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図書館から「へんないきもの」という本を借りてきて読んだ。 その名のとおりまさに変な生き物のオン・パレードで、その異様な姿かたちを見、生態を知るにつけ「へぇ!」と感心するのだが、この本の面白さはそれだけではない。著者の早川いくを氏のコメントに絶妙な毒があって、何度もゲラゲラ笑いながら読んだ。博物学的な学術書の体裁をとりながら、その実ブラックなユーモアにあふれたエンタテインメントになっている。このセンス、たた者ではない。 印象深かったのは、働きアリの全体の2割はサボるのだそうだ。2割のサボりアリたちを取り除いても、残った働き者たちのうちやはり2割はサボるのだという。何故だかはわからないらしいが、何かしら遺伝子に組み込まれた神秘のうちのひとつなのだろう。 人間の社会も、全体の2割はサボっても良しとするくらいの寛容さを備えたいものだ。そうすればひきこもりもNEETも、さぞかし生き易い世の中になるだろう。
2006/11/30
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今現在いじめを行っている人たちと、いじめについて考えてみたい。いじめを行っている人間と、それぞれひとりの個人として語りあえたらいいのだが。それは非常に難しいことに思える。何故なら、いじめという行為に手を染める時、人は自分自身ひとりの“個人”としての認識を棄て、いじめを行う集団の“一部”として自らを捉え個人としての責任や罪悪感を免れようとしているに違いないからだ。そこに、悲しいほどの人としての弱さがあり、その弱さゆえの悪辣な自己欺瞞が存在する。ほんとうに、いじめる側のすべての人間は、いじめられる側に比して圧倒的に心が弱い。いや、少し違うな。双方とも人としての心の弱さは共通かもしれないが、いじめる側は圧倒的に自らの心の弱さに対して無防備で無自覚で無批判だと言う方がより適切であろうか。無論その心の弱さゆえにいじめという行為が許されるべきではないし、その自覚があろうとなかろうと、個人として行ったことに対して責任を免れることは決してないのだが。対していじめられる側の人間は、集団の中の他のメンバーの多くと際立って違うと見なされる程に、個性が隠されることなく発露している、少なくともそういう部分を備えていると言うことはできるだろう。何かしら他の大勢とは相容れない、「はみ出した」ところ、「大勢(たいせい)に従わない」ところ(言うまでもないが、これらのことは即ち「劣っていること」を意味しない。それどころか、その「流されない」心の在り方をよろこびたいくらいのものだ。他の大勢(おおぜい)と違っていることを何の疑問も無く「劣っている」と感じそう考える人がいるならば、それは即ちその人の心の内に「いじめを容認する気持ち」を生み出す差別意識の片鱗があることを示しているのだろう)を持っており、少なくともそのように目されることが、いじめの標的になるきっかけであることは否めない。平たく言えば「人とツルむことに一所懸命でない人」ほど、いじめのターゲットになりやすいということだ。 自分自身のことを振り返れば、いじめられるたびにいじめる側から伝わってきたメッセージは次のひと言に尽きる。 「みんな他人に気を遣って遠慮して生きているのに、なんでお前はそうしないんだ?」 井上雄彦の漫画「リアル」の1巻で、主人公の野宮が後輩の柾(まさき)に対するバスケ部内のいじめについて、次のように言う。「あいつはほとんどしゃべんねえし………気の利いたギャグもいえねえ TVのネタふってものってこない みんなとワザワザつるんだりしねえし… 服の流行にも無とんちゃくっつーか… …でも あいつらしいのは それで平気なとこ 学校ん中はそういうのを気にせずにはいられない奴ばっかだから 人と違わないように 主流からハズレないように 柾みたいなのがいると自分らがひどい小心者に見えちゃうから 目障りだったんじゃないすか…」(井上雄彦著 集英社刊「リアル」単行本第1巻 p86-87) 周囲の他人の評価に怯える自分の卑小さを実感したくないがために、その恐怖や不安から自由な人を不当に粛清しようとする「いじめる側」の逆恨み・八つ当たりの心理を的を射て言い表している。いじめる側のこの救いの無い心の在りようは、その意に反して非力な自分自身への、そして自分の抱える他者への恐怖やその評価に対する不安を味わわない(のであろうと思われる)恵まれた心の持ち主への、凝りに凝った逆恨みの発露と言わざるを得ない部分を必ず備えていると思う。 他人の目をことさら気にする個人にとって、自分自身の存在が、そしてその振る舞いが「周囲の他人たちにどう映っているか?」さらに言えば「それが周囲の期待を満たしているか?」が最も気になることなのだろう。お互いに与え与えられた役割…曰く、「面白い奴」「暗い奴」「明るい奴」「賢い奴」「馬鹿な奴」「危ない奴」あるいは「格上」「格下」等々の、自らに期待される(と信じ込んでいる)張られたレッテルの役回りを演じることでのみ、周囲との問題の無い関係性を築けると信じ込んでいるかのようだ。そういう人間たちにとって、自らと周囲の人間それぞれに与えられた(と信じ込んでいる)役割を踏み外すことは即ち罪に他ならない。彼ら彼女らにとってそれは自らの属する集団の平和を乱すことであり、その結果としてつまり、「あいつ最近調子に乗ってね?」とか、「勘違いしてね?」とか、「ムカつくよね」とか「ウザイよね」という評価を与えられることになるのだ。これらが、言い訳にもならない言い訳としていじめる側が挙げる「いじめられる側にもある原因」のいくつかなのだろうが、ちょっと待て。調子に乗ったり自分のことを勘違いしたり…って、そんなに悪いことなのか?相田みつをじゃないけれど、「人間だもの」で許されるべきことではないか。「ムカつく」とか「ウザイ」にいたっては、そうした気分に過ぎない。いやいや、どんな理由があろうともいじめがいけないことに変わりはないのだが。人としてありのままにおおらかに、時には過ちを犯しながら生きることをお互いに禁じあい監視しあい、暗黙のルールを踏み外さぬよう気を遣いながら遠慮しながら生きていく狭く閉じた社会。そんなのが居心地がいいのか?社会とはそうしたものだから…不本意でもしようがないのか?そうした不条理へのいらだちを、他人に対する暴力として現して解消するということは、卑しく恥ずべきことではないのか?いじめをしている人にこそ、目をそらさずに考えてほしいことだ。 いじめをすることへの言い訳に耳を貸すつもりは毛頭ないけれども、いじめをやるような奴らは人間としてダメでどうしようもなく性根の腐った馬鹿共なんだと切って棄てることでは、いじめ問題の根本と向きあうことはできないだろう。たいせつなのは、おおっぴらにいじめについて論じ、一緒に考えていく姿勢だと信じる。 自分自身がいじめに加担していた時のことについて考えてみよう。 派遣社員として、近所のとある工場で働いていた時のこと。ハードディスクの読み取り装置を作るラインで仕事をしていた。流れ作業の工程で、5名のチームとして仕事を分担して働いていたのだ。我々5名は仲が良く、当時はオレも職場に行くのが楽しかった。手が空いている時はお互いに他の人の仕事を手伝い、よく連携がとれていて仕事の能率の点では他のラインを圧倒的にしのいでいた。それが我々のプライドでもあり、その点でお互いに深く結びついていたのだろうと思う。 そこに、新しく新入社員が入ってきた。この人は要領が悪く仕事の覚えも悪く、オレが担当していた仕事を教える際にも、同じことを何度も説明しなければならずイライラしたものだ。慣れていないから当たり前なのだが、その要領の悪さも手伝って、彼に仕事を任せると能率が著しく下がる。彼は周囲から「足を引っ張る」存在だと思われるようになり、オレもはっきりとそう思っていた。オレの中で彼は、他のメンバーを含めた“我々”より「一段低い存在」と位置づけられた。オレをはじめ他のメンバーたちは、ことあるごとに彼の失敗や他の人と違う奇異に映る部分をあげつらい、からかうようになった。 これは、はっきりといじめであったとそう思う。そして自分が犯した過ちは、「オレらの足を引っ張る存在」だからと彼を「一段低い者」と貶め、だからからかいの対象にしても良いのだと、しかも、それが「我々のグループの総意なのだ」ということを言い訳として行っていたということだ。 こうして思い出して考えてみれば、当時の彼が受けていた不当な扱いは、それ以前自分が受け、傷つけられてきたものとそっくり同じなのだ。それがいかに嫌なことであるかはオレにはわかっていたはずなのにも関らず、その行為にオレは手を染めてしまっていた。このように、かつていじめられていた人間であってすら、集団の中の位置付けが変われば容易にいじめる側に回ってしまうものであることを、オレは自分のこととして知っている。思い返してみれば、当時の自分には罪悪感すら無かった。それは彼に対する差別意識のせいであっただろうし、さらにそのことに無自覚で省みようとすらしなかったからでもある。当時の自分の心の在り方がいかに「それと気付かずに不幸」であったか、ということを強く感じる。恥ずかしいことだ。 反省すべき点の第一は、自らの内に抱いた差別意識とそしてそのことに無自覚であったということだ。そうした心の在り様に無批判であり、そのために犯している罪に気付こうとしなかった。情けなく、愚かしいことだ。 さらに、「集団の総意」というものを仮想して、それに自分の行為の拠り所を求めようとしたこと。「皆の足を引っ張るから」なのだと、歪んだ偽りの正義にとらわれて個人の責任を逃れようとしていた。この上もなく卑怯な振る舞いで、心から恥ずべきことだと感じる。 「かくあるべし」を他人に押し付けようとしていたということ。これもまた恥じるべき心の狭さ貧しさの現われであった。 自らの心の内の差別意識に自覚的であること。それに目をそらさずに、向きあうことから逃げないこと。「集団の和をみだす者は制裁されて然るべき」という、歪んだ正義を妄信し、自らの行為に対して負う責任をごまかさないこと。他人と相容れない部分を、できるだけ容認してもらいながら生きていくつもりの今のオレは、他の人の自分とは相容れない部分をも、できるだけ寛容に受け入れていくべきだろう。これらのことを戒めとして、常に意識的であることが、これ以上恥や罪を上塗りし繰り返さないためにできることだろう。自らの心の内にある、いじめへの誘惑に流されない矜持(プライド)を、これからも養い保っていきたいものだ。 「おおらかに生きたいね」 と、こうしてかつての自分自身の貧しい心の在り様を振り返ってそう思う。集団の和を乱す者は許されない…なんて、心の狭い歪んだ偽りの正義になど心縛られないくらいに。他の誰かと自分との違いを許すように、自分もまたそうして許されて生きていたいと願う気持ちが確かにあるから。誰に対してもその気持ちを、できるだけたいせつにしたいと思うのだ。
2006/11/29
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「いじめとは何か?」「いじめとはどういうことなのか?」について、議論が尽くされていないのではないか?と感じる。「いじめはよくない」「いじめを無くそう」と唱えるとき、ではいじめとはいったいどういう行為を指して言うのかが、実際のところ曖昧模糊としていてはっきりしていないのではないか。「いじめとはどういうことなのか?」を定義づけることなく、「いじめは何故よくないのか?」、「いじめをするという行為が、いじめる側いじめられる側それぞれにどういう結果をもたらすのか?」「いじめに対してどう対処していくのか?」といった、いじめに取り組むかぎり避けて通れない命題に対して明確な答えは見出せないのではないかと考える。以下は、「いじめとはどういうことなのか?」という疑問に対する私見である。これだけが正しいのだと言うつもりは無い。ただ、「いじめとは何か?」について、すべての人が自分の言葉で考えてみることが必要だと思うのだ。かつてのいじめられっ子として、オレにとって「いじめ」とはどういうことなのか、改めて考えながら書いてみたい。 「いじめられている人が『いじめられている』という気持ちを持ったら、それはすべていじめである」ということをまず言いたい。からかいの対象になったり悪口や無視といった嫌がらせ行為あるいは直接的な暴力や言葉の暴力を受ける場合はいじめに限らず多々あるだろう。その時に、そういった行為を受ける側に「いじめられている」という認識がある場合には、それらの行為はすべて「いじめ」として捉えられるべきであろうと考える。いじめが否かは100%、その行為を「受ける側」つまり「いじめられる側」が決めることであって、いじめをする側が「これはいじめではない」ということは決して認められない。ただ、ここで注意しなければならないのは、いじめられる側においてさえ、いじめの事実を否認する(せざるを得ない)現状がはっきりとあることだ。自分以外の他者に対してはおろか、自分自身に対してさえいじめられていることを認めることが困難なことはままあるのだ。そしてそのことが、いじめの問題を見え難く、判り難くしている大きな原因であると思う。 この、被害者が何故だか胸を張れないようにせしめるところが、そしてさらにそこに付け入るということこそが、いじめと言う行為のこの上なく卑劣な部分だと考える。「いじめられること」=「劣っていること」という誤った認識が、おそらくはほとんどの場合において被害者の側に植え付けられることが大きな問題なのだ。いかに不当なものであっても、故意に大勢の周囲の人間たちから貶められるという経験は容易に人から自信や自尊の念を奪い取ってしまうものだ。 そこで、「いじめられる」ということはどういうことなのか?を、さらに突き詰めて考えてみたい。 「いじめられる」ということは、不当に人としての尊厳を傷つけられ、奪われるということだ。人権という言葉を持ち出すまでもなく、人であれば誰でも、お互いに尊重しあうということが社会生活を営む上での約束事であることは、誰でも知っていることだろう。「人としての尊厳を奪われる」ということは、どんな場合でも正当ということはないと考えるのだが、ことさら「不当に」と書いたのは、その行為が不当なものであるという認識がいじめる側に絶望的に欠如しているに違いないからだ。「どんな人でも、ひとりの人間として尊重されるべきだ」ということ。「どんな人でも、いわれなく貶められたり辱められたりされてはならない」ということ。これらのことを自らに願わない人間はいまい。そしてこれらのことを自らに願うのであれば、論を待たずして他のすべての人間の同等の権利を認めなければならない。そのことに目を瞑って行われる行為がいじめなのであり、だからこそ不当であり卑劣なのだ。いじめとは、誰もが人として生まれながらに備えている「ありのままの自分でいて安心して生きる権利」を脅かす行為なのだ。いじめとは、そういう「罪を犯す」行為なのだ。これはもうはっきりと「犯罪」と言っていいほどのものだと考える。 いじめがどういうものかを語る上で、もうひとつ「多対一」ということに触れないわけにはいかないだろう。例えば集団でのシカト(無視)あるいは村八分と呼ばれる扱い。最近では集団で同時刻にいっせいに悪意のあるメールを送りつけるといういじめもあるようだ。ネット上での掲示板への誹謗中傷なども、やはり集団で行われるか、または「匿名」というかたちで、自分自身を「集団の一部として」巧妙に隠さなければ行われない。いじめに手を染める人間は、このようにその行為を集団で行うということによって、「自分だけではない」あるいは「みんなやっていること」と、自らの行為の罪や責任が軽減されるように誤解しているに違いないと思う。実際は、本来問われるべき自らの行為に対しての罪や責任を逃れようとする自己欺瞞の罪を重ねることに他ならない。そして、これがいじめの悪魔的に卑劣な部分なのだが、いじめに加担する人間すべてが「同調し参加しなければ自分がターゲットになる」という脅迫の暗示とその恐怖にさらされることになるのだ。いじめに直接的に関わっていない人であっても、このことは容易に想像できると思う。ここで強調したいのは、しかしながらそのことを言い訳にして罪を逃れ自らの責任を免れようとする心の動きは、やはり絶望的に「卑しい」ということだ。真に己に自負を持つ者の心の動きではあり得ない。 そして、不当な自尊心を補わんがために、自らを脅かす行為と知りながら、それに手を染めることで否応無く互いに脅かしあい、恐怖に耐えられず自らの弱い心に負けて実行しまたそれによって自らを貶め、集団で行うことで罪と責任からは自己欺瞞によって逃れようとし、挙句ひとりの咎無き犠牲者に己の弱さ卑しさいやらしさを悪意に変えて送りつけるのだ。いじめとはまさにそういう行為であり、またこれらのことは「集団で行われる」ということと深く関っている。 いじめとは、卑劣で卑怯であり悪辣だということは言うまでもなく、ほんとうにもう何やってんだかわからない程に理不尽で不条理で反吐が出そうなほどに頭の悪い行為なのだ。いじめをする人間はそれによって間違い無く自らを不幸にしている。そしてそのことに気付けない究極の馬鹿であり阿呆であり「終わってる」人間たちだ。そういう連中が不幸であろうがどうしようが自業自得なんだから放っておけばいいようなものだが、始末に終えないことにはそうした馬鹿な変態連中が自己欺瞞で「ちょっとはマシな自分」めいた感覚を味わわんがために、徒党を組んで自分たちの卑しさいやらしさを集めて、いじめられる人の尊厳を傷つけて耐え難い苦痛を与えているのだ。人間として救いが無いのは実は、いじめをやめて謝罪しない限りにおいて、間違いなくいじめている側の人間なんである。 だから、今いじめられている人たち、かつていじめられていた人たちに言いたい。 決して、「自分のせいだ」なんて思わないでほしい。「自分の何かが間違っていただろうか?」とか、疑問を抱く必要なんかまったく無い。 悲しいことに世の中には、いじめという行為に手を染めてしまうどうしようもなく頭が悪く心が鈍く、気高さとか自負心とかとは一切無縁であり、容易に自分自身さえ誤魔化してしまえるような、それでいて徒党を組まなければ怖くて自分の意見や気持ちひとつ言うこともできない臆病で卑しくいやらしい変態連中がそれはもうたくさんいるのだ。ほんとうに救いようが無くて、心の底から、これはもう決して皮肉ではなく、いじめをする人たちこそ心から可哀想に思うほどだ。あなたが今いじめられているか、あるいはかつていじめられていたことに原因が挙げられるのだとしたら、ただひとつ、「あなたはそういう人間ではなかったから」に他ならない。いじめを受けるということは、この上なく不条理で理不尽でつらくて耐え難いことだけれども、だからこそ、その上に「自分を責める」という重荷を、自らに背負わないでほしい。 今いじめられているとしたら、あるいはかつていじめられていたのだとしたら、あなたは「自分の受けた痛みを他の誰かに与えることで自らを慰めようとしなかった」のだから、「次に与えられる人の気持ちを思いやり、誇りを持ってその痛みを自らの内に留め置いた人」なのだから。それはきっと、あなたが想像する以上に遥かに、かけがえなく素晴らしいことなのだ。真に得難い、美しい心の在り方なんだ。他の誰がなんと言おうと、あなた自身は、そういう自分の素晴らしさを正しく認めてあげてほしい。今感じているであろう耐え難いつらさもどうしようもないほどの悲しい気持ちも、そうした自らの素晴らしく美しい心のゆえであることにもどうか目を向けて、そのことを感じてほしいのだ。 今いじめられている人たちは、いじめている人たちとは正反対に、偽りの虚しいしあわせからは最も遠く、胸に秘めたつらくせつない想いは、心のかたちの美しさとして、美しい心を持つというしあわせとしてたった今この時点ですでに報われているのだとオレは信じるから、どうかどうか、死なないでください。つらくてもどうか生きて生きて、自分自身のかけがえのなさ素晴らしさに気付き、感じてよろこんでほしい。そうした偽りの無いしあわせが、この世界にたくさんたくさんあってほしいと、心からそう願う。
2006/11/27
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14:00から市の地域振興センターへ、「夜回り先生」こと水谷修氏の講演を聴きに行った。魚沼市の生涯学習課が企画する市民大学の公開講座として催されたものだ。 水谷氏の公演で印象に残ったのは、常に客席に問いかけ語りかける姿勢と、その力強い言動だった。19年間、ごまかし無く「人」と対峙し続けてきたからこその確信を備えたその言動に圧倒された。 小型兵器・対人地雷の禁止へ向けての活動のお話を伺った鬼丸昌也さんの講演の時もそうであったが、深刻な問題の実際の現場を知っている人から伺う話からは、暗澹たる気持ちにさせられる現実の醜い部分を知らされる。実際に目で見、耳で聴いてきた人からの話を伺うことは大きく心動かされるものだ。そして、目をそらし耳を覆うことはすまいとの自覚を与えられるのだ。薬物に手を染め、抜け出せないままに亡くなっていった若者の話。夜の世界で輪姦され、売春を強要され、HIVに感染し、この世を去っていった少女の話。夜眠ることができず、夜中の2時3時にメールを寄越す、閉じこもった若者たちの救われない心の話。胸が痛んだのは、不登校から保健室登校になり、教室へ戻ることを望んでいた中学生の少女が、保健室に登校していた時に届いた一通の「ウザイ、死ね」というメールによって、その直後死を選んだという話だ。 聴衆に向かって、「あなたたちと私は住む世界が違います。私は『夜の世界の住人』です」と水谷氏が言ったとき、かつて自分がひきこもっていた頃に暮らしていた世界は、確かに『夜の世界』だったと、じんわりと感じた。非行に走る子どもたち、薬物に手を染める子どもたち、リストカットをする子どもたち、不登校をする子どもたち、そして、自殺をする子どもたち。彼ら彼女らをそうさせる原因は、彼ら彼女らの内側にあるのではない。子どもたちだけじゃない、人間すべてに関る、相互不信、感謝の念の欠如、自己肯定感の無さとそこから生み出される他者への容赦無い攻撃性…我々が無関係ではいられないこれらの心の弱さの発露としての暴力の連鎖の行き着く先として、今多くの子どもたちと若者が犠牲に捧げられているのだ。こうした子どもたちは、弱者ではあっても劣った者では決してない。彼ら彼女らを弱者たらしめているのは、他の誰かを思い遣る気持ちを備えた者には抗うことが困難な、社会の心無い仕組みなのだ。これらのことに、無関係でいられる人間はひとりもいないだろう。 ひきこもり・不登校・いじめられ・リストカット・薬物依存/OD・非行…挙げていったらきりが無い、心無い世の中の構造の不備を自らの問題として発露させている人たちの心は、祝福されてこそあれ、不祥のことと退けられ、疎んじられ蔑まれるべきものでは断じてない。あまねく社会に蔓延している暴力と悪意の連鎖。それらに加担せず、自らに加えられた暴力や悪意を次の目標に向けることをしなければ、あるいはひきこもり、あるいは自らの身体を切り裂き、何らかのかたちでしか生き方を見出すことのできなかった人たち。彼ら彼女らの心の在りようは、世に氾濫しているそうした暴力の連鎖に加わらなかったという一点において、祝福されて然るべきであり、また多くの人たちがそこから学ぶべきなのだ。その心の在りようの、潔さを。これは、かつての自分、そして今の自分がその中のひとりであるというはっきりとした自覚を持ってそう言いたい。 暴力の連鎖はまた、不信の連鎖でもある。本人のことを本人に任せない。放っておくと何するかわからないから、ろくでもないことしかしないだろうから、いや、しないとも限らないからと、ルールを定め監視をし、一定以上の能力を身に付けろと追い立てる。繰り返し何度でも言うが、これは子どもたちだけのことでは決してない。お互いに常に監視しあい、「はみ出し者」を排除しようとする視線。すべてを管理・監督し、手の届く範囲で可能なかぎり他の人間を支配したがる人間の心理。自信や自己肯定感を自らの内に養おうとせずに、暴力の面で自分より弱い者に心無い言葉や直接的な暴力で、自らの優位性を示し傷ついたプライドを保とうとする心の弱さ。すべてが、今生きているすべての人に関っている問題だ。自分には無縁だと知らん顔を決め込む人、自らの問題だと自分自身の身を振り返ってみない人たちが、これらの問題の多くの原因を生み出し、犠牲者を生み、さらに彼ら彼女らを苦しめているのだ。 委ねる・任せる・信じるという気持ちは、人と向きあい、信じそして裏切られ、それでもなお信じたい気持ちを棄てきれない…そうした経験からしか養われないものなのかもしれない。ほんとうに信じるということは、根拠や証拠を求めずに信じるということだ。裏切られる可能性に腹をくくって、それを受け入れる覚悟をして、それでもなお信じたい、信じずにはいられない。そうでなければやはり、嘘だと思う。 たとえひとりでもいい、自分以外の誰かと真剣に向きあった経験が、オレにはどれだけあっただろうか?オレは彼/彼女を信じることができていただろうか?最近はどうだ?今のオレには、信じたい人、信じたいものごとがどれだけあるだろうか?深く考えてみたくなった。 ありのままの自分を差し出して、目をそらさずに他の人間と向きあってきた人は強い。水谷氏の講演を聴いて、そう強く深く感じた。
2006/11/23
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劇団ゆきぐにの公演を観に行くまえに、南魚沼市のチャレンジ・ショップHOMURAのフリー・マーケットに寄った。フリー・マーケットと言っても素人衆が自宅の不用品を持ち寄って行うそれとは趣が違い、参加した13店舗のオーナーはいずれも南魚沼市・魚沼市・十日町市などで独自の商売をされている方ばかり。パン屋さんや喫茶店、スリランカ料理のレストランからフェアトレード・ショップ、自作の陶芸の食器を並べている店もあった。その中で、今回は特に「OGAWA INLAY CRAFT」さんを紹介したい。 インレイ…日本語では象嵌という技法であるらしい。真鍮や銅板の板や、貝殻を薄く板状にしたものを様々な形に切り抜き、木材でできた素材に埋め込んでいく。元々はギターやウクレレなどの楽器の装飾に使われるものなのだそうだが、小川氏自身は現在は楽器の製作からは遠ざかっているとのことだった。その技法を活かし、注文に応じてさまざまなものに装飾をほどこす工房を十日町市で営んでいるのだ。キー・ホルダーとペンダント・トップ これらの工芸の技法や作品については、OGAWA INLAY CRAFTのウェブ・ページに詳しいので、興味のある方はぜひ訪問してご覧いただきたい。上の画像では画質が悪過ぎて作品の良さが伝わらず、申し訳ない気持ちだ。件のページの“Gallary”のページで、美しい作品の画像を見ることができる。下記リンクからどうぞ。 http://www.geocities.jp/ogawa_inlay_craft/index.html 精緻な作品の素晴らしさもさることながら、実際の作業を拝見させていただくことで、職人さんの「手の技の妙」に深く感じいった。「時間をかければ誰でもできることですよ」と小川氏はこともなげに言っていたが、糸鋸を引く右手に合わせて、切り抜かれる形のカーブに沿って左手が面白いほどに素早く器用に動いてよどみが無い。出来上がった素晴らしい作品に裏打ちされた、経験を積み重ねて培われた職人技には、ただただ感心するしかなかった。 売り物として展示されていたキー・ホルダーやアクセサリの作品にも心惹かれたのだが、あえて購入は控えた。いつになるかわからないが、いつか自分なりの何か「こだわりの一品」を持ちたくなったときに、オーダーメイドで装飾を施してもらいたいと、そう思ったのだ。
2006/11/19
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南魚沼市の市民劇団「劇団ゆきぐに」の第7回公演「アンドロイドは眠らない」を観てきた。東京から、この劇を観るためにだけ訪れた友人TAKEと共に開演10分前に会場の南魚沼市民会館大ホールに入った。ステージから7,8列目くらいの、中央寄りの席に着いて開演を待った。 「アンドロイドは眠らない」は、今回の公演のために書かれたオリジナル・ストーリー。堕ちこぼれの悪魔学校の生徒、メフィストフェレスが卒業試験の追試の追試のために人間界に魂の契約を交わしに行くところから始まる。舞台は近未来で、人間界は荒廃しきっており、悪魔より人間の方がはるかに邪悪ですさんでいるという設定。人間が悪魔以上に邪悪になってしまった近未来の世界では、悪魔と契約せずとも自ら悪を行い欲望を満たす人間たちばかりになってしまっており、悪魔界では契約により人間の魂がもたらされることは100年来無かったのだ。これはしかし、近未来を舞台としながらも、実は現代社会の姿に向けられた強烈なアイロニーを含んでいると感じた。人間の邪悪さが募り、もはや悪魔の唆しなど必要とせずとも数々の悪事に手を染めてゆく世界…そういった兆しは、たった今、この世界でそこここに見受けられるものだからだ。 この芝居のストーリーで特筆すべきは、悪魔の「悪」や、それどころか悪魔をしのぐ邪悪さを持つ人間の「悪」でさえ、ケガレとして祓ってしまわない部分だと感じた。偽善というのは対立項としての悪の存在を認めようとしない善の、片羽の歪んだ姿なのかもしれない。生まれながらにして善と悪を当たり前に併せ持つ人間が、己の心の内の悪意の存在を認めないことが、今の世の中でどれだけ「悪」として作用していることか、と思わされた。 人間界を訪れたメフィストは、まさに臨終を向かえ95年の人生の幕を閉じようとしているホンゴー丈太郎博士に出会う。博士はアンドロイド研究の第一人者でありながら、感情や意思を備えた「夢のアンドロイド」の開発に疑問を感じ、それを封印してしまった人物だ。その博士の唯一の心残りは、共に「夢のアンドロイド」の開発に携わっていた共同研究者の女性を傷つけてしまったこと。感情や意思を備えた人間と変わらないアンドロイド開発を、神への冒涜と畏れた博士は、どうやら共同研究者のその女性には、その気持ちを明らかにできなかったらしい。これはまたおそらく、博士のその女性への恋愛感情ゆえのことであるらしく、若返ってその女性に愛を告げたいという望みを博士はメフィストに伝え、魂の契約に応じる。 契約履行のために、丈太郎博士の助手健太と共に博士の願いを叶えようとするメフィスト。2週間という限られた期間だけ博士を若返らせ、その間に望みを遂げさせるという契約を交わす。しかしながら博士の純情と、博士の想い人である早乙女さくら博士の固く閉ざされた心に阻まれてなかなかうまくいかない。悪魔らしく邪悪な姦計をめぐらし魔力を用いて手っ取り早く願いを叶え魂を持ち帰ればいいようなものだが、そこは堕ちこぼれの悪魔らしく、悪知恵も魔力も大して無いのだった。そのへんがコミカルな味わいを生み出していた。堕ちこぼれの人の(?)良い悪魔は好演だった。欲を言えば、身寄りの無い自分を育ててくれた偉大なる兄の期待に応えるため、敢えて悪くあろうとし、なおかつうまくいかないというような姿をもっと見たかった。そのほうが「人の良いダメな悪魔」というキャラクターがより活きてきたのではないかと思う。 訳も判らず丈太郎博士から縁を切られ、それでも独り「夢のアンドロイド」の研究を続ける早乙女さくら博士。姉であるさくら博士を気遣う妹のかおるは、ストリート・チルドレンが収容されているフリー・スクールに務めている。姉妹はかつて両親をストリート・チルドレンの抗争に巻き込まれて亡くしているという過去を持つのだが、それでも何故かかおるは、そのストリート・チルドレンに関る教師の仕事に就いている。悪意に満ちた世界で、悪事を行わなければ活きてこられなかった少年少女たち。彼ら彼女らは、社会からつまはじきにされ、まるで収容所のようなフリー・スクールで共に過ごしている。この少年少女役は役柄に応じた年相応の子どもたちが演じていたのだが、皆「いい子」に見えすぎて残念だった。社会に棄てられ、自分と同じ境遇の仲間たちしか信じることができず、心を閉ざし斜に構えてハングリーに生きてこざるを得なかった彼らの「大人のいうことなど聞きたくねェ こんな毎日やってらんねぇぜ」(ミュージカルの歌詞より)という気持ちは全体としてあまり伝わってこなかった。その中で、悪事に手を染めながらたくましく生き抜いてきたからこそのある種達観した風情を備え斜に構えた感じのある雄平と、たいせつな友人を守ろうと精一杯つっぱっているらしい和希のふたりの反目や、場が緊張すると投げやりなコメントでまぜっかえす流花と蓮のコンビのはすっぱな感じは見応えがありいい味を出していたと思う。 丈太郎博士のリクエストにより、博士の創り上げたアンドロイド・シータに乗り移ったメフィスト。しかし自らの意思や感情を備え自由自在に言葉を発するアンドロイドのその姿が、博士に裏切られたと感じている早乙女さくら博士の心をよりいっそうかき乱すことになる。メフィストの魔力により70歳若返った丈太郎博士を当人と判らせるのも並々ならぬ苦労があり…というすったもんだが演じられる。 その一方で、メフィストの兄である悪魔バルバロッサの交際相手である天使アンジュは、弟を気にかけるあまり自分につれなくしている恋人に嫉妬して、メフィストの妨害をしようと策をめぐらせる。わがままで世間知らずでものごとを深く考えている様子の無いこのデタラメな天使の役は好演でかつ快演だった。天使・人間・悪魔が入り乱れて登場するこの芝居で、悪いと言えばおそらくこの人が(人じゃないか)いち番わがままで悪い。にもかかわらず、飽くまでも天真爛漫で憎みきれないキャラクターは、やはり下界の苦労や醜さとは縁遠い天上界に暮らす天使のおめでたい性格のなせる業か…と、すんなりと胸におちる演技だった。今回のお芝居で、彼女は特に印象深い出色の役者さんだった。その天使アンジュのお目付け役らしきもうひとりの天使ミカエラ。アンジュとは対照的にこちらは常識を備えアンジュのわがままな暴走をいさめようとするのだが、立場上強くも言えなくて結局振り回され付き合わされる羽目になってしまう。ふたりのコントラストがいい味を出していた。アンジュは悪魔ベリルの助けを借り、魔界から破壊に魅入られた低級な霊たちを解放し、それらを作業用アンドロイドに乗り移らせることでメフィストの妨害工作を図る。破壊と暴力を好む低級な霊たちはかおるの働くフリー・スクールの掃除用アンドロイドに乗り移り、人間を襲い始める。 妹の危機の報せを受けてフリー・スクールに向かうさくら博士。その時居合わせた丈太郎博士、健太、メフィストも共に向かうことになり、しかし結局全員が悪霊の乗り移ったアンドロイドに追われてフリー・スクールに閉じ込められることになってしまう。 メフィストの妨害を企てるアンジュは、天界の武器を携えたミカエラと共に人間界に降りてくる。弟の身を案じ、悪魔サキエルと共に人間界を訪れていたバルバロッサに出会い、驚いてミカエラはバズーカ砲のような武器をふたりに発射してしまう。その衝撃により、たまたま近くを通りがかっていたアルファとベータというアンドロイド2体に、バルバロッサとサキエルの魂が乗り移ってしまう。意思も感情も持たない、決められた言葉だけを話すアンドロイドから、悪魔ふたりが乗り移って後の変化はそれこそ“劇”的で、意志や個性や感情を備えるということはどういうことなのか…?言い換えるなら、魂とは何ぞや?という疑問を胸に抱かせるに充分なものだった。誰もがその存在を感じているにも関らず、誰も目に見耳に聞いたことすらないものを、こうして舞台上で表現して魅せたのは、脚本と演出の大きな仕事のうちのひとつだろう。男性的で逞しい悪魔バルバロッサが、あろうことか女性型アンドロイド・ベータ(アルファは男性型)のボディに乗り移ってしまう…という、とりかえばやの妙味も加わっていて面白かった。この、アンドロイド・アルファ/ベータの「心を備えないアンドロイド」の姿が、特にべータ役の女優さんは好演で、アンドロイドの「感情を持たない声」が深く心に残った。それだけに、魂が乗り移った後の男性としての演技がことさらに活きていたのだと感じる。また、恋人であるアンジュとの掛け合いも、女性(型アンドロイド)の身体に乗り移っているからこその面白さがかもし出されていて、すごく楽しめたのだ。 魔界から呼び出された低級霊たちは、アンドロイドのボディからどうにか抜け出したバルバロッサの容赦ない攻撃により再び魔界に連れ戻され、フリー・スクールの人々は危機を脱する。丈太郎博士はさくら博士に愛を告げるという思いを遂げ、契約履行のためにメフィストに魂を差し出そうとする。しかし、凶暴な悪霊に取り付かれたアンドロイドたちに閉じ込められた数日間を過ごした子どもたちは博士を慕っており、博士の変わりにこぞって自らの魂を差し出そうとする。周囲の人間の自己犠牲の精神に心動かされてしまったメフィストは、悪魔としての力を失ってしまったものか、アンドロイド・シータのボディの中で完全に沈黙してしまう。 その頃、魔界では最終試験をパスできなかったメフィストへの裁定が決まり、メフィストは魔界を追放され、「人間として」人間界で暮らすことに決まる。実はメフィストは天使と悪魔の両親から生まれたのだという来歴がここでほのめかされる。 摩訶不思議な力により、アンドロイドから人間へと変化していくメフィスト。善も悪も、人の心の中に常に同時に存在していて、そのこと自体はおそらく正でも邪でも無い。厳然と、人間というものはそういうものなのだ。ただ、自らの内の悪い考えや邪なことを「無いもの」であるかのように振舞う欺瞞には囚われずにいたい。そんな風に感じさせられた。 今回のこのお芝居では、「変化」・「変身」が随所に織り込まれていた。丈太郎博士の若返り、メフィストやバルバロッサやサキエルや低級な悪霊のアンドロイドへの憑依、メフィストのアンドロイドから人間への変容など。また、さくら博士やかおる先生、フリー・スクールの子どもたちの心の在りようの変化。姿かたちやその想いすら変わっても、それでも変わらないのは何?という問いかけと、目に見ることも耳に聞くことも触れることもかなわないけれど、自分が自分であるということの最大にして唯一の根拠は、「人間と悪魔が契約時に取引する“魂”というもの」の存在に求められるんだろうなぁ…という感慨を抱き大きく心揺さぶられたことを、今回の劇に携わったすべての人に感謝したい。 前回の公演に引き続き、今回もビジュアル的に魅せる工夫が随所に凝らされていた。衣装やメイクをはじめ、芝居の役者の立ち位置、照明効果など、客席からどう見えるかを考え抜いた演出は見事だった。 芝居が終わった後見送りに出てきた役者さんの中から、印象に残った方にはひとりひとり感想を伝えた。ひとつのお芝居という同じ時間と空間を共有できたことを感じることができる、オレにとってはこのうえなくよろこばしいひと時だった。メフィストと記念撮影 友人TAKEと芝居の感想を話しあい、その後カラオケ・ボックスで奴のヒップホップ・ダンスを見せてもらったりいろいろしてから22:00頃家路に着いたのだが、その時にいたっても興奮は冷めやらなかった。この心の高揚がいつまでも治まらなければいいのに、と思った。そのくらい、この芝居はオレをハッピーにしてくれたし、心をひとつにして何かを創り上げるその場に立ち合わせてもらったことでとっても心を柔らかくされた、と感じていたのだった。ほんとうに今日は、いい体験をさせてもらった。
2006/11/19
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毎年恒例の国際大学(IUJ)のオープン・デーに、地元の高校のALTの先生と共に行ってきた。海外からの留学生が、踊りや歌などの自国の文化を紹介する催し。17:30、開場間際にIUJに着き、NPO法人シーターのお仲間とそのお友達と合流。会場の国際大学の体育館では、入り口からチケットを求める人の長い列ができていた。前売りチケットはIUJに行けばあらかじめ手に入れることができるのだが、このことはあまり一般には知られていないらしい。我々は前売りチケットを持っていたので、待たずに会場に入ることができた。 昨年のオープン・デーでは、スマトラ沖地震・つなみの義捐金集めで忙しく、開場後すぐに振舞われる各国の料理を食べそこねた恨みがあった。各国・各地域ごとの屋台がずらりと並び、民族衣装をまとった学生さんが料理をよそって手渡してくれる。今回は時間がたっぷりあったので、これ以上腹に入らないくらい多くの料理を食べた。どれも美味しくて、非常に満足。 今回のオープン・デーには、今年の6月に卒業し、現在は東京で働いている卒業生が多く顔を出していた。出会う人ごとに「懐かしいぃw !」と、旧交を暖めあう。オレが出会っただけで、7,8名の卒業生が会場に訪れていた。学生の頃のままの雰囲気を残している人もいれば、社会人になって心無し顔つきが変わったように感じた人もいた。 人の賑わいはすさまじく、広い体育館が窮屈に感じられるほどの多くの人、人、人!数え切れないくらい多くの友人、知人と会い、その度に挨拶を交わしているうちに19:00、パフォーマンスが披露される時間になった。今回のパフォーマンスでは、目を見張るようなものはあまり無かった。毎年参加しているので、オレが慣れてしまったものか?留学生のグループが真面目に自国の民族舞踊や民族音楽を演じているのに対して、今年も日本人グループのパフォーマンスがいち番くだらなくてハジケていた。禅・侍・着物(女性)を織り交ぜた、ハチャメチャ寸劇。日本人のオレにはともかく、学生たちには最高にウケていた。お笑い部門では第一位であろう。まぁ、お笑いで勝負したのは彼らだけだったのだが。 いち番力が入っており、また印象的だったのは、トリを飾った中国の学生さんたちのカンフーのパフォーマンス。太極拳風のゆっくりとした動作を一糸乱れぬシンクロで演じて見せてくれた。 中国と言えば、雲南省から来た女性の留学生のヤンヤンさんという人が機動戦士ガンダム・シリーズの大ファンで、彼女と夢っくす会員の中学生の息子さんのケイを引き合わせた時が面白かった。国境もジェネレーションをも越えた日中ガンダム会談!あまりにヲタッキーな会話に、おじさんほとんどついていけませんでした…。 20:30に閉会。その後深夜までディスコ・タイムなのだが、それには参加せずに帰った。カナダ出身のALTの方にもよろこんでもらえたようで、よかった。
2006/11/18
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今月の“とんとんお話の部屋”では紙芝居担当だった。子ども参加型のものをやりたかったので、「なにがつれるかな?」という紙芝居を選んだ。ネズミが釣りをしていると、釣れるのはワニ、カバ、ゾウ…で、「ぼくが釣りたいのはこれじゃないんだよぅ!」とネズミ。最後にクジラが釣れて、よかったね。…これだけの話である。小さなネズミがワニやカバやゾウやクジラを釣り上げる。ナンセンスさが気に入って選んだ。こうした子ども参加型の紙芝居は、子どもとの掛け合い、やり取りが命。そうした面で、子どもに語りかけ反応を得るということが今回は何故か特にやりたかった。 8場面の短い紙芝居なので、演じ終わると子どもたちの中から「短っ!」の声が(笑)。子どもは容赦なく正直である。 絵本・紙芝居の時間が終わり、遊びの時間は今回はペープサート作り。紙に書いた人の絵を裏表で変化をつけて張り合わせ、割り箸をさして人形劇の人形のように使って遊ぶ。小人の絵柄があらかじめ書いてあって、子どもたちはぬり絵よろしくその絵に色を付けていくのだが、その色使いや塗り方に個性が出ていて興味深い。できあがったペープサートを使って、5人ひと組で小人が歌って踊るというお芝居を演じて遊んだ。 遊びの時間が終わると閉会。いつも帰り際に子どもたちに、手書きの「来月のお知らせ」を手渡すことが恒例になっているのだが、今回は自分の演じた紙芝居から4つの場面を描きうつしてお知らせに使った。子どもたちに楽しんでもらえたなら、それが何よりである。
2006/11/11
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ヤフーでいじめの記事を検索してみたら興味深い見出しがあった。曰く、 いじめ根絶に総決起、小中高校生ら「会議」開く…京都 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061105-00000114-yom-soci 小中高生らが集まって、「いじめに立ち向かう生徒会議」というものが5日、京都で開催されたらしい。「いじめを無くそう」「いじめはよくない」という趣旨は誠にごもっともで、文句のつけようもないものなのだが、どうにも「いじめ根絶」という言葉はしっくりと胸に落ちてこない。オレは個人的に「いじめは未来永劫無くならない」と思っている。また、「いじめを無くすことができる」という姿勢が、「いじめ/いじめられ」ということに対して有効でないばかりか、新たな罠を生み出す危険性を内包しているとさえ感じる。 「いじめ/いじめられ」の問題は、「人間の業」の問題であって、これはもう人間社会の持つ普遍的なテーマだとさえ言えるだろう。「いじめを無くそう」とのスローガンのもとに行われる取り組みが、「いじめの無い状態が望ましいのだ」という現実と乖離した、つまり理想ではあっても実現不可能な価値観を生み出し、最近の、いじめが表ざたになったケースの学校関係者をして「いじめの事実は無かった」と言わしめたのであろうと考える。また、いじめを不祥のこととして、あたかも「あってはならない」ことのように捉える姿勢こそが、家族・級友・学校関係者…そして何より本人の対応に二の足を踏ませる大きな原因になっていることは否めない。いじめは常に、あまねく我々の身近に存在する。誰もが、いじめまたいじめられる側に回る可能性は常にあるのだ。 家庭・学校・教室・職場…ありとあらゆる、公になることのない秘密が生じうる「閉じた共同体」の内側では、いじめまたはいじめの種・可能性というものは「常にある」のだ。学校だけではない、社会全体として「自分はいじめには無関係」と思う人間を生み出さないために、安易に「いじめを無くそう」などというスローガンを用いるべきではない。人間の共同体がそこにあるかぎり、「いじめは常にあって当たり前」という視点から、いじめられる側は「自らに非がないこと」に気付きそれを実感してほしい。そしてなにより、いじめる側に「いじめという行為に手を染めている自分を恥じる」という感覚を養ってもらいたいものだと切に願う。いじめる側の低い自己評価という点に光を当てるならば、「自らのいじめという行為を恥とするかどうか?」という問いかけは、かなり重要なものだと思うのだ。人間は時に「いじめてやろう」と思ってしまう。また、その誘惑に負け、実際に手を染めることもある。人というのはそうした弱さを持っているものだ。そのことを踏まえた上で、いじめという卑劣で罪深い行為に手を染めていることを、「自らにふさわしくない」と感じるほどに、いじめる側にも自分自身をたいせつに思ってほしいものだ。 いじめの問題というのは、常に誰もが直面しているものであって、個々のケースはともかく、社会全体として「無くなってよかった」というかたちでの決着や解決を見るものではないだろう。新たないじめが生み出されないようにするには、ひとりひとりの意識が変わるしかない。無論、そのための努力は欠かすことができないが、今後も必ず生じてくるに違いないこのいじめの問題に「取り組もう」という意識こそより重要だろう。いじめられた側の心のケアはもとより、同時に、いじめに手を染めてしまう側の「業」とも呼ぶべき心の弱さに積極的に光が当てられるべきだ。無論子どもたちだけではない、おとなも含めた「人間の業」の問題として。「いじめを無くそう」という高邁なスローガンが、「無いことにしてしまえ」に変容するであろう怖れに対し常に意識的でありたいものだと思う。
2006/11/05
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