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カテゴリ: 読書



5世紀の倭国にもう一つの重要な渡来があったことを見ていく。「秦氏(はたし)」である。前章で見た昆支の渡来と並行して、この時期には別の大規模な渡来集団も列島に流入していた。
◆秦氏を記録する一次史料
秦氏(はたし)については、記紀(日本書紀・古事記)に加え、『新撰姓氏録』(815年)という重要な史料がある。『日本書紀』「応神紀」(応神14年条)には、この年に弓月君(ゆみつきのきみ)が百済から来帰し、「臣は己が国の人夫120縣(の人々)を率いて帰化しようとしましたが、新羅人に阻まれ、皆が加羅国に留まっています」と奏したと記される(「是歳、弓月君自百済来帰。因以奏之曰、臣領己国之人夫百二十縣而帰化。然因新羅人之拒、皆留加羅国」)。弓月君が秦氏の始祖とされる人物だ。「120縣の人々」という表現は、単位の解釈に議論があるものの、非常に大規模な集団移住だったことを示している。続いて『日本書紀』「雄略紀」(雄略7年条)には、秦酒公は弓月王(弓月君)の孫であり、その功績により大秦公の号を賜ったこと、そして大伴大連室屋と東漢直掬に命じて秦民を収集し秦酒公に付けたところ、秦酒公は秦人18,670人を率いて帰附したと記される(「大秦公酒公秦酒公者、其先弓月王之孫也。功勤表著、乃賜大秦公之号」「詔大伴大連室屋・東漢直掬、収聚秦民、附秦酒公。秦酒公則領秦人一万八千六百七十人帰附」)。「秦人18,670人」という具体的な数字は、単なる「一族の移住」ではなく、一つの「民族集団の移住」ともいえる規模を物語る。


◆『新撰姓氏録』における秦氏の位置づけ
815年に編纂された『新撰姓氏録』は、当時の貴族・豪族の出自を「皇別・神別・諸蕃」に分類した史料である。秦氏は「諸蕃」(外国系)の「漢(あや)」に分類され、出自として「秦始皇帝の後裔」と記載されている。815年時点(平安時代初期)においても、朝廷は秦氏を「秦始皇帝の後裔」として公式に認定しており、秦氏自身もそのように主張していたのである。この主張が事実かどうかは別として、秦氏が「秦(中国)に由来する渡来氏族」という自己認識を持ち続けたことは確かだ。
◆秦氏の出自問題――「秦始皇帝の後裔」は本当か
この問題については、複数の仮説がある。
仮説Aは秦(中国)直系説であり、『新撰姓氏録』の「秦始皇帝後裔」記載、「秦」という氏族名、シルクロードを通じた移動の可能性を根拠とするが、秦帝国(紀元前221〜207年)の滅亡後、秦の遺民が朝鮮半島を経由して日本列島に至るまでの具体的な経路が不明確という問題点がある。
仮説Bは朝鮮半島(新羅・伽耶)系説であり、弓月君が「百済から来た」という記紀の記述、秦氏の技術(養蚕・機織)が朝鮮半島南部の文化と一致すること、そして「秦韓(しんかん・辰韓)」という朝鮮半島の「秦」系移民集落についての中国史書の記述を根拠とする。『三国志』魏書東夷伝には「辰韓は馬韓の東にある。老人の言い伝えでは、昔、秦の苦役を避けて韓国(朝鮮半島)に来た亡人(逃亡者)であり、馬韓がその東の地を割いて与えた」とある(「辰韓在馬韓之東、其耆老伝世、自言古之亡人避秦役来適韓国、馬韓割其東界地與之」)。朝鮮半島には「秦からの逃亡者」が作った集落「秦韓(辰韓)」があり、日本の秦氏の先祖はこの「秦韓」に由来する可能性がある。
仮説Cはユダヤ人起源説であり、「秦」(はた)がヘブライ語の「hata」に似ること、広隆寺の紋様がダビデの星に似ること、祇園祭の山鉾装飾に中東的なモチーフがあることなどが根拠として挙げられる。しかし証拠が弱く、学術的には支持されない。「秦氏の出自」の謎の深さを象徴する議論として言及する価値はあるという程度のものである。
現時点での最も有力な解釈は、秦氏の出自は「単一」ではなく複合的であるというものだ。一部は中国(秦)系の遺民が朝鮮半島の「秦韓」に定着し、そこで在地の人々(辰韓系・伽耶系)と融合し、複数の波(4〜5世紀)に分けて日本列島に渡来した。そして日本列島では「秦氏」として統合され、「秦始皇帝の後裔」という権威ある出自を主張するようになったと考えられる。これは「倭韓交差王朝説」的な複合的渡来の事例として理解できる。
◆秦氏の産業的実績――史料が示す「技術移転」
『日本書紀』「応神紀」には、弓月君が帰化してその国の民を率いて来帰し、これによって養蚕・絁縑紬(絹織物)の業がこの時に始まったと記される(「弓月君帰化、領其国民来帰。因以養蚕、織絁縑紬之業、始於此時」)。養蚕・絹織物が秦氏によって始まったという、公式の記録である。
秦氏は、5世紀の倭国にもたらされたもう一つの重要な渡来の波だった。昆支(百済系)の渡来が政治・軍事の領域で倭国王権に組み込まれていったのに対し、秦氏は主に産業・技術の領域で列島に深く根を下ろしていく。この技術集団としての性格は、後に京都盆地の開発という形で決定的な役割を果たすことになる――その物語は、後に改めて詳しく見ていく。





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Last updated  Aug 8, 2026 08:30:05 AM
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