サイド自由欄
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こんばんわ、みなさん、本日もおいでくださりありがとうございます。
1981年12月26日の夕刻。ぼくは福井の足羽山のいた。そこには火葬場があり、下宿の友人の葬儀のあと、そこにいった。夕暮れ近い火葬場からとぼとぼ
山をおりた。友人のF君が一緒にいた。煙突から煙が出てきて、
「ああ、あいつ、もう、灰になってゆくわ」とつぶやいた。
彼の言葉で見上げると、冬の空に昇るように煙がたなびいていた、先週の土曜日には下宿のメンバーで忘年会をしたばかり、二次会でカラオケへゆき。万里の河を二人でうたったのが、大昔のようであった。
1981年の12月の暮れにやっと、僕は20歳になった。目の当たりに人が死んで理解など出来るわけもなく、消化できない事実に呆然とするだけであった。
富山の先輩はそのまま富山に帰り、僕と後輩のO君と京都の下宿にもどった。
何事もないように、静かな下宿はそのままであった、彼の部屋をのぞいてみた、靴下はそのまま、O君と二人で呆然とコタツにはいり、何もはなさず、
そのまま、夜明けを迎えて、二人とも実家に帰り、下宿は無人の年末年始を迎えた。
ぼくは神戸の家に帰ると、もう28日になっていて、予約していたオフコースのLPを三宮のAOIレコードまで買いにいった。
オフコースのそのLPは、僕の心情にぴったりとあい、何度も何度も聞いた。
誕生日になり、なんもすることがなく、何を思ったのか、ぼくが生きていることの不思議な「罪悪感」を払拭するように、頭を坊主にした。
大学二年生はろくに勉強もせず、遊びまわり、単位も落として、最後に友人が死んで相当参った、今でも参っている。きっとこれはPTSDであると最近になりおもうのだが、しかし、誰しも乗り越えて生きていかなければ、ゴールに到達できない。
死生観というものが人生観の裏打ちされてものであると思う。
どう、生きるかがどうしぬか。幕末の尊王の志士たちは、死に場所をさがし、生き残り明治までいた人は権力や富をもつ、しかし、彼らもまた死にぞこない意識があったのだろう、
戦争の特攻隊の生き残りたちも戦後の日本の中で死に場所を探し懸命にきたんだとおもう。
1982年二月、友人のお父さんがトラックできて、荷物を全部ひきあげていった。家賃を全部払おうとしたが大家さんはとろうとせず、泣いてわびていて、誰のせいでもない悲劇を感じた。
下宿の冬は寒い。ガスストーブは禁止でコタツしかない、どてらを着てコタツにもぐるしかない。
下宿の話、つづく。
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