M17星雲の光と影
2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
2011
2010
2009
2008
2007
2006
2005
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
全1件 (1件中 1-1件目)
1
朝五時に忌野清志郎死去のニュースを知る。ロックとは何か。それは定義不能の音楽である。ロックはことばでは説明できない。それは「やる」しかない音楽であり、「生きる」しかない音楽である。そういう意味で、彼はロックを生きた。では、ロックを生きるとはどういうことか。私がはじめて彼の存在を知ったのは「フォークの人」としてだった。私は職業上の時間の何割かを「教える」ことに割いている人間だ。どうしてそういう仕事を選んだか。そこには明確な目的意識があったわけではない。自分で立てた計画にもとづくことでもない。単なる偶然だ。だから、自分で教える時に「こうしよう」とか「こうしなければならない」という決まりをなにひとつ持たない人間だった。少なくともポジティブな意味での目標はなかった。でも、手ぶらで生徒の前に立つわけにはいかない。せめて「こういうことだけはしない」というネガティブな規範意識くらいは持つべきだと思った。教師をはじめるにあたって、最低限これだけはやらないようにしよう。「教師らしい教師にはならない」そう思う気持ちの底に、「ぼくの好きな先生」という唄があった。「タバコを吸いながら いつでもつまらなそうにタバコを吸いながら いつでも部屋にひとりぼくの好きな先生 ぼくの好きなおじさんタバコと絵の具のにおいの あの部屋にいつもひとりタバコを吸いながら キャンバスに向かってたぼくの好きな先生 ぼくの好きなおじさんタバコを吸いながら 困ったような顔をして遅刻の多い僕を 口数も少なくしかるのさぼくの好きな先生 ぼくの好きなおじさんタバコと絵の具のにおいの ぼくの好きなおじさんタバコを吸いながら あの部屋にいつもひとりぼくと同じなんだ 職員室が嫌いなのさぼくの好きな先生 ぼくの好きなおじさんタバコを吸いながら 劣等生のこのぼくにすてきな話をしてくれた ちっとも先生らしくないぼくの好きな先生 ぼくの好きなおじさんタバコと絵の具のにおいの 僕の好きなおじさん」以来20年以上、この歌詞が私の頭の片隅から消えることはなかった。その歌詞を書いた人間が、今日、この世から消えてしまった。「ロックを生きる」とはどういうことか。ロックには「骨」が必要だ。「反骨」ということばには垢がついたので使わない。とにかく中心部に「骨」がなければロックとはいえない。その骨には「棘(とげ)」がある。外側に向かって、身近な者の肌に突き刺さる棘をもっていること。これも条件のひとつだ。でも、棘だらけのまま、生きることはできない。鋭い棘には「さや」が必要だ。それをそっと包みこむコーティングを施さなければ、少なくとも持続的にロックを生きることはできない。その「さや」に当たるのがユーモアとテンダネスだ。「やさしさ」ということばには手垢どころか、腐臭まで漂ってくるので使えない。ユーモアとは物事と向きあう時に「正対しない」ことだ。少しだけ斜に構える。そこに生まれる微妙な空気の流れの変化を「ユーモア」と呼ぶ。テンダネスはさらに説明がむずかしい。プレスリーの「ラブ・ミー・テンダー」を想像してほしい。あの歌詞、あの歌い方。一見するとソフトなラブソングに聞こえるが、あれは明らかに病んだ者のつぶやきであり、独白だ。病むこととすれすれの繊細、繊弱。それがテンダネスである。「スロー・バラード」という曲を思い浮かべてほしい。あるいは「帰れない二人」の歌詞を。敗残、敗北、絶望の中に甘美な香りを嗅ぎ当てることもロッカーの資質のひとつなのかもしれない。骨と棘とユーモアとテンダネスをもった一人のロッカーの死。忌野清志郎の冥福を、……祈ろうとは思わない。しかたない。今日は「あきれて物も言えない」を大音量で流すことにしよう。「どっかの山師が オレが死んでるって 言ったってさ よく言うぜ あの野郎 よく言うぜ あきれて物も言えない」「どっかの山師が オレが死んでるって 言ったってさ よく言うぜ イモ野郎 よく言うぜ あきれて物も言えない 低脳な山師と 信念を金で売っちまう おエラ方が 動かしてる世の中さ よくなるわけがねー あきれて物も言えない」 ……あきれて物も言えない。
2009.05.03
コメント(8)