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背番号のないエース0829 @ 婿入り 現在井上ひさし「吉里吉里人」を読書中な…
自費出版のリブパブリ2010 @ ありがとうございました。 京都ヒストリカ国際映画祭事務局さん …
2026.06.10
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カテゴリ: 日本史
 昨年のNHK大河ドラマ『べらぼう』は、江戸時代の安永の初め、吉原が舞台で始まった。吉原は幕府公認の遊郭で、豪商や旗本の遊び場として賑わっていた。

◎江戸の吉原の遊女たち
 『べらぼう』でかなり知られたからか、過日、訪れた江戸東京博物館の展示場で遊女に関する展示には多くの観覧者が集まっていた。僕が訪れたのはシルバー層が無料になる日だったから、大混雑に近かったのだが、押し寄せた来観者の7割を占めたと思しき友だち連れの中高年女性たちは、それらの展示に群れていた。
 遊女は、実は人身売買で売られた悲しい身の上の女性である。1度、吉原に売られば、お金持ちの旦那から身請けされない限り、吉原区画を区切る大門の外には出られない。『べらぼう』でも客と逃げた遊女が追っ手に追われ、捕まって女郎屋主人に厳しく折檻される場面が出てきた。

◎吉原の華、華やかな花魁、だが多くの遊女の身は悲惨
 それでも売れっ子なら、妓楼、女郎屋の主人にちやほやされる。最高の格式の「花魁(おいらん)」なら、身請け料は1000両はくだらないし、妓楼に日々、莫大な稼ぎをもたらしてから、主人は頭が上がらなかった( 下の写真の上 =2人の禿を従えた花魁; 下の写真の下 =「吉原遊女図」、歌川豊春筆、天明・寛政年間、着飾った花魁が2人の禿と共に茶屋の前で涼んでいる)。





 遊女たちは、その吉原の200件近い妓楼で、客に酒席の相手ばかりか最も重要な役割である性的サービスを行っていたのだ。だから彼女たちは、常に性病のリスクを抱えていた。例えば梅毒にかかった遊女の末期は悲惨で、小水のたびに激しい痛みやふだんから全身の激痛に苦しめられる。自然に治ることは無いし、特効薬も無かったから、死だけが安らかになる途だった。

◎多くは20代前半で亡くなった
 そうした遊女たちの多くは、20代前半で亡くなったという。
 そして死んだら死んだで、手厚く埋葬されることはなく、女郎屋の主に命じられて近くの投げ込み寺(荒川区三ノ輪の浄閑寺)の掘った穴に投げ捨てられた。
 そうした遊女たちの悲惨な境遇を知っていれば、同じ女性として、連れの友だちとぺちゃくちゃと話してはいられないと思うのだが、そんな屈託はどこにも見られなかった。平和な時代なのだ。

 展示の1つに「遊女の実情」というグラフがあった( 写真 =グラフの右上の写真が浄閑寺)。江戸時代を通じて遊女の数は浮沈したが、弘化4年(1847年)に1つのピークがある。推測だが、江戸の4大飢饉とされる最後の大飢饉である「天保の大飢饉」が関係しているのだろう。天保の大飢饉は、天保4年(1833年)に始まり、1835年~1837年に最大規模化し、実に天保10年(1839年)まで続いた。



 この時、農村や町屋の貧しい家から女郎屋に売られた女の子は、この5、6年後には初潮を迎えて遊女になったからなのではないか。
 逆に大飢饉が終焉した天保11年にボトムを記録したのは、大飢饉という世相を反映して客も激減し、まだ女の子が遊女にならなかったからなのではないかと思う。

昨年の今日の日記





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Last updated  2026.06.10 04:54:45


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