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今日は高校時代の友達Sに会ってきました。Sは当時から非常~に努力家で、恐れ入ってしまうほどに何でも必死に努力する人でした。(受験生時代には一日平均12時間、最長18時間勉強したとか…)そんなSは実は自分より一足早く、大学院の修士課程で留学しようとしていたことが発覚しました!結果的に第2志望は受かったものの、日本の大学に残ることを決め現在は都内の大学院で研究を続けています。高校のときまでは勉強にしても何にしても、同じような事をしているので程度の差こそあれ、自分の理解できる領域のことが多かったので相手が何をしているかつかみやすく、自分と相手との距離感も取りやすかったんですが、さすがに大学院ともなると、相手の話も専門的過ぎてほとんどわからなくなってくるので何だかすごくかっこいい事をやっているように見えました。特に、非常に努力をしてきた人なので、それが長い時間を経て着実にその人の血肉になっているのがわかり8の尊敬と、2の焦りを感じながら別れました。このところ、改めて思うのは「長い間努力してきた人は、報われているかどうかは別としてその時間の間に着実に変わっていっている(しかも恐らく良い方向に)」ということです。まあ、言ってみれば当たり前のことなんでしょうが大学くらいまでは皆が同じ事をしていたので、違いがあったとしてもそれが表面に出てきにくいし、お金のような数値的な基準が明確ではなかったこともあってかどれくらい頑張っているかというのが、表面に出てくることはまれだったように思います。それが、就職などで各分野、全く違う人生を歩みだした途端にはっきりと現れてくるのだから面白いなあ、と思いました。それと同時に、そうした努力を怠ってきた自分が、そんな彼らから取り残されたような気になり少しだけ、焦りました。でも、すぐに焦ってもどうにもならないのでもとに戻りましたけど。今自分がするべきことはなんだろう。その「するべき」の基準が少しづつ変わり始めています。以前は「ある目標達成のために」だったり「社会一般の慣習において」でした。今は…何だろう、「当たり前のこととして」かな。当たり前、という基準もかなりあやふやなものなので結局明確に定義することはできないのかもしれないですが、以前よりもずっとシンプルで、楽なものに変わってきたように思います。うまいこと力が抜けた、というのかな。結構自分の今の立場に危うさを感じながらも、多すぎる情報に惑わされないで初心に戻り淡々と飄々と生活していこうと思う今日この頃です。あ、ちなみに今日会ったSは大学では主席だったそうです。やっぱりその努力は見習わなきゃかな。そろそろ自分の事ばかり書くのは終わりにしよっと。
2005年10月17日
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先日の長ーい更新から、また少し落ち着いて考えてみました。結局、迷い迷ってもといたところ、と書きましたがその、もといたところ、にいた頃に読んでいた本を改めて読み返してみました。その本は出口先生という大学受験の現代文の予備校教師としてはおそらく日本一有名でかつ自分の知る限りでは唯一現代文を超えた、更に上位の部分まで教えてくれる先生です。(あ、スピリチュアルという意味ではないです:笑)本の名前は『きのうと違う自分になりたい』中経出版で、丁度浪人生で人生に一番迷っていた頃に読んだ本です。(いかにも、って感じのタイトルですよね)さて、この本は個人的に当時非常に衝撃を受けた箇所があったということでアマゾンで先日買いなおしましたが、改めて今読んでみると、自分が忘れてしまっていた事や当時は気がつかなかった大切な考え方がたくさん含まれていました。こんな本を当時の自分は読んでいたとは、タイトルに魅かれたとはいえ良い選択だったと思いました。もともと、当時は環境問題に興味があって農学部を志望していたんですが環境問題といっても非常に広範に渡る分野なので詳細な専攻を決めかねていたのとあまりに深刻な問題であるように見えたため、焼け石に水であるように感じられてどういう道を辿ろうか、非常に迷っていた時期でした。そんなときに、この本の中でこんなくだりを見つけました。(長いけど引用します。著作権大丈夫かな…笑)相手の立場に立ち考えるためには想像力が必要であり、同情というのは世間で言われているマイナスのイメージのものではなく、相手の気持ちを理解するために必要な感覚である。という内容の文章の続きです。あなたが、居間でテレビを見ていたとする。画面にはどこかの国の戦争が映し出され、両親を殺された幼い子供が、親の死体にすがって泣いている。可哀相に。誰もがそう思うだろう。だが、はたしてそれが同情であり得るのか。それが同情になるにはいったい何が必要なのか。同情とは、相手と同じ感情を自分の中に抱く好意を指すと、先に述べた。親を亡くした子供と同じ感情を持つことが、はたして私達には可能であろうか。その子供は、まだ幼いのに、これからたった独りで生きていかなければならないのである。その日の寝るところ、食べるものもないかもしれない。しかも、子供というのは独力で困難な状況を克服することができない。そのときの子供の心には、悲しみや絶望以前に、言葉にならないほどの恐怖が渦巻いているのではないだろうか。そのうえ、子供は大人以上にむき出しの繊細な神経を持っている。そうした子供の感情と、もし私たちが同じ感情を抱くことができるのなら、それは素晴らしいことではないか。そのためには、強力な想像力がいる。もちろん、まったく同じ感情を抱くことなど不可能で、要は程度の問題である。違った環境に置かれた私達が、ほんの少しでもこの子供と同じ感情を抱くのならば、居ても立っても居られなくなるはずである。それでも、私達は何もできないというジレンマに立たされるであろう。でも、こういった想像力を身につけている人間は、必ず人生のどこかで何かをするだろうし、少なくともその人の中には弱いものに対する優しさが芽生えるはずである。こんな文章でした。この文章を読んで、まさに強烈なジレンマに襲われたのを憶えています。もし自分がそんな状況にいたとしたら、そう考えると恐ろしいという言葉では言い表せないくらいの真っ暗闇に放り込まれたような気分になり、それと共に、今そんな状況にいる子供が数多くいるにも関わらず自分は何一つできることがないということに、壮絶なジレンマを抱えました。人生のどこかで何かをするだろう。きっと自分はそうだろう。そう直感したことを、今でもはっきりと憶えています。もっとも、それからもう何年も経っていたので、そんな気持ちはすっかり薄れていつの間にか自分の事で精一杯になりすぎて、人の気持ちを考えるとか、相手の立場に立ってみるとか、そんな余裕をすっかり無くしてしまっていました。そんな中、前の日記で書いたような大きな気づき、原点回帰をすることができました。上に出した文章は、自分の原点ってどこだろう、と考えたときに真っ先に思いついたものだったんです。理屈でも感情でもなく、何もしなくても心の底から湧きあがってくる、自分でも止めることのできない想い、それがあの文に書かれていました。そこで、自分は改めて、その想いに素直に生きてみようと思います。…とは、言えません(笑)当時は、何があっても上の文にあったような子供達のために何かをしたい、自分の人生をそれに捧げたい、それくらいの気合を入れていました。しかし、そうやって人のために、という気持ちだけでは不十分なんじゃないか、そう思えるようになったのは、最初に読んだときからの成長なんでしょうか。もし、自分が非常に辛い立場にあったとして、それを助けてくれる、救ってくれる人が現れたとしたら、どんなにか感謝することでしょう。それこそ、一生ご恩は忘れません、という位の気持ちになるでしょうね。でも、その人がもし自分を助けるために家族を捨てていたり、自分は幸せだと思えていなかったりしたら、その事をもし助けられた方が知ったら、その時にはどういう気持ちになるんでしょうか。少なくとも、手放しに喜ぶことはできないはずです。先日、AYAねえさんのブログで書かれていたのがヒントになったんですが自己犠牲、というのは一見非常に崇高なものに見えるかもしれないですが、それが本人が「自分を犠牲にしてでも」というような、ある種後ろ向きの動機でなされた事であるときには、手放しに賞賛できるものではないように思うんです。もし、自己犠牲というものが本当の意味で素晴らしいとすれば、それは本人には犠牲という感覚はなく、ただ自然にそれをすることがその人にとっての喜びであるからやっているだけ、それが周りからは「犠牲」に見える、という場合だけなのではないでしょうか。そんな風に思ったんです。そう考えたとき、確かに自分は何かをしたいし、するだろうけれどもその時に自分を犠牲にしてまで、という気持ちではいけないだろうと思ったんです。そうではなくて、自分がまず幸せだと思えること、それが最優先で、その前提があって初めて誰かに手を貸すことが本当に意味のあることになるのではないか、今はそんな風に考えるようになりました。もちろん、何かをしたいという気持ちに変わりはありません。むしろ大きくなっているくらいです。でもだからこそ、安易な手助けはしたくないとも、思ったんです。もっとも、それが正しいのかどうかは、誰にもわからないと思うんですけどね。いずれにしても、自分としてはそこまで考えが至ったということはこれまでの長い試練の時間も無駄ではなかったのかな、と思えるきっかけになりました。まだまだこれからたくさんの気づきや学びがあるとは思いますが、ひとまず自分の芯になってくれそうな感覚をつかむことはできたと思います。まあ、実際に現実的にはなかなか簡単には事は運ばないわけですが…しばらくの間スピリチュアルなものに浸っていたこともあって、ここで書いたことはかなり観念的で抽象的なことではあるんですが、これはあくまでも自分が学び、考えたことをただ文章にしただけです。それが結果としてこうしたものになるというのは、もともと自分はスピリチュアルな素質があったということなんでしょうかね?(笑)いずれにしても、今言えることは、今までで最も確かな一歩を踏み出すことができたということだけですね。それが正しいのかどうかは、今はわからないですが。ちょっと堅い話が続いてしまったので、今度はもっと柔らかい文章にしたいなぁ。では、良い週末を☆彡
2005年10月14日
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この数日間の間、久しぶりに自分の世界が変わるような体験をしました。というか、まだその中に居ます。たかだか1週間程度の間に、何人もの人から様々な指摘を受けてその度にどうしようもないほどの衝撃を受けていました。あまりにもそれらが的を得ていたので、ちょっとエネルギーを使いすぎてしまいしばらく何もせずに過ごしました。そうしてしばらく時間を置いてみて、ようやく見えてきたもの。それは自分が数年間ずっとしてきた勘違い、というか思い違いです。結果としてどういうことを自分は間違ってきてしまったのか。それは大学に入った頃に考えた「目的論」と「結果論」という考え方です。一般的に「目的論」というと『哲学で、すべての事象は何らかの目的によって規定され、その目的に向かって生成変化しているとする立場。』のことを指し、「結果論」は『原因・動機などを考えずに、物事の結果だけをみて行う議論。』のことを指すそうです。(共に大辞泉より)しかし、当時自分が考えていたのは何かを頑張るときにどういう気持ちで物事を頑張ろうとするのがいいのか、ということでした。(丁度大学受験の後でしたから。)自分なりの言葉で目的論と結果論を説明すると目的論は『○○大学に入りたいから頑張る。』という考え方で結果論は『頑張った結果、○○大学に合格した』という考え方です。これだけ見ていると、ほとんど変わらないし、どちらでもいいような気がします。どちらがいいかは別として、自分がどうだったという事だけ言うと高校生くらいまでの自分は丸っきり結果論的な考え方だったので、いわゆる「人事を尽くして天命を待つ」という言葉が大好きでした。できる限りのことをきちんとやったら、後は結果に従おう。落ちても受かっても、自分にふさわしい結果が自分に来る。というようなある意味の潔さがあったように思います。それに対して、大学受験に失敗して希望の大学に入れずその結果入った大学に満足できなかった自分は、いつしか「やっぱり、ちゃんと目標を設定して、それに向かって戦略を立てなきゃダメなんだ!」という風に考えるようになっていきました。もちろん、それ自体がいけないのではなくて、「自分に合わない考え方を『無理に』しようとした」ことが問題だったのだと、今は思います。それ以来「○○のためには△と□を~までにやって、その次は…」というように頭の中でどうしたらゴールにたどり着けるのか、ひたすら最短ルートを考えてその途中にあるものは全部飛ばして、一直線にゴールに向かう、そんな生活スタイルが身についていきました。自分では意識していなかったんですが、途中の無駄と思える過程は全部飛ばして必要だと思えるところだけを取ることに一生懸命になりすぎていたので周りの人の言うことも、全然聞いていませんでした。自分の考えに合う人の言うことだけ聞いて、合わない人の言うことは全部無視。もちろんどれも話は聞いていましたけど、都合の悪いものはすぐ忘れる。そんな事をしていたように思います。というのも、今思い出せる人からのアドバイスって自分に都合のいいものしか、ないからです。でも、あるときふと思いました。「で、自分の人生のゴールは何だ?」「あれ……全然わからないぞ…」「まずい…、これじゃあゴールへの最短ルートも作れない、 というかそもそも道が全く見えない…」正直、これにはすごく焦りました。ゴールさえあればそこに向かってまっすぐに走るのはすごく慣れていたのでいつの間にか、それしかできなくなっていたんです。でも、そもそも人生のゴールなんて、すぐに見つかるものではないですよね。ちなみに「ゴール」というとちょっとわかりにくいですが、これは「人生の目標」とか「本当にやりたいこと」とか「夢」というイメージの言葉です。(以下「目標」にします)どちらにしても、そうなってしまっては自分は目標なしには走れません。すぐに目標探しに走りました。そう、「目標を見つけることが目標」になっていったんです。結局今の時点でも見つけることはできていません。というよりも、そんなものをはっきりと見つけられる人なんているんでしょうか?と思うようになりました。確かに、目標を設定してそれに向かう戦略を立てて実行する、というのは非常にシンプルで確かな考え方ですが、そもそもそれが当てはまるのって生活の中の末端の部分の話ばかりで、一番根本的な人生の目標みたいなものにはまず当てはめられないような気がします。この考え方はライブドアの堀江氏も言っていたことで、それもあって実践している時にはすごくシンプルで強力な考え方だ!これで自分は一気に成長した!と思っていました。でも、いろんな落とし穴があることには気がつきませんでした。目標が見つからないことには使えないのは言いましたが、それよりももっと重要なのが「途中で目標を変えにくい」ということなんです。つまり、目標まっしぐらになっていると「人の話を聞けなくなる」ということ。自分の目標しか見えなくなるので、それが仮におかしかったとしても気がつかないし人がせっかくアドバイスしても、それは目標に向かうための障害にしか見えず結果としてまるっきり人の話を聞かずに突っ走ってしまうことになるわけです。「自分は確実に前に進んでいると思い込んでしまう」わけです。自分は一度火がついたら一気に進んでしまう性格なので、これでうまくいくと思ったら何でもかんでも当てはめて突っ走ってしまいました。そんな落とし穴に、しっかりとはまってしまっていることに気がついたのが、つい先日の友達や家族からの助言だったんです。もちろん、「目標を設定して戦略を…」という考え方でうまくいく人もいると思います。ただ、それが自分にとってベストなのかはまた別問題。実際に、そうやってひたすら一直線に進もうとしていた自分は友達や家族からみて「らしくない」「頑張りすぎてる」「余裕がない」というように見えたそうです。ただ、自分では全く気がついていませんでした…今日ふと思ったのは、やっぱり自分には自分に合ったやりかたなり考え方があってこれまでいろいろと迷ったり悩んだりしてきたものの、結局行き着くのはもともといたところなんじゃないかな、ということです。今振り返ってみれば、そうやって自分に合わないような考え方で頑張って前に進もうとしていたときには、自分自身が意味もなくすごく焦っていて何故か怖い事ばかりで、何より「楽しい」という感覚がどこかにいってしまっていました。それはやっぱり、自分の中の何かが「今の自分はおかしいぞ」というシグナルを出していたんだろうと、今では思います。少し前の、高校生くらいの頃を振り返ってみれば自分は随分肩の力が抜けて、楽に生きていたような気がします。もちろん、まだ高校生だったから気楽だったというのも多分にあるとは思いますが多分、当時の自分が一番「らしかった」んじゃないかな、と思います。友達や家族に聞いてみたところ、やっぱりそうだったと言われました。当時考えていたのはどんなことだったのか、はっきりとは覚えていませんがすごく重要な自分のモットーとして「結果を急がない」というのがあったような気がします。あるいは「やるだけのことをきちんとやることに集中する、後はあれこれ心配しない」つまり『なるようになる!』という事でしょうか(笑)でも、そういえば、何か目標に向かって無理してでも頑張ろうとしていた大学受験時に比べて「やるだけのことをやろう」「これだけやってダメならしょうがない」と思えていた大学院受験のときのほうが、随分と気が楽だったし、たまたまかもしれないですが結果も良かったように思えます。(もちろんその一言で片付けられるものではないですが)それは多分、そういう考え方、生き方が自分に合っていてその自分に合った進み方をしているときの方が良い結果が出る、ということなんじゃないかと思います。もちろん例外はあるかもしれないにしても、自分にひたすらムチ打って「頑張ろう、頑張ろう」として生きるよりも、自分にとって自然に感じられるやり方で、やるだけやって後は流れに任せてしまうくらいの余裕を持っていたほうが、最終的に自分は幸せに生きられるんじゃないかなぁ、そんな風に思ったのが、つい数十分前の事なんです。そして、「よし、それじゃあやっぱりそうして楽にやってみよう」と思ったら、ようやくこうしていろいろな事が言葉で整理できて説明できるようになり、意味もなく焦りを感じることもなく、落ち着いて言葉を並べることができたんです。そして何より、自分にいろいろな形でアドバイスをくれた友達や家族に本当にたくさん迷惑をかけたなぁ、ととっても申し訳なく思うと同時にそれでも自分を見ていてくれて、見捨てずにアドバイスをくれたことに本当に、本当に心から感謝できたわけです。いい友達を持ったなぁ、いい家族を持ったなぁ、そう思えるのってすごく幸せなんですね。この話をまとめられるようになるまで、何年もの間T君にはとてもお世話になってきました。彼は高校からの親友で、大学受験に失敗したときや大学院に合格したときも含めて随分といろいろと語り合ってきましたが、今回の事ではかなり険悪なムードになったり、相当不愉快な言葉を言ったりしてしまいました。それでも、何だかんだで彼が一番最後に「おう、なら頑張って☆応援するんで」とサラッと言ってくれた事には、人生で一番感謝しました。本当に、嬉しかった。何だかすごく遠回りをしてきて、結局最後にはスタート地点に戻ってきたようなそんな気がする今日この頃ですが、結果としてそれで良かったのかな、とも思います。スーパーで野菜を選ぶとき、いろいろ迷ってみて、結局もともと持っていたものが一番良かったなんて良くあることですし。それくらいの、気楽なとらえかたができるようになれば自分も大分「らしさ」が戻ってきたのかな、なんて思えるようになりましたし。この文章は、決して詳細を全部書いているわけでもないし結構省略したり脚色したりしてはいるんですが、今一番重要なのはこうやって自分がずっと抱えて迷ってきた大きな石を一つ手放すことができたという事です。それだけで、これからの自分も変わっていけるんじゃないかな。それも楽な方に。そんな気がします。すぐに自分が変われるかどうかは別として、これが一つの区切りになるのは確かだと思います。もちろん、この気づき自体が間違っている可能性もあるんですが、少なくともこれまでの自分の「落とし穴スタイル」よりはもっと自分に正直な生き方ができると確信しています。本当は、それで今度は何をしようと思っているのかも書くつもりでしたがちょっと長くなりすぎたので、また次の更新で書くことにします。ひとまず、今日言いたかったのは、このことに気がつかせてくれたT君を始めとする自分の大切な友達と、普段から迷惑かけっぱなしにもかかわらずちゃんと自分のことを見ていてくれる家族に、心からありがとうと言いたい、それだけです。本当にどうもありがとう。そして、これからもよろしく!読んでいて抽象的でわかりにくい部分も多々あったかもしれないですが、最後まで読んでくれて、どうもありがとう!!良い一週間をお過ごしください(-人-)☆彡
2005年10月12日
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