Nonsense Fiction

Nonsense Fiction

2007/07/03
XML
テーマ: 短編を作る(405)
カテゴリ: 連作短編


 しばらくすると、男が立ち上がって云った。「縁側の硝子戸が開いたままのようだから、閉めてきます」
 洗濯物を投げっぱなしていたことを思い出して止めようとするが、彼はすでに縁側へ続く硝子障子を引いていた。しかし、その向こうに散らかっているはずの衣類が見えない。必死に頸を伸ばして眼を凝らしてみたが、やはり黒光りする板間が続いているだけである。
男は硝子戸を閉めて戻ってくると、はっとしたように、彼女の前にやって来た。屈みこまれて、思わず身を固くする。
「これ・・・・・・」
 そう云って身を起こした彼の手には、彼女が箪笥から出してきた着物の腰紐が握られていた。
「何しようとしてたんですか。莫迦な真似は止めてください」
 何も云っていないのに、男は彼女がしようとしていたこと全てを見透かしているかのようだ。苦虫を噛み潰したような貌で、彼女を 凝視 ( みつ ) める。
「きついことを云うようだけど、今死んだってなんにもならない。こんなことをしても、あなたが損をするだけですよ。辛いのは判るけど、もう少し辛抱してください」
 いくらも齢の違わない、ともすれば年下かと思われるような男に判ったような口をきかれて、彼女は少し頭に来た。
「知ったようなこと云わないでください! あなたに何が判るのよ。子供のいる人に、ましてや男の人にこの辛さが判るわけない。もう少し、もう少しって、ずっと自分で云い聞かせてきたわ。でも、一体いつまで辛抱すればいいの!?」
 もう限界なの・・・・・・。
 悲痛な叫びを漏らすと、視界がぼやけた。赤ん坊を抱きしめる手の甲に、ぽたりぽたりと泪が落ちる。初対面の対手に、何を云っているのだろう。こんなのは八つ当たりだ。しかし、そうと判っていても止められなかった。
「ごめんなさい」
 やっとのことで謝罪の言葉を搾り出す。主人の知り合いだというのに、とんだ醜態を晒してしまった。
「主人から聞いてらっしゃるかもしれないけど、もう結婚して九年にもなるのに、子供ができなくて・・・・・・。主人の知り合いのあなたにこんなこと云っちゃうなんて、嫁どころか妻としても失格ですよね」
 赤ん坊の頭に、貌を埋める。柔らかい産毛が、頬に心地良い。
「・・・・・・あと一年。いや、二年かな」
 しばらく黙って、成す術がないといった風に ( ) ち尽くしていた男が、ぽつりと漏らした。貌を上げ、何がと訊き返すが、男は応えない。代わりに、質問を返してきた。
「その子のこと、可愛いとは思いませんか?」
 腕の中の赤ん坊に眼を落とす。あれだけ大きな声を出したにも拘わらず、赤ん坊はむずがるでもなく、安心しきったように ( ねむ ) っている。 先刻 ( さっき ) 会ったばかりの自分に、実の母親のように凭れかかって。あまりの無防備さに、彼女は眼を細めた。可愛くないはずがない。
「また、その子に逢いたいとは思いませんか?」
 男の声の中に、優しい響きが深まる。
「連れて来てくれるんですか?」
 彼女の問いに、男は力強く ( うなず ) いた。
「いつか、必ず」


 何時の間に睡ってしまったのか、気が付くと、独り仏間の硝子障子に凭れて ( すわ ) っていた。無理な体勢でいた所為で、肩の辺りが痛い。
 縁側に出ると、雨は止んでいた。 ( ) れかけた ( そら ) から硝子戸を通して入る陽が、投げ入れたままの洗濯物を赤く染めている。彼女はそれらを掴んで、仏間に戻った。男の姿も、赤ん坊の気配も消えている。ただ、ほんのりとした温もりだけが、腕の中に残っていた。


つづく






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2007/07/08 04:33:53 PM
コメントを書く
[連作短編] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

Favorite Blog

Hummingbird (とおこ)さん
俳ジャッ句      耀梨(ようり)さん
しかたのない蜜 ユミティさん

Comments

雪村ふう @ ぼっつぇ流星号αさんへ 旦那からすると、(若かりし日の)姑の方…
雪村ふう @ 架月真名さんへ いつも読んで感想くださってありがとうご…
ぼっつぇ流星号α @ なるほどねぇー なんかタイムパラドックス的な感じ(?)…
架月真名 @ リクエストに応えてくださってありがとうございました!! 子供が生まれるまでの姑さんの生き地獄の…
雪村ふう @ 架月真名さんへ 赤ちゃんの描写を褒めていただけて嬉しい…

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: