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若貴時代以降の大相撲は、トップが外国人に占められ、スポーツ界での日本人の不甲斐なさを目の前に突きつけられているようであまり見る気になれなかった。八百長や野球賭博といった度重なる不祥事を起こしながらも、国技というから相当の国家予算の補助を受けながら何年にも渡ってトップの外国人を養ってきたのだから、これほどノー天気に開かれた競技もあるまいと思うのは小生ばかりではあるまい。 しかし、そうは言いながら、必死にやっている2強以外のドングリの背比べもそれなりに面白いものだから、休日など夕食前の無為な時間にTVをつけている。最近の注目は、NHK解説を退職した杉山元アナが年間席を自腹で購入して一生懸命土俵上を見ている姿や、例の黄金色のシルクハットに日本の日の丸を描いた目立ちたがりの酔狂なじいさんが隣の席のオバさんの迷惑顔も何喰わぬ顔で扇を振りかざす姿などを見て楽しんでいる。と、するうち、先の九州場所では花道の通路より4〜5段目に粋なお姐さんが15日のうち数日だけ洋服だったが、あとは毎日違った着物を着て陣取っているのに気がついた。 そして迎えた1月場所も相変わらず相撲そのものはおもしろくもなんともないが、テレビに映る正面左側の花道の4〜5段目に、黒紋付の和装のお姐さんたちが座っているのに気づいた。九州場所のように連日というわけでもなさそうだが、どこか企業か谷待筋の年間指定席でもあって、そうしたお姐さんたちに開放しているのかもしれない。九州場所のお姐さんより劣るが、3〜4人の数で勝負だ。1人目、右上。 髪をつかんで反則を言い渡された力士の右上に2人目と3人目。 上記3人の左横に、力水を与える力士のお尻のあたりの禿頭2人の上に、4人目。 相撲がつまらんので、桟敷席の人の姿を見て楽しむ相撲観戦である。ふう・・・。
2013/01/20
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山に置いていた強勢群が、年末に行ってみると蜂が通っていない。 いつもより1ヶ月も早い寒波の襲来に、少し早めだが冬囲いをしてやらなければと思いつつ、仕事が忙しくてなかなか手がつかなかったことと、あれだけの強勢群だったのでまぁ越冬してくれるだろうと高を括っていたのが失敗だった。正月休みに、秋口に消滅した2箱と一緒に回収してきた。秋口に消滅した1群は蜂数が増やせなかったのか、巣板が6枚ほどあったが貯蜜は巣板上部の1/3程度で、大方が寒さのため巣房に頭を突っ込んで死んでいた。山の強勢群は出入り口まで巣板が降りてきており、入り口に蜜が垂れていたところをみると、凍った貯蜜が溢れ出し、出入り口を塞いだことも一因しているようだ。蜂は底板の方に拳大の一塊になって死んでいたが、巣房に頭を突っ込んでいるものはなかった。思ったより数が少なかったが、貯蜜はびっしりだった。夏場と違って、部屋に置いておけば自然に蜜垂れするというわけにはいかないので、採蜜用具をストーブの前に持ち出し、約1週間ほどかかって6〜7kg採蜜した。冬場の採蜜は初めてだったが、ダラダラ汗を流しながらの夏と違い、意外に快適だった。意外に収量があったが、喜んでいいのか悲しんでいいのか、わからない。 というのも、これで手持ちは対岸の洞においてある2群となってしまった。この2群は夏になっての分蜂だったので、女王蜂は若いが、置き場所に困って、2群とも同じ場所に置いてしまった。この時は5群あったので、初めての場所だったので、場合によればこの2群のうち1群は消滅してもしかたがないな、なんて思いながら設置した記憶がある。巣箱も有り合わせの使い回しで、あまりいい箱ではない。ところが、秋から暮れにかけて、この巣箱をのぞく2群が相次いで消滅し、頼みの強勢群も上述のように暮れに消滅してしまった。 もし、これが越冬できなければ今春は淋しいことになる。 遅ればせながらではあるが、その残りの2群の冬囲いを昨日終えた。昼中だったので、蜂は通っているのを確認できたが、やはり巣箱のつくりは粗い。大寒は過ぎたとはいえ、これから3月、梅の花が咲き始めるまでが勝負だ。少し念入りに冬囲いをして、後は、神に祈るしかないか・・・。トホホである。
2013/01/13
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世の中では正月9連休などと騒いでいるが、もっとも休みの少ないであろう商売であるので、唯一人並みにある30日から3日までの4日間の正月休みがどう足掻いても最長の休みである。その4日のうちの1日はほぼ大掃除やら初詣に費やされる。若い時は、正月登山やら冬山に1〜2日くらいは費やしたが10年くらいは行っていないので、したがって実質丸3日間がここ20年間ぐらいの1年間でもっとも長い正月休みの実態である。この3日間に何を読むか、ということを考えるのが、暮れの楽しみである。 そして今年は、たまたま手に入った郷土誌「伊那」のバックナンバーから、1975年から1985年の正月号を読むことにした。なぜ正月号なのかといえば、この年代の「伊那」の正月号は正月ということもあって決まって民俗学関係の特集号が組まれているからだ。特に1976年には柳田国男の生誕100周年に当たる関係で柳田国男の特集号が組まれている。ご当地ならではの、細々した、ある意味マニアックな発見と、柳田と関係の深い人々の証言が掲載されていて興味深い。婚姻直後の明治33年2月の来訪は、農商務官として講演に訪れた飯田での記録は同年12月号の「伊那青年」に載っているが、まだ文学青年だった柳田の短歌が同じ雑誌に載っていることは、この時点では見逃されているようだ。向山雅重や北原謙司、池田寿一、水野都沚生、牧内武司などの谷の民俗学草創期の面々に混じって、今では忘れ去られた観のある宮沢三二、西尾実、大沢和夫、武田太郎(小林秀雄)らのリリカルな文章も懐かしい。 山下生六氏の「厩に馬頭骨を祀る風習」(1977)、新野の猪切智義氏が亡くなる前に書いた483戸中わずかに1戸に残る「便所の年取り」(1982年)もそうだが、以前はどこの家でもあったとして、採取の遅きに失した感を悔いている。また「上村の民俗庫」(1982年)の山口儀高氏のように独力でその保存/基地づくりに乗り出す試みを続けた方もいたが、そのほとんどが故人になってしまい、その嘆きを引き取る先がないのは、怠惰というしかあるまい。 所詮は、大方の人にとって、彼らの問題意識は彼らが感じるように大切なものではないのだろう、「人はパンのみで生きるにあらず」というが、まず目先の食糧が大切なのだ。だから、口では大切なもの、貴重な活動といいながら、一方で、物好き、趣味の世界で片付けられ、理解も援助も長続きしないのだろう。だから、何年経っても、同じ嘆きが消えることはない。 しかし、その嘆きがある、あった、ということが、たとえば郷土誌「伊那」に記録されることによって、後に続く「物好き」たちにとって、同じ思いの人々がいたとして意を強くすることは確かである。決して民俗学に限ったことではない。「南信州地域資料センター」の、明治以降第二次大戦後までの地域発の印刷物を収集する活動も5年目を迎え、一般社団法人から公益社団法人に認証された。「物好き」たちの思いを、引き継ぐ活動でもあるのだと、改めて思った次第。
2013/01/02
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