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昨日は永井雅人さんの個展を見に、銀座のなびす画廊へ行った。案内はがき"Blue in Blue"(カラーエッチング)昨年行った「未来への贈り物」展のときは、残念ながら銅版画の展示はなかったので、今回、それを見られるのが楽しみだった。モノトーンの銅版画は、WEBの写真で見るよりずっと生き生きして静かで柔らかく、寡黙でありながら雄弁だった。想像よりも大きな作品たちであるにも関わらず、なんて緻密な濃さなのだろう!植物的、水面のよう、淡い木漏れ日の影、骨のような白いもの、風、うねり、蔓、波。吹き荒れているかのように入り乱れる黒なのに、暴力的ではなくすべて内面へと向かっている。そんな静けさがある。もんどりうってうねり、絡み合っている黒が白が、静止した空間に、永遠にそのパワーを封じ込められているような。遠い記憶の断片のような淡いグレーの影が、懐かしい場所へと想いを運ぶ。長方形を組み合わせたカラーの作品も、より鮮やかで、写真で見るのとはずいぶん印象が違った。永井さんは冷たいお茶を差し出し、作品についていくつか質問に答えてくださった。大きな銅版画を描くにはすごく体力や忍耐力が必要そうに思うので、寡黙ながらパワフルでがっしりして、自信を身体の表面に帯電させている方、というイメージを勝手に抱いていたけれど、お会いしてみると、永井さんは、控えめで訥々として繊細な印象の方だった。そしてときどき、(初対面だからかもしれないけれど)違う小さな星からやってきたかのような、何かこの惑星の言語やしきたりに、自分を翻訳しきれないものをひたひたと内面に隠し持っている、そんな印象を持った。(失礼な表現だったらごめんなさい・・)これまであまり銅版画はどちらかというと苦手だったけれど、今回、印象が変わった。これらの作品が、技法というよりも、どのような精神と感覚から生まれるのか、興味深い。また機会があったら、ぜひ個展を見に行きたいと思った。「永井雅人展」は銀座のなびす画廊にて、2007年5月21日(月)~26日(土)まで。
2007.05.24
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5月17日雨は激しく打ちつけ打ちつけ、アスファルトの上でしぶきを上げていた。人々は肩をすくめ、足元を濡らし、また暗い空を見上げながら雨宿りし、いつやむともしれない空からの大量の涙を、その音を聞く。Hちゃんのお母さんが亡くなった。空が泣いている。まっすぐにそのままに迷うことなく泣いている。涙が落ちてくる。雨上がり。街は明るく陽に輝き出す。午後の光の中で、濡れた街路を人が行き交い、車が行き交う。さっきまでの雨が嘘のように晴れ渡り、街はにぎわい、ますます哀しみがたぎってくる。やさしくおおらかだったHちゃんのお母さん。直前までHちゃんとコンタクトできただけでも、よかった。心が折れる。5月。5月18日告別式が終わった。初七日法要をしているHちゃんを待っている。静かな晴れた午後の、喫茶店にて。なじみ深い地名の書かれた道路の青い案内標識。ゆれるプラタナスの葉。学校帰りの高校生たち。バスを待つ老人。どれだけ遠く旅してきても、同じところに辿り着く。そんな言葉が浮かぶ。あられのない、むき出しの現実。Hちゃんのお母さんの白い顔。小さな棺。棺を運ぶひどく即物的なステンレスの台車。黒と金に彩られた霊柩車。前回名古屋にきたときは、通りに霊柩車の通るたび胸がひきつれた。今回は、その霊柩車にHちゃんは喪主として乗る。焼き場であらわになったお母さんの骨。散らばってはいるけれど、頭の部分、大腿骨の部分、と身体の場所がわかる。あまりにむき出しなので、胸がつまった。私の祖父のお葬式のときは、骨はテーブルにまとめて移されており、ここまでむき出しではなかったので、今回少なからずショックを受けた。焼き場の人が箸で主要な骨を膳に拾い上げていく。頭骨が崩されていく。一通り説明を終え、親族により骨壷に骨が納められていく。Hちゃんと目が合う。どんな炎がお母さんの肉体を焼いたのだろう。立派な棺も、みんなで納めた花々も果物も、影も形もない。熱くないのだろうか。棺が燃え、衣が燃え、髪が燃え、肉が燃えたのだろう。白い骨、少しだけピンクがかった骨のかけらが、残骸が残るばかり。後は空無が、台の上にあるばかり。親族と知人たちは空無を見つめ、囲み、手を合わせる。不思議な感じだった。あったものが、ない。いた人がいなくなる。その、あらわな事実。
2007.05.18
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5月9日Gと信仰の話をしていると、自分はずいぶんあやうい暗闇に生きてきたんだと実感する。ニヒルでアナーキーな世界だ。信仰のあるGからすると信じられない、実感できない世界らしい。私からは逆に信仰ある生活は実感できない。ただし今回、どんな信仰でも信仰をもつと、確かに人はずいぶん救われるものなのだという体感が、少しはできた。しかし本当にそちらに行くことはないだろう。本当のことは何もわからない。世界の成り立ち。とらえ方の問題。名づけの問題。アニミズム。環境を変えること。習慣を変えること。それにより行動が変わり、感覚が変わる。しかしそれとともに自分のコアは変えずに、むしろ突き進み、深めること。考えること、実感すること、それを言葉にあらわすこと。"流れ"を感じることは信じても、神は信じていない。そこにはどんな違いがあるというのだろう。目に見えなくても"感じられるもの"は信じられる。風も匂いも、形は見えない。現象を見ることや、感じることによってそれらの存在を疑うこともなく受け入れている。ならば、私の目にときどき起きる残像現象は?Hちゃんのお母さんが見る幻影は?Hちゃんが感じる亡くなったお父さんの霊魂は?また、私が時折感じている大いなる流れについては?5月12日5ヶ月ぶりに美容院に行った。停滞していた時間を感じる。ちょうど美容院に来ていなかった12月から4月までは、停滞の時期だった。今もなお脱け出せてはいないけれど、少し進み出せる予感もある。髪を切ってずいぶんすっきりした。切ること、切り捨てること。また違う地平へ。5月13日コヨーテさんと国立新美術館へ「モネ大回顧展」を見に行った。ずっと停滞していたから、とても迷ったけど行ってよかった。話せてよかった。5月14日Hちゃんのお母さん、昨日から悪化しているそうだ。昨日の午後、Hちゃんはすぐ電話を切っちゃったけど本当はそのことを話したかったのに。そこまで私は気づけなかった。哀しくて悔やまれる。Hちゃんは今晩初めて病室に泊まって待機するという。酸素マスクもつけているそうだ。いよいよヤマ場だ。先日の小康状態のほうが奇跡だったらしい。本当はひどくなっていたのだ。かわいそう。苦しまないで欲しい。胸がひきつれ、かきむしられる。でもいつかは絶対来る。それが目前にせまっているのかもしれないし、そうでないのかもしれない。いつかは来る、私の母の身にも。そして母親のことだけでなく、Hちゃんにも私にも。確実に来る。うしなう。今、今という感覚。久しく忘れていた。お気に入りの曲を聴きながら"今"を感じる。音楽は今という一瞬を燃焼させる作用がある。それが一番の魅力かもしれない。特にジャズやロックは。そういうことを忘れていた。目覚めてから10年。ちょうど10年が経つ。あの頃は時折、大学のときのクラスメイトのNachiが歌っていた、ジャズ・クラブへ行き、ジャズに身を浸した。"今"を全身で感じ取っていた。"今"に満たされ、酩酊する。あの感覚を忘れていた。それが続けばいいのだ。それが生なのだ。生きているということなのだ。あの感覚。10年も経つ。殻を脱ぎ捨て、自分を見つけ、取り戻し、確立し始めてから、10年。そんな自分に慣れた、と思っても、また忘れていることがある。しかし昔の私とは違う。らせん階段でのぼっていっている。同じところを、しかし少しずつ上へ上へと。すごく幸せなんだなあ。私は人に恵まれてる。友人に恵まれてる。自分で選んではいるけれど、片思いでは友人関係も築けないから、私も友人たちに想われているんだろうなあ。とてもとても幸せだ。人生の最高の贈り物だ。少しずつ弾力が戻ってきている。エナジーが満ちてくる。身体を動かし、爆発させたくなる。5月16日今日はまた久しぶりにfucchiEとHIPHOPのクラスで会った。いつも元気をもらえる。躍動感あふれ、元気になる。ダンスもついがんばってしまう。彼から発せられる熱、動き、につられて私も空間をすべる。なめらかになる。何故だろう?それも彼の才能だろうか?何か感応するのだろうか。明朗さ、軽やかさ、軽やかながらもひたむきさ。
2007.05.16
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5月1日昨日はつらくなって泣いてしまった。Hちゃんには言えないし、Gは仕事だし、Kちゃんに電話した。「それは疲れてるんだよ」と言われ、当たり前のことなのに自覚していなかったことを自覚した。それだけでもずいぶん楽になった。5月6日昨夜名古屋から帰ってきた。今日は、連休中の夏日のような暑さが嘘のように、雨が降り肌寒い。名古屋にいるときは、東京での日常が遠く非現実的に感じられたけれどこうして東京に戻ってきて部屋に座っていると、そして特にHちゃんの話を電話を通じて聞いていると、以前、ここでこうしていたときとぴたっと貼り合わされたような感覚があり、不思議だ。何も変わっていない、ということが。私が名古屋に行っても何も変わらなかった。そのことの当然さと不思議さ。重く重くHちゃんにのしかかるものが、私をも絶望の淵にひきずりおろしていく。どんなに楽しく食事しても、病院に通っても、慰めや励ましの言葉をかけても、介護の生活を共有しても、何も何も変わらないという事実。それを実感する。この1ヶ月ごとは、あまりに早く短く頼りない。人生からかき消されているような時間。しかし苦悩と痛みともどかしさと不安と焦燥に満ち、覆われている時間で、存在しなかったなんて決して言えない、濃い時間なのだ。それでいて何故こんなにかき消されているように感じられるのだろう。自分が異次元に閉じ込められているかのように。時間と空間の二重性。しんとしている。雨がやんだのかと思って窓をあけると、やはり雨はそのまま降り続けていてぴしゃぴしゃと音を立てている。冷たい湿った空気が部屋に流れ込んでくる。何故か鳥のさえずりが明るくするどい。こんな雨の日でも、鳥は生き生きと活動し、飛んでいるものなのだろうか。私は何を読み取ろうとしているのだろう。この薄暗い雨空から、鬱屈した日々から、死に対する人々の反応から。残忍な思考。生と死について。死は唯一確実にやってくる未来、事実、ではあるけれど、しかし確実に1ヶ月以内にやってくるとも限らない。違う、死がやってくるのではない、生物の決定的な器官が泊まり、思考や意識が機能しなくなる、表出しなくなるということだ。そのあとのことは誰にもわからない。ひと個人の記憶はどうなるのだろう。それも機能が止まり、コンピュータからデータが消失するように、消失する。コピーやバックアップデータは、ない。周りの人々に別な主観から見たその人の記憶が残り、また紙や録音・録画テープに焼き付けたりした痕跡が一部残るだけだ。それらに意味はない。生きている人々は自分を生きるために、故人のデータを呼び戻したり、供養したりするだけだ。死者は語ることはない。そこまでしかわからない。確実なことは何も言えない。死後について。夕闇は青く、外の世界を単色画に染める。その色は私になじみ深く、また一日続いた雨音もやはり私になじみ深い。まだ6月ではないのに、もうあじさいを思い浮かべる。私の季節であり、私の花であり、私の雨なのだ。幻肢。Hちゃんにとってお母さんの不在は幻肢のようなものになりうるのかもしれない。村上春樹「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を一気に読んだ。たくさんのひっかかり、共鳴、示唆があり、軽い驚きを覚える。何故これまで読まなかったのだろう。今読むべき本だったのだろうか。「DEATH NOTE」、映画もアニメも強烈に魅力的で、ひきこまれている。去年からはまっているあさのあつこ「バッテリー」も最終巻を読んだ。思ったよりあっけなく終わってしまったので、全部通して読み返してみようかな。小説ではないけれど、Endlicheriも濃い物語世界を持っていて強烈にせまってくる。私はこのところすっかり物語世界に浸っている。そうでないと、強烈な現実世界とのバランスが取れないのかもしれない。Hちゃんは死に対しても未来に向かい、私は過去に向かう。そこが大きく違う。どちらのほうがよりよく生きられるのだろう?それは本当にわからない。性分の違いだ。それぞれの母親の性分の違いでもある。死は恐らく別の世界に行くこと、解き放たれること、魂の自由への飛翔である可能性もある、そう考えてもいいのだろう。死に対して、甘い幻想は持たないように幼いころからしてきたけれど。全き無であることと、可能性は2分の1。不可知なことは不可知であるのだから。
2007.05.06
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4月25日詩の生まれない日々。踊れない日々。言葉も浮かばず、ただ感情や事実に振り回されて過ぎてゆく日々。疲れが堆積し、精神が停滞している。4月27日連夜、Hちゃんとの長電話が続く。今のこの状態はHちゃんにとっても私にとっても試練でもあり、貴重な時間でもあるのだろう。Hちゃんのお母さんのことを聞いていると、人間の脳の不思議さを思う。記憶や時間の意識ははっきりしているのに、空間の認識についてはお母さんは夢の中に住んでいるようだ。場所が、空間の意識が彼女の中での整合性を持っているらしいけれど周りから見ると、すっかり狂っているようだ。ここは病院ではなく、デイ・サービスの一室であったり自宅の1階であったり、2階であったり、意識は空間を自在に飛ぶ。Hちゃんはお母さんをしきりにかわいそうだと言うけれど、お母さんよりHちゃんのほうがかわいそうだ。お母さんは夢の中に住んでいて、何の狂いもないのだ。Hちゃんはそんなお母さんを傷つけまいと、お母さんの夢の世界と、現実世界とのはざまに立たされている。2つに引き裂かれている。Hちゃんはそれを冗談として話してくれる。こんな哀しいことはない。これまで無神論者だったけれど、今回初めて、霊的なものを受け入れて考えている。そのほうが人は救われることを痛いほど思い知った。その事実を否定しない。「死んだらまた会えるよ」そんな言葉だけでも、Hちゃんが救われるのを見て、私もずいぶん救われる。信仰の成り立ちを納得する。4月30日少しでも長く、しかし少しでも早く、この状況が続くように、終わるように願う。進めない。Hちゃんも進めない。しかしとどまっても欲しい。哀しくておかしくて不安でため息が出る。人は死んだらどこへゆくのだろう。そんな子供じみた問いが、あろうことか私の中によみがえる。死は全くの無、と、何ものも救うことは出来ないと、前世も死後の世界も信じず、信仰もなく、無に立つことを自分に言い聞かせてきたのに。あと3年は生きたかったとHちゃんのお母さんは言っていた。余命を宣告され、Hちゃんは日々お母さんの死と、お母さんのいない死後の生活になじめるように、心の準備をしている。そしてやはり奇跡が起きないかと願っている。願っては裏切られ、そのたびに落胆している。
2007.05.02
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4月1日桜を見に行った。水路の上にいっぱいに腕を広げ、花を見にまとっている。風が吹きいっせいに枝をふるわせ、花は散り、舞う。雪のように、しかし雪よりも軽く、風をうけてひらひら身をひるがえしながら落ちていく。一枚羽の蝶のよう。小さな小さな白い蝶。羽をもがれ、時に風にあおられ上昇し、なびき、一枚羽で可憐に舞い散る。水の翠に浮かび、流されていく。風に水に身を任せている。せせらぎの音が聞こえ、鳥のさえずりが聞こえる。花は無言。何も言わず、音も立てず、しずかに散り行く。また風が吹く。背後から風と共に花びらが周囲をさらって吹き過ぎていく。一瞬耳元を一片の花びらだろう、すれすれに飛び、ひゅんっと唯一音を立てる。木の幹にも新芽があおあおと伸び、やわらかそうな葉をのぞかせている。身をよじり、身体のあちこちから新芽を吹き出させている。エネルギーがみなぎっている。4月14日死について考える。この世界が、感じている世界がなくなるということ。それでも世界の存在はなくならず動き続け、自分だけが消滅し、自分の仕事もつくったものも、痕跡もすべて消え去るということ。身体は滅び、私というこの考え感じている精神、魂も消えるということ。その不思議さ、それなら何故この身体、精神、魂は存在するのだろう?子孫を残すのでもないのに。そう考えると本当に不思議で、ある意味虚無感に苛まれる。それでも今生きて、感じ考え、行動している。さまざまなことに事実に想像に、一喜一憂している。捨てている。壊れているものがある。周りの人たちとおしゃべりしていて、ずいぶんかけ離れているのを実感する。ぶちまけてしまいそうになる。ずいぶん違う位置にいる。4月19日Hちゃんのお母さんはとうとう入院した。Hちゃんは、今のお母さんは自分の知ってるお母さんじゃない、自分の知ってるお母さんはもう死んじゃった、今は知らない人の世話をしている、と言った。その感覚はあまりに哀しくて泣けてきた。Hちゃんは、なんてつらい場所にいるのだろう。哀しみの大きさ、深さは私には計り知れない。茫洋としてのみこまれそうな、恐怖をはらんだ哀しみだ。4月20日また痛み、耐える。みぞおちが痛む。この感情は何。私に何ができるだろう。私は何をすべきだろう。この痛み、この涙、この感情、どうしたらいいのだろう。また見失う。少し見えかけてきたのに。また見失う。何を引き出されてるのだろう?何か私の中から引き出されるのだ。これは"何か"なのだ。引き出され、突き出され、思い出させ、心をしぼる。しかしそれが何なのか、何故なのか、わからない。10代の頃を思い出す。何故かわからないけれど。孤独と、心ひきちぎられるような孤独と、静けさ、そして激しさ。どうして私は理解されなくてもいいと思ってしまったのだろう。それは驕りだろうか。理解してくれる人が少しでもいるから、そこに甘えてるのだろうか。しんしんとみぞおちが痛む。誰もその理由を教えてはくれない。自分で探っていくしかない。私はどこまで行けるだろうか。このままでいいとは思っていない。なぜ立ちすくみ、恐れているのだろう。
2007.05.01
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