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熱田区千年2丁目の八幡社から東海通に出て、西の東海通交差点方向に1.2㌔約20分港区辰巳町の稲荷神社へ今日の神社巡りも、昼に大宝二丁目でかみさんと合流予定なので、これが最後の訪問地になりそうです稲荷神社は東海通の南側の辰巳町30に位置し、小学校や大きなスーパーなどがある住宅地に社頭があります稲荷神社社頭から境内の眺め社頭右に「稲荷神社」社標があり、左右に案内板が立てられています社頭左の祭儀予定、読めそうで読めない右側の稲荷社解説 祭神は、倉稲魂神、猿田彦命、大宮女命享和元年(1801)、津金文左衛門胤臣が熱田前新田を干拓し、各地から農民を募り耕作に従事させた 新田を荒子川以西を西ノ割、中川以東を東ノ割、二つの川の間を中ノ割に区分、各割毎に氏神を祀った東ノ割の氏神が当社 秋の例祭(10月第三日曜日)には、現在も辰巳・中ノ組・西ノ組の三台の神楽が町を練り歩くもともとは現在の東海通り交差点南東角付近に鎮座していました 平成17年に道路拡張に伴いこの地に移転新築したようです因みに西ノ割の氏神は善進神明社(港区善進町4)、中ノ割の氏神は龍神社(港区本宮町3-2) 地図を見るとなるほどと頷ける津金文左衛門は、享保12年(1727)に現在の名古屋市東区平田町に生まれ、寛政3年(1791)熱田奉行兼船奉行となり、新たな土地を開拓することで、当時の藩の財源と農民の生活の糧を得ることができる新田開発に乗り出し、広大な熱田前新田を開拓しました上は弘化4年(1847)に描かれた熱田前新田の絵図右側の中川通御留川から右が東ノ割、北側に神明は描かれていますが稲荷としては記されていませんさてさて、新田に割り振られたイからタまでのどこに稲荷神社が位置するものか鳥居から拝殿の眺め入母屋妻入りの木造で木の色合いが綺麗な拝殿手前に常夜灯と陰に隠れていますが一対の狛犬がいます左の建物は社務所になります境内右隅に周囲の寄進物と比べ年代が古そうな御宮培?の石標今こうして改めて見ると、左側面に寄進年が刻まれていたようですこちらに遷座する以前のものをこちらに持ってきたのかも境内右の手水舎二つの手水鉢が置かれ、澄んだ清水を湛えていた右の手水鉢は盃状穴が見られ、こちらも遷座以前から使われていたものを持ってきたと思われます盃状穴信仰の起源は古く縄文時代からとも云われ、再生や魔除けを祈願し寄進物に何度も〃石を叩きつけ結果こうした凹みが出来上がります時代を越えた多くの人々の願いというか、思いが凹みに込められていますこうした信仰は江戸時代から昭和に入ってからも続いたようです今のご時世これをやっていると器物損壊になるんだろうなぁ社殿全景拝殿後方の渡殿の先は、ひと際高く石垣が積まれた本殿域があり、そこには常夜灯と狛犬の姿がありますこちらは拝殿前の狛犬やや頭でっかちで肉付きの良い姿、寄進年は見ていません本殿域渡殿の両脇に三対の常夜灯と本殿を守護する狛犬が安置されています随分色白の狛犬、少し陽に当たった方が健康的かもこちらも寄進年は見ていません本殿域は狛狐と本殿両脇に二社祀られているここまで稲荷感がなかったが、漸く稲荷の実感が湧いてくる流造の稲荷神社本殿と両脇の社、残念ながら社名札はなかった祭神は稲荷三座倉稲魂神、猿田彦命、大宮女命流造の本殿脇障子などには細かな彫が施されています波限神社の参拝が10:00、4社目の稲荷社参拝を終えた時間が11:40大宝二丁目で12:00にかみさんと待ち合わせたが残り20分、東海通の西側にも廻りたかったがまたの機会にしよう東海通りから地下鉄に乗り急ぎ向かう、中華ランチに間に合うか稲荷神社創建 / 享和元年(1801)祭神 / 倉稲魂神、猿田彦命、大宮女命境内社 / 不明社2社参拝日 / 2024/02/17所在地 / 名古屋市港区辰巳町30-11関連記事 /・千年2 八幡神社・八幡社 (千年1丁目)・波限神社千年2八幡社から稲荷社 / 東海通りを東海通交差点方向に1.2㌔約20分中国四川料理 錦城本店 日比野お昼のランチメニュー「ハーフミニセット」真っ黒な肉味噌と真っ赤なラー油がマッチする担々麺に麻婆豆腐、エビチリとサラダこれとは別におひつで提供される御飯に杏仁豆腐のデザートが付いて1300円とリーズナブル全体的に濃い目の味付けなので、御飯やビールがすすむことミニセットとは言え、歳を考えると食べ過ぎ、満足のランチでした所在地 / 名古屋市熱田区一番1-5-12 嶋田ビル1Fさてとお腹も満たされたのでボランティア説明会に行くとするか
2024.03.31
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千年1丁目の八幡神社から旧東海道を南に進み新幹線の高架を過ぎ暫くすると千年2丁目の八幡神社の社頭に至ります所要時間は徒歩10分程千年2丁目に鎮座する八幡神社の社地全景道路沿いにほゞ東向きに社頭を構えます社頭全景正面に石造明神鳥居と右側に象形文字で書いたかのように八幡神社の社標がある社標の文字は鳩をモチーフにして書かれ、少し離れて見ると違和感なく読めてしまう鳥居の左に八幡神社祭礼の案内板社頭左の開拓記念碑碑文は確認しなかったが、この辺りは潮の満ち引きで干潟が現れ、その間に堤を築きながら人と自然が陣取り合戦の様に農地を広げてきた場所ですそれに伴い堤は沖に伸び、河口も遠のいていった鳥居から境内の眺め、正面に石造番塀を構えています鳥居の額は八幡神社で八は鳩を意識した書体境内右の全景正面に忠魂碑があり、常夜灯、本殿末社造営碑、八幡神社由緒が纏められています千年八幡神社由緒御祭神 誉田天皇(応神天皇)境内神社 多度社 御祭神 天津日子根比命、天目一筒命秋葉社 御祭神 迦具土命由緒当神社は もと尾張徳川公の下屋敷の南庭に鎮座 歴代藩主の崇敬が厚かったが天保8年8月11日熱田築地前新開の総鎮守 また熱田全新田の丑寅(北東)の鎮とし 現在地より南方約20間(約36㍍)の処に社殿を建立し 徳川家よりの多くの宝物と共に遷される安政元年11月 安政大地震起こり社殿等倒壊するが有志により復興安政2年8月 暴風雨の為全面入潮被害多し万延元年4月 社殿改築遷座を行う同 5月 烈風暴雨襲い南堤の崩壊により一面に海水氾濫し宝物什器類赴く流失明治5年7月 村社に列せらる明治6年9月 再度大暴風雨に襲われた為遂に現在地に遷座明治18年5月 本殿末社の御造営を行い遷座の式を行う明治24年10月 濃尾地震により多大の被害あり明治29年 本殿改築明治34年 拝殿修復大正12年 本殿御造営し遷宮式を行う昭和10年9月 神饌幣帛料供進神社に指定される同 10月 本殿・渡殿其の他附属建物に至るまで面目を一新し正遷座の厳儀を執行昭和20年6月 戦災により壊滅昭和34年9月 伊勢湾台風により損壊昭和35年10月 本殿御造営昭和54年5月 本殿末社殿御造替祝詞殿拝殿を再建し正遷座の式を挙行名古屋市史の八幡神社の記述は当社由緒と同じ内容でした、また愛知県神社庁からも見ましたが内容は神社由緒の足元にも及びもしないいつもの内容上は八幡社(千年1丁目)で使用した舩方新田と熱田築地前新開絵図右上に山崎川が描かれており、現在の地図と照らし合わせると、位置的には中央の氏神は千年2の八幡社を示しているのかもしれません因みに熱田築地前新開の絵図には社は描かれていなかった現在の道路と照らして合わないのも明治6年に遷っているからだろうここから先は由緒を尊重して先に進めようさて、由緒にある下屋敷とは、現在の名古屋市東区葵1丁目に残る下屋敷跡を指しており延宝7年(1679)尾張藩2代藩主徳川光友が築いた屋敷とされ、6万4千坪の広大な敷地に回遊式庭園を持つていたとされます簡単に6万4千坪と云われても庶民には全く現実味の無い広さ昔の車のカタログには性能をアピールするため0から400㍍の走行時間を測定したゼロヨンなる表示がされていた取り締まりの心配のなく、自分の庭でゼロヨンを試すことができた広さだろうその私邸にあった神社を新田の鎮守として現在の鎮座地から少し南の鬼門に遷座させたという現在の千年水処理センターあたりと思われます境内右の百度石境内左に手水舎手水鉢には天保の元号が刻まれています、その下は…12年(1842)と読めるような境内左に作良(さくら)堤の石標と境内社先の絵図にある熱田築地前新開、文久元年(1861)に作良新田に改称され、新田を護っていた堤がこのあたりにあったと云う事でしょう作良新田は後に舩方新田と合併し千年となりますが、名の由来が当時は一帯に鶴が生息していたそうで、鶴は千年、亀は万年から引用し千年になったそうですこの板宮造りの社、社名札がなく詳細は分かりません奥の石灯籠を見ていないので、竿に答えが刻まれているかも知れません八幡神社社殿全景コンクリート造の入母屋妻入り拝殿で奥に渡殿と繋がっています大棟の鬼や軒丸瓦、破風飾りには橘の紋が入ります拝殿前を守護する狛犬、親の背にやんちゃな子供の姿があります寄進年は見忘れました拝殿額には「千年八幡神社」で熱田神宮宮司による揮毫根拠はないけれど千年と付くだけに、先に掲載した千年1の八幡神社はこちらから分祀されたものかもしれませんここにも橘紋樽酒かぁ、説明会終えたらかみさん誘って一杯ひっかけて帰るかぁ拝殿から本殿域の眺め柱の陰に隠れていますが、本殿域手前に一対の狛犬と本殿両脇に社が祀られています隠れていた狛犬は年代不明ですが、体の黒ずみや意匠などから、拝殿正面の面々よりキャリアがありそうです本殿と境内社大きな社が八幡神社で、左右の社が多度社、秋葉社と思われます何れも一間社流造で、八幡神社本殿は脇障子をはじめ桁隠し、木鼻などら彫が施され、大棟には金色の橘の紋が施されています幾度も越水や災害を受けながら、氏子達に支えられ今も鬼門を護る千年2丁目の八幡社スッキリして明るい神社でした八幡神社創建 / 天保8年(1837)祭神 / 誉田天皇(応神天皇)境内社 / 多度社、秋葉社、不明社参拝日 / 2024/02/17所在地 / 名古屋市熱田区千年2-31-9千年1八幡神社から千年2八幡社徒歩ルート / 旧東海道を南下徒歩約10分関連記事・八幡社 (千年1丁目)・波限神社
2024.03.30
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28日名古屋の桜の開花も宣言され気分はいよいよ、どこか遠出にでかけてみようかなそんな季節になってきました寒さから休眠していた一ノ宮巡りもいよいよ活動再開冬の間かみさんが練りに練った2024年最初の計画は往復2000㌔を越える大胆な計画その前に車検を控えた出動回数の少ない自分の車ご機嫌を窺うために下道を走って岐阜県土岐市の三国茶屋を訪れることにしました朝から日常点検、タイヤの空気圧、油脂類のチェックを済ませ目的地に向いました車はいたって順調最初こそガソリンの水の影響でアイドリングが乱れていたがそれも落ち着き安定する雲興寺の前を走る県道33号線の上り、下りも2トンを超える車の加速、制動に問題はなしこれなら2000㌔不安はなさそう順調に三国茶屋に到着名古屋から近いながら、標高が少し高いこの付近にくると一枚羽織たくなる相変わらず落ち着いた店内、テーブルにはいろりに火が入れられていましたいつものように自然薯のとろろ汁定食と山菜の天ぷらフキノトウの苦みが春の訪れを感じさせてくれましたみくに茶屋所在地 / 岐阜県土岐市鶴里町柿野3038-1定休日 / 第1.3木曜・毎週金曜営業時間 / 10時~16時(当日分の自然薯がなくなり次第終了)みくに茶屋から県道13号線の山道を10分程下り、多治見にある多治見市モザイクタイルミュージアムへ向かうこの外観はTVなどでもお馴染みのもの内部に入ったことがないので入館料310円を支払い拝観内部は4階建てここ多治見市笠原町は全国一の生産量を誇るモザイクタイル発祥の地館内はモザイクタイルのモニュメントや昔懐かしいタイルを用いた流し台や風呂などが展示されています他にもモザイクタイルの歴史やタイルの販売もされています写真は最上階のフロアにあるモニュメントかみさんはこれを見たかったようで、SNSには映えた写真も載っているらしいしかし実物を前にイメージとは違ったのか撮り倦ねていた展示エリアにはモザイクタイルの製品展示やタイル産業の歴史が語られています春休みを迎え、体験コーナーはタイルを用いた思い思いの作品作りに没頭する子供達で賑わっていました多治見市モザイクタイルミュージアム所在地 / 岐阜県多治見市笠原町2082-5HP / https://www.mosaictile-museum.jp/三国茶屋からここまでのルートさてここまで来たのだから近くの神社に寄る予定でいましたが、午後から雨の予報空もそれを予感させる雲行き雨が降り出す前に帰りがてら最寄りの道の駅で山菜を買い求めようとミュージアムを後にする春気分もここまで移動の最中、快調に法定速度で直線道路を走っていたら何の予兆もなく以下の状況に陥ってしまったフロント運転席側のタイヤが見るも無残にバーストホイル剥き出しとなりタイヤ交換できる駐車余地まで自走不能に陥ってしまった行き交う車両もあり、危なくて交換作業はできないで、最寄りの交換スペースまでレッカーを依頼「高速を使って試運転したら?」とも云われていたが、これがあるから敢えて下道を選択したが嫌な予感が的中家を出る前に空気圧調整やタイヤの外観チェックをして問題なかったのだが…速度超過の無謀運転をしたわけでもなく、落下物を踏んだ訳でもないのだが高速でバーストしていればホイルもタイヤハウスも無傷で済まなかっただろう最初見た時はそれまでの春の気分から一気に寒気がした今時の車、特に軽などはスペアタイヤが積載されていません仮に交換できる場所があってもなんともできませんスペアタイヤがあり、点検してもこんな結果でした普段乗らない車でお手掛けの時は運転前点検をした方がいいでしょう2000㌔走り出す前に新しく買い換えないと……財布の中を木枯らしが吹きすさぶ
2024.03.29
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波限神社から東の国道154号線を越え南東へ徒歩10分弱 熱田区千年1丁目に鎮座する八幡神社の社頭が左に見えてくる左に鳥居の姿がある、道は緩やかに上り、その先で堀川堤で突き当りとなり、堤の上に立ち並ぶ住宅の先は堀川が流れている 白鳥橋から下流の堀川右岸は1676年に作られた南北に長い船方新田が広がっていました名が示す様に、海運業を営む船頭や船の補修を生業とするものが多く居住したと云われます 1876年船方新田は作倉新田と合併し千年村字船方になり、その後も合併を繰り返し現在の千年1丁目や千年2丁目に編入されていったようです波限神社から八幡神社へ来る途中で船方の名が付く交差点や公園を見かけますが、船方新田の元々の位置は堀川右岸沿いの三角屋根が連なる工場の辺りに相当するようです最初に書きますが、幾つかの地史に目を通しましたが、神社の記述は見付けられず、境内にも由緒に繋がる碑はなく、由来や創建など分からないので地図から見ていくことにしました 上は明治24年頃の千年1の八幡神社鎮座地とほゞ現在の地図を見ています当時は現在の大瀬子橋はなく、大瀬子渡しで対岸に渡っていました、ここに橋が架けられるのは明治42年(1909)のことです 左の地図で、大瀬子渡しに続く赤い道筋は旧東海道で、そこから少し東に入った辺りが神社の鎮座です明治24年の地図には八幡神社の鎮座地に鳥居の印は見られず、昭和43年(1968)に忽然と鳥居が現れます これを持って昭和の創建とはなりませんその理由の一つに、境内寄進物の幾つかに大正の元号が見られることから、規模はともかく大正時代、又はそれ以前から鎮座している事になります 創建は地史の編纂が進む江戸後期以降、或いは明治に入ってからなのかもしれません上は年代は不明ですが、船方新田之図になります 堀川と精進川(新堀川)が交わり熱田湊や船方新田が描かれています新田北側に「御除地十一丁歩氏神」と中央に「御除地五畝卜氏神」の文字が見えます この二社がどこを指すものか、想像を膨らませてみる北側の氏神は堀川に面しており、先に掲載した波限神社の遷座前の鎮座地、中央が当神社ではないだろうか ただ、写真では切れていますがすぐ下に山崎川が描かれており千年2丁目の八幡神社の可能性もありますそれでは境内へ社頭西側から見る境内 南南西を向いて社頭を構え、石の明神鳥居とすぐ先に拝殿が建てられています社頭正面の眺め 社頭に社標は見られず、壁際に二対の石燈籠がある鳥居の額は八幡神社、拝殿の鬼には八幡社の名が入っています境内右側に置かれた手水鉢(寄進年未確認)境内から社殿全景の眺め 入母屋妻入りの二段垂木で梁間・桁行三間の四方吹き抜け拝殿で破風飾りに橘の紋が入る拝殿と本殿の間に一対の狛犬の姿がある拝殿前から本殿の眺め、左の建物は八幡神社社務所拝殿から眺める本殿 石垣で高く積まれた本殿域に本殿の他に両脇に二社祀られているようです本殿域と狛犬 この辺りは古くから⽊曽の山奥で切り出された木曽材を⽊曽川を使い、桑名を経て堀川上流に廻漕し名古屋城築城部材として供給した事から、築城後もこの地方で産出された木材の一大集散地となり堀川沿いにはそうした企業が多かった狛犬の寄進者もそうした団体名のものが見られます地図上では昭和に入って忽然と記されていた八幡社ですが、この狛犬は大正13年に寄進されたもの本殿域全景 中央の一間社流造の八幡社、祭神は恐らく応神天皇、左右の社は社名札がなく詳細は不明境内寄進物の元号は燈籠の竿には大正12年(1923)、狛犬の台座が大正13年(1924)この神社の創建には堀川周辺で海運業や渡しなど営む方々が大きく寄与しているようです拝殿から社頭の眺め 正面の鳥居は大正12年(1923)に寄進されたものなにも分からない千年1丁目の八幡社でしたが、10分程南に鎮座する千年2丁目の八幡社でなにか分かるかもしれません八幡神社創建 / 不明祭神 / 応神天皇境内社 / 不明社2社例祭日 / 不明所在地 / 名古屋市熱田区千年1-9-37参拝日 / 2024/02/17徒歩アクセス ・波限神社から八幡神社 / 国道154号線を越え南東へ徒歩10分弱関連記事 ・波限神社
2024.03.29
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2/17、この日は名古屋ウィメンズマラソンのボランティア説明会に朝から参加するかみさんと共に名古屋学院大学 名古屋キャンパスを訪れました自分は午後の説明会だけなので午前中はフリータイムと云う事で白鳥公園の南を横切る国道1号線から南の熱田区南部の神社を巡って来ました普段名城線を主に利用するので、名港線乗り換えもあり、あまり縁のない空白地帯名古屋キャンパスでかみさんを見送り、そこから南下する事約20分熱田区45に鎮座する波限(なぎり)神社の社頭に到着南向きに社頭を構え、鳥居の左に社標(1975)が立てられています鎮座地は正保3年(1646)から慶安2年(1649)にかけて、尾張藩により堀川から庄内川にかけて広範囲の新田開発が行われた地域で、それにより得られた耕地を東から西にかけて33に番割された地域ここはその一番割にあたり、現在でも番割当時の名残が町名として一部に残っています現在は農地は姿を消し住宅や工場、ショッピングセンターが多い環境なので、波限(なぎり)神社の社叢は存在感があります社頭から境内の眺め左から波限神社社標、熱田史跡「まむし神様」の碑、石造神明鳥居、波限神社由緒碑があります鳥居はこの社頭の他に境内西側にも石造神明鳥居が建てられていますかつて、まむしが多くいたことに由来する波限神社由緒略記「祭神:彦波限建鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎ たけうかやふきあへずのみこと) (神武天皇の父様)例祭 10月18日 由緒 この神社は慶長15年(1610)に加藤清正公が名古屋城を築く際、運搬船が度々遭難することを憂いて、堀川河口にあった小島に一宇を建て、日向国鵜戸神宮の御霊代を祀りました社名は彦波限にちなんで波限神社と名付けられ、海運の守護を祈願し、深く信仰されました 村民からの敬愛は深く、全村が神社の祐福を願い、平和で幸せな生活を営めるのは、まさに神社の守護の賜ものである海上安全、交通安全、安産、縁結びの神として、遠方からの参拝者も多い 小島は現在の千年船方にあり、神社は白鳥橋の旧渡船場から南方300メートルの堀川河畔にありました昭和14年10月に愛知時計の発展拡張に伴い、現在の地に移転しかし、昭和20年(1945)3月19日の空襲により、本殿や拝殿などの建造物はすべて焼失 その後、時間を経て昭和49年(1974)12月にようやく復旧再建され、御本宮の鵜戸神宮(宮崎県日南市)に参宮し、御分霊を受け、昭和50年2月1日に遷座祭が行われた」・名古屋市史の社寺編 「波限神社は南区千年字船方にあり、境内126坪あり、明治初年の勧請なり、明治35年頃改造遷宮す、今村社に列す 祭神は彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊なり、神殿、槍鳥居 大正元年建設などあり境内神社は秋葉社 祭神は軻具土神の一所在り 例祭は8月15日也」と記されていました・熱田区史跡散策コース概説 「名古屋城を築城の際、加藤清正が資材海運の安全を祈って建立した本殿は戦災で焼失 し、昭和49年に再建された」とあります 他に愛知県神社庁に目を通すが得るものはなかった名古屋市史と神社由緒では創建や遷座の時期が食い違っており頭の整理がつかない 神社由緒と史跡散策コース概説では清正の下りなど符合しますが、由緒から引用しているのかもしれません本記事では神社由緒概説を尊重し記述します 今時、機械を多用した歩道の整備ですら、なんやかんや長い期間やっています堀川の掘削は1610年から始まり翌年には完成したとされます なにもない所から短期間で掘削したものとは思えず、掘削にあたり従来の護岸の整備に石は必要だったと思われます境内には石垣に加工しようとして楔を打ち込むため開けた屋穴の痕跡が残る岩が複数置かれています過去の地図から鳥居の姿は確認できず、終戦(1945)直後から5年間に当地を写した航空写真から鎮座地を見て見ました 当時は既に現在地に移転を終え、熱田空襲で被災し焼け野原になっていた頃社叢の樹々はなく、現在の社叢はその後植えられたものと思われます 多くの犠牲者を出した愛知時計のあった辺りでは目立つ建物は見られず、由緒による旧鎮座地は堀川右岸、愛知時計の東端になり、現在の千年プロムナード(黄色の辺り)と思われます昭和49年12月復旧再建された社殿の多くはコンクリート造りのものが多く、写真の手水舎もそのひとつ そこに置かれる手水の寄進年は見忘れましたが、再建以前のものではないだろうか後方の鳥居が社地西側の鳥居(1975)のもの拝殿全景 外観はシャープな印象で、梁間2間、桁行3間の四方吹き抜けのコンクリート製社殿の左に境内社の豊受稲荷大明神、右に熱田社と秋葉社の相殿が祀られています 波限神社では神社につきものの狛犬の姿は見られなかった境内は枯れ葉が散乱することもなく清掃が行き届いていました拝殿内から本殿方向の眺め ひょっとして柱はもとは赤だったのかなぁ、壁面の色合いとは少し違うように感じます祭神の彦波限建鸕鷀草葺不合尊の御神徳は海上安全、交通安全、安産、縁結びとのこと まずはこの先の安全を祈願させて頂きます・・・2月も半ば過ぎてましたが小さな鏡餅が供えられていました本殿右の境内社は熱田社と秋葉社相殿板宮造りの社には二枚の社名札が掛けられていますが、文字は脱色し読み取り難かった 名古屋市史(大正4~5)では「軻具土神の一所」とありますが二社に相違ありません創建時期由緒概要に記されておらず、市史が編纂された当時が一社だけだったとすると、熱田社や豊受稲荷はその後に遷座したものとなります波限神社本殿は木造の棟持柱が現れた神明造、棟には外削ぎの千木と4本の鰹木が付くもの拝殿右から境内社と社殿の眺め複数の赤い幟がはためく先に豊受稲荷豊受稲荷全景 稲荷と云えば狐ですがその姿はなく、社の前に小さな陶製の置物が置かれていました豊受稲荷の社は一間社流造で軒唐破風が付くもので棟には外削ぎの置き千木と3本の鰹木が施され、小さな社ながら木鼻や虹梁、蟇股など細かな彫飾りが施されていますシャープな神明造と曲線の流造、どちらも固有の美しさがあります拝殿から社頭の眺めそう云えば社頭の「まむし神様」由来は調べていなかったけれど、湿地が多かっただろう土地柄なのでマムシに纏わる言い伝えがあるのだのう、しかし蛇は大嫌いなので、考え出すと境内の大きな楠の枝から落ちてくるんじゃなかろうかなんで妄想が始まるこれ以上深入りしないようにしよう波限神社創建 / 慶長15年(1610)祭神 / 彦波限建鸕鷀草葺不合尊境内社 / 秋葉神社、熱田社、豊受稲荷大明神例祭日 / 10月18日所在地 / 名古屋市熱田区2-45-8参拝日 / 2024/02/17公共交通機関アクセス ・地下鉄名城線熱田神宮伝馬町駅から西に1.6㌔・25分前後 ・地下鉄名港線 六番町駅から東南に1.2㌔・20分前後
2024.03.26
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先回掲載した前田西町の薬師堂から、西方向にある助光住宅バス停に向かうその途中、土之宮神明社の前を通りかかり、金山行きのバスの時間を気にしていたかみさんですが、一本遅らせてもらい立ち寄らせてもらう前田西町の薬師堂から西に2分程進むとそこは中川区助光1丁目助光の町名は鎌倉時代から続くもので、尾張国地名考によれば地名は人の名によるものと云う往古のこのあたりには助光氏の所有田がありその名が残ったようです戦国時代から安土桃山時代には、現在土之宮神明社が鎮座するこの場所に、織田信長を支えた赤母衣衆の一人だった福留左近将監の居城 助光城があった場所境内一帯が助光城の跡で、城の痕跡は見られませんが、境内の秋葉社左に「福留将監古城跡」と記された三角の石碑がそれを伝えています境内は南北に長く、南向きに社頭を構えています社頭右手に土之宮神明社の社標と由緒があり、一対の常夜灯とその先に神明鳥を構えています鳥居は大正12年(1923)、社標は昭和2年(1927)に寄進されたもの神明社土之宮合殿 由緒概要、内容は以下「御本社 神明社土之宮合殿(通称 土之宮神明社)境内社 秋葉神社鎮座地 名古屋市中川区助光1丁目106番地神明社土之宮合殿御祭神 天照皇大神 概要 皇室の祖神、伊勢神宮の主祭神で日本の神様の代表 御神徳 国土安泰、家内安全、開運招福、農工業等全産業振興 埴安比咩神 (埴安姫神) 概要 火の神、男神の埴安比古神と共に祭器を司る土の神様 御神徳 農地豊潤、肥料開発、農耕進展等五穀豊穣、陶磁器産業・鉱工業の繁栄秋葉神社御祭神 迦具土神 (軻遇突地尊) 概要 伊邪那美命が最後に生んだ火の神、秋葉山本宮の祭神、鎮火・防火の神様 御神徳 工業・鉱業・窯業の発展、就労安全、金運招福 由来創立年代 正確には不明 尾張志の神社の項に「神明の社助光村にあり、土宮神明と云う、文明11年9月の棟札あり」と古くより助光の氏神として尊崇あつく明治5年村社に列格する 古書の助光城の項に「当村土宮神明社の 右棟札に奉建立御柱一宇 大檀群助光郷 福富宮内左衛門尉光親 文明11卯閏9月8日と見えたり当所居住の人也」と記載在り 尾張徇行記には「神明社境内年貢地三畝十八歩」とある文明11年(1479)の干支は亥であり、卯と亥を誤って伝承したと推定される いずれにせよ、今から500年以上前の創立である祭典・行事 春季大祭 5月第一土曜日、祈年祭 秋季大祭 10月第二土曜日 例祭・収穫祭」地史をもとに分かりやすく記載されています 上は寛政期(1789~1801)に描かれた海東郡村邑全図の助光村ほぼ中央に土之宮神明社らしき鳥居と社地を取り囲む様に水路が巡らされているのが描かれていますこれを助光城の名残と捉えてもいいのかも知れない参道から境内の眺め左に手水舎、常夜灯とその先に狛犬、社殿と連なり左奥に境内社の秋葉社の姿がある拝殿はコンクリート造りで四方吹き抜けのもの社殿全景拝殿・幣殿・覆殿と連なり本殿域は透塀で囲われています拝殿の鬼には五三桐と破風飾りにが木瓜らしき紋が入れられています拝殿前の狛犬は大正10年(1921)寄進のもの拝殿内額の「土之宮神明社」は元名古屋市長を務めた杉戸清氏の揮毫幣殿両脇の狛犬(寄進年未確認)覆殿・幣殿ともにコンクリート造りで、神明造りの覆殿の棟には外削千木に5本の鰹木が飾られています境内左の秋葉神社左の三角形の石碑が「福留将監古城跡 是より西南壱丁余」、台座には「助光二村」と刻まれた碑があります因みに一丁は約100㍍なので南西壱丁というと、現在の助光住宅バス停辺りまで城もしくは居館が広がっていた事になりますが、城については築城・廃城時期など不明な所が多く定かではないようです板宮造りの秋葉社本殿手前の常夜灯の竿には秋葉社の社名と昭和4年の寄進年が刻まれていた助光集落の火伏の神として今日まで受け継がれてきた創建時期等の詳細は不明拝殿から社頭の眺め正面の鳥居は大正12年(1923)寄進のものでした偶然通りかかった神社ですが、助光城など色々と知る機会を与えてくれた古くからの神社ですさて寄り道してばかりの「ヒラメキさんぽ」でしたが、ここまで来れば助光住宅バス停も目と鼻の先だ神明社土之宮合殿・助光城跡創建 / 不明祭神 / 天照皇大神、埴安比咩神境内社 / 秋葉社参拝日 / 2024/02/14所在地 / 名古屋市中川区助光1-160薬師堂から土之宮神明社 / 西に向かい突き当りを左折、一筋目を右に進んで左側、徒歩2分程関連記事・前田西 薬師堂・秋葉神社・前田 速念寺・醫王山 龍瓢寺・打中 神明社・雨宮神社・八王子神社 (野田村三社)・秋葉神社・三狐(さんこ)神社 (野田村三社)・八百万神社・白山神社・秋葉神社・如意山 宝珠院 常楽寺・冨士大権現 天満天神宮・荒子観音寺・宮窓 神明社・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅
2024.03.25
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冷たい雨があがった今朝方、名古屋市昭和区川名山町の香績院へ枝垂れ桜を見に行ってきました過去の履歴では遅いと思って半ば諦めて向かいました現地は霧雨しっとりとした雰囲気で満開の桜もいいもんだと思い山門を眺めるなにか今一つピンクのカーテンに精彩がない花の付き具合に精彩がないこれはもしや既に終わりかい?中門から桜を眺める花はこれから盛期を迎えるようです今日の境内の枝垂れ桜境内には花弁ひとつ落ちていないので間違いなさそうです早朝ながら同じように桜を見に訪れた人が数名この冷たい雨があがり陽気が良くなると一気に咲くのだろうか因みに香嵐渓のカタクリが見頃を迎えたということです今年は花の時期がさっぱり分からない訪問日 / 2024/03/24関連記事 / 香積院 (名古屋市昭和区川名山町) 枝垂桜今年も出遅れ
2024.03.24
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先回掲載した前田利家出生の地とされる速念寺から、帰途に着くため、西方向の助光住宅バス停に向かう速念寺から南に向かい二筋目を右に向かった左に前田西 薬師堂・秋葉神社が鎮座していました徒歩で2分程、距離にして200㍍もないでしょう前方に見えてくる入母屋瓦葺の小堂が前田西に鎮座する薬師堂・秋葉神社になります薬師堂全景堂前に献灯台を備え、一間の向拝が付くもので、入口の格子戸以外は板壁の堂軒下の三方に濡縁があり、手前の献灯台には蝋燭が灯された形跡もある季節のせいもあるだろうが境内は雑草もなく、日々手入れされているように見受けられます周囲の街並みは建替も進み、今どきの住宅が多い街並みですひと昔前の古い町並みにこうした堂が佇む光景は身近にあったものです薬師堂正面視線を引く装飾は少なく、頭貫先端の木鼻は獅子や獏の原形になるシンプルな意匠のもの光背の蟇股には輪宝紋が施されている周辺には先の速念寺(天台宗から浄土真宗に改宗)の他、圓盛寺(真宗)、称円寺(真宗大谷派)の寺院が狭い範囲に鎮座しており、それらの寺と所縁がありそうです薄暗い堂内を覗き込んで見ました(不審者そのものか)、正面に金色の厨子らしき姿が見られました恐らく本尊の薬師如来像が安置されているのだろう左には火焔光背を持つ不動明王像が祀られているようですダメもとでレンズを向けて見ましたが、結果はやはり載せれるものではなかった大棟の鬼には「薬」の文字が入るこの薬師堂の建立時期がいつ頃なのか新旧地図・村絵図などから探しましたが、建立時期につながるものに出逢うことはできなかった薬師堂の左に鎮座する秋葉神社比較的綺麗な石で作られた境内には年輪を重ねた楠とイチョウの樹が植えられている何れも上は押さえられ、枝もバッサリと剪定されているが太い主幹の勢いは衰える事はないいつから祀られていたものか、寛政期(1789~1801)に作られた愛知郡村邑全図の前田・助光・伏屋村絵図からは特定できず、地史に目を通していないので創建は定かではありません確かなのは手前の幟立てが昭和56年(1981)寄進のものでした秋葉神社本殿板宮造りで、本殿域の玉垣も昭和56年(1981)に寄進されたものでした参拝当日気付かなかったが、本殿域の右奥に古い灯篭があったようで、こうして見ると寄進年は昭和よりもう少し古いのかもしれません前田西 薬師堂・秋葉神社薬師堂創建 / 不明本尊 / 薬師如来像秋葉神社創建 / 不明本尊 / 火之迦具土神参拝日 / 2024/02/14所在地 / 名古屋市中川区前田西町1-1301 速念寺から薬師堂・秋葉神社 / 南に向かい二筋目を右に進んで左側、徒歩2分程関連記事・前田 速念寺・醫王山 龍瓢寺・打中 神明社・雨宮神社・八王子神社 (野田村三社)・秋葉神社・三狐(さんこ)神社 (野田村三社)・八百万神社・白山神社・秋葉神社・如意山 宝珠院 常楽寺・冨士大権現 天満天神宮・荒子観音寺・宮窓 神明社・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅
2024.03.24
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龍瓢寺から県道29号線を西進、新前田橋を渡り庄内堤右岸に鎮座する「ヒラメキさんぽ」最終チェックポイント前田速念寺を目指します橋を渡り下りきった先で右に進むと龍瓢寺の鐘楼門に続きます鐘楼門から境内方向の眺め右に梅鉢紋の入った「前田速念寺」の寺標前田利家所縁の地を巡るルートに組み込まれているだけに、利家の生誕地(諸説あり)とされ、前田家と所縁のある寺かつてこの地には前田城があった場所として城址碑も建てられています寺標の左側面には「前田利家郷御遺跡」とも刻まれています庄内川右岸のこの辺りは中川区前田西町になり、古くは尾張国海東郡前田村で寺号にも前田の名が入るように前田家の領地だったのが伝わってきます前田速念寺はかつて前田城が築城され、前田氏発祥の地城の築城時期や築城主など詳らかになっていないようですが、城は庄内川右岸のこの地に築城された平城だったされます上は大正初期の地図で鎮座地は庄内川右岸にあたり当時の西前田の東に位置します現在の地図から速念寺を中心に前田城があった範囲を見ると、北は下之島公園、南は県道、西は長須賀小学校付近の範囲に広がっていたと思われます現状から城があった名残は感じられませんが、前田一族はこの城を拠点として、南の下之一色城、東の荒子城、西の蟹江城を出城として一帯を治めていたようです蟹江合戦(天正12年)以降廃城となり、その後の城址に建立されたのが前田速念寺とされます建立時期は定かではなく、一説では平安時代に遡るとも云われ、当初は天台宗の寺だったようですその後、前田利家の叔父 前田利則が出家して意休法師と号し、寺を中興し初代住職となったと云われますこの際に天台宗から現在の真宗に改宗したようです寛政期(1789~1801)に作られたとされる愛知郡村邑全図から前田・助光・伏屋村を見るも、天正12年(1584)に廃城となった城はともかく、意休法師が中興した寺が絵図では見つけられなかった山門額は梅廼寺ここ前田城は利家(1539~1599)出生の地とされ、利家7歳のときに荒子城に移ったとされています先に立ち寄った冨士大権現天満天神宮が鎮座する荒子城では、ここで生まれ育ったとありどちらにも根拠がありそうです鐘楼門左の前田速念寺の由来「速念寺は加賀百万石の太守前田利家公寄進になる阿弥陀如来を本尊としているここはもと海東郡前田村と言い、前田城があり、 前田氏発祥の地である利家公も前田で生まれ、 幼少にして前田城の出城、新設の荒子城に移って成長したとするのが寺伝である前田氏は菅原道真公を祖と仰ぎ、梅鉢の紋を用いる前田氏は織田信長に属し、 西に蟹江城、東に荒子城、南に一色城等を支配し、 前田城はその中心であった前田城は、天正十二年長久手の合戦ののち、秀吉方についたため、 家康方の攻撃を受け落城、城主与十郎は蟹江で討死、その子 長種は北陸に逃れて利家に仕え、一万石(のち二万石)を得た利家の長女幸を妻とした利家の叔父前田利則は、出家して意休と号し、浄土真宗速念寺初代となり、速念寺は前田氏の鎮魂の寺となった境内には、前田家古墳や最後の城主与十郎の墓があるまた明治に建立された利家公の記念碑や、中部石川県人会の シンボル碑がある平成十三年十一月 前田 速念寺」「前田・戸田ふるさとコース」の解説は以下「当寺はもと天台宗に属していたが、天文12年(1543)、中興の意休法師の時、真宗に転宗した意休は俗名前田利則といい、加賀公前田利家の叔父にあたるまた、当寺は前田氏発祥の地で、境内には前田古城跡の石碑がある当時の前田氏は蟹江、一色、荒子を傘下に収めていた寺伝によると、天文6年、前田城にて利家出生、7歳頃荒子に移る天正12年(1584)小牧長久手の戦で前田城落城前田一族城主ら三基の墳墓の脇に速念寺は移り鎮魂の寺となるその後、利家は金沢城に入るが生まれ故郷を偲び、前田一族先祖の墳墓と土地を守る速念寺に本尊となる阿弥陀如来を寄進その蓮台には「聖徳太子御作、前田又左衛門尉利家」の銘がある」鐘楼門(築年代不明)から上を見上げると梵鐘と龍の姿がある境内から個性的な屋根の本堂の眺め前田利家が身につけたとされる烏帽子型の兜をモデルにして作られたもので、前田家発祥の地に鎮座する速念寺を象徴するもの本堂に掲げられる寺号額本尊は阿弥陀如来で製作年代は不明ですが、鎌倉時代以前のものとされるようです一説には聖徳太子の作とも云われるようです正面から見る姿もなかなかですが、斜めから見上げる姿も烏帽子兜の趣がある構造は主にコンクリートが多用された造りで、木の温もりが伝わる落ち着いた佇まいではないかもしれませんしかし、この前衛的な建物は前田家発祥の地、利家を輩出した前田の地を象徴するものだと感じる当日は夕方だったため、本堂内扉は施錠されていましたが、運が良ければ内部も見られそうです菅原道真を祖と仰ぐ前田家、赤い外扉の中央には紋梅鉢紋が入る本堂左の半鐘この位置からして現在使われているのか分かりません境内左側の前田與十郎の墓と前田家古墳墓加賀百万石の礎を築いた利家、この左側には石川県人会の石碑が建てられており、発祥の地に対する思いが伝わってきます利家が加賀に移り、最後の前田城主の前田與十郎が没し、前田城廃城にともない利家を頼ってこの地から多くの者が加賀に移り住んだとされ、金沢にはそうした者が集まってできたであろう尾張町の地名が残ります本堂から鐘楼門の眺め、瓦には至る所に梅の紋が入れられています「ヒラメキさんぽ」のチェックポイントは速念寺をもって終了、各所で得られたヒントから得られた回答は「ウメバチモン」になりましたゴールの速念寺からの帰路は、県道29号線に出て、西に少し歩いた先にある市バス「助光住宅停」から地下鉄高畑駅に戻ります前田 速念寺宗派 / 真宗大谷派山号 / 岡部山創建 / 不明本尊 / 阿弥陀如来 本尊聖徳太子御作境内社 / ・・・参拝日 / 2024/02/14所在地 / 名古屋市中川区前田西町1-904龍潭寺から前田速念寺 / 龍瓢寺から県道29号線を西進、新前田橋を渡り右折、長須賀小学校方向の速念寺まで徒歩15分前後関連記事 /・醫王山 龍瓢寺・打中 神明社・雨宮神社・八王子神社 (野田村三社)・秋葉神社・三狐(さんこ)神社 (野田村三社)・八百万神社・白山神社・秋葉神社・如意山 宝珠院 常楽寺・冨士大権現 天満天神宮・荒子観音寺・宮窓 神明社・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅
2024.03.23
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「駅から始まるヒラメキさんぽ」コースから少し逸れて、周辺の神社を参拝して廻ってきました打中 神明社からコースに復帰して次のチェックポイント医王山 龍瓢寺に向かいました打中 神明社から龍潭寺へは北に向かい、県道29号線(八熊通)を西進、野田3丁目交差点北側の龍瓢寺まで徒歩15分前後です上は大正時代の鎮座地周辺、当時は野田と前田・打出集落の中ほどの田圃の中に鎮座していますこのあたりまでくると庄内川堤が背後に迫り、ルートは新前田橋にかけて緩やかな上り坂が続きますここまで5㌔強歩きましたが、平坦なコースのなので足への負担はさほどでもなかっただけに、唯一の緩やかな坂はここにきて地味に足にくる醫王山 龍瓢寺全景東に山門を構え右側に本堂・庫裏、山門正面が薬師堂になります室町時代の1455年に創建された曹洞宗寺院で、「大松と仏足石の寺」として親しまれている。境内は「古松般若を談ず」の趣があり、大松の近くの仏足石に触って本堂に合掌すると、願いがかなうといわれている。山門左の解説「医王山龍潭寺曹洞宗。 康正元年(1455) 錦溪和尚の創建。釈迦牟尼仏を本尊とし、右脇に永平道元禅師、左脇に總持螢山禅師像を安置している。 明治年間に、本堂を再建した折、 須弥壇・来迎桂・来迎壁などを少切り縮めて再利用した。このうち須弥壇は典型的な唐様の優れたものである。 また、木造如来像や菩薩像の一部(仏頭)があり、かなり腐食ているが平安後期の様式を伝えた丈六の大きな像てあったと思われる。須弥壇と共に市の文化財に指定されている。 往時、七本あったという老松が四本残り、市の保存樹となっている。名古屋市教育委員会 」「ヒラメキさんぽ」のクイズのヒントはこの中にあるようで、かみさんが解説を見入っていましたその間に境内伽藍を見て廻ってきました左は尾張志(1844)から龍瓢寺の記述、内容は以下のようなもの「龍瓢寺 野田村にありて醫王山といふ海東郡桂村廣済寺の末寺也 康正元年 僧錦溪創建す立像の釈迦仏を本尊とし 立像の文殊普賢を脇侍とす 薬師堂 秋葉堂鎮守 白山社 開山堂などあり」また、荒子かいわいコースの解説は以下「曹洞宗、山号は医王山。 康正元年(1455年)錦溪大和尚が創建した。市の文化財に指定されている唐様式の須弥壇には、釈迦牟尼仏(本尊)と道元禅師(永平寺開山)・瑩山禅師(総持寺開山)が安置されている。 本堂内の木造如来仏頭等三体は、藤原時代の作で、市の指定文化財である。稲荷堂には文殊菩薩・普賢菩薩が、薬師堂には日光菩薩・月光菩薩が安置されている。 落ち着いた情緒漂う庭は、古風な禅林のたたずまいをみせており、「古松般若を談ず」の趣きがある。中川区史跡散策路の解説は以下「曹洞宗、山号は医王山。康正元年(1455年)錦溪大和尚が創建した。 市の文化財に指定されている唐様式の須弥壇には、釈迦牟尼仏(本尊)と道元禅師(永平寺開山)・瑩山禅師(総持寺開山)が安置されている。本堂内の木造如来仏頭等三体は、藤原時代の作で、市の指定文化財である。 稲荷堂には文殊菩薩・普賢菩薩が、薬師堂には日光菩薩・月光菩薩が安置されている。落ち着いた情緒漂う庭は、古風な禅林のたたずまいをみせており、「古松般若を談ず」の趣きがある。尾張志に記された海東郡桂村廣済寺とは 海部郡七宝町桂字寺附に鎮座する曹洞宗の寺で天文年中(1532~1555)、清洲城主織田敏定が訪れ、自筆の天桂山廣済寺の額を授けたとされ、その後も織田家代々から寺領を授けられるなど厚遇された古刹のようです解説に「苔」とあったように、山門を一歩くぐると本堂まで続く参道脇は一面苔参道左は鐘楼とその先に手水舎正面の寄棟の堂は間近で確認しておらず、恐らく解説にある薬師堂かと思われ、以降は薬師堂として表記します鐘楼手水舎龍瓢寺の龍はお休みだ薬師堂自然石の姿を生かして彫られた仏足石この石に触れ、本堂に向かって合掌する事で幸せになるという本堂と庭園の苔この時期、緑に精彩がないものの、盛期には緑滴る苔庭が楽しめる本堂は入母屋造で軒先の反りが美しい本堂の醫王山山号額本堂左の初音稲荷堂本堂から鐘楼方向の眺め江戸時代は立派な老松7本が聳え「七松庵」とも呼ばれたが、現在残るのは4本何れも綺麗に剪定された見事な立ち姿で、一面の苔と相まって情緒漂う庭です境内から山門の眺め県道29号線(八熊通)から龍瓢寺伽藍の眺め見事な老松と苔むした庭園が龍瓢寺の魅力のひとつだろう龍瓢寺宗派 / 曹洞宗山号 / 医王山創建 / 享徳元年(1455)・錦渓和尚本尊 / 釈迦牟尼仏境内社 / 初音稲荷参拝日 / 2024/02/14所在地 / 名古屋市中川区野田3-187打中 神明社から龍潭寺 / 北に向かい県道29号線を西進、野田3丁目交差点の龍瓢寺まで徒歩15分前後関連記事 /・打中 神明社・雨宮神社・八王子神社 (野田村三社)・秋葉神社・三狐(さんこ)神社 (野田村三社)・八百万神社・白山神社・秋葉神社・如意山 宝珠院 常楽寺・冨士大権現 天満天神宮・荒子観音寺・宮窓 神明社・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅
2024.03.20
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前回掲載した中郷の雨宮神社から県道を越えて西に5分も歩いた中川区打中に打中 神明社の社頭に至ります打中 神明社社頭全景狭い間口ですが、鳥居の先から境内は広がりを見せます社頭左に平成25年(2013)寄進された「村社 神明社」の社号標があります上は大正9年(1920)頃の周辺地図打出集落と中郷集落を結ぶ道路沿いの打出集落入口に鳥居の印があり、明治24年(1841)の地図にも印が現れ、創建は江戸時代に遡っていきそうです上は寛政期(1789~1801)の尾張藩が藩領各村に作らせた愛知郡村邑全図の打出村集落北側の赤枠部分に神明社の名が見えます併せて地史にも目を通してみると尾張志(1844)の記述は「神明社 打出村にあり」とある尾張徇行記(1822)「中郷村祠官高羽但馬守書上帳ニ 神明社内三畝御除地 此社草創ハ知レス 再建慶長三戌年也」とあり再建年度が記されていました愛知県神社庁からも確認しましたが祭礼日、氏子域の言及に留まっていました参道を進むと、ここにも「村社 神明社」の社号標の他に常夜灯、石の神明鳥居がある社号標は昭和2年(1927)に寄進されたものですが、標柱の中ほどからポキッと折れた痕跡が残ります背の高い社号標とはいえ、石を真っ二つにしたものはなんだろう昭和2年以降、社号標にこれだけの爪痕を残した自然災害で思いつくのは、昭和19年(1944)の昭和東南海地震と昭和34年の伊勢湾台風くらい遠目からでは痕跡は分かりませんが、この辺りに来るとなんでこうなったと勘繰りたくなる自然災害が招いたものならば、この割れ目は立派な災害遺構でもある鳥居から拝殿に続く参道沿いには桜の木が植えられており、時期がくれば参道は桜の花で艶やかに彩られるに違いない拝殿全景四方吹き抜けで切妻瓦葺の妻入り拝殿拝殿前に一対の狛犬と石の献灯台がある狛犬の年代は未確認です鬼には神明社の文字が入る神明社拝殿額読めないから達筆なんていわないが、力強い筆の運びだ社殿全景妻入の拝殿から渡廊が覆殿まで結び、境内に境内社は見られません覆殿は寄棟で大棟の意匠は珍しく茅葺屋根古民家に通じるものがある祭神は天照皇大神を祀り、中に祀られている本殿の造りは確認できなかったが、恐らく神明造でしょう創建時期は分かりませんが、慶長3年(1598) 再建の記録から、起源は室町時代にまで遡っていきそうです境内の杜は自生の樹々は少ない様で、風通しが良く、綺麗に手入れされていました打中 神明社創建 / 不明、慶長3年(1598) 再建祭神 / 天照皇大神祭典 / 歳旦祭・春祭・例祭・勤労感謝祭・大祓境内社 / ……氏子域 / 中川区 打出、打出町、打出本町例祭日 / 10月第1日曜参拝日 / 2024/02/14所在地 / 名古屋市中川区打中1-90雨宮神社から神明社 / 雨宮神社北側の交差点を西に220㍍ 徒歩5分前後関連記事 /・雨宮神社・八王子神社 (野田村三社)・秋葉神社・三狐(さんこ)神社 (野田村三社)・八百万神社・白山神社・秋葉神社・如意山 宝珠院 常楽寺・冨士大権現 天満天神宮・荒子観音寺・宮窓 神明社・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅
2024.03.19
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「駅から始まるヒラメキさんぽ」のコースから逸れ、三狐(さんこ)神社、八王子神社と訪れてきました八王子神社にきて、寄りたい所リストに気付いてくれたかみさん更にコースから外れ県道190号線を10分前後南下した雨宮神社に舵を切ってくれた写真は野田一丁目交差点の少し南から見た雨宮神社の杜。県道脇に南北に長い社地を持ち、県道から左に入った南側に社頭を構えています。上は大正9年(1920)の鎮座地付近、当時の西脇集落の西に鳥居の印がありますこの辺りは伊勢神宮と所縁の深い地域で平安時代、庄内川左岸にかけて伊勢神宮の御厨 一楊御厨(いちやなぎのみくりや)がひろがっていました明治期に野田村の一部として、後に御厨村、荒子村と合併を続け、大正10年(1921)に名古屋市南区に編入、その後昭和12年(1937)に中川区に編入され、現在の中川区中郷(ちゅうごう)に至っています御厨村の由来も一楊御厨の厨郷からきているとされここから南の旧村名の東中島、西中島、三軒屋、法華の各集落でも伊勢神宮と所縁の深い神明社が祀られていったようです雨宮神社北側から見る中郷伏見稻荷社覆殿雨宮神社社殿は左の森の先に鎮座します社頭へは次の道を左折してくださいコミュニティーセンター横の石碑、銘文から一部を抜粋「この地域一帯は湿田米作地帯で防災的道路もなく、昭和17年東西1㌔、巾55㍍、中心に10㍍道路を整理を行った・・・・・無秩序な宅地化が将来禍根残す事を惧れ住民の総意から健全な市街地造成した・・・・・」古くから河川の氾濫が起こり、氾濫がもたらす土壌を耕し広大な田園が整備されたが、時代が変わり田園は姿を消し、土地を改良し宅地化が進んだ土地柄なのが良く分かる今はゆとりのある区画、何十年かすると切り刻んだ住宅密集地に変っていき、その先は空屋ばかりの町になっていくのだろうか雨宮神社社頭全景境内は全周玉垣で囲われ、右手に社号標、常夜灯、その先に石の神明鳥居を構えている社標は明治34年(1901)に寄進されたもの、鳥居、常夜灯の寄進年は未確認参道右の由緒「雨宮神社御祭神 高龗神、志那都比古神、天照皇大神文政2年(1819)に遷座明治5年郷社に明治25年(1892)指定郷社に列す近郷の鎮守の宮として、五穀豊穣・風雨の神と崇拝されている例祭には、干支歳にあたる人々より健康や家内安全を祈り奉納行事が執り行われる祭典 歳旦祭・春祭・例祭・勤労感謝祭・大祓境内社 風宮社・津島社・秋葉社、中鄉伏見稻荷社、猿田彦社・白龍社」とある上は寛政頃(1789~1801)に描かれた愛知郡村邑全図から中郷村の絵図宝珠院、光明院の位置が記されており、それからすると破線の〇辺りに雨宮神社が記されていてもよさそうですが記されていません、更に西側の村絵図にも雨宮神社は表れません絵図左上の破線で囲んだ二つの神社があり、そこに雨宮、風宮が記されています絵図が描かれた時には雨宮、風宮両神社は野田に鎮座していました左は尾張志(1844年)の記述雨宮社「天照皇大神、高龗神を祀り、末社に白山社、冨士社あり」とだけ記されていますその下に風宮社「中島新田地内にあり、天照皇大神の他2柱を祀る」の記述が見られます現在の雨宮神社は由緒にあるように野田集落から文政2年(1819)に現在地に遷座したもの風宮社は明治40年に遅れて遷座したようです祭神の高龗神は、伊邪那岐命が軻遇突智を斬った時に、闇龗ととも出現した水を司る神として崇敬されている参道左の手水舎龍は清水を注ぎ、手水鉢の清水は澄んでいた雨宮神社拝殿瓦葺で切妻妻入りで梁行き桁行ともに三間のもの左側に境内社が纏められています社殿は拝殿から渡廊を経て鞘殿が一体となっており、本殿姿は窺えなかった拝殿前の狛犬は昭和48年(1973)に寄進されたもの鬼には社名の雨宮が入る妻壁には馬が駈け、龍が蠢き、鯉が滝を登る姿が彫られているシックな雨宮神社の木目が鮮やかな拝殿額は大正3年(1914)のもの下り棟の鬼には雨、その隣で獅子が跳ねる拝殿左の覆殿切妻瓦葺の平入で、手前に手水鉢と覆殿の前にやけに目立つ色合いの狛犬の姿がある左の朱の覆殿は中鄉伏見稻荷社で猿田彦社・白龍社が祀られている手水鉢年季が入っていそうですが寄進年を見忘れました覆殿ここには左から秋葉社・風宮社・津島社の額が掛けられています雨宮と風宮の神が揃う神社はあまり記憶がないかもしれない離れていても存在感のある狛犬余程素材が柔らかいのか肌はきめ細かく、阿形の頭部や吽形の尾など剥離した様に欠損している台座の年代は大正15年(1926)刻まれていましたが、台座も同様に欠損していました素材はなんだろうか秋葉社・風宮社・津島社が祀られる覆殿と雨宮神社の覆殿。中鄉伏見稻荷社朱の奉納鳥居が右の覆殿まで立ち並びます手水鉢鳥居をくぐった左側にありますが年代は見忘れました手水鉢から右に朱のトンネルは続き正面の朱に塗られた玉垣の先が中鄉伏見稻荷社左右に猿田彦社・白龍社の二社が祀られています中鄉伏見稻荷社本殿手前に一対の狛狐が守護し、その先の本殿は神明造で4本の鰹木と内削ぎの千木が付くさて、この二社が分からない右は稲荷社と同様の造りで、一見すると稲荷社に見間違えそうですが狐がいない左は板宮造り、どちらも社名札がなく社から社名は分からないが、猿田彦社と白龍社であることは由緒から間違いない・・・神明造の社が猿田彦社かな、いや千木が内削ぎだ・・・導いて欲しい県道の歩道側から隙間なく連なる奉納鳥居と覆殿鮮やかな朱色がとても印象に残る雨宮神社創建 / 不明 (文政2年(1819)遷座)祭神 / 高龗神、志那都比古神、天照皇大神祭典 / 歳旦祭・春祭・例祭・勤労感謝祭・大祓境内社 / 風宮社・津島社・秋葉社、中鄉伏見稻荷社、猿田彦社・白龍社氏子域 / 中川区荒中町、打中、中郷、中花町例祭日 / 10月第2月曜参拝日 / 2024/02/14所在地 / 名古屋市中川区中郷2-164八王子神社から雨宮神社 / 県道190号線を南下10分前後関連記事 /・八王子神社 (野田村三社)・秋葉神社・三狐(さんこ)神社 (野田村三社)・八百万神社・白山神社・秋葉神社・如意山 宝珠院 常楽寺・冨士大権現 天満天神宮・荒子観音寺・宮窓 神明社・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅
2024.03.18
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『八王寺神社』前回掲載した三狐神社の社頭を南北に伸びる県道190号線、そちらを南下し野田小学校西交差点を通り過ぎて次の道を右折すると八王寺神社の社頭が現れます野田交番の東隣りに隣接し、社頭はその南側になります、三狐神社から移動時間は徒歩5分程になります所在地は中川区野田2江戸時代の当地周辺は愛知郡野田村で、野田村に鎮座する三社を称して野田村三社と呼ばれたようです上は大正9年当時の鎮座地、当時はまだ荒子村大字野田の頃Wikiによれば、野田の由来は当地が湿地や湿田が多く、そうした場所を沼田(ぬだ)と呼んでいたいつからか「ぬだ」が転じて「野田」になったという江戸時代の愛知郡野田村はその後、愛知郡御厨村大字野田、荒子村大字野田、名古屋市南区野田町、中川区野田町を経て、昭和28年~昭和59年の間は八王子町とされたようで、その由来は当社からきていると云うその後八王子町は消え、現在の中川区野田2丁目に編入されたようです南向きに社頭を構え、社頭右に昭和5年(1930)に寄進された八王子神社社号標その先の一対の常夜灯は明治41年(1908)の寄進もの石の明神鳥居は昭和60年(1985)鳥居手前から境内の眺め参道右に神馬像、参道左が手水舎、正面には一対の狛犬と社殿が連なります境内の「八王子神社の御祭神と沿革」内容は以下「当社の御祭神は古事記によれば天照大御神と素戔鳴尊が誓約(神意を占うこと)され、天照大御神は三女神を、素戔鳴尊は五男神を生んだ、すなわち田心姫、湍津姫、市杵嶋姫、正哉吾勝勝速日天忍骨尊、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野忍蹈命八王寺権現とも呼ばれ当社に祀られ、更に当地地名の由来でもある尚、当社には古来より御神田があり、御斎田として耕作されていたが、農耕法により県へ買収された今日我々崇敬者一同は、神の御守護を受けて平穏無事な日々を送ることができるのであるここに挙って町内安全と世界平和を祈願してやまない昭和六十一年十月 」しかし三狐神社の際に目を通した尾張徇行記(1822年)で中郷村の神明社・三狐神社・八王子社を指して「この三社、創建年は不明なれど再建は寛文7年(1667)」記述と除地と記されています創建は詳らかにはならないようですが慶長13年(1608)、徳川義直の命から伊奈備前守ら検地奉行により尾張全域で実施された備前検地時には既に神社は存在していることが分かってきますまた尾張志(1844年)では、「野田の氏神社の神明社から東南」に八王子社があると記され(マップ左に貼り付け)ており、当社を指す事は明らかです野田村三社の創建時期は更に遡っていきそうです八王子神社で一際目を引く大きな楠の木陰に建てられた手水舎八王子神社の龍境内右の神馬像(1985)の鞍の紋は千成瓢箪だろうか社殿全景社殿はこの拝殿と後方の覆屋下に流造の本殿拝殿前の狛犬は昭和5年(1930)に寄進された子持ち毬持ちのもの拝殿の破風飾に五七の桐紋、妻壁や蟇股に彫られた彫飾りはなかなかのもの妻壁の飾り正面の立派な龍に視線は行きますが、左右にあまり見覚えのない満月と三日月の彫が施されているそしてこの拝殿で一際目を引くのが格子天井に描かれた色鮮やかな天井絵かもしれない拝殿内の天井絵と八王子神社拝殿額(昭和初期の寄進)鮮やかな色合いの花の天井絵は比較的最近描かれたものだろう身近で見られる花が鮮やかに描かれ、拝殿内の印象もとても明るく感じられます祭神は愛知県神社によれば天照大御神、須佐之男命となっていましたが、ここでは社名、由緒を尊重し田心姫、湍津姫、市杵嶋姫、正哉吾勝勝速日天忍骨尊、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野忍蹈命としておきます本殿覆屋本殿は外削ぎの置き千木と5本の鰹木が施された流造本殿域の玉垣はやはり昭和5年(1930)、この時期に境内は大きく改修されたようです寄進年は不明ですが、本殿両脇で二対の小さな狛犬達が本殿を守護しています後方の陶製狛犬は小さい体ながら角を生やしたもの本殿側から見る拝殿妻壁の意匠こちらは龍の上は虎かな、こちらの面にも左右に満月と三日月が描かれています満月と書いていますが、太陽(天照)と月(月読)を描いたものかもしれません八王子神社創建 / 不明 (寛文7年(1667)再建)祭神 / 田心姫、湍津姫、市杵嶋姫、正哉吾勝勝速日天忍骨尊、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野忍蹈命境内社 / ・・・氏子域 / 中川区 打出、中須町、野田例祭日 / 10月12日参拝日 / 2024/02/14所在地 / 名古屋市中川区野田2-375秋葉神社から八王子神社 / 南東に5分程関連記事 /・三狐(さんこ)神社・八百万神社・白山神社・秋葉神社・如意山 宝珠院 常楽寺・冨士大権現 天満天神宮・荒子観音寺・宮窓 神明社・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅
2024.03.17
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中川区野田2「秋葉神社」前回掲載した三狐神社から西へ4分程の住宅街、そこの交差点の角地に鎮座するのが秋葉社交差点の北西角に社地が与えられ、社殿はほぼ東向きに建てられています高く築かれた本殿域は玉垣で囲われ、切妻造の大きな覆屋の下に社が祀られています上は大正9年の当地の地図で赤枠が秋葉神社の鎮座地になりますこの時代、ここに鳥居の印はなく、その後もここに印は描かれていなかった野田集落の西外れにあたり、ここから西側は庄内川左岸に田んぼが広がる一帯だったことが分かります地史から野田村の記述に目を通すも、秋葉社について語られておらず、大正から昭和にかけて世帯数の増加に伴い、災い除けの神が祀られるようになったのかも知れない秋葉神社から西方向の眺め庄内堤まで広がっていた田畑は姿を消し、今では古くからの建物は建て代わり、新しい住宅が広がる地域となっています秋葉神社南側から社殿の眺め玉垣の石柱や基壇の石組の色は綺麗で、覆屋も傷みはなく、覆屋の下に祀られる板宮造の社も綺麗なものです覆屋に架けられた額は秋葉神社秋葉神社本殿全景玉垣の間にピッタリしつらえられた賽銭箱があり、住宅地の火伏の神に賽銭投入参拝脱線しますが人的・物的ともに甚大な被害を与えた能登半島地震輪島の火災を見るにつけ、我家周辺の切り刻んだ宅地に人も通れないほど敷地一杯に建てた細長い木造家屋が林立する環境を思うと不安を覚えるそこから比較すると、このあたりの余裕のある家並みは羨ましく思うなによりこうして見守る神さまがいる秋葉神社創建 / 不明祭神 / 火之迦具土大神境内社 / ・・・所在地 / 名古屋市中川区野田2-176三狐(さんこ)神社から秋葉社 / 西へ5分参拝日 / 2024/02/14関連記事 / ・三狐(さんこ)神社・八百万神社・白山神社・秋葉神社・如意山 宝珠院 常楽寺・冨士大権現 天満天神宮・荒子観音寺・宮窓 神明社・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅
2024.03.14
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前回は「駅から始まるヒラメキさんぽ」のコースから逸れ、中川区中郷の白山神社を訪れました。本来のルートは県道29号線を西に向かうのですが、先を歩くかみさんは県道を越え、荒子川沿いを北上し高畑公園方向へ、高畑公園を過ぎたあたりから導かれるように西方向に歩いていく。茨塚公園の南側で店舗を構えるプチ・ポンレヴェックnoda(中川区野田1-323)。マップ上に赤〇で示しておきます。某番組で紹介されたみたいで、ひらめき散歩を歩く動機付けのひとつとしてチェックしていたようだ。最近開業した所謂パン屋さん、ひとつ〃のパンは小さく、一個幾らではなくgram売りなんだとか。ここで彼女が買い物している間、ここから西へ3分程の場所に神社があったので訪れることにしました。県道190号線沿いに鎮座する三狐神社。周辺の建物の越えるほど育った大きな松が三狐神社の象徴かも知れない。上は大正初期の鎮座地周辺、赤枠が三狐神社で二つの赤い星が野田村三社の鎮座地になります。何れの神社も明治以前から野田村に鎮座しているのが記されていました。(赤〇はパン屋さんの位置)ここまで来ると庄内川も目と鼻の先になります。東向きに石の神明鳥居を構え、右側に「三狐神社」社標が立つ。境内の樹々は適度に間引かれたものか、この時期は境内が良く見渡せ、手水舎、神馬像、拝殿の先の本殿まで一望できる。社頭北側から眺める三狐神社。右側が更地で、社地も白いフェンスで囲われているのもあり、すっきりとした印象を受ける神社。鳥居から拝殿・本殿の眺め。拝殿は梁間桁行き三間で四方吹き抜けの瓦葺切妻のもので妻壁などに彫飾りが施されています。正面の本殿には5本の鰹木が載せられているのが見通せる。境内右の神馬像。昭和60年(1985)に寄進されたもので、訪れた際には碑文に目を通すのもいいかもしれない。拝殿左が手水舎。三本の鋭い爪、長い髭を持つ堂々とした姿の龍。拝殿前を守護する狛犬は、骨太でがっちりとした筋肉質の姿をしたもの。境内に三狐神社の由緒はなく、詳細が分からず地史に目を通して見た。尾張志、尾張徇行記、尾張名所図会など目を通すが注目する内容は以下のものでした。・尾張志(1844年)では「野田村の氏神 神明社、氏神社より東南に八王子社、氏神社より東にサグジノ社」と記されています。三狐神社をサグジノ社とすると、氏神社の鎮座地からほゞ東に位置しており、三狐神社がここで云うサグジノ社のようです。野田村三社の神明社は三狐神社から西の野田公園、八王子社は三狐神社から南へ5分程の場所に鎮座しており、何れも歩いて廻れる距離にあり、マップに示した赤い星が其々の鎮座地になります。・尾張徇行記(1822年)の一柳庄野田村に「三狐神社」として名が記されいました。中郷村の神明社・三狐神社・八王子社を指して「この三社、創建年は不明なれど再建は寛文7年(1667)」と再建の時期が記されていた。再建年度だけを捉えれば、かなり古くから鎮座している神社のようです。愛知県神社庁にも紹介されていましたが、内容は祭神、祭礼日に留まっていた。三狐神社の祭神は豊受大神を祀る神社です。ここで尾張志の「サグジノ」が気になってきます。サグジノと聞くと、万物に宿る自然神を崇敬するミシャグジ信仰を思い浮かべます。三狐神社の前身がミシャグジ信仰から始まったのか?となると、それを示す記述や崇敬対象となるようなものを境内で見かける事はありませんでした。この神社の見所は、拝殿妻壁をはじめ全周に施された彫飾りだろう。人目を引く派手な飾り金具などの意匠はないけれど、正面の大きな二匹の龍からはじまり、蟇股の干支や木鼻の獅子などシックな佇まいの小さな拝殿ですが作り手の拘りを感じる意匠が施されています。それらを見ていく前にまずは参拝。大嫌いな蛇をはじめ全周に干支のキャラクターが施されている。柔らかな鶏の尾羽も良く彫られている。上は猪に犬だろうか、下の正面妻壁には宝珠を握りしめた龍、その上には兎の姿もある。拝殿から本殿の眺め、本殿は板宮造りで、棟には外削ぎの置き千木が置かれています。拝殿内正面に三狐神社の額と右側に昭和51年に奉納された白馬の奉納額が掛けられています。三狐(さんこ)神社本殿、最初に三狐の社名から受けた印象は宇迦之御魂神をお祀りする稲荷かと勝手に想像していましたが、愛知県神社庁では「さんこ」とあり、境内からも稲荷社ではないようです。本殿域を小さい体の二対の可愛い狛犬が守護しています。寄進年は分かりませんが、手前の愛くるしい姿をした陶製狛犬は、左の阿形は前脚が欠け落ち台座に置かれており、玉乗りの吽形に至っては頭部が欠落した痛々しいもの。結構古そうな台座の上に載せられた狛犬をよく見れば、鮮やかに色付けされ、細かな装飾が施されているだけに、寄進者や作者の思いが込められた造形物は、新しく変えようかというのもなんだか重い。金継ぎとはいかないまでも元の姿に戻してやりたいものだ。覆屋の下に祀られた本殿全景。こちらでも寄進物の寄進年度は見忘れてしまった。拝殿下り棟の鬼には三狐の文字が入る。社殿全体は大きな傷みもなく、比較的最近補修されたようです。境内も綺麗に手入れされ、居心地のいい神社でした。三狐(さんこ)神社創建 / 不明、寛文7年(1667)再建祭神 / 豊受大神境内社 / ・・・例祭日 / 10月第2土曜日所在地 / 名古屋市中川区野田2-134参拝日 / 2024/02/14白山神社から三狐神社 / 白山神社から北西に徒歩12分程関連記事・八百万神社・白山神社・秋葉神社・如意山 宝珠院 常楽寺・冨士大権現 天満天神宮・荒子観音寺・宮窓 神明社・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅
2024.03.13
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前回掲載した宝珠院の仁王門から南に伸びる道があります。利家を巡るルートから外れますが、仁王門を出て南に進み、光明院を左手に見ながら、約1分の距離に中川区中郷(ちゅうごう)に鎮座する白山神社があります。上は大正9年、1920年当時の周辺地図。先回訪れた宝珠院から少し南の寺脇集落の西外れに鎮座します。当時の地図に神社の印は現れませんが、約300年前から寺脇集落に鎮座しているようです。写真は白山社社頭を西側から見たもので、三叉路の角地に僅かな社地が与えられていました。南向きの社頭には鹿島鳥居に似た木造鳥居があり、くぐるとすぐ先が本殿域になります。小規模の神社で社号標も見当たりませんが、常夜灯、狛犬など整えられ、寺脇集落の鎮守の趣が漂う神社。後方に見えている森は先程参拝した宝珠院の寺叢になります。社頭左の解説板。秋葉山神社八百万神社白山神社「白山神社光明院の森に鎮座、歯痛が治る神様。豆腐をお供えして食べると不思議にも歯痛を忘れた様に治る霊験あらたかな神。八百万神社延宝2年創建(1674)と歴史に見え、八百万の神々をお祀り申し諸願成就息災延命の神。秋葉山神社火を防ぎ家難排除の守護の神」とある、小さな見た目から想像できない歴史があり、八百万神社は300年以上前から集落を見守ってきた神社のようだ。境内全景。石積みの本殿域は大小三つの社が祀られています。境内右は手水鉢だろうか。本殿域全景、手前には小さな狛犬の姿が見える。本殿域を守護する小さな狛犬。(寄進年は未確認)解説の社名の並びから見ると左から秋葉山神社、八百万神社、白山神社となるが、Gマップでは白山社とあり、それからすれば中央が白山社となるのだろうが、三社に社名札はなく特定できません。祭神についてもここでは不明としておき、ここは賽銭を投入し三社纏めて祈願するしかないようだ。愛知県神社庁から住所で検索して見たが情報は得られず、神社解説によれば八百万神社の創建が延宝2年創建(1674)とあるので地史を見ていけば、白山神社、秋葉山神社の創建時期も少し分かるのかもしれません。社地東側から北側の眺め。正面に宝珠院仁王門、手前右手の森は白山神社が鎮座していた光明院の寺叢。いろいろ知りたいこともあり、人の姿を探すも近寄って来たのは恋の時期を迎えたこの猫達だけだった。八百万神社創建 / 延宝2年(1674)祭神 / 不明境内社 / 秋葉山神社(創建・祭神不明)、白山神社(創建・祭神不明)所在地 / 名古屋市中川区中郷1-11参拝日 / 2024/02/14宝珠院から白山神社 / 仁王門から南へ徒歩1分程関連記事・如意山 宝珠院 常楽寺・冨士大権現 天満天神宮・荒子観音寺・宮窓 神明社・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅
2024.03.12
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如意山 宝珠院 常楽寺。前回掲載した冨士大権現 天満天神宮から北西に徒歩15分程の県道29号線の南に鎮座する寺院。上は大正初期の宝珠院鎮座地周辺。当時の愛知郡荒子村大字中郷の高畑の西、寺脇集落の北の田畑の中に鎮座しています。名古屋七福神巡りの大黒天のお寺として知られ、1月7日の七草の日までに、7つの幸福を与える7人の神々をお祀りしたお寺を参拝する事で福運が得られるものだそうです。過去に一度七福神巡りで訪れた事がありますが、調べて見れば2017年と随分久し振りに訪れた。今回は七福神ではなく、前田利家の所縁の地を巡るコースに含まれていた。名古屋西部県税事務所の西側に宝珠院の仁王門、山門が連なっています。「税」で「うすうす思い出した」が、確定申告まだ済ませていなかったなぁ、なんだかやる気がしない。宝珠院仁王門。この通りを左進むと山門が建っています。コースに宝珠院が組み込まれたのは、仁王門右にある歌碑を読み取り、問題の空白を埋め完成させるもの。かみさんはこの歌碑を見つけられず境内を彷徨い、お寺の方に歌碑の場所を教えて頂いた。その際「最近この碑を見に訪れる方が多いがなんなの?」と質問されたとか、どうやらイベント側とチェックポイントに選定された場所とは事前に共有されていない印象。仁王門から本堂の眺め。左右の間に安置されている仁王像。宝珠院の開創は古く、奈良時代の天平元年(729)に泰澄大師が開創した古刹。寄木造の二体の像もかなり年季の入った風貌のもので、随所に補修が加えられていますが、なぜか市・県の文化財一覧に挙げられておらず、制作年代や作者など詳細は不明です。仁王門から眺める本堂全景。入母屋瓦葺で千鳥破風、軒唐破風の付く堂々とした建物で、堂内には本尊の薬師如来はじめ、大黒天、弘法大師、泰澄大師像、五大明王像、弁財天が安置されています。境内右の仏足石と百度石。宝珠院は弘法大師誓願道場「名古屋二十一大師霊場巡り」の第十一番札所。本堂左の水かけ不動尊(左)と亀の甲羅の上の七福神。水かけ不動尊は、体の病んだ部分に水をかけ、祈願する事で改善されると言われています。歳を重ねるとかける箇所も増え、全身かけたくなってくる。本堂破風の連なり。本堂の寺号額。宝珠院の先に書いたように奈良時代の天平元年(729)に泰澄大師が開創したと伝わります。往時は6坊を有したが、文和年中(1352~1356)の火災で三坊を焼失、後に宝珠院、東蔵院、光明院を再建するも、明暦年中(1655~1658)に再び火災に遭い、東蔵院は廃絶となり、ここ宝珠院と南に鎮座する光明院のみとなる。泰澄大師といえば加賀白山を開山したことで良く知られます。宝珠院について尾張名所図会、尾張誌、名古屋市史で調べてみたが詳細な記述は見つけられなかった。中川区史跡散策路の宝珠院解説は以下のものでした。「奈良時代の天平元年(729年)に泰澄大師が開創した郷土の古刹である。伊勢湾台風の被害を受けているが仁王像は鎌倉時代の作と言われており、歴史を感じる。境内は名古屋市の保存樹である五葉松の大樹などの庭園を含め特別緑地保全地区に指定されており、四季折々、鳥のさえずる憩いの寺でもある」これによれば仁王門の像の制作年代は鎌倉時代(1185~1333)とあり、文和年中の火災以降に彫られたものだろうか。楠の一木造りの大黒天、じつにいい表情でこうありたいものです。(2017年撮影)…そうありたいんだがねぇ、これを書きながら国会中継を聞いていますがついつい目は△になってくる。本堂左から客殿に続く中門と左の鐘楼。建立年代は詳らかではありませんが、2017年当時と比較して大きな違いはないようです。また、手入れの行き届いた庭園も当時と何ら変わっていない。温かい陽射しを受けて横になる寝弘法。庭園には他に修行大師、摩尼車など安置されています。境内北側の寄棟瓦葺の客殿全景、大棟の金色に輝く鴟尾(しび)が印象的な建物です。鴟尾は鯱や鬼瓦の原形ともいわれ、鴟尾そのものも意匠は時代により様々なようです。建物を自然災害から守る目的から棟に飾られたもので、一説によれば鳳凰の羽を模したものから始まり、意匠が変化していったとも云われるようです。金堂から眺める山門と十三重石塔。重厚な山門の正面全景。山門の山号額。道路から山門・客殿の眺め。7世紀以上の歴史を誇り、幾多の自然災害を乗り越えて今も続く古刹なので、利家もひょっとして訪れているやもしれない。山門左には札所の石標。宝珠院宗派 / 真言宗智山派創建 / 天平元年(729)開基 / 泰澄大師山号 / 如意山寺号 / 常楽寺院号 / 宝珠院本尊 / 薬師如来札所 / 名古屋二十一大師11番札所、東海三十六不動尊霊場13番札所、名古屋三弘法第一番札所、名古屋七福神(大黒天)所在地 / 名古屋市中川区中郷1-11参拝日 / 2024/02/14冨士大権現 天満天神宮から宝珠院 / 北西に15分程公共交通機関 / 地下鉄東山線「高畑」から西へ徒歩10分関連記事・冨士大権現 天満天神宮・荒子観音寺・宮窓 神明社・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅・『2017名古屋七福神巡り』へチャレンジ
2024.03.11
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3月07日ここ数日の風雨もおさまり、一転して春の陽気となり豊田市足助町の香嵐渓にある飯盛山のカタクリ群生地を訪れてきました。普段は土筆が頭を出す光景を見かけるようになり、春がきたなぁと感じるようになりました。車でひとっ走りした香嵐渓まで来てみると、紅葉の時期に賑わう待月橋には人影もなく、この辺りが春めくのはもう少し先のようです。この時期は山里に一足早く春を告げるカタクリが咲き始める時期。左手の飯盛山にはカタクリの群生があり、タイミングが良ければ淡い紫のカタクリが一面に咲く光景が見られます。毎年やってくるものの、遅かったり、早かったりと、最盛期に訪れたことがない。写真は群生地入口から飯盛山斜面の眺め。遠目にカタクリの葉は見られますが、そこに紫の花は見られなかった。今年も早かったようです。群生地のカタクリ解説。太子堂付近から斜面の眺め。主役はまだカタクリの葉の緑。日当たりのよい群生の中央でちらほら咲きだしているものの、望遠がなければ寄れない。盛期と比較するとまだまだ、そんな印象でした。じゃあ訪れるならいつだろう。個人的な推測ですが少なくとも今週末ではなく、来週の土日であれば手元でも見られると思います。ポツン〃と咲いているのでどうしても寄るしかない。取り敢えず春の妖精を撮る事ができた。訪れた時間帯が午後という事で、花弁はこれ以上反りかえれない感じです。薄紫の春の妖精、まだ少ないけれど蕾も控えています。寒かった冬の終わりを告げる小さな花ですが、冬枯れた山の斜面にこの色は一際映える。カタクリがこうして薄紫の花を付けるまで7年程かかるといい、いち早く花を咲かせ、花期も短いことから春の妖精と呼ばれる由縁です。花言葉は「初恋」「寂しさに耐える」という事らしい。山肌にポツンと花を咲かせる姿は「寂しさに耐える」は的を得ている。寒い冬をじっと耐えこうして鮮やかに花開く。なんだか人にも言えることかもしれない。散策路から太子堂方向の眺め。来週になれば緑の斜面も紫の花がはっきり見えるようになるだろう。花だけを目的にした場合、開花状況は駐車場から分からないので、1㌔程歩きますが下流の多目的駐車場が当日は無料でした。駐車場は待月橋周辺、散策路前に有料駐車場があり、相場は500円が多く、300円から上は1000円の看板も見かけました。撮影日 / 2024/03/07飯盛山カタクリ群生地 / 愛知県豊田市足助町飯盛
2024.03.08
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荒子観音寺を後にして次は冨士大権現 天満天神宮を目指します。神社が鎮座する権現公園に向け南へ約10分程の移動時間。「まつと共に過ごした荒子城界隈と前田利家ゆかりの地を巡る」ヒラメキ散歩コースに従って巡っています。行きたいとこリストもかみさんと共有していたが、問題を解くのが最優先のようだ。写真は権現公園南側に面した道路から冨士大権現 天満天神宮の杜の眺め。上は大正初期の荒子村周辺地図で村の真ん中から少し西よりに位置しています。前田利家所縁の地を巡るこのコース、冨士大権現 天満天神宮をチェックポイントにしたのには理由がある訳で、この場所に荒子城が築城されていたことによる。海東郡荒子村の地を収めた前田利昌は、この地から西の庄内川右岸の前田城を拠点にしていたが、天文13年(1544年)にこの地に荒子城を築き拠点にしたと云われます。その利昌の四男として生まれたのが前田利家で、ここ荒子城が前田利家の誕生之地とされます。コースには前田城も含まれており、そちらの由緒によれば、利家は前田城で生まれたともあり、諸説あるようです。いずれにせよ、加賀百万石の礎を築いた前田利家がこの尾張から誕生した事に違いはありません。冨士大権現 天満天神宮境内の眺め。大きな楠と松が聳え、適度に間引かれた明るい杜で、この時期は境内に植えられた梅が咲き誇っていた。社頭の参道に、梅鉢紋の入った赤い幟が風に揺れている。加賀藩前田家の梅鉢紋は知られるところで、一説に前田家のルーツは菅原道真とも云われるようで、彼が好んだ梅をモチーフにした梅鉢紋を使っていたのかな。ほゞ南向きに社頭を構え、正面の拝殿まで石畳が続いています。社頭は右側に「冨士大権現 天満天神宮」の社標が立てられ、左に由緒・荒子城解説が立てられています。鳥居は石造の明神鳥居で、その先に一対の常夜灯と左側に手水舎があります。由緒・荒子城跡解説。荒子城解説は以下の様に解説されています。「荒子城跡天文年間(1532~55)前田利昌の築城と伝わる。その子利久、利家、利家の子利長が相継いで居城。天正3年(1575)利家が越前国府中(福井県越前市)に、同9年に利長も同地へ移り荒子城廃城。『尾陽雜記』『古城志』などによると、城は東西約68m、南北約50mで一重堀を巡らしていた。名古屋市教育委員会」このことから、現在の権現公園と社地を含めた敷地面積が城の規模とイメージできますが、現状では城が合った痕跡は見られません。越前国府中に領地を与えられた利家は、天正4年(1576)菩提寺である荒子観音寺の本堂を再建し、越前府中の統制に注力していった。利長が府中に移った後、荒子城は廃城となったようですが、城内鎮守の冨士大権現天満天神宮は村人により護られていったようです。左の富士社 天満社由緒記・亦名「冨士権現天満宮」・御祭神は、木花開那媛尊、菅原道真公・創建の詳細は不明・荒子城主前田氏の城内鎮守として勧請され、弘治元年(1555)「前田利家再興」の棟札がある。・前田氏の祖は菅原氏とも云われ菅原道真を祀る。・天正4年(1576)越前に移りし後も村民・氏子から篤く崇敬されている。・昭和63年(1988)社殿再建。由緒について尾張志(1844年)に目を通しました。「富士天満天神相殿社 高畑村中脇と云う所にあり」に留まり、それ以上の情報は得られなかった。境内左の手水舎、西側の権現公園と境内は遮るものはなにもありません。龍は絶え間なく清水を注いでくれていました。この日は先を目指すあまり、神社の歴史を綴る寄進物の年代は見ておらず心残り。拝殿正面全景。切妻瓦葺の四方吹き抜けの木造拝殿で、妻側に格子戸、軒側は縦格子の腰壁が付くもの、拝殿と本殿は渡廊で結ばれています。狛犬は子持ち毬持ちのもの。拝殿から本殿方向の眺め。妻壁に黄金色に輝く梅鉢紋がアクセントになり、賽銭箱には金色の五七の桐と梅鉢紋が入る。派手な装飾の無いシックな佇まいをしている。拝殿から本殿を結ぶ渡廊と本殿域。本殿は一間社流造で5本の鰹木と外削ぎの千木が付く。祭神は木花開那媛尊、菅原道真公。大きな社ではありませんが、脇障子や虹梁など手の込んだ彫が見られます。拝殿左の前田利家と荒子城の解説から一部抜粋。「加賀百万石の藩祖、前田利家は1537年(天文6)(天文7年説あり)、利昌の四男としてこの地に生まれました(前田城説あり)。幼名は犬千代。15歳のとき織田信長に仕え、元服して孫四郎利家と名乗り、信長の尾張統一戦のひとつ海津の戦で初陣を飾りました。22歳のとき、10歳下の「まつ(愛知県七宝町生まれ)」と結婚。この頃、又左衛門利家と名を改めています。若い頃は奇抜な振舞いを好みバサラ者でもありましたが、武勇に優れ「槍の又左」と呼ばれました。桶狭間の戦いの後、美濃攻めの頃から勇士のみに許された赤母衣(あかほろ)衆の筆頭として従軍。33歳のとき、信長の命により荒子城主になりました。利家39歳の時、越前府中(福井県武生市)十万石を佐々成政、不破光治とともに治め、やがて能登一国を領有します。その後は、豊臣秀吉を補佐する大々名に出世、後の加賀百万石の礎を築きあげました。荒子城は、天文年間、前田利昌の築城と伝えられています。規模は狭い平地に簡単な棚と堀をめぐらし、敵を見張るため屋根の上に櫓を設けただけの砦程度のものでした。城内には、富士権現社と天満宮が祀られ、今に残されています。また、利家が府中に移る時、荒子観音寺の本堂を再建し、荒子七カ村(屋敷)には、祭に使用する絢爛豪華な馬道具(ばどん)を残していきました(名古屋市指定文化財)。利家が最も信頼した本座者といわれる「荒子衆」はこの土地の出身者であり、金沢城大手門前には荒子ゆかりの「尾張町」が残っています。時を経てなお、荒子と金沢は、荒子小学校と金沢市立味噌蔵町小学校の姉妹校提携や関連行事の市民参加による交流が続いており、地元の小学校では前田家の梅鉢紋にちなんだ校章が使われています。」 生誕地など諸説あるようですが、いずれにせよ郷土が生んだ一大武将であることに違いはなく、地元の誇りとして前田利家発信隊が結成され愛されている。本殿域左に聳え立つ「前田利家卿誕生之遺址」の石碑。馬にまたがった若き利家と初陣を見送るまつの姿。(名鉄荒子駅西出口の前田利家公初陣之像)利家がまつと夫婦になったのが22歳の時とされ、まつは12歳、この初陣之像だけ捉えれば利家の初陣が14歳の時とされるので、まつの姿は4歳....まつは生涯に11人の子を出産したと云う。因みに2023年の出生率は1.2という結果のようです。冨士大権 現天満天神宮創建 / 不明(弘治元年(1555)の棟札が残る)祭神 / 木花開那媛尊、菅原道真公境内社 / ……例祭日 / 10月第一日曜日所在地 / 名古屋市中川区荒子4参拝日 / 2024/02/14荒子観音寺から冨士大権現 天満宮へ徒歩 / 門前通りを南へ徒歩7分公共交通機関アクセス / 地下鉄東山線高畑駅5番出口から南へ徒歩10分関連記事 /・荒子観音寺・宮窓 神明社・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅
2024.03.07
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「駅から始まるヒラメキさんぽ」で中川区を訪れ、荒子町宮窓の荒子観音寺を通りかかりました。今回は、前田利家・荒子梅苑から南に徒歩数分の場所に鎮座する荒子観音寺と境内東に隣接する宮窓の神明社の現況を掲載します。荒子観音の名で知られますが、正式名称を浄海山 圓龍院 観音寺と称する天台宗の寺院。歴史は古く天文元年(729)年泰澄和尚が開祖。円空と縁があり、多くの円空仏を所蔵する事でも知られています。荒子観音は、現在の富士大権現天満天神宮の鎮座地に築城された荒子城の城主前田家の菩提寺で、特に当地出身の前田利家から庇護を受けるなど利家と所縁の深い土地柄。上は山門南に立てられた解説板で昭和39年、荒子観音の鐘つき堂竣工の際に馬の塔を奉納した際の画像で、山門前の賑わいが窺われます。この馬の塔の馬道具を献上したのも利家で、それが今も受け継がれているという。普段静かな門前通りですが、節分の恵方にあたる時には多くの人で賑わい、毎月第1日曜日に行われる朝市も多くの参拝客が訪れます。上は大正初期の荒子村の地図。下側の東西に延びるのが百曲街道、熱田新田北側の干拓堤防沿いに東海道と接続するため自然にできた街道で、名の通り曲がりくねった道が続くことからこの名がついた。前田利家出生の地でもあるので、利家にゆかりのある名所旧跡が多く残る。浄海山 圓龍院 観音寺(荒子観音山門全景)尾張名所図会から浄海山観音寺園龍院を一部抜粋。・荒子村にあり天台宗野田村密蔵院末寺。・天平元年(729)、泰澄和尚開基。・同13年(742)開山僧自性建立。・永禄8年(1565)尾張四観音の一寺に。・元禄年中(1688~1704)、円空が訪れ、多数の仏像・彫刻を残す。・本尊聖観音菩薩。・天正4年前田利家により本堂再建。荒子観音はもとは現在の鎮座地から少し北西の高畑町あたりに鎮座していました。信長の比叡山焼き打ち(1571)の煽りから焼失するも、1576年前田利家により再建され、その後の太閤検地で寺領を没収されるなど衰退期を経て、後の尾張徳川藩から庇護を受け現在の地に落ち着いたようです。この寺を訪れた円空は多くの作品を残し、その中で山門の左右の間に安置されている仁王像は円空最大の作品とされるようです。左の杮葺きの多宝塔は天文5年(1536)の再建で市内に残る多宝塔では最古の建築物とされ、平成13年(2001)に解体修理を受けた。中央の三間一戸、入母屋瓦葺の山門は大正15年(1926)再建されたもの。慶長14年(1609)、家康が築城した名古屋城の鬼門封じと定めた尾張四観音(荒子観音、龍泉寺観音、笠寺観音、甚目寺観音)の一寺で、当時はこれらを結ぶ四観音道も整備され、千種区の日泰寺西側にはその面影が見られ、北側には尾張四観音道道標も残ります。本堂全景。往古の荒子観音は七堂伽藍に十二坊の塔頭を誇っていたという、現在の本堂は平成6年(1994)に焼失後、同9年に再建されたもの。境内右側の鐘楼と六角堂。六角堂後方の瓦葺建物が宮窓 神明社で、境内に寺と神社を隔てる壁はなく、神仏習合時代の面影が残ります。上は尾張名所図会(1844)にある「荒子観音寺」の挿絵。現在地に移転された後に描かれているため、現在の伽藍と比較して、鐘楼や六角堂を除き大きな違いは見られず、境内右手に鳥居を構える宮窓 神明社の姿もある。6年振りに荒子観音を訪れましたが、伽藍の建替など当時と違いは見られなかった。荒子観音寺東隣に隣接する宮窓 神明社社頭全景。社号標には「村社 神明社」と刻まれています。愛知縣神社名鑑では、文化9年(1812)に荒子観音の守護神として鎮祭とあり。天保2年(1831)に社殿の修復が行われたようで、祭神は天照皇大神と武甕槌命を祀る。明治政府の神仏分離令にともない荒子観音から切り離され、明治5年村社に列格した。尾張誌には神明社の他、末社に鹿島社、天王社、白山社、辨才天社、風の宮社の名が記されている。鳥居から社殿全景の眺め。拝殿前の狛犬。狛犬や石灯籠など寄進物の多くは昭和・大正・明治のものでした。 入母屋茅葺の覆屋の大棟は竹を組み合わせ作られ、内削ぎの千木が乗せられたもので、茅の入手しやすい地域でこうした造りは見かけますが、市内で見かけるのは宮窓 神明社の他に記憶がありません。覆屋内。南向きに三社と東向きに一社祀られています。何れも社名札はなく、中央の千木・鰹木が付く社が神明社本殿と思われますが、両脇の社は不明。恐らく神仏分離により荒子観音境内に祀られていたものが神明社に纏められたものと思います。しかし尾張誌に記されたどの社なのか写真から特定は出来なかった。唯一はっきりしているのは、辨才天社は荒子観音寺境内北側に鎮座していることか。唯一東を向いて祀られる社、扉が一部開けられ中の神札が見えていましたが、どうやっても文字までは読み取れなかった。拝殿鬼には荒子観音山門の鬼と同じ五三桐の紋が入る。荒子観音山号・正式名 / 浄海山圓龍院観音寺 宗派 / 天台宗開基 / 泰澄創建 / 天平元年(729) 本尊 / 聖観世音宮窓 神明社創建 / 不明祭神 / 天照皇大神 武甕槌命氏子域 / 荒子、荒子町、小城町、小塚町、細米町、的場町、若山町境内社 / 不明社三社例祭日 / 10月第二日曜日所在地 / 名古屋市中川区荒子町宮窓134参拝日 / 2024/02/14公共交通機関アクセス / 地下鉄東山線高畑駅5番出口から東方へ徒歩10分関連記事 /・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅・医王山 薬師寺 『密蔵院』・上野天満宮の梅開花(尾張四観音道道標)・『荒子観音寺』尾張四観音
2024.03.06
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津島社は、八剱神社から10分少々東へ進み、県道157号線を越えた左側の江南市天王町五反林に鎮座する神社。天王町駒野から県道157号線を挟んだ天王町五反林の津島神社方向の眺め。前方に見える一本の大きな樹が目標になります。県道を越えると前方の樹は更に大きくなり、左手に玉垣が見えてきます。上は明治の頃とほゞ現在の当地の比較で赤枠が鎮座地になります。地図上から津島社の鳥居がはっきり示されるのは大正9年になってからです。上は江戸時代に編纂された尾張志(1844)の付図から、今回巡ってきた周辺の村絵図を切り取ったもの。一つ上の地図の集落と河川を比較すると中央辺りが鎮座地になると思われ、尾張国地名考の寄木、小折、御供所等から天王、五反林、津島社のワードで探して見るも、上の村絵図に具体的に示せなかった。西側から社地全景。社地中央の一本の大きな楠が五反林 津島社のシンボルである。社頭正面全景。右に津島神社社号標(1915)、神明鳥居(1936)の先に石の番塀を構えている。愛知県神社庁の津島社解説は以下。祭神 素戔嗚命、氏子域 天王町駒野、天王町五反林、祭礼 10月第3日曜日。尾張誌、尾張名所図会に目を通すが津島社の記述は見つけられなかった。上、玉垣沿いに建てられていた「天王の森」の石碑。明治政府による神仏分離以前は牛頭天王社と呼ばれた津島神社、敢えて「天王の森」の碑を建てたのは神仏分離以前の名を残したかったのだろうか。下、境内左の手水鉢と奥の石碑は達筆過ぎで読めず。境内の楠の巨木。樹齢は不明ですが力強く張り出した根には自然の息吹が伝わってくる。注連縄は張られていないが津島社の御神木として存在感がある。根元に建てられた百度石は大正10年(1921)寄進のもの。番塀、社殿の正面全景。楠の根の影響からか、蕃塀の右側が持ち上げられているように見える。社殿右側から眺める全景。綺麗に手入れされた境内に四方吹き抜けの切妻拝殿、そこから渡廊を経て祭文殿・本殿と連なり、右側に境内社が祀られています。拝殿前を守護する狛犬は2005年寄進のもの。拝殿額。拝殿から本殿方向の眺め。由緒・祭神に繋がると思われる額が掛けられいたが読み取れず、創建・祭神は神社庁のものを引用するしかなさそうです。祭文殿左にも境内社の姿がある。右側の境内社は「金刀比羅社」金刀比羅社の鬼には〇金、津島社祭文殿の鬼には津島社の名が入る。左側見た社殿全景、境内社の奥にも堂の姿がある。左の境内社は「保食神(うけもちのかみ)」、食物を司る神として稲荷神社にも祀られることがある。後方の堂は「薬師堂」。明治政府による神仏分離令の難から逃れたものか、神仏習合時の姿を留めている。神社の由緒が定かではないので、村人から護られたものか、後に祀られたものか定かではありませんが、堂内中央には本尊の薬師如来像が安置されていました。堂の前には長椅子が置かれ、陽射しを受けながら住民が集まり語らいの場になっているのかもしれない。薬師堂から津島社本殿を眺める。高い塀で囲われ、唯一見られたのがこの一枚、恐らく板宮造りの社かと思われます。拝殿から社頭の眺め。小型の蕃塀を補う様に楠の太い幹が本殿を外界から遮っている。東から見た社地全景、一本の巨樹が聳えるこの光景が印象に残る神社です。今回大口町の神社を歩いて巡ってきましたが、今回は津島神社で締めくくり、堀尾跡公園に戻る事にします。今回堀尾跡公園を起点にして午前・午後と歩いたルートは以下。午後 裁断橋から東方向約3.2㌔・午前 裁断橋から西方向約4.3㌔結構距離はありますが、平坦な道ばかりなので苦になるものではありませんでした。天王町 津島社創建 / 不明祭神 / 素戔嗚命境内社 / 金刀比羅社、保食神所在地 / 江南市天王町五反林72北山 八剱神社から津島社 / 八剱神社から10分少々東へ進み、県道157号線を越えた左。参拝日 / 2024/01/26関連記事 /・北山 八剱神社・安良 八王子社・稲木神社・天王町「稲荷社」
2024.03.05
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安良 八王子社から今回掲載する江南市北山町に鎮座する八劔神社へは、南西に1.4㌔徒歩約20分強の場所になります。北山 八劔神社の社地全景。名鉄の踏切渋滞を解消するために道路整備された布袋駅線の北側に面している。上は明治24年の地図と右がほゞ現在の地図の比較。当時の小折北山集落の西に鳥居が記されています。現在の鎮座地周囲は住宅が広がり、社頭前の交差点付近には大型スーパーもあり利便性の高い地域。ここまで来ると名鉄犬山線布袋駅へは5分もあれば辿り着ける。社頭から境内を眺める。住宅地にあって広い社地を持つ神社で、境内で一際目を引くのは二本の巨樹だろう。建物の配置は鳥居をくぐり左側に手水舎、正面に境内社、右側に社殿が連なる。鳥居をくぐった両脇で一対の狛犬が守護する。耳垂れで愛嬌のある顔つきのこの狛犬、明治40年(1907)に寄進されたもの。円高、安価な人件を追い風に某大国から大量生産・輸入された狛犬にはない個性的なもの。境内左の手水舎、手水鉢。木造瓦葺で四つ脚の手水舎で、鉢は明治18年(1885)当時の先人達から寄贈されたもの。参道右側の神馬像。鞍には五七の桐紋が入る。東側から見る社殿全景。印象的な二本の巨樹の高さは優に社殿を凌ぎ伸び伸びと空に向かい聳えている。手前の樹と奥の樹は種類が違う様に見え、手前の巨樹は木肌から楠だと思われます、トトロでも出てきそうな雰囲気がある見事な樹形です。街中の楠は気の毒なほど枝打ちされますが、こちらは実に伸びやかに年輪を重ねている。奥の樹は一位樫の御神木。社頭の眺め。石の神明鳥居は大正2年(1913)、左の「八剱神社」社号標は昭和43年(1968)に熱田神宮宮司の揮毫。境内から拝殿・本殿方向と左の御神木。御神木の周囲は茶色に染まっています、その正体は樫の実。小さい頃、明治生まれの婆さんが樫の実を使って豆腐や菓子にして口にしたことがある。今の様に美味しいものが潤沢に手に入る時代ではなく、贅沢と云えば砂糖まみれのコーラや人工着色量、人口甘味料で育った年代なので、口にしたことのある人はいると思う。当時の人は身近な自然を食す豊富な知識を持っていたもので、子供ながらに大きな存在にみえたものだ。時は過ぎ、今は伝承や知識もなくなり、毒性のある似たような外来種が幅を利かせ、迂闊に手は出せなくなった。話が脱線した戻ろう。拝殿正面全景。大棟には7本の鰹木、外削ぎの千木が付き、両脇に翼殿が連なる。その前には一対の狛犬。東海地方ではスタンダードな容姿のもので子連れ毬持ちのもの。年代未確認。拝殿紋幕には大きな桐の紋が入る。愛知県神社庁による八剱社の解説によれば、氏子域は江南市の北山町、布袋町、南山町で、祭神は日本武尊です。 祭礼は10月の第3日曜日に行われます。境内には創建時期や由緒を記した案内がなく、調べてみると現在は八剱神社と称していますが、古くは火明命を祀る石作神社として始まり、延喜式の「尾張国・丹羽郡石作神社」と記された論社と見られる古社のようです。天文19年の石作神社の棟札が残るとされ、1844年に編纂された尾張誌では石作神社として記されており、経緯は不明ですが、石作神社の境内社であった八剱社が社名として伝わるようになり、現在に至っているようです。往時の挿絵でも・・・と、めくってみましたが残念、何かで見つけたらコッソリ入れる事にします。拝殿左から幣殿・本殿の眺め、社殿全体傷みもなく綺麗な状態でした。拝殿と切妻の幣殿が一体化し、本殿に接続しています。本殿は5本の鰹木と外削ぎの千木が付いた神明造です。翼殿から始まり、本殿の領域を囲むように高い塀が続いています。昭和40年(1965)には、社殿が大きく東に移動したようで、写真右側の石畳を北に進むと「旧本殿跡」の石標が立てられていました。大正2年(1913)に寄進された鳥居から見ると、社殿が右にずれているのはその名残かもしれません。 現在では、鳥居の正面には御神木の一位樫がそびえ立っています。拝殿左の御神木と境内社。江南市指定文化財の御神木イチイカシ。堂々たる幹を持ち、木肌からも重ねた樹齢を感じさせる。樹齢は推定500年とされ、室町時代に芽生えたものが今も衰える事無く聳えている。樹高は10㍍と表記されていますが、間近から眺めるとそんなものではなく、見上げる者を一位樫が包み込んでいるような気にさせる。昭和54年の台風で被害を受けたようで、主幹は切断され屋根が架けられている。古くは村人の空腹をしのぐ貴重な存在だった事だろう。枝の下の地面は無数の樫の実で覆い尽くされ、周囲を歩いていると実は砕け乾いた音がする。御神木左に三社祀られていますが、社名に繋がる寄進物がなく不明です。写真は三社の境内社の右側のもの。中央の社。左の社。境内東から八剱神社の杜と社殿の光景。規模の大小にかかわらず、神社はやはり自然と一体化した郊外がいい。八剱神社創建 / 不明(天文19年の棟札)祭神 / 日本武尊境内社 / 不明社3社八王子社から八剱神社 / 布袋駅方向に徒歩約20分程所在地 / 江南市北山町西138参拝日 / 2024/01/26関連記事 /・安良 八王子社・稲木神社・天王町「稲荷社」上は八剱神社の東隣の道路脇に祀られた二つの社。社名は不明ですが、蝋燭立てもあり新しい榊が供えられており、生活に密着した神さまが祀られているのだろう。子供の頃、親戚の家へ向かう道すがら、こうした風景がありました。しかし、道路が整備され、街並みが洗練されるにつれ、こうした風景は見なくなりました。
2024.03.04
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3月1日陽射しも戻り、風も収まったこの日瀬戸市の矢田川上流の赤津川へ散策に出かけてきました下は赤津川沿いの田圃のあぜ道で見かけた土筆普段街中で暮らしていると季節の移り変わりを感じる自然が少なくなった少し外に出ると季節の移り変わりを知らせる、こうした光景が見られる思っていた以上に自然の歩みは早いようです若いつくしを一つまみ、春の訪れを味わう来週はいよいよ名古屋ウィメンズマラソン2024が開催されます参加ランナーの方々は当日の天候が気になるところでしょうボランティアとして支える側も、せめて晴れてくれと祈るばかりだ
2024.03.02
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江南市安良町八王子「八王子社」稲木神社から北方向にある保育園東に隣接する神社で、稲木神社から徒歩5分程の場所に鎮座します。稲木神社から北へ少し歩いた先から見る「八王子社」の杜。たわわに実るのはみかんだろうか。枯らしてばかりの我家の果樹と比べ上手に育てるものだ、感心する。上は明治時代の当地とほゞ現在の移り変わりと鎮座地。柳街道沿いの安良集落の西側、寄木集落北側の田畑の中に鳥居の印が見え、大正時代に入ると安良集落から神社に向け参道が現れます。社殿は南向きに配置され、参道は此の南側と東の二つあります。こり南側には注連縄門と右手に「八王子社」社標(1909年寄進)、正面に社殿が連なります。東側の参道には鳥居もあり、そちらが正参道の様にも見えます。社地東側の参道口全景。こちらが大正時代に作られた参道と思われます。一対の常夜灯(1906年寄進)と左に社標(1925年)、石の明神鳥居を構えています。社標の寄進年だけで見れば南側が古く、社殿配置からみると南が正参道だろうか。取り敢えずこちらから境内に進んで見る。社頭右側の一つ物の解説。尾張名所図会に力長の若宮八幡社祭礼として記され、八王子社鎮座地の安良からは、神功皇后を模した人形(おでこ様)を馬に乗せ、取り囲むようにして若宮八幡社、八王子社にねり歩き奉納するものという。江南市指定文化財で、おでこ様は永享元年(1747)に制作されたものという。尾張名所図会後編巻6丹羽郡より力長若宮八幡社挿絵から一つ物奉納の様子を抜粋。若宮八幡社境内でおでこ様を乗せて拝殿に向かう当時の様子が描かれていた。他にも飾り付けられ待機する馬の様子が見える。八王子社の由緒等記されているか尾張志含め目を通すが、おでこ様以外に神社の記述は見当たらなかった。境内でも由緒を目にしなかったので詳細は良く分かりません。云えるのは挿絵が描かれた当時、恒例行事として祭礼が行われていた事になり、江戸時代には確実に八王子社は鎮座していたようだ。鳥居の額は八王子社。鳥居をくぐると手水舎に向けて真っすぐに参道が伸びる。右側は遊具が整備された公園となっており、北側には参拝駐車可能な余地もあります。稲荷社。参道右側の杜の中に東を向いて鎮座する。稲荷社付近の楠の御神木。樹々が生い茂る杜ではなく、境内のほゞ中央の4本の巨樹が杜を形作っている。なので、風の通りも良くて居心地のいい明るい森です。公園から社殿の眺め。拝殿、祭文殿、本殿と連なり、本殿右に境内社の姿がある。公園から境内社に向かってみます。公園北側から見る本殿と境内社と二つの石。境内社の右に祀られるのはどちらも山神でした。山神の左の三社相殿の境内社。左は伊勢神宮、右は津島神社、熊野本宮が祀られています。公園からの流れでいきなり本殿脇まで来てしまったので、南参道から境内を回ることに。南参道から拝殿の眺め。左側の手水舎と龍口。この龍は髭や角が控え目だなぁと思えば、角にはリボンか?どことなく表情も優しく見えてくる。拝殿から社殿と公園方向の眺め、境内では早咲きの桜の花が咲き始めていた。拝殿正面全景。一対の常夜灯の先に拝殿を守護する一対の狛犬の姿。拝殿の鬼には八王子の社名が入る。そこからして祭神は正哉吾勝勝速日天忍穂耳命、天津彦根命、熊野樟日命、活津彦根命、天穂日命、湍津姫命、市杵島姫命、田心姫命で、須佐之男命の五男三女神を祀る。拝殿は入母屋瓦葺の妻入りで、梁間、桁行ともに三間で四方は格子戸が入る拝殿前の狛犬。拝殿の妻壁には人目を引き付ける意匠は少ないようです。現在の拝殿は平成に入り修繕の手が入れられている様でした。拝殿から祭文殿の眺め、両脇の翼殿から築地塀が本殿域を囲う。本殿域全景。拝殿から本殿方向を眺める。大棟瓦には八王子社。祭文殿は明治39年(1906)に寄進された小振りな狛犬が守護する。「八王子」の額は明治21年(1888)のもの。格子戸から渡殿、流造の本殿の眺め、両脇に小さな狛犬の姿がある。蚕影(こかげ)神社。境内左側に祀られており、蚕が作る繭から作られる絹、その蚕を司る養蚕の神を祀る神社。ひと昔前にはどこでも蚕の餌となる桑畑が見られたもので、古い農家の屋根裏には蚕が育てられていたものです。若い頃中山道の宿に泊った時、屋根裏の幼虫が桑の葉を食べる時のガサ〃、ムシャ〃。あの音は今も記憶に残っている。クワガタやカブトが飼育ケースの中で一晩中ゼリーを食べるため徘徊する音にも通じるか。本殿域左の境内社、こちらには左から春日大社、金刀比羅宮、豊受大神宮、秋葉神社の四社が祀られています。扉が微妙に開けられていたが、ちゃんと社名は表記されています。拝殿から南参道の眺め。創建時期は定かにならなかったが歴史は江戸時代、ひょっとすると安土桃山時代まで遡る神社なのかもしれない。安良 八王子社創建 / 不明祭神 / 正哉吾勝勝速日天忍穂耳命、天津彦根命、熊野樟日命、活津彦根命、天穂日命、湍津姫命、市杵島姫命、田心姫命で、須佐之男命境内社 / 津島神社、熊野本宮、蚕影神社、春日大社、金刀比羅宮、豊受大神宮、秋葉神社所在地 / 江南市安良町八王子138稲木神社から八王子社 / 北へ徒歩5分程参拝日 / 2024/01/26関連記事 / ・稲木神社・天王町「稲荷社」
2024.03.01
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