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2004.12.09
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カテゴリ: 日替わり日記
みらい0614さん

富士見高原病院の建物が、この状態で残っていることにビックリしました。
写真を見る限り、かなり荒れているようにも見えますが、放置されているのか保存されているのか?
近所にこのような建物があったら、ちょっと怖いな・・とも。
msk222さんが実際に足を運ばれて撮影なさったのですか?
本筋と無関係の質問で、ごめんなさい。

女1笠井彦乃


 富士見高原療養所は現在は 「JA長野厚生連富士見高原病院」 という総合病院に生まれ変わっています。

 来年あたりのオフ会の見学コースに入れてもいいですね。
 病院のHPに 「「高原療養所と文学者・芸術家の関わり」 として、夢二が入院した経緯と、そのエピソードが書かれていますから、引用してご紹介しましょう。



 夢二の人生には三人の女性(たまき・彦乃・お葉)がいたが、そのいずれとも、まともに家庭をもつことはできなかった。唯一の正式に結婚した岸たまきとの間には三人子供がいたが、夢二が彦乃という女性に走ったことで、家庭は崩壊する。
 昭和8年アメリカ・ヨーロッパをめぐる旅行から帰国した時には、既にかなり重い肺結核に侵されていた。看病する人も、入院する費用もないといったありさまであった。見かねて救いの手を差しのべたのが旧友正木不如丘である。東京まで往診に来た彼は、ひとりアトリエでせきこんでいる夢二をそのまま富士見に連れてきてしまったのだ。昭和9年正月、真冬の寒い日のことだった。すでに病状の悪化はひどく、回復の望みは薄かったようである。

 正木は夢二のために特別室を用意し手厚く看護したと言われている。専任看護婦の話では家族が面会に訪ねて来ても「逢いたくない、帰してくれ」と決して逢おうとはしなかった夢二だが、死の前日には「身内のものがひとりもきてくれないのが口惜しい」といって涙を流したという。昭和9年9月1日、家族も縁者も姿を見せず、ただ病院の人たちだけに見まもられて51年の生涯を閉じた。

岸たまき その年の10月のなかばすぎ、ひとりの婦人が療養所を訪ねて「夢二がお世話になりました。そのお礼になんでもおてつだいしたいのですが」と、正木院長にもうしでる。それから3カ月ちかくのあいだ、この女性は、患者たちが使ってよごれた、寝具のしたてなおしなど、だれもが好んでしようとはせぬ仕事をしつづけた。かの女がたち去ってからはじめて、病院の職員たちは、この人が故人のかつての妻の岸たまき(他万喜)であると、院長から教えられたという。夢二入院のことは、他万喜は洩れ聞いてはいたが、かつての夫の死は、新聞記事でようやく知ったのであった。



レコード


病院を解説した正木不如丘についても紹介されていますから、あわせてお読みください。

正木不如丘(まさき ふじょきゅう)

明治20年(1887) 2月26日~昭和37年(1962) 7月30日

小説家・医学博士。長野県長野市に生まれる(本籍は上田市)
本名:正木俊二。父は長野師範学校の教頭であった。
大正2年、東京大学医学部卒業。成績優秀で恩賜の銀時計を受けた。福島の県立病院院長を経てパリのパスツール研究所に留学。帰国後、慶應大学医学部内科助教授となり、かたわら朝日新聞に『診療簿余白』(大11.8/25 - 9/12)を連載して好評を博した。つづいて『三十前』『木賊の秋』『思われ人』などを発表。
 日本の探偵小説の勃興に伴い、専門知識を利用した医学ミステリ『髑髏の思ひ出』『県立病院の幽霊』(大15)なども書いている。

 医学部内における対立から大学を出て富士見高原療養所へ赴任を決意。ただ僻地で総合病院を運営するには、あまりに無理があった。医者や看護婦に給料が払えず、正木は仕方なく出版社から依頼される原稿を次々とやっつけ仕事でかたつけ、その印税の大半を診療所の経営に充てていたという。結局、診療所は間もなく潰れてしまったが、正木は留学時代にスイスで視察見学した『結核療養所(サナトリウム)』を、ここ富士見の地に開設しようと思い立つ。そして診療所の借金を個人で肩代わりし、何とか病院を維持したのである。昭和4年には慶應大学医学部を辞め富士見高原療養所所長に専念し、次第に彼の「高原のサナトリウム」は全国的に知名度を上げて行く。しかし、漸く療養所の経営が安定した頃書かれた『果樹園春秋』(「ロック」昭23年)を最後に彼は創作の筆を絶ってしまう。

 昭和の初めから30余年にわたり、結核治療と富士見高原療養所のために彼は人生の全てを捧げる。そして、結核が既に「過去の病気」となりつつあった昭和30年代末、まるでその使命を終えたかのように、75年の生涯を静かに閉じたのであった。


 ただ、食べ物や渓流釣りに関するユーモアあふれる軽妙なエッセイや学生時代から続けた俳句は、たいへん味わい深いものがあり、その穏やかな文面からは彼の誠実で真摯な人柄が偲ばれる。


地球



苺1500さん
う~ん。色んなことを考えさせられますね。ずーっと辿ってきて、結局憎めない人間です。
破滅型人間と、創作または異性との間の深い関係。
細く長く着実に、というのより、やっぱり逆の方が面白いもんね。自分の傍にいたら別として。










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Last updated  2004.12.09 15:38:49
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