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北京のブロガーが集まるブロガー会を私が幹事でやることになった。みなさんよろしくお願いします。Be-Bloggers12.0の開催のお知らせ北京は11月にはいり、秋も深まってきました。みなさんいかがお過ごしでしょうか。このたび11月21日(土曜日)正午よりBe-Bloggers12.0を開催することになりました。時間:11月21日(土曜日)集合時間、午前11時45分、開始12:00終了予定14:00場所:和飲輪飲(朝陽区大望路SOHO現代城A座35階3512)地下鉄一号線大望路駅降りてすぐ、一階エントランスで警備員に「3512」とお伝えください。電話:010-8589-4383会費:コース料理、フリードリンクで大人50元・子供30元今回は、幹事をゴジラと北京のかかわりを研究するゴジラ@北京がつとめますので、なにとぞよろしくお願いいたします。今回は、幹事にちなんで15分ほどのゴジラクイズが、用意されています。(賞品を提供できる方はご協力ください)ふるってご参加いただければ幸いです。【申込み先】11月17日までにbeblogbj@gmail.comへメールにてエントリーお願いします。当日参加者一覧を配布する都合、申込みの際、以下について記載をお願いいたします。 ・ブログの場合→ハンドルネーム、ブログ名、ブログのURL。 ・mixiの場合→ハンドルネーム。そして一、二行程度の自己紹介。 また、ご自分の著作、芸術作品等がある方は是非お持ちください。 みなさんの前で展示&紹介させていただきます。
Nov 6, 2009
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<訃報>中国の宇宙開発の父・銭学森氏が死去、享年97歳―北京市 http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1007116&media_id=31 2009年10月31日午前11時(日本時間正午)、「中国宇宙開発の父」「ロケット王」と呼ばれた中国の物理学者、銭学森(チエン・シュエセン)氏が北京で病気のため死去した。97歳だった。中国新聞社が伝えた。 銭氏は1911年生まれ、浙江省杭州市出身。上海交通大学を卒業後、1935年から1939年まで米マサチューセッツ工科大学で航空工学を学び、1936年から1939年まではカリフォルニア工科大学に学び博士号を取得。1955年に帰国後、中国のロケット工学の発展に尽力した。 生涯、数多くの賞を受賞し、1957年には中国科学院自然科学1等賞、1979年には米カリフォルニア工科大学優秀校友賞を受賞。2006年には中国宇宙事業50年最高栄誉賞が授与され、建国60周年の今年8月6日には温家宝首相の訪問を受けた。(翻訳・編集/本郷) (以上引用) ついに銭学森氏がなくなった。 高齢なのでいつかこの日が来るとはおもっていたが、、、。 それにしても長命であった。 50年代アメリカから中国に帰国しようとしたとき銭学森氏はアメリカ政府から軟禁されて帰国できなこともあった。 冷戦体制のもたらした出来事である。 70年代に日本では中岡哲郎、山田慶児氏らによって著者が訳されたり研究もある程度でていたが、その後、続く人がいない。 実は、銭学森氏の書簡集もすでに中国では出版されていてかなり研究はしやすくなっている。
Nov 6, 2009
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もう二週間以上前になるが、「南京!南京!」の陸川監督らが北京大学でトーク番組の収録を行った。 この収録のあとコメンテータの一人だった人と夕食を食べに行った。 そのとき思いがけなく上原淳道という名前に遭遇した。 一緒に食事した人は、なんでも1966年に東大で中国語を専攻していた人でその当時、中国語を専攻していたら就職の責任は持てないといわれたという。 その人が、上原淳道氏とかかわりがあって「読書雑記」というものをおくってもらっていたというのだ。 そこで印象深かったのが、貝塚茂樹氏など学会の重鎮がすごく批判されていたのだということだ。60年代はまだそういうことがそれほど違和感なくやれた時代だったようだが、だんだん70年代、80年代と進むにしたがって学会の重鎮に疎まれ、上原氏は時代の主流からはずれていくことになったという。 実は私は、南アフリカの反アパルトヘイト運動をやっている先生の研究室に出入りしていたことがあるが、そこではじめて上原淳道氏の名前は知った。 父親が一橋大学の学長をやったことがある上原専禄氏だというのもそのときしったように思う。上原淳道氏の専門は古代中国史だが、生前には一冊の本も刊行していない。だが90年代の死の直前まで商業ベースにのらない読書雑記を続けていたようだ。世の中売れればいい本という風潮がこれほど蔓延している時代にこんな人もいたんだなと改めて思った。 「読書雑記」はぜひ入手して読んでみたいが、ちょっと入手方法がわからない。 以下は、上原氏のゼミに出ていたことがあるらしい人の文章。 ネットでみかけたので引用する。 「読まないことを薦める本 上原淳道 「読書雑記」 郵便小包で分厚く重たい本が届いた。「上原淳道 読書雑記」( うえはらただみちと読む)とある。出版社も値段もない。あとがき には、「上原淳道 読書雑記、発行日 2001年11月27日、著者 上原淳道、発行者 上原勝子(とご自宅住所)」だけが記している 。この本は、どこにも売っていないので買うことができない。読書 案内するだけ無駄なのだが、それでも書かずにおられない、私の心 に染み入る本である。 目次はいたってシンプルで、 読書雑記 1期1号(1963年9月3日) ~ 100号(1967年4月21日) 2期1号(1967年6月12日) ~ 50号(1971年8月20日) 3期1号(1971年10月2日) ~ 50号(1976年3月14日) 4期1号(1976年5月21日) ~ 50号(1981年1月13日) 5期1号(1981年3月12日) ~ 10号(1982年2月26日) 6期1号(1982年5月22日) ~ 90号(1990年8月19日) 7期1号(1990年9月7日) ~ 50号(1995年5月7日) 8期1号(1995年6月12日) ~ 41号(1999年9月22日) (通号441号) とだけなっている。 「あとがき」に、奥様の言葉がある。 「本書は、夫・上原淳道の個人通信『読書雑記』の全号を、縮小し て複製し一冊にまとめたものです。 上原は、生前つぎのように書いています。 『読書雑記』という個人通信(「個人新聞」とか「個人雑誌」とか よぶ人もある)を出しはじめてから12年以上(あしかけ14年) になる。創刊は1963年9月3日。1967年4月21日に第100号を出したが 、ここまでが第1期である。第2期は、第1号が1967年6月12日、 第50号が1971年8月20日。第3期は、第1号が1971年10月6日、 第50号が1976年3月14日。通算すれば第200号を出したことになる。 「不定期刊」のつもりだが、最初の1年間は平均して月に3回、 最近はほぼ月に1回である。体裁は、わら半紙1枚、謄写版(ガリ 版)ずり、横書き。左半分に標題一行と本文20行、右半分に本文 21行。本文1行は30字だから、1号分の本文は1230字( 400字づめ3枚強)となる。毎号、数項目から成るが、どの項も 原則としてピタリを行の終りで終るように(つまり、30字の倍数 になるように)字数を工夫している。 発行部数は、誰にも言わない。個々の配布さきも、その人が死亡 しないかぎり(つまり、生きている間は)、原則として明らかにし ない。配布の方法は原則として郵送。私が送ろうと思う人に一方的 に送るだけである。たまに「購読」を申し込む人がいるが、売りも のではないのだから、購読はできない。 原稿書き、原紙切りから、あて名書き、切手貼りまで、すべて 独力でやる個人通信を12年以上も続けているのは、大げさに言え ば、私なりの闘争であるが、闘争というよりは宗教的な「苦行」に 似ている。世の中にはいろいろな団体があり、出版物があるけれど も、どの団体もどの出版物も取上げようとしない問題で、しかも私 にとってはきわめて重要であるような問題も存在するのである。私 の『読書雑記』をミニコミと言う人もあるが、私としては、ミニコ ミではなく、さりとてむろんマスコミではなく、「ナグリコミ」だ と思っている。 (雑誌「文藝春秋」昭和51年7月号・巻頭随想「個人通信14年 」より抜粋) これは、通算200号を出し終えた時点で書かれたものですが、 結局『読書雑記』の発行は上原の死去によって終刊となるまで36 年間つづけられました。最終号は、1999年9月22日付けの 第8期41号でした。通算すれば441号までとなります。この間 、体裁は全く変わっていませんが、印刷はある時期から複写機によ る印刷(コピー)に変わっています。謄写版刷りの時期のものは、 インクの濃淡や文字の不鮮明な個所がありますが、本書は複製版で すから、それもそのままにせざるをえませんでした。 * 『読書雑記』の発行は、「私なりの闘争である」と上原は言って いますが、世間の評価はともかく、本人にとっては、特別な意味を もつ大事な仕事だったと思います。それだけに私としては、この仕 事をきちんとした形で遺しておきたい、また、そうすることが遺さ れた家族の務めでもあると思っていました。 このたび、上原の没後二年を機会に、本書の刊行によって、遅れ ばせながらこの宿願を果たすことができ、肩の荷が降りた思いがし ています。 本書が、故人を偲んでいただくよすがになれば幸いです。(以下略)」 ***** ***** ***** 実は私は1978年度の上原ゼミの学生だった。大学に入学した ての教養学部1年生のときに、「南方アフリカの現状について」と いう全学一般ゼミナール(教養学部の学生ならば誰でも参加できる )に参加したのだった。上原先生がどのような先生かも知らずに、 テーマに惹かれて申し込んだのだった。 これは地味なゼミ(土曜日の午後に図書館の中のゼミ室で開かれ ていた)だった。ゼミでは、国連の反アパルトヘイト特別委員会が 作成した南アフリカの黒人が置かれた状況についての報告書を読ん でいた。 コンパの一回も開かれることもなく、ゼミ生の名簿が作られたわ けでもなかった。それでも当時のゼミの仲間のうち3人とは今も親 交がある。そのうち2人は、いっしょに「グループアフリカと日本 」(のちに「アジアアフリカに学ぶ会」と改称)というクラブを作 って、学園祭の催しや文集つくりなどいっしょにした。 大学を卒業して商社に入社して、2,3年したとき、私の参加し ていた市民運動団体が、南アフリカから亡命してタンザニアに住ん でいる子供たちのための募金をした。そのときに、上原先生にもお 願いしたところ、東横線の学芸大学にある仕事場に招いてくださり 、匿名を条件に1万円のカンパを下さった。それが印象に残った。 実は学生時代に、2,3回『読書雑記』を送っていただいたのだ が、どうお返事していいのかわからなかった。お礼の葉書1枚、 当時の礼儀知らずな私は出せなかった。中国古代史のことが中心だ った『雑記』の内容にピンとくるものがなかったこともある。それ で先生は私への『雑記』を送付停止扱いにされたようだ。この卒業 後の出会いから後『読書雑記』を最後まで送り続けていただいた。 先生が一昨年の11月にお亡くなりになったことは、昨年の年賀 状のお返事として奥様に知らせていただいた。一昨年送っていただ いた『読書雑記』を読みながら、そろそろ『雑記』も終るのではな いかと漠然と感じていたので、奥様名義のお手紙をいただいたとき に、来るべきものが来たという直感があった。一昨年、先生の死を 予感したその時に、お目にかかってお礼を申し上げなければならな かったと後悔した。 昨年4月に有志の呼びかけで「上原淳道を偲ぶ会」が開かれた。 死んだときに初めて「公開」される読者が一同に会した。みんなの 話題は、当然先生の一本筋の通った気品のある生き方と『読書雑記 』についてだった。その時に、私は『読書雑記』のバックナンバー が読みたいと痛切に思った。その願いが、このたびかなえられた。 こうして、この連休に441枚の手書きの個人通信を読んでいる 。手書き原稿は暖かく、読んでいて疲れを感じない。原稿用紙にす れば1300枚以上になるので、結構読みでがあるが、1号1号読 んでいくのがとてつもなく楽しい。 上原先生は、東大闘争のときの、教養学部の第六委員長(学生担 当)であられた。雑記2期18号(1969,3,3)によれば「私は昨年4 月1日、東大教養学部の第6委員(学生の自治活動に関する問題を 担当する委員)に就任、9月30日までは全学の学生委員を兼ねて いました。10月1日、第6委員長に就任、任期は本年3月31日 までの予定でしたが、任期が短縮され、2月3日、委員長(ならび に委員)を解任されました。」という記述がある。 その背景でどのようなやりとりが行われたのか。実に興味深い。 けっして権力や時流におもねらず、思想のもっとも深いところで正 しい判断をされる先生が「解任」されたというところに、東大闘争 の終り方のいびつさ、いやらしさを感じるが、そこで何が議論され 何が決定されたのかを先生はけっして暴露されないので、読者は 推測するのみだ。 こういった深読みが必要な記述はそこらじゅうにある。日本の平 和運動や中国との国交回復裏話、歴史学会の実情(とくに貝塚茂樹 氏のドン体質と、それを容認する岩波書店ほかの出版業界の体質) については、私は門外漢であるが、多少だが実情を飲み込めてきた。 中国古代史がご専門であられたこともあって、論語や韓非子に関 するさりげない記述や論文が紹介されているのを見つけるのも楽し い。先生の生き方は、まさに論語を地でいくようなものであるが、 実際に先生が論語や韓非に思い入れがあったことを発見したのは、 うれしいかぎりである。 これは些細な事であるし、私が先生の影響をいつしか受けて勝手 に先生の真似をしているだけなのかもしれないが、私が東京の留守 宅で購読している新聞(毎日新聞)も、きらいな新聞社や出版社も 、ある本についての書評も(石田保昭「インドで暮らす」に蝋山芳 郎が書いた失礼きわまりない序文への嫌悪)、人からの後ろ指の指 され方(「人格的に問題がある」)までも似通っていて、先生との 不思議なご縁をあらためて感じている。先生の反骨精神や勉強熱な どはまだまだ私の及ばないところで、深く恥じ入り、これから少し でも改めなければと思った。
Jul 19, 2009
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CCTVニュース 「ただいまオリンピック開幕式直前ですが、臨時ニュースを申し上げます。 突発性大怪獣ゴジラ15号が、天津から上陸し、徒歩でおよそ時速50キロのスピードで北京にむかっております。周辺にお住まいの方は、戸締りなどに十分、気をつけてゴジラに警戒を怠らないようにしてください。繰り返します。突発性大怪獣ゴジラ15号が、天津から上陸し、徒歩でおよそ時速50キロのスピードで北京にむかっております。」 中国人民@北京「突発性大怪獣ゴジラ15号ってなんだ。そんなの聞いてないぞ。でも中国人民解放軍がやっつけてくれるからだいじょうぶだよ。」 中国共産党首脳部「なに!突発性大怪獣ゴジラ15号だと。ウイグルの組織が送り込んできた新たな新兵器なのか。それとも日本帝国主義のあらたな侵略なのか。どちらにしてもオリンピックの開催を邪魔するものは中国の総力をあげて撃滅する。なにせ中国は、原爆も水爆も開発に成功している。いざとなればその使用も辞さないつもりだ。」 山根博士(志村喬)「私は日本からゴジラのことを聞きつけて北京にやってきた山根博士です。 昔は、北京大学の教授をやっていたこともある古生物学者です。だから中国語はわかります。 あなたたちはゴジラ撃滅のために原水爆を使うことを考えておられるようですが、それはやめたほうがいいです。ゴジラはもともとアメリカによるビキニ環礁における水爆実験で誕生した怪獣です。水爆に被爆しても死ななかった怪獣です。そのゴジラをどうして原水爆で葬り去ることができましょうか。 それより、まずはあのゴジラの不思議な生命力を研究することが先決です。それからゴジラに光をあててはいけません。ゴジラは光をあてるとますます怒るばかりです。」 尾形(宝田明)「先生、私は父親が満鉄の技術者をしていて昔はハルピンにいたことがあります。 私はハルピンからの引き揚げ組みです。だから中国語が話せます。だから先生の中国語を聞き取ることができました。 先生、しかしあの怪物をそのままほうっていくわけにはいかんでしょう。中国政府はウプノールで核実験を繰り返しているとはいえ、このオリンピック開幕時にあらわれたゴジラは中国人民に覆いかぶさっている原水爆そのものではありませんか。」 山根博士(志村喬)「尾形君、君までがゴジラを抹殺しようというのか。帰ってくれたまえ、日本に帰ってくれたまえ」 CCTV「ゴジラがやってきました。北京の東側からやってきました。」 悲痛な中国人民の声とともに中国人民解放軍の砲撃の音がまじりはじめる。 CCTV「砲列が一斉に火を噴き始めました。中国人民解放軍がゴジラを鉄条網区へ追い込まんと猛烈な砲撃を開始しました。」 声はとぎれ爆撃の音だけは続いていたがまた CCTV「爆撃機群も必死の攻撃を加えています。しかしゴジラは平然とすすんでいます。あ、鉄条網にかかりました。五万ボルトの電流が、、あ、激しいスパークが、、、。ゴジラを、あ、ちがう。ゴジラは平然と鉄条網をはらいのけました。五万ボルトの電流もついに効力を発揮しません。」 現場をにらんで中継していた放送局の車は後退した。 CCTV「お聞きになったでしょうか。ゴジラはすごい叫び声をあげて、ゴジラはたけり狂い、何もかも破壊しています。もはやゴジラに立ち向かうべきものはありません。その巨大な姿が徐々に近づきつつあります。」 マイクやカメラは移動を続ける。 CCTV「警戒司令部発表、警戒司令部発表、朝陽区の住民はただちに海淀区に避難してください。」 もはやなすすべはなかった。テロ対策はしてもゴジラ対策の準備はなかった。 砲撃や爆撃がはげしくなるほどゴジラは、凶暴性を発揮し、口から白熱線をはきだして建国門はたちまち火の海と化した。ゴジラは中国の伝統的な建築物も最新の鉄骨の高層ビルも同様に体当たりでぶつかり、噴出す白熱線で破壊していった。 対策本部は容易ならぬ事態に関係方面一同に集まり協議を重ねたが、とるすべもなく情報は悪化の一途をたどった。 ゴジラは、建国門、王府井をとおってついに天安門の故宮に足をふみいれた。そしてその近くにある人民大会堂を体当たりで破壊した。 ゴジラの脅威を信じなかった一部の人々は逃げ遅れて破壊された建物の下敷きとなり白熱線で焼き尽くされ、おびただしい死傷者をだした。しかしゴジラは北京をさらず依然として猛威をふるっていた。 CCTV 「信じられません、信じられません、まったく信じられません。しかもその信じられない事件が今、われわれの眼前において展開されているのであります。、、、いまやゴジラの通過した跡は炎の海と化し、見渡せば、建国門、王府井より、東単、天安門、西単などはまったくの火の海です。あ、ただいまゴジラは移動を開始しはじめました。どうやら五道口方面に向かう模様です。テレビをごらんの皆様、これは劇でも映画でもありません。現実の奇跡、世紀の怪事件です。われわれの世界は一瞬のうちに200万年の昔に引き戻されたのでありましょうか。この恐るべき怪物は、もはや人力をもっていかんともしがたく、警備に配置された中国人民解放軍も戦うことができません。今や中国の首都北京は完全にゴジラの荒れ狂うにまかせ全滅をまつばかりです。なぜゴジラはこのオリンピック開催の時期の北京にあらわれたのでありましょうか。」 しばらくの沈黙。 CCTV「お待たせいたしました。ただいまの放送場所に危険が迫ったためマイクとカメラをCCTVのテレビ塔にうつします。ゴジラはいまや長安街をへてあたりをさまよっております。このテレビ塔も危なくなってまいりました。もし右に向かってくるとすると逃げる余地はありません。 あ、ゴジラがむかってまいります。ますます凶暴な形相をしてまいりました。やけに前肢をふりまわしています。」 ゴジラのものすごい叫び。 CCTV「あ、こちらを向きました。まっすぐこちらにやってまいります。」 ゴジラひときわ大きくほえる。 CCTV「お聞きになりましたでしょうか。あの叫び声、あいよいよ近づいてまいりました。もう絶体絶命です。この鉄塔めがけて突進してまいりました。あと二十メートル、十メートル、あ、右手を塔にかけました。折れます。テレビ塔が折れます。もう最後です。みなさん。再見、再見、」 こうして北京の都市機能はゴジラによってずたずたにされることとなった。 このあとゴジラは五道口からオリンピックセンターへと進路をとり「鳥の巣」に向かうこととなる。 そこには四川省で行方不明になり漏れた放射性物質で巨大化した真のジャイアントパンダの姿が、、、。 『ゴジラ対パンダ』第一部(完)
Apr 11, 2009
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加々美光行『鏡の中の日本と中国―中国学とコ・ビヘイオリズムの視座』(日本評論社2007年)は非常にいい本だ。「中国を含めて途上諸国から日本に学問習得、学位取得の目的で来日する留学生は近年、多数に上っているにもかかわらず、逆に日本から途上国に学問習得、学位取得を目的に留学する学生は極端に少数に限られている。つまり今日どれほど日本と途上国の間で人的、物的国際交流が隆盛を極めていようと、学問留学に限っていえば、日本と途上諸国の関係は一方通行的(uniliateral)性格を一歩も超え出ていないのである。」(113-114頁)これはそのものずばりである。この人は本当によくものが見えている人だと思う。
Jan 15, 2009
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昨日、北京の大望路の「和飲輪飲」までいって北京のブロガーたちとはなしをしてきた。 実は、北京にはBe-Bloggersという会があって年何回か実際に顔をつき合わせての交流会を開催している。今回は第9回目だったのでBe-Bloggers9ということになる。 そもそもこのBe-Bloggersの成立のきっかけは、2005年4月の北京や上海での「反日デモ」のときにメディアが報じる報道とは別の側面が存在すると感じた北京のブロガーたちがブログによって生の情報を発信し、ネットワークをつくっていこうとしたことだと紹介された。 たしかに私も2005年4月は北京にいたが、あの報道がすべてだと思うとしたら大きな誤解だなとかんじていたので、このブロガーたちの感覚は確かだと思う。 実は私はこの会への参加は三回目なのだが、ブログの名前を紹介したのはこれがはじめてである。 普段あまり会えない人に会えるというのもこの会のメリットである。 『兄弟』とか『北京再造』の翻訳者とも少し話ができた。 『兄弟』の翻訳者のIさんとは大使館の研究会以来、『北京再造』の翻訳者のTさんとは初対面である。『北京再造』というのは建築家、梁思成についての本なのだが、非常に重厚な本だという印象を持った。この本を3ヶ月で訳したというTさんはやはりただものではないのではないか。 フリーペーパーの編集長も私の読みのとおり来ていたので、借りていた本を返した。 野村総研のMさんとは、満鉄調査部のことなどではなしこむ。 野村総研の創設者は、もともと満鉄調査部にいたとのこと。戦後日本のシンクタンクの源流は、満鉄調査部にあるのだということをあらためて確認する。 その野村総研が、いま清華大学のなかに研究所をもつにいたっているのは、なかなか興味深いことだといえる。 全体でクイズをやっていたが、答えられずに終わる。最後に「グエムルー漢江の怪物」のおもちゃとか「ガメラの服」とかがもらえた(これはクイズに勝った人に譲ってもらった)のでまるで私のために用意されたものなのかと錯覚したぐらいだ。 準備して下ったみなさんご苦労様でした。 帰りは北京日本人会の図書館によって本をみていた。 三菱商事に関する面白い本があったので今度借りることにした。 以下、参加ブロガー: 「北京ガア子の朝陽区な日々」ガア子さん http://plaza.rakuten.co.jp/chinadego/ 「北京のジウ。トホホな日々。」ジウさん http://plaza.rakuten.co.jp/beijingjiu/ 「Emmy Broad Band Cast」KOMAさん http://koma.cocolog-nifty.com/emmy/ 「丁未堂画室」丁未堂さん http://blogs.yahoo.co.jp/teibido 「週刊中国的生活」ともこさん http://weeklychinalife.blog103.fc2.com/ 「中国さんさんぽ」ソウコ http://blogs.yahoo.co.jp/souko_otokozawa 「奈良人 in CT」巳波さんhttp://yusukeminami.blog58.fc2.com/ 「北京の足音」ひろちゃいなさん http://blogs.yahoo.co.jp/hirochina55 「DIARY IN BEIJING」Tammyさん http://blogs.yahoo.co.jp/tamami122013 「日々海量北京報」あんどぅさん http://blog.livedoor.jp/beijingando2007/ 「mayusaya@北京ヒルズ2」mayusayaさん http://plaza.rakuten.co.jp/mayusaya888/ 「マダムと力宏な日々」陸太太さん http://plaza.rakuten.co.jp/timtimbeijing/ 「北京いつも上天気」Xiongmao07さん http://plaza.rakuten.co.jp/beijingxiongmao/ 「北京メディアウォッチ」しゃおりんさん http://pekin-media.jugem.jp 「北京逍遥」多田さん http://dongxiang24.spaces.live.com/ 「ゴジラが北京に来る夜に」ゴジラ@北京さん http://plaza.rakuten.co.jp/ngodzilla21 「脳天気の北京deあれこれ」doramiさん http://myhome.cururu.jp/doorami/blog 「Chai ( Fei Fei )'s Blog」ちゃいさん http://blog.360.yahoo.com/chaichai6 「北京で起業、五年目の日記」平田さん http://www.blog-grandslam.com/ 「ENTERO独立革命記」ガミさん http://entero.jp/ 幹事 「北京五彩繽紛」xiaomiさん http://plaza.rakuten.co.jp/xiaomi/ 「みどりの果敢な北京生活」みどりさん http://blogs.yahoo.co.jp/yorinotorimidori 会場 「和飲輪飲」蔡さん http://wainwain.blog108.fc2.com/
Jan 14, 2009
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mixiの日記がメインでこちらはあまりまじめに更新していなかったのだが、ブロガー会にこのブログのことがでてしまったので、少しまじめに更新していくことにしたい。「北京大学日本人留学生学術交流会」のHPhttp://beijingacademicexchangemeeting.schools.officelive.com/default.aspxができたので見ていただきたいなと思う。地味なので北京でもまだあまり知られてはいない。こういうところから少しずつ知ってもらうきっかけをつくっていかないといけない。とにかく中国の日本人留学生は、研究留学の人が少なすぎる。もっと学術や学問のことをまじめに考えていかなくてはならないだろう。そのための「明日のために」の会なのである。
Jan 14, 2009
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日中関係を研究しているというアイスランド人から昨日メールがあった。 今日は、狗鍋といって犬の肉を鍋にしたものを食べてしまった。 魯迅先生が、むかし小説をおしえていた大学で売っていたぜ。28元だったが、まあまあの味だった。犬の肉を食う世界があるのだなあと改めて思った。 まだパンダ鍋というのは売っていなかった。レンタル料も高いし、この鍋は高そうだな。 ゴジラ鍋は、放射能のため人間が、食べるのには向かないようだな。 さて、ずいぶん昔に見たので忘れかかっていたが、映画『ゆきゆきて神軍』で奥崎謙三に糾弾されていた元日本兵は、人の肉を食らっていたんだったな。 今日、だんだん思い出してきた。 ちょうど一年前ぐらいに福田康夫氏が、北京大学にやってきて魯迅先生の「故郷」の一節を引用していたっけ。でも「狂人日記」の以下のような一節は引用しなかったな。 「四千年来、たえず人間を食ってきたところ、そこにおれも長年くらしてきたんだということが今日わかった。人間を食うのが俺の兄貴だ。おれは人間を食う人間の弟だ。おれ自身が食われてしまっても、依然としておれは人間を食う人間の弟だ。 四千年の食人の歴史を持つおれ。はじめはわからなかったが、いまわかった。真実の人間の得がたさ。人間を食ったことのない子供はまだいるかしらん。」 21世紀資本主義が本格的に視野に入れているのは、人体だ。人体の研究を商品化させることによって膨大な利潤がみこめるのだ。新たなフランケンシュタインもうまれてくるかもしれん。おれの仲間だ。 四千年の食人の歴史を持つおれは、人が人を食う歴史が本格的に始まるのはこれからかもしれんと思った。
Dec 31, 2008
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丸尾常喜『魯迅―花のための腐草となる』を北京日本人会の図書館から借り出してきていたが、最近以下のような箇所を見つける。なお、この本の最初には馬良春先生指教と書いてある。「1904年4月、魯迅は弘文学院を卒業する。清朝政府の指定する進路は東京帝国大学工学部採鉱冶金科であったが、彼は医学を選んだ。「卒業して帰国したら、私の父の受けたようなまちがった医療から病人の苦痛を救い、戦争のさいは軍医として従軍し、一方、国民の維新に対する信仰を促そう。」「『吶喊』自序」というのが、魯迅の夢であった。彼の医学への熱意は、東京高等師範学校に進学予定の友人までに医学専攻をすすめて志望を変更させたほどである。卒業証書欲しさに留学し、帽子を富士山のようにそびえさせながら、留学生会館でダンスに興じ、上野の花見に繰り出す中国人留学生たちに対する嫌悪から、魯迅は喧騒の東京を離れ、仙台医学専門学校に入ることにした。おそらくこのとき魯迅の内面は、医学習得のためのしばし沈潜をつよく欲していたに違いない。」(63―64頁)魯迅の留学先が東京帝国大学工学部採鉱冶金科に決まっていたというのは、初めて知った。なるほど魯迅が「中国地質略論」を書いているのも納得できる。もし、ここでそのまま東京帝国大学工学部採鉱冶金科に進学していれば、仙台の藤野先生との出会いもなかっただろう。
Oct 20, 2008
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古川隆久『あるエリート官僚の昭和秘史―『武部六蔵日記』をよむ』を読む。満州国の官僚のトップだった人に関する本だが、あまり参考になるようなことが載っていなかった。残念。ちかくのお気に入りの店に出かけるが、そこの女子店員から「何人ですか」と聞かれる。けっこうかわいいかんじの子だったが、私の中国語もまだまだだということだろう。その後、話をしていると17歳だということがわかった。高校にはいっておらず、小学校を卒業してから瀋陽から北京にでてきたのだという。こういう人もたくさんいるのが中国である。
Oct 6, 2008
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加藤紘一『テロの真犯人』(講談社2006)を読む。 先日、山形の実家を焼かれた加藤紘一氏が書いた本で一度目を通しておきたかった。 意外だったのは、東大時代の同級生に外務官僚、法眼晋作氏の息子の法眼俊作氏がいたということ。法眼俊作氏は、加藤氏よりも一足先に外務省に入っていたが、自殺してしまったという。加藤氏に中国をやるようにうながしたのは、この法眼俊作氏であったという。 この本のなかの加藤紘一氏の次の発言に目をひかれた。 「これまでのアジアの安全保障はアメリカ抜きには考えられなかったし、今後も少なくともあと15年はそういう時代が続いていくだろう。アジアが今後どうあるべきかということは、アメリカの存在をぬきに議論することはできない。どうしても三角形の関係でなければならないのである。 もしそのなかで中国があまりに覇権的になれば、そのときは日米が手を組めばいいし。あるいはアメリカがあまりにも独断的になったら日中が組めばいい。それから日本があまりにも傲慢になったら、おそらく米中が一緒になって日本にブレーキをかけるだろう。このような相互作用をしばらく維持することによってアジアの政治情勢はスムーズなものになっていくのではないだろうか。」(49頁) このところ米中が接近しているというはなしを聞いているが、この認識は重要だと感じた。 アメリカの方ばかりを向いて政治、外交を行おうとする小泉氏とはやはり異質な認識だろう。佐高信は、小泉氏を評して「一次方程式しか解こうとしない。」といったが、加藤氏は「二次方程式や三次方程式を解こうとする姿勢がある」ということになるだろう。 実際の「テロの犯人」は、右翼を名乗る男性だが、加藤氏はその背後に「テロの真犯人」を見ようとしている。
Sep 1, 2008
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石ノ森章太郎の「人造人間キカイダー」といえば1972年から特撮番組が放送されたことで知られる。先日、偶然、ここに出てくる光明寺博士を演じる伊豆肇という俳優が、北京大学の卒業であることを知る。 1940年代の卒業なので、まだキャンパスが、街中にあったころの北京大学の卒業である。日本軍が占領していたころのはず。 戦後、東宝のニューフェースの第一期として三船敏郎と同期で東宝に入社していたとは知らなかった。『ゴジラ』(1954)の芹沢博士と山根博士が元北京大学教授という設定になっていることを知ったときも驚いたが、「人造人間キカイダー」の光明寺博士が北京大学を実際に卒業していたとは、、、。 中国語はぺらぺららしい。そういえば、『ゴジラ』(1954)で尾形を演じた宝田明はハルピンから引き揚げてきているため、中国語がよくできるらしい。 特撮に出演している人で中国語が堪能なのは、この二人か。
Jul 25, 2008
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遠藤徹は『プラスチックの文化史』(水声社2000)において以下のように述べている。 「戦後の一時期、特に1950年代を中心としてSF映画の一ジャンルとでもいえるほど流行したのが、核物質によって突然変異をとげた生物の物語だった。日本でも第五福竜丸事件によって蘇らされた被爆体験の記憶を背景として1955年に世界的に有名な怪獣映画の金字塔ともいえる『ゴジラ』第一作が作られている。そこでは海底にひっそり生きながらえていた古代の恐竜ゴジラサウルスが、放射能被爆によってケロイドのようにただれた背びれをもった巨大な怪獣ゴジラと化し、口から放射能の熱線を吐きながら日本の首都東京に上陸するという物語が展開されていた。1960年代になって後発のもう一方の怪獣の雄として登場する『ガメラ』の場合もロリシカというロシアとアメリカを掛け合わせた名前の国の核物質を搭載した戦闘機が南極に墜落し、その熱によって冬眠から覚め、さらには放射能に被爆した古代の巨大な亀がガメラとして復活するという物語だった。その意味では当時、日本でも世界でも怪物や怪獣の出現の理由としてはとにかく原子力、放射能、核爆弾といっておけば誰もが納得するような時代背景があったのである。」(294頁) ここまではこれまでもよく指摘されてきたことである。(なお1955年というのは1954年の間違いであろう) しかしこれに加えて遠藤氏はこう付け加えている。 「それは同時にこのころから人知をこえた力が不可視のレベル、つまりは分子や原子のレベルで生命体に働きかけ、もっとも根源的な遺伝子からその生命体を作り変えてしまうという脅威が意識され始めたのだといえるだろう。その背景にはもうひとつワトソンークリックによってDNAという遺伝物質がぼくたちの身体の設計図になっているという衝撃的な事実がすでに教科書的な知識になっていたという事実も見逃せない。このような意識の土壌が大衆レベルですでに形成されていたがゆえに1980年代以降、急速に発展した遺伝子工学の脅威もさほどの抵抗なくうけいれられたのだろう。いずれにせよもはや目には見えず、理解することもできないナノレベルでの脅威に自分たちがさらされているという意識が20世紀後半の人間にとっての潜在的なトラウマになっていったわけである。」 ゴジラが生まれた1954年には、分子生物学の分野では、ワトソンとクリックが、DNAの二重螺旋構造を解明しつつあった。この偶然は興味深い。そして80年代以降に急速に発展する遺伝子工学を取り上げたのが「ゴジラ対ビオランテ」(1989)であろう。この映画においては、ゴジラ細胞というものが問題となり、はじめて分子レベルのゴジラの身体が問題となる。80年代以降はゴジラの身体もひとつの資源なのである。
Mar 30, 2008
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歩行スピード最速は北京!時速5.3kmで香港人を抜き全国1位に―米メディア(Record China - 03月29日 07:4327日、英国レジオン社の調べによると、中国国内で最も歩行スピードが速いのは北京の人だという。データは地下鉄の構内にビデオカメラを設置し、数時間に渡って計測されたもので、平均時速は5.3kmを記録した。 2008年3月27日、歩行者シミュレーションソフトを発売している英国レジオン社の調べによると、中国で最も歩行スピードが速いのは北京の人だという。環球日報による米メディア報道の転電。 都市部の歩行者は歩行スピードが速いことから、国内では最も発展した都市・香港の歩行者が最速なのではないかと思われたが、同社の研究では、北京の歩行者の歩行速度が時速5.3kmを記録し、香港の4.8kmを大きく上回った。 なお、データは地下鉄の構内にビデオカメラを設置し、数時間に渡って計測されたもの。これは建築物の設計時に参照される貴重な資料として提供される。(翻訳・編集/愛玉) (以上引用) 私は、上海が一番かと思っていたが、北京だったのか。 地下鉄などで駅から駅に移動するときたしかに歩行速度の速さは感じることがある。中国で一番早かったとは知らなかった。
Mar 29, 2008
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おもいがけず、この日記で何回か言及したことのある遠藤誉さんにお会いすることになった。昨日のよるホテルで会食することができた。遠藤誉さんに取材を受けた中国人の友人がさそってくれたために実現した。感謝である。遠藤誉さんは取材した中国人学生たちがかわいくてしたかないというかんじだった。さすがに中国人留学生の世話を長年してきた人だというかんじをもった。とても気さくな方で私もいろいろと話をうかがうことができた。「国共内戦というのは、先述した革命戦争のなかの一つで毛沢東率いる共産党軍と後に台湾に逃れた蒋介石率いる国民党軍との間で行われた内戦だ。この戦争のために私は家族を餓死でなくし、死体の上で野宿することを余儀なくされ、恐怖のあまり記憶喪失となった。7歳のときだった。共産党軍が長春市をすべて鉄条網で包囲し、食糧封鎖をしたからである。そして長春市内にいた国民党軍もまた飢えで息絶えていく市民を見殺しにした。このとき餓死した者の数は、中国政府側発表で15万人、経験者は30万人といっている。それでも私は、あの犠牲は「苦しむ人々を助ける戦い」のために払った犠牲なのでそのために戦った共産党軍は正しかったと自分に言い聞かせて生きてきた。しかしその共産党が作った国は、これまでに何をしてきたのか、そして今何をやっているのか。たしかに中国は豊かになった。やがて日本を超えて世界第二の経済大国にのしあがっていくだろう。私にとってうれしいことではある。だがその陰で中国はさらに「苦しむ人々」を生んでいるのではないか。そのために「自由の国」どころか、厳しく言論と思想を規制し、強権的な実質上の一党独裁専制政治を行っているのではないか共産党幹部が大企業と結びついて特権階級として貧困層を虐めている。こんな社会をつくるためにあの犠牲があったのではない。」これは「中国動漫新人類」のあとがきのなかの遠藤氏の言葉だが、この言葉には遠藤氏だからこそいえる本物の響きがあるとおもいますという感想を伝える。
Mar 28, 2008
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22日、四川省臥龍国家自然保護区中国パンダ保護研究センターと北京動物園は、「環境にやさしい」をテーマとしている北京オリンピックを広げてゆくために、中国の宝でもある同保護区の子パンダを北京動物園でお披露目することとした。 2008年3月22日、四川省臥龍国家自然保護区中国パンダ保護研究センターと北京動物園は、「環境にやさしいオリンピック」をテーマとしている北京オリンピックを広げてゆくために、中国の宝でもある同保護区の子パンダを選び、北京動物園でお披露目することとした。新華網が伝えた。 「臥龍国家自然保護区パンダ、北京オリンピック紀行」と命名されたこのイベント、3月21日に始まり、パンダのネット投票コンテスト、出発、お披露目、帰郷と、11月までの約8ヶ月間行われる。 容姿がよく、適応能力の強い、活発で、かわいい「歓歓(ホワンホワン)」、「福[女尼](フーニー)」、「福娃(フーワー)」など、16匹の子パンダが既に臥龍保護区から選ばれ、その中で6~8匹が北京に行くとのことだ。3月29日結果が発表される。 北京オリンピック公式マスコット5つのうち、晶晶(ジンジン)というマスコットにもなっているパンダ。絶滅に瀕している動物というだけでなく、中国の国宝であり、平和と友情の使者として、世界の人々に愛されている。(翻訳・編集/佳佳)(以上引用) やはりパンダは平和の使者か。しかしパンダも核実験により被爆して 巨大化するとゴジラのような存在になりうるから、ちょっと気をつけたほうがいいよ。 パンダとゴジラが取っ組み合いながら天安門をこわすという日中共同制作映画「パンダ対ゴジラ」のクランクインの知らせはまだ届かない。
Mar 26, 2008
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満鉄中試会準会報がとどいていた。 同級生がなくなったとか、家族がなくなったとかそういうはなしが多い。 そのなかでも特に目を引いたのは、萩原定司氏が102歳でなくなっていたことだ。 「ついに」というかんじをもった。 萩原定司氏は、戦前は、満鉄中央試験所の研究員だったが、戦後は、国際貿易促進協会理事長として日中友好に努力してきた人だ。まあ、よくここまで生きてきたともいえるわけで、ご冥福をお祈りするしかない。 大連化学物理研究所には、萩原氏の写真が掲げてあったことを思い出す。 週末文化市場をぶらついていると知り合いの古本屋のおばさんに声をかけられた。 「このお札はどこの国のものだい?」 なぜそんなことを私に聞いてくるのかはよくわからなかったが とにかくよくみてみるとベトナムのものだった。 ホーチミンと思われる人の肖像が描いてある紙幣であった。 なぜこんな紙幣を持っているのか聞いてみたら、本の間からでてきたのだという。 たぶんベトナムから北京大学に留学してきたベトナム人が本の間にはさんだのではないだろうか。古本屋のおばさんは、ベトナムの紙幣がどれほどの価値があるのか知りたがっていた。
Mar 25, 2008
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昨日は朝からゼミである。そろそろ博士論文の予答弁の時期が近づいているのでみんな忙しい。私は後藤新平の科学思想に関する報告をする。論文化してすぐに送 ることにする。 午後はちょっと睡眠をとった後五道口のある留学生雑誌の勉強会に参加する。主催者からさそわれたため。 医療に関して中国の現状についてけっこうくわしいことがわかって勉強になった。 中国で救急車を呼ぶとやはり料金が発生する。 一kmあたり大体2.5元とか3.5元とかとられるらしい。 また救急車を30分以上待たせると一時間ごとに10元とられるのだという。 なかなか救急車をよぶのも大変である。 その後、夕食を留学生雑誌のスタッフとともにとる。
Mar 23, 2008
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高橋哲哉氏のことを書いていて思い出したことがある。高橋氏が軍事評論家の前田哲男氏を尊敬しているというのは、中国の重慶で講演を聞いたときに知った。前田氏は、重慶の戦略爆撃に関する先駆的な仕事を残している。その前田氏の本が、中国語になって出版されている。これも重慶を扱った本だったが、「戦略爆撃の思想」とはちがう本である。その本には中国語の序文がついているのだが、それは北京大学歴史系のX先生が書かれている。そのX先生に2月はじめごろにばったり会ったときにその本の事を聞いてみた。すると「あの本買いましたか?」と聞かれたので、「まだです」と答えると、「わたしの方から差し上げます」といわれた。しかし実は5月まではX先生は日本に滞在するといっていた。高橋氏と交流しているかもしれない。だから本がもらえるのは五月以降のことであるのだが、はたしてX先生は覚えてくれているだろうか。
Mar 22, 2008
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最近シカゴ大学からハーバード燕京基金で北京大学にきている大学院生の人と話をする機会があった。シカゴ大学教授のノーマ・フィールド氏のことについてはなしをした。 ノーマ・フィールド氏の本をはじめて読んだのは『天皇の逝く国で』(みすず書房1994)ではなかったと思うが、こういうところで名前がでてくるとは思わなかったな。 シカゴ大学の日本人留学生は大体は知っているらしい。 そういえば、Mixiにもコミュニティがあったことを思い出す。 以前、北京で会った哲学者の高橋哲哉氏とも仲がよいらしく、高橋氏が、シカゴ大学で講演というようなことも聞いている。北京とシカゴの意外なつながりである
Mar 21, 2008
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かなり暖かくなってきたが、なぜか風邪をひいてしまった。 朝から本の整理などしていたら、みあたらなくなっていた大石又七著「これだけは伝えておきたいービキニ事件の表と裏ー」がでてくる。 書評しなくてはいけないので、もう一度精読する必要がある本である。 テレビを見ていたら、北京航空航天大学と立命館大学の相互交流のニュースがやっていた。 立命館大学は、北京大学とも相互交流があるとたしか北京大学生が日記に書いていたのを思い出す。 中国人民大学のQさんから返事のメールが来る。
Mar 21, 2008
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ドラえもん アニメ文化大使に外務省は漫画などのポップカルチャーを利用した文化外交の一環として、人気キャラクター「ドラえもん」をアニメ文化大使に起用することを決め、19日に同省で就任式を行った。ドラえもんに就任要請書を手渡した高村正彦外相は、「世界中を飛び回ってほしい。世界の人に日本を理解してほしい。世界の人と日本が仲良くなるようにしたい」と激励した。 (以上引用) 中国の全土の映画館ではじめて同時上映されたのが、ドラえもんだった。 私が希望工程で農村の小学校にいったとき歌った歌もドラえもんのうただった。中国においてはそれほど知名度が高い。 これは民によって作られ、民によって選ばれた文化だった。 アニメや漫画による文化外交というようなことを長期的な視点で考えた政治家はほとんどいなかったし、麻生氏がそれをいいはじめるのもつい最近のことだ。 私もドラえもんをはじめて読んでいた頃このような事態は、予想できなかった。
Mar 19, 2008
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東北大に寄贈された写真。後列左が魯迅。鼻の下に見事なひげが描かれている 中国の近代化に影響を与えた文学者、魯迅(ろじん)(1881~1936)の仙台留学中の写真が、東北大史料館(仙台市青葉区)に寄贈された。18日から公開される。魯迅の下宿先の家族宅に保管されていた一葉で、鼻の下に当時はなかったはずのひげがある。魯迅が有名になる前、下宿の主人が「今ごろひげを生やして偉くなっているだろう」と想像して描いたらしい。日本との交流を物語るワンカットとして注目されそうだ。 魯迅は1904(明治37)年に仙台医学専門学校(現東北大医学部)に入学。仙台市内の宮川家に下宿したが、徐々に文学を志し、2年後に中退した。 写真には魯迅のほか仙台医専の日本人学生4人、中国人留学生1人が写り、裏側には「明治参拾八年影」と記されている。転身を迷っているころ地元の写真館で撮ったらしい。裏にはさらに「大正二年現在」としてそれぞれの氏名と現在の状況が記され、魯迅については本名で「周君 不明」と書かれている。当時の下宿屋の主人、宮川信哉氏の書き込みらしく、ひげもこの時に描かれたらしい。 魯迅にはこの時、ひげはなかったが、帰国直前の1909年に東京で撮った写真にはある。その後、「狂人日記」などで著名になった。史料館の担当者は「下宿の大家には強い印象があり、中退後も気に掛けていたのでしょう。交流をしのぶ貴重な写真」と話している。【藤田祐子】 (以上引用) このニュースには無関心ではいられない。なぜなら魯迅とは縁の深い人間だと思っているからである。東北大史料館には何度かいっているが、なぜいまこういう写真が寄贈されたのだろうか。当時の下宿屋の主人、宮川信哉氏の子孫にあたる人が見つけて寄贈したということだろうか。 魯迅は墓の下で笑っているかもしれない。天国で笑っているのではない。なぜなら魯迅は「私は天国にはいきたくない。聖人君子とは一緒にいたくない。」という主旨のことを語っているからだ。 あえてこのようなことを語る魯迅が私は好きである。このような魯迅の精神を少しでも継承したいと願う。 北京にある魯迅博物館にもこの写真は飾られるかもしれない。
Mar 18, 2008
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中国教育部は外国人の中国留学に関するデータを発表。07年の中国の外国人留学生は過去最多の19万5503人を記録し、国別トップは韓国、日本は第2位だった。新華ネットが伝えた。 07年は188の国と地域から合計19万5503人の外国人が中国に留学、前年比で3万2808人(20.17%)増加した。受け入れ先は、台湾、香港、マカオを除く中国31の省、自治区、直轄市で544の高等教育機関、科学研究所など。中国政府からの奨学金受給留学生は1万151人で、同1667人(19.6%)増加。一方、私費留学生は3万1141人(20.2%)増加し18万5352人となった。 世界の大陸・州別では、アジアからの留学生数がトップで14万1689人、全体の72.47%を占めた。欧州出身者は2万6339人で同13.47%、米大陸は1万9673人で10.06%、アフリカ大陸は5915人で3.30%、アジア・太平洋地域は1778人で1.07%。アフリカ大陸からの留学生は前年比で2178 人(58.28%)増加し、伸び率が最大の地域となった。 国別トップ5は1位から韓国(6万4481人)、日本(1万8640人)、アメリカ(1万4758人)、ベトナム(9702人)、タイ(7306人)となっている。(翻訳・編集/汪葉月) (以上引用) これからもしばらくは中国への留学生は減りそうにない。 主流は中国語を学びにくる人たちである。 研究留学というのはまだ主流ではない。アフリカ大陸からの留学生が増えているのは注目すべきだ。 日本は第二位の留学生数なのだが、第一位の韓国は、突出して多くの留学生を送り込んでいることがわかる。 北京大学の予科なども韓国人留学生だらけだし、留学生優秀賞なども韓国人留学生が席巻している。 また韓国人留学生は日本人留学生に比べるとけっこうまとまりがいいように思う。
Mar 18, 2008
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