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多田富雄『免疫の意味論』(青土社)を読み始める。免疫システムの基本は「自己」と「非自己」を識別することにある。その上で自己の同一性を保持し、非自己を攻撃、排除ないしは無力化することがその目的である。その自己認識において、免疫系は脳よりも上位に位置するという指摘が興味深い。たとえばニワトリの受精卵にウズラの脳の原基(将来、脳となる部分)を移植すると、それらは脳細胞として分化していく。やがて生まれたヒヨコの頭部はウズラそっくりになる。そしてその行動もウズラに酷似してくる。しかし、このヒヨコは生後十数日で死んでしまう。なぜならニワトリの免疫系がウズラの脳を攻撃して神経細胞を破壊してしまうからである。このことから自己認識において、免疫系は脳細胞よりも優位にあると多田氏は述べる。では、免疫系はどのようにして「自己」と「非自己」を見分けるのだろうか。ふつうに考えると、自己のなかに「変なヤツ」が入ってくると「あ、変なヤツが来た」と思って、そいつを集中攻撃して排除する。そういう仕組みがあるのではないかと思うところだが、実はぜんぜん違うのである。「自己」と「非自己」の識別機能を担うのは、「胸腺」から生まれる「T細胞」である。だが、このT細胞は「変なヤツ」を見つける能力をもっていない。それじゃあ、役に立たないじゃないかと思われるだろうが、それでも免疫系はちゃんと作動するのである。そのしくみはおおよそ次のようなものである。ある幼稚園に仲良しぞろいの「さくら組」というクラスがあったとする(ちなみに私は原幼稚園「さくら組」出身である)。このクラスを「自己」にたとえる。そのクラスにある日、ずいぶん毛色の変わった転校生が一人入ってくる。クラスの結束を守るため、さくら組の全員はこの転校生をよってたかっていじめて排除する、というような人の道にはずれたことをさくら組は行わない。というか、そういう生徒が入ってきたということさえ、さくら組のメンバーは気づかないのである。(ずいぶんと鷹揚というか、おばかさんぞろいである)。しかし、しばらくして転校生(A君としよう)がクラスに友だちを作る。その友だち(B君としよう)はA君に感化されて、これまでとはちょっと違った髪型、服装で登校してくる。すると、クラスの人間はこのB君の変化には瞬時に気づくのである。「あいつ、おれたちの仲間なんだけど、これまでとはちょっと違ってるぜ」。全員がそう思い、やにわにB君に攻撃をしかける。あわれ、B君は反撃をする余裕もなく、クラスから排除されてしまうのである。免疫系による異分子の排除はこのようにして行われる。要するに体内に異物が入ると、白血球系のマクロファージ(貪食細胞ともいう)がこの異物を取り囲んで細胞に取り込んで分解する。その分解の途中で異物の断片がマクロファージの表面に出てくる。その断片と結びついた体内の一部(HLA抗原)に向かってT細胞が反応を開始する。すなわちその抗原に対する抗体が作られるわけである。さっきのさくら組に戻ろう。A君をたとえばインフルエンザウィルスと考えてもいい。そのウィルスに感染したB君は即座におシャカにされてしまう(なむあみだぶつ)。では、A君はどうなるか。A君にはその毒気を抜いて、おまけに尻子玉まで抜いてしまうチャーミングでキュートなガールフレンドがあてがわれるのである。(魔性の女C子ちゃん登場)このC子ちゃんが「抗体」である。A君はすっかりC子ちゃんにのぼせあがり、でれでれへろへろ状態になり、完全に無毒化されてしまう。かくして免疫反応は終了するというわけである。私が感心するのは、この「非自己」の認識がきわめて合理的かつ効率的であるということだ。もしも非自己を直接的に認識する物差しを作ろうと思ったら、けっこう大変なことになる。なにしろ非自己というのは自分以外のすべてのものを指すわけだから、その量は膨大であり、その性質はまったくの未知である上に、てんでばらばらである。それを計る物差しなんか、考えてみたら作れるわけがない。第一、自己を認識する物差しと、非自己を認識する物差しを別々に作るのは不経済きわまりない。物差しなんか一個ですませられればそれに越したことはない。(「オッカムの剃刀」ということばもある)だから、免疫系は自己を認識する物差しを一個しかもたないのである。その物差しでは異物を直接計測することはできない。でも、その異物に影響を受けて微妙に変化した「自己」を認識することはできる。なぜなら、それは自己にそっくりでありながら、それとはわずかに違うからである。自己を計る物差しから微妙にはみ出してしまったもの、それを即、排除する。そして、そのはみ出た寸法をもとに異物を無毒化する自己の断片(抗体)を作る。そして異物と抗体を合体させて、免疫作業終了、というわけである。実によくできた機構である。そう思いつつ、私はなぜかこの国の「いじめ」について考える。いじめの対象となるのは、他のみんなと「ちょっとだけ違う」生徒の場合が多い。そして、そのクラスが均質で画一的であればあるほど「いじめ」が発生する頻度は高くなる。その「ちょっとだけみんなと違う」生徒と友だちになった生徒もしばしばいじめの対象となる。うーん、なんだか似ている。しかし、違うのはいじめの場合には、異物に対する直接的な攻撃ないしは排除が起き、それが次第にエスカレートしていくというところである。免疫系はそのような野蛮な行動はとらない。そこでは異物に影響を受けて変質した自己の一部が排除されるのみである。そして、異物はある意味では同化されてしまい、その状態で自己の動的平衡状態は保たれる。いじめを行うクラスが硬直し、固定し、柔軟性に欠けているのに対し、免疫系をもつ「自己」はあくまでも他者を受け入れながら、微妙に自己自身を変えながら同一性を保持しつづけていく。異物に影響を受けた自己の断片を切り捨て、異物を無害化しながらそれを体内に取り入れるということは、要するに自分が少しだけ変わっていくということである。異物を徹底的にたたき出すことにエネルギーを使うよりも、ちょっとだけ自分を捨て、ちょっとだけ異物を取り入れることで自分自身を変化させるほうが得策だという、これは戦略であろう。われわれが免疫系のエレガントなシステムから学ぶべきことはけっして少なくないと私は思うのである。
2008.01.31
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ずいぶんひさしぶりのブログ更新である。文章を書かない時はこころが乾いている時である。生きるために必要なうるおいを欠いている時、人のこころは文章には向かわない。ということで、「枯れ木に水をあげましょう」運動の一環として文章を書いてみることにする。本年、初頭の一冊は既述の通り、サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」であった。私はとても面白く読んだ。でも、どこか読めていない部分があるような気がして、もう一度頭から読み直した。さらにそれと並行して、村上春樹・柴田元幸「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」(文春新書)も読んだ。この本がまた面白かった。まるまる一冊「キャッチャー」をめぐる二人の対話と、本来ならば白水社版「キャッチャー」の巻末に付されるはずだった村上氏の解説が掲載されている。そこで展開されている対話はけっして「文学論」というのではない。作者の方法論について論じたり、作品の文学史的位置づけについて意見を交わしたりということは、(少しはあるけれども)主要なテーマではない。それよりもむしろ「あの場面のあいつのあのせりふにはこういう意味があるんじゃないか」とか、「あそこでなぜあんなことしちゃうんだろうね」とか、言ってみれば「池袋文芸座終映後、男二人連れしょぼい喫茶店にて大放談大会」スタイルで対話が展開されるのである。そこにはいろいろと面白い指摘もあるのだが、まあそれはそれ、興味のある方は直接同書に当たっていただくとして、少なくとも原書の味わいをいっそう深めてくれる稀有な解説書あるいは鑑賞本であることはたしかだ。「キャッチャー」を読み終わって、「なんか読み足りないなあ」と思った方には格好の「二度目のおいしさ」を堪能させてくれる本である。というような日々を過ごすうちに、どうにもサリンジャーが頭から出て行かなくなってしまった。次に読もうと思っていたあれやこれやの本を尻目に、ついふらふらと彼の「ナイン・ストーリーズ」(新潮文庫)を買ってしまった。訳者はあの野崎孝氏である。「翻訳夜話2」のなかでも、村上氏は自分の著作へのサリンジャーの直接的な影響については述べていなかったと思うのだが、「ナイン・ストーリーズ」の各編のタイトルを見ると、ある種の影響というか、類縁関係が認められるように思う。たとえば、「バナナフィッシュにうってつけの日」、「コネティカットのひょこひょこおじさん」、「対エスキモー戦争の前夜」、「笑い男」。どうだろうか。もちろん作品世界そのものが似ているかと言われたら、ちょっと首をひねるしかないし、そこに描き出された心情表現にもはっきりとした違いはあるのだが、世界をとらえるレンズの屈折率がどこか似ている印象を受ける。これが「キャッチャー」の翻訳に見られる村上氏の自在な語り口にも反映されているように感じられるのである。本書に収められた9つの作品は、その出来に微妙なムラはあるものの、その組み立て方や語り口は実に見事なものである。私がもっとも気に入ったのは「笑い男」。わずか25ページ足らずの小品であるが、傑作である。ほぼ完璧な仕上がりだと思う。「エズミに捧ぐーー愛と汚辱のうちに」もすばらしい余韻を漂わせる名作である。この二作を読むだけでも十分本書を贖う価値はある。でもうまく書かれた短篇小説ほど、その良さを説明するのがむずかしいものはない。「興味のある方は読んでみてください」といって、あっさり白旗をあげるのがあるいは正解なのかもしれないが、まあ一言二言拙い感想を述べることにする。彼の作品にはしばしば「子ども」が登場する。それもくっきりとした輪郭とあざやかなイメージをもった存在として、その「小さな人々」は読む者のこころに忘れがたい印象を残す。その子どもたちは一面ではとてもリアルだ。細かな仕草や微妙な心情描写を通して、彼らは作品の中で生き生きと躍動する。しかし、そのような姿を描き出すこと自体は、おそらくサリンジャーの目的ではない。それはあくまでも「何か」を映し出すための手段なのである。それは被写体というよりもスクリーンであり、照明である。では、それによって映し出される「何か」とはいったい何か。これが必ずしも明確ではないのだ。そして、その「何か」は「子ども」のもつイノセンスや聖性とも深い結びつきをもっている。要するに、彼の作品における「子ども」は手段なのか、目的なのか、判然としないところがあるのである。だから、彼の語り口の明晰さに比べて、そのテーマは必ずしも明瞭ではない。読む側からすると、彼の作品はあざやかな印象を残す夢のようなものである。ありありと夢の中の情景は頭に焼きついているのだが、それが何を意味するのかは必ずしも明らかではない。鮮明な記憶は「意味」という落ち着きどころを得られないまま、こころのなかで不安定に揺れ動くことになる。解釈の困難な夢の映像を読者の脳裏に鮮明に刻み込む力を彼の作品はもっているのである。「ナイン・ストーリーズ」の描き出す世界は、そういう形をとっている。たとえば「笑い男」を見てみよう。ここに出てくる「子ども」は珍しく「私」である。他の作品のほとんどでは、「子ども」と「私」は別人物だ。そういう設定では、作者の子どもに対するある種の「偏愛」がどうしても前面に出てしまうので、読む者には若干の違和感を与えることになってしまう。しかし、「私=子ども」という設定ではそういう危険は回避される。この作品を私が好む理由のひとつはそこにある。「私」は9歳。「コマンチ団」という25名から成る団体の一員である。22,3歳の大学生の団長の運転するバスに乗って放課後、セントラルパークでスポーツや美術鑑賞を行う日々を送っている。その団長がバスの中で語る長編活劇の主人公が「笑い男」なのである。この「笑い男」の話は雑多で奇怪でスリルに満ちており、少年達の好奇心を満たしてくれる。男の子25人と団長からなる小さな世界の、それは共同幻想としてたしかに機能している。そこに団長のガールフレンドが登場し、現実世界と虚構の物語がパラレルに進行していく。その書きっぷりのあざやかなこと。サリンジャーの語りは、いつも最小のことばで最大の表現効果を上げている。再読すると、印象的なシーンがいかに少ないことばで語られているかに気づいて驚かされることになるが、この作品はその典型である。これ以上の説明をこの作品に加えることはできない。もちろん「ネタバレ注意」ということもあるが、それ以前に能力の問題として私にはこれ以上の論評を加える力がない。読み終えて頭に浮かんだことばは「幻想と破壊」である。このふたつのものの関係について私は考える。子どもの抱く幻想にはあらかじめ自爆装置がセットされている。破壊されない幻想は、そもそも幻想とは呼べない。必然的に破壊される運命にあるもの、それを幻想と呼ぶとすれば、幻想が存在する意味はどこにあるのか。幻想は単独で存在しているのではない。幻想は現実と深く結びつくことによって、はじめて存在可能になる。幻想のもたらす喜びは、その幻想が無残に引き裂かれる時の痛切な痛みの感覚と一体のものなのである。そこにおける喜びと痛みは、いわばコインの両面なのだ。幻想と現実は相反するように見えて、実はひとつのものの表と裏なのである。たとえば笑い顔を模した仮面。あの仮面の表情が深い哀しみをたたえているように見えるのはなぜだろうか。この作品は、その疑問に対するひとつの答えであると私には思えるのである。
2008.01.28
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J.D.サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(村上春樹訳)読了。しかし、これはすごい翻訳だ。「文体の創出」にかけて、これをしのぐ訳というのはちょっと考えられない。村上春樹は文学作品を評する時に、よくヴィークルということばを口にする。「乗り物」という意味なんだけど、この作品の文体はまさに「ヴィークル」として見事に機能している。この文体を模倣して、似たような作品をいくつかでっちあげることなんか、朝飯前じゃないかって気がする、いや、冗談抜きで。(というような文体なんです)内容的にはとても不思議な作品だ。物語(というよりも「語り物」といったほうがいいか)の面白さ、語り口のなめらかさ、人物や情景の描写の巧みさという条件をきちんと満たしながら、読み終わると「どうもそれだけではない」という感じが残る。「十分に読みつくせていない」というか、「何かを読み落としている」というか、そういう感触が読後に残るのである。ということで、もう一度、冒頭に戻って再読している最中である。こういうことをふだん私はやらない。例外的に同じことをしたのは、同じく春樹訳の「グレート・ギャツビー」だけである。ああ、そう、「わたしを離さないで」でも冒頭を少し読み直した。そして、そうしてみると、これらの作品の冒頭部が実によく書けていることに気づく。深い読後感を残す作品は、長編、短篇を問わず、冒頭の一節で既に「作品全体が見通されている」のである。そして、キャッチャーに関しては、訳者と読者の間に存在するエネルギー収支のバランスの問題もある。読む側からすると、村上氏がこの訳に注いだエネルギーに比して、自分の消費するエネルギーが圧倒的に少ないと感じられるのである。「このくらいのエネルギー消費で読んだつもりになってちゃいけないな」と思って、もう一度頭から読み直す。そういうことが起こるのである。では、読み終わった後に残る「何か」とはいったい何か。これはなかなかの難問である。現時点で考えられる仮の答は「無意識」である。どうもこの作品の随所から、読む人間の無意識に訴えかけてくる何かを感じる。この作品全体が、「誰か」への語りかけの形をとっていることもその一因だ。そして、訳者はそのことを十分に自覚した上で仕事を進めている。この作品自体がきちんと終わっていないし、訳者もまたきちんと終わらせようとしていない。結末がオープンエンドであるというだけでなく、この作品のあちこちには読む者の無意識に訴えかけてくる「穴ぼこ」のようなものが存在している。どうもこのあたりに「何か」を解く鍵がありそうだ。でも「無意識的な何か」では答えになっていない。だが無意識はうまくことばに乗らない。だから、ここからは「示唆」や「暗示」という方法を使うしかなくなる。自分の触覚を頼りに気になる部分を探っていくと、「忘れ物」、「言い間違い」、「書き間違い」、「覚え間違い」、このあたりにヒントが隠されているように感じる。その例をいくつか挙げてみよう。1、冒頭に近い部分で、主人公ホールデン・コールフィールドはフェンシング・チームのマネージャーとして(というのもいかにも奇妙な設定だが)、交流試合に行く途中、地下鉄にチームの試合用具一式を置き忘れてしまう。この物語はここをきっかけに始まる。そして、その原因は地下鉄を乗り間違えたことにある。2、その後、寮で同室の「頭の中にセックスしかない」ストラドレイターの作文を代わりに書く羽目になる。彼の宿題は「部屋とか家についての描写的な作文」だったのだが、ホールデンは弟のグローブについての文章を書いてしまう。3、ホールデンが寮を出て行く数日前、母親からスケート靴が送られてくる。しかし、それは彼が望んでいたレース用のものではなく、ホッケー用の間違った靴だった。4、ニューヨークに戻り、タクシーでホテルに行くつもりが、間違って自宅の住所を言ってしまう。5、ホテルのエレベーターボーイに女を買わないかと誘われ、女性を部屋に入れるのだが、その時のショートの値段が5ドルだったか、10ドルだったかで揉め事になる。6,ラスト近く、妹のフィービーの部屋に入り、彼女のノートを見ると、そのスペリングは誤りだらけだった。(春樹氏の注には、「スペリングの得意なフィービーなのだが、この文章にはたくさんの綴りの間違いがある。……彼女に対するホールデンの評価が高すぎるということなのだろうか。そのあたりはちょっとした謎だ。」とある)このように随所に「忘れ物」「思い違い」「言い間違い」「書き間違い」が頻出するのである。そもそも「キャッチャー・イン・ザ・ライ」というタイトル自体が、「If a body meet a body coming through the rye(誰かさんが誰かさんとライ麦畑で出会ったら)」という歌詞のmeetをホールデンがcatchと覚え間違ったところから来ている。これらの事例をきわめて乱暴に一般化すれば、「規範からの逸脱」ということになる。それもけっして意識的なものではなく、「ついうっかりと」「なんとなく」なされる無意識的な逸脱である。逸脱と放恣は違う。前者には規範に対する意識があり、後者にはそもそも規範意識そのものが欠けている。だから、ここに見られる逸脱はある意味では規範への強い意識と、なぜかはわからないがその規範から無意識のうちにずれていってしまう意識との乖離を意味しているのである。規範が安定と秩序をもたらすものだとすれば、そこからの逸脱は不安と破壊をもたらすはずだ。しかし、ホールデン的世界においては暴力は封じられている。彼は口でしか相手を攻撃しない。殴られるのはいつも彼自身である。だから彼はいつも傷つきながら、深い不安と倦怠と疲労のなかにいる。そして、たえず放浪をつづける。そして、何かを探しつづけている。彼の妹フィービーはきわめて象徴的な存在である。あれほど人物造型に秀でたサリンジャーが彼女に関してだけは、人物像にリアリティをもたせることをあえて避けているように見える。まるでホールデンの見ている幻覚ででもあるかのように、リアリティの欠けた人物として彼女は描かれる。しかし、それは幻覚であるだけに、いっそう純粋な少女性の結晶そのもののように見える。彼女こそは、規範からの逸脱、その不安におののく彼の魂の導き手なのだろう。彼は自らを無神論者という。たしかに彼は既成宗教、宗教の制度的なものに対しては強い嫌悪感を示している。だが、宗教そのものの根底にある「原感情」ともいうべきものに対しては強く引かれるものを感じている。通りすがりの尼さんに寄付をする箇所、「キリストは好きだが、十二使徒は大嫌いだ」という告白がなされる箇所にはそれがよく示されている。人生は「言い間違い」のようなものだ、とはいえないだろうか。正しい人生の実践は味気ない。かといってでたらめな生き方には不安と焦燥と破滅が伴う。正しい用法、正しい発音を知りながら、思わず知らずついそこから逸れた言い方をしてしまう。生き方をしてしまう。そこにこそ人生の妙味があり、本質がある。そうは考えられないだろうか。人間はミスを犯しがちな生き物である。しかし、そのミスのなかにこそその人間が現われる。読後、ふとそんなことを思ったりしてみたのである。
2008.01.12
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夕暮れのプラットフォームで帰りの電車を待つ。反対側のホームに電車が入ってくる。外は既に暗く、電車に乗った乗客の姿が夜の闇のなかに浮かび上がる。一人の若い女性がこちらの方を向いて、両手で熱心に髪を整えている。ちょうど私の真向かいの位置だ。こちらからは彼女の姿しか見えない。だから、あたかも彼女は向かいにいる人間を意識して自分の髪を直しているように見える。いや、そうとしか見えない。だが、事実は違う。電車に乗っている彼女は、夜の闇を背にした電車の窓を姿見にして、自分の姿を見ているのである。なんということもない日常の風景である。だが、私はその光景を見て、何か不思議な感覚にとらえられる。自分を映し出す鏡がなければ、人は自らを認識することができない。しかし、それは厳密には「鏡」ではない。自分の姿だけを忠実に映し出す鏡を人間は内面に備えることはできないのだ。それは「鏡」というよりも、むしろ「ガラス窓」である。外の世界が光に包まれている時、その窓は外界を映す素通しのガラスになる。しかし、いったん外が闇に包まれると、その闇を背にして自分自身の姿を映し出す「鏡」へと変貌する。そして、鏡に映った自分自身の姿の向こうには、実は他者の姿がある。窓に焦点を合わせると自分の姿。その外のなにものかに焦点を合わせると外界が見えてくる。そして、その二つの像は重なり合っている。人間が自分を知り、他者を知るというのは、こういうことではないだろうか。漆黒の闇の中では自己も他者も見えない。燦々たる光の中では他者だけしか見えない。自己と他者の間に隔てを置き、自己を明瞭に意識した時、暗い外界を背景として他者の中にある自己の姿が浮かび上がる。その自分の姿を意識し、それを自分にとってより望ましい方向へと改変、修正しようとする行為は、そのまま、外界から自分を見つめる他者へのメッセージとなる。しかし、それがメッセージとして届いていることを彼は知らない。彼の目の前にあるのは、夜の窓ガラスに映った自分の姿だけである。その向こうに広がる世界に焦点を合わせない限り、そこには自分の姿しか存在しない。焦点を外界へと移動させ、自分の姿をぼんやりとにじませた時、はじめて他者の世界が見えてくる。それも自分の像のなかに、二重映しになったものとして。子どもは光の世界の住人だ。そこには輝かしい外界がある。しかし、明確な自己像は存在しない。子どもの意識世界が成熟していくにつれ、外界は暗い影を帯びてくる。そこにはいびつに歪んだ自己像が薄気味悪く浮かび上がる。青年の自意識は、深いインフェリオリティ・コンプレックスにとらえられる。青年は自意識を獲得した代わりに、あれほど輝かしい光に包まれていた外界を喪失してしまう。暗い闇の中に浮かび上がるひきつった自分自身の顔。彼の意識はそこから逃れることができない。そして青年の意識は長い時間の波にさらされる。そこで何が起こるか。外面的には何も起こらない。光も影も総量としては変化しない。依然として内面には光があり、外は闇に包まれている。だが、彼の目は徐々に外の闇に慣れてくる。目の前に立ちはだかっていた自分自身の等身大の像の向こうに、ぼんやりと外の景色が見えてくる。私は額にかかった自分の前髪を撫で上げようとして手を頭のほうへともってくる。それに連動するように、向こう側のホームにいる小さな人影が小さく手を振るのに、青年は気づく。自分のための所作が他者へのメッセージと受けとめられ、返事が戻ってきたのだ。その時、彼は自分の像の向こうに、いや自分の像を通して、外の世界の広がりを知る。青年の焦点は外の世界へと伸びていく。こんどは錯覚ではなく、はっきりと意識して彼は他者に向かって明確なメッセージを送る。それに対してふたたびメッセージが返ってくる。そして、彼は気づく。向かいにいる誰かはホームに立っているのではない。彼もまた電車に乗っているのだ。彼は反対方向に向かう電車のなかから、こちらの車両に向かって手を振っているのである。夜の闇の中を擦れ違う二つの列車。その二枚のガラス窓に映る二つの自己像と、その向こうにある二つの他者像。その間に交わされる信号。その存在に気づいた時、青年は既に自分が青年ではなくなっていることを知る。会社の帰り、駅のプラットフォームで、私はひととき、幻視の中にいた。
2008.01.09
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正月休みに「フラガール」を見る。以前、地上波で放送していたものをビデオ録画したものである。最近では映画館はおろか、貸しビデオ屋に行くことすらおっくうになってしまった。映画から遠ざかる一方である。でも、書棚の奥にはいつの日か見ようと思って録った映画のビデオがごまんとある。なんだか見るだけでげっぷが出てしまって、さらに映像から遠ざかることになる。さらに時間もない。精神的余裕もない。文章を書く暇と気力にさえ事欠くというありさまである。かくしてこころの砂漠化現象は確実に進行しつつある。「乾いたこころにお水をあげましょう」ということで、手の届きやすいところに「ALLWAYS三丁目の夕日」と「フラガール」を置いておいたのだった。「ALLWAYS三丁目の夕日」は面白かった。よく出来た映画だと思う。正確にいうと、「よく出来たつくりもの」といったほうがいいか。これは悪口ではない。むしろほめことばだ。あの映画にこめられた多くの人々の真摯な情熱や熱意や創意や努力を私はおとしめようとは思わない。誠実で立派な仕事である。(ところどころにただよう「日テレ」臭にはいささかげんなりしたが)だが、この映画を「名画」と呼ぶのは、ちょっとちがうだろうと思う。丹念に作られた誠実な仕事のすべてがマスターピースになるわけではない。「良い仕事」のすべてが「傑作」や「名作」であるわけではない。「良い仕事」とはどこまでも誠実に真摯に細やかに作られた作品である。それは基本的に作り手の統制下、支配下にあり、それを超えて勝手に動き出したりはしないものだ。それに対して、作品が作り手の意図を超えて、自分の足ですっくと立ち上がり、未知の領域に歩を進めた時、はじめて「傑作」や「名作」が誕生するのである。私はそう考えている。だから、「三丁目の夕日」はよく出来たつくりものなのである。見ていて嫌みを感じず、とてもいい時間を過ごすことができた。たまたま酔っていたこともあり、後半、涙が出たりしたが、なに酔っぱらいの涙なんかなんのあてにもなるものではない。ただ、見ている時の気持ちのよさはけっして酔いのせいではない。それだけはたしかだ。主役の少女(堀北真希)は好演。しかし、なんといっても薬師丸ひろ子がすばらしい。ピュアなコメディエンヌというのはこの国では貴重な存在だ。「あくがないのに存在感がある」という点では、彼女は吉永小百合直系の映画女優といえるだろう。この映画はたとえ巧妙なCGがなくても、彼女ひとりの存在感だけで十分に持ちこたえることができると思う。それに比べて男優陣はあまりぱっとしない。堤真一は誉める人も多くいるのだろうが、私の目にはミスキャストに見える。コメディに「力み」と「熱演」は禁物である。吉岡秀隆は予想通りの役を予想通りに演じていて、可もなく不可もない。この人はこれからちょっと苦労をしそうな気もする。と前置きが長くなったが、本題は「フラガール」だった。世評ではこの映画は蒼井優を見るべき作品ということになっているようなので、私もそういう予断をもって見た。蒼井優はいい。にこにこしながらも、どこか「こわい」ところがある。なかなか言うことをきいてくれなさそうな「太さ」と、起き上がりこぼしのようなたくましさがうかがえて、感じがよい。(わかりにくい表現ですみません)彼女は存在自体にある種の「批評性」があるように思う。ことばで理屈を言うのではなく、生身の肉体で目の前にどんと立ちふさがるような存在感がある。小賢しい理屈になびかない肉体そのもので、きちんとものを言うというのも、女優の重要な条件のひとつである。ただ、率直な感想を言わせていただくと、これは蒼井優の映画ではなかった。松雪泰子の映画だった。松雪泰子という女優を私はこれまで一度も美しいと思ったことがない。魅力的だと感じたこともない。だが、この映画を半ばまで見ると、その彼女が輝くような美しさの持ち主に思えてくる。物語にはある種の女性を神秘的な輝きで包みこむ作用があるのである。とくに前半で彼女が一人で踊るシーン。これは見事である。本来ならば、蒼井優がラスト近くでこの踊りを舞う時に、松雪以上の輝きを見せなければならないのだが、残念ながら、蒼井には松雪ほどの体のキレがない。結果的に前半に映画のピークが訪れることになってしまった。(もちろん最後のダンスシーンはすばらしいものだったが、それにしても、松雪のあの一人踊りにはかなわない)映画の内容にはいろいろ不満もある。あまりにも「定型」にもたれかかりすぎており、挑戦がなく、スリルがない。脚本・構成もゆるく、フォーカスが甘い。でも、まあ、そんなことに目くじらを立てるような映画ではない。私は蒼井優と松雪泰子の戦いの映画として見た。その観点から十分楽しめた。映画を見ていて気づいたのは、脚本や構成や演出などに見られる映画的ほころびが、蒼井にはマイナスに作用し、松雪にはマイナスに作用していないということである。蒼井という女優は、やはりそのほころびを際立たせてしまうような「批評性」を身に備えている。変な演技を付けられた後など「えっとこれはどうなんだろう」という表情が時折正直に顔に出てしまうところがある。それに対して松雪は、自分を輝かせることにのみエネルギーを傾注している。だから陳腐でどうしようもない場面でも、彼女の輝きは揺らがない。彼女は良い映画を作るために献身的な努力をしているというよりも、自らを輝かせるという一事に没入しているのだ。これに対して、蒼井はどこかで作品全体における自分の位置を考えている。その上に立って演技している。だから、映画が揺らぐと彼女の立ち位置も揺らいでしまうのである。どちらが正しいとか、そういうことではない。正しいか、正しくないかということでいえば、むしろ蒼井のやり方のほうが正当であるように思う。しかし、結果的により強い輝きを見せたのは松雪だった。制作者の意図を超えて一人歩きをはじめるのが「名作」や「傑作」の定義だとするならば、全体の文脈を離れても不思議な輝きを放ちつづけるのが「女優」の定義ということになるのだろうか。私は個人的には蒼井優を好むが、この映画を見る限り、勝利は松雪泰子の側にある。映画の構成が甘く、どちらが主人公なのか焦点がはっきりしない作りに(結果的に)なってしまっているせいで、二人の女優の戦いが期せずして実現したわけである。蒼井優は07年のキネマ旬報ベストテン、報知映画賞、毎日映画コンクール、日本アカデミー賞で助演女優賞、ブルーリボン賞、高崎映画祭、ヨコハマ映画祭では主演女優賞をとっている。ちなみに日本アカデミー賞、日刊スポーツ映画大賞では松雪泰子が主演女優賞を受賞している。同一人物が同じ映画で助演と主演の両賞を受賞しているのはなかなか興味深い。また主演女優が二人に割れているのも面白いところだ。でも私の軍配はやはり松雪泰子にあがる。この映画をベストワンに挙げなければならない日本映画の実状はいささか心もとないが、日本の女優陣は当分安泰である。そう感じさせる映画だった。
2008.01.08
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年末、福岡に帰省し、正月3日に帰ってきた。一年の変わり目に、毎年、変わらないことをする。いや、変わらないことができるということは考えようによっては幸せなことである。たとえこちらの胸のうちにさまざまな変化が生じていたにせよ、同じことを同じ時期に行うことで、どこかこころの落ち着きどころを得られるように感じる。その「変わらないこと」の手はじめとして、行き帰りの新幹線の車中で何を読むかを考える。たしか一昨年は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」、去年はカズオ・イシグロ「わたしを離さないで」だった。やはり一年の終わりから始まりにかけての本は、なんとなくではなく、意識的に「この一冊」を選びたいという気持ちが働く。頭のなかに、いくつかの候補が浮かぶ。ざっとリストアップすると、次のようなものだ。多田富雄「免疫の意味論」(いつか読まねばと思っていた本、新幹線の中ではちょっとカタすぎるか)、サリンジャー・村上春樹訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(これもいつかはと思っていた本)、藤沢周平「蝉しぐれ」(実は藤沢周平は一冊も読んだことがない。最初の一冊として手許にキープしていた本)、内田樹「私の体は頭がいい」(先生のネコマンガ、直筆サイン入り!)、「ロング・グッドバイ」(って、これは明らかに重量オーバー)。あらためて考えてみると、これまで年頭の一冊に「物語」を選んできたことに気づく。短めの文章を集めたものよりも、ゆったりとした物語世界に浸りたいという気持ちが強く働く。なぜかはわからないが、結果的にはそうなっている。そう思いながら、「キャッチャー」のハードカバーと「蝉しぐれ」の文庫本をカバンの中にごそごそと詰め込む。どちらか一冊で十分なのだが、本を読む習慣を持つ者にとっては、「もし早めに読み終えてしまったら」という杞憂から解放されることはないのである。子供のわめき声やら、くしゃみやら咳やら哄笑やら、もろもろの騒音に包まれた新幹線の車中で「キャッチャー」のページをめくる。読み始めてまもなくヴォイス(声)が生き生きとページから立ち上がってくる。実に見事な翻訳である。時折、若い頃のろくでもない記憶が頭をかすめたりもする。そして「庄司薫」という懐かしい名前を唐突に思い出す。兄の本棚に並んでいた彼の四部作を鼻で笑いながら読み飛ばしたことがあったっけ。ひょっとすると、彼の作品は、このヴォイスを日本語で再現しようとして書かれたものだったのかもしれない。文章の手ざわりが不思議なくらい似ている。いずれにしても、この作品をヴォイス抜きに語ることはできない。どのような声で、どのような口調で語られるか。そのことが作品の核と深くつながっている。これはそういう小説である。新幹線が博多駅に到着する。地下鉄とタクシーを乗り継いで、実家にたどりつく。挨拶を交わし、夕飯に鍋をつつき、酒を呑み、四方山話をする。夜もふけて寝床につくと、顔のまわりを冷たいすきま風が吹き抜けていく。これも毎年同じことの繰り返しだ。翌日が大晦日、家中の窓ガラスという窓ガラスを端から順に磨いていく。ほとんど2時間近くかかる。そして、自転車で年越しそばの買い出しに行く。これも何の変化もない。一年に一度のルーティーンワークである。一通り年末の仕事も終わり、さて一息つくかというところで、ふと軽く走ってみようかと思い立つ。ふた月ほど前から、三日に二日くらいのペースで近所をジョギングしている。まだ歩いて1キロ、走って2キロ程度という「おこちゃま」メニューにすぎないが、1周1225メートルの周回コースを走りながら、「福岡に帰ったら通っていた小学校まで走ってみようか」と考えたことを思い出したのである。私の実家は福岡の西部に位置する新興住宅地ともいうべきところにある。最初はまばらだった家々の間に徐々に民家が立っていき、それにつれて小学校や分校が次々に作られていくという形で、アメーバ状に増殖していった地域である。だが私はその学校増設には間に合わず、6年間、家からかなり離れた小学校に通い続けた。子供の足では、歩いて30分以上は軽くかかったと思う。しかし、小学生がそれに合わせて早起きをするなどという芸当ができるはずもない。いきおい、近所の友だちとランドセルをごとごと鳴らしながら毎朝、走ることになる。常連は棒高跳びが得意ないがぐり頭の山本君、顔がネズミ男に似ている瓜頭の小谷君、それに私の三人である。タテ一列に並んで毎朝、物も言わずに疾走していた。まるでエチオピアの通学風景である(見たことないけど)。そのおかげで子供の頃は足が速かった。中学に入る時には、陸上部から勧誘されたくらいである。ついでに合唱部からも勧誘された。もうひとつついでに高校では文芸部から勧誘された。いずれの場合も、声をかけられた瞬間、脱兎のごとく逃げ去ったことは言うまでもない。「足が速い」というのはこういう時にこそ役立つのである。話が逸れたが、昔、通った小学校まで走るというアイデアはなかなか捨てがたいと感じた。大晦日の福岡は時折、小雪が舞っていた。道端もぬかるんでいて、けっしていいコンディションではなかったが、私はスニーカーにジーンズ、それにフリースを羽織って、かつての通学コースを歩きはじめた。寒いのでとりあえずはウォーキングで体を温めようと思って5分間歩いたら、あっけなく最初の山を登り切ってしまった。小学校の頃とは全然距離感が違う。この山越えに5分しかかからないとは。そこから軽いジョグペースで走り始める。周囲の街並みはずいぶん変わってしまった。昔なじみの曲がりくねった近道を探そうとしても、道そのものがもはや存在していない。のっぺらぼうの敷地になって、その上に巨大なマンションがでんと建ってしまっている。やむなく幹線道路沿いを走ることにした。狭い通りをとことこと走っていると、急に視界が開け、目の前に小学校の校舎が広がる。時計を見ると走り始めてわずか6分。歩いて30分以上、小走りでも20分以上は軽くかかったはるかかなたの小学校まで、わずか11分でたどりついてしまった。なんだか「ミニ巨人」にでもなった気分である。鉄筋3階建てのぴかぴかの校舎に、昔の木造建築の面影はまったくない。学校の回りをめぐっていたうら寂しい小川もなくなっている。しばらく茫然と校舎を見上げた後で、きびすを返し、ふたたび自宅に向かって走りはじめる。小学校低学年の頃には、この道をなんと馬が荷車を引いて走っているのを見たこともある。正門の前にあった薄暗い文房具屋も、学校の周辺に広がる田んぼも、その中にいたカエルくんも、小川のフナくんもドジョウくんも、すべて消えてしまった。その後にはただ所狭しと一軒家とアパートとマンションが建ち並んでいるだけである。性悪ばばあのいた駄菓子屋も、チョコレートクリームの入ったコロンを売っていたパン屋も、フルーツ牛乳を買った牛乳屋も、大きな氷の塊をのこぎりでじこじこと切っていた氷屋も、すべて消えてしまった。昔と同じなのは、ほとんど坂道の勾配と道の曲がり具合だけである。私は三分の二に縮小してしまった街並みを走る、二分の三に体を肥大させ、五倍の年齢を重ねた小さな巨人だ。私はいつか走るのをやめて、とぼとぼと歩きはじめた。「淋しいのはお前だけじゃない」昔のテレビドラマのタイトルがこころをよぎる。いささか気勢の上がらない本年のラストランは、かくして夕闇のなかに終わりを告げたのであった。
2008.01.07
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