M17星雲の光と影
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この数か月、どんな本を読んできたか、あらためて考えてみた。レイモンド・チャンドラー『さよなら、愛しい人』(村上春樹訳)、『大いなる眠り』、『かわいい女』(創元推理文庫)、『湖中の女』、『プレイバック』、『高い窓』(ハヤカワ・ミステリ文庫)。村上春樹『1Q84』(新潮社)、ジョージ・オーウェル『動物農場』(角川文庫)。ダシール・ハメット『マルタの鷹』(これは途中まで)。そして、今、目の前にあるのは『フイッツジェラルド短編集』(岩波文庫)。要するに、村上春樹関連本ばかり読んでいるようなものである。しかし、この中でもっとも強くこころを動かされたのは、チャンドラーの文章である。その文章の堅牢、精緻、剛健、精妙。そこには確かな「世界」がある。その世界に入るためのドアを開け、順路にしたがって歩を進める。その歩みのなかに感じる至福、充足、緊張、愉楽。極端なことをいえば、ストーリーなどどうでもよくなるほどの魅力が、この文章にはある。ストーリーを追うことに熱心な読者は、彼がなぜこれほど細かい描写を積み重ねるのか、疑問に思う人がいるかもしれない。しかし、この緻密な書き込みは、ある意味では必然なのである。彼は細かく書こうとしているのではない。細かく書かざるをえないのだ。それは文章化する以前に、彼の目に、描こうとする世界があまりにも鮮明に「見えてしまって」いるからである。チャンドラーは「インナービジョン」の人である。彼にとって、文章を書くという行為は、実はことばによって世界を描くということを意味していない。まず、ことばがあり、そのことばの積み重なりを通して世界が浮かび上がってくる。この当然ともいえる流れの中に彼は位置していない。チャンドラーの場合、ことば以前に彼の脳内にくっきりと鮮明な内的な像が浮かんでいる。その像の運動方向に沿ってことばを展開することが、彼にとっての「書く」ということなのである。ふつうの物書きならば、ことばを使って世界を描く。ひとつひとつのことばをていねいに積み重ねることによって、まるでキャンパスに油絵具を次々に塗り重ねていくように、画が描かれる。しかし、チャンドラーの場合は違う。ことばによって徐々に世界が作り出されるのではなく、ことば以前に、まず鮮明きわまりない内的なイメージがあり、そのイメージをことばが追っていく。当然、そのイメージのすべてをことばで表現することはできない。限られた、不十分なことばで、そのイメージの一部分が表現されることになり、その後には表現されなかった膨大なイメージが残される。そのことばにはならないイメージの残骸が、逆に作品世界のリアリティを、解像度を高めていく。ことばを超えてイメージを現出する力。そういう力が彼の文章にはある。どこまでも鮮明で、あきれるほどの解像度をもった映像が、彼の脳内にはすでにくっきりと浮かび上がっている。それはことばによって再現することができないほど、確固とした映像である。彼はその映像を読む者の脳内にどうすれば再現することができるか。そう考える。むだな逡巡をなくし、目的地を定め、ひとつひとつの事実を冷静に、客観的に、論理的に積み重ねていく。それはある意味では息の詰まるような緊張感を伴う作業だ。しかし、その文章を辿る私たちの内面にきざすのは、他でもない、「自由」の感覚なのである。彼の徹底的に人為的、客観的な言語操作が、なぜ人に「自由」を感じさせるのか。それは彼の文章が、どこまでも「人間であること」を突き詰めることから生まれてきたものだからだ。彼は神のように世界を創造しない。上空から世界を俯瞰し、自分の意のままにチェスの駒を動かすように、登場人物を操作することをしない。なぜなら、そんなことは人間にはできないからだ。チャンドラーは空を飛ばない。あくまでも地面の上にいる。地表から自分の方位を確認し、進むべき方向に向かって一歩一歩、歩を進める。鳥の眼ではなく、虫の眼で世界の表面を移動していく。マーロウはそのように事件を追う。それがどこへたどりつくのか。彼自身にもわからない。「よくわからない」という彼のお得意のセリフは、彼が神の視点を拒絶していることを示す象徴的なことばだ。人間とは自分がどこにいるのか、その立ち位置が「よくわからない」存在である。それがチャンドラーの示す人間の定義なのだ。読者はマーロウと視点を共有しながら、そのストーリーを追うことになる。しかし、読者もマーロウの頭の中にまでは入っていけない。彼は一人きりで、車をとめ、しばし考えにふける。しかし、彼がその時、何を考えているかは、読者には明らかにされない。彼の頭のなかに入るためには、読者は自分のあたまをフルに動員して彼の思考を再現しなければならない。これはずいぶん不親切な書き方のように思える。しかし、考えてみてほしい。いったい誰が実人生のなかで、他人の脳のなかに入りこむことができるだろうか。文章を書くことは(それをフィクションという世界に限定すべきなのかどうか、今の私にはまだよくわからない)、神の視点、鳥の視点に立つことへとたえず誘惑されることである。そして、真に文章を書くということは、その誘惑に打ち勝つ文体を持つということである。チャンドラーの文章はそのことを教えてくれる。文章を書くことは、実に容易に神の視点、鳥の視点を手に入れることを可能にする。しかし、その瞬間にその文章は腐敗臭を放ちはじめる。そういうことではないかと私は思う。誰も神のように一望俯瞰の視点を手に入れることはできないし、鳥のように上空から世界を見渡すこともできない。われわれはみな、名もない虫として、きわめて見晴らしの悪い地表をもぞもぞと動いて行くしかない存在なのである。しかし、一匹の虫として、懸命に、自分の進むべき方向を模索し、そこを目指して歩いていく。虫の視点から世界を解釈する。それこそが「生きる」ということではないのか。彼の文体はそのことを告げている。すべてを見通すことができない人間は、いったいどのようにふるまえばいいのだろうか。そこで踏み越えてはならない線はどこにあり、逆に踏み越えなければならない線はどこにあるのか。それを虫の視点で獲得するためには何が必要なのか。そこでは、自分の目に入る事実を出来る限り正確に認識すること、それをことばで再現し、いくつかの事実をつなぐつなぎ目、ブリッジを自分の知力を尽くして正確にトレースすることが大事である。そこではことばの精度が重要になる。そして、Aという事実とBという事実をどうつなぐか。その過程をできるだけ明瞭に認識することが大切である。というよりも、虫にできることはそれしかないのだ。そして、それをやり遂げた末に見えてくるのは、自分を神や鳥と錯視した人間にはけっして目にすることのできない、人間の生の真実なのである。チャンドラーの文章はそう告げているように、私には思える。マーロウは行動の指針を見失い、思いあぐねて、しばしば自分の部屋の机の深い引き出しを開け、ウィスキーのビンを取り出し、それを口に含む。その時、チャンドラーの目には、その上の段の引き出しも同時に鮮明に映像化されている。その引き出しをそっと開けてみると、その内部に置かれたものの配置もどこまでも鮮明に見える。右手の奥に何があり、左手には何が置かれ、引き出しの取っ手がどのような形状をし、どういう材質でできているか。ことばにしようと思えば、いくらでも文章に描くことはできる。しかし、彼はそうしない。そのまた上の引き出しも、壁も、窓も、そこに漂う空気も、煙草の煙も、すべて手に取るように見えているのに、それはことばにされない。そして、ことばにされないことによって、それらは注意深い読み手のこころのなかにありありと浮かぶことになる。ことばの限界を通して、そのことばの向こうに、ほとんど無限の世界の広がりを表現する。私には今のところ、これ以上の言語表現の形を思い描くことができない。チャンドラーの文章とは、要するにそういう文章なのだ。凡庸な作家がことばの数を増やすことによって文章の解像度を上げようとするのに対して、彼はむしろことばで表現しないことで、自身の脳内にある映像の圧倒的な解像度を感じさせるのである。これだけ精緻なことばを用いながら、なおかつまだ描かれていないもののほうが多い。それがチャンドラーの文章だ。「ぼうや、文章っていうのは、こういうふうに書くもんなんだぜ」彼の文章はそう語りかけてくる。おい、おい、いい歳こいたおっさんを「ぼうや」呼ばわりかよ。しかし、その見立ては彼の文章がいつもそうであるように、公正で、客観的で、かつ正確だ。チャンドラーの文章に比べれば、私の文章など、「ぼうや」以前、いや人間以前のレベルにとどまる。「おまえはチャンドラーの文章を翻訳で読んでいるだけだろう。それでなぜ彼の文体を論じることができるのだ」こころある読み手はそうつぶやくだろう。たしかに、その意見は正当だ。私もそう思う。一般的にはその指摘は正しい。だが、私にはなぜか、翻訳の向こうにたしかに彼の屹立した文体が見えるのである。ひとつには清水俊二という名訳者の存在があるのだろう。その彼でさえ、「プレイバック」のあとがきの中で、「(チャンドラーの文章は)日本語になおすと、魅力が半減してしまうのが大へん残念なのである」と書いている。すると、私は彼の文章の半分しかまだ味わっていないことになる。これは実にたいへんなことである。言いたいことを言い尽くせないままに、字数が尽きた。チャンドラーについては、もう一度、これまで読んだ作品を、そして読み残している唯一の長編「ロング・グットバイ」を読んでから、あらためて語りたいと思う。「一に足腰、二に文体」私はあらためて村上春樹のこのことばを噛みしめるのである。
2009.08.18
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