全6901件 (6901件中 251-300件目)
大泉水の周りに戻って来ました。大泉水の周りには「松原」と呼ばれる松が植えられた広場があります。松原といえば、おそらく三保の松原を設定しているようです。とすれば、この大泉水は太平洋にも見立てられているんですね。松の間から、見えたのは中央大学の校舎です。松原の片隅に茅葺の木造の建物がありました。九八屋という江戸時代の酒亭を復元した建物だそうです。解説文には、「江戸時代の風流な酒亭の様子を具した。この名の由来は、『酒を飲むには、昼は九分、夜は八分にすべし。』と酒飲みならず、万事控えるを良しとする。との教訓による。」と書かれています。このため、昼は九分、夜は八分の教訓から、九八屋と名付けられたそうです。こういう教訓を庭にするとは、水戸徳川家の人には、お酒が好きな人が多かったんでしょうかね。【つづく】人気ブログランキング小石川後楽園(その7) 酒を飲むには、昼は九分、夜は八分にすべし。
2023年10月20日
コメント(16)
無料公開の都民の日に訪れた小石川後楽園。園内の散策まだ続きます。見るべきものが多いです。こちらにあるのは、建立当時の姿を残す園内唯一の建物といわれる得仁堂。光圀18歳の時、司馬遷『史記』の「伯夷列伝」を読み、伯夷、叔斉の高義を慕い、泰伯の像とともに二人の像を安置したところだそうです。堂名は、孔子が伯夷・叔斉を評して「求仁得仁 (仁を求めて仁を得たり)」(『論語』述而第七の十四)と語ったことに由来します。園内を歩くと、一瞬、深い山の中の道を歩いている感覚になります。そして、これが円月橋。水戸徳川家2代藩主光圀により、賓師(客分として待遇される師)として招聘された明の儒学者朱舜水が設計したといわれる石橋です。このあたりも光圀公の中国への関心の高さがわかりますね。水面に映る姿が満月のように見えるので、円月橋の名がつけられたそうですが、沖縄・九州地方を除く地域の中では最古級とされる石橋です。残念ながら、橋の上には登れませんでした。こちらは花菖蒲田ということで、季節にはきれいなハナショウブが楽しめるそうです。ボランティアガイドの案内は、この後大泉水の方に出て、ガイド終了となりましたが、MoMo太郎はもう少し見たかったので、さらに園内を探検しました。こちらはまた山に登る階段がありました。この上にも行ってみたかったのですが、パスさせてもらいました。そして、こちらの石碑がありました。「藤田東湖 護母致命の処」という石碑です。藤田東湖(1806~1855)は、幕末の水戸藩士で勤王家として知られた人物です。その藤田東湖が水戸藩江戸上屋敷で安政の大地震に遭ったのですが、その際母を助けて外に出たのです。しかし、火鉢の火を心配した母が屋内に引き返したため救い出そうとしたところ鴨居が落ちてきて、東湖は老母を下に囲い、肩で鴨居を支え、かろうじて母を庭へ出したのですが、東湖本人は力尽きて下敷きになり圧死したそうです。その記念碑はとして建立されたもので、圧死した場所の後楽園ジムの脇に建立されたのですが、白山通りの拡幅により道路となったため、ここに移設されたそうです。この井戸は、どんな干ばつにも枯れず、またどんな洪水でも水があふれなかったという伝説があるため、「不老水」と呼ばれているそうです。石川後楽園にある梅林です。の梅の木を水戸の偕楽園に持って行って植えたそうです。ちなみに水戸光圀公は号を「梅里」と称するほど梅を好んだそうです。園内を流れる川です。この川のほとりにあるのが、こちらの稲田です。この稲田は、光圀が、農民の苦労や農業の尊さを彼の嗣子綱条の夫人に教えるために作ったとされるもので、毎年文京区内の小学生による田植えと稲刈りが行われ、光圀の教えを継承しているそうです。園内には水戸光圀公の趣味で作られたものがかなりあるんですね。【つづく】人気ブログランキング小石川後楽園(その6) 水戸光圀公の趣味です
2023年10月19日
コメント(21)
谷村新司さんがお亡くなりになったそうで、ご冥福をお祈りします。MoMo太郎にとっては、谷村新司さんって歌手とかというイメージはあまりなくって、ラジオの深夜番組でエッチな話をしていた人という印象があります。特に、印象に残っているのは、和式トイレで大きな方をするときには、予めトイレットペーパーを便器の中に敷いておくと、きれいに排泄物を流せて痕が残らない、という話でした。その話を聞いてからは、最近は洋式トイレが多いのでそういうことはしていませんが、和式トイレで大きな方をするときは、その方法を実践しています。さて、無料公開の都民の日に訪れた小石川後楽園。園内の京都の名所、まだ続きます。琉球山の頂上付近かにあった、この建物の土台のようなものは、清水観音堂跡です。かつては京都の清水寺の本堂を模写したお堂が建てられていたそうですが、この建物も大正12年(1923)の関東大震災で焼失してしまったそうです。ということで、清水の舞台からの眺望を楽しもうとすると、ちらっと見えた赤い橋、これもなにやら京都をイメージしたんでしょうか。園路を辿って、山を下っていくとこの赤い橋を渡ることができます。この橋、京都東福寺の通天橋と見立てるそうです。でも、これって水戸頼房公も光圀公も騙されたんじゃないんですか。京都で学生生活を6年送ったMoMo太郎は騙されないぞ!本当の東福寺の通天橋は、こんな朱色のアーチ橋ではなく、渋い木造の水平な橋で、そして屋根が付いているんですよ(→→→こちら)。この橋を渡るお姉さん、今度は京都に行って確かめてね。ちなみに東福寺通天橋は紅葉が見事です。こちらの橋からも紅葉が楽しめそうなので、その点では通天橋に見立てても間違いではないかも。ちなみに、例年だと小石川後楽園の紅葉が綺麗なのは12月の第一週だそうです。その時はちゃんと300円の入園料を払って来てね、とボランティアガイドさんに言われました。【つづく】人気ブログランキング小石川後楽園(その5) 水戸頼房公は騙されたのか?ついでに谷村新司の思い出も
2023年10月18日
コメント(26)
こちらの道を行くと大泉水をクルっと一周できるのですが、なぜかこちらに人が集まっていました。実は小石川後楽園のボランティアガイドさん(→→→こちら)が無料で園内を案内してくれるそうです。無料と聞いて放ってはおけません。MoMo太郎もこのボランティアガイドのオジサンについて園内を歩くことにしました。さて、ガイドさんの説明によると、この橋は京都の嵐山にある渡月橋だと見立てるそうです。中山道を歩いていよいよ京都に来たのですね。渡月橋が架かる、京都の桂川上流で嵐山を流れる大堰川(→→→こちら)に見立てられた川です。嵐山の雰囲気がありますかね。と、京都だとばかり思っていたら、この堰は、なんと西湖の堤(さいこのつつみ)というそうです。西湖って京都にあったのかなと思っていたら、なんと中国の杭州(今の浙江省)にある西湖(→→→こちら)の堤に見立てるそうです。これは二代目藩主の水戸光圀が、父の水戸頼房の時代から水戸藩に仕えた明の遺臣朱舜水(→→→こちら)のアドバイスに従って、こういう中国の風物を取り入れた庭を造ったそうです。さすが、日本で初めてラーメンを食べたという俗説の伝わる水戸光圀、中国が好きだったんですね(→→→こちら)。渡月橋を渡り切った所、大堰川の河原に置かれた屏風岩です。屏風のように板状の石が並べられているから屏風岩。屏風岩の後ろには琉球山と呼ばれる築山が作られています。琉球山に登り始めたところで振り返って撮影した、渡月橋と西湖の堤です。【つづく】人気ブログランキング小石川後楽園(その4) いよいよ京都です
2023年10月17日
コメント(25)
園内の散策、色んなものがありました。石碑も建立されているようです。この石碑は、駐歩泉碑(ちゅうほせんひ)というもので、この辺りは、清水が湧き出ていたそうで、水戸藩九代目藩主徳川斉昭が「駐歩泉」と命名したそうです。「駐歩泉」は西行(→→→こちら)の和歌「道のべに しみづながるる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」に因んだもので、「駐歩泉」碑の小径を行くと西行堂跡というのがあります。こちらが西行堂跡です。関東大震災で焼失し西行堂の土台だけが残っています。また右側の石碑は西行の歌碑になるそうですが、上手く撮影できなかったので、載せていません。西行堂跡のあたりから大泉水を眺めると、大泉水に浮かぶ蓬莱島の姿がよくわかりました。このような島は、神仙思想に説かれる蓬莱山を表す工夫として、各地の庭園に設けられているそうで、。この島は、亀の形をしていて、亀の頭に当たる板状の石は、庭師・徳大寺佐兵衛にちなんで徳大寺石と命名されています。また、樹木に覆われて見えにくいのですが、島内には弁財天の祠がありますが、島に渡る渡し舟が運行されておらず、お参りすることはできません。【つづく】人気ブログランキング小石川後楽園(その3) 駐歩泉碑と西行堂跡
2023年10月16日
コメント(22)
10月1日の都民の日で無料公開されていた小石川後楽園に行ってきました。こちらの案内図(→→→こちら)を見ながら、どのようにこの庭園を廻ろうかと考えていると、木曽川とか龍田川、そして渡月橋、通天橋といった日本各地の名所の名前が見えました。どうやら、この小石川後楽園の庭づくりのコンセプトは、日本各地の名所を水戸徳川藩の上屋敷の庭園に造ろうということのようです。さすが、全国を回って巡って悪人を退治する水戸黄門漫遊記のモデルとなった水戸光圀公を生んだ水戸徳川家の庭園、きっと、光圀公もこの庭園を巡りながら、水戸黄門ごっこをして遊んでいたのかも。水戸徳川家の上屋敷は、この後楽園と隣の東京ドームシティを併せた広い敷地にあり、この小石川後楽園は、上屋敷の中の庭園ということです。また屋敷の建物は、庭園の東側にある今の東京ドームシティの場所にあったそうです。MoMo太郎は小石川後楽園の東門から入ったので、最初にこの内庭と呼ばれる水戸藩書院のあったところに出ました。内庭は、この唐門によって、仕切られ、唐門は開設時の「後楽園」の正門になります。ということで、門に懸けられた扁額には「後楽園」という文字が書かれています。この唐門の前に立つと、東京ドームの屋根が見えます。来シーズンはジャイアンツも頑張って欲しいものです。弱い巨人相手に勝っても阪神タイガースの岡田監督も面白くないでしょうから。こちらの橋を渡って中にある島に渡ることはできないようです。唐門の裏に回ると、このよう道標がありました。唐門を江戸とすれば、木曽川が流れていることから、こちらは西に向かう中山道という設定でしょうか。こちらが木曽川、そして設定では、このあたりが浦島太郎伝説のある「寝覚の床」(→→→こちら)ということのようです。そして、これが中山道の峠道ということになるのでしょうか、「延段」(のべだん)と呼ばれる自然石と切石を組み合わせた石畳の道になります。そして、延段を越えると眼下に池が広がってきます。この池は琵琶湖という設定なんでしょうね。これは庭園の中心となる「大泉水」と呼ばれる池です。蓬莱島を配し、琵琶湖を表現した景色を造り出しそうです。ちなみに、大泉水の橋に置かれたこの岩は、琵琶湖北部に浮かぶ竹生島(→→→こちら)と名付けられています。池岸の広場です。ここは紅葉林と呼ばれている場所です。そして、先ほどの木曽川がこちらにも流れていますが、ここでは紅葉の名所の龍田川(→→→こちら)という設定になっています。【つづく】人気ブログランキング小石川後楽園(その2) 中山道の旅ができます
2023年10月15日
コメント(20)
都民の日(10月1日)に小石川後楽園にやって来ました。後楽園と言えば、貞享4年(1687年)に着工、元禄13年(1700年)に一応の完成をみた岡山の後楽園は「後楽園」と単独の名称で呼ばれるのに対して、東京にある後楽園は、寛永6年(1629年)に築造を始め、寛永8年(1631年)に完成した先輩であるにも関わらず「小石川後楽園」と所在地の名称込みで呼ばれています。このように区別される原因は、岡山の後楽園が国の名勝に指定されたのが、大正11年(1922年)3月8日であり(→→→こちら)のに対して、小石川後楽園が名称に指定されたのは、1年後の大正12年(1923年)3月7日(→→→こちら)だったことによるものです。しかし、これではバランスが悪いという日本国政府特有の忖度が働いたのか、小石川後楽園は特別名勝・特別史跡に指定されたのは、昭和27年(1952年)3月29日ですが、岡山の後楽園が特別名勝に指定されたのは、昭和27年(1952年)11月22日となって、小石川後楽園の方が僅かに早く特別名勝にしてされるとともに、特別史跡にも指定されました。岡山の後楽園は、歴史的な価値がないと判断されたのか、特別史跡とは評価されていないようですね。ちなみに、岡山の後楽園と並ぶ、日本の三名園である金沢の兼六園は大正11年(1922年)3月8日に名勝に指定され、昭和60年(1985年)3月20日に特別名勝に指定されています(→→→こちら)。また小石川後楽園と同じ水戸徳川家の作った三名園のひとつである偕楽園は「常盤公園」という名称で、名称・史跡に指定されています(→→→こちら)。とクドクドと長い説明がありましたが、都民の日に小石川後楽園に来たのは、ずばり、だったからです。ということで、明日から園内を紹介していきます。【つづく】人気ブログランキング小石川後楽園(その1) 都民の日(10月1日)は無料公開
2023年10月14日
コメント(28)
出張で名古屋に行ったら、名古屋にいる同僚に誘われて食べに行ったのが「鰻木屋(→→→こちら)」。江戸時代末期から続く鰻屋さんだそうです。ここで思い切って、おひつまぶし(3,300円税込み)をいただきました。隣に座っていた3人連れのサラリーマン風のおじさんが話していたのをそれとなく耳にすると、「名古屋の鰻は、関西風の焼き方というそうで、腹開きにして、頭をつけたまま金串に刺し、蒸さずに焼くそうだ。そのため、一度白焼きしたものを、蒸してから再び焼く関東風ではなく、パリッとして香ばしい」ということでした。食べてみると、確かに表面はパリッとした感じで皮に焦げ目があったりしましたが、中身はふんわりとしていて、なるほどなと納得。気に入ったのは、最初にテーブルに着くと、お茶がでたこと。お茶なら最後は口の中に残った油を落とせるのでいいですよね。それから、店内にはなかなか有名そうな絵画が飾れていて、なんか店のグレードも高く感じました。また、変わった絵画だと思ったら、タレントの橋本環奈さんのサイン色紙と中日ドラゴンズの選手らしい人のサイン色紙が飾られていました。色紙には「7」という数字が書いてあったので、フライをヘディングしてエラーした宇野勝内野手(→→→こちら)かと思いきや、いやいや、今なら、甲子園の優勝投手ながら、プロ入り後は野手としてスタートし、いつの間にか投手に転向させられているが、アメリカにいる方と違い、どちらの成績もパッとしない、根尾昂(→→→こちら)選手でしょう。鰻を食べて、もっと頑張れ!根尾昂選手。お店の場所は、名古屋城お堀の近くで名古屋市市政資料館の前、名古屋駅からは遠くてちょっと不便なところですが、チャンスがあれば、また行ってみたい店でした。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 老舗で食す「ひつまぶし」
2023年10月13日
コメント(20)
国道1号の上を首都高速横羽線が通っています。首都高速三ツ沢線とのジャンクションになっている下にある橋です。親柱には船具のような照明があって、港町横浜らしいデザインですね。橋の名前は「金港橋」。金港とは「横浜港」のこと。明治時代、港町横浜は文明開化に伴う貿易で潤い、金のなる港という意味で「金港」と呼ばれたそうです(→→→こちら)この川は、帷子川(かたびらがわ)分水路(→→→こちら)です。橋の中央部にあった帆船や舵が描かれた銘板。また、欄干のデザインも波を模していて、いかにも港町を意識した意匠が施されていますね。この金港橋を渡ると横浜駅が見えてきました。横浜駅には、JR東日本、東急電鉄、横浜高速鉄道、京浜急行電鉄、相模鉄道、そして横浜市営地下鉄の6社が乗り入れているそうです。自由通路というのがあって、駅の西口と東口を結んでいるようです。こちらね横浜駅東口の駅ビルです。正直言って、横浜駅複雑すぎてよくわかりません。ここで待ち合わせするのは、田舎者のMoMo太郎には不可能かも。地下街にあった全裸の少女の銅像。こういうの飾っていたら「児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律」(→→→こちら)で処罰されることはないんでしょうか。ということで、今回はここまで歩いて、東海道線の駅間歩きですが、京浜急行で品川まで帰りました。ところで、京浜急行の快特に乗ったのですが、なんかすごく速く感じました。(東神奈川から横浜へ歩いたコース)【了】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東神奈川~横浜)(その10) 金港橋と横浜駅
2023年10月12日
コメント(18)
こちらの建物は京浜急行電鉄の神奈川駅です。このあたりでは、JR東海道線と京浜急行線が並行して走っています。神奈川駅の前ということでしょうか。駅前には「神奈川宿歴史の道」の地図がありました(→→→こちら)。こちらの地図を見ると、旧東海道はここから山の方に向かって伸びていて、今の横浜駅のあたりは迂回しているようでした。しかし、MoMo太郎は駅間歩きで横浜駅に向かって歩きます。こちらの旧東海道にある宮前商店街です。でもなんか商店が見当たらないです。宮前商店街前の広いこの道が第二京浜(国道1号)(→→→こちら)です。この交差点で第一京浜(国道15号)と合流します。こちらの国道1号を横浜駅に向かって歩いて行きます。なんか、いかにも横浜にある診療所という名称ですね。(東神奈川から横浜へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東神奈川~横浜)(その9) 神奈川駅と国道1号
2023年10月11日
コメント(24)
権現山を下って、旧東海道にでると真言宗智山派に属する普門寺という寺号碑がありました。近くにあった「神奈川宿歴史の道」の説明です。撮影した時は影になって見えなかったところも含めて書き起こしました。普門寺は、洲崎山と号し、真言宗智山派に属す。山号の洲崎は洲崎大神の別当寺であったことにより起こった。また、寺号の普門は洲崎大神の本地仏である観世音菩薩を安置したことより、観世音菩薩が多くの人々に救いの門を開いているとの意味である普門とされたと伝えられている。江戸後期には、本堂・客殿・不動堂などの建物を持ち、開港当時はイギリス士官の宿舎に充てられた。こちらが普門寺です。旧東海道から少しそれて住宅街の中に入いるとまたお寺の山門がありました。真宗高田派寺院の甚行寺です。「史跡フランス公使館跡」という石碑もありました。こちらにも「神奈川宿歴史の道」の説明板がありました。書き起こしてみました。甚行寺は、真色山と号し、浄土真宗高田派に属す。明暦2年(1656)第1世意円上人が本山専修寺の第14世を招いて、この寺を草創したと伝えられている。開港当時、本堂は土蔵造りであったが、改造を加えてフランス公使館に充てられたといわれている。大正12年の関東大震災には全ての建物を倒壊焼失し、さらに昭和20年の横浜大空襲にも再度全焼した。その後、昭和46年に本堂・客殿を鉄筋コンクリート造で再建し、現在に至っている。こちらが、甚行寺の本堂です。しかし、神奈川宿のあたり、幕末の開国当時の諸外国の領事館やら公使館というのが沢山あったんですね。(東神奈川から横浜へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東神奈川~横浜)(その8) 普門寺と甚行寺
2023年10月10日
コメント(30)
京急沿線沿いを歩いてゆくと、鉄道沿いの道に丘がありました。階段を登って丘の上に行ってみました。ここは桜の名所として知られる幸ケ谷(こうがや)公園というところですが、戦国時代には扇谷上杉氏の重臣・上田政盛の居城・権現山城のあった場所と伝えられる権現山城跡(→→→こちら)でもあります。幸ヶ谷公園の上からは東海道線と京浜急行線の線路がよく見えます。かつては線路の向こうの西側にある丘と尾根伝いにつながっていたそうですが、幕末に神奈川台場建設のための土取り場となり山頂が削られ、さらには明治時代の東海道線の敷設で分断されたそうです。そのため、権現山城跡は「破壊」された埋蔵文化財ということになっているのだとか。山頂には幸ヶ谷公園コミニュティハウスという地域の活動のための施設がありました。また、立派な石碑がありましたが、これは城跡を記念するものではなく、幸ヶ谷地区で行われた土地区画整理事業の記念碑でした。地区面積48.6haの土地を昭和22年6月5日から昭和53年2月4日にかけて区画整理した、長期間にわたる事業だったようです(→→→こちら)。(東神奈川から横浜へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東神奈川~横浜)(その7) 権現山城跡(幸ヶ谷公園)
2023年10月09日
コメント(18)
滝の川のほとりにあるお寺です。浄瀧寺(→→→こちら)「史跡イギリス領事館跡」と刻まれた石柱が建てられていました。神奈川宿歴史の道(→→→こちら)の説明板によると、浄瀧寺には、開港時にはイギリス領事館に充てられたそうです。こちらが浄瀧寺の本堂です。浄瀧寺を後にして、京浜急行鉄道の線路沿いに出ました。駅間歩きらしく、線路沿いを歩いて行くことにします。しかし、この先、少し坂道になっているので、ちょっと不安を覚えました。(東神奈川から横浜へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東神奈川~横浜)(その6) イギリス領事館跡
2023年10月08日
コメント(20)
休日は家事も休日にしたいという要望があり、朝は松屋の朝定食で済ませました。頂いたのは、ソーセージエッグ牛皿セット450円(税込み)です。店内には、これからデートにでも出かけるという気合のはいったような服装の女性客や朝にもかかわらず缶ビール2本を空けているおじさんとか、色んなお客さんがいました。家事休日のため、昼はチャチャとチキンラーメンでもMoMo太郎が作りますか。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 休日の朝食
2023年10月07日
コメント(14)
この橋を渡ります。橋の名称は「土橋」です。土で橋ができているわけではなく、「土橋」というのは、木の橋で橋面に土をかけてならした橋のことだそうです。丸太を隙間なく並べて橋面を作った場合、橋面が凹凸になって歩きにくいので、土を入れて平らにして歩きやすくしたことから土橋と呼ぶようになったようです。なお、「どはし」と読むようです。土橋の架かっているこの川は「滝の川」(→→→こちら)という川です。こちらが上流側です。こちらは下流側です。今では住宅街の中を流れる小さな河川ですが、かっては神奈川宿の中心を流れる川で両岸は賑わっていたのでしょう。橋を渡ったところに土橋寿司というお寿司屋さんがありました。小さなお店ですが食べログ(→→→こちら)の評価はいいみたいですね。(東神奈川から横浜へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東神奈川~横浜)(その5) 滝の川と土橋
2023年10月06日
コメント(28)
次に訪れたのはこのお寺は「慶雲寺」(→→→こちら)です。しかし、この大きな寺号碑には、「龍宮傳来浦島観世音 浦島寺」と刻まれています。というのは、現在の神奈川区浦島が丘にあって、浦島太郎伝説(→→→こちら)が伝えられて浦島寺とも呼ばれていた観福寿寺が慶応3年に焼失してしまい、慶運寺に合併されたそうです。そして、焼失を免れた龍宮伝来の浦島観世音像と浦島寺の碑四基は、明治6年に観福寿寺から慶運寺に移されたことから、このような碑があるのでしょう。亀の背に載せられているのも、また浦島太郎らしくていいですね。こちらは木の葉の陰で読み取りにくいですが、「史跡フランス領事館跡」と刻まれてました。神奈川宿歴史の道の説明板がここにもありました。慶運寺は、室町時代に芝増上寺第三世音誉聖観によって開かれた。京の連歌師谷宗牧は、「東国紀行」の天文14年(1544)3月3日の条に「ほどなくかな川につきたり、此所へもこづくへの城主へいひつけられ、旅宿慶運寺にかまへたり」と書いている。開港当初はフランス領事館に使われた。また、浦島寺とも呼ばれている。浦島太郎が竜宮城より持ち帰ったという観音像など浦島伝説にちなむ遺品が伝わっている。と記されていました。こちらが本堂です。本堂の扁額には「光照殿」と記されていました。(東神奈川から横浜へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東神奈川~横浜)(その4) 慶運寺
2023年10月05日
コメント(24)
成仏寺の向かい側にあった木々囲まれた公園です。滝の川公園という名前でした。この公園の片隅に「明治天皇行在所之蹟」という石碑がありました。「行在所(あんざいしょ)」とは、天皇が宿泊した場所を意味します。確かに明治天皇は明治元年(1868)9月20日、京都を発ち、およそ20日間の時間をかけて東海道を東に進み東京に向かっています。また、同年12月に明治天皇は京都に戻り、さらに翌年3月には東京に向かい、以降、天皇は東京に住むことになっています。ということで、明治天皇は3度、この神奈川宿に宿泊していると思われます。しかしながら、この石碑についての説明板はなにも設置されておらず、また、全国に377カ所あった国指定史跡に指定されていた明治天皇聖蹟(主に行在所、御小休所など)にもこの場所は指定されていませんでした(→→→こちら)。ちなみに明治天皇聖蹟は昭和23年(1948)6月29日にすべて指定を解除されています。(東神奈川から横浜へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東神奈川~横浜)(その3) 明治天皇行在所之蹟
2023年10月04日
コメント(20)
さらに旧東海道を進むと、大きなお寺がありました。寺号碑では、浄土宗成佛寺(じょうぶつじ)とありました。さらにこちらの石柱には「史跡外国宣教師宿舎跡」(→→→こちら)とありました。隣にある説明板によると、開港当時、成仏寺はアメリカ人宣教師の宿舎に充てられたそうです。ヘボン式ローマ字の創始者のヘボン博士(→→→こちら)や聖書・讃美歌の和訳に尽力した宣教師のブラウン氏(→→→こちら)が滞在していたそうです。こちらが成仏寺の本堂です。ここでは、外国人向けの日本語学校も開かれていたそうです。(東神奈川から横浜へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東神奈川~横浜)(その2) 史跡外国宣教師宿舎跡
2023年10月03日
コメント(25)
東神奈川駅の駅ビルでしばらく涼んだ後、今度は横浜駅に向かって歩き始めました。こちらは、京急東神奈川駅です。高架になった線路の下を抜けて、こちらの旧東海道を歩いて行きました。駅間歩きというより旧東海道沿いを歩くみたいになったな思いながら、歩きます。道沿いにあったこれは、よく見ると板に色々な文書が記されています。横にあった説明板によると、復原された高札場でした。高札場とは高札場は、幕府の法度や掟などを庶民に徹底させるために設けられた施設です。宿場の施設としては重要なものでしたが、明治に入り情報伝達の手段が整うにつれて、やがて姿を消してしまいました。かつての神奈川宿の高札場は、神奈川警察署西側付近にありました。上の写真は、資料をもとに神奈川地区センターの前に復原したものです。その規模はおおよそ、間口五メートル、高さ三・五メートル、奥行一・五メートルと大きなものでした。この高札場は、資料をもとに復原したものです。ここで「復原」と「復元」の違いがちょっと気になりました。これはきっと神奈川県の公立高校試験に出るかもしれないと思い調べてみました。現代美術用語辞典Ver2.0(→→→こちら)によれば、「復元」と「復原」という二つの言葉は、一般的な辞書では区別されることなく同一の見出しとして扱われ「元の状態・位置に戻すこと」と書かれてあり、意味的には同じことになっている。しかし、建築分野の領域においては、復元とは失われて消えてしまったものを、かつての姿どおりに新たに作ることをいい、復原とは始めの姿が改造されたり、変化してしまった現状を元の姿に戻すことをいう。ということのようです。(東神奈川から横浜へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東神奈川~横浜)(その1) 高札場
2023年10月02日
コメント(22)
夜勤明けは、やっぱり吉野家の朝定食でガッツリといきます。年をとっても胃袋は健康なんですね。頂いたのは、このハムエッグ納豆定食(437円税込み)です。ご飯はお替り無料なのは更にうれしいです。しかし、消費税の関係で1円単位で支払わないといけない時って、お釣りで一円玉とかあると小銭入れが膨らむので、最近はSuica等のICカードで支払っています。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 朝からガッツリ、吉野家で
2023年10月01日
コメント(30)
第一京浜(国道15号)から北へ入って神奈川小学校の横にある小さな公開空地です。雑草も伸びてなんとなく荒れている感じがしますね。ここにあったのは、「東海道分間延絵図」(→→→こちら)の神奈川宿部分です。「東海道分間延絵図」は、江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図のことです。また、東海道の他にも中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道のいわゆる五街道についてそれぞれの絵地図があるそうです。こちらは神奈川宿についての説明が示されていました。神奈川宿は日本橋を出て三番目の宿場町になります。また神奈川の地名の由来(→→→こちら)となった上無川(かみなしがわ)について解説した説明板がありました。かつて現在の神奈川小学校付近に流れていた「上無川(かみなしがわ)」は、水量が少なくて水源地が分からないということから「上がない川」としてと名付けられたもので、それが省略されて「かな川」になったとされています。さて、その上無川ですが、関東大震災後の復興計画によって昭和4年(1929)に埋め立てられてしまったそうです。そして、京急東神奈川駅に到着しました。その京急東神奈川駅とJR東神奈川駅はペデストリアンデッキ(歩道橋、愛称「かなっくウォーク」)と結ばれています。こちらがJR東神奈川駅(→→→こちら)です。東神奈川駅は横浜と八王子を結ぶことを目的として建設された私鉄の横浜鉄道(後の横浜線)が、東海道本線との接続駅として建設したもので、今でも横浜戦と京浜東北線の両方が乗り入れている駅となっています。(新子安から東神奈川へ歩いたコース)【了】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(新子安~東神奈川)(その6) 東海道分間延絵図と東神奈川駅
2023年09月30日
コメント(26)
神奈川新町駅からいったん第一京浜(国道15号)に戻ります。第一京浜沿いに大きな寺院がありました。浄土真宗大谷派良泉寺(→→→こちら)という寺号碑が建てらていました。こちらお寺にも「神奈川宿歴史の道」(→→→こちら)の説明板が設置されています。説明板によると、。開港当時、諸外国の領事館に充てられることを快よしとしないこの寺の住職は、本堂の屋根をはがし、修理中であるとの理由を口実にして、幕府の命令を断ったといわれる。と記されていました。こちらが良泉寺の本堂です。第一京浜です。この区間は中央分離帯が設けられて、道幅も広くなっています。写真にある高架橋は首都高横羽線東神奈川出入口で、羽田・銀座方面への入口になります。何故か同じ形式のバイクばかりが並べられた駐車場がありました。(新子安から東神奈川へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(新子安~東神奈川)(その5) 真宗大谷派良泉寺
2023年09月29日
コメント(22)
第一京浜(国道15号)に戻ってきました。道路標識には横須賀の文字が出てきました。第一京浜から少し入ったところにある小さな公園がありました。神奈川通東公園という木立に囲まれた広場にわずかな遊具とベンチなどが置かれているだけの、これといって特徴の無い公園ですが、公園の入口に「神奈川宿歴史の道」(→→→こちら)という説明板がありました。この説明板によると、神奈川宿(→→→こちら)は、東海道五十三次の3番目の宿場町で、幕末には開港場に指定された港でしたが、街道を通行する日本人と、入港する外国人との間の紛争を避けるために、実際には対岸の横浜村(現在の中区関内地区)が開港場となりました。その結果、次第に商業の中心は外国人居留地のあった横浜村に移っり、いつの間にか神奈川よりも横浜が栄えていったみたいです。ここはかつて長延寺という浄土真宗のあったそうですが、長延寺は「沖の黒船歴史を変えて、オランダ領事は長延寺」という狂歌に歌われているように、横濱開港期にオランダ領事館が置かれた寺として知られいました。その後、長延寺は昭和40年(1965)の国道拡幅に伴う区画整理のために、現在は横浜市緑区三保町に移転したさうです。また、長延寺前は神奈川宿の江戸側の入口に当たり、土居を互い違いに突き出した桝形があったということも記されていました。公園の片隅に「オランダ領事館跡」の石碑が建てられていました。この公園の近くには京浜急行電鉄の神奈川新町駅です。この駅は京急にとって重要な駅らしく特急、エアポート急行(羽田空港行き)、そして普通が停車する駅(→→→こちら)です。(新子安から東神奈川へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(新子安~東神奈川)(その4) オランダ領事館跡と神奈川新町駅
2023年09月28日
コメント(18)
子安駅を過ぎて、常盤橋入口という交差点に来ました。ここで左折して海の方を歩いてみることにしました。この橋が常盤橋です。向こうに見える高架橋は首都高速横羽線になります。「常盤橋」、常盤(ときわ)とは永久不変な岩の事を指し、転じて永久不変なことを指すそうです。常盤橋から見える子安漁港のこの景色、横浜の中心地に近い場所にあり臨港地帯の風景と重なり合いながら、まるで時が止まったままのように見える様子は変わらない常盤ということでしょうか。このあたりは、古くから漁業が行われ、江戸時代には幕府に海産物を献上する御菜八ヶ浦(→→→こちら)の一つとして栄えた「子安浜」です。ちなみに御菜八ヶ浦とは、芝金杉浦(現在の芝)・本芝浦(現在の芝浦)・品川浦(現在の品川)・大井御林浦(現在の大井・東大井)・羽田浦(現在羽田)・生麦浦(現在の生麦)・子安新宿浦(現在の子安)・神奈川浦(現在の神奈川)になるそうです(→→→こちら)。明治期に入っても名産品の”子安浜のシャコ”をはじめ江戸前魚介類の供給地として知られていたようですが、急速に近代化してゆく横浜港の埋立などにより漁場が失われ漁業は徐々に衰退。昭和40年代には漁業権を放棄するに至った。現在は自由漁業が行われアナゴなどが水揚げされているのだとか。かっての海岸線にそって延びる浜通りという道を歩いてみました。道を挟んで古くからあるような住宅が立ち並んでいました。海側に立ち並ぶ小屋。漁の為の小屋だったものが駐車場に転用されているようでした。このあたりが漁港の終わりのようでした。そして、第一京浜の方に戻ってみると、公園があり夏祭りの準備がされていました。展示されている山車には浦島太郎が飾られていました。浦島町という町名からして、このあたりにも浦島太郎の伝説が伝わっているようです。調べてみると神奈川の浦島伝説(→→→こちら)というのがありました。しかし、浦島太郎の伝説、丹後国風土記逸文が起源とされ京都府北部が舞台となっていますが、このように神奈川県、そして長崎県壱岐、長野県木曽、香川県三豊市詫間町など全国各地に浦島太郎伝説があります。ということは、竜宮城に行って浦島太郎のような楽しい経験をした人が全国各地にいたんでしょうね。MoMo太郎も竜宮城へ行って乙姫様と楽しい時間を過ごしてみたいです。(新子安から東神奈川へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(新子安~東神奈川)(その3) 子安漁港
2023年09月27日
コメント(26)
第一京浜をさらに横浜方面に向かって歩いて行くと、京浜子安駅の表示がありました。とりあえず京急線の駅間歩きではないですが、ちょっと立ち寄ってみます。こちらが京浜子安駅。今は京急川崎駅というように京急〇〇駅のが多いですが、この駅だけは京浜子安駅?島式ホーム2面4線を有する地上駅でした。駅舎とホームは地下通路と跨線橋によって連絡しているみたいですが、改札口は京浜急行の線路を踏切を渡って向こう側に行かないとないみたいです。ということで、踏切を渡りました。よく見ると、駅名は「子安駅」。京浜も京急も付かないんですね。国道の標識間違えているのに誰も気がつかないのか、それとも駅名を変更したのに国道の標識を変える予算がないのかな。隣接するJR東海道線は、この地下道で越えていくのですね。東海道線の上にある高架橋は横浜線になります。ちなみにJRの方には子安駅はありません。(新子安から東神奈川へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(新子安~東神奈川)(その2) 京浜子安駅?いえ子安駅です
2023年09月26日
コメント(29)
新子安駅から東神奈川駅に向かって歩き始めました。ちなみにここを歩いているのは真夏の8月11日です。駅舎の上を通る神奈川県産業道路の新子安橋の上に出ました。橋の上からは、京浜東北線と京浜急行の列車が見えました。駅の北側にある「オルトヨコハマ」(→→→こちら)というビルです。ショッピングセンターやオフィス、そして住宅のある複合施設になっていて、しばらくエアコンの効いた、このビルの中で休ませていただきました。そして、この第一京浜(国道15号)を横浜方面に向かって歩き出しました。第一京浜(国道15号)を横切る入江川の河口には漁船が泊められていました。京浜工業地帯の中心地みたいな新子安の地域ですが、漁業に従事されている方もおられるんですね。(新子安から東神奈川へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(新子安~東神奈川)(その1) 入江川まで
2023年09月25日
コメント(20)
たまには、こういうパスタのランチもいいじゃないかと思って、出かけたついでに鎌倉パスタのお店を見かけたので、入ってみました。ランチメニューで「ペペロンチーノ」のセット(1,100円税込み)を頼んでみました。最初はサラダとソフトドリンクのジンジャーエールが出てきました。こちらがペペロンチーノ。食べた後、失敗したのは結構、これってガーリックの香りがきつかったんですね。ちょっビジネスマンのランチにはお勧めできないかも。人気ブログランキング孤独のグルメ ペペロンチーノ
2023年09月24日
コメント(30)
第一京浜(国道15号)を沿いを歩き続けて、新子安橋と書かれた跨道橋がありました。新子安橋は神奈川産業道路の橋でこの第一京浜とJRと京急の線路を跨いでいます。新子安橋で右折すると、京急の踏ま切がありました。踏切の横には「京急新子安駅」がありました。元々は1910年(明治43年)に新子安駅として開業し、JRの方の新子安駅は1943年(昭和18年)に開業ですから、京急の方が先輩なのに、区別するために「京急」とつけられているのは、かっての国鉄、お上への配慮なんでしょうかね。京急新子安駅を出発する京浜急行の普通列車です。こちらがJR新子安駅です。京急とJRの線路に挟まれた場所にあります。駅舎の上には新子安橋につながる神奈川県産業道路の橋が架かっています。JRの新子安駅、この駅も各駅停車の京浜東北線の列車のみの停車となっています。こちらが改札口です。(鶴見から新子安へ歩いたコース)【了】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(鶴見~新子安)(その9) 新子安駅
2023年09月23日
コメント(24)
ここからは第一京浜(国道15号)を歩いて行きます。このトタン板に張っていたものが、「東子安一里塚」という看板です。旧東海道の一里塚は江戸日本橋から京都三条大橋まで125里で、慶長9年街道の付属施設として1里ごとに設けられたもので、この東子安一里塚は日本橋から6番目の一里塚になるそうです。しかし、もう少しなんとか整ったものにして欲しいですよね。8月11日時点の、横浜新子安付近のガソリン価格です。ガソリン価格が下がるまでできるだけBМWを利用しようと思いました。ちなみに、MoMo太郎の使っている「BMW」の「B」は「bus: バス」、「М」は「metro: 地下鉄」そして「W」は「walk: 歩き」です。振り返って空を撮影しました。夏空ですね。仙台牛たんの自動販売機。最近はこういう名産品のようなものも自動販売機で売られているんですね。(鶴見から新子安へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(鶴見~新子安)(その8) 東子安一里塚跡
2023年09月22日
コメント(32)
生麦事件碑の近くにキリンビール横浜工場(→→→こちら)の入口がありました。その先には貨物線の横沢線(鶴見~東戸塚)のガードが見えています。。こちらが工場の玄関、工場見学の際はこの入口から入場するのでしょうね。キリンといえば、このマーク。麒麟は空想の古代中国の聖獣(霊獣)で、縁起が良いとされているそうです。子供の頃、このキリン、首が長くないなと不思議に思っていました。キリンのマークをよけて撮影すると、会社名が見えました。こちらにある煉瓦作りの建物は、キリン横浜ビアホール。予約しているとここでキリンビールが楽しめるみたいです。工場内にはこんな緑の庭園が広がっていました。この中を散策して、見学後に飲んだビールの酔いを醒ますのにいいですね。(鶴見から新子安へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(鶴見~新子安)(その7) キリンビール横浜工場
2023年09月21日
コメント(25)
この近くには、キリンビールの横浜工場があります。その工場への出入り口ですね。歩いていたのは8月11日という真夏の暑い日、日陰になる高速道路の高架下を歩くことにしました。ここで生麦事件碑(→→→こちら)がありました。こちらは重傷を追ったチャールズ・リチャードソンが薩摩藩士に止めを刺された場所になるようです。生麦事件に関する解説がありました。説明文の引用文久二年八月二十一日(西暦一八六二年九月十四日)、勅使大原重徳を奉じて幕政改革の目的を達し、江戸を出発した薩摩藩島津久光の一行は、東海道沿いの生麦村で騎乗のイギリス人四名と遭遇、行列の通行を妨害したとして護衛の薩摩藩士がイギリス人一名を殺害、二人に深手を負わせました(生麦事件)。この事件は、翌年に薩英戦争を引き起こしました。明治十六年(一八八三)、鶴見の黒川荘三は、イギリス商人リチャードソンが落命した場所に、教育学者中村敬宇に撰文を依頼し遭難碑を建てました。その隣の漢文は、石碑に刻まれた文でしょう。こちらが、生麦事件碑です。刻まれている文字は、蹟舊文久二年壬戌八月二十一日英国人力查遜殞命于此處乃鶴見人黒川莊三所有之地也莊三乞余誌其事因為之歌歌曰君流血兮此海壖我邦変進亦其源強藩起兮王室振耳目新兮唱民權擾々生死疇知聞萬国有史君名傅我今作歌勒貞珉君其含笑于九原明治十六年十二月 敬宇中村正直撰です。おそらく、こんな意味でしょうか。イギリス人の「力査遜」が此処で亡くなった、亡くなった場所は鶴見の黒川荘三の土地で、荘三がこのことを後世に残すため、歌を作った、血を流したことで、また我邦(我が国)が変わった、強藩が立ち上がり、天皇の国になった、見聞も広がり、民権を唱えるようになった。我れ今歌を作って貞珉(石碑)に刻んだ、これを墓の下で含み笑いで聞き給え。しかし、完全には理解できませんでした。(参考)「蹟舊」(きゅうせき)とは、歴史上の事件や事物のあった場所の意味です。「貞珉」(ていびん)とは、石碑の意味です。「九原」(きゅうげん)とは、墓場、墓地の意味です。(鶴見から新子安へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(鶴見~新子安)(その6) 生麦事件碑
2023年09月20日
コメント(22)
こちらの建物がある場所。大名行列に立ち入った英国人4人を薩摩藩士が殺傷し、のちの日本開国に大きな影響を与えた生麦事件(→→→こちら)の発生場所だそうです。「事件は会議室で起きてるんじゃない! 現場で起きてるんだ! 」と織田裕二のように叫んでみたいですね。しかし、歴史の教科書には必ず載っている重要な出来事のあった場所なのに、区役所の建てた案内板だけとはなんか寂しいですね。旧東海道沿いにさらに進んでいくと、広い道路との交差点に出ました。向こうに見えるのは首都高速横羽線の生麦JCT(ジャンクション)になります。この交差点を左折して海の方へ向かえば、大黒埠頭に行けます。旧東海道は、生麦JCTから分かれた首都高速横浜北線と並行しています。この道をさらに新子安に向けて歩いてゆきます。(鶴見から新子安へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(鶴見~新子安)(その5) 生麦事件の事件現場
2023年09月19日
コメント(24)
旧東海道沿いに、稲荷神社がありました。道念稲荷(→→→こちら)です。「蛇も蚊も発祥の地」という石碑がありました。「蛇も蚊も」(→→→こちら)というのは、、神奈川県横浜市鶴見区の生麦地区に伝わる祭りである。茅で作った大蛇を担いで町内を練り歩く祭りで、疫病をもたらす悪霊を払う「蛇」と、疫病の媒介となる「蚊」を退散させる意味が込められていると考えられるそうです。また、祭りの起源については口述による伝承のみで、詳しい文献は残っていないそうですが、妻が亡くなった男が、後添いをもらわないと妻の臨終の時に誓ったにもかかわらず、後添いの妻をもらったことから、死んだ妻の祟りで大蛇が表れたことが発端だという話も伝わっています(→→→こちら)。稲荷神社らしい奉納された鳥居の立ち並ぶ参道を抜けてお参りさせてもらいました。こちらが神社の本殿になります。道念稲荷神社は、甲州の身延山の奥の、大蛇にまつわる伝説のある七面山で修行をした道念和尚が、生麦の地に立ち寄った際に建立したといわれています。ところで「生麦」という地名の由来は、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の行列がこの地を通る際、道に水が溜まっており、通行ができなかった。そこで、村の人たちが、街道の脇の生麦を刈り取り道に敷き、その上を行列に通らせた。秀忠は感謝として、この一帯に生麦という地名を与え、村人に漁業を営むに関して特別な権利を与えた。だそうです。神社に奉納されている石柱の奉納者が「生麦漁業組合」となっているのをみて、幕府に認められたその特別な漁業権が今でも残っているんだなと妙に納得しました。(鶴見から新子安へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(鶴見~新子安)(その4) 蛇も蚊も(じゃもかも)
2023年09月18日
コメント(30)
この道が旧東海道です。かつてはこの道を旅人が往来していたんでしょうね。街道沿いにあった地蔵堂です。子育地蔵尊ということで、子供たちが健やかに健康に育つように、と願いを込められて里人たちによって建立されたお地蔵さまなのでしょう。この地蔵堂の横にお寺がありました。浄土宗の慶岸寺(→→→こちら)というお寺でした。天正9年(1582)の草創で、開山は昭譽究竟慶岸大和尙と伝えられているそうです。こちらが本堂です。扁額には「入蔵山」という山号が書かれていました。さらに南に向かって歩いて行くと、鮮魚店がありました。このあたり鶴見川の河口近くで、江戸時代は海沿いの道だったんでしょうね。この鮮魚店の向かいの住宅の壁に、古い写真が掲示されていました。生麦事件(→→→こちら)現場と書かれた写真も展示されていました。結構貴重な写真なのに、結構雑に展示されているのにはビックリです。なるほど、このあたりの地名、生麦なんですね。(鶴見から新子安へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(鶴見~新子安)(その3) 子育地蔵と慶岸寺、そして生麦事件
2023年09月17日
コメント(26)
京浜急行の高架下を抜けて少し寂れたような商店街に出ました。ここを抜けて、第一京浜(国道15号)に出ました。鶴見を過ぎると第一京浜の中央分離帯はなくなってました。そして、南に向かっていくとJR鶴見線の跨道橋が見えてきます。鶴見線の国道駅(→→→こちら)にやって来ました。鶴見線は戦時中に国有化される以前は、鶴見臨港鉄道という私鉄路線でした。そのためこの国道駅も他のJRの駅とは違った雰囲気を持ち、開業した昭和5年(1930年)そのままの姿を残していおり、また、乗降者数が少ないためか、建て替えや大規模な改修も行われず、一方で廃駅にもならず、絶妙に生き永らえてきた駅です。今では、この駅を目的に訪れる人々が絶えることがなく、鉄道ファンや旅人には名が知れた駅です。また、よく映画やドラマでも撮影ロケ地として使用されているます。こちらの駅入り口の右側の壁の中段あたりにある凸凹。これは、1945年(昭和20年)5月29日の昼間にアメリカ軍によって横浜市中心地域に対して行われた横浜大空襲の時の機銃掃射によってできた弾痕だそうです。コンクリートにこれだけの穴を残すのですから、相当な威力があるんでしょうね。ガード下の中に入ってみました。駅なのか廃墟なのか、そんな感じです。改札口です。無人駅らしく乗車を証明する発券機と簡易的なICカード専用改札機がありました。さらに奥に向かって行きます。昔はなにかお店でもあったような雰囲気ですが、もうベニヤ板で封鎖されているところもあり、廃墟といっても過言ではない場所でした。反対側の出口からは、旧東海道に出ます。今度は、この道をさらに新子安方面に向かって歩いていきます。(鶴見から新子安へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(鶴見~新子安)(その2) 国道駅
2023年09月16日
コメント(20)
東海道線沿いの駅間歩き、鶴見駅から次の新子安駅に向います。JR鶴見駅の真正面にあるのは、京浜急行電鉄の京急鶴見駅です。鶴見駅前の広場、広いバス乗り場があって、バスを利用するのにも便利そうです。JR鶴見駅東口と京浜急行の京急鶴見駅西口に挟まれた場所に、超高層マンションと商業施設・公益施設からなる大型複合施設「シークレイン」(→→→こちら)があります。この施設の駐車場入口の目だたない場所に小さな石碑がありました。「市賣木材発祥之地」と刻まれた小型の石碑です。「市賣木材株式会社」は、住宅建築用資材の販売事業・住宅分譲・不動産仲介業などを行っている“すてきナイスグループ”の創業当時の社名だそうです(→→→こちら)。そして、このシークレーンにある31階建の分譲タワーマンション(ロイヤルタワー横濱鶴見)の売主はこのナイス株式会社でした。ちなみに「市賣(売)」という言葉は、木材の販売業者の多くが使用している単語で、木材の流通形態の一つ、市場で「せり」によって販売する方式を意味するそうです。相対取引の「付売」に対する用語です。(鶴見から新子安へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(鶴見~新子安)(その1) 市賣木材発祥之地
2023年09月15日
コメント(23)
秋葉原駅の東西自由通路にある「一のや」というお店です。ここで頂きました。肉吸い(670円税込み)と玄米の塩むすび(110円税込み)です。肉吸いというのは、肉の吸い物の意味で、簡単に言えば肉うどんからうどんを抜いたものです。元々は大阪発祥の食べ物らしいんです。うどんがないので、おむすびを付けたのですが、半熟のポーチドエッグが肉吸いの中に入っていたので、普通の白いご飯にすればよかったかも。出汁は昆布を使った関西風でしたが、大阪で食べるうどんの出汁はもうちょっと甘めが一般的かなと思いますが、東京向けにちょっと辛めにアレンジしているみたいでした。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 関西風出汁の肉吸い
2023年09月14日
コメント(24)
秋田市内に戻って、千秋公園(せんしゅうこうえん)(→→→こちら)を散策してみました。千秋公園というのは、久保田城跡にある都市公園のことで、こちらは城跡の堀を中心とした眺望が楽しめる千秋公園ポケットパークです。丁度、堀に咲いているハスの花が綺麗でした。こちらの大手門通りに面した黒門跡から千秋公園の中へ入って行きました。ここは二の丸跡です。外部からの出入りは全て二の丸に集まるようになっているようで、勘定所・境目方役所・祈祷所安楽院・時鐘・金蔵・厩などが置かれていた、事務方の場所だったようです。この立派な門は、久保田城本丸の正門になる久保田城表門で「一の門」と呼ばれていたそうです。ちなみにこの門は絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに、平成11年から2カ年計画で再建したものです。一の門を入ると久保田浄本丸跡になります。ここに藩主の居館である本丸御殿と政務所が置れていたそうです。こちらの神社は八幡秋田神社。八幡神社は、佐竹氏が常陸国太田城にいた頃、佐竹昌義が石清水八幡宮を勧請した馬場八幡宮が始まりのようです(源頼義の創建との伝承もあり)。これを慶長7年佐竹氏秋田転封の際に当地に勧請したものだそうです。ちなみに今の社殿は、平成17年に放火により焼失した社殿を平成20年に再建したものだそうです。こちらの銅像は、第12代秋田藩主佐竹義堯(文政8年(1825)~明治17年(1884))。戊辰戦争では、新政府方に属して戦ったそうです。一番の功績は、喘息の持病があったため、それ治療するため藩医が龍角散(→→→こちら)を開発したことでしょうか。つまり、最後の秋田藩主だった人ですが、秋田県の皆さんには敬慕されていたようですね。市政100周年を記念して復原された御隅櫓です。中に入るのに入場料100円が必要です。千秋公園から下って、広小路に出るところにあった「旧割烹松下」を再活用した「あきた文化産業施設松下内「松下茶寮」という施設です。「あきた舞妓」(→→→こちら)というショーみたいなものをやっているようです。かつて繁栄した川反芸者の「秋田心」を受け継ぎ、あきた舞妓は各種イベントへの参加、お座敷や宴席・宴会へ出向し、皆様におもてなしをしてくれるそうです。こちらの立派な建物は、「あきた芸術劇場ミルハス」(→→→こちら)です。そして、近くの秋田市文化創造館敷地内にはこんな銅像がありました。この人は、戦前から戦後にかけて活躍した秋田市出身の歌手の東海林太郎(→→→こちら)さん。直立不動で歌うのがこの人のスタイルだったようです。このような碑文も建立されていました。ということで東海林太郎さんの歌声を聞いて下さい。【了】人気ブログランキング秋田へ行ってきました(その5) 千秋公園そして最後は東海林太郎
2023年09月13日
コメント(24)
道の駅あきた港にやって来ました。港にある道の駅なんですね。この高さ100メートルの秋田市ポートタワーセリオンが目印ですね。風力発電施設がここにもありました。秋田市ポートタワーセリオンには無料展望室があります。無料が好きなMoMo太郎には有り難い施設。展望室から風力発電施設だけではなく男鹿半島の方までの風景が、反対側からは鳥海山まで見えるみたいですが、霞んでいていてよくわかりませんでした。道の駅、人はあまりいなかったですが、車は沢山駐車していました。道の駅だけど、中古車販売所も兼ねているみたいですね。こちらが隣接するセリオンリスタという、温室(?)というか、全面ガラス張りの全天候型屋内緑地です。雪国秋田でも1年を通じて緑が楽しめるところがいいらしいです。この中には、うどんとそばの自動販売がありました。寒い時にはこういう温かいものがいいですね。もう一台あって、歴代一位とうたっていて、なんか人気がありそうですね。秋田県金足農高出身の日本ハムファイターズ吉田輝星投手もお勧めなんですね。当番回避して甲子園に出場しなかった岩手県大船渡高校出身のロッテの佐々木朗希投手に比べると、甲子園での活躍の割にはプロ入りしてもなんか今一つの吉田輝星選手。でもMoMo太郎は応援しています。こちらの自動販売機。紙おむつを売っています。外出先で紙おむつが買えるとちょっと便利かも。高齢化社会に向けて大人用紙おむつではなく赤ちゃん用というのが、未来志向での秋田県ですね。【つづく】人気ブログランキング秋田へ行ってきました(その4) 秋田市ポートタワーセリオン
2023年09月12日
コメント(30)
秋田港の周辺では風力発電を熱心に進めているそうです(→→→こちら)。こちらは、陸上にある風力発電の風車群です。そして、こちらが今話題の洋上風力発電です。「秋本議員、国会質問で公募やり直し要求 会社に便宜か 風力発電汚職」(→→→こちら)。衆議院議員の秋本真利容疑者(48)が「日本風力開発」(東京)の事業参入に有利な国会質問をした見返りに計約6146万円の賄賂を受領したという容疑です。しかし、国会議員って色んなことでお金儲けできたり、海外旅行に行けるんですね。自分の息子や娘には、ジャニーズ事務所や宝塚劇団に入ってアイドルを目指すよりも、夢は大きく国会議員を目指して欲しいものです。気になったのは、風車の後ろにある発電機です。こちらの陸上の風力発電には、なにも付いてませんが、こちらの洋上風力発電には、何か黒い箱がついていました。洋上風力発電、何か黒いものが付き物なんでしょうかね。【つづく】人気ブログランキング秋田へ行ってきました(その3) 風力発電
2023年09月11日
コメント(24)
秋田まで来たので、八郎潟干拓地へ行ってきました。結構、立派な説明板が設置されています。八郎潟干拓地って農地として干拓されたところなんですね。干拓地の地面は湖面より低い土地なので、サイフォン(→→→こちら)の効果で湖からの水を取水しているそうです。この写真が取水のための施設です。サイフォンでは、液体を高い位置にある出発地点と低い位置にある目的地点を管でつないで流す際、管内が液体で満たされていれば、管の途中に出発地点より高い地点があってもポンプでくみ上げることなく流れ続けます。ちなみに、大気圧より高くなると流れなくなります。こちらが用水路になります。こちらは大潟村干拓資料館(→→→こちら)にあった展示物です。八郎潟干拓で生まれた大潟村へは昭和43年からのべ5回にわたり、全国から入植者を募集し、そして選りすぐられた人たちが、干拓地という土地での大規模機械化農業という未知の農業へ挑戦したそうです。しかし、元々は湖の底だった土地だったため、地盤が軟弱であったことから、農業用機械も軟弱な地盤にめり込んでスムーズ動かず、農家の人と土軟弱な土壌と悪戦苦闘している様子が再現されています。こちらの銅像は、秋田県知事など干拓事業に貢献された人だそうです。【つづく】人気ブログランキング秋田へ行ってきました(その2) 八郎潟干拓
2023年09月10日
コメント(34)
上野駅の新幹線改札内コンコース地下3階 待合室前にあったラーメンの自動販売機です。売れているんでしょうかね?新幹線の地下ホームから秋田新幹線の「こまち」に乗車して、3時間半くらいで秋田駅に到着です。乗車してきたこまち号を記念に撮影しました。改札口を出ると、なまはげがお出迎えです。デッカイ枕かと思いきや「サキホコレ」(→→→こちら)というお米の品種の紹介なんですね。これは枕ではなくお米の袋なんですね。謎のフォトポイント。撮影しても、普通の通路しか撮影できなかったのですが、TDK(→→→こちら)という電子部品なんかを作っているメーカーさんの宣伝写真がらしく撮影できるってことですね。ということで、秋田への出張、駅でも結構楽しめました。【つづく】人気ブログランキング秋田へ行ってきました(その1) 秋田駅
2023年09月09日
コメント(34)
最近といっても、10年近く前に完成した虎ノ門ヒルズ森タワーのオーバル広場で見つけたパブリックアートです。パッと見て、不気味でしたが、虎ノ門ヒルズ森タワーのホームページ(→→→こちら)を拝見すると、これはスペインを代表する世界的アーティスト、ジャウメ・プレンサ氏による、8つの言語の文字を使い、膝をかかえて座る人間をかたどった高さ約10mの巨大なパブリックアートである「ルーツ」という作品だそうです。それぞれの文化を映し出す文字を通じて「世界の多様性」を表現し、「多様な文化の違いを越えて、人々が平和的に共存すること」を象徴する作品だそうです。よく見ると、確かに文字らしきものが組み合わせられているのがわかりました。しかし、解説を読んで初めて理解できる難解な作品。芸術を理解するのは難しいものだとつくづく思いました。人気ブログランキングへ虎ノ門ヒルズ森タワーにある変なもの
2023年09月08日
コメント(26)
暑い夏にはついアイスコーヒーを飲んでしまいますね。ドトールコーヒーでアイスコーヒーのLサイズ(税込み350円)を頂きました。人気ブログランキング孤独のグルメ アイスコーヒー
2023年09月07日
コメント(27)
旧東海道を紹介する説明板が設置されていました。「信楽茶屋」(→→→こちら)という有名な水茶屋があったそうです。「東海道名所図会」には、「信楽茶屋といへる水茶屋は享保年間に店を開き、梅干をひさぎ、梅漬の紅生姜を商ふ。往来の人ここに憩はざるものなく、今時の繁昌ななめならず」と記されているそうです。当時茶屋があった場所には信楽茶屋というラーメン店(→→→こちら)がありました。やっぱり信楽と名乗っているので、タヌキの焼き物が飾られているんですね。そして、ようやく鶴見駅に到着しました。JR鶴見駅です。そういえば大阪市にも鶴見区(→→→こちら)がありましたね。横浜の鶴見の地名の由来は、源頼朝がここで鶴を放ったことから命名されたという伝説があるそうです。一方、大阪の鶴見の地名の由来としては、源頼朝が富士の裾野で巻狩(四方から狩場を囲んで獣を捕らえる狩り)をしたときに、千羽の鶴に金の短冊を付けて放したところ、この地に飛来して住み着いた。その鶴を見物に来る人が多く、「鶴見」という呼び名がついたという言い伝えがあるそうです。どちらも、源頼朝に関連しているというのが面白いですね。ちなみに、地名学(→→→こちら)では「ツル」は河川の周囲、「ミ」は出入り変曲した地形に対し「~の周り」を意味する接尾語として使われます。鳥類のツルとは直接の関係はないと考えられているそうです。そういえば、横浜の鶴見は鶴見川の周囲に湾曲した土地になっていますし、大阪の鶴見も近くには寝屋川という川が流れていますね。また、鹿児島県には「上水流」と書いて「カミヅル」と読む姓もありますから、「ツル」と水は関係しているのかもしれませんね。鶴見駅の改札口です。(川崎から鶴見へ歩いたコース)【了】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(川崎~鶴見)(その14) 鶴見駅に到着
2023年09月06日
コメント(28)
こちらの建物は横浜市鶴見図書館です。図書館の前に旧東海道を紹介する説明板が設置されていました。東海道を示す絵地図が示されていました。この説明板によると、鶴見、生麦という地区は川崎宿と神奈川宿の間にある「間の宿」と呼ばれたと書かれていました。そして、趣旨や目的がわからない造形物。一体どういう意味でみんな飾るんですかね。(川崎から鶴見へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(川崎~鶴見)(その13) 間の宿
2023年09月05日
コメント(24)
鶴見川橋を渡り鶴見川の右岸に来ると、石碑のあるポケットパークがありました。旧東海道鶴見橋という標識がありましたが、現在旧東海道にかかっている橋の名称は「鶴見川橋」。もともとこちら(現在の鶴見川橋)が「鶴見橋」だったのですが、現在は下流側を通る第一京浜に架けられた橋が「鶴見橋」となり、元の橋は名前を譲る形になり「鶴見川橋」に変更されたそうです。こちらの石碑には「鶴見橋関門旧跡」(→→→こちら)と刻まれた石碑です。この石碑についての説明板です。安政6年(1859)の横浜開港以来、生麦事件などをはじめ、外国人に対する殺傷事件が度々発生したため、不審な浪士や旅人を取り締まるため、鶴見橋の袂に関門が設けられたそうです。これらの関門は1871年に全て廃止されました。鶴見橋関門は1867年廃止されたそうです。なお、この石碑は、1968年に建てられたそうです。旧東海道をさらに南下すると、大きな公園があり、その入口に「馬上安全寺尾稲荷道」と刻まれた石碑がありました。隣に設置されていた説明板によると、江戸時代、ここは寺尾稲荷社(現・馬場稲荷社)へ向かう道との分岐点で、このように「寺尾稲荷道」と記された大きな道標がたてられていました。寺尾稲荷社は、馬術上達や馬上安全の祈願で知られ、江戸からの参拝者も多かったといいます。また、この道は菊名へ向かう寺尾道や川崎へ向かう小杉道にもつながる、この地域の大切な道でした。なお、当時の道標は、現在、鶴見神社境内にあり、ここにあるのはその複製ですなるほど、寺尾稲荷というのは馬術上達や馬上安全の祈願の神社だったんですね。またここにある石碑はレプリカだったんですね。(川崎から鶴見へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(川崎~鶴見)(その12) 鶴見橋関門旧跡と寺尾稲荷道道標
2023年09月04日
コメント(28)
旧東海道を歩いて行くと、こんな標識が道路に埋められていました。やがて鶴見川橋(→→→こちら)が見えてきました。アーチクラウン部(アーチの最高点)で2本のアーチ部材の間隔を絞り込んだ形式のバスケットハンドル型ニールセンローゼ橋という形式の橋になっています。鶴見川を渡る東海道線の鉄橋です。この橋の名前も濁らずに「つるみがわはし」と呼ぶのですね。(川崎から鶴見へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(川崎~鶴見)(その11) 鶴見川橋
2023年09月03日
コメント(30)
鶴見中継所から京浜急行の鶴見市場(つるみいちば)駅の方に向かって歩きます。道沿いにはサルスベリの木が植えられていました。サルスベリ、漢字で書くと「百日紅」ですから赤い花が咲くのでしょう。白い百日紅の花もありますね。このように多くのサルスベリの木が植えられているのは、鶴見区の木というのがサルスベリだからでしょうか。京浜急行電鉄の鶴見市場駅です。橋上駅舎になっているようです。相対式ホーム2面2線を有する地上駅です。鶴見市場駅に入ってくる京急1000形を撮影しました。鶴見市場駅から旧東海道を歩くことにしました。公園に行けば公衆トイレがあると思って、市場旧東海道公園に立ち寄りました。広い公園で暑い中、子供たちがサッカーしていましたが、トイレは設置されておらず、近くにある区民センターのようなところでトイレをお借りしました。こちらの道が旧東海道です。この道を鶴見に向けて歩いて行きます。(川崎から鶴見へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(川崎~鶴見)(その10) 鶴見市場駅と旧東海道
2023年09月02日
コメント(26)
大正12年(1923)年9月1日午前11時58分。突然、巨大な揺れが東京一帯を襲った。そしてその日の午後には、東京市内70余か所から火の手が上がった。瞬く間に東京は焦土と化した。その被害は東京だけではなく、神奈川、千葉、埼玉、静岡、山梨、茨城の1府6県にも及んだ。家屋の全焼は38万余強、死者行方不明者数は約350万人と言われています。関東地方に甚大な被害をもたらした関東大震災から、から今年で100年の節目を迎えます。そんなわけで墨田区横網にある都立横網町公園(→→→こちら)にやってきました。横網町公園には、関東大震災と東京空襲で亡くなった人々を慰霊する東京都慰霊堂をはじめとして震災・戦災に関連する記念碑などがあります。こちらが、東京都慰霊堂です。ここには、震災遭難者約5万8千人と東京空襲遭難者の身元不明者10万5千人の合わせて16万3千人の遺骨を祀っています。また、毎年関東大震災の9月1日と東京大空襲の3月10日に遺族をはじめ、皇族方のご臨席を仰ぎ、関係各方面から来賓の参列を得て、春秋の慰霊大法要が開催されています。こちらにあるのは、震災遭難児童弔魂像です。関東大震災により、東京市(当時)内の小学校児童約5千人が亡くなりました。この児童らを弔うために作られた像です。しかし、昭和19年(1944)金属回収の対象となり撤去されましたが、昭和36年(1961)に往時の群像を模して、再建されたそうです。こちらは花壇のように見えますが「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」です。斜面を覆う花は季節ごとに植え替えられているようです。碑の内部には東京空襲で犠牲になった方々のお名前を記録した「東京空襲犠牲者名簿」が納められています。関東大震災時の混乱のなかで、あやまった策動と流言ひ語により尊い命を奪われた多くの朝鮮人を追悼し、二度とこのような不幸な歴史を繰り返さないことを願い建立された「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」です。こちらは東京都復興記念館です。関東大震災の発生から復興に関する資料、並びに東京空襲および戦災復興に関する資料を展示しています。また、横網町公園から東京スカイツリーがよく見えます。公園の入口近くにあった売店です。昔は売店が営業していましたが、いつの間にか閉店しているようですね。関東大震災によって焦土と化した東京を「復旧」ではなく「復興」しようと提唱したのが後藤新平であり欧米最新の都市計画を採用し、わが国にふさわしい新都を造る「帝都復興事業」が始められました。横網町公園の近くにある蔵前橋(→→→こちら)は、関東大震災の復興計画により架橋されたものです。橋ができる以前は「富士見の渡し」と呼ばれていた渡船場があった場所だったそうです。【付録】8月31日、13年ぶりの「スーパーブルームーン」を撮影してみました。「スーパーブルームーン」とは、1年で月が最も地球に接近し、ふだんより明るく輝いて見えるいわゆる「スーパームーン」と、ひと月に2回目の満月となるいわゆる「ブルームーン」が重なることを言うそうですね。人気ブログランキング関東大震災から100年
2023年09月01日
コメント(33)
全6901件 (6901件中 251-300件目)