盛を迎えたサロン地動説問題啓蒙思想(けいもうしそう)(Enlightenment)ランブイエ侯爵夫人から始まったフランスのサロン17世紀のフランスにおいて、特筆しなければならないのがサロン(salon)文化の発達である。俗にサロン(salon)とは、主催者となるホスト(host)が場所を提供し、親しい者を集めてお茶をしながら会話を楽しむ・・と言った会から発しているが、最初にサロン文化をフランスに持ち込んだのはランブイエ(Rambouillet)公爵夫人であったとされている。※ ランブイエ(Rambouillet)公爵夫人ことカトリーヌ・ド・ヴィヴォンヌ(Catherine de Vivonne)(1588年~1665年)時はブルボン朝初代のフランス国王アンリ4世治世からルイ13世の治世。17世紀中葉。※ アンリ4世(Henri IV)(1553年~1610年) (在位:1589年~1610年)※ ルイ13世(Louis XIII)(1601年~1643年)(在位:1610年~1643年)彼女は母をイタリアの名門の家系に持ち、父は、ローマ駐在のフランス大使と言う家柄。メディチ家とも血縁のある彼女は母の教育でイタリア語とフランス語の取得の他、学門芸術を広く修めた才女。貴族と言えど文字も書けない女性が多かった時代に自分用の図書室を持ち。読書が好きだったらしい。しかし、大輪の花のように美しかったと言う彼女の弱点は日に当たるのが苦手。日光過敏で気絶する程であり、暖炉の火も苦手だったとか・・。そんな体のせいか? 宮廷での仕事もすぐに引退し、家に人を招く事が楽しみだったらしい。彼女は慈善活動にも喜びを持っていたようだし、人の世話をやく事も楽しみだった?。彼女のサロンは亡き父から相続した屋敷がパレ・ロワイヤル近くにあり、故郷イタリアの建物をイメージして増築。そのデザインを夫人自身が描いて見せたし、内装や調度も吟味して選んだ。それは美術館のように美しく整えられた屋敷であったようだ。ところで、サロンの語源はイタリア由来らしいが、当初フランスではリュエル(ruelle)と呼ばれていたらしい。それは最初に始めたランブイエ公爵夫人が病身で、その寝室からだったと言う事に由来にするらしい。※ リュエルは寝所の柵の中、ベッドの横に位置するスペース。つまり世話係やごく親しい者だけが入る事が許されたスペース。「ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)」でも紹介しています。リンク ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)フォンテーヌブロー宮殿左右のベッド回りに椅子がある所がリュエル(ruelle)ランブイエ侯爵夫人は暖炉の火も苦手で暖房がほとんど使用できない状態。寒さ故に冬はベッドから出られ無かったとも・・。来客は別の部屋で暖を取れたらしいが・・。。※ 資料は「17世紀フランスのサロン」より病身と言うよりは、体質の問題であったが、にも関わらずランブイエ侯爵夫人のサロンはリシュリュー枢機卿、バキンガム公爵、コンラールなど一流の詩人、貴族らが集う。また、常連メンバーには、フランスに発足したばかりのアカデミー・フランセーズ(l'Académie française)の会員ほぼ全員が名を連ねていたと言う。彼女のサロンは20年以上続いた。それは母ゆずりに社交的な長女のジュリー・ダンジェンヌが母をサポートしたからでもあった。アカデミー・フランセーズ(l'Académie française)ルイ13世治世下、1635年に設立されたフランスの国立学術団体。アカデミー・フランセーズ自体が作家で、王室秘書のヴァランタン・コンラール(Valentin Conrart)(1603年~1675年)の家でおこなわれた文芸同好会のサロンから始まっている。宰相リシュリューに認められ、正式にアカデミーは設立。初の会合もヴァランタン・コンラールの家で行われている。当初の目的はフランス語の編纂。またそれ以外にも美術界、学術界、文芸界、等、学問芸術振興の役割が与えられ、各賞や留学などの奨学金も提供する。定員を40人としてメンバーはあらゆる分野のエキスパートから構成されてきたらしい。フォンテーヌブロー宮殿以前の宮殿ではこんなサロンは無かった?フォンテーヌブロー宮殿は集会のサロンが多い。必ずに近いほど各部屋はタペストリーがかけられている。以前ブリュッセルの所でタペストリーについては紹介しているが、タペストリーの本来は芸術牲ではなく、暖房と言う実用牲から始まっている。ガラス窓ができる前は隙間風をしのぐカーテンの役割もしたし、石の壁や床に置く事で部屋はかなり暖くなったはずだ。だが、フランドルのタペストリーは良質な羊毛とずば抜けた技術で芸術牲をも高めた一品に成長。欧州各国の王侯貴族が求めた実用牲のある芸術品なのである。フランドル産は、絵画に相当しうる繊細さと美しさを持っているので絵画の役割も持って部屋に飾られたと言うわけだ。このタペストリーが、所謂パロックの時代になるとルーベンスの絵画のように、大型の油絵に取って代わられて行く。この宮殿の建設当時、ランブイエ侯爵夫人がサロンを開いた時点では、まだゴブラン織りはフランスには無かった。フランドルの綴れ織り技術は、1667年、ルイ14世の時代に宰相コルベールにより国策としてゴブラン織りとしてフランスから売り出されるようになる。全くもってレベルの違うものであったが・・。リンク サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)椅子もルイ13世時代からレジェンス様式のもの。アンリファインド(unrefined)なフランス「洗練(せんれん)された」の対義語としてアンリファインド(unrefined)(洗練されていない)にしましたが・・。実はアン4世の治世、またルイ13世の時代に至っても、フランスの宮廷は洗練とは程遠い品の無い状況(野蛮)。アンリ4世自身、野暮な田舎のお兄さん的振る舞いであったそうだ。当然、王や回りの重鎮にいたっても非常に粗野な振舞いで紳士には程遠い存在。アンリ4世妃のマリード・メディシスは輿入れの時にフランスにナイフとォークをもたらしている。それまでフランスでは宮中と言えど手づかみで食べていたのだ。だから夫人のもたらしたイタリアの文化のみならず洗練された貴族の振る舞いに、皆仰天したであろうし、憧れもあったであろう。当時イタリアは文化の最先端を担っていたからなおさらだ。実際、夫人は自分の周りだけでも品格(レベル)を上げたかったのかもしれない。因みに、マリード・メディシスも下品な宮廷劇の品格を上げる為に抵抗と努力をしたらしい。ルイ15世治世下のサロンでは、女性を愛(め)で愛(あい)をささやき、女性の気をひく紳士な行為は当たり前であったが、少し前にランブイエ侯爵夫人がサロンを開いた当時、女性は男性にとって性の対象以外の何物でも無い。欲望むき出しの知性も教養も持ち合わせていない宮廷人ばかりだったと見える。※ ランブイエ侯爵夫人は縁戚のマリー・ド・メディシスがフランスに輿入れする時の世話係に任命されている。結婚当初マリー・ド・メディシス・はフランス語が喋れなかった。二人は野蛮? に近く、今考えれば最もサロンに縁遠い人達ばかりのフランス宮廷に少なからず革新をもたらしたと言える。ランブイエ侯爵夫人のサロンはイタリアの文化を感じられる場であり、他にない知性的なサロンで得る物が多かった社交の場であったのは間違いない。フォンテーヌブロー宮殿壁にはフランドル産のタペストリー。当時はまだ絵画と言えば肖像画か宗教画くらい?ドラマチックな神話や寓意画のテーマは後に油絵に取って代わる。確かにこのタペストリーを油絵で描いたら。ルーベンスの作品に近づくかもしれない。ルーベンス作品のテーマはこんなタペストリー画からから継承されていた? かもしれない。織るより、油絵で描いた方が断然早いし安くすむはず。それだけフランドルのタペストリーは別格の高級品であったが、この作品がフランドル産か? フランス産か? は、接写していないのでちょっとわからない。上の写真の椅子はルイ15世様式、つまりロココ様式に入る。センター・テーブルはおそらく新古典様式。様式はチャンポンでも構わない。フランスでは古い物への敬意が強い。ボロボロでも代々受け継がれた家の歴史となる遺物を棄てる事はまず無い。古い物がある事はその家の歴史を実証する事で自慢なのである。椅子は傷が付いて当たり前、だから新しい椅子をオーダーした時、鎖(くさり)をぶつけてわざと痛めて年期を加えたりするのである。(モダンな椅子にはしないけどね。)レジェンス様式(Régence)の椅子見た目かなりルイ15世様式に近づいているが、足下のX字型の支持棒(ストレッチャー)が特徴。支持棒はバロックからの名残りらしいが、バロックよりも椅子は小ぶりに軽快になっている。逆に支持棒が無くなったルイ15世様式はこれよりも強度がしっかりしてきているのかもしれない。過渡期のせいかレジェンス様式の資料が少ない。これはフランスで買って来た専門書「Le Mobilier Francais (フランスの家具)Les Sieges(椅子)」から持ってきているので間違い無い。ロココの予兆? 摂政(Regent)時代のレジェンス様式(Régence)ルイ15世の摂政となったオルレアン公フィリップ2世は王宮をベルサイユからパリに移した。実は彼はパリで当世流行のサロンを開きたかったからと思われる。実際パレ・ロワイヤルで開いている。※ フィリップ2世が摂政(せっしょう)だったのは1715年から1723年まで。酒と美女が大好きで享楽的な人間だったらしいが、優雅で気楽な事を好んだ。恐らくパリでサロンが盛り上がりを見せるのはこの頃からなのだろう。彼は絵画の膨大なコレクションを有していた事から彼のサロンは絵画自慢の会だったかもしれないが、コレクションを飾る為の部屋や調度にもこだわった。オルレアン公フィリップ2世のセンスはロココの前章と言える物であったのだろう。彼の摂政(Regent)時代をレジェンス様式(Régence)として区別しているが、それは官能的なロカイユのボーダーとシェルの装飾を生み出したジル・マリー・オップノールの存在が大きいかもしれない。ジル・マリー・オップノール(Gilles-Marie Oppenordt)(1672年~1742年)曲面を多用し、幻想的な効果を上げたイタリアのバロック建築家フランチェスコ・ボッロミーニ(Francesco Borromini)(1599年~1667年)になぞらえ、フランスのボッロミーニと呼ばれたロココ様式の創始者の1人。もともとマンサールの弟子であったが、ローマに留学し、主にバロック彫刻の装飾品に特化してベルニーニやボロミーニ、他マニエリスムの作品に学んだらしい。帰国してパリのサンジェルマンデプレとサンシュルピス教会の祭壇で評価を得たらしいがアカデミーには入っていないようで知名度が低いのか?官能的なロカイユのボーダーとシェルの装飾をグロテスクから得ているらしい。グロテスク模様はロココの壁面装飾に突然? 現れたのが不思議であった。洗煉されたグロテスク模様は彼の仕業なのか? グロテスクの紹介も必要ですね。※ ラファエロがいたのを忘れてました。フォンテーヌブロー宮殿宮殿の説明書が無いので定かでないが、この部屋のブルーの椅子はレジェンス様式(Régence)で間違いない。部屋はチャンポンです。バロック前章なのかも。ダイニングの椅子はルイ13世様式のようです。サロンのホストと来客17世紀、パリで流行したサロンでは、ほぼ女性が主人となっている。サロンは数名から数十人規模の物まであったようだが、いずれにせよ主催者となるホスト(host)は金持である事は間違いない。メンバー・リストはないし招待状も無い。当然会則や会費も無い。また、メンバーの身分は問われない。職業、社会階層に関係無く、そこに必要とされる者であり、メンバーの推挙があればそのサロンに参加できたのだ。つまり王侯貴族も平民も同じサロンで同等に語り合う事ができた場なのである。当然であるが、サロンの会話についていけなければ意味が無いし、粗野ではいけない。そこでは洗練された所作は必要とされたが・・。語られるテーマも今までのサロンとはかなり違い非常に高尚なテーマが展開されていたと思われる。ランブイエ侯爵夫人が目指したサロンでも、職業や身分の壁を取り払らい、皆が誰も対等の立場で自由な人間同士の会話を楽しむ会が心掛けられた。またそれには男女の比率も考慮される。若い女性が増えれば貴公子も増える。時の話題となる人、専門のスキルのある人、またあらゆるものに見識の高い人も欲しいし、見目(みめ)の良い洒落(しゃれ)た外見と気の利いたトークのできるパーソナリティー(personality)も必要不可欠。長く続いたランブイエ侯爵夫人のサロンは人材集めも完璧であったと言う事だ。サロンは集会と言う形をしたコミュニケーションの場である。しかもオシャレで新鮮だ。ランブイエ侯爵夫人のサロンが閉じる頃はこれを真似たサロンがあちこちで開かれるようになる。特に17世紀後半、多くの女性が自邸にサロンを開き、貴族、上級ブルジョア層、文人や学者たちがそこに出入りするようになると、同時にあらゆる分野で華やかな新たな文化が続々生み出された。パリのサロンは成長を続けたのである。サロンには家により特性があり、娯楽中心のサロンもあれば学問に中心が置かれる所もある。初期のランブイエ侯爵夫人の場合は、娯楽的要素が強く、当人としては、とにかく来客を楽しませる事に工夫を凝らしたらしい。が、先に紹介した王室秘書のヴァランタン・コンラールのサロンのように、同好の士の集いがアカデミー・フランセーズ(l'Académie française)のような学術団体や専門の機関に成長した会もあったろう。※モリエールの喜劇「滑稽な才女たち」Les Précieuses ridicules ではサロンでの気取った会話を痛烈に皮肉っている。大多数のサロンは通俗的であったのかもしれないが・・。レジデンツ(Residenz)博物館からやはり壁にはタペストリー。椅子はルイ15世様式なのでロココ様式に入るが、壁は博物館の予算の関係で? 手抜き? 新古典様式もどきとなっている。レジデンツ(Residenz)博物館から上の壺セットはレジデンツなのでヴィッテルスバッハ家のコレクションであるが、フランスでも中国からの陶器がかなり輸入される時代になっていた。自慢と話題には欠かせない一品です。白い肌の磁器は欧州人の憧れであった。ルイ15世の時代に全盛を迎えたサロンルイ15世治世下のサロンでは教養ある人々を招き、私的な集まりが多く開かれた。そこには文学者が自作を朗読したり、文学論、演劇論が交わされるなどより知的な会話で盛り上がる。これらサロンの流行が、言語、風俗の洗練に尽くした功績も大きい。著名なサロンで多くの詩人たちが自分の作品を読み、そこでの評判がその作品の成功・不成功を決することにもなる。サロンにおいて人を楽しませ、喜ばせる独自の文学もここで発達。サロンの常連が各自中世の伝説騎士の名をとり、古語で手紙を交換。あるいは古い詩形であるロンドー(rondeau)を復活させ、すべての詩人が競作することも流行した。女性作家がこの頃増えたのもサロンの功績。また女性がニュートンなど科学を話題にするようにもなったし、当然、政治や思想がが語られるようもなる。男性ばかりか、当時流行の啓蒙思想について論じられる事が増えたのは間違いない。科学の発達はもはや時代の話題には欠かせなかったはず。当時のパリのサロンは、社交の場で、人脈造りの場でもあったから、ここに多くの芸術家らが出入りし、サロンのホスト(host)は彼らのパトロン(patron)にもなり素晴らしい芸術を生む手助けをもしている。サロン自体は遊戯に近い集いではあったが、これらサロンの発達は、まだ女性の地位が低く見られていた時代にあって、女性が皆ジャーナリストになるような活気的な勉強会的要素を持ち、女性の社会進出の手助けにもなったのは確か。ルイ15世の公妾となったポンパドゥール夫人、ことジャンヌ・アントワネット・ポワソン(1721年~1764年)は. 公妾になる前からパリのサロンで磨かれて来た。※ 彼女にはそこそこ金持ちの夫がいたからだ。ルイ15世が後年彼女に政治を任せたのは、その能力をかっての事。彼女は王宮に入る前からサロンでヴォルテール(Voltaire)(1694年~~1778年)ら多くの学者らとの人脈も持っていた。彼女の政治手腕はなかなかのものであったと思う。※ ポンパドゥール夫人の経歴に関しては 旧 「ベルサイユ宮殿 9」にて全面近日書き換えします。フォンテーヌブロー宮殿から前にルイ14世の財務総監ジャン・バティスト・コルベール(Jean-Baptiste Colbert)(1619年~1683年)によってゴブラン織りは国策となったと紹介したが、鏡もしかり。ベネチアからの輸入たよる事なく国策で鏡造りが進められた。そればかりか、この時に王家の城を全て一括管理する体制もできている。かつては城毎に建築主任が1人いた。今紹介しているフォンテーヌブロー宮殿もルーブルも、ベルサイユも同じ管理下に置かれていたと言う事だ。コストが重視されたのだろう。コルベールはしっかり者だから。サンカントネール美術館から 観測器具地動説問題神が本当にいると思うか? またそれを信じるか? は別として、現代の私たちは地球が自転しながら太陽の周りを回る惑星だと言う事を知っている。雨、風、雷、地震、津波、火山の爆発。全ての天変地異は地球におかれた環境による自然現象だと言う事を知っている。今の世の中であれば大概の事象は科学的に説明し、証明もできるし、人々はそれをすんなり信じる教養を持ち合わせている。それはどこの国も学校教育が普及してきたからでもあるが・・。宇宙の中心は太陽。地球を惑星とした地動説はカトリックの司祭であったニコラウス・コペルニクス(Nicolaus Copernicus)(1473年~1543年)が亡くなる直前の1543年。著書「天体の回転について」で発表した。1600年、イタリア出身の哲学者で、ドミニコ会の修道士であったジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno)(1548年~1600年)は、地動説を主張して火刑にされた。地動説はその後ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler)(1571年12~1630年)が太陽系の惑星の精密な観測結果を分析し遊星間の三法則(ケプラーの法則)を発見。1609年、「新天文学」で定理の第1と第2法則。1619年、「宇宙の調和」で第3法則を発表。この中心との距離が固定されて起こる運動は万有引力であり、後のサー・アイザック・ニュートン(Sir Isaac Newton)(1642年1727年)による万有引力の法則の発見につながる。1610年、望遠鏡を使用して月の観察を行っていたイタリアの科学者ガリレオ・ガリレイ( Galileo Galilei)(1564年~1642年)は「星界の報告」を出版。以降彼は、地動説を支持することになる。当然であるが、地動説は教会との大対立を生んだ。ガリレオは異端審問の宗教裁判にかけられて1633年有罪が確定し終身刑となって悲惨な最後を遂げる。因みに、ローマ教皇庁が誤りを認めてガリレオに謝罪したのは彼の死後350年もたった1992年の事。(時の教皇はヨハネ・パウロ2世)サンカントネール美術館から太陽系儀地球が動いている理論は、教会の考え方からはあり得ない、あってはいけない大問題であった。なぜなら、天も地も神が造った不動の存在であり、宇宙の中心は地球。天は地球を中心として動いているという天動説でできあがっていたからだ。天球儀アウグスブルク、シェッツラー宮殿 (Schaezlerpalais )から実はコペルニクスが現れる1800年前、ギリシャの哲学者により地動説はではすでに存在していた。古代ローマ帝国でキリスト教が公認され欧州がキリスト教化しだすと共に、それら理論は葬られた。つまり、欧州はキリスト教が普及し、彼らの勢力が拡大するとキリスト教色に完全に染められたのである。科学なんて神の領域にあってはいけないものだからだ。レジデンツ(Residenz)博物館からセーブル焼きかもしれない。取り上げたのはこのオブジェが天球儀と地球儀になっていたからだ。啓蒙思想(けいもうしそう)(Enlightenment)啓蒙思想が主流となるのは17世紀後半から18世紀にかけての時代。人間や社会、国家のあり方を根底から見直す動きが欧州に起きた。サロンは、こうした思想もテーマとなる。何より欧州の中でにわかに動き出した近代化へ各国の動きに彼らは敏感であったはず。その源になった問題があるのだが、どの解説も難しくてよく解らない。英語でEnlightenment「啓発」が当てられる。それは仏教やイスラム教では「悟(さと)り」とも訳される。そう、啓蒙思想は「悟り」と言う方が解りやすいかもしれない。では何を悟れと言う事なのか? 先に紹介した地動説しかり、この世は神の世界でできてはないと言う現実だ。故に教会の権威からの脱却、中世は道徳も行動も全てが神の元にあり、教会に管理されていた時代である。まずはその認識の改(あらため)である。また、社会生活の中で存在した身分制度などの封建的な考え方。民は王の僕(しもべ)であると言う人間性を否定する考えは間違いであるとする考え。「知性を得て、純粋に人として理性を高めよ」と言う事になる?世の中は科学も進歩し、航海技術も上がった。地球は半円ではなく、球体である事も解った。世界はつながっていた。今まで何がなんでも教会ありきであった諸々の古き因習。あたりまえだと信じていた世界がまさに否定されている時代である。それら取っ払って見たら? 残るのは?「我れ思う。故に、我れ在り。(われおもう。ゆえに、われあり。)」なのかな? デカルトの言葉が浮かんだ。※ ルネ・デカルト(René Descartes)(1596年~1650年)フランスの哲学者まさに近大化を迎える過渡期に起きた精神の転換点と言う事になる。さらに、混乱の世相の中でプロイセンではフリードリヒ2世(Friedrich II)(1712年~1786年)自らが「反マキャヴェリ論(Anti-Machiavel)」を出版し、「国家の発展を産業や貿易の振興、軍事力の強化などによって図る。」とした。また「君主こそが国家第一の僕(しもべ)」であるとする啓蒙専制主義を打ち出し新たな君主論を論じた。これは当然大反響を持って支持された。※ 実際は言っている事とやっている事は違ったようだが・・。ところが、フランスはどうだ?当時のフランスのブルボン朝ルイ15世の絶対王政とは相反する考え。俗に古い体制「アンシャンレジーム(Ancien régime)」と呼ばれるフランス絶対の王政下では、あろう事か未だ「王権神授説(おうけんしんじゅせつ)」を唱えていた。※ 王権神授説とは「神から与えられた王建により、王は国民に対して絶対的支配権を有する理論。」足下のパリのサロンでも、貴族らが啓蒙思想について論じていたはずだ。公に批判はできずとも、啓蒙思想の広がりは、フランス革命以前のブルボン朝、特に16~18世紀の絶対王政期のフランスの社会政治体制。ルイ14世、ルイ15世の時代の相次ぐ戦争による国家の財政困窮と言う事実。ブルボン王朝は反社会的王政と位置づけられたのである。故に、それら啓蒙主義者の登場はフランスにおいては絶対王政に対する市民革命にもつながってしまった。ルイ16世は高等法院の復活や三部会開催によりこれを打開しようと試みたが王制下の第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)らの抵抗を受ける。第三身分が(市民や農民)。身分を買えたブルジョワ層による反発は拡大。彼ら法服貴族が中心となり絶対王政は崩れて行く。そして1789年の市民の反乱。フランス革命は起きたのである。「ベルサイユ宮殿 9」書き換えました。リアルタイムで載せました。以下は後にアドレス変わると思います。リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)back numberリンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)リンク 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情リンク ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)リンク ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)リンク ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)リンク ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)リンク ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)リンク ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)リンク ベルサイユ宮殿 2 (入城)リンク ベルサイユ宮殿 1 思い出マリー・アントワネットback numberリンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿リンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)
2020年11月19日
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ラストにBack number最新を追加しました。父の一周忌を終えた。もし、一年コロナがズレていたら私はきっと父の看病にもいけず、看取る事もできなかったかもしれない。そう言う意味では看取りのできた私たち家族はラッキーだったのだろう。だが今年、コロナ騒動の中、コロナに関係なく具合が悪くなり亡くなられた方々の家族は、きっと満足のいく看病も出来ずに見送りされたに違いない。気の毒である。ましてコロナに感染された方々の場合、志村けんさんの場合で知ったが、家族は最後の野辺送りも許されなかったのだから不幸中の不幸である。本人のみならず、家族にとってもコロナ騒動は悲惨な結末を残している。さて、お待たせしました。コロナで中断していた「アジアと欧州を結ぶ交易路」ですが、前回 No8では「ローマの市民権とローマ帝国の制海権」を紹介。共和制ローマにおける市民権は当初特権として存在していた。それは財産に値する価値のあるもの。市民権を持つのはいわゆる特権階級の人々であった。No7の所で紹介しているが、共和制ローマの躍進はBC338年、ラティウム同盟を解体してからである。当初ギリシャ人が独占しようとして始めたシチリア島奪取の戦いは協力参戦した共和制ローマが手に入れる事になった。ポエニ戦争の始まりである。(ポエニはフェニキア人の事)いつのまにかギリシャは部外者に? 戦いは共和制ローマvsフェニキア人となり3度目のポエニ戦争(BC149年~BC146年)の後に共和制ローマが完全勝利。※ ボエニ戦争の勝利の裏にはスキピオ・アフリカヌス( Scipio Africanus)(BC236年~BC183年頃)のような有能な軍人がたまたま居た事もある。カルタゴの将軍ハンニバル(Hannibal)に勝った男である。結果、フェニキア人が交易先として有していた地中海の島々、アフリカ大陸、イベリア半島が共和制ローマの属州となり拡大したが、実は第二次ポエニ戦争(BC219年~BC201年)終決に重なるようにローマはギリシャの要請でマケドニア戦争(BC200年BC197年)にも参戦している。つまり共和制ローマの東方進出である。第3次マケドニア戦争(BC171年~BC168年)に勝利し、マケドニアを属州とすると、後にスパルタを除くギリシャをマケドニア属州に編入する。BC2世紀にはイベリア半島からエーゲ海に及ぶローマ帝国が完成されていたのである。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易ローマ帝国が滅ぼしたカルタゴ(Carthāgō)共和制ローマの繁栄とラティフンディウム問題ラティフンディウムが生んだ新興貴族ノビレス (Nobiles)奴隷貿易ローマ街道(Via Romana)ローマ帝国の交易品アンフォラ(amphora)古代ローマ人の衣装ローマ帝国が滅ぼしたカルタゴ(Carthāgō)古代フェニキア人の街カルタゴはピュルサの丘から始まった。カルタゴ(Carthāgō)の名はフェニキア語で新しい町、カルト・ハダシュト(Kart Hadasht)に由来しているらしい。ビュルサの丘(Acropole de Byrsa)からカルタゴのかつての港方面フェニキアの都市時代には丘の周りに街が広がっていた。しかし、ローマが完全に街を破壊。しばらく放置され、帝政ローマの街が新たに建設されたので、フェニキア時代をしのべる物はほぼ無い。※ 「ポエニ戦争の戦争賠償金とカルタゴの滅亡」について、2010年4月「チュニジアン・ブルー 2 (カフェ・デ・ナットと戦争賠償金)」で書いています。リンク チュニジアン・ブルー 2 (カフェ・デ・ナットと戦争賠償金)現在ビュルサの丘(Acropole de Byrsa)にはカルタゴ国立博物館とサン・ルイ教会が建っている。サン・ルイ(Saint-Louis)は、フランスの聖王と呼ばれるルイ9世(Louis IX)(1214年~1270年)の事。1270年、チュニジア経由で十次軍として再度エルサレムを目指すが、チュニスでペストにかかり病没。1881年、チュニジアはフランスの植民地となり教会はルイ9世に捧げられ1890年に献堂。ルイ9世が来た時はイスラム圏。立地的に翻弄された国かもしれない。下はかつてのポエニ港(Ports Puniques)からのビュルサの丘とサン・ルイ教会引きで港を紹介古代カルタゴの戦略的港湾、ポエニ港(Ports Puniques)カルタゴ国立博物館で撮影したポエニ港(Ports Puniques)の想像図ポエニ戦争の終結がBC146年。2200年以上前に存在していた港とは思えない合理的で洗練され、美しくさえある港湾図である。海の民フェニキア人、さすがである。共和制ローマの繁栄とラティフンディウム問題地中海の制海権を握ると積極的な東方進出が始まる。マケドニア、シリア、ガリア、エジプトと征服し、地中海と周辺国をローマ属州として支配。ローマは「地中海世界」の覇者となる。地中海世界からは多種多様な農作物がローマに集まり交易は非常に活発に行われローマ帝国は繁栄したのである。どこの戦闘シーンか解らないが・・。ロンドン、ヴィクトリア&アルバート美術館のレリーフから。年代も不明。が、気づけば次第に内政の悪化が進んでいた。Why?理由の一つは単純に兵員の減少である。カルタゴのハンニバルとの戦いでは人的損害は甚大で、ローマの兵員補充の為に兵役における財産の保有度合いを下げて対応している。それにより、下層市民の兵員が増えたのである。つまり上級士族の兵員が減り、戦闘で略奪なり、一山あてたい下層市民が増えたという事だ。彼らはほぼ職業軍人に近かったと言う。また、別の問題で自由民である中小農民が次々没落し、無産市民と化して行くケースも増えた。これらもまた徴兵対象の減少である。ローマ帝国のシステムでは、無産市民は兵員になれなかったからだ。農民の没落問題は、ハンニバル戦による一時的な兵員不足よりも甚大な問題となる。それは国のシステム構造を変える事件に発展して行ったからだ。農民の没落は農業システムの変容である。その一因が属州におけるラティフンディウム(latifundium)と言う奴隷労働に頼った金持市民による大土地経営者が増えた事だ。ローマが新たな領土を獲得した際、多くの農地が国有地としてローマから貸し出された。奴隷を多く持つ者ほど領地が広げられた訳で財力があった者ほどより富めたのである。何より奴隷を使うラティフンディウムによる経営はコストパフォーマンスが良い。賃金が低く押さえられるので全体に生産物の市場価格も抑えられる。結果、属州においてオリーブやブドウ、オレンジの果樹や小麦などの穀物、そして牧畜は特にラティフンディウムによる大農園化が進んだのである。属州からの安価な穀物が輸入されると従来の中小農民は倒産して土地を手放し離農が進んだと言うわけだ。※ イタリア本土では小麦さえも生産しなくなっていたのである。これはこれで食料供給が途絶えた時に食糧難が起きた。離農した彼らは無産市民化し、もはや農村に自由民の農民はおらず、ほぼ農業奴隷による大農園が広がっていたのである。ラティフンディウムが生んだ新興貴族ノビレス (Nobiles)古代ローマの歴史を顧みるとBC2世紀頃から地中海の島々に豪商の別荘が増えている。まさにラティフンディウムによる大農園化が進み、新らたに支配者階級にのし上がった彼らの成功の証しだろう。彼ら新興勢力がノビレス (Nobiles) である。この新たな富豪達、新興勢力は、当然、政治的発言力を強め、王政以降から元老院に組していた伝統的貴族層、パトリキ(Patricii)の議席をも奪って行く。共和制ローマの末期に現れた彼ら新興貴族は、共和制ローマの内政を変えた。しかし、一番の問題は自由民の農耕市民が離農した結果、ローマの為に戦う戦士も激減させた事である。ローマは農耕市民による戦士共同体だったからだ。単に貧富の格差を広げただけではすまない国の根幹にかかわる問題であった。政治家であるティベリウスとガイウスのグラックス兄弟はこれを何とかするべくラティフンディウムによる公有地の占有を制限しようと動いたが、元老院が大反対。彼ら自身も当事者でありノビレスの顔色をうかがったからである。ティベリウスは暗殺。ガイウスは自殺に追い込まれて彼らの改革は失敗した。農地改革については、後にガイウス・ユリウス・カエサルが「ユリウス農地法」を成立させている。共和制ローマの末期に現れた2回にわたる三頭政治と言う特殊体制はこうした背景から生まれた元老院への不審から現れたのである。2回の三頭政治を経て共和制ローマは終焉。帝政に移行する。最初のローマ皇帝はユリウス・カエサルの縁戚で養子でもあったガイウス・ユリウス・カエサル・オクタビアヌス(Gaius Julius Caesar Octavianus Augustus )(BC63年9月~BC14年8月)元老院は彼にアウグストゥスの称号を贈り初代皇帝アウグストゥス(Augustus)(BC63年~AD14年)(在位:BC27年 ~AD14年)が誕生するに至る。奴隷貿易ローマが属州にした土地では多くの奴隷が生まれた。そのほとんどは戦争捕虜であったと思われる。マケドニア王国の分割では厳しい戦後処理をしている。エピルス攻略では住民15万人を奴隷として売り飛ばしているのである。反逆分子は大量殺戮され、人質にされた者はローマに連行。デロス島はアテネに割譲されロードス島に対抗して自由港とすると島は奴隷貿易の巨大な市場となるのである。デロス島は、前回紹介したサントリーニ島(Santorini)でも触れたが、キクラデス諸島の中でもギリシャの神々の生誕地として神域であった島である。以下にキクラデス諸島の地図を紹介している。リンク サントリーニ島(Santorini)カルデラの島&アトランティス伝説リンクアドレスを修正しました。ナポリ考古学博物館所蔵 ポンペイ出土の大理石のオブジェ稀少な黒とマーブルの大理石で造られた使用人がモチーフの花台?顔だちからムーア人(Moors)の奴隷がモデルではないかと推察。黒大理石は稀少。現トルコのアナトリアが産地。BC133年ローマの属州となったペルガモン属州で産出された。ローマ帝国が東に領土広げた賜(たまもの)である。ローマ帝国では奴隷は人ではなく財産として管理されていた。帝政ローマの時代では、全人口の15%~20%を奴隷が占めていたと言う。先に紹介したラティフンディウムの使用人を考えると農村部ではその比率はさらに上がり、大農場や鉱山では鎖(くさり)に繋がれムチを打たれ休む間もなく酷使されたらしい。ただ、ギリシャの場合と異なり、ローマにおいてはオーナーに恵まれ、運が良かった者は解放され市民権を得る事も可能であった。※ 但し、それは正式な手続きを経た場合である。また、降伏外国人の奴隷出身者はいかなる理由でもローマ市民にはなれなかった。同じ奴隷でも奴隷に至る経緯や最初のポジションでその後の運命は大きく変わったと思われる。交易品の話しに入る前に、ローマ街道の話しを先に・・。ローマ街道(Via Romana)欧州内においては、全ての道はローマに通ず(All roads lead to Rome)と言われるようローマを起点にローマが属州とした欧州各地の植民都市に道はつながっていた。イタリア語版のVia Appiaから借りた地図に彩色書き込みました。旧ローマを囲むアウレリアヌス城壁から放射状に伸びるローマ街道図。写真はアッピア街道沿いのカタコンベ含むモニュメントも示されている。そもそもローマ街道は軍隊の派遣の為に造られ、整備され、拡張された道である。その歴史は、BC312年に建設されたアッピア街道(Via Appia)に始まる。軍隊の迅速な移動を目的に造られたので、その道は石畳の鋪装道路であった。上の写真もイタリア語版ウィキメディアのVia Appiaからアッピア街道はカンパニア州に向かって施設されているからか? 敷石はヴェスビオ(Vesuvio)火山でとれる玄武岩が使用されている。(他の街道は違うかもしれない。)アッピア街道の写真を捜して見ると、街道沿いの街路樹に糸杉が目立つ。糸杉と言うとゴッホの絵でお馴染みであるが、実は糸杉は棺桶に使用される木材なのである。だからあちこちの街道沿いに固まって植えられたりしている。初期に「二度と行きたくないカタコンベ」と言うのを書いた。このアッピア街道沿いに点在する墓地であるカタコンベに入った時の恐怖体験である。リンク 二度と行きたくないカタコンベローマ街道でも古来からあるこの街道はキリスト教徒との曰くも多い。この街道沿いは謀反人や処刑された者らが柱に立てて並べられたりと血で染まった街道なのである。初期のローマ街道は、ローマからイタリア半島の主要都市を結ぶだけであったが、ローマの支配域が増え、その植民都市(属州)とローマをつなぐ道も施設されるようになる。ガリアやブリタニアン、イベリア半島、アフリカ、ギリシャなど地中海全域に網の目のように敷設されるに至った。下は紀元117年頃のローマ街道 ウィキメディアから当然その道は軍隊のみならず、巡礼者などの一般市民までも利用する事ができたので、物流などの経済面でも大活躍。植民都市(属州)で採れる作物などあらゆる物資がローマに集まったのである。が、共和制末期、植民都市が広域に地中海を越えて拡大していくと、もはや陸路は最終手段。船舶による海洋、河川へと物流はシフトして行く。特に大農園化が進んだ共和制末期にはそれこそ大型トレーラー並みの船も増えて行ったのである。話しは戻って、ローマ街道であるが、最近、デザイナーとデジタル地理学者が「Roads to Rome」と言うヨーロッパの各地点からローマへと続く道をアルゴリズム化して示した白地図を出して話題になっている。それは各都市からのローマへの最短ルートを計算して算出したものであるが、本当に道はローマに集約されていたと言うものだ。下はその地図であるが、かつてはローマ街道が諸都市を結んでいたのだから当然かもしれないしかし、版図拡大に伴い,遠隔地での戦争が多くなると出兵期間が増えて農繁期に自分の土地に戻る事ができないと言う問題も生じてきたし、前述したように植民地での新たな労働に奴隷が活用され始め正規のローマの農民自体が減少していった。つまり農民による正規軍を編成できなくなったローマ帝国は傭兵への依存を高めて行く事になる。ローマ帝国の交易品地中海では800隻以上の難破船が発見されていると言う。そしてそれらのほとんどは1500年以上前のローマ時代のものらしい。下はケファロニア島の難破船から周りの木片が朽ちて積み荷のアンフォラ(amphora)だけが海底に沈んでいる。アンフォラは、船底に積みこまれやすい形状に作られているのである。アンフォラを積むローマの商船の推測絵図ファイル「Roman Trade Ship Diagram.jpg」元絵作者Matthew Jose Fisherウィキメディアで公開されていたのを若干彩色しました。重要なのは、荷を多く積む事が目的なので軍船と異なり漕ぎ手部がない事。帆船をメインとしている。※ 軍船は早く進む為に漕ぎ手を多くしている。ローマ時代の商船は全長15m~37m。最大積載量は100t~150tの中型船舶が中心。が、穀物輸送の商船はかなりの大型船が使用されていたらしい。イタリアのオスティアとエジプトのアレキサンドリア間では全長55m幅14m。最大積載量1300tもの大型船が就航していたらしいのだ。それは18世紀の東インド会社の船に匹敵する規模。彼らが扱っていた商品は食料、金属、材木、衣類、陶器、ガラス製品が中心で、中でも穀物、ワイン、オリーブ油が最も多く頻繁に取引されていた。これらの産地がシリア、エジプト、北アフリカ、スペイン、ガリアで、海路帝国各地に運ばれたと言う。これら農業における技術革新もめざましく、この時代にすでに水力を動力に利用した揚水機(ようすいき)や水車による挽き臼なども発明され活用されていたと言うのだから驚く。また鉱業も次いで盛んで、金、銀、銅、錫(すず)、鉛(なまり)などの資源は特にイベリア半島での採掘が富んでいたらしい。鉱山では、特に大量な奴隷を使った人海戦術と、水力による鉱物の破砕なども行われ技術力で生産スピードをあげている。ローマ帝国の商品市場は地中海を制覇して交易の規模は拡大。もはや陸路では間に合わず、船舶による海洋、河川へと交易路は拡大され、しかも一度に大量に輸送されて行ったのである。おそらく商品に特化した商船があったものと思われる。アンフォラ(amphora)古代ギリシアやローマで、ワインやオリーブなどの主に液体の運搬貯蔵に使われた陶製のツボ型容器である。古くはBC15世紀のシリア、レバノンで使用されていた記録があるようなので、おそらく最初はフェニキア人が考案した容器だった思われる。そしてそれは7世紀頃まで使われていたらしい。ニース、シミエ考古学博物館から海底から引き上げられたアンフォラアンフォラは地中海のあちこちで作られているのでその仕様でどこ産か特定できるようだ。例えば沈没船のアンフォラから難破した船の時代や国籍が解ると言う。下はポンペイ出土の焼き物屋? これから売られるはずであったアンフォラ。かなり大きめなのでワインの入れ物かもアンフォラのサイズは色々。中身によって使いがってがあると思われるが、ローマ帝国ではワインのアンフォラはおよそ39リットルが標準とされ、アンフオラ単位が生まれたらしい。下はチュニスのバルドー博物館のモザイク画からワイン売りの男からワインを購入している市民。容器は自前らしい。※ ワイン売りではなくオリーブオイル売りかもしれない。男が手にしているのがもしかしたらオリーブの枝のようだから・・。下は大英博物館のアンフォラ少し高級感がある。アンフォラには褒賞用の特別なものがあるらしい。アンフオラはトロフィーのように使われる事もあったのだ。もちろん絵柄なり付いた高級仕様。ギリシャ語、トロパイオン(tropaion)がトロフィーのルーツであるが、そもそもトロパイオンは勝利の記念モニュメント。しばしば戦利品のカップが今のトロフィーになったとも聞くが、もしかしたらトロフィーのルーツはアンフォラだったりして。オマケにアンフォラに入れたワインとオイルの産地からブドウ畑とオリーブ畑。いずれも古代ローマの属州だった所。シチリア島のオリーブ畑から下はボルドーのワイン畑からフランス南西部ボルドーは世界的に最も有名なワイン産地。2000年以上前からブドウは生産されていたらしい。が、前回紹介したサントリーニ島は、ミノア期にはすでにワインが作られていた。サントリーニ島では3500年以上前からワインをクレタ島に輸出していたと思われる。やはりアンフォラが使われたのか?古代ローマ人の衣装捜して見ると古代ローマの彫像は以外に無い。胸像は多いが・・。古代ローマの神々はギリシャとかぶるので神話系は一見区別が付かない。当時の人々の衣装を着用した全身像。ナポリ考古学博物館でやっと見つけました。少しだけ紹介します。 胴鎧(ロリカ・lorica)を付けた男 胴鎧(ロリカ・lorica)この像の胴鎧(lorica)は革製にエンボス加工の装飾がされた筋肉系の鎧ロリカ・ムスクラ。アウグストゥス(Augustus)帝の像もロリカを身に付けていたからこの当時の流行かもしれない。金属や皮革を重ねてつなぎ胸や腹のカバーとした胴鎧(ロリカ・lorica)はオリエント系のプレート式とケルト系のチェーンメイル(鎖帷子・くさりかたびら)式に分けられると言う。以前「西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)」でHauberk (ホーバーク)やMailメイルについて紹介していますが、メイルはローマ時代にあったのか? と疑問があります。メイルがポピュラーになるのは11世紀の十字軍時代です。ローマの胴鎧(lorica)はもともとギリシャ模倣ですが、ギリシャの物は青銅製だったようです。いずれにせよ、金属では重すぎ。日常軽量で、おしゃれである革製は帝政時代の高官に人気があったようですね。※ 「西洋の甲冑」実は書きかけです。微妙に人気が無かったので・・。リンク 西洋の甲冑 1 (Armour Steel Clothing のテキスタイル)リンク 西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)リンク 西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)ところで、先に触れた兵士不足に農民の離農問題をあげたが、ラティフンディウムの他にも理由はある。ローマ帝国が広がって行くと「すぐに家に帰れない問題」が起きた。皆、遠い異国への辛い遠征を嫌がり兵役志願者が減ったのである。特に資産家ほど?そこで資産による等級付けが廃止されたのである。しかも兵士になれば市民権が得られる? 門戸はローマ市民以外にも広げられ6年任期も廃止。サラリーも上がり、装備の一律支給、退職金制度等、至れり尽くせり。なかば職業軍人に近いローマ兵の誕生である。これは共和制時代の軍人政治家、ガイウス・マリウス (Gaius Marius)(BC157年~BC86年)による軍政改革であるが帝政になってもローマの軍事制度として継承されたそうだ。黒のトーガ(toga)をまとった女性黒大理石で造られた女性の彫像は、ローマ帝国時代の喪服を着た女性であった。古代ローマ人が一般に着用した巻衣形式の外衣がトーガ(toga)。羊毛で織られているので色は淡いベージュが一般的。階級や役職、また冠婚葬祭でカラーのバリエーションがあったらしい。喪服用には黒の他、茶もあったらしいが染めた訳ではなく、黒い羊毛で織られていたらしい。「ローマ帝国内でのキリスト教の伝播」について加える予定でしたが、単独で次回に回す事にしました。「アジアと欧州を結ぶ交易路」まだまだつづく。Back numberリンク 静物画にみるメッセージリンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは) アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2020年06月27日
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ラストにBack number追加しました。今回の写真はモザイク画とシチリア島の遺跡からです。モザイク画はポンペイの遺跡とシチリアのピアッツァ・アルメリーナ(Piazza Armerina)にあるカサーレのローマの別荘(Villa Romana del Casale)からです。当時の絵は古代ローマ人の生活が偲べる貴重な産物ですが、個人的に興味のあるのを載せてます尚、遺跡はポエニ戦争にまつわるシチリア島からですが、こちらはギリシャ遺跡が中心です。ローマ人は征服した土地のローマ化を促進して行く。都市計画を持って聖所である神殿、広場や集会所、司法を行うバシリカなど公共建造物を造った。とりわけ灌漑の水路であるローマ水道の施設や市民の娯楽場であるローマの共同浴場の建設、また演劇や見世物を見る円形劇場や闘技場の建設は古代ローマの生活に無くてはならない物となった。街の生活は文化的になり、市民は娯楽に興じ不満を忘れる。それこそがローマの思うつぼ。ローマの都市支配の方法なのであった。しかも、街はもともとの地元の有力貴族に委ねて自治支配を任せていた。特に上層市民には市民権を認めていたので選ばれた者は自分の私財を投げ打って街の建設をも進めたのである。これはほとんどが市民権を有する「植民市」だけの話しではない。ローマでは服属する都市に対して自治権、市民権の与え方で「植民市」、「自治市」、「同盟市」とおよそ3つの方策で管理していた。「植民市」では、市民権はローマ人と同等に認められたが自治権は無かった。またこれにはローマ市民のみ入植とラテン諸都市出身者入植のパターンがあった。「自治市」では軍事・裁判を除く自治権は認められたが「完全な市民権」を与えられた自治市と「投票権のない市民権」を与えられた自治市とが存在した。だが「同盟市」では市民権、自治権のいずれも無く兵力供出のみが義務づけられると言う隷属扱い。これが俗に言うローマ帝国の「分割して統治せよ」のシステムらしい。さらに横の連携を切るようローマは各々都市と個別の取り決めをすると言う念の入れよう。因みにこうした支配の手法は19世紀以降の欧米の植民地経営でも応用されたシステムらしい。同じ働きをしながら市民権があるのと無いのでは雲泥の差。同盟市の扱いを見れば不満は当然。自治市だってしかり下層民の不満は出る。だが、市民権を持つ植民市からも不満は出て来た。上手く行ってたって恒に不満を持つのは人の性(さが)である帝政期のローマでは、不満を塗りつぶすがごとくあの手この手で市民に娯楽を提供するに至ったのだ。アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権ローマ帝国と市民権ギリシャの市民権との違いサッフォー(Sappho)古代ローマの女性の義務は出産古代のヴァニタス(vanitas)画悲劇の仮面と悲劇詩人シチリア島(Sicilia)とフェニキア人とポエニ戦争アグリジェント(Agrigento)の古代遺跡フェニキア人から地中海の覇権を奪ったポエニ戦争ピアッツァ・アルメリーナ(Piazza Armerina)10人の娘の部屋ローマ帝国と市民権当初は、都市国家ローマに居住する自由民のみに市民権が認められていたと言う。その市民権とは、文字通り市民が持つ権利であるが、権利の代償に市民として幾つかの義務を負っていた。その一番の義務が兵役である。兵士は所有する財産によりランクがあり「兵士として兵員会に登録」された。例えば3000セステルティウスに相当する資産ほ有するとか、兵役の際の武具類は自前調達など・・。※ 前回紹介したが兵士は「騎兵」、「歩兵(1~5等級)」、「歩兵以下(多数の無産市民含)」に等級分けされていた。また兵員登録以外に在住する地区の民会(市民集会)に所属する事により選挙権(公職者投票権)があったし、資産10%を納付しなければならない属州民税の免除(免税権)もあったようだ。が、同じ市民でも、上級市民(貴族)と平民市民の間には選挙権や裁判など大きな格差もあった。これも前回触れたが、BC5世紀「成文法(十二表法)」が制定されるとだんだんに下層市民の権利も向上して行く。十二表法では民事訴訟、債務、家族、相続、財産、不動産、葬儀、結婚、不法行為、犯罪などに関する法や規則が定められた。これにより例えば正式な婚姻の関係にあるローマ人の両親より生まれた男子は自動的に市民権を得られたが、下層兵の場合、兵役中の結婚は正式に認められず、兵役期間終了まで、その子供らにローマ市民権は与えられなかったそうだ。ところで市民権は、当初は兵役の「義務」と言う障害を伴う特権的権利であったが、BC1世紀に行われたマリウスの軍制改革(Marian reforms)によって兵役が義務でなくなり図らずもローマの市民権に価値が生じたのである。兵力にムラのある市民の兵役制度ではローマは勝てないと志願制にして精鋭の職業軍人を造りローマ軍を再編したからだ。ギリシャの市民権との違い古代ギリシャのポリスでは、市民権がポリス(アテネ)居住者のみに与えられた特権でありポリス以外の住民に拡大される事は無かった。実は、ローマは市民権作成にあたって、当初ギリシャの市民権を参考にしている。が、この市民権は、ローマ以外の地域の都市国家に与えられる場合も出てきたし、後々ローマ市民の枠を越え、他部族や他民族、解放奴隷にまで広がって行った。解放奴隷にまで市民権を与えた事はさすがにギリシャ人もビックリだったらしい。違いは何か?ギリシャの市民権が民主制を示す象徴であったのに対し、ローマの市民権は独特の特権故にちょっと違った意味を持っていた。何しろ他部族や他民族、解放奴隷まで欲しがった権利なのだ。これは一つの財産と捉(とら)えられる。市民権は美味しいあめ玉のようなもの。元老院はローマの発展と維持の為に市民権を与えまくって行く事になる。そうして、かろうじてローマは共和政を維持して行ったのである。が、最終的には市民権を得た者らの士気は落ちる。欲しかった時の意欲は戦力であったが・・古代ギリシヤの女性詩人サッフォー(Sappho)の肖像ポンペイ出土。ナポリ考古学博物館所蔵※ サッフォー(Sappho)(BC632/612~BC570年頃)レスポス島出身でレスボスのアイオリス方言を使っていた彼女の詩形は4行からなる「サッフォー詩体」と呼ばれる。韻(いん)が良く多くの詩人がこれを真似している。彼女の詩は高貴な言葉で、美しい旋律で紡ぐから誰もが酔いしれてしまう。後のギリシャの哲学者であるプラトーン(Plato)(BC427年~BC347年)は彼女の詩を高く評価し「古代ギリシャの神に仕える女神に並ぶ」と表している。彼女の詩はキリスト教が勢力を伸ばしていく中、排斥の対象となりキリスト教の害の少ないアレクサンドリアの図書館で秘蔵される事になる。またここに同じく迫害され始めたギリシャの学者らも勉強の為に集まる事になる。だが、キリスト教徒は世界で一番の蔵書を誇ったアレクサンドリアの図書館をも破壊し蔵書を焼き払らった。貴重なヘレニズム期の文献もサッフォーの詩も失われてしまったのだ。シチリア島に亡命していた事から同島に関係が深くローマでも崇拝されていた詩人。それ故誰か好きな者がいてポンペイのフレスコ画に特に美しく描かれて残されたのだろう。数ある展示の中でも一際目をひく美女である。古代ローマの女性の義務は出産ところで、上に散々紹介した市民権の話しは男性主体の話しである。市民権の義務となる兵役をこなせるのは男性のみ。兵役に出られない女性は親の地位で立場が決まるしか無かった? と考えられる。女性の立場は? あまりよろしくなかったのは明白である。ここで、ちょっと寿命の話しを挟む。古代ローマ帝国の平均寿命は20歳から25歳。それは乳幼児の死亡率が高かったからだ。特に0歳児の死亡率は30%を越えていて5歳までに50%が命を落としていたらしい。60歳まで生きる人は少なかったらしいが、帝国人の人生の一区切りが60歳。家父長が絶対のローマ帝国ではあまり長生きされると家族が嫌がったらしい。話しは戻って、共和制初期までは女性は特に子供を生み増やす為の道具的な立場だったらしく5人以上の出産が期待されていた。それは乳幼児の死亡率が高かった事に関係もしているが、当然健康な男児の出産が望まれていた。だから、下層民の場合、肉体労働が主な生計となる為、経済的理由で健康で無い子(奇形児)や女の子は選別されて殺されたり捨てられていたらしいのだ。ただでさえ乳幼児の死亡率が高いのに・・。※ 文面から奇形児の出産率が割と多かったのではないか? と読める。鉛害か? また、上層市民の女性は出産を嫌がり避妊の傾向があったと言う。実際元老院らの家系は2世代くらいで絶えているらしい。だから少子化問題を危惧した法令も作られたそうだ。ところで捨てられた子供は・・。運良く誰かに拾われる事もあったそうだ。しかし、それは美談では無い。拾われた子は生涯拾い主の奴隷としてこき使われる事になるのだから。古代のヴァニタス(vanitas)画「汝、死すべきことを覚えよ」ポンペイ出土のモザイク画三角形は水準器で「平等」を表すそうだ。皆に平等に来る死。「避けられぬ死と人生の儚さの象徴」を現した絵と解説があった。つまりこれは「人生の儚さと虚しさの寓意」の静物画、いわゆるヴァニタス(vanitas)画にあたる。意味はまさに「死を忘れるなかれ」メメント・モリ(memento mori)である。ヴァニタス(vanitas)画については以前プリンセンホフの所で紹介した事がある。リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)しかし、こちらはキリスト教の発祥よりも200年以上前のローマ時代の絵画。中世以降のメメント・モリと古代ローマ時代では教訓のとらえ方が全く異なっている。古代ローマでは「いつか死ぬのだから今を楽しめ」「歌えや、踊れや、酒飲んで楽しめ。」快楽を享受する事を奨めているのだ。古代ローマの繁栄は、娯楽を求め、娯楽を市民に与え続けた前向きな生き方にもあったのかと思う悲劇の仮面 ポンペイの遺跡のモザイク画から教訓? を隠喩(いんゆ)するかのような絵がずいぶん見受けられる。まるで生首のような頭部が描かれた不気味な絵である。また頭部だけのもある。それは実は仮面であった。下に紹介するのは花やフルーツの装飾の中に描かれた悲しみの仮面である。ポンペイ、ファウヌス家出土。ナポリ考古学博物館所蔵※ ファウヌス家はアレクサンドロスの壁画が出た家です。仮面はギリシャ由来の祭りで端を発した演劇。悲劇、喜劇、サテュロス劇という3つの戯曲のジャンルの一つらしい。下のモザイク画は演者の楽屋裏の光景らしい。それぞれの仮面が置かれている。悲劇詩人 ポンペイ、悲劇詩人の家出土。ナポリ考古学博物館所蔵サテュロス劇の準備をする役者と楽団員の図らしい。今回演劇について触れるつもりは無いが、仮面は日本のお能の面のような意味を持つものなのだろう。但しローマの仮面は演目の後に神にささげられたのか? 現存はしていないのだそうだ。いずれにせよ、ギリシャの祭りから発した演劇はローマから世界に広がったと思われる。ここでローマの彫像から当時の若者の職業別? 風俗姿を選んでみました。ナポリ考古学博物館所蔵。シチリア島(Sicilia)とフェニキア人とポエニ戦争シチリア島(Sicilia)は大陽に恵まれた地中海一大きな島である。どこもがここを見逃す訳はなく、地中海の制海権をめぐる戦いはここから始まったのであるBC900年頃にはすでに海の民であるフェニキア人が島の海岸に交易拠点の港を建設。彼らは侵略者ではないので内陸に進出することはなく先住民と交易を行っていた。ところが、BC750年頃からギリシャ人の入植が始まる。東岸のシラクサはBC734年頃にはギリシャ最大の植民都市となっていた。彼らの目的は島の侵略(植民地化)である。※ フェニキア人は島の西側のモティア、パノルムス、ソルスに後退。BC431年にペロポネソス戦争が起こると、島ではイオニア人とドーリア人の植民都市同士の抗争が激化。シラクサ(ドーリア系)はスパルタの後ろ盾を得て勝ち残る。つまりギリシャ側は一つではなく部族で争って取り合いになったのである。次にシラクサの支配者は全土を得ようとフェニキア人の追い出しにかかる。最後にローマに援軍を頼んだ事がポエニ戦争の発端となった。当時のローマとカルタゴ(フェニキア人)の船ローマは当初海戦国ではなかった。第一次ポエニ戦争で勝利するとカルタゴ(フェニキア人)の船を研究してローマの軍船を造り地中海へ乗り出して行くのである。ところで、ポエニ戦争は「カルタゴvsローマ」とされるが、カルタゴの街が表に出て来るのはアレクサンドロスの遠征以降である。かつてフェニキア人の要となっていたのはシリア沿岸の諸都市の中でも最大のテュロス(Tyros)の街であった。カルタゴはシリアからイベリア半島を目指す地中海の寄港地としてテュロスが造った街なのである。アレクサンドロスにテュロス(Tyros)が完全に滅ぼされるとフェニキア人の中心がカルタゴに移ったのでありフェニキア人の最後の砦がカルタゴであったと言う事なのだ。確かに最後はカルタゴでの市街戦になるが、本来は「フェニキア人vsローマ人」が第一次ポエニ戦争なのである。アグリジェント(Agrigento)の古代遺跡アグリジェント(Agrigento)コンコルディア神殿(Tempio della Concordia)シチリア島南部アグリジェント(Agrigento)は古代ギリシアの植民都市アクラガスに起源イタリアの国定史跡であり1997年ユネスコの世界遺産にも登録BC5世紀に建てられ、AD6世紀にはしばらくキリスト教の聖堂に転用されていた。その為、保存状態が良いらしい。ドーリア式神殿。第一次ポエニ戦争(BC264年~BC241年)ではこのアグリジェント(Agrigento)をめぐる攻防がカルタゴ(フェニキア人)と共和制ローマの間で行われている。(ギリシア名アクラガス、ラテン名アグリゲントゥム)の戦い。シチリア支配にローマが参入してきたのである。後方はアグリジェント(Agrigento)の街。神殿の谷には7つの神殿遺跡がある上に転がっているのは人型(男性)の柱、アトラス(atlas)のレプリカ※ 古代ローマでは男性柱をテラモーン(Telamōn)と呼んだ。下はアグリジェント考古学博物館のアトラス(atlas)オリジナル7.75m下はアトラスの柱が使われていたオリュンポス・ゼウス神殿の想像模型。これは現存していればギリシャの神殿史上最も大きな神殿であったらしい。112.6m×56.3mこれは正面ですが、横も同じです。BC480年ヒメラの戦いに勝利したシラクサのギリシャ人は捕虜のフェニキア人を使って建築させた神殿らしい。結局未完に終り、後に地震で倒壊。冬でも一面緑におおわれ、春にはアーモンドの花が咲きほこる。めったに雲もかからない晴天にめぐまれた大地。シチリア島の特産は大陽の光を一杯浴びたオレンジやレモン、オリーブ、イチジク、アーモンド、ピスタッチオ、それにワイン。他に鉱物資源として硫黄(いおう)は世界有数の産地。古来から有名で黒色火薬の原料になるし、イチジクなどの漂白剤やワインの酸化防止剤にも使用される。また方解石(ほうかいせき)カルサイトが産出される。これは鉱石としては石灰石、石材としては大理石として利用される。シチリア島は地中海のほぼ真ん中に位置。島の南西にカルタゴ。地中海右の端に滅ぼされたテュロスの街を印ました。因みに第二次ポエニ戦争ではシラクサがカルタゴと組んでローマを敵に回したので都市国家シラクサは、ローマに併合されシキリア属州に組み込まれた。※ この第二次ポエニ戦争では古代ギリシアの数学者にしてあらゆる科学の学者であるアルキメデス(Archimedes)(BC287年?~BC212年)がローマ兵によって殺されている。フェニキア人から地中海の覇権を奪ったポエニ戦争ここで、再び押さえておきたいローマの歴史です。ローマの快進は、ラティウム(Latinum)同盟解体からのイタリア半島統一を契機に始まるのですが、欧州全土に帝国を持つに至る重大な戦いがフェニキア人との3度に渡る長い戦いです。第一次ポエニ戦争(BC264年~BC241年)第二次ポエニ戦争(BC219年~BC201年)第三次ポエニ戦争(BC149年~BC146年)イタリア半島のつま先にあるシチリア島の利権問題に始まったこの戦いは最終的に地中海からアフリカ大陸、イベリア半島までの全てのフェニキアの都市を奪いローマは勝利する。フェニキア(Phoenicia)人については、すでに「アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン」の所で紹介した通り、地中海交易の始祖とも言える海の商人です。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン先にも触れたが、アレクサンドロス王の遠征でシリア・レバノン、アレキサンドリアまでがギリシャに奪われたが、まだカルタゴ(現チュニジア)を拠点に彼らは地中海の覇権を握っていた。ローマは、フェニキア(Phoenicia)人との最後の戦いで2度とフェニキア人が復活できないよう彼らの本拠カルタゴを壊滅し、彼らの植民都市や交易先をそっくり頂く事となり地中海交易を手にするのである。因みに歴史が面白いのは、以降、歴史の表から消えた? フェニキア人であるが、212年、全属州民に市民権を与える「アントニヌス勅令」を発布したカラカラ帝は実は属州出身のフェニキア人であった。そしてこの勅令により税制は増えたが市民権の価値が下落。結果的に兵力もローマ帝国の国力さえも低下して行く事になる。ローマは確実に破滅に向かい始めたのである。滅ぼされたフェニキア人の仕返しみたいな落ちですね。ピアッツァ・アルメリーナ(Piazza Armerina)10人の娘の部屋ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレ(Villa Romana del Casale)ローマ帝政の末期の大富豪カサーレ(Casale)の別荘とされる豪邸は建物面積3500㎡。室数40室以上。アトリウム(atrium)の他に列柱廊に囲まれたの大きな中庭ペリステリュウム(Peristylium)を持ち、浴場や水洗トイレも設備された大邸宅である。屋根や壁こそ無いが、各室、廊下共全面に敷かれているモザイク画が非常に見事な家なのである。古代ローマの家にアトリウムを持つ家はあったが、BC2世紀からポンペイのファウヌスの家にも見られるようなギリシア・ヘレニズム的列柱廊で囲まれたペリステュリウム(peristylium)と呼ばれる後方の中庭が貴族らの舘の建築に現れてきたそうだ。左手前が浴室サウナのボイラーにあたる。当時の風呂は床暖のような蒸し風呂式である。カサーレの別荘はAD3世紀末~4世紀なのでずいぶん後であるが、ペリステュリウムを造る事ができる金持はあまりいなかったかもしれない。12世紀までに地震や土砂災害で土砂に埋もれてしまったので床が割とよくのこっていたのである。この家のモザイク画には多種多様な珍しい動物も描かれている事から動物専門の商人だったのではないかと考えられている。特にローマ帝国内のコロッセオで催される剣闘士と猛獣の闘いで使用される猛獣類を北アフリカから仕入れたり捕まえたりしていた?ペリステュリウム(peristylium)横の65mの大廊下のモザイク画はそうした事情がわかるような絵が連なっていると言う。だが、この家の見所はそこではない。10人の娘の部屋と呼ばれる床絵のモザイク画(便宜上縦にしていますが床絵です。)等身に近いビキニ姿の美女がスポーツをしている図なのである。しかし、横幅10m近くのこの部屋の全景を撮影する事は難しい。しかも屋根の被いの影も写り混むし・・。そもそも撮影場所はこの部屋の壁の上に渡されている通路からなのである。場所は先ほどの図面に記したピンクの部屋である。なぜビキニ姿でスポーツをしなければならないのか解らない。シチリアの夏は確かに熱いかもしれないが・・。これは男性に向けたショーなのか? それとも女性同士の集いなのか?この別荘の目玉なのである。ローマ帝国では版図拡大とともに属州からたくさんの穀物がもたらされるようになった。特にシチリアを手にした事は大きい。冬でも稔りがあるからだ。エジプトを含む北アフリカや中東からの物資も直接手に入れる事ができるようになった。それら属州からローマには大量の小麦が輸入されるようになったし、後に手に入れるギリシャなどからは鉱物資源も手に入れられただろう。そんな大量の外地からの輸入品にイタリア半島では小麦の生産を止めてオリーヴなどの果樹に切り変えたと言われている。しかし主食のパンになる小麦を輸入に頼った事による食糧危機が後々頻繁に起きる事になったと言う。今回でもローマは終わりませんでした m(_ _)m次回もローマはつづく。Back numberリンク 静物画にみるメッセージリンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 (帝政ローマの交易) アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2020年02月28日
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ラストにBack number追加しました。今回は圧倒的強さで欧州を席巻(せっけん)したローマ帝国の交易網に触れるつもりです。ポエニ戦争(BC3~BC2)に勝利するとイタリア半島のみに留まらずローマ帝国は地中海の覇権もにぎり北アフリカを含む広大な交易網を獲得。かつて地中海交易の覇者(はしゃ)であったフェニキア人(Phoenician)の交易をそっくり手にし、オリエント方面も押さえてなおかつ北はロンドンまで到達。ローマ帝国はその中で物資が自由に移動できたのだから交易品は欧州全域、いやそれ以上に広域の、あらゆる物が対象に取引されたと考えられる。勢いに乗ったローマ帝国の進撃はすごかったのです。とは言え、古代ローマの歴史は長い。先に紹介したローマ帝国の快進撃は、共和政末期から帝政時代です。ローマ帝国を考える時、政治体勢で王政期、共和政期、そして帝政期と大きく分類。しかし、帝政時代だけを切り取っては語れない。なぜならローマ帝国の大成は王政期、そして共和政期に確立された市民の権利と政治システムあってこその結果だからです。そんな訳で多少歴史解説も必要になりました。ローマだけで全2回になりそうです。尚、今回写真はローマ遺跡や美術館の他、カンパニア地方を代表する遺跡ポンペイからです。アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方フォロ・ロマーノ(Foro Romano)ローマの城壁王制期の都市国家ローマの建国とエトルリア(Etruria)エトルリア人が求めた物共和政期のローマの攻防(平民の権利向上と都市国家ローマの戦い)ガリア人(ケルト人)の襲来とラティウム同盟リキニウス・セクスティウス法( leges Liciniae Sextiae)アレクサンドロスの肖像カンパニア(Campania)とポンペイ(Pompei)の街フォロ・ロマーノ(Foro Romano)ラテン語の古名フォルム・ロマヌム(Forum Romanum)イタリア語でフォロ・ロマーノ(Foro Romano)都市国家ローマができた当初からのローマ政治の中枢があった場所農耕神と言われるローマ神サトゥルヌス (Sāturnus) を祀ったサトゥルヌス神殿(Aedes Saturnus)の列柱。(現在のは3代目)古代ローマの街は7つの丘の上に築かれた。カピトリーノ(Capitolino)、パラティーノ(Palatino)、アヴェンティーノ(Aventino)、クリィナーレ(Quirinale)、ヴイミナーレ(Viminale)、エスクリィーノ(Esquilino)、チェリオ(Celio)パラティーノの丘には最初に集落が造られ、城壁を造り防備を固めた。カピトリーノの丘(パラティーノ北側)には片側が切り立つ崖であり狭かった事から神殿と城塞が造られたフォロ・ロマーノが現在の輪郭になったのは、ガイウス・ユリウス・カエサルの時代。しかし、帝都ローマも皇帝ディオクレティアヌスが西暦293年に行った分割統治テトラルキア(tetrarchia)により首都が移転。西ローマ帝国が滅亡するとフォロ・ロマーノは完全に忘れ去られ土にうもれた。発掘されるのは18~19世紀の事。下は古代ローマの地図(写真はウィキメディアからですが、書き込みをしました。ピンクの円がカピトリーノ(Capitolino)の丘の神殿あるフォロマーノ(一部パラティーノの丘)濃いピンク部分が最初のローマで回りをセルウィウス城壁が囲んでいた。薄いピンクは後に拡張されて市内になった所(現在の旧市内)その外側をアウレリアヌス城壁が囲んだ。ブルーで囲ったのは浴場です。以前「古代ローマ水道橋」の所でも触れましたが、ローマは高度な上下水道を施設。飲料のみならず市民の娯楽の為の公共浴場に水を引くための水道も増設している。リンク 古代ローマ水道橋 1 (こだわりの水道建築)リンク 古代ローマの下水道と水洗トイレローマの城壁BC4世紀初めに7丘を囲むように6代目の王セルウィウス(Servius)は城壁を建設。セルウィウス城壁(Murus Servii Tullii)BC390年にはガリア人(ケルト人)の侵略でローマは危機に瀕した。最後の砦に上ったこのカピトリーノ(Capitolino)で半年抗戦したが負けた。辛うじて命を助けられ生き残ったローマ人は城壁をより強固な石造りに変えたと言う。これはポエニ戦争の時にハンニバルを手こずらせたらしい。セルウィウス城壁は共和政末期からローマ帝国初頭まで保持され街の拡張に合わせて皇帝アウレリアヌスが再び城壁を建築。現在残り目にするのがアウレリアヌス城壁(Mura aureliane)ローマの旧市内を囲むアウレリアヌス城壁(Mura aureliane)は271年から275年に建設。異民族の侵略が増え、城壁外に拡大した無防備な街の防備の為に急いだらしい。しかし、テヴェレ川の河岸の防備はなかったらしい。全周19km。厚さは3.5m、高さは8m。5世紀に高さは16mに改修。壁の素材はローマン・コンクリートと煉瓦。城壁には既存の建築物も組み込まれ、城壁の一部とする事で経済的節約と工期の短縮ができたらしい。アウレリアヌス城壁は19世紀まで使われていた為に結構現存しているようだ。しかし、当然補強はされ車用に新たなゲートもたくさん開けられているように思う。エトルリア(Etruria)人の夫婦ルーブル美術館のエトルリアのサルコファガス上部彫像から王制期の都市国家ローマの建国とエトルリア(Etruria)人 BC753?~BC509 王政期ローマの最初は都市国家から始まっている。帝国になるのは共和政の終盤である。その歴史の半分は伝説に近い。資料が無いのである。が、ローマの建国に関わったと言われるエトルリア人は高度な文明を持って居た。高い土木技術で土地を開拓。政治の統制、軍隊の育成から宗教、そして文字を持つなどローマは当初から都市国家として大きく成長するポテンシャルを持っていた。※ エトルリア人の事は2010年4月「ルーヴル美術館 6 (エトルリアの棺)」で紹介しています。リンク ルーヴル美術館 6 (エトルリアの棺)※ ローマ市の土木工事に関しては先のリンク先「古代ローマの下水道と水洗トイレ」の中で紹介。リンク 古代ローマの下水道と水洗トイレローマは最初から農業や牧畜を細々と行う農村都市ではなかったと考えられる。「すべての道はローマに通ず」通り、ローマからまず南北横断と早くから各方面への交易路が造られた。ローマはエトルリアやカンパニア地方を結ぶ要所であったし、南にあるティレニア海に面するナポリ港の北のプテオリはギリシャ・エトルリアの交易の商港だった事もある。それは最初から交易のハブ都市が念頭に置かれていたのかもしれない。よくよく地理を見ると、都市国家ローマの立地はイタリア半島全土に通じる要所なのである。エトルリア人は最初からそこに目をつけてローマに都市国家を造ったのでは? と考えられるのだ。All roads lead to Rom(すべの道はローマに通ず)実際、ローマを拠点にあらゆる植民都市に道はつなげられた(ローマ街道)。それは最初からつながるポイントに造られたからだったとすれば可能なのである。ローマ街道の話しは後でまた触れますが、ローマ街道のロードマップと伝説の都市国家エトルリア(Etruria)の支配域を重ねると確かに重なっている。下の写真はいずれもウィキメディアからです。左の地図はイタリア半島の主要ローマ街道の図。右の地図はイタリア全域ではありませんが・・。エトルリアの支配域の図です。濃いグリーンがBC750年頃、薄めのグリーンがBC750年~BC500年頃の拡大した支配域。エトルリア人が求めた物実際、王政期にイタリア半島南北の交易は盛況であったらしい。が、エトルリア人がこの交易ルートを造りカンパニア地方から主に運んだのは鉛や鉄鉱石などの鉱物資源だったと思われる。前回の交易の話しの中で「アナトリアに現れたリュディア(Lydia)(BC7世紀~BC547年)王国で造られたエレクトロン貨(Electrum)」の事を紹介したが、リンク アジアと欧州を結ぶ交易か路ま 6 コインの登場と港湾都市エフェソスBC8世紀には冶金(ちきん)の技術がギリシャなどの都市国家にも広まった。そこで需要が出たのが鉱物資源である。金銀は元より、各国が鉄鉱石や銅鉱石、錫、鉛などを探し回ったのである。BC7世紀 コリント式青銅製冑 コリュス ルーブル美術館から材料は銅と錫(すず) 厚みは2.5mm前後 鼻の部分6mm 淵に開いた穴は冑(かぶと)の裏カバー取り付け用。直にかぶっていた訳ではない。下はアテネの考古学博物館から剱(つるぎ)も盾(たて)も相当に重かったのではないかと推察。鍛えて筋力のある者でなければ扱えなかったかも・・下もアテネの考古学博物館から同じくアテネから、上の武具を身につけた兵隊のレリーフアテネの考古学博物館から青銅の生活用品ギリシャは特に青銅製品があふれている。エトルリアの文化はギリシャに近い。オリエント色も感じるが・・。アルファベットはギリシャからエトルリアに入りローマに伝わり彼らの公用語としてラテン語が生まれている。早くから地中海や沿岸部でフェニキア人やギリシャ人が鉱物資源を探していた。上に紹介したような武具の材料も青銅製がほとんど。戦の為に大量に武具が必要であったろう。また生活食器も青銅製は多い。エルバ島の鉄やイスキア島の鉱物資源についで、イタリアのティレニア海域までギリシャ人が再び来ていた。かつてイタリア半島のカンパニア地方に植民都市を持っていたギリシャ人は一度はサムニウム(Samnium)人に追われていた。※ ナポリの発祥はギリシャ人が造った都市ネアポリスである。そしてポンペイも同じくギリシャ人が造った都市ヘルクラネウムである。エトルリア人は海上進出をしていなかったのか? ギリシャと交易していたのは解っている。イタリア半島で採れる銅鉱石や鉛を直接手に入れればそれにこした事は無い。エトルリア人がカンパニア地方に勢力を拡大したのはこのあたりの理由だったと考えられる。しかし、ローマがサムニウム人から正式にナポリを奪うのはBC326年。ポンペイはBC80年である。戦争と言ってもナポリもポンペイも街に住む商人には支配者が誰かは関係無かったらしいが・・・。いずれにせよ、ローマ街道のその先は戦場から植民都市に変っていくのであった。ローマ神話から戦いの女神ベローナ(Bellona)?ナポリ考古学博物館から軍神マルスの妻。左手に盾をもっているが、右手には剣か松明を持っていたと思われる。共和政期のローマの攻防(平民の権利向上と都市国家ローマの戦い)ローマの王政期は7代続いたらしいが、すでに2代目からは選挙になっていたらしい。最後の王は彼らに追放され王制期は終わる。BC509~BC27 共和政期 都市国家ローマは元老院・政務官・民会の三者による政治体勢を持つ共和政の時代に入る。特に政務官の中の執政官・コンスル(consul)は任期1年で2名。共和政ローマの形式上の元首に当たった。しかし、当初は貴族優位の共和政であり平民との格差故に平民が決起。平民を代表とする護民官(平民会)と言う役職ができたそうだ。市民(平民)は「騎兵」、「歩兵(1~5等級)」、「歩兵以下(多数の無産市民含)」に代別。歩兵の1級に「重装歩兵階層」がある。ローマ人はエトルリア人からギリシャの重装歩兵戦術を学び強力な軍隊を養成していた。「重装歩兵階層」はローマ国として特に大切に扱われた。それ故、選挙の票数も他と比べて多く極めて優遇されていたそうだ。ローマは割と早くから民主主義が進んだように思うが、やはり護民官(平民会)には国家の重要事項の議決権はなかったらしく貴族と平民の格差は大きかった。強いて言うなら「平民の意見にも耳を傾けてくれる社会ができつつあったと言う所か?BC5世紀には古代ローマにおいて初めての成文法(十二表法)が制定されている。これは歴史的には活気的な事だ。(ギリシャにはすでにあったが・・。)貴族に優遇された法解釈が市民と同じ土俵で平等に扱われると言う事で市民の権利の向上となった。※ 十二表法(Lex Duodecim Tabularum)は、民事訴訟、債務、家族、相続、財産、不動産、葬儀、結婚、不法行為、犯罪などに関する法や規則が定められたもの。しかし、この十二表法も貴族と平民の婚姻禁止など身分差が露骨に扱われていたそうだ。後にそれははずされるが・・。こんな高級な棺に入れるのは貴族に他ならないルーブル美術館のエトルリアのコーナーからさて、外に向けてのローマはどうか?ローマの躍進は王政から共和政になった事と言われるが、共和政の前半、ローマはまだイタリア半島の中で攻められ苦戦しているのである。安定にはほど遠かった。東方の西麓に住むサムニウム(Samnium)人、南方の山岳民ヴォルスキ人の侵攻は通商路を脅かしていた。また、ローマは王政時代からギリシャやフェニキアなど近隣都市との条約をたくさん結んでいた。たとえば海上交易の活動域などもそうである。余計な争いはしないようにしていたようだが、ローマの弱体を機に同種のラテン人の国さえ、ローマに服属を迫ってきていたと言う。BC445年エトルリア人の街ウェイイがローマに対して反旗。このウェイイ戦争はBC396年ローマの勝利で終わりローマの勢力はエトルリアの南部まで広がった。この新しく得た土地は入植希望の平民に与えられローマの新しい行政区(植民都市)となった。が、勝利に活気づくローマであったが、その頃アルプスを越えて南下するガリア人(ケルト人)が北イタリアに迫っていた。ガリア人(ケルト人)の襲来とラティウム同盟ガリア人はあっと言うまにエトルリアを攻め、略奪してローマに迫る。先ほど城壁の所で触れたが、くい止められず、ローマ市内になだれ込んだガリア人らに攻められ、カピトリーノ(Capitolino)の丘で生き残った者らが半年応戦。BC390年、陥落寸前にガリア人も自国の領土に侵略者が来たとの知らせで急遽ローマと和議が結ばれた。ローマは金銀財宝を差し出して全滅寸前で助かったのである。だが、さらなる驚異は、近隣国が弱体したローマをねらっていた事だ。街は破壊され、軍は疲弊。街の再建と防護にお金もかかる中、市民からの不満も大きかった。ラッキーだったのはケルト人再襲来の驚異がかろうじてラティウム同盟を維持(BC358年)した事だ。※ ラティウム同盟 (Foedus Latinum)(BC7世紀頃~BC338年)は古代ローマに近隣した約30の街や部族からなる相互防衛の同盟である。ローマは以降積極的に南方拡大政策をとりラティウム同盟でのローマの優位を示すようカンパニア地方でのサムニウム人との戦いも辞さずついにはカンパニアの有力都市を傘下にした。しかしこれは逆にラティウム同盟国には驚異となった。同盟国はローマに決起したのである。BC338年、ローマはこの反乱を制圧してラティウム同盟を解体。その後の処理は当然ローマの独断。解体されローマの植民都市となった所もあれば同盟国となった所、また同等にローマの市民権を持った所など様々。実質ローマはラティウム同盟国のあった地方を統括支配したのである。リキニウス・セクスティウス法BC367年、ローマがガリア人の襲来でまだ疲弊していた頃、ローマ国内で護民官であったリキニウスとセクスティウスの提案によりリキニウス・セクスティウス法(leges Liciniae Sextiae)が提案される。それは平民の権利向上と債務者の救済。貴族の公有地の占有を制限に関する法の他に執政官・コンスル(consulを復活させ、うち1人を平民から選出する事が決められた。これは従来の高官の貴族独占はなくなり、平民でも高管職につける事や、植民都市で貴族だけが土地を独占できなくなるなど市民でも働きで上を目指せると言う法律なのである。これに伴い法務官の職もでき、政務と軍事長官との役も分けられた。また市民原簿も造られ財産の申告も行ったようだ。リキニウス・セクスティウス法は貴族の側から見れば権利の縮小であるが、それでも平民の権利を増やした理由は?ローマの発展は戦いの実働部隊となる平民の力に寄ると言う事をローマの元老院や政務官は理解している・・と言う事なのだろう。確かにやる気が出る提案である。ローマの市民権については次回で触れたいと思います。アレクサンドロスの肖像ところで、イタリア半島でラティウム同盟が解体(BC338)しローマがラティウムを属州にした頃、隣の半島のギリシャではマケドニア王のアレクサンドロス3世(BC356年~BC323年6月10日)(在位BC336~BC323年)による東方への大遠征が始まったのである。(BC334年)、アレクサンドロスは、最初シリア・レバノン沿岸沿いのフェニキア人の街を侵略しながらエジプトに入り、次にオリエントの巨大帝国ペルシャに向けて進軍。彼は10年の遠征でペルシャ帝国ばかりか。その向こうインドのインダス川まで到達。北はソグディアナまで帝国の領土にしている。彼の帝国は彼の早すぎる死とともに解体されるが、それにとって代わるようにローマ帝国の快進撃が始まるのである。なぜアレクサンドロスの東方遠征に触れたか? と言えば、これから紹介する写真の前振りなのである。写真はナポリの考古学博物館から教科書などでたいがい見た事があると思うこの絵柄。実はポンペイの豪商の邸宅のリビング下のモザイク画だったそうです。こちらはオリジナルで現在博物館入りして壁に飾られているBC333年10月イッソスでのアレクサンドロスとペルシゃの大王ダレイオス3世の戦闘図でした非常に残念なのはペルシャ側の図は残っているのに肝心なアレクサンドロスひきいるギリシャの同盟軍がほとんど落ちている事です。欠けていても全体図から読み取れる事は両者の将軍が馬車に乗って戦っていたという事です。アレクサンドロス王の遠征については「アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン」「フェニキアとアレクサンドロス王との攻防」で書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン「アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリス」「ペルセポリス炎上の謎」と「The KingからThe Great」等で書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスこのモザイクの製作年代はおよそBC2世紀。3000平米と言うポンペイ最大の個人住宅と言われるファウヌス(牧神)が置かれた家はかなり豪華で社会的地位も高かった事が推察できる。豪商?あるいはローマの執政官の邸宅であった可能生も考えられる。下がファウヌス像がある邸宅の中庭。オリジナルは見える柱廊の床絵にあったカンパニア(Campania)とポンペイ(Pompei)の街ナポリの街の南東側にヴェスビオ(Vesuvio)山がある。標高1281mの複合成層火山である。そのヴェスビオ(Vesuvio)山の南側麓に開けていたのが古の都ポンペイ(Pompei)である。ポンペイはBC79年のヴェスビオ(Vesuvio)山の噴火、その火砕流と土石流により埋没して滅んだ街なのです。今も地名はカンパニア(Campania)州です。上下とも見える山はヴェスビオ(Vesuvio)山です。ナポリ(ネオポリス)と同じくギリシャの植民都市としてBC7世紀にはすでに街はあったと言う。ギリシャ人が付けた街の名前はヘルクラネウム(Herculāneum)。(ポンペイの古代名)先住民はギリシャ人とエトルリア人で昔は海に面した港街であった。先に紹介していたよう、ここはギリシャ人とエトルリア人の貿易港であったのだろう。BC5世紀末に山岳にいたサムニウム(Samnium)人がカンパニア地方の平野部に進出。このサムニウム(Samnium)人の時代にポンペイは都市化を進めBC4世紀には要塞壁も建造された。先に紹介したラティウム同盟 (Foedus Latinum)その解体によりカンパニアの有力都市をローマは傘下にした。BC343年~290年までヘルクラネウム(Herculāneum)含めるカンパニア地方全域をローマが支配したのである。ヘラクレネウムは ロ ーマに対して社会的、政治的な平等を望んだが結果的にBC80年にはローマの植民都市になった。ヘルクラネウムは、完全にローマの植民都市になったその時、ポンペイと名を変えたのである。上下ともユピテル神殿ポンペイ(Pompei)の街はヴェスビオ(Vesuvio)山に向けて造られたらしい。神殿はどれもヴェスビオ山に向いて建てられている。下はアポロ神殿の祭壇手前の白い大理石の上に生け贄を捧げたらしい。ヴェスビオ(Vesuvio)山は度々噴火していたらしい。特にBC217年の噴火は大きかったと言う。とは言え街はローマの植民都市になってからは公的資的な建物が造られた。特に気候も温暖な事からローマ人の支配下に入ると貴族の別荘として人気の場所となりBC2世紀には今の遺跡の規模になっていたらしい。※ 先に紹介したアレクサンドロスのイッソスの戦い描いたモザイク画のような豪邸はBC2世紀頃に建てられている。街の至所に水飲み場がある。そして道のへこみと飛石。実は時々水で汚れを流していたらしい。アプローチから迷走。あれこれ手をつけて次回に回した所もf^^*) ポリポリ次回は帝国ローマと交易でまとめられるかな?※ ポンペイの遺跡写真たくさんあります。次回も紹介できればね・・。リンク リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権Back numberリンク 静物画にみるメッセージリンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権 アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2020年01月26日
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リンク先追加しました。インフルエンザ(influenza)と言う言葉がイタリア語由来であったとは知らなかった。この流行性の急性感染症は16世紀のイタリアで「影響」を意味する語から生まれた病名だそうだ。本来、季節性で寒い時期にしか流行らないこの病気が今年は夏から大流行していると言う。その理由は夏に南半球からの渡航者が増えて、病気を運んで来たと言う事情がある。南半球は季節が逆転しているのでまさにインフルエンザのピーク地である。つまり国際交流が進めば進むほど季節の国境は超えて病気などが流行する様なのである。そう言えば以前「倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)」の中、「白村江の戦い」後に百済からの亡命者が増えた事を紹介しています。リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)渡来人が増えた7世紀~9世紀は日本に疫病が蔓延し苦しんだ時代でもあるのです。今年の夏のインフルエンザの流行と同じく、渡来者と病気の発生には因果関係があったのです。「四天王寺庚申堂」の所では、「日本を襲った疫病が現世利益の庚申信仰にのっかった?」で日本で万延した大陸より来た新型の疫病(えきびょう)の話しを紹介しています。リンク 四天王寺庚申堂日本の場合は海を挟んでいましたが、「Europe」&「Asia」のユーラシア (Eurasia)大陸はそれこそ交易など人の行き交いで病気もあっと言う間に共有してしまった事でしょう。また、航海技術が発達して遠方まで旅するようになると病気の輸出は先住民を全滅させる自体も・・。例えば、アステカとインカ帝国の滅亡の大きな原因の一つは天然痘の蔓延だったそうです。※ 「アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)の中、「新大陸に来たスペイン人の功罪(疫病)で書いてます。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)日本でも天然痘は聖武天皇(701年~756年)の御代に日本で大流行。735年~737年の流行では政府高官や藤原四兄弟なども感染して大量の死者が出ている。 因みに中世の欧州では、城壁で街を囲う城郭(じょうかく)造りが発展する。いざと言う時、外敵から市民を守る故なのだが、敵は人だけではなく病気もしかり。教会、あるいは病院は城郭の外に置かれていた。旅人や病人の面倒を見るのは教会の役目。悪い病気を持ち込むのはよそ者、すなわち旅人だったからだ。さて、今回は「アジアと欧州を結ぶ交易路」に戻って・・。シルクロードをキャラバンしたソグド人(sogd)の紹介です。写真は彼らの主たる出身地である現在のウズベキスタンから紹介しますが、現在のウズベキスタンにはすでにソクド人の歴史は全く見え無い事を先に断っておきます。アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)ソグド人(sogd)とソグディアナ(Sogdiana)中国に向かったソグド人ソグド人(sogd)のオアシス路(Oasis road)交易の品ブハラ、カラーン・モスク(Karaun Mosque)とミナレットサマルカンド、グリ・アミール(Guri Amir)廟ソグド人(sogd)とソグディアナ(Sogdiana)前回、アラビア半島のキャラバンでナバテア人(Nabataean)が主権を握っていた事を紹介したが、今回はアジア内陸部のキャラバンで活躍していたソグド人(sogd)の紹介です。北緯40度線付近の中央アシジア一帯を出身としたソグド人(sogd)は交易の民です。BC6世紀頃から彼らの存在は知られている。彼らは交易を主たる生業にして主に中国に買い付けに出かけ、その品を西方に運んでいた事が解っている。※ 中国では南北朝時代の資料に西域から来た異民族との交易の記録として残っているそうだ。彼らは交易の為に中国の主要都市に集落を持ち、西方へと品物を運んでいた。元は農耕民族であったらしいが、彼らは交易をする事で生き残りをかけた? 調べてみてわかったのは、彼らはまるで陸のフェニキア人のような商人であったと言う事だ。そして彼らソグド人(sogd)こそが中国からシルクをペルシャに持ち込み、そして西方に伝えた人々なのである。つまり、シルクロードで荷を運び続けたのは彼らなのです。下はタシケントからウルゲンチに向かう飛行機から(タシケントより)タシケントは天山山脈の西方にあたる。かの玄奘三蔵がインドに仏典をもらい受けに行く時? あるいは布教の過程で立ち寄った場所でもある。空からでは山だらけで解りにくいがそこそこの湖があり川がある。ウズベキスタンの街はオアシスを中心に発展した所が多い故だ。※ オアシス(Oasis)と言うと水の湧き出る泉と思いがちであるが、湖なり川なりステップや砂漠における水辺の都市全般に言うようだ。ソグド人が交易の拠点にしていたのは現在のタジキスタンからウズベキスタンに流れるザラフシャン川流域でのソグディアナ(Sogdiana)と呼ばれるオアシス地帯。ソグディアナ(Sogdiana)イスラム化する以前のかつてのペルシャ、中央アジアのサマルカンドを中心的とするザラフシャン川流域はイラン系の言語を話すソグド人と呼ばれる民族が居た。ソグディアナ(Sogdiana)とは「ソグド人の住む土地」と言う、西方のギリシャ語やラテン語からの呼称だったのである。※ ペルシャ帝国(アケメネス朝)以前の行政単位をササン朝ペルシャがそのまま用いて今も多少その名が残っている。現在のウズベキスタンのサマルカンド州とブハラ州、タジキスタンのソグド州など。当時のソグディアナ(Sogdiana)は内陸アジアの東西、あるいは南北につながる交通の要所であった。もともとイラン系民族? 政治、文化面のつながりが深く、BC6世紀にはペルシャ帝国(アケメネス朝)に併合されていた。この時アラム文字が入りソグド語がアラム文字で表記されるようになったと言う。そしてアレクサンドロスの遠征ではBC329年~BC327年ソグディアナとバクトリアで過酷なバトル(Siege of the Sogdian Rock)が行われている。アケメネス朝の滅亡後はペルシャ帝国のままアレクサンドロス大王の支配下に入り、アレクサンドロス亡き後はバクトリアの地方州となった。上の地図はアレクサンドロスが遠征(赤ラインは遠征路)した頃BC331年~BC323年の図ソグディアナの位置(ピンクの円) 紫のGがガンダーラの位置。 黄の円がペルセポリス。※ アレクサンドロス王の遠征については「アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリス」で詳しく書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリス写真下はザラフシャン川か? アムダリヤ川か? どちらか不明。(ヒヴアからブハラに行く途中サマルカンドや下流のブハラには彼らのが都市国家が点在。彼らソクド人がオアシスに築いた都市国家は30を数えたと言う。周囲を大国に囲まれたソグディアナの都市国家は決して大きなものではなく、城壁に囲まれた狭い市中にひしめき合うように家が建ち、上に重なり人々は暮らしていたらしい。※ ペンジケントでは最盛期には7000人もの人々が暮らしていたとか・・。下はサマルカンドの市場からいろんな果物や青野菜、他ナッツや香辛料、茶葉など豊富。水のめぐみで肥た土地柄なのだろう。岩塩?元アラル海のバルサ・ケルメス湖(Barsa Kelmes)からの塩かもしれない。アラル海(Aral Sea)アラル海はその水源をパミール高原や天山山脈などの融雪水に由来する2つの川によってできていたが、今はアムダリヤ川が止まり湖は4分割(小アラル海,バルサ・ケルメス湖,東アラル海,西アラル海)され各々縮小。特にバルサ・ケルメス湖はわずかな湧き水のみで塩湖と化している。※ アラル海は、かつては世界第4位の大湖であり中央アジアのオアシスであったが、半世紀で約5分の1に干上がり縮小。アラル海(Aral Sea)とカスピ海(Caspian Sea)共にトゥラン低地 (Turan Lowland)にある湖である。アラル海とその西隣にある世界最大の湖であるカスピ海であるが、これも死海同様に海面での海抜がマイナスと言う湖であった。それ故、両者は塩分濃度の高い湖のようだ。カスピ海の海面標高は-28mブドウやイチジク、アンズ、ナツメヤシなどドライフルーツが豊富。下はドライフルーツにはできないフルーツ、メロン.スイカ,カボチャ?ソグド人は定住にこだわらず、交易の為に彼らの街を造り移住する事もいとわなかった。彼らは生まれた時から商人になる事が決まっていたから5歳になると書を学び、少しすると商売を覚えさせられた。そして20歳にもなると異国に旅立ったと言う。彼らの足跡は、彼らが使用したソグド文字で解っている。もともとアラム語から文字化されたソグド文字はユーラシアの各地で発見されているそうだ。そもそも、ソグディアナと言う立地が彼らを商人にしたのかは解らないが、彼らは交易路沿いの各地に中継ぎの集落を造りラクダのキャラバンで集落から集落へとリレーするように荷を運んだ。それは独占的な交易網と言うより完全なるソグド人・ネットワークであったわけである。中国に向かったソグド人特に彼らが目を向けたのが中国の物産である。それを示すように中国内にもソグド人の集落が編み目のようにはりめぐらされていたと言う。彼らはシルクロードの起点となる長安や洛陽の都の市場界隈にももちろん居住地を作っていて、中国内での移住者は相当数いた事が解っている。漢代(前漢 (BC202年~AD8年) 後漢 (25年~220年))にはすでにソグド人との交易の話しは記されているらしいが、唐(618年~907年)代ではさらに発展。特に唐代は異国人にも門戸が開かれ自由で非常に寛容な時代であったらしく長安や洛陽の街は非常に国際色豊であったそうだ。唐代の長安はすでに人口100万を超えた大都市で、街には異国人(ペルシャ人)が行き交い彼らは見知らぬ西の文化や品を運び人々の関心をかっていた。また歓楽街には、異国の乙女が営む酒場もあり非常にエキゾチックな様相だったらしい。※ 李白(りはく)(701年~762年)の詩にも歌われている。「胡姫貌如花 (胡姫は貌(かんばせ)花の如く)、當壚笑春風 (壚に當たりて春風に笑ふ)」「花のように美しい西の乙女が春風にふかれて微笑んでいるよ。」異国のペルシャ人はほぼほぼソクド人であったらしい。因みに、中国内での彼らは名前に出身地の文字を加えてどこ出身であるか、一目で解る識別ができたようだ。おそらくその理由の一つが彼らが民族としての共通の仕事ではあるが、おのおのが単独で商売をしていたからだろう。つまり、彼らは同じ会社と言うわけではなく、それぞれが各地で同郷の保証人をおいて信用商売をしていたからだ。人種としてはイラン系(ペルシア系)。そして、彼らはゾロアスター教を信仰していたらしい。※ ゾロアスター教の葬送は火葬ができない。特殊な葬送スタイルがある。※ ゾロアスター教についても「アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリス」の中、「ペルセポリスとゾロアスター教」で紹介しています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスソグド人(sogd)のオアシス路(Oasis road)ピンクの円がソグド人の本拠(ソグディアナ)、赤の円は絹(シルク・Silk)の産地紫の☆が長安(ちょうあん)、かつてのシルクロードの起点とされた場所。※ 長江の河口域、現在の江蘇省(こうそしょう)や浙江省(せっこうしょう)は昔から絹の原産地として知られた場所。現在も中国の50%の絹を供給している。彼らが交易路のメインにしていたルートが天山南路を通るコース。拠点がそもそもサマルカンドなどのオアシス地帯であるから「オアシス路(Oasis road)」とも呼ばれる。上の地図に示したように生絲の生産地は中国でも東の端の長江(ちょうこう)界わい。中国が持ち出しを制限していた絹織物を西方に密に運んでいたのが彼らなのである。このコースで中国より大量の絹の反物を運んだのでオアシス路(Oasis road)は1877年ドイツの地理学者によりシルクロード(Silk Road)と名付けられた。最も彼らが中国から運んだのはシルクだけではないが・・。因みに、後に反物から生絲の直接輸入もしている。彼らは母国で自分たちで絹を織り、民俗独自のデザインが生まれているところで、上の図によれば、ステップ路は西方につながっている。初回に「シルクロード」とタイトルする本を見るとほとんどが西安から天山山脈あたりまで。と書いたが、シルクロードで中国よりソグディアナまで荷を運んだのはほぼゾクド人であったと言う事が判明した。ではソグディアナから西方は? である。同じく初回に砂漠のベドウィンの事を書いたが、当初、西欧につないだのは古代オリエントの遊牧民のアラム人であったと思われる。アラム文字からソクド文字が生まれたのが何よりの接点であると思う。因みにアラム文字はフェニキア文字から派生している。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィンサマルカンド近くの綿花綿も貴重な輸出品であるが繊維だけではなく、綿花のタネから絞った植物オイルも輸出品。タペストリーも独特?ソグド人の国はペルシャ帝國の属州になっていた時代もある。地理的に大国の支配を受けながらも自由にシルクロードを行き来してきた民族なのであるが、彼らの足跡は10世紀頃に忽然と消える。ソグディアナは、8世紀からイスラム王朝の支配下に入ったからだろう。そして12世紀にはその民族的特色は失われフェードアウトして行ったようだ。交易の品当時は中国でしか生産されていなかった絹(シルク・Silk)の織物。唐代には持出し制限もあったらしいし、険しい山岳や砂漠を運ぶのは至難。それ故それは貴重で高価な取引のできる品であった。そしていつしか中国宮廷から持ち出されたカイコによりソグド人は直接繭玉を作り生糸の生産もしている。彼らはペルシャの柄など客の嗜好を取り込んで独自のデザインの織物を生産してさらに西方に向けて商売した。とは言え西方へは彼らでもたやすく進む事はできなかったようだが・・。AD8世紀にはソグディアナ(サマルカンド)(現ウズベキスタン)に製紙工場が造られそこから欧州に紙も輸出されている。もともと絹も紙も中国からの輸出品。秘技であった技術が外にもれたのである。※ 現在のサマルカンドの産業は、機械・化学・綿花・絹・皮革関係と言うが、彼らは中国から物資を運ぶだけでなく、自国生産して西方(欧州)に輸出していたのは確かなようだ。では逆に彼らは中国に何を運んだのか?パミール高原西部のバダフシャーンはルビーやラピスラズリの産地。また鉱物資源に富み、鉄、硫黄、金、銀などの鉱脈や河川では銅の鉱床も発見されている。宝飾としてだけでなく、ラピスラズリ(lapis lazuli)は敦煌(とんこう)の壁画の顔料として使われていた。またインドのグジャラートからは宝石としてカーネリアン(carnelian)なども持ち込まれていたはずである。※ アケメネス朝との取引項目にある。ソグディアナから唐の宮廷への贈り物として馬、犬、ライオン、ヒョウなどの珍しい動物。インドクジャクなども彼らが運んだ可能性がある。先に紹介した豊かな農作物でサマルカンドのドライフルーツやナッツ等も運ばれたであろうし、岩塩や薬草、敷物、装飾された金製品や銀の細工品などが運ばれている。需要の情報を察知する能力にたけていたのかもしれない。当時の宮廷人や貴族らが喜ぶ品をいろいろ運んでいたのである。先にも触れたが長安や洛陽の街は異国情緒満載の国際都市であったらしいから。そして、彼らの活躍により、母国ソグディアナでは、王を名乗るほどに非常に富裕だったらしい。それなのに、ソグディアナがイスラムの支配下に入ると街は急速にイスラム化して行く。だから今回紹介する写真は ブハラとサマルカンドであるが、今、ソグド人をしのぶ物は何も無いのである。ブハラ、カラーン・モスク(Karaun Mosque)とミナレットウズベキスタンの都市ブハラ ポイ・カラーン(Poi Kalan)モスクブハラ歴史地区にあるカラーン・ミナレット(Karaun minaret)を有するモスクがカラーン・モスク(Karaun Mosqueカラーンとはタジク語で「大きい、強い」を意味する。ミナレット(塔)の高さは45.6m。基部の直径は9m。地下10mの場所に埋め込まれているらしい。ブハラで最も高く街のシンボルとなっている。同じく大きなモスクであるカラーン・モスクは1ヘクタールで1万人の信者が収容できるそうだモスクの建立は1121年。カラハン朝の君主ムーサ・アルスラン・ハンらしい。カラハン朝は彼の父サトゥク・ボグラ・ハンの時にイスラム教信仰に入る。また、カラハン朝は中央アジアで最初にイスラム化した集団で、以降カラハン朝の君主は異教の王族に聖戦(ジハード)を挑み周辺のイスラム化を進めたようだ。イスラム化の中で民俗の特性でもあったゾロアスター教信仰も消え、異民族同士の婚姻によりソグド人のオリジナルの特性も失われたのかもしれない。カラーン・ミナレットは、最初モスクと同時に立てられたようだが、地盤が軟弱で倒壊。1127年に作り直されている。アザーン(礼拝の呼びかけ)が行われていた上の窓は、処刑の窓でもあった。生きたまま袋に詰められてその高窓から投げ落とす処刑が1884年まで行われていたらしい。今は町のシンボルであるが、昔は「死の塔」と恐れられていたそうだ。サマルカンド、グリ・アミール(Guri Amir)廟ウズベキスタンの都市サマルカンドにある、ティムール朝の始祖アミール・ティムール(Amir Temur)と家族の霊廟サマルカンドはティムール朝の都だったのである。イスラム王朝のティムール朝(1370年~1507年)はモンゴル帝国の継承政権の一つで最盛期の版図はトルコからシリア、インドと西アジアを押さえ、中央アジア、北はロシアに達する広域な領土を誇った王朝である。それ故、ティムール帝国とも呼称される。実は帝国を築いた始祖アミール・ティムール(Amir Temur)(1336年~1405年)は、サマルカンド南部のキシュ近郊のホージャ・イルガル村出身だったのである。イスラム化したモンゴル軍人とされているが、もとはソグド人であったのかもしれない。グリ・アミール(Guri Amir)とは、タジク語で「支配者の墓」の意。この廟を建てたのは始祖アミール・ティムール(Amir Temur)(1336年~1405年)自身。先に戦士した孫のムハンマド・スルタン(Muhanmad Sulton)(1374年~1403年)の為に、孫が建立したマドラサの隣に彼を偲んで廟を建てたそうだ。廟の完成は1404年。その1年後にティムール自身も葬られる事になり、リスト表示によればこのドームの下に9人が葬られている。内部を覆う装飾には金3kgが使用されている。ピンクの矢印がアミール・ティムール(Amir Temur)の墓標その右隣がムハンマド・スルタン(Muhanmad Sulton)の墓標実際の亡骸はこの地下3mに安置されている。ライトアップされたグリ・アミール(Guri Amir)シルクロードの写真も、ソグド人の写真も無いので図らずも中央アジアの歴史に入り込んでしまいました「アジアと欧州を結ぶ交易路」まだ続きますが、どう展開するかは毎回書きながら考えています f^^*) ポリポリ次回リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスBack numberリンク 静物画にみるメッセージリンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソス アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2019年11月01日
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ラストにBack number追加しました。紀元前(BC)1700年頃、アブラハム(Abraham)がメソポタミアのウル(Ur)を出てカナン(Canaan)(ヨルダン川西岸。現在のパレスティナ)に移住。※ カナン(Canaan)は、神がアブラハムの子孫に与えると約束した「乳と蜜の流れる場所」と称される土地。この話は旧約聖書の創世記の冒頭に出てくる。これが現在も紛争が続くパレスチナ問題の発端なのだが、今回はその事に触れるつもりで紹介したのではない。聖書による歴史では、その後、紀元前(BC)1200年頃、モーセ(Moyses)がイスラエルの民(ヘブライ人)とエジプト脱出。モーセの後継者としてヨシュアがイスラエルの民をカナンに定住させた。紀元前(BC)1000年頃、ダビデ(David)(BC1040年頃~BC961年)(在位:BC1000年~BC961年頃)が古代イスラエル人の第2代王となり、次いでソロモン(Salomon)王(BC1011年頃~BC931年)(在位BC971~BC931年)が第3代の王となる。紀元前(BC)922年、イスラエル統一王国が南北に分裂。(イスラエル王国とユダ王国)紀元前(BC)597年、新バビロニアの王ネブカドネザル2世がユダ王国の首都エルサレムを侵攻。多数のユダヤ人がバビロニア地方へ捕虜として連行される。(第一次バビロニア捕囚)※ BC582年、BC581年と捕囚は計3回行われたらしい。以上一部紹介したが、これら歴史は聖書の記述にあるもので、キリスト教徒ならみんな知っている事なのであるが、実は年代まで特定はされていない。この中で正確に年代が特定できるのは実は「紀元前(BC)597年、新バビロニアの王ネブカドネザル2世がユダ王国の首都エルサレム侵攻」だけなのである。つまり、確実に史実と特定できるのはバビロニア捕囚のみ。実は今回交易の話しで歴史を探っていて不思議に思っていたのだ。旧約に出てくる歴史がどこにもリンクしない。存在さえ出てこない。古代ユダヤの王国はどこにあったのか? と思うほど歴史に載ってこない。唯一がバビロニア捕囚なのである。モーセ(Moyses)の出エジプトは聖書の中でも非常にポピュラーな話しではあるが、聖書の中で語られているだけで、エジプト史の中にも、オリエント側にも全く記述が無いのだそうだ。60万人とも推定され人間が逃亡したなら、いくらなんでも大事件であるのに・・。実は聖書に書かれている歴史について、今までほとんど研究も検証もされて来ていないようなのだ。触れるな・・と言う事なのか? カナンはパレスチナと言う地理的な要因として交易に欠かせない重要な位置。交易の話しで出てきてもいいはずなのに・・・。ポピュラーな話しだけれど、実際は世界史の中には入らないローカルな話しなのか? 今回の交易の話しは隊商都市として有名なペトラですが、こちらは自分の写真が無いので写真に関しては古い写真ですが、パレスチナのキリストが布教したガリラヤ湖周辺です。つまり今回は聖書の時代に思いをはせる写真と交易の話しに分かれています。アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ旧約聖書に出てくるパレスチナ(Palestine) ハツォル(Hazor)ガリラヤ湖、ゲネサレト湖畔と使徒ペトロ海抜の低いガリラヤ湖、ヨルダン川、死海至福の教会(Church of the Beatitudes)紅海経由のプトレマイオス・ルート紅海経由のシナイ半島ルートナバテア(Nabataean)王国とエル・カズネ(Al Khazneh)聖書の舞台となっているシナイ半島はBC2世紀頃からナバテア王国が交易の覇権を握っていた。このシナイ半島は「アジアと欧州を結ぶ交易路」を考える時に最も重要な地理的位置にあるのは明らか。黄色の円・・ヨルダン西岸(モーセに連れられイスラエルの民が着いたカナン。)円の下のピンクの☆・・ペトラ(Petra)(ナバテア王国(Nabatean Kingdom)の首都)上の地図下方の青の円・・紅海とナイル川が最も近いルート(ナイル川のコプトにつながる。)旧約聖書に出てくるパレスチナ(Palestine) ハツォル(Hazor)エジプトと小アジアやメソポタミヤを結ぶ道筋パレスチナ(Palestine)、ガリラヤ湖の北にあるハツォル(Hazor)は、旧約聖書に登場する地名。(現在のテル・ハツォル)その歴史はBC3200年頃からBC9世紀にいたり地層に堆積されている場所。BC1200年頃モーセの後継者に選ばれたヨシュアが約束の地カナンに民を導くべく進軍し当地を征服。率いた民はあまりに膨れ上がり、時に地元民を皆殺しにして略奪。率いた民を定住させた。ヨシュアはさらに北に進軍。その激戦地となったのがハツォル(Hazor)の王との戦いだったそうだ。その後もハツォル(Hazor)は「士師記」に登場するが、ソロモン時代には軍事的要所として要塞が作られている。それは交易などルート上の要所であったかららしい。ここは、歴史が堆積層になって見える場所。およそ3000年以上の時が積み上がっているのだ。ただの廃墟とみるべきか? 強者どもの夢の跡と思いを馳せるか?今や要塞には鷹が住み着いているBC8世紀のオリーブ絞りハツォル(Hazor)全景 ウィキメディアからパブリックドメインになっていた写真です。遺丘群-メギド、ハツォル、ベエル・シェバは旧約聖書に登場する3つの丘。2005年に世界遺産に登録されている。ガリラヤ湖、ゲネサレト湖畔と使徒ペトロ山上の垂訓(すいくん)教会こと、至福の教会(Church of the Beatitudes)のある丘からのガリラヤ湖見えるのは漁師シモン・ペトロに「人間をとる漁師になる。」とキリストが誘ったゲネサレ(Gennesaret)方面と手前がカペナウム(Capernaum)下はおそらくカペナウム(Capernaum)ローマ軍の駐屯地であったカペナウムはキリスト自身が自分の街であったと述べている地。そこでキリストは病を治すなどの奇跡を見せている。下はルーベンスが描いた聖ペトロ。プラド美術館所蔵。この写真はウィキメディアから借りてきました。彼が持っているのは天国の門の鍵。カトリックでは、ペトロを象徴するアイテムの一つです。シモン・ペトロは兄弟アンデレとこの湖で漁をしていた時にキリストに出会う。そして彼、シモン・ペトロは12使徒の最初の弟子となる。※ 使徒(apostle)・イエス・キリストの12人の弟子でキリストの説いた教えを伝える使者、あるいは伝道者の事。因みにシモン・ペトロはローマでネロ帝の迫害下で布教中に逆さ十字架にかけられて殉教。遺骸が埋められた丘にサン・ピエトロ大聖堂が建立され、彼は初代ローマ教皇となった。それは彼が天国の鍵をキリストから受け取ったと言う権威にい基づいての事らしい。※ カトリックとプロテスタント、正教会では解釈は別。シモン・ペトロは、聖書を知らない者でも聞いた事のある最もポピュラーな使徒の一人ですが、そもそもここがキリストの布教の発祥の地となる場所のようです。ガリラヤ湖畔の小高い丘でキリストは群衆や弟子らに「幸いなるかな・・」と言ういわゆる幸福の説法を説いていた。それらは後にキリスト教の教義の真髄となる説話で、新約聖書の「マタイによる福音書」や「ルカによる福音書」の中でまとめられている。この湖で漁をしてたのか? とキリスト教徒なら感慨にふけるのだろう。ペトロとアンデレが捕っていた魚はこれなのだろうか?湖は淡水湖。ペトロの名が付けられたセント・ピーター・フィッシュ(St. Peter's fish)がいる。ティラピア(Tilapia)である。もともとアフリカ、中近東が原産国の淡水魚。まさにキリストが布教活動していた時代のボート。ガリラヤ湖の泥沼の中から1986年に発見。(船の博物館にある)海抜の低いガリラヤ湖、ヨルダン川、死海ガリラヤ湖(Sea of Galilee)は海と呼ばれるが、ガリラヤ湖の水は地下水とヨルダン川からの水によってできている淡水湖である。南北に21km、東西13キkmの166㎢。最大深さ43m。ただ、ガリラヤ湖は実は海抜マイナス213mの湖なのである。それは死海に次いで2位。ご存じ世界最大の塩湖である死海(Dead Sea)は実は海抜マイナス422 mの地中にもぐった湖なのである。ガリラヤ湖の南から排出された水はまたヨルダン川となり死海に注がれる。つまりヨルダン川もまたマイナスの海抜を流れる川と言う事になる。海抜が低い理由はヨルダン川がまさにアフリカ大地溝帯の北端に当たるからのようだ。そして地溝帯の地図を見て驚いたが、シナイ半島自体がアフリカ地溝帯に挟まれてあの形状になっていた事である。アカバ湾も地溝帯の線上にあるのである。オマケの死海(Dead Sea)写真因みに死海には流れ出る川が無いので塩分濃度が上昇。一般の海水が約3%であるのに対して30%もあるそうだ。ガリラヤ湖の塩分濃度も死海ほどではないがそこそこあるそうだ。つまり完全な淡水湖ではなかったらしい。そして2016年のニュースによれば近年水量が減り塩分濃度が上昇していたらしい。塩分濃度が上がれば飲料や農業用水として使えなくなる可能があると書かれていた。海抜マイナスは塩分濃度と比例するのだろうか? それとも地溝帯との因果関係か?上下ともクムラン(Qumran)からの死海(Dead Sea)の撮影です。下は解像度も悪いし望遠なので微妙ですが・・。クムラン(Qumran)の写真は次回番外で紹介したいと思います。至福の教会(Church of the Beatitudes)ガリラヤへ戻るとイエスはカペナウム (Capernaum)に住み布教を始める。カペナウム(Capernaum)はガリラヤ伝道の本拠地になった場所イエスが教えを説いた丘はのちに「至福の教え( the Beatitudes)」と呼ばれ教会が建立されている。※ 日本では「山上の垂訓(すいくん)教会」と訳されている。実際の布教場所は解っていないが、カペナウム近郊だとされている事から1938年に堂はたてられたらしい。キリストが布教をおこなった時代からネオ・ヴィザンツ様式で建立?さて、やっと交易に入ります。前回はアレクサンドロスが開拓したと言っても過言でない紅海経由の海路の誕生について触れたが、BC2世紀頃から紅海のみならす、インド洋航海も進展する。それは季節風・モンスーン(monsoon)の発見があったからだ。アラビア海やインド洋では、毎年6月から9月にかけて南西の風が、10月から5月にかけて北東の季節風が吹く。インドからの帰還には冬季北東のこの季節風が利用されていた。これは、中世、オランダ東インド会社でさえこの季節風を利用して航海していたので交易の時期が限定されていたと言う事でもある。この発見により、エジプトとインドの交易は、仲介者に頼る事無く、直接交易ができるに至っている。それまでは地域地域の仲介者がいての交易だったからだ。それは以前も触れたが、アラブ人は、品物がどこからもたらされてくるのかも秘密にしていたからでもあった。上は、紀元前後の頃の交易ルート図です。(ウィキメディアから借りてきました。)紅海経由のプトレマイオス・ルート海のシルクロードを考える時に、紅海経由ルートでは、前回アクスム王国(Mangiśta Aksum)にも触れたが、エジプト(プトレマイオス領)・ルートと、シナイ半島ルートがある。プトレマイオス・ルートでは、紅海からナイル川への特に短い陸路で接続され、ナイル川を下りアレクサンドリアに荷は運ばれていた。※ アレクサンドリア(Alexandria)はBC332年にアレクサンドロス王が建設した街であり、プトレマイオス朝の首都である。当時人口100万人を超えたとも言われる大都市であった。ナイル川への主な接続港はミオス ホルモス(Myos Hormos)やベレニケ(Berenice)があり、ミオス ホルモスからはコプトス(koptos)を5日くらいでつないだらしい。※ 1818年、ベレニケには巨大な要塞があった事が発見され、大きな貯水槽も発見されている。2012年に発掘が再開されてから像の骨も発見され、戦争、あるいは荷を運ぶ為に東アフリカ(エリトリア)や中東アフリカからゾウを輸入していた事が解明されている。また、先にも紹介したが、後々プトレマイオス朝とインドは仲介者無しの交易の直接提携をしてインドからの輸入も増えているし、ギリシャやイタリア、南アラビア、インド、マレー半島、エチオピア、東アフリカ方面と交易していた事がわかっている。因みに、プトレマイオス朝の繁栄を示す一つがアレクサンドリア(Alexandria)にある古代史上最大規模の図書館である。※ 建設されたのはプトレマイオス1世の時代BC300年頃。エジプト特産のパピルス紙に書かれた巻物によって他では真似のできない数を誇っていたのだ。また図書だけでなく、学術研究所ムセイオン(Museum)も併設。アルキメデスやエウクレイデスらが研究と発表を重ねた場ともされている。※ 2010年1月に「パピルス紙と最古の図書館」でアレクサンドリアの図書館少し触れていました。リンク パピルス紙と最古の図書館紅海経由のシナイ半島ルート海のルートが開拓される前からアラビア半島では南部から陸路をキャラバンで運んでいた歴史がある。それは、紀元前後のアラビア半島では独占的商売となっていたらしい。敢えて当初、彼らは港に荷を運ばせずに、陸路輸送で独占。後に海路も始まり紅海経由でアカバ湾に沿い王の道から隊商都市ペトラ(Petra)を経由してガザ(Gaza)から地中海、あるいはダマスクス(Damascus)を経由して地中海やパルミラ(Palmyra)などシルクロードの道につながっていたようだ。写真はラクダのキャラバンの参考写真です。キャラバンの話しに戻ると、アラブ系の彼ら遊牧民はテントコミュニティをアラビア、メソポタミア、レバントの主要な中心地に持っていて、BC1900年頃にはすでにアラビア、ハガリ、メソポタミア、エドム(死海南からアカバ湾に至る地域)を結びラクダのキャラバンで交易に従事していたとされる。想像するに、元締めがいた、所謂キャラバン・ネットワークだったのではないかと思う。因みにラクダのキャラバンには先導の馬が付いていたらしい。彼らは早くから馬も導入していたと言う事だ。そして彼らのキャラバン輸送は、ほぼ独占的商売であったらしい。「アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン」のところ「最初のオリエント・ルート開拓者ベドウィン(badawī)」で触れた彼らアラム人と同一の民族かは解明はされていない。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン彼らの王国はまさにシナイ半島を含んで東に位置している。エジプトのプトレマイオス朝の領土以外の欧州とアジア圏を結ぶルートを独占していたようだ。そしてそれは聖書の中でエドム人の土地と呼ばれた場所含んでをいる。先に紹介した図にあるが、主要なアラビア貿易ルートは2つ。1.中央アラビア砂漠ルート。・・アラビア南部(イエメン)からアラビア半島を経由して死海南からアカバ湾に至る地域に移動。 商品は北にダマスカス、西にエジプトに運ばれた。2.東アラビア砂漠ルート。・・アラビア南部(オマーン)から東海岸に沿いジャーリー人商人の船でメソポタミアの港に移動。 ここから商品はバビロンに向かいシルクロードに入る。その後ダマスカスを通り地中海の港に。ナバテア(Nabataean)王国とエル・カズネ(Al Khazneh)彼らナバテア人(Nabataean)はアレクサンドロス以降のヘレニズム文化の中で富を築いた。遊牧民の彼らはラクダのキャラバンに特化してアラビア半島を縦断する交易網を持っていたし、南アラビアで手に入れた乳香をボートで北のLeuce Comeの港まで運搬するという海路も持っていた。Leuce Comeから商品は陸路、キャラバンでアカバ湾のAilaに移動。その後、王の道をたどり死海とアカバ湾の間にある自然の要塞とも言える渓谷にキャラバン隊の中継基地ペトラ(Petra)を建設。そこはかつてのエドム人の土地。ナバテア人(Nabataean)の繁栄の印がこのペトラの街(遺跡群)である。下の写真はウィキメディアの「Petra First Glimpse」から借りてきたものです。シーク(al-Siq)から臨むエル・カズネ(Al Khazneh)下はナバテア(Nabataean)王国の位置を示した図です。(ウィキメディアから借りてきました。)1989年の映画「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」ラスト舞台となった聖杯が安置されていた遺跡がヨルダンに実在するペトラ遺跡のエル・カズネ(Al Khazneh)である。下の写真はウィキメディアから借りてきた「Al Khazneh Petra」の写真です。幅 30 m、高さ 43 m未だ全容は解らないペトラ遺跡群ですが、特にペトラを代表する遺跡がエル・カズネ(The Treasury)です。(中には入れません。)建設されたのはBC1世紀末~BC2世紀頃のナバテア人の全盛期頃。おそらく他の交易都市と張り合うように立派なものが造られたと推察されています。2000年以上の風化にさらされていますが、まさにヘレニズムの産物。古代ギリシャの神殿のような意匠で造られているのがわかります。惜しいのは、彫刻のデザインが少しでも解ればもっと特定できたのに・・。下の写真は共同通信のニュースから借りてきました。ところで、ペトラがすごいのは、治水システムがあった事である。実はシーク(al-Siq)のせいで鉄砲水による被害も大きいこの渓谷で、ダムを造り、水害を排除。水道を引いて飲料の確保をしていたらしいのだ。ペトラ自体は1985年12月6日、ユネスコの世界遺産(文化遺産)へ登録されている。下の写真は、エド・ディル(Ad Deir)英語の訳では修道院(The Monastery)らしい。幅50m、高さ約45m現在、ペトラでは神殿や競技場など54もの遺跡が発見されているらしい。一見荒野の岩山群の中にこんなに大きな規模の古代都市があったとはかなり驚きである。BC64年~BC63年頃、ナバテア人は古代ローマ帝国の支配下に入る。ナバテア人の王族は、交易の利権をローマに譲り、自分ら貴族はローマの市民権を得たと言う。だからナバテア(Nabataean)王国は歴史の表から消えて行くのであるが、彼らの敷いた交易ルートも物資も、そのまま古代ローマ帝国が引き継いだのである。つつぐ次回「アジアと欧州を結ぶ交易路 5」に行く前に読んでほしいかも・・。リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)Back numberリンク 静物画にみるメッセージリンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞) アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2019年08月29日
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ラストBack numberに香辛料トレードのリンク先追加しました。今回は「アジアと欧州を結ぶ交易路 2」の続きです。もし、アレクサンドロス王が早死にしなければ、彼はアラビア半島を一周し、エジプト、カルダゴ、ローマを攻め西回りでギリシャに戻ると言う計画があったらしい。※ アレクサンドロス3世、アレクサンダー大王(Alexander the Great)(BC356年~BC323年6月10日)BC324年、バビロンに戻ったアレクサンドロス王はフェニキアで建造した船を解体し、ユーフラテス川沿いに建設した港に船を運ぶと、同時に何千と言う水夫やこぎ手を集めていたと言う。まずはペルシャ湾岸と近くの島々を植民地にし、最終的にはアラビア半島を手にすれば、紅海の航路が思いのままになる・・と、考えたのだろう。当然、そこに大きな経済的目的があった。それは地中海からインドを結ぶ交易ラインの確保。彼はダレイオス1世がすでにトライしていた紅海からナイルを経由して地中海に至る航路を含みペルシャ湾岸の地形などの調査隊を3度にわたり派遣していた。しかし、BC323年6月、準備も整い、自身のアラビアへの遠征直前に病に倒れて急死したのである。彼の死と共にその計画は頓挫(とんざ)するが、結果的には彼が計画していたコースが海のシルクロードとして、後に確立された。そしてそれこそが古代オリエントとギリシアの文化融合と言う文化革命、「ヘレニズム(Hellenism)」を起こしたのである。※ ヘレニズム(Hellenism)とは、アレクサンドロスの死(紀元前323年)から北エジプトに植民したプトレマイオス朝の滅亡(紀元前30年)までの約300年間を指すらしいが、文化融合の観点から見れば、それらはそのまま帝政ローマに引き継がれている。因みにアレクサンドロス王の代理として北エジプトに赴任したプトレマイオスは、アレクサンドロス王と同年のマケドニア時代からの幼なじみである。※ 後でまた触れるが、プトレマイオス朝の位置は海のシルクロードにはかかせない要所の一つになっている。少し間が開いたのでバックナンバーのリンク先を載せておきます。先に読んでほしいかも・・リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィンリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスアジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロード古代ガラスアレクサンドロス亡き後の陸路、そして紅海経由の海路の誕生アクスム王国(Mangiśta Aksum)の役割香油 ミルラ(Myrrh)とフランキンセンス(frankincense)古代ガラステヘランのガラスと陶器の博物館から宝石として造られたガラス玉のネックレス(宝石よりも価値があったかも・・)最古のガラスの誕生は起源前3500年に遡ると言われているが、起源の年代も場所も実は未だはっきり特定はされていない。エジプトかメソポタミアかと論争があり、最近の起源説としてメソポタミア起源説が有力になっている。ローマン・グラス(Roman Glass)は以前ベルギーのブリュッセルのところで取り上げた事があります。「サンカントネール美術館 1 (ローマン・グラス 他)」リンク サンカントネール美術館 1 (ローマン・グラス 他)そこではローマ時代に造られたガラス(紀元前1世紀から5世紀に造られた製法のガラス製品)として紹介しているにすぎませんが、広義には、ヘレニズムの時代から帝政ローマ時代に交易により欧州にもたらされたガラス製品全般をさしていたのです。下も同じくテヘランのガラスと陶器の博物館から「型吹き成型」のビン人面文小瓶 おそらくシリア出土1~2世紀頃のものなぜ人の顔を模しているのかわかりませんが、テヘランのガラス博物館には結構あります。皇帝などへの献上品でしょうか? 香油ビン(Perfume bottle)かな?その昔、ガラス製造に欠かせない天然ソーダを商う商人の船がペールス川で釜土の準備をしていて偶然発見した? などと言う伝説もありますが、天然ソーダを商う商人こそがフェニキア人です。ガラス自体の交易は古くからあったと思われるが、BC1世紀中頃? 「宙吹き成型」からの「型吹き成型」のガラス製法の発見はガラス革命を起こしたようだ。下はBC2頃の香油ビン(Perfume bottle) おそらくサイズは5~6cm程度 携帯用?シリア・レバノンなど地中海沿岸のパレスチナ地方。かつてアレクサンドロス王率いるマケドニア軍が進軍して最初に勢力下に置いたフェニキア人の街があった沿岸地帯。そこはガラスの産地だった場所。※ アレクサンドロス王が消滅させたフェニキア人の最大の都市テュロス(Tyros)の街も含まれている。同じくテヘランのガラスと陶器の博物館から 年代不明だが紀元前の物と思われる玉虫色に輝くシリアで生まれたガラス器。ルイス・コンフォート・ティファニー(Louis Comfort Tiffany)(1848年~1933年)はこのガラスの色に深い感銘を受けてファブリル・グラス(Favrile glass)の再現? 開発に成功する。1894年の特許取得後、1896年に生産が開始。玉虫色に輝くファブリル・グラスはティファニー商会の代名詞となる。ガラス器は、紀元前からローマ時代を通して宝石に値する価値のある交易品の一つだったのは間違いない。しかし、技術革新でガラス造りが簡易になり始めるとその価値は下がり始める。それはガラスの透明度に比例している。透明になるほど簡単に作れるので安価になって行くのである。ローマ帝政期の1世紀~3世紀、ローマン・グラスは、ローマ市民のポピュラーな実用品となり市民の生活の中にも浸透していく。因みに日本に伝来して正倉院にあるササン朝の切子グラスは6~7世紀頃と思われる。つまり、後々ガラスはローマ帝国のみならずササン朝ペルシアの主要な交易品として東西に広まって行くのである。アレクサンドロス王の遠征路(赤)に加え、おおよその海路(青)の調査路を入れてみました。ピンクの西の端がマケドニア、左上の星がローマ、右の星がバビロン(Babylōn)。上は現在の衛星写真に加筆したが、アレクサンドロスの時代、シリア一帯はもっと緑が多かったらしい。砂漠化が進んでいるのである。※ バビロンはBC5~6世紀にはオリエント有数の都市として栄えた伝説の都。アレクサンドロスがペルシャ王になった一時、帝都になったが以降衰退して消えて行く。冒頭紹介した通り、インダス川以西を手にしたアレクサンドロスは、最終的にはアラビア半島も手中にし、紅海の航路を自由にしてからナイル経由でアレキサンドリアから地中海に出るルートを開拓する予定であったと思われる。それは東のインド、アジア圏と西のヨーロッパを結ぶ経済網の構築。アレクサンドロス亡き後の陸路、そして紅海経由の海路の誕生アレクサンドロスの死後、帝国は大きくセレウコス朝とプトレマイオス朝に分かれる。アレクサンドロスの後継者、ディアドコイ(Διάδοχοι)となった部下らがメソポタミア(イラク)地方からにシリア、アナトリア、イランなどにまたがる広大な領域を支配してセレウコス朝をおこすと陸路の交易路は彼らが掌握する。海の交易路は、アラビア海湾岸を沿ってアラビア半島南端(イエメン共和国の港湾都市アデン(Aden)を経由して紅海に入るルートであるが、やはり後継者、ディアドコイ(Διάδοχοι)であるアレキサンドリアに首都をおくプトレマイオス朝(BC306年~BC30年)と紅海に沿岸に位置する中継ぎ貿易で繁栄したアクスム王国(Mangiśta Aksum)による所が大きい。※ アクスム王国は、紀元前5世紀頃から紀元後1世紀までに繁栄した中継ぎ交易国と思われていたが、実はここには重要な交易品が存在していた。実際、BC5世紀頃には紅海の交易路はすでに存在していたとされる。なぜならアクスム王国(Mangiśta Aksum)の主要輸出品は、エジプトにとって貴重な輸入品であったし、一部はフェニキア人に買われ、オリエントや西欧にも流れたのである。※ 地中海へはナイル経由かテュロスに出るルートであったと思われる。ウィキメディアからかりました。ピンクの円がプトレマイオス朝の位置。アクスム王国(Mangiśta Aksum)は、かつてのエチオピア、今のイエメンにあたる場所に存在していた小さな国で、ソロモン王とシバの女王の子孫と公言する王の統治下にありBC5世紀~AD11世紀まで存在していた。現在はスエズ運河(Suez Canal)ができて地中海と紅海を結んでいるが、かつては、テュロスにしてもナイルルートにしても一部陸路を行かねばならなかったが、BC5世紀~AD11世紀にかけては紅海を通過してエジプトを通るローマ・インドルートの海上交易路がその必要性からメインとなりインドやアラブとの交易が盛んになったのである。下図は交易路 1で紹介したシクロード地図の中東部を拡大ピンクの円・アクスム王国があった所 紫の円・・プトレマイオス朝があった所アクスム王国(Mangiśta Aksum)の役割後々交易路は販路を増やして行くのであるが、この地図で気づいた事がある。アラビア半島下とソマリア沿岸の航路は、まさに乳香(にゅうこう)や没薬(もつやく)の産地をめぐるコース。アクスム王国の存在はただの中継ぎ貿易港ではなく、アクスム王国に集積された物品は、交易品としてエジプトのみならず、西洋諸国に販売されていった非常に貴重なエッセンシャル・オイル(Essential Oil)の原料だったのである。香油 ミルラ(Myrrh)とフランキンセンス(frankincense)ミルラ(Myrrh)の和名は没薬(もつやく)。樹脂のオイルであり、今はEssential Oilとして知られている。実は紀元前の古代エジプト時代から「黄金に匹敵する」非常に重要な品であった。殺菌作用を持ち、鎮静薬、鎮痛薬としても使用される。古代エジプトでは、太陽神ラーへの儀式で利用され、強い殺菌性からミイラを作る時の防腐剤に利用されてきたのだ。没薬樹はスーダン、ソマリア、南アフリカ、紅海沿岸の乾燥した高地に自生していたのでまさに・・である。また没薬(もつやく)は聖書の中でも貴重品として登場している。東方の三博士(マギ)らがイエス・キリストに贈った3つの品の一つに入っている。※ もう一つ、やはりアクスム王国からの輸出品である乳香(にゅうこう)も含まれている。以前、2013年12月「マギ(magi)の正体」の所でマギの名前は贈り物から与えられていると紹介した事があるが、壮年の賢者がバルタザール(乳香)で、老人の賢者がカスパール(没薬)である。リンク マギ(magi)の正体フランキンセンス(frankincense)。和名は乳香(にゅうこう)。樹脂のオイル樹木。これらもオマーン、イエメンなどのアラビア半島南部、ソマリア、エチオピア、ケニア、エジプトなどの東アフリカ、インドに自生。こちらもまた宗教行事には欠かせない香油。先ほど触れたが、フランキンセンスもまたキリスト誕生祝いのマギからのプレゼントの一つ。また古代エジプトではすでに紀元前4000年前から利用されていた香。神にささげられる貴重な香としてエジプトから、そしそてユダヤ人にも伝わり珍重されてきたのである。確かに、キリストへの贈り物は、もともとシバの女王がソロモン王に贈った贈り物からなぞられているので納得である。シバの女王の国はかつてのイエメン。彼女の国の特産品の香油だったのだ。紅海ルートはこの香を運ぶ為に存在していたと言っても過言ではないだろう。ところで、大航海時代は、香辛料 (spice)を求める為に始まったと思われているが、そもそもはスパイスでなく、エッセンシャルオイル(Essential oils)、すなわち聖務で必要となる香油を求めたのだろうと思われる。スパイスは結果論だろう。下図は紅海のあたりを拡大。紅海沿岸で荷を積んだアラブの商人により地中海沿岸まで運ばれ、そこで取引されていた。しかし、彼らはそれらがどこからもたらされた品かを企業秘密にしていた。下は1世紀頃の交易ルート図です陸路を赤、海路を黄色にしました。紅海ルートを加えた、アレクサンドロス以降の新たな海のルートでは、アラブやインドとの中継ぎ貿易を活発化させていく。海洋に転じる頃の主要な交易品は香辛料他、黒檀(こくたん)、絹、上質の織物などがあるそうだが、セイロンやジャワの茶葉の他、インドのゴルコンダ産のダイヤや象牙なども取引商品に加わったようだ。特に南で採れるコショウや香辛料には重きが置かれ「香りの道」とも呼ばれるよに・・。とは言え「香りの道」の香りは香辛料の香ではなく、エッセンシャルオイル(Essential oils)の事だったのだと改めて思う。それにしてもミルラ(没薬)とフランキンセンス(乳香)の存在に気付けなかったらアクスム王国を見誤っていた所でした。海の交易ルートも陸にちなんで「海のシルクロード」と呼ばれていますが、こちらは「香りのロード」とした方が良いのかもしれません。アジアと欧州を結ぶ交易路 次回リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ香辛料については別の回で詳しく書いてます。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史Back numberリンク 静物画にみるメッセージリンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2019年07月30日
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ラストにBack number追加しました。わずか10年で壮大な遠征をやってのけ、広大な領地を傘下に収め、大帝国を築こうとしたアレクサンドロス3世(BC356年~BC323年6月10日)。32歳11ヶ月と言う英雄の突然の死は、その後の世界を変えたのは間違いない。そして、その早すぎる死、故にアレクサンドロスは死後すぐに伝説の英雄となるのである。彼は軍事の天才としてあがめられ、闘いのスタイルなども模範とされた。後の多くの軍人等が彼に近づこうと真似て、求めてやまなかったのだ。その中にはかのナポレオン・ボナパルトもいた。アレクサンドロスはこの遠征に多くの学者を随行させ、遠征した先々の土地や風土、動植物に至るまで研究させている。まさにこれはナポレオンがエジプト遠征の時に学者を随伴させてロゼッタストーン(Rosetta Stone)を発見した下りに生きている。因みにこのロゼッタストーン(Rosetta Stone)は1799年、ナポレオン軍により発見され当初はフランスの所有であったが、1801年、エジプトに上陸した英国軍にフランスが負けると所有権は英国に移り現在に至りそれは大英博物館の所蔵品となっている。※ 2009年5月「ロゼッタ・ストーンとナポレオン」で書いています。(一部書き加えています。)リンク ロゼッタ・ストーンとナポレオンせっかくなのでペルセポリスにもう少し触れてから進みます。少し交易から離れましたが、意義はあるかと思います。アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスペルセポリス(Persepolis)高級板材、レバノン杉ペルセポリスとゾロアスター教ペルセポリス炎上の謎The KingからThe Greatにアレクサンドロスの帝国の東端ペルシャでの湾岸調査ペルセポリス(Persepolis)ペルセポリスは、古代ペルシャ王国発祥の地のパールサ地方にダレイオス1世 (Darius I)(BC550年頃 ~BC486年)が全土の反乱を鎮圧して勝利した記念(BC520年頃)に建設が始まった都である。そしてそれは同時に王国の権力と威信の象徴であり、壮大にして威厳のある立派な都市であった。アレクサンドロス王が破壊するまでは・・。下が「百柱の間(Place of 100 Columns)」の柱跡南北400m 東西300mの基礎の上に高さ12~14mに及ぶ列柱の並ぶ巨大な宮殿群が建てられていた。百柱の間の側壁謁見の間 アパダナ(Apadana)であり公式行事の行われる広間の収容人員は1万人と言われる規模。玉座の間は帝国の富を見せる場でもあったらしい。下は復元図(「ペルシャ美術史」から)高級板材、レバノン杉百柱の間の柱の上には下のような彫像が乗り天井を支えていた。天井の板はレバノン杉。砂漠の多い地方で板材は貴重。昔はレバノン・シリアの高地にはレバノン杉の森が大規模にあったと言うが、商用としてエジプトやオリエントに売られて森は丸坊主。無計画な伐採で森は消滅して砂漠化した所も。まさにフェニキア人の都市テュロスもレバノンにあったが、フェニキア人はレバノン杉でガレー船を建造して航海に出ていたし、オリエントだけでなく、アフリカなど地中海全域にこれら木材を輸出していたと言う。レバノン杉がなくなるまで、レバノン杉材は売れ筋の交易品であった。レバノン杉はプトレマイオス王朝の頃はまだ貴族等の高級棺桶材に使用されていた事が解っている。(ミイラの入っている木棺がそうです。)写真はルーブル美術館からスサ出土 ペルシャ王は金のプラタナス、貴石でできた房を持つ金の葡萄の木の下に座って謁見したと言う。「謁見の間アパダナ(Apadana)」外観復元図(「ペルシャ美術史」から)復元の絵図で見ても壮大な宮殿であっただろう事は解る。実際の残存遺跡 下は正面と右の階段下は正面中央ゲート上に残る残骸謁見の間の階段には貢ぎ物をする者らのレリーフも描かれている。確かにペルシャ帝国の首都として属国からの使者がこの都にたくさん来ていたのだろう。この宮殿の周りには当然宿も必要。街も広がっていただろう事も想像できるし、交易の話に戻るなら。確かに国際色豊かに東西の品がここに集まって賑わっていただろう事も想像できる。つまりここペルセポリスはオリエントに広がる巨大帝国ペルシャの対外的な外交を目的とした国際都市として造られた都だったと解釈できるのだ。ところが、100年近い歳月をかけて完成されたペルセポリス(Persepolis)であるが、行政と経済活動の中心であったか? と言うと疑問らしい。実際本当にここが首都しとて機能していたかは判然としていないのだそうだ。行政ならむしろスサの方であり、ここはあくまで宗教的中心地としてのペルシャの都だった可能性が高い。つまりゾロアスター教の聖地として諸行事が行われる神殿を有する都として・・。イスラム教で言うならメッカみたいな位置づけか?下はテヘランのイラン考古学博物館からのレリーフでペルセポリスの謁見の間にあったものらしい。左はダレイオス1世。謁見の間 アパダナ(Apadana)の北側階段壁面おそらく宮中の召し使いと兵隊釈迦(シャカ)の頭の螺髪(らほつ)って、ペルシャ美術の影響なのかな?ペルセポリスとゾロアスター教ペルシャ人の王国はだいたいゾロアスター教(Zoroastrianism)を信仰していたが、このペルセポリス(Persepolis)はまさにゾロアスター教の儀式用神殿として機能していた。アケメネス朝はアフラ・マズダ神を始めミスラ、アナーヒタ女神などゾロアアスター教の神々が信仰され、帝王の保護、王権神授など宗教的要素も美術の中に繁栄されている。また碑文は楔形(くさびがた)文字で書かれ、アラム語、アッカド語、古代ペルシャ語が用いられ、アケメネス王朝文化の国際性を物語っていると言う。※ 主神はゾロアスター教であるが、ペルシャ人は他の宗教を信仰する者に対して寛容であったそうだ。下がテヘランのイラン考古学博物館から参考に持ってきた楔形文字(内容は不明)至る所に描かれているゾロアスター教の有翼の精霊。当初は人型ではなかったようだ。上はゾロアスター教の精霊で、人に宿る守護霊フラヴァシ(Fravasi)と認識していたが、アフラ・マズダー (Ahura Mazdā)と解釈するものもある。混同されていてどちらが正しいのかわからない。有翼光輪を背にした王者の姿で表現されるアフラ・マズダー (Ahura Mazdā)はゾロアスター教における最高の崇拝神で、明らかにフラヴァシ(Fravasi)とは格が違うのですが・・。※ Ahuraという言葉の文字通りの意味は「主」であり、マツダは「知恵」。※ ササン朝ペルシャの時代にアフラ・マズダーの姿は有翼の人に置き換えられたらしい。ペルセポリスは刻まれた壁画からも明らかにゾロアスター教の神殿である。ところが、荒廃した中のどこが礼拝所か解らない。ゾロアスター教は、別名、拝火教(はいかきょう)と呼ばれるごとく火を礼拝する宗教である。ゾロアスター教の全寺院には教祖ザラスシュトラ(Zartošt)が点火したといわれる炎(不滅の法灯?)が、聖火台の上で耐える事なく燃えており信者は炎に向かって礼拝する。決して偶像に礼拝はしない。だから礼拝の聖火台と言うものが存在するはずなのだが、それらしき物がペルセポリスに見当たらない。ガイドブックにも無い。紹介の為に礼拝図をイランのペルセポリスの北にある巨岩の遺跡、ナクシェ・ロスタム(Naqš-e Rostam)の墓のレリーフから持ってきました。ナクシェ・ロスタムにはアケメネス朝時代の王墓4基が岩に掘られているのですが、そのレリーフ全てに同じ絵柄が刻まれている。その墓のレリーフこそがゾロアスター教の礼拝図なのですペルセポリスの北、ナクシェ・ロスタム(Naqš-e Rostam)の王墓台座の一つに王が立ち、一つの台座には燃える聖火台がある。王は炎に対して礼拝する。レリーフ上の浮遊する有翼の精霊は先に紹介したフラヴァシ(Fravasi)? orアフラ・マズダー (Ahura Mazdā)? であり、王を祝福している。実際には見えない精霊を具象化して表現したものだろう。ところで、なぜペルシャにゾロアスター教なる宗教ができたのか?それは中東と言う地政学的問題がある。石油の産出である。自然の荒野に天然ガスが吹き出し、雷などで自然発火すれば人は驚くだろう。それは超自然現象であっても、神の到来に見えたかもしれない。アレクサンドロスはペルシャでタールの池を見ている。燃える液体のタールを少年の体に塗って火を付けたりしている。もちろん熱くて火傷するなんて知らなかったのだろうが・・。石油で燃える炎を美しいと思ったようだ。つまりペルシャでは、タールがすでに活用されていたと言う事だ。燃える液体は善なる神のもたらす恩恵か? そしてペルセポリスは恐らくガスか? タールか? そのどちらかがあり、聖所として神殿が建設された可能性が高い。ペルセポリス炎上の謎ペルセポリスはアケメネス朝ペルシア帝国の帝都とされた場所。アレクサンドロスのペルシャ遠征では、ペルシャ門を突破した王はBC330年1月末にペルセポリスを占領。4ヶ月滞在して彼の部隊は略奪の限りを尽くしている。その金額はスサの3倍に及んだそうだ。※ スサでは貴金属1000~1250トン。ペルセポリスでは貴金属3000トンを手にしている。そしてBC330年5月、逃げたダレイオスを追撃する為にこの宮殿を離れる前にペルセポリスに火を放ち燃やしたとされている。それが「ペルセポリス宮殿炎上事件」と言われる謎である。※ 現在の発掘調査でも、意図的に焼かれたのだろう事が解っている。なぜこの壮大な宮殿を焼いたのか? 後々アレクサンドロス自体がそれを後悔していたとも伝えられるが・・。この宮殿はそれ以降現在にいたりずっと廃墟になってしまった。被害があまりにも大きかったったのだ。アレクサンドロス王が宮殿に火をつけた理由も諸説あるがどれも判然としていない。もしかしたらゾロアスター教の神殿であったからこその火災と言う事も考えられる。宗教的な嫌悪があったのかもしれないし、無知故の事故の可能性もある。あるいは、ペルシャ人を完全に屈服させる為の最終手段としたのかもしれない。実際ペルセポリスは確かにオリエント最大のペルシャ帝国の帝都であったのだから・・。何にしても惜しいThe KingからThe Greatにアレクサンドロスがヘルセポリスを出立してダレイオスを追撃。しかしダレイオスは部下の反逆にあい暗殺される。BC330年7月の事だ。アレクサンドロスは自らペルシャ王に手をかけなかったので、アケメネス朝ペルシアの王位を継いだのである。だからアケメネス朝ペルシャは確かに滅んだが、アレクサンドロスの意向で、ペルシャの体制も人もアレクサンドロスの治世にほぼ継承される形となった。しかし、元のペルシャ人等に多くの役職をまかせた為に元々のマケドニア軍やギリシャ軍の兵士らから反感が生まれ後に彼が若くして亡くなった事で、暗殺説が生まれたのである。アレクサンドロス王(The King)が大王(The Great)となるのは、広大なペルシャ帝国の王になった事で付いた称号なのだ。下はバビロンからインダス川までの範囲のアレクサンドロスの進軍と帰還のルート。アレクサンドロスの帝国の東端さらに討伐に東進した? 冒険を続けた? アレクサンドロスであるが、たくさんの問題をはらんでいた。当然だが、マケドニアから従って来た兵士らは故国への早い帰還を望んでいた。戦士が常に足り無いのである。当然だが、領地が増えれば統治の為に軍隊を駐屯させ続けなければならず、次の戦い向かう為にもっと多くの兵士の補充が必要になる。軍費は遠征で巻き上げた資金があるので傭兵もたくさん雇ってはいたが、途中食事に困る事もしばし・・。痩せた土地で食料が手に入らず、飢餓におちいる場所もあったらしい。止めどないアレクサンドロスの野望にさすがに皆が彼を止めた。仕方無く彼はインダス川を船で海洋まで下るのである。(途中侵略しながら・・。)インダス川デルタ地帯の街パッタラに駐屯して武装化を図る。そしてクレタ出身で友人のネアルコスに船と水夫を任せて自分は陸路帰途につく。ペルシャでの湾岸調査?ただ帰還しないところが彼らしい。アレクサンドロスの軍団は地勢の調査をしながら進む。陸地のみならず海洋からの地形調査もしている。船が停泊できる入り江があるか? 港が造れるか? 船で航海した時の実際の状況を掴むためにネアルコス(Nearchos)(BC360年頃~BC300年)に帰還の船団をまかせた。とは言えアレクサンドロスも陸路、ネアルコスの食料を調達しながらできるだけ湾岸に沿って併走。道々井戸も掘りながら水を調達して船団に供給。バビロンに帰還するのである。前回触れたが、アレクサンドロスの進軍は当初ほぼ隊商ルートに沿っていた。しかし、さらに拡大した領土のルート確保は必要事項だ。彼の開拓した陸路や河川を含む海の航路や新たな港の建設。またその為の要塞となる街の建設など湾岸調査は後世の物流に大いに貢献した事となる。海路のコースはやがて海のシルクロードとして表に出る事になる。※ アラビア海の季節風と言う問題もこの航海で発見している。上はイランであるが参考資料です。インダスからの帰りペルシャ帝国内でもケドロシアは不毛で軍隊は飢餓に苦しんだと言う。道無き道を最初に作って進む人は凄いなと思う。それにしてもアレクサンドロスの特集ではありませんでしたが、関係してくるのでずいぶん詳細になってしまいました。彼は本当にThe Greatでしたね。次回、紅海ルートから始める予定です。次回リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードBack numberリンク 静物画にみるメッセージリンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロード アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィンまだ書きかけ中です。
2019年04月18日
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ラストにBack number追加しました。実は、当初は欧州での高級磁器誕生のルーツを探り、マイセンやロイヤルコペンハーゲンの紹介に入る予定でした。その為にいつくらいから磁器が欧州に輸入され、賛美されたのか? を特定する為に交易ルートを探っていたのですが、全然そこにたどり付けないどころか、全く違う方向に行き書き始める事になりました。どうも、交易品には、時代に伴うルート、そして需要があるようで、古くはシルクロードにて生糸や絹織り、香などが運ばれたり、海洋貿易が盛んになる頃は香辛料がメインの需要とされていました。そもそもルートが案外たくさんあったのにも驚きましたが、政変によりルートの変更が余儀なくされたのも事実。そのルートの複雑さも迷走の一つです。最初は東インド会社から入ったのですが、結局、紀元前に遡り、長い歴史を探っても、陶磁器だけが主だった交易品リストに入っていない事も解りました。つまり、最初に陶磁器が欧州にもたらされた時代を正確に特定するのは困難だと結論したのです。しかし、欧州で必要があり生まれた高級磁器は、東洋の磁器がお手本です。マイセン誕生の方の歴史から遡れば、王侯貴族に磁器ブームが来るのは、各国の東インド会社の貿易が盛んになる頃です。ポルトガル、スペイン、イギリス、オランダなどが危険な航海を押して貿易に出たのは香辛料など東洋の物産欲しさです。白い肌の光輝く美しい上質の陶磁器は、その頃に副産物として欧州行きの船に乗ったのではないかと言うのが今の所の推測です。本来なら、これをイントロにマイセンの紹介に入るのですが、迷走しているうちに興味が交易自体の方に移ってしまいました。でも、交易路の話にするにしても東インド会社からでは中途半端。初期のアジアと欧州を結ぶ交易ルートを遡っていたら、紀元前のフェニキア人にらよる地中海交易にまでたどりついたのです。※ それ以上前は遺跡程度の資料しかないので不明。それにしても壮大なスケールの話しをコンパクトにできるのか? 迷走している間に本が積み上がっています。1~3回くらいになりそうな予感。 ← 20回くらい行きそうですm(_ _;;m 今回、写真は考えた末にイランとチュニジアから持ってきました。アケメネス朝ペルシア帝国の都だったペルセポリス(Persepolis)からアジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィンシルクロード(Silk Road)最初のオリエント・ルート開拓者ベドウィン(badawī)地中海交易の覇者(はしゃ)海のベドウィン フェニキア人(Phoenician)シクロードの西端(アジア西端)の都は?最初の紅海(こうかい)(Red Sea)の交易路フェニキアとアレクサンドロス王との攻防ペルセポリス(Persepolis)のラマッス(lamassu)シルクロード(Silk Road)生糸や絹織物の交易に使われたと言うシルクロード(Silk Road)は中国を横断して欧州世界との交易に利用された歴史的隊商ルートを指している。近年、それら交易路はユネスコの世界遺産に登録されつつあり、長安から天山回廊を経由するルートは2014年に登録されている。このシルクロード(Silk Road)と言う名称は1877年、東西交流における絹の重要性を指摘してドイツの地理学者フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン(Ferdinand Freiherr von Richthofen)(1833年~1905年)がその著書において使用したのが最初らしい。※ 現在では北緯50度線付近のステップを横断する「ステップ路」、北緯40度線付近の水脈を求めオアシス群を辿る「オアシス路」、南方の海からアクセスする「南海路」(紅海経由)の3つに分類されるそうだ。下はウィキメディアコモンズから借りてきたシルクロードのおおよそのルート図です。赤いのが陸路。青が海路。※ この地図については時代が特定されていないので、長いスパンのルートが全て表示されていると思われます。同時に全てのルートが存在していたと言う訳では無いと言う事です。地図を見ればいかにも・・だが、このルートを最初から最後までの行程で行商に出る者はいないし(今は可能だが・)、またそう言う類いのルート図でもない。このルート上のあちこちに点在する開けた都市の市場で商品は取引され、西から東、あるいは東から西に運ばれたのである。簡単に言えば別々に誕生した東西の文化圏が、その枠を超えていつしかつながり、知らぬ間に文化融合をおこしていた。その要因となった「道・ロード・Road」である。「絹・シルク・Silk」の名称は、便宜上付いた名称で、必ずしもシルクが主だった取引だけではなかったはずだ。だから道はある程度決まっていただろうが、諸事情により、ルートは毎回変わったかもしれない。それにしても、「シルクロード」とタイトルする本を見るとほとんどが西安から天山山脈あたりまで。私が知りたいのはその先のインド、オリエントから地中海へと抜ける交易ルート。案外本が無い。調べたら書けない理由も見えてきました。ウズベキスタン、タジケントに向かう飛行機からのアライ山脈? 新疆ウイグルもそうであるが、ウズベキスタンもインド・ヨーロッパ語族系のお顔立ちが多い。東西で分けるなら西寄りだ。最初のオリエント・ルートの開拓者ベドウィン(badawī)これら古代のルートは、地域の政情により変遷しています。特にオリエントは歴史に名を残す大きな文明のある国が幾つか誕生。現イラン、イラク、シリアあたりを通るオリエントの内陸ルートを最初に開拓したのはおそらくベドウィン(badawī)のアラム人(Aramaeans)ではないかと思います。彼らの古代アラム語が商業語として古代オリエント世界に普及したと言われています。BC11世紀、ユーフラテス川上流に定住していたアラム人はラクダなどによる隊商を組んでシリア砂漠を越え内陸交易をしていた事が解っている。彼らは古代オリエントの遊牧民でした。イメージ写真・・ラクダはチュニジアからです。地中海交易の覇者(はしゃ)海のベドウィン フェニキア人(Phoenician)上のシルクロード地図には出ていませんが、地中海周辺(北アフリカ側から)の交易ルートを造ったのはフェニキア人です。地中海東岸、レバノンあたりに定住したフェニキア(Phoenicia)人はBC12世紀にはアフリカ大陸沿岸からイベリアにかけての地中海の島々との海上交易を盛んに行った海の商人です。彼らはしばしば海のベドウィン(badawī)と称されていました。※ ホメロスの叙事詩「イーリアス」や「オデュッセイア」では「船を操る職人や商人の集団」としてフェニキア人の事が語られている。上はフェニキア人の植民都市と交易路 ウィキメディアから借りてきました。※ 年代が入っていないのですが、BC12~BC8世紀頃かと思います。フェニキア人(Phoenician)は優れた航海術と文明を持ってボスポラス海峡沿いにイタリア、シチリア、スペインと北アフリカ沿岸に住み着きカルタゴなど幾つかの植民都市も建設。彼らはその街の支配者に助言する立場となり商売をしていた。彼らは行った事が無い場所は無い? かのようにどこにでもいて、商売し、BC15世紀頃からBC8世紀頃に歴史の表で繁栄を極めていたそうだ。BC9世紀からBC8世紀頃、アッシリアの攻撃を受け、フェニキア(Phoenicia)の諸都市は政治的な独立を失って徐々に衰退していく。アッシリア(Assyria)の滅亡後は新バビロニア(Neo-Babylonia)、次いでアケメネス朝(ペルシア帝国)と次々オリエントの支配者が変わる中、それでも彼らの開いた海上交易は衰えず服属しながら続いていた。彼らフェニキア人の滅亡の始まりはアレクサンドロス大王の遠征だろう。※ アレクサンドロス大王の遠征の最初期の被害者がフェニキアの本拠だったテュロス(Tyros)の都市。アレクサンドロス大王の遠征では、大国アケメネス朝ペルシャもギリシャの勢力下に入りヘレニズム世界の中でフェニキアの街もフェニキア人も消えて行くのである。※ フェニキア人の最後の都市カルタゴ(Carthage)だけは共和政ローマに併合されるBC146年まで残った。そのカルタゴ(Carthage)は現在のチュニジア、チュニス近郊に存在。下はチュニスのバルドー美術館(The National Bardo Museum)古代フェニキア人を描いたモザイク画古代のフェニキア人の商取引を現したモザイク画も多い。ヌミディア王国 (Numidia)(現在の(Bulla Regia)の遺跡跡のモザイク画から因みにフェニキア人が交易する為に生み出したと言われるフェニキア文字がアルファベットのルーツと言われている。先ほどの古アラム語もフェニキア文字から派生している。シクロードの西端(アジア西端)の都は?フェニキア人の交易都市の中でも最大で、BC10世紀には首都となっていたのがテュロス(Tyros)orティルス(Tyrus)と呼ばれる都市です。レバノンの南西部、地中海に面するテュロス(Tyros)は地理的要所であり、地中海方面からメソポタミア、アラビア半島に至る交易のハブ都市として長らく繁栄。シルクロードの西端はどこか? アジアの西の端はどこか? と言う答えが実は出ていないようなのです。地中海に出られる街はみんなその可能性がありますからね。※ 政変などですぐに変わったのかもしれない。考えられるのは、東アナトリア(トルコ)、シリア・レバノン沿岸の地中海に面する海岸線がその一つだったのは間違いない。中でもBC10世紀にはテュロス(Tyros)がシルクロードの西端だった可能性は大です。ローマを西とする説もあるようですが、アナトリアにしてもシリア・レバノン海岸にしても、北アフリカにしても、荷物はそこから船の輸送に切り替わり、地中海各地に運ばれたとみるべき。だからシルクロードの西端は、これらのいずこにあったと言うのがシンプルです。最初の紅海(こうかい)(Red Sea)の交易路実はフェニキア人の交易は紅海の交易にも関わっています。BC9世紀、首都テュロスを中心にフェニキアの貿易網はスエズ湾方面にまで及んでいる事が解っている。ピンクで囲ったのが紅海 青の★がフェニキアの海港都市テュロス(Tyros)。現在名スール紅海は北がシナイ半島に続くアラビア半島の西岸にあります。海のシルクロードの欧州に入る入り口が紅海です。しかし、海のシルクロード、紅海は地中海まで抜けていません。1869年11月スエズ運河(Suez Canal)が開通し地中海と紅海(スエズ湾)がつながるまでは地中海と紅海の間は船からいったん荷降ろしされ陸路を行くしか無かったのです。この紅海のルートは、東インド会社がアフリカ喜望峰航路を回る頃にはイスラムの元にあったので西洋側からのルートは一端消えていますが、実は思う以上に古くから存在していたのです。古代ギリシャの歴史家ヘロドドス(Herodotus)(BC5世紀頃)の「歴史(historiai)」によれば、フェニキア人によるアフリカ就航伝説や、アケメネス朝ペルシャのダレイオス1世(Darius I)(BC550年頃 ~前486年)に仕えたギリシャ人によってインダス川河口からを紅海を経て地中海に出る航路と経路が試されていた事が記されているらしい。※ 歴史(historiai)はBC5世紀のアケメネス朝ペルシアと古代ギリシア諸ポリス間の戦争(ペルシア戦争)からペルシア及びオリエントの成立。そして拾い集めた各地の歴史、風俗や伝説がまとめられた地誌。どちらが先にルートを見つけてトライしたかはわかりませんが、地中海世界とオリエントを結ぶ紅海経由の交易路はアレクサンドロス大王の遠征以前から存在し、以降重要ルートになったようです。イスタンブール考古学博物館のアレクサンドロスの像(海外版のウィキメディアから借りてきました)アレクサンドロス3世は、英語名でアレクサンダー大王(Alexander the Great)(BC356年~BC323年6月10日)フェニキアとアレクサンドロス王との攻防アレクサンドロスの遠征では、隊商ルートを利用して進軍している。イッソス(Issus)でバトルはあったが、シリア・レバノン沿岸沿いのフェニキア人の街(Byblos,Sidon,Tyros)には敬意を表しながら占領はしない代わりに協力を要請してまわったらしい。協力とはお金の事と想像できる。アレクサンドロスの遠征では、バトルは案外少ないのだ。しかし、フェニキア人の街、テュロス(Tyros)はしくじった。彼らが従来の王達と異なる若いアレクサンドロス王を見誤ったのだ。強気な断り方をした彼らにアレクサンドロスは考えた末に7ヶ月の下準備をして街攻めのバトルをし、2000人の男子を貼り付けにし、3000人の婦女子、老人は奴隷として売lり、テュロス(Tyros)の街を滅ぼした。いつもなら、捕虜を人間的に扱うのにこの時の王は敢えて残忍な仕打ちをしてフェニキア人に、そして他の国の者らへの見せしめとしたのだろう。すでに1000年の歴史を持つ彼らのプライドと神話はこの時崩れ去った? その後の彼らは、まるで遊牧民のように海洋を漂白し、辛うじてカルタゴは残ったが、フェニキア人は歴史の表から消えて行くことになる。※ そもそも彼らフェニキア人は国家を持っていなかった。遠征最初のアレクサンドロスのルート左上の紫の★がマケドニアのペラ(Pelle)。ピンクの★がテュロス(Tyros)。まさにフェニキア人の都市をめぐっているようなコース。フェニキア人は港町には大概住み着いていた事を考えると、戦費をまかなう為にアレクサンドロス王は意図的にそれら交易都市を巡ったのかな? と思える。彼の進軍した交易ルートはどこもお金を蓄えていたからだ。それにフェニキア人とギリシャ人は商売でライバル関係にもあったからね。ところで、なぜシルクロードの話でフェニキア人の交易の話を出したか? と言えば、シルクロードのその先の商品の流れです。シルクロードの中継点で品物は中国からオリエントの隊商に引き継がれ、地中海沿岸都市まで辿り着いた品物は、フェニキア人により、北アフリカやギリシャ、イベリア半島の諸都市まで運ばれて完結したと思ったからです。チュニスのバルドー美術館には、商人らが、マダムにネックレスを売る姿や鳥や牛を売り買いする者らの姿がモザイク画で残されている。下はやはりバルドーからワインを売る男の絵図です。フェニキア人は根っからの商売人? そして彼らは海を専門としてどこまでも遠征。想像以上にフェニキア人の存在意義は大きく、シルクロード交易の一端として活躍したのは間違いない。実際、後々フェニキア人らから奪った交易ルートなど諸々が、ギリシャの各ポリス、プトレマイオス朝、ローマ帝国へとそのまま引き継がれて行くのである。今回東西交易を探る前までは気づきませんでしたが、アレクサンドロス王の存在意義も大きい。彼の東への遠征は、ヘレニズムと言う芸術分野にとどまらない東西文化の融合を生み、交易に限って見ても以前と以後、劇的な転換点となっている。※ フェニキア人の築いた古代都市カルタゴ(Carthage)についてはかなり古いですが以前紹介していました。カルタゴ(Carthage)は、現在のチュニジアにあったのです。2010年4月1日「チュニジアン・ブルー 1 カルタゴ(Carthage)」リンク チュニジアン・ブルー 1 カルタゴ(Carthage)2010年4月1日「チュニジアン・ブルー 2 (カフェ・デ・ナットと戦争賠償金)」リンク チュニジアン・ブルー 2 (カフェ・デ・ナットと戦争賠償金)2010年02月25日 「スペイン・ロンダ 2 (番外編 カルタゴ)」リンク スペイン・ロンダ 2 (番外編 カルタゴ)下はアレクサンドロスの遠征ルート図全体です。ピンクの矢印がバビロン(Babylon)です。アレクサンドロス王はそこを帝都にする予定でした。赤い矢印がインダス川のラインです。インダス川の上流がガンダーラです。仏教に仏像ができた(BC1.5世紀頃)のは、まさにアレクサンドロスの遠征で、ガンダーラがギリシャ支配に入った事によるギリシャ世界との交流故(ゆえ)です。アレクサンドロス王のペルシャ進軍は、半分はペルシャ戦争(BC492年~BC449年)の報復だったかもしれない。バビロン(Babylon)の後にスサ(Susa)を征服してペルセポリス(Persepolis)に向かう。そこはダレイオス1世が建造したアケメネス朝ペルシア帝国の儀式用の神殿群のある街。今回はアレクサンドロス王の特集ではないのでここはザックリと終わりますが、アレクサンドロス王の遠征の成功はペルシャを手中に入れた事。このアケメネス朝ペルシャ帝国の帝都とされたペルセポリス(Persepolis)攻略こそが重要なポイントになる。それ以降のインド北部への進軍は単に興味だったかも・・。下はペルセポリス(Persepolis)のクセルクセス門(Xerxes' gateway)遺跡は、どこに行ってもこんな感じで荒廃が激しい。巨額なお金をかけて修復する財力も無いからなのだろうが、18世紀後半から欧州で起きた遺跡発掘のブームがより荒廃を後押しをした。19世紀になると個人の金持ちまでもがかってに発掘に出かけ、遺跡はより荒廃する。だから本家の博物館よりもルーブル美術館や大英博物館、またメトロポリタン美術館などの方が状態の良い品があるのである。ルーブルから完品の写真を持ってきていますから見比べて想像して見てもらえるともとの遺跡の美しさが多少なりとも想像できると思います。ルーブル美術館のオリエント部門からペルセポリスからのお持ち帰り品の人面獣身有翼像です。人面獣身有翼像は、人間や動物を部分的に折衷した空想的怪獣です。これらは、メソポタミア文化では古くから用いられたスタイルで、アッカドを経て,アッシリア,アケメネス朝ペルシアに継承された超自然的な威力、魔力を象徴する精霊のようなものだそうです。アッシリア帝国の宮殿にも守護神像として、同じ人面有翼牡牛像のラマッス(lamassu)が一対あったとされ、ペルセポリスのそれは明らかにそれら図像を踏襲したものだそうです。※ 人面有翼牡牛像は、アッカド語でラマッス(lamassu)と呼ばれる。知性を象徴する人の頭部,鳥の王鷲を模した両翼。半身は雄牛。豊穣・富を代表する家畜の典型的存在たる牡牛の身体(蹄)を持つが、時に足はかぎ爪となり、超絶的な威力・魔力を表現する場合もある。かぎ爪は砂漠の支配者たるライオンの意匠となるのだが、ペルセポリスのそれはルーブルと同じ蹄。因みに、大英博物館にあるラマッス(lamassu)の足はかぎ爪である。話がそれるが、参考までに大英博物館のかぎ爪のラマッス(lamassu)も紹介しておきます。大英博物館のそれはアッシリア帝国の首都ニネヴェ?からの出度品らしい。いずれも足が5本なのは視覚的表現の問題だそうです。書きながら横道にそれて、さらに迷走していたので長くなってしまいました。一応を交易をタイトルにしたので次回アレクサンドロス王の遠征以降の交易路を紹介して、後にポルトガルが喜望峰回りの航路を発見し、各国の東インド会社設立の大航海時代の交易に及ぶストーリー展開で行く予定です。(それは壮大なストーリーの最後です) 次回リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスBack numberリンク 静物画にみるメッセージリンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリス アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィンまだまだつづく
2019年04月01日
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今回はナポレオンの死にまつわる毒物説についてである。ナポレオンの死の直接原因は医療ミスではないか? と言う結論に(前回)達っしたが、そもそもナポレオン自身が違和感をいだいていた原因不明の病気とは何か?後世、ナポレオンの物とされる頭髪からヒ素が検出された事と医者が書いた論文により「ナボレオン ヒ素毒殺説」がなんとなく定説化されてしまった。そして、考えられたのがワインに毒を盛った説である。桐生 操 氏の「ナポレオンは殺された」によればナポレオンがセントヘレナに同伴したモントロン将軍が刺客であり、南アからのワインに入れられて、少量ずつ盛られたのではないか? と言う考察。しかし、近年の研究では環境による慢性ヒ素中毒の可能生も指摘されている。それはワイン毒殺説よりも自然なヒ素中毒説である。「ナポレオンは殺された」のワイン説では、ナポレオンが毎食飲む数あるワインの中から多量に摂取しないワイン。すなわち少ししか飲まないワインをさぐりあてている。また犯人と考え抜かれたモントロン将軍は確かにナポレオンの飲食に毒を盛るのは可能。しかしその動機については確証が全くなく、どれも想像の域を出ない。全体によくぞここまでこじつけたな・・というのが正直な感想である。実は、もう一方の環境説が出てきたのは近年の事。今になって昔の事がいろいろ科学的に解明されてきたからなのであるが、驚くことにヒ素中毒はナポレオンに限った事ではないようなのだ。調べてみると1800年代という時代はいろんなところにヒ素が含まれた工業製品があふれていたのである。その諸悪の根源を中心に紹介します。ナポレオン(Napoléon) 3 ヒ素中毒説とParis Green定説化されたナポレオン毒殺説と慢性ヒ素中毒セントヘレナは高湿の島美しいグリーンの顔料の発明とナポレオン汎用されていたヒ素入りの顔料ナポレオンヒ素中毒説日本のヒ素事情微量成分とは言え、ヒ素は長く継続して摂取すれば慢性ヒ素中毒になる。ヒ素による人の致死量は100~300mg。だから例えば1mg/㍑高濃度のヒ素が含まれた地域の飲料水を毎日摂取しいてもすぐには気づかないのである。知らずに自分が汚染されて何か症状が出た時に初めて解る?しかも、ヒ素の特性として、化合物の違い、摂取した量や期間の違い、また体内へ取り込まれる経路の違いに応じてそれぞれ異なった毒性(症状)を現すらしい。つまり非常に多様性ある毒なので中毒患者でも人により症状が違うらしいからなおさらである。そんな事も今の医学ならカルテを見るだけで言い当てる医者もいるのだろうが、当時はまだそんな専門医もいないし、法医学者の意見はバラバラだったらしい。※ 当時はヒ素による毒殺を法廷で立証するのは至難だったらしい。澁澤龍彦氏の著「毒薬の手帳」によれば19世紀はヒ素による毒殺事件がたくさん伝えられている。昔から証拠がわかりにくい毒殺は犯罪者に好都合。中でも安価なヒ素は多かったらしい。中世以降、欧州ではヒ素化合物が政争や怨恨による毒殺の道具として盛んに使われるようになったと言う。さらに氏の著によれば毒殺加害者には女性が多かったらしく、中でも最も好まれた毒がヒ素だったそうだ※ ニコチン、モルヒネ、ストリキニーネ、ジキタリン、燐(リン)等の毒は高級な犯罪だったらしい。19世紀、ヒ素はネズミ駆除剤として出回っていたのでどこにでもあり、誰にでも手が届いたのだ。下はウイーンの王宮宝物館で見つけたナポレオンの肖像画です。(以前紹介した写真です。)ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte、1769年8月15日~1821年5月5日)1805年、ナポレオンが建国したイタリア王国の初代国王に就任した時の肖像画。当時36歳。2017年01月「ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠」リンク ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠ところで、ナポレオンの場合、それは飲料による摂取ではないと思われる。犯人は空気中に漂うトリメチルアルシン (CH3)3As のような有害な有機ヒ素化合物の可能性が極めて高い。それらは、ヒ素を好むカビ菌の仕業で生成された有害物質である。ではヒ素を好むカビ菌とは?その正体はスコプラリオプシス・ブレビカリウス(Scopulariopsis brevicaulis)それ自体は一般の自然環境に広く生息する真菌らしい。要するにカビ菌がヒ素を空中に解き放ちそれを吸った者達が犯されると言う事だ。前回セントヘレナ島でナポレオンが暮らしていたロングウッド・ハウス(Longwood House)を紹介しているが、今回も同じハウスであるが、ちょっと趣が違う。曇天の陰気なロングウッド・ハウスである。※ この写真もウィキメディアから借りてきました。セントヘレナは高湿の島日記に、彼らはカビに悩まされていたとあったので、降雨が多いと思っていましたが現在の気象では曇天が多い島のようです。前回気象のデータをのせましたが、同じ諸島の隣の島と取り違えていたようです。m(_ _)mジェームズタウンの気象データでは 1 年を通して風が強く、気温は 17°Cから 23°C。降水量は少ないが曇天が多く年間通して高湿。夏は蒸し蒸しの島らしい。※ ナポレオンの住まいはセントヘレナの山の上。港のあるジェームズタウンとは実際かなり違うかもしれませんが、参考にのせます。セントヘレナは南半球にあるので日本とは夏冬が逆転。冬の期間の7月8日頃~12月28日頃まで 5.6 か月間は特に風が強く、曇天が多い。雨は少ないが高湿。1 年で最も寒いのが 9月。平均最低気温が 17°Cくらい。夏の期間の1月3日~ 5月15日頃の 4.4 か月間は、1 年間で最も湿度の高い期間にあたる。快適性レベルは少なくとも 21% の間、蒸す、蒸し暑い、または不快。 1 年間で最も蒸す日は、3月11日で 85% の確率で蒸す。※ Weather Spark ジェームズタウンにおける平均的な気候 よりナポレオンの衰えがひどくなるのが夏のピークを過ぎる頃。セントヘレナの夏の蒸し暑さはよりカビを増殖させた。具合が悪く部屋にこもるようになったからヒ素中毒も加速して行ったのかもしれない。ではカビが好んだヒ素はどこにあったのか? という事だが、案外それらはナポレオンの身の回りにたくさんあった可能性がある。美しいグリーンの顔料の発明とナポレオン唐突ですが、ナポレオンの好きな色はグリーンでした。下はフォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)のナポレオンの寝室です。2017年02月「ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式」で紹介しています。リンク ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式ナポレオンのベットの天蓋もグリーン。家具類のテキスタイルもグリーンベースの植物です。18世紀、今までに無い美しいグリーンが発明された。それはナポレオンのみならず、瞬く間に欧州で人気となり爆発的に売れて流行したのである。初期の顔料には天然の鉱物が使われていたがそれらは高価。そしてさらに色を求めた結果、いろんな科学反応による合成物が誕生している。それらは中世の錬金術師などの得意技だったかもしれない。18世紀から19世紀はたくさんの発明により顔料が増えた時代なのである。少し以下に紹介する。1778年、シェーレ(Seheeie)が亜ヒ酸銅を主成分とする緑色顔料(シェーレ・グリーン)を発見。1797年、フランスのボーケラン(Vauquelin)はクロームを発見。クロムの発見で広範囲の色が出せるようになり、これは顔料史上のエポックとなる。1780年コバルト・グリーン合成。1782年亜鉛華(ホワイト)合成。1800年、ミティス(Mitis)、エメラルドグリーン発見。1802年コバルト・ブルー合成。1817年ストロメイヤー(Stromeyer)によるカドミウム・イエローの発明。1824年ギメー(Guimet)による人造群青の発明。1858年ギネー(Guignet)によるビィリジアンの発明。※ 年表資料は、共立全書「顔料および絵の具」と中央公論美術出版「絵の具の科学」から抜粋。今までに知られなかった新しい金属の発見と研究により新しい顔料が急速に出現しだす。しかもこれらは、安価な上に絵の具の耐久力も強い。高価な天然顔料は人造顔料に取って代わったのである。中でもグリーンの顔料は活気的だった。特にシェーレ・グリーン(Scheele Green)とパリス・グリーン(Paris Green)の発明はセンセーショナルだった。それ以前は暗色の緑しか無かったからだ。シェーレ・グリーン(Scheele Green)は 1775 年(1778年とも)、スウェーデンの著名な化学者 Carl Wilhelm Scheele (1742年~1786年)の手により発見。明るく美しい若草色。ちょうど抹茶のような緑の顔料だ。しかしそれは亜ヒ酸銅が主成分になっている。亜ヒ酸銅塩(CuHAsO)三酸化二ヒ素と硫酸銅を炭酸カリウムと共に反応させると沈降してできるらしい。しかもヒ素と銅の調合次第で色の幅は広かったそうだ。もちろんこれは爆発的に売れたらしいがシェーレ・グリーンには黒化しやすいと言う難点があり、後にパリス・グリーン(Paris · Green)が開発されるとそれにとって代わられる。パリス・グリーン(Paris Green)はシェーレ・グリーンから派生したエメラルド色の緑だが、シェーレがレシピを公開しなかった為にオリジナルになっている。オーストリアの技術者Ignaz Edler von Mitis (1771年~1842年)が1800年(1805年とも)が合成。酢酸銅(II)と三酸化二ヒ素から作られたアセト亜ヒ酸銅。※ パリスグリーン、エメラルドグリーン、日本では花緑青(はなろくしょう)として知られ明治期に日本にも入っている。※ Cu(C2H3O2)2·3Cu(AsO2)21808 年に工業生産が始められると、その鮮やかな緑色からパリス・グリーン(Paris Green)は瞬く間に人気となりしかも長く売れるのである。フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)にあるナポレオンの執務室。まさにこの部屋の壁と寝台の天涯はパリス・グリーン(Paris Green)です。色鮮やかに染まるので綿や麻の染色に使われていた。そもそも、それ以前に緑の顔料と言えば塩基性炭酸銅の孔雀石(マラカイト)やヴェルディグリ(塩基性酢酸銅)から造られる暗緑色の素材しかなかったので、目の覚めるような色鮮やかなグリーンに皆、魅了されたのである。ヒ素から造られた恐ろしい顔料なのに最も白色は鉛。黄色はカドミウム、赤は水銀とか人工顔料は今じゃ考えられない毒物のオンパレードだけどね特にシェーレ・グリーン(Scheele Green)やパリス・グリーン(Paris Green)は英国のビクトリア朝時代にはウィリアムモリスの壁紙(植物モチーフ)が爆発的に流行した為に多用されている。これによりヨーロッパの壁紙産業は飛躍的に成長し、イギリスの壁紙生産量は、1830年~1870 年には30倍に伸びたと言う。ナポレオンの死後、産業革命は本格化するが、それ以前から科学の予兆は始まっていたのである。産業革命は労働力と素材のコストダウンが行われて成立しわけだが、同時にそれは人の健康を脅かす公害物質の誕生であったと言う事になる。海外版のウイキメデイアから借りてきました。案の定やはり塗料に遣われていますね。1858年、ロングウッド・ハウスと墓の谷は総額7100ポンドでフランス政府に売却されたらしい。セントヘレナに行く前からグリーンに囲まれていたナポレオンであるが、さらにセントヘレナでもグリーンの壁紙、グリーンの天蓋(てんがい)、グリーンの塗料に囲まれた生活をしていたようだ。セントヘレナのロングウッド・ハウスは公開されていて、ネットでも間取りから内部の写真が確認できた。※ サイト主はおそらくsainthelenaisland.info、「Longwood House Napoleon’s residence」かなり写真が公開されているのでリンク先を下にのせます。リンク Longwood House Napoleon’s residence因みにパリス・グリーンを用いた壁紙を貼った部屋は、湿ると鼠のような臭いを出し奇妙な病気が発生していた事から学者による訴えもあったらしいが取り合ってもらえなかったらしい。その為に長く汎用され、アメリカでは19世紀までで、以降はネズミ駆除剤に限られたが欧州では第二次大戦頃までのこっていたらしい。汎用されていたヒ素入りの顔料ところで、亜ヒ酸銅を主成分とする顔料が使われていたのは壁紙だけではない。当然油絵の具の素材であり、絵画に使用されている。明るいグリーンを好んで使用していたのは例えばゴッホやゴーギャンなど印象派の画家達である。印象派の彼らにこれは願ってもない色であった。ゴッホやゴーギャンの絵にその使用が認められているが、意識して見て見ると、いろんな画家達が使用していた。ゴッホによるポール・ゴーギャン(赤いベレー帽の男) 1888年。ゴッホ美術館。1888年、ゴッホとゴーギャンが南仏アルルで共同生活をしていた時に描かれた作品のようだ。まさにシェーレ・グリーン(Scheele Green)とパリス・グリーン(Paris Green)がメインのように使われた絵である。オルセー美術館所蔵のゴッホ自陣の自画像背景はパリス・グリーンにホワイトを混ぜた絵の具が使用されていると思う。顔の陰影はシェーレ・グリーン。ゴッホ美術館(本から)ゴッホの椅子 1888年バックの緑は間違いなくシェーレ・グリーンですね。それにカドミウム・イエローが使用されていると思われます。カドミウム・イエローの発明は1817年ストロメイヤー(Stromeyer)による。ゴッホの精神疾患ももしかしたらヒ素のせいでは? と考えている人もいるようです。他にもマネやセザンヌなどもそうだ。彼らが陰影に使用している緑の絵具がパリス・グリーンだと思う。また、シェーレ・グリーン(Scheele Green)は、塗装用のペンキとして、木船の船底塗料にも利用されているし、ネズミ駆除の観点から家の塗料にも利用されている。ナポレオンがセントヘレナに渡航する為に船にいた期間は出帆8月9日から到着10月14日の67日目間に及ぶ。船でも飛沫を吸っていた可能性は十分ある。さらにナポレオンの住まいであったロングウッド・ハウス(Longwood House)の柱にも塗られている。何しろパリス・グリーン(Paris Green)はコロニアル・カラーとして植民地の家屋敷で多く使われていたはずなのだ。下はオルセー美術館に所蔵されているエドゥアール・マネ「バルコニー」(1868年~1869年制作)絵画の中のバルコニーの塗装や窓枠にパリス・グリーンが使用されている。植民地は西回りも東回りも熱帯性で多湿の所が多いからネズミよけには最適であったはず。※ 現在のファッション界の「コロニアルカラー」は、植民地当時の人々が着ていた麻服などの色に由来しているらしいが、本当のコロニアル・カラーはパリス・グリーンである。他にも薬としても利用されていたし、ワックスキャンドル用、さらには子供用のおもちゃにも使用。ビクトリア朝時代には、酢と石灰にヒ素を混ぜて白粉(おしろい)を造り顔に塗っていた人もいたそうだし、もっと恐ろしいのはシェーレ・グリーンは、グリーンブランマンジュのような菓子の食用顔料として利用されていたとか。ナポレオンヒ素中毒説あえてナポレオンにヒ素を盛らなくてもヒ素中毒であったのは間違い無い。ではなぜ回りの人は大丈夫たったのか?当初のメンバーで、最後までナポレオンの側にいたのはベルトラン伯、モントロン将軍、第一従僕のルイ・マルシャンであるが、ベルトラン伯は、そもそもロングウッド・ハウスに同居していない。モントロン将軍とルイ・マルシャンの健康状態は不明であるが、ナポレオンが一番部屋に引きこもっていた可能性は高い。何しろナポレオンはパリの陸軍士官学校以来の読書好き。フォンテーヌブロー宮殿にあるナポレオンの図書館にはナポレオンの蔵書16000冊が所蔵されている。その一部はセントヘレナから回収された本だろう。2017年02月「ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式」ナポレオンの図書館リンク ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式さらに、陰気で多湿な島でナポレオンはほとんど外出も許されなかった。島の総督であった陸軍中将のサー・ハドソン・ロー(Sir Hudson Lowe)(1769年~1844年)は脱走を恐れて馬で走れる範囲も狭めナポレオンが自由に1人で散歩できないようにしていたし、一日に2度士官に顔を見せなければならないなど小うるさい事を言ってはナポレオンを怒らせていた。ナポレオンは外出しないなどの抵抗を見せていたのだろう。誰がナポレオンを殺したか? と言うならこのハドソン・ローの行為は確実にナポレオンの寿命を奪った事になる。ナポレオンが体調不良を訴えるのは来島してまだ2年に満たない頃だ。それは1817年9月オマーラ医師の記録で解っているのだが、後々の見解では、その所見はほとんどがヒ素中毒に当てはまるらしい。ナポレオンが信じ、信頼していたオマーラ医師は翌年1918年8月ローによって島から追い出されてしまう。オマーラ医師がいなくなり、代わりの医師も無く、ナポレオンの体調はより急速に悪くなって行く。※ オマーラ医師は国に戻るとローの批判を始める。それが故、ローの殺人説ができあがったらしい。1818年暮れから始まる極度の冷え性。体の冷えは1821年亡くなる2ヶ月前にピークに達しているが、ナポレオンが島に来たのが1815年10月15日。1821年5月5日に亡くなっているが、1817年から体調不良が始まり、1818年末にはかなり悪化。1819年になると失神を繰り返し両足の冷えが改善されず、水銀の丸薬を丸飲みするようになる。すると脇腹に激痛が始まり顔は蒼白に。体調不良で外出ができなければカビの生えたパリス・グリーンの壁紙から発した有機ヒ素化合物のトリメチルアルシンがよりナポレオンを攻撃し続ける。1821年5月までよく持ちこたえたものだと思う。それにしても島に来てほとんど体調不良だったわけで、暗殺説もわかるが、極度に弱って行くナポレオンにヒ素を盛り続ける理由も無い気がするのだが・・。ヒ素を誰かに盛られていたのか? 環境によるヒ素中毒なのか? 両方なのか?セントヘレナの気候もまたナポレオンの死因における要因の一つだったのは間違いない。日本のヒ素事情ヒ素は、日本でも戦国期から石見国で産出されている。石見銀山ねずみ捕り(いわみぎんざんねずみとり)と言う言葉が今に残るほど有名なネズミ駆除剤となる砒石(硫砒鉄鉱)が産出される場所である。※ 実際は銀の鉱山の方ではなく、亜鉛や銅の採掘鉱山であった石見国笹ヶ谷鉱山である。元禄期には石見銀山より採掘量がまさり石見ブランドの殺鼠剤として知名度が上がったらしい。下はヒ素を含む硫化鉄鉱ヒ素は地球を構成する元素として天然にも広く存在している物質発見以来、農薬や駆虫剤や防腐剤、防カビ剤としても使用され続けているし今も半導体やプリンターの生産過程で使用されている。毒性の強いヒ素であるが、そこそこ貴重な存在のようですね。ナポレオン(Napoléon)おわります。m(_ _)m リンク ナポレオン(Napoléon) 1 ワーテルロー(Waterloo)戦線とナポレオンの帽子リンク ナポレオン(Napoleon) 2 セントヘレナからの帰還その他ナポレオンリンク ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式リンク ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠リンク フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)
2019年03月07日
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ワーテルローの戦い(The Battle of Waterloo)(1815年6月)後のナポレオンについては案外知られていないのではないかと思い、セント・ヘレナ島(Saint Helena)で亡くなりパリに帰るまでのナポレオンをちょっと紹介しておく事にしました。実はナポレオンと共にセントヘレナ島に渡った者は結構いるのです。特にナポレオンの側近として島に渡った者の中には、記録係もいるし、後に回想録を書く気満々だった人もいて、実際後に回想録が出されたりしているので島でのナポレオンの事は案外伝えられているようです。参考の為にウィキメディアコモンズからパブリックドメインの写真を借りてきていますが、オリジナル写真はパリの写真くらいです。パリの象徴とも言えるエトワールの凱旋門はアウステルリッツ(Bataille d'Austerlitz)の戦勝記念にナポレオンが造らせた記念碑なのです。彼は生きて完成を見る事はできませんでしたが、遺骸が祖国に戻った葬送の時に立ち寄っています。※ 凱旋門 (Arc de triomphe )の直訳は「勝利のアーチ」振り返れば、三帝会戦となったこのアウステルリッツ(Bataille d'Austerlitz)の戦闘こそがワーテルローの戦いの因縁になった闘いです。何しろオーストリアのハプスブルグ家を屈服させ、1000年近く続いた神聖ローマ帝国を解体。欧州の政治バランスを崩し覇権をフランスがかっさらった闘いだったからです。そしてそれはどう見ても勝利不可能な闘いでした。ナポレオン(Napoleon) 2 セントヘレナからの帰還セントヘレナ(Saint Helena)島当初のナポレオンの随行員ナポレオン最後の家最悪の医者ナポレオンの死因消えたナポレオンの本物のデスマスク遺体の返還請求Retour des cendres(灰の帰還)ナポレオンが造らせた凱旋門ナポレオンの眠るアンヴァリッド(Les Invalides)下にセントヘレナ(Saint Helena)島の位置を示しました。えらく遠くに追いやられてしまったのだと改めて思います実際、アフリカ海岸沿いに南下しギニア湾に入り西に進路をとりセントヘレナに向かった。※ セントヘレナはアフリカの海岸から1900km。ブラジルから3500kmの離島。当時は帆船。風が凪(な)いで航行できず、セントヘレナ沖に到着したのは出帆(8月9日)から67日目(10月14日)。上陸は1815年10月15日。ナポレオンの最初の感想は「気持ちの良い場所ではない。これならエジプトに残っていた方がましだった。」※ 遠征先のエジプトを密かに脱出し、フランスに戻りクーデターを起こしてナポレオンは皇帝になっている。ノーサンバーランド(Northumberland)号での航海の途中大砲に寄りかかるナポレオンNewcastle University のUniversity Library Special Collections から見つけました。※ この絵の複製は大量に販売されているようです。画家デヴッドにより大分美化された絵で宣伝されていたナポレオンですが、実際は170cmない小柄。しかも晩年は小太りしてずんぐりむっくり。一番リアル画像かもしれませんね。それにしても、哀愁(あいしゅう)感がハンパ無いセントヘレナ(Saint Helena)島島の発見は1502年。ポルトガル人によって発見され、島はヨーロッパとアジアを往復する船舶の寄港地として使われていたらしいが、本格的に入植するのはイギリスの東インド会社が補給基地としてかららしい。1660年の王政復古後、王(チャールズ2世)からの特許状を持って東インド会社は島の要塞化と植民地化を進めていた。※ 1658年建設された砦が現在のジェームズタウンそんな経緯があったから、当時の住民のほぼ半分はアフリカからの黒人奴隷だったそうです。ナポレオンが来る頃は広東貿易の寄港地として活用。当時の島の住人は5800人くらい。つまりセントヘレナ島はイギリス東インド会社が所有する大西洋上の船舶寄港地であった。下の写真は1790年の東インド会社支配下のセントヘレナ島とジェームズタウンの港を描いたエッチングです。ウィキメデイアからかりてきました。セントヘレナ島には砂浜の海岸が無い。1815年、この島にノーサンバーランド(Northumberland)号を旗艦として12隻の艦隊でナポレオンは来航する。ナポレオンを警備する名目で島には海陸の将校2181名が増えたらしい。とんでもない数である。捨て置かれた身のナポレオンにここまで経費を費やすか? とさえ思ったがやはりそれだけ大物だったと言う事なのだろう実際、英国政府はナポレオン派を警戒して島には部隊が駐屯したほか、海軍の艦船が島の周辺を警戒。また、隣の島であるアセンション島やトリスタンダクーニャ島にも英軍が派遣され警備。3000人の監視がついたとも言われている。※ナポレオンの死後、彼ら数千人の滞在者は島を去った。セントヘレナ島でのナポレオン (ウィキメディアから)ナポレオン救出の為に急襲されるのを恐れてか? 島には常に5隻の艦船がいたし、島の15カ所にナポレオンの状況を監視する信号所が設けられていた。散歩中、睡眠中などいちいち報告されていたようです。当初のナポレオンの随行員英国政府の計らいで、ナポレオンは3人の随行武官を選任する事ができた。武官の家族も一緒に同行。ベルトラン伯(42)・・皇帝の副官でエルバ島にも同行していた。妻ファニー。グールゴー男爵(32)・・砲兵科出身の将軍。ナポレオンを崇拝。モントロン将軍(32)・・1809年からの侍従。ナポレオンがエルバ等に流された時はルイ王朝に走り、戻ってくると再びナポレオンの元に。妻アルビーヌ。島で妊娠して出産。ナポレオンの子ではないかと考えられていたが、その子も亡くなってしまった。娘の名はジョセフィーヌ。ラス・カーズ(49)・・書記兼通訳として特別に追加。ナポレオン帝政下で枢密顧問。ナポレオンの回想録を書く気で参加。父子で参加。オマーラ(33)・・英国の海軍外科医召し使い10人・・オマーラ,ルイ・マルシャン,アリ・サン・ドニ,ノヴェラス,サンチーニら。※ 祖国フランスに残った将校らは軍法会議にかけられて処刑、投獄、流刑されている。セントヘレナでのナポレオンの住まいだったロングウッド・ハウス(Longwood House)ウィキメディアでパブリックドメインになっていた写真です。部屋室は36室。ナポレオンの住居には5つの部屋があったらしい。現在のロングウッド・ハウスはフランスがイギリスより買い取りして博物館になっているらしい。ナポレオン最後の家当初は副総督の別荘だった所を改築、ナポレオンに侍従してきた3将軍やその家族、召し使い10人、侍医、通訳などナポレオンを取り巻く人たちの家は増設され、それなりの屋敷にはなっていたようです。私たちの認識では今まで捕虜的な過酷な暮らしかと思っていましたが、行動範囲が恐ろしく限られていた事などを除けばフォンテーヌブロー宮殿の延長的な暮らしぶりだったようです。コックも居るし、ワインなども欧州や南アから美味しいのを取り寄せていたようです。何しろ貿易の寄港地なのだから結構いろんな物が得られたかもしれないですね。上の写真では清々しい感じですが、セントヘレナは気温的には悪くないようですが一年を通して曇天が多く、カビの繁殖はひどく夏には耐えられない蒸し暑さとなったようです。※ 天気の引用資料をミスりました。当初降雨が多いとしましたが、実際は降雨は少ないけれど、一年を通して曇天が多く、湿度が高く蒸す日が多かったようです。日記にカビになやまされたとあったので露点は高くカビが繁殖したようです。引用を隣の島から持ってきてましたm(_ _)m※ セントヘレナは南半球です。夏のピークは3月ナポレオンは5月5日に亡くなったので、夏の終わり湿度は高い時期のようです。故遺体の腐敗は早く進み2日後にデスマスクをとろうとした時にはすでに困難な状況にあったようです。病床のナポレオン これもウィキメディアからですが、ポピュラーな絵です。ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)(1769年8月15日~1821年5月5日)最悪の医者島の総督であった陸軍中将のサー・ハドソン・ロー(Sir Hudson Lowe)(1769年~1844年)は、ナポレオンが逃げたら自分の責任。さらに殺されでもしたら一大事。その為に必要以上にナポレオンの行動に口を出し、ナポレオンを悩ませる元凶になった男。何より、サー・ハドソン・ローの罪はナボレオンの主治医を島から追い出した事。そして具合の悪くなったナポレオンの為に適切な医師を用意しなかった事。真の医者がいなくなり、ナポレオンの健康状態は悪化。困ったナポレオンは母に頼みコルシカ島から医者を呼んだ。それがナポレオンの最後を看取った医者アントンマルキ(Antommarchi)でありデスマスクの制作者である。が、ナポレオン自身は彼をヤブ医者と呼んでいたそうだ。※ François Carlo Antommarchi(1780年~1838年)※ アントンマルキも後に本を出している。ナポレオンはアントンマルキが無理に飲ませた当時の催吐薬(さいとやく)である吐酒石(としゅせき)により胃を余計に悪くしてしまう。飲んですぐに粘液を吐き出すほどに悪くなったのにさらに医師は吐酒石(としゅせき)を飲ませている。そして一日に何度も嘔吐を続ける状態に陥ったようだ。※ 吐酒石(としゅせき)・・・酒石酸アンチモニルカリウムの別称(K2Sb2(C4H2O6)2)「ナポレオンは殺された」よりすでに胃が食を受け付けなくなり弱り切った時に今度はイギリス人軍医により便秘の薬と言う理由で甘汞(かんこう)を飲まされる。その量は通常の10倍。甘汞(かんこう)は塩化水銀( Hg2Cl)。ナポレオンがいつも飲んでいたビターアーモンドの入った麦糖液と作用してシアン化合物が生成。2日(5月3日と4日)にわたり飲まされたナポレオンはタールのような物を排出したそうだ(上から出たのか下から出たのかは不明)そして5月5日に息を引き取った。※ これだけ見れば今で言う医療事故が引き金といえる。でもそもそもは体調の悪い何かがあってのこれら薬である。Death mask of Napoleon(ナポレオンのデスマスク) ウィキメディアから借りてきました。パリの軍事博物館に展示されているこのマスクはアントンマルキ(Antommarchi)の子孫の寄贈のマスクらしいです。ナポレオンの死因公式にはナポレオンの死因は胃がんと公表されている。それは先に紹介した島の総督であった陸軍中将のサー・ハドソン・ロー(Sir Hudson Lowe)が、半ば強制的に胃がんで処理したかったからだ。万が一にも毒殺であればローの失態。責任問題である。持病でケリをつけて早く埋葬して隠したかったと言う事情があった。何しろナポレオンの体調が悪いので早く本国の医師に診てもらいたいと言う希望をローが退けてきた経緯がある。まさか本当に病気だったのか? あるいは毒殺だったら?・・と彼はおののいたのだろう。実際、ナポレオンの死の原因は何か? は非常に大きな問題である。今の科学で検査すればすぐにわかる事なのだろうが、フランス政府は遺骸の再調査の許可を出していない。※ その理由についてはまた色々ある。遺骸はナポレオン本人ではないかもしれないと言う不安もあるだろうが「胃がん死」が一番無難なのだろう。何にせよナポレオンの解剖はことのほか早く(24時間以内)に始まった。解剖医はアントンマルキ含む英国軍医の7人。胃の幽門あたりに潰瘍はあったらしいが、ガンが原因でない事だけはすぐにわかったらしい。問題は肝臓の肥大。しかし、これはローによって削除させられ本国には隠された。ところで ナポレオン胃がん説は、ナポレオンの父と妹が胃がんであった事から出た話であり、ナポレオン自身は生前これは胃ではないと否定しているし、「死んだら必ず解剖してくまなく調べて欲しい」と口癖のように言っていたそうだ。ナポレオン自身が不可解な体調不良に不審を感じていたのは間違いない。因みにこの時、ナポレオンの遺言で心臓が取り出され銀の容器に移されてからマリー・ルイーズに送られるはずであった。以前ハブスブルグ家の分割埋葬のところで心臓の事を紹介しているが、マリー・ルイーズがナポレオンの心臓を自分の棺に入れて眠ってくれるだろうと信じていたのかもしれない。ちょっと哀れだマリー・ルイーズは浮気して相手の子を身ごもり、ナポレオンとの間に生まれた皇子さえ捨てて、もはや完全にナポレオンの事なんか忘れていただろうに・・。※ 2018年6月「ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓」で心臓の保存について書いています。リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓消えたナポレオンの本物のデスマスクマスク造りを主導したのは英軍の六十六連隊外科医であったフランシス・バートン博士(Dr. Francis Burton)だったようだ。一応主治医であったアントンマルキであるが、彼は途中から補佐に入っただけ。バートン博士はデスマスクと胸像を作ろうとして、石膏が足りず、結局、顔面と頭頂部と頭の後ろの3つの部位の型を造り、後はパリで良質の石膏を手に入れてから作り直す予定だったと言う。ところが乾燥させている最中に肝心の顔面だけが持ち去られてしまった。理由は、すでに腐敗を初めていたナポレオンから型取りした顔ではあまりに醜く関係者には不満だったらしい。つまり当初制作したバートン博士のナポレオン像の型は消え、後にアントンマルキが別の若々しいナポレオンのデスマスクを造るに至ったようだ。※ 本当にアントンマルキが造ったかはわからない。造形師がいたかも・・。※ アントンマルキの新しい型からは6つのマスクが制作されたとされる。バートン博士は当然、自分に返還するよう抗議したようだが、所有権は注文主にあると主張され、最終的には英国政府もさじをなげたようだ。それ故、今出回っているナポレオンのデスマスクは、死後の顔ではなく、かなり美化された美しいナポレオンの顔なのだとされている。そもそも、ナポレオンの肖像画家であったダヴィットの描くナポレオンもかなり美化されて描かれている事は周知の事実。関係者はナポレオンの名誉を守った? と言う事なのだろう。それにしても亡くなったのが5月5日の夜。6日解剖。7日にデスマスクを採る。そして8日には錫(すず)の棺に納められて溶接され、さらにマホガニーの棺に入れられて早い埋葬がされている。わずか2日ほどでナポレオンの体はかなり腐敗。すでにデスマスクを採るには無理があったとされているが、腐敗が進んだ理由の一つは解剖して開いたからだろう。そしてセントヘレナの暑さと湿気も進行を早めたのだろう。だからそれ故、20年後に掘りおこしたナポレオンの遺骸が、ことの外、保存状態が良かった・・と言うのが腑に落ちない。他にも理由はあるがそこに遺骸の取り替え説が浮上し、アンヴアリットに眠るナポレオンは本物か? 説が生まれたらしい。遺体の返還請求当初ナポレオンはセントヘレナのジェラニウム渓谷に埋葬された。本人の希望ではセーヌ川のほとりに埋葬してほしかったらしいが・・。ナポレオンが亡くなったのは1821年5月5日であるが、イタリアに亡命していたナポレオンの母后に知らせが届くのは7月23日。セントヘレナは遠い。ナポレオン自身が67日かけて島まで航行しているのだから・・。8月に息子ナポレオンの亡骸を返して欲しいと言う母の手紙がすくざま英国に送られた。それに対して、英国側は、フランス政府から正式な要請があれば返還の意志ありと伝えたとされるが、王政復古でブルボン王朝に返り咲いているこの時期にナポレオンがフランスに戻ることは不可能だったらしい。事情が変わるのは1840年のフランス7月革命で再びブルボン王朝が打倒されてからだ。ルイ・フィリップが王位に就くとにわかにボナバルト派の中でナポレオンの遺体を取り戻す動きが始まる。フランス政府も再び国民の中で起きているナポレオン人気にあやかるべく、公式に英国政府に働きかけることになった。※ ナポレオンは革命と自由の象徴として人気復活。ヴィクトリア女王も好意的であったらしいが、当時英国とフランスはアフリカ大陸の利権問題で微妙な問題もあった。それ故、この件で両国の平和維持が損なわれる問題になっては困る。お互いに譲歩しなければならない問題も含んでいた。英国としても、棺の中に本当にナポレオンが入っているか? は大きな不安材料だったようだ。確認の為に元の側近、ベルトランらが派遣されるも、万が一偽物であった場合も、英国に怒りを爆発させてはいけないと言い含められたようだし・・。Retour des cendres(灰の帰還)セントヘレナ島から船に荷積み込まれる棺 ウィキペディアから借りてきました。1840年7月7日、ナポレオンを連れ戻すべく船はル・アーブル港を出港。10月8日セントヘレナ島に到着。10月15日ジェラニウム渓谷の墓地で地下埋葬所の発掘が始まる。発掘作業は英国側が、しかも真夜中である。限られた関係者のみが墓に集まり、他の者は船から下りる事も禁じられたようだし、撮影でもされたらたいへんな事?。全てが秘密裏に行われ、棺の中を見ることが許されたのも数人のみ。この厳戒態勢がより皆の不審をかったらしい。さらに疑問の元になったのは1821年の埋葬時と1840年の発掘時の棺の状況の微妙な違い。加えて、英国のジョージ4世がナポレオン信奉者で1820年~25年あたりにナポレオンのミイラとなった遺骸を本国に運びウエストミンスターに置いたと言うまことしやかな話しがある。ここに英国がナポレオンの遺骸をすでに本国に運んでいたので別人でナポレオンの棺を造ったと言う説が生まれたのだろう。1840年12月14日にクールブヴォア(Courbevoie)に到着したナポレオンの棺 ウィキペディアから借りてきました。棺を乗せた船はル・アーブル港からセーヌ河を遡ってパリまで到着。パリではナポレオンは葬列車に乗って市内を移動し凱旋門の下を通過。そしてアンヴァリッドへ。ウィキメディアでパプリックドメインになっていた写真ですですが、元はポスト・カード。ナポレオンが造らせた凱旋門1806年、ナポレオン・ボナパルトの命によって建設が始まった凱旋門の完成は1836年。最初に紹介したように遺骸が祖国に戻った葬送の時に下をくぐり抜けてパレードしていますが、ナポレオンが最初に構想してから王政に移行し、再び共和制に政権が変わっているので、時の事情は建築デザインなどにも影響を及ぼしたようです。その為なのか?新古典様式とうたっている割には微妙。当初は帝政様式でデザインされてもっと装飾も多かったのではないか? と思うのです。ところで、現在は真下が無名戦士の墓碑になっているので車両の通行はできません。凱旋門は他にもありますが、放射状に道の集まるエトワールの凱旋門はナポレオンの葬送で遣われ、後にヴィクトルユゴーの遺体が安置され、第一次世界大戦の同盟国の勝利のパレード等国家的なイベントに利用される場となって行ったようです。無名戦士の墓(シャンゼリゼ方面)こちらもウィキメディアでパプリックドメインになっていた写真ですですが、元はポスト・カード。葬列はアンヴァリッドにもうすぐ到着。ナポレオンの眠るアンヴァリット(Les Invalides)オリジナル写真は外観だけですが、ナポレオンの墓地となっているパリのアンヴァリッドを紹介。これも古い写真ですが、外観は変わらないので・・。正式にはオテル・デ・ザンヴァリッド( L'hôtel des Invalides)1671年にルイ14世が傷病兵を看護する施設として造った軍病院に始まり、廃兵院でもある。現在は一部軍事博物館となっているそうだ。付属の礼拝堂ドーム教会は、もともと聖ルイ(ルイ9世)の遺体安置のために建設された堂。そこに地下墓所が設けられ、ナポレオン・ボナパルト(フランス皇帝ナポレオン1世)の柩が中央に安置され、囲むようにナポレオンの親族や武将の廟が置かれている。Tombeau de Napoléon(ナポレオンの墓)私自身は中に入っていないので、ナポレオンの棺の写真を上下共に、ウィキペディアから借りてきました。建築家ルイ・ヴィスコンティによって設計されたこの墓は1861年に完成。思う以上に立派な葬列をもって葬儀が行われていたようです。まだ終わりませんナポレオンがヒ素に犯されていたと言う問題は次回にその根拠を紹介したいと思います。前作リンク ナポレオン(Napoléon) 1 ワーテルロー(Waterloo)戦線とナポレオンの帽子 次作リンク ナポレオン(Napoléon) 3 ヒ素中毒説とParis Greenナポレオン関連リンク ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠リンク ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式
2019年02月22日
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以前テムズにかかる橋で「ウォータールー・ブリッジ(Waterloo Bridge)」について紹介した事がある。それはアーサー・ウェルズリー(後の初代ウェリントン公爵)率いるイギリス軍がワーテルローの戦い(The Battle of Waterloo)でナポレオンを打ち破った戦勝記念に橋につけられた名前だった。※ ウォータールーは英語読み。フランス語でワーテルローとなる。※ 2013年6月「ロンドン(London) 2 (テムズ川に架かる橋 1)」リンク ロンドン(London) 2 (テムズ川に架かる橋 1)ワーテルローの戦い(The Battle of Waterloo)(1815年6月)は、必ず世界史で習うので聞いた覚えがあると思うが、かのナポレオンが失脚する最後の戦線である。ナポレオンの100日天下と言われ、エルバ島より帰還し、皇帝に返り咲いたのにその皇帝率いる20万のフランス軍が連合国軍に負けてしまった一大事件である。最も相手の連合国は英国、オランダ、プロイセンと打倒フランスの先鋭部隊であったし、数も勝っていたが・・。ナポレオンに勝利した英国やプロイセンの喜びはいかばかりだったか。ウォータールー・ブリッジ(Waterloo Bridge)のように関係の無い土地でも勝利をアピールする名前がつけられたりしているのだから・・。では負けたランス軍の方は?フランス議会はすぐさまナポレオンを切り退位をせまる。幾つかの条件付きでフォンテーヌブローでナポレオンは退位をよぎなくされた。その時のナポレオン最後の演説については2017年「フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)」演出効果バツグンの馬蹄形の階段(ナポレオン別れの中庭)にて紹介しています。リンク フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)当初ナポレオンのおかげで領土を広げ、一時は欧州全土がフランス領になるかと言う大進撃をしていたナポレオン。戦争の天才ナポレオンはフランス革命後の悲惨な国の経済を救った救世主であった。また共和制への秩序ある移行など今のフランスを造った偉人としてたたえられるべき人物であるのは間違いない。しかし、良い時は賛美されたが時の国民はナポレオンを必要としなくなった? 戦争を続けるナポレオンに嫌気がさしたか? 国民はナポレオンを求めなかった。また連合国によりフランスは王党派が返り咲きナポレオンは祖国フランスを出るしかなかった。※ 因みに、今後のフランスにはナポレオンの起こした戦争のせいで賠償金がのしかかる。ワーテルロー後の第二次パリ条約により領土は1790年当時へ縮小。賠償金は7億フラン。さらに監視の為にフランスに駐留する同盟国の軍隊とその駐留経費の負担(最長5年間)の支払いを認めさせられた。かくしてナポレオンが失脚した後、フランスとイギリスは共にナポレオンの処遇に悩むことになる。ナポレオンは英国への亡命を希望したからだ。.フランスの希望は、決してナポレオンを殺してはいけないと言う事。今の危ういルイ王朝ではナポレオンを処刑すれば自分達の命取りになる事を知っていた。一方英国でも脱走されても困るし、また返り咲いたら大変。簡単に戻ってこれない大西洋の小島に追いやり、完全警備の元にナポレオンの命に危険が無いようするのが得策と考えた。これがセント・ヘレナ島(Saint Helena)へ送られた理由である。そう言う経緯を見ると、これは決して流刑ではない。ナポレオンにとってはどちらも同じような事だったろうが・・。※ ナポレオンはそのままセントヘレナ島を出る事なく1821年5月5日に亡くなっている。※ 現在、その死因は慢性ヒ素中毒の上の水銀中毒と考えられている。今回は、ナポレオンとワーテルローと帽子と武具の話しになりました。発端は2018年6月にワーテルローの戦いでナポレオンが使用していたフエルトの二角帽がオークションに出品され高値で落札されていたニュースを見つけた事からでした。この帽子の来歴としてワーテルローの戦いを紹介。写真は古戦場のワーテルローです。流れでワーテルローの戦闘で使用されていたであろう武具を見つけました。結構貴重だと気づき写真を増やしたので後ろが押し出されたのです。ナポレオン(Napoléon)全2回になります。ナポレオン(Napoléon) 1 ワーテルロー(Waterloo)戦線とナポレオンの帽子ナポレオン(Napoléon)古戦場ワーテルロー(Waterloo)戦場の花形 胸甲騎兵(きょうこうきへい)の胸甲(甲冑)ナポレオンの帽子ワーテルロー(Waterloo)でもうけたロスチャイルド家(Rothschild)件(くだん)のナポレオンの帽子は後にして、まずはワーテルローから紹介。古戦場ワーテルロー(Waterloo)当時はフランス領であったが、現在はベルギー王国のブラバン・ワロン(Brabant wallon)州にある。※ ベルギーのほぼど真ん中。正確にはワーテルロー南南東5kmのモン・サン・ジャン(Mont Saint Jean)である。ゲルマン語のwatar(水)と、オランダ語のlots(斜面)、los(草原)に由来していると言うだけあって確かにほぼ今も草原。地平線が見えるほどに・・。写真はかなり前のものであるが、若干観光施設はできてもそんなに景色は変わっていないらしい。元フランス領であったこの地(ブラバント)では英国ひきいる連合軍が勝てばオランダに併合される不満があった。ナポレオン側に付いてくれると期待もあったのだろう。実際、ベルギーは今もフランス語圏である。負けて退位した後もナポレオン人気は高かったのだろう。近年、毎年6月になると有志によるワーテルローの再現イベントが行われているそうだ。そもそもナポレオンの敵は連合国だけでなく、フランス王党派と言う国内にも敵がいた。フランスは一枚岩ではなかったのだから人数も集められず、ワーテルローの敗戦も仕方無かったところがあるな、とは思う。※ フランス軍およそ20万人に対して、連合国はウエリントン率いる英国軍10万、ブリュツヘル率いるプロイセン軍12万、オーストリア軍25万、ロシア軍17万と言われている。ナポレオンは部隊が全部集結する前に、一つずつ片付けて行けば何とかなると読んでいたようだ。※ 参考文献は「ナポレオン帝国の栄光と没落」からしかし、戦いの部隊の展開など、かなり読みが外れて失敗している。感は衰えたのか? 運に見放されたのか? 精彩を欠く戦争だった事など「ナポレオンは終わった。」と、自身も思ったかもしれない。実はこんな何もないワーテルローであるが、この戦いの直後からここを詣でる人が出現して観光地となっている。200年前の当時トーマス・クック(Thomas Cook)はすでにワーテルローを組み込んだパック旅行を出していた。以前ブルージュの所で国の歴史についても紹介しているが、ここから近いブルージュの街は、古戦場ワーテルロー見物のついでに足をのばす場所として復活し、栄えたのである。※ 2014年3月「ブルージュ(Brugge)1(街のなりたち)」の中「死都から古都ブルージュ(Brugge)へ」リンク ブルージュ(Brugge) 1 (街のなりたち)ライオンの丘この平原を見渡すもってこいの高台。モン・サン・ジャン(Mont Saint Jean)にある通称「ワーテルロー・ライオン」激戦区であったモンサンジャン(Mont Saint Jean)につくられた、高さ45mの塚はオランダ国王が造らせた物。ワーテルローに参戦していた第1軍団長オラニエ公ウィレム(後のオランダ王ウィレム2世)が負傷したとされる場所に戦勝の記念と戦死者の冥福を祈るための塚として建設された。ライオンの像は、フランス軍が残した大砲を鋳潰(いつぶ)して造くられたそうだ。ナポレオン軍 vs 英国軍ウエリントン&プロイセン軍ブリュッヘルそういえばナポレオンは砲兵科の出身であり、大砲を用いた戦術に長けていた。18日、最初のウエリントンとの対戦では騎兵は互角。大砲の数でははるかに勝っていたと言う。砲撃と突撃を繰り返し行ったが、ウエリントンは防御戦にかけては一流。時間がかかりすぎた?そうこうしている時にプロイセン軍のブリュッヘルがナポレオン軍の側面から牽制。ウエリントンは逆転に転じ攻撃。ブリュッヘルに追撃され勝敗はこの戦いで決まってしまった。そもそも今回の戦いは、このベルギー戦で、ウエリントンとブリュッヘルを押さえられるかが鍵だったので。階段は226段。台座にはこの戦いが行われた日付が刻まれている。 XVIII JUNI MDCCCXV(18 JUNI 1815)ワーテルローの戦闘絵図下の絵のみ 画家 William Sadler (1782年~1839年) ウィキペディアから借りてきました。大砲こそあったが、まだ騎馬の戦闘だったようです。先ほどふれましたが、砲撃と突撃を繰り返すと言う攻略の中でも、騎兵による集団突撃を特にフランス軍は重視したと言います。その突撃の先陣を切るのが胸甲騎兵(きょうこうきへい)です。ナポレオンの戦略の中では最も大事な部署で決め手の一線で投入。一見、中世の甲冑を身にまとった選ばれし騎兵は最強の騎兵で、当然花形だったそうです。ブリュセル軍事博物館に、これら衣装や武具が展示されていました。今、振り返れば、ナポレオンが戦った時代の物だった?ベルギーはフランス語圏。こちらの武具のコーナーはほぼ解説も無し。英語の表記など皆無。このコーナーはもしかしたらワーテルロー等での戦いのコレクションルームだったのかもしれない。ナポレオン時代の大砲戦場の花形 胸甲騎兵(きょうこうきへい)の胸甲(甲冑)甲冑(かっちゅう)は結構見てきましたが、他で見た記憶がなく、甲冑図鑑にも無いので知りませんでしたが、胸甲騎兵自体の登場は30年戦争あたりかららしい。それは拳銃の登場によって戦い方が変わった事によるようです。胸甲騎兵(きょうこうきへい)の胸甲は、近代戦の甲冑だったわけで、中世のプレートアーマーとは構造で別物でした。フランス式の胸甲(French cavalery armour)銃に対抗する為にプレートアーマーはより防御力を持たせる。装甲は厚く、でも重すぎるので従来の甲冑よりも防御面積を減らす。かつ動きやすさも加味してこのような胸とヘッドの甲冑になったようです。ドイツ製鉄鋼のそれは頑丈で致命傷を免れるほどだったそうです。上半身を包む形の胸甲花形の甲冑だけあって実用と装飾が融合しておしゃれ感があります。下二つは冑(かぶと)です。解説がなかったのでわからないですが、上のNマークはナポレオン????のわけないか・・下の冑の雷(いかづち)を掴むワシもナポレオンの意匠ではありますが・・。二丁のピストルを装備して敵の隊列に突っ込み進路を切り開く胸甲騎兵もいたらしい。何にせよ、フランス軍の胸甲騎兵はナポレオン時代最強の騎兵だったそうです。玉を見るとどれだけの破壊力があったのか興味ありますね。下はサーベルや銃で作られたオブジェでしょうか? なかなかセンスある展示方法です。他では見た事ないかも・・。下はナポレオンの帽子かもしれません。隣にナポレオンの肖像がかけられていたので・・。下の肖像画、共にブリュツセルの軍事博物館で撮影ナポレオンの帽子2018年6月にオークションに出品されて高値で落札された帽子はこちらフランス東部リヨンで展示されたフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトのものとされる二角帽子※ ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)(1769年~1821年)AFP BBニュースからオランダの将校が1815年にワーテルローの戦いで戦利品として持ち帰ったとされている。当初の落札見込み価格は3万~4万ユーロ(約400万~500 万円)であったが、結果は日本円にして4500万円(50万ユーロ?)で落札されたらしい。4年前に競売に掛けられたナポレオンの別の二角帽子の落札額は190万ユーロ、当時の為替レートで約2億7000万円)には遠く及ばないが・・。今回はコンディションがかなり悪いから仕方ないらしい。ところで、同通信の資料によればがナポレオンが帝位にいた15年にフランスの帽子職人プパール(Poupard)に120個もの帽子を作らせているらしい。が、そのほとんどは不明。素材はビーバーの毛皮を使った黒いフェルト製の二角帽子であるが、TPOによりいろんな帽子を使い分けていたと思われる。本来、二角帽子は縦向きで着用するが、ナポレオンは好んで横向きに着用。遠くにいてもすぐに見つけられたと言う。それも戦略だったのか?下はウィキペディアから借りてきた写真です。近衛猟騎兵大佐の制服を好んで着用したらしい。ワーテルロー(Waterloo)でもうけたロスチャイルド家(Rothschild)戦争は経済を動かす。その為に仕掛ける場合もあるが、このワーテルローの戦いで、ロスチャイルド家か大もうけしている。「ワーテルローの勝戦」について、公式発表よりも情報を早く入手した銀行家のネイサン・メイアー・ロスチャイルド(Nathan Mayer Rothschild)(1777年~1836年)は売ってコンソル公債を暴落させた所で買い戻す。と言う意図的な株価操作をして莫大な利益を得たと言われている。公式に戦勝報告が出れば株価があがる事を知っていた。あえて負けの様相を示して暴落させての行為。インサイダーに近い手法でのやり口であるが、ロスチャイルド家の情報収集力はハンパ無かったと言う事だ。このネイサン・メイアー・ロスチャイルドこそが莫大な資産を有する実業家ロスチャイルド家の祖である。最後にナポレオンの眠るパリのアンヴアリット(Les Invalides)を加えるつもりでしたが、ナポレオンの死について追加したくて独立させました。アンヴアリット(Les Invalides)は次回に。つづく ナポレオン続編と関連リンクてす。リンク ナポレオン(Napoleon) 2 セントヘレナからの帰還リンク ナポレオン(Napoléon) 3 ヒ素中毒説とParis Greenリンク ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠リンク ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式リンク
2019年02月11日
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ただ今大阪に滞在中です。一週間がなんて早い事か・・昨日は久しぶりに京都嵐山に行ってきました。昨年行きそびれた嵯峨帝の御所だった大覚寺が目的だったのですが、大覚寺は利便が悪い割に結構混んでいたので驚きました。それも若者(女子)がものすごく多かった。(・_・?)はて?その理由がなんと刀剣育成シュミレーションゲーム「刀剣乱舞」のキャラとなる薄緑(膝丸・ひざまる)と言う名刀がこの寺に伝わっていたからだそうで、美形の青年と化した刀の出身地をめぐるスタンプラリーが嵐山電鉄をあげて行われていたかららしい。大沢池バックに膝丸(ひざまる)のプレートが立っている。それを写真パシパシ彼女らはどこうとしない。一般の人からするとちょっと迷惑な・・。それにしても刀剣の来歴にもせまるシュミレーションゲームなのに女子が多い。それはやっぱり擬人化されたキャラが女子好みだからなのだろう。中身は知らないがなんとなく乙女ロード系の臭いが・・。アウグスブルク 2 (クラウディア街道)アウグスブルク(Augsburg)クラウディア・アウグスタ街道(Via Claudia Augusta)さて、アウグスブルク(Augsburg)はドイツの観光街道であるロマンティック街道の一端を成す都市ですが、「ロマンティック街道」と銘打ったツアーでさえ、ハイデルベルクで昼食程度。ローテンブルクで一泊。シュヴァンガウで白鳥城を見てミュンヘンに泊まる・・と言う程度の内容のツアー。(ほとんど形だけ)アウグスブルグなどかつては少しは立ち寄る事もあったようですが、今はそこから高速に乗るので近づくだけ。街には全く入らないのがほとんどだそうです。実は「ロマンティック街道」ツアー衰退の理由は街に宿泊しない観光バスの乗り入れが禁止になったからのようです。街の外にバスを止めて街の中の観光場所まで歩くのには時間が必要。短いツアーにそんな時間は無いと言う事です。アウグスブルク(Augsburg)は泊まる程の街ではないか? と言うとそうでもない。実は古代ローマ時代にできたこの町は欧州の歴史の中では重要な街の一つだったのです。第二次世界大戦の災禍で街の50パーセントが破壊されたと言うが町にはローマ時代の遺構が次々発掘されるし、中世には交易により大金持ちだったので当時の素晴らしい文化的財産が残っている街。しかし中世にあった街を囲んでいた城壁は街の拡張の為に(西側壁)はずされたそうだ。だから写真左は拡張された新街の部分。赤色部分がアウグスブルグの駅舎となっている。今回は街の目抜き通りであるマクシミリアン通り(オレンジのライン)から紹介します。ロマンティック街道の道でもあり、ローマ帝国にも通じていたこの道は古の時代、クラウディア・アウグスタ街道(Via Claudia Augusta)と呼ばれていました。クラウディア・アウグスタ街道(Via Claudia Augusta)アウグスブルク(Augsburg)はその名の通り古代ローマの皇帝名から由来している。※ ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス(Gaius Julius Caesar Octavianus Augustus)(BC63年~AD14年)である。紀元前15年くらいにローマの植民都市(属州ラエディア)の州都アウグスタ・ヴインデリコールムとしてできたのが街の発祥だそうです。市長舎前広場(Rathausplatz)のアウグストゥスの噴水ローマ兵が作った道はローマ帝国に通じていたわけで古代ローマ帝国が終焉した後もこの道はイタリアとの貿易で使用され続け、大いに街は潤い栄えたそうです。ここはほぼ街の中心。アウグストゥスの目先には街を象徴する市役所(ラートハウス)右とベルラッハの塔左が建っている。これについては別の回で紹介市長舎からの広場街は広いようで狭い。トロリーやバスは走るがほぼ歩いて回れる。確かに観光バスなど入って来たらゴチャゴチャである。実はこの日は天気が微妙。雨が降ったり晴れたり・・と写真が一定していませんが全て同じ日ですかつ、この時広場は補修が行われていて雑然としていました。市長舎前の道がかつてのクラウディア街道です。現在通りは細切れに名前を変えています。このあたりから南のウルリヒ&アフラ教会までがマクシミリアン通り(Maximilianstr)です。この通りはギルドハウスなどで賑わった所です。天気のせいではないと思うが人が少ない。たぶん人口そのものが少ないのかも・・。右折するとBgm Fischer St。コーナーにはかつてのギルドハウスが再利用されている。いつも思うが看板もほとんど無いのでただの家なのか? ショップなのか? オフィスなのか解りにくい。そしてお洒落なんだか老朽化しているのかよく解らない。この交差点には見るべき噴水が一つマーキュリーの噴水(ヘルメスに同じ)である。アウグスブルグは1276年に帝国自由都市になった。それは司教の手から市民が自治権を獲得した事でもある。商人は働けばそれが収入になる。通商はクラウディア街道を利用した交易で、街にはイタリアの文化やイタリア経由で世界の物資が流入。商いは盛んになったのだ。何しろ当時のイタリアは既に世界に繋がっていた。地中海貿易の拠点がアドリア海にあったのだからイタリアの繁栄と共にアウグスブルグにも冨がやってきた。アウグスブルグの全盛期は15~17世紀で当時「黄金のアウグスブルグ」と謳(うた)われたそうだ。その中で名のある豪商が輩出される。彼らの事は次回にするが、街にある豪華な噴水は当時の豪勢さを示したものなのである。アウグスブルグは実は二つの街が別に拡大して合併してできている。一つは北にある大聖堂の周りに領主である司教のお膝元に集まって商いをした人々。もう一つは南のベネディクト修道院の門前に集まって住み、イタリアとの通商の為に商人が集まってきてできた街である。このあたりはその後者であり、当時の豪商が建てた宮殿が現在美術館として公開されている。ヘラクレスの噴水噴水に付いての記述は無いが観光局の資料によれば1600年頃のブロンズ製だそうだ。写真はドシャブリの中で撮影しているのでめいいっぱい明るくしてこんなものです 目抜き通りなのに車もほとんど走っていない。マクシミリアン通りの南のつきあたり。見える教会の塔がウルリヒ&アフラ教会です。つづくリンク アウグスブルク 3 (市長舎 黄金ホール)
2016年03月13日
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前回に引き続き欧州のポストのお話です。前回は欧州のポストがなぜ黄色いのか?欧州のあらゆる郵便関連が黄色に統一されてるのはなぜなのか?郵便事業のルーツをひもとくと見えてくる納得の理由を紹介しました。赤色編のルーツを知る為にもを先に見ていただいた方が良いかもです。リンク先は下に表示。2015年12月「欧州のポスト 1 郵便事業のルーツと黄色いポストの由来」リンク 欧州のポスト 1 郵便事業のルーツと黄色いポストの由来今回はイングランドの赤色のポストのお話ですが、実は、ある意味イレギュラーなのが赤いポストの存在なのです欧州のポスト2 赤色-ポストの誕生と緑のポストイングランドのポスト時代が解るイングランドのポストの印アイルランドのポストイングランドのポストイギリスが発祥のように思われている郵便事業ですが、実はそうではなかった事は前回の「欧州のポスト 1 郵便事業のルーツと黄色いポストの由来」で了解してもらえたと思います。イギリスでの郵便の発祥は前回紹介したフランチェスコ・デ・タシスがマクシミリアン皇帝の許可の元、独占権を獲得。商業ベースでの駅馬車郵便事業を立ち上げた1516年と同じ年になっていますが、あくまでそれはロイヤルメールだけで一般に郵便事業が認められるのは欧州本土より遅れて1654年の事。また郵便馬車が走るのは1784年なので一般人が郵便を利用できるようになるのはかなり近代に近づいてからの事です。ではなぜイギリスが発祥のように思われたのか? それは世界初の切手の発行がイギリスだからだったからではないでしょうか?産業革命をいち早く成したイギリスは遅れていた郵便事業も一気に産業革命し、使いやすさの面で一気に欧州本土を抜いたようです。従来の郵便制度では、料金の支払い方法が不便であった事。また距離毎に値段も異なるし、値段自体が高かった事が1840年の切手の発明、発行に繋がったようです。残念ながら写真がありませんが、ビクトリア女王の肖像が描かれた1ペンスの切手、通称「ペニー・ブラック」が世界初の切手だそうです。時代が解るイングランドのポストの印イギリスで郵便事業を営む会社ロイヤルメール(Royal Mail)。もとは王室縁で、イギリス国内と植民地間の配達業務から発祥。(郵便事業は現在日本と同じく国営から民営化されている。)イギリスでポストが初めて建つのは1852年。柱の形をした箱だったので、ピラー・ボックス(Pillar box)と呼ばれたようだ。最初の1号はジャージー島に設置。各年代のピラー・ボックスにはその治世の王のイニシャルが記されている。ウィキペディアよりパブリックドメインになっていたので借りてきました。1856年型ピラー・ボックス(Pillar box)。これに刻印は見あたりませんが、当時の国王はヴィクトリア女王の治世。ヴィクトリア(Victoria)(Alexandrina Victoria)(1819年~1901年)(在位:1837年~1901年)よくよく見ると投函口がタテになっています。エドワード7世(Edward VII)時代のイングランドのポストエドワード7世(Edward VII)、 Albert Edward(1841年~1910年)(在位:1901年1~1910年)※ このタイプはエリザベス2世(Elizabeth II)印も存在している。ジョージ6世(George VI)時代のイングランドのポストジョージ6世(George VI)(Albert Frederick Arthur George)(1895年~1952年)(在位:1936年~1952年)エリザベス2世(Elizabeth II)型の種類は多い。エリザベス2世(Elizabeth II)(Elizabeth Alexandra Mary)(1926年~ ) (在位:1952年~ )イングランド湖水地方のポスト湖水地帯のものは環境の為か? 埋め込み型ですが、刻印はエリザベス2世のものです。基本イングランドのポストは初期の1号の形が踏襲されているようですね ポストの誕生は料金制度が確立されたから・・と言えるでしょう。欧州本土の郵便ポスト設置時期はわかりませんが、本土の方はポスト・ホテルが郵便局を兼ねて居たので、ポストの設置はもしかしたらイギリスより後になるのかもしれません。ところでイングランドのピラー・ボックス(Pillar box)は英国の植民地にも当然設置されていました。オーストラリア、キプロス、インド、スリランカ、ジブラルタル、香港、アイルランド共和国、マルタ、ニュージーランドなど英連邦のメンバーと英国の海外領土。バーレーン、ドバイ、クウェート、モロッコのようにイギリスの郵便局が提供する機関郵便サービスが行われている地域などに残っているらしい。アイルランドのポスト下はエドワード7世(Edward VII)時代のイングランドのポストをグリーンにしたものらしい。現在はアイルランドでは「An POST」と呼ばれる国営会社が運営している。近年のポストに王冠は無い。イングランドの隣にあるアイルランドは最初のイギリスの植民地だったそうだ。1169年。ノルマン人侵攻によりアイルランドはイングランドにより植民地化される。ちょうどポストが誕生する頃、アイルランドは連合法のもとグレートブリテンおよびアイルランド連合王国の構成国となり、完全に英国に併合された。1922年アイルランド独立戦争が発生。北アイルランド6州は1922年の独立以後もイギリス統治下にとどまったそうだが、カトリックvsプロテスタントの民族宗教紛争が長らく続いていた。現在は平和的解決へ向かっていると言う。何でもするアイルランドの郵便局のマシンは進化?郵便配達事業の枠を超え、各種支払いやパスポート発行など、公共機関としての役割を兼ねた アイルランドの郵便局では運転免許の更新手続きもできるらしい ところでなぜイングランドは赤でアイルランドは緑なのか?イングランドは神聖ローマ帝国圏でポピュラーな黄色に対抗して独自色として赤にしたのではないか? アイルランドはイギリスに対抗して赤から緑に塗り替えたのではないか?ベルギーのポスト一番古そうな感じ ポストと言うより消火栓に見えるけど・・。イタリアのポストイタリアのポストは壁掛け型が多いらしい。なんか小汚いですね。マナーが悪いのかな?デンマークのポストは2色ある。ノルウェーのポストはオレンジ黄色と赤の中間色なのですかね また新しい国のが貯まったら紹介します
2015年12月13日
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Break Time(一休み)タイトル変更しました欧州のポスト 1 郵便事業のルーツと黄色いポストの由来公的な書類の輸送から発展した郵便事業庶民向け郵便サービスの始まり黄色のポストのルーツは黄色い馬車からいつか黄色のポストの特集をしようと写真を撮っていたが、驚いた事に日本でも最近わざと黄色いポストを設置する所が出てきたらしい。日本の場合は、「黄色い幸せのハンカチ」に引っかけたのか? 幸せを運ぶ黄色いポストとして縁起担ぎと観光誘致が目的らしいが・・。欧州の場合、長い歴史の結果が今の形を作ったわけで、そこに至った理由はまさに必然。今回は元祖欧州の黄色いポストに由来する欧州の郵便事業のルーツを再度紹介。以前紹介した内容に加えて編集しました。2009年07月07日「 馬車と駅馬車 」リンク 馬車と駅馬車2009年12月07日 「クリスマス臨時郵便局 1 (クリストキンドルと郵便ポスト) 」リンク クリスマス臨時郵便局 1 (クリストキンドルと郵便ポスト)フランス シャルルドゴール空港ゲート前のPOST公的な書類の輸送から発展した郵便事業15世紀まで馬車は王侯、高位聖職者、豪商の私有物に限られていたそうです。実際初期の郵便のルーツは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世( 1459年~1519年)のもと、皇帝の領地間などの文章の輸送業務の為に開かれた定期便が初めと考えられています。その時に皇帝マクシミリアン1世に郵便主任を命ぜられたのがフランチェスコ・デ・タシス1世( Francesco I de Tassis)(1459年~1517年)最初のルートは皇帝の弟であるブルゴーニュ公フィリップ(美公)が統治していたブルゴーニュとネーデルラント地域間の物資輸送。補給拠点や馬の交換の中継拠点をルート途中にもうける事で長距離輸送をも可能にしたのである。フランチェスコ・デ・タシスが郵便主任として開拓たルートはブリュッセル=インスブルック、パリ、レンヌ、リヨン、グラナダ、トレド、ブルゴス、ローマ、ナポリ。それは神聖ローマ皇帝を世襲にしたスペインハプスブルグ家とオーストリーのハプスブルグ家をつなぐルートである。「これは商売になる」と考えたフランチェスコ・デ・タシスはマクシミリアン皇帝の許可の元、独占権を獲得。商業ベースでの駅馬車郵便事業を立ち上げたそうです。時は1516年。それは公用郵便をタダで運送する代わりに、民間郵便の独占権を認めてもらう契約だったと言います。西はスペイン、南はイタリア、北はドイツ各地を広範囲に網羅する神聖ローマ帝国内の独占権を1805年まで一人締めです。(18世紀になると各国が国営化。)庶民向け郵便サービスの始まり手紙や小荷物を運ぶ・・と言う庶民の郵便のルーツは駅馬車の登場につながります。中世が安定して商業や手工業が発達。商いが広域に拡大してくると、水路を利用する輸送から、陸上輸送の方にも需要が生まれてきたようで一般庶民も乗る事のできる乗り合いの駅馬車の需用も増えたようです。最初は注文要請された場所まで行くチャーター便だけ。そのうちに一定の区間、(街道や街、港等の往復)を走るようになり、運行時間が決まった、定期輸送便へと進化。長距離便では、何泊もするものも登場。パリ~リヨン間を結んだ駅馬車(Diligence)は、夏は5日、冬なら6日もかかって両都市間をつないだと言われています。※ 以前 「ロンドンバス(London Buses )」で紹介しましたが、ロンドンではこの辻馬車の屋根に椅子を乗せて乗客を増やした・・と言う2階建ての駅馬車の発想が、2階建てバス(ダブルデッカー)の誕生となっています。(ロンドンに辻馬車が登場したのは欧州本土より遅れる事、1625年)フランチェスコ・デ・タシスはこれに目をつけ、もとは手紙だけを配送する荷馬車から客の乗れる少し高級な駅馬車に発展。あるいは、路線が既にできていた他社の駅馬車に手紙を一緒に運ばせたりして事業を拡大して行ったようです。考えれば、これが郵便車のルーツとなります。今に残るクレムスのポスト・ホテル(Post Hotel)また、駅馬車は各都市の主要ホテルを発着場所にしたので、当時郵便物はホテル止まり、あるいはホテルで委託を受ける・・と言う形になっていたようです。それがポスト・ホテル(Post Hotel)と呼ばれる存在です。上の写真は前に「ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 9 (クレムス)」の所で紹介したものです。郵便自転車の色も黄色だったスイスでは現在も郵便バスが存在している。これは郵便物を運ぶ車に登山客を乗せてあげる為にバス化した珍しいパターン。スイスのPOSTオーストリーのPOSTスペインのPOSTスペインのPOSTドイツのPOSTスウェーデンのPOSTスロバキアのPOSTギリシャのPOST黄色のポストのルーツは黄色い馬車からフランチェスコ・デ・タシスは御者に華やかな制服を与え、馬車は全車美しい黄色に塗って走らせたそうです。鮮やかな馬車は宣伝効果も満点で、片手間の辻馬車メールから定期便の配達馬車に変え、さらに、ホテル止めのメールを地元の飛脚に顧客の家まで配達させたと言うことで現代の郵便事業そのものの基礎を作った人なのです。現在に観光で復刻され走っているニュールンベルグの黄色の郵便馬車長く欧州での庶民の郵便物を配送していた黄色の馬車。それ故、「黄色い馬車=郵便」 のイメージは強く、欧州のほとんどの国のポストは黄色になった。そして、御者が馬車の到来を告げる為に鳴らした角笛は、今も郵便のシンボル・マークとなって現在に継承されている。因みにイギリスではポストは赤です。日本はそれを真似したわけですが、イギリスがポストを赤に変えた理由は、その方が霧のイギリスで目立ったからのようです。現在赤いポストに変わっているのは、イギリス、イタリア、ノルウェー、アムステルダム、ベルギー、モナコは確認済みです。アイルランドはグリーンです。容量オーバーなので赤いPOSTは次回。2015年12月「欧州のポスト2 赤色-ポストの誕生と緑のポスト」リンク 「欧州のポスト2 赤色-ポストの誕生と緑のポスト」
2015年12月10日
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季節がらクリスマスを盛り込んでいたようですが、今回は夏のザルツブルグを紹介します。それにしても教会などは変わらないはずなのに、何だか街が様変わりしてました ザルツブルグ(Salzburg) 1 (塩で繁栄した都)ハライン(Hallein)の塩ザルツブルグ(Salzburg)の首長ザルツブルグの守護聖人ルーペルト司教イン(Inn)川の支流であるザルツァハ(Salzach)川。 上流の旧市街方面を撮影ザルツブルグの街はハラインの川下。それをさらに下るとイン(Inn)川に合流する。ザルツブルグはどうしても通過しなければならない要所。ハライン(Hallein)の塩ザルツブルグ旧市街を流れるザルツァハ川上流15km。ドイツ国境に隣接するハライン(Hallein)の街は古来岩塩の採掘で知られた街です。デュルンベルク(Durrnberg)の山腹、バートデュルンベルク(Bad Durrnberg)岩塩坑で採掘された塩や、その通行税は中世ザルツブルグ司教の収入源となって司教区ザルツブルグを潤しました。最初に岩塩を発見したのは紀元前10世紀頃ここに定住していたケルト人だそうです。そしてそれは入植してきた古代ローマに引き継がれ塩を運ぶ為にザルツブルグ中心に道路網が整備。(ザルツブルグのレジデンツ広場界隈にはローマ時代の遺構がたくさん出土している。)ところがゲルマン民族の移動によりローマ帝国の街は壊滅されザルツブルグは1度荒廃。7世紀になって新たな布教者が現れるまでザルツブルグもハラインの塩も埋もれていたのです。後で紹介していますが、塩の採掘を再開して布教の資金にしたのがザルツブルグの初代司教です。ザルツブルグで買った塩ではありますがハライン(Hallein)のじゃないかも・・。もとは赤茶の岩塩で、1度煮溶かし、不純物を除いて精製したもの。何だかヒマラヤ岩塩に限りなく似ている気がします ※今回は行ってないのですが、バートデュルンベルク(Bad Durrnberg)岩塩坑では鉱山観光のアトラクションもあるそうです。(列車とバスでザルツブルグから小1時間。)2010年7月「オーストリア、ハルシュタット 2 (マルクト広場と塩) 塩の産地ハル(Hall) 」の中でも紹介していますが、ザルツブルグ交易の塩はハライン(Hallein)の塩だけではありません。近郊のザルツカンマングート(Salzkammergut)地方のハルシュタット(Hallstatt)からももたらされています。ハルシュタット(Hallstatt)の精製前の岩塩ウンタースベルグ山(Untersbergbahn)から写真左見切れている方角がザルツブルグ。写真右中手前見切れている当たりがーから先がハライン(Hallein)写真右奧の山当たりがザルツカンマングート(Salzkammergut)ザルツブルグカードで無料で乗れるウンタースベルグ山(Untersbergbahn)のロープウェイ乗り場である聖レオンハルト(St. Leonhard)村からハライン(Hallein)は目と鼻の先でした。(残念ながら山頂の天候が悪くそちら方面の写真は撮れませんでしたが別の回で紹介予定)ザルツブルグ市内地図赤い丸ABCDEは主要観光スポットのある場所ピンク1 写真撮影の橋ピンク2 ホーエンザルツブルグピンク3 メンヒスベルクの丘ピンク1・・の橋から撮影丘の上に見えるのがこのザルツブルグの象徴も言えるホーエンザルツブルク城(Festung Hohensalzburg)丘の下は旧市街。写真右のドームがコレギエン教会(Kollegienkirche)写真左のドームがザルツブルグ大聖堂(Dom)ザルツブルグ(Salzburg)の首長ザルツブルグと言う砦の持ち主は神聖ローマ皇帝に仕える諸侯ではなく、実はローマ教皇に仕える司教だったのです。布教の為の特別区は、一国となり、政治、軍事まで含む巨大な権力が司祭に集中。司祭はもはや布教ではなく、街を維持する政治をする事に追われる。しかも塩による財力が豊富なのでいつしか神に仕える者とは思えない行為までしだすのです。例えば王侯の宮殿のような大司祭の館(レジデンツ)。大司祭の愛人の為の館(ミラベル宮殿)。大司祭の夏の別荘(ヘルブルン宮殿)等々。そんな所が観光名所として現在も残り公開されているのは皮肉ですが、司教の王国・・と言うザルツブルグの特殊性がそこに見えて面白いかも・・。旧市街に渡る橋右に見える丘陵がメンヒスベルクの丘(Monchsberg)丘の上の白いのが現代美術館(あの丘の上までは地下トンネルの先からエレベーターで一気に上がれる。)ザルツブルグ4日の間、雨が8割。僅かの天気の間に撮影した写真です。この時は天気で喜んでいた後に傘が役に立たないほどのひどいドシャブリに合いました 旧市街旧市街と言っても市民が生活している街でもある。ザルツブルグの守護聖人ルーペルト司教696年頃ウォルムス出身のルーペルト(Rupert)(650年頃~718年)司教 はバイエルン公よりこのあたりの領地をもらいサンクトペーター修道院(St. Peter's Abbey)を開設した。また塩鉱の権利をもらってゲルマン族の侵入以来途絶えていたハラインの塩鉱を復活させ、布教の財源とした事から、ザルツブルグ(Salzburg)・・・Salz・burg(塩の砦)と街の名は決まったようだ。その後ルーペルト司教の活躍によりサンクトペーター修道院は東部アルプス一帯の布教活動の拠点となる。また彼の布教活動の成果を得て、ザルツブルグには司教座が置かれルーペルト司教は最初のザルツブルグの司教となっています。司教座になると、司教座聖堂が必要になる。最初は木造の簡素な聖堂が造られやがてそれは大聖堂建築に発展する。現在のザルツブルグ大聖堂(Dom)のルーツである。8世紀になると布教活動はカール大帝の政策と一致を見る事になり、より活発な布教活動が展開。798年にはカール大帝が教皇に進言してザルツブルグは司教区から大司教区に昇格。つづくリンク ザルツブルグ(Salzburg) 2 (メンヒスベルクの丘)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 3 (ホーエンザルツブルク城)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 4 (ザンクト・ペーター修道院)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 5 (ザンクト・ペーター墓地・カール大帝の文教政策)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 6 (カタコンベとトラップ一家)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 7 (ミラベル庭園 1)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 8 (ミラベル庭園 2 北西エリア)リンク カフェ・ザッハー・ザルツブルグ(Cafe Sacher Salzburg)2009年12月15~18日 かつてザルツブルグ特集をしていました。ザルツブルク 1 (聖ペーター教会と街) 」ザルツブルク 2 (ホーエンザルツブルク城) ザルツブルク 3 (司教座聖堂と大司教) ザルツブルク 4 (マルクト広場) ザルツブルク 5 (待降節とクリスマス市) ザルツブルク 6 (聖ニコラウスとクリスマス市) 使えそうなところのみリンク入れました。リンク ザルツブルク 3 (司教座聖堂と大司教)リンク ザルツブルク 5 (待降節とクリスマス市)リンク ザルツブルク 6 (聖ニコラウスとクリスマス市)リンク クリスマス市の名物グリューワイン
2015年02月13日
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昨年2013年05月「旅先からのBreak Time(一休み)」でブルージュ(Brugge)の運河の写真を何枚か紹介していましたが今回本格的にブルージュ(Brugge)の紹介です。ブルージュ(Brugge) 1 (街のなりたち)フランドル(Flandre)と亜麻(リンネル・liniere)ブルージュ(Brugge)の栄華盛衰死都から古都ブルージュ(Brugge)へブリュッセルの北西(列車で1時間程)、スヘルデ川を通して北海に近い街ブルージュ(Brugge)はフランク王国分割後に誕生したフランドル伯爵領にある。9世紀にもとは要塞として誕生したブルージュ(Brugge)はフランドル伯爵領の中でも稼ぎ頭となる繁栄をした街なのである。ブルージュ(Brugge)の古地図を絵画にしたもの(一部)楕円に囲われているのが街をとりまく運河。ブルージュ旧市街は運河で囲われている。その昔はさらに城壁で囲われていたことが最初の古地図からうかがえる。(まさに要塞都市)アムステルダムほどではないが、ブルージュ(Brugge)も川や運河により発展した典型的な町なのである。運河はだいぶ消えたが街並みは今もほとんど変わっていない。それがこの街の魅力である。写真下・・Sがブルージュの駅。そこから街の中心まで車で10分程度。地図Aにある南西にある鍛冶屋の門(Smedenpoort) 街側からの門。ブルージュの旧市街に入る城門の一つ。(現在門は4つしか残っていない。)今や信号機もついて車、自転車、歩道とわけられている。鍛冶屋の門(Smedenpoort) 外側から最初にこの門ができたのは1297年。鍛冶屋の門には青銅の頭蓋骨がかざられている・・とウィキペディアにも書かれているがそれらしきものは見当たらなかった。青銅の頭蓋骨は、1691年街のうらぎり者の首を見せしめに門に吊した事から戒めの為に後に青銅の首を飾る事になったと言う。(考えたらちょっと恐ろしい場所でもある。まあ、中世のこうした門の城門外側はどこも罪人の死体を見せしめに野ざらしする場所でもあったのだ。)門、外側から街を見る。12~13世紀に建てられたブルージュ最古の教会である救世主大聖堂の塔が見えている。これでもここはお店が多く並び最も交通量の多い通りかもしれない。全体に街の中は商用車くらいで車は少ないのだ・・。もっとも運河で発展した街なのでかつては道路よりも船で運河から街に入った商人のが多かったろう。今船は観光船だけである。フランドル(Flandre)と亜麻(リンネル・liniere)フランドル(Flandre)が繁栄できたのは周辺で採れる亜麻草を利用したリネンの生産やベルギー・レースの生産があげられる。寒冷地を好む亜麻の栽培にフランドルは適していたからだ。特にブルージュ(Brugge)は地乗りが良かった事もあり亜麻の生産地としてだけでなく、集積から紡績、織物製造までのラインができた。そして製品市場ができ上がり商取引の市場としても街は発展したのである。通気性、吸湿性に優れた上質な繊維を持つ亜麻は肌触りが良い事もあり古来より高級な衣類に使用された。特に中世では亜麻糸で編まれた細密なベルギーのレースは品質も美しさもあり、それを身に付ける事が貴族のステータスになるほど人気で売れたと言う。ボビン・レースは手間がかかる為に今も非常に高価。ブルージュ(Brugge)の栄華盛衰今でこそ内陸に入ってしまったが、10世紀頃より運河伝いに北海の玄関口として街は栄えはじめる。取引の為の商館が次々置かれ欧州の商品取引の巨大マーケットが形成された。さらには商品の取引に伴う為替。世界初の両替所が13世紀にはブルージュに設置され欧州の金融センターに発展したそうだ。その勢いは止まらず、15世紀にはハンザ同盟の主要貿易拠点にまで成長。ブルージュ(Brugge)は欧州より商人が集まる街になり、その集まる冨で美しい街並みが形成されたのである。(今ある古都ブルージュは、そのかつての遺産なのだ。)しかし、フランドルが、ではなく、ブルージュ自体の発展が16世紀末で途絶えてしまう。それはブルージュ(Brugge)の繁栄を支えた物流が途切れてしまった事にある。商取引に必要な物流の要である運河が北海より流入してくる砂で埋まってしまったからだ。船の行き来ができなくなり商人はブルージュを捨てアントワープに移動。16世紀にはアントワープとロッテルダムが欧州の商取引の50%を締める都市に発展して行く。(因みにアントワープはフランドル伯爵領である。)物流どころか交通網の水路自体が途切れて利便の悪くなったブルージュ(Brugge)は衰退。つい近世まで忘れ去られた死都になってしまった・・と言うわけだ。「フランダースの犬」は貧しくなったフランダースの農民の話を象徴した物語だそうですよ 街の中心に向かうほど古い建物が目立つ。死都から古都ブルージュ(Brugge)へ19世紀、産業革命後に成功したイギリスやフランス人の間でレジャー・ブームが起きたそうだ。鉄道の整備や蒸気汽船の発達もあったのであろう。(そう言えばこの頃エジプトなどの遺跡発掘をしに行く金持ちも増えたな。)そんな観光ブームの中、ブルージュ(Brugge)は古戦場ワーテルロー(Waterloo)のついでに足をのばす古都として人気が出たのだそうだ。まさに棚ぼたである ワーテルロー(Waterloo)と言えばナポレオン最後の戦いの場所。1815年6月のワーテルローの戦い(Bataille de Waterloo)で有名な土地である。(当時からやはりナポレオンは人気の武将だったのだろう。)現在もある旅行社トーマス・クックはすでにワーテルローを組み込んだパック旅行を出していた・・と言うから驚きである とにかくこの忘れ去られた中世の見事な街並みはデカダン派の小説家ジョルジュ・ローデンバッハ(Georges Rodenbach)(1855年~1898年)の書いた「死都ブルージュ(Bruges la Morte) (1892年)も後押しをしたようだ。それにしても・・海底や川底の土砂をサルベージするクレーン船は14世紀初頭に現れ、中世欧州では、ほとんどの港や入り江にあったらしい。それでも土砂の堆積が凄すぎてサルベージが間に合わなかったのだろう。さて、今回はざっと雰囲気を紹介しましたが、次回からもう少し細かく・・。写真が多いので選ぶのが大変ですが・・。リンク ブルージュ(Brugge) 2 (十字の門と風車)
2014年03月02日
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日本のフリーメイソン・ロッジの初代マスターも追記しました。Break Time (一休み)2013.9 クイズこのロゴは何? 解答編 フリーメイソン・グランドロッジ・ロンドン秘密結社? フリーメイソン現在のフリーメイソン(Freemason)のルーツ石工、フリーメイソン(Freemason)とは?フラタニティ(fraternity)とギルド(craft guild)ロゴに注目・・が今回の解答の鍵でした。コンパスに定規。これは友愛結社フリーメイソンのシンボルでした。秘密結社? では無いフリーメイソン(Freemason)or フリーメイソンリー(Freemasonry)とは、決して秘密結社ではなく、一言で言えば現代の慈善団体の一つに他なりません。但し、その入会などには厳密な規定があり、誰でも参加できるものではないし、入会に関する組織独特の入会の儀(誓いの言葉)や、外には公開していない会員だけの秘密厳守が規定されている事から謎の団体のイメージが付いたようです。また一般の慈善団体ではあり得ない「貢献度などにより階級が存在」しているようで、その階級が33位階? テンプル(神殿)騎士団の階位を真似ている・・と言われ、シルエットは敢えてダビデの☆をかたどっている・・など何かとテンプル(神殿)騎士と関係性があるかのような神秘性が取りざたされて秘密結社的なイメージができあがったようです。※ 実際、テンプル(神殿)騎士団を調べ尽くした私の見解としては、18世紀にできたフリーメイソンとテンプル(神殿)騎士団の間には、何の縁もゆかりも無い。※ 慈善団体としては、ロータリークラブやライオンズクラブの祖、とも言える。団体に神秘性を持たせる・・と言う効果は昔も今もいろんな団体が試みる手法。それが成功しすぎて逆に怪しい団体として取り上げられる事の方が多いのかも・・。いろんな意味に解釈されるシンボル石工職人の道具である定規は道徳、コンパスは真理を表しているとか・・。物質と霊の二元論からGnosis(グノーシス主義)のGの意味だ・・とも言われていますが、それは深読みしすぎ?偉大なる・・の、Gと言う説がありますが、偉大なる・・ならラテン語でmagnaになるので、Gは単純に英語でグランドロッジのGか? Freemasons Hall, London, home of the United Grand Lodge of England最古のイングランド・ロッジの本部住所 60 Great Queen Street London WC2B 5AZ United Kingdomコベントガーデン駅下車 徒歩5分1927年~1933年建設 建築家は、H V アシュリーとF ウィントン・ニューマン会員数は600万人。イングランドロッジには25万人いるとか・・。宗教の種類は問わないが無神論者は駄目。入会には会員の紹介とそれなりの社会的地位、多少のお金、審査と試験もあるようです。日本の初のフリーメイソン・ロッジは1870年(明治3年)神戸に発足。初代マスターはトーマス・ウィリアム・キンダー(Thomas William Kinder)(1817年~1884年)。彼は日本に始めて建設された造幣局の局長として招かれた男。当時日本の首相よりも給料が高かった。非常に横柄な男で常にトラブルが絶えなかったらしい。そう言う意味では必ずしも人格者が選ばれる訳ではないのかも。造幣局の所で書いています。リンク 大阪天満の造幣局 2 お雇い外国人とコイン製造工場現在のフリーメイソン(Freemason)のルーツコンパスと定規は石工職人のギルドだった? 事の名残? と言われていますが、彼ら自身その誕生のルーツがはっきりと特定できていないようです。近代フリーメイソンの結成は1717年6月24日ロンドンのパブレストラン「the Goose and Gridiron Tavern」であった。最初は宴会だけを目的とする集まりだったようです。1723年、ジェームズ・アンダーソンにより「フリーメイソン憲章」を制定。それ以来思想的な面を打ち出す集団へと変化。時代は啓蒙思想まっさかりの時代である。不思議組織へ発展するのはその頃からと言える。先にも触れたが、現在はライオンズクラブや国際ロータリークラブのような慈善団体となんら変わりない団体となっている。何しろライオンズクラブも国際ロータリークラブもフリーメイソン出身者が造った団体なのである。日本では鳩山一郎氏がフリーメイソンのメンバーとして有名であるが、息子の鳩山由紀夫氏もことある毎に「友愛、友愛」と連呼している。英語の fraternity(フラタニティ)を「友愛」と訳したのは鳩山一郎氏なのである。彼はフリーメイソンを「友愛団体フリーメイソン」として日本に紹介したのだ。実はそのfraternity(フラタニティ)にこそフリーメイソンのルーツがあった。館内は撮影禁止。ガイドツアーがあると言うので出かけたがその時は無かったので図書室と博物館だけ見学を許可された。博物館は歴代のフリーメイソンの寄贈? によるいろんな種類の品が展示。中でも階位にかかわる勲章のような袈裟は興味があった。石工、フリーメイソン(Freemason)とは?フリーメイソン(Freemason)のmason(メイスン)はラテン語の石工をさします。Freeはおそらくfree lance(フリーランス)から来ていると思われ、それは中世のヨーロッパで、主君をもたずに自由契約で諸侯に雇われたフリーの職人や個人事業主を指す意味があります。通常のギルドは土地に縛りがあります。あくまでその街のギルドであり、街を勝手に出る事は許されなかったのです。(何か理由で国の外に出る時は王なりの許可が必要であり、国替えなど絶対許されない。)しかし、石工達に関しては土地の縛りが無かったのです。なぜなら、中世大聖堂の設計施工に携わっていたのが石工の職人達(フリーメイソン)だったからです。彼らの主たる仕事は大聖堂の建築ですから、聖堂が完成すれば、次の聖堂を造る土地に引っ越す必要があった。土地を替えられる唯一のギルドが石工かもしれません。それが通常のギルドとは異なる彼らの特権です。それ故、その土地の王なり支配者との間には特別の主従関係が存在し無い。特別に忠誠を誓う君主があるとすれば 神のみか? と言う事になる。彼ら石工のギルド達は ギルドで有りながら、free lance(フリーランス)の職業集団だったわけで中世の石工(大聖堂建築にたずさわった人々)の団体こそが本来のフリーメイソン(Freemason)意味なのです。ところで大聖堂建築は数十年単位の仕事。特定の故郷も無く国を転々とする根無し草のような生活の彼らは地域のコミニィテイーには入れず、特殊なfraternity(フラタニティ)に所属していた。それがfree lance(フリーランス)のギルド集団と言う事に・・。フラタニティ(fraternity)とギルド(craft guild)fraternity(フラタニティ)はラテン語の「兄弟」に由来。(姉妹・・sorority・ソロリティ)今は地域奉仕の慈善団体や社交団体をさす言葉として認識されていますが、もともとは14世紀後半~16世紀初頭の地域の組織的共同体が起源となっている。簡単に言うと町内会のような地域の小集団だったと思います。そこには助け合いや信仰、同じ歴史を持つ者同士の痛みや、それをいたわる深いつながりがあったと考えられます。いわゆる隣組ですね。フラタニティでは祝宴費、教会や聖職者への寄付。ギルド会館の建設、道路や橋の建設管理。貧困した者への施しといった慈善活動など社会事業に関与。入会できたのは経済的に余裕のある富裕層だったようで、富める者は分け与えなければならない・・と言う聖書の理念がその時代すでにあった?。15世紀~16世紀前半、フラタニティは全盛期を迎え都市、農村の住民の相当数が何らかのフラタニティに所属。組織化されていたようです。この頃、地域のフラタニティとは別に商人ギルドや職人のギルド(craft guild)の社会組合も結成。特に職人の組合(ギルド)は、技術、経済的問題などフラタニティの性格にマッチしていたようで定着。すなわちギルドもまたfraternity(フラタニティ)の一種なのです。ただ、ギルドが商業的機能を本質に構成された組織であったのに対し、フラタニティは宗教的つながりや社会生活の中にあり、かつ様々な職業に門戸を開いた組織だったことが少し異なる。衰退フラタニティ自体は16世紀初頭まで続き、次第に衰退。中世ギルドは特権集団として生き、時代錯誤な閉鎖的組織として批判が強まり市民革命期に解体。しかし遅くまで封建制が残っていたドイツでは職業別の社会保険制度を作り上げたと言う。そんな訳で石工のギルドから派生したと言われているフリーメイソンであるが、現実的な意味ではその正当性は無いと思う。ところで、フラタニティに参加すると、多様な階層の人々が相互に交流でき、交友関係もできるので、商業上の情報交換、商人相互の関係形成、有力者との関係形成、結婚相手探しなどメリットも大きいと言う。そもそもそう言うところが近代フリーメイソンの趣旨だったのでは? と思ったりした。神秘性は箔付け(はくづけ)か? 17世紀後半から18世紀にかけての啓蒙時代にプロビデンスの目が持ち込まれる。もともと啓蒙思想家達が好み、当時流行した三位一体図であるが、これがフリーメイソンに幾多の都市伝説を生んだのだろう。秘密と秘技が人の興味を引くと同時に、人は解らない物に嫌悪するのである。おわり
2013年09月04日
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Break Time(一休み)ちょっと寄り道です (;^_^A前回シティの紋章であるドラゴンの話をしましたが、本当のドラゴンの出所はどこか? 気になって考えていました。ケルト(Celt) のドラゴンウェールズの赤い竜の伝説ケルトに伝わる魔除けのドラゴンヴァイキング船のドラゴンシティの紋章の柄についてはセント・ジョージ(聖ゲオルギウス)の退治したドラゴンと言う事に(公式発表)落ち着きましたが、実はもとはウェールズを出身とするテューダー家の流れをくんで造られた紋章だったと言われています。ウェールズの赤い竜の伝説ウェールズの国旗(ウィキメディア・コモンズより)白と緑の二色の旗の上にウェールズの象徴である赤い竜(竜の図に規定は無し)ウェールズではすでに9世紀にはドラゴンが象徴として使用されていたと言われ、彼らの赤い竜に対する思いはもはや民族のアイデンティティー(identity)になっています。ドラゴン伝説 1 (赤い竜と白い竜の戦いの伝説)赤い竜が侵略者からブリトンの土地を守る・・と言うあらすじです。ケルト系ブリトン人の守護神が赤い竜。対して侵略者は白い竜を守護とするゲルマン民族(サクソン人とアングル人)つまりこれは実話の戦いを竜伝説で比喩した話となっています。ローマ帝国の属州ブリタニア(ブリトン人の土地)はローマの撤退後に領土の取り合い合戦が始まります。ブリタニアを奪還して土地を守ろうとするブリトン人と新たな侵略者サクソン人のそれぞれの軍旗から「赤い竜と白い竜の戦い」と呼称された伝説ができたと考えられています。ドラゴン伝説 2 (ドラゴンの封印とドラゴンの再来)ローマ以前にブリトンを統治していた王とされるking Ludは、暴れる両者の竜を穴に埋めて封印し、戦いを止めた。が、その封印が解かれる時、再び戦いは始まる・・と言うあらすじです。封印はブリトン人とサクソン人の戦いが終わった事を意味します。それは実際ヴァイキングのブリトン進行に対処する為に彼らが連合し、一時停戦。しかし伝承通り封印は解かれ、戦いは再び起きる事になります。(史実)ドラゴン伝説 3 (マーリンとアーサー王)封印が解かれ、再び地上にドラゴンが現れる事を予言したのが、魔術師マーリンです。そして「アーサー王が白い竜を退治した時に戦いは終わる」と予言。伝説では予言通りに赤い竜の元でアーサー王は勝者となり、土地を守り、赤い竜はアーサー王の象徴となった。ウェールズでのドラゴンに対する特別な思いは、そんな幾多の伝説とアーサー王が同じケルト系ブリトン人である・・と言う誇りにより国旗になった・・と言うわけです。ケルトに伝わる魔除けのドラゴンアーサー王の伝説は世界的に有名な話ですが、実際の所実在人物かどうか定かではありません。これは各地の伝承が吟遊詩人によって語り継がれ、ロマンス性が加えられて著書となり、物語として完成した話なのです。もっとも誰かしらモデルがいたとも考えられます。それはローカルの名君だったかも・・。ところで物語の中でアーサー王は金色の竜(ドラゴン)の軍旗を掲げていた。・・気がします。実は考えているうちにドラゴンの出所に思い当たる所がありました。それは3年前に特集した「ヴァイキング」に出て来る竜頭です。もしかしたらドラゴンの発祥はヴァイキング船の船首につけていた守り神。竜頭から来ているのではないか? と思ったわけです。中世流行した時のアーサー王は中世の騎士の姿で挿絵されてしまったが、本当のアーサー王の時代は6世紀頃の話です。赤い竜と白い竜の戦いは軍旗ではなく、もとは船首についていたトラゴン・ヘッド由来だったのでは?島のケルト人たちが乗っていた船はいわゆるヴァイキング船だったかも・・と仮説してみた。インド・ヨーロッパ語族の民族移動実はブリトン人はローマ時代に土地に定住していた島のケルト人です。その祖はインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族です。つまりアーサー王は、島のケルト人と考えられます。そしてまたゲルマン人もまたインド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派の民族です。つまりゲルマン民族であるサクソン人もアングル人も同じ先祖を持つ者。さらに別の侵略者ヴァイキグもまたインド・ヨーロッパ語族(ゲルマン語派)を祖先とする民族です。つまり祖先を辿ると出自がみんなインド・ヨーロッパ語族の同族だった事がわかります。(おそらく民族の伝統文化もそんなに変わりはなかったはず。)その違いはと言えば、民族の移動時期と移動のルート。長い時間の混血です。2010年02月のヴァイキング特集で詳しく書いています。「ヴァイキング 1 (民族移動) 」「ヴァイキング 15 (北方ゲルマン人の民族移動総括) 」リンク ヴァイキング 1 (民族移動)リンク ヴァイキング 15 (北方ゲルマン人の民族移動総括)アナトリア(現トルコ)あたりにいたインド・ヨーロッパ語族の先祖達は移動と分裂を繰り返し大陸を移動して行きます。BC6100年頃ケルト語と分離し、BC3400年頃ゲルマン語派やイタリック語派の民族が誕生。いったんヨーロッパ中北部に移住した彼らは後にまた分離していきます。そんな彼らの民族の大移動は数世紀毎に何度か確認。2世紀から5世紀のゲルマン民族の移動もその一つです。ヨーロッパ中北部に定住した民族。南に下りローマで傭兵になってローマ文化を吸収した民族もいる。ローマを相手に交易した者達もいる。ラテン王国を築いたゴート族もゲルマン民族です。スカンディナビア半島や北海沿岸に定住した彼らはノルマン人(Norman)「北方の人」になり、8世紀初めから11世紀初頭iに再び民族移動。ヴァイキングと呼ばれる者たちもその一部です。2度に渡るイングランドの征服でイングランド地方に定住した者もいる。それがいわゆるブリトン人です。北方から食べ物を求めてさらに西にルートをとった者は飢餓でほとんど滅んでしまった。アメリカ大陸に到達した民もわずかにいたが・・。歴史の中に悪く言われがちなヴァイキングの登場はほとんど無い。一つにはキリスト教化されて別の民族になってしまっている事もあります。逆にキリスト教に改宗しなかった者は異端として敵になりヴァイキングとして恐れられた。・・と言う事なのでしょう。実はアーサー王自体がキリスト教に改宗した王なのです。そう言う意味では、アーサー王はブリトンの王であるけれど、ケルトの王ではなく、キリスト教徒として王位についている。後世のアーサー王伝説は間違いなくキリスト教色を強める物語に変化していると言えます。ヴァイキング船のドラゴンヴァイキング船の船首に付けられている守り神、モンスタ-・ヘッドの別名は「竜頭柱」「ヴァイキング 3 (竜頭柱とヴァルハラ宮殿) 」以前紹介した写真を改めて載せました。船の船首にとりつけられる守り神のドラゴン精密なケルト文様の細工がほどこされた船首に取り付けるドラゴン・ヘッドはまさしくアーサー王の父の名前ユーサー・ペンドラゴン(Uther Pendragon)「竜の頭」と一緒。「竜頭柱」の首の部分上に紹介した「竜頭柱」は全てノルウェーのオスロにあるヴァイキング船博物館で撮影した写真です。ノルウェー、グドヴァンゲン(Gudvangen)にかつて復元されていたヴァイキング船写真左の船首には簡単だがドラゴンの彫刻が施されている。これこそがヴァイキング船の象徴。かつてイングランド含めてたくさん存在していたヴァィキング達の資料は今やノルウェーにしか無い。ところでグラストンベリー(Glastonbury)で発見されたと言うアーサー王のお墓ですが、(本物とは断定できないしウソかもしれない)その遺骸は船の聖棺に王妃と共に葬られていたと言います。この船に死者を葬る慣習もヴァイキングのものと一致します。やはりアーサー王がヴァイキングと同民族のケルト人である事は間違いなさそうです。。
2013年07月21日
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写真追加テンプル教会はシティの中、西の関所であるテンプル・バーの近く、インナー・テンプルにあります。ロンドン(London) 8 (シティの紋章)シティ・オブ・ロンドン (City of London) テンプル・バー(Temple Bar)シテイの紋章とドラゴン(セント・ジョージ、セント・ポール)グリフィン(griffin,・gryphin)シティ・オブ・ロンドン (City of London) ロンドン証券取引所やイングランド銀行、ロイズ本社や法曹院が置かれ、イングランドの金融センターとなっているシティの歴史は古く、すでに11世紀、イングランド征服王が統治する前から商人の街として発展。独自の自治権を確立した特別な街だったようです。イングランド征服王現在の英国王室の開祖となったウィリアム1世(William I)(1027年~1087年)の事です。ヘイスティングスの戦い(1066年)で勝利し、イングランド王として即位する前はノルマンディー公国のギヨーム2世。もともとイングランドの出身では無かった王様です。そのシティの入り口には必ずドラゴンの像が置かれています。それはドラゴンがシティの紋章であるからなのですが、同時にその場所が昔シティに入場するゲート(門)や関所のあった場所でもあるのだそうです。シテイの紋章はセント・ジョージ(Saint George)の十字架とセント・ポール(Saint Paul)の剣を組み合わせた楯を支えるグリフィン(griffin, gryphin)中世のシティは東西3km南北1.5kmくらい。古代ロンドンを一回り大きくした規模で、その回りをシティ・ウォールと言う城壁で囲われていたと言います。城壁には市外に通じる門も幾つか設置されていたそうですが、1760年以降全ての城門も、城壁も取り壊され、今はかつてのゲート跡がそこにあった事を物語るドラゴンが置かれている・・と言うわけです。。テンプル・バー(Temple Bar)王立裁判所の近く、フリート・ストリートの道の真ん中に謎の像が建っていました。それはかつてのテンプル・バーの跡に建てられた記念碑だそうです。ここもシティに入るゲートであり、今も国王がシティに入る時はシティに敬意を表し、ここでいったん止まり、市長と「真珠の剣」の授受を行いシティに入る許可をもらうと言う特別なポイントだと言われています。見えにくいけど写真右下の白い車の後ろ。このテンプル・バー(Temple Bar)は中世以降シティの西の関所門として存在。そもそもシティに入る者から通行税を徴収した場所だという事です。それゆえ、13世紀頃は柱や鎖でできていたゲートは、その後時代とともに変遷し、最後のゲートはセント・ポール大聖堂を再建した建築家Christopher Wren(クリストファー・レン)が1672年に造った石造りの門だったようです。後に石の門はジャマになり1870年に解体。近年パテノスター・スクエアに移築。なぜ通行税を取ったかはわかりませんでしたが、そもそも、ここにはテンプル教会(Temple Church)がありました。シティ・オブ・ロンドン (City of London)のルーツがテンプル教会から始まっていると言って過言でない歴史があります。テンプル教会については別の回に。リンク ロンドン(London) 9 (テンプル教会 1)リンク ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)※ 十字軍についてもまた別に書いていますが、要するにテンプル騎士団のルーツから始まるのです。テンプル・バー跡のモニュメント1880年建造されたモニュメントにはヴィクトリア女王と裏側がエドワード7世の像が置かれ、その上にシティの紋章であるグリフィンが乗っている。制作はCharies Bell Birchこのモニュメントはグリフィンになっているが、シティの紋章は本来はドラゴンだったはず・・。テンプルバーのモニュメント (今回の写真ではありませんが・・)シティの紋章とドラゴンDOMINE DIRIGE NOS 我らを導き給えシティの紋章はイングランドの守護聖人であるセント・ジョージ(Saint George)とシティ・オブ・ロンドンの守護聖人セント・ポール(Saint Paul)の象徴が合体したものです。国家の象徴にもなっているセント・ジョージ・クロス(St.George's Cross)。セント・ポール(Saint Paul)の象徴の剣。しかしこれらはすんなり決まったものではなく、長らく討議されて今に落ち着いたようなのです。1.セント・ジョージ(Saint George)かつてグエル公園の特集の時に「ゲオルギウス(Georgius)のドラゴン退治」について紹介した事があります。グエル公園の中央階段にあるドラゴンの噴水がカタルーニャの守護聖人サン・ジョルディ(Sant Jordi)の伝説に由来する・・と言う内容です。このカタルーニャの英雄であるサン・ジョルディ(Sant Jordi)はカタルーニャ語名で実は聖ゲオルギウスの事なのです。聖ゲオルギウス(Saint Georgius)についてもその時に紹介しています。※ 2012年6月「グエル公園(Parc Guell) 2 (ファサードのサラマンダー)」サンジョルディ(聖ゲオルギウス)のドラゴン)リンク グエル公園(Parc Guell) 2 (ファサードのサラマンダー).聖ゲオルギウスは黄金伝説に紹介される聖人の中でも特に有名な聖人です。その理由はゲオルギウスのドラゴン退治として絵画にも多く描かれ、後世全世界で知られる存在となっているからで、カタルーニャのように聖ゲオルギウスは各地域で別の呼び名を持って祀られているのです。ゲオルギウス(Georgius)・・ラテン語 ゲオルク(Georg)・・・・・・・・・ドイツ語ジョルジュ(Georges)・・・・・フランス語ジョルジョ(Giorgio)・・・・・・・イタリア語ホルヘ(Jorge)・・・・・・・・・・・スペイン語ジョージ(George)・・・・・・・・英語 イングランドではセント・ジョージ(Saint George) が聖ゲオルギウスの事です。イングランドの国旗「セント・ジョージ・クロス」 (St.George's Cross) は聖ゲオルギウス十字と言う白地にゲオルギウスの血を表した赤の十字。ゲオルギウス崇敬と言って過言ではない強い信仰がイングランドにはあり、その呼び名は歴代の国王の名にもよく使われています。2.セント・ポール(Saint Paul)の剣Saint Paulは12使徒の一人である聖パウロの事です。聖パウロは聖書と短い剣が象徴になっています。聖書は「パウロの書簡」に由来するもので、剣は彼がそれにより殉教した事を示す印。因みにシティに6世紀よりあるパウロを祀った教会がシティの象徴的ドームを持つセントポール大聖堂(St Paul's Cathedral)で、これはバチカンにあるサン・ピエトロ大聖堂を一回り小さくした模倣的建築と言われています。余談ですが、パウロにはもう一つ剣の話があります。出典はパウロの書簡「エフェソの信徒への手紙」悪魔の策略に対抗して立つことができるように神の武具を身につけなさい。真理を帯として腰に締め正義を胸当てとして付け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。尚、その上に信仰を楯として取りなさい。・・・また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。セント・ポール(Saint Paul)の剣とは、実在の剣ではなく神の言葉そのものを指している(パウロの霊剣)・・とも解釈できます。グリフィン(griffin,・gryphin)2匹のドラゴンはセント・ジョージ(Saint George)由来のドラゴンに落ち着いたようです。なぜヴィクトリア朝時代の彫刻はドラゴンではなく、グリフィンなのか?グリフィン自体はもともと伝説上の鳥獣です。曲がった嘴(くちばし)と翼を持つ鳥のような上半身と、獅子のような体を持つギリシャ以前から空想上の怪物として神話に度々出でくるグリフィンは、ドラゴンのようでもあります。もともとドラゴンも空想上の怪物で、翼や尾、かぎ爪などその姿形はグリフィンと混同されがちなのだと思います。特に18世紀中頃~19世紀にかけて流行した新古典主義の絵画や物語の作品中に度々現れているグリフィンはドラゴンよりも知名度をあげたから? かもしれません。ところでロンドン橋とブラックフライアーズ橋はシティ・オブ・ロンドに属するのでシティのドラゴンが据え置かれているそうですが、タワー・ブリッジにもそれらしい紋章があります。タワー・ブリッジの橋の欄干タワー・ブリッジの両サイドにある櫓にも紋章はついているしかし、どう探してもタワー・ブリッジがシティに属すとは書かれていないのだ。おわりところで、シティの紋章は、セント・ジョージとなっていますが、遡ると本来のルーツとなるドラゴンはケルト人の土地であったイングランドのルーツに居たドラゴンではないかと思います。それについて書いた項です。リンク ケルト(Celt) のドラゴン シティ・オブ・ロンドン (City of London) のルーツリンク ロンドン(London) 9 (テンプル教会 1)リンク ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)リンク ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)その他ロンドンBack numberBack numberリンク ロンドン(London) 1 (テムズ川)リンク ロンドン(London) 2 (テムズ川に架かる橋 1)リンク ロンドン(London) 3 (テムズ川に架かる橋 2)リンク ロンドン(London) 4 (タワー・ブリッジ 1)リンク ロンドン(London) 5 (タワー・ブリッジ 2リンク ロンドン(London) 6 (バトラーズ・ワーフ)リンク ロンドン(London) 7 (シャッド・テムズのカフェレストラン)ロンドン(London) 8 (シティの紋章)リンク シティのパブ The Edgar Wallace リンク ロンドン(London) の地下鉄(Underground)リンク ビクトリア& アルバート博物館 のカフェテリア
2013年07月17日
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日本人にはほとんどなじみのない所かもしれませんが、教会の調度がすばらしいのでクトナー・ホラの教会「聖バルバラ教会」を紹介しておこうと思います。・・と言いながら書いているうちに違う方向に走ってしまい、聖バルバラ教会は次回になってしまいましたクトナー・ホラ(Kutná Hora)と銀貨チェコ共和国(Czech Republic)クトナー・ホラ(Kutná Hora)プラハ・グロッシュ(Prague groschen)銀貨ヨアヒムスターラー(Joachimsthaler)銀貨ドル(Dollar)銀貨ユネスコ世界遺産に登録された街、クトナー・ホラ(Kutná Hora)は、プラハ近郊とは言え、チェコ共和国の田舎の小さな街です。しかし、13世紀後半に銀鉱が発見されると、国王ヴァーツラフ2世はそこに王国造幣局を設立。宮廷都市となり、街は中世期のボヘミアでは第2の都市に成長したそうです。街は写真中心で紹介。聖バルバラ教会前からの街遠くに見えるのが街の中心にあるヤコブ教会下の写真は季節が春です。街並と路地聖ヤコブ教会の裏路地聖ヤコブ教会聖ヤコブ教会街には当時を紹介する鉱山博物館がありますが、残念ながら中の写真撮影は禁止でした。(外観も微妙)プラハ・グロッシュ(Prague groschen)銀貨クトナー・ホラで鋳造される「プラハ・グロッシュ(Prague groschen)」と呼ばれた銀貨は、16世紀まで神聖ローマ帝国内の基準通貨となり欧州中に流通したそうです。その為ボヘミア王国はものすごい収益をあげたわけです。通称イタリアン・コート(旧王宮ヴラシュスキー宮)は王国造幣局中は撮影禁止でしたが、造幣局と王宮両方が見学できる。王宮内に造られた王国中央造幣局では、フィレンツェから招かれた熟練工に鋳造を依頼した為に通称「イタリアン・コート(Italian Court)イタリア宮廷」と名がついたようです。鉱山で働いていたのは主にドイツ人(最盛期には数千人)で、国王はベテランの技師や職人を招き入れ、銀貨は製造されたそうで、当初純度は高く品質は良かったようです。因みに鉱夫は修道士のようなフード付きの長いコートを着用した事から鉱山の事を修道服の山と呼ぶそうですよ。参考・・プラハ・グロッシュ(Prague groschen)銀貨(ヴァーツラフ2世時代)ウィキメディアからフリー使用の許可があったので借りてきました。ウィキペディアによれば、直径27mm前後、当初の重さは3.5~3.7g程度、純度933‰(パーミル)クトナー・ホラの銀山は15世紀には枯渇しはじめ、銀の含有料が減って劣化。銀貨(プラハ・グロシュ)は1644年まで鋳造され造幣局は1726年に閉鎖されます。ヨアヒムスターラー(Joachimsthaler)銀貨プラハ・グロッシュの価値は落ちて次世代銀貨として脚光を浴びたのが、大型銀貨のターラー(Thaler)銀貨でした。それは欧州の銀の主流がプラハ・グロッシュからターラー(Thaler)銀貨へと取って代わり新たな商取引の基準となった銀貨です。参考・通称ターラー(Thaler)銀貨(1525年のターラー銀貨)同じくウィキメディアより写真を借りてきました。正式名はヨアヒムスターラー(Joachimsthaler)銀貨銀貨が鋳造されたボヘミアのザンクト・ヨアヒムスタールに由来して命名。ドルの語源にもなったタール(thal)(谷)銀は渓谷地帯で鋳造される事からタール(thal)(谷)の名称が付き各地で「・・・タール銀貨」と呼ばれる銀貨が発行されています。それらは大きさと重さがターラー銀貨を基準にして鋳造。同等の価値のある銀貨として欧州を流通したそうです。だからターラー銀貨は複数の種類が存在します。19世紀まで通用していたターラー銀貨は通貨名称として今もアメリカのドル(dollar)等に呼称として残っています。ドル(Dollar)銀貨初期 ドル・コイン紙幣への不信感から硬貨の鋳造が望まれたそうで、アメリカ合衆国造幣局は、1794年から1803年までシルバー・ダラー硬貨を鋳造。しかし1794年10月15日に鋳造された分は、社会的に高位な立場にある人達に土産として配られ、以降も銀貨は収集家に好まれたり海外への土産に使われ、あまり流通はしなかったようです。アメリカ建国200年、自由の女神像(Statue of Liberty)が贈られた100年目の記念で販売された1ドル銀貨コレクション用の1ドル銀貨なので値段は1ドル以上、それなりに・・。でも公式用の通貨か不明。1840年以降のドルコインシーテッド・リバティ・ダラー(1840年~1873年)トレード・ダラー(1873年~1885年)モーガン・ダラー(1878年~1904年、1921年)ピース・ダラー(1921年~1928年、1934年~1935年)1ドル硬貨の流通は最小限に抑えられ、財務省は1967年までには兌換銀券(だかんぎんけん)と銀貨の交換を廃止。年度が跳んでいるのは、硬貨の流通を制限して流通を調整。発行しない年があるからです。そして以降のダラーには記念硬貨以外銀は含まれず安い合金になったようです。アイゼンハワー・ダラー(1971年~1978年)1978年製造の1ドル・アイゼンハワー・ダラー硬貨です。残念ながらこれには銀は含まれていないそうで、1ドル銀貨風の硬貨です。直径38.1mm、重さ20g大きく、重く、自販機にも入らない不便なアイゼンハワー・ダラーは一般には流通せずカジノで最も多く使用され、一時はマシンのコインがこの硬貨であった時代もある。(現在はカジノもお札である。)アンソニー・ダラー(1979年~1981年、1999年)アイゼンハワー・ダラー硬貨と同じく、銅とニッケルの合金今もたまに見かけるアイゼンハワー・ダラー硬貨以外、1ドル硬貨は一般の流通用には販売されず、記念硬貨として1ドル銀貨が販売されているだけです。銀貨の呼称だったダラーは銀ではなくなりアメリカの通貨そのものを指す名称になったと言う訳です。写真はクトナー・ホラに戻って・・聖母マリアを頂くペスト柱像バラツキー広場界隈聖バルバラ教会(左)と旧イエズス会大学(右)次回予定の聖バルバラ教会の前振りでした。
2012年09月12日
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ドル札の裏側やアメリカの国章の裏に描かれている奇妙な絵の正体は?神眼・・・プロビデンスの眼アメリカのお札や国章に刻まれたプロビデンスの眼キリスト教におけるプロビデンスの眼キリスト教のシンボル神眼・・・プロビデンスの眼(Eye of Providence)プロビデンスの言葉は、ラテン語の providentiaから由来し、「Divine Providence」で神の摂理を意味するそうです。さて、その図形は本来それはキリスト教の象徴の図の一つで、眼は「神の眼」を示し、正三角形は「三位一体」を示すものです。アメリカのお札や国章に刻まれたプロビデンスの眼1ドル札 ↑拡大アメリカ合衆国の国章の裏側の図ウキペディアより借りた絵ですラテン語で描かれた文字はNovus ordo seclorum「この時代の新しい秩序 (a new order of the ages)」(ヴェルギリウスの言葉だそうです)Annuit cœptis「(神は我々の) 意図をお認めになった (approved of undertakings)」M DCC LXX VI (ローマ数字で 1776)アメリカの独立年、1776年を示している。アメリカで使われるプロビデンスは米国へ移民したピルグリム・ファーザーズによる「神の摂理」が本意にあるようです。「道徳と信仰に反する奴隷状態」は神の摂理に反する・・。つまり、1776年にアメリカは「神の摂理(Divine Providence)」により、自由を勝ち取った・・。全知全能の神は建国を認めた・・と同時に見守ってくれる・・と言う意図がアメリカの図にはあるようです。キリスト教におけるプロビデンスの眼基本的には、眼と三角は別だったのです。決してピラミッドではなかった。最初に正三角形の中に眼が描かれたのは16世紀後半の宗教絵画の中一説にはこの眼がそもそもエジプト神話のホルスの眼に由来していると言う。象徴図・・・・眼は「神の眼」神のシンボルともなったこの眼については、聖書の中でいろいろ語られた中から解釈されています。また、聖書には盲人が神によって癒され眼が見えるようになる話しが多いのです。旧約聖書 箴言(しんげん)22:12「主の眼は知識を守り、欺きの言葉を滅ぼす。」新約聖書 マタイ6:22 ルカ11:34~36「体の灯は眼である。眼が澄んでいればあなたの全身は明るいが、濁っていれば全身が暗い。だからあなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほとであろう。」新約聖書 ペトロの手紙3:12「主の眼は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」全てを完全に見抜く眼と完全に知る知識を示す。象徴図・・・・正三角形三つの等しい辺が一つになる事から正三角は三位一体の象徴とされ父と子と聖霊を表している。中世以降に正三角の中の眼が共に三位一体を表し、神の無限の聖性を表すようになったようです。フリーメイソンの象徴?もともとフリーメイソンは石工職人のマイスターの集まりです。つまり本来は中世に教会建築に携わった石工職人のギルド(職業別組合)でを指しています。free (自由、ただ、免除)とmason(石工) 合わせて「フリーな石工」。では「フリーな石工」とは何か? 当時の人々は、自分の国から外に出る事はなかなかできません。石工職人は国境をまたいでの大聖堂建築という重責な任を負っていたので、仕事による国替えは可能だったのです。加えて、国境の通過や税の免除などの特別待遇が与えられていたそうです。普通のギルドにはない、特別の待遇。それがfree (自由)とと言う意味なのです。なぜ秘密結社と呼ばれるようになったのか? については今回は触れずにプロビデンスの眼だけ考察。※ フリーメイソンについては2013年9月「2013.9 クイズ 解答編 秘密結社? フリーメイソン」の中で詳しく説明しています。リンク 2013.9 クイズこのロゴは何? 解答編 秘密結社? フリーメイソン石工職人には技量による階位がありました。グランド・マスターマスター(親方)フェロー・クラフト(職人)エンタード・アプレンティス(徒弟)すべての石工の上に君臨するグランド・マスターはあらゆる方面に精通し、深い造詣を持ったプロデューサーでもあり、下の者を監視する役目があったわけです。グランド・マスターは、神の眼のごとく「全てを見通す。監視する。」3つの階位マスター、フェロー・クラフト、エンタード・アプレンティスを三位一体に例えてフリーメイソンのシンボル的に使ったのではないでしょうか・・。正三角がピラミッドになった謎はまだ残りますが、キリスト教のシンボル三位一体図は、「神の眼」と言う、本筋では一致していながら、実はその神の部分の解釈のとらえ方、使われ方がそれぞれ異なっているようです。
2010年07月03日
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Break Time (一休み)大阪、桜ノ宮、源八橋の桜秀吉の醍醐の花見 信長の死この写真は帰国している姉が散歩途中に撮影したものだそうです。本当は私も大阪に行ってこの景色を見ていたはずだった・・・。昨日も驚いたが、今年の桜は息が長い。早く咲いたし、強風が続いたので桜はもうなくなっていると思っていたのに、昨日の入学式も満開の桜が迎えてくれた。やっぱり日本の入学式には桜がなきゃね・・大川(旧淀川)にある源八橋から手前のビルは帝国ホテルで、遠く見える橋は桜宮橋で、橋の左手が毛馬桜之宮公園。この写真だと大阪城は桜ノ宮橋の少し右手に見えます。「通り抜け」で有名な造幣局は桜ノ宮橋の先にあります。今年の造幣局の桜並木の「通り抜け」は、4月14日から20日まで。造幣局南門(天満橋側)から北門(桜宮橋側)への一方通行(距離約560m)で、明治16年から開始された「通り抜け」は、今や浪速の春を飾る風物詩なのだそうです。関山、普賢象、松月、紅手毬、芝山、楊貴妃など約127品種、約354本で、その大半が遅咲きの八重桜だそうです。(桜ってそんなに品種があるのですね・・。)桜ノ宮と言われるは、文字通り、この地一帯に桜が咲き乱れていた事に由来。大阪城は、確かに豊臣秀吉が築城した城ではあるけれど、秀吉の花見の場所はここではない。豊臣秀吉、醍醐の花見花見が庶民の間に知れ渡るきっかけとなったのが、豊臣秀吉(1537年~1598年)が京都の醍醐寺で催した花見の宴と言われています。慶長3年3月15日(1598年4月20日)豊臣秀頼、北政所、淀殿他諸大名など約1300名の大宴会だったようで、杯を酌み交わし、和歌が詠まれたといいます。醍醐寺の中でも下醍醐と上醍醐の少し桜の乏しい場所で、足りない分は他から持ち込んで飾ったようです。(本人が直接植栽や庭園の指示をしていたようです。)秀吉はその後病に伏せ・・となっていますが、実は1593年12月の鷹狩りの時にひいた風邪以来急激に衰え、病がちになり、花見の無理もたたったようで、5月初旬には寝込み、その4ヶ月後の8月18日早朝亡くなっています。一説には花見の会は彼の死期がちかづいたので、醍醐寺第80代座主義演(ぎえん)が秀吉の為に取りはからったとも言われています。花見のルーツは貴族の風流と部下へのねぎらいだったのですね写真でお花見秀吉の最後と信長の死余談ですが、秀吉は肺の病気だったのは間違い無く、(その為に秀頼と別居していたようだ)最後の10日はベット(南蛮製のベットで寝ていた)から落ちる苦しみようで、錯乱し、恐怖の形相で「お屋形様、ごめんなされ、秀吉をごめんなされて候らえ」とうわごとを言っていたようです。(「信長の棺」の中で太田牛一によって語られています。太田牛一はお屋形(信長)の側近(文筆の)。お屋形死後、秀吉の命でゆがめられた「信長記」を執筆させられていたのだが、お屋形の死に秀吉がからんでいると確信した彼は、密かに調べて信長記を2つ作っていた。)前出「こめんなされ」は、この書によれば織田信長を死に追いやったのは秀吉だからです。本能寺にあった秘密の抜け道は、信長の命で秀吉の配下が秘密裏にが掘った穴だ。そして、その穴を完成後に信長の知らない所で塞いだのは秀吉なのだ。お屋形(信長)の遺骨はいまだ見つかっていない。火災後の騒動の中、密かに掘り出されて誰にも見つからない場所に葬られたとされ、時間が立ちすぎて、すでに土に帰り、牛一にもその場所は定かには見つけられなかったようだ。しだれ桜日本が一番美しい時期ですね。
2010年04月09日
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スペイン(Espana)アンダルシア(Andalucía)州、州都セビーリャ(Sevilla)県、県都セビーリャ(Sevilla)アルカサル(Alcazar)乙女の中庭(Ptio de las doncellas)装飾と大使の間(Salon de Embajadores)広間から乙女の中庭に出る開口部を中庭側から撮影乙女の中庭から大使の間の入り口。屋根の上の櫓は大使の間の天井ドーム部分。大使の間の入り口大使の間の入り口扉浮き彫りレリーフの中に象眼されている木造の扉モサラベとムデハルとモリスコちょっと整理をしておきます。西ゴート時代のカトリックの住人達(アンダルシアの)でアラブに侵略された後に残留した者をモサラベ(Mozarabes)と言います。彼らは「ズィンミー」と言われるイスラムの中で公認された異教徒となりアンダルシアに残った者達です。その立場がレコンキスタで逆転して今度は、アラブ時代からの住人がカトリックに侵略された後に残留した者をムデハル(mudejar)と言います。しかし、カトリック支配になるとかつてのアラブのような公認異教徒の制度はなく、彼らは改宗する事で残留許可を得たのです。よってイスラムからカトリックに改宗してアンダルシアに残ったムデハル達をモリスコ(Morisco)と呼んで区別されました。モサラベ様式とムデハル様式両者の残留者達はそれぞれに融合文化を生んだのです。モサラベ様式は西ゴート王国の伝統を引き継いだ馬蹄形アーチや装飾模様にイスラムの要素が加えられた様式を造りあげていました。ムデハル様式は・・残留イスラム教徒(ムデハル)の建築様式とキリスト教建築様式が融合したスタイルを造るのですが・・。当時キリスト教徒側の文化はひどく立ち後れていたので、逆に侵略したイスラム側の建築や工芸の方がはるかに秀でていたので、スペインでは長らくイスラム建築を主軸にしたムデハルの様式が影響を持ち続けたのです。ムデハル様式は、近年のガウディの建築にも影響を与えていると言います乙女の中庭の回廊、スタッコ仕上げの壁植物をミチーフとした化粧漆喰の美しい透かし彫りはムデハルの技術のたまものである。上のような菱形や小葉状片などが連続する透かし彫り装飾は「セブカ(Sebka)」と呼ぶそうです。スタッコ漆喰を厚く塗りつけたあと、コテやローラーで表面に凸凹模様をつけるやり方。ここでは型押しにより細かな造形を造りあげているようです。大使の間(Salon de Embajadores)宮殿の下部は幾何学のタイルが貼られ、上部は漆喰にスタッコして彩色されています。あたかもタイルのように見えますが・・。大使の間(Salon de Embajadores)上部秀でたイスラム文化イスラム文化の科学の発展はギリシャ由来で、数学、天文学はインドの影響を受け、建築技法は古代ローマから学んでいると言います。前述「キリスト教徒側の文化はひどく立ち後れていた」と紹介した通り、当時の西側ヨーロツパの中ではイスラム文化は非常に高いレベルのものでした。前回ペドロ王がイスラム文化に傾倒していた・・と言う事も紹介しましたが、実際10世紀になるとイスラムの高い文明を学ぶ為にピレネー山脈を越えてくる者達が現れたと言います。イスラムの学問がラテン語で紹介され始めたのもこの頃でイスラムで作られた「医学典範」などは16世紀まで西欧側の教科書としても使われていたと言います。天文学書も、アラビア数字が導入、代数学、幾何学などはこの頃にイスラムの数学者が達成していたものが欧州に流れ込んだようです。ペドロ王の時代以降、ヨーロッパが進んでイスラム文化を吸収しようとしていた時期であったようです。(ペドロ王は先駆けだった・・。)そういう意味でイベリア半島はカトリック化は立ち後れたものの、以降西側でも先端を行く技術を獲得した事になります。もっとも・・古代ローマ帝国が滅びなければi西側の文化は後退する事なく、人類史はもっと早く進んでいたと思う。以前も書いたが数百年は先に(未来に)行けていたのではないか?写真がもうupできないので・・・つづく
2010年03月17日
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今日、明日ちょっと用事が続いているので忙しいです。ちょっとラストは手抜きをしてしまいましたスペイン(Espana)アンダルシア(Andalucía)州、州都セビーリャ(Sevilla)県、県都セビーリャ(Sevilla)セビーリャ大聖堂(Catedral Sevilla) 教会正面のバラ窓バラ窓の中心は四福音書記となっています。福音書記簡単に言うと、新約聖書を書いた人達です。マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネと4人いますが、それぞれ成立時期や、成立場所が異なる上に、キリストの直弟子かどうかも実は定かではないのです。内容は、生前のイエス・キリストの言葉や教えである福音、あるいは奇跡と言われる行為について書き記されたもので、おおかた4人の記した内容は同じですが、それぞれ掲載されています。(例えば、「ルカによる福音書」・・・と言うように。)極めて特異なのは「ヨハネによるの福音書」で、彼のにのみ「黙示録」が掲載され、それにより「最後の審判」と言う言葉が生まれたのです。ヨハネの黙示録については、パトモス島と共に、7月に「ヨハネとヨハネの黙示録 in Patmos 」で紹介しています。四福音書記を象徴するものマルコ (獅子)マタイ (人)ルカ (雄牛)ヨハネ(鷲)因みに、新約聖書には四福音書とは別に使徒言行録と言われるキリストの直弟子たちの入信や活躍などが後世に付け加えられています。たぶん、北側の壁側のステンドグラス聖霊の到来の図らしいが・・・。たぶんマリアとキリストの12使徒だと思います。大聖堂の天井は他の教会とはかり異なるような・・。これもムデハル様式の活かされた所なのだろうか・・。天井各所にステンドグラスも入れられ、教会の屋根も他の大聖堂とは明らかに違います。度重なる地震で崩落、修復していると言われてていますが・・。北側の翼廊の外壁は複雑。この外壁は間違い無くムデハルの技術が活かされた箇所だと思います。ムデハルとモリスコ実はイベリア半島出身のイスラム教徒そのものをムデハル(mudejar)と呼び、レコンキスタ後に改宗してこの地に残った彼らをモリスコ(Morisco)と呼ぶのだそうです。改宗してモリスコとなった元イスラム教徒の職人達の技術が活かされムデハル様式が生まれたようです。単純な「文化の融合」ではなく、ムデハル達の技術の上に成り立つ様式がムデハル様式のようです。こんな細工は他では見たことがありません。何だかイスラム建築に見られるアイアン・ワークの柄にも見えます。マルティネス・モンタニュス作 クレメンスのキリスト像素敵なキリストですが・・・・・どこにあったかがわかりません。セビーリャ大聖堂おわり
2010年03月12日
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スペイン(Espana)アンダルシア(Andalucía)州、州都セビーリャ(Sevilla)県、県都セビーリャ(Sevilla)セビーリャ大聖堂(Catedral Sevilla) オレンジの中庭「ナーレンジェスターン」最初に少し紹介したかと思いますが、この教会の特徴は、イスラム時代のモスクの後に増改築するような形で教会が建設されたので、イスラム時代の名残がある事です。アルカサルのところでまた紹介するかも知れませんが、このような融合型の建築も広義にムデハル様式と言ってさしつかえないかと思います。ムデハル様式は、イスラム教徒のモスクなどに見られる建築様式とキリスト教徒の建築様式が融合したスペイン独自の建築スタイルで、レコンキスタ後のアンダルシアに見られる建築様式をさしています。(特に装飾について)このオレンジの中庭については特にその存在そのものがイスラムのモスクにあるべき物で、カトリックの教会に存在する事じたいめずらしいのです。ヒラルダの塔からの撮影です。(天気が悪いのですが・・・中庭を見渡せる写真がこれしかなかった・・・)教会は左側で、教会正面は写真の上部左になります。写真の前にあるのが北側の翼になります。拡大すると中庭を囲む塀も扉もイスラム時代の? か、新たにムデハル様式で建設された? かしたもののようです。内側はイスラムぼくて外側はカトリックぽいです。門は免罪の門以前紹介した写真ですが、門を入ると最初に見える教会の北側(左翼)部分です。写真の天気に差がありますが、気にしないでください中庭からヒラルダの塔と教会の西側がかすかに見えている光景規則正しく配列されたオレンジと木々とオアシスとなる水盤が数カ所。イスラム教の中庭の役割イスラム教の特にモスク等の建築においては中庭は重要な要素を持っているそうです。コーランの示す所、来世である天国を指すのが中庭の役割で、楽園(パラダイス)を象徴する場所でなければならないようです。思想は、アダムとイブのいた楽園が元になっているようですが、死して天国に行った時に暮らす園は、いろいろな木々が生い茂り、泉が湧き出し、果実がたわわになる場所で金の寝台に横になりながらも、手をさしのべれば果物がもげるくらいの豊かな場所・・・密のある場所。絶対的な理想郷を示しているようです。だから、来世の楽園をモスクの中庭に造形する事・・・そのこだわりがイスラム建築に見られる美しい中庭の演出のようです。イスラム教の広まった土地は、もともと乾燥地帯が多く、不毛な土地なので、たわわに実が成る天地はまさに楽園を象徴したようです。コーランではナツメヤシ、ザクロ、イチジク、オリーブ、シュロなどの植物がよく言及されるようですが、やはり実の成る植物が好まれ、ペルシャのモスクでは、オレンジがよく植えられたようです。オレンジの庭園を「ナーレンジェスターン」と呼ぶようです。ここに植えられたオレンジの木は、教会正面の街路樹のオレンジと同じ種のようです。実はとてもすっぱくて誰も採って食べないのだそうです。今もそうかは解りかねますが、アイルランドが輸入してマーマレードを作っている・・と聞いた事があります。教会は、次回残った写真を紹介しておわります。
2010年03月11日
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写真入れ替えました南側(右)の翼廊にクリストファー・コロンブスのお墓がある。教会に興味のない日本人にはこちらの方が興味があろうスペイン(Espana)アンダルシア(Andalucía)州、州都セビーリャ(Sevilla)県、県都セビーリャ(Sevilla)セビーリャ大聖堂(Catedral Sevilla)コロンブスの墓所なぜここに? コロンブスが? 彼はイタリア人では? と思う方、彼はスペイン王の援助の元にアメリカ大陸を発見した・・とされ、スペインの功労者として祀られている。それも破格の英雄的扱いであるのが、その墓所を見れば一目。南側の翼廊前(サン・クリストバルの扉の前)に墓所となる棺があります。大理石に乗った台石の上に棺は御輿に乗ったように4人の王達に担がれている。コロンブスは、スペインでは、クリストバル・コロン。右翼の扉サン・クリストバルは彼の名に因むのか? 彼がサン(聖)になっているのかは不明ではあるが・・・。スペイン帝国のカスティリア王国、アラゴン王国、レオン王国、ナヴァラ王国の四王国を象徴する4人の王に支えられている・・・と言うモニュメント的な墓所なのです。クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus) (1451年頃~1506年5月20日)イタリア、ジェノヴァ出身の探検家、航海者、商人。弟のバルトロメがいるリスボンに身を寄せた時に「地球球体説」(地球は丸い)を知り、それが彼の大西洋航行に影響を与えたと言う。コロンブスの航海1484年、ポルトガルのジョアン2世に航海の援助を求めて失敗。1486年、カスティーリャのイサベル1世とその夫フェルナンド5世に援助を求めるがこの時は失敗。その後レコンキスタを完了したスペインは財政に余裕はなかったが、ポルトガルへの敵対心により女王が、コロンブスの援助をする事を決めたらしい。※資金はジェノバの商人らが手はずを造った。1492年4月17日フェルナンドとイザベルは正式にコロンブスと契約(内容は、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地からの上代の10分の1の獲得)第1回航海出発(1492年8月3日~1493年3月15日)(大西洋をインドを目指した。)ニーニャ号とピンタ号とサンタ・マリア号の3隻で総乗組員数は約90人。その出陣式がこの教会であった。1492年10月11日サン・サルバドル島発見。12月6日にはイスパニョーラ島を発見。1493年3月15日パロス港へ帰還すると宮殿では盛大な式典が開かれた。第2回航海出発(1493年9月25日~1496年6月11日)この目的は植民地開拓と統治目的第3回航海出発(1498年5月30日~1500年10月) ベネズエラのオリノコ川の河口に上陸。これが大陸の発見ではあるが、彼はこれをアジアと言い続けた。ところで、コロンブス兄弟は植民地における統治能力が欠如していたようです。度重なる現地反乱などの失態により彼は失脚する事になる。第4回航海出発(1502年5月9日~1504年11月7日)王からの援助は小型船4隻。帰国するとイサベル女王が死去し誰からも相手にされなくなっていた?後々の事を考えるとコロンブスのおかげでスペインは広大な植民地を南米に展開できたわけで、もっと奉ってあげても良いぐらいですよね。コロンブスのお骨の旅1506年5月20日カスティーリャ王国の王宮がおかれていたヴァヤドリドで54歳で亡くなると一時セビーリャのカルト修道院に納められ、その後1892年に彼が発見)した南米イスパニョーラ島に移動された。※ イスパニョーラ島は現在のドミニカ共和国1898年、エスパニョーラ島(ハイチ)がフランス領になったのを機にフランスと返還交渉。彼はやっと? スペインに戻ってこれた・・と言うわけです。最も彼の故郷はジェノバですけどね。棺は1891年アルトゥロ・メリダ・アリナリによりサントドミンゴの教会の為に制作したもののようです。りっぱな墓所のわけは、そう言う事か・・・。彼が初めての大航海の出陣式がこのセビーリャ大聖堂だった事によりここに安置され現在に至る。お骨は一部、なのだそうです。つい近年DNA検査がされたらしいが、本人かの確認はできなかったようだ。(実はサンドドミンゴの教会にあったりして・・・)所で、この教会には彼の息子の墓所もあり正面入り口から入った床に埋葬されている。彼は膨大な量の古文書をこの教会に寄付したようで、それによりここに埋葬されたと言う。つまり父より先にここにいたんですね。教会はつづくリンク スペイン・セビーリャ 9 (聖アントニウスと画家ムリリョ)
2010年03月09日
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前回は失礼しました。教会の地図が出てきたので、パイプオルガンの位置を見ていて気がつきました。実際、教会内には礼拝所がたくさんあり、どこの祭壇を撮影したか不明な写真が多いのです。(すでに記憶にない・・。)聖堂を紹介する本を見ていても、写真は一部のみで、しかも場所を記していない事。教会の見取り図もの載せていない事。記憶だけでは確定はやはり難しかった・・現地で発行されている日本語訳した本がたいていあるのですが、今回のセビーリャ案内の本は3冊とも駄目本でした。(読んでいて「どこ?」と、思わず突っ込みたくなった・・・)いつもはそういうものに助けられていたのですが・・。さて、気を取り直して、サクサク紹介して行きます。コロンブスの豪華な墓所も近いうちに紹介予定。スペイン(Espana)アンダルシア(Andalucía)州、州都セビーリャ(Sevilla)県、県都セビーリャ(Sevilla)セビーリャ大聖堂(Catedral Sevilla)クワイヤとサンクチュアリ(中央礼拝所)訂正に使った汚い地図ではありますが・・・。仮に上からA 王室礼拝所B 内陣とサンクチュアリ(中央礼拝所・・・黄金の祭壇)C 奥内陣(パイプオルガンのある場所クワイヤ) として説明。C 奥内陣(パイプオルガンのある場所)クワイヤ聖歌隊のポジションであるクワイヤの場所でもあります。聖書台と周りは着座席(祭壇方面から柵越しに撮影)通常は、祭壇と身廊の間、内陣でも端の部分に置かれたり、祭壇の脇に置かれるのですが、ここでは完全に真ん前に陣取っていて教会正面からの視界を遮っています。(現在ではおもいっきり邪魔な場所に位置しています。)クワイヤ(quire、choir)(聖歌隊席、choir、コーラス)「クワイヤ」は、祭壇を囲んだ聖歌隊や聖職者の輪を意味する「corona」から生じたと言われています。当初は講壇に接続して、高位聖職者の席や聖書を朗読する聖書台が置かれていたそうで、ここはその当初の形を保った教会のようです。古い修道院で見かけた事はありますが最近は滅多に見かけない気がします。本によって、「聖歌隊の場所」と記す本もあれば「聖職者の席」と記す本もあります。聖歌は大事なものとして扱われますが、現在の状況では席は僧侶に譲って、ここで歌わないのでは? と思います。奥内陣のブースの周りには礼拝所が付属しています。写真の柱の左が正面の障壁です。柱の右が礼拝所、その奥がパイプオルガンです。図で言うとOの位置です。上のクワイヤの写真の左の壁の裏になります。「伏し目の聖母の礼拝所」は人気のある礼拝所のようです。内陣とサンクチュアリ(中央礼拝所・・・黄金の祭壇)さて、このクワイヤの前方に内陣の聖域(サンクチュアリ・sanctuary)があります。中央礼拝所がそれです。中央礼拝堂前の椅子。右の柵の中が巨大な黄金の祭壇内陣、中央礼拝所。プラテレスク調の美しい格子も必見祭壇と同じように大きな柵が設けられている。巨大な祭壇オプス・マグナム(Opus Magnum)世界の祭壇飾壁の中でも特に素晴らしいものの1つだそうです。ゴシック・フランボワイヤン様式 18m×20m設計者ピーター・ダンカルト。1482年~1492年に制作。ホルフェ・フゥルナンデスの工房で1525年に完成。後に金箔を施す。半立体に彫刻されたこれらの額縁型の彫刻は45の場面が掘られている。非常に精巧である。完成に80年を要したとか・・・。ほとんどの作品はルネッサンス様式。祭壇の彫刻群は殉教者の姿と、セビーリャの情景と大聖堂を現した祭壇以外はすべてキリストの生涯が掘られているという。オプス・マグナム(Opus Magnum)・・・大いなる業ラテン語で、偉大な仕事という意味。大規模な仕事であることを要求され、創作者の最も成功した作品を指す。ここでは大規模な名誉ある祭壇制作において、後世残るべく、成功を納めた技術に対して使われている。が、この言葉はヨーロッパ中世の錬金術の言葉に由来していると言う。横道にそれるが・・・。非金属を金に変換すると言う錬金術。その為に必要な触媒である「賢者の石」の力。それは金属に限らず様々な物質や、人間の肉体や魂をも対象に作用するはず・・・賢者の石は人間を不老不死に変える力を持つとも考えられてきた。それこそが「大いなる業」(パワー)である。王室礼拝堂の格子zつづく
2010年03月08日
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訂正・・・「スペイン・セビーリャ 6 (セビーリャ大聖堂の構造の特異点)」早くもです教会の地図が見つかったので載せて説明。見ずらいですが、教会発行のパンフなので正確です。教会の部だけピックアップしました。地図の編目の部分は立ち入り禁止区域です。訂正は写真の撮影場所先程のイコノスタシスのような障壁の名称は「奥内陣」なのですが、場所は教会の身廊部分にあり、翼廊交差部の手前でした。次に見えるのが内陣の中央礼拝所その次(一番奥)が王室礼拝所です。マウスで急いで書いたので汚い字ですが、目安にしてください。ご迷惑おかけしました。
2010年03月08日
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