先ず本誌の愛読者にして、東京弁護士会所属の弁護士、伏見万喜雄氏が十月二十四日に、上海の野戦病院にて名誉の戦死されたことです。
東京区裁判所の調停で、相手方として会った他、全然私交はありませんでした《中略》
ところが、八月の暑い盛りに、黄バスの中で顔を合わせると、ニコニコしながら私に、「雑誌を毎度有難う、仲々面白いね、君を見直したよ」と言って笑われたので、実は私は雑誌が送られていたのか否かも知らなかったので大いにまごついていたところ、二三日してわざわざ振替にて送金され「近きより誌代一ヵ年送ります、益々御発展を祈ります。伏見万喜雄 正木君」というご丁寧な文面まで書き込んであったのです。
p.161 昭和12(1937)年「近きより」『近きより』第1巻第8号<十一・十二月号>
▶私の遠い親戚の向野飛行少佐が、戦没したという記事が、僅か二行ばかり新聞に出ていました。《中略》この父にしてこの子ありと言いたいような、本当に純情生一本な典型的軍人でありましたが、まだ三十になるかならぬうちに、事変の華と散ったのは、涙なくしては考えられません。
p.162 昭和12(1937)年「近きより」『近きより』第1巻第8号<十一・十二月号>
▶甚だ悲しい話ばかりになって、読者にはすみませんが、も一人名誉の戦死をされた方の事を書かずにはいられないのです。
それは旭硝子株式会社の、大塚進氏です。私はこの方とは一面識もありませんが、理研の岡秀宝氏が、ご自分の実子以上に愛し、そしてまた、実際に感心な方だったということを諸方からききます。苦学生として帝大の工科を秀才で卒業し、三菱系のこの会社に這入って以来も、会社から貰う賞与などは殆んど全部、部下に分ち与えるという男性的な親分気質の人で、見込まれて岡氏愛嬢綾子さんの御女婿となり、近頃稀なる好青年として将来の雄飛を期待されていたのに、十月の末、歩兵中尉として北支に於いて活躍中、敵弾に斃れたのは、名誉この上なきことではありますが、《後略》
p.163 昭和12(1937)年「近きより」『近きより』第1巻第8号<十一・十二月号>
日本軍が杭州湾に上陸する、永らく膠着状態にあった江鎮が陥落する、太原が陥る、白茆口から上陸する、嘉定、太倉、崑山が陥るという風に、次から次へと戦況が進展するので、いい気持になって新聞や雑誌を耽読するうちに、時間がどんどん経ってしまい、《後略》
p.160 昭和12(1937)年「近きより」『近きより』第1巻第8号<十一・十二月号>
日本の目的が日支親善にありという日本政府の宣言を、外国が誤解するのはまだしも、日本の国内に於いてもまだそれを言葉通りに信じない者があるのは遺憾千万である。
p.170 昭和12(1937)年「近きより」『近きより』第1巻第8号<十一・十二月号>
親善のために戦争するのは矛盾ではないかと問う者に対しては、「桜の木にたかる毛虫を想像して見よ」と応うるのみ。桜が可愛ければ毛虫は焼かなければならない。
p.170 昭和12(1937)年「近きより」『近きより』第1巻第8号<十一・十二月号>
日軍の大進出によって、窮地に陥ったのは、蒋介石ばかりではあるまい。
日本国民の正義性と実力とを誤解するものは皆その認識不足の報いを得なければならない。
p.142 昭和12(1937)年「近々抄」『近きより』第1巻第8号<十一・十二月号>
もっとも私は、赤化防止に藉口して、あらゆる社会合理化運動を弾圧し、富める者は永久に富み、貧しき者は、一生貧しくし、少数特権階級のために民衆を犠牲にするような利己的な制度・傾向に対しては、忍ぶべからざる憤りを感ずることに変りはありません。
p.155 昭和12(1937)年「第七回コム・インターン大会決議」『近きより』第1巻第8号<十一・十二月号>
80年前より―その63(『近きより』をな… 2020.02.22 コメント(6)
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