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msk222@ Re[1]:まもなく発刊予定です(04/01) ポンボさんへ ところが、これは著作と編集…
ポンボ @ Re:まもなく発刊予定です(04/01) いいなぁ ご自分のご商売ですと、実費だけ…
msk222@ Re[1]:被災地支援(01/07) みちのくはじめさんへ ぼくの場合、感情の…
みちのくはじめ @ Re:被災地支援(01/07) こんにちは。みちのくはじめです。 私たち…
aki@ Re:被災地支援(01/07) この様な書込大変失礼致します。日本も当…

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2003.12.23
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カテゴリ: 日替わり日記
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有田を支える料亭の女将の畔上とのロマンスはマスコミをにぎわせた。
作中では、接吻の場面、寝室での行為、心理の葛藤、妻を踏んだり蹴ったりする場面などが描かれている。
これに対して有田は、事実に反すると同時にプライバシーの侵害だ、と損害賠償を求める民事訴訟を起こした。
三島側は、「すべては三島のフィクションであり、イメージによる描写であって、読者が、有田の私生活がそのとおり行われたと連想することはありえない」と主張したが、判決はフィクションを認めたうえで、次のように裁き、プライバシーの侵害を認めた。

「モデル小説の一般の読者にとっては、その小説のどの叙述がフィクションであり、どの叙述が事実であるかは明らかでないから、フィクションの部分を事実と誤解する危険性がある。しかも、『宴のあと』では、事実とフィクションとの境界を判別させようとする技法がとられていない。
モデル小説は、モデルの知名度が高ければ高いだけ、モデル的興味で読まれるものであり、しかも、本件では、作品の発表が有田の都知事選出馬とその後の離婚といった社会的に著名な事件の発生からわずか一年前後経過したにすぎない時であったので、当時のモデル的興味はきわめて強いものがあった。このような状況においては、本来なら主人公の私生活の叙述にすぎないものが、モデルである有田夫妻の私生活を写し、またはそれに着想した描写ではないかと連想させる結果を招いたことは否定できない。

このことにより、有田が心の平穏を乱され、精神的な苦痛を感じたとしてもまことに無理からぬものがあり、小説に叙述されたところが真実に合致していると否とによって、さしたる径廷(けいてい=へだり)はない」〔サンデー毎日1999年7月11日号(岩見隆夫のサンデー時評より)〕

この頃デモが行われたのは、大字構内だけでなく、大学につづくあらゆる道路上や公園だった。

学生たちと同年代だった僕も、街を歩いているだけで職務質問を受け、身体に何か隠してはいないかとこずきまわされた。僕の住んでいた本郷2丁目は、神田や御茶ノ水駅から東大への間にあり、路地には東大に向かう学生や私服警官が市民に入り混じっていて、僕は学生一味と見られることが多かった。
持っていたコーラの瓶も、火炎瓶に使うのではないかと疑われた。
東京の歩道は、きれいに敷石がほどこされていたが、デモ学生たちの投石につかわれはじめたことから、すべて撤去されてアスファルトの味気ない道路に替わっていった。

僕が東京にでてから、学生運動はますますエスカレートし、日本だけではなく、世界各国の若者が相呼応するかのように立ち上がり、「スチューデント・パワー」といわれた。
五月にパリのソルボンヌ大学に赤旗とアナーキズムの黒旗がひるがえり、パリ市街に労働者・学生40万人の人々がくりだしたデモはこの時代を象徴的に語り継がれるものとして記されることとなった。既成体制への若者の挑戦はヨーロッパ、アメリカに、そして日本でも波打った。

学生運動は大学や権力の古い体質、官僚体制への反発でもあったが、また学生違動は「代々木系」と「反代々木系」の対立というかたちでも激化した。
「代々木系」は代々木にある日本共産党指導下の民青全学連、「反代々木」というのは、その日共指導に反発する新左翼グループだったが、これがまた分裂に分裂をくりかえし、「革マル」「中核」「社学同(ブンド)」「反帝学評」などのセクトに分かれていき、後にはそのなかでの内ゲバといわれる争いが起こり混迷していった。運動の方法論へのわずかな違いにもこだわり思想を精鋭化させてゆく過程で、わずかな躊躇も日和見として批判の対象にして大衆遊離を起こしていった。
そして、連合赤軍に代表される過激派学生たちの運動へとつづき、完全に国民の支持を失ったのである。
この頃、学生たちのなかに運動を先導する者たちの存在がひそかに話題にされることがあった。あるいは所属大学も身元もよくわからない学生(?)が、ことさら過激で妥協を許さない方針を提案し、結果的に内部分裂へと導いていった。

その頃の大阪万博あたりから高度成長、そしてバブルの時代へと大量生産大量消費の物質優先の社会へと突き進み、日本中土地や株への投機に沸き立った、あだ花のような浮かれ時代を経験することになるのだが、やがてそのしっぺ返しを食うことになる。

バブルがはじけてもう十数年以上にもなろうとしている。日本社会はいつしかテキサスの牧場とみまごうかのようにアメリカナイズされてしまっている。羊たちは牧場主の顔色をうかがう牧童たちの言うなりに右往左往して、太平楽がいつまでもつづくかのように、真実から眼をそらす日々を送っている。



三島は、右翼ともいえる思想をもって日本のアメリカの植民地化からの解放や国体護持などを唱え、復古的伝統文化に傾倒しているかにみえたが、その一方で東大に立てこもる学生たちとの話し合いにでかけたり、左翼学生たちとの討論を意識して行ったりもした。パフォーマンスもあろうが、彼の中では言葉は通じるものという想いがあったのだろうと思う。
想いを伝えることの難しさを感じたのは、彼がもっとも期待した自衛隊員への呼びかけのときではなかったのだろうか。
1970年(昭和45年)11月25日、「楯の会」の森田必勝ほか3名と自衛隊市ヶ谷陸上自衛隊東部方面総監部のバルコニーからクーデター蜂起を訴えたが、隊員から「ナンセンス」叫ばれ呼びかけへの無反応に失望した。受け入れられていないと悟った彼は、長官室で割腹自殺をとげた。45歳だった。介添えをして三島の首をはねた森田も三島に殉死した。

僕は、テレビ中継に映っているバルコニーの三島由紀夫と、後楽園ジムでみかけた裸の彼との落差を埋めることができず、ただ唖然とテレビを見つめていた。


猫3








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Last updated  2003.12.25 10:47:21
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