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初めて教室に入った時の嫌な空気を、今も忘れずにいる。子どもたちは仲良しグループで固まり、好き勝手にしゃべり続けている。他者にはまるで興味がないようだ。「新学期から3カ月近くたつのに、クラスメートの名前を知らない児童がいるのには驚きました」
昨年6月、東京都世田谷区にある区立給田(きゅうでん)小の4年1組は、学級の荒れのさなかにあった。1学期の半ばで児童と担任の関係がこじれ、授業が成り立たなくなった。当時、算数の少人数指導を担当していた車いすの伊東あゆみ(54)が、急きょ担任を引き継ぐことになった。
▼マル秘
1カ月程度は様子を見ていた伊東だったが、2学期から学級便りを書き始めた。児童38人と保護者に、日々の出来事や自分が大切にしている考え方を伝える。同時に子どもたちには日記を提出してもらうことにした。
当初は表面的な記述が目についたが、「このクラスの子たちは実は人並み以上に感受性が強く、仲間に関心を持っているのではないか」と読み取れる文章も増えてきた。
「紹介したい日記があるので学級便りに載せたい。嫌な人はマル秘マークを付けて」。提案してみると、予期した通り多くにマル秘が付いてきた。だが、一人二人と紹介していくにつれ、その数は減っていった。
2学期の終わり。ある児童が4年間で初めて授業で意見を述べることができた。「ちゃんとみんなきいてくれたから発言できました」。日記にはあのマークがなかった。以来、その子は何度も手を挙げるようになった。
伊東がとりわけ大切にしてきたのは、聴く姿勢だ。「人の話をちゃんと聴いていれば、いつか話したくなる時が来る」。積極的な発言も大事だが、五感を澄まし、他者に耳を傾ける時間に大いなる価値があると信じる。
30年余りの教員生活で何度も担任を経験し、教科の学習会にも参加してきた。人間関係が安定している学級は、子どもの発言がその場限りで途切れない。振り出された言葉はこだまし、面白いようにつながる。授業は教室の人間関係を示すバロメーターだと学んだ。
子どもたちの成長を今、弾むように語る。「話したくてうずうずしている男子が、人の発言をちゃんと待てるようになってきた。すごいでしょ」
▼武器
伊東が自身の体の異変に気付いたのは、教職に就いて間もない20代の頃だった。高校時代は運動部で体力には自信があったが、階段を上ろうとすると、なぜか足に力が入らなくなった。何度か検査を受けたが、全身の筋力が徐々に衰える難病だと分かるまでにはずいぶん時間がかかった。
つえを使う生活が続き、十数年前からは電動車いすで移動している。「公共交通機関での通勤は難しいので、転勤のたびに学校の近くに引っ越す必要があるんです」。希望する学級担任にはなかなか縁がなかったが、やりがいのあるこの仕事から離れられなかった。
授業の時は教卓に少し寄りかかるようにして立つ。黒板は使わずに自分のノートに「板書」し、モニターに映し出して児童に見せる。車いすの乗り降りの際、介助をするのは子どもたちの役割だ。
着任時こそ同情的な視線を送ってきた児童だが、慣れてくれば障害を理由に手心を加えてくれるほど甘くはない。それでも、ベテランの伊東はめったに大声を出さない。騒がしい時も命令調の指示はせず、静かに待つ。
他の多くの教員のように、授業中に教室内を歩いて子どもの声を拾い、ノートの書き込みを確認するような指導はできない。「教員が横に来てくれるだけで子どもは安心感を得られることもある。私にはそれができない。言葉だけが武器です」
▼信頼
伊東は教室での席決めを子どもたちの話し合いに委ねている。昨年6月は決定までに2時間以上かかったが、今年1月はわずか15分で終わった。学校の生活アンケートで「友達や先生の話を聞くことは好きだ」との項目に対する肯定的な回答は、1学期の41%から2学期は86%に上昇した。「安心して自分の話を聞いてもらえる場所になってきたんでしょう。仲間への信頼が土台にあると思います」。理想とするクラスにはまだ遠いが、教室にはもう重苦しい雰囲気はない。
1月の社会科の授業。冬休み明けで気もそぞろなのか、子どもたちの集中力が高まらなかった。話し合いが低調とみるや、伊東はその日のテーマの浅草の歴史と、自分との関わりを語り始めた。居住していた祖母が、東京大空襲の前日に疎開して難を逃れたこと。1日遅ければ亡くなっていて、今ここで皆に会えなかったかもしれないこと。とつとつと語る言葉に教室は静まり返り、直後から子どもたちの発言が一気につながり出した。「素晴らしい話し合いができましたね」。いつもの穏やかなトーンで、授業を締めくくった。(敬称略、文・名古谷隆彦共同通信記者、写真・京極恒太共同通信編集委員)

新型コロナウイルスの感染拡大で、子どもは家庭でも学校でもストレスを抱えている。マスク着用が実質的に義務化され、人と距離を取るよう推奨されるなど、多くの制約の中で教員や仲間との関係は希薄になりがちだ。
「コロナ禍は教員の学級運営にも影響を与えており、普段なら対処できるような小さなほころびが、学級の荒れにまで発展するケースもある」と指摘する専門家もいる。
学級の荒れには、「多様な形態がある」として、文部科学省は「学級崩壊」との言葉は使わず「学級がうまく機能しない状態」と呼ぶ。ただ、現場の実態調査はしておらず、コロナとの関連性も明らかになっていない。
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