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亀戸の駅前の明治通り沿いにあるビルです。ビルの壁面にある名称は有名な洋菓子店の「風月堂」ですが、建物に入っているのは、クリニックと学習塾です。ちょっとヘンな感じを受けました。人気ブログランキングビルの名前がヘンです
2024年04月28日
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出張に出かける朝、JR東日本の構内にあるBeck's Coffeeでモーニングセットのバタートーストセット390円(税込み)を頂きました。個人的にここのコーヒー、なんか気に入っています。人気ブログランキングへ孤独のグルメ Beck's Coffee
2024年04月27日
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かっぱ橋道具街まで来たのですが、今さら鍋や包丁という調理用品を買うつもりもないので、田原町にある都バスの転回場まで足を延ばして、その隣にある、行列のできるこちらのお店までやって来ました。このお店、パンのペリカン(→→→こちら)といって、結構遠方からのお客さんもパンを買い求めにやって来る人気店です。創業は1942年という老舗ですが、売っているのは食パンとロールパンのみというこだわりのパン屋さんで、小麦の味がしっかりとするパンを売っています。また売り切れると早めに店を閉めるので、早く行って買わないといけません。それから、ペリカンの隣にあるこちらの磯村政次郎商店(→→→こちら)の胡麻油も気になっているんですが、我が家ではもう30年以上、家で天ぷらを揚げたことがないので、買ったことはありません。(秋葉原~秋葉神社~かっぱ橋道具街へ歩いたコース)【了】人気ブログランキング秋葉神社は秋葉原駅からは遠かった(その6)
2024年04月26日
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そして、食に関する専門店が集まるかっぱ橋道具街(→→→こちら)もこの近くです。この道がかっぱ橋道具街になります。もうよくテレビや雑誌で紹介されていますからよく知られていますね。かっぱ橋道具街といえば、菊屋橋交差点にあるこのオブジェが有名ですね。ちなみに、かっぱ橋道具街のもとになった合羽橋の名称の由来には、2つの説があるんだそうです。1つめは、金竜小学校跡地辺りにその昔伊予新谷の城主の下屋敷があり、小身の侍や足軽が内職で作った雨合羽を、天気の良い日に近くの橋にズラリと干していたという、「雨合羽」説。2つめは、昨日紹介した曹源寺通称”かっぱ寺”に墓所がある合羽屋喜八のお話しです。合羽橋喜八の掘割工事を隅田川の河童たちが手伝ったという説です。多分、東京合羽橋商店街振興組合としては、2つめの説を支持しているんでしょうか。かっぱ橋道具街の真ん中のあたりにあるポケットパークに、金色に輝くかっぱ河太郎像が建立されています。この像は、平成15年10月、「合羽橋道具街」の誕生90年を記念して、東京合羽橋商店街振興組合が建立したものだそうで、石碑には、2つめの合羽屋喜八と隅田川の河童のことが刻まれていました。(秋葉原~秋葉神社~かっぱ橋道具街へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング秋葉神社は秋葉原駅からは遠かった(その5)
2024年04月25日
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折角ここまできたので、かっぱ寺としてしられる曹源寺(そうげんじ)(→→→こちら)に行ってみることにします。こちらが曹源寺の入口になります。曹洞宗のお寺でした。かっぱ寺らしく、「かっぱのぎーちゃん」が、入り口右手で出迎えてくれました。そして、正面には立派な本堂がありました。これが「かっぱ堂」、河童大明神を祀るお堂です。商売繁盛、火水難除に御利益があるそうです。また、この中にかっぱの手のミイラがあるそうで、見たい人は是非予約をしてからとお寺のホームページに書いてありました。こちらは、字も薄くなって、さらに錆びも浮いてよく見えませんが、多分、かっぱ寺の由緒を描いているんでしょう。一説によれば、文化年間(1804年~1817年)の頃、この一帯は低地で水はけも悪く、しばしば水害に悩まされたので、商人・合羽屋喜八が私財を投じ、新堀川(現在の合羽橋道具街にあった水路。合羽橋の名の由来の一つ)の開削の工事を行ったそうです。この工事の折、近隣の隅田川に棲んでいたとされる河童が手伝ったと言われています。そして、文化11年(1814年)に喜八が没し、菩提寺である当寺院に葬られいつしか「かっぱ寺」と言われるようになったのだとか。ということでかっぱ堂の回りには河童の像がありました。そして、好物のキュウリもお供えされていますね。(秋葉原~秋葉神社~かっぱ橋道具街へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング秋葉神社は秋葉原駅からは遠かった(その4)
2024年04月24日
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かっぱ橋本通りを浅草方面に歩いて行き、ここ松が谷二丁目の交差点に着くと、交差点を左折して、この左衛門橋通りを入谷方面、北に向かうと、秋葉神社に到着します。この秋葉神社御縁起によると、明治初年東京府内に火災が頻発し市民の難渋せる状を御憂慮せられた英照皇太后(明治天王御母)の思召を以て、明治天皇より太政官に御下命になり、宮城内紅葉山より鎮火三神を奉遷し東京府火災鎮護の神社として現今の秋葉原の地の創建せられたのが当社の始めである。明治21年鉄道駅設置のため境内地を払下げ現在地に御遷宮となる。秋葉原の駅名も当社名にその因を発する。とありました。ということで秋葉原駅から浅草の松が谷まで移転してきたんですね。御遷宮百年記念の石碑も建立されていました。こちらが社殿です。なかなか立派な社殿です。こちらが扁額です。(秋葉原から秋葉神社へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング秋葉神社は秋葉原駅からは遠かった(その3)
2024年04月23日
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上野駅から昭和通りに沿ってさらに北に向かいます。日本の地下鉄唯一の踏切のある東京メトロの上野検車区(→→→こちら)にやって来ました。この銀座線の踏切。柵の隙間からのぞくと、この線路が地下につながっているんですね。そして、かっぱ橋本通りにくると、今度は東に向かって歩きます。(秋葉原から秋葉神社へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング秋葉神社は秋葉原駅からは遠かった(その2)
2024年04月22日
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秋葉原です。秋葉原の地名の由来は、つぎのようなことだそうです(→→→こちら)1869(明治2年)の相生町の大火を機会に、当時の明治政府下の東京府は9000坪(約3万平方メートル)の火除地を当地に設置し、翌1870(明治3年)年に、遠州(現在の静岡県)から火除けの秋葉大権現を勧請し、鎮火神社としてまつった。 当初は鎮火原と呼ばれたが、鎮火神社が秋葉神社と改められると、「秋葉原(あきばはら・あきばっぱら)」と呼ばれるようになった。ということで、地名の由来となった秋葉神社へ行ってみることにしました。秋葉原の電気街から、中央通りを北に向かいます。いつの間にかアメ横に来てしまいました。アメ横から入った上野中通り商店街にある「都まんじゅうのかるた家」(→→→こちら)です。都まんじゅうは上野を代表するお菓子だとMoMo太郎は思っております。そして、いつの間にか上野駅まで来てしまいました。「♪上野は俺らの心の駅だ」ですから「ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聞きにゆく」わけですね。(秋葉原から秋葉神社へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング秋葉神社は秋葉原駅からは遠かった(その1)
2024年04月21日
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色々と物価も上がっていますが、ランチはワンコインの500円で食べられるとありがたいですね。ということで、松屋の牛めしランチセット(500円税込み)を頂きました。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 松屋でワンコイン
2024年04月20日
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久木大池から逗子駅に向かって歩きます。こちらの建物は、久木中学校です。久木神社というこのあたりの鎮守神社になるのでしょう。なかなか大きな神社でした。このトンネルを抜けて逗子駅に向かいます。右から「久木隧道」と記された銘板がありました。隧道(ずいどう)というのはトンネルの古い呼び方だそうです。この久木トンネルは昭和16年(1941年)に開削されたそうです。当時の逗子町久木地区に横須賀海軍工廠のための工員寄宿舎群が大規模に建設されたため、工員の通勤の便を図るため、横須賀線逗子駅への近道として開削されたそうです。古いトンネルなので、幅員は狭く、歩行者用に路側帯がありますが、そこにはみ出して行き違える車も多いかもしれません。トンネルの入口に埋め込まれた銘板には、「皇紀二千六百年 工事請負人 山口清造」と記されています。トンネルを抜けてしばらく歩くと、横須賀線の逗子駅が見えてきました。踏切を渡って、駅の東口にでて、帰りは、総武横須賀線に乗って帰りました。(逗子市で歩いたコース)【了】人気ブログランキング逗子を歩く(その13) 久木トンネル
2024年04月19日
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久木大池公園に着きました。公園の中の鬱蒼とした木々の中を下って行くと、久木大池が見えてきました。この池は農業用のため池として造られたそうです。以前はこの池から逗子駅にかけての低地には多くの農地が広がっていたんでしょうね。池の周りの森で、春は桜、初夏は新緑、秋は紅葉と、四季折々の風景を楽しめる公園になっているんでしょうね。久木大池から流れる久木川沿いにも遊歩道が整備されていました。さらに久木川の下流になりますが、池の大きさから考えるとこの河幅は狭いので、おそらく洪水対策として暗渠がこの下に埋められているのでしょうか。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その12) 久木大池公園
2024年04月18日
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関東の冨士見百景は「鎌倉逗子ハイランド(→→→こちら)」という住宅街の西端にあります。この住宅街の中を通って次の目的地、檜佐木大池公園に向かいます。「鎌倉逗子ハイランド」は昭和30年代、逗子市久木と鎌倉市浄明寺とが接する山上を大規模に宅地開発したところで、見事な桜並木の続く住宅街として有名なようです(→→→こちら)。訪れた3月10日は、まだまだ桜の開花には早い所ですが、中には早咲きの桜がありました。もう花盛りといった感じですね。こちらは赤みが強い桜ですね。寒緋桜かなと思いました。昭和30年代から開発が始まったというこの住宅地、なかなかの豪邸が立ち並んでいました。少子高齢化の現在、この公園で遊ぶ子供の姿はありませんでしたが、でもこの住宅地が開発されて分譲された頃は、この公園で遊ぶ子供たちも多かったんでしょうね。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その11) 鎌倉逗子ハイランド
2024年04月17日
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名越切通の道はやはり古くからの道なのでしょうね。道端にこのような小さなお稲荷様が祀られていました。また、可愛いお地蔵様もありました。このようなものに道中の安全を願ったのでしょうね。MoMo太郎も道中の無事を願って手を合わせました。ようやくアスファルト舗装された道に出ました。舗装されていない山道もいいですが、やはりこういう舗装された道に来ると安心しますね。ここから再び富士山が美しく見える絶景スポットに出てきました。平成17年(2005年)に国土交通省関東地方整備局が主催して選定された「関東の冨士見百景」(→→→こちら)だそうです。百景といいながら128ヶ所の映えスポットが選定されているそうです。ここからの富士山も見事ですね。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その10) 関東の冨士見百景
2024年04月16日
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ここにも名越切通の説明板がありました。この説明板には、名越切通について、日本語、中国語、英語、そして韓国語で説明されていました。国際的な観光地の鎌倉・逗子のことだけはありますね。また山道をしばらく歩いていくと、名越切通の第三切通に差し掛かりました。この切通を過ぎると道が二つに分かれていましたが、道標の示す大切岸の方へ向かいます。この道を過ぎて歩いていると、きれいな和服姿で草履で歩いている女性に出会い、挨拶されましたが、ちょっと不思議な方でした。平成31年2月1日に建立された新しい名越切通と刻まれた石碑がありました。そして、逗子市側の山の斜面に出ると、ここからは、逗子の町並みが見えました。逗子市教育委員会が設置した「お猿畠の大切岸(おおきりぎし)(→→→こちら)」の説明板がありました。この切り立ったた断崖が「お猿畠の大切岸」です。長さ800m以上にわたって高さ3〜10mにもなる切り立った崖が尾根に沿って連続する遺構で、従来から、鎌倉幕府が三浦一族からの攻撃に備えるために、切通の整備と一体のものとして築いた、鎌倉時代前期の防衛遺構だと言われてきました。しかし、平成14年度(2002年)に発掘調査したところ、大切岸は、板状の石を切り出す作業(=石切り)の結果、最終的に城壁のような形で掘り残されたもの、つまり石切り場の跡だということが確認されたそうです。鎌倉では、ここに見られるような「鎌倉石」と呼ばれる凝灰質砂岩の大規模な切出しが行われて丘陵部における平坦地が造成され、同時に切出したこれらの岩を破砕して道路の舗装材に使用したり、切石にして建築物の基礎や側溝の護岸・井戸枠などの建材に使用したりしていたそうです。、しかしながら、大切岸に防御的な目的は一切なかったと即断はしていないようで、「吾妻鏡」の記事に見られるように、鎌倉は敵の攻撃を防ぐのに適した地形=要害と認識されていることから、このように大々的な石切りを行なっても、鎌倉の街を取り囲む尾根を安易に掘り割ることはせず、あえて城壁のような崖を残したのかも知れませんね。註)下に添付しているGoogleの地図では、山道を歩くコースを表示できなかったため、大回りしたコースを歩いているように見えます。そのほか名越切通や大切岸へのコースも同様に実際に歩いたコースとは違うコースが表示されています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その9) お猿畠の大切岸
2024年04月15日
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名越切通にあった道標です。次は、道標に書いてあった「まんだら堂やぐら群」(→→→こちら)に向かいます。また切通しがありました。これが第二切通になります。まんだら堂やぐら群と書いた標識がありました。「やぐら」とは、鎌倉のそこここに見られる、切り立った岩肌にぽっかり空いた洞穴のことで、中世の墳墓だそうです。三方を山に囲まれ平地の少ない鎌倉で、やぐらは平地面積を削らずにできた唯一の墓ということになります。まんだら堂やぐら群は、例年、初夏と秋・冬それぞれ1ヶ月程度の期間の、土・日・月曜日と祝日のみ公開されているようで、訪れた2024年3月10日は公開の碑ではなく、門扉が閉ざされていて中へ入ることはできませんでした。門扉の鉄格子の隙間から中を撮影してみました。奥には150穴以上の存在が確認されている有数のやぐら群で、おそらく手前の平場には「やぐら堂」と呼ばれる建物が建っていたのでしょう。これだけまとまったやぐらを良い状態で見ることのできる遺跡は鎌倉市内にも少なく、たいへん貴重な遺跡だそうです。やぐらの中に並ぶ五輪塔は火葬した骨を納めるなどして供養するために建てられたものなのでしょうね。註)下に添付しているGoogleの地図では、山道を歩くコースを表示できなかったため、大回りしたコースを歩いているように見えます。そのほか名越切通や大切岸へのコースも同様に実際に歩いたコースとは違うコースが表示されています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その8) まんだら堂やぐら群
2024年04月14日
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名越切通に向かって再び山道を歩きました。「名越切通」(→→→こちら)についての説明板がありました。名越切通は鎌倉時代に整備された「鎌倉七口(鎌倉に入るために開削された切通し)」のひとつで、鎌倉と三浦半島を結ぶ要路として、明治時代まで使われていたもので最も狭い部分の幅は約0.9mになっているそうです。しかし、発掘調査によると、かつては3m近くあったが、地震で崖が崩れて狭まったことがわかっているそうです。現在の名越切通には三ヶ所の切通が残っていて、MoMo太郎が入ってきた逗子市の亀ケ岡団地側に近い方からそれぞれ第一切通、第二切通、第三切通と呼ばれています。こちらはその第一切通になります。「名越」の名は、この道が峻険で「難越」(なこし)と呼ばれたことに由来すると言われているそうです。この第一切通がもっとも大きく深く切り立っています。切通が造られたのは、鎌倉を囲む山の岩盤は柔らかく掘りやすいためだと言われています。切通し露出した岩は、おそらく凝灰質の岩だとおもわれます。鎌倉に分布する地層は、約700万~200万年前に、この海溝よりも陸側の海底斜面に、陸から流れ込んだ土砂や火山噴出物が堆積してできたものです。この地層が、海洋プレートの強い圧力で陸側に押し付けられ、隆起したと考えられています。鎌倉の地層には、砂や泥に、火山灰や火山礫が混じった「凝灰質砂岩(ぎょうかいしつさがん)」や「凝灰質泥岩(でいがん)」が広く分布しているそうです。この岩も凝灰質砂岩なのでしょうか。註)下に添付しているGoogleの地図では、山道を歩くコースを表示できなかったため、大回りしたコースを歩いているように見えます。そのほか名越切通や大切岸へのコースも同様に実際に歩いたコースとは違うコースが表示されています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その7) 名越切通
2024年04月13日
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披露山公園の次は名越切通に向かいます。今度はまた山を下りますが、その道の途中からも江の島と富士山の姿が望めます。逗子市と鎌倉市の丘陵に広がる住宅団地です。こういう山を切り開いた所に住むには、坂道の上り下りで足腰が鍛えられていいかもしれませんね。披露山公園から下ってきた道です。本当はこちらが披露山公園の一般向けの入口なんですね。いったん下ってきましたが、また登り坂が始まりました。なかなかのきれいな住宅街の中を歩きました。住宅街の道、碁盤の目のようになっていのですが、ちょっと道が合っているかどうかよくわからなかったので、住宅案内図で行き先を確認しました。そして、住宅街が終わるところで、国指定史跡名越切通(→→→こちら)の入口になります。註)下に添付しているGoogleの地図では、山道を歩くコースを表示できなかったため、大回りしたコースを歩いているように見えます。そのほか名越切通や大切岸へのコースも同様に実際に歩いたコースとは違うコースが表示されています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その6) 住宅街の中を歩く
2024年04月12日
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逗子にある披露山の山頂(標高92m)に向かって山道を歩いて行きました。今回はこのような山道を歩くと想定してトレッキングシューズを履いてきて正解でした。山道の途中で振り返ると逗子海岸が眼下に広がり、山道を登ってきた甲斐がありました。「披露山」には、古墳時代末期ごろからは古東海道が通り、古くから交通の要衝で、鎌倉時代には有力御家人が別邸を構えたと言われています。また、その名前の由来は、源頼朝がこの山で御家人たちを集めて、手柄者や、全国から献上された貢ぎ物を披露したことからこの山の名がついたとの説があるそうです(→→→こちら)。しかし、手下の武士たちに山道を登らせて、山の上に呼んで、貢ぎ物をみんなに見せるとは、源頼朝もとんだパワハラ野郎ですよね。そして、山頂近くまで登ると、駐車場があり、次回来る時はクルマで来ようと思いました。山頂は披露山公園(→→→こちら)として整備され、逗子市全景、江の島、相模湾の海岸線、富士山などを一望できる公園となっています。これが披露山公園の案内図です。ここでは、ニホンザルを飼育している猿舎、ミニ動物園、展望台そしてレストハウスなどの施設が揃っていますよ。披露山公園は、戦時中は海軍の小坪高角砲台として2連装12.7センチ高角砲2基と高射装置(Director)を備えた鉄筋コンクリート製の円形砲座3基と、同じく鉄筋コンクリート製の半地下式の指揮所があったそうです。そして、砲台のすり鉢型の砲座跡を猿舎と展望台、花壇に利用されて、指揮所跡にはレストハウスが設けられているそうです。手前の円形の花壇と奥に見える展望台がその砲台の跡に設けられたものでしよう。こちらは砲台跡に設けられた猿舎です。ニホンザルが飼育されていました。仮に将来、この猿舎を廃止することになったら、ここで飼われていたサルは山に戻しても生きていけないでしょうし、別の動物園の猿舎へ譲渡したとしても、譲渡先のニホンザルのグループの仲間に入れてもらえるかどうか難しいでしょうね。展望台からは相模湾の眺望を満喫できます。江の島と富士山です。折角の眺め、もっと上手く撮影できるようになりたいです。こちらがミニ動物園。カメ達がのんびりと日向ぼっこしていました。こちらはモルモット。クジャクも飼われていました。どの動物の写真も雑な撮影ですみません。こちらが指揮所跡にできたレストハウスです。さて、披露山公園の駐車場にあったこの石碑は、「尾崎行雄記念碑」です。碑文は「 人生の本舞台は常に将来にあり」と記されています。この碑文、10代、20代の若い人なら心に響くかもしれませんね。こちらには尾崎行雄(→→→こちら)記念碑についての説明が書かれていました。「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれた尾崎行雄は、昭和2年(1927年)70歳のとき、この碑の直ぐ下に「風雲閣」と名づけて居を構えます。そして、終戦直後には、日本の進むべき道について、教えを請う人たちで溢れたのだとか。昭和29年10月に、この地で95歳の天寿を全うしたそうです。註)下に添付しているGoogleの地図では、山道を歩くコースを表示できなかったため、大回りしたコースを歩いているように見えます。そのほか名越切通や大切岸へのコースも同様に実際に歩いたコースとは違うコースが表示されています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その5) 披露山公園
2024年04月11日
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逗子海岸を西の端まで歩くと、山の斜面に建てられたお寺があります。その下にある小さな公園にあった「蘆花之故地」という木製の記念碑がありました。揮毫は、字が薄くなり見えにくくなっていましたが。文学博士藤原楚水という方のようでした。記念碑の裏面には、徳冨蘆花の簡単な経歴が書いてりました。明治30年(1897年)から明治33年(1900年)にかけて蘆花は逗子に居住し、「不如帰」、「青山白雲」、「自然と人生」、「思ひ出の記」等の作品を書いたそうです。不如帰(帰るに如しかず)つまり「かえりたい」と書いて「ホトトギス」と読むのは、古代中国の蜀の望帝・杜宇が、家来の妻と不貞を働いたために退位させられます。望帝は不徳を恥じ国を逃れたものの、その後復位を望みますが叶わずに亡くなり、ホトトギスに姿を変えて「不如帰(かえりたい)」と泣いたという故事に由来するそうです。それから、「ホトトギス」が望郷の念を募らせる鳥となったようで、蘆花の小説「不如帰」も海軍少尉の武男とその妻で結核で亡くなった浪子の物語ですから、不如帰というタイトルは、上手くつけられたものですね。石段を登っていくと、斜面にあったお寺は「浪子不動高養寺」(→→→こちら)というそうです。高養寺は、元々は「白滝不動」「小滝不動」「浪切不動」と呼ばれていた漁師の守護仏であっそうですが、明治時代、逗子が徳冨蘆花の小説「不如帰」(→→→こちら)の舞台となり、ヒロインの「浪子」から「浪子不動」と呼ばれるようになったそうです。「高養寺」という名称も、昭和の初期、関西画壇の一人、黒住章堂が出家入道し葉山慶増院に入り、時の首相高橋是清(1854年〜1936年)と犬養毅(1855年〜1932年)の援助を受けて本堂を建立し、堂内の天井画と襖絵を描いた。寺名も後援者のそれぞれ一字をとり高養寺と改めたそうです。境内の隅に二つの説明板がありました。MoMo太郎と同じ駅からハイキングの参加者のお姉さんが熱心に読まれていました。「逗子海岸葛ヶ浜の隆起海食台」の説明がありました。浪子不動の下にある海岸は、7000年前の縄文時代から少しずつ波によって岩盤が削られ、こうしてできた海底の岩礁が地震で隆起したものらしいです。そして、MoMo太郎は見落としていたのですが、この「浪子不動(高養寺)と不如帰の碑」によれば、徳富蘆花の兄蘇峰の筆で不如帰と刻まれた石柱が葛ヶ浜の隆起海食台の上に立っているそうです。その「不如帰の碑」の写真はこのリンク先(→→→こちら)を見て下さい。この石碑は海中に建てられていますが、干潮時には碑の傍まで歩いていくことができるそうです。そして、つぎの目的地の披露山公園に向かって、この山道を登って行きます。註)下に添付しているGoogleの地図では、この山道を歩くコースを表示できなかったため、大回りしたコースを歩いているように見えます。また名越切通や大切岸へのコースも同様に実際に歩いたコースとは違うコースが表示されています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その4) 「蘆花之故地の碑」と浪子不動
2024年04月10日
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3月10日に駅からハイキング「逗子の春色・春風を感じる自然の回廊」のレポートの途中ですが、やっぱり桜が満開の今の時期、MoMo太郎も人並みにお花見してきた報告ということで、4月7日(日)に東京都西部の多摩地区にある羽村市で開催されていた「はむら花と水のまつり2024」(→→→こちら)を訪れてきました。羽村市を歩いた記録は後日、改めてレポートするよていですが、多摩川沿いに咲いた桜の花をお楽しみ下さい。 桜つづみ公園と名付けられた、多摩川沿いの堤防の桜並木です。満開の桜の下を歩きました。開花したばかりの桜の花です。全体的に白いですね。見事な紅枝垂れ桜も咲いていました。これは国の天然記念物に指定されている「三春の滝桜」(→→→こちら)を羽村市福島県人会から寄贈されたんですね。人気ブログランキング「はむら花と水のまつり2024」に行ってきました。
2024年04月09日
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逗子海岸にやって来ました。富士山が見えるなかなかの映えスポットです。訪れた時期は3月10日で、富士山はまだ雪に覆われていましたが、逗子からこんなに近くに富士山が見えるとは思ってもみなかったです。逗子海岸には「太陽の季節」文学記念碑がありました。作家であり政治家でもあった石原慎太郎(1932-2022)が昭和30年(1955年)に発表したデビュー作「太陽の季節」の芥川賞受賞50周年を記念して立てられたもので、岡本太郎制作の「若い太陽」のオブジェが付けられた碑には「太陽の季節ここに始まる」と刻まれています。「太陽の季節」(→→→こちら)は、昭和31年(1956年)には日活から映画化され、この逗子市や三浦市で撮影されていました。また作者の石原慎太郎も逗子に居住していたそうですね。逗子海岸(→→→こちら)は遠浅の海岸で逗子海水浴場としても知られていますが、まだここで泳ぐには早すぎるようでした。でも、多くの人がウインド・サーフィンを楽しんでいました。また、沖合にはヨットも出ていて、マリンスポーツのメッカなんですね。波も穏やかですね。細砂で、貝殻や砂利や泥が少ない砂浜の波打ち際は散歩にも最適ですね。ちなみに足腰を鍛えたい方は、乾いた砂浜を歩かれた方が、いいかも。足が砂にめり込んで、結構、脚にきますよ。大型犬を連れて散歩されている姿も、なんとなく優雅な感じがしますね。しかし、このワンちゃん達が砂浜でオシッコやウンチするとしたら、砂浜で海水浴して砂遊びというのもなんとなく衛生的には問題があるのかな?【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その3) 「太陽の季節」記念文学碑と逗子海岸
2024年04月08日
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さて、「駅からハイキング 逗子の春色・春風を感じる自然の回廊」のスタートです。まずは逗子と言えば海。逗子海岸に向かって歩きます。逗子駅から「逗子銀座通り」という通りを歩いていきました。銀座という名前の付く商店街って全国にあるんですね。この川を渡ります。田越川という川でした。この河口が逗子海岸になります。赤く塗られたこの橋は冨士見橋というそうです。京都の五条大橋を模して架けられたのだとか(→→→こちら)かってここには養神亭(→→→こちら)という旅館があり、養神亭の「神」は精神の「神」で、すなわち心を養うという意味だったそうです。なかなか有名な旅館だったらしく、ここで、徳冨蘆花が「不如帰」という作品を執筆したり、大正天皇の病状の悪化が伝えられると、発足したばかりの若槻内閣の閣僚が養神亭に宿泊し、その結果養神亭に内閣を引越しさせることを閣議決定したそうです。また、冨士見橋からは文字通り富士山が見えたそうです。その養神亭は、現在は廃業しており、その跡地には渚マリーナというヨット、モーターボートなどのプレジャーボート類を係留・保管する施設になっています。このマリーナは、2006年神奈川県が行う不法係留船対策の一環として整備されたそうです。このクレーンを使って船が田越川に降ろされて、いまから出港しようというところでしょうか。マリーナの向こうには富士山の姿が見えています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その2) 逗子海岸へ向かって
2024年04月07日
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2024年3月10日、やって来ました高輪ゲートウエイ駅。令和2年(2020年)3月14日に開業した新しい駅です。この駅で降りて、そして、京浜急行の泉岳寺駅へ行きました。泉岳寺駅は、昭和43年(1968年)開業の駅で、都営地下鉄の浅草線と、京急の本線が乗り入れており、京急本線の東京都側の終点になります。ここから京浜急行の三崎口行特急に乗りました。ここで昭和5年(1930年)開業の金沢文庫駅で、逗子・葉山行の逗子線の急行に乗り換えました。そして京浜急行逗子線の終着駅、逗子・葉山駅にやって来ました。令和2年(2020年)3月14日に駅名を「新逗子」から「逗子・葉山」に改称されたためため、旧駅名の「新逗子」が副駅名として添えられています。ちなみにこの駅も開業は昭和5年(1930年)になっています。ところで、逗子の「逗」のしんにょうの点の数が一点ではなく二点になっていますね。「しんにょう」にはこのように「一点しんにょう」と「二点しんにょう」というものが二つあるそうです。それは、戦前の印刷文字では,点二つの「しんにゅう」が一般的でした。戦後,昭和21年に「当用漢字表」が内閣告示として実施され,一般社会で用いる漢字の範囲として1850字が定められます。さらに,昭和24年に「当用漢字字体表」が定められ,当用漢字表の1850字の字体が決定されました。その際,「しんにゅう」の漢字は,点一つに統一されたのです。一方,当用漢字表に入っていない漢字の印刷文字は,原則として点二つのまま用いられてきたからだそうです。(→→→こちらさて、その後日本語のワードプロセッサー(ワープロ)が開発され普及しはじめると。ワープロなどの情報機器にはJISコードの漢字が搭載されました。このJISでは当用漢字以外は印刷物に使われている印刷文字を優先して採用しているため、例えば「二点しんにょう」の「辻」がパソコンでは入力出来るのですが。「一点しんにょう」のは異字体としてしか入力できません。全国の「一点しんにょう」の辻さんお困りかもしれませんね。こちら逗子・葉山駅の南出口です。円形の屋根がちょっと凝っていますね。逗子までやってきたのは、JR東日本が催行している、「駅からハイキング 逗子の春色・春風を感じる自然の回廊」に参加するためなので、京浜急行の逗子・葉山駅からJRの逗子駅に行って、参加の登録をしました。ちなみにJRの逗子駅の開業は、明治22年(1889年)です。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その1) 高輪ゲートウェイ駅から逗子葉山駅へ
2024年04月06日
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静岡県の知事が辞職されるというニュース(→→→こちら)を聞いて、生きているうちに大阪までリニアモーターカーで行くことができるという喜びを感じているMoMo太郎です。さて、新年度となって、新しく通勤通学で鉄道を利用された方も多いと思いますが、そんな通勤列車の中で見たこと感じことを書いています。【外国人の親子連れ】最近、朝の通勤電車の中で度々見かける、外国人の父親、息子、娘の三人の親子連れ。話している言葉からはフランス語っぽく聞こえたのですが、父親の服装はカジュアルで会社員のようには見えません。男の子は小学校の高学年くらい、女の子は小学校の低学年と言った感じですが、二人ともランドセルやカバンというのも持っていません。よく見かけるので観光客というのでもなく、やっぱり日本に住んでいるのだろうと思いますが、一体どんな暮らしをしているのか気になりました。【ドアにもたれてゲームをするな】背を向けてドアにもたれかかってゲームをしていた若い男性、駅についてもたれかかっている側のドアが開くことに気がつかず、そのままドアが開いて、後ろにのけぞれそうになったけど、何とか持ちこたえて転ぶことはなかった。しかし、そのまま転んでケガでもしたら、救護のため列車が遅れて乗客は迷惑するところでした。ゲームをするのもいいけど、周りにには気を付けて欲しいものです。【マタニティーマークはよく見えるにして下さい】電車の座席に座っていると、目の前にお腹のあたりがやや膨らんでいるかなという感じの女性が立った、妊婦さんかもしれないと思い、マタニティーマークを探したが見えなかった。MoMo太郎の配偶者のように妊娠していないけどお腹のあたりが膨らんでいるだけなら、席を譲るのもなんとなくバツが悪いなと思っていると、女性が降りる時に肩から下げたショルダーバッグの背中側にマタニティーマークが着いるのが見えました。少子高齢化の進む日本で妊娠されている方は大事にしたいと思っているので、マタニティーマークはよく見えるようにして下さい。少子化に歯止めをかけるべく、微力でも妊婦さんが増えるように努力したいと思うMoMo太郎でした。人気ブログランキング通勤沿線 気になるあの人(その6)
2024年04月05日
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皇居の乾通りから靖国神社へやって来ました。靖国神社といえば、、明治維新以後の国家のために殉難した人の霊(英霊)246万6千余柱を祀る神社ですから、こういう「出征を見送る家族の像」というのが建立されているのも、納得ですね。花見客目当てのキッチンカーも出張ってきています。昔は露店が並んでいたように記憶していますが、これも時代の流れですかね。こちらの第二鳥居から、いよいよ神聖な場所に入るという感じになります。神門の前です。東京の開花宣言のあった翌日の土曜日ということもあって、かなり大勢の人が参拝に来られて混雑していました。こちらの桜の木が、東京の開花宣言を判断する標本木です。確かに、開花していました。気象庁が正しいことをMoMo太郎も確認しました。ということで、拝殿にお参りしました。この神社のご祭神は、幕末の志士に始まり、日本を守るために戦ってきた軍人、軍属等の戦没者、つまり英霊と呼ばれる方々、その他、台湾神宮および台南神社に祀られていた北白川宮能久親王(→→→こちら)及び蒙疆神社(張家口)に祀られていた北白川宮永久王(→→→こちら)になります。ちなみに英霊の中には、太平洋戦争の結果、戦争犯罪犯罪人として裁かれた東条英機のような人も含まれているというが、色々と問題を生んでいるみたいですね。境内では野点の席なども開催されていて、気分はお花見というところでしたが、訪れた3月30日の時点では、桜もちらほら咲きといったところで、お花見にはちょっと寂しいところではありました。【了】人気ブログランキング皇居乾通り一般公開に行ってきました(その4) 靖国神社の桜
2024年04月04日
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そして、乾門までやって来ました。江戸城の乾(いぬい=戌亥/北西)の方向にある門の一つですが、実は明治21年、皇宮建設の際に新たに誕生した門だそうです。ということで、この門は、坂下門の内側にあった西の丸裏門を移築したものです。乾門を出ました。この後、どうしようかと考えて、決めました。北の丸公園を抜けて、都内でも有数の桜見物すほぼっとの靖国神社へ参拝することにしました。こちらは北の丸公園内にあった池です。名前の通り江戸城の北の丸であった場所で、現在は環境省の管理する国民公園になっています。公園の中にあるこの施設は、日本武道館(→→→こちら)です。元々は1964年東京オリンピックの柔道競技会場だった施設ですが、今ではコンサートなどでよく使かわれているみたいです。そして、この千鳥ヶ淵の側を抜けて、やって来ました。靖国神社です。【つづく】人気ブログランキング皇居乾通り一般公開に行ってきました(その3) 北の丸公園から靖国神社へ
2024年04月03日
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皇居の中のサクラ、まだまだ楽しめましたよ。一般公開を見に来た人たち、やっぱりサクラを見に来ている之んですね。皆さんサクラがあると熱心に撮影していました。まあ、MoMo太郎もそうですが。こちらは枝垂れ桜ですね。蓮池濠側にあった、サクラです。こちらは三分咲きでしょうか。エドヒガン、春の彼岸ごろに花を咲かせるから「ヒガン」なんでしょうかね。こちらは道灌濠です。こうやって見ると、ちょっとした山の中の池みたいに感じますね。まだ満開には遠いですが、こちらのサクラはまだ開花したばかりですね。こちらは三分咲きくらいでしょうか。かなり花が咲いていました。コシノヒガンザクラ(→→→こちら)という品種でした。漢字で表記すると「越の彼岸」、富山県南砺市箕谷で自生していたサクラで、3月中旬に開花するそうです。乾濠から見た風景です。この辺りはかなりの混雑。こちらはぼぼ満開に近いサクラです。花の早いエドヒガンでしょうか。こちらの枝垂れ桜もいいですね。ベニシダレサクラという品種でした。名前のとおり、花弁はやや赤みが強かったです。こちらのサクラもかなり開花が進んでいて、ヨウシュン(陽春)という品種名です、サクラの品種、色々あるんですね。こちらのサクラもにぎやかに花開いていました。通路から離れていたので、ズームで撮影してみると、ほぼ満開でした。【つづく】人気ブログランキング皇居乾通り一般公開に行ってきました(その2) サクラ尽くし
2024年04月02日
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3月23日から31日にかけて開催それた春季皇居乾通り一般公開へ3月30日(土)に行ってきました。まず、こちら東京駅から、御幸通りを歩いていけば、皇居前に着きます。皇居の前ではDJポリスが交通整理をしていました。そして、こちらの「二重橋」の前まで迂回して案内されてもう、かなりの人出でした。手荷物検査を受けて、こちらの「坂下門」から入って行きます。なかなか立派な門ですね。坂下門を入ると、こちらへ行くと宮殿です。いずれ文化勲章をもらる時に備えて道順は覚えておきました。こちらの「宮内庁」の庁舎前餌を通って、乾通りに向かいます。こちらの建物は「蓮池参集所」。皇居内の清掃奉仕のため全国各地から来た方々が集まり休むところで、更に天皇皇后両陛下が、ご会釈されるところです。こちらは蓮池濠を挟んで、皇居東御苑苑の石垣になります。こちらの木は、春なのに、花も葉もない状態でしたが、ナツツバキということで、なるほど花は梅雨に咲くから、今は開店準備中というところでしょうか。白い花を咲かせるそうで、別名はシャラノキ(沙羅木)、サラソウジュ(娑羅樹、沙羅双樹)などと呼ばれています。仏教において三大聖木と呼ばれる樹木の中のひとつで、お釈迦様が入滅する時に、その死を悲しみ真っ白な花を咲かせ、その白い花は次々とお釈迦様の上に舞散り、覆いつくしたと言われています。この白壁の建物は、「冨士見多聞」です。多聞とは、城郭の石垣上に建てられた長屋で、城壁よりも強固な防御施設になります。江戸時代の江戸城本丸には、このような多聞が、各所に築かれていたそうですが、現存するのは、この富士見多聞だけのようです。かつては、この富士見多聞から、実際に富士山を望むことができたから冨士見多聞なんでしょうね。こちらの門は、「局門」というそうで、明治20年頃、局(女官の居住施設)の門として築かれたそすうです。この時期に一般公開というからには、やはり皇居に咲くサクラを観ないと。ということで東京で開花宣言のあった翌日でしたが、サクラが咲いていました。まだ、開花したばかりというところですかね。こちらは「門長屋」。ここは警備をする武士が控える場所だったそうです。現在、この奥には御養蚕所があるそうです。養蚕は皇后陛下の大切な公務ですね。【つづく】人気ブログランキング皇居乾通り一般公開に行ってきました(その1) 皇居の中の施設も見学
2024年04月01日
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土浦城の本丸と二の丸の一部が亀城公園(きじょうこうえん)として整備されています。このように園内には堀も残されています。芝生の広場もあり、ゲートボールを楽しむ人たちのもいました。江戸時代の頃の庭園の跡なのでしょうか、池もあり、噴水や四阿も整備されていました。また、この銅像は、明治から昭和期の実業家、政治家であった原脩次郎拓(→→→こちら)という方の銅像でした。この方は京都府の出身でしたが、妻の実家のある茨城県から衆議院議員に立候補し拓務大臣、鉄道大臣を務めた方だそうです。こちらの石碑らしいものは、土浦出身の劇作家、随筆家である高田保(→→→こちら)の句碑だそうです。作品は青空文庫にも収録されています(→→→こちら)写真では上手く撮影できませんでしたが、「あの花も この花もみな 春の風」という句が刻まれているそうです。こちらの石塔は、「忠魂」と刻まれているところを見ると戦没者の慰霊塔でしょう。こちらの建物は隣接して建てられている土浦市立博物館(→→→こちら)です。ちなみに、亀城公園へ自動車で行った場合は、この博物館の駐車場に止めると便利でした。人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市の土浦城址(亀城公園)(その2)
2024年03月31日
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2023年の「魅力度ランキング」最下位の茨城県にある土浦市にやって来ました。ちなみに茨城県は、民間調査会社「ブランド総合研究所」が、2009年にランキングの発表を始めてから、最下位となるのは12度目となるそうです。さて、土浦市ですが、江戸時代は土浦藩の城下町として栄え、近代になっては、南に隣接する稲敷郡阿見町に海軍の飛行場があったことから、海軍の町として栄え、戦後は、土浦駅西口(市中心部)に京成百貨店、丸井、西友、イトーヨーカドーなどの百貨店や大型店舗が立地するなど商都として発展を遂げていましたが、筑波研究学園都市の開発などでそれらの商業施設は、土浦駅前から相次いで撤退しています。それでも、茨城県南地域の行政の中心的な役割を担っている町ではあります。ということで土浦城址にやってきました。土浦城跡及び櫓門が茨城県指定史跡となっています。お堀も残っていて、本格的な城址の雰囲気ですね。土浦城は、霞ヶ浦近くの低地に位置し、水を何重にもめぐらせた平城であったため水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたことから亀城(きじょう)とも呼ばれており、本丸と二の丸の一部を整備した公園は亀城公園として整備されています。そして、土浦城址の亀城公園は入場無料です。こちらが亀城公園内にあった土浦城の説明板です。本丸跡になります。こちらは東櫓といって、土浦城に残る遺構の一つとして復元整備されたものです。亀城公園に隣接する土浦市立博物館(→→→こちら)の別館ということで、中を見学するには入館料が必要となります。こちらも復元整備された西櫓です。東櫓も西櫓も、土塁の上に建っているのが特徴です。昭和24年(1949年)、キティ台風の被害を受けた西櫓は、昭和25年(1950年)に復元するという条件つきで解体されたました。そして、ようやく平成4年(1992年)に保管されていた部材を用いて復元されたそうです。こちらは太鼓櫓門、関東で唯一の現存する櫓門といわれています。二階には太鼓を置き、時を知らせたことから太鼓櫓門と呼ばれています。太鼓櫓門の前にあった「土浦城址」の石碑です。【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市の土浦城址(亀城公園)(その1)
2024年03月30日
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富士そばの天ぷらそば(570円税込み)をいただきました。天ぷらといいながら掻き揚げなんですが、時間がない時にささっと食べるのには丁度いいです。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 天ぷらそば
2024年03月29日
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目黒川沿いを歩いて駅からハイキングのゴールである五反田駅に向かいます。川岸に桜並木があり、花見の時期には多くの見物客で賑わのでしょうが、訪れた2月12日は花見客もいませんでした。川沿いに広場がありました。五反田ふれあい水広場(→→→こちら)です。親水広場と芝生広場があって、およそ1.8ヘクタールの広さがあるそうです。この近くにあった旅館山水荘(→→→こちら)。昭和にタイムスリップしたような和風の旅館。東京の真ん中にもこんな旅館が残っていたんですね。そして、山手線の線路の下を抜けると、東急池上線の五反田駅のホームの橋が見えてきました。どうして東急の五反田駅(→→→こちら)ってこんな高い所にあるんでしょうかね。色々な歴史的な経緯があるんでしょうね。そして五反田駅が見えてきました。ゴールの五反田駅に到着です。閑静な住宅街と商店街のある目黒から戸越、大崎そして五反田エリア。なかなか魅力的な街を散歩できた一日でした。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【了】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その16) 目黒川と五反田ふれあい水辺広場
2024年03月28日
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昨日の投稿に対して、このようなコメントをいただきました。先週 戸越銀座のコメントですが私は電柱がある時に歩きました現在街灯の支柱が立ってるところに電柱があった電柱がない代わりに少しは歩きやすくなったでしょうねってそんな思いで書いてあるんですがその内容のお返事は無視ですか?コメント省くのにもほどほどに。MoMo太郎は一応頂いた全てのコメントに対して、自分のブログの中でのみ返事を書いており、それはコメント欄の下に表示されています(この方へも通り一遍ではありますが、返事も書いております)。またコメントを頂いた人のブログのコメント欄には投稿していません。他の人のコメント欄に自分へのコメントの返信を投稿することよりも、その方が投稿された記事への感想などをコメントすることを優先したいと思うからです。MoMo太郎は大喜利の名人でもないので、いただいた全てのコメントに面白い返事や気の利いた返事を書くこともできませんので、期待されるのもほどほどにご容赦願います。m(_ _;)m大崎駅にやってきました。明治34年(1901)に開業した駅で今年で123年目になります。山手線、湘南新宿ライン、埼京線、相鉄線直通列車など、多くの路線が乗り入れており、交通の要所といえる駅です。跨線橋を歩いて駅の東側に向かいます。大崎駅のホームが下に見えました。こちらは西口にある長距離バスのターミナルです。改札口です。駅の東口に出ました。大崎地区は当初は畑が広がる地域でしたが、明電舎などの電気機器メーカーが大崎工場を創設し、工業地域として発展してきました。そして、1980年代に東京都が指定した副都心として再開発され、大崎ニューシティやゲートシティ大崎などの施設が建設されて都内でも有数のビジネスエリアになってます。目黒川(→→→こちら)です。この辺りは河口に近くなっています。河口付近では湊が開かれ、品の行き交っていた川であったことから、地名「品川」と呼ばれるようなったという説もあるそうです。目黒川を越えたあたりにも多くの高層ビルが建設されていました。東京ってそんなにビルの需要があるんですかね。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その15) 大崎副都心
2024年03月27日
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閑静な住宅街の中に鳥居が見えてきました。ここが大崎鎮守の居木(いるぎ)神社です。ここを訪れたのは2024年2月12日ですが、境内の梅の木は満開でした。白梅ですね。青空に映えています。こちらは枝垂れ梅。紅梅でした。居木神社のご由緒がありました。この神社、江戸時代初期には目黒川に架かる山手通りの居木橋付近にあったのですが、川の近くにあったため風水害の被害を受けやすく、村民らによって現在の地に遷座されたそうです。御祭神は叡智と武勇の神とされる日本武尊だそうです。早速お参りさせていただきました。扁額には「大崎鎮守 居木神社」とありました。鎮守神とは、人間がある土地に人工物を造営したとき、その土地に宿る神霊が人間や造営物に対して危害を加える祟りを起こさせないように、そのの土地に住む神(地主神)よりも霊威の強い神を新たに勧請して祀った神様のことだそうです。だから日本武尊が御祭神なんですね。また、JA東京グループによる江戸東京野菜「居留木橋カボチャ」(→→→こちら)に関する説明がありました。京野菜というのはよく聞きますが、江戸東京にも練馬ダイコンのような伝統的な野菜があったんですね(→→→こちら)神社の石段の途中にあった居木橋遺跡の看板です。居木橋遺跡は居木神社の南方に位置する台地上にあり、縄文時代前期(約六千年~五千年前)の貝塚を伴う遺跡で、竪穴住居跡も多数確認されているそうです。こちらの石段が居木神社の表参道なんでしょうか。石段を降りて、斜面の途中に変わった石が積まれていました。改めてみてみると溶岩のような石が積まれていて、これは富士塚だそうです。石段を降りて細い参道を歩いて、社号碑もあって、どうやらこちらが表参道なんですね。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その14) 大崎鎮守 居木(いるぎ)神社
2024年03月26日
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国道1号と戸越銀座商店街が交差する戸越銀座交差点です。駅からハイキングのコースでは、ここからJR大崎駅に向います。この道が国道1号です。国道一号からこの百反通りに入ります。百反通りは、東京都品川区大崎4丁目から西品川3丁目までの延長 1100mの道路の呼び名です。品川区が定める道路愛称名のひとつで、古くは「百段坂」と呼ばれる階段状の坂だったそうです。さらに百反通りから、こちらの峰原通りに入っていきます。この峰原通りも品川区が定めた道路愛称名になります。峰原とは、明治時代の谷山(ややま)村時代からこの辺一帯の地名で現在の大崎3・4丁目付近にあたるそうです。さらにこの峰原通りから分かれて芳水小学校(→→→こちら)の方に歩いて行きます。芳水小学校の「芳水」は、この小学校が明電舎(→→→こちら)創業者の重宗芳水が設立に私財を投じたことにちなむそうです。住宅街の向こうに大崎駅前の高層ビル群が見えてきました。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その13) 大崎へ向かいます
2024年03月25日
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東急池上線の戸越銀座駅にやって来ました。所在地は「平塚」であることから当初は「平塚駅」になる予定でしたが、既に同名の駅が東海道本線にあったため知名度の高い「戸越」が仮駅名として選ばれた後、地元商店街からの要望で現在の「戸越銀座」と命名されたそうです。駅のすぐ横は。踏切となっていて、改札口は上下線別々になってます。こちらは蒲田方面の入口になります。戸越銀座駅のホームです。屋根が木製で意外とオシャレですね。東急の1000系電車がやって来ました。以前は車体カラー帯は赤だと思っていましたが、最近はグリーンに変わったんですかね。東急にはほとんど乗らないのでその変更に気がつきませんでした。池上線は五反田と蒲田を結ぶ路線です。むかし西島三重子(→→→こちら)というシンガーソングライターの方が歌っていた「池上線」(→→→こちら)という曲があったことを覚えている人は少ないでしょうね。戸越金座商店街、駅を越えてまだ続きます。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その12) 戸越銀座駅
2024年03月24日
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中原街道を五反田方面に歩いて、ここ荏原二丁目の交差点にやって来ました。ここが戸越銀座商店街(→→→こちら)の中原街道側の入口になります。この通りが戸越銀座商店街になります。戸越銀座商店街の路面は、こんな石畳になっています。電柱は立っていませんが、街灯は立っていて、街灯の柱には「とごしGINZAどおり」と表示されたプレートが取り付けられています。戸越銀座商栄会の旗も取り付けられていました。商店街は、東急池上線の「戸越銀座駅」を中心に全長約1.3kmにわたる関東有数の長さを誇り、商店街沿いには約400件の店舗が軒を連ねていて、メディア等からの注目度が非常に高く、下町情緒あふれる商店街として雑誌やテレビで度々取り上げられているそうです。ちなみに「戸越」と言う地名の由来のひとつに、江戸から現在の戸越を越えると、相模の国(神奈川県)に入ることから、この地が古くは「江戸越えの村」と呼ばれ、やがて「戸越」になったという説があるそうです。そんな戸越銀座商店街、全国的にも知名度が高く、近隣からの買い物客だけではなく商店街自体に遊びに来る、観光を目的とした来訪者も増えているそうです。まあ、MoMo太郎もそういう中のひとりですね。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その11) 戸越銀座商店街
2024年03月23日
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この賑やかな武蔵小山商店街パルムを抜けると、中原街道(→→→こちら)に出ます。中原街道を東の五反田方面に向かって歩きます。途中で中原街道はふたつに分かれています。こちらの道は旧中原街道だそうです。この中原街道は、東海道に対して、江戸虎ノ門(現在の東京都港区虎ノ門)と平塚中原(現在の神奈川県平塚市御殿)とを結ぶ脇街道とされ、横浜や藤沢を通る東海道に比べて、江戸 - 平塚間をほぼ直線につなぐため、最速ルートとして利用されています。また大名行列も通らないことから、庶民や商人が利用しており。赤穂浪士も東海道を避け、中原街道で江戸入りしたといわれています。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その10) 中原街道
2024年03月22日
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武蔵小山駅前にある武蔵小山商店街パルム(→→→こちら)です。次はこの商店街の中を歩きます。商店街の中に入るといきなり道が二又に分かれていました。こちらの道よりは、こちらの道の方が広いので、こちらに進むことにしました。丁度、この辺りが駅からハイキング「冬の自然や商店街を楽しむのんびり散歩~林試の森を抜けたらそこはふたつの商店街でした~」のコースの中間地点です。武蔵小山商店街「パルム」は武蔵小山駅から中原街道までの、東京都内では最長の800mのアーケード街で、昭和31年(1956)の完成当時は「東洋一」と称えられ、現在でも約250店舗を有する都内でも有数の商店街で。テレビなどでも度々取り上げられています。その商店街の運営の中心となる武蔵小山商店街振興組合の事務局があるパルム会館です。このパルム会館で駅からハイキングの記念品がもらえるというので、入ってみると、時節柄ですね、ひな人形が飾られていました。そしていただいてのが、このカード。1970年頃の二代目となるアーケードの写真でした。単なるカードでクオカードでも商店街のポイントカードでもありません。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その9) 武蔵小山商店街パルム
2024年03月21日
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この門から林試の森公園を後にしました。この門の名前「水車門」と言うそうです。門からでた少し先にあるこの小屋が、水車はついていませんでしたが、水車小屋だっんですね。この近くを品川用水(→→→こちら)というかんがい用水路があったことから、それに関連した歴史を記した施設なんだろうと思います。さらに歩いて行くと、手押しポンプもあったりして、水にかんする歴史を感じたりしました。そして、東急電鉄目蒲線の武蔵小山駅にやってきました。武蔵小山駅(むさしこやまえき)と読むんですね。平成18年(2006)に地下化されています。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その8) 水車門から武蔵小山駅へ
2024年03月20日
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林試の森公園(→→→こちら)の西門に到着です。こちらが西門。自転車でやって来ているのは御近所の人なんでしょうね。こんな公園が近くにあるつていいですね。林試の森公園は、林業・森林の研究機関「林業試験場」が昭和53年(1978)に筑波研究学園都市に移転した跡地を東京都が払い下げを受けて「都立林試の森公園」として平成元年(1989)に開園したもので。面積は12ha(約36,000坪)あるそうです。園内にはこのような林に囲まれた、だだただ広い広場があってのびのびとして過ごすことができたり、森林浴気分で木立の中を散策できたり、子供たちのための遊具があったりで、楽しく一日ピクニック気分で遊べそうです。最近は、こういうタイプのペットボトル専用のごみ箱が設置されていることが多いですね。下から上に向けてペットボトルを差し込んで捨てるため、紙ごみなんかは捨てにくくなっています。都立公園の歴史は、明治6年(1873)の上野恩賜公園(→→→こちら)が開園したことに始まるので、150周年ということになるんですね。冬なので水がないのですが、子供たちが水遊びできるようと作られたジャブジャブ池です。園内にある池です。公園の敷地はもともは湿地だったんでしょうね。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その7) 林試の森公園
2024年03月19日
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目黒通り沿いにあるこの目立つヨーロッパ調の建物は、東京バレエ団(→→→こちら)の建物です。やはりバレエというとヨーロッパやロシアの芸術ということで、こういう雰囲気の建物に普段から住んでいないといけないのかも。ここは東急バス目黒営業所です。バス営業所を過ぎて、目黒郵便局の前の交差点を左折して26号線通り(→→→こちら)と呼んでいる戸越方面に向かう道を歩いていくと、庚申塔がありました。ここは清水庚申塔(→→→こちら)と言うそうです。やはり、江戸時代は庚申信仰が盛んだったため、こういう庚申塔や庚申塚があちらこちらに残っているそうです。ということで、庚申信仰について、少し調べてみました。60日に1度巡ってくる「庚申(かのえさる)の日」の夜に眠ってしまうと人の体内にすんでいる三尸(さんし)という虫が天に昇り、天帝にその人の日ごろの行いを報告するという道教の教えがあったてそうです。その報告内容の罪状によっては寿命が縮まるというので、寿命が縮まらないよう、庚申の日は身を慎み、虫が抜け出せないようにと徹夜して過ごしたそうです。しかし、眠らないように夜にみんなで集まっていると、やっぱり楽しい懇親会となって飲んだり食べたりするようになり、この懇親会を庚申講というようになりました。そして、この庚申講を3年18回続けた記念に建立するのが庚申塔(又は庚申塚)だそうです。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その6) 清水庚申塔
2024年03月18日
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さらに歩いて、多摩大学目黒中学校・高等学校(→→→こちら)というのを見つけました。最初は昭和12年(1937)に目黒商業女学校として発足した学校ですが、時代ともに発展してきて、平成元年(1989)に多摩大学を設立し、平成7年(1995)には多摩大学目黒中学校・目黒高等学校と校名を変更し、今では男女共学の学校になっているそうです。なかなか洒落たデザインの校舎ですね。さらに西に進んで、こちらのバス停。名称が「元競馬場前」です。ここには、今は東京都府中市にある東京競馬場へ移転しましたが、明治40年(1907)から昭和8年(1933年)まで、目黒競馬場(→→→こちら)という施設があったそうです。また、競馬は軍馬改良の為の馬匹の質の改善を目指した軍部の意向で始まったそうです。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その5) 多摩大学目黒中学校・高等学校と元競馬場前
2024年03月17日
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さらに目黒通りを西向かって歩いて行くと、目黒寄生虫館(→→→こちら)がありました。名前の通り、「寄生虫」を専門に扱う研究博物館で、南満洲鉄道株式会社の衛生研究所に勤務していた医学博士・亀谷了(かめがい さとる)が私財を投じて昭和23年(1953)に創設した私立博物館です。国内外から収集された約300点の寄生虫の標本資料や関連資料が展示されています。私立博物ではありますが、入館料は無料です。しかし、入館料を徴収しないため来館者による寄付金とともに寄生虫に関する書籍やTシャツやキーホルダーなどのグッズの販売が収入源となっています。入館して寄生虫のホルマリン固定標本や寄生虫罹患者の写真等を見学するのは大変参考となりました。寄生虫といえば、MoMo太郎が以前住んでいた福岡県久留米市では、日本住血吸虫症という寄生虫による風土病があり恐れられていましたが、その日本住血吸虫の宿主のミヤイリガイ(宮入貝)撲滅が行われ、日本住血吸虫症を克服したそうです(→→→こちら)。下の写真は久留米市宮ノ陣と小森野の間にあるリバーサイドパークに建立されたそのミヤイリガイの供養石碑です。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その4) 目黒寄生虫館
2024年03月16日
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目黒通りと山手通りの交差点には目黒総鎮守の大鳥神社(→→→こちら)があります。折角の機会、大鳥神社にお参りさせてもらいました。この由緒によれば、景行天皇(西暦71年~130年)の時代に当地に国常立尊(日本の国開きの神様)を祀った社があり、景行天皇の皇子である日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東夷平定の折にこの神社に立ち寄って、平定達成と部下の目の病の治癒を祈願したそうです。その後日本武尊の霊が白鳥として当地に舞い降り鳥明神として祀られ、大同元年(806年)に社殿が完成したそうです。そのため目黒区最古の神社ということになったそうです。浅草にある酉の市で有名な鷲神社(→→→こちら)、台東区鳥越の鳥越神社(→→→こちら)など都内にある「鳥」の名前がつく神社では、日本武尊が御祭神として祀られているのは、日本武尊が死後、白鳥となって飛び立ったたことに関連しているんでしょうね。そして、大阪府堺市にある大鳥神社(→→→こちら)は、その白鳥となった日本武尊が最後に舞い降りた場所であり、全国の大鳥神社および大鳥信仰の総本社とされているそうです。また、日本武尊が部下の目の病を治癒を祈願し、無事治癒したことから、盲神(めくらがみ)と呼ばれ、この「めくら」が段々と訛っていき「目黒(めぐろ)」という地名の由来になったんだそうです。境内にある大きなイチョウの木。御神木となっているそうです。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その3) 目黒総鎮守大鳥神社
2024年03月15日
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目黒通り(東京都道312号白金台町等々力線)をさらに西に向かって歩くと、橋の大きな親柱が見えてきました。目黒新橋という橋です。この橋の下を流れる川が目黒川(→→→こちら)です。さらに目黒通りを西に向かって進んでいくと、山手通り(東京都道317号環状六号線)(→→→こちら)との交差点に差し掛かります。この下の道が山手通りになっています。立体交差になっていて、山手通りから目黒通りに入るには、側道を通るようになっています。まだ免許取りたての頃、MoMo太郎はこのことに気がつかず、随分、遠回りをして道に迷ったことがありました。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その2) 目黒川と山手通り
2024年03月14日
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2月12日は月曜日でしたが「建国記念の日」の振替休日でした。ということでJR東日本が催行している「駅からハイキング 冬の自然や商店街を楽しむのんびり散歩~林試の森を抜けたらそこはふたつの商店街でした~」に参加してきました。その報告です。やって来たのは、目黒駅。改札口の前では参加者の受付中。ここで今日歩くコースの地図を渡されて、目黒駅です。西口から歩き出します。目黒駅から出て、しばらく歩くと目黒区に。目黒通り(東京都道312号白金台町等々力線)に沿って歩きます。ここから少し下り坂になっています。この坂道は「権之助坂」坂の名は菅沼権之助(→→→こちら)に由来するそうです。この人は、元禄時代の江戸近郊・中目黒村田道の名主だったそうで、権之助が坂を開いたとする説や、重たい年貢に苦しむ農民のために年貢軽減を直訴してそのために処刑された権之助の名を、慕う農民が開かれたばかりの新坂につけたとする説などがあるそうです。(駅からハイキング、目黒駅から五反田駅で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング冬の散歩を楽しむ(その1) 目黒駅からスタートです
2024年03月13日
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梅と桜、開花時期が、関東では、梅は2月中旬~、桜は3月下旬~ということで見分けることができますが、中には早咲きの桜があったり、遅咲きの梅があったりと、開花時期だけでは見分けがつきにくい時はありませんか?そういう時のMoMo太郎の見分け方です。まず、こちらは梅です。花柄(かへい)がないので、枝にくっつくように花が咲きます。また、花びらの先が丸いのも特徴です。こちらは桜です。花柄が長いので、枝からはなれて花が咲きます。また、花芽が房状についているので、花数が多くとても華やかに見えます。そして、花びらの先は割れています。人気ブログランキング梅と桜の見分け方
2024年03月12日
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東洋経済のネット記事にあった「大量閉店「イトーヨーカドー」どこで間違えたのか」(→→→こちら)よると、GMS(General Merchandise Store(総合スーパー))大手の「イトーヨーカ堂」が、北海道と東北、信越にある「イトーヨーカドー」の全17店舗を、今春から順次閉店するそうです。イトーヨーカドーというとGMS(総合スーパー)というだけあって、食料品以外にも日用品や衣料品も置いてあって、MoMo太郎は結構、重宝させてもらっています。特に、下着なんかは大抵イトーヨーカドーで購入していました。まあ、今の時代、衣料品はユニクロやしまむらといったで買う人が多いかもしれませんから、GMSの経営って厳しいのかも。さて、言問橋西交差点と明治通りの泪橋交差点を結んでいる「吉野通り」と呼んでいる道路にある東浅草三丁目交差点の近くに、1920年に、イトーヨーカドーの前身である「羊華堂洋品店」が誕生したそうで、そのことを示す標識が建てられています。この羊華堂洋品店の創業者は吉川敏雄で、後にイトーヨーカドーを立ち上げた伊藤雅俊の叔父にあたる人物だそうです。太平洋戦争ののち、この洋品店を引き継ぐ形で、伊藤雅俊は足立区・北千住で羊華堂の事業を再開しました。さらに、1965年に株式会社・伊藤ヨーカ堂を設立し、店名もイトーヨーカドーとなり、事業を拡大してきたそうです。イトーヨーカドーの1号店として地域住民に愛さて、総合スーパー「イトーヨーカドー千住店」があった場所が下の写真のお店です。今では建物も取り壊されて建て替えられ、分譲マンションとなり、1・2階テナントとしてヨークフーズ千住店となっています。ちなみにこの店の一階と二階の間の階段の踊り場に、かっての「イトーヨーカドー千住店」の写真が展示されています。さらに、一号店の場所から国道4号を越えたところにある公園が、イトー児童遊園です。公園の入口にあった、この子供像の台座の説明によれば、「この児童遊園は、イトーヨーカドーの創立者の伊藤ゆきさん、 同じく令息譲氏夫人せきさんが、昭和34年から昭和57年まで住まわれた場所です。千住は、イトーヨーカドーグループ発祥の地であり、地域の皆様への感謝の気持ちをこめて、伊藤せきさんから足立区に寄贈されたものです。足立区は、このご厚好意を受けて「イトー児童公園」として開園いたしました。昭和63年3月 足立区」と記されていました。子供像の横に植えられていた桜の木です。この桜は、ワシントンからの里帰り桜というそうで、明治45年、当時の東京市長、尾崎行雄が日米友好の証として、桜苗をアメリカ合衆国の首都ワシントンに贈り、ワシントンのポットマック公園に植えられましたが、昭和56年ポットマック公園の桜から枝を採取し里帰りさせた桜の木だそうです。人気ブログランキングイトーヨーカドーの歴史
2024年03月11日
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大阪に出張した時に宿泊した梅田にあるハートンホテルで頂いた朝食です。バイキング形式で1,200円でした。正直言って、高いなと思いましたが、朝からガッツリ食べて元気よく仕事するための必要な投資ということで、頂きました。大阪のホテルだなと思ったのは、朝からタコ焼きがバイキングのメニューにあったことです。人気ブログランキングへ孤独のグルメ ホテルの朝食
2024年03月10日
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