太平洋戦争へ突入した時点では新聞はほぼ百パーセント軍部、政府の宣伝機関にすぎず、すでに新聞とはいえなかった。言論の自由と真実を守る瀬戸際は十五年戦争に当てはめれば、一九三一年の満州事変であり、遅くとも翌年の五・一五事件までである、といわれている。
p.127 和田洋一 1974『戦時下ジャーナリズム』「講談社現代ジャーナリズム①歴史」時事通信社
帝大経済学部の植民政策の先生が、反戦論を唱えて筆禍事件 [1] を起した。彼氏、右の頬を打たれたら左の頬を出し、上衣をくれと言われたら下衣までやる気でいるらしいのだが、それは既にニーチェによって奴隷道徳と罵られた亡国的な思想だ。どうしても宣伝したければ、先ず米英から始めて貰いたい。
p.170-171 昭和13(1938)年「近々抄」『近きより』第2巻第1号<一月号>
[1] 一九三七年、東大経済学部教授矢内原忠雄は、「中央公論」九月号に発表した論文「国家の理想」(全文削除)、講演「神の国」(10月)などにおいて、日本の現状を痛烈に批判したことを理由に大学を追われた。
一二・一五事件の大検挙 [1] は、検事局のやることだから二、三年たって、第一審の判決を見た上でないと、犯罪の事実の有無すらわからないが、もしあの低能なコミンターン [2] の指令で動くとなると、大和魂が黙視できなくなる。
p.171 昭和13(1938)年「近々抄」『近きより』第2巻第1号<一月号>
[1] 一九三七年一二月一五日、山川均、加藤勘十ら労農派など四〇〇余名が検挙された(第一次人民戦線事件)
[2] 第三インターナショナル=共産主義インターナショナル(コミンテルン)のこと。《後略》
しかし、右大検挙 [1] にやられた人物の著作物に対しては、その内容の如何にかかわらず、その名あるが故に禁止処分にするという当局のヒステリカルなやり口は、大国民の襟度がないのみならず、民をして面従腹背の気分を醸成するもの、真の愛国者の為すべきことではない。
p.171 昭和13(1938)年「近々抄」『近きより』第2巻第1号<一月号>
[1] 一二・一五事件の大検挙。(おぢさん補注)
80年前より―その63(『近きより』をな… 2020.02.22 コメント(6)
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