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英語をしゃべる人のものまねをするとき私たちはよく「ワッターシ、ニッホンゴ、ワッカリマセーン」なんてふうに言います。わたし、にほんご、わかりません、ではなくて。外国人に道を聞かれて焦って、英語をしゃべっているつもりで「ソコー、ヒッダリー、マーガッテクッダサーイ!」とか。 でも無意識に(?)やってるこのことでも実はみんな分かっている……英語と日本語の「リズム」が違うことを。日本語が均等な「タタタタ」というリズムなのに対し、英語では「タターンタ」のように長い短いのリズムがあるのです。 でもこれこそが、日本人が英語を学ぶときの大きな秘密!なのだということに気づいているでしょうか。リズムについて知ることは、仮にたとえ「英会話はできなくてもいい、受験が問題なの!」という人にとってすら、重要なのです。ましてや会話ができるようになりたいのならなおさら。 それは「ガイジンみたいにカッコよくしゃべろう!」ということともまた違います。 書き言葉と話し言葉では当然違いますが、たとえて言うなら、リズムのない英語を聞いたり話したりすることは、「かきことばとはなしことばではとうぜんちがいますがたとえていうならりずむのないえいごをきいたりはなしたりすることは」という文を読み書きするのに似ています。すぐに頭に入ってきません。もちろん会話でも、このままのひらがなを棒読みしたような言い方をしたら日本人同士だってよく分からないでしょう。日本語には日本語なりのリズム、というか抑揚があります。日本語は「音程」の言語(音の高い低い)ですね。英語では、音の長さがむしろ肝要です。リズムの言語です。 英語では、リズムこそが、意味のまとまりを伝える要素にもなっているのです。リズムを知り、それに慣れれば、聞いた英語が頭に入ってきやすくなり、聞き取れるようになります。話したらスムーズに発音もできて、相手にも理解されやすくなります。そして、もっと慣れてくれば、音声のない書き言葉を初めて読んでもリズムが聞こえてきて、速読が可能になります。平板でないメリハリのある印象となって文を覚えやすく、ひいては文法的なことも楽に覚えられるようになるのです。 カラオケに行くと、日本語の歌で知らない歌を誰かが歌っても、知らないから一緒に歌えません。でも英語の歌だと、たとえ知らない歌でも、なんとなく一緒に口ずさめます。歌うとき一緒に口ずさむのは音程よりリズムの問題。音程がずれていてもリズムさえ分かればある程度口ずさめます。英語はリズム中心の言語なので、英語の歌ならけっこうどうにかなってしまうのです。(もちろんリズムを体得してから、の話ですが、逆に英語の歌を歌うことがリズムを体得する練習になります)
Aug 10, 2018
小学校など、早期に英語教育を導入することの是非については、様々な要素が絡むので簡単に言えないのだが、導入が小学校であれ中学校であれ、私は、少なくとも最初の1年間は、「テストをするな」と言いたい。特にペーパーテストは無用、というか百害あって一利なし。始めの段階では、「評価される」より、道具として英語を使ったときにそれが通用して「楽しい」という感覚を得るべきだと思うから。楽しい感覚がベースにあればモチベーションが自然に上がる。そもそも他の教科でもそうなのだが、テストで評価されることをモチベーションにするという発想自体が変わるべきであると私は思っている。が、まあこれについての話はまた改めて別の機会に。だが、「テストをするな」のさらなる本質は、「(導入時点で)英語を日本語に訳したりするな」ということなのだ。少なくとも「逐語訳」は避けるべきである。前に書いたように、たとえばitには実は日本語に対応する語がない。だがそんなことを中学生や小学生が理解できるだろうか。逐語訳的に日本語を対応させていく中では、itをとりあえず「それ」と言っておくしかない。だがそこに「間違い」がある。従来の英語教育は、最初から「間違ったことを教える」宿命にあるのだ。日本語と英語はそもそも文の構造が根本から違うのだから、単語を日本語に「訳す」教え方ではそうなってしまう。最近ではさすがに少しずつそのあたりが見直され、中学1年生の教科書もかなり実践的なモノになりつつあるようではあるが、まだ根本的ではない。「テスト」とやらをやると必ずと言っていいほど、「訳せ」という問題が入る。仮にどうしてもテストをしなくてはならないのなら、たとえば会話をしているイラストの吹き出しの中に適切な語や文を入れる、などのような問題ならまだいいかもしれない。ペーパーテストではなく口頭でのテストならなおいいが、現場的にはまあ無理だろうな。(とはいえ最初に書いたように、いちいち「評価される」ことで生徒がイヤになってしまうという弊害はやはり避けられない)英語教育には、将来的に英語の読み書き(会話だけではなく、論文を読んだり書いたり)ができるようになる目的もあるのだから、という説もあるが、たとえそういう目的であったとしても、最初から「間違ったことを教える」教育ではその目的すら達成できない。母国語だって、最初は読み書きではなく会話から始まり、その上で読み書きが楽にできるようになるではないか。読み書きから始まる語学教育はありえない。英語を教えるときに日本語を絶対に使うな、ということとはちょっと違う。たとえばシチュエーションを説明するときなどに日本語を使ってもいいと私は思う。「あなたはノートが欲しいので文房具屋さんに行きました。お店の人になんと言いますか」みたいなことなら日本語で指示してもいいはずだ。こういうところまで無理に英語を使って、生徒が混乱するのでは意味がない。ただ単語や文そのものを「訳す」作業は避けなければならない。英語を習い始める最初の最初から、英語というのは日本語の論理とは全く違うものなのだということを、おぼろげながらであっても生徒たちに感じさせなければならないのだが、「訳」をさせる教え方ではそれは伝わらない。生徒のほうも、たとえばIt's hot today!という文を教わったとき、itってどういう意味?と聞きたくなると思うが、教師の方は少なくとも最初のうちは「それはあとで分かるようになるから、今は文全部の意味だけ分かるようになろうね」で済ませた方がいいのである。英語は日本語と全く違うので、単語ひとつひとつを訳すことはできないのだ、ということを言ってしまってもいい。百歩譲って訳すとしても、絶対に、「単語単位」でやってはいけない。hot だけではなくcold やwarmを導入したければIt's hot. 「暑い」 It's cold.「寒い」 と文単位で言うしかない。とにかく、英語教育導入の初期段階で一番分かってもらいたいことは、むしろこの「英語は日本語と論理が全く違う」という点なのである。だから、最初うちしばらくは、単語単位の訳を意識させてはいけない。単語単位で英←→日で置き換えることは不適切なのだということを分かってもらいたい。だから可能な限り「文」の形で導入する。その際、冠詞の使い方などにも(教える方が)注意して正しく言わないといけない。penはpenではなく、a penかthe (またはhis とかthisとかその他の限定詞)+penか、pensの形でしかない。文にしても、前項に書いたように、This is a pen.のような「特殊な」形でいきなり言わせるのではなく、What's this?-- It's a pen. という自然な形を必ずとって導入する。理屈ではなく、とにかく実践で、ごくごく基本的なことを、正確に、じっくりと体に刷り込むように覚えさせる。こういう状況ではこういう言い方をする、という「経験」を積ませていく。たくさんのことを覚えさせる必要はない。けれどとくに本質的な日本語との違いがあるようなところをこそ、むしろ最初から打ち出していく。代名詞や冠詞の使い方、助動詞の使い方のようなところである。もちろん、あくまで、知識ではない「経験」として。冒頭に、英語教育の早期導入の是非については簡単に言えないと書いたが、私自身はどちらかといえば賛成である。ただし、あくまでこのような形であれば、ということだ。小学校では、できればネイティブの教師と一緒に英語で遊ぶ、というような形であるべきと思う。ゲームをしたり歌を歌ったり、劇をしたり。英語のテレビ番組を見るだけだっていいと思う。そういう点では、そういうことをやるならやはり中学よりは小学生のほうが抵抗ないとも思えるから、やはり小学校で導入するのは基本的に悪くない。小学校高学年の2年間ぐらいそうやってたっぷり英語の「経験」を積めば(テストなどやらずに!)、中学になってからいよいよ読み書きも含めた「理屈」のともなった学習をするための土台ができる。その土台ができてしまえば、今度は逆に、しっかりとした理屈を教えていくことができるし、必要になる。まず文型を教え、品詞を教える。そこで初めて、「単語」単位で考えても混乱しないようになる(とはいえやはり単語単位で「訳す」のは御法度だが)。これまで「体感」していた日本語との論理の違いに、ちゃんとした知識の裏付けを与えてやれる。それからその先の文法を教えていくようにすれば、文法というモノがややこしくて厄介な代物なのではなく、自分の言いたいことを伝えていくためにさらに技術を高めていく便利なツールであることがよく実感できるはずである。最初に間違ったことを教えてしまうから、その後ず~~っと修正されず、ワケ分からなくなって、イヤになってしまうのだ。今から思うと、私自身、たしかに大学を卒業した時点では英語はしゃべれなかったが、それでもその後本格的に志してからの習得がけっこうスムースだったのは、小学校低学年の時に上記のようなコンセプトの英会話教育を(学校外で)少しだけ受けていたからだと思う。ラボパーティという、教師の家に行って「英語で遊ぶ」という感覚の教室で、丘の上にある瀟洒な一軒家で、授業よりむしろ終わってから紅茶とケーキが出ることや、広い芝生の庭でその家のお嬢さんや犬たちと遊ぶ方が楽しかった記憶がある(我が家とは雲泥の差の上流階級の家!という感じに憧れ、週に1回でもその雰囲気に浸れるのが嬉しかった)。あまり詳細は覚えていないが、そこでは「訳」などはせず、紙芝居のような絵を見ながらそのセリフを覚えていくのが中心だったと思う。先生はネイティブではなく、英語のしゃべれる日本人の女性だった。授業も「英語だけ」で進んだわけではない。けれど逐語訳などではなく、あくまで英語が「場面として導入」されていた(と思う)。その時点ではさして「分かっていなかった」し、それだけでしゃべれるようになっていたわけではない。しかもその後の学校英語教育でむしろスポイルされてしまった気がするが、日本語と根本的に違う英語の「感覚」や「論理」がおぼろげではあるが無意識に刷り込まれていたのだと思う。
Mar 26, 2009
That's it!That's it. というのは極めて便利な表現である。英辞郎で調べると、「6つも」意味がある。だがまあ上の2つと下の4つでおおざっぱにくくってしまえば、「その通り」という意味と「以上でおわり」という意味のだいたい2つと言ってもいい。しかしこういうフレーズが日本人の英語学習者には一番難しい。That=「あれ」 it =「それ」 だと思いこんでいるとますます難しい。「あれはそれだ」 ……????もっとも「あれ」とか「それ」というのは日本語でも難しいですね。「まあ、それはね、アレですよ」なんぞと曖昧にごまかすような言い方を外国人が簡単に習得できるとは思えない…、…というのは話がそれました。元に戻す。Thatは「あれ(相手からも自分からも遠い)」である場合もあるが、相手の近くにある場合、つまり日本語での「それ」にあたる場合もある。That's it.におけるThatは後者である。とにかく、自分の手元から(少しでも)離れたものを「指し示して」いるのがthatだ。That's it.というフレーズにおいてはたいがいの場合、指し示しているのは具体的なモノではなく、言葉やアイデアや状況を指しているのだが。では「it」のほうは?「それはそれだ」じゃますます分からない…。前項でも言ったが再度言う。It は「それ」ではない。実はitには日本語で対応する語がないのである。Itは何も「指して」いない。なぜなら、「すでにお互いが分かっていること」こそがitなので、改めて「指し示す」必要がないのだ。だから「それ」ではない。すでにお互いが分かっていることを、日本語では言葉にしない。「私、チーズケーキ好き」「あ、私も好き!」英語にしたら"I like cheesecake.""Oh, I love it too!"必ずここにitが入る。I love! だけでは不完全である。だがこれを再び日本語に訳すとき、中学生などはしばしば「私もそれが大好きです」などとやる。しかしこれは日本語として自然だろうか? 否、である。普通はこんなふうに「それ」とか言わない。前項でしつこく出した"What's this?""It's a pen."にしても、「これはなんですか?」「それはペンです」では、いかにも「訳しました」という雰囲気になる。普通の会話では「これはなんですか?」「ペンです」だろう。これまたこれを再び英訳して"What's this?""A pen."…これでももちろんいいのだが、ネイティブはかなり自然にIt'sをつける。しいて言うならば「です」の部分がbe動詞のisにあたるわけで、上のやりとりを「正確に」またしても和訳したら「これはなんですか」「ペン」…と、そうとうぶっきらぼうな響きである。実は it だけではない。他の人称代名詞のhe やsheや、I やyouでも、それらは「どれ(だれ)を指しているのかすでに分かっている」もの(人)について使うので、日本語ではたいがいの場合表さない。"Who is that man?""He is the new teacher."「あの人だれ?」「新しい先生だよ」ここに「彼は」とか入れるととたんに「翻訳くさく」なってしまう。"I'm hungry."これにいちいち「私は」などとつけて訳す必要がないのは明白だろう。"You are late."「あなたは遅刻です」などとは言わず「遅刻ですよ」だけで済む。「言わなくても明らか」なものは言わないのだ、日本語では。かつて私は、日本語には「主語」がない、省略する、と思っていた。では実はそれは正確ではなかったようだ。主語だけでなく目的語であっても、「自明なもの」を省略するのが日本語のクセなのである(逆に言えば、主語でもその場において自明でなければ当然コトバとして持ち出す)。それはつまり日本語では「文型とか語順はどうでもいい」からなのだ。「てにをは(助詞)」で必要なパーツをくっつけていけば成り立つ。しかし「文型・語順がイノチ」の英語は、自明だからといってやたらと省略してしまうわけにはいかない(省略できるところも多々あるが)。文型が崩れてしまうから。だから、「代名詞」というものがたくさんあることになるのである。文型を成り立たせるために、そこにとりあえずダミーを(?)置いておかなければならないからだ。逆に言うと日本語では「代名詞」というのは本来はないはずなのである(そこにむしろ、自分を表す言葉…僕とかワシとかおいらとか…や、相手を表す言葉…君とかオマエとかあんたとか…が他種類出現する余地があったのだとも言える。)Itに話を戻す。つまりは、お互いすでに分かってしまっている自明の(特定の)モノのうち、he,she,I, you,we,theyという代名詞で表せるモノ以外の「すべて」をitは受けている(「指している」のではない!)。「天候・時間・寒暖・距離のit」などと習ったことがある人も多いと思う。そして「そういうitは日本語に訳さない」などと言われる。だがこれまで述べてきたことでおわかりのように、it は「いつだって訳さない」のが自然なのだ。問題は、英語から日本語を考えるときitを訳さないというのは、まあ意識すれば簡単としても、その逆はかなり難しいと言うことだ。日本語では言ってさえいないものを、ダミー扱いとはいえ、英語では改めて持ち出さなければならないのだから。これに慣れるのが英語習得の上ではひとつのキーポイントである。日本語に本来存在しない概念をマスターするのだから、ことはそう簡単ではない。だが、効率的な攻略の第一歩は「敵を知る」ことだ。これをキーポイントとして意識することで習得の効率はよくなると期待される。とりわけここでとりあげている「it」と、もうひとつ「you」も重要である。これまたyou=「あなた」ではない!からなのだ。(さらにいえばthey=「彼ら」でもない)英語学習はオベンキョウではなく、運転免許を取るのと同じような、「技術の取得」である。理屈だけ分かっても使いこなせないが、やみくもに暗記してもやはり使いこなせない。「理屈を知って、かつトレーニングする」のが正しい「技術の取得法」である。ということで、日本語に存在しない「代名詞」、とりわけitとyouについて、次項以降でもう少し掘り下げてみていこう。That's itについての謎解き(?)もそちらでまた。
Mar 20, 2009
きのうの時点でひとつUPしてしまったが、現時点で考えている項目のラインナップをまず提示しておこう。従来型の知識にけっこう「挑戦」しているつもりである。今後徐々に本文を書いてUPしていく。構成もいずれ整理する。 ★ "it" は「それ」ではない。★"it"は日本語に対応する語がない。★"that"は常に「あれ」であるわけではない。★"you"も常に「あなた」というわけではない。★日本語には「代名詞」が本来「ない」。でも英語ではかなり大事。★日本人は基本的に"Yes"と"No"も誤解している。★英語には実は「未来時制」はない。★過去形も本来は「過去」形ではない。★ing形は「進行形(現在分詞)」でも「動名詞」でも実は正体は同じ。★過去分詞も、別に「過去」じゃない。★不定詞の「3つの用法(名詞的・形容詞的・副詞的)」の区別はどうでもいい。★不定詞のtoと、go to Americaというような前置詞のtoは本来同じモノ。★「現在完了」はあくまで「現在」である。★関係代名詞は特別なモノじゃない。★助動詞というのは意外にも「かなり大事」★リズムを捉えることが一番のキモ!★「アクセントがある」ということはイコール「長い」ということ。★「半分の長さ」しかない弱音を捉えるのが重要。★舌の位置が、始めから日本語とは違っている。★口の「中」を大きく開ける。★大きい動きの方がスピードが出る。★リスニングを鍛えるには、発音してみるしかない。★リズムがないと文法も覚えられない。
Mar 20, 2009
途中で挫折してすっかり間が空いてしまったが、全面的「再構築」を検討中である。だがとりあえず、書いたことをそのままUPしていこうと思う。サイトを整理するのはまたのちほど…。(すでに書いた内容の焼き直しである部分もあります) This is a pen.…最近は少し違うらしいが、私がこどもの頃、最初に習う英文といえばこれであった。「おれ英語しゃべれるぜ、ジスイズアペーン」などとギャグにも使われる定番ともなった。かつて「ザ・ガイジン」という、ほんとの「外人」が、彼らが実際に日本で出会ったり感じたりしたことを題材にコメディをやっている劇団を見に行ったが、ここでもやはり、ランドセルを背負った小学生に扮した外人が、「ガイジンに扮した外人」を見つけて「あ!ガイジンだ!ジスイズアペーン!ジスイズアペーン!」と叫びながら追いかけていくというシーンが観客の外人たち(&日本人たち)を爆笑させていた。けれどこの英文、実用としてはほとんど「使い物にならない」のである。ジスイズアペーンと言われても、言われた方は普通、「……。…で?」としか言いようがない。いや、別に上のように町中でいきなり叫ばれたわけでなくても、だ。目の前に実際にペンがあり、それを指してこう言う、という、「まったく正しい」文脈であっても、である。これは何?と聞かれて答えるなら「これはペンです」もあり得るかもしれない。でもその場合は"What's this?""It's a pen." であって、This is a pen. とは普通ならないそういえば、なんでWhat is this?と聞いたのに答えはIt's a pen.になるの?なまじ典型的な優等生だった私は当時ぜんぜん疑問に思わなかったのだが、これに疑問を持つ人の方が本当の意味で賢い人だと思う。中学生の時は、上のやりとりを「これはなんですか」「それはペンです」と「訳して」いて、つまり、This=これIt = それ…なのだ、と思い込んでそれで納得していたのである。たぶん、けっこう多くの人がそうなのではないだろうか。しかし実は、それはぜーーんぜん違うのである。かつての英語学習はもう第一歩目から、つまづいている、いや、どちらかというと「つまづかされている」状態だったのだ。つまづいたコドモを助け起こすどころか、つまづいたことにすら気づかないまま学習は進んでいき、コドモはいわば立ち上がらずに這ったままズルズルジタバタしていたようなもんである。でも今、声を大にして言わなければならないのは、This=これ That =あれ It =それ ではない!…ということである。日本語のいわゆる「こそあど」(これ、それ、あれ、どれ、ここ、そこ……etc)と英語の指示詞はそのシステム自体が異なっているのだ。日本語は「自分に近い」=「こ」「相手に近い」=「そ」「自分からも相手からも遠い」=「あ」という3つの分け方をしているのに対し、英語では「自分に近い」=this(these)「自分から遠い(相手に近い場合もそうでない場合も含む)」=that(those)の2つにしか分けていない。じゃ it は?it は、実はthis やthat の仲間ではないのである。ここで少し話が変わるが、初対面の人同士を紹介するとき、主語としてはやはりthisを使う。"Jane, this is my friend, Peter." のように。時々こう言うのを聞いて、「人に対して『これ』なんて言って失礼じゃないんですか!」とか言う人がいるが、もちろん失礼じゃない。彼らには自分が『これ』などとモノ呼ばわりされたようには聞こえていない。日本語に訳すならこの場合は「ジェーン、こちらは私の友人のピーターです」てな感じであろう。もうひとつ、たぶん誰でも知っているだろうが、電話で名乗るときはI'm Leila.とは言わず"Hello, this is Leila."と言う。これもやはり日本語にするとすれば「こちらはレイラです」というところだろう。どうして、人を指しているのに、IとかHeとかSheとかの「人称代名詞」ではないのか?ここにitのヒミツもあるのだ。つまりitはどちらかといったら、IやHeやSheの仲間であり、thisやthatとは「シマが違う」のである。上に書いた、初対面の人同士を紹介する場合、最初はThis is~と言うが、その後はすぐにHeとかsheに切り替わる。電話でも、最初に名乗った後は普通にI~で話を続ける。電話だからといっていつまでも自分のことをThisと言っているわけではないのだ。つまり、this やthat は、人であるかモノであるとに関わらず(あるいは、言葉や概念や行為である場合も)「(初出を)紹介する」機能を持った語なのである。それまでスポットライトが当たっていなかったものに、ぱっとライトを当てる。相手はライトが当たったモノに、ほい、と目を向ける。そのための言葉なのだ。注目してもらうためには「位置」も問題だが、ともあれ話者の近くか遠くかだけが区別される。手や指や、あるいは目線などで「どれを指しているのか」を分かってもらう必要も当然ある。それにたいし(あとで改めて説明するが)、itやheやsheやIなど普通の人称代名詞には、そのようにスポットライトを当てる機能はなく、逆に、「すでにスポットライトが当たっている」(話している同士が互いに分かっている)人やモノしか受けることができない。すでにスポットライトが当たっているので、それが「どこにあるか/いるか」はもはや問題ではない。それは自明なのである。だから。"What's this?"となにかを指し示しながら尋ね、たずねられたほうはもう指し示す必要がないので"It's a pen."と答えればよい。(逆に言うと、What's it?というのはありえない。指し示さなければ尋ねることも出来ないから)相手がまだ認識していないモノ(スポットライトが当たっていないモノ)をいきなり持ち出してきて、聞かれてもいないのに"This is a pen."と言ったら相手は「はい?」となってしまうというのがこれでお分かりになるだろう。ただしもちろん、この文を使う状況が皆無なわけではない。たとえば、いろいろなものが雑多にあって、それぞれが何であるのか説明していく必要があるようなとき…そう、まさに「英語の授業のはじめの頃、教室にあるモノの英語名を説明する」ような場合にはこの形の文が成り立つ。This is a pen, This is a book, That is a desk...などと次々指し示しながら紹介していくのである。そういう状況があるが故に、英語の授業の始めの方でこの文が出てきてしまうハメになるのだろうが、困ったことにその後に実生活で自然に応用していくのが難しいのである。(だから、コドモにまずものの英語名を覚えさせるときは、別に単発の単語だけでいいのではないか)このたぐいの文を使うその他の状況は…あるいは手品でもやっているとき?なにかの実験などの手順を説明しているとき?ああ、テレビショッピングとかで商品を紹介するときにもあるかな。ともあれ、けっこう「特殊な」場面しか思いつかない。似たような文構造でも、This is my pen.ならばとたんに「自然」になる。ほかにもいくつかあるペンと区別して「これ」は「私の」ペンだ、と言っている状況だと自然に思えるから。こういう諸々のことを、「実感」して「ピンと来る」ようになるためには、act out、つまり「実際にやってみる」が不可欠だ。簡単である。そこらにあるペンをとりあげて、とりあえずThis is a pen.と口に出してみて下さい。自分でも「……で?」という気分になるから(^_^;)。ここであとに続く内容は、やはりそのものについて何らかの紹介を続けるというぐらいしか思いつかない。アメリカの小学校にあるShow & Tell (なにかを見せながら紹介する)クラスの課題みたいになる。あるいはやっぱりテレビショッピングである。だが同様に、そこらにある本をとりあげてThis is my book.と言ってみる。すると(英語でなくてもいいが)「あなたの本はそっちだよ」とか「これはこの間古本屋で買ったんだ」とか「読み終わったら貸してあげるよ」とか、とりあえずそこにつなげて言いたくなることも思い浮かぶはずである。(同様に、This is the book I bought yesterday. 「これが昨日買った(例の)本なんだ」のように限定したアイテムに言及するのなら自然である。This is a pen.の問題点は実は冠詞の「a」のほうにもあるのだが、これについては後ほど改めて)ここで「とりあげて」言う、が大事である。「手元にあるモノを指し示して紹介する」のがthis なので。thatを使ってみたければ、相手の手元にあるモノや、とにかく自分の手元にはないモノを指や目線で指し示しながらThat is~と口にする。まずはこのthis とthatの感覚を身につけることが、結果的に「それとは違う種類である」itの感覚を理解する助けになるかもしれない。なにをあたりまえのことを、と思う方もいるかもしれない。でも、英会話学校で20年教えてきての実感として、this やthatを口にするときにまったくなんの指し示すアクションも、その気もない、という生徒さんがほとんどなのである。そのことは「分かってない」ことの如実な証拠なのだ。感覚が身についていれば、たとえテキストをなぞっているときであっても、そういうアクションはわずかでも本能的に出るはずだから。
Mar 19, 2009
10月始めに書いて以来、ぱったり更新が途絶えてしまい申し訳ない。理由の一つは、10月から始まったNHKの「連続テレビ小説」(通称:朝ドラ)があまりに面白く、私のもうひとつのテーマともなっている「朝ドラ私評」に熱が入りすぎて余力がない、ということで(^^ゞあと、「it」についての考察でちょっと挫折し掛かっているというのもある。つまり、「理屈はある程度説明できる、けれどそれを『実感』してもらうにはどうしたらいいのか」という点で。私としては、英語を習い始めた中学生にも分かるようにしたいという野望があるのだが、これまでの説明の仕方ではたぶん中学生にはちんぷんかんぷんではないかと思う…。* ***** やっぱり理屈を「体感」するには、「体験」するしかない。典型的で単純な例文を、毎日口に出す、ということがとりあえずは、英語を実際にだれかとしゃべるような機会のあまりない日本人にとっての「体験的トレーニング」になる。「天候・寒暖・明暗・時・状態・距離・その他事情のit」が、むしろitを体感的に捉えるには好都合かもしれない。たとえば、朝起きたらすぐ、または外出したらすぐ、その日の天候などについてひとことコメントするのを習慣にするようにしたらどうだろう。It’s cold [hot/cool/warm] today!とかIt’s a beautiful day today!とかOh, it’s raining today…とか。(こういう場面で言いそうな文例リストを作っておいたのでご参照ください)少し慣れてきたら、種々の「状況」についてコメントするような文例を覚えて、それを使ってみる。It’s tough. (tough=辛い/大変だ/困難だ/キツイ/キビシイ etc.)It’s a pain. ( a pain =めんどうくさい、しんどい、やっかいだ)It’s a waste of time [money/ energy] (~のムダ)う。なんだかネガティブなことばかり…(普段の生活が思いやられる?)。ちったあイイカンジのことも…。It’s fun.(楽しい)It’s rewarding.(やりがいがある)(これも文例リストを作りました)だが実は、上のような文例でも、現在実際にやっていることについて言う場合はThis is fun!と言うほうがハマる。いまここでやっていること、自分がその渦中にいること、はthisで示すと生き生きした感じになる。また、だれかが言ったことを指す場合は、前にも書いたようにthatで示す。ではIt is ~はどのように使うか。ここで、実は日本人が比較的得意な構文と言えるIt ~to~構文というのを思い出して欲しい。つまりIt is fun to play soccer.こういう構文では、itはto 以下を”指して”いて、仮の主語であり、本当の主語はto 以下だ、などと習ったはずである。しかし実際は少し違う。Itは別に「仮」というのではなく立派な主語で、つまりは「状況の全体を受けている」ものである。そしてto以下が、その状況を具体的に説明してやるのだ。発想としてはIt’s fun! …to play soccer.「(状況は)楽しいなあ!(その状況とは)サッカーやるってことさ」何度も言ってきたが、英語をしゃべる人間が発想するときにいちいち「後ろから訳す」的な発想をするわけがない。「翻訳」としてこなれた日本語にする必要がある場合を別として、英語を理解するときにはあくまで発語された順に理解していくべきなのである。具体的な内容はto~(不定詞)だけではなく、動名詞で示してもOKである。ちなみに寅さんの映画「男はつらいよ」の英訳は「It’s tough being a man」となっていた。状況の具体的内容が「言わずもがな」つまり説明しなくても明らかな場合なら、to~で説明する必要がなくなる。だからIt’s fun!だけで成り立つのである。今まさにやっていることについてitを使うとやや客観的な感じになるが。一方、前述のようにThis is fun! はもっと直接的に「これ、楽しい!」と状況にハマっている感がでてくる。ともあれ、こういうのは「使ってみること」に意義も効果もある。だからこそ、「日々の生活でいかにもいいそうなこと」をいくつか、感情も込めて繰り返し口に出して練習して覚え(頭で暗記するのではなく、口と心に覚えさせる!)、そういう状況においてすかさず独り言ででも言ってみるということを心がけるといい。単語を覚えるとか文型を覚えるとかが主眼ではなく、単語の「キモチ」(ここでは ” it ” のキモチ)を「体験」することが大事なのである。このカテゴリのマトメ読み
Dec 10, 2007
前項で、itは「日本語に訳せないときがある」のではなく、基本的に大概の場合、itの概念は日本語になじまないのだ、というようなことを書いた。それをもう少し解説する。"it"が何か具体的なものを指す…いや、受けているときであっても、日本語ではっきりと「それ」などと訳すことは実は少ないと思える。"My boyfriend take me to a new Italian restaurant last weekend. It was reeeealy good."(先週末、彼が新しいイタリアンレストランに連れていってくれたの。すっごく良かったわよ)こういうとき、「それはすごく良かった」などと訳したらカッコ悪い。というか、ふつうそんな風には言わないでしょ? でももちろん、itがそのa new Italian restaurantを「受けて」いることは間違いないのだが。だがそれをいちいち「それは」などと訳したら、「へたくそな翻訳」臭丸出しである。 日本語として不自然なのだ。日本語は基本的にあまり主語をたてないわけだが、それは大概の場合、「言わなくても分かる」状況だ。言わなくても分かる、というのは、つまりもうそれがすでに話題になっているので今更「指し示す必要がない」からである。もっとも、実は「主語」に限った話ではない。日本語は目的語だって言わない。”I saw Kimutaku's new drama.""Oh, I saw it too! I liked it."(「キムタクの新しいドラマ見たわ」「あ~あたしも見た~。気に入ったわ!」)「あたしもそれを見た」「あたしはそれを気に入った」なんてあまり言わない。「あ~、それ、あたしも見た!」と強調する気分ならむしろI saw that! と、相手のことを指さして(正確には相手の話した言葉。漫画なら「吹き出し」を指さすところか)言うかもしれない。上記の例は、「いま話題にしている」具体的なものを受けて(あくまで「指して」じゃなくて)いる場合だが、たとえば、今その渦中にいる「状況の全体」、についても、日本語は言及せず、英語ではitを使う。「なんか寒くなってきたね」It's getting cold, isn't it?そう習った人も多いかもしれないが、天候・寒暖・明暗・時・状態・距離・その他事情のit、というやつだ。「このit自体には意味がありません」などと習ったりすることもある。とんでもないことだ。意味のない言葉などない。日本語で表現しないから「意味がない」というのはあまりにも乱暴な言いぐさである。とはいえ、哲学的に言えば、たしかに「言葉こそが意味を作る」わけで、日本人にとってはこういうitが表す世界には意味を感じ取れない。ましてや中学生などにその「意味」を説明するのは至難の業だ。「天候・寒暖・明暗・時・状態・距離・その他事情」とカテゴライズするのが、ある意味「ラク」なのである。だがここに、英語が身に付かない理由もある。ともあれ、このitは、「状況そのもの」を受けているのだ。前述のように、「具体的なもの」を受けている=つまり、意味はしっかりある=itだって、日本語に訳すと不自然な場合の方が多いのである。これまた主語だけではなく、たとえば新しい場所にやってきて「ここ、気に入ったよ」なんて言う場合も、目的語をitにして、I like it here.などという。誤解されやすいが、hereは名詞ではない(副詞であり、意味は「ここに」とか「ここで」とか「ここへ」とかなのである。「ここ」という意味ではないのだ)。目的語というのは名詞でなければならないので、likeの目的語をhereとしてI like here.というのは文法的に間違っている(他動詞であるlikeには『必ず』目的語が必要でもあるし)。I like it here. なら、「ここにおける『状況』は気に入った」ということで成り立つのだ。このカテゴリのマトメ読み
Oct 5, 2007
入試や学校のテストの長文問題でときどき「文中の下線を引いたitが具体的に指しているものは何か」などという設問があったりする。だがこの設問は、設問自体間違っている。itは何も「指して」いない。今まで何度も書いてきたように、「指す」のは指示(代名・形容)詞this/thatの仕事である。「え? でも itが具体的に何を表しているかってちゃんとあるでしょう?」そうなのだが、「指して」はいないのだ。正確には「受けて」いるのである。なんだ、ささいな言葉遣いの違いでいちゃもんつけているのか…と思われそうだが、これはそれなりに本質的なことなのである。thisやthatの役割である「指す」という行為は、今まで焦点が当たっていなかったものに、そこで新たに(または改めて)焦点を当てる(当て直す)ことだ。それに対し、itが表現することができるのは、「すでに焦点が当たっている」ものなのである。だからそれは「指す」のではなく「受ける」というのが正しい冒頭の設問は「文中の下線を引いたitが具体的に受けているものは何か」なら問題ない。itは日本語に訳せないことがしばしばある、と学校の読解とか文法のオベンキョウでもよく言われる。たとえば形式主語のitとか、天候などを表すitとかについてそう言われる。だが実は、itは「ほとんどの場合」日本語になじまない、と言う方がむしろ正しい。"What's this?" "It's a pen."これを「和訳」すると、「これはなんですか?」「それは、ペンです」とするだろう。これは一見正しそうだが、実際の日本語の会話では、「これはなんですか?」「ペンです」のほうが自然だ。わざわざ「それは」なんて言うのは実際はそんなにないはずである。「それは」と言うなら「これはなんですか?」「え?どれ?それ? それはペンだよ」というような文脈ではないか。これを英語にすれば"What's this?" "Which? Oh, that one? It's a pen."つまり、あらためて「指し示しなおして」いるような印象だ。これまでにも書いたが、日本の英語教育では(そう教科書に明記してあるかどうかはともかく、結果的に習った人に擦り込まれてしまうのは)this=これ that=あれ it = それという図式ではないかと思うが、本当はthis =これ(自分のもとにあるものごとを「指す」)that =あれ、または それ(自分のもとにはないものごとを「指す」。相手の近くにあるか遠くにあるかで日本語は変わるが)そしてit = ・・・・・ (その場で焦点の当たっているもの・こと・状況を「受ける」)なのである。そもそも主語をほとんど使わない日本語においては、「その場で焦点の当たっているもの・こと・状況」をわざわざ言葉にすることは滅多にないと言っていい。話は少しずれるが、最近若い人と話しているとしばしばA「○○の件はどうなっているの?」B「は~、ちゃんとうまく行っています」などという受け答えをされることがある。Bの「は~」は、「Ha~」ではなく「Wa~」の発音。つまり「(○○の件)は~、ちゃんとうまく行っています」と言っているつもりなのだ。もはや「それは」とも言わない。だがひょっとすると、従来の会話では「は~」もなく、A「○○の件はどうなっているの?」B「はい、ちゃんとうまく行っています」となるところかもしれない。「は~」によって、「その場で焦点の当たっているもの・こと・状況」をとりあえず「受け」ましたよ、と示しているのだ。itの気分が半分だけ顔を出していると言えなくもない。むしろ英語の発想に近づいている??このカテゴリのマトメ読み
Sep 21, 2007
That's it!という表現をご存じだろうか。どこにも難しい語のない、というか「基本語」しかないごく短いフレーズ。だがこのフレーズをしっかり理解して使いこなせる人は、日本人英語学習者にはそれほど多くはないのではないか。標準的な(?)日本の英語教育的知識からなんとか理解しようとしても「あれは、それだよ」とかになってしまい、「???…」これは、簡単に言えば「それだ!」である。つまり、様々な場面で、だれかが「正解」「本質」「うまい解決法」などと言い当てたりしたときに使う言葉だ。たとえば「どうしたらいいかなあ…(What should I do...)」「Johnに電話して聞いてみたら?(How about calling and asking John?)」「それだ!Johnならこの手のことには詳しいよね(That's it! John knows a lot about this kind of things.)」「それだ!」の「それ」は"it"に当たるのだろうか? この場合、たぶん違うのではないかと思う。むしろこの「それ」はthatのほうだ。今まで述べてきたように、that(やthis)には「指し示す」働きが強い。「それだ!」と言う場合、相手のほうを指さしたりしたい感じになるだろう。もっとも、「日本語には主語がない」と考えると、Thatの部分は無視され訳されず(指さす身振り自体がその訳語かも)、「それ=今求めている情報=it」となる、と解釈できなくもないので微妙である。つまり、「それだ!」の「それ」は「あなたが今言ったこと」(=that)なのか「今まさに求められている情報」(=it)なのか定かでないということだ。ともあれ、That's it. は正確に言えば(上の例に挙げた文脈に則せば)「あなたの今言ったことは、まさに今求められている情報だ」という意味なのである。日本語で「それだよ!」と言った場合の「それ」がどちらを指しているかはともかくとして(しかしそういうことが分かりにくい言語である日本語を母国語とするものが、英語を習得しようとすることには確かに困難がある)、「it」の本質とは、この「今まさに求められている情報」であり、上の例の文脈から離れてもっと一般化するなら「今、焦点となっているもの(こと・状況)」ということである。決して単純に「it = それ」ではないのだ。itにまつわる話はたぶんとても複雑になるので、小分けにして書いていこうと思う。ということで今日はここまで。ちなみに、That's it.についてもっと詳しくはこちらこのカテゴリのマトメ読み
Sep 20, 2007
すっっっっっっかりサボり続けてしまいました。今年の夏の猛暑で(夏ばてというほどではないけど)ぐったりしさらには浅草サンバカーニバル準備の忙しさもありあとは、「it」の解説をどのようにするか考えあぐねている部分もあり…てなことでどんどん後回し後回しになっておりました。もちろん、なんとか再開するつもりですが、まだ暑いのは続いているし内容も吟味中なので、いましばらくお時間下さい。軌道に乗ればまた頻繁に更新できると思います。
Sep 10, 2007
ナンセンスなThis is a pen. itの正体の話をしようと思ったのだが、もうひとつthis(that)がらみで(もちろんitにも関係するが)。ディスイズアペーン! はそもそも、「意味のない」文章である。そもそもこんな文章が必要になる場面は日常生活ではほとんどない。え~?だって「これは、ペンです」って文章を使うことはあるでしょ?はい。日本語ではね。でもそれはたぶん、This is a pen.ではないのだ。「それ、何?」「これは、ペンだよ」このやりとりは英語では"What's that?""It'a pen."である。thisというのは、前項で書いたように、「指し示す」意味が基本なので、それまで注目されていなかったものについて「ほら、ここにこんなものがある」というふうにまず注意を向ける機能がある。一旦注意が向けばもう指し示す必要がないので、それ以降は普通はitで受けることになる。間違った知識で「this=これ that=あれ it=それ」と思っていると、上記のやり取りはつい"What's it?" " This is a pen."などとしたくなってしまうかもしれないが、これは全然あっていない。たずねられてもいないのにいきなり「ここにこんなものがあるが、これは、ペンです」と言い出すのはあまり日常の場面ではない。しかもそこに不特定のものうちのひとつを指すaをつけた一般名詞が来る状況(つまり「『とある』○○です」という意味になる)はさらに普通ではない。my とかをつけて This is my pen.「これは私のペンですよ(あなたのじゃなくて!)」とか、the penとして This is the pen.「これが、(例の、話題になっていた、あの)ペンですよ」とか(もちろんこれだっていきなりでは妙で、その前の文脈が必要になるが)、さらにその後に限定する句をつけてThis is the pen I bought at that store.「これが、私があの店で買ったペンです」とかなら意味はある。あるいは形容詞をつければ少しは意味があるようになるかもしれない。This is a small pen! 「これは小さいペンですね!」とか。だがいきなりThis is a pen.と言われても「は? それが何か?」としか言いようがない。This is a pen. という文が成りたつのは、それこそ語学の勉強でものの名前をいろいろ習っている場面、とか、あるいは手品でもやっているなどなにかもったいぶってプレゼンテーションをしている場面ぐらいしか思いつかない。もちろん文法構造上では間違っていないし、重要な構文とは思うが、日常の「場面」から乖離してしまっているのを出発点でいきなり教えられるから、その後も日本人にとって英語がちっとも実際の場面に結びつかない、というハメになってしまうのでは、とまで思ってしまう。最近はさすがに気づいたのか、中学1年生の教科書でもいきなりThis is a pen.を導入したりはしていないようだ。aとかtheとかthis/thatの扱いも難しいということにも気づいたのか、私が最近見たものはmy bookとかyour pencilとか所有詞から導入されていて、これは賢いと思う。上述のようにThis is my book.なら十分リアルに成りたつからだ。(それでもまだbe動詞の不用意な導入という問題は残っていて、それについては後日またもやディスイズアペーンを槍玉に挙げて書くつもりである)このカテゴリのマトメ読み
Jul 11, 2007
主語のことを考える基本として、「人称」というのがある。なにしろ日本語に主語がないから、こういうことも実はおざなりになっていて、ちょっと意識すればあたりまえのことが分からなくなっていたりする。まずもって「私(たち)」がなければ何も始まらないので、I と weが最初のもの、つまり「第1」人称である。それから、会話をしている当の相手が「第2」人称、これは当然youであり、単複同形(前項で述べたように、「私(たち)」も含めた一般的な人々をも指すのがyouだが、それをweとは普通しないところに、「相手を尊重する」態度があるのかもしれないと思う)。そしてそれ以外はすべて第3の存在である。「3人称」というやつである。中学などでしばしば「3人称単数現在は動詞にsをつける」などと呪文のように言わされたのではなかろうか(そのわりに正しく付けられる人は少ないが…)。3人称はHeとかSheとかの代名詞だけではなく、もちろん固有名詞でMr.WhiteとかMaryとかいうのもそれである。I/we, you以外のすべてだ。Mr.WhiteとかMaryとかが主語に当たる場合は、日本語であってもさすがに「ホワイトさんが」とか「マリーが」とか言及することが多いだろう。「彼が」「彼女が」という語彙はそれほどば使わないとは思うが「あの人が」とか「その人が」とかは言う。つまり、主語はそれなりに意識されるのだ。複数となると途端に「一般化」してしまい、前項で述べたように「私・あなた(たち)」を含まない「人々」の意味でtheyを使う。それについては日本語では埋もれてしまうことの多い主語なので、とりたてて意識する必要がある。それ以外に「伏兵」がある。 "it" である。さらに、this/that も大問題だ。これらすべて、中学1年生のレッスン1で出てくる基本中の基本のはずだ(←ちょっと誇張。実際はレッスン”1”では出てこない)。今はそうではないようだが、なにしろ「エイゴ」の第一歩と目されているのは、ディスイズアペーン!だものね。ところが、このThis is a pen.にこそ、日本人が英語が苦手になる要素がたっぷりつまっているといっても過言ではない。this も is も実は一筋縄ではいかず、ここを中途半端に扱うから、後になってわけがわからなくなるのだ。ディスイズアペーン、とくにisについての諸問題は、別項で改めて述べる。ここでは主語としてのthis/that/it について考えていきたい。主語としてむちゃくちゃ使用頻度が高いのはitのほうだと思うが、順番としては、多少なりともわかりやすいはずのthisとthatの正体をまず明らかにすることにしよう。itはあまりに奥が深すぎる。 指し示しているthis とthat thisとthat の大大大基本は「指し示している」ということである。「あれ?そりゃ日本語だって『コレ』とか『あれ』とか『それ』とかなら『指し示している』語句なのだし、そんなこと当然でしょ?」ま、それもそうだが。しかし、教えてきた実感で言えば、意外にも多くの人が実はthis that itの真実には気づいていないのだ。まずもってthis=「これ」that =「あれ」it =「それ」………ではないのだ!!!thisはまだいいのだが、thatとitについては誤解している人が多い。日本語の「それ」は、たとえば、相手の手元に何かあった場合にそれを指すのに使う。「それ、何?」ってな具合。じゃあこれって、What is it? となる? …これがならないのである。ここはWhat is that? となる。自分の手元から離れているものはすべてthat(複数ならthose)なのである。だから、this(these)とthat(those)を考えるとき、日本語のこれとかあれとかそれとかの「単語」は、一旦切り離さないといけない。それよりもむしろ、これまた「イメージ」でとらえる必要があるのだ。教材の英語など(特に会話)音読する際、this/thatには必ず「指し示す」動作を伴わせる。そもそも具体的なモノを指して言うときにはそれが普通で自然なのだ。少なくともその対象に目は向いている。それもなく、ただテキストを見ながらThis is ~などと棒読みしても「意味ない」のである。もちろんthis/thatは具体的なモノだけではなく、アイデアとか、言葉とか、抽象的なものも「指し示す」ことがある。典型的なのは、That's true/great/nice. それは本当だ/それはすごい/それはステキのような相づちだが、このthatは「相手の言ったこと」の全体を「指して」いるのである。つまり、「自分の手元にはない」ものを指しているのだ。それに対し、自分が直前に言ったことや、自分の頭の中のアイデアを指すときならthisを用いる。いずれにしても、「指し示している」イメージは必ず持っているのだ。それに対して、itには「具体的に指し示している」イメージは基本的にない。習い初めの英語で this=これ that=あれ it=それ などと覚えさせられたとする。それからWhat's this? - It's a pen. 「コレハなんですか?」 「ソレハ、ペンです」なんぞというやりとりを習っても、それほど疑問に思う子どもはいなかったかもしれない。しかし、What's that? - It's a clock. 「アレハなんですか?」 - 「ソレハ時計です」ここでは、1%ぐらいの、ちょっと頭の切れる子どもは、うっすらと「?」と思うかもしれない。日本語なら「アレハなんですか?」「『アレハ=that』時計です」ではないのか?さらに、相手の手元にあるモノを指しての(そもそもそういう状況を習ったような覚えがないが)What's that? - It's a notebook.「アレハなんですか?」 - 「ソレハ、ノートです」こうなると、「????」である。"it" は実は「それ」ではないのである!!!ではなんなのか、…は次回以降のお楽しみに!このカテゴリのマトメ読み
Jul 4, 2007
「私」が主語である場合は、隠れていても、比較的容易に思いつけるだろう。だがそうはいかない場合もたくさんある。たとえばこの直前の文、「比較的容易に思いつけるだろう」これを英語で言うとしたら主語は?もちろん受動態を使えば「私が主語である文」を主語に(ややこしいな)することもできるが、別項(受動態に関する項目)で述べているように、英語では日本語で考えるより受動態は多用しない。こういうときの主語は「You」である。Youを単に目の前の相手「あなた」だと思っていると、この感覚はつかみにくい。初心者はyouが時には複数(あなたたち)であることすら思いつかないことも多い。が、それどころではなく、youはもっと広い範囲の人をさすのに使えるのだ。つまり「一般的な人々」をさすのである。一般的な人々にはもちろん目の前の相手「あなた」も含まれる(そして大概の場合は「私」も含まれる)。先の文はWhen the subject is "I", you can easily think of it.などと言える。「Youは一般的な人々の意味で使える」この文にだって「主語」がない。だからYouを主語にして、こうなる。You can use "you" as "general people".日本語で主語が意識されないとき、主語は「I」である場合も多いだろうが、こんなふうに「一般的な人々」という意味が隠れていることも非常に多い(もちろん、実際に目の前の相手をさすyouが主語の場合も多いだろう)。IでだめならYouでいけ、である(特定の第三者やモノゴトについて何か言う場合はおそらく日本語でも主語らしきものが意識されているだろう)。だが「『あなた』や『私』が含まれていない『人々』」が主語であることもある。「カナダではフランス語も話す」しばしば、受動態でFrench is also spoken in Canada.とか作文され、「それを能動態に直しなさい」などという問題が見受けられるが、これまた別項で述べたが受動態と能動態の文は、伝えている事実は同じでもニュアンスはけっこう違うのである。受動態にした場合は、「フランス語」という語に一番の焦点が当たっている。そもそもフランス語というトピックについて話していて、それは本家フランスだけではなくてカナダでも話されている、などと言いたい場合はこちらのほうがしっくりくるのだが、そうでない場合はどうするのか?主語として They を使うのである。They also speak French in Canada.この場合、theyにはあなたであれ私であれ、話している当事者たちは含まれていない。「あのレストランには美味しいメキシコ料理があるよ」They have great Mexican dishes at that restaurant.ちなみに視点を変えればYouを主語にすることもできる。You can have[eat] great Mexican dishes at that restaurant.もっともこの文はThat restaurant has great Mexican dishes.でもいいのであるが。レストランといえば、実際にそこに行ってその店の人と話をするなら、当然youが出てくることになる。「ベジタリアン向けの料理はありますか?」「ありますか?」だからIs there~とかかしら?と思った方は、まあ悪くないが中途半端な英語感覚である。その料理を提供する主体はまさにそのお店の人なのだから(たとえアルバイトのウエイトレスであっても)、Is there~?では妙に人ごとのようでよそよそしい。Do you have any vegitarian dishes here? これが正解。もちろんレストランだけではなく買い物をするお店でも同じ。慣れている人には当たり前すぎるほど当たり前のことなのだが、とっさに思いつけない人は、こういうところから「主語感覚」を磨いていく必要がある。ここではhaveという動詞の感覚や使いこなし方もポイントなのだが、まあそれは別項でいずれ。さて次回は(いつになることやら…?)もうひとつの主語のキモ、「it」について書くつもりである。このカテゴリのマトメ読み
Jun 29, 2007
(どうも最近は週1ぐらいでしか更新できずスミマセン)まあそうはいっても自主的なトレーニングは難しい。合っているのかどうかも確かめられないから挫折しがちだ。語学の勉強はやはりだれかと実際にしゃべる機会がなければ完成はしない。その点でもやはり英会話学校に通ったり、だれか先生に見てもらったりすることは必要なのである(もちろん友人などにネイティブがいてしゃべる機会があるならそれもいいのだが)。ただしそれはそれで、「それだけではだめ」でもある。教師であってもすべていちいち生徒の間違いを直しきれないし、友人であればなおさらだ。実際に話す、という機会を補完する手段としては、シミュレーションで「トレーニング」するしかない。そのときに一番有効なのは、ひとつにはもちろん「音読」であり、「文型の暗記(頭でなく口で!)」だが、応用のためにはやはり「英作文」が有効である。会話の時よりは若干冷静に時間をかけて文を組み立てることができる。ここでできないものは会話ができるはずがない(ブロークンな状態で身振り手振り交えて意志疎通するというのはまた別だが)。英作文を練習することで、少しずつ英文の組み立て方に慣れていく。そうすると、会話のようにある程度スピードが出てきたときにも対応できるようになるはずだ。しかしボキャブラリーの問題、というのは大きい。英作文などと言われても途方に暮れてしまう、という人の方が多いだろう。だがとにかく、まずは英語の組み立てかたに慣れる必要もあり、とりわけ「主語」をどうするか、ということを意識しなければならない。そこで(中途半端ながら)日本語混じりでトレーニングをする。なんでもいいから、対訳のある本を用意しよう。そして日本語だけを見て、それぞれの文について、完全に英訳することは無理であろうが、「主語はどうするか」ということだけを考えてみて欲しい。それからもうひとつは、文の冒頭の言葉は何か、ということ。つまり疑問文であれば疑問詞が冒頭に来るであろうから。主語を考えるにあたって、「~は」「~が」に惑わされてはいけない。すでにしつこく述べているように、「きのうは忙しかった」という文で「きのう」が主語なわけではないからだ。ちなみに、「は」「が」を反射的にbe動詞(am/are/is/was/were)にしてもいけない(いい場合もあるが)。日本人はどうしてもそうしがちである。これについてはまた項を改めて話したいと思うが。会話ができることが目標なら、会話主体の対訳テキストがいいだろう。すこし難しいが(いずれにしても全訳を目指すわけではないから多少難しくてもOKでしょう)映画のシナリオなども面白いかもしれない。「スクリーンプレイ」というシリーズがお勧めだ。これならDVDを手に入れれば音声学習もできる。ただし犯罪モノなどではないほうがいい、あまりスラングや省略などが多いのは考え物なので。私のお勧めは「Back to the future」シリーズである。けっこうスタンダードで分かりやすい英語だと思う。ここでほんの一部を抜き出して例を挙げてみよう。ただし著作権などの問題もあるので、和訳のほうはスクリーンプレイの本ではなく私のオリジナルだ。説明しやすいように各文に番号をつけた。(自称)発明家のドクの家に遊びに行ったマーティが、ドクの発明した変わった(自動的に朝食を作ったりなどの)装置は全部動いているのに、ドクが1週間も不在であったことをいぶかしんでいるところに、ドクが戻ってきたという場面。マーティ:(1)いったいどうなってるの? (2)この1週間どこにいたのさ?ドク:(3)仕事だよ。マーティ:(4)アインシュタインはどこ? (5)いっしょなの?ドク:(6)ああ、ここにいるよ。マーティ:(7)ねえ、ドク、装置もみんな、ずっと点けっぱなしだったよ?ドク:(8)装置…それで思い出した、マーティ、アンプの電源はいれないほうがいいぞ。(9)オーバーロードする可能性がわずかながらある。マーティ:(10)うん。気に留めておくよ。これらについて、とにかく「主語」、及び「冒頭の語」「だけ」を考えてみて欲しい。以下は、少し考えてみてから読んでね。(1)のっけから「決まり文句」系なので難しいと思うが、これはさすがに「人」が主語にはならない。「何が」起こっているのか、と考える。(2)当然、ドクのことを言っているので、主語はyouである。だが冒頭に来るのは疑問詞whereだ。(3)「仕事」が主語なのではないことに注意。(2)でyouで尋ねているからIで受ける。とはいえ、実際のせりふではこの文においては主語は「省略」されているのだが。(4)主語はもちろんアインシュタイン(犬)だ。だが冒頭にはwhereがくる。(5)アインシュタインのことなので引き続きそれが主語だ。ただし2度目以降なので代名詞で受ける。だが疑問文なので主語と助動詞(ここではbe動詞)は入れ替わる。(6)これもアインシュタインを受けている代名詞が主語。(7)「装置が」つけっぱなしだったのだが、点けた主体はあくまでドク(つまりマーティから見たyou)。もっともこれは、「装置が」「点いていた」と解釈して装置を主語にすることもできる。(8)「それで思い出した」は決まり文句系なのでちょっと難しいだろう。普通に考えれば「私が」思い出したわけだが、ここは英語においてはしばしば「それが」私に思い出させた、という言い方をする。これはおいておいて、アンプの電源を入れない方がいいというのは当然マーティ(ドクから見たyou)が主語である。(9)これは説明が難しい。「~がある」という文は、ごく基本的だし簡単そうに見えるが、日本人にとっては文の組立に一番迷うタイプのものである。これについては項を改めて詳しく説明しなければならないが、「○○がある」ということを表す文のひとつの可能性として、いわゆるThere is[are]~構文があるので、これを使うことができるととりあえず言っておこう。ただしこの場合「主語」は「可能性」である。「アンプ」を主語にしてIt has~のような言い方にすることもできる。(10)気に留めておくのは自分だから主語は「I」以下、実際のシナリオの一部。Marty: What's going on? Where have you been all week?Doc: (I've been) Working.Marty: Where's Einstein, is he with you?Doc: Yeah, he's right here.Marty: You know, Doc, you left your equipment on all week.Doc: My equipment, that reminds me, Marty, you better not hook up to theamplifier. There's a slight possibility for overload.Marty: Yeah, I'll keep that in mind.全部を訳せなどと言われたら「そりゃ無理」と思う人でも、せめて「主語だけ」「文頭だけ」という課題を自分に課してみると、ただ漫然と読むよりも刺激があり、トレーニングになる。文の組み立て方に意識も向いていくだろう。主語を確かめたら、その主語に対する「動詞」はどれだろうか、と意識して英文を見てみよう。isやare、amももちろん含まれる。そして慣れてきたら、日本語を見た段階で動詞もある程度考えてみよう。全部いちどに把握しようとしても無理である。だが一番大事なところからポイントを絞って押さえていけば、映画のシナリオだって怖くない。まず主語、そして次に動詞。その後は文型→時制等々と着目点を拡げていきたいところだが、一度に欲張るのは挫折の元なので、とりあえずは「主語だけ英作文」プロジェクトを試みてみてほしい。このカテゴリのマトメ読みou
Jun 20, 2007
「主語がある」という発想に慣れるには、やはりトレーニングしてみるしかない。もっと踏み込んで言えば、単に主語が云々というだけではなく英語の根本である「主語+動詞+その他」という形を「体得」する必要がある。これを別の形で表現してみると「主体→外界」なにやら哲学的にさえなってきたが、英語という言語は、あるもの(主体)と別のあるものや状況(外界)との関係性を常に問題にする言語なのである。…てなことはここではおいておいて(そのうちもっとウンチクを語るつもりだが)、もう少し実践的な話をしよう。だが、よく分からなくても「主体→外界」の図式はなんとなく頭に入れておいて欲しい。さて、実践的トレーニングのひとつのアイデア。身の回りを見回して、なんでもいいから「モノ」をひとつ選んでみる。英語がすぐ思いつく簡単なものでいい(あるいはこの際、気になっているものの英語名を調べてみるのも面白いだろう)。たとえば、今、私の目の前にCDがあったので、これでいいや。そして、これについて、まずはとにかく「I 」を主語にして、文を作ってみる。とりあえずI → CD という図式を頭に思い浮かべよう。複数形とか単数形とか、冠詞とかも気をつけなくてはならないのだが、まあここでは文型に集中しておこう。私はCDを「持っている」ので、haveが使える(haveはとりあえず、身の回りにあるものならなんにでも使えるだろう)。それからもちろん、「聞く」。それから「欲しい」「買う」「売る」「借りる」「貸す」「壊す」「なくす」「コピーする」「作る」……etc,etc..主体である「私」とCDの関係性は山ほど考えられる。もちろんそれぞれを英語にする。中学で習ったことを思い出せばいいレベルの語彙でいいが、凝ったこと(?)を言いたければ辞書で調べてみよう。I have some CDs.I listen to some CDs.I want..I buy..I sell..I borrow..I lend..I break..I lose.. I copy..I make..I cherish CDs.(大事にする)I handle CDs roughly. (乱暴に扱う)とりあえずここでは文型(SVO)を体得するのが目的なので、単純な現在形で構わない。だが慣れてきたら、過去形にしたり、be going toを使ったり、助動詞を使ったりしてもいい。自分の固有の事実に即した文を作ってみよう。そういう文を作る助けになるように、ちょっとした一覧メモを作っておいてもいいかもしれない。たとえばI will ~ (~しよう←意志を表している)I'm going to~ (~するつもりだ←予定を表している)I ~(過去形)I want to~ (~したい)I have to~ (~しなければならない)I can~ (~できる)このようなメモを手元に置いておいて、種々のニュアンスの文を作る発想を助ける。I will listen to some CDs.I'm going to buy a CD.I broke a CD.I want to make some CDs.I have to copy some CDs.I can lend the CD.etc,etc...もっと慣れてきたら、これに副詞(句)を付け加えてみよう。時間や場所、等々の付帯状況である。I will listen to some CDs in the car.I'm going to buy some CDs[a CD] at Shinseido.etc,etc...(上級者はこれにさらに、関係代名詞や分詞を使って詳しい説明を加えてもいい。だが、関係代名詞や分詞やらを使うにしても、文の「コア」はSVOであることを忘れてはいけない。だからこのトレーニングは、関係代名詞などを使いこなすためのベースとして、ある程度の上級者にも役立つはずである。これについてはいずれ改めて。)もういちどまとめよう。1)身の回りのものをなんでもいいから1つ選ぶ。2)「自分→そのモノ」の関係をいろいろ考え、I~***の文を発想してみる。3)事実に即して時制や助動詞の工夫をしてみる。4)さらにプラスアルファの情報を付け加えてみる。毎日、違ったアイテムを選んでこれをやってみるといい。ちなみに、書いたりする必要はない。ただしご注意! あくまで、日本語的に考えたときは「私は***『を』~する」という意味になるべきものなので、たとえばpenをとりあげて、ペンなら「書く」だよな、と思ってI write a pen.と言っても成りたたない。ペン「で」書くのだから、I write with a pen.と言わなければならない。「~を」書く、なら、たとえばI write a letter.「手紙を書く」と言えるのだが。図式で表すならI → a letter (I write a letter with a pen.) +[pen]pen「を」どうこうするのではないのだ。with a pen は上記で言えば(4)の範疇になってしまうのである。このカテゴリのマトメ読み
Jun 14, 2007
さて、英語と日本語の違いとしてよく言われることが、日本語は主語を”省略”するが、英語では命令文を除き、基本的には省略しない、ということだ。じつは、日本語では主語を省略しているのではなく、そもそも日本語には主語が「ない」、という説すらある。少なくとも、英語の文で「S」(Subject=主語)と呼ばれている役割のものはないのである、と。え? それじゃ、「私はあなたが好きです」とか言うときの「私は」は主語じゃないの?「日本語主語なし説」によれば、その場合の「私は」は「主題」だ、というのである。てにをはのうちの「~は(~が)」は、「私についてのことを言えば」という「主題の提示」の役割を果たすのだというのだ。そう言われてみると、納得がいくことが多い。「私はあなたが好きです」という文の「私は」は、英語で言う「S」(主語)と合致しているが、「きのうは家にいました」「仕事が忙しい」「ラーメンが好きです」「(私には)子供はいません」というような文では、「~は」の部分は英文の主語としては使えない。(「仕事が忙しい」は、My work is busy.と言うこともできるが、厳密にはbusyの意味がやや違う。仕事が「たてこんでいる」というような意味となり、「私は仕事で忙しい」という意味と、まあ同じといえば同じだが、厳密には異なる)ま、厳密な文法用語や概念はどうでもいいのであるが、とにかく日本語では英語のような形・意味での主語がないことが多い。ところが英語では主語がないとオハナシにならない。そして主語は通常は文頭に来ることになっている。そういうわけで、日本人学習者はしょっぱなからつまずいてしまうのである。上の例に出した「~は(が)」がついているのに主語ではない、という紛らわしいものではないとしても、とにかく日本人的には文の構造とかお構いなしに、その時点で念頭に出てきたものから文章を始めるクセがある。日本語では問題ないが、英語ではNGである。「花を持ってきたんですよ」いきなり Flower が口に出てしまう。その後が続かない。「ビール飲みたいな」いきなり Beer から文を始めようとしてしまう。行き詰まる。それを修正するためには、再三言っているように、リズミカルに口に出しながら例文を覚え、応用できる文型を「体得」しなければならないのだが、そういうトレーニングには多少時間がかかるので、とりあえず間に合わせの応急処置を伝授(前項でも書いたが)。「花を持ってきたんですよ」でFlowerがいきなり口に出てしまっても、慌てない。それは「主題の提示」をしたのだ、と割り切り、仕切り直す。「Flower……、I brought it(them)」「ビール飲みたいな」「Beer……I want it」それができれば苦労しないよ、という声も聞こえてきそうだが、最初に口に出した言葉からむりやり文章を構築しようとする方がよほど大変なのである。最初に頭に浮かんだ言葉は「主題」だと思って、その後は「仕切り直す」。これを意識してみるだけでけっこう違ってくると思う。学校のテストなどではあたりまえに出来ることが、口に出して話す、となると途端にできなくなる。それを「意識するだけで違ってくる」というのは、あまりにお手軽すぎるのでは、と思う向きもあろうが、意識するポイントを明確にすることで頭の整理がつきやすくなるというのは確かにあるのだ。主語についての話はまだしばらく続く。このカテゴリのマトメ読み
Jun 12, 2007
英語は日本語と語順が逆、などとよく言われる。だがそうではなく、そもそも日本語では語順なんてものはさして重要ではないのに、英語では語順がイノチといってもいいほど重要だという、もっと根本的な違いがあるのである。「私は彼女に花をあげた」この文は、「彼女に私は花をあげた」でも「花を私は彼女にあげた」でも(他にもまだ組み合わせ可能)問題なく通じる。だが英語ではI gave her a flower. という文しかあり得ない。I gave a flower to her.という文もあるが、これは文の構造がまた違っているのである(だから急にtoが出現している。ここでは説明は省くが)。日本語は膠着語と言い、つまり「くっつき語」ということだが、名詞に助詞、つまり「てにをは」をくっつけると、こんどはそれが接着剤のようになってどこにでもくっつく。「てにをは」によって文の中でのその名詞の意味・役割が決まるので、どのように組み合わせてもオッケーなのだ。つまり、「は」や「が」ついていればそれが主語だし(厳密には「主語」ではない、これはあとで述べるが)、「を」がついていれば直接目的語、と分かる。ところが英語の場合、そういう語の文中での役割を決定するのが語順である。この文型の場合、1+2+3+4と語が並んでいたら、1-主語、2-動詞、3-間接目的語 4-直接目的語 となることに決まっている(*I gave a flower to her.の場合は、1主語+2動詞+3直接目的語+その他の副詞句、という形なのだ)。英語だけではなく、世界的にも多くの言語が英語式に「文型ありき」のものであり、日本語のような膠着語の方が珍しいのだそうだ。韓国語とかモンゴル語とか東アジアを中心にいくつかある程度のようである。英語は「語順こそイノチ」というぐらいに語順や文型が重要だ。だが日本語は「てにをは」をつければいいので、語順を気にする必要があまりない。だから日本人は英語をしゃべろうとして、いきなり頭に思いついた語から文を始めようとして破綻するのである。(余談:最近の若い子と話しているて、「○○はどうなっているの?」などと聞くと、しばしば、「は~、××して△△だからぁ~」などと受け答える。…って、文字にするとワケわからないが「は~」は「HA~」ではなく「WA~」という発音で、つまり「○○は~」と答えようとして○○の部分を省略している形なのだ。なんじゃそら、とオバサンには違和感がある。まあ言葉は生き物なので次第に変化して当然、だから「ケシカラン」というつもりはないが。これも「てにをは絶対」の日本語ならではの形だろう)どうしたらいいのか。とりあえずの対策は以下。1)ともかく違いを意識する。 上記の、日本語と英語の違いを肝に銘じて、頭に浮かんだ単語から文をいきなり始めようとしないように意識する。ちなみに、ここでの「肝」はなんといっても「主語をどうするか」なのだが、それについては次に改めて述べるつもりである。 ただし、実際にしゃべる機会に、文の構成を意識しすぎて、つまり文を構築してからでないと口から発せない、よっていつまでも押し黙ってしまう、という現象はよろしくない。頭に浮かんだ単語をいきなり発しても構わない、ただしあとから修正していく。たとえば「花をあげたんだよ、彼女に」と思ったとき「flower」といきなり口に出していい。その代わりすぐに修正する。「Flower....gave...いやえーと、I gave a flower...to her」口に出してしまうことでガス抜きをしないと圧力が高まりすぎる。言いながら考える方が楽なはずである。だが、そのままでは文が成立しないことを知るべし。2)文型を覚える文型がものを言う言語なので、文型を覚えなければどうにもならない。覚えるには、やはり「トレーニング」である。前半の発音編でしつこく語った「リズム」がここでものを言う。リズミカルに言えるものなら覚えるのも楽だからである。逆に、たどたどしくしか言えないものを暗記するなんてことは、かなりな苦痛だ。リズムが会得できれば、単語自体を万一忘れてしまって、つまり文の暗記自体に失敗しても、リズムの枠組みが残っていればそれをもとにして自分の文を作ることも比較的楽にできるのだ。だからまず音声のある教材で、リズムを確認しながら真似をするトレーニングを徹底的にずべし。3)英"借"文のトレーニングこれも聞いたことがあるフレーズではないかと思うが、「英作文は英借文」。例文を覚えたら、その文の単語を置き換えることで新たな文を作っていく。英語の語順のままに自然に発想することができるようになるためには、まず文の後半を応用することから始めるのがいいのではないかと思う。たとえば、I gave her a flowerという文を覚えたら、I gave her a bag.I gave her a necklace.I gave her some money.などのように、最後のflowerという単語をどんどん他のものに置き換えて文を口に出していく。身の回りを見渡して、目に付くものをどんどん入れていこう。英語で何というか分からないけど気になるもの、はぜひ辞書で調べておこう(名詞なら単語レベルの対応もOKなのである)。それを続けて納得がいったら、こんどはherの部分をhimなどに変えてみる。次はgaveを、showedに変えてみたり、あるいは動詞の部分は時制を変えてみるともっといいだろう。I'm going to give ~にしたりI have givenにしたりする。そして最後に、主語もIではなくSheやHe,そしてMy fatherとかA friend of mineとかに変えてみる。そんなふうにして、ひとつの例文を手を変え品を変えいじくって、自分のものにしてしまうのだ。これはどんなレベルの人にもお勧めする。一度にたくさんやろうとしなくていい。1日1つ、あるいは週に2~3つぐらいの基本文をテキストなどからピックアップして、その週じゅうずっと、スルメのようにいつまでもいつまでも何度も何度も噛み続けて、様々なバリエーションで口に出して練習するといいだろう。(ゆくゆくはこのサイトでも具体的なトレーニングプログラムを提供したいと思うが、現時点では「理念」のみにて失礼)実はこの、「リズミカルに文を暗記し、少しずつ応用する」ということが、これからもっといろいろ述べて行くつもりの文法篇のすべてに共通する「対策」である。究極、これしかないのである。理屈をある程度おさえた上で(つまり自分が何をやっているのかを理解した上で)トレーニングを積む、これが他の分野、たとえばスポーツなどにもあてはまる絶対の黄金律なのだ。****しかしここでひとつ、もっとシンプルにぶっちゃけたことを言えば。「語順が命」であるのだが、本当は、そのイノチ中のタマシイとでもいう部分(なんのこっちゃ)はとりあえず、「主語+動詞」なのである。英語の文型はつきつめていえば「主語+動詞+その他」でしかない(命令文を除く)。だが会話についての初級者は(読んだりするならある程度わかるのに)何かを言おうとする際に、この段階でまずとっちらかってしまう。「久しぶり」とか「ずっと」とかそういう語句を使うことからはるか以前の問題なのだ。なにしろ日本語には主語がないから。ないものをひねり出すのは難しい。だがそれがまさに必要なのである。このことについては次回。このカテゴリのマトメ読み
Jun 8, 2007
当たり前の話であるが、多くの人が当たり前だと感じている「以上に」日本語と英語には大きな、根本的と言っていい違いがたくさんある。しばしば、英語を学ぶときは日本語で考えるな、英語で考えろ、とか言われる。昔、自分が四苦八苦しながら英会話を勉強していたとき、このことにかなり悩んだ。どうしたって日本語で考えてしまう。それじゃいけないのか!と。だが今は言える。…そんなことはムリである、とくにはじめのうちは。人間は言語を持って「考える」のであって、言語化されていない考えなんてものはなく、日本語を母国語としている人間は、日本語でまず考えるのが当たり前なのである。まだ英語に慣れておらず、語彙も少ないうちは、英語で考えようとしたら頭が空白になってしまうだけである。たしかに、英語に慣れてある程度しゃべれるようになってくれば、ある程度は英語でそのまま考えたりしている自分を発見する。そうなってくればかなり「英語の話せる人」という状態である。だが、英語で考えるのなんて「ムリ」な状態から、ある程度は英語で考えられる状態になるまでの間には、「英語で考えるようにしなくては」と努力することなどは不必要だ。というか、その方向で努力してもそうならない。逆である。英語が話せるようになると、英語で考えられるようになる、ということなのだ。とはいえ、「英語で考えようとする」ことに「似た」努力は必要である。つまり、日本語の「発想」をどうやったら英語の「発想」に変換できるかという原則を知り、それを心がけることである。単語を英単語に置き換えても英語にはならない、ということを知らなければならない。この日本語の単語は英語でなんて言うのですか、などと質問されることがよくある。その単語が明らかに名詞である場合は、それでもなんとかなる場合が多い。だが、副詞(句)などだと一筋縄ではいかない。たとえば「ずっと」という語。「ずっと待っていたのよ!」などという文において「ずっと」は英語で何だろう、と単語レベルで考えてもうまくいかない。for a long time 「長い間」などというフレーズは思いつくかも知れないが、それも「ずっと」という言葉のニュアンスをちゃんと伝えているわけではない。上記の文はI've been waiting for you (for a long time).とでもなるだろうが、「ずっと」というニュアンスはこの、「現在完了進行形」という時制(あるいは文の構造と言ってもいいが)のほうに出てくるのである。「ずっと待っていた」とは言えても「ずっと」だけを切り離して「英語でなんというのか」と聞かれても答えにくい。「久しぶり」なんていう言葉も日本語では一語で済むのに、英語だと極めてややこしい(しかも私の生徒さんに尋ねられる率も極めて高い)。まず、何について久しぶりなのかによって違ってくる。一番単純に考えればafter a long interval (長い間隔の後)という句が割りに使いやすいかもしれないが、わりに公式っぽいニュアンスがあるので、これを使うのがばっちりあてはまる、という場面ばかりではない。for the first time in a long while(長い期間の間で初めて)などというのもよく使うが、日本語の単語の簡便さから考えるとえらいこっちゃ、である。ましてや、人と久しぶりに出会って「ああ!久しぶり!」なんていうのはまた違う場面だ。簡略にはLong time no see! などと言うが、It's been a while since we met last time! なんぞとも言う。ほかにもいろいろあるが、えてして日本語の感覚より長ったらしい)「もったいない」に至っては、そのココロをきちんと伝える英語の表現はない、ということでmottainaiがこのごろ国際的に有名になっている。ノーベル平和賞を受賞したケニアの女性大臣が、日本の「もったいない」という感覚はすばらしい、と提唱したからである。それでもあえて英語を探せば、これまた「どういうふうにもったいないのか」によって違ってしまうし、表現方法によっても異なる。「ああ、もったいない!」と慨嘆するのならWhat a waste! (なんという無駄だ!)と言えばいいと思うが、「もったいないから捨てるのやめようよ」などという場合は、たとえばその意を汲んでWe shouldn't waste it.(それを無駄にするべきではない)などと言うとか、とにかく「もったいない、って何ていうんですか」という質問には実に答えにくいのである。(ところで、こういうのを調べるのに実にお役立ちなサイトがある。English Jornalなどを発行しているスペースアルクという会社のサイトだが、トップページに「英辞郎on the WEB」という検索窓があって、そこで「久しぶり」などと入れて検索すると、例文がゴマンと出てくるのだ)だから、英語学習において「日本語で考えるな」というのは、このレベルの話なのである。つまり単語や句レベル。日本語と英語を行き来するときは、「文」レベルで考えなければいけない。翻訳や英作文をするとき、あるいは自分で自分の言いたいことを述べるときも、日本語の単語ひとつひとつにこだわらず、文全部で「何を伝えようとしているのか」を捉えなくてはならない。逆に言えば、英語の単語を覚える場合も、その語が文の中ではどのように「効いて」いるのかを常に意識しなくてはいけないのである(つまりしつこく言っている「キモチ」を捉えよ!である)。*******さて、とにかく「英語は日本語じゃない」(あたりまえ)を常に意識しながら、英語を勉強している途上のオトナとしてはまずは日本語が念頭にくるのはこれまた「アタリマエ」なので、それはそれとして、つまりは「文単位」で英語と日本語を行き来することになるわけだが、そのためにはまず、「ほんとに根本的な英語~日本語との決定的な違い~」について知らなければならない。テキの正体を知ることこそ攻略の第一歩である。次回はその「根本的違い」について書く。このカテゴリのマトメ読み
Jun 6, 2007
お待たせいたしました。予告通り再開します。毎日書くのは難しいけれど…できるだけひんぱんに更新するつもり。でも今日はまたも「能書き」だけね。*********ここから、英語というのは、「根本的に」どうなっておるのか、ということについて話していくつもりだ。文法なんか勉強しないで英会話が話せるようになりたい、と多くの人は思っているだろうが、大人になってから勉強し始めた場合、文法はむしろ有り難い存在だと思った方がいい。文法の知識なしで英会話をするというのは、できなくはないが、地図もなしに目的地に勘でたどり着けと言われているようなものである。何度も繰り返し通った土地ならば土地勘も生まれてこようが、知らない土地ではそうはいかない。幼い子供が、そういう環境に置かれれば「いつのまにか」英語を覚えてしまうのは、自分の住んでいる生活範囲から徐々に世界を拡げていくことに似ている。必要なことを少しずつ試行錯誤していきながら身につけていく。そのペースでなんとかなるのである。だが大人では同じことを同じペースではできない。たどりつきたいところ(=言いたいこと)は遠くにあり、全く知らない街だって歩かなければならない。そういうとき、文法知識が地図代わりになるのである。かといって、毎回毎回同じところであっても地図がなければたどり着けないというのは困る。道に迷わないためには、実地に外を歩いて体験し、それこそ勘を養わなければならない。これがトレーニングに当たるものである。地図は必要だし便利だが、あま頼りすぎてり首っ引きになってもいけない。英語における文法もそのようなものである。おおざっぱに方向などを確かめるだけで、細かい部分は「実地」で身につけるべし。さて、私がこれから書くことも、「細かいルール」ではない。英語の構造や発想とは基本的にどうなっているのか、というおおざっぱな話なのだが、そのことに気がついているとついていないでは大きな違いがあることだと思う。頭に入れておけば、英語の学習を進めていく上での効率がきっと良くなるはずだと思われることを書いていくつもりである。入門編だし、扱う内容はおおむね中学1年生レベルである。だが、ここでつまづいたり、何か誤解をしてしまっていたり、いまひとつピンと来てなかったり、という人があまりに多い。土台がちゃんとしていなければ、高いビルは建てられない。けっこう単語(コムツカシイ)を知っているつもりだったり、複雑な文法(仮定法とか)を「知っている」つもりの人でも、なんでそれが会話となると出てこないのかというと、やっぱり、根本的に英語のキモチが分かっていないから、なのである。ということで、入門編ではあっても、それなりに勉強をしてきた人にも役立つ内容になっていると思う。読んでみてください。次へ
May 31, 2007
結局更新ができないまま日が過ぎております…m(_ _)m.自分的に1シリーズ終わり(AEONのテキストCP/STP/TOが一巡した)のでちょっと気が抜けたのです。さらに、新しいことを書くには若干考えを整理する必要があり…。でもずるずるしているとなかなか再開できないので、期日を切ります。6/1を持って再開します。よろしくお願いします。
May 17, 2007
ここのところちょっと多忙につき、新しいことが書けずにいます。でもまだまだ続きますので、いましばらくお待ちの上、再開の折りにはまたご愛読いただけますよう。(GW中にひとつぐらいは書きたいものですが…まだ未定、ときどき覗きに来てくださいませ)m(__)mたた
Apr 30, 2007
基本動詞make, do, goなんどもしつこく書いていることですが、外国語を学ぶためには、そして語彙力をつけるには、その語の「基本イメージ」を捉えることが何より大事です。表面上の「コトバのおきかえ」だけで理解しようとするのは、一見速そうですが、応用が利かない分むしろ遠回りなのです。もちろん、中学生で習う単語の「意味」は間違ってはいません。ただし、それはその言葉が持つ意味世界のほんの一部だと思って下さい。ベーシックな単語ほど意味世界は膨大に広いのです。さて今回はdo と make と go と取り上げます。 do の世界 do の基本イメージはもちろん「する」ですが、それももう少し詳しく言えば「状況・文脈から期待されていること、するべきこと」を「する」ということになります。ここから、助動詞として使われているdoの用法、つまりDo you~? という疑問文や I do, I don’t などという答えの文も導かれます。「(文脈から期待されていることを)する?」「します(しません)」という会話が、”Do you?” “I do(I don’t)” だけで成りたったりします。ですが、これについてはいずれ助動詞についての解説を試みるときに取り上げましょう。さて、そういうわけで、たとえばdo the shopping / do the laundry / do the vacuuming などのフレーズが成りたちます。ここに冠詞のtheが入っていることもそれなりに重要です。別のところで詳しく解説しているのですが、theには「例の、あの」という基本意味があり、ここでもそれぞれ「私が日常的に行っている“あの”」shopping とかlaundryとかvacuuming という意味をつけています。そしてそういう、「期待されている“例の”ことを」「する」というのが do の基本なのです。そこからさらに、do my hair/ my nails 「髪を(爪を)整える」などの言い方も出てきます。do my homework もやはり「すべきことをする」イメージですよね。That(It) will do. (それでいい) Anything will do. (なんでもいい)などという表現もあります。この場合のdoは「役に立つ、なりたつ」というような意味です。たとえば、「なにか書くものある?」「このボールペンでいい?」「ああ、それでいいよ」というような文脈で使われます。やはり「その状況で期待されていること・すべきこと」を「する」という意味ですね。 go の世界 go はもちろん「行く」と習っているはずです。ですがこの意味はほんの「一部」です。go の基本世界は、実は「変わる」「経過する」なのです。状況が変化すること。そのうち「自分のいる位置・場所が変わる」ことが「行く」という意味を持つのです。go mad というのは、mad(すごく怒った状態)に変化していくことです。getも「変化のプロセス」を表していますが、go はもっと動的なイメージがあります。他によく使われるのは、go bad (悪くなる)などで、たとえば食べ物が傷んでしまったときなどに使います。 This milk went bad! この牛乳、ダメになっているよ。また、(これは日本語と同じですが)「ものごとがうまく”行く”」というような「行く」にも使います。How did your presentation go? プレゼンテーションはどうだった?It went very well. とてもうまく行ったよ。日常的なあいさつにもよく使われます。How’s everything going? (すべてはどのように行っていますか=) 最近どう?さて、「行く」という意味で使われるgoについての問題は、go のあとに何が来るか、ということですね。go to the shopping mall.go shopping (do のときと違ってtheがつかないことにも注意)toのあとには当然、具体的な場所やそれに準ずるもの(work/ school/ dinner/ lunch etc.)が来ます。ですが~ingは「場所」ではありません。これは~ing形(現在分詞)の基本意味の問題になりますが、詳しくはここでは解説しません。あえていえば、「~している状態(ing)に変化する」ということになりますが(go mad などと構造は同じなのです)、まあこれはおいておいて、あくまでgo +~ing 「~しにいく」では to などがつかない、と覚えておいてください。ほとんどの人(もう95%ぐらい)がgo shopping を go to shopping と言ってしまいます。気をつけて下さい。go on a date/trip/hike/ camp のようなフレーズの「on」は、「形式」です。デートという形式、旅行という形式、ハイキングという形式、キャンプという形式に「のっとって」行くというわけです。go for a drive/ beer/drink/walk のようなフレーズの「for」は「~を求めて」です。driveやwalkは一見「形式」のようですが、強いて言えば「ドライブの感覚を求めて」「散歩の感覚や効能を求めて」行くということなのです。もっとも、そうやっていちいち考えることはありません、ここはもう、たとえばgo for a walk などのフレーズを「ヒトカタマリ」の単語と思って、口に慣れさせて覚えましょう。ただ、やはり「基本の感覚」を一応知っておくのは大切なことです。 make の世界 go が「変わる」(自動詞)であるのに対し、makeは「変える」(他動詞)です。とくに、「ない状態からある状態に変える」わけで、そこに「作る」という意味が出てきます(って、ちょっと難しすぎ?)。make plans (計画を立てる) make a call (電話をする) make a mess (めちゃくちゃにする=「めちゃくちゃな状態(mess)」を作る) make an excuse (言い訳をする) などなど、すべて、なにも無かったところにある状態を作り出しています。make one’s/[the] bed ベッドという物体自体は、もちろん「ない状態から作る」わけではありませんが、この場合のbedは「寝られる状態=寝床」を表しているのです。ベッドが乱れていてすぐに寝られない状態では、「寝床がある」とは言えないということです。make についてのfurther study は、“make AB “ 「AをBにする」という使い方。これも、「状態を変える」という意味から当然です。font color="#ccffff">You make me happy. あなたは私を幸せにする。いつものようにコムズカシイ言い方をすれば「you make me あなたは私の状態を変える、happy 幸せな状態に」という意識なのです。“make A +動詞の原形” 「Aに~させる」 という「使役」の用法もあります。font color="#ccffff">He made his son go there. 彼は息子をそこに行かせた。これも「He made his son 彼は息子の状態を変えた go there そこへ行くように」という構造です。このカテゴリのマトメ読み前へ次へ
Apr 17, 2007
加算・不可算名詞 英語というのは、なぜか非常に、単数か複数か、そしてそもそも数えられるのか数えられないのか、にこだわる言語です。その理由については考察中ですが、日本人の想像以上に「ごく普通に」こだわっています。冠詞と同じで、私たちには「ささい」に見えるけれど、実は彼らにとっては思考の土台になっているくらいの概念のようです。数えられる・数えられない、という区別は、そのものやことの「具体性」にも関わってくるようです。という話は難しくなりそうなので(自分でもわからん(^_^;))これ以上展開しませんが、別の言い方をすると「形や単位がはっきりしているもの」を「きっちり数える(少なくとも1コかそれ以上かを問題にする)」のが英語です。また、ある名詞が、不可算(数えられない)・加算(数えられる)とカンペキに決まっている、というわけではなく、それも(冠詞の使い方などと同じく)「文脈」「キモチ」で決まるのです。あるモノについて、その文脈を共有するだれもがだいたい同じような「規格」の具体的なものを思い浮かべることができるとしたら、それは可算名詞です。日本人が不可算名詞を捉えにくいのは、「固体なら数えられる」と感じてしまうからだと思います。しかし英語はそう簡単ではありません。固体でも数えられない(というか、数えない)ものは多いし、逆に液体でも可算名詞になることがあります。beer(ビール)は液体ですから、基本的には不可算で、数える場合は a bottle of beer とか two cans of beerのように、容器の方を数えます。ですが、居酒屋などで日本人が言うように「ビール1つちょうだい!」という意味で a beer please!と言うことはできます。その店における、ビールの1杯分について、その場にいる人々には共通認識があるからです。 a pizza とか a cakeと言った場合、人々が共通に思い浮かべられる単位は、丸のままのピザやケーキです。それを切り分けた場合は不可算名詞になってしまい、 a piece of pizza などと言うことになります。ただ目の前にすでに切り分けたピザがあり、その場にいる誰もが同じ規格の単位を頭に思い浮かべられるなら、だれかが Please get me a pizza! ピザひとつとって! と言っても、お前それ間違ってるぞ!とは言わないでしょう。ただ聞いた人にはやはり丸ごとのピザが自動的に頭に浮かんでしまうかもしれないですが。chickenなども同じです。 a chickenとすると丸ごとのチキンのことになります。普通に各人が食べる鶏肉については、やはり不可算名詞として、 I had some chicken for lunch today. きょうの昼食には鶏肉を食べた。 と言うことになります。ピザ、ケーキについても同じです。ただしsteak(ステーキ)は、可算名詞です。ステーキというのは「切り身の肉自体・あるいはそれを焼いたもの」を意味します。それなりに大きさに差はあれども、思い浮かべる単位にはある程度共通性があるからです。「共通規格」とはいえ、大きさや重さについてはあまりこだわらないようで(それを言ったら「人」とか「犬」だって大きさなど千差万別ですからね)、ようは、「個別性」があればいいのです。個別性を表すには、大きさなどはともかく、「形状」がはっきりしていることが大事です。cheese (チーズは不可算です。なにしろチーズは、カタマリのときもあれば、スライスのこともあり、粉になったり、溶けたりまでします。数えようがありません。bread (パンも同じように、あまりに形状が様々です。だから数えられません。ただ、roll (ロールパンとかcroissant(クロワッサンならある程度共通の形を頭に誰でも思い描きますから、加算になります。ちなみにサンドイッチは加算ですが、四角い大きいものがa sandwich(で、それを2つに切った三角のサンドイッチは「2つでa sandwich」扱いになるようです (?_?) (^_^;)tomato(などの野菜も、基本的には1個2個と数えられますから可算名詞ですが、切ったりつぶしたりしてサラダやスープなどに入れてしまったトマトについて、数える人はいません。candy(も不可算です。日本語で「飴」としかも感じで書くとむしろ雰囲気が分かるかもしれませんが、飴は基本的には砂糖を溶かして煮詰めたモノです。水飴もcandyなのです。数えられませんね。ただ、実際には目の前に「アメ玉」があれば、a candyと言ってしまいます。それも間違ってはいません。でも複数形のcandiesはあまり使わないようです(数種類のモノが混じっているような場合には使う)。キャンディーズはランちゃんスーちゃんミキちゃんですね。「アメ玉」は、a bonbon(とかa drop(とか呼ばれることもあります。これらは可算名詞です。a candy bar(というのもありますが、その正体は日本人的には「チョコバー」と呼びたいようなものです。(スニッカーズなど)食べ物系で、不可算・加算が話題になることが多いのは、不可算名詞がそもそも多い上、状況によって「形状が変わる」ことが多いためでしょう。あるいは「キモチ」が変わるとも言えます。サラダの材料としてのトマトや卵は数えるでしょうが、サラダに入ってしまったトマトも卵もたぶん数える気にはなりません。もちろん食べ物系以外でも、soap (石鹸(粉石鹸も液体石鹸もある)とかpaper (紙(それこそ形状も様々。「新聞」という意味なら加算)など日常的に使う不可算名詞はたくさんあります。そのほか不可算のものには抽象名詞や集合名詞などもありますが、それらについてはまた項を改めましょう。このカテゴリのマトメ読み
Apr 10, 2007
冠詞の感覚をつかむために有効な学習として、とりあえず信頼できるネイティブが書いた(おそらく)間違いがないであろう文章をつぶさに検証してみるといいかもしれない。名詞の前に定冠詞がある、不定冠詞がある、なにもない、それぞれの箇所について、どうしてそうなっているのか、考えてみるといいのだ。以下は「赤ずきんちゃん」の英語版である。昔話といえど著作権はあると思うが、引用ってことで許してもらえ…ないかな…。とりあえずソースはこちら。著作権的に問題にされたら、以下の英文は削除してこちらを直接参照してもらうしかない。Once upon a time, there was a little girl who lived in a village near the forest. (昔々、森の近くのとある村に、小さな女の子がいました)Once upon a timeはご存じのように昔話の冒頭の定番表現「昔々…」であるが、ここでtimeは「(それなりに区切りのある)時代」を指しているので、「とりあえず特定されていない、『とある』時代に」ということで a time でよい。a little girlは当然、初出の「とある女の子」。a villegeというのも、どこか特定はしないけれど、そこらにいくつかある村のうちのとあるひとつの初出。だがthe forestは、その地域や生活圏内にある森ということで初出でも一応限定されるのである。Whenever, she went out, the little girl wore a red riding cloak, so everyone in the village called her Little Red Riding Hood.(その少女は出かけるときはいつも、赤い乗馬用マントを身につけたので、その村の人は皆、彼女を「赤ずきんちゃん」と呼びました)すでに話に出てきたそのlittle girlのことを指すので当然theがついている。the villageも同様。red riding cloak「赤い乗馬用マント」は、同じようなモノがいくつかあるうちのとあるひとつで初出、aがつく。以下しばらく略す。"Remember, go straight to Grandma's house," her mother cautioned. "Don't dawdle along the way and please don't talk to strangers! The woods are dangerous."(「いいかい、まっすぐおばあちゃんのうちに行くんだよ」お母さんは言い聞かせました。「途中でぐずぐずしちゃいけないよ。それに、知らない人とはしゃべらないでおくれ。森は危ないからね」)strangersは不特定なのでtheはつかない。ちょっと困ってしまうのは次のwoodsだが、調べてみると、森はthe wood と単数形にしている場合もあるし、the woodsと複数形で「ひとつの」森全体を示している場合もあるようだ。複数形になる場合は、woodは「木」と捉えられていて、その木が複数ある場所だからwoods=森になる。だがsがついているため動詞は複数形対応になる。これは少し前の項目で書いた映画=moving pictures→moviesに似た現象かもしれない。いずれにしても、生活圏内にある「あの」森なので、定冠詞をつける。the wayも、家からおばあちゃんの家に行く道と特定されている。"Don't worry, mommy," said Little Red Riding Hood, "I'll be careful."But when Little Red Riding Hood noticed some lovely flowers in the woods, she forgot her promise to her mother. She picked a few, watched the butterflies flit about for awhile, listened to the frogs croaking and then picked a few more. (「心配ないわ、ママ。私、気をつけるわ」と赤ずきんちゃんは言いました。ところが、森で可愛い花を見つけたとき、赤ずきんちゃんはお母さんとの約束を忘れてしまいました。花をいくつか摘み、そのあたりをひらひら飛び回るチョウチョをしばらく眺め、カエルがゲコゲコ鳴いているのに耳を傾け、それからまたもういくつか花を摘みました。buttefilesやfrogsにtheがついているのも、そのあたりにいるチョウチョやカエルということで、べつに、「どのチョウチョのこと?!」と突っ込まれる心配はない。不定のものとしてsome buttefliesなどとしてもいい。ただしここでチョウチョが1羽だけで、それをthe butterflyとしたら「どのチョウチョ?」と突っ込まれる。英語はそもそも複数か単数かをやたらと気にする言語であり、複数である場合と単数である場合の「特定感」の違いというのもまたそれなりに重要な要素だ。それについてはまた別項で取り上げる。が、ここでは、単数である場合はよけいに、「特定されているのかされていないのか」が問題になるということだけ言っておこう。複数の場合はtheをつけても「そこらに普通にいるチョウチョたち」でいいが、単数になると「あの、例の、特別のチョウチョ」という感覚が強くなってしまうのである。ちなみに、a fewは「2~3の」で、冠詞がないfewだけだと「ほとんど~ない」という意味になるのはご存じだろう。Little Red Riding Hood was enjoying the warm summer day so much, that she didn't notice a dark shadow approaching out of the forest behind her...(赤ずきんちゃんはその暖かい夏の日をとても楽しんでいて、背後の森からとある暗い影が近づいてきていることに気づきませんでした)the warm summer dayも当然、そのおばあちゃんちに出かけた特定の日のことを指しているので問題ない。 そして、a dark shadow~ は、非常によく典型的に「a」のキモチを表している。つまり「アナタのまだ知らないなにかが、ほら、ここに出てきましたよ~」というキモチ。Suddenly, the wolf appeared beside her.(突然、そのオオカミが彼女の脇に現れ出ました)ここにはちょっと違和感がある。いきなり出てきたオオカミだからa wolf となるのがしかるべきであろうかと思われる。だがたぶんここは、その前に出てきたa dark shadow がすでに「その」オオカミのことを暗示しているというキモチが強いのだ。ここのtheには「とある暗い影の主であるそのオオカミ」という意味があるのだと思う。"What are you doing out here, little girl?" the wolf asked in a voice as friendly as he could muster.(「ここで何をしているのかな、お嬢ちゃん」オオカミは、ありったけの優しげな声で尋ねました)ここにも違和感がある。a voiceだ。冠詞の問題というより、voiceが「可算名詞」であるということが日本人の感覚としては分からない。けれどvoiceはたしかにまごうかたなき可算名詞で、 a voiceとなったり複数形のvoicesとなったりしている。単数になる場合は「ひとりの人間(ここではオオカミだけど)の、とある調子の、一連の発声」を指しているらしい。このことについても後ほど加算・不可算をとりあげるときに考えてみたい。また少し略す。先回りしたオオカミはおばあちゃんを呑み込んでしまった。A few minutes later, Red Riding Hood knocked on the door. The wolf jumped into bed and pulled the covers over his nose. "Who is it?" he called in a cackly voice.(数分後、赤ずきんちゃんがドアをノックしました。オオカミはベッドに飛び込み、鼻の上まで布団を引き上げました。「だれだね?」 彼はかん高い声で呼びかけました)jumped into bedのbedにはtheがついてもおかしくないとは思う。だがとりあえずフェイクではあっても「寝込んでいる」(ふりをする)ためにベッドに行くなら冠詞はいらないことになる。the door やthe coversのtheはしつこいようだが前後関係から具体的に指しているものが明白だからである。以下この手のtheについては言及を省く。a cackly voice(かん高い声)にはまたaがついているが、さっきはこのオオカミはa friendly voiceを使っていたので、また別の声色なのだ。1人(1匹)でもいろいろなvoicesを持っているのである。また少し省略。オオカミと赤ずきんちゃんのしばしのやり取りの後。Almost too late, Little Red Riding Hood realized that the person in the bed was not her Grandmother, but a hungry wolf.(ほとんど遅すぎたのですが、赤ずきんちゃんはそのベッドに寝ている人が、おばあちゃんではなく、お腹を空かせたオオカミだということにやっと気づきました)the bedは、単に寝ている、ふせっている機能を問題にしているのではなく、「目の前のそのベッド」と特定しているキモチが強いのでtheが出てくる。a hungry wolf ・・ここまでwolf にはずっとtheがついていたのに、ここで a ? 「初出のモノにはa、それ以降はthe」と機械的に覚えていると、「おかしい!」と思ってしまう。だがここでは、赤ずきんちゃんからの視点になって「自分がそれまで知らなかった存在が、出てきた!」というキモチなのである。間一髪で難を逃れた赤ずきんちゃんは大声で呼ばわり、a woodsman「とある、きこり(ここでもwoodにはsがついている)」がやってきておばあちゃんを救いだし、オオカミをやっつけてしまった結末はご存じの通り。*****日頃四六時中こんなことを考えながらしゃべるなんてことは不可能だとは思う。疑問に思っても「そういうもんなんだ」ですませてしまうのも、まあ手っ取り早いのでそのほうがいい場合もあるだろう。だが、ときには「なぜ?」と追究してみるのも、少なくとも大人になってから外国語を学び始めた学習者にとっては益のあることと思う。何度もしつこく繰り返すが、基本のキモチが納得できて、その応用の仕方をいくつか知れば、応用範囲はどんどん広がるというものなのである。ただどうしても「発想」からして違う部分(voiceのこととか)もあるので、そういうものはやはり個別に覚えるより仕方がないのだが(それとて、「同じような傾向のもの」を嗅ぎつけることは次第にできるようになるとは思う)。このカテゴリのマトメ読み
Apr 7, 2007
冠詞がつかない場合さて、もうひとつ、冠詞使用の「例外」として文法書に取り上げられているのが、at schoolなどのように、可算名詞のはずの語になにもつかないという例である。at や toやinなどのあとにくるschool/ class / unversity / work / church / hospital / sea / town / home / bed などの語には冠詞がつかないことが多い。あるいは by train [car/ bus/ bicycle etc.] などにも。また、breakfast やlunch, dinner にも通常は冠詞をつけない。ただこれらの語は、不可算の普通名詞なので、文脈によってはtheやaがついている。冠詞をつけない場合は、それらの語を、場所や建物を表す普通名詞としてみているというより「機能」をあらわす抽象(だから不可算)名詞と見ていると考えられる。She was sitting on the bed. 彼女はベッドに座っていた。この場合のベッドは、普通の「モノ」として扱われる。彼女のいる部屋にあるベッドを指しているのは自明なので定冠詞のtheをつけている。She was lying in bed all day. 彼女は1日ふせっていた。この場合は、ベッドは本来の「横になり、眠る場所」としての「機能」を持っているものとして扱われている。こういう場合、冠詞をつけない。bedが本来あるべき機能を果たしているときは、モノとしてのbedはどうでもよくなってしまうのである(ちなみにこの表現では、単に寝ているというより、体調が悪いという含みがある)。学生として学校に行くなら go to school だが、父母が先生に呼び出しくらって学校に出向くなら go to the school となる。 学園祭があるからと「とある」学校を訪れたなら go to a school とも言える。breakfast やlunch, dinnerも、普通にI don't usually have breakfast.などと言うときは冠詞をつけない。これももはや「機能」と考えられているのである。だが例えば I had a Japanese breakfast today. きょうは和風の朝食を食べた。のように形容詞がつくと、個別性が復活して不定冠詞がつく。The breakfast at the hotel was very gorgeous.そのホテルの朝食はとても豪華だった。これなら定冠詞もつく。結局、「○○という名詞にはa/theをつける/つけない」という「規則」があるわけではない。最初の項で述べたように、the自体に「ほら、あの」「例の」「いわゆる」「あなたも私も知っている」「あなたもそのうちどれだかわかる、あの」というキモチがあり、それを言いたいときにtheと言って、それに個別の名詞を続けるのだ。あるいは「とある」「たくさんあるうちからとりあえずひとつ取り出した」「あなたはまた知らない」というキモチでa/anが出てきて、そこに名詞がつながっていくのだ。日本人がつい、theのいらないところにtheをつけてしまいがちなのは、それがなんとなく英語らしいという理由以外に、自分としては自然に出てこない「英単語」を思い出したときに「『あの』○○という言葉!」と思ってしまうせいなのかもしれない。このカテゴリのマトメ読み
Apr 6, 2007
「事物全般」を表すとき冠詞の使い方でややこしいもののひとつは「ある事物全般について述べる場合」である。たとえば「ネコは寝るのが好きだ」という文を考えよう。もちろんこの場合は特定のネコではなく、「ネコというものは」ということがいいたい。一番一般的なのは、(1) Cats like sleeping.のように、名詞を複数形にして使うことである。可算名詞でも複数形の時は冠詞がなくてもいいので、これが成りたつ。また(2) A cat likes sleeping.のように、不定冠詞をつけて単数形で表してもいい。(1)の場合は当然、あちこちにいる様々なネコたちはどれもこれも、というニュアンスだし、(2)の場合は「そのうちの1匹を例えばとりあげてみても」というようなことになるのだ。ところが(3) The cat likes sleeping.もありうる、とされている。この場合、具体的なネコという生き物が頭に浮かんでいるというよりは、「いわゆる、ネコという名前や概念で呼ばれるモノは」のように、非常に抽象的なニュアンスになっているのである。あなたも私も、ネコって生き物がいるってのは知ってますよね、そのネコってやつは…みたいな感じ。ただし、The cats ~と、定冠詞に複数形可算名詞では「事物全般」を表すことはできない。本来なら必ずしも冠詞をつけなくていい複数形名詞にtheをつける、ということは、「特定したいから」ということに他ならないわけで、どうしても「彼の飼っているあのネコたちは」のように特定のものを表すことになってしまう。不可算名詞についても事情は同じで、一般には冠詞なしでmusicといえばよく、the musicなどと言えば特定の音楽を指すことになる。もちろんThe catも普通は特定の単数のネコ一匹を指す方が多いだろう。「The+単数形の普通名詞」によって事物全般を指すのは「科学・技術などについて述べるときの堅い表現によく用いられる」と文法書にある。上記の(3)について述べたように、「抽象的なニュアンス」があるからというのがその理由だと思うが、とくに科学技術などについては、それが出てきたときに、人々の話題となり、それに言及するときは「例の」「いわゆる」という意味の冠詞をつけたい「キモチ」になってしまう、と考えてもいいかもしれない。The cellphone is one of the greatest innovations for modern people.(あのいわゆる)携帯電話(というモノ)は現代の人間にとって最大の革新の1つである。例外(と見えるもの)のひとつに、「映画に行く」というときの映画がある。「映画に行く」はgo to a movieか、go to the movies かのどちらかとなる。上の説明で行けばむしろ、go to movies となりそうなものだが、それは使わない。その理由はいまのところ私には説明できないのだが、ことによるとそもそもmovieとはもともとは「moving pictures」すなわち「動いている何枚もの絵」(フィルムにはいくつものコマ、すなわちいくつもの絵がある!)の略であって、それが「1本の」映画となってもmovies と表された、のかもしれない。つまり映画全体としてはmoviesでも「単数」みたいな概念だったのである。その上で、「あのいわゆる映画ってやつ」と人々の話題に上る。…というわけでthe movies。これは私の勝手な推測だが、当たっていたりしないかな? このカテゴリのマトメ読み
Apr 5, 2007
(冠詞についての記事はまだ続くのですが、授業とのかねあいでとりあえずこちらを先に書いたのでUPします) 過去分詞とは? 英語においては(たぶん英語以外でも同じでしょうが)「同じ形のものは同じものである」というのが原則です。使い方は多少異なっていても、基本のキモチは同じです。ということは、「受動態」で使われる「過去分詞」も「完了形」で使われる過去分詞も実は同じキモチのものだということになります。そもそも「『過去』分詞」というのがそういう名称であることは、基本の意味を思うと、若干違和感があります。ましてや、「現在形―過去形―過去分詞」などと3つ並べて「go-went- gone」などと覚えされられると、まるで過去分詞は過去よりもっと遡った過去のことを言うもの、みたいについ思えてしまいますが、そんなことはありません。過去分詞の基本のキモチは「なされてしまった状態」ということです。「なされた」という部分に注目すれば受動態になるし「しまった」という部分に注目すれば完了時制になるのです。いささかややこしい言い方になりますが、例えばgoneなら「『行く』ということがなされてしまった状態」です。だから He has gone.といえば「『行く』ということがなされてしまった状態(gone)が、彼についてある(He has)」(すみません、こう書くとニホンゴとしてほとんどイミ分かりませんが…)というのが意味の土台なのです。そして、「なされてしまった状態(過去分詞)にある(be)」と言えば受動態になるわけです。This camera is made in Japan.(このカメラは、日本において作られてしまった状態にある)受動態の形が「be+過去分詞」であり、意味は「~される(た)」である、と覚えることは簡単だし、とりあえずそうやって覚えなければなにも始まらないのですが、少し慣れてきたら「どうしてそうなっているのか」を考えるのも決して無駄ではありません。そう考えると、受動態も結局I am a student. I am sleepy. I am in the room.などと全く同様の、be動詞の文~つまり「~である・いる」文の一種であることが分かるでしょう(ってあたりまえっちゃあたりまえですが)。もちろん「進行形」のI am reading a book. とかも同じことになります。ちなみに、be動詞の「キモチ」は「存在」ですから、I amは「私がいる」という意味です。そしてそのあとに、どういう「状態」でいるのかの説明を付け加えるのがbe動詞の文です。I am a student.「私がいる…学生として」I am sleepy.「私がいる…眠い状態で」I am in the room.「私がいる…部屋の中に」I am reading a book. 「私がいる…本を読んでいる最中、という状態で」そして受動態ならI was taken to the hospital「私がいた…病院に連れて行かれた状態で」(^_^;)もちろんいちいちこんな風に考えていたらかえってややこしいのですが、こういう考え方から基本の「キモチ」に迫ると、あとになって応用がいくらでも利くのです。 受動態自体のキモチ さて、文の構造や成り立ちの問題は別として、それでは、受動態はどういうときに使うのでしょうか。日本人が英語をしゃべろうとするとき、必要以上に受動態を使いたがる傾向があります。それは、基本的に主語がないため、発想のはじまりにはいつもむしろ「目的語」にあたる語のほうがあり、それをそのまま口にしてしまうために、受動態にしてつじつまをあわせざるを得なくなるせいでしょう。それに中学などではしばしば「書き換え問題」として、受動態←→能動態の書き換えが出題されたりします。ですが、受動態と能動態はおおまかな「意味」が同じでも「キモチ」はかなり違います。基本的に、多分日本人の感覚よりは英語で受動態を使うほうがいい場面は少ないような気がします。今までにもしつこく書いているように、英語では文の先に現れる要素ほど重きがあります。いや…それはちょっと誤解を招く言い方かな。重要性がどうの、というより、英語的には、先に頭に浮かんだこと(つまりそのとき一番注目していること)から言い始めていけばいいのです(ただし主語が基本的にない日本語の発想で日本人が、まず頭に浮かんだ「目的語」から話を始めようとしてしまうのはちょっと違う)。そして、そのあとに新たな「情報」を付け加えていきます。気持ちの焦点・視点の中心は移り変わっていくのです。だから(1) Murasaki-shikibu wrote “the Tale of Genji”. と(2) “The Tale of Genji” was written by Murasaki-Shikibu.ではキモチが違ってきます。(1)では、まず「紫式部」ということに注目があり、さて彼女の作ったのは、と意識が移ります。(2)では逆に、「源氏物語」がまず頭にあり、それを書いたのはだれかというと、と意識が移ります。まあこう書いてしまえば、書くほどのこともないくらいあたりまえなのですが、キモチを無視して英語の形ばかりにとらわれると、あたりまえのことが分からなくなるものです。ましてや、中学高校などの英語授業で、たとえば「後ろから前に訳す」なんてことをやってきてしまっていますから、語順によるキモチの焦点の違い、なんてことはぐちゃぐちゃになってしまいます。日本語をしゃべっているときは日本語なりの仕方で当然発想の順番にしゃべっているはずですが、英語についてはますますそうなのです。このことについては、別の項目でまた書くでしょう。 また内容によってはby~によって行為者(文法的にはagentと呼ばれます)を明示する必要がないときも多いのです。そもそもそちらにはそれほど重きがないとき、言うまでもなく自明であるとき、あるいは逆にそれがはっきり分からないとき、に使われるのが受動態なのです。English is spoken in many countries. My camera was stolen!ですから逆に言えば、by~によってagentを明示する場合は、agentにもそれなりに重きがある、ということになります。構造上は本来なくてもいいことをわざわざ出してくるわけですからね。I heard this song was composed by a 6 year-old girl!この歌は6歳の女の子によって作曲されたんだって!それでもやはり「6歳の女の子がね!」と言い出すより「この曲ってね」聞いて驚くなよ!なんと!「6歳の女の子によって~~!」という意識の流れがありますよね。ちなみに、日本人的には「動作主がはっきりしないじゃん」と思えるような場合でも、無理矢理に(??いえ、本当はちゃんとキモチがあるはずですが)youとかtheyの主語をたてて能動態にしたがるのが英語なので、やはりたぶん日本人の感覚よりは受動態は少ないと思います。このカテゴリのマトメ読み
Apr 4, 2007
冠詞に関する「原則」(細則ではなくて)のもうひとつは、「他の限定する語とならべては使わない」ということである。myとかYourのように所有をあらわす語や、Thatのような指詞、または固有名詞でそのものの名前をあらわすもの(Tokyo Universityなど)、Mt.FujiとかLake Michiganのようにタイトルとなっているもの、のことである。それももちろん、theが「限定する」機能があるという「原則」から導かれるものだ。だから「準原則」と言ったほうがいいかもしれない。たとえば東京大学は「東京」という「名前」のついた、つまりそれによってすでに十分限定されるものなので、Theはいらず、Tokyo Universityとなる。だが「東京都立大学」は、「東京都が運営している、あの大学」なのでThe University Of Tokyoとなるのだ。冠詞に関する「細則」が載っている文法書をみるとかなり頭痛がする。とりわけ、自然や地名についての規則がややこしい。曰く、海・山脈・群島・地域・川・砂漠にはtheをつける。固有名詞にはtheをつけないはずなのに??だが大陸・州・市・町・国そして湖と単体の山にはtheをつけない、と。しかし、「キモチ」は実は通底している。「びみょー」ではあるのだが。というか、英語というものが育ってきた「歴史」にまで思いをはせる必要があったりする。例えば、the Nileと言うとき、実はthe river of Nile もしくはthe Nile riverというのの「省略」と考えられる。「Nileという名の、あの川」というわけだ。theがついているのは固有名詞のほうではなく、普通名詞のriverのほうなのである。ちなみに、固有名詞をつけず、特定のものをとくに指していなくても、seaとかmountain,beach, riverなどにはtheをつけることが多い。Let's go to the beach this weekend.推測だが、おそらく人々の生活において、生活圏内にある川とか山とか海岸とかは、言わずとも「特定される存在」であったのである(いまでも原則的にはそうであろう)。だから「あの川」「あの海岸」「あの山」で正解だった。だから、その川などの名前を言って特定するときも、「ナイルという名のついた、あの川」という意識が強いのである。たぶん、町の中にある「劇場」「ホテル」「映画館」なども同じだ。おそらくはかつては町に「ひとつしかなかった」ような特別な存在なのである。the theaterといえば通じていたのだ。だから川などと同じく、「○○という名のついた、あの劇場」となるのである。一方、国や大陸、州でも市でも島でも、それは自分たちがその中に住んでいるものであり、「あの」をつけて対外的な存在として意識するものでは基本的にはない。グローバルな視点が出てきて初めて、国や大陸なども、自分たちが住んでいるもの以外の存在を意識するようになったと思うが、英語の成立過程ではそうではなかっただろう。だから「○○という名のあの国」などと日常的に言う「キモチ」にはならなかった。ただ「地域」とか「群島」になると、むしろそもそもが対外的な視点で認識されるものなので、theがつくようになる。ちなみに、「単体の山」と「湖」にtheがつかないのは Mt.及びLakeという語が、タイトルとして(人にMr.とかMs.をつけるように)ついているからだ。国の名前にはtheはつかないが、the U.S.A.には必ずつく。the United States of Americaこれは、「アメリカという名の、あの『合衆国』」という意味なのである。アメリカが比較的新しくできた国であり、しかも「合衆国」という他にない形態のものであるから--そしてunited statesという言葉それ自体は「普通名詞」であるから、それにtheをつけて限定することになる。他の国でも、正式名称が、たとえば中国ならthe People's Republic of Chaina「中国人民共和国」だったりする。これももちろん同じことである。普通のビルの名前やstreetの名前にはtheがつかない。それは、生活圏内にたくさんあるからそもそも特定できないので、「あのビル」「あの道」とは言えないからである。ちなみに、エンパイア・ステートビルにはtheがつく。the Empire State buildingなぜか?実は、the Empire Stateというのがこのビルの「名前」である。the "Empire state building"ではなく"the Empire State" buildingなのだ。Empire Stateというのは、ニューヨーク州の「あだ名」である。「帝国の州」というわけだ。アメリカの州にはそれそれ特徴を表すあだ名がついている。ゴールドラッシュに沸き返ったカリフォルニア州なら the Golden Stateだし、フロリダはthe Alligator Stateとか the Sunshine Stateとか呼ばれるようだ(あだ名はたいがい複数ある)。おなじみハワイ州はthe Aloha Stateとかthe Paradise of the Pacific…一覧表を見ていると実に面白い。これらのあだ名にはすべてtheがついている。何度も言うが「○○という(あだ)名の、あの州」ということだ。それでthe Empire Stateとなり、これが「全体で(theも含めて)」エンパイアステートビルの名前として「固有名詞」化しているのである。以上のように「ややこしい」とか「例外」と思われるものにも、実はちゃんと原則にしっかりのっとった理由がある。キモチは共通しているのである。もちろん背景まで考えなくてはならないのは面倒ではあるが、ただ闇雲に暗記しようとするよりは納得しやすいし、応用も利くのではないかと思われる。これが分かっていれば、たとえうっかり間違ったとしても、意味を左右するような致命的な間違いにはならないはずだ。(ここで述べた「原則にいかにのっとっているか」の説明は、私がどこかで読んだり調べたりしたのではなく、自分で勝手に考えたものなので、もしかすると全然見当違いかもしれないが、これで説明できるからいいのではないか、と思っている。けれど学問的に「確立された」ものではないかもしれないーーそうでないかあるかすら知らないーーので、その点ご了承&ご容赦下さい)この関連はもう少し続く。冠詞についての話は英語のエッセンス満杯なのだ。このカテゴリのマトメ読みm
Apr 3, 2007
疑問詞Who/What 主語としてのWho/Whatという疑問詞の使い方に引っかかる人は多いですが、そこに根本的な英語の構造理解の問題が現れています。原則を無視して形だけ覚えようとする、あるいは形を通じて原則を把握しようという考え方がない、というのがその問題です。…なんて難しく言うと、かえって「???」となってしまうかもしれませんが。このことに関して直接的に重要なことは、「主語+動詞」という結合は「絶対に離れない」ということだけです。John loves Nancy. Who loves Nancy ?↑離れないWho does John love? ↑離れない具体的に大事なのはこれだけ。でもこれから、それ以外のことをぐちゃぐちゃ述べたいと思います。根本的な英語の発想を理解する手だてにしてほしいと思うから。そんなヤヤコシことよう分からん、具体的なことだけでいい、と思われるかもしれませんが、「具体的なこと」には「キリがない」のです。回り道のように見えますが、具体的なことのそれぞれの背後に潜む「原則」に意識を向け、それを捉えるようにする方が、結果的には「具体的なこと」を覚えるのも早くなり、あるいは「覚えなくても応用でわかる」ようになるのです。さて、英語は全体として「矢印」の言語、というイメージが私にはあります(不定詞のところでも「toは矢印」という言い方をしていますが、それとはまた別に)。そのことについて詳しくは追々また触れることもあると思いますが、ここでは主語としてのwho/what疑問詞の使い方に関連して、「主語→」という構造的イメージについて話しましょう。けれど日本人的にはここが実に難しいところです。なにしろ日本語には主語がありません(え?「『省略されている』んじゃないの?」。と思われるかもしれませんが、実は「ない」のです。がこのことについてはまた別項で説明します)。それに対して、英語には必ず主語がある、というのは当然皆さんご存じのことと思います。出発点からもう発想が違ってしまうので、そりゃ英語を学ぶのは至難の業ですよね、困ったことに。英語では、文の先の方に来る要素ほど意識の上で「重要」で強調されている、と再三述べてきました。ですが、Iやyou などの主語については、もちろん文頭に来ていますが、意味の上では必ずしもそれほどの重要性はないとは言えます(しかしたとえば受動態の文などでは、やはり主語に重きや注目があります)。英語ネイティブが「I…、I…」と言うからと言って彼らがとりわけ自己主張が強いとか自己中心的だということにはならないのです。仮に日本語で「私がね、私がね」と言い募ればそれはやはり自己主張という印象ですけれどね。普通は言わないことを言う、ってのはそれだけそこにインパクトがあるのですから。けれど英語では主語はあるのが当然なので、それをもって自己主張とは言わないでしょう。ですがやはり、英語的発想は日本語的発想に比べて、「主体をはっきりさせる」意識はあると思います。この場合の主体とは、矢印の起点です。通常のIとかyouとか、別に強く発音されない(というより聞こえないくらい弱い)主語でも、「そこから始まる」という意識があるのです。その意味ではやはり、文頭におかれる「重要性」はあります。イメージは【 ・ → 】主語が「起点」なら、矢印が表すものは当然「動詞」です。beのような自動詞やhaveのような状態動詞では矢印的な感覚はちょっと薄く、=(イコール)だったり+(プラス)だったりするかもしれませんが。John loves Nancy.John Nancy.ジョンからナンシーに愛情が向かっているイメージ。ここに疑問詞を導入するとどうなるでしょう。基本的には、単純に、分からない部分を「who」に置き換えます。 ? loves Nancy. --→ Who loves Nancy ? --→ 主語が分からない場合はこれでいいのです。単純至極です。John loves--→ ? John loves--→ who ? 話し言葉では、これでも十分に通じます。しかし「ちゃんとした文」では、疑問詞は文頭に来なければなりません(なにしろ一番重要な要素ですから)。Who John loves--→ ?あと一歩。英語の場合は、疑問文を作る場合は、疑問文であることを示す言葉を前に出さなければならないのです。それは助動詞の役割。普段隠れている助動詞が突然出てきます。Who does John love--→ ?しかしいつでも一番重要なことは、【 ・→】つまり「主語→」つまり「主語+動詞」という結合は「絶対に離れない」ということです。Who「だれ」 does 「してるの?」 John love. 「ジョンが愛する(ってことを)」こういう順番で発想しています。上の、主語がwhoになる場合でも、「主語→」の結合はあくまで離れていないのです。Whatについても全く同じです。英語ではけっこう人以外が主語になることもあります。What made you so mad? 何があなたをそんなに怒らせたの? →何であなたはそんなに怒っているの?再度繰り返します。ここに関して直接的に重要なことは、【 ・→】つまり「主語→」つまり「主語+動詞」という結合は「絶対に離れない」ということだけです。でもそれを、ちゃんと原則的な「イメージ」を持って捉えて下さい。このカテゴリのマトメ読み
Apr 2, 2007
ネイティブでない人が大人になってから外国語を取得するためには、「文法」はむしろ有り難い存在だと思っている。そういう体系をまとめておいてくれなければ、全部手探りでやらなければならない。母国語習得中の小さい子どもは驚異的な能力で、自分ですべての状況を分析して法則を見つけていく。しかし大人にはそんな能力はないし、それに小さな子どもと違って自分を取り巻いている状況もすでに複雑になってしまっているので、そこに対処できるだけの言語を扱う複雑な法則を自分で見つけろと言っても至難の業だ。しかし文法を単なるルール、それも「細則」の集まりだと思ったら辛くなる。大人の知恵(?)をもってしても、いちいち全部覚えていられるものではない。そもそも、ルールというものには2種類ある。「基本原則」と「細則」だ。細則というのは基本原則の具体的な運用例とでもいうべきものである。だから、「基本原則」をしっかり理解していれば、細則は別に覚えなくても対処できるはずなのである。基本原則というのは、ちょっと乱暴ではあるが、それこそ「キモチ」と言ってもいいようなものだ。日本の中学高校での英語教育で文法嫌いが増えてしまうのは、基本原則の理解をないがしろにしたままで、細則ばかりを覚えさせようとするからである。キモチが分かっていないのに、形だけなぞらせようとする。もちろん、形をなんども「体験」していくうちにその根底にある「キモチ」が分かってくる、という方向はある。だがどうも、学校での英語教育はそういう視点にも欠けている気がする。基本原則、キモチを理解するために具体例をいろいろ挙げている、というわけではなく、ただ細則のみを近視眼的に見ているだけである。蛇足ながら、これは英語に限らず、あらゆるところに言える、と私は思っている。政治的なこと、経済的なこと、社会的なこと、教育、等々、「理念」があいまいなままで対症療法ばかりにかまけているから、なんだかいちいち「右往左往している」という印象だ。ま、それはともかく、具体的に、英語の「冠詞」のことを例に挙げて話す。無意識に、人の名前にまでtheをつけてしまう日本人は多い。前に述べたように、theがいらないところにtheをつけてしまう間違いが冠詞については一番多いらしいのだが、ようするになんだかそのほうが「英語っぽい」気がしてしまうのだろう。だがもちろん、基本的には人の名前にtheはいらない。テストなどをすればほとんどの人は気づき「そうそう、固有名詞にはtheはつけないのが『ルール』だったはず」と思う。だから、「間違いがあれば正しなさい」という問題でA: Guess what! I saw Tom Cruise over there!B: You mean the Tom Cruise?!などという文のtheを「あ~、間違いだ」と訂正してしまったりする。でもこの例のthe Tom Cruiseは完全に正しい。それどころか THE Tom Cruise?と大文字で表記したいくらいである。つまりこれは、A:ねえねえ、そこでトム・クルーズ見ちゃった!B:それって「あの」トム・クルーズのこと?!もしかして同姓同名の別人、とかってオチじゃないでしょうね?ってキモチである。theには「限定」のキモチがあるのでこうなるわけである。普通は、固有名詞というものはそれだけで十分に「限定」されている。お互いが認識を共有していないのにいきなり固有名詞を使うってことは普通はない。「そこで中島晴子に会っちゃったよ」とだれかに言うのは、相手も中島晴子がだれであるか知っていると思うからこそである。(もちろん実際のなりゆきでは「だれよそれ、知らないよ」となることはありうるが、そのときはそこで説明がなされるわけで、普通に流されるわけではない)だからさらに限定するtheを使う必要がないから、「固有名詞には定冠詞はつけない」という「ルール」(のように見えるもの)が成りたつのだが、もうお分かりのように、これは本質的には先行する「ルール」ではなく、キモチから普通にそうなるだけのことなのである。当然ながら「(いくつもあるうちのひとつとしての)とある~」という「キモチ」である不定冠詞だって、普通は固有名詞につきはしない。だが、こういうことも成りたつ。A: You got a call from a Ms.Brown a while ago.B: Uh, OK. That's Ms. Brown at ABC company. I'll call her back.A:さっきブラウンさんという方からあなたに電話がありました。B:ああ、わかった。ABC社のブラウンさんだ。電話するよ。電話を取り次いだ人は、Ms.Brownがなにものであるかはっきりは知らない。よってa Ms.Brown で「ブラウンさんという方」と言っているのだ。この場合、Brownはもちろん固有名詞であっても、Aさんにとっては「普通名詞」のようなものである。世の中にBrownさんという人はいくらでもいて、「その中のひとり」でしかないから。「話の中で最初に出てきたものに a をつけ、2回目以降ではtheをつける」という「ルール」も、絶対ではない。こういう「ルール」だ、と思っているとA: Look! The koalas over there are sleeping.B: I heard koalas usually sleep 20 hours a day. A: ねえ! あのコアラ寝てるよ!B: コアラってのは1日に20時間寝るんだってさ。こういう例でも混乱する。最初の the koalasは後ろにover there がついていて、文脈状「限定」されているのである。だが2番目の文では、「一般にコアラというものは」という意味で使っている(一般に~というものは、という意味で名詞を使うやり方についてはほかにもあるがまた後述する)。この話はまだまだ続く。長くなりすぎるので一旦切るが、ここで言いたいことは、重要なことは本質的には「ルール」ではなく「キモチ」であり、文法においても「細則」よりは、キモチの表現の土台となる「原則」を捉える方向で考えなければならない、ということである。このカテゴリのマトメ読み
Mar 30, 2007
さて、難関中の難関を取り扱わなくてはならないときがきた。日本人にとっては「小さいくせにあちこちにいて悩まされる」まるでハエとか蚊とかダニのようなヤツ…と言ったら可哀想だが、「冠詞」…あのtheとかaとかanというやつだ。別にこんなの間違えたって通じるからいいじゃん、と言う人もいる(と堂々と言える人はけっこう上達するタイプかもしれないが)。だがこういうものこそ、その根本の「キモチ」が分からないといつまでたってもピンとこないままだし、間違えても気がつきにくいからなかなか修正されないし、厄介者だ。前置詞の使い方とともに、日本人にとっての文法の難関としては双璧だろう。かつて同僚のネイティブが話してくれたが、アメリカのとある家で、壁に掛かっていた絵が気に入った、とある日本人が、その絵を写真に撮りたいと思いCan I take the picture? と尋ねたが、もちろん家主は血相変えてNo! No!と断った…。彼はCan I take a picture?と言わなければならなかったのである。the pictureと言ってしまったら、「壁に掛かっているその絵そのもの」を持っていく、という意味になってしまうのだ。まあ文脈から分かる場合も多いかもしれないが、theとa/an、あるいはそういうものをつけないということの「差」がけっこう大きいことも多いのである。それどころか、冠詞こそ日本人の英語の間違いで一番気になる根幹的なものだと言う人もいる。かつてマーク・ピーターセンという人の書いた「日本人の英語」という本を読んだが、ここでは、冠詞は名詞のアクセサリーではなく、英語ネイティブの発想は、むしろ冠詞によって「意味のカテゴリ」がまず決まり、その後に適切な名詞を探す、という順序なのだ、と書いている。ここでも再三言っている、「先に来るものがより重要」という原則がここでも活きている(そのわりに、文頭に必ずくる「主語」は少なくとも意味上はそれほど重要じゃないのだが…。それについては別に述べるが)。ともあれ、冠詞は日本人が想像している以上に実は重要であり、だがその重要性が認識できないぐらい日本語の発想は英語と違うわけなので、これをきちんと捉えるのは本当に至難の業であることも確かだ。正直言って、私自身もこれを正確に捉えているとは言い難い。迷うことは多いし、無意識に間違ってしまうことも多い。だがこれを書きながら自分も勉強し直すつもりでトライしてみようと思う。さて、基本中の基本をまず抑えておこう。the(定冠詞)のココロ「the」を使うのは、話し手と聞き手がともに、「具体的に『どれ』について話しているのか分かっている(あるいは間もなく/その気になれば特定できる)」状態の時である。だから、つけるべきでないところに不用意にtheをつけてしまうと、ネイティブは混乱することもありうる。「え? それって、私も知ってるべき[はずな]ことなわけ?」たとえばI met a very good-looking boy. とってもハンサムな男の子に会ったわ。と言うべきところでI met the very good-lookinig boy.と言ってしまったら、相手は「え? なんか私たち、前にそんな人のこと話題にしていたっけ?」とうろたえるだろう。強いて訳せばtheを使った文は「『例の』とってもハンサムな男の子に会ったわよ」という意味になってしまうからである(もちろんそう言おうとしている場合もありうる)。上述のマーク・ピーターセンさんもその種の間違いにネイティブは「イライラする」と述べている。いちいち「『例の』って、どれのことよ!」と思ってしまうのだ。冠詞について日本人の英語の間違いとして一番多いのが、この、つけるべきでないところにtheをつけてしまう間違いだそうだ。まあ、なにもつけなければこのような誤解は招かないから、強いて言うなら、迷ったときはなにもつけない、という方針にしたほうがマシかもしれない。ただもちろん文法的には正しくない(後述するが)。ともあれ、theには「相互共通認識」のキモチが強く入っている、これが原則。強いて訳すなら、上記のように『例の』である。マークさんのいう冠詞によってまず決まる「意味のカテゴリ」とは、ここでは「これから私もあなたもお互いに分かっているもののことについて言いますよ」ということなのである。ただし、その場で実際にお互いが「そのものがどれであるのか」具体的には分かっていないように見える場合もある。だがそういう場合も、少なくとも「特定しようと思えば特定できる」または「自明のこととして分かる」という状態なのである。I went to the postoffice.と言った場合、相手はそれがどこにあるどの郵便局かまでは具体的に知らないだろうが、話し手が日常的に行く郵便局であるとか、その町にある郵便局であるとか、少なくともお互いの話の理解に支障のないぐらいには共通認識がある。「どの郵便局のことよ?!」なんぞという引っかかりは持たせなくて済むはずだ。同じように、take the bus、 take the train という言い方はできる(これはa bus, a trainになる場合もある)。ここでthe busと言えばやはり、話し手が例えばいつも家から職場に行くときに乗る路線のバス、であったりするはずだ。とにかくバスや電車は、路線というものが決まっているので、「その気になればすぐ特定」できるのである。だがtake the taxiとは普通には言えない。なにか特定のタクシーのことを話題にしていた前提があって(たとえば運転手さんが歌を歌って楽しませてくれるとか、お菓子をくれるとかの特別サービスがあったり)ならI want to take the taxiとか言うことはあり得なくはないが、普通にはtake a taxiである。タクシーには路線がないからね。ここでthe taxiを不用意に使ってしまうと、「どのタクシーなのよ!」と聞き手は思うだろう。だがもちろん、タクシーの中になにか忘れ物をしてしまったのでそのタクシーを見つけなきゃ、という場合なら I have to find the taxi.となる。ここでもおわかりのように、taxiという単語に必ずaがつく、と決まっているのではない。上述のように、マークさんの言うようにまず冠詞によってその文脈における意味のカテゴリを宣言しているのだ。少し誇張気味とも言えるが、そのココロは、theと言えば「さああなたもわたしも知っているものごとについて語りますよ」ということであり、a/anの場合は、「さああなたはまだ知らないとあることについて語りますよ」と宣言しているということである。もちろんa/anは単数の可算名詞の前に来るという規則はあるが(そもそも英語というのは単数・複数とか加算とか不可算ということにも、やはり日本人では想像しきれないぐらいの重要性がある言語らしい。それも追々述べていくことになると思うが)。a/an (不定冠詞)のココロ上述のように、不定冠詞がまず決める「意味のカテゴリ」は、相手にとってはまだ未知のものごとを提示する、ということである。それも単数であるわけで、これは同種のものがいくつか、あるいはたくさんある中から、とりあえずそのうちのひとつをピックアップする、ということである。平たく言えば「いくつかあるうちの任意のひとつ」に「その場であらたに注目する」というのが不定冠詞の基本のキモチだ。上記のtake a taxiの例で言えば、町に走っている何台ものタクシーの中から、適当に1台を選ぶ、ということなのである。theを強いて訳出するなら「例の」だが、a/anを強いて訳出するなら「とある」である。マーク氏が言うように「冠詞は名詞のアクセサリーではない」。つまり、taxiという語にたまたまついている飾りに、たまたまそういう意味があるんですよ、ということではなく、「今わたしは、不特定多数のもののなかから、このひとつを選び出してそれをまだ知らないあなたの前に、さあ、提示しますよ」ぐらいの、かなり積極的で重要な意味がまずあるのである。What a beautiful picture!などという感嘆文にも必ず(単数であれば)a/anが入るのだが、ここにもやはり、有象無象の中からたまたまひとつ取り出してみたこれが!という「その場での新たな注目」のココロがあるのである。だから、意味的には誤解まではされなくても、a/anがあるべき場所にない、という日本人の間違いも、ネイティブにはけっこう本質的な違和感を持って受け取られるものなのださて以上が「基本中の基本」である。だが実際には、「例外」(と見えるもの)が山ほどあって、それらを把握しなければならないのが厄介だ。しかし例外と見えるものも、実はこの基本に則っているものもたくさんある。というか基本的にはみんな原則通りであり、その運用が違うだけだ。なにしろ冠詞についての話は、たぶんものすごく時間がかかるので、順番に少しずつ具体例を交えて取り上げていこう。このカテゴリのマトメ読み
Mar 28, 2007
これはオマケ。ウェストサイドではないが、私のお気に入りの曲のひとつをご紹介。「ケセラセラ」というワルツのリズムの歌。古い歌だが、とても分かりやすいメロディで可愛らしい。音源は、ネットで見つけたこちらをご参照下さい(リンク切れていたら、あるいはなにか問題があればお知らせ下さい)この曲が好きなのは、最近の私の座右の銘にぴったりだからである。「ケセラセラ」はフランス語で「なるようになる」という意味で、英語では”What(ever) will be will be”となる。willbeが繰り返されているのは、リズムを整えるためではない。この文では、What(ever) will be”が主語で、次のwill beはその主語に対する動詞である。what will be「なるべきことが」will be「なる」ということなのだ。 文法的なことはともかく、この思想が私は大好きだ。「なるようになる」は別に投げやりなわけではない。将来に何が起こるのかは分からない、だからむやみに取り越し苦労して心配しないで、今のこの時を精一杯生きて楽しもう、ということである。「今をたいせつに」ということが根本なのだ(英語とは離れてしまったが、ついでに自分の言いたいことを主張しておきました)。著作権の関係で歌詞をここに載せるわけにいかない。これもリンクで対応したい。こちらへどうぞここにはひらがなの「読み方」を書いておきたい(これも厳密にいえば著作権の問題はあると思うが…)。参考にしてほしい。1番の歌詞だけだが。もちろん、カナでは表しきれないことは了承いただきたい。この曲はワルツなので、強い拍は3拍子の一番最初の拍(ズンチャッチャの「ズン」である。そこにあたる部分を太字+下線で表しておいた)うぇないわー(ず) じゃーすたりーろがーうあいあすく(と)まいまざー わぁっういうあいびー?うぃらいびー ぷりてぃうぃらいびー りっちひあずふぁっ しーせっ とぅーみーけ せら せらふぁってーう゛ぁー うぃうびー うぃうびーだ ふゅーちゃー(ず)のっ あうあー(ず)とぅすぃーけ せらー せらーふぁっ うぃうびー うぃうびー和訳:私が小さな少女だったとき私はお母さんに聞きました「私はどうなるの?」「私は可愛くなる?」「私はお金持ちになる?」彼女が私に言ったのはこうです「ケセラセラ! なるようになるのよ将来は私たちには分からないケセラセラ なるようになるわ」このカテゴリのマトメ読み
Mar 22, 2007
またもちょっと自分語り。私自身、自分が会話ができるようになった「下地」は、「歌を覚えたこと」だと思っている。もちろん歌「だけ」で会話ができるようになったわけではないが、いつもしつこく主張しているように、リズムになじんでいた分、本気で学習し始めてからも覚えるのが速かったのだと思う。ご存じの方はご存じと思うが、私は今は「歌手」でもあり、歌になじんでいるのは当然と思われるかもしれないが、自分が歌手になるなどとは30歳すぎてもまだ全然思っていなかった。カラオケが巷に出回りだした初期の頃、大学生から社会人になりたてだったが(歳がばれる)カラオケボックスなどはなく、人々が歌って楽しむのは「カラオケスナック」であり、歌が好きとは言っても人前で歌うなど恥ずかしかった私は、もっぱら聞いているだけだった。たまに歌うが、音痴ではないが全然発声がなってなく、お世辞にも上手いとはいえない状態。その後ひょんなことから(サンバチームに加入してから)歌って楽しむ機会が増え、いつのまにやら人前で歌うようになり、そのうちギャラを頂くようになったのだが、それは英会話講師になった後の話である。つまり何が言いたいかというと、英語の歌を好きで歌っていたのは、あくまで自分一人でこっそり、レコード(当時CDなんてなかった)に合わせて、のことであって、今「歌手」であることとはなんの関係もないということである(もちろんそれがこちらでも「下地」になっているわけだが)。だから「私は歌手じゃないもん」「ウタうまくないし」という方だって、歌での英語学習は十分にできるはずだ。ま、それはともかく。私がとりわけ好きで歌っていたのはミュージカル「ウェストサイドストーリー」からのナンバーで、スペイン語なまりの巻き舌のRが耳に心地よく、それを真似て歌っていた、とは以前も書いた。対訳が書いてあったので、意味もある程度は分かったし、そのおかげで覚えた構文もあった。最近、ものすごく久しぶりにウェストサイドストーリーのCDを改めて買って聞いてみたが、以前よりもっと歌の意味がストレートに頭に入ってくることにちょっと驚き、感激した。以前は、理屈を通して「翻訳」してやっと理解していたものが、今は英語そのままの形で分かるようになっている。ある意味でアタリマエなのだが、そもそも「英語なんてしゃべれなかった」私は今更ながらにそういうことに感激する。帰国子女で、いつのまにかしゃべれるようになっていたわけではないだけに、できるようになった喜びというのを未だに感じていられる。いま英会話を勉強している皆さんも、その喜びを目指して楽しみにしていたらいいと思う。人間にとって本当の喜びとは、「持っていること」ではなくて「手に入れること」だと思う。「最高の状態にあること」ではなくて、「そこを目指して日々進んでいくこと」こそが幸福なのだと思う。英語が「まだ」しゃべれない皆さんは幸いである、進歩する喜びを得られるであろう!…って、キリストみたいですね。さて、だからこそまず「お気に入りの1曲」を持つことをお勧めする。折に触れてその曲を口ずさんでいて、それから何年かして忘れた頃にまた聞いてみる。以前よりもっとその曲が分かるようになっている自分に気づくと思う。ヨロコビである。最近ではカラオケボックスでも驚くほど多くの英語の曲が用意されている。昔はほとんどなかったのに…。私はちょっと空き時間があると時々ひとりで利用しに行く。皆さんも、試しにやってみたらいかがだろうか。ひとりでこっそり英語の歌を練習して、いざとなったら人前で披露してみてもいいし。「ひとりでカラオケボックス? え~、みじめ~。かっこわるい~」なんぞと言う人もいるが、固定観念にとらわれるなかれ。「私的練習スタジオ」としてこんないいものはない。料金も安いし。(ただし防火設備や避難経路は確認してから、ね!)このカテゴリのマトメ読み
Mar 21, 2007
これがお勧め!! 発音編の締めくくりとして、お勧めの教材をひとつ。Carolyn Graham 著 "Small Talk" Oxford University Press洋書を扱っている大きな本屋なら置いているかもしれないし、注文しても良いだろう。インターネットの場合は、Carolyn Grahamというキーワードで、日本語のページを検索するとよい。Amazonなどでも扱ってくれている。たとえばこちらをご参照下さいこれは、メロディのないリズムだけの「チャント」というものを使って英文を身につけようという教材である。Carolyn Grahamはここで挙げた"Small Talk"の他にもたくさん、同趣旨の教材を執筆しているが、私のイチオシはこれだ。あいさつや、質問文などの定型表現を扱っているので、リズムが身に付くだけではなく日常生活の定型表現も覚えられて一石二鳥である。別に机の前に座って勉強しなくてもよい。日常的にこれをBGMのように流しておけば、いつのまにか覚えてしまうだろう。もちろんたまには気合いを入れて練習するともっといい。同じ著者の他のものなら、次のお勧めは"Jazz chants for children"である。子供向けとはいっても、大人にも全く問題ない。ときにはメロディもちゃんとある、有名な童謡などの「替え歌」もあってより印象深い。さらには"Grammar Chants"というのもいい。これは文法事項別の項目立てにしているので、文法知識を整理するのにちょうど良い(彼女のデビュー作(?)にして一番有名なものは"Jazz Chants"だが、これはまだ試行錯誤段階という感じなのであまりピンとこない)。こういう「教材」でなくとも、単に英語の歌を歌うというのでももちろんいい。カーペンターズなどは親しみやすいし、英語がきれいなのでお勧めだ。ロックやラップなどは英語が口語的になりすぎて崩れている場合が多いので、学習目的にはイマイチだが、それでもそれが好きなら、好きであることのほうが大事だからそれでもいい。歌はリズムに乗っていないと歌えないから、いやでもリズムを意識する。上手くリズムに乗れない場合は、上述の「強いところを強く長く意識」することを思い出して欲しい。早口でついていけない!と思える曲でも、これで意外に簡単にリズムに乗れるようになることが多いのだ。いままで発音についてシノゴノシノゴノ延々と述べてきたが、とりあえずそういうウダウダは面倒くさいからみーんな忘れて、「とにかく自分の好きなこのウタを、かっこよく歌えるようになろう!」というのでもいい。目的がはっきり決まれば、そこに至る正しい道は自然と見えてくるものだから。このカテゴリのマトメ読み
Mar 20, 2007
さて、文章の中で単語同士が「くっついてしまう」場合の発音のコツについての話を続ける。b) 子音+子音の場合 これはもちろん、以前に述べた、子音同士が繋がる発音を応用すればいいのだが、ひとつの単語だけではなく単語同士が繋がる場合には、しばしば、「同じ子音が続く」場合が出てくる。例えばwant to などだ。こういう場合は、繋がって1つだけになってしまう、のがルール…というか、自然な成り行きである。 want toは決して「ウワント トゥー」などとは発音されない。「ウワントゥ」である(toにはストレスがないので伸ばさない)。この発音がもっといい加減に(?)なるとアメリカ英語でよく耳につく「ワナ」になってしまうのだ。With the というような場合も、「ウィズ ザ」(もちろんカタカナはそもそもthの発音を表しきれないが)ではなく「ウィザ」でよい。また、特筆しておいたほうがいいのは他に、[t](または[d])のあとに別の子音が続く場合かもしれない。統計を取ったわけでも実験したわけでもなんでもないが、自分が学んだときの印象と、17年以上に及ぶ教師体験から思うのは、日本人にとっては[t]は本当に「鬼門」だということである。[th]などももちろん苦手には違いないが、「日本語にない発音だ」と意識できる点がむしろいい。[t]が鬼門だ、とは日本人はあまり認識していないので、かえって引っかかるのである。つまり分かりやすくいえば[t]をどうしても「ト」と発音したがるのだ。ところがそんな発音は決して英語ではされないから、聞いたときに「わからん」状態になってしまう。Next Sundayと書いてあれば日本人は「ネクスト・サンデイ」と読む。が、これは実際は「ネクス・サンデイ」に近く発音される。せいぜい「ネクスッサンデイ」である。また[t]のあとに母音が来れば、(1)で述べたように「ta ti tu te to」の音に聞こえるかもしれないが、ずっと以前に述べたように、アメリカ英語ではこれが日本語の「ラリルレロ」に最も近い発音なのである。だからたとえば「a lot of」などというフレーズは「あ ろろぶ」と聞こえる。さて、(2)どういう場合にくっつくのかについてはまた後で詳しく述べる(ここに至ると、発音だけではなく文法や意味も関わってくるし)。発音やリズムという純粋な「音」の問題は、ここまでであらかた(母音の詳細などは省いたが)述べてきた。しつこく言うが、この土台をしっかり築くか築かないかで、後の進歩(文法的な知識を得ることも含めて)が全く違ってくる。信じるものは救われる! ぜひぜひ、騙されたと思って、トレーニングしてみてほしい。初めはじれったく思うかもしれないが、ほどなくその効果が実感できるはずである。このカテゴリのマトメ読み
Mar 19, 2007
さて、英語のリスニングでたいていの人がひっかかり、茫然としてしまうのが、単語同士がくっついてしまう、という問題である。 字にしてみたら知っている単語ばかりなのに、聞いたときにはさっぱり分からなかった、というのはほとんどがこの問題なのだ。ここがクリアできたら発音については卒業と言っていい。単語がくっつくという現象について、ポイントは2つある。1) くっついた音がどのように発音されるようになるのか2) どういう場合にくっつくのか(1)については純粋に「音」の問題だ。大まかに言って、2つの場合にわけられる。a)子音+母音の場合 子音で終わる単語の直後に、母音で始まる単語が来た場合。日本語をローマ字で書いたときのように、カタカナで表せるような発音になる。A noisy noise annoys an onion.以前に載せた「早口言葉tongue twister」のうちのひとつである。カタカナでで発音を表すのは避けたいが、ここではあえてやってみる。単語一つ一つが独立しているときはこうなる。ア ノイズィ ノイズ アノーイズ アン オーニオン が、こんな風には言われず、実際にはこうなる。A noisy noise annoys an onion.アノイズィノイザノーイザノーニオンI did it again! (またやっちゃった!)なら、 アイ ディドゥ イットゥ アゲーンではなく I did it again!アイ ディディタゲーン となるのである。ところで、冠詞の「a」が、母音で始まる名詞の前では「an」になることはご存じだろう。これが何故かというと、このように「くっついて」しまう場合に「母音+母音」では極めて発音しにくいから、自動的にanになってしまう、ということなのである。a onion「ア オ-ニオン」は言いにくいがan onion「アノーニオン」なら楽だ。a apple「ア アポー」ではしんどいがan apple「アナポー」なら言いやすい(theも普通の名詞の前では「ザ」に近い発音だが母音で始まる語の前は「ジ」に近くなる。これも、母音の前には、弱めの母音の「ジ」のほうが言いやすいということである)。 これを考えても、単語同士がくっつくのが当然であることが間接的に分かるであろう。次は「子音+子音」の場合について述べる。このカテゴリのマトメ読み
Mar 17, 2007
とにかくリズムを掴め!前項に引き続き、繰り返して声を大にして言うが、英会話の習得にとりあえず一番大事なものは、「リズム」である。個々の発音はそのリズムを形作る基礎として非常に重要だが、いくらRやらThやらLやらの発音が完璧にできても、リズムが捉えられなければ意味がない。 たとえ片言を並べてなんとか意志疎通を図ろうというレベルであっても、まず単語自体を理解してもらえなければどうにもならない。そして単語を理解してもらうのは、発音の正確さではなく、ストレス(リズム)のパターンなのである。聞き取りの基礎としてという意味合いも含め、Thなど日本語にない発音を認識せよと、これまで延々と述べてきたのだが、実はたとえばアメリカでも南部の黒人などはtheをdaと発音していたりして、それでもお互いに通じているのである。が、リズムはそうはいかない。単語1つ1つにリズムがあるわけで、それが文章になれば当然、複雑なリズムパターンが生まれてくる。さあ、やっと、「発音編」最後にして、最重要ポイントである「文のリズム」にたどり着いた! このリズムパターンに慣れてくると、飛躍的に聞き取り能力もUPするし、英文を覚えるのも格段に楽になってくるのだ。遠回りに思えても、まずは英語のリズムを初心者のうちから身体にたたき込むのが、結局は学習のスピードをUPすることになる。よく、初心者なんだから「カッコいい」発音やリズムで言えなくたっていいじゃないかと思っているらしい人がいるが、むしろ逆で、初心者のときにちゃんとしたリズムや発音を心がけないと、変な癖がついて抜けなくなる。さて、英語の文のリズムの基本をまとめておこう。1.楽譜で書くなら付点のリズム。ターンタ、タターンタのように、長短の組み合わさったスィングのリズムが英語の基本である。2.文中では、意味のまとまりの中では、ひとつの単語が前後のものとくっついてしまう。さて、いつものように実際の練習には、自分でなんらかの適当な音声教材を用意して聞いて真似して言う、ということをしてもらわなければならないが、練習のときに留意することとして、「ある程度大げさ気味にやる」ということがある。自分では真似しているつもりでも、悲しいかな、日本人的リズムはなかなか抜けず、実はたいして長短の差がない読み方になっているのである。ちょっとやりすぎかと思うくらいでちょうどいい場合が多い。ぜひ、自分の読んだものを録音してみるとよい。自分の声を録音して聞く、というのは相当ハズかしいものだが(自分の思っている声と違って聞こえて、妙な感じである)、我慢する。 自分ではびっくりするかもしれないが、それを毎日聞いている他人は別になんとも思っていないわけであるから。自分の声を恥ずかしがっている場合ではないのである。それよりも、自分が思っていたようなリズムで読めていないことに驚いた方がよいかと思う。私はこのシリーズのタイトルに、「度胸のない人のための」と銘打っているわけだが、それはつまり、「当たって砕けて」恥をかくのがイヤだなあ、と思っている人は、ひそかにこっそり特訓をしてある程度自信をつけるべし、と考えるからである。人に聞かれてハズカシイよりは、自分でこっそりハズカシイほうがまだマシではないか。ともあれ、そうやって自分の読むものを客観的にモニターしてみると、いろいろなことが分かる。だいたいの場合、自分でそれなりにやっているつもりでも、全然それらしくないことが多いのだ。しかししばらくそうやってモニターしてみると、自分の「つもり」と「実際」がだんだん歩み寄ってくる。もちろん英語のネイティブスピーカーもそれなりにいろいろなしゃべり方をしているわけだが、練習に用いるなら、できるだけメリハリのあるしゃべり方をしている人のものを選んだ方がいい。そういう点では、新聞などでしょっちゅう全面広告を出しているあの「イングリッシュ・アドベンチャー」というのも悪くないのではと思う。友人が持っていたのを一度聞いてみたが、お芝居なのでセリフ回しがいちいち印象的なのである。そのほうが真似するのも楽なのだ。だが、お金を出してわざわざそんなものを買わなければいけないワケではなく、なんでもよい、ただ、あまりボソボソしたしゃべりのインタビューなどは避けた方がいいと思う。とにかく、大げさに、ときには実物よりも大げさになってしまうくらいにリズムを強調して読むべし。強い部分を強く長~~くリズムを強調する具体的なコツは、「強いところを強く、長~~く言う」ということである。英語のリズムのイメージは、あたかも、ぴょーん、ぴょーん、とバレエをやっているように(?)飛びながら進む、という感じだと私は思っている。「強く長い」ところは滞空時間であり、「短く弱い」ところは短い着地と次への踏み切りである。だから、強く長いところが十分に強く長い(つまり高く遠く長く飛ぶ)と、着地ー踏み切りにも勢いがつく。困ったことに、「短く弱い」部分に、日本人の感覚からしたら「たくさんの」語が詰め込まれていたりすることもあり、「こんなにたくさん、どうやって言うんだ!」と茫然とすることもある。例えば。I wish I could but I’m afraid I can’t.という文がある。意味は、なにか楽しいことに誘われた人が「行けたら良かったけれど、あいにく行かれないの」と断るときの決まり文句である。これを自然に読むとこうなる。 I wish I could but I’m af raid I can’t.大きい文字のところが強く長く読む部分。それ以外の部分は短い。長い部分は音符で言えば1拍半(付点音符)、短い部分は半拍(八分音符)というところだ。人によっては、could とcanだけが長く強く、それ以外はみんな短い中に詰め込むように言う人すらいるだろう。「I 」が短い拍なのはともかくとして but I’m af(raid)も全部詰め込むのかーー! えらいこっちゃ、である。だがそうなのだから仕方がない。こういうのを上手に言うコツが、「強い箇所を強く長く!」ということなのである。勢いがついて、短いところが不思議なくらいするするっと言える、はずだ(個々の発音がちゃんとできているという前提ではあるが)。さて、それでは、「どこを強く長く言う」のだろうか。もっとも最初のうちはひたすら、聞いたものをその通りに真似することに注意を集中して欲しいのだが、慣れてくれば初めて見た音声資料のない文でも、ちゃんとしたリズムで読めるようになる。いちいち頭を使って考えているわけではなく、いつのまにか、身に付くものなのだが、あえて理屈を解説しておこうか。アタリマエ至極であるが、「大事なこと(伝えたいこと)が強く」言われるわけである(その中でも当然、単語のストレスのある部分が強い)。同じ文章でも使われる状況によっては強い部分が違ってくる。Nice to meet you.は、最初に言う人はNice to meetyou. (またはNice to meet you.)と言うが、それを同じセリフで返す人はNice to meetyou.(あなたに会えたことがナイスなんですよ!=こちらこそ)と言うのである。例に挙げたI wish I could but I’m afraid I can’t.で、言う人が強調したいのはwish(~なら良いなあ) could (可能だったとしたら) can稚((でも)行けない)という部分なのである(ちなみに、couldという単語は1語だけで「できたらいいができない」という意味を含んでいる。だからこの文はI wish I could.だけでも成りたつのだ)。大事なところ、とは、前後を省いてそれだけ言っても意味が通じる部分、ということになる(ここにはリズムだけではなく「イントネーション」という問題も含まれているのだが)。 いずれにせよ、「強いところを強く長く言う」のがしつこく言うが鉄則なのだ。練習するときは、それをしっかり意識して欲しい。意識するポイントが分かっていると分かっていないでは天地の差があるはずである。このカテゴリのマトメ読み
Mar 16, 2007
ストレスがリズムを生むさて、では、ストレスとは具体的になんなのか。言われてみればあたりまえに感じるかもしれないが、英語のストレスとはリズムの基盤である。「強く」発音するというよりむしろ「長く」発音すると言った方が分かりやすいかもしれない。「タチカワ」と日本語で言うとき、4つの文字つまり4つの音節はほぼ長さが同じだろう。だがこれを「外人風」に言うと「タチカーワ」と言いたくなるはずである。もちろん、カにストレスがある、というわけである(なぜ無意識に「カ」にストレスを置きたくなるのかはよく分からないが、ターチカワでもタチーカワでもタチカワーでもないだろう。いやタチーカワならあるかもしれないか)。上記の「ふっとん!」では、ふのあとに「っ」を置いてはねる音のように表記したが、これもつまり、「ふ」の後に半拍ほどのタメがある、ということなのである。いずれにしても、英語という言語は、音が長いか短いか、つまり「リズム」に大変な重要性がある言語なのだ。それに対して日本語は、リズムはもちろんあるにしても、長短の組み合わせではない。俳句や短歌が575とか57577とかになるのは、拍の数の問題で長さではないのだ。拍自体はほぼ均等な長さである。が英語では拍自体の長さが違う。以前に英語の俳句について触れたが、そういうわけで、音節の数にこだわって英語でも5-7-5の音節にしようとしても、拍の長さが違うので日本語俳句のようなリズムに聞こえないのだ。(ちなみに、日本語の場合はリズムよりむしろ「音程」が重視される。「ハシ」が「箸」なのか「橋」なのか「端」なのかは、音の高低、つまり音程のパターンで認識されるのである)そして、長い音と短い音の組み合わせ、というリズムはつまり、「ターンタタ」や「タターンタ」というスィングのリズムである。音符で書き表せば付点音符や休符と組み合わせるパターン。このリズムが日本語と決定的に違うため、慣れないと聞き取りにくいのである。リズムに慣れてしまうと、その波に乗っかって聞けるため、弱い(つまり短い)ところも楽に聞こえてくるようになる。また、学習に際してはフレーズや例文を「暗記」することがものすごく重要になるのだが(なぜ重要かは別のところで述べるが、とにかく重要なのだったらなのだのだ!!今はともかく「そうか暗記が重要なのか」と私を信じるべし)、それにしても、タドタドしくリズムに乗らない読み方をしているうちは覚えるのも難しいものである。リズムが良くなれば暗記も飛躍的に易しくなる。口が覚えてくれるからね。というわけで、英会話学習に一番大事なのはリズムであり、そのリズムの土台になるのは個々の発音(「o.5」の音の認識)、そして次は単語ごとのストレスの位置である。そしてそれが今度は、文全体のリズムにつながっていく。(注:以下、少し前に間違えて別の項目にくっつけてしまった部分:そちらから削除して再掲)さて、一昔前の(いや、私が中高生だったころだから三昔ぐらい前ですな(^_^;))英語教育において、音声を軽視していたのは今から考えれば呆れるほどである。やっと、一部にヒアリングのテスト(と当時は言っていたが、ヒアリングテストは「聴覚検査」であり、正しくはリスニング・コンプリヘンジョンテスト。そこからして間違っているところがいやはやなんとも)が導入され初めたぐらいで、先生はしきりに「NHKの基礎英語を聞け」とは言っていたものの、それ以外はほとんどネイティブ(なみ)の発音に接する環境がない。オマケに教える先生たちはさらに一昔ないし二昔以上前の英語教育を受けてきた人々で、英語は分かっても英会話はできない人がほとんどだった。そういう先生たちが、教室で、生徒に教科書を読み上げさせる。あるいは、自分がまず読んで、生徒に繰り返させる。しかし、リズムということを意識していた先生はいなかったのではないだろうか。個々の単語の発音については、あるいは正しくやろうと心がけていた人もいたのかもしれないが、そこすら怪しい先生も多かった。生徒の発音も、あきらかに違っていれば直しただろうが、母音が混じるような発音をしていてもいちいち直さなかった(というか先生自身が母音入りまくりだったかもしれない)。個々の発音がまあまあマトモだったとしても、そして単語ごとのストレスの位置も(それはテストに出るから)ある程度意識していたとしても、文章全体のリズムは破壊的だった。まずもって、単語をいちいち、1語ずつはっきり区切って読むということが問題なのだが、それが問題だと思っていた先生はたぶんほとんどいなかった。まあ、大学で論文を読んだり書いたりするための基礎ということが目的で、英会話なんてものはそもそも想定されてなかったようだから仕方ないが(それに今のように簡単に音声教材を使えるわけではなかったし)、壮大なる時間の無駄だったようにすら思えてしまう。たとえ大学で論文を読み書きするためであっても、音声的基礎がマトモにできていればはるかに理解が速く進むはずだったのに。しかし昨今は、おそらくは学校での英語教育も格段に環境が改善されているのだろうと思うし(とはいえやっぱり教えている先生は一~三昔前の教育を受けているところに一抹の不安が)、そうでなくてもテレビや映画、音楽でナチュラルな英語に接する機会は飛躍的に増えたことだろう。CDなどの音声教材も今や、ないほうがおかしいくらいになっている。英会話の参考書類には必ずCDが付属しているしね(このサイトにもいずれは音声をつけるかも)。これから英会話を学ぼうという人にとってはすんばらしい環境になっているのだ。活用しない手はない。注目するポイントを意識するかしないかだけで、同じ音声教材を聞くのでも、効果がまったく違ってくると思う。しつこいようだが、注目ポイントはひたすら「リズム」である。日本語とは違う、ということをまず肝に銘じ、スィングのリズムを捉えるように意識して聞き、真似る(その土台として、子音の後に母音がいつも入るわけではないということも意識する!)。速く言う必要は別にない。聞いて真似して繰り返すとき、口が回らなければ全体をゆっくりにして構わないのである。だが、リズムを崩してはいけない。たどたどしく1語1語思い出して言う、のではゼンゼンだめ。切り離してもいいところと、いけないところというのもある(後でもう少し具体的に述べる)。どんなにゆっくり言っても、1語1語が独立して発音されるのは極めて不自然なのだ。ゆっくりであっても、くっついてしまうところはくっついてしまう。これについての具体的なことを次回に述べよう。このカテゴリのマトメ読み
Mar 15, 2007
if vs whenこの使い分けはそれほど難しくないでしょう。If は、その出来事が起こるか起こらないかがまだ明確でないときに使います。それに対し、whenは、起こることはほぼ確実だが、時間の問題である、というようなときに使うのです。時間の範囲が特定されていないような場合は、if でもwhenでもどちらでもいいことが多いです。If he comes, I will be happy. = When he comes, I will be happy.彼が来ると嬉しい。時間の特定さえしなければ、どんなことであっても、起こる可能性はあるわけですからね。ですが時間を限定した場合は、気をつけなければならないかもしれません。If he comes today, I will be happy.もし今日、彼が来たら嬉しいな。When he comes today ということもあり得ますが、その場合は、彼が今日来ることは分かっているという含みがあります。(今日彼が来るのは分かっているけれど)彼が来たとき私は嬉しくなるだろうな。という感じです。If や when の節には will は使わないIfやWhenで始まる節を「条件節」と呼びますが、ここでは、たとえ未来のことを話す場合であってもwillは使いません。willは「推測」を表す語です。「条件」を言うのに推測が混じったら条件になりませんからね。If/ When の節を文頭に持ってくるときは、主文の前にカンマを入れる(1) I’ll be happy if(when) he comes.(2) If(when) he comes,. I’ll be happy.これらは「同じ意味」ではありますが、何度も書いてきたように、「語順は英語のイノチ!」なので、語順が違うということはけっこう「キモチ」には違いがあるのです。原則として、「文の前の方に来ることほど、重要」おまけに上の例の場合、(1)のほうが英文としては「普通」の語順です。(2)は、「普通」を崩しているわけですが、普通を崩す、ということは、強いインパクトを与えるためにあえてやることなのです。普通の語順では後ろに来るものが前に来ている、ということは2重の意味でインパクトがあることになります。上の(2)の文では、「彼が来たら」という条件にインパクトがあるのです。(1)の文では「私は嬉しいだろうな」という部分の方がキモチとしては強調されます。まあ「ビミョー」ですけどね。このカテゴリのマトメ読み
Mar 14, 2007
(本日分は、大半が先日「レベル5」のカテゴリでUPしたものの再掲になってしまいますが、若干別の情報も入っていますので、そのままUPします)不定詞とは「矢印つき動詞」不定詞は【 to +動詞の原形】という形のものを指します。to のビジュアルなイメージを言うとすれば、それは、「矢印」 です。副詞用法、名詞用法や形容詞用法のどれにおいても、それは原則としては同じです。動名詞との使い分け不定詞は「名詞」的に使える、ということで、動名詞と似たように使えることが多いですが、基本的には違います。動名詞は本当に「名詞」なのですが(ルーツが動詞であったとしても)、不定詞は動詞の性格を色濃く残しています。矢印+動詞、ですからね。いちばんわかりやすい(ややこしいけど)のはrememberの場合でしょうか。(1) I remembered to lock the door. 私はドアに鍵をかけるのを思い出した。(→だから鍵をかけた)(2) I remembered locking the door. 私はドアに鍵をかけたことを覚えている。I remembered to lock the door.の場合は、「思い出して、それから、ロックした」のです。Remember lock the door動名詞のlocking にはそういう矢印のキモチはありません。だから、主動詞の「思い出した」時点より前のことを扱えるのです。forgetも同じですね。忘れちゃったからロックしないんですけども。tryという動詞も見てみましょう。(1) I tried to eat natto. 私は納豆を食べようとした(2) I tried eating natto. 私は納豆を食べてみた(1)は I tried eat natto. ですから、努力して、納豆を食べることに「向かった」のです。それに対し、(2)は、とりあえず食べてみたわけです。(1)の場合は実際に食べたかどうかこの時点では不明(というかどっちでもいい)ですが、(2)なら確実に食べています。「同じ形のものは根本的には同じもの」というのが原則です。動名詞は、進行形で使う形と同じ形ですね。それは現在分詞と呼ばれますが、名前はどうでもいいのです。同じカタチのものには同じキモチがあります。進行形と同じで、~ingの形には、「(いま)やっている」というイメージがあります。たとえ過去のことを言うのであっても、その時点で「やっている様子」を思い起こしているのです。stopという動詞について、「目的語として」繋がるのは動名詞だけです。だって、「これからやること」をstopすることはできませんからね。私は禁煙した、なら、I stopped smoking.です。でもI stop to smoke.という文も可能です。でもこれはI stopped smoke.ですから、実は、「私はたばこを吸うために立ち止まった=立ち止まって、タバコを吸った」という意味になるのです。だからこれは「~するために」という意味を示す「副詞用法」ですね。(ですが、その他の動詞に繋がる不定詞も、目的語=名詞、というより、実は副詞的なのだと考えても同じことだと思います)enjoyも、「これからやること」をenjoyするのではなく、「やっていること」あるいは「やっている様子を思い起こせること」を楽しむので、動名詞のみが繋がります。動名詞は、あくまで「名詞」不定詞が「矢印」であるのに対して、動名詞は名詞ですから、代名詞の 「it 」 で置き換えることが可能です。I locked the door. I remember it. 私はドアに鍵をかけた。私はそれを覚えている。また、前置詞に繋がるのは名詞だけ(この「前置」とは、「名詞の前に置く」という意味です)なので、be interested in~ be good at~などのフレーズに繋がるのは動名詞になります。ここで混乱しやすいのが look forward to~「~を楽しみにしている」というフレーズ。このtoは不定詞についているtoではありません。look forward とは「前方に目を向ける」という意味。to~で具体的にその前方にあるものが何かを言うのです。「~に向かって、前に目を向ける」ということから、「~を楽しみにしている」という意味を表します。I’m looking forward to the party.のように、普通の名詞を目的語にしてもいいのです。「~すること」を楽しみにしている、と言いたい場合は、動名詞が繋がるというわけです。I’m looking forward to seeing you.×I’m looking forward to see you.もうひとつ、例を挙げましょう。(1)Nice to meet you. (2)Nice meeting you.ともに「お会いできて嬉しい」という意味ですが、(1)は初対面の人に会ったばかりのときに使うのに対し、(2)は、その初対面の人とひとしきり話して、別れるときなどに使います。(1)は日本語で「初めまして」とか「よろしくお願いします」と言うような場面で使い、(2)は、これは日本語の会話ではあまり使わないように思いますが「お会いできて嬉し『かった』です」というような感じですね。ここでも、不定詞はで、これ(問題にしている時点)から先のことを意識しているのに対し、動名詞はそうでないことが分かります(但し、「動名詞は過去を表す」というわけではないのですよ。looking forward することもできるのですから。いつもそうであるのではなく、過去を表すことも「できる」、ということですね)このカテゴリのマトメ読み
Mar 13, 2007
以前にも書きましたが、英語には、実は「現在形」と「過去形」しかありません。ラテン語系のスペイン語などにはちゃんと動詞の「未来形」という活用もあるのですが、英語には――覚える労力が省けて実に有り難いことに――動詞の活用は原形と過去形しかないのです(厳密には過去分詞と現在分詞というのもありますが)。「未来形」というのはありません。でも、その代わり「未来を表す表現」というのがあります。それらは論理的に言って、未来のことについて話ができるようになっています。大きく分けて(1) willを使う。 willは「さあ、やるぞ」という意志と、それから「~するだろう」という推測を表すので、それで未来のことを言うことができます。(2) be going to~を使う。 これは広い意味での「進行形」と言ってもいいくらいなのですが、とにかく、すでに決まっている予定について「客観的に」言うときの表現です。(3) 普通の現在形を使う。 電車の時刻や、映画の始まる時間など、すでにスケジュールが決まっているものであれば、未来でも普通に現在形で表せます。(4) 現在進行形を用いる このうち(4)については以前に扱いました。たいがいの人にとって混乱の元になるのが、(1)と(2)の使い分けですね。この項目ではそれを中心的に扱います。「主観的」な助動詞のwill willは「助動詞」と呼ばれるものですが、英語の助動詞の一番の特徴は「話し手の『主観』を示す」ということなのです。つまり話し手自身の判断なのです。I will / We will ~などと、主語が話し手自身である場合、その「主観」は「(自分の)意志」となります。「私(たち)は~やろう!やるつもりだ!」というわけです。I’ll go there. 私はそこに行くよ。主語が話し手自身ではないという場合は、「主観」は「(相手または第三者についての)推測」となります。「○○は~するだろう」ということです。主語が I/We でも推測の意味である場合もあります(文脈で判断)。He’ll go there. 彼はそこに行くだろう。I’ll go there. 私はそこに行くだろう。客観的なbe going to~ 主観的なwillに対し、be going to~は「客観的」です。話し手の判断は重要ではありません。「そうする(なる)ことになっている」という意味です。これは広い意味では進行形だ、とも言えます。何かをするということに「向かって進んでいる」ということです。だから主語がなんであれ、be going to を使った場合は、客観的に(つまり誰が見ても同じに)ものごとが予定されているということなのです。Iが主語であっても、意志は重要ではありません。I’m going to go there. 私はそこに行くことになっている。そこで、たとえば「あの公園で桜が咲いているよ」とだれかに言われ、その反応として「あ、そうなの? それなら、行こう!」と言う場合はI’ll go there. となりますが、「うん、知ってる。これから行くことになってるんだ」ならI’m going to go there. ですね。自分の意志で決めたことであっても、ひとたび決めてしまえばそれは「客観的な予定」となるのです。天気予報などではbe going to を使います。It is going to rain tomorrow. あしたは雨になります。予測ではあっても、客観的なデータに基づいたもので、100%当たるわけではないにしても成り行きはほぼ「予定」されているからです。ですが素人の私たちが空を見上げて(または靴を投げて?)、明日はきっと雨だな、などと判断する場合は主観的な推測ですからIt will rain tomorrow. あしたは雨が降るだろうな。となります。その逆手を取り、推測ではあっても、強い期待を込める場合はbe going to を使ったりします。「~することになっている(はずだ)!」という気持ちを込めるのですね。We are going to have fun! 私たちはきっと楽しく過ごせるわ。(=楽しく過ごすことになっている、はずだ!)このカテゴリのマトメ読み
Mar 12, 2007
さて、個々の発音自体についての話はそろそろ一段落だ。子音+子音のパターンはまだほかにもわずかにあるし、母音については全然話をしていないが、この一連のエッセーの当面の目的は「ネイティブみたいにかっこよく発音できること」ではなく、発音の仕組みを分かることで正体が分かるようになり、聞き取りができるようになることなので、発音を完全に網羅する必要はないと私は思っている。母音も、たとえばhurtとheartはカタカナなら同じ「ハート」と表記されるだろうが実は母音が違っているわけで、それを聞き分けることは大事といえば大事なのだが、そのくらいのことは文脈からだって大概の場合は判断できる。しかし母音を伴わない子音については「聞き分ける」以前の問題で、日本人のオトナの耳には存在が認識されないことすらあるので、その存在を認識できるようになるのが大事なのである。…と以前に書いた。で、英語の学習に発音は大事、とも書いたが、実を言うと一番大事なのは発音というより「リズム」であると私は信じている。これからいよいよそのことについて話していこうと思う。実はこれからが本番、なのである。だが、リズムを作る基本として、音節のことは避けて通れず、それを話すためには、英語は日本語のような<子音+母音>の組み合わせを単位としているわけではないことを十分に分かってもらう必要があったために、まず子音の発音に集中してきたのだ。上述のように母音の発音の違いは割にどうでもいいと私は思っているのだが、これも前に書いたように、中学や高校のテストで「発音問題」といえば母音の違いを問うものばかりで(それしか問題にしようがないのだが)、はっきりいって無意味に近いものである。だが、発音問題と大概は並列してでてくる「アクセントを問う問題」はけっこう重要だ。英語のアクセント--いや実はアクセントという語は英語では「クセ・訛り」に近い意味で(あの人の英語はオーストラリアン・アクセントがある、というように言う)、日本語でいうアクセントのことは「ストレス」と言う。もちろん「仕事のストレスがたまっちゃってさあ」のストレスと同じ語で、つまり「強い力がかかること」をストレスと言うのである。英会話を学ぶのにはストレスがないほうがいいが、ストレスはものすごく重要だ……もちろん前者は「精神的ストレス」であり、後者は単語のストレス、ということだ。さて話を戻して、英単語のストレスだが、困ったことに一筋縄ではいかない。たとえばスペイン語のようなラテン語系の言語などでは、単語のストレスは大概の場合一定である。綴りと同様、一定の規則にのっとっているのだ。だから初めて見る語でもストレスの位置は難なく分かる。その規則にのっとらない例外の語なら、綴り上でそれが示される。ストレスを示す記号が綴りに織り込まれるのだ。が、英語はラテン語やゲルマン語などルーツが混ざってしまっているために、単語によってストレスの位置が違ってしまう。そしてそれを綴り上で表す手段もない。だからひとつひとつ確認していくしかない(ある程度は、似た形の語は似たパターンのストレスを持つとは言えるのだが)。まったくねえ、あのときスペインがイギリスに勝ってさえいれば…(←しつこい)。それでも頑張ってそのストレスを覚えるしかない。とても重要なのである。個々の発音自体が多少アヤしくても、ストレスがしっかり分かっていれば相手に通じるし、その逆も言えるのだ。ときどき生徒さんの中でも、なにか英語で言いたいのだが単語が思い出せず、日本語のまま妙なアクセント(この場合はアクセントでいいのだ)をつけて言ってみたりする人がいる。「I went to…え~~と、なんだっけな…、えーとえーと…オンセーン」気持ちは分かるぞよ。あるいは、外人が日本語をしゃべるとき、という状況を戯画的に言うとたいていは「ワッタシー、ニッホンゴ、ワッカリマッセーン」と、これまた妙なアクセントをつけて言うのが「お約束」である。しかしここにこそ、非常に本質的な現象がある。英語というのは、そのように語の一部が強調されて「ワッ」カリマ「セーン」のように言うものだ、と認識されていて、それは正しいのである。かつてニューヨーク出身の友人に、ニューヨークでは「布団」が結構流行っているんだってね、という話をしたことがある。東京ほど酷くはないにしても住宅事情の豊かでないニューヨークでは、スペースの節約できる布団がベッドよりも便利でおしゃれだと人気がでてきて、専門の店もできているというのだ。それはある雑誌の記事で読んだのだが、ニューヨークでも布団は「futon」で通じる、と書いてあったので、そのまま使ってみた。だが、通じない。おかしいな、彼女は知らないのかな、と思いかけたが、とうとう彼女は理解した。「Oh! 『ふっ』とん!」 fのあとのuにストレスを置かないと認識されなかったのである。認識されてからは「そうそう、私の友達もfutonのファンで」と話は進んだ。あるいは、「地球の歩き方」の旅行体験記のようなものを読んでいたら、英語がしゃべれないけれども行き先さえ言えればタクシーでどこでも行けるだろうと思ったが、当時有名だったディスコのOasysに行きたくて「オアシス、オアシス」と連呼したけれど全然理解されず、ついに紙に書いて見せたら「Oh! オゥエイシス!」と言われ、分かってもらえた、という話が載っていた。それは決してオィ「エイ」シスでなければならなかった訳ではない。「エイ」となるのはそこにストレスがあるからで、オ「アー」シスと言っても、とにかくその部分にストレスがあれば通じるはずである。私たちにとって子音に母音がつかないと認識しにくいのと同様、彼らにとってはストレスがなく平板に言われると認識できないのだ。このカテゴリのマトメ読み
Mar 11, 2007
さて、Rが繋がるタイプの次にやっかいなのは、L音がくるものである。Rと逆に、舌を上の歯の裏に押しつけたまま発音するというL音の基本を思い出し、子音とつながるとどうなるか、理屈でまず「考えて」挑戦してみる。R音よりもL音の方がはっきり強めに聞こえる傾向がある。R が口の奥の方に引っ込むのに対し、L は前の方に出てくるからである。★BL-とPL- ブラックBlack、ブルーBlue、ブラインドBlind、ブロックBlock、ブラウスBlouse、プレイスPlace、プラスチックPlastic、プランPlan、などたくさんある。 BやPはほんの「踏みきり」ぐらいの感じで軽く発音し、続くL+母音の部分をおおげさ目に発音する。 ★CL-とGL- 喉の奥で発したC(K音)やG音のあとに、しっかり息を口の前までおくって、上の歯に押しつけた舌の両脇から息をもらすような感じになる。クラスclass、クリーンclean、クリアーclear、クリップclip、クラブclub、などCL-のほうはうようよある。GL-はグラスglass、グライダーgliderなどで(カタカナ語化したものは)そんなに多くはない。★FL- フラワーflower、フレキシブルflexible、フロアーfloor、フラットflatなどなどたくさんある。ちなみに、「フリーマーケット」はFree Marketではなく、Flea Market と綴られ、「蚤の市」という意味だ。Fleaは「蚤」で、転じて「がらくた」という意味がある。フリーマーケット=「自由市場」だと思っている人が多いと思うが、そうではなく、「がらくた市」なのだ。有声音バージョンのVL-で始まる単語はほとんどない(語中にはたまに出てくる)。★SL- カタカナ語のスリルはthrillだと前に書いたが、スローslow、スリムslim、など、純粋のS音に続く音がカタカナならラリルレロになる場合はRではなく必ずLである。逆にTHL-の発音はない(実際ほとんど発音できない)。★TL-/DL- これは、同じように歯の裏に舌をつける発音なので非常に発音しにくく、基本的にこれらで始まる単語はほとんどない。だが、たとえばrepeatedly(繰り返して)とかsilently(静かに)など、形容詞にLYがついて副詞になるようなときにこの発音があらわれる。その場合はD音やT音はほぼ消えてしまう。DやTで軽く下を歯の裏につけるが、Lでそれを再び強く押し当て直す。これらもまた、さらにその前にSがつくパターンもありうるわけだが、それほど多くない。カタカナ語になっているような語で、S+子音+L-で始まっているのは、スプラッシュsplashとかスプリット(ボウリングの)splitぐらいで、あとは語中にその繋がり方が出てくるが、多くはない。しかし<S+子音>で始まっている単語はそれなりに多く、語頭のSが聞こえにくいことが多い。この連載の冒頭で書いたスパゲッティspaghettiもそれである。発音の仕方自体はそれほど難しくないと思うが、母音を入れないように気をつけて発音しなければならない。息の音だけで、むしろその後の音を発音するための勢いづけみたいなものだと思えばよい。あとで詳しく述べるが、そのためには、アクセントのある母音はむしろ強調しすぎるぐらいに強調して、長~~く発音し、その他の部分は、ちょん、と踏み切るぐらいにする、という英語のリズムにも注意しなければならないのだが。前にも述べたように、スペイン語は日本語と発音が似ている。streetやspaceのようにs+子音で始まる単語もほとんどない。彼らは、その前にさらに母音をつけてしまう。estradaエストラーダ=道(=street) espacioエスパシオ=スペース(=space)、そもそも国の名前もSpainではなくespana(エスパーニャ)となる。これならSが埋もれて存在が不明になってしまうこともなさそうで、やっぱり日本人にとってははるかに聞き取りやすく話しやすい言語だろうな、と思う。返す返すもスペイン無敵艦隊がイギリスに破れたのが残念だ…って、たぶんそういう話じゃないですね。このカテゴリのマトメ読み
Mar 10, 2007
つい先日、「記憶のチカラ」というテレビ番組を見た。記憶力に年齢は関係ない!という触れ込みだったので、最近深刻に物忘れの激しいワタクシとしては、ワクワクしながら見たのだが、ちょっと肩すかし。記憶力に年齢は関係ない、という話は、世界的な記憶力のコンテストで上位入賞した人たちは10代から50代まで幅広くいるし、10位以内にも40代が多いということが根拠だったのだが、その記憶力コンテストとは、ランダムにシャッフルしたトランプの並び順を覚えるとか、ランダムな数字を覚えるとかいうもの。そういうものが、「鍛えれば」ある程度の年齢がいっても衰えないというのは分かる気がする。というか、そういうコンテストに挑戦する人たちは日夜、暇さえあればトランプの順番を覚える訓練をしているわけである。「だから何?」と私は思ってしまった。 が、しかし、たしかに「鍛えれば」年齢が多少いっていても記憶力はアップするのである。そしてもちろん「運動能力」も。だからトレーニングが必要なのだ。 だがこの番組を見ていてもっと印象が強かったのは、たとえば「外出するとき、家を出てしばらくしてから『鍵かけたっけ?』と思い出せないのはなぜか」という命題に対する答えである。ドアを締めて鍵をかけるような動作は、もはやノーミソ(いわゆる考える脳=大脳皮質)はほとんど関知せず、身体が覚え込んだ動作を無意識にやっている。だから逆に、あとで思い出そうとしてもノーミソを経由していないので記憶がない、というのである。そして、「考える」という活動はものすごく酸素を消費する重労働だとも言っていた。だから、ノーミソはできるだけそういう活動を節約するように、無意識にできるような行動にはタッチせず酸素消費もおさえ、その分を他のことにを考えることに使うというのである。私もライブでブラジルの歌を歌っているが、慣れないポルトガル語の歌詞とはいえ眠りながらでも歌えるくらい、身体にたたき込む。ほとんど無意識に歌詞が口から出て来るくらいになっているのだ。が、しかし! 歌っているときに「あれ、次の歌詞はなんだっけか?」とついノーミソに活動させてしまうと、とたんに分からなくなってしまう。逆に、まだ歌詞をしっかり身体が覚えていないものだと、普通にしているときは歌えているのに、ライブで人前に立って他のいろいろなことに気を遣っていると、まったく思い出せなくなる。頭を使う、ってことは、ほんと、重労働なのだ。だから。私はとにかく、英会話も、「口に覚えさせよ」と言いたいのである。基本の文型とかフレーズとかを、ノーミソを経由せずに言えてしまうぐらいに身体にたたき込め!と。そうでないと、他のことを考える余裕などなくなってしまう。いつまでもいつまでも基本の文型などをいちいち考えていたのでは絶対にしゃべれない。そして、身体が無意識に覚える、ためには、正しいリズムが必要になる。たどたどしくしか言えないものは決して覚えられない。そして、そのリズムを作る大もとは、個々の発音である。発音のいちいちが完璧である必要はない。だが、リズムを崩すのはNGである。リズムについては後で本格的に話したいと思うが、「いちいち母音がはさまらない」ということこそ、英語のリズムの根本なので、それだけは忘れないようにしてもらいたいのである。さて、前置きはこのくらいにして、前項に引き続き、その他の「子音の直後に(母音を挟まずに)R音が来る場合」を見ていこう。★BR-及び PR- BとPの音は、上下の唇を合わせた状態から、息を「破裂させる」音。爪楊枝を唇ではさんでくわえ、それを息で飛ばすようなイメージ。息の音だけの無声音ならP、声が乗るとBとなる。それ自体はけっこう強めの音なので聞き取りにくいことはないだろうが、その分、あとにつながるRの音の存在感はなくなりやすい。なんども説明しているように、R音は下を思い切り口の奥の方にそらせるように引いて出すから、PやBを発音するために行きおいよく出した息がさえぎられるような感じになるのである。カタカナで書けばプロフェッショナルとなるであろうprofessionalも、「ポーフェッショナウ」のように聞こえる。pressureも「プレッシャー」より「ペッシャー」という感じだ。breakfastは「ベックファスト」 brownなら「バオン」に近く聞こえる。あえてカタカナ語として日本語的に使うことが多い語を例に出しているのにはもちろん意図がある。正体を見れば、自分の知っているはずの単語なのに聞き取れないときのショックは大きい。あえてそのショックを味わってもらおうとこうやって列記しているのである。 とはいっても再度いうが、音声教材がここにはないのでピンと来にくいかもしれない(そのうち音声教材も作るかもしれない)。前回も書いたように、音声材料のついている教材を使って、焦点をあてたい綴りをまず探して印を付け、実際の発音をじっくり聞いてみてもらいたい。ショック云々はおいておいても、カタカナ語を知っているだけに、それにつられてしまって正しい発音が分からなくなる。カタカナ語はむしろ英語学習には弊害があるとさえ言えるかもしれない。かといって、ひところ妙に流行った帰国子女のキャスターなどが、英単語を英語の発音で交ぜた日本語をしゃべるのもヒッジョーに嫌みで感じ悪いが。 まあ、カタカナ語は少なくとも発音に関しては英語ではなく日本語である、と開き直って区別して考えた方がいいということだ。★CR- 及び GR-この場合綴り字のCR-は発音記号では[kr-]となるので、正確にはK+Rというべきところである。KとGは、喉で息を詰まらせるような「クッ」という音。K(C)は無声音、Gは有声音である。喉でその音を出し、R音でも喉の奥の方に舌が来ているので、全体として口の中の奥の方で発せられる音となる。だから認識しにくい。crossword puzzleの「クロスワード」が「コスワー~」と聞こえる。creativeクリエイティブも「クエィティヴ」に近い。ground「グラウンド」も「ガウン」であり、group「グループ」も「グープ」である。★FR-下唇と上の歯を摩擦して出すFにつづくRは、上記のBR-などと同様、強いFの音ばかりが聞こえるだろう。ちなみにFの有声音ヴァージョンのV+Rは英単語にはあまり使われていないようだ(フランス語にはあるようだが)。そのフランスFranceも「フォンス」と聞こえてしまう。フロントfrontも「フォント」と聞こえて、フラストレーションfrustlation「フゥストレーション」がたまりそう。★THR-意外なことに、SR-で始まる英単語というのはない。それでは、スリルとか、ドライブスルーのスルーとかは?球技にあるスローインとかフリースローとかは?それらはみんな、THR-で始まっているのである。日本語にないのでスと書いてしまうが、以前に解説した、舌と上下の歯の間で摩擦して出す音なのでSとは違うのである。スリルはthrill でありthrillerなら映画などの「スリラー」だ。スローイン・フリースローのスローはthrow(投げるという意味)であり、ドライブスルーのスルーはthroughというややこしい綴りで、「通って、通り過ぎて」という意味を持っている。そうそう、数字の3も、ワン、ツー、スリーと書くが、やはり本来はthreeなのである。この発音がかなりしんどい。しつこくいうが、日本語に存在せず日本人に聞き取れない音どうしの繋がりである。いきなり聞いても正体不明になることが多い。しっかり意識して、上下の歯の間に舌を突き出すようにしてすきまから音を出し、それから一気に舌を後ろに引く。舌の前後の動きは最大になると言っていい。こんな動きは日本語にはありえない。理解できない動きから生み出された音が聞いても理解できないのはアタリマエである。この音はかなりトレーニングが必要だと思う。だが根気よく、舌の動きの基本をおろそかにしないように、それどころか前号でも述べたようにむしろ大げさにするくらいに意識してゆっくり練習するべし!次はさらに難易度UP?子音が3つ繋がっているものを見ていこう。その代表格が、Sで始まる繋がりである。話の流れ上、Sのあとに今まで述べてきた、<子音+R>が繋がる場合をまず取り上げる。なおSが無声音のため、DやGなど有声音の子音がSの次にくることはない。★STR- ストレートstraight、ストロングstrong、ストリートstreet、ストライプstripe、などなど、これで始まる単語がカタカナ語化しているものは多い。しかし以前にも述べたように、ストロングならsutorongと発音され、strongとはかなり違って聞こえる。SもTも無声音で、すなわち息の音だけだし、Rは認識しにくいとくれば、STR-と揃い踏みされた日にはたまったものではない。 たまったものではないが、頻出するからには征服せねばならぬ。母音を入れないように注意して、「声」ではなく息の「音」であることを意識して練習して欲しい。★SPR- スプレーspray、スプリングspringなど。数はそんなに多くないかもしれない。★SCR- スクリーンscreen、 スクランブルエッグscrambled egg、スクロールscrollなど。
Mar 9, 2007
tr と dr さてさて、こんどこそ。子音同士がつながってしまって聞き取れない部分の具体的な解析だ。もちろんたくさんあるが、まずは代表的なものとして、子音にR音がつながるものを取り上げよう。その中でもよくあるのは、T+Rである。カタカナ語になっている単語にもたくさんあるのだ。「トレーニング」「トラディショナル」「トリップ」「トロンボーン」すべて、tr-ではじまっている。traning, traditional, trip, trombone同じ系統で、D+Rというのも多いだろう。「ドライブ」「ドリンク」・・・もちろん、drive, drinkである。 これまでに述べたT(D)の発音の仕方と、Rの発音の仕方を思い出して欲しい。母音が混ざらないように注意して、舌を歯の後ろに一瞬つけて、すぐはじくと同時に、舌をぐっとうしろに引く。もう一度思い出して欲しいのは、英語では、口の中の、とくに前後の動きというのが日本語とは比べものにならないほど活発で、口の奥の方をよく使うということだ。日本語は口先だけでしゃべれてしまう。だから日本人は本音を言わず建前だけをしゃべる……って、そういう話じゃないってば。冗談はともかく、ためしに意識してみて欲しい。日本語をしゃべっているとき、口の奥の方は全然使わない(もちろん声帯は別)。舌は、タ行やラ行でわずかに動くが、それ以外の時はほとんど動かない。よく、英語らしい発音をしたいと意識しているらしいが、そのためにどうも発音が妙にゆがんだような感じで妙になっている人がいるが、その原因は、日本語と同じぐらいの口先だけで英語の発音をまねようとしているせいであると思う。ここでも発想を変えなければいけない。普段使わない、口の奥の方を意識して動かさなければいけないのだ。そう意識して、tr-やdr-を発音してみよう。舌が前後に激しく動く。train training triangle(トライアングル) tree truck trick drink drive drugstore drop dream などなど。初めのうちは「言葉」「声」であると思うより、「音」を出す、という意識をするといいかもしれない。舌を動かして、息で音を作る、という感じ。 とにかく重要なのはっ「母音が混ざらないようにする」ということだ。現時点ではここでは音声材料を提供できないが、手に入る音声教材を利用して、注意して聞いてみて欲しい。訓練のひとつのアイデアだが、テキスト原稿が手に入る音声教材を使って、あらかじめ、その日に注目する音(綴り)のところに鉛筆で印を付け、そこに集中して聞き、練習する。別の日に別の音に集中するときは、それを消して新たに印を付け直す。まずはtr-とdr-をやり、その後(あとで触れるが)thr-とか、pr-とかcr-、に注目を移していく。それから今度はL音が続くcl-とかpl-とかに移り…と順番にやっていく。 練習の時は、いささか極端にやるくらいがいい。普段使っていない動きをするのだから、よけいに大きく動かしてそのあたりの筋肉をほぐしたほうがいいし、大きく動かして初めてその感覚がつかめるというのもある。なれてきたら少し控えめにするよう戻していけばいい。速さを追求する必要はない。むしろゆっくり、大げさにやるべきだ。それに、大げさにやったつもりでも意外に聞いてみるとそれほどでもなかったりする。最近は携帯電話にでもボイスレコーダーがついているので、自分の発音をぜひ録音して聞いてみて欲しい。話は唐突に変わるようだが、かつて私の英語のバイブル(?)は「ウエストサイドストーリー」だった。50年ぐらい前のミュージカル(映画)だが、何度もリバイバルされ、今見ても新鮮な感動(先日BSでやっていて、つい観て泣いてしまった)。中学生ぐらいのときにそのサントラ盤を手に入れ、繰り返し繰り返し聞いた。そして歌詞もほとんど覚えてしまって一緒に歌っていた。 この物語のヒロインは、出身がプエルトリコで、その英語はものすごくスペイン語訛りが強い。とくに、Rの音は完全に巻き舌になっている。Your heartが「よあ はーと」ではなく「よある はると」と聞こえる。Charmingは「ちゃーみんぐ」ではなく「ちゃるみんぐ」である。しかし私はそれが妙に気に入ってしまった。ヒロインや、その仲間が歌い上げる、巻き舌Rバリバリの歌を、一生懸命真似して歌った。結果的に、それがむしろ良かったような気がする。幼い頃からの訛りというわけではないから、普段の英語がスペイン語っぽくなるほどまでしみつきはしない。むしろ、Rの発音を「極端に、おおげさに」強調して練習したような効果が生まれたのだと思う。巻き舌も舌を後ろにひかないとできないのだ。しかもミュージカルの歌とあって、半分はせりふで、それでも歌だからリズムもイントネーションも大げさで、かつ印象深く、R音に限らず、「大げさに練習する」のには全体に大きく役だったように思う(最近はDVDでさえ2000円以下で手にはいるので、ぜひ「ウェストサイドストーリー」を見てみてください。お勧めです)スペイン語といえば、私はかねがね、その昔スペインがイギリスに負けなければ、日本人はもっとラクができた、という仮説を持っている。つまり、イギリスではなくてスペインが世界中に進出し、英語ではなくスペイン語が世界の共通語のような地位になっていたら、ということである。スペイン語は、少なくとも発音の点においては英語よりはるかに日本人にとって易しいと思える。母音が多く、それもほぼ日本語のアイウエオと同じである(英語のようにアとエの中間だとかオとアの中間だとかいう音はない)。 子音のあとに母音がくることが多く、子音+子音のつながりは、全くないというわけではないが、英語ほどではない。 巻き舌のRにさえ慣れれば、あとは楽である。 というわけで、スペイン語が世界にノシていれば、日本人にとっては習得も比較的容易で、そのため日本人がもっとガンガン世界に出て行けていたことであろう(もっとも今でも世界のスペイン語人口は非常に多いのだが、いまひとつ経済的にぱっとしない国ばかりだ。これはラテン気質のなせるわざ、なのかもしれないが…)。
Mar 8, 2007
さて、また発音の具体的な話に戻る。だがその前にもう一つ、余談…でもないが、ちょっと本流を逸れた話。Free carecowards to becomeMs.Notこれは何? 有名な一種のジョークなので見たことがある人は多いかもしれない。これは有名な俳句である。「古池や かわず(蛙)飛び込む 水の音」訳すとこうなる…わけではないのだ。「読むと」こうなるのである。声に出して読んでみてね。(英文自体は意味をなしていない。自由な注意? 臆病者になる? ノット女史?)これは冗談であるが、英語圏でも実は俳句はとても人気があるらしい。俳句の約束事は、と言えば、季語を入れるとかのほかに、なにはともあれ「5-7-5」である(と日本人は思っている)。なにが「5-7-5」なのか?「文字の数でしょ」それでは英語の俳句にした場合、1行にせいぜい1単語しか入らない。「拍の数でしょ」が正解である。その「拍」すなわち「音節」が、日本語の場合はかな文字と一致するから、俳句の五七五は(かな)文字の数と言っても間違いではない。それじゃあ、英語で俳句を作る場合はどうするの? もちろん、英語にだって「音節」はある。簡単に言えば、音節とは母音を含む1単位である。日本語は、以前に述べたように「(子音+)母音」が1文字、つまり音の最小単位(ようするに1文字=1音節)だから話は簡単だが、子音だけの音が山ほどある英語などでは少し面倒くさい。ストロングはカナで書けば5文字すなわち5音節になるが、英語ではstrongで、母音は一つしかないから、これは1音節、1拍の語なのである。「ストレート」ともなると、同じようにカナは5つあるが、英語でつづればstraightで、やはり音節は1つ、だが文字は8つもある(すでにこれでは俳句に使えない?!…もし「文字の数」を数えるならね)。 1音節のはずのstrongが日本語では5音節になってしまうところに、日本人が英語を学習するに当たっての大きな問題がある。母音を伴っていない子音の発音が聞き取れない、ということなのである。これから、それをもう少し具体的に見ていこう。つまり、子音同士がつながっているときの発音についてだ。その前に、前ふりとして長々述べた俳句のことについても一応「おとしまえ」をつけなければならない。英語で5-7-5の拍数にこだわって作った俳句は、たとえばこんなもの(ネットで検索して拾ってきた)。after father’s wakethe long walk in the moonlightto the darkened house [written by Nicholas Virgilio](試訳:父の通夜の後 / 月の光の中をずっと歩く/ 暗くなった家に向かって)Between two mountainsthe wings of a gliding hawkbalancing sunlight [written by David Elliot] (試訳:山々の狭間を/滑空する鷹の翼/陽光を天秤にかけるように)「1拍」の文字数が多い分、情報量も多くて、日本語の五七五の倍ぐらいのことが言えている(普通の歌の歌詞などもそうである。英語の歌詞を直訳したらとても元歌のメロディには乗らない)。が、そのために、これでは長すぎて俳句の真髄である「限界的に短い中に情景や心情をこめる」という感じが鈍くなる、という説があり、今の英文俳句は五七五にはこだわっていないらしい。音節にしたら2とか3の短いものが主流だそうだ。ようは、上記の「真髄」が生きていればいいのである。そもそも、いくら「拍の数」が同じでも、やはり日本語と英語ではリズムが違うところが多々あり、上記のものを声に出して読んでみても必ずしも日本で言う俳句、という感じはしない。それはそれで味があるが。逆に、日本語の俳句をそのまま「ガイジン」に読んでもらっても、母国語のリズムのくせがある人の場合、やはり「ヘン」になる。「フッリーケーヤー カッワズトゥビカーム ミーズノーット!」で、冒頭のFree care cowards to become Ms.Not になってしまうわけである。ところで、「古池や~」の句(をはじめとした松尾芭蕉の句)は、世界中の俳句愛好者のバイブルであるらしい。まじめな「訳」もいくつも試みられている。その例はThe old pond;A frog jumps in, The sound of the water. (R. H. Blyth訳)…って。けっこう「まんまやんけ」だよね…。………余談の方が主流のように長くなってしまうのは私のくせなのでまあご容赦ください。次回からまじめに(?)「子音のコンビネーション」について話します。
Mar 7, 2007
というわけで、「自分の論理を採り入れた、自分の経験」についてお話しする。手前味噌ではあるが、「成功した(というか、「しそうな」)ダイエット体験記」みたいなものだと思って参考にして下さい。前に述べたように、会話例の録音されたCDのある教材を使って音声中心で練習することを主眼にしている。(1)まず、新しいユニットを聞くときは、何も見ない。そもそも「家でお勉強」ではなく、「歩きながら」を基本にした。ちなみに、ダイエットやエクササイズも兼ねて、天気が良ければ基本的に少し早めに家を出て1駅分を歩くことにしている。約1時間かかるが、公園を経由するので、公園内では自然の音を楽しみたいから何も聞かない。よって正味30分ぐらいがポルトガル語会話を聞いている時間である。ときには、ライブのために新しい歌を覚えなければならないので(これもポルトガル語だが)会話の勉強は10分ぐらいのときもあるが、できるだけゼロにはならないよう毎日触れる。あまり人の通っていない道なので、ごくごく小さな声でなら、あるいは「口の中で」なら話す練習もできるのだ。話を戻すが、とにかくまず「見ないで聞く」ことが大事。そのココロは、まず「見ないでどれくらい分かるか」試してみることにある。これが慣れてくると意外に聞き取れるようになってくる。実際英語を取得するときも、NHKのラジオ放送を利用して同じことをやったのである。最初の頃は初めて聞いたときにはちんぷんかんぷんだったものが、トレーニングを重ねるに連れ、初めて聞いたものでもなんとなく分かるようになる、という「実感」が得られ、それが大いに励みになったのだが、今回もすでにその励みを得ていて、新しいユニットをワクワクする気持ちで聞いている。そして「おー。だいたい分かるじゃーん。あたしって、天才!」とひとりで悦に入っているのだ(^_^;)。「見ないで聞く」ことはそのように、ゲーム的なモチベーションを創る効用もあるのだが、実際的にも、発音やイントネーションの訓練になくてはならない。たいがいの人は、リスニング練習ではない会話の練習と言うと、まずテキストを開いて「見ながら聞く」。そうすると、発音もイントネーションも「分かった気」になってしまう。だが実は全然分かっていないのだ。これも前に書いたが、日本人は文字情報にものすごく強いため、それ故に、文字情報に頼りすぎる傾向がある。文字情報に頼ると、耳からの情報を無意識に軽視(軽聴?)してしまうのだ。CDで聴いて(あるいは教師が読んで)それをリピートするという練習をしているはずなのに、多くの人が、聴いたとおりに読もうとはしない。「見たとおりに」読むのだ。なまじ中学高校で読む練習をさせられていたが、それが日本人的発音やイントネーションだったりすることも非常に多い(最近の若い人は比較的正しい音声情報を得ているとは思うが)。だが、「見ないで聞く」を先にやれば、たとえ聞き取れなかったとしても、だからこそ「正しい音」に意識が集中する。「分かるまで聞く」必要はない。何回か「見ないで聞い」て、分からなければギブアップしていい。そして、そこで初めてテキストを確かめるのである。おそらく「ああ!そうか!」と思うはずだ。この経験が非常に大事。そもそも「分からなかったことが分かる」のが人間にとっては本質的に「楽しい」体験であるからこれもやっぱりモチベーションに繋がるし、それにインパクトをもって頭に入れたことは忘れにくい。自分のことを言えば、そのポルトガル語のテキストはけっこうシビアで、最初は英語でHow are you? にあたるような挨拶から始まるのに、どしどし難しくなり、全部で55ユニットで、最終的には英語で言う「仮定法過去完了」なんてのもでてきて「もしあなたに出会っていなかったら、私は今頃何をやっていたでしょう」なんて文(ちなみに、ラブレターの一節である)までカバーしたが、だいたいの意味は1回で分かるようになっていた。もっとも発音については、私は今まで歌を歌ってきて鍛えられた部分もある。これまた英語の時と同じ経緯なのであるが、お気に入りの歌を歌って発音練習、というのはやっぱり強力オススメ!!!((2)何度も繰り返し繰り返し、一緒に口に出す。前述のように通勤がてらの散歩をしながら聞いているので、そうそう大きな声で練習するわけには行かないが、ボソボソとついて言うことは可能だ。そして、散歩時間以外の勉強時間は、お風呂タイムである。お風呂には音源は持ち込まないが(だが最近は防水CDプレーヤーなどもあるので持ち込むことも可能だ)、本は持ち込み、お風呂に浸かりながら練習する。音読練習にはいろいろなパターンがあることは前項で書いた。が、ただ単に「シャドウイング」しているときも、意味を考えながら集中しているときもあるが、散歩中他のことに気を取られていることもある。そういうときも、耳と口だけは練習している。でも意味は全く考えていない。単なる「反射」で、それはそれで必要だと思っている。それから、ときには音源は止めて、自分で思い出しながら一連の会話を再現する練習もする。「単なる音に反応する練習」、「意味を考えながら一緒に言う練習」、「意味を考えて再現する(暗記しておく)練習」、「テキストを見て読む練習」、など、適当にその場に応じてやる。((3)ユニット1が終わってからユニット2,という進め方をしていない。いやもちろん順番にやってはいるのだが、ユニット1が完成しないうちにユニット2にも行ってしまう。けれど、必ずユニット1に戻ってくる。こうして、5つぐらいのユニットを並行して行ったり来たり。きょうは1~5、あしたは2~6、その次は3~7というように、シャクトリムシのようにループしながら少しずつ前に行く。このことの利点は、「飽きない」ことである。どんどん先に進みたい衝動も満足する。先に進んでから前に戻ると、こんどは「分かっている」安心感がある。一連の会話はせいぜい2~3分なので、4~5ユニット分、それも繰り返し繰り返し手を変え品を変え練習したとしても、30分あればけっこうできる。この方法で、3ヶ月ぐらいで55ユニットを一応カバーしたが、最初の方のユニットはちゃんと覚えている、繰り返しやったからね。というか、今でもやっている。ものすごく一生懸命やっているように聞こえるかもしれないが、せいぜい1日30分、飲んだくれて遊び歩いている週末はサボる。天気が悪い日もサボる(散歩できないから)。最近は電車の中ではついつい携帯電話にダウンロードしたゲームの方に熱中してしまい、そればっかしだ。つまり、かな~り「テキトー」にやっているのである。けれど、何度も言うようにこれ自体が「楽しい」からそれなりに続けていける。もうひとつ「続けられる要素」は、「野心」である。いっちょやったろか、という気分。もちろん自習だけでは話せるようにはならないが、現在取り組んでいるその本を、さらに繰り返し繰り返し練習して半年ぐらい、その後はちゃんとだれかブラジル人の先生を見つけて、実践的に会話をしてみようと思う。で、約1年で、ペラペラとまではいかないにしても、「ポルトガル語? うん、まあ少しは」と言えるぐらいには、なったろうじゃないか!…と自分で「目標」(?)を設定したのだ。「テキトー」とはいえ、それなりのリキも入っている。繰り返しになるが、手応え(上達実感)が得られればやる気も出てくるし、やる気をもってそれなりにやればさらに手応えも得られる。好循環に入ってしまえばこっちのもので、その好循環に入るまでは、ちょっとだけでも「集中して一生懸命」やることはやっぱり大事だ、と言いたい。上記の方法は本当に効果がある。それはかなり実感している。歌を歌ってきたということもあり、ポルトガル語の単語を全く知らないわけではないが、それが会話としてさっと出てくるというのは難しい。これは多くの方々の英語と同じことだと思う。中学高校で接してきて、たとえ苦手だった人でもある程度の知識はあるはずだが、「出てこない」。だが、何度も文章を繰り返して言って、正当なリズムをもって覚える、という方法は、そういう状態を徐々に改善してくれるようだ。ある文を覚えてそれを繰り返し口にしていると、それを元にして応用した文も、あっさり出てくる。不思議なのは、単体では思い出しにくい単語も、文の中には組み込まれて比較的簡単に思い出す。なんだか、「循環」がよくなっていて、沈殿していたものもワッサワッサとかき回されて上の方に浮かんできたという感じなのだ。自分の体験からだけではなく、理屈で考えても、この、「文をとにかく暗記してスムーズに口から出るようにする」練習は、とりわけ日本人には有効なはずである。繰り返し書いてきたが、英語と日本語の決定的な違いは、「英語は文型がイノチ」ということである。日本語は、名詞に「テニヲハ」をつければ、それを適当にくっつけていけばどうにかなる。「動詞の活用」は面倒だが、文の構成自体は比較的楽である。だが英語は全くその逆で、動詞活用は単純なのに、その分、文型がものをいうのである。ということは、つまり、「文型」をモノにしなければどうにもならない。そのためには、例文を覚えて行くしかないのだ。文型を、たとえば「主語+動詞+目的語~」なんて覚えようとしても、まどろっこしいだけだ。典型例をリズミカルに覚えてしまえばすむことなのである。文が口をついて出るようになれば、応用も楽だ。上述のように、単語も思い出せるようになる、というのは考えてみると当然である。文型を口に覚えさせてしまって、無意識にそれが出てくるようになれば、文型自体を思い出すことに余計なエネルギーを使わなくなり、余ったエネルギーが「単語を思い出すこと」に向かう。「簡単な単語すら思い出せない」というのは、そもそも、そこまでエネルギーが残っていないのだ。英語をしゃべろうと思うと、本能的に、文型をどうにかしなければ!という気持ちの方が先に立つ。そこでまず「消耗」してしまうのである。日本人はとくにそうであるかもしれない。つまり、「ちゃんとした文を作らなければ」と気負って、「ま、単語並べりゃ通じるだろう」と開き直ることもできない。矛盾に聞こえるが、意外に、そのくらい開き直ってしまっている人の方がコミュニケーションは上手だったりする(ただそれではなかなか英語自体「上達」はしないのだが)。しかし、これはそれこそこの一連のエッセーを書いている「動機」なのだが、「開き直る」ことのほうがむしろ難しいので(恥ずかしがりの性格を変えろ、ってことであるから)、ちゃんと「トレーニングをして自信を持つ」ことのほうが先ではないかと思うのである。
Mar 6, 2007
本日は閑話休題的にしばし「自分語り」をば。最近、私はポルトガル語をちゃんと練習しようと改めて思い立った。ブラジル音楽をやっているので、歌う歌詞はみんなポルトガル語である。自分が歌う歌なら内容もある程度分からないわけではないが、それは直接会話に結びつかない。ちゃんとポルトガル語で会話ができるようになりたいと思ったのである。それともうひとつ動機がある。かつて全く「話せない」状態から、まあまあ英語はなんとかなるようにした経験があるとはいえ、今となってしまうと最初の頃の「感覚」は忘れている。自慢するわけではないが、英語についてなら今となってはある程度楽に分かるので、「分からない」という感覚に疎くなっているのだ。だが日本人講師として英語を教える立場の「強み」は、学習途上の生徒さん達の気持ちや感覚が分かる、という点である。ネイティブの教師にはわかりにくいところだ。逆のことを考えてみたらいい。日本語を外国人に教えるのはちょっと考えれば簡単そうだが、もっと具体的に考えていくと、実はとんでもなく難しいと想像できる。日頃無意識に使っている言葉だから、「どうしてそうなるの?」と言われても困る。私は」と「私が」の使い分けを、どうやって外国人に教えるか? 「あ~疲れた!」とは言うけれど「あ~疲れている!」とは普通言わないのはなぜ? 否定の意味で「きれいじゃない(not beautiful)」とは言うけど「汚いじゃない(not dirty)」とは言わないのはなぜ? でもたとえば怒ったときなどに「汚いじゃないの!」とは言うのはなぜ? 日本人がbyとuntilの違いに苦労するように、外国人は「~までに」と「~まで」の違いに苦労する。「行く」「行けば」「行こう」「行かない」「行きたい」などの動詞活用は、三人称単数にsがつくとかつかないとか、不規則動詞の過去形とかより遙かにややこしい! 素人の日本人が「これはこうなるんですよ」とちょこっと教えたぐらいで相手の外国人が日本語に精通するようになれるとはとても思えない。やっぱりシステマティックな「日本語教授法」が必要になってくる。だから、英語を外国語として教わったことのある日本人はその点で教師として有利だ。「教授法」がある程度は分かっているわけだから(もちろん、発音やイントネーション、微妙な語法や、生き物のように変化する口語については当然ネイティブでなければ分からない部分がある)。そういうわけで、これまでにも書いてきたが、留学経験もなく帰国子女でもない私は、かなりのコンプレックスは抱えながらも、「苦労して習得した」経験を武器に教師をしているわけだが、言ってみればその「武器」がだんだん鈍ってきているのを感じている。まさか、もはやネイティブなみの感覚になったなどとうそぶくことは無理だが、「分からない」感覚を実感として捉えにくくなっている。だから「外国語が分からない」感覚と、それが「段々分かってくる感覚」というのを再び感じよう、というのも、今更ポルトガル語をやってみようかという動機の一つである。そしてそれにあたって、自分が常々言っていることをちゃんと実践して、その有効性を証明したいという気もある。つまり、「音読」と「暗記」である。また、「見ないで聞く」ことの有効性とか、これまでにも書いてきたように、どのようにしてゲーム性(?)を持たせたり、学習自体を楽しいと感じてモチベーションを維持するかという点についても改めて考えている。残念ながらポルトガル語のスクールはそれほど身近に手頃な形で見つからないので、とりあえず自習(セルフスタディ)を考えた。本屋に行って参考書をいろいろ検討してみる。いろいろなものがあるが(とはいえ量にして英語関連のものの100分の1,いや1000分の1ぐらい、いやもっと少ないかも…(T.T))結局、ものすごくシンプルな、会話例を中心にして、文法事項を解説してあるものにした。NHKのテキストである。残念ながら、NHKは7カ国語もやっているのにポルトガル語だけはレギュラーではない。買ったものは、1992年に短期講座としてラジオ放送したものを1冊にまとめたテキストである。もちろんCDはついている(必須!)。CDには、各ユニットの会話部分のみが収録されている。これをパソコンでMP3化してポータブルプレーヤーに取り込み、毎日歩きながら聞くことにした。試行錯誤しつつ、いくつか実践のポイントをつかんだ。それについては次回(きょうは前振りだけかい!)
Mar 5, 2007
不定詞の形容詞用法も基本はやっぱり同じ、矢印です。time to sleep timesleep 眠るための時間food to cook foodcook 料理すべき食物難しいことはありませんね。ここでもう一つ、一般論として英語を練習するときのコツ。「意味のまとまりを捉える」ことです。そしてそれを音読するときにはしっかり意識する。不定詞の形容詞用法を使った文ならば、その形容されている名詞と不定詞を切り離してはいけません。“time to sleep” “food to cook“ はあたかも「1語」であるように考えられるべきなのです。We have / a lot of food to cook / for Osechi / today. ひとつの文はこのように区切って、わずかに間を開けて読みます。スラッシュ( / )の間は一気に読むのです(単語が互いにくっついて聞こえます)。音読を練習するときも、あらかじめ、どこで区切るかを考えたり、お手本を聞いて確かめたりして、初めのうちはテキストにスラッシュを入れて分かりやすくするといいでしょう。something / anything/ nothing +不定詞形容詞用法これはとっても便利ですよねsomething to eat 「何か食べるもの」 ひとつだけ注意することは、普通の形容詞もsomethingなどの語の後に来るということです。something hot to eat 「なにか暖かい食べ物」(cf. an interesting book to read)ところで、something と anything ってどう使い分けるの?疑問文や否定文ではanything と習ったのではないかと思います。それは一応合っているのですが、でも疑問文でもsomethingを使うことはあります。ひとことで言えば、anythingは「純粋に(あるかないかが)分からなくて聞いている」というときに使います。Would you like something to eat?なにか食べるものはいかがですか。この文の場合、疑問文の形を取っていますが、その「キモチ」は、「純粋に分からなくて尋ねている」というよりは、「勧める」キモチです。だからsomethingのほうがいいのです。anythingを使っても間違いではありませんが、その場合の方が「尋ねている」キモチが強くなります。逆に言えば、somethingを使う場合は、たぶん欲しいだろう、という予測が働いているのです。Do you have something to eat?Do you have anything to eat?これらはどう違うでしょうか。上記と同じで、純粋に分からなくて尋ねている、ならanythingですが、somethingを使うときは、あらかじめ「あるだろう」という予測を持っているニュアンスです。「あるかないか」尋ねている、というより「あるでしょ?」と確認している感じ。疑問文的性格がやや薄れているのです。というわけで、「疑問文と否定文にanythingを使う」という原則はそれなりに正しいわけです。もちろんsome/anything だけではなく、some/anyone some/anybody それからsome/any単独の場合もすべて同じ原則です。前置詞をともなう不定詞形容詞用法I need something to write.「なにか書くものが必要だ」ですが、状況によって微妙に違います。ペンか何かがほしいならI need something to write with.紙が欲しいならI need something to write on.執筆の題材が欲しいならI need something to write about.↓こういう基本の文を考えれば分かりますねI write about English study on some paper with a pen.もっとも、実際の会話では状況が目で見て分かることも多いので、必ずしも前置詞を入れなければイケナイ!ということはありません。
Mar 3, 2007
名詞的用法も実はやっぱり「矢印つき動詞」不定詞は【 to +動詞の原形】という形のものを指します。to のビジュアルなイメージを言うとすれば、それは、「矢印」です。…と、副詞的用法の解説のところで言いましたが、名詞用法や形容詞用法においても、それは原則としては同じなのです。でももちろん、名詞用法では、不定詞は「~すること」という意味だ、と習いましたよね。それはその通りです。高校などの教科書ではTo speak English is fun. (英語を話すのは楽しい)という文が本来で(つまり「To spoak」が「話すこと」という名詞として扱われる)、でもそれでは頭でっかちで不安定なので、itで代用してIt is fun to speak English. ↑_____|とする、などと説明されています。でも私は疑っています。後者の文の方が先なのでは? 「それって楽しいんだよ! なにがって? 英語を話すことさ!」てな気分の文だったのではないでしょうか。だからto speakはあくまで、itがあってこそ、その参照先を矢印で示すという形を取っているのです。それでいつのまにか to+動詞は「~すること」という名詞の役割を持つ、ということになったと。まあ、でもそれはどっちでもいいことです。Speakという動詞にtoという「持ち手」がついて、持ち運び自由になった(本来の動詞の位置に限定されない)と思ってもいいです。…っていうか、そういうのはすべて面倒くさいので一切忘れて「to+動詞」=「~すること」(名詞的に使う)と覚えればいいです。ま、振り出しに戻りましたね。でも、「持ち手がついてどこにでも持ち運べる」というのは、日本語の、「てにをは」があれば文のどこに持ってきてもOKというのに似てきます。だから(なのか)日本人は比較的It is ~ to….という構文は得意みたいですね。動名詞との使い分け「名詞」的に使える、ということで、動名詞と似たように使えることが多いですが、基本的には違います。動名詞は本当に「名詞」なのですが(ルーツが動詞であったとしても)、不定詞は動詞の性格を色濃くもっています。矢印+動詞、ですからね。いちばんわかりやすい(ややこしいけど)のはrememberの場合でしょうか。(1) I remembered to lock the door. 私はドアに鍵をかけるのを思い出した。(2) I remembered locking the door. 私はドアに鍵をかけたことを覚えている。I remembered to lock the door.の場合は、「思い出して、それから、ロックした」のです。Remember lock the door動名詞のlocking にはそういう矢印のキモチはありません。だから、主動詞の「思い出した」時点より前のことを扱えるのです。forgetも同じですね。忘れちゃったからロックしないんですけども。tryという動詞も見てみましょう。(1) I tried to eat natto. 私は納豆を食べようとした(2) I tried eating natto. 私は納豆を食べてみた(1)は I tried eat natto. ですから、努力して、納豆を食べることに「向かった」のです。それに対し、(2)は、とりあえず食べてみたわけです。(1)の場合は実際に食べたかどうかこの時点では不明(というかどっちでもいい)ですが、(2)なら確実に食べています。「同じ形のものは根本的には同じもの」というのが原則です。動名詞は、進行形で使う形と同じ形ですね。それは現在分詞と呼ばれますが、名前はどうでもいいのです。同じカタチのものには同じキモチがあります。進行形と同じで、~ingの形には、「(いま)やっている」というイメージがあります。たとえ過去のことを言うのであっても、その時点で「やっている様子」を思い起こしているのです。stopという動詞について、「目的語として」繋がるのは動名詞だけです。だって、「これからやること」をstopすることはできませんからね。私は禁煙した、なら、I stopped smoking. です。でもI stop to smoke. という文も可能です。でもこれはI stopped smoke. ですから、実は、「私はたばこを吸うために立ち止まった=立ち止まって、タバコを吸った」という意味になるのです。enjoyも、「これからやること」をenjoyするのではなく、「やっていること」あるいは「やっている様子を思い起こせること」を楽しむので、動名詞のみが繋がります。これが基本イメージです。ですが、基本イメージを漠然とでもいいので頭に入れてから、改めて例文を、「口に出して」覚えて下さい。口に覚えさせて下さい。何度も言いますが基本イメージの把握←→例文の暗記練習を何度も行ったり来たりすることで、イメージの体感ができ、そしてそれが自分のものとなって応用できるようになるのです。
Mar 2, 2007
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