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神戸神社 ここの鳥居は、伊勢内宮の式年遷宮毎に古材を頂き本殿としたあとその本殿の古材を20年経つと 西側のこの鳥居にします。 伊賀市神戸の神戸神社 穴穂宮神社(あなほのみやじんじゃ) 明治41年の一村一社令で村の社を合祀するまでこの名前でした。 倭姫命(やまとひめみこ)が各地を巡り伊勢に奉祀することになりますが、途中、伊賀では四年間滞在しました。 その滞在期間中、この神戸神社に天照大神がまつられていたという。 それゆえ「元伊勢」といいます。 倭姫命が4年間この地に御鎮座された際に、神戸神社の近くを流れる木津川で鮎を取り天照大神に 供進されたという伝承が残っています。 そして今でも、伊勢神宮へ近くを流れる木津川の岩鼻というところで、取れた鮎を 「初魚掛祭(はなかけまつり)」では神宮の月次祭に干鮎1800尾が奉納されています。 藤堂高虎が伊予より移封され伊賀に来られた時に伊予より持ってきた杉を植えられたそうで その「いよ杉」が拝殿手前のこの杉です。 伊勢内宮の古材を式年毎に頂き式年造替をこの本殿も行っています。 西側の鳥居もまた二十年経つと東側の鳥居とします。 つまり木材は合計60年伊勢内宮からは80年使用されることになります。 伊勢神宮領として、江戸時代まで神戸(かんべ)と神田(かみた)の2種があっりました。 神戸は神社に献ぜられた封戸(ふこ)(一戸、一家族の税を納める所)の意味で、伊勢神宮領の神社ということになります。
2021年03月13日
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護摩堂の奥の岩前に岩屋不動(江戸時代作)が剣と縄をもち、2童子をしたがえて立っている。左眼を閉じ右眼を開けて睨むのを「阿遮一睨(あしゃいちげい)〙 (阿遮はacala の音訳で、不動明王の梵名。一睨は左の目を閉じ、一眼でにらむこと) 仏語。不動明王の一眼で激しく怒った形相(ぎょうそう)。転じて、威徳があって勇猛な様子。」昔から不動明王は「片目だけ開る」のか「両目を開ける」のかでそれぞれ解釈がありました。たとえば「阿遮一睨」とおっしゃったのは弘法大師ですが、弘法大師がお描きになった不動明王像(あるいは仏像)は両目を開けておられます。これについて古の註釈によると、片目を閉じる不動明王は釈迦不動だとし、両目を開けた不動明王は大日不動だという説明がまた「片目を閉じることはより深遠な意味がある」とし「真理を凝視している」意味だとも説明されます。新大仏寺での説明では天地眼と言い右目は上を左目は下を向き上下を困っている人がいないか常に見渡しているとのことでした。その岩屋不動の前には、かつて岩にほられて崩れ落ちた不動のお顔が左右に祀られていました、右側のお顔、片目をつぶっています。そうすると釈迦不動でしょうか。右側に落ちた腕が立てかけてありました。左側のお顔、両目を開けているので大日如来でしょうか。護摩祈祷で護摩木を炊く後ろ側にあります。左側に本殿、右側に大仏殿浩宮徳仁親王殿下 記念之碑 大仏殿の東側にあります。昭和53年3月に当時学習院高等科にご在籍されていました浩宮皇太子殿下がご学友と共に新大仏寺でご宿泊されました。その記念の碑その際に新大仏寺の檀家が献上しました「ぼた餅」を皇太子殿下が大変お気に召され、その後に美智子妃殿下より昭和天皇陛下へそのお話がお伝えになられ、それ以後数十年に渡り皇太子殿下のお誕生日にお年の数だけ皇居にご献上に上がっておりました。言うまでもありませんが浩宮様は現在の今上天皇(きんじょうてんのう)です。新大仏殿 (宝物庫)現在お寺では盧舎那仏としてお祀りされていますが、もともとは立像の阿弥陀如来として造られたとのこと。頭部のみが快慶が造った当時のものです。芭蕉が訪れた時には頭部と石造台座のみでしたがその頭部を基に江戸時代に作り直されました。木造如来坐像 体部は江戸時代の補作ですが、頭部は快慶の作で、頭部内面に「大和尚南無阿弥仏」(重源を指す)、「大仏師安阿○○○」(安阿弥陀仏 = 快慶のこと)の銘があるそうです。文化財、附(つけたり)指定の石造基壇は造像当時のもの。その石造基壇新大仏殿(宝物殿)1階
2020年09月21日
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県指定文化財、入交家 先日高知からのツアーの人達を案内したとき藤堂藩と長宗我部家との関わりを調べて多くの ことが分かりました。 まず最初は1585年の秀吉の四国平定の総大将豊臣秀次の使いとして降伏勧告を高知城 に入って行っています。 その関係からか関ヶ原の戦いでは直接、戦ってはいませんが改易後、長宗我部家臣を召し 抱えました。 1615年の大阪の陣では、直接戦い、旧長宗我部家臣同士が、幼なじみが壮絶に戦い 藤堂藩も藩主のいとこで侍大将二人を失うなど多大の損失を受けました。 その関ヶ原の戦い後、藤堂藩に召し抱えられ入交家からは兄弟四人がた召し抱えられそのうちの 一人の子孫がこの地に屋敷を構えました。 この屋敷は寛政年間(1789〜1800)の頃、屋敷変えによって 入交勘平(いりまじり かんぺい)が拝領したもの。 高知に残った一方の入交家は、郷士として上士の山内家臣に虐げられ半農、半商を余儀なく なりました。。 しかし入交家は石灰に目を向け新興商人として台頭し後、豪商になり大いに繁栄しました。 明治以後も発展し続け現在は30以上の株式会社を傘下に持つ入交グループに成っています。 ソニーの副社長からセガの社長になられた入交昭一郎氏もその中の一人のようです。
2016年07月10日
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伊賀市西蓮寺キリシタン燈籠 昭和5年に発見されたキリシタン燈籠、織部灯籠とされる燈籠 古田織部はキリシタンだった状況証拠は多いのですが断定はされていません。 織部灯篭は下方の基礎・基壇がなく地面に竿を直接生込んで設置します。こうしたことから一般的な 社寺の燈籠に比べてやや小ぶりで、比較的地味で庭の状況に合わせて設置されているので昭和5年まで発見されませんでした。 寺伝によると西蓮寺の西山上、比自山の観音寺から移したもの、とのことで文禄年間の伊賀上野城主、 筒井定次はキリシタンともいわれ、それを理由の一つとして後に改易されています。 耶蘇教伝来の文禄2年(1593)から改易された慶長13年(1608年)の間の建立と推定されます。 碑面上部の十字を模っていると思われる所にキリーク文字模様が刻まれいます。 PTIを図案化されたパートリ天の神を象徴しているとの説がありますが私には 「IHS・ FILIUS、・ PATOLI」イエズス会 息子 天の神 の頭文字「IFP」に見えるのですが。 大原三千院の織部灯篭に全く同じ模様が彫られています。 真盛上人本廟 真盛上人は嘉吉3年(1443)に現在の三重県津市一志町に生まれ、47歳の時西教寺において四十八日 別時念佛会を修し、西教寺を再興、中興の祖とされています。 50歳の時伊賀に来て九品寺に逗留し、西蓮寺において再び四十八日別時念佛会を修行中の四十六日目にこの場所で遷化(高僧の死亡を敬っていう語)された。 真盛廟御開帳 内部 真盛上人は死亡する三日前に死亡したならば、なきがらはこのまま西蓮寺に埋葬するよう弟子達に命じたのでこの地に埋葬されました。 その地に廟堂を建て堂内中央に石造五輪塔を安置しています。
2020年06月23日
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藤堂家紋蔦紋は子孫繁栄の象徴として用いられます。ですが藤堂家の最初の家紋は「丸に片喰かたばみ」カタバミ夜に葉が閉じて半分になったように見えることからとされます「傍食(かたばみ)」または「片喰(かたばみ)」と書きます。「酢漿草(かたばみそう)」と書くこともあり」「ほおずき草」と表記されることもあり藤堂家の家紋は「ほおずき草」だったと挙げられている説もありますが「ほおずき草」という家紋はありません。 丸に片喰かたばみ 藤堂高虎最初の家紋 豊臣秀吉の五七の桐紋 藤堂蔦紋 通常の蔦紋 藤堂蔦 高虎は豊臣秀吉から桐の紋を許されたが 「それでは恐れ多い」と上の花を取り「蔦紋」として用いるようになったそうで従って普通の蔦紋より下に潰したような形になっている。藤堂蔦といわれるます。 白餅 高虎が旗指物に用いた「三っ餅」。白餅は、「城持ち」にかけられているともいう。流浪生活中には三河吉田宿(現・豊橋市)の吉田屋で三河餅を無銭飲食して捕まったとようで、吉田屋の細君もたまたま近江の出であったとことから、主の吉田屋彦兵衛に故郷に帰って親孝行するようにと路銀まで与えられたと言う。後日、大名にまで出世した藤堂高虎は、参勤交代の折に立ち寄って餅代を支払った。ゆえに藤堂高虎の旗指物は「三つ餅」なりました。なお参勤交代の際の主人は三代目中西与右衛門というもので、彼の先祖は織田信長に清州屋として仕え、本能寺の変の後吉田宿で酒問屋を始めたとされます。
2024年09月04日
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伊賀市久米川流域を散策すると堤防の向こうの道に道標の様な物があり 「子や春(す)みち」の道標の横に開運薬力眼力稲荷神社の石碑 この分かれ道の坂を上ると突き当たりに伊賀國久米 米井山 得楽寺(子安堂)がありその横に開運神社があるようです。そこはまたの機会にしました。 伊賀市守田町 八幡神社〔長岡八幡宮〕拝殿 由来記によると 五世紀末「人皇二十五代武烈帝の御宇、伊賀国造中田麻呂勅を奉じて九州宇佐より阿蘇山の地に勧請す、 山城国石清水より遥か以前の造立なり」とあり現在の大分県宇佐市から約千五百年前に造立されたことになります。 以来畿内に通ずる大和街道の要所に鎮座し、木津久米両河川合流の豊饒肥沃の地に農耕生活を営んだ 古代人の信仰の対象であった。 当時四十九院村には、農耕神を奉斎した日吉(ひよし)、高松社(たかまつしゃ)あり。 奈良聖武帝の御代僧行基、諸国に精舎(この久米山の東側にその伝説の旧四十九院があります)を建立 の際(740年代)、弥勒院を日吉社(ひよししゃ)境内地に造立とあります。 以後、弥勒院鎮守社として近世江戸末期まで世に謂う神佛習合時代として続いています。 拝殿の後の本殿 五世紀に元になる神社がありそこへ周りに在った神社を合祀、八世紀に四十九院建立の際に行基に 依って再興整備されたことになります。 八幡神社に隣接している伊賀市九品寺(くほんじ) 寺伝では、奈良天平年間、聖武天皇の詔命により、行基菩薩がこの地に49院を建立したのが当寺の 由歴で、その後、大同2年(807年)に、巖如(げんにょ)上人が、その本坊跡地に弘法大師の霊場 のひとつを建立して中央山蓮台寺と名付けたとされている。更に時代の変遷のうちに荒廃を極めた 当寺だが、明応年間(1491年頃)になって、天台宗の高僧の慈接(じしょう)大師真盛(しんせい)上人が 伊賀の地を訪れた折りに、当地に念仏道場を再建し、寺号を改め天台宗袖合山九品寺と称されるようになった。明治11年に天台宗真盛派として分派され、さらに昭和21年、天台真盛宗となって今日に 至っている。この伝によって、行基菩薩を開基、真盛上人を中興の祖としています。 仏教で極楽往生の際の九つの階位を表しており、人の往生には上品・中品・下品(じょうぼん、ちゅうぼん、げぼん)があり、 さらにそれぞれの下位に上生・中生・下生(じょうしょう、ちゅうしょう、げしょう)とがあり、合計9ランクの往生があるという考え方。 九品仏はそれを表した9体の阿弥陀仏のことで九品寺の名前の由来だと思われるます。 九品の場合は「くほん」と濁らずに読みますが、「上品・下品」などは「じょうぼん・げぼん」と連濁するようで上品、下品の語源のようです。 菊岡如幻の墓 (1625-1703 江戸時代前期の国学者。 寛永2年生まれ。生家は伊賀(いが)(三重県)上野の豪商久米屋。北村季吟(きぎん)について国学,和歌をまなぶ。百科事典「世諺一統(せげんいっとう) ,郷土史「伊水温故」(これが伊賀史研究の教科書になっている),教訓書「柴栗草紙」などを 十三石仏 伊賀市有形文化財(北側一基) 九品寺から旧道を四十九方面へ行くとあります。 十三石仏南側 旧道をもう少し行くと南側に一辺2mちかい自然石に地蔵菩薩立像と十三仏坐像を刻んだもの。 室町時代の作。これは文化財登録されていないようです。 国道を越えた岡の上に鶴塚というものがありました。 鶴は吉祥と長寿の象徴で、「神秘の鳥」「幸運のシンボル」とされている貴鳥とされ、そのため死亡した鶴の遺骸を近くに葬って塚としたもののようです。徐福伝説の鶴塚(徐福が亡くなる時鶴になりたいと言った)が各地にあり伊賀にも徐福が忍者の技術を伝えた説がありますがこの塚には徐福伝説は伝わっていないようです。 このあたりに八幡神社に合祀された高松社があり、日吉社は旧四十九院に在ったようです。
2020年03月22日
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